いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

常識に縛られるほどに苦しくなる。

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私は、自分自身を「好きに使ってくれ」とオープンにしています。理由は単純で「時間がある(拒否権もある)」からです。先日、大阪在住のマシュマロ友達から「交通費を出すので一緒にクアラルンプールとミャンマーに行きましょう!!」という連絡をいただき、本日、ミャンマーヤンゴンに到着した。現在は、ヤンゴン市街地にある宿のWi-Fiを使用してこのブログ記事を更新している。現地の気温は35度程度で、完全に夏だ。暑い国のテラス席でバナナシェイクを飲むだけで、私は「ゴールしている」という気持ちになる。

私がミャンマーに足を運ぶことが決まった直後、ミャンマー在住の日本人女性から「良かったら会いましょう!」という連絡が届いた。空港までわざわざお迎えに来ていただき(ミャンマー初心者には心強い)、空港のカフェで食事をご馳走していただいた後に、あろうことか、市街地に向かうタクシー代も負担してくれた。言葉にすると爆裂陳腐になるけれど、マシュマロのように優しい雰囲気の女性で、一緒に過ごした時間は柔らかな多幸感に溢れていた。

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幸福はたたみかける。女性が、別れ際「これがあった方が便利だと思うので」ということで、現地で使えるWi-Fiを与えてくれた。ミャンマーを離れる際、ヤンゴン空港にある返却場所にそのまま戻してもらえたらそれでいいとのことで、なんなんだこれは、この配慮や痒い所に手が届く優しさの正体はなんなのかと、私は驚きに打ち震えた。いい人ばかりではないけれど、悪いひとばかりでもない。やさしいひとはいる。やさしいひとはいるのだ。このことが、この事実が、どれだけ「人生は生きるに値する」ということを信じる根拠になることか、と、私は大袈裟に感動をした。

自力か、他力か。

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昨夜、私は自身のFacebookから下記のような投稿をした。

大阪在住の女性から「交通費を出すので一緒にクアラルンプールとミャンマーに行きましょう!!」という連絡をいただき、先程、クアラルンプール空港に到着しました。翌朝の便が早いために、今夜は空港で眠ります。隣で眠るインド人のイヤホンからは、どうしてなのでしょうか「踊るポンポコリン」が聞こえています。


私は、自分自身を「好きに使ってくれ」とオープンにしています。理由は単純で「時間がある(拒否権もある)」からです。昔は、お金がなければ海外になんて行けない(お金がなければ生きていけない)と思っていましたが、二年前に家を失い、金を失い、仕事を失ってからの方が「面白い目にあえている(海外にも頻繁に行くようになった)」という事実に、不思議な驚きを覚えています。自分の力だけで海外に行こうと思ったら、多分、三ヶ月は必死に働いてお金を貯めないといけない。しかし、自力ではなく他力が見事にはまった場合、毎月海外に行くこともできる。ただ、自分で行きたい場所を選ぶことはできない。自分で選ぶことはできないけれど、その分、日々の予測不可能性は飛躍的に上がる。


関西空港に行く前に立ち寄った大阪の難波では、様々な人のご好意を授かり、スイスホテルでは高級なティーを、昼には極上のお好み焼きをご馳走していただきました。人生の豊かさとは何だろうか。豊かさとは、多くのものを持っているということなのでしょうか。貧しさとは「ものを持っていない」ということなのでしょうか。もっと言えば、私は貧しい人間なのだろうか。それとも、豊かな人間なのだろうか。ひとつだけ言えることは、どれだけ多くのものを持っていたとしても「まだ足りない」と思っている限り、多分、それは貧しい人なのだと思う。人生の豊かさとは何なのでしょうか。空港の仮眠スペースで踊るポンポコリンを聞きながら、そんなことを考えています。


関西空港からクアラルンプールに向かう途中に立ち寄った大阪の難波では、およそ10名の人達と交流を交わした。スイスホテルで高級なティーをご馳走してくださる方や、極上のお好み焼きをご馳走してくださるマシュマロのように優しい方、旅のお供にと本を与えてくれた方や、帰り際に「何かをお渡しできたらとは思っていたのですが、荷物になると悪いかなと思って」と、お布施を与えてくださる方まで登場した(ありがとうございます!!)。 

