いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

君の求める光は、君自身の内にあるのだ。

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【家を拾うまで帰れま10@四国編】も3日目にはいった。1日目は、今治市在住の女性が松山空港まで迎えに来てくださり、大三島にある大山祇神社のクスノキ群を経由して、しまなみ海道の来島海峡急流観潮船から渦潮を見た。夜は松山に戻り、会って話したいと連絡をくれた複数名の女子とお茶をした後に、適当な屋内施設の床にエマージェンシーシートを敷いて寝た。横になりながら「これからは島だな」ということを思った。大陸に吹く風は淀んでいる。新潟の佐渡ヶ島もさることながら、いま、個人的に一番行きたい日本の島は長崎の五島列島になります。


2日目は、松山在住の女性が三津浜界隈を案内してくれた。しかし、私の精神が不調を訴えてしまったために、途中で逃げ出してしまった。松山市駅近くのセブンイレブン前にあるベンチで2時間程度くたばっていたら、愛媛県大洲市在住の男性がやってきて「大洲市に行きましょう」となり、いま、大洲市にいる。昨夜は大洲市内のゲストハウスに宿泊をした。3日目の今日は、香川県在住の男性が「仕事を辞めて時間があるので、車を出しますよ!」と連絡をくれたので、これから大洲市で合流した後に車で高知県に向かう(12日の夜に高知市内で何かをやるかもしれない)が、それ以降の予定は何も決まっていません。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
MAIL ibaya@ezweb.ne.jp

いつでもお気軽にご連絡ください。

四国の風景「大山祇神社

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しまなみ海道

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来島海峡急流観潮船の渦潮

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日本一海に近い駅だった「しもなだ駅」

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町並みの風景

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『シッダールタ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、1946年にノーベル文学賞を受賞したドイツの代表的な文学者、ヘルマン・ヘッセ著作の『シッダールタ』です。ヘッセの紡ぐ言葉には『詩がある』ような気がしていたら、ヘッセ自身が「詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である」と言っていました。下記に、私の好きなヘッセの言葉を羅列します。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、ミャンマーにわたりました ※※※

詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。
恋とは、私たちを幸せにするためにあるのではありません。恋は、私たちが苦悩と忍耐の中で、どれほど強くありえるか、ということを自分に示すためにあるものです。
世の中に実に美しいものが沢山あることを思うと、自分は死ねなかった。だから君も、死ぬには美しすぎるものが人生には多々ある、ということを発見するようにしなさい。
あなたの苦しみを愛しなさい。それに抵抗しないこと、それから逃げないこと。苦しいのは、あなたが逃げているからです。それだけです。
名声などというものに、いったい何の価値があるだろうか。本当に内容も価値もある人間たちが、みな有名になって後世に知られているとでも、あなたは思っているのだろうか。
鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。生まれ出ようとする者はひとつの世界を破壊しなければならない。
自分の道を進む人は、誰でも英雄です。
私が人生を諦めて、自分一個の幸不幸などはどうでもよいと悟って以来、少なくとも人生は、私にやさしくしてくれるようになった。
君の中には、君に必要なすべてがある。「太陽」もある。「星」もある。「月」もある。君の求める光は、君自身の内にあるのだ。
君自身であれ!そうすれば世界は豊かで素晴らしい!


君の求める光は、君自身の内にあるのだ。


四国に到着をした直後、一通のメールが届いた。成田空港で徹夜をした私は、四国に到着をした段階ですでにボロボロになっていた。しかし、このメールを読んだだけで露骨に元気が出た。ないと思っていたはずの気力と体力が蘇り、新鮮な風が吹き抜けて、心の状態が体に与える影響力は半端ないのだなと思った。そして、私は「一緒に生きるぞ」と返信をした。このメールは、過去記事「俺は俺だ」にまつわる感想のようなものであり、この記事の最後にメール全文を転載します。


初日の夜に出会った女性は、今月限りで現在の仕事を辞めるのだと話してくれた。彼女曰く「自分は仕事ができないから、いまの職場でも叱られることが多いのですが、あまりにも叱られ続けていると自分には何も価値がない人間なんだというような気持ちになってしまいます。『このままではやばい!』と思ったので、一度距離を置きたいと思って、しがらみもたくさんあるのですが勇気を出して辞めることにしました。そして、いままでは『自分にもできそうなこと』を基準に仕事を選んでいたのですが、これからは『(無理なことかもしれないけれど、それでも)自分がやりたいと思うこと』を軸に選択をしていきたいと思います」と話してくれた。

いやだなあと思うものを受け入れることは、いやだなあと思うものに自分も加担をしていることになる。自分の心が「美しなくい」と思うものには、明確な拒否を示すこと。そうでもしなければ、魂は、簡単に腐ってしまうように出来ているのだと思う。自分の内側にある光を守るものは、他の誰でもない、自分自身だ。無様でも、不器用でも、どれだけ周囲の人間からは蔑まれたとしても、自分が「美しい」と思うものを選択すること。何があっても、何を言われたとしても、自分だけは自分を離してはいけないのだ。

圭吾さん、おはようございます! 今日、四国にご出発ですよね。そんな朝に、どうしようかなぁと迷いつつ、やっぱり感謝を伝えたくてメールします。

少し前の圭吾さんのブログ記事で、「困った時のおまじない」が書いてありましたよね。
3月に一緒に圭吾さんに会いに行った8才の息子ですが、「学校」というものが嫌で、不安で、怖くて、私と一緒じゃないと行けずにいました。
以前は、先生に何か言われるだけで、命令されていると感じ、その時点で負けてしまって、床に泣きながら寝転んだり、逃げ出したりと、なんというか、男なのに情けないなぁと思っていたのです。
せめて、嫌なら嫌で、「嫌だ」と言って歩いて帰ってきてほしい と思っていました。

昨日は、始業式だったのです。「もう3年生にもなったから、いくら嫌なことがあっても、へろへろと力を無くして床に倒れこむみっともないのだけはやめてほしい。」といって、圭吾さんの修羅場のエピソードを教えたんです。
「ここぞというときは、お腹の下に力を込めて、集中して、多くは語らなくてもいいから、足で踏んばって、『いる(在る)』ように」と。

そうしたら!

校長室で(息子はクラスには入れないので、新しい校長先生と顔合わせをすることになってました)、息子は手をグーにして、ちょっとほっぺたをふくらませて、校長先生のお話に「ん。」「ん。」と短い返事をしていました。私は、初め分からず、「何なの?ちゃんと話をして。」と言ったら、手のひらに「さかつめ」と書いてきて…!

今、圭吾さんの真似しながらがんばってるんだ!と思ったら、ちょっと笑えて、ちょっと泣けてきました。

年度初日で、初めて会う校長先生と話すだけでも、息子にとってはすごい緊張だったはずなのに、圭吾さんのおまじないで、それに負けることなく自分を維持することができました。感動✨!
圭吾さん、本当にありがとうございます!←ひとつめの感謝!

それと、二つ目は、さっき寝る前に、村元さとみさんのFBから流れ流れて圭吾さんのツイートが携帯の画面に出ていたのですが、それを息子が見て、「自分と同じだ」と言いました。
https://mobile.twitter.com/KeigoSakatsume/status/586183175497322496?ref_src=twsrc%5Etfw

話を聞くと、(まだ8才なのに)「死にたい」ってよく(頻繁に)思うんだそうです…(*_*)
不憫に思う反面、これまでの息子の様子を見ていると、「そっか~。『死にたい』って思うのもしょうがないよね。分かる気がする~。」と、なんだか共感してしまいました。
親として、「命は大事だからそんなこと言わないで!」とか、もう思えなくなっている自分にも気づきました。

自分らしく生きられないって、(子どもでも)死ぬほど辛いことなんだなぁと思いました。
「まぁ、ママは⚪︎⚪︎くん(息子)に生きていてほしいからさ、今、何したい?」と聞いたら、水が飲みたいというので、いつもは「自分で汲んで飲んで」というところを、汲んできてあげました。「ママが汲んだお水、おいしい✨生き返る~!」と喜ぶ息子。

どれだけ私、愛情あげられてないのかなぁ?と思うけれど、私なりに頑張ってはいて、それを息子も分かってくれています。

それでも、多感で、生き辛い過敏な感受性をもち、周りからダメだダメだというメッセージを受け続けてる息子に、「『同じだ、似ている!』と思える人がいる…」ということ、圭吾さんが、そのままで、全力で生きていてくれることが、本当に私たちの力、希望になっています。本当にありがとうございます!

四国でも、圭吾さんの清清しい生き様を、私たちに発信してくださいね!
圭吾さんのストーリーを、息子に聞かせて、話し合っていきたいと思います。

偶然ですが、そのツイート、ちょうど1年前のものなのですね。びっくり!

時を越えて、私たちを励ましてくれる圭吾さんの呟き。本当に、いつも刺さります! ありがとうございます‼

圭吾さん、行ってらっしゃい!応援しています!   
⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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生きていることを実感したければ、死ね。

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成田空港第二ターミナルの無料Wi-Fiを拾いながら、この記事を更新している。翌日早朝発の便で松山に向かい、四国を舞台に「家を拾うまで帰れま10」を自主的に敢行する。家を拾えるあては何もないのだけれど、最大の目的は家を見つけることよりも古い自分を殺すことにあり、まるで天国のような熱海の自宅であぐらをかいている怠惰な自分を、ボロボロになるまで使い果たしてやりたいと思っている。


昨日は、熱海の家で「わたり食堂【0円食堂】」が開催された。この日は私のお誕生日でもあったのだけれど、尋常ではない暴風雨に恵まれ、まるで自分のこれからを暗示しているみたいだった。わたり食堂は、今月17日(日)まで開催されている。留守番は三森正道【みっつ】が担当している。誕生日祝いに、全国各地から大量の切手やクオカードやスターバックスのカードなどが届いた。これらのカード類は玄関脇にある「みんなの財布」に入れてあるので、必要な方はご自由にお持ち帰りください。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・断捨離のコツ。


失うことを恐れてしまうと、もっと大切な何かを失ってしまう気がするから、何かを守りそうになっている自分を見つけたら、出来る限り蹴飛ばしていきたいと思う。失っても、失っても、どれだけ多くのものを失ったとしても、絶対に最後に残るものがある。多分、それが【自分】だと思う。

2・宗教は答えで、哲学は問い。


私の生き方を見て「宗教みたいですね」と言うひとがいる。また、私の生き方を見て「哲学者みたいですね」と言う人もいる。私にとって、宗教は『答え【行き止まり】』であり、哲学は『問い【入り口】』みたいなものだと思っている。そして、宗教でも学問でもスピリチュアルでも、答えを持っているひとは止まっているように見える。私は、答えよりも問いでありたい。何が起こるかわからない、予測不可性の海の中に自分を投げ出していきたい。わかることよりも「わからないこと」を、答えるということよりも「応えるということ」を楽しんでいたい。

3・人生とは、自分を楽しませることである。


自分を楽しませることができていない時に、人間は苛立ち、他人と比較し、未来に不安を覚えたりする。多分、不幸の9割は「他人との比較」にある。そして、他人と比較をしている限り、絶対に勝つことはできない。理由は単純で「相手の土俵で闘ってしまっている」からだと思う。これは大切なことだと思うのだけれど、相対的な比較や競争をしている限り、絶対に勝つことはできない。真のライバルは自分自身であり、多分、人生とは自分を楽しませることである。

4・癒されすぎて腐っている。


スピリチュアルとかカウンセリングとか自己啓発にはまるひとの9割は、他人を救うことで自分を救いたいひとたちが占めているような気がする。誰かを救いたいんです!とか、日本を元気にしたいんです!などと話すひとほど、ほんとうは自分自身が救われたくて仕方がない(そのために他者を利用している)ように見える。乱暴にまとめると「承認欲求をこじらせている」ように見えるから、延命措置を施すよりも、古い自分を一回殺した方が早いと思う。

5・高校を退学した17歳の女の子。


先日、東京の国分寺で開催されたトークイベントに、17歳の女の子が遊びに来てくれた。彼女が「高校は一年生の時に退学をしました」と話すと、周囲の大人たちは「これからどうするの?」とか「やりたいことはあるの?」とか「親は心配していないの?」などと、彼女を質問責めにした。質問の答えをしっかりと考えている彼女の時間をさえぎって、勝手に気持ちを代弁したがる大人や、何も聞かれていないのにアドバイスをしたがる大人もたくさんいて、私は「みんな待てないんだなあ(こうしてこどもは潰されるんだなあ)」と思った。

後ほど、彼女に「今日はどうだった?」と尋ねると、彼女は「あのひとたちとはコミュニケーションがとれないと思いました」と話した。彼女曰く「まだ何もわたしのことを話していないのに、このひとたちはいったい何のアドバイスをしているのだろうかと思いました」とのこと。別に怒りを覚えている訳でもなく、悲しみを帯びている訳でもなく、冷静な感想として淡々と語る彼女を見て、最高だなあと嬉しさを覚えた。これからも、永遠に彼女のままでいてほしいと思った。

6・覚悟の逆説。


結婚すれば幸せになれるとか、お金があれば幸せになれるとか、恋人や友達がいれば幸せになれるとか、勇気や自信や能力があれば幸せになれるとか、安定した仕事があれば幸せになれるとか、多分、これらは全部ごまかしだと思う。いま、この瞬間から、何もなくても、自分ひとりでも幸せを感じることができなければ、誰といても、何をしても、幸せを感じることは永遠にできないと思う。最高のパートナーシップは「ひとりでも幸せを感じることができる者」同士の間に成立するもので、多分、幸せとは『心の状態』なのだと思う。

