いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ひとつの大きな命を生きている。

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ヤンゴンにある黄金の仏塔「シュエダゴン・パゴダ」に来た。人口に対する僧侶の数が世界一でお馴染みのミャンマーでは、現地の人懐っこい男性曰く「この国には三百万人ものお坊さんがいるんだ。彼らは、朝は寺の仕事をして、昼は別々の仕事に戻るハイブリッドな生き方をしているんだよ」と教えてくれた。毎朝、澄み渡った寺の空気と共に一日をはじめることができたなら、さぞ、幸福だろう。私は、このような生き方を『半坊半X』と名付けた。

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仏陀の表情が麗しい。

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国によって、仏様の表情は絶妙に異なる。タイの仏像には爆笑しているものもあるし、バリの仏像は「バリ!」と言った感じだし(適当)、多分、南に行くほどに親しみやすさが醸成されている。おそらく、そこら辺に木の実やバナナが成っているから「なんとかなるさ」のマインドが根底にあるのだろう。逆に、北に行くほどに人々や仏様の表情は険しくなる。厳しい冬の寒さの中では「なんとかなるさ」のままでは凍死する。南の国に流れる適当な雰囲気は快適で、聖域と言われる場所で普通にピクニックを楽しむグループや、寝たり、騒いだり、仏様の前で勝手に商売をはじめている人達が大量にいる。

ミャンマーの車窓から。

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ヤンゴン市街地には、東京の山手線のような環状線が走っている。一周するための所用時間は約三時間、乗り降り自由の切符を購買しても日本円で20円程度のものになる。電車には「JR」と書かれていた。日本から寄贈されたものなのかもしれない。現地のひとも、ボケーっとするために電車に乗ったりするのだという。電車の中では、東南アジア特有の混沌(軽いカオス)を楽しむことができる。

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ヤンゴンにはこどもが多い。

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車内でものを売るひとびと。

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それを見て育つこども。

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車窓から。

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車窓から。

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車窓から。

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車窓から。

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外を見るひと。

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大好きな一枚。皆、電車が大好き。

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突如、車内縁日がはじまる。

毎日が出発で、毎日がゴールだ。

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屋台料理は100円程度。

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幸福のバナナシェイクも100円程度。

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この日の気温は39度。

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屋台が軒を連ねている。

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夜市は活気に溢れている。


毎日が出発で、毎日がゴールだ。画一的な日々を過ごしていると、どうしても、生きているということそのものが『旅』であるということを忘れてしまう。車が走っているということ、風が吹いているということ、花が咲くということ、太陽が登るということ、自分は地球に暮らしているということ、そして、この瞬間も宇宙の真っ只中で浮かんでいるのだということ、生きているということ、当たり前に見えることのすべてが、本当は、とんでもない奇跡の上に成立しているということを忘れてしまう。

世界を変えるのではなく、世界を増やす。


前回の記事で「自殺者が三万人いて、三組に一組は離婚をして、過労や精神疾患でボロボロのひとが大量にいる社会は『まとも』と言えるだろうか」的な投稿をした。海外に足を運ぶと「いまいる場所が世界のすべてではない」ということを実感する。乱暴に言い換えると、いまいる場所がもしも気に入らないのだとしたら、自分から新しい場所に行くことも出来るし、いまいる場所に新しい要素を加えることもできる。普段、日常的に過ごしている場所から一時的に離れることで、客観的に物事を捉えられるようになり、執着や思い込みから距離を置くことができる。


大事なことは「世界を変えるのではなく、世界を増やす」という思考だと思う。革命とか、戦いとか、破壊と再生とか、言葉だけを見ると何か格好良いドラマチックな響きを帯びるが、自分以外の何かを変えようとすることは、自分の以外の何かを否定することに繋がる。周りはどうあれ自分だけは、自分が「これだ!」と思うことを続けることで、世界は増える。否定は憎しみと争いを生む。そして、最悪の場合は『戦争』を生む。戦争は、悪意と悪意のぶつかり合いだけではなく、正義と正義のぶつかり合いからも発生する。本当の意味で変化を求めている対象は、常に、他人でもなければ世の中でもない『自分自身』になる。

ひとつの大きな命を生きている。


マヤ語の挨拶には『あなたはもうひとりの私です』という意味合いが含まれている。ひとりひとりが個別に分断された命を生きているのではなく、ひとつの大きな命を全員で生きているのだというニュアンスがある。私は、この考え方が好きだ。この世の中は、多分、自分が投げたものが返ってくるように作られている。相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心も同時に傷つけている。目の前にいる人を愛するようにつとめることは、そのまま自分を愛することにもなる。そこに境界線はなく、命はつながっている。


ひとりの人間の悲しみは、また別の人間の悲しみになる。ひとりの人間の憎しみは、また別の人間の憎しみを生む。ひとりの人間が新しい希望を胸に抱きはじめたとき、また別の人間が同じ時代を生きる力になる。感情は連鎖する。つながりを断ち切ることはできない。自分たちに出来ることは、どのような感情を連鎖させていきたいと思うのか、自分がフォーカスをしていたい感情を『選択する』ということだけだ。そして、その点において自分たちは『自由(常に自分の感情を選択する自由がある)』なのだということを思う。

いま、世の中は不安や恐怖をベースに展開している。ああなりたくないとか、こうなりたくないとか、人々の中にある不安や恐怖心を煽っては、そうならないためのインスタントな処方箋が溢れている。しかし、私は、生きるためのベースを「よろこび」や「生命力の躍動」に置いていたい。不安や猜疑心で人間が分断される世の中より、ひとつの大きな命を生きているのだという連帯を大切にしたい。そして、こういう生き方もありなのだという、自分の存在が歴史的なひとつの僅かなサンプルになるような、そういう生き方をしたいと思っている。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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※※※ 「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征のためしばらくお休みになります ※※※