いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

小鳥が肩に止まる国。

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三宮のドトールで震えている。寒暖差が凄い。一人だけ、真夏の男がここにいる。今夜から急遽北海道に行くことになった。天気予報を見たら最低気温4℃だ。奄美群島は最高気温30℃だった。寒暖差アレルギーに怯えているが、温泉も熱風呂と水風呂を交互に入ると体によいと言う。天国と地獄の反復横跳びを繰り返すことで、水風呂という地獄の中でも「気持ちいい〜!!」とか言えるようになるのだろう。

 

おおまかなスケジュール

10月19日(火)札幌

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

交換感より循環感。

最近、会う方々に「もしも自分が国の王様になったら、どんな国を作りたいと思いますか?」と聞いている。私は2014年のバレンタインデーに同棲していた彼女から振られてホームをレスし、それ以降家も仕事もない日々を生きている。正確には譲り受けた家があるが、呼ばれた場所に移動を続けている。普通だったら家や金や仕事がなければ生きていけないと考えそうなものだが(私も当然そう思っていた)、不思議なことに家も金も仕事も失ってからの方が人生がダイナミックになった。詳細はリンク先の「ホームをレスした話(全18話)」に譲るが、こういった日々を過ごす中で一つの仮説を抱くようになった。それは「人間界は等価交換の原理で成り立っているが、自然界の摂理は循環で成り立っている。ならば、国というものも交換ではなく循環の原理を適応させた方がうまくいくのではないか」という仮説だ。

 

普通、何かを手にするためには金なり時間なり物質を差し出す必要がある。それが等価交換の原理だ。等価交換の原理が世の中を支配していたら、何も持たない私は野垂れ死にをしているはずだ。だが、私は生きている。なぜだろう。自分でもよくわからないが、この世の中には交換とは別の原理が働いているからだと思う。それを無理矢理自然の摂理と名付けるならば、自然の摂理は循環で成り立っている。何も持たない私は目の前の人間と交換できるものを何も持たないが、交換できるものはなくとも、自分の後方から「お前みたいな人間は貴重だから、もっと生きろ」と言われているかのように、交換とは別種のエネルギーによって今日も生かされている。交換がインタラクティブなものならば、循環はサークルだ。りんごの木は、りんごの対価を要求しない。太陽や土や空気から命を貰っている。そういう感じだ。

 

最近、国作りに興味がある。普通は「いまある国の中でどう生きるか?」を前提に物事を考えるが、国そのものを作ってもいいとなると、一気に話が大きくなる。前提そのものを作っていいとなった時、学校はどうするのか、結婚などの制度はどうするのか、など、考えることはてんこ盛りだ。てんこ盛りの自由の中で、自分の理想を描き出す。循環を生み出すためには自分がからっぽになる必要があると思う。自分に意図や打算や損得勘定があると、なかなか循環は生まれない。これはただの妄想だが、もしも自分が王様になったとしたら「自分はからっぽなまま、周囲がどんどん豊かになっていく」という世界を作りたい。そのための発想を集めている。

 

note.com

 

小鳥が肩に止まる国。

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昨日、鹿児島でお会いした女性Y様が日置市内を案内してくれた。車内で「もしも自分が国の王様になったら、どんな国を作りたいと思いますか?」とインタビューをした。Y様は、開口一番「高い建物は建てたくない。権力の象徴みたいで、あまりにも男性的だから」と言った。他にも「地方分権。一人一人の内側から感じる幸せに沿って生きる社会」とか「お父さんを地域に戻す。働き過ぎないこと」などと言ったことも話してくれた。そして、最後に「坂爪さんは、どういう国にしたいと思いますか?」と質問を受けた。私は、やべ、と思った。政治のことなんて全然詳しくない私は、地方分権という言葉は知っていても意味する内容や含んでいる昨今の課題など、実感としては何もわからない。だから、正直に自分の感覚を話した。

 

選挙に行けと言われても、いまいちピンと来ない自分がいた。真面目そうな若者たちは自分たちの未来のために選挙に行こうと言うが、まったく言うことを聞かない自分を「ダメだな」と思っていた。政治に関心があってこそ大人で、関心がない人間は無関心なクソ野郎だという劣等感があった。だが、実はそんなことはないんじゃないのかと最近は思う。極論、政治は健康と同じだ。健康な時に健康を意識することはない。健康を意識する時は、自分が病気になった時だ。政治に関心を持てと叫ぶことは、大袈裟だが「病気になれ」と言われているような印象を受ける。街頭演説をする政治家たちは、大概が他党の批判で終わっている。あいつらはスパイだ。あいつらは間違っている。あいつらはみんなを騙そうとしている。だから俺を選べ。と。これは正直微妙だと思う。だから興味が湧かないのだと思う。病気にならずに政治に強烈な関心を持つには、実は、国作りを考えることが一番なんじゃないのかと最近思う。国作りは、最高に自由で、最高にエキサイティングだと思う。

 

とか言いながら、実は、私には実現したいという国のイメージが強烈にある。それは「小鳥が肩に止まる国」だ。どうだ。ファンタジックだろう。わっはっは。ハワイにはじめて足を運んだ時、手のひらにパン屑を乗せていたら大量のスズメが手のひらにやってきてチュンチュン言いながらパンを食べた。あの光景を、あの瞬間に感じた幸福を忘れることができない。小鳥が自分の体に止まると最高に幸福になるのだ。小鳥が人間に止まるためには人間と動物の間に信頼がなければ無理だ。だから、国の政策ひとつとっても、判断基準は「それをやったら、小鳥は肩に止まるようになるか?」になる。私は、自分の死ぬ場面もイメージできている。国を作り、小鳥の実現に向けて命を燃やすのだが、精一杯やったのだけれど結局あと少しのところで自分の寿命が訪れてしまう。私は「あとは任せた」みたいな表情を浮かべながら最後の瞬間を迎えるのだが、昇天するまさにその瞬間、小鳥がやってきて私の肩にピヨ!っと止まる。それを見た私は「うおおおおおおおおおお」と言葉にならない歓喜に震え、その震えによって死ぬ。どうだ。ファンタジックだろう。わっはっは。という訳で、小鳥が肩に止まる国の実現に向けて一歩を踏み出したいと思います。是非、私に「あなたはどんな国を作りたいと思うか」を聞かせてください。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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命よ、踊れ。

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鹿児島中町のドトールにいる。海を泳いでいたら海パンを失くした。海は裸で泳ぐのが一番!と常日頃から豪語していたため、海の中で海パンを脱いでプカプカ浮遊をしていたら海パンを紛失した。海パンなどと言っているが、水陸両用の私の一張羅だ。これをなくしたら俺は陸でも裸になる。大変だ。大変転じて変態だ。言うてる場合か、言うてる場合か俺と必死に探したが見つかることはありませんでした。

 

おおまかなスケジュール

10月18日(月)神戸

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

素晴らしき哉、奄美群島

その後の俺がどうなったかはさておき奄美群島は素晴らしかった。最初は与論島。現在、鹿児島県が楽巡りと言う「鹿児島県内の宿に宿泊をして、且つ、指定されたポイント二箇所に足を運べばタクシーorレンタカー料金が最大5000円オフ!」という複雑なキャンペーンをやっていたため、車をただ同然で使えた。与論島は島全体にポジティブな空気が漂っていた。島民の方々の優しさも常軌を逸していて「ここは楽園か!」と震えた。複雑なキャンペーンにより普段だったら絶対足を運ぶことはないだろう場所に二箇所足を運べた。これがまたすこぶるよかった。詳細は割愛するが普段の自分なら絶対やらないことこそやったほうがいいのだと思った。そうでなければ俺は琴平神社から見える涙が出るほど美しい壮観を見ることはできなかった。人智を超えたものに触れたければ、自分の直感に従っている場合ではない。

 

次は沖永良部島。海が激しく荒れて予定とは違う港に着岸した。ほとんどの乗客はお迎えの車に乗り込み港を離れたが、俺だけ一人残された。当たり前だ。私にお迎えが来ることなど死ぬ時以外ない。徒歩一時間程度の場所にレンタカー屋さんがあることを知った私は取り急ぎ歩いた。図らずとも、それは西郷隆盛沖永良部島に流刑された際に馬を断り徒歩で留置所まで歩いた道とまったく同じコースだった。気温30℃。汗だらっだらになりながらようやくレンタカー屋さんに到着をしたら廃墟だった。私の心も廃墟となり、生きるために必要な気力と体力のすべてを喪失した私はここで記憶も喪失することになるのだが、虹を見たことだけは覚えている。

 

最後は徳之島。徳之島に到着した瞬間「明日以降の船は連日欠航になります」と言うアナウンスが流れた。本来であれば明日奄美大島に行く予定だったのだが事実上不可能になり、車のあても宿のあてもない自分はここで再び記憶を喪失した。薄れ行く意識の中、犬田布岬の素晴らしさを全身で讃えている自分や、与論島沖永良部島は山がないから建築資材などは沖縄に依存をせざるを得ない(だからこそ交流も深まり文化的にも沖縄の要素が色濃く残っている)が徳之島や奄美大島は山がたくさんあるから建築資材には事欠かないこと、などといった情報が延髄を流れた。

 

 
 
 
 
 
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命よ、踊れ。

坂爪さん、おはようございます☀️

インスタを見て、徳之島にいることを知りました✨

徳之島は私の産まれた島であり、
両親の故郷であり、
中学生になるまでは私も夏休みと冬休みをがっつりと過ごした場所です🏔


島人の気性は南国らしからぬ荒さだし、
悲しみや血の重いエネルギーが染み込んだ土地も随所にありますが、

それらを凌駕する圧倒的な自然がたくさん見られるし、
おもしろい人もたくさんいる、
私にとっては良さも悪さもひっくるめて大事な島です🦋


そんな島に坂爪さんがいらっしゃることがすごいことに思えて、
こうしてLINEしてしまいました🍀

しかも明日が出産予定日(ほんとうは30日の予定なのですが、明日産まれると予想中🤔💭)なので、

何でか上手に説明はできないのですが
とても元気をもらいました✨

元気に赤ちゃんを産んでまいりますっ👶🏻✨


それでは、良き旅路になりますように。。💓

 

徳之島出身の女性からLINEを頂いた。無職の私も無職なりに死にたくなったり生きたくなったり大忙しなのだが、露骨に元気になった私は「生きよう」と思った。不思議なもので、自分がご機嫌になるとご機嫌な出来事が連続する。銀河からの施しによって鹿児島空港までのチケットを手に入れた私は船だと28時間かかる行程を1時間で移動できることになった。時を同じくして、鹿児島在住の方から「坂爪さんとギターを弾きたいので鹿児島市内まで来てくれたら嬉しいです。空港からの往復バス代はお出しします」とご連絡をいただいた。再び私は「生きよう」と思った。

 

鹿児島市役所前でH様と合流し、芝生の広場でギターを弾いた。夏服で来た私は音速で震え、もうこれ以上は無理だと言うタイミングで「うどんでも食べましょう」とお誘いいただきいづろ通りのうどん屋に向かった。なんでもご馳走しますと言うお言葉に甘えて(その日は黒糖しか食べていなかった私は)釜玉うどんの大盛りを注文し、あろうことか「食い足らねえ」と思った私にH様は追加の素うどんを与えてくれた。うどんを食べながら色々な話をした。車に乗るだけでも時差ボケは発生していること。人間が進化だと思っていることは実は退化かもしれないこと。文明が発達するほど人間は良くも悪くも鈍化をしていて、だからきっと昔の人は敏感であり続けたために寿命も短かったのかもしれないのだが短いからと言って充実していないと言うことにはならないこと。体のおおらかさに甘えてしまっていること。坂爪圭吾は人権という言葉が嫌いなこと。権利が蔓延するほど愛から遠く離れること。コントロールこそ不幸の元凶なんじゃないかということ。コントロールできる範囲を広げていくことが大人だと思われているが、実際はコントロールできる範囲を広げていくことが大人だと『思い込んでいる』人が大人なんじゃないのかということ。支配を手放すとジャッジメントから解放されるということ。強くなるために生きているというよりは、弱くなるために生きている気がするということ。など。

 

H様は印象的なことを話した。自分は必要のない人間だとか、誰だって自分を許せないという思いに支配されることもあるとは思いますが、この世に生まれてきたという時点で必要な存在なのだし、許されている存在なのだと思います。いるってことはいるってことで、いられなかったいられないのだと思います。いま、ここにいるってことが、必要であり許されているということの何よりの証明なのだと思います。と。日常的にあがったりさがったりを繰り返している我が精神状態だが、いま、この瞬間に集中している間はからっぽでいられる。過去に引きずられず、未来を恐れず、さかしらなコントロールを手放して徹底的に『今』に集中をしたら、私は、自ずから必要とされる場所に運ばれていくのだろう。今後とも呼ばれた場所に移動をするので必要な方はお声かけください。私は海が好きだ。どれだけ精神的に落ち込んでいる時も、誰もいない海辺を目にした時や、海に沈む夕日を目にした時は「うわあ」と溜息が漏れて思わず駆け出してしまう。どんな時も、思わず駆け出してしまう命があることを私は知っている。命は、この瞬間も躍りたがっている。