7・広い世界より「広い自分」


固定された自分を壊すこと。

8・自分のことを否定的に言わないことで、自分のことを否定的に思わなくなる。


自分のことを人見知りだと思っていたけれど、単純に「好きなひとと嫌いなひとがいるだけ」だと思うようになってから、自分を人見知りだと思わなくなった。みんなと仲良くしなければいけないと思うから、自分を殺してまでひとに合わせて、結果的に苦しい思いをするのだと思う。

9・ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。


弱さとは、決して悪いことではないと思う。自分には弱い部分があるのだと認めることと、自分には弱い部分があるのだと自分を責めることは、似ているけれど、まったく違う。「自分はこういう人間です」と、不完全なら不完全なりに、不完全なままで飛び出して行く。自分を責めても、誰も幸せにはならない。自分で自分を護るということは、多分、自分の限界を知るということだ。

『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、佐々木典士さん著作『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』です。なんと!作品中にはわたしの名前も登場する(らしい!)ので、これから飛行機の中で読み耽りたいと思います。自分を身軽にしておくことは、乱世を生き抜く非常に有効なスキルになるような気がする。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、香川県にわたりました ※※※


10・生きていることを実感したければ、死ね。


イベントの終了後などに「坂爪さんのファンです!」とお客様から言われることが、私は、非常に苦手だ。そんなことを言われてしまうと「俺は誰よりも俺のファンだから、お前はお前のファンになれ!」と思ってしまう(実際に言うこともある)。ただ、坂爪さんが生きていることがうれしいです的なことを言われるてしまうと、それは謎にうれしい。どちらも似たような言葉なのに、果たして、何が違うというのだろうか。自分なりに考えてみた結果、ほんの少しだけ理由がわかってきた。

私は「自分はすごい人間だ」なんて絶対に言いたくない。それよりも「人間はすごい」とか「言葉はすごい」とか「生きているということはすごい」とか、決して坂爪圭吾という特定の人物にだけあてはまるものではなく、この世のすべてのひとにあてはまるような、大袈裟な言葉で言えば『真実』とか『普遍性』などと呼ばれるような、そういうものに触れていきたいと思っている。そして、それに触れることができたことを、同じ時代に生きるひとたちと一緒によろこびたいと思っている。だからなのだろうか、坂爪さんはすごいと褒められても何も嬉しくないばかりか(自分の力量不足を突きつけられているみたいで)軽くがっかりする。

誤解を恐れずに言うと、いま、私を含めた多くの人々はあまりにもビビり過ぎているのだと思う。それは、金がないことや自信や勇気や能力が足りないことではなく、真逆で、実際は『自分には既に力がある』のだと認めることをビビっているのだ。自分の力を認めてしまおう。何度も何度も痛い目に遭っては、その度に逞しく生まれ変わろう。どんなに小さなことでもいいから、どんなに馬鹿げたことでもいいから、自分がやってみたいと思ったことには、躊躇をしないで飛び込んでみよう。生きていることを実感するために、死のう。きっと、そこから広がる世界がある。

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人生は続く。

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音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もありました。

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三人兄弟の末っ子として生まれた私には、5歳年上の姉と、4歳年上の兄がいる。実兄の坂爪真吾は東京大学在籍中から自身で事業を興し、その傍らで「はじめての不倫学」や「性風俗のいびつな現場」などの書籍を発表している。私は、兄の背中を見て育った。兄が買うCDを聞き、兄が買う服を着て、兄が買う本を読んだ。しかし、兄弟は役割を分散させるみたいで、東大を突破してアカデミックな道を進んだ兄に対して、最終学歴が高卒の私は(勝間和代風に言えば)ストリートスマートの道を目指した。

稀に、兄が講演などで足を運んだ先で「坂爪圭吾さんのお兄さんですよね」と尋ねられることがあるらしい。兄は、それが嫌なのだと言う。それはそうだろうなと思う。アカデミックな道を選んだ兄にとって、私のような得体の知れない愚弟の存在は『目の上のたんこぶ』になる。誤解されると困るが、私は、兄を尊敬している。自分のことを社会不適合者だと思っていた私には、生きる希望が欠如していた。しかし、自分で事業をはじめる兄の背中を見て「そういう生き方もあるのか!」と目から鱗が落ちた。既存の生き方に自分を合わせるだけではなく、新しい生き方を自分でつくるという選択肢もあるのだ。

私の両親は、実家のある新潟市内で理髪店を営んでいる。両親の最終学歴はどちらも中卒で、非常に貧しい家庭で育ったために「大正時代のひとと話が合うんだよ」と笑いながら話す。家には高校に行かせる金がないために、中学を卒業すると同時に床屋に住み込みの弟子入りをして、修行を積んだ後に独立して自分の店を持つ、というパターンを両親は踏襲している。小さい頃、母親からは「貧乏人ほどよく笑う」という言葉を聞いた。事実、母親はよく笑う。ユーモアとは、どんなに苦しい状態でも自分を笑い飛ばせる力なのだということを、私は、母から学んだ。しかし、基本的には明るく楽天的な母にも、16歳で床屋に弟子入りをしたばかりの頃、同世代の制服を着た女の子の髪の毛を洗いながら「うらやましいなあ」と思ってしまう瞬間はあったらしい。

家族に強く感謝をしている三点。

私には、自分の家族に強く感謝をしている点が三つある。ひとつ目は「三人兄弟でよかった!」という点だ。私の姉も、私の兄も、どちらも結婚をしている。こどももいる。これによって「親に孫の顔を見せる」的なこどもの責任っぽいことは既に果たされた。その点、ひとりっこは大変だと思う。兄弟がたくさんいることのメリットは、多分、こどもの役割を分散できることだ。おかげさまで、末っ子の私は「これで自由に生きられる!」と気分爽快である。両親も両親で「こどもが三人いたらひとりくらいはバグるものだ」と、私のことは前向きに諦めてくれている。ありがとう、家族。これで、私は『安心して死ぬ【バグる】』ことができる。

ふたつ目は「両親が自営業でよかった!」という点だ。理髪店の休業日は毎週月曜日だったために、小さな頃、家族で遠くに旅行に出かけた記憶が私にはない。昔はそれをさみしいことだと思っていたが、いまでは「おかげさまでひとりで生きる力が身についた」と、V字回復の好転反応を示している。自営業の両親は、良くも悪くも、非常にゆるい。組織特有の縦社会に属した経験が浅いために敬語もロクに使えないが、しかし、素朴な人間味がある。両親は「自営業は身体が資本だから、身体がぶち壊れたらおしまいだよ」と言うが、それを聞いた私は「それならば安定した道を選ぼう」と思う以上に「あらゆる困難を乗り越える、強靭な肉体と精神を身につけよう!」と思うようになった。

みっつ目は「反抗期を受け入れてくれて良かった!」という点だ。母曰く、私の反抗期は18年間続いたらしい。いつからいつまでの時期を指すのかは不明だが、ことあるごとに、両親と私は衝突をしてきた。14歳で煙草を吸い、親父の原チャで高校に通い、生活指導にボコられ、金色の髪の毛を肩まで伸ばし、学校を辞めたいと暴れ、微塵も話が通じずに家の壁を叩いて穴を開け、新潟を離れるためだけに通った大学を勝手に辞め、就職もせず、親のいうことも何も聞かない。様々な局面でいちいち反抗をしてきた私を見て、やがて、両親も「こいつは何を言っても無駄だ。自分のやりたいことしかやれないんだ」と思うようになり、結果的に「元気でいてくれたらそれでいい」という終着駅に到着をした。

元気でいてくれたらそれでいい。

学校に行け!と言われると「行きたくない!」と反抗をして、就職をしろ!と言われると「就職したくない!」と反抗をしていた私も、実際、両親から何も期待をされなくなると、反抗することが何もなくなってしまった。何も期待せず、何も要求せず、ただ「元気でいてくれたらそれでいい」なんて言われてしまうと、こども側としても「お、おう【それならば、元気に生きます】」としか言えない。おかげさまで、紆余曲折はあったものの、現在の家族仲は非常に良好である。もちろん、両親は私の生き方を、多分、一ミリも理解していないと思う。理解できないものを「無理をしてまで理解をしようとするのではなく、理解できないまま、そのままにしておいてくれる」両親の底知れない器には、心の底から感謝をしている。

星の王子さま

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグチュペリの名作『星の王子さま』です。わたり文庫を開始してからおよそ三ヶ月、無理やりにでも誰かに読ませたいと願う本の数々が、全国各地から熱海に届いている。その中でも、こちらの本は抜群の人気を誇っている。読む時期によって心に響く場面は変わるのですが、なう、キツネのセリフが五臓六腑に沁み渡ります。まだ読んだことのない方は、是非、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

ぼくの暮らしは単調だ。ぼくがニワトリを追いかけ、そのぼくを人間が追いかける。ニワトリはどれもみんな同じようだし、人間もみんな同じようだ。だからぼくは、ちょっとうんざりしてる。でも、もしも君がぼくをなつかせてくれたら、ぼくの暮しは急に陽が差したようになる。ぼくは、ほかの誰ともちがうきみの足音が、わかるようになる。ほかの足音なら、ぼくは地面にもぐってかくれる。でもきみの足音は、音楽みたいに、ぼくを巣の外へいざなうんだ。それに、ほら!むこうに麦畑が見えるだろう?ぼくはパンを食べない。だから小麦にはなんの用もない。麦畑を見ても、心に浮かぶものもない。それはさびしいことだ!でもきみは、金色の髪をしている。そのきみがぼくをなつかせてくれたら、すてきだろうなあ!金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる……


音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もありました。

中学時代、高校時代と友達がいなかった私は、時間を見つけてはひとり自転車を何時間もかっ飛ばして新潟市内全域の中古CDショップを巡っていた。生きていても何も良いことはないと思っていた自分にとって、ただ、自分の好きな音楽を聴いている時間だけは「自由」を感じることができた。気に入ったCDを見つけては、繰り返し、繰り返し、授業中も、移動中も、自分の部屋でも、何度も何度も聴き続けた。音楽は、周囲にうまく馴染めない自分にも「生きててもいいんだよ」と言ってくれているような気がしていた。周りのすべてが「お前は大丈夫じゃない」というメッセージを発してくるように見える世の中において、音楽だけは「お前は大丈夫だ」と言ってくれているように感じていた。そして、自分が音楽に強い感動を覚えたように、自分もひとの心を動かせるような人間になりたいと思うようになった。みっつの言葉を借りれば「音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もある」ような気がしていた。


多分、私は音楽を通じて「自分の居場所」を拡張したかったのだと思う。そして、この思いは30歳になったいまも変わっていない。30歳になるということは、もっと大人になるということだと思っていた。それなのに、これほどまでに「そのまま行く」とは思わなかった。自分の不甲斐なさに情けなくなることもあるほどこどものまま、私は、自転車を飛ばした先の中古CD屋さんでお気に入りの音楽を見つけた時のようなあの高揚感を、あの頃のまま、いまでも求め続けているのだと思う。限界性を突破して、不確実性の海の中に自身を投げ出すこと。何が起こるかわかりきっている想定の範囲内の世界よりも、何が起こるかわからない、世界には自分を興奮させてくれるものがまだまだたくさんあるんだという静かで激しい高揚感のど真ん中に、私は、自分の身を投げ出していきたいのだと思う。

孤独な青春時代を過ごしていたとき、私は、常に死にたいと思っていた。生きていても何もいいことはないと思っていたし、これから先に、何か素晴らしいことが待っているとも思えなかった。しかし、あの頃の正直な感覚は「死にたかった」のではなく「死にたいと思うこの気持ちについて、誰かと話がしたかった」だけなのだと思う。私は、多分、ずっと友達が欲しかったのだ。話しあえる友達を、わかりあえる友達を、同じ気持ちを抱えている友達を、私はずっと求めていたのだ。どうすることもできない自分の弱さの裏側には、どうにかしていきたいと願う『希望』があった。あの頃のまま、私は、もうすぐ31歳になる。私は、自分に恥ずかしくない生き方ができているだろうか。昔の自分に、胸を張れる生き方をできているだろうか。私には、まだ、何もわからない。何もわからないけれど、わからないなりに、わからないまま、過去の自分が音楽の中に自分の居場所を見出したように、自分がこれから綴るもの、自分がこれから詠うもの、自分がこれから織り成すもの、それらのすべてに音楽が宿るような、そういう生き方をしていきたいと思っている。

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

恐れることを恐れるな。

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4月9日(土)から四国で「家を拾うまで帰れま10」をやるために、しばらくの間、熱海の家が無人になる。これは非常にもったいないので、実験的に4月7日(木)から17日(日)までの約10日間「第4回!わたり食堂」の会場として、自宅を完全に開放します。坂爪圭吾が滞在するのは7日【この日は私の誕生日!】のみになりますが、興味のある方は詳細をご覧ください。


熱海の生活の良いところは、海と山と温泉があるところです。いま、ちょっと元気がないなあと思った時は、伊豆山神社まで散歩をしたり、打ち寄せる波を眺めたり、温泉にはいって「あああああ…!」と声にならないよろこびの咆哮をあげることができる。極少数の仲間内で焚き火を囲むこともできるし、春の夜風にあたりながら、星空を眺めることもできる。それでもダメなら、あとはもう、寝るだけだ。


