いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「こうあるべき」の外側。

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横浜駅前のドトールにいる。ドトールには、お世話になっているからこそ言いたい。画一化された店員の心無い「ありがとうございます」を聞くたびに、本当にそう思っていますか?と詰問したくなる。思ってもないことを言うなよ。からっぽな言葉を使い続けると、心が死滅するぞ。この、資本家の手先どもめ。と。よろこびのためというより、生活のため、怒られないため、無難であるために生きているなあと感じる場面は、多い。仕事とは、大前提として「苦しいもの」なのだろうか。

 

 

おおまかなスケジュール

11月1日(金)Agape 千が平塚から大阪まで歩きはじめる「東海道五十嵐次」

11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape 単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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すべての企画で参加者募集中です🌸🌸🌸

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ibaya.hatenablog.com

 

それぞれの勇気。

昨日から「自立と依存」をテーマに、楽しい迷惑のかけ方実践編を敢行している。本日は東京の新橋からはじまり、その後の予定は未定。呼ばれた場所に移動するスタイルでやりたい(宿も未定)。前々から「めちゃめちゃ金があるひとと、金がなくても生きていけるひとと、どちらが強いのだろう?」的な問いが、自分の中にある。金を否定したいわけじゃなく、ただ、自由を肯定したいだけだ。思うに、どれだけ金があっても、失う恐怖をもっている限り『自由』からは遠い。金がなくても生きていけるものの強みは、少なくとも、金に関しては「失う恐怖」が薄い。なければないで、どうにかなる。これは、ある種の安心感や信頼感につながっていく。

 

 

所有という概念を考える。たとえば、空。空は誰のものだろうか。無論、誰のものでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。海も空も森も星も、自分が見ている間だけは「自分のもの」と呼べるのかもしれない。これくらいの距離感がちょうどよい。物質も同じだ。自分が使っている間は「自分のもの」であり、それ以外は、誰が使ってもいいように思う。さすれば、管理の手間も省けるし、モノを通じた出会いも生まれる。人間も、実は、同じなんじゃないのかなと思う。結婚や恋愛などの契約を通じて付き合うより、あなたは誰のものでもない、ただ、自分と一緒にいる間だけは「友達」であり「恋人」であり「家族」である。そういう感じでいいように思うのだけど、この感覚が伝わることは少ない。

 

 

私は未婚だ。結婚するなら「一緒にいることで、より自由になれる」関係性を期待する。仕事も同じだ。仕事を通じて、より、自分が自由になれるものが理想的だ。それがすぐに見つかるとは思わない。だが、その境地を目指すこと、諦めないこと、求め続けること、なければないで「作り出そうとする」程度の気骨は、超大事だと思う。そうじゃないと、生きることが、ただの苦行になる。大前提として、我々は、死ぬ。死ぬときにもっていけるものは、愛し愛された記憶程度のものであり、あとはなんの役にも立たない。全部置いていく。大事なものも、全部、最後には置いていくのだ。そう思うと、本当の意味で「自分のもの」と言えるものなんて、自分のハートくらいしかないじゃないか、などと自分なんかは思うのである。

 

note.mu

 

「こうあるべき」の外側。

常識や社会通念など「こうあるべき」とされることは多い。日本なら、よい学校に行き、よい会社に入り、よい家庭を築くことがよしとされる。『よい』の意味が曖昧だが、多くの人々は、この命令に従う。私は、この命令に従うことができなかった。なぜなら、こうあるべき(こうすれば安心)とされた生き方をしている人々が、言葉は悪いが、あまり幸せそうに見えないからだ。「なんだか大変そうだなあ」と思うことのほうが、多いからだ。自分を幸せにしない常識なら、従う必要はなのではないか。大事なことは、従うことより改良することであり、その際の基準になるものは、自分のハート以外にあり得ないじゃないか、などと思うのである。 

 