 

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「命よ、踊れ。」

 

どう生きるかより どう遊ぶかだろう

泣くか笑うか 決めるのは自分だろう

 

こどもの仕事が 遊ぶことならば

おとなの仕事は もっと遊ぶこと

 

明日はないのだ ただ 今日があるだけ

毎日がゴールで 毎日がスタートだ

 

いいことばかりじゃ 半分なんだ

本当のいいには 悪いもあるんだ

 

自分に同情をしている場合じゃない

被害者ヅラをしている場合じゃない

 

次はないのだ ただ いまがあるだけ

これが最後だからと 暴れ出す 命が

 

ああ 踊りたがっている 命が 俺と

 

幸せになるより感じ取れる美々を

心は自由に遊ばせておける日々を

 

カラダを越えて時を空間を越えて

あなたの笑顔がぼくを笑顔にする

 

明日はないのだ ただ 今日があるだけ

これが最後だからと あふれ出す 今も

 

ああ 生きたがっている 命よ 踊れ

ああ 生きたがっている 命よ 踊れ

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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三年寝太郎を思い出せ。

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那覇にいる。沖縄の民謡(?)に首里城を出発して船で鹿児島に向かう内容のものがあり、それを実際に体験して来いと大阪在住の方から指令を受けた。昨日は首里城から観音寺を経由して崇元寺公園まで歩いた。明日は船で与論島に行く。それ以降は沖永良部島・徳之島・奄美大島・鹿児島という順番で最低でも各島に一泊するように言われた。持ち物を最低限にしたかったので、野営道具はアルミシート一枚になる。明日の与論の天気予報は晴。島流の刑を無事に乗り越えられるだろうか。

 

おおまかなスケジュール

10月14日(木与論島
10月15日(金)沖永良部島
10月16日(土)徳之島

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

肉を食え。空を飛べ。

なんだか最近頭が痛くてふらふらするなと思ったら、栄養失調だった。心ある方から肉の塊をご馳走になり、食べた途端に元気になった。肉だ。肉が足りない。もしも私と同じように毎日の生活が健康志向的な意味ではない粗食で、日々の眠りが浅く鈍い頭痛が長期間続いている人がいたとしたら肉だ。血の滴る肉を食おう。元気になるぞ。一緒に元気になろう。飛行機もいい。飛行機から空を見ると「うわあ、空ってこんなにおっきいんだあ」と毎回こどもになる。肉か青空にかぶり付こう。

 

台風の影響で足止めを食らっている。俗に旅は人生の縮図という。移動中は災難が多い。早朝6時のフェリー乗り場に行ったら誰一人おらず電気も消えたままで周囲は真っ暗、現在の沖縄は日の出が6時半頃なので全然暗い。天気は雨。建物の入り口に大きく『欠航』とだけ張り紙がしてあった。わざわざタクシーでここまで来たというのにセルフ姥捨山みたいなことになって立ち尽くす俺。最寄りのカラオケが開店するまでベンチで横になって時間をやり過ごし、ようやくカラオケ開始時刻となって喜び勇んでカラオケに飛び込んだら「フリータイムは3名様からになります」と断られた。友達がいない人はどうすればいいのですか、友達がいない人は自由になることもできないのですか的な存在感を強烈に醸し出しながらその場で虚空を見つめたら、銀河から特例がおりて「今回だけは特別です」と入室を許された。

 

その後も様々な悲喜劇に見舞われたが、喜劇王チャップリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言った。私はJ-POP恐怖症でJ-POPを聞くだけで細胞が壊死するのだが細胞が壊死をするくせに頻繁にカラオケに行く。都会で個室で横になれる場所はカラオケくらいしかないのだ。結果的にJ-POPを耳にして半狂乱の事態に陥るのだが、元気を出してという歌詞を聞いて実際に元気になる人などこの世にいるのだろうか。死にたいとは言っていないのに聞いていると死にたくなる曲は多い。逆に「死にたい死にたい今日死にたい」みたいなことを笑顔で叫ぶ人を見ると元気になる。元気になれと言われても元気になれないが、元気になれなんて一言も言っていない人を見て元気になることがある。

 

三年寝太郎を思い出せ。

躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで寝たきりの生活を送っていた時、私を支えてくれたのは三年寝太郎の物語だった。簡単なあらすじを説明すると「三年間寝転がって何もしていなかった表面的にはただの怠け者が、起き出した途端に異様に活発になって灌漑などと言った大事業を成功させて村に富をもたらした」というものになる。私は頻繁に三年寝太郎を思い出すことで滅び行く精神に歯止めをかけた。この世の中には(たとえ寓話だとしても)三年間寝続けた男がいる。そう思うことが支えになったのだ。うだつのあがらない日々を過ごした経験のある方ならわかっていただけると思うが、何もしていない自分を責めてしまう時期が誰にでもある。そういう時に「ああ、あいつは三年寝ても大丈夫だったんだよな」と思えることがどれだけ心の慰めになったことか。その恩恵は計り知れない。

 

それ以降、私は三年寝太郎の物語を常備薬として服用するようになった。何かあるたびに「三年寝太郎を思い出せ」と自らに言い聞かせるのだ。一日や二日の不調がなんだ。それが人生の全部だと思って嘆く必要はない。この世には三年寝続けても大丈夫だった男がいるのだ。だから、大丈夫だ。論理的にはまったく一貫していないが、この物語はパキシルよりも断然効いた。結果的に私は元気ビンビン丸となって復活を遂げ、明日からは奄美群島にinto the wildする程度には回復を果たした。全然関係ないけれど野営道具が前述したようにアルミシートしかないために、奇跡的に「それなら我が家に泊まりなよ」的な方がいたらご連絡いただけたら幸いです。

 

5億年という曲を作ったが誰にも評価されないためゴッホの気持ちが凄いわかる。正確にはたった一人だけこの曲を評価してくれる人物と出会えたので、欲を言えば「あともう一人くらいいてほしい」と願っている。この曲は結構凄いと思うのだがなかなか理解されることはない。だが、それがいいゴッホが死ぬのが37歳だから現在36歳の私は余命一年になる。取り急ぎ一日一万歩だけは確実に歩くようにしている。これは健康のためではなくレジスタンスのためである。一日や二日の不調がなんだ。それが人生の全部だと思って嘆く必要はない。しんどい時は三年でも三十年でも寝たらいいのだ。そして、元気になったらまた生き直せばいいのだと思う。焦ることはない。私たちには死ぬという最後の偉業が残されている。だからこそ、肉を食え。空を飛べ。三年寝太郎の話を思い出しながら、五億年生き太郎を聞け。

 

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「5億年」

 

どこにも行かない僕がいて どこまでも行ける君がいる

なりたいものはひとつもない 帰りたい場所があるだけ

 

君と一緒になれるなら ぼくは永遠に待っている

たとえばそうだね5億年 5億年でも待っている

 

誰にも会わない僕がいて 誰にでも会える君がいる

足りないものはひとつもない 守りたい場所があるだけ

 

君が笑ってくれるなら ぼくは永遠に生きている

たとえばそうだね5億年 5億年でも生きている だから 

 

今日死ぬ 今日死ぬ 今日死んで 明日リボーン

 

君と一緒になれるなら ぼくは永遠に待っている

たとえばそうだね5億年 5億年でも待っている

 

君が笑ってくれるなら ぼくは永遠に生きている

たとえばそうだね5億年 5億年でも生きている だから

 

今日死ぬ 今日死ぬ 今日死んで 明日リボーン

今日死ぬ 今日死ぬ 今日死んで 明日リボーン

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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君は行けるか。俺は行けるぜ。

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熊本駅前のプロントにいる。仕事を辞めたいが生活の不安があるとか、離婚をしたいけれど生活の不安があるという悩みを頻繁に聞く。その度に、自分が大学を辞めた時のことを思い出す。大学を辞める時、周囲から散々やりたいことはあるのかと問われた。しかし、当時の自分には「やめたいをやりたい」という思いしかなかった。大学を辞めて何をやるのかは次の話だ。今は、とにかくこの重い荷物を取っ払いたい。後のことは軽くなった身体で考えたい。俺は、やめたいをやりたいんだ。

 

おおまかなスケジュール

9月25日(土)岡山

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

微妙な気持ちでいることは、すべてに対して失礼。

偏見たっぷりだが、最近女性が吸い取らずにはいられない生き物に見える。当然可愛いし素敵だし綺麗だなと思うが、同じくらい怖さを感じる。海に抱く怖さと似ている。だからこれは畏怖だ。女は花だ。花は綺麗だ。綺麗だから蝶や蜂が飛んでくる。哀しみという言葉を使うのもあれだが、女には根を張らずにはいられない哀しみが、男には根を張れない哀しみがある。蜂の世界を思い出す。女王蜂は飛べるだけ飛ぶ。それを無数の雄蜂が追いかける。羽の弱い蜂からだんだんと消えていき、最後に数匹だけが残る。競争を続け、最後の一匹が女王蜂と結ばれて子孫を残す。役割を終えた雄蜂は力尽きてボロボロになり、そのまま地面に落ちて死に絶える。

 

女に孤独は似合わない。男は生を捧げ、女は生を吸い上げる。セックスも同じだ。よく男が女を食ったなどと言うが、実際は逆だ。女が男を食べるのだ。男は生気を女に捧げ、女は生気を吸い取る。三日間不眠不休でセックスを続けると男の肉体はボロボロになって枯れ果てるが、女の肌艶や血色はどんどん良くなる。男は死に近づき(生を放出し)、女は生を蓄える。食べるのは女だ。よく、自分には行動力がないから旦那と別れて自分の力で生活をしていける自信がないという悩みを聞く。しかし、私から見ると「あなたはすでにものすごい行動力を発揮していると思いますよ」と思う。だって、旦那から立派に吸い取っているじゃありませんかと思う。

 

男には男の大変さがあり、女には女の大変さがある。だが、共通して言えることは「微妙な気持ちでそこに存在していることは、すべてに対して失礼である」ということだ。自分の命に対しても、相手の命に対しても、万物に対しても不遜であり、冒涜だ。自由と自堕落は違う。自堕落は美しさを損ねる。美しさは何処から来るのだろうか。街中で人間観察をしていると、どれだけ良い服を着ていても異様に醜く見える人もいれば、シンプルな服装なのに整って見える人もいることがわかる。美は小手先のテクニックではない。装飾でもない。姿勢だ。美は姿勢に宿る。それは文字通り歩くときの姿勢であり、座るときの姿勢であり、生きる姿勢そのものだ。

 

俺は行くぜ。

迷惑をかけたくないという言葉を頻繁に聞く。言いたいことはわかるが卑怯者だと思う。迷惑をかけないことは最優先事項ではない。傷つけないことや相手を不快にさせないことが愛ではない。愛とは一歩踏み出すことだ。優しい人は多いが、優しさがただの保身に見えることは多い。結局、それは自分のためなんだろと思う。保身がある限りお前は死ぬまでいい子ちゃんのままだよと思う。そういったことを言うと「坂爪さんは昔からそうだったのですか」と問われる。だが、私に聞くのはお門違いだ。逆だ。本当はみんな昔は純真だったはずだ。私に昔からそうだったのかと問うのではなく、自分に「いつからこうなっちまったんだい?」と問えと思う。

 

生活のためにやりたくないこともやらなくちゃならない、自分にたくさんのお金があったらそれはやらないってことをやってる人はたくさんいるように見える。自分はその点恵まれていると言うかラッキーなのだと思う。少なくとも嫌なことをしないでいられる。嫌な時間もこれは俺が選んだのだと思うことができる。そんな私を見て「坂爪さんは特別です」と言う人は多い。だが、それって選べるんじゃないかなと思う。やりたいことだけをやると決めた人だけが、やりたいことだけをやる人生を生きるのだと思う。私は弱く、過去も未来も背負えない。他人のことも背負えないから、ただ、自分が背負うことができる「いま」と「自分」だけを背負う。先のことばかりを考えるとグッタリするが、いま、いまだけが強烈に来る時は命も充実をする。いまを一生懸命に生きることならば自分にもできる。あとのことは知らない。いまを必死に生き続けて、そのままポックリ逝けたら万々歳だ。そう思って生きてきたが、年齢を重ねるたびにいましかないんだよなという思いを強くする。