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胃腸薬まで頂戴をした。私は、ただただ「ありがとうございます!」を連呼していた。クアラルンプール空港の仮眠スペースで横になりながら、私は、日本を離れる前日に、横浜中華街でMAYUCHAPAWONCA(旧・いばや共同代表)と配信をしたツイキャスの内容に思いを馳せていた。内容を一言で要約すると「溜め込む奴は狙われる」というものになる。自分をオープンにしている限り人間は死なないというのはここ数年の私の信条であるけれど、逆に、自分を閉ざした場合には『死のリスク』が発生する。


溜め込む奴は狙われる。

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MAYUの実家は新潟の農家で、家には鍵をかけていない。そのため、玄関には常に近所のひとが大根などの野菜を置いて帰っていく。ある日、MAYUの近所に防犯も完璧な新築の家が建った。しかし、そこに泥棒がはいった。新築の家主は、更に頑丈な鍵を用意した。しかし、またしても泥棒がはいった。新築の家主は、今度はホームセキュリティを導入した。しかし、またしても泥棒がはいった。それを聞いたMAYUの祖父は「鍵なんてかけるすけ物が盗られるんだて(新潟弁)」と言った。

私は、いま、様々な空港のセキュリティチェックを終えて東南アジアの市街地にいる。空港のセキュリティは年々厳しくなっており、それでいて、世界的な犯罪率が低下している訳ではない。誤解を恐れずに言えば、セキュリティを厳しくするほどに、凶悪な犯罪は増えるような気がしている。無防備なMAYUの実家には泥棒なんてはいったこともなければ、時には近所からの差し入れが置かれていくように、いま、問題なことは「ひとりひとりが不安や猜疑心によって分断されてしまって、クローズドになってしまっている」ことなのではないだろうか、ということを思った。

ミャンマーのひとたちは、ボディがガラ空きだ。仕事中に平気で眠っている店員を頻繁に目にするし、客が来ても会話がキャントストップな店員や、絶対にスマホを離さないマシュマロのような店員もたくさんいる。私は、このような雰囲気に包まれると「とてもいいなあ」と感じる。万引きをしようと思えば、多分、いくらでもすることは出来るのだと思う。しかし、誰もそんなことはしないし、されたとしても「別に気にしない」という雰囲気がある。

常識に縛られるほどに苦しくなる。

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社会不適合という言葉がある。自分自身を「俺は社会不適合なダメな人間だ」と思っているひとたちも、多分、たくさんいる。しかし、自殺者が三万人いて、三組に一組は離婚をして、過労や精神疾患でボロボロになっている人達が大量にいる世の中を「まとも」と言えるだろうか。決して幸せそうでもなければ、不幸そうにも見える訳でもない、時折極上のスマイルを浮かべながら『ありのまま』で生きているヤンゴンの人達を眺めていると、いろいろなことがわからなくなる。

人生の豊かさとは何だろうか。豊かさとは、多くのものを持っているということなのだろうか。貧しさとは「ものを持っていない」ということなのだろうか。もっと言えば、私は貧しい人間なのだろうか。それとも、豊かな人間なのだろうか。ひとつだけ言えることは、どれだけ多くのものを持っていたとしても「まだ足りない」と思っている限り、多分、それは貧しい人なのだと思う。

現在の社会のまま、このままで生きていきたいと思うだろうか。それとも、変えられるものなら変えて行きたいと思うだろうか。私は、長年「そんなんじゃ生きていけないよ(お前みたいな人間ばかりでは社会がまわらないよ))」という類の説教を頻繁に受けてきた。そして、その度に「そこまでして(自分を殺してまで)生きていたいとは思わない」と思っていた。そして、親や教師や周囲の大人たちには、そのように実際に口に出してはボコボコにされて来た。そしていま、これからも「ボコボコにされていきたい」という反骨精神をこの胸に抱きながら、バナナシェイクのお代わりを貰いに行く。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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※※※ 「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征のためしばらくお休みになります ※※※