わたり食堂では、基本的に家にある食糧や調理器具などは自由に使えることになっている。足りないものは、伊豆山神社近くにある八百屋さんか肉屋さんで調達をする。冷蔵庫の横にある戸棚には『わたり文庫(循環型の図書館)』も設置されているので、珈琲や紅茶を飲みながら、静かな環境で気が済むまで読書を楽しむこともできる。是非、この機会に足を運んで見てください。


みんなの財布

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熱海の家の玄関には「みんなの財布」がある。ここにはいっているお金は、誰でも、自由に使えることになっている。先日、鍋の準備をしてくれた女の子は「肉が食べたかったのでお金を借りました!坂爪さんも一緒に食べましょう!」と、みんなの財布を使ってくれた。平塚から遊びに来てくれた20代の女の子も「絶賛無職で、帰りの電車賃がないもので…」と、みんなの財布を使ってくれた。残金が尽きる時まで、共に死に絶える日が来るまで、どんどんやって欲しいと思っている。

逆に、遊びに来てくれた方々が帰り際にこっそりと、みんなの財布に何かしらを投入してくれることもある。日本銀行券であったり、クオカードであったり、図書券であったり、何かしら金的なものを投入して帰ってくださる方もいるために、不思議と、みんなの財布の中にある残金は常に一定の水準を保っている。非常に驚いたことに「お布施です」と、実際に手渡しをしてくれるひともいる。私は思う。これが『21世紀の需要と供給』になるのかもしれない。


美しい世界を共有する。

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今回のブログ記事に掲載している写真は、愛媛県在住の女性から届いたしまなみ海道界隈の風景になります。美しい瞬間を目撃したとき、その美しさを、ほかの誰かと共有したいと思う。しかし、多くの人達は夕日を眺める余裕も季節の草花を慈しむ時間もなく、常に忙しそうにしているために、美しい風景は自分の中だけに閉じ込められてしまう。

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そういうときに、お互いの眼の前で繰り広げられている自然の美しさを共有できる相手がいるということは、心が感じる嬉しさを倍増させる。狭くなっている自分の視野を広げてくれる、自分がいる場所が世界のすべてではないのだということを、そして、同じ空は繋がっているのだということを、何度でも思い出させてくれる。

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『やさしいライオン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アンパンマンでお馴染み、やなせたかし著作の絵本『やさしいライオン』です。読後に思わず「ああ…」と溜め息が漏れ出てしまうような、非常に素晴らしい作品です。小さなお子様をお持ちのお母様など、こどもと一緒に楽しんでもらえたら幸いです。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

また、『第4回!わたり食堂』開催にあたり、もしも「誰かに無理やりでも読ませたい!」という本をお持ちの方がいらっしゃいましたら、1〜2冊程度を熱海の家まで郵送していただけると非常に嬉しいです。4月7日(木)までにお送りいただいた方には、せめてもの御礼として、わたり文庫より『ミステリーブック【他の誰かのおすすめの一冊】』を無料でお届けいたします。本の到着が8日以降になりますと、坂爪不在のために御礼ができないのですが、ご了承いただければ幸いです。


恐れることを恐れるな。

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自宅を開放したり、自分自身を開放していると「こわくないのですか」と尋ねられることが頻繁にある。こわくなかったと言えば嘘になる。序盤は『もしかしたら殺されるかもしれない』などとびびっていた時期もあるが、冷静に考えると『(金も財産も何もない)俺を殺すメリットは何もない』ということにハタと気がつき、それ以来、何かを恐れるということがなくなってきた。

もちろん、自宅や財布や自分自身を開放していたら、心のないひとが大切な何かを持って行ってしまうというリスクもある。しかし、その時は、その時なのだ。法律を犯してまで何かを持って行こうとするということは、そうでもしなければ生きていけない切羽詰まった何かが、そのひとにはあるということだ。そして、法律は逃れても、他人の視線はまぬがれても、自分の良心から逃れることはできない。

何か新しいことを始めるとき、同時に、不安や恐怖心が湧き上がることは異常ではない。しかし、失うことを恐れてしまうと、もっと大切な何かを失ってしまう。何も持たずに真っ裸で生まれてきて、何も持たずに真っ裸で死んでいく我が身である。何かを守りそうになっている自分を見つけたら、出来る限り蹴飛ばしていきたいと思う。失っても、失っても、どれだけ多くのものを失ったとしても、絶対に最後に残るものがある。多分、それが【自分】だと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

「やりたい」が「やらなきゃ」になったらゲームオーバー !

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若き日の黒柳徹子さんが、過労でぶっ倒れて入院をした時、ああ、もう病気にはなりたくないなあと思った。そこで、医者に「死ぬまで病気をしたくないんですけど、どうやるんですか」と尋ねた。医者は「ひとつだけあるけど、できないね」と言った。徹子さんは「わたし、やります」と食い下がった。医者は「できないと思うけど、やるかい」と言ったあとに、次のようなことを話した。

進んでやる仕事だけ、やっていきなさい

医者から「自分で進んでやる仕事をすれば、寝る前に残っているのは肉体の疲れだけだ」ということを教わった徹子さんは、それ以来、自分がやりたいと思うことだけをやってきた。嫌だなあと思っていると、それが積み重なって、ヤダなヤダなが残ってしまう。当時は『ストレス』という言葉はなかった時代だ。だからなのか、徹子さんは「わたしはなにをしていても、面白くないときがないの」と話している。

「やりたい」が「やらなきゃ」になったらゲームオーバー!

昨夜、横浜中華街の飲食店から動画配信を行った。その中で「恋愛観」的なものが話題にあがった。現在の私に特定の恋人はいないが、多分、私は『固定』されることが苦手だ。たとえば、男女が付き合うと「次はいつ会える?」的な会話になる。私は、この瞬間に「固定されてしまう!」というある種の恐怖感を抱く。会いたい時に(割と即座に)会うのがベストであり、事前に約束をすると、会いたいが「会わなければいけない」になってしまう。


同じような理由で、恋人の誕生日プレゼントを買うことも苦手だ。誤解されると困るが、贈り物を贈るという行為は大好物である。何でもない日に花や小物を贈ることが、私は大好きだ。しかし、一年に一度きりの誕生日に宿る「絶対に何かを贈らなければいけない感」にやられてしまう私は、恋人の誕生日が近づくほどに心臓は軋み、気持ちは塞ぎ、自責の念に駆られ、やがて「だから恋愛は面倒だ!」という極論に着地する。

乱暴にまとめると、恋愛でも仕事でも「やりたいがやらなきゃになったらゲームオーバー」なのだと思う。その瞬間、私は死ぬ。だからなのだろうか、恋愛も仕事も長続きしない。そんな自分を「俺はダメな人間だ」と責めていた時期もあったが、仕方がないものは仕方がない【長続きするような人間だったら『いばや』とかいうよくわからないことはやっていない】、それでも『文章を書く』ということは昔から飽きることなく現在も続けているために、いまは、それによって死なずにいることができている。

「やりたい」が「やらなきゃ」を解決する。

先日、帝国ホテルのイベントに出演(?)した。この日、自分でドレスを手作りした女性のエピソードを思い出した。彼女は、過去に服をつくる仕事をしていた。現在は別の仕事をしている。服をつくることは好きなのだが、仕事が忙しいために最近は服をつくる時間がなかった。しかし、服をつくりたいという気持ちは強くある。そのため、帝国ホテルのイベントに合わせて再び服をつくりはじめた。


服をつくるためには、ある程度のスペースが必要になる。彼女の家には、数年前から物置と化してしまった部屋がある。「掃除しなきゃな」とは思っていたが、そのまま、ずっと放置されていた部屋だ。しかし、服をつくりたいという新たな欲求が生まれた彼女は、そのままの勢いで、長年放置されていた部屋をババッと片付けて服の制作にはいった。彼女は『振り返ってみると、やりたいがやらなきゃを解決してくれたのだと思いました』と話してくれた。

素晴らしいエピソードだ。私は、根本的に「問題解決型」的なサムシングが息苦しくて苦手だ。お金がないから嫌な仕事でも我慢をしてやらなければいけないということよりも、お金がないから家賃を浮かすために「家のない生活」を実験的にはじめてみたら、死なないばかりか想像を超えた面白い目にも遭えて【結果的に家ももらえて】ラッキー!といった感じの、気がついたら「問題が問題ではなくなっている」ような状態を理想としている。

『タマネギのひみつ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、黒柳徹子さん(聞き手・糸井重里さん)著作『タマネギのひみつ』です。こちらの本は、茨城の実家を飛び出して熱海まで遊びに来た絶賛家出中の20代前半の女性が、持参してくれた一冊です。冒頭のエピソードも収録されているのですが、徹子さんの天真爛漫っぷりには元気をもらいます。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※


嫌だなあと思うことを嫌々やって生きるのではなく、好きなことをブワアとやって死にたい。

極論、やりたいことをやる勇気と同じくらい、やりたくないことはやらない勇気も大事になるのだろう。「俺はもう、自分のやりたいことしかやらないことに決めた!」的な、非常に威勢のいい言葉を発してしまった瞬間から、自分の人生に言い訳ができなくなる。あらゆる行為の動機は「やりたいからやる(やりたくないからやらない)」になるために、すべては自分の責任となり、もう、自分の日々を誰の責任にもできなくなる。

生活のためだけに生きるのはむなしい。他人の期待に応えるだけの日々では、やりたいがやらなきゃになってしまうのは時間の問題である。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。自殺者が3万人いて鬱病患者が100万人いる日本社会で病気にならない生き方とは、進んでやりたい仕事だけ、やっていくことだ。やりたいがやらなきゃになったらゲームオーバーであり、やりたいはやらなきゃを解決する。

嫌だなあと思うことを嫌々やりながら生きていくことの最大のリスクは、多分、魂が腐ってしまうことだと思う。自分の好きがわからなくなり、自分の感情がわからなくなり、自分が生まれてきたことの意味や価値やよろこびを無意識の内に喪失してしまう。私は、嫌なことを嫌々やって生きるよりも、好きなことをブワアとやってから死にたい。ああ、この瞬間を味わえた自分には生まれてきた甲斐があったのだと、これはもう死んでも悔いはないと思える瞬間のど真ん中に、私は揺蕩っていたいと思っている。


人生は続く。

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不完全なら不完全なりに、不完全なままで胸を張る。多分、その姿が『完全な自分』になる。

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神奈川県在住のT様から、本日、心のこもった手作りローズマリー軟膏の新作が届きました。10名限定になりますが、ご希望される方に無料で郵送をいたします。実際に作って見ると意外と簡単にできる(作り方は下記リンク参照)とのことなので、興味のある方は是非、自宅でも挑戦してみてください。手荒れに悩む方が、ひとりでも少なくなることを祈ります。


※※※ こちらの軟膏は、日本全国にわたりました ※※※

先日、粛々と録画した動画を公開した。最近、ツイキャスが楽しい。まるで小学生の男の子が、家に帰ってきた時にお母さんに「今日はこんなことがあったんだよ!」的な報告をしている時のような、あの、懐かしい気持ちになる。動画の中で、私は「過去に付き合っていた女性と体験した修羅場」の話をした。非常に印象的な出来事になったので、簡単にまとめます。


7歳年上の女性との修羅場

当時、22歳の私は7歳年上の女性と交際をしていた。ある日、彼女の家にはじめて遊びに行った時、悲劇は起きた。彼女と私が家のリビングで映画を見ていたら、突然玄関のチャイムがピンポーン!と鳴り、彼女は「まじかよ!」という表情を浮かべた。これはあとでわかったことなのだけれど、当時の彼女にはまだ完全には別れ切っていない絶賛同棲中の元カレがいて、今夜は戻らないはずだった元カレが家に帰ってきたのだ。

ひとしきり「どうしよう!どうしよう!」と騒いだあとで、観念した彼女は元カレを家にあげた。男性の年齢は30歳ちょっとで高級なスーツをビシッときめていて、耳には光るピアスをしていた。男性の風貌から「僕は、若い頃にはそれなりのやんちゃをしてきました」感を強く嗅ぎ取った私は、ああ、これは一発殴られるかもしれないなあと腹を括った。

気持ちで負けちゃいけない。

男性は、私に向かって「えっと、あんた誰??ここで何しているの??」的なことを言った。私は、「はい」とだけ答えた(気がする)。この時の私の気持ちはただひとつ、これからどのようなことがあろうとも、男性に気持ちで負けてはいけないということだ。男性は、目に見えて怒りに満ちていた。一触即発の雰囲気が周辺に充溢して、彼女はおろおろとする中で、元カレは「なんなんだよ!」と叫びながら、近くのゴミ箱を蹴飛ばしたりしていた。

空中をゴミ屑が浮遊しているのを眺めながら、私は、ひたすら自分の腹に集中していた。逃げ場のない時は『ひたすら丹田に力を込めて、まるで武士のような面持ちでその場をやりすごす』という手法を身につけたのは、多分、この瞬間からだと思う。元カレが再び私の元に来る。私を睨む。私の胸ぐらを掴む。私の顔面に向かって「あんたはいったい誰なんだよ!」的な言葉を吐く。私は、ひたすら「はい」とだけ答える。それ以外の言葉は何も言わず、自分の腹に意識を集中させたまま、実は、心の中では『おまじない』を唱え続けていた。