 

同じ場所にいるとゆっくり固定化されていく。役割も思考も行動も硬くなる。本来はもっと柔らかであったはずのものが、硬く、冷たいものになる。硬いものは死に近い。人間は死ぬと硬く冷たくなる。生まれたばかりの赤ちゃんは、柔らかく温かい。昨日会った人と話しながら「俺は行くぜ」と口にしたとき、途端に元気になった自分がいた。やるも自由。やらないも自由。行くも自由。行かないも自由。究極、どちらでもいいのだと思う。行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなければいい。どっちでもいい。好きにやればいい。ただ、俺は行くぜ。どっちでもいいなどと言っておきながら、どうせならみんなにも行ってほしいと思う。だって、そっちの方が断然面白いから。誰かが行った姿を見て「あいつ、行きやがった!」となって衝動のお裾分けをいただきたい。何度でも立ち上がる活力を得て、それを循環させていきたい。君は行けるか。俺は行けるぜ。これから岡山に行く。

 

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「Dawn」

 

赤い意図を手繰り寄せて 蠢きの薔薇が咲き

淡い光の中 呻き出すように藪を這い上がる

 

傷も孤独も 痛みも過去も 愛も もう どうでもいい

血に 涙に 鼓動に 命に 強い光を見た

怒りを秘めた懺悔のように 何も持たず 何者でもなく

 

太古のメロディーが 心臓に 地響きの鐘を打ち

破瓜の血を流して 暴れ出すように脈を駆け回る

 

胸の裡から こんなにも生きていることを訴えている 

血に 涙に 鼓動に 命に 鳴り響いている

ただ 生きていく力を注ぐように 膜を破り 息の根を辿り

 

この世の果てまでも 満月の中 黄泉返り照らすから

生きて 生きて 生きて 生き切ってみせて くれよ

 

胸の裡から こんなにも生きていることを訴えている 

血が 涙が 鼓動が 命が 鳴り響いている

ただ 生きている証を刻むように 闇を裂いて 喉を掻き切って

 

暗い過去も全部 確かに生きた記憶にしてみせるから

生きて 生きて 生きて 生き切ってみせて くれよ

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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武器を捨てろ。

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西鉄薬院駅前のドトールにいる。昨夜は鳥栖の山中にある温泉にご案内いただき、月が綺麗だったために「その辺に捨ててください」とお願いをして能動的に路上に投げ出される形でハンモックで寝た。沖縄に比べると断然肌寒く色々悶えたが、最近は「家の中は快適なんだけどなんか苛立つ」と感じる。今日は福岡で食事に呼ばれ、明日は熊本に呼ばれた。今夜は何処で眠るのだろう。朝を迎えると「よし、どうにか夜を乗り越えたぞ」と思う。朝を迎えただけで、それなりの達成感を得る。

 

おおまかなスケジュール

9月24日(金)熊本

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

心が失くしたものを嘆く時、魂は手に入れたものを歓んでいる。

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久米島では二日連続災難に見舞われた。イーフビーチの駐車場で車の鍵を失くしたのだ。私は滅多にものを失くさないから「あれ」と思って色々探した。大事なことは落ち着くことだ。私は知っている。探し物は「ある!ある!ある!」と思って探せば見つかるということを。借り物の車だから鍵をなくしたら大変だ。スペアキーもないと聞いている。駐車場を探し、ビーチを探したが見つからない。水着のポケットに入れたまま私は泳いだのか。だとしたらこの広大な海の中を探さなければならない。よし。探そう。そう思って「ある!ある!ある!」と思って海を探した。砂漠で針を探すようなものだ。二時間弱探したが見つからず、平泳ぎが上達した。

 

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車の持ち主に連絡すると「あの車は長期レンタルで借りている車だから営業所に電話をしてみます」とレスが来た。よし。それならスペアキーがあるはずだ。結果的に営業所のポストに鍵を入れておくから勝手に持って行ってくださいという流れになった。沖縄のゆるさに救われた。幸運にも営業所は徒歩圏内だ。炎天下を歩いた。汗をダラダラ流しながら「口にすると本当に実現するから気をつけよう」と思った。前回の記事で旅の恥はかき捨てみたいなことを書いた。ハプニングこそが最高の思い出になるという考えは変わらないが、神様は我々の期待に即座に応える。

 

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久米島から那覇に向かうフェリーの中で、アラブの春を特集したテレビ番組が放映されていた。今から十年前、北アフリカチュニジアで野菜や果物を売っていた若者が警察官に屋台を没収され、絶望感から焼身自殺を図った。その事件を発端に独裁政権に対する民衆の不満が爆発をして暴動が起きた。平和を強く求める人ほど戦犯扱いをされ、投獄をされたり亡命を余儀なくされる。トルコに亡命したエジプト人男性のインタビューが流れた。彼は、映像の中で「私に罪があったとすれば、夢を持ったことだ」と語った。彼らにとって夢を持つことは自分を殺されるリスクに晒すことと同義だ。男性は続けた。エジプトには妻と娘がいる。さみしい。会いたいよ。娘たちは私を誇りに思ってくれるだろうか。それとも、私を恨むだろうか。父親は誇りのために命を落としたのだ。私が命を失った時は、そう思って欲しい。

 

武器を捨てろ。

海に浮かぶと意識が今に集中し、自分には何一つ過不足はないような感覚になる。青空を見上げながら、同時に「俺は満ちているし、俺は満ちていない」とも思う。欠落や空洞と呼ぶには大袈裟なこの穴は、金でも物でも名誉でも決して埋まることはない精神的な部分だ。私たちは心をハートの形で表す。ハートは通常赤い色で描かれるが、自分はハート型の空洞を抱えている気がする。普段はからっぽなこのハート型の空洞を、時折、何かが満たす瞬間に触れる。その瞬間に感じるものが、歓喜であったり哀切であったり感動であったりする。空洞が、震える心の器になる。

 

飢餓や内戦に苦しむ人々の底知れない恐怖心に触れると、私たちはなんて恵まれた状況にいるのだろうかと自分を恥じる。だが、恥じると同時に「未だに内戦は続いている」とも感じる。物質的には豊かになっても、自殺者や鬱病患者の数がゼロになることはない。途上国における戦死者の数より、日本の自殺者の数の方が多い現実がある。神谷美恵子の著作『生きがいについて』の冒頭は、このような言葉からはじまる。平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。・・・たとえば治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと、自分のすべてを賭けた仕事や理想に挫折したひと、罪をおかした自分をもてあましているひと、ひとり人生の裏通りを歩いているようなひとなど。

 

自分はたまたま様々な人々の話を聞く機会に恵まれ、たまたま様々な場所に足を運ぶ機会に恵まれている。だが、恵みは受け取るだけでは不十分であり、持て余してしまう。自分という存在もまた罪と恵の混合体だ。自分の経験を何に活かすか。自分の経験を何に昇華するか。自分が生きている意味を神に問うてしまう時もあるが、逆だ。私が、神から問われているのだ。那覇空港を発つ直前、ズラリと並ぶ戦闘機を目にした。そこには自衛隊と書かれてあり、大きな日の丸が描かれていた。それを見た瞬間「武器を捨てろ」という言葉が脳裏をよぎった。武器を増やすことが強さではない。武器を捨てた時、生身の肉体に宿るものが勇気なのだと思った。

 

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「雨あがり」

 

雨が赤い屋根に降る

それを見た僕たちは ただ ただ

 

雨は僕の代わりに泣いているのか

流れて行く時間だけ ただ ただ

 

どこから来て どこに帰る

このままじゃ置いて行かれるから

本当はもっと動きたいのに 

「どうして?」 動けない

 

雨が木々の葉を揺らす

立ち止まる僕たちは ただ ただ

 

もしかしたら僕はずっと寂しくて

それを見た神様が ただ ただ

 

ここではないどこかから

ここではないどこかに続く

 

「元気ですか?」「調子はどう?」

「またいつでも、遊びにおいでよ」

 

ここから来て ここに帰る

一人でも 何をしていても

ずっとここにあったものと

これからも  これまでも

 

雨があがりやがて空は晴れてくる

終わらない僕たちは ただ ただ ただ

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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自分のすることを愛せ。

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福岡在住の方から温泉に誘われ、明日から博多に行く。首の皮一枚。首の皮一枚で繋がっている。明日の自分が何をしているのかわからないし、来週の自分が何処にいるのかもわからない。お先真っ暗という言葉はネガティブに使われるが、ただの事実だ。明日がどうなるのかわからないのはみんな同じ。怪我をした時など「命に別状はない」という表現をするが、命は、常に時間という別状にさらされている。

 

おおまかなスケジュール

9月22日(水)福岡

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

遭難。

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久米島在住の方から車を借りることができたので、無人のビーチに足を運んだところでアクシデントが起きた。オフロードを15分程度走ったところにビーチがあるのだが、あろうことかビーチに到着した瞬間に車が壊れた。持ち主に連絡をしようとしても圏外。手元に水はない。来た道を戻るとしたら徒歩で1時間はかかる。携帯の残り電池は20%だ。さて、どうしよう。困った。無人のビーチは最高だが、こういう時に無人は困る。しっかりと終わりかけたが、こういう時は焦らないことが大事。落ち着くこと。もっと言えば「面白がること」が大事だと思ったので、よし、とりあえずどうなるかはわからないけれど来た道を歩いて戻ってみようと思った。

 

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三十度を超える炎天下を歩くと一発で汗が噴き出す。戦時中は水溜りの水を飲んでいたと聞くから、最悪の場合は濾過装置を作ろうとか思いながら歩いた。まだ圏外。嘆こうと思えばいくらでも嘆ける。こういう時は自分が小説の登場人物だと思えばいい。さて、この先どんな展開が待っているのか。そこに無理やり胸を弾ませるのだ。自分を哀れな被害者だと思うか。勇敢な冒険者だと思うか。後者になれ。歌え。大きな声を出して歌えばおばけなんか怖くない。ある程度来た道を進むと、ようやく携帯が圏内になった。持ち主の方に「エンストとも違うと思うのだが車が動かない。もしも過去にこのようなことがあったとしたら、対処法を教えてもらえると助かる」とメールをした。しかし、返信はこない。電池は残り10%。これはもうロードサービスを呼ぶしかないのかな、と諦めかけたところで携帯が鳴った。

 

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車の持ち主から「ギアをニュートラルに入れた状態でエンジンをかけてください」と言われた。そんな方法があったなんて知らなかった。私は嬉々として来た道を戻った。来た時よりも足取りは軽い。人間は、希望があれば足取りも軽くなるのだ。大事なことは隠された希望を見つけられるかどうかだ。だが、これで車が動かなかったらいよいよ万事休す。携帯も電池切れになるのでお陀仏になる。ええい、ままよ。最悪の場合は野宿をすればいい。色々な思いが錯綜する中歩き続け、駐車場に戻って来た。言われた通りのやり方を試したら、無事に車が動いた。この時はおたけびをあげた。よっしゃー。愛する皆様、何かしらの事情で車が動かなくなった時は、ギアをニュートラルに入れた状態でエンジンをかけたら動くかもしれません。

 

自分のすることを愛せ。

先週の自分は、まさか一週間後の自分が離島で軽く遭難しているだなんて思いもしなかった。一年前の自分は、一年後の自分がまさかこうなっているとは思わなかっただろう。今日という単位で見ても同じだ。今日の朝には想像することもできなかった夜を過ごしている自分を眺めがら「なんだか面白いな」と感じる瞬間は好きだ。音楽も似ている。昨日まではこの世に存在していなかった音楽が、自分という存在を通じて世界にポンと生まれる。昨日まではなかったものが、今日、確かに存在しているということは凄い。世界とは、自分の手で作り出すこともできるのだ。

 

運転手役を務めたり何かしらの案内をすると「連れて行ってくれてありがとう」と言われる。この言葉は胸に迫る。自分が常に一人で動いているからだろうか。それとも、自分にも誰かの力になれたことが嬉しいのだろうか。あるいは、自分自身も大いなる何かから連れて行ってもらっている身分だからなのだろうか。家にずっといるよりも、家を出た方が良くも悪くもアクシデントに恵まれる。アクシデントは大変だが、アクシデントこそ思い出になる。人生も同じだ。人智を超えたものに触れたければ、自分の直感に従っている場合ではない。物凄い乱暴に言えば「後先考えるな」ということなのだろうか。アクシデントの隣に神はいる。自分一人で行けるところには限界があるが、自分以外の人と行くことで遠くまで行ける。とてもじゃないけれど、自分一人では絶対に行けないようなところまで行くことができる。

 

