いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

潔く、清々しく死ぬために生きる。

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自宅にインターネット回線がない(スマホも解約した)ために、今、熱海駅前にある無料の足湯にはいりつつ、駅前を飛び交うWi-Fiを拾ってこの記事を書いている。この所業を「足湯ノマド」と名付けた。河津桜は散り始めているが、近隣には沈丁花が咲き乱れて甘い芳香を撒き散らしている。春だ。何かしら用事のある方は、(ネットに接続している時間が一日に一時間程度であるために)ガラパゴスの携帯まで直接ご連絡ください。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
07055527106 ibaya@ezweb.ne.jp

最近思うことあれこれをまとめます。

1・自分をチューニングできる場所と時間を持つ。


インターネット環境のない暮らしを続けていると、経済的な節約にもなるばかりか、余計なノイズに惑わされることがなくなるために、自分の日々に集中することができる。すぐに何かを調べたい時には不便に感じることもあるけれど、その分、インターネットの有り難みを感じることができる。静かな場所、比較や競争から自由な場所を持つことは、多分、自分をチューニングする最適な環境をつくる。

2・人間は、多分、自分が決めただけ幸せになれる。


家のない生活をしていた時は、まさか、自分がこれだけ「生活を愛する」ことができるとは思わなかった。自分に限界を設けていたのは、周囲の環境でもなければ、経済的な理由でもない、自分の思考だった。諦めるのは簡単だけれど、簡単なことはつまらない。一年前の自分が、まさか、一年後の自分がよろこびと共に足湯にはいりながらブログ記事を更新しているとは、想像することもできなかった。

3・人生の醍醐味は、多分、その『予測不可能性』にある。


やりたいことをやる、やりたいからやる、能力があるからやるのではなく、能力がなくてもやる、才能がなくてもやる、誰かに馬鹿にされたとしてもやる、安定した生活を送れないとしてもやる、多分、何かをすることの醍醐味は「成功すること」の中にあるのではなく、成功しようが、失敗しようが、結果に関係のないところで「俺はやった」と思える清々しさの中にある。

4・「自分をすり減らしま宣言」を心に誓う。


先日開催された「わたり食堂(0円食堂)」に、提供者として参加してくれたさとみさんのブログ記事が秀逸だった。多分、自分が好きなことをやるために、自分をすり減らす努力なんで必要はない。自分がすり減っているのを感じた時、私もさとみさんを見習って「自分をすり減らしま宣言」を誓いたいと思う。


3月5日(土・啓蟄)に「第3回!わたり食堂」を開催することになりました。わたり食堂とは、誰でも0円で食事や飲み物やお菓子や、その他、あらゆるサービスを無料で楽しむことができる、フリーミールの飲食店です。本日より、提供者側としての参加希望者の募集を開始いたします。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾(さかつめけいご)までご連絡ください。


5・多分、友達も恋人も「必需品」ではなくて「贅沢品」だ。


多分、自分が真の意味で好きなひとというものは、五人もいれば充分過ぎるものだと思う。友達も恋人も、必需品ではなくて贅沢品だ。ひとりでもいたら、それは、最高の贅沢なのだ。しょーもない人間関係にすり減ってしまう位であれば、思い切って捨ててしまっても構わないのだと思う。ひとりでも生きるという清冽な覚悟が、逆に、新しい魅力となってそのひとを輝かせるのだと思う。

6・行動の純度が高くなるほどに、手段と目的は一致する。


何かをはじめるときに、多分、もっともらしい理由も覚悟も動機もいらないのだと思う。必要なのは「やりたいと思ったからやる」という、純粋な衝動だけだ。純粋な衝動が自分の中から湧き上がるとき、私は、自分が生きているということを強く感じる。けち臭い打算や器の小さい損得勘定を超えた、生きていることの素晴らしさを感じることができる。

7・「こうでなければいけない」ということなんて、本当は何ひとつないんだ。


生まれた時から、ひとりひとりは自由なのだと思う。

8・自分で自分を護る力。


様々なひとと関わりを持つなかで、必要なものは「自分で自分を護る力」だと思うようになった。それがなければ、簡単に周囲の影響を受けてしまって、自分の軸がぶれ続けてしまう。それでは、自分で自分を護る力とは何を指すのだろうか。私は、それが「覚悟(腹を括ること)」だと思っている。私は、多分、過去にふたつのとても大きな覚悟を決めた。ひとつ目は「死んでもいい」という覚悟。そして、ふたつ目は「ひとりでもいい」という覚悟になる。

9・自分を殺してまで生きていたいとは思わない。


過去に、何度も「そんなんじゃ生きていけないよ」と言われてきた。私は、そのようなことを言われるたびに「そこまでして(自分を殺してまで)生きていたいとは思わない」と思っていた。理解者はいなかろうが、死ぬまで馬鹿にされていようが、俺はひとりでも構わない(自分が感じるよろこびを、自分くらいは信じてやろう)と思っていた。多分、その思いを強く持てば持つほどに、自分の芯となり、自分を支える力(自分で自分を護る力)になっているのだと思う。


『臆病な僕でも勇者になれた七つの教え』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、旺季志ずかさん『臆病な僕でも勇者になれた七つの教え』です。こちらの本は、なんと!著者(志ずかさん)ご本人から直接「わたり文庫の仲間にいれてください」と、直接自宅に届きました。手書きの素晴らしさには、毎日感動している。電話より、LINEより、手書きだろ!と思いました。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾(さかつめけいご)までご連絡ください。

※※※ こちらの本は、イギリスにわたりました ※※※

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10・潔く、清々しく死ぬために生きる。


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結局、何よりも重要なことは「他人がどう思うか」ではなく「自分はどう思うか」ということになるのだろう。他人の顔色ばかりを伺っていると、自分の感情なんてものは簡単に見失ってしまう。他人が良いと思うものを良いと思い、他人が悪いと思うものを悪いと思うだけでは、やはり、精神的に貧困であるとしか思えない。誰が何と言おうとも、自分には「これが最高!」と思えるものがわかっているひとが、自分には魅力的に見える。

一番良くないのが「頭で考え過ぎてしまうこと」だと思う。大事なことは、開き直りだ。成功するためにやるのではなく、失敗するためにやるのだという開き直りだ。うまくやろうとするのではなく「よし、失敗してやろう!傷ついてやろう!」と思って飛び込めば、意外とうまく行くことは多い。考え過ぎて動けなくなるということは、私の言葉で言えば「ダサい」ということになる。

こどものように生きるのが、多分、ベストなのだ。春だ。命の限り、生命は生きようとしている。会いたいひとに会う、行きたい場所に行く、それ以外に優先するべきことが何かあるだろうか。私の理想は「今日も生きた!」と思って毎日眠りにつくことであり、最後の瞬間には「俺は生きた!」と思いながら、遊び疲れたこどもが眠りに落ちるように、自分の人生に幕を降ろすことだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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