困った時のおまじない【俺は俺だ】

私には、困った時に多用するひとつのおまじないがある。それは「俺は俺だ」とひたすら心の中で唱え続けるというもので、この日、修羅場を迎えていた私は心の中で何度も何度も「俺は俺だ。俺は俺だ。俺は俺だ。俺は俺だ」と繰り返し唱え続けていた。もしも、この世の中には目には見えないエネルギーがあるのだとしたら、自分の肉体全体から圧倒的な【俺は俺だエネルギー】を放出させることにより、もしかしたら最悪の窮地を脱することができるかもしれないという、吹けば飛ぶような一縷の望みに自分のすべてを賭博した。

元カレ「お前は誰なんだよ」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「あ?聞いてんのか?」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「何してんだよ」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「いつからいたんだよ」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「何か言えよ!」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「ああ!?」

坂爪「はい【俺は俺だ】

こんな感じである。殴られるかもしれないと思っていたが、奇跡が起きたのか何なのか、そのまま元カレは「クソっ!」と叫びながら家を出て、そのまま何処かに消えて行った。無事にことなきを得たのである。私は、この修羅場を通じて強烈な学びを三つ得た。ひとつ、困った時は意識を丹田に集中させること。ふたつ、謝罪も弁解もしないまま、相手を静かに真っ直ぐ見据えること。みっつ、心の中で【俺は俺だ】とひたすら唱え続けること。この三つを死守すれば、もしかすると、もしかするかもしれないということを実感した。

『喜びから人生を生きる【DYING TO BE ME】』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、普段は埼玉県で教員をやっている男性が持参してくれたアニータ・ムアジャーニ著作『喜びから人生を生きる【DYING TO BE ME】』です。私はまだ何も読んでいないのですが、サブタイトル【自分になるために死ぬ】が非常に気に入りました。古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ。私の愛するムラキテルミさんも手垢がつくほど読み込んだ(らしい!)ので、ご希望される方はローズマリー軟膏同様に何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※


ありのまま、自分のままで自分の姿を誇ること。

これは結果論に過ぎないが、もしも私が元カレに「許してください!」と謝罪をしたり、「彼女とはただの友達です!」みたいな形の弁解をしたら、ボカンと殴られていたかもしれない。TPOにもよるが、謝罪や弁解をすることよりも『思い切って開き直ること【居直ること】』が効果的な場合がある。どれだけ自分に不利な状態でも、どれだけ自分に負の点があろうとも、自分はこういう人間ですと居直ること。自分を前面に突き出すことにより、ロジックの壁を飛び越えて突破できる瞬間がある。

現在の私は、多分、過去に決めたふたつの覚悟に支えられている。ひとつは「ひとりでもいい」という覚悟。誰にも理解されなくても、友達や恋人はいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも生きていくという覚悟。そして、もうひとつは「死んでもいい」という覚悟。やりたくもないことをやって生きる【自分を殺して生きる】より、やりたいことをやって死ぬ【自分を出して死ぬ】覚悟。不思議なことに、ふたつの覚悟を決めてから、自分の日々が大きく膨らみはじめているような気がしている。


未熟でも、不完全でも、世界に向けて「自分はこういう人間です」と宣言をすること。多分、大切なことは【いま、この瞬間から、自分は自分の足で立つ】ということだ。完璧であろうとするのでもなく、誰かに何かを補ってもらうことを求めるのでもなく、「いつか」と何かを先送りにするのでもなく、足りないものは何もない、自分にはこの肉体とこの精神しかないのだから、ありのまま、自分のままので自分の姿を誇ること。不完全なら不完全なりに、不完全なままで胸を張る。多分、その姿が『完全な自分』になる。


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人生は続く。

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21世紀は「売る・買う」の関係性から「あげる・もらう」関係性の時代になる。

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名古屋駅近くのコメダ珈琲で初対面の方々三人と一緒にお茶をしていたら、突然、25歳の女性がやってきて「わたり文庫の本を持ってきました!そして、この封筒にはいっているお金は、私が私の名前ではじめて稼いだお金です。新しい場所に届けばいいなと思ったので、坂爪さんにまわしてもらいたいと思って持ってきました!」と、現金三万円をくれた。

要件だけ伝えると、女性は「用事があるので、では!」と、足早にその場を立ち去った。なんということだろう、まるで春の到来を告げる風のような、粋な女性である。『新しい場所に届けばいい』という彼女の願いに応えるべく、私は、一緒に珈琲を飲んでいた三人の方々に一万円ずつ「はい!(一蓮托生!)】」と手渡した。循環系アイドルでお馴染み、坂爪圭吾の必殺技は【キャッチ&サーキュレーション】である。

私は「このお金はどのような形で使ってもいいし、気が向いたら、一万円札をそのまま次のひとにひたすらまわし続けていくのも面白いと思います。一万円をもらった相手は、多分、すごいびっくりすると思うし、お金を(何かに交換するのではなく)お金のままでまわしていくことの中にも、多分、新しい感覚の面白さはあるような気がする」ということを言いながら、目の前の三人に委ねた。お金は、多分、うれしいものだ。もらってうれしい、あげてうれしい【これ重要!】、これがお金(というか基本的なモノゴト全般)の魅力である。

名古屋の女子、家をもらう。

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私は、現在、名古屋にいる。循環型図書館でお馴染み『わたり文庫』の出張版と称して、名古屋で出会う方々と本の交換をしている。昨夜は、栄生駅近くの古民家を改修してシェアハウスをやっている23歳の女性の家にお世話になった。大人の皆様、いまの若い世代は半端ないです。こちらの女性、驚いたことに「坂爪さんのブログを読んでからもらうことに対する抵抗がなくなっていて、これはつい最近の出来事なのですが、築2年の一軒家と、大須にある空き店舗を無料で貰えることになったんです。なので、四月からは大洲でお店をやることになりました」と話してくれた。


最近、こういう話を頻繁に聞く。昨日の昼間に再会した女性は「去年、当時はまだ家のなかったさかつめさんと出会った時に『家がなくても元気に生きているひとがいるのだから、私も諦めちゃダメだな』と思いました。そして、私は第二の故郷であるスコットランドに戻るためのお金を、いままではお金がないからと諦めていたのですが、SNSで寄付を募ってみたのです。そしたら、驚いたことに様々な方々から総勢4000ドル(約45万円)が集まって、無事にスコットランドまで行くことができました。今日は、坂爪さんにありがとうを伝えたいと思って会いにきました」と話してくれた。

これらの出来事は、漫画のような、ほんとうの話だ。最近、現実が漫画や映画や小説を凌駕してきているような感覚を覚える。多分、インターネット技術の発展による恩恵は大きいと思う。自分がやりたいと思うことを実際に口にすることで、自分の周囲に強烈な磁場が発生する。あげるよろこびともらうよろこびは両輪で、理想を掲げる役割【もらう役割】のひともいれば、理想を実現するためのお手伝いをする役割【あげる役割】のひともいる。どちらも【理想を現実化しようとする】共通の目的があるために、どちらが優位だとか、どちらが劣位だとか、贈与における優劣はない。

21世紀は「買う・売る」の関係性から「あげる・もらう」関係性の時代になる。

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自然農BOTなるものに言葉が引用されていて、笑った。現在の世の中が「等価交換」なるもので成立しているとすれば、自然界は「循環」で成立していると思う。昔、何かで『等価交換は関係の清算で、贈与交換は関係の継続』という言葉を見た。これをしてもらう代わりに、私はこれをしました(たとえばお金を払いました)というやり取りは、両者の関係性を清算する。要するに、等価交換では『貸しをつくらない』ことが大事になる。しかし、等価交換社会には『循環が起こらない』ことと『持たないひとは参加できない』欠点があると私は思っている。

別に難しい話をしたい訳ではなく、単純に、誰かから何かをもらうととてもうれしい。きゃー!ありがとう!という気持ちになり、同じように自分も誰かに何かをプレゼントしたい気持ちになる。そして、実際に誰かに何かをプレゼントしてよろこんでもらえた時に、ああ、なんともいえないうれしい気持ちになる。この時のよろこびを「俺はこれだけしたのだから、俺にも何かしらの形で返還せよ」と求めることが等価交換ならば、「もしも気に入ってくれたら、俺には返さなくていいから他の誰かに何かをしてあげてよ」的な態度が贈与交換【循環】になる。

今回のブログに掲載している写真は、すべて、熱海にある海辺で撮影したものになる。当たり前のことだけれど、自然は一切の使用料金を徴収しない。太陽を浴びたら一時間500円とか、海水浴場を使用した一日1000円とか、雨水を利用したら一律5万円とか、そういうことをしない。過去に「交換感より循環感!」とひたすら絶叫していた時期があるが、あながち間違っていなかったのかもしれないと思った。


カモメが飛んだ。

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熱海の海辺。

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見渡す限りの水平線である。

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カモメが飛んだ。

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『帰ってきたソクラテス

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、私の尊敬する日本の哲学者(作家)池田晶子著作『帰ってきたソクラテス』です。ウィーンの哲学者ルートウィヒ・ヴィトゲンシュタインも「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙しなければならない」と言っているように、この本の魅力を伝える最大の方法は沈黙になります。単純に「読め!(読んでもらえたらうれしい!)」としか言えないのですが、ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)した方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※


愛情の9割は執着。

多分、恩は返すものではなく「次のひとにまわしていくもの」だと思う。それを相手に返すものだと思ってしまうから(または相手に返すことを強要されてしまうから)受け取りづらくなるのだろう。恩や愛情の本質は投げっぱなしジャーマンであり、大切なのは『受け取る力(レシーブ力)』になるのではないだろうか。


最近の私は「愛情の9割は、実は執着なのではないだろうか」と思っている。愛情とは『自分を使って相手を幸せにすること』ならば、執着とは『相手を使って自分を幸せにすること』ではないだろうか。そういう風に、愛情と執着の見極めをするようにしている。そして、(恋愛や仕事や親子関係に限らず)循環を阻害するもの、それは相手に見返りを求める心だと思う。ほんとうの意味での見返りは、相手のリアクションに宿るものではなく、自分が率先してとった行動の中に宿る『清々しさ(いいことをしたな感)』だと思っている。

先日、私のもとに一通の素晴らしいメールが届いた。これを最後に(あまりにもうれしかったもので誠に勝手ながら)紹介します。なんだこれは!と思うと同時に、「お金に対する違和感(?)を抱いていたのは、自分だけではなかったのだ」ということが、私を強く励ましてくれた。そして、人間はやさしいということ。生きていればほんとうにいろいろなことがあるけれど、春だ、気持ちのいい風を吹かせていこう。


坂爪さん

こんばんは。
いつもブログたのしみに見ています。そして、力をもらっています。

私は常々商売的なことに対して、よい気持ちがしていませんでした。坂爪さんもよくおっしゃっているとおり、広告や宣伝を見るたびに「売ってやる!売ってやる!」という気持ちが見えてしまっていたからかもしれません。そして、何より商売に強く結びついているお金のことが好きになれなかったのです。

坂爪さんのブログを読み、これからは「売る・買う」よりも、「もらう・あげる」だということにすごく共感しました。

そして、あの嫌いだったお金すら「売る・買う」ではなく、「あげる・もらう」の循環にのせていくと、すごく気持ちのいいものになる、ああお金いいじゃん!!ということに気づいたのです。

なので、その循環に、微力ながらのせたいと思います。

ほんとに少しなんですが、お金をもらってほしいので、坂爪さんの口座番号を教えていただけませんか?

⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎

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人生は続く。

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生かしたいひとを生かすために生きる。

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先日、東京在住の女性から「私の生命保険の受取人は母親になっているのですが、冷静に考えると母親は別にお金に困っている訳でもないので、坂爪さんに受取人になってもらえたらいいなあと思ったのですがいかがでしょうか」という驚愕のオファーを受けた。いまから2年前、家のない生活をはじめた頃から「家や金や安定した収入がないとき、果たして、人間は何処まで行けるのだろうか」というポイントに強い関心を抱いてしまった私は、現在も自分を使って実験を続けている。


この記事では、男女の立場の逆転現象について綴りたい。私達いばやの主要メンバーは、(説明が非常に面倒臭いために)男女6名で構成されている(ということにしておく)。男性陣は、坂爪と嘉向と保科の三人。女性陣は、MAYUCHAPAWONICAとAKIとCHIAKIの三人。女性陣はともかく、いばやの男性陣はゴミみたいな人間ばかりで構成されている。何がゴミみたいなのかというと、とにかく「まったくお金を稼ぐことができない」という点において、類稀ない無能っぷりを発揮している。

【いばや男性陣の動画】嘉向×保科×坂爪 - TwitCasting

あまりにも男性陣が無能なものだから、先日、女性陣が発奮した。女性陣が「私達が代わりにお金を稼げるように生きるから、そしてあなたたちにお金をまわせるように生きるから、あなたたちはそれで生きなさい」的なことを言ってくれた。お金を稼ぐことがとても苦手で、手にしたお金はすぐに周囲のひとたちに無料で散布してしまう男性陣は「ありがとう」と思った。そして、私は「こうしたありかたが新しい時代のスタンダードになるかもしれない」などということを思った。

女性陣+発奮=女神陣【世界救われる】


女性陣の提案は、このような形をとっていた。「私達には絵や写真やメイクアップのスキルがあるから、車に寝泊まりしながら全国を移動して、移動した先で『私達には生かしたいと思っているひとがいるので、正規料金プラスαでお金をいただけるととても嬉しいです』とお願いをして、そこでいただいたお金をあなたたちにまわす」というものであり、男性陣は三つの点において「ブラボー!」と思った。

1・安心して死ねる【見捨てられる可能性があるという点において、圧倒的にフェアである

ひとつめのブラポーは「安心して死ねる」ということで、本腰をいれて自分自身に集中できる(合理性や生産性などを度外視できる)。もちろん、男性陣が女性陣にいつ見捨てられてしまうかはわからない。自分たちの生き様の純度が落ちた時、女性陣には簡単にポアをされてしまうだろう。我々男性陣には、文句を言う資格はない。この点において、(一見するとただのヒモみたいに見えるけれど実は)圧倒的にフェアであるという点が気持ちいい。

2・自分で自分の活動をPRするよりも、第三者によってPRをしてもらえるために「(比較的)胡散臭くない」

ふたつめのブラボーは「自分で自分の活動をPRする必要がない」ということである。男性陣は、広告や宣伝が苦手だ。多分、自分たちの活動を言葉で説明するということに抵抗があるのだと思う。いばやの仮説のひとつに「自分たちの活動が未来にとって必要なものであれば、必ず誰かが『こいつらを死なせてはいけない!』と思って助けてくれるはずだ。しかし、自分たちの活動が未来にとって何も必要のないものであれば、自分達は路上で野垂れ死ぬだろう」というものがある。要するに、重要なことは言葉よりも生き様であり、生き様が見る人の心を動かせば男性陣は生き残り、生き様が何も人の心を動かさないものであれば、男性陣は死ぬことになる。

3・誰かのために生きる【稼ぐという新しいモチベーションになる

みっつめのブラボーは「自分が生かしたいと思うひとのために生きる【稼ぐ】」ということが、新しいモチベーションに繋がるということである。自分のためだけに生きるのは虚しい。しかし、自分の日々の頑張りが「自分が生かしたいと思うあのひとの力になる」のだと思えば、百万馬力である。しかし、自己犠牲的な献身は不幸を生む。自分のために生きること、そして、自分が生かしたいと思うひとのために生きること、これらが見事に合致した瞬間、多分、最強の人間になる。

【わたり文庫】『じぶんだけのいろ』

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久し振りの再開となります、今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、世界的名作スイミーでお馴染みの絵本作家レオ・レオニ著作『じぶんだけのいろ(訳・谷川俊太郎)』です。こちらの本は、新潟市西区内野町でイロハニ堂という超絶素敵カフェをやっているS野さんが、はるばる熱海までご持参いただいた一冊になります。坂爪の感想は、ただただ「素晴らしい」のひと言に尽きます。谷川俊太郎の訳も素晴らしく、優しい気持ちがコポコポと溢れ出してきます。ご希望されるかたは、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※


【わたり音楽】『Man Taung Yeik Kho』

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わたり文庫に引き続きまして、わたり音楽なるものが勃発的に巻き起こりました。こちらのCDは、先日ミャンマーでお会いした日本人女性(最高に素晴らしい人柄!)が「わたり音楽とか、どうですか?」と手渡してくれました。我が家にはCDを聞ける環境がないために、データでもらった音源を聞いたら最高でした。わたり音楽は、直接熱海にお越しいただいた方に限り、無料で循環させていく予定です(三月いっぱいは熱海の自宅を完全に開放しています。みっつとあきとが留守番をしているので、興味のある方はこの機会に足をお運びください)


生かしたいひとを生かすために生きる。


このひとを生かしたい!と思えるひととの出会いは、単純に、自分自身のよろこびになる。私にとって、イロハニ堂のS野さんは心の底から生かしたいと思えるひとであり、何も食事をしないでもお金だけ置いて「また来ます!」と言って帰りたくなるような、そういう気持ちにさせてくれる稀有な女性だ。S野さんには生きていて欲しいと思うからこそ、S野さんが死にかけている時は自分の命を引き換えにしてでも、多分、脇目も振らずに駆け出すだろう。


経済力のない男性陣を支えるために、発奮した女性陣がチームで動いて男性陣を応援する。私は、ここに『いばやの進化系【かわいいの魔法で女性陣が女神陣になって世界を救う】』を見た。男性陣主導のいばやでは、たとえるならば「サッカーの試合で、全員がゴールキーパーをやる」ような生き方をしていた。これならば点を取られることはない(死ぬことない)けれど、いつまでも相手シュートを受け続けてボコボコになる上に、永遠にゴールを決めることができない。そこに現れた救世主が女神陣の発奮であり、何かこう、いい感じで男女の役割が逆転している所に新しさと面白さを見た。

このひとを生かしたい!と思えるひとを見つけることは、多分、天然記念物の保護に似ている。楽しそうに生きているひとを見ると、見ているこちらまで幸せな気持ちになる。私は、自分が好きだと思うひとには「そのままでいて欲しい」と思う。完璧であることなんて望まないから、未熟でも、不完全でも、のびのびと生きていて欲しいと思う。本当の意味で自由に生きている絶滅危惧種の天然記念物は、それを見るひとのこころも自由にする。生かしたいひとを生かすために生きる。その先に、いまだかつてないゴールを決める感動と興奮を皆で分かち合えたら最高だと思っている。


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人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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耳を塞いでもいいのだ。

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佐渡を経由して新潟のイベントに登壇し、翌日、東京の帝国ホテルに突撃した。心ある方が、帝国ホテルのラウンジ席と着物と送迎用のリムジン(!)まで手配をしてくださり、参加希望者の女性15名程度と一緒に食事をした。これだけ贅沢な環境を整えてもらったのだから、さぞ、当日もすこぶる優雅な時間になるだろうと構えていたが、甘かった。私の人間的な程度の低さが露呈して、ちょっとだけ面倒なことになってしまった。


誤解を恐れずに言うと、私はスピリチュアルとかカウンセリングとかコーチングとか自己啓発とか、これらの類があまり得意ではない。本来であれば「ひとを幸せにしてくれる」はずの自己啓発的なサムシングにはまるひとほど、不幸そうに見える。何かこう「カモられていませんか???」という気持ちになる。うまく言葉にすることができないのだけれど、昨夜、帝国ホテルに来てくれた一部の方々の会話を聞きながら「なんだか同じ臭いがする!」と思った。

耳を塞ぐ。

多分、私は人間の好き嫌いが激しいのだと思う。いいなと思う人には優しくしたいと思うけれど、なんだかなあと思うひとには露骨に態度が悪くなる。昨夜、初対面を果たしたばかりの女性の声の質が、私にはどうしても耐えることができなかった。最初は我慢をして聞いていたのだけれど、(頭ではなく)私の腹が「このままだと死ぬぞ!」と訴えはじめて、やがて「あああ!無理!無理!やっぱり無理だ!」と思った私は、目のマッサージをするふりをしながら、自分の両耳をこっそりと塞いだ。

もちろん、私にもそれなりの良識はある。一応、ゲストとして呼ばれている人間が、参加者の声を拒絶するように自分の両耳を塞ぐなんてあり得ないだろうと思う自分もいた。しかし、反面では、もしかしたら「そんな自分を面白がってくれるひともいるかもしれない」と思う自分もいた。頭ではいろいろなことを考えるけれど、そもそもで腹が「このままだと死ぬぞ!」と満身創痍のボロボロで訴えているものだから、私は「ええい!ままよ!【後は野となれ山となれ〜!】」と、両耳を塞いだ。

イベント終了後、ひとりの女性が「坂爪さん、あの時、耳を塞いでいましたよね」と話しかけてきた。私は「ああぁ!やっぱりバレてた!」と思って狼狽したが、その女性は「坂爪さんの正直なリアクションを見ていることが、一番面白かったです」と言ってくれた。この瞬間、私は、許されていると思った。両耳を塞ぐなんてあり得ないと思っていたけれど、両耳を塞ぐことを良しとしてくれるひとがいる、そのことが私に「両耳を塞いでもいいんだ!」という、大きなひとつの許しを与えてくれた。

両耳を塞いでもいいのだ。

いや、多分、ほんとうはダメなんだと思う。だけど、無理なものは無理なのだ、こればっかりはもう仕方がないのだ。苦手なひとの前では、耳を塞ごう。目のマッサージをするふりをしながら、両指を器用に動かして両耳の穴に蓋をしよう。時には誰かに思い切り嫌われてしまうこともあるけれど、同時に、思い切り好きになってもらえることもある。全員に好かれることなんてできないけれど、このひとはちょっとキツイなあと思うひとに、無理して好かれる必要もない。

やはり、覚悟を決めている人間と一緒にいたいものだ。覚悟とは「ひとりでもいい」という覚悟と「死んでもいい」という覚悟の二種類があると思う。不思議なことに、ひとりでもいい(ひとりでも生きる)という覚悟が定まる程に、周囲に人間が集まってくる。死んでもいいという覚悟が定まらなければ、延命措置的なサムシングに固執をして、最悪の場合はゾンビになる。これら二つの覚悟が決まっているひとには、潔い、清々しい風が吹いている。


こんなことを書いておきながら、もうひとりの自分が「こんなことを書いたら、耳を塞いだ相手に悪いよなあ」と、ぷるぷる震えている。言い訳をすると、人間関係は良い悪いではなく、多分、合う合わないがあるだけだ。特定の人物や性質を否定したい訳ではなく、何よりも言いたいことは「耳を塞ぐという比較的極端なことをしたとしても、嫌われるひとには嫌われるが、許してくれるひとは許してくれる(面白がってもらえることもある)」ということです。

人生とは、自分を楽しませることである。

昨夜のトークテーマは「ほんとうの豊かさとは何か」というものだった。元も子もないことを言えば、私には豊かさなんてわからないし、比較的どうでもいいことだと思っている。自分のことを豊かな人間だとは思わないが、自分のことを貧しい人間だとも思わない。平均的な30代と比較をすれば貯蓄的な意味では底辺にいるが、経験値の幅的な意味では底辺を抜け出せるかもしれないし、結局、これらの評価はただの比較(相対的な価値)でしかない。

私の信条のひとつに「人生とは、自分を楽しませることである」というものがある。自分を楽しませることができていない時に、人間は苛立ち、他人と比較し、未来に不安を覚えたりする。苛立ちは憎しみや嫉妬を生み、比較は劣等感や欠落感を生み、不安は延命措置を生む。マイナスの解釈は、人間のチューニングを簡単に狂わせる。貧しいひととは、多分、ものを持っていないひとではなくて「どれだけ多くのものを持っていても、常に『まだ足りない』と思っているひと」のことだ。

自分を楽しませることに成功したとき、ひとは「豊かだとか、貧しいとか、他人の顔色だとか世間的な評価だとか、そんなことはどうでもいい!」という境地に到達する。目指すべくはこの境地であり、世間的な評価や相対的な価値観に振り回されてしまう位なら、古い自分を殺すこと。自意識が吹き飛ぶ程の現実の渦に自分を投げ出せば、意外と清々しい結果になることは多い。生きるか死ぬかの二択ではない、「生きて死ぬか【耳を塞いで死ぬか】」「生きずに死ぬか【耳を塞がずに死ぬか】」の二者択一が、真の男の日常だと思っている。


人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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天を相手にし、人を相手にするな。

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日本に戻り、急遽、新潟県佐渡ヶ島に来た。佐渡ヶ島では、嘉向徹と保科亮太の男性二人が「佐渡ヶ島をシェアヶ島に」を合言葉に、サードアイランドプロジェクトを進めている。実家や故郷がファーストアイランド、現在地や就職先がセカンドアイランドだとすれば、第三の居場所をサードアイランドと呼ぶことになる。


カーフェリーで片道2時間強、往復5000円弱

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新潟駅近くにある港から船に乗り、佐渡ヶ島に向かう。新潟県民でさえも、佐渡ヶ島には「修学旅行以来行ったことがない」というひとが大量にいる。佐渡ヶ島を車で一周するには、車でおよそ五時間から六時間(周囲262.7km)かかる、沖縄本島に次ぐ面積を持つ島になる。

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日本海は青く、深い。

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カモメが飛び交う。

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静かな海面を眺める。

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晴れた日には、空が綺麗だ。

佐渡ヶ島の風景

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暖流と寒流の接点にある佐渡ヶ島では、北海道と沖縄両地方特有の植物が同居する、非常に珍しい植生地域になっている。絶景を望めるリアス式海岸なども有する佐渡ヶ島は、現在、世界遺産登録に向けたPR活動もはじめている。

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水面に映る空が綺麗だ。

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いたるところに岩場がある。

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海と山と温泉と、雪景色もある。

サードアイランドとしての可能性

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嘉向徹と保科亮太の両氏が展開している拠点は、両津港から車で30分程度の場所にある「野浦」という地域にある。家の目の前には海が広がり、そこから朝焼けを拝むことができる。代々受け継がれてきた棚田があるが、後継者不足により維持することが難しくなっている。

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棚田の保全も兼ね、嘉向徹と保科亮太は地元のひとの協力を仰ぎ、若者に「農業や漁業の体験を通じて、島の生活を体験してもらう」活動をしている。宿泊費や体験費用などは不要で、彼らとのコンタクトを取ることにさえ成功すれば、誰でも気軽に佐渡ヶ島に足を運ぶことができる。