人間には色々な欲求があるが、そのひとつに「傷つきたい」というものがあると思う。幸せになりたいとも違う。気持ちよくなりたいとも違う。どちらかと言えば、綺麗なものを見たい、美しいものに触れたい、生きていることを実感したいという感覚に近い。苦しむことは嫌なことだが、苦しむことの中に美しさがあることを、私たちは本能的に知っている。幸せになるために生まれて来た部分も当然あるが、それと同じくらい苦しむために生まれて来た部分もあると思う。生と死は真逆のものではなく、同時に存在するものだ。死にたいと思うことと生きたいと思うことは同じだ。面白いものは、恐ろしいものだ。だからこそ、危険に飛び込むことが閉じかけていた命を再び開かせる最高の起爆剤になるのだろう。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもない。大事なことは、自分のすることを愛することだ。

 

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「ジュリー」

 

恋に恋をした また 傷がひとつ増えた

でも明るい未来を信じるんだ ジュリー

 

一輪の花を見ろ とても綺麗ではないか

吹き荒れる雨風に 負けるな ジュリー

 

望んで 生まれた 訳じゃないけど

生きることを 望んでいない 訳ではないし

 

私の 代わりに 生きている

 

故意に恋をした コラ また いつものやつだろう

性懲りもない いい加減目を覚ますのだ ジュリー

 

みんなもがきながらも 幸せに手を伸ばすよ

完璧な人間はいない 受け入れろ ジュリー

 

遊びで 生きてる 訳じゃないけど

遊びで 生きてはいない 訳でもないし

 

ひとつの 命を 生きている

 

愛に恋をした ほら きっと また逢えるよ

奇跡は何度でも起こる さあ 顔あげろ ジュリー

 

ああ 思い出していた 君と 歩いた 道

夢中で走り出す君が 大好きだ ジュリー

 

世界は愛で出来ていると思ってたけど

どうやら世界は恋で出来ているようだ

 

あなたは もうひとりの 私です

あなたは もうひとりの 私です

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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サンクチュアリに行こう。

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久米島在住の方からおつかいを頼まれ、そのブツを運びに明日久米島に行く。沖縄にいると資本主義ってなんなのだろうと考えさせられる。超有名アイドルがテレビ撮影などのロケで使われた場所には大量の観光客が雪崩れ込み、自然はぶっ壊されて海は金持ちの私有地となり地域住民は観光客の素行の悪さに困らされたりしている。アイドルに悪気はないと思うが、アイドルが足を運んだ場所から破壊される。

 

おおまかなスケジュール

9月20日(月久米島

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

大事なもの。

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金銭的な事情から事前に宿を決めないまま移動している。居場所がない心許なさは大きいが、居場所が与えられた時の喜びも大きい。飢えれば飢えるほど次の食事は美味しくなり、疲れれば疲れるほど次の布団は嬉しくなる。自分の中から幼稚さが消えないために、目の前に海が広がるロケーションにテントを張って暮らしていると「俺は金持ちより豊かなんじゃないだろうか」などと一々思う。金持ちには豪邸があるが俺には東屋がある。金持ちには冷蔵庫があるが俺にはファミマがある。ファミマが俺の食糧庫だ。しかも、食べ残した食材を処理しなきゃとか考えなくてもいいのだぞ、どうだ参ったか、わっはっはなどと一人思いながら野ざらしでいる。

 

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ざらしで生きていると神経が過敏になる。家には当たり前だが壁がある。だが、天地には壁がない。近くを通行人が通ったりすると、最初は「はっ!」とか思って一々身構える。しかし、徐々に身構えなくなる自分になる。半径30メートル以内に誰か来た段階ではじめて身構えるようになるのだが、この感覚が家の生活で培われることはない。自然は友達であると同時に脅威でもある。仲間と外敵は紙一重だ。私にペットはいないが、野良猫や昆虫たちをペットだと思えば無数のペットに囲まれている。しかも世話をする必要がない。愛でたいだけ愛でて、あとはどうぞご自由にという感覚は身軽だ。だが、仲間意識を感じた動物や虫に食料を奪われたりしょんべんをひっかけられたり寝床を襲われたりもする。それなりに疲労もするがトータルで楽しい。生身のお付き合いはトータルで楽しい。だが、学校や職場などで発生する気の遣い合い戦争みたいなお付き合いは、トータルでぐったりする。

 

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過去に二年間家なし生活をして得た最大の教訓は「家はあった方がいい」だった。家の維持や管理は大変だが、寝たい時に寝る場所があることの安心感は大きい。たまに女性が長い期間一人旅をしている姿を見たりするが、彼女たちは一様に枯れ果てている。家はあった方がいいのだが、家にずっといると「家だけが家」という視野狭窄に陥る。世界は広いのに自分が知っている範囲だけが世界になってしまうことは退屈だ。自分なんてものは壊してなんぼだが、壊しすぎると本当に壊れる。毎度のことながら「どっちもなんだよな」と思う。両極を体験しながら、自分が感じる大丈夫の幅を広げていく。外敵を恐れていては、仲間との出会いも取りこぼす。

 

サンクチュアリに行こう。

巷ではご機嫌でいましょうとか自分を愛しましょうとか執着を捨てましょうとか、そういった言葉が散々言われている。言いたいことはわかるがそれだけでは半分だと思う。確かに不機嫌でいるよりはご機嫌でいた方が気分はいい。悲しいよりは楽しい時間の方が誰だって嬉しいだろう。だが、本当は悲しいのに悲しみを打ち消して楽しむ方向に無理やり舵を取ると、大事なものを取りこぼす。それが「心」だ。色々な人々の色々な心の欠片があちらこちらに落ちている。落ちたものは落とされたまま回収されることがない。回収する時間がないくらい誰もが忙しくなってしまい、テレビやネットに生きるエネルギーを吸い取られてしまっている。誰かの人生に感動する時間は増えるが、自分の人生に感動する時間はどんどん奪われている。

 

人間の本質は誰かとの比較では語れない。だが、油断をしていると私たちは比較の罠に嵌り、何もできない自分には生きている価値もないという思考の罠に嵌る。比較の罠から抜け出す方法は大量にあるが、一つは孤独になることだと思う。孤独になればなるほど、自分の存在が明確になる。孤独の別名は美しさだ。孤独を身に纏う人は美しい。これは私の偏見だが、みんなでわいわい集まって楽しそうに過ごしている人ほど本当は一人になるのが怖いのではないだろうかと思う。一人になることが怖いから、孤独を見ないで済む場所に自分を置いているだけに見える。私は、孤独を持たない人と繋がる方法を知らない。孤独がなければ惹かれることもない。

 

運転手役を務めて沖縄本島を一周した。道中、願いと祈りの違いは何かという話題が出た。同行させていただいた方が「願いは自分のためにすることで、祈りは自分以外のためにすることだと思う」と言った。確かに、願いという言葉にはどこか自己本意的な響きや、人為的な響きを感じる。だが、祈りには人智を超えた何かがある。私は私の人生を生きているつもりだが、自分を超えた何か、人智を超えた何かに触れたくて生きている節がある。だからこそ、面倒臭いことやちょっと嫌だなと思う方向に自分を無理やり投げ出すことがある。それなりに大変な出来事もあったが、こうした生き方をしていなければ絶対に出会えなかった人物もいる。沖縄の最北に岬がある。夕焼けが石碑を赤く染めた。グラストンベリーみたいだと思った。

 

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サンクチュアリ

 

虹の彼方に 今 思い出したんだ 掘り出した原初のハーモニー

進化していく時代の流れに 生き埋めにされたみたいだ 取り戻すのさパールライト

 

カモン そんな所突っ立ってないで

カモン 日の当たる場所に行こうぜ

 

20世紀の終わりに始まり 今 騒ぎ出したんだ 突き出した原初のハーモニー

曝け出した弱さは強さに変わり 飛び出したんだ 越えていくのさパールライト

 

カモン 飾りなら全部捨て去って

カモン 風が吹き抜ける場所まで 行こう

 

どこにも居場所なんてなかった 僕ら サンクチュアリ

サンクチュアリへ 行こう 行こう 行こう

 

敵はいない 全員 味方さ 僕ら サンクチュアリ

サンクチュアリへ 行こう 

 

虹の彼方に 時を漕ぎ出したんだ 鳴り出した原初のハーモニー

進化していく時代の流れに 逆流巻き起こしたんだ 響き出すのさパールライト

 

カモン 憧ればっかり見てないで

カモン 花開き枯れてく向こうへ 行こう

 

忘れ去られたことなどなかった 僕ら サンクチュアリへ 

サンクチュアリへ 行こう 行こう 行こう

 

奇跡なんか待たずに行こうぜ 僕ら サンクチュアリ

サンクチュアリへ 行こう 

 

カモン 壊されるものなんてないぜ

カモン 絶滅危惧種の 愛を 叫べ

 

どこにも居場所なんてなかった 僕ら サンクチュアリへ 

サンクチュアリへ 行こう 行こう 行こう

 

敵はいない 全員味方さ 僕ら サンクチュアリ

サンクチュアリへ 行こう 

 

忘れ去られたことなどなかった サンクチュアリへ 行こう 

奇跡なんか待たずに 行こうぜ サンクチュアリへ 行こう 

 

虹の彼方に 今 思い出したんだ 掘り出した原初のハーモニー

進化していく時代の流れに 生き埋めにされたみたいだ 取り戻すのさ パールライト

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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大事なことは、出発することだ。

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重要な地位にある人の運転手役を務めるため沖縄県沖縄市にいる。明日から二日間北部を巡るのだが、野営をしながら下見をしていたら熱中症になって死んだ。九月と言えども沖縄は暑い。飢えたら飢えただけ次の飯が美味くなる。疲れたら疲れただけ次の布団が嬉しくなる。そう思って耐えていたが、昼間、あまりにも眠たくて公園で爆睡をしていたらいつの間にか日陰が日陰ではなくなっていて干上がった。

 

おおまかなスケジュール

9月18日(土)沖縄

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

彼は、私だ。

心ある方が「大変な時はご連絡をください」とご連絡をくれた。「いまです」と思って連絡をしたら沖縄市のホテルを取ってくださり九死に一生を得た。節約のし過ぎは考えものだ。体を壊したらもともこもない。もともこもないのだがこうしてホテルにいることができている自分はもともこもあるのかもしれない。わからない。わからないけれど熱中症は嫌だ。熱中症は嫌だけれど熱中症になったというエピソードは好きだ。わからない。俺は結局何をやりたいのかがわからない。「自分のことが一番よくわからない」とはかねてからの口癖だが、一向にわかる気配がない。ただひとつ、近くにあるものを知るために遠くに来ているのだという感覚はある。

 

日常を生きると奇跡が当たり前になる。実際に飢えると食事のありがたみが身に染みるが都会に生きているとそうそう飢えない。飢えるために旅に出る。数日ぶりに大浴場に入ったが「この大浴場で一番気持ち良さを味わえているのは間違いなく俺だ」と思った。なぜならば俺はろくすっぽ風呂になんて入れていなかったからだ。差。結局差だと思う。冬、温泉に入る前に滝壺に飛び込んだ経験がある。温泉に最高に気持ちよく入るためにはどうすればいいかを友人と話し合った結果死ぬほど体を冷やせばいいんじゃないかということになって滝壺った。最悪だったが、最高だった。数年前宮古島に呼ばれて宮古島に行ったのだが宮古島に着いた瞬間所持金がゼロになり待ち合わせ場所まで二時間炎天下を歩いたことがある。あの時も熱中症になったが、なぜ、あんなに辛かった出来事も思い出す時は笑っているのだろう。

 

当たり前は当たり前ではなかったと思い知るために旅に出るのか。車を借りた業者が比較的悪徳で「とちったな」と後悔したが、不穏な感情を抱いたまま時を過ごしたくなかったので思考を整理した。なぜ私は不穏な感情を抱いているのか。不正に対する義憤だろうか。違う。彼は私だ。彼のやり口が気に食わない自分自身を浮き彫りにしたのだ。彼は私だ。罪人は私だ。ここにいる全員悪人だ。そう思ったら冷静になった。悪徳業者の存在を許したという訳ではない。許すとは違う。自分にも同じように罪があると認めたのだ。聖書に「罪のないものが石を投げよ」という箇所がある。彼と私は別人だ。彼のようなことを自分は絶対にすることがない。そう思っている間は分離感が続く。だが、彼は私だと思った瞬間、分離感は消滅した。

 

