いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

耳を塞いでもいいのだ。

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佐渡を経由して新潟のイベントに登壇し、翌日、東京の帝国ホテルに突撃した。心ある方が、帝国ホテルのラウンジ席と着物と送迎用のリムジン(!)まで手配をしてくださり、参加希望者の女性15名程度と一緒に食事をした。これだけ贅沢な環境を整えてもらったのだから、さぞ、当日もすこぶる優雅な時間になるだろうと構えていたが、甘かった。私の人間的な程度の低さが露呈して、ちょっとだけ面倒なことになってしまった。


誤解を恐れずに言うと、私はスピリチュアルとかカウンセリングとかコーチングとか自己啓発とか、これらの類があまり得意ではない。本来であれば「ひとを幸せにしてくれる」はずの自己啓発的なサムシングにはまるひとほど、不幸そうに見える。何かこう「カモられていませんか???」という気持ちになる。うまく言葉にすることができないのだけれど、昨夜、帝国ホテルに来てくれた一部の方々の会話を聞きながら「なんだか同じ臭いがする!」と思った。

耳を塞ぐ。

多分、私は人間の好き嫌いが激しいのだと思う。いいなと思う人には優しくしたいと思うけれど、なんだかなあと思うひとには露骨に態度が悪くなる。昨夜、初対面を果たしたばかりの女性の声の質が、私にはどうしても耐えることができなかった。最初は我慢をして聞いていたのだけれど、(頭ではなく)私の腹が「このままだと死ぬぞ!」と訴えはじめて、やがて「あああ!無理!無理!やっぱり無理だ!」と思った私は、目のマッサージをするふりをしながら、自分の両耳をこっそりと塞いだ。

もちろん、私にもそれなりの良識はある。一応、ゲストとして呼ばれている人間が、参加者の声を拒絶するように自分の両耳を塞ぐなんてあり得ないだろうと思う自分もいた。しかし、反面では、もしかしたら「そんな自分を面白がってくれるひともいるかもしれない」と思う自分もいた。頭ではいろいろなことを考えるけれど、そもそもで腹が「このままだと死ぬぞ!」と満身創痍のボロボロで訴えているものだから、私は「ええい!ままよ!【後は野となれ山となれ〜!】」と、両耳を塞いだ。

イベント終了後、ひとりの女性が「坂爪さん、あの時、耳を塞いでいましたよね」と話しかけてきた。私は「ああぁ!やっぱりバレてた!」と思って狼狽したが、その女性は「坂爪さんの正直なリアクションを見ていることが、一番面白かったです」と言ってくれた。この瞬間、私は、許されていると思った。両耳を塞ぐなんてあり得ないと思っていたけれど、両耳を塞ぐことを良しとしてくれるひとがいる、そのことが私に「両耳を塞いでもいいんだ!」という、大きなひとつの許しを与えてくれた。

両耳を塞いでもいいのだ。

いや、多分、ほんとうはダメなんだと思う。だけど、無理なものは無理なのだ、こればっかりはもう仕方がないのだ。苦手なひとの前では、耳を塞ごう。目のマッサージをするふりをしながら、両指を器用に動かして両耳の穴に蓋をしよう。時には誰かに思い切り嫌われてしまうこともあるけれど、同時に、思い切り好きになってもらえることもある。全員に好かれることなんてできないけれど、このひとはちょっとキツイなあと思うひとに、無理して好かれる必要もない。

やはり、覚悟を決めている人間と一緒にいたいものだ。覚悟とは「ひとりでもいい」という覚悟と「死んでもいい」という覚悟の二種類があると思う。不思議なことに、ひとりでもいい(ひとりでも生きる)という覚悟が定まる程に、周囲に人間が集まってくる。死んでもいいという覚悟が定まらなければ、延命措置的なサムシングに固執をして、最悪の場合はゾンビになる。これら二つの覚悟が決まっているひとには、潔い、清々しい風が吹いている。


こんなことを書いておきながら、もうひとりの自分が「こんなことを書いたら、耳を塞いだ相手に悪いよなあ」と、ぷるぷる震えている。言い訳をすると、人間関係は良い悪いではなく、多分、合う合わないがあるだけだ。特定の人物や性質を否定したい訳ではなく、何よりも言いたいことは「耳を塞ぐという比較的極端なことをしたとしても、嫌われるひとには嫌われるが、許してくれるひとは許してくれる(面白がってもらえることもある)」ということです。

人生とは、自分を楽しませることである。

昨夜のトークテーマは「ほんとうの豊かさとは何か」というものだった。元も子もないことを言えば、私には豊かさなんてわからないし、比較的どうでもいいことだと思っている。自分のことを豊かな人間だとは思わないが、自分のことを貧しい人間だとも思わない。平均的な30代と比較をすれば貯蓄的な意味では底辺にいるが、経験値の幅的な意味では底辺を抜け出せるかもしれないし、結局、これらの評価はただの比較(相対的な価値)でしかない。

私の信条のひとつに「人生とは、自分を楽しませることである」というものがある。自分を楽しませることができていない時に、人間は苛立ち、他人と比較し、未来に不安を覚えたりする。苛立ちは憎しみや嫉妬を生み、比較は劣等感や欠落感を生み、不安は延命措置を生む。マイナスの解釈は、人間のチューニングを簡単に狂わせる。貧しいひととは、多分、ものを持っていないひとではなくて「どれだけ多くのものを持っていても、常に『まだ足りない』と思っているひと」のことだ。

自分を楽しませることに成功したとき、ひとは「豊かだとか、貧しいとか、他人の顔色だとか世間的な評価だとか、そんなことはどうでもいい!」という境地に到達する。目指すべくはこの境地であり、世間的な評価や相対的な価値観に振り回されてしまう位なら、古い自分を殺すこと。自意識が吹き飛ぶ程の現実の渦に自分を投げ出せば、意外と清々しい結果になることは多い。生きるか死ぬかの二択ではない、「生きて死ぬか【耳を塞いで死ぬか】」「生きずに死ぬか【耳を塞がずに死ぬか】」の二者択一が、真の男の日常だと思っている。


人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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