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天空の棚田。

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写真中央は、野浦のボス。

野浦のボスの尋常ならざる人間的魅力

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野浦のボスは半端ない。半農半Xというレベルではない。農家と漁師を兼業しながら、宮司や役所の仕事も行い、時には人形浄瑠璃の実演(日本国内にある能舞台の3分の1は佐渡に集中している)などといった伝統文化の継承もする。数年前、自分の力だけを頼りに小さな神社も建立した。佐渡ヶ島(とりわけ野浦地域)の食糧自給率は半端なく高い。ボス曰く「家族2〜3組くらいなら、食うものには困らない」とのこと。この言葉だけでも、最高のセフティネットになると思う。

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私は、(そこはかとなく長渕剛に似ている)ボスの人柄が大好きだ。米をつくれば家までつくる、海にはいれば魚も貝も海草も大量に捕獲してくるボスは、男から見ても確実に格好いい。そして、笑顔がデカい。締める所は締めるが、普段は柔和で(こんなことを言うのは失礼にあたるのかもしれないけれど)猛烈にお茶目でキュートだ。「俺は短命だ。俺は人生につかれたんだ」と笑いながら話すボスの笑顔は、デカい。

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水墨画のような風景が広がる。

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そんなボスの力にどうにかしてなれないものかと、昨夜、寝る前にいろいろと考えていた。過疎化による人手不足に悩む地域では、佐渡ヶ島に限らず、持て余している野菜や海鮮類を大量に廃棄している。現在の私は、熱海にひとつの拠点を持っている。来月からは「(誰でも自由に使える)家を拾うまで帰れま10」と題して、勝手に四国に足を運ぶ。私の中で、佐渡と熱海と四国の三箇所が、目には見えない点で結ばれるような感覚を覚えた。


佐渡ヶ島の夜と「役割の分担」

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夜には集落の人々が集うこともある。

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飯を食い、飲み、語り、踊る。

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多拠点生活のススメでも書いたが、移住という言葉には重さが宿る。農業や漁業のスキルを習得したいと思うひとはたくさんいると思うけれど、移住となると腰が重い。家事も育児も仕事にも同じことが言えると思うが、多分、同じ場所にずっといなければいけない(同じことをずっとやらなければいけない)ということがある種のプレッシャーにならないためにも、多拠点生活は有効になる。そのために、必要な考え方は「分担」になると思う。ひとりがひとつのことをやり続けるのではなく「役割を分担する【各自の力を持ち寄る】」という考え方が、これからの生き方の肝になる気がした。


多分、人間には役割がある。金を稼ぐのが得意なひともいれば、掃除をするのが得意なひと、料理が得意なひともいればひとを笑わせるのが得意なひと、本を読むのが得意(知識が豊富)なひともいれば、身体を張るのが得意なひと、ものをつくるのが得意なひとや、ネットサーフィンを駆使することが得意なひともいる。各自の「得意(出来ること)」を持ち寄れば、それはひとつの『家族(拡張家族)』を形成するのではないだろうか。

いま、ひとりひとりの生活を圧迫しているものがあるとすれば、それは「何もかもを自分ひとりの力だけでやらなければいけない」という過度のプレッシャーだと思う。何もかも自分の力でできて一人前で、他人に頼るのは半人前という考え方が基盤にある。しかし、ほんとうにそうだろうか。家事も、育児も、農業も漁業もサービス業も、あらゆる経済活動や人間的な営みは「奪い合えば足りず、分け合えば余る【自力を要すれば足りず、他力を要すれば余る】」ものではないだろうか。ひとりの人間に過度に集中している役割を、いま、各自に分担することはできないものだろうか。

一生懸命に生きた記憶が思い出になる。

嘉向徹と保科亮太がボスから恩恵を受けているように、私も、熱海の生活では心から愛するムラキテルミさんの恩恵を非常に強く受けている。私が魅力的だと感じる人間は、問題を抱えていない人間のことではなく、どれだけ多くの問題を抱えていたとしても「明るく朗らかで、悲愴感や愚痴っぽい恨めしさがない」前を向いている(前を向こうとしている)ひとのことだ。無様でも、不器用でも、一生懸命に生きようとしている人間の姿勢だ。


内村鑑三の著作「代表的日本人」では、五人の著名な日本人が紹介されている。その中のひとりである西郷隆盛が残した言葉が、強く印象に残っている。そこには「天を相手にし、人を相手にするな。何事も天のために行え。他人を責めず、自分の誠の足らないところを探せ」とある。横につながりを求めるから、惨めになったりさみしくなったり周囲の誰かに嫉妬の感情を抱いたり、自分の気持ちを他人に理解してもらいたくなったりする。しかし、ほんとうの繋がりは横【人間関係】ではなく「縦【天と地】」の中に、既に備わっているものなのかもしれない。

昨年、数年振りに降り立った佐渡ヶ島に着いた時、私は「この島は人間には見限られているかもしれないが、神には見限られてはいない」という感覚を覚えた。生きていれば、いろいろなことがある。禍福は糾える縄の如しではないけれど、いいこともあれば、悪いこともある。その中で、最後の最後に残る自由「どのような態度を選択するのか」だけは、常にひとりひとりの掌中にある。多分、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。私はそのように思っている。一生懸命に生きるということは、他人の顔色や世間的な評価を気にすることではなく、どれだけ周囲の人間から馬鹿にされたとしても、天に恥じない生き方をするということだ。


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人生は続く。

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古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ。

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Wi-Fiがあるとネットサーフィンばかりをしてしまう。海外まで来て、何もせず、何処にも行かず、ひたすらキャンプ道具にまつわるWEBサイトを眺めている。「ノルディスクのティピーテントで眠りたい」だの「ペトロマックスのランタンに照らされたい」だの「ロッキングチェアで揺られたい」だの、私は何をやっているのだろうか。このままではいけない。こんな自分は殺さないといけない。




本編135分頃からはじまる『死生観』が気持ちよかった。私は「死んでもいい」という言葉が好きだ。普通なら、誰だって死にたくはないと思うはずだ。それなのに、死んでもいいというこの言葉には「死ぬことさえも肯定している(!)」得体の知れない器がある。そして、最近の私は「古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ」と感じている。

生きても死んでも丸儲け。

昔は、死にたくないと思っていた。死んでしまったら何もかもおしまい、だからこそ、生きている時間を大切にしなければいけないという風に思っていた。しかし、なう、自分の死生観はちょっとばかり変わってきている。誤解を恐れずに言うと、死んでみるのも悪くないと思っている。死んだらどうなるのかということは、当たり前のことだけれど誰にもわからない。もしかしたら「とてつもなく気持ちのいい世界に行く」かもしれないし、あるいは、まったくの『無(ゼロ)』になるのかもしれない。

闘病中のガン患者は、死の間際、最高の笑顔を浮かべることがあるらしい。その笑顔は「これでやっと死ねる(苦しまないで済む)」という解放感なのか、あるいは、目の前に迫る甘き死の中に「安らぎ」を覚えたからなのか、それは本人にしかわからない。死ぬということは、悲しいだけのことなのだろうか。逆に、永遠に生きることができるという方が、私にとっては恐怖になる。喜びも悲しみも永遠には続かない、すべての瞬間に終わりがあるということが、ある種の「安らぎ」になる。

巷には「別に死ぬ訳じゃない」とか「生きているだけでいい」とか、死をネガティブなものとして捉えている言葉が大量にある。生きることはこれだけ肯定できるのに、死ぬことになると途端に肯定できなくなる(タブー扱いされてしまう)のはなぜだろうか。実は、死ぬこと以外はかすり傷ではなく「死ぬことさえもかすり傷」であり、生きているだけで丸儲けではなく「生きても死んでも丸儲け」なのではないだろうか。ひとは必ず死ぬのだから、死を否定的に捉える必要はないのではないだろうか。

水も飲めなくなったら、死ね。

先日、北海道で出会った女性の話がある。彼女は、数年前、長年勤めた介護職の仕事を辞めた。そのことを父親に話すと、父親は「お前は、なんで介護の学校にはいったんだ」と娘に尋ねた。娘は「介護の仕事なら、食いっぱぐれることもないと思って」と答えた。それに対する父親の以下の返事に、彼女は、まるで稲妻に打たれたような衝撃を覚えた。そして、父親の強い愛を感じたのだと話してくれた。

自分の好きなことをやりなさい。それで食えなくなったら、水を飲みなさい。水も飲めなくなったら、死になさい。

この言葉の懐の広さがわかるだろうか。私は、感動してしまった。普通、親はこどもに「生きているだけでいい」みたいなことを簡単に言う。現実に悩みを抱えているこども側からして見ると、生きているというまさにそのことが苦しいのに、それでも「生きろ」と言われてしまうと、これからも苦痛に耐えなければいけないのかというプレッシャーを受け取る(生きることが苦痛になる)。そして、人間は天邪鬼なものだ。死んでもいいと言われた時、逆に、不思議なことに「生きよう」と思う場合もある。


死ぬ前に、死ね。

極論、生きている間に「何回死んで、何回生まれ変われるか」ということの中に、人間として生まれてきたことの醍醐味はあるのだと思っている。古い自分には一回死んでもらわないと、次にはいけないのだという感覚を抱いたことがあるひとは、多分、自分ひとりではないはずだ。もちろん、何かに飛び込む直前には「もしかしたら自分はダメになってしまうんじゃないだろうか」という恐怖もある。

私は、過去に「傷つく前に傷つくな」という言葉を吐いた。これは「傷つくことを恐れるあまり、恐怖心によって(何も起こらないうちから)自分で自分を傷つけてしまっている。傷つくのは実際に傷ついてからでも遅くはないのだから、傷つく前に傷つくな(自分で自分を傷つけるな)」という意味になる。これの進化版が「死ぬ前に、死ね」というものであり、人生とは、物理的に死ぬ前にどれだけ精神的に死ぬことができるのか(生まれ変わることができるのか)を経験するための、舞台なのだ。

きっと、うまくやろうとか考えてしまうから行動が鈍るのだ。成功するためではなく「よし、失敗してやろう。傷ついてやろう」と思って突撃すれば、意外と清々しい結果になることが多い。楽しさやうれしさの中だけではなく、悲しみや苦しみの中にもよろこびはある。大切なことは「成功すること(うまくやること)」なんかではなく、砕け散るとわかっていても「俺はやった」という自分自身に対する絶対的な手応えなのだと思う。

古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ。

自分を守ろうとするから弱くなる。くだらない見栄を張ろうとするから嘘が出る。たかがこんな自分はと、自分で自分を笑い飛ばすことができたなら、多分、恐れることなど何もない。真っ裸で生まれてきた人間は、どれだけ多くのものを集めたとしても、最後には再び真っ裸で死んでいく。天国に持っていくことができるものは「愛し愛された記憶」と「俺は生きた」のだという、自分自身と極少数の人間に対する絶対的な手応えだけだ。

今夜発の上海便を経由して関西空港に向かい、新潟と東京のイベントに出演してから熱海の家に戻る。帰宅以降は熱海の家を完全ノーガードで全開放にしつつ、生活必需品を除くあらゆる家具や食糧や日用雑貨は来客に譲り、来月4月9日(土)からは『家を拾うまで帰れま10@四国編』と題して、誰でも無料で使える空き家を獲得するまで四国に滞在し続けるつもりでいる。一度は死んだこの命、生かされているこの命、いつまでも熱海であぐらをかいている場合ではない。

自分をボロボロに使い果たして死にたい。この、どSなのかどMなのかよくわからない謎の感情が、自分の奥底に確実にある。自分が壊れてしまうような不安を覚えることもあるが、自身の経験則上、現実ではなく自分の想像力に殺されてしまっていることはよくある話だ。心配事の9割は起こらない。そして、たいていのトラブルは(その時になったら全力であたれば)意外と解決できる。クアラルンプールでご馳走していただいたインドカレーが美味しかった。生きていれば、また、インドカレーを食べることができる。


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人生は続く。

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生きるために一番大切なもの、それは金でも勇気でも名誉でもなければ特別な才能でもない、安心感だと思う。

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ミャンマーを経由してマレーシアの首都クアラルンプールに到着した。クアラルンプールの観光は、多分、一泊二日で満喫できる。昼間はイスラミックの美術館や近隣のモスクに足を運び、南香のチキンライスでも食べた後に、適当なカフェのテラス席でスイカジュースを飲みながら人間観察(おすすめはインド人!)を行い、夜はブキビンタンの夜市に赴き、東洋的混沌の中をマンゴスチンパッションフルーツなどの南国フルーツを食べ歩きながら、ペトロナスツインタワー近隣のレストラン(もちろんテラス席!)で酒やマレーシア料理を喰らう。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・誰かに何かを言われても、自分には「これが最高だ」と思える瞬間を大切にすること。


私は、過去に似たような失敗を何度も繰り返している。それは「退屈な大人と食べる高級なフランス料理より、気の知れた仲間と囲む安い鍋の方が圧倒的に美味い」ということで、結局、何をやるのか以上に「誰とやるか」が重要になるのだろう。同じように、自分のことを悪く言う人の言葉に惑わされて、自分の進む道を諦める必要もない。自分が嫌いなもののためにではなく、自分が好きなもののために使ってこその命だ。