大事なことは、出発することだ。

一ヶ月以上東京にいたため久しぶりの移動になった。移動は良い。航空券を手配した途端に日常が動き出す。荷造りを始めた段階から旅は始まっている。必要最低限の道具を選びながら、自分にこびりついていた垢を自覚する。重くなっていた自分。持ち過ぎていた自分。怠惰で臆病で偏った認識の世界だけで生きていた自分。それらを全部引き剥がし、再び生まれ直す。未知に対する期待と不安。足を運ぶ先で数々の記憶が蘇る。普段は忘れ去られていた、しかし「自分は確かに生きていた」ことを知らせる風景と出会い直す。私は愚かな人間だから、具体的に移動しないと停滞する。具体的に飛行機に乗り、具体的に「曇り空のさらに上には青い空が広がっている」と自分の目で感じないことには、言葉が身体に入ってこない。だが、一度身体に入ってきた言葉は音楽となって永遠に自分の遺伝子を流れ続ける。

 

世界には数限りない国や島や観光名所がある。小説も絵画も映像も同じだ。その全部を巡るなんて無理だしほどほどがいいんだよなと思う。だが人間は別だ。一人の人間の中には無数の回路が流れていて、誰かの記憶はまた別の誰かの記憶と結びついている。一人の人間の深奥に辿り着けた歓びは自分の深奥に辿り着けた歓びと同じだ。沖縄の任務を終え次第人生的に暇になる。会いたい方がいたらご連絡ください。心の旅。自分は人間を巡る旅をしているのだと思う。生まれてきてよかったと思える瞬間は大量にあるが、現時点における私の最高の喜びは「曲を作り出した瞬間」にある。素晴らしい人物との出会いや素晴らしい風景との出会い、言葉を綴ることの面白さや物語を編み出すことの面白さ、セックス、栄光を勝ち取った時や体を動かした後の爽快感も相当なものだが、曲が生まれた瞬間の喜びには敵わない。

 

居場所と聖域(サンクチュアリ)は似て非なるものだ。居場所という言葉には仮の宿を感じるが、サンクチュアリには絶対に奪われることのない不増不減の『何か』を感じる。居場所をなくすほど、サンクチュアリは浮き彫りになる。増えることもなければ減ることもない。永遠にあり続けるものが自分の中にもある。曲を作っていると、しっかりと作り込みたいと思うがためになかなか外に出すことが難しくなる。だが、外に出さなければ次が生まれることもない。私の場合はどんどん出すことが合っているのだと思う。そこで出し切れなかったものたちは次の作品に託す。それぞれは別個に存在する音楽でも、一枚の大きな『何か』を描いている。歩き続けることで見える。出会い続けることで見える。大事なことは、出発することだ。

 

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「Night walkers, don't be afraid」

 

闇に抱かれて 月に誘われて

 

連れて行かないで 置いて行かないで

大事なものを 取りこぼさないように 夜に紛れて

 

さみしいんだろ さみしいんだよ

音楽のように 星のように流れる

 

歩き続けていた 手を伸ばし続けた

Night walkers, don't be afraid

探し続けていた 願いを越えていた

Night walkers, don't be afraid

 

連れて行かないぜ 置いて行かないぜ

光などなくていいさ 君が光だ

 

泣いてるんだろ 泣いてるんだよ

伝説のように 夢のように流れる

 

踊り続けていた 大地を鳴らし続けた

Night walkers, don't be afraid

歌い続けていた 祈りを越えていた

Night walkers, don't be afraid

 

歩き続けていた 手を伸ばし続けた

Night walkers, don't be afraid

溶け出して流れた 記憶が結ばれた

Night walkers, don't be afraid

 

踊り続けていた 大地を鳴らし続けた

Night walkers, don't be afraid

照らし続けていた 命が 灯された

Night walkers, don't be afraid

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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肉体は消えても、精神は残る。

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明治神宮を毎日歩いている。夕方は空気が濁るが、早朝はまだ誰にも汚されていない空気を味わえる。東京が再び大空襲に襲われて焼け野が原になった時、再建されるものはどれくらいあるだろうか。東京タワーも、表参道ヒルズも、再建されない気がする。だが、明治神宮はどのような形であるにせよ再建されるだろう。焼け野が原になったとしても、何度でも再建されるもの。そこに精神があるのだと思う。

 

間。

ホームレス支援をする団体の話を聞いた。彼らは言う。ホームレスの人々には希望がない。彼らの心に火を灯すことが大事。ひとりにさせないこと。何が必要なのかだけではなく、誰が必要なのか。それを考えることが大事だ。私たちは30年間この問題に取り組み続け、三千人を超える人々を社会復帰させ、数十万件を超える相談に乗ってきた。と。これを聞いた時、正直「なんでお前らは常に上から目線なんだよ」と思った。自分たちは常に助ける側で、相手は常に助けられる側。ホームレス経験者である私に言わせてもらうと、お前らのそういう善人ぶった態度が嫌で嫌でたまらないから、俺はホームレスになることを選んだんだよ、と言いたくなった。

 

支援という言葉の裏側には、多数派による少数派への差別がある。自閉症患者はコミュニケーション障害があるとされる。だが、アメリカ人と日本人がコミュニケーションに失敗した際、相手を指差して「コミュニケーションに障害がある」とは言わない。コミュニケーションとは、両者の『間』に立ち現れるものだ。言語や文化の違いがコミュニケーションを難しくさせることはあるが、それは言語(文化)の障壁があるだけで、人間の障害ではない。不登校の生徒が、なぜ学校に行きたくないのかを知ろうとする人間は少ない。それよりも、どうすれば彼らを矯正できるかを考える。矯正。恐ろしい言葉だ。型にはまらなかった精神は矯正の対象になる。

 

ある人が母親の形見でもある大切なワンピースを着ていた。それを見た善人が「そんな古い服なんて着ていないで、新しい服を買ってあげる」と言いながら彼女の古いワンピースをゴミ箱に捨て、デパートで買ってきた新品の服を笑顔でプレゼントした。しかし、彼女は新しい服を受け取ろうとしない。そんなことよりも、母の形見を失ったことが悲しく、涙を流している。その涙を見て善人は言う。あなたはあまりにも心が冷え切るような環境で長い時間を過ごしたから、誰かから何かを受け取るということが素直にできないんだね。でも、大丈夫。安心して。怖がる必要はないのよ。あなたは幸せになっていい人間なのよ。と。幸せを奪ったのは自分であることに無自覚なまま、善人たちは彼女にあたたかい『支援』の手を差し伸べる。

 

肉体は消えても、精神は残る。

自分に仕事と呼べるものがあるとしたら、それは「何者でもないままそこにあること」だと最近思う。現在の私に社会的な肩書きはない。エアポケットというのだろうか、そういうものになりたいと思う。自分が何者でもないからこそ、一緒にいる人も何者でもなくいることができる。もしも私が「作家です」とか「ミュージシャンです」などと名乗ったら、相手は、肩書きを通じて私を見るだろう。肩書きを通じて見る限り、そこに社会が発生する。しかし、私が何者でもなくそこにあり続ける限り社会は発生しない。反社会的組織が一時期話題になったが、私は反社ではない。強いて言えば無社だ。無社会状態に置かれた時、本来のその人自身が現れる。

 

人工知能を作っている人の話を聞いた。知能とは、物凄く乱暴にまとめると「一つになりたいと思う部分と、一緒にされたくないと思う部分が混在しているもの」だと言う。人間は仏教で言うところの解脱を目指して生きるが、人工知能には逆に煩悩を植え付ける必要がある。煩悩がなければ人工知能は動き出してくれない。人工知能に搭載することが最も難しい観念は「欲望」で、機械は指示通りに動くことはできるが、自ら欲望をすることが極めて難しい。と、そんな話を聞いた。煩悩を植え付けないと動き出してくれないから困るという悩みはあらゆる商業主義者たちが抱えている問題と似ている。彼らは煩悩を大衆に植え付け、それを進化だと謳う。

 

何者でもないままそこにあることは、簡単に見えて難しく、難しく見えて簡単だ。流れに身を委ねると言う表現がある。委ねると言う言葉には、どこか他人任せなイメージがあるが、何者にも染まらず流れ続けるためにはしなやかでたおやかな意志が必要になる。自分は生きているのではなく生かされていると思わざるを得ない体験を重ねると、自力のひ弱さを思い知る。自力で辿り着ける場所には限界がある。人間の思惑なんてたかが知れている。自分は自分の力で生きている。そういった勘違いは思い上がりを生み、傲慢な人間を生む。この世には、二種類の人間がいる。死ぬまでが人生だと思っている人間と、死んでからが人生だと思っている人間だ。肉体は消えても精神は残る。精神が残り続ける限り、何度でも肉体は再建される。

 

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「LIVE TOGETHER」

 

ここから僕らが飛び去る時 弾けた体が風に乗って

ここから僕らが飛び去る時 流れた涙が星になった

 

身ぐるみ全部剥ぎ取られ 掃き溜めの中捨てられても

冷え切った牢獄にぶち込まれ 暗闇の中打ち震えても

 

僕たちは 歌うことをやめないだろう

 

見えるか あの 空の向こう 輝く

僕たちが消えても 愛ならこのまま

誰一人置いて行かない LIVE TOGETHER

 

ここから僕らが飛び去る時 汚れた夜空に夢が散って

ここから僕らが飛び去る時 最後の祈りが種になった

 

指先を粉々に砕かれて 何一つもう 掴めなくても 

絶望に憧れを潰されて 何一つもう 見えなくても

 

僕たちは 歌うことをやめないだろう

 

聞こえるか まだ 海の向こう 囁く

僕たちが消えても 愛ならこのまま

誰一人置いていかない LIVE TOGETHER

 

見えるか あの 空の向こう 輝く

僕たちが消えても 愛ならこのまま

誰一人置いていかない LIVE TOGETHER

 

晴れ渡る 紺碧 舞い踊る 花弁

繰り返す 波音 闇に光る 星空

 

誰一人置いていかない LIVE TOGETHER

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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水の記憶。

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今日、カメラマンの女性と会った。その方は「写真を撮る時は、毎回その人に恋をしながら撮影をしている」と言った。最近はお見合い写真を撮ることが多いのだが、恋に落ちている状態で撮影をしているからなのか、自分が撮影した人にはたくさんのお見舞い依頼が来ると言った。恋に落ちている時間は撮影をしている間だけで、撮影が終われば恋も終わる。不思議ですよね。彼女は笑いながらそう話した。

 

教養と野生。

私は、社交辞令や愛想笑いができない。だから、作り笑いをされても「その笑顔には反応したくない」と頭より先に体が身構えてしまい、何をしている時が楽しいですかなどと聞かれても「その次元では答えたくない」と思ってしまい、沈黙する。表面的な会話に合わせると表面的な時間が続いてしまうため、無視をしたあとに大体次の選択肢の内のどれかを選ぶ。笑わせるか。泣かせるか。怒らせるか。相手の感情が露わになる道を探すのだが、そのためには表面を一旦かち割る必要がある。誤解されると困るが、目的は相手を傷つけることではない。目的は「恋に落ちるため」だ。表面的なものを全部取っ払った後に残るその人を好きになりたいと思うから、まず壊す。そのため、初対面の人と会う時は結構な割合で雰囲気が緊迫する。

 

金をたくさん持っている豊かさもあれば、花の名前をたくさん知っている豊かさもある。教養は、別に金にはならないが生活を豊かにするものだと思う。だからといって「私は教養を身につけるために美術館に行っています」と言う人とは、仲良くなれる気がしない。以前、教養を感じる人が好きだと書いたが、このニュアンスを正確に伝えることが難しい。私は、野生を感じる教養が好きだ。自分の感覚を研ぎ澄ませると、嘘に敏感になる。騙されなくなる。逆に、多くの人々が見過ごすようなことにも「ここには大事なことが詰まっているから、絶対に見ておいた方がいい」みたいなセンサーが働く。系統的な知識を持っている人を凄いとは思うが、そこにはあまり惹かれない。知識しかない人は「そんなことも知らないの?」的な眼差しを周囲に向けるが、これは最低だ。勉強し過ぎると馬鹿になる典型だと思う。

 

歴史上の人物はさっぱり覚えられないこどもたちも、ワンピースの登場人物は事細かく覚えている。自分には学がないと嘆く主婦も、大好きな韓流ドラマの展開を明確に記憶している。頭が良いとは何だろうか。誰もが強大な記憶力を持っているが、発揮している先が違う。私は、何気ない会話の中に「柳宗悦もこんなことを言っていました」みたいな感じで過去の偉人が登場すると、なんと言えばいいのかわからないが痺れる。会話の中に岩波文庫が登場すると「おおー!すげー!」と思う。そこに勝手に教養を感じるのだが、話している本人からしてみたら自分の好きを突き進んだ結果勝手にぶち当たったのが柳宗悦だっただけで、別に「教養をつけるため」とかはなかったのだと思う。要するに、生き方のセンスなのだろうか。自分の趣味が、相手のセンスと合致した時に「教養」などと勝手に思うのだろうか。

 

