いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ。

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Wi-Fiがあるとネットサーフィンばかりをしてしまう。海外まで来て、何もせず、何処にも行かず、ひたすらキャンプ道具にまつわるWEBサイトを眺めている。「ノルディスクのティピーテントで眠りたい」だの「ペトロマックスのランタンに照らされたい」だの「ロッキングチェアで揺られたい」だの、私は何をやっているのだろうか。このままではいけない。こんな自分は殺さないといけない。




本編135分頃からはじまる『死生観』が気持ちよかった。私は「死んでもいい」という言葉が好きだ。普通なら、誰だって死にたくはないと思うはずだ。それなのに、死んでもいいというこの言葉には「死ぬことさえも肯定している(!)」得体の知れない器がある。そして、最近の私は「古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ」と感じている。

生きても死んでも丸儲け。

昔は、死にたくないと思っていた。死んでしまったら何もかもおしまい、だからこそ、生きている時間を大切にしなければいけないという風に思っていた。しかし、なう、自分の死生観はちょっとばかり変わってきている。誤解を恐れずに言うと、死んでみるのも悪くないと思っている。死んだらどうなるのかということは、当たり前のことだけれど誰にもわからない。もしかしたら「とてつもなく気持ちのいい世界に行く」かもしれないし、あるいは、まったくの『無(ゼロ)』になるのかもしれない。

闘病中のガン患者は、死の間際、最高の笑顔を浮かべることがあるらしい。その笑顔は「これでやっと死ねる(苦しまないで済む)」という解放感なのか、あるいは、目の前に迫る甘き死の中に「安らぎ」を覚えたからなのか、それは本人にしかわからない。死ぬということは、悲しいだけのことなのだろうか。逆に、永遠に生きることができるという方が、私にとっては恐怖になる。喜びも悲しみも永遠には続かない、すべての瞬間に終わりがあるということが、ある種の「安らぎ」になる。

巷には「別に死ぬ訳じゃない」とか「生きているだけでいい」とか、死をネガティブなものとして捉えている言葉が大量にある。生きることはこれだけ肯定できるのに、死ぬことになると途端に肯定できなくなる(タブー扱いされてしまう)のはなぜだろうか。実は、死ぬこと以外はかすり傷ではなく「死ぬことさえもかすり傷」であり、生きているだけで丸儲けではなく「生きても死んでも丸儲け」なのではないだろうか。ひとは必ず死ぬのだから、死を否定的に捉える必要はないのではないだろうか。

水も飲めなくなったら、死ね。

先日、北海道で出会った女性の話がある。彼女は、数年前、長年勤めた介護職の仕事を辞めた。そのことを父親に話すと、父親は「お前は、なんで介護の学校にはいったんだ」と娘に尋ねた。娘は「介護の仕事なら、食いっぱぐれることもないと思って」と答えた。それに対する父親の以下の返事に、彼女は、まるで稲妻に打たれたような衝撃を覚えた。そして、父親の強い愛を感じたのだと話してくれた。

自分の好きなことをやりなさい。それで食えなくなったら、水を飲みなさい。水も飲めなくなったら、死になさい。

この言葉の懐の広さがわかるだろうか。私は、感動してしまった。普通、親はこどもに「生きているだけでいい」みたいなことを簡単に言う。現実に悩みを抱えているこども側からして見ると、生きているというまさにそのことが苦しいのに、それでも「生きろ」と言われてしまうと、これからも苦痛に耐えなければいけないのかというプレッシャーを受け取る(生きることが苦痛になる)。そして、人間は天邪鬼なものだ。死んでもいいと言われた時、逆に、不思議なことに「生きよう」と思う場合もある。


死ぬ前に、死ね。

極論、生きている間に「何回死んで、何回生まれ変われるか」ということの中に、人間として生まれてきたことの醍醐味はあるのだと思っている。古い自分には一回死んでもらわないと、次にはいけないのだという感覚を抱いたことがあるひとは、多分、自分ひとりではないはずだ。もちろん、何かに飛び込む直前には「もしかしたら自分はダメになってしまうんじゃないだろうか」という恐怖もある。

私は、過去に「傷つく前に傷つくな」という言葉を吐いた。これは「傷つくことを恐れるあまり、恐怖心によって(何も起こらないうちから)自分で自分を傷つけてしまっている。傷つくのは実際に傷ついてからでも遅くはないのだから、傷つく前に傷つくな(自分で自分を傷つけるな)」という意味になる。これの進化版が「死ぬ前に、死ね」というものであり、人生とは、物理的に死ぬ前にどれだけ精神的に死ぬことができるのか(生まれ変わることができるのか)を経験するための、舞台なのだ。

きっと、うまくやろうとか考えてしまうから行動が鈍るのだ。成功するためではなく「よし、失敗してやろう。傷ついてやろう」と思って突撃すれば、意外と清々しい結果になることが多い。楽しさやうれしさの中だけではなく、悲しみや苦しみの中にもよろこびはある。大切なことは「成功すること(うまくやること)」なんかではなく、砕け散るとわかっていても「俺はやった」という自分自身に対する絶対的な手応えなのだと思う。

古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ。

自分を守ろうとするから弱くなる。くだらない見栄を張ろうとするから嘘が出る。たかがこんな自分はと、自分で自分を笑い飛ばすことができたなら、多分、恐れることなど何もない。真っ裸で生まれてきた人間は、どれだけ多くのものを集めたとしても、最後には再び真っ裸で死んでいく。天国に持っていくことができるものは「愛し愛された記憶」と「俺は生きた」のだという、自分自身と極少数の人間に対する絶対的な手応えだけだ。

今夜発の上海便を経由して関西空港に向かい、新潟と東京のイベントに出演してから熱海の家に戻る。帰宅以降は熱海の家を完全ノーガードで全開放にしつつ、生活必需品を除くあらゆる家具や食糧や日用雑貨は来客に譲り、来月4月9日(土)からは『家を拾うまで帰れま10@四国編』と題して、誰でも無料で使える空き家を獲得するまで四国に滞在し続けるつもりでいる。一度は死んだこの命、生かされているこの命、いつまでも熱海であぐらをかいている場合ではない。

自分をボロボロに使い果たして死にたい。この、どSなのかどMなのかよくわからない謎の感情が、自分の奥底に確実にある。自分が壊れてしまうような不安を覚えることもあるが、自身の経験則上、現実ではなく自分の想像力に殺されてしまっていることはよくある話だ。心配事の9割は起こらない。そして、たいていのトラブルは(その時になったら全力であたれば)意外と解決できる。クアラルンプールでご馳走していただいたインドカレーが美味しかった。生きていれば、また、インドカレーを食べることができる。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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※※※ 「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征のためしばらくお休みになります ※※※