2・可愛げのある人間には敵わない。


何度でも刻みたい。その通りである。

3・多分、怒りや悲しみといった感情の根底には「自分自身に対する無力感」がある。


誰かの弱さや誤ちを指摘することで、自分の強さを示そうとするひとがいる。しかし、私は「それはダサいんじゃないかな」と思う。多分、怒りや悲しみといった感情の根底には「自分自身に対する無力感」がある。怒りに満ち溢れているひとは、周囲に対して怒りをぶちまけているようで、その実は自分自身に対する無力感が爆発しているだけだ。怒りは、自分の器を露呈する。ミャンマーでは「怒ることは恥」なのだと聞いた。なるべく怒らずに済む方法を「智慧」と呼ぶのだろう。

4・あんまり先のことを考え過ぎてはいけない。


あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。そう遠くない昔、江戸時代と呼ばれている時代には「宵越しの金は持たない」などという言葉に代表されるように、その日暮らしを肯定するような雰囲気が流れていた。常識と呼ばれるものは、絶対的に普遍的なものではなく「その時代には都合の良い考え方」程度のものでしかないのだ。


必要なのは、適応よりも開墾なのではないだろうか。日本に常識があるように、クアラルンプールにはクアラルンプールの常識があり、北欧には北欧の、南米には南米の常識がある(火星には火星の常識があるのかもしれない)。常識とは、絶対的に従う必要のあるものではなく、自分で選択をすることもできる(場合によっては開墾も出来る)柔軟なものだ。


5・自分を責めてはいけないのだ。


その通りである。

6・自分が投げたものが返ってくる。


街中を歩くひとびと、何気無く発する自分の一言、売店などで交わすコミュニケーションのひとつに笑顔を織り交ぜるだけで、相手も笑顔を返してくれる。自分が不機嫌にしていれば、相手も不機嫌を返してくる。希望の種を撒けば希望の実がなり、不安や猜疑心の種を撒けば、不安や猜疑心の花が咲く。この世の中は、多分、自分が投げたものが返ってくるように作られている。ほんとうの意味での「見返り」は、相手の反応の中ではなく、自分の行為の中にある。

7・わからないことが「生きることの醍醐味」になる。


「そんなんで生きていけるはずがない!」と、いままで何回言われただろうか。その度に「そんなんで生きてきてしまっているのだが!」と、何回腹の内で思ったことだろうか。もちろん、これからもこんなんで生きていけるのかなんて、わからない。しかし「これからどうなるのかはわからない」ということは、会社員にとっても、主婦にとっても、高校生にとっても、誰にとっても同じことだ。わからないということは、フェアでいいねえと思う。一年前の自分が現在の自分の姿を想像できなかったように、時にはわからないことが不安にもなるが、根本的には「生きることの醍醐味」になる。

8・多分、幸せとは「なる」ものではなく「ある」ものだ。


その通りである。

9・生きるために一番大切なもの。


先日、SNSの投稿で「ドローンと一緒に世界一周したひと」の作品を目にした。半端ないクオリティの高さに、私は、無一物で日々を過ごしている自分自身に若干の恥じらいを感じた。自分も何かお洒落なことをしなければいけない、みたいな気持ちになってゴープロやらモバイルハウスやらグランピングやら、何かしら新しい道具を新調できないものかと考えた結果、やっぱり、そういう思考を持つことはやめた。

10・ただ「生きている」というそのことが、誰かの力になることもあるんだ。



引き算の美学である。何も持たない、何かをプラスするのではなく「限界まで自分を削ぎ落とす」ことの中には、誰かと争う必要もない、自分の正当性を主張したり、余計な見栄を張る必要もない平和な世界が広がっている。私には引き算の美学しかないのだ。「私には引き算の美学しかない」と思うことで、楽な気持ちになることができる。何かに追い立てられるようにやることよりも、楽な気持ちになれることの中に、私はある種の「安らぎ」を覚える。

前回の記事を投稿した後に、バンコク在住の女性から非常に素晴らしい一通のメールが届いた(記事の最後に転載します)。あまりにも微笑まし過ぎる母子のやりとりに、そして、エッジの効きまくっている中学一年生の男の子(彼は将来大物になるでしょう!)のレスポンスに、見ているこちらまで「今日はこんなに素晴らしいメールを読めたから、あとはもう何もなくていいや」的な嬉しさが湧き出して来た。


自分みたいな人間が同じ時代に生きているということが、生きていけるということが、それを見るひとにとってある種の安心感を与えることができるような、そういう生き方を続けていきたいのだと思った。特別な何かをする訳ではなく、ただ「生きている」というそのことが、誰かの力になることもある。何もかも失った時に残るもの、それは人間の生命だ。最後の最後まで、息の音が止まる瞬間が来るまで躍動を止めることなく刻み続ける、生命のリズムだ。

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坂爪さん

お久しぶりです!
バンコクの⚪︎⚪︎です。

さて、今日は坂爪さんにご報告したいことがあって、忘れないうちニーーーー!!!とメーラーを立ち上げております。

うちの中学1年生の息子の話です。

今朝(ついさっきです)、今日バンコクで行なわれる、「アジアで起業して活躍している方の講演会」に一緒に行かないか?と誘いました。

母親としては、「素敵な大人」に会わせて、話を聞かせたいという魂胆がありました。

そしたらですね

息子「もう、そういう成功した人の話は学校で嫌っていうほど聞かされているから、もう聞きたくないんだよ!!おまけにさ、みんないつも同じ話ばっかりだしさーーーー!!!(怒)」と。

私「え?どんなところが一緒なの?」

息子「だいたいみんなさぁ、周りの人と協力してとか言ってさー」

「前にさ、会ったじゃん、ママの知り合いの人さ(これ坂爪さんの事です)、あの人みたいにさ、仕事じゃない人の話がオレは聞きたいんだ。」

私「なんで??」

息子「お金じゃなくて人のためにやってる人とそうでない人とはさ、成長のスピードや到達点が違うんだよ」

「あの人(坂爪さん)みたいに、自分で世界をいろいろ見ている人の話をオレは聞きたいんだ」

・・・と。

朝からかなりの衝撃でした!

大人としては、突っ込みたい部分もありましたが、ちょっと感動した私がいました。

えーっと、文才がないのでホントうまく伝えられないのが歯がゆいんですが、私の誘った講演会に二つ返事でOKしてくれるより、嬉しかったなぁと今じわじわと感じています。

ちなみに、私は小さい人間なので、断られても「聞いてみないとわかんないんだから、一緒に行こうよ」とか、
「じゃ漫画買ってあげるから一緒に行こ!」とかしつこく誘いました(笑)

そしたらね
「オレはモノでつられるのはいやなんだよ!!」って言われちゃいました(笑)あはは、そうですよね(笑)ということで、退散いたしました(笑)

実は今日、息子13歳の誕生日なのです。
なんか感慨深かったです。
彼に出会えた事を改めて感謝した出来事でした。

・・・と、長くなりましたが(汗)
お伝えしたかったのは

「坂爪さん、息子に出会ってくれてありがとうございました!!
また息子と娘を連れて会いに行きます!!」

ということです。(笑)

そんなことを書きかけて今日のブログを見たら、シンクロでビックリ。

《こういう生き方もありなのだという、自分の存在が歴史的なひとつの僅かなサンプルになるような、そういう生き方をしたいと思っている。》

はい。
間違いなく息子のサンプルになっております。

最後まで読んでくださりありがとうございます!!

まだもう少し海外ですね!

素敵な時間になりますように!!

またお会いできる日を楽しみにしております!


⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ひとつの大きな命を生きている。

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ヤンゴンにある黄金の仏塔「シュエダゴン・パゴダ」に来た。人口に対する僧侶の数が世界一でお馴染みのミャンマーでは、現地の人懐っこい男性曰く「この国には三百万人ものお坊さんがいるんだ。彼らは、朝は寺の仕事をして、昼は別々の仕事に戻るハイブリッドな生き方をしているんだよ」と教えてくれた。毎朝、澄み渡った寺の空気と共に一日をはじめることができたなら、さぞ、幸福だろう。私は、このような生き方を『半坊半X』と名付けた。

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仏陀の表情が麗しい。

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国によって、仏様の表情は絶妙に異なる。タイの仏像には爆笑しているものもあるし、バリの仏像は「バリ!」と言った感じだし(適当)、多分、南に行くほどに親しみやすさが醸成されている。おそらく、そこら辺に木の実やバナナが成っているから「なんとかなるさ」のマインドが根底にあるのだろう。逆に、北に行くほどに人々や仏様の表情は険しくなる。厳しい冬の寒さの中では「なんとかなるさ」のままでは凍死する。南の国に流れる適当な雰囲気は快適で、聖域と言われる場所で普通にピクニックを楽しむグループや、寝たり、騒いだり、仏様の前で勝手に商売をはじめている人達が大量にいる。

ミャンマーの車窓から。

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ヤンゴン市街地には、東京の山手線のような環状線が走っている。一周するための所用時間は約三時間、乗り降り自由の切符を購買しても日本円で20円程度のものになる。電車には「JR」と書かれていた。日本から寄贈されたものなのかもしれない。現地のひとも、ボケーっとするために電車に乗ったりするのだという。電車の中では、東南アジア特有の混沌(軽いカオス)を楽しむことができる。

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ヤンゴンにはこどもが多い。

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車内でものを売るひとびと。

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それを見て育つこども。

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車窓から。

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車窓から。

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車窓から。

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車窓から。

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外を見るひと。

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大好きな一枚。皆、電車が大好き。

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突如、車内縁日がはじまる。

毎日が出発で、毎日がゴールだ。

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屋台料理は100円程度。

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幸福のバナナシェイクも100円程度。

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この日の気温は39度。

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屋台が軒を連ねている。

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夜市は活気に溢れている。


毎日が出発で、毎日がゴールだ。画一的な日々を過ごしていると、どうしても、生きているということそのものが『旅』であるということを忘れてしまう。車が走っているということ、風が吹いているということ、花が咲くということ、太陽が登るということ、自分は地球に暮らしているということ、そして、この瞬間も宇宙の真っ只中で浮かんでいるのだということ、生きているということ、当たり前に見えることのすべてが、本当は、とんでもない奇跡の上に成立しているということを忘れてしまう。

世界を変えるのではなく、世界を増やす。


前回の記事で「自殺者が三万人いて、三組に一組は離婚をして、過労や精神疾患でボロボロのひとが大量にいる社会は『まとも』と言えるだろうか」的な投稿をした。海外に足を運ぶと「いまいる場所が世界のすべてではない」ということを実感する。乱暴に言い換えると、いまいる場所がもしも気に入らないのだとしたら、自分から新しい場所に行くことも出来るし、いまいる場所に新しい要素を加えることもできる。普段、日常的に過ごしている場所から一時的に離れることで、客観的に物事を捉えられるようになり、執着や思い込みから距離を置くことができる。


大事なことは「世界を変えるのではなく、世界を増やす」という思考だと思う。革命とか、戦いとか、破壊と再生とか、言葉だけを見ると何か格好良いドラマチックな響きを帯びるが、自分以外の何かを変えようとすることは、自分の以外の何かを否定することに繋がる。周りはどうあれ自分だけは、自分が「これだ!」と思うことを続けることで、世界は増える。否定は憎しみと争いを生む。そして、最悪の場合は『戦争』を生む。戦争は、悪意と悪意のぶつかり合いだけではなく、正義と正義のぶつかり合いからも発生する。本当の意味で変化を求めている対象は、常に、他人でもなければ世の中でもない『自分自身』になる。

ひとつの大きな命を生きている。


マヤ語の挨拶には『あなたはもうひとりの私です』という意味合いが含まれている。ひとりひとりが個別に分断された命を生きているのではなく、ひとつの大きな命を全員で生きているのだというニュアンスがある。私は、この考え方が好きだ。この世の中は、多分、自分が投げたものが返ってくるように作られている。相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心も同時に傷つけている。目の前にいる人を愛するようにつとめることは、そのまま自分を愛することにもなる。そこに境界線はなく、命はつながっている。


ひとりの人間の悲しみは、また別の人間の悲しみになる。ひとりの人間の憎しみは、また別の人間の憎しみを生む。ひとりの人間が新しい希望を胸に抱きはじめたとき、また別の人間が同じ時代を生きる力になる。感情は連鎖する。つながりを断ち切ることはできない。自分たちに出来ることは、どのような感情を連鎖させていきたいと思うのか、自分がフォーカスをしていたい感情を『選択する』ということだけだ。そして、その点において自分たちは『自由(常に自分の感情を選択する自由がある)』なのだということを思う。

いま、世の中は不安や恐怖をベースに展開している。ああなりたくないとか、こうなりたくないとか、人々の中にある不安や恐怖心を煽っては、そうならないためのインスタントな処方箋が溢れている。しかし、私は、生きるためのベースを「よろこび」や「生命力の躍動」に置いていたい。不安や猜疑心で人間が分断される世の中より、ひとつの大きな命を生きているのだという連帯を大切にしたい。そして、こういう生き方もありなのだという、自分の存在が歴史的なひとつの僅かなサンプルになるような、そういう生き方をしたいと思っている。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