水の記憶。

水にも記憶があると思う。正確には「水には情報を転写できる」と思う。昨日、熱海の温泉に入った。温泉の水は、家で入る風呂の水とは違う。泉質なども当然あるが、経てきたルートが違う。温泉や海水には太古の香りを感じる。水道管を経た水に、太古を感じることはない。肉体の70%は水でできていて、地球の70%は海でできている。水は情報を転写するが、簡単に入る代わりに簡単に抜けると聞いた。記憶というワードに昔から関心がある。私は私を人間だと思っているが、実はただの記憶だと思う。スマホクラウドの関係と似ている。私と言う肉体は端末で、クラウドと接続している。肉体は消えても、クラウドに保存された記憶は永遠に残る。

 

自分は、なぜ、これほどまでに外部環境の影響を受けるのか。天気一つで気分も変わる。誰といるか、何処にいるか、それだけで引き出される自分が全然変わる。そんな自分を一貫性がないと否定的に捉えていた時期もあったが、最近は「自分は水で、転写をしているだけに過ぎない」と思うようになった。インスタントコーヒーの粉にお湯を入れると珈琲になる。それを濾過すれば水が抽出される。自分という存在は常に無色透明で、ただ、経てきたものによって多種多様な姿を見せるだけ。自分というものはあるようでなく、ないようであり、この瞬間も流れ続けている。

 

あまりにも笑顔が多い人を見ると、笑いたい時にだけ笑って欲しいと思う。本当は泣きたい時も笑って生きてきた背景を感じる。明るく在ることでキープをしたい自分、ガードをしたい自分がいるのだと思う。真っ直ぐにそのことを告げると、時折、涙を流す人と出会う。笑える場所はたくさんあるが、泣ける場所は少ない。涙を「水に戻る」と書いた日本人の感性は凄い。泣きたいだけ泣いた後、その人は必ず笑顔になる。その笑顔には、なんだかスッキリしたような清々しさや、朝露のような瑞々しさを感じる。何かに似ているなと思ったが、花だ。自分でもなんで泣いているのかわからなくなって、最後の最後に笑顔が咲く。この花に、恋に落ちる。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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居場所はない。隙間があるだけ。

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10歳の頃、悪夢を見て母親に泣きついたことがある。自分の不手際によって、通っていた小学校を全焼させてしまう夢だった。母親は「大丈夫、大丈夫」と言いながら背中をさすってくれた。私は、母親の胸の中で震え続けた。怖いと思ったのは、校舎が燃えたことではなかった。校舎を燃やした損害賠償を自分の両親がしなければならなくなったことに、私は震えていた。幼少期から家に金がないことはわかっていたため、金銭的な負担を親にかけてはならないのだと強く思っていた。10歳という年齢ではあったが、本当の恐怖とは自分が傷つくことなどではなく「自分がやったことによって、大切な人に負担がかかること」なのだと、その夢から学んだ。

 

渇き。

ある日、親に「家族の縁を切ってもらうことは可能か」と尋ねたことがある。家族が嫌いだったからではない。逆だ。家族を大事に思うからこそ、自分と血が繋がっていたがために迷惑がかかることを極度に恐れた私は、縁を切ってくれないかとお願いをした。これから先、自分にロクな生き方ができるとは思わない。自分一人で処理できる問題ならいいが、親にまで迷惑が行くのは耐えられない。だから、縁を切って欲しい。親は「何言ってんのよ」と笑って済ませたが、未だに、自分の中に「大事なものであるほど、縁を切ろうとする」働きがあることを感じる。無意識なのか、意識的なものなのかはわからない。深く繋がることを、恐れる部分がある。

 

自分はずっと緊張状態にあると思う。リラックスという概念がいまだによくわからない。この前、鵠沼海岸でサーフィンをした。インストラクターから「あなたは力の抜き方がうまいですね」と褒められた。身体的な意味ではリラックスはできているのかもしれないが、精神的にはリラックスできている時はないように思う。巷では「リラックスすることが大事」だと散々言われている。言いたいことはわかるし、リラックスできない自分をダメだなと思うこともある。だが、深層心理の部分では、私はリラックスすることを拒否しているのだと思う。幸せになりたいと思う部分が表層なら、奥底では幸せになってたまるかと思っている自分がいる。満ち足りたいと思う裏側では、キープをしたい飢えがある。キープをしたい渇きがある。

 

信頼という言葉から連想する態度は人によって異なる。ある人は「何でも話してくれることが信頼だ」と言うだろう。ある人は「話したくなったら話すだろうから、見守っていられることが信頼だ」と言う。どちらが本当なのかはわからない。ただ、私は前者になることができない。ずっと後者で生きてきたため、前者の人間からは冷酷だと言われる。もっと私を信頼して欲しいと言われる。自分としては信頼しているつもりなのだが、自分の態度が相手との距離を深める。全部を出せと言われても、出せない時がある。本当に大事なことは、人には話せない。これまで付き合ってきた女性から、私は、このような言葉を頻繁に言われた。「あなたは、本当に私のことを好きなの?」と。「もっと私を見て欲しい」と。こう言う言葉を言われると、ああ、また失敗をしたなと思う。やがて、私は女性と付き合うことを避けるようになった。無意識の内に、女性は面倒臭いと思うようになったのだろう。だが、偏見は徐々に溶けた。そうじゃない人物との出会いが、私の偏見を溶かした。

 

居場所はない。隙間があるだけ。

居場所作りという言葉がある。ファンクラブや、最近ならオンライサロンなどがある。コミュニティという言葉もあるが、どれにも私は馴染めない。これまでの人生で「ここが俺の居場所だ」と感じたことは、多分、ない。海に入っている時など、地球が俺の居場所だと思うことはあるが、具体的な場所に居場所感を感じたことはない。居場所は人だと思ったこともある。だが、やはり、少し違う。居場所があるという前提の世界観より「居場所はない」という世界観の方が、腑に落ちる。他の人がどうかは知らないが、私には居場所がない。居場所がないことは普通で、ただ、隙間があるだけなのだと思う。私は、今、ある場所とある場所の隙間にいる。

 

生きるために希望は必要だが、希望を求めておきながら希望に安堵できない自分がいる。夢や、希望や、安心感が、何かを誤魔化しているだけに感じることがある。精神的な安定を求めておきながら、精神的な安定を拒絶する自分がいる。精神が安定してしまったら、自分が自分ではなくなってしまう恐怖感がある。今日、こんなことを思った。理由は聞かないで、いられるだけいさせて欲しい。邪魔になったら邪魔になったと言って欲しい。その時は出て行く。私が出て行く理由は三つ。出て行けと言われた時。外に行きたい場所がある時。ここにはいられないと思った時。

 

九月に入り、涼しい日々が続いている。季節の変わり目は風邪を引きやすい。精神的に不安定になる人もいるだろう。私たちは、今、夏と秋の隙間にいる。昔から、新潟にある実家の夢をよく見る。不思議なことに、夢の中では必ず部屋の数が一つだけ多い。そんな部屋は実在しないはずなのに、夢の中の自分はその部屋があって当然と言うように家の中を歩く。夢に出てくる実家は常に薄暗く、不穏な空気感を漂わせている。家全体に意思があり、その意思は、どちらかと言えば私に危害を加えそうな予感を感じさせる。本来安らぎを覚えるはずの実家が、私に危害を与え得る不吉なものの象徴として迫ってくるのだ。だが、それはただの危害ではない。忘れていた何かを思い出させるための警鐘となり、今、ここにある生を際立たせる。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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君の夢の中へ。

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熱海の家に戻った。近隣は崩壊しているが草木は思い切り茂り生命の力強さを感じる。人間が数ヶ月立ち入らないだけで周囲は簡単に廃墟と化し、玄関前の庭はジャングルになっていた。家に入り換気をする。ガス会社や電気会社に連絡をし、パガニーニの主題による狂詩曲第18変奏を爆音で流しながら隅々を水拭きする。空間が少しずつ家としての機能を取り戻す。掃除をしていると自然とひざまずく。懺悔をしているみたいだなと思った。正確には「懺悔をさせてもらっている」と思った。

 

物語と記憶。

数週間ブログを書けなかった。何を書いても浅薄に感じられ、書けば書くほど自分を嫌いになった。自分にはインプットが足りないと思って読書をしたり映画を見たりしたが、見れば見るほど他人の人生に自分の人生が凌辱されていく感覚を抱き、自分は自分の歌を歌うしかないのだと思った。昔から知性に憧れていた。教養のある人間に惹かれるし、教養のない自分を恥ずかしいと思う。評論家の知識量に圧倒され「俺も少しは知識を身につけなければ」と焦ったりもしたが、そうした動機で身につけられた知識は窮屈で重い。多分、自分は憧れたままでいいのだと思った。知識や知性に憧れたまま、からっぽなままで生きる。歌を歌っている間はからっぽになれる。からっぽになれる心地よさは、知的な楽しさとはまた別の喜びがある。

 

ラフマニノフを流していなかったら自分は悲愴感と共に家の掃除をしていたと思う。音楽が空間を浄化した。音楽は記憶と密接につながっている。私の音楽を聞いてくれた女性から曲の感想をたくさんもらった。彼女は言った。ずっと忘れていた記憶があなたの音楽を聞いたことによって「大切な記憶」として蘇った。と。最近、物語や記憶といったワードに強い関心がある。音楽を作る時、言葉を綴る時、私は人類共通に記憶にリーチをしているという感覚がある。それが成功したときは良い文章(良い音楽)になるが、まったく成功していない時は程度の低い独り言で終わる。過去とは、過ぎ去ったものではなく過ぎ去らなかったものだ。自分を過ぎ去ることができなかったものが、自分の一部に沈殿して、香りや音楽や風景を通じて攪拌される。私たちは、はじめて足を運んだ場所に懐かしさを覚えることがある。懐かしさと寂しさは似ている。どちらも胸を締め付ける。昔の人はこの感覚を郷愁と呼んだ。根源的な郷愁を感じるものに、どうしようもなく惹き付けられる。

 

誰一人例外なく物語を生きている。弾き語りとは言うが弾き喋りとは言わない。喋る人は多いが語る人は少ない。逆説的だが、喋ることをやめた時に語り出すもう一人の自分が登場する。私は、できることならこの部分にリーチをしたいと思う。おそらく、誰もが社会的な自分を維持するために「これが決壊してしまったら自分のままではいられなくなる」という部分を決壊させないように決壊させないように生きている。そうした日々を長い時間生きていると、自分は何かを守っているということを忘れ、決壊しそうな部分が自分にはあると言うことを忘れていく。だが、それは確実にある。私たちが映画や音楽などの舞台に足を運ぶのは、無意識的に決壊を求めているからだ。涙腺を崩壊させたい。心のガードを決壊させたい。この、なんだかよくわからない重たいものを取っ払いたい。この重たいものがある限り、自分は世界と繋がっていくことができない。そういった無意識的な叫びが、何か面白いことはないかななどといった表面的な言葉の裏に潜んでいる。物語を内側から破壊することはできない。物語を壊すことができるのは、物語の外側から差す光だ。

 

夢。

人類共通の記憶というのだろうか、記憶の海のようなものが何処かにあり、私たちはそこから咲き出た睡蓮みたいなものなのかもしれない。人間は、夢を見ることで思考を整理すると言われている。寝る前、私は、暗闇の中で目を瞑ると必ず誰かの声が聞こえる。幻聴といえば幻聴だが、その日に別にあったわけでもなんでもない人が突然何かを喋り出し、まったく出鱈目な方向から今度は別の人の声が聞こえたりする。いまではすっかりそれに慣れ、その声を聞かないようにするというよりは彼らの話が終わるまでただただひたすら聞いている。彼らは、別に私に話しかけているわけではない。会話に整合性もないし、インスピレーショナルな何かを貰うわけでもない。大体が意味不明な内容で、私は、それをラジオのように聞いている。

 

夢は心の傷を修復しているのか。それとも傷を浮き彫りにしているのだろうか。私は頻繁に身近な大切な人から見捨てられる夢を見る。ある日、いつものように彼らに会うと、彼らは「お前のことなんて知らない」と冷たい眼差しを私に向ける。大概はそういった夢だ。ちょっと前にも同じ夢を見た。生きている人全員から冷たい眼差しを向けられ、どこに行っても傷つくと思って逃げるように街中を彷徨っていたら葬式が行われていた。よく見ると、それはX JAPANのhideの葬式だった。なぜか、葬式場だけでは自分が傷つけられることはなかった。その時に私は「死んでいる人だけが優しかった」と思った。夢は、あの世とこの世の境界線みたいな場所だなと思う。死んでいるひとだけが優しかったという感覚は、目覚めている間にも効力を発した。横のつながりだけではなく、縦のつながりもあることを私は学んだ。

 

