いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KOJ-ゴールドコースト】お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

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鹿児島を経由して博多駅前の「大地のうどん」に音速で立ち寄り、大分県国東市で開催されたイベントに出演してから成田に戻ってゴールドコーストに飛んだ。先週末はモスクワにいたので、連日のロングフライトに肉体も精神も悲鳴をあげている。というのは嘘で、ゴールドコーストの突き抜ける青が目にも鮮やかで心を震わせたりしていた。


今回の移動はほしなさんという男性と共にしている。ほしなさんとは、去年の秋頃、新潟と山形の県境にある日本国という珍しい名前の山をベアフット(裸足)で共に制覇した辺りから急速に親睦を深めた。異様な体験を通じて苦楽を共にしたひととは、最速で仲良くなる。小枝は踏むと痛いとか、落ち葉はまるでクッションのような肌触りだとか、上り坂よりも下り坂の方が全体重が乗っかるから殺られるとか、山路で歌うもののけ姫は格別だとか、ベアフット登山後の温泉は最高だとか、そういうことを共有できる。ほしなさんは過去に偉業を達成しているので、詳細をブログ記事でまとめたこともある。



奇跡はどこに落ちているかわからない。


今回、我々ふたりがゴールドコーストにいる理由は、上記のリンク記事「奇跡は余白に舞い込む」を面白がってくれた海外在住の女性読者の方が、もし良かったら一緒に遊びに来てくださいということで、私たちをゴールドコーストまで招待してくれたからだ。奇跡はどこに落ちているかわからない。私達は「スケジュールがガラガラでよかったね」と、自身の余白力(要するに暇であること)を感謝していた。


誤解を恐れずに言うと、いばやの関係者は極端に「金を稼ぐのがあまり得意ではない」人達が多い。それでも死なずに生きてこられたのは、今回、我々を招待してくれたような方々が「生かしてくれるから」でしかない。稀に、坂爪さんはいばやとかやっていてすごいですねなどと言ってもらえることもあるが、すごいのはいばやでも坂爪圭吾でも何でもなく「いばや(坂爪圭吾)を支えてくれるひと」たちの存在であり、こうした方々がいてくれなければ、私たちはとっくに路上で野垂れ死んでいたと思う。

「金を稼ぐのがあまり得意ではないひとたち」の実験。


合同会社いばやを設立して、およそ二年の月日が流れた。設立当初は「いばやの活動や存在が未来にとって必要なものであれば、周囲のひとたちが『こいつらを餓死させてはいけない!』ということになって、必ず助けてくれるだろう」ということを考えていた。そして「しかし、いばやの活動や存在が未来にとってまるで必要のないものであれば、いばやも私達も死ぬだろう」と思っていた。あとはもう、やってみなければわからない。それならば、自分たちのセンスに賭けてみよう。そう思いながらはじめたいばやも奇跡的に二年間は死なずに生き続けることができていて、改めて「いばやとは何か?」ということを関係者と一緒に話したりしている。

「生きるためには何かを売り続けないといけない」のか?


二年間続けて見て「いばやというスタイルを説明する言葉は、まだ、いまの世の中にはない」ということを感じている。強いて言うなれば、NPOと呼ばれる組織形態に似ているのかもしれない。この組織があった方が世の中が良くなりそうだからという理由で、たとえば寄付のような形でお金が集まったり、世界の各地に呼ばれてみたり、存在そのものを面白がってもらったりしている。

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普通、会社が生き残るためには何かを売らなければいけない。しかし、私は「生きるためには何かを売り続けなければいけない」というスタイルに、軽い違和感を覚えている。違和感というか、単純に、私は何かを売るのが苦手だ。売るくらいなら、あげてしまいたいと思っている。しかし、それでは生活が成り立たないということで、誰もが何かの生産に関わり、大量生産と大量消費に貢献している。

ドラゴンボールのような組織(ユニオン)。


私達いばやのメンバーは複数名で構成されているが、基本的には常に別行動をしており、それぞれがそれぞれに活動をしているために、用事がない時はバラバラで暮らしている。しかし、何かしらの案件が入った時には全員が結集して、案件を終えたら即座に散らばる。その繰り返しの中を生きているために、まるで「俺たちはドラゴンボールみたいだね」なんて話したりしている。

ドラゴンボールは、全部集めると願い事が叶う。そして、願い事を叶えたら、再び世界中に散らばっていく。多分、これからの組織の在り方はこれに近いものになっていくのだろう。会社という組織のスタイルがいつまで持続するのかはわからないが、おそらく、会社という組織の中にいながら「動きづらさ」や「ある種の限界」を感じているひとは、日に日に増していると思う。

説明できることよりも「説明できないこと」に宿る何か。


大量消費や大量生産の問題は至る所で指摘されているが、しかし、この輪を自ら離れるというひとは少ない。多分、私達のように「金を稼ぐのがあまり得意ではないひとたち」は、それなりの数がいると思う。その先駆者になるべく(というのは嘘で、あまりそういうことは考えていない)いばやという活動や存在を通じて、新しい「会社の在り方(組織の在り方)」のようなものを無意識の内に模索しているのかもしれない。

いばやは「昔に戻りたい」とは思わない。それよりも「次に行きたい」と思っている。自然回帰や自給自足や霊的世界やスローライフやダウンシフトなど(疲れている人に対する処方箋のような生き方)にも、それほど興味はない。社会は未来に行きたがっているから、まだ、名前が与えられていないこと(制度が追いついていないこと)をやりたいと思っている。要するに「説明できないこと」をやりたいと思っている。

お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。


乱暴に言い換えるならば「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と言ったような感じで、何かの対価としてではなく、古い言葉で言えばパトロンのような存在が「あなたたちがいる世界の方が嬉しいから」というような理由で、その組織や個人を生かすための環境や何かを整えてくれる。このような組織や個人のアーティスティックな在り方は、徐々に増えていくのではないだろうかと感じている。

いばやの活動をはじめてから、様々なひとと出会う機会に恵まれた。そして、私は出会う人々を通じて、自分自身の好みを再認識するようになった。多分、誰かのためとか言い始めた瞬間から、ひとはつまらなくなるのだろう。こどものためとか地域社会のためとか世界平和のためとか、これからの日本のためとか、そういうことも素晴らしいことなのかもしれないが、正直に言えば退屈に響く。それよりも、徹底的に自分のためにやっているのだと言えるひとの清々しさが私は好きだ。

「お前の生き方は美しいから」とか「お前の生き方は面白いから」とか「お前がいてくれるだけで嬉しいから」といった理由だけでもっと生きることを期待されるようになる個人や団体は、多分、これから増えていくのだろう。人間にはそれぞれの役割がある。組織も同じだ。まずは、自分の役割を自覚する所からはじまるのだろう。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com