※※※ 「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征のためしばらくお休みになります ※※※

常識に縛られるほどに苦しくなる。

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私は、自分自身を「好きに使ってくれ」とオープンにしています。理由は単純で「時間がある(拒否権もある)」からです。先日、大阪在住のマシュマロ友達から「交通費を出すので一緒にクアラルンプールとミャンマーに行きましょう!!」という連絡をいただき、本日、ミャンマーヤンゴンに到着した。現在は、ヤンゴン市街地にある宿のWi-Fiを使用してこのブログ記事を更新している。現地の気温は35度程度で、完全に夏だ。暑い国のテラス席でバナナシェイクを飲むだけで、私は「ゴールしている」という気持ちになる。

私がミャンマーに足を運ぶことが決まった直後、ミャンマー在住の日本人女性から「良かったら会いましょう!」という連絡が届いた。空港までわざわざお迎えに来ていただき(ミャンマー初心者には心強い)、空港のカフェで食事をご馳走していただいた後に、あろうことか、市街地に向かうタクシー代も負担してくれた。言葉にすると爆裂陳腐になるけれど、マシュマロのように優しい雰囲気の女性で、一緒に過ごした時間は柔らかな多幸感に溢れていた。

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幸福はたたみかける。女性が、別れ際「これがあった方が便利だと思うので」ということで、現地で使えるWi-Fiを与えてくれた。ミャンマーを離れる際、ヤンゴン空港にある返却場所にそのまま戻してもらえたらそれでいいとのことで、なんなんだこれは、この配慮や痒い所に手が届く優しさの正体はなんなのかと、私は驚きに打ち震えた。いい人ばかりではないけれど、悪いひとばかりでもない。やさしいひとはいる。やさしいひとはいるのだ。このことが、この事実が、どれだけ「人生は生きるに値する」ということを信じる根拠になることか、と、私は大袈裟に感動をした。

自力か、他力か。

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昨夜、私は自身のFacebookから下記のような投稿をした。

大阪在住の女性から「交通費を出すので一緒にクアラルンプールとミャンマーに行きましょう!!」という連絡をいただき、先程、クアラルンプール空港に到着しました。翌朝の便が早いために、今夜は空港で眠ります。隣で眠るインド人のイヤホンからは、どうしてなのでしょうか「踊るポンポコリン」が聞こえています。


私は、自分自身を「好きに使ってくれ」とオープンにしています。理由は単純で「時間がある(拒否権もある)」からです。昔は、お金がなければ海外になんて行けない(お金がなければ生きていけない)と思っていましたが、二年前に家を失い、金を失い、仕事を失ってからの方が「面白い目にあえている(海外にも頻繁に行くようになった)」という事実に、不思議な驚きを覚えています。自分の力だけで海外に行こうと思ったら、多分、三ヶ月は必死に働いてお金を貯めないといけない。しかし、自力ではなく他力が見事にはまった場合、毎月海外に行くこともできる。ただ、自分で行きたい場所を選ぶことはできない。自分で選ぶことはできないけれど、その分、日々の予測不可能性は飛躍的に上がる。


関西空港に行く前に立ち寄った大阪の難波では、様々な人のご好意を授かり、スイスホテルでは高級なティーを、昼には極上のお好み焼きをご馳走していただきました。人生の豊かさとは何だろうか。豊かさとは、多くのものを持っているということなのでしょうか。貧しさとは「ものを持っていない」ということなのでしょうか。もっと言えば、私は貧しい人間なのだろうか。それとも、豊かな人間なのだろうか。ひとつだけ言えることは、どれだけ多くのものを持っていたとしても「まだ足りない」と思っている限り、多分、それは貧しい人なのだと思う。人生の豊かさとは何なのでしょうか。空港の仮眠スペースで踊るポンポコリンを聞きながら、そんなことを考えています。


関西空港からクアラルンプールに向かう途中に立ち寄った大阪の難波では、およそ10名の人達と交流を交わした。スイスホテルで高級なティーをご馳走してくださる方や、極上のお好み焼きをご馳走してくださるマシュマロのように優しい方、旅のお供にと本を与えてくれた方や、帰り際に「何かをお渡しできたらとは思っていたのですが、荷物になると悪いかなと思って」と、お布施を与えてくださる方まで登場した(ありがとうございます!!)。 

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胃腸薬まで頂戴をした。私は、ただただ「ありがとうございます!」を連呼していた。クアラルンプール空港の仮眠スペースで横になりながら、私は、日本を離れる前日に、横浜中華街でMAYUCHAPAWONCA(旧・いばや共同代表)と配信をしたツイキャスの内容に思いを馳せていた。内容を一言で要約すると「溜め込む奴は狙われる」というものになる。自分をオープンにしている限り人間は死なないというのはここ数年の私の信条であるけれど、逆に、自分を閉ざした場合には『死のリスク』が発生する。


溜め込む奴は狙われる。

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MAYUの実家は新潟の農家で、家には鍵をかけていない。そのため、玄関には常に近所のひとが大根などの野菜を置いて帰っていく。ある日、MAYUの近所に防犯も完璧な新築の家が建った。しかし、そこに泥棒がはいった。新築の家主は、更に頑丈な鍵を用意した。しかし、またしても泥棒がはいった。新築の家主は、今度はホームセキュリティを導入した。しかし、またしても泥棒がはいった。それを聞いたMAYUの祖父は「鍵なんてかけるすけ物が盗られるんだて(新潟弁)」と言った。

私は、いま、様々な空港のセキュリティチェックを終えて東南アジアの市街地にいる。空港のセキュリティは年々厳しくなっており、それでいて、世界的な犯罪率が低下している訳ではない。誤解を恐れずに言えば、セキュリティを厳しくするほどに、凶悪な犯罪は増えるような気がしている。無防備なMAYUの実家には泥棒なんてはいったこともなければ、時には近所からの差し入れが置かれていくように、いま、問題なことは「ひとりひとりが不安や猜疑心によって分断されてしまって、クローズドになってしまっている」ことなのではないだろうか、ということを思った。

ミャンマーのひとたちは、ボディがガラ空きだ。仕事中に平気で眠っている店員を頻繁に目にするし、客が来ても会話がキャントストップな店員や、絶対にスマホを離さないマシュマロのような店員もたくさんいる。私は、このような雰囲気に包まれると「とてもいいなあ」と感じる。万引きをしようと思えば、多分、いくらでもすることは出来るのだと思う。しかし、誰もそんなことはしないし、されたとしても「別に気にしない」という雰囲気がある。

常識に縛られるほどに苦しくなる。

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社会不適合という言葉がある。自分自身を「俺は社会不適合なダメな人間だ」と思っているひとたちも、多分、たくさんいる。しかし、自殺者が三万人いて、三組に一組は離婚をして、過労や精神疾患でボロボロになっている人達が大量にいる世の中を「まとも」と言えるだろうか。決して幸せそうでもなければ、不幸そうにも見える訳でもない、時折極上のスマイルを浮かべながら『ありのまま』で生きているヤンゴンの人達を眺めていると、いろいろなことがわからなくなる。

人生の豊かさとは何だろうか。豊かさとは、多くのものを持っているということなのだろうか。貧しさとは「ものを持っていない」ということなのだろうか。もっと言えば、私は貧しい人間なのだろうか。それとも、豊かな人間なのだろうか。ひとつだけ言えることは、どれだけ多くのものを持っていたとしても「まだ足りない」と思っている限り、多分、それは貧しい人なのだと思う。

現在の社会のまま、このままで生きていきたいと思うだろうか。それとも、変えられるものなら変えて行きたいと思うだろうか。私は、長年「そんなんじゃ生きていけないよ(お前みたいな人間ばかりでは社会がまわらないよ))」という類の説教を頻繁に受けてきた。そして、その度に「そこまでして(自分を殺してまで)生きていたいとは思わない」と思っていた。そして、親や教師や周囲の大人たちには、そのように実際に口に出してはボコボコにされて来た。そしていま、これからも「ボコボコにされていきたい」という反骨精神をこの胸に抱きながら、バナナシェイクのお代わりを貰いに行く。


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人生は続く。

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自分を責めてはいけないのだと思う。生きているだけで、充分、頑張っている。

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3月5日(土・啓蟄の日)に『第3回!わたり食堂』を開催した。二十四節気のひとつである啓蟄とは「冬ごもりをしていた虫が穴から出てくること(はじまりの時期)」であり、わたり食堂とは「誰でも0円で食事やドリンクや各種サービスを無料で楽しむことができる、フリーミールの飲食店」というコンセプトの活動です。

【イベント】第3回!わたり食堂

参考にしている考え方は「サービスを受ける側(料理を食べる側)がお金を払ってしまうと循環が起こらない。それでは、サービスを受ける側は永遠に無料で、サービスを与える側が『自腹を切ってでも与える側にまわれる環境(お金を払ってでもやりたい仕事)』があったらどうなるのだろう???」というものになります。


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前回のわたり食堂に参加してくれた女性から「当日は参加できないのですが、わたり食堂で使ってください!」と、高級なホットプレートが驚いたことに二台も届いた。実際にこの場所に足を運んでくれた方々が、これがあったらいい、あれがあったらいいと思うものを、私達のもとに届けてくれる。この家だけではない、私の暮らし全体が「善意のかたまり」によって支えられている。

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カツオのたたきを持参してくれた方や、

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即座に花見が出来そうな手作りの料理や、

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熊本県からは、高価なたまごも大量に届いた。

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他にも、ここでは紹介しきれないほどの様々な「善意のかたまり」が降り注いだ。半端ない大きさの鍋で大量の味噌汁を提供してくれたお坊さん、30合(!)もの持参した米を無限に炊き出し続けてくれた男性、尋常ではない美味さを誇る珈琲を淹れ続けてくれた女性や、無料でマッサージをやり続けてくれた女性など、様々な方々の様々な善意によって、あっという間にわたり食堂の場は満杯になった。

せめてもの恩返し(?)として、先日、ある方からいただいた玄米を『フリーライス』と称して、参加者の皆様に無料で好きなだけ持って帰ってもらった。大学生の若い男の子達に向かって、母親くらいの年齢の方々が「あなたたちはいっぱい持って帰りなさい!」と、勝手に(?)袋に米を詰めてはわたしていた。非常にほほえましい光景で、皆、根本的には「ひとに優しい」生き物なのだと思った。

いろいろなものが循環をしていけばいいと思う。恩返しよりも、多分、大切なことは「恩送り」の考え方になるのだろう。この場所で受けた無料のサービスに対する感謝や感動は、それを提供してくれたひとにではなく、どこか別の場所で、また別の何かを必要としているひとたちに、自分がもらった恩をまわしていく。必要なことは「自分が大切にしてもらえたように、他の誰かを大切にする」気持ちだ。

「愛する」ということ。

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わたり食堂の終了後、宿泊を予定していた3名の女性と一緒に、夜遅くまで話をした。話題は「愛するということ」というようなものになり、ひとりの女性が「最近は、恋愛についてよくわからなくなっている」ということを話してくれた。女性は「私は、自分が大好きなひとには『そのひとが幸せでいてくれたらそれでいい』と思っています」と話してくれて、私は、この気持ちが本当に良くわかった。

愛情と執着の違いについて、多分、愛情とは「自分を使って相手を幸せにすること」であるならば、執着とは「相手を使って自分を幸せにすること」だ。愛するひと同士は、常に一緒にいる必要はないのだと思う。愛情の9割は執着で、きっと、ほんとうの愛は『自分ひとりでも生きていけるようにすること(自分には力があるのだということを思い出すこと)』だと、私は、思う。

これは本当に大切なことだと思うのだけれど、自分が大好きなあのひとは、自分を幸せにすることはできない。自分が大嫌いなあのひとは、自分を不幸にすることはできない。「あなたなしでは生きていけない」というのは、愛情ではなく依存になる。好きなひとと一緒にいるときは幸せだけれど、離れているときは幸せではないというのは、多分、執着だ。自分を幸せにするのは自分だけで、自分ひとりでも幸せでいられる人間同士が、きっと、最高のパートナーシップを築くのだと思う。

元気のない時も、元気のないままで生きる姿勢が、自分の中心を生きる芯になる。

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生きていれば、調子の良いときもあれば、調子の悪いときもある。不安になるのも当たり前で、さみしくなるのも当たり前だ。それを「自分のこころが弱いからだ」と見なしてしまって、自分の感情を否定したり、無理をしてまで明るく振る舞うと、自分の肉体と精神を壊してしまう。元気なときに「この調子で行こう!」と思うことは簡単だけれど、元気のないときに、元気のないままで「この調子で行こう!」と生きる姿勢が、多分、自分の中心を生きる芯になる。

きっと、人間は「愛されたいと思うとき」以上に「愛しているとき(何かを愛する自分の心に気付いたとき)」に、自分の本領が発揮される生き物だと思う。自分がされたこと以上に、自分にも何かをすることが出来た(自分にも力があるのだということを思い出せた)瞬間に、強い充足感やよろこびを覚える生き物だと思う。讃えられることよりも、ひとや、自然を、讃えることの中に静かなやすらぎを見出す生き物だと思う。

大切なことは『自分に足りないもの』ではなく『自分にすでに備わっているもの(自分に出来ること)』だ。特別な何かを成し遂げようとはしなくても、特別な人間になろうとはしなくても、自分のこころが「いいな」と思う瞬間を積み重ねた先に、多分、特別な人生はある。さみしくなることがあったとしても、不安になることがあったとしても、目の前にある何かがうまくいかなかったとしても、絶対に、自分を責めてはいけないのだ。


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人生は続く。

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