生が終わって死がはじまるのではなく、生が終わる時に死も一緒に終わるのだと思う。熱海の夜は一面虫の声が鳴り響いている。東京では全然聞くことのない音が世界を覆っている。私の家がある伊豆山という地域は夜になると真っ暗になる。以前、伊豆山に遊びに来た人が「ここは夜になると本当に真っ暗になるから、昼間出会った人はみんな幽霊か妖怪だったのかなって思う」と笑いながら話した。小さな頃、こんな想像をしたことがある。自分以外は全員演者で、私の友達を演じたり、学校の先生を演じているだけ。私がその場を離れると、みんな一斉に「おつかれさまです」などと言いながら楽屋に戻る。全員が私を騙すために彼らの役を演じているだけだったとしても、私はそれに気づき得ない。そういう想像をしたことがあるのだが、最近はそういったことを頻繁に思い出す。毎日夢を見る。号泣しながら目覚めたことが過去に何度かあるのだが、最も印象的だったのは両親がただ仲良く過ごしているだけの夢だった。その夢を見た時、私は号泣をしながら目を覚ました。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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愛をぶちまけろ。

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避難所生活最終日。明日にはここを出なければならないが、家の近隣は引き続き立入禁止区域に指定されているため行き先を失う。熱海は御多分に漏れず高齢化が進んでおり、避難所は老人で溢れ返っている。誤解を恐れずに書くと、空間全体に覇気がない。諦めのムードや愚痴が蔓延し、そこら中からため息が聞こえる。ここにいたら俺の生気まで奪われると思い、せめてもの抵抗として階段を使用している。鋼の丹田を通じてマイナスのエネルギーを弾き返すイメージで毎日過ごしている。

 

おおまかなスケジュール

7月16日(金)熱海

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

 

我々は、地球に遊びに来ているのだ。

信じられない話だが私の影武者が発生したらしく、市役所の職員から「坂爪さんですよね?」と毎回確認される。私とそっくりの姿で(おそらく不正に)ホテルを出入りしている人間がいるらしい。なんだこれは。避難所にいると気が滅入るのでできるだけ外に出るようにしている。私は、避難生活者中一番日焼けをした男ナンバーワンを目指している。明らかに海に行ってきた姿で避難所に戻ると「お前は遊びに来たのか」的な視線で睨まれる。だが、そんなことを言われても「そうです」としか言えない。ものすごい広い意味で言えば、我々は地球に遊びに来ているのだ。

 

タオルだけ持って広い海に出るとそれなりの開放感を感じる。私はアウトドアも哲学も音楽も好きだ。これらを通じて、多分、私は死ぬ練習をしているのだと思う。死ぬ練習とは失う練習だ。失っても失わないもの確認だ。言い換えるならば「よりよく生きるための準備体操」みたいなものだ。本番は人生。舞台の上だけじゃない。人間をやることが本番だ。今回の災害を通じて、自分の野良猫レベルが向上した。迂闊に俺を慰めると噛むぞ、と、謎に牙を剥いている。俺が不幸かどうかを決めるのは俺だ。多分、そういう反骨精神が牙を剥かせるのだと思う。慰める人間には二種類いる。純粋な慰めを与える人間と、自分が救われたくて誰かを救おうとする人間だ。前者の善意は心地よい。だが、後者の善意は気持ち悪いから受け取りたくない。大概、後者の人間は「受け取りたくない」と言うと烈火の如く怒り出す。

 

様々な方々から電話相談を受けながら「怒りのこじらせ方には二種類あるな」と思った。怒り自体は純粋な感情だから私は好きだ。濁りがない。だが、溜め込まれた怒りは憎しみや恨みとなって内臓を蝕む。ヨガの先生や環境保護活動家にも憎しみをガソリンに生きている人間は多い。こういう人間は怖いから距離を置く。もうひとつのこじらせかたは「幼児的な甘え」を抱き続けることだ。溜め込まれた怒りが幼児的な甘えを形成し、それを抱えた人間は「常に甘えられる対象を探す」人生を生きる。結局、どちらも他人を通じて親への復讐をしているのだと思う。だから、私は、避ける。余談だが、京都という街にも憎しみを感じた。これはとてももったいないと思った。京都には素晴らしいものがたくさんあるのだが、街全体が「何かを憎む」ことで成立している印象を覚えた。だから、京都で暮らすことをやめた。

 

愛をぶちまけろ。

こんなことを書いたら怒られてしまうそうだが、怒られてしまいそうなことほど書かなければならないことだと思うから書く。非常にありがたいことに様々な方から「困ったら我が家に来てください」と連絡をいただく。だが、私は、そこに行かないと思う。なぜならば、私が一番求めているものは安心して過ごせる居住環境ではなく、端的に「面白さ」だからだ。面白ければ行くし、面白くなければ行かない。面白くないとか書くと語弊たっぷりで怖いが、感覚的に「戻りたくない」のだ。感覚的に「どんどん新しい方向に進みたい」のだ。避難所に来た最大の理由は、避難所の生活を経験したかったからだ。避難生活中に、自分はどのようなことを感じるのかを知りたかったからだ。こんな経験は金を払ってもできないと思ったからだ。

 

数年前にホノルルで拳銃強盗に遭った。当時、私は所持金80ドル(1万円程度)しか持っていなかったので、それを強盗に渡して事なきを得た。拳銃強盗に遭う体験はそれなりにショックでメンタル面の犠牲もあったが、心の何処かでは「素晴らしいアトラクションを1万円程度で体験することができた」とも思った。これは、ディズニーランドに行くよりも稀有な体験ができたぞと思った。多分、そういうことなのだと思う。神は「死なない程度に楽しんでこい」と言っている。地球というプレイランドに、私たちはパスポートを持って生まれてきた。このパスポートには有効期限がある。それが生きている時間だ。私たちがこの星を楽しむことができるのは、生きている時間だけだ。だから、神は「死なない程度に楽しんでこい」と言っている。そして、ついでに「まあ、最後には死ぬんだけどね」とも言っている。 

 

溜め込んだ怒りは憎しみに、あるいは幼児的な甘えになる。愛することは、許すことだ。許したければ、愛することだ。愛することとは、ぶちまけることだ。自分の全存在を爆発させて、渾然一体となって溶け合うことだ。つまらない見栄をかなぐり捨てて、玉砕覚悟でぶつかることだ。玉砕することは怖いことかもしれないが、玉砕した先にパカッ!と自分の殻が一枚割れて、新しい自分が登場する。生きている間に何回死ねるかが人生の醍醐味だ。命の新陳代謝だ。被害者面をしていても何も変わらない。泣けば泣くだけ給付金が出るのなら、俺だって号泣する準備はできている。だが、そんなものは出ない。私にあるものは有効期限つきのパスポートだけだ。だが、このパスポート一枚あれば、本当は何にでもなれるし、本当は何処にだって行けるということを私の魂は知っている。あとは、それを思い出すだけだ。

 

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「愛をぶちまけろ」

 

野良猫に触る時は気をつけて 

あたしたち 噛みつくことか懐くことしかできないの

 

そんな顔で八重歯尖らせて 俺のハートを撃ち抜いた

君の前では優しさだけじゃ もう 生きていけないぜ

 

つまらないのは俺か世界か オレンジの種吐き出して

君は笑った「どっちもだろ」って

 

汗と恥はかいた方がいいぜ 本当は分かってたんだろ

足りてないのは冒険と勇気

 

君に触れたい モラル蹴飛ばして 

裸になって 魂(ヌード)に触れたい

いい子ぶっている間に終わっちゃう 

腹にあるもの ぶちまけろ

 

愛されることばっかり 願って

愛することをすっかり 忘れて

出し惜しみしている間に終わっちゃう

いましかないぜ 愛を 愛をぶちまけろ

 

いつまでも明日があると思うなよ 心の準備をしている間に夢が老いぼれて行くぜ

お先なんて真っ暗が普通 憂鬱も 何もかも全部失くしてからが本当の俺さ

 

君とイキたい ルール蹴飛ばして

獣になって 本能(ヌード)でイキたい

うかうかしている間に終わっちゃう 

愛の嵐を ぶちまけろ

 

もうたまらない なんなのこれ!?って 

嘆いていたって なんにも変わんない

しけたツラしている間に終わっちゃう 

やるしかないぜ 愛を 愛をぶちまけろ

 

深刻になる方がきっと簡単だよね ずっと

だけど俺たちは捨て身の爽快感が 好きさ

君もいつまでもそんな所突っ立ってないで

俺の 海に 俺の海に 飛び込んでおいで

 

君に触れたい モラル蹴飛ばして 

裸になって 魂(ヌード)に触れたい

いい子ぶっている間に終わっちゃう 

腹にあるもの ぶちまけろ

 

愛想(ウソ)は要らねえ 笑顔繕って

仮面ばっかり キレーに整えて

出し惜しみしている間に終わっちゃう 

なま身の愛を ぶちまけろ

 

君とイキたい ルール蹴飛ばして 

獣になって 本能(ヌード)でイキたい

うかうかしている間に終わっちゃう 

愛の嵐を ぶちまけろ

 

もうたまらない なんなのこれ!?って 

ガードしてみてもビートは止まらない

しけたツラしている間に終わっちゃう 

やるしかないぜ 愛を 愛をぶちまけろ

 

世界一の 愛を 世界一の 愛を 

世界一の 愛を 世界一の 愛を

 

愛をぶちまけろ

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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睡蓮は、泥を必要としている。

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熱海の災害対策本部から電話が来て、ニューフジヤホテルの一室を避難所として使えることになった。ロビーに行くと先に避難していた近所の人々が「あ!」と声をかけてくれる。大概は高齢のおばあちゃま方なのだが、土石流の如くマシンガントークを捲し立てる。話を聞くことしかできないが話を聞くことくらいならできるから話を聞いていたら、次から次へとおばあちゃんが話しかけて来て一気に知り合いが増えた。不謹慎だが避難所が一種の修学旅行感を醸し出している。泣きながら身の上を語るおばあちゃんの真横を、小さな子供達が満面の笑顔で駆け抜けて行く。

 

おおまかなスケジュール

7月14日(水)熱海

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

 

知識は冷たい。知恵は温かい。

色々な人々から激励の言葉をいただく。自分に余裕がある時はいいのだが、余裕がない時に頑張れと言われると「これ以上何を頑張ればいいんだ」と叫びたくなる。鬱病患者はこうやって追い詰められるのだろうな、と思う。優しさとは想像力だとは思うが、被害者ぶっている自分自身にも「自分のことをわかって欲しい」と他者に期待をしている部分がある。多分、誰も悪くない。悪いのはタイミングだけだ。誰もが、良かれと思って声をかけている。誰もが、基本的には善意で生きている。

 

前に、余命わずかとされた病を抱えた男性が、他者から必要とされることで回復を遂げたと言う話を聞いた。普通、病人は慰める対象として扱われる。だが、ある日、彼のもとに身の上話を語る女性が現れた。女性は、男性が余命わずかなだなんてことをまるで気にせずに、自分の悩み事をぶちまけた。助けてください。あなたの力を貸してください。そう、男性にお願いをしたのだ。彼は、これまで生きてきた中で培ってきた知恵と勇気を総動員して、彼女の話に耳を傾けながら慎重に言葉を選び、自分だったらこうするというようなことを丁寧に話した。それを聞いた彼女は彼の言葉に従い、問題を解決した。普段は病人として扱われていた彼も、誰かから必要とされる体験を通じて生きる気力を取り戻し病を克服したと言う実話だ。

 

大変な時ほど「誰かに何かをして欲しい」と受け取ることばかりを考えがちになるが、受け取ることと同じくらい、与えることも力になる。私たちは、誰かに何かをした時に「してあげた」という表現を用いる。だが、正確には「させていただいている」のだと思う。私は、多分、おばあちゃんの話を聞くことで生きる力を取り戻しているのだと思う。自分のことを一旦忘れて、他者の言葉に耳を傾ける時、大袈裟な表現になるが自分の魂も一緒に救われている。幸福とは、自分の命の中にすべてのものの命を見ることであり、すべての命の中に自分の命を見ることだと思う。

 

助けるとか、助けられるとか、その境界線はひどく曖昧なものだ。自分に優しくすることが難しい時、他者に優しくすることを通じて優しさの根源に触れ直すことがある。そんな時に「世界が俺だけじゃなくてよかった」と思う。殺伐とした世の中では、他者を自分の利益のための道具として見てしまう場面がたくさんある。有用か。不用か。しかし、私たちにとって他者とは、空気や水と同じように「それがなければ生きていけない」ものだ。他者を通じて、私たちは自分を確認することができる。世の中が豊かになっても自殺者や精神病患者が減らないのは、命を見つめる眼差しが減っているからだと思う。人間は神の道具であり、人間の道具ではない。

 

ここ数日、自分のLINEを公開して「話したい人がいたらご連絡ください」と連絡先を開放している。避難所の個室にWi-Fiがなくてしかも圏外というハンデはあるが、今宵も時間があるので「人間と話したい」と思う方がいたらご連絡ください。ひとつだけはっきり言えることは、私たちが抱える問題は閉ざされた空間では絶対に解決しないと言うことだ。だが、逆に言えば「閉ざされた空間を一歩だけでも外に出る」ことによって、停滞していた心に風が吹く。自分をクローズなものにすると人間は簡単に死ぬ。だが、自分をオープンにしている限り、人間は絶対に死なない。

 

睡蓮は、泥を必要としている。

報道関係者が「あなたの知り合いで亡くなった人や行方不明者はいませんか?」と毎回聞いてくる。あまりにも無神経な質問に驚くが、それに答える人もいるから更に驚く。報道関係者が熱海タクシーを占拠しているため、遠方に住む高齢者たちは移動手段をなくしている。報道のためなら地域住民の生活を蹂躙してもいいのだろうか。誰のための報道だろう。避難先のホテルでは、行き場をなくした人々がまるで生きる力を吸い取られて行くかのように延々とテレビを見続けている。各種メディアだけを責めることはできない。それを見たがる人間がいるから彼らも仕事として成り立つ。芸能人や被災者の私生活が脅かされるのは、それを見たがる一般の人々がいるからだ。問われているのはメディアだけじゃない。私たち一人一人だ。

 

ホテルのロビーには、全国各地から届いた服が大量にある。ここは服屋ではないから当然平積みにされる訳だが、誤解を恐れずに言えばゴミの山に見える。支援物資という名の下に、全国から不用品が届いている。乱暴な言葉になるが「お前らはゴミで生きろ」と言われているみたいで、それを手に取る被災者は少ない。支援物資が置かれている場所の波動は低く、自分が乞食として扱われているような気持ちになる。本当の支援とは何か。それを考えさせられる貴重な瞬間の中に自分はいる。

 

様々な人から連絡が届く。私は阪神淡路大震災を経験した。私は熊本地震を経験した。私は実家を火事で全焼した。だから、お前も頑張れ。おそらくそういうことを言いたいのだろうが、時折「お前の不幸を盾にマウントを取るな」と思う時がある。私の被害に比べればお前の被害は小さいのだから前を向いて生きろと言われても、正直、困る。悲しみに大小はない。みんな頑張って生きているのだから自分も頑張って生きようというのは、自分が自分に言う言葉であって、誰かに強制される言葉ではない。規模の大小で悲しみが決めつけられると、悲しむことが許されない人々が発生する。家が雨漏りして困ってる人に「家が流された人間もいるのだから不満を言うな」と咎めることは、ある種の暴力だ。誤解されると困るが、私は全部の連絡に反感を覚えた訳じゃない。ただ、こう言う時に人は善意によって苦しむのだなと思っただけだ。自分の苦しみを認めること、涙を抑えることより一回しっかり涙を流すことが、悲しみを浄化させる。熱海では、東日本大震災を経験したラーメン屋の店主が「自分も助けられたから」と、被災者に無料で食事を提供している。一つの経験も、人によって解釈も生かし方も異なる。心の数だけ世界がある。

 

私は熱海の人間ではない。新潟生まれの異物だ。だが、異物だから話せることもある。コミュニティの枠外の人間だからこそできる役割もある。異物の役割は、閉鎖的な空間に風穴を開けることだ。常識を攪拌することだ。昨日、関西に暮らす女性から電話が来た。発達障害ADHDなどを抱えて日常生活が辛いがなかなか周囲に理解されることが少なくて辛い、それが原因で人間関係で揉めることも多いと彼女は話した。話を聞きながら「腹が立つのは、本当は仲良くやりたいから」だと思った。知識は冷たい。知恵は温かい。苦境に置かれた人間を救うのは知識ではない。知恵だ。知恵には温度がある。知恵には血が流れている。表面的なアドバイスは体温を奪う。それよりも食事を奢るとか甘いものを奢るとかハグをするとか「好きだ」と伝えるとかひたすら黙って同じ時間を共にするとか、現実に寄り添う知恵が力になる。そのようなことを伝えたら、彼女は頑張りますと言った。私は、頑張りますでは固いままだと思ったから「頑張るっていうよりは、温かくなる方向に行きたいですよね」と言った。言葉も時間も金も命も各種メディアも、大事なことは使い方だ。睡蓮は、泥を必要としている。睡蓮は、泥を使って美しい花を咲かせる。 

 

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「睡蓮」 詞曲 Keigo Sakatsume

 

叫び出したくなるほどのさみしさの中

確かに 僕らは 生きていた

 

醜いものでさえ終わりが来るのなら 愛しい

 

強く儚く美しく散る花のように舞う

白いあなたの 瞳を落ちていく

 

ボロボロに泣きながらふと目覚めた朝

終わらない光を 夢見ていた

 

消えない傷でさえ絆に変わるなら 愛しい

 

甘く激しく温かな血が巡る肌に舞う

冷えた僕らの 心に落ちていく

 

強く儚く美しく散る花のように舞う

白いあなたの 瞳を落ちていく

 

甘く激しく温かな血が巡る肌に舞う

冷えた僕らの 心に落ちていく

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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黄金のままでいられるか。

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熱海のホテルが避難所になっているからそこに行けば滞在できるよと言われ、熱海まで行ったが「順番待ちの方々がいるので今日の今日では無理です」と断られた。他に避難所はないのかと尋ねたが「ない」とのことだったので、現在は横浜の安宿にいる。緊急時は情報が錯綜するから事前にしっかり確かめた方が良い。良い教訓を得たが身も心もボロボロだ。ボロボロになると考えることもネガティブになる。だが、問題は何が起きたかじゃない。出来事を、どのように受け取るかが問題だ。

 

おおまかなスケジュール

7月12日(月)横浜

以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

 

 

一人にして。一人にしないで。 

ここ数日間の心理状態は複雑で「一人にして」と「一人にしないで」という相反する感情が常にある。経済的に豊かな訳ではないから連日のホテル暮らしには限界がある。かと言ってドミトリーやカプセルに泊まる体力がない。各種SNSから「誰か泊めてください」とヘルプを出せば、多分、誰かしらは泊めてくれるのだろう。そうすれば宿泊費は節約できるのだが、いまの自分にはコミュニケーションを交わす気力がない。困った時はホテルを取るので言ってくださいと連絡をくれた人もいるが、お願いをする余力がない。誰かに何かを頼むには力がいる。結果、自費で宿を取る。自費などと言ったが、被災直後に「これを使ってください」とペイペイなどから送金をしてくださった方の助力により、どうにか生き延びているのが現状だ。

 

だが、いまの自分に元気がないのかと言ったら複雑だ。身も心もボロボロになりつつあるが、自分の一部は「全然へっちゃらだよ」と平気な顔で笑っている。自分が置かれている状態を客観視して、そこからギャグをかまそうとしている自分がいる。生活に窮していることは事実だ。明日寝る場所も決まっていない。Amazonの欲しいものリストを公開して周囲にヘルプを求めるやり方もあると言われた。だが、実際に欲しいものリストを作成したら、私はそこに「ハーレーダビッドソン」とか書いてしまいそうだ。欲しいものを言えと言われても「タグホイヤーのカレラ」とか「表参道のマンション」とか「小型船舶の免許」とか、被災と全然関係ないことを書いてしまいそうだ。だから、この案はボツだ。全然元気だからボツだ。

 

こうした物欲は「生きる力」そのものだと思う。欲しがる力が、人間を生きる方向に駆り立てる。普段の私に物欲はない。だが、壊滅的な状態に置かれてから、まるで自分の内部に眠る力を無理やり呼び覚ますかのように、斬新な物欲が爆発している。自分が身につけている一つ一つを選び直したい感覚に襲われ、なんとなく選んだものの一切合切を捨てて心が躍るものだけで身を固めたい欲求がある。そういった視点で眺めると、自分がいかに「なんとなく」物事を選んでいたのかが分かる。一度強烈に死を意識したことで、破壊が再生をもたらした。今の私は、大袈裟だが生まれ変わるチャンスにあるのだと思う。人生に行き詰まりを感じる時、もうダメだと思うような時、生きる目的をすべて失ったように見える時、それは、実は素晴らしいチャンスだ。全部をもう一度やり直し、人生の新しい扉を開くチャンスだ。

 

黄金のままでいられるか。

被害者は悲しそうにしていなければいけない。被害者は辛そうにしていなければいけない。被害者は不幸そうにしていなければいけない。大袈裟かもしれないが、同調圧力のような空気感を感じる。楽しむこと、笑顔でいること、幸せになろうとすることが不謹慎とされるムードを感じる。だが、私は、違うと思う。病気にはなっても、病人にはなるまい。同調圧力に負けるな。こんな時こそ遊ばなきゃダメだ。こんな時こそユーモアを炸裂させなきゃダメだ。こんな時こそ歌を音楽を必要としなきゃダメだ。楽しいことを求めなくちゃダメだ。美しいものを求めなくちゃダメだ。自分の好きを貫く勇気を、自分の好きを実際に生きる勇気を忘れたらダメだ。

 

明日以降の予定はない。誰か横浜で一杯やりませんかと言いたい。こんな時こそ「フットワークだけは軽いので誰か交通費さえ出してくれたら何処までも行きます」と言いたい。自分に需要があるのかは知らない。ただ、この世に自分が供給されたことだけは事実だ。この世には、実際に動き出した後にしか見えない風景がある。合言葉は「軽やかに」。タンポポの綿毛のようなフットワークで、風に乗り、空を舞い、見知らぬ大地に足を運ぶ。そこで花を咲かせることもあれば、また別の場所に運ばれることもある。頭で考え過ぎるのではなく、自分のこころが「いいな」と思う方向にふらっと漂う軽やかさは、時に、運命的な実を結ぶことがある。

 

世界は光と色で出来ている。どちらにも重さはない。私たちは旅の目的を頻繁に思い悩むが、大事なものは旅そのものだ。誰もが、光から来て光に帰る旅の途中だ。大事なことは、自分に何が起きているかじゃない。それをどのように受け取るかだ。何者かになろうとすることではなく、ただ、黄金のままでいることだ。誰一人、自分を傷つけられる人間はいない。誰一人、自分の邪魔をできる人間はいない。どのようなことがあろうとも、何事にも、何者にも、自分を叩き潰させたり、自分の名誉を奪わせてしまってはいけない。自分の名誉は、自分で守る。自分を貫く限り、必ず人間は誤解を受ける。誤解される姿こそ、この世で一番美しい姿だ。

 

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「黄金のままでいられるか」 詞曲 Keigo Sakatsume

 

空に浮かぶ月が海に 白にも似た道を作り

揺れた波が描く色が 俺の両目を照らした

 

奴等の言うことは全部 正解でも本当じゃない

なんでもありの体現者 誤解される君は 綺麗

 

綺麗な物たちは全部 悲しみを隠し持っていて

優しい者たちは全部 ナイフを隠し持っていて

 

歯車を弾き出された 錬金術師たちが昨日

見上げた星が瞬いた 夜の歌を 響かせて

 

黄金のままでいられるか なんでもないような顔で

黄金のままでいられるか いまにも泣きそうな顔で

 

曇り空の更に上に 青い空が広がってる

金色(ゴールド)の光が差して 彼女の罪も許される

 

冷えたアスファルトの下に 燃えるマグマを感じてる

金色(ゴールド)に憧れたまま 憧れたまま死ぬのさ

 

黄金のままでいられるか 誰にも 見つけられない

黄金のままでいられるか 君を見つけられないから

 

誰も聞いたことない 声を 声を 声を 聴かせて 

誰も聞いたことない 声を 声を 声を 聴かせて

 

俺のような君に会って 君のような俺に会って

一つだけやっと分かった 不幸な人間はいない

 

傷口から零れ落ちた 賛美歌と血が流れる

唯一無二の体現者 誤解される君は 綺麗

 

世界の何処かにはきっと 自分みたいなやつがいて

いまにも泣きそうな顔で 出会えること待っている

 

世界の何処かにはきっと お前みたいなやつがいて

いまにも泣きそうな顔で 出会えること待っている

 

黄金のままでいられるか なんでもないような顔で

黄金のままでいられるか いまにも泣きそうな顔で

 

黄金のままでいられるか 誰にも 見つけられない

黄金のままでいられるか 君を 見つけに行くから

 

誰も聞いたことない 声を 声を 声を 聴かせて

誰も聞いたことない 声を 声を 声を 聴かせて 

 

君は 綺麗 君は 綺麗 君は 綺麗 君は 綺麗

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

  

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