学校の先生や職場の上司に「ああしなさい」とか「こうしなさい」と言われても、それに従ったらお前みたいな人間になるじゃねえか、それだけはお断りだ、などと反発を続けた。結果、学校にも職場にもうまいこと馴染めず、このような生き方に着地をした。だが、これはこれで「まあまあの人生じゃないか」と思う。着地点を見出せてよかったと思う部分と、改良を続けたい気分の両方が、ある。私は、知性のあるひとが好きだ。知性とは、要するに『自分で考えて、自分で決めること』だと思う。宇宙という得体の知れない空間の真っ只中で、ポカリと浮かぶ謎の球体、地球。そこに生きる我々、謎の生命体『人間』。大前提として、実は、我々そのものが得体の知れないものであり、こうであるとされていることのすべては「実は、全部、嘘っぱちかも知れない」おとぎ話でもある。疑おうと思えば、全部、疑うことができる。そのなかで、自分の頭脳で考えて、自分の意思で決断をして、自分の精神で「決断を生きる」力を、私は知性と呼びたい。情報じゃない。知性なのだ。

 

前々から「こうあるべきの外側を見たい」という気持ちが、自分にはある。あなたはこういう人間だとか、生きていくためにはこれをやらなければならないだとか、こうなってしまったら一巻の終わりだとか、決めつけられた言葉を耳にすると「わからないじゃないか」と思う。人間なんて、簡単に変わる。昨日は「これだ!」と思っていたことさえ、明日になれば「こっちかもしれない」と、揺れ動く。揺れ動くというより、流れる。変化こそが常態であり、既定する方が、固定する方が、限定する方が、不自然なのだと思う。前回の記事で「私は、私の自然に従いたいだけだ」と書いた。季節が巡るように、天気が移り変わるように、流れ行くことが自然なのだと思う。そのなかで、時折、それはまるでオーロラを目にするような感じで『自分も知らなかった自分が、姿を現す』瞬間がある。その瞬間に、私は、ああ、世界にはこんなに素晴らしいものがあったのか、と、愛着を新たにするのである。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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嫌われることに、憧れている。

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横浜駅前のドトールにいる。昨日、各種SNSから「誰か夕ご飯なるものをわたしにご馳走してくれませんか@中目黒」と投稿した。最近、思う。自分の欲求ははっきり口にした方がいい。食べ物ならなんでもいい、という書き方ではダメだ。うどんなら、うどん。絶対にうどん。自分はうどんを食べたいのだ、と。だから、そう投稿した。ら、驚いたことにその1時間後に、初対面の方からうどんをご馳走しただく僥倖に恵まれた。心の底から「ありがとうございます」と言うことができた。

 

 

おおまかなスケジュール

10月29日以降、身売り2.0(必要とされる限り、なんでもやったる所存
11月1日(金)Agape 千が平塚から大阪まで歩きはじめる「東海道五十嵐次」

11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape 単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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連絡先・坂爪圭吾
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自分を出さないことは、ずるいよ。

自分は「売る・買う」よりも「あげる・もらう」が好きだ。普通、うどんを食べたいなら「そのための金を稼げ」とか言われる。だが、なんと言うか、それに異論を唱えるつもりはないが「うどんをご馳走してもらったほうが嬉しいじゃないか」と思う。 これは、きっと、世界の優しさを実感するからだ。これは仮説だが、人間は『実は、与えたい生き物』なんじゃないか。だが、与える機会はなかなかない。だから、ストレートに「これをしてもらえたらめっちゃよろこびます」と表現する人間が登場したとき、自分に余裕があるならば、よろこんでそれをやりたいと思う。

 

自分は、気を使いすぎて自滅するタイプだ。複数で食事をするときなど、みんなが何を食べたいのかを異常に気にして、全員が満足する道を選ぼうとする。が、その過程で疲れ果てて「これだから集団行動は苦手だ」と、自分の殻に閉じこもる。これはよくない。だから、もう、自分の欲求をはっきり口に出すことにした。自分はうどんだ。俺は、いま、めっちゃうどんが食べたい。めっちゃうどんを食べたいと思っている俺が、めっちゃおいしそうにうどんを食べている姿を見たら、きっと、みんなも「うどんも悪くないな。というか、うどんを食べられてよかったねえ」と、ほんわり幸せな気持ちになれるはずだ、的な勢いで「うどん!」と提案する。

 

他人に気を使いすぎて、四苦八苦して、最終的に「あいつのせいで…」とか誰かを恨むのは、卑怯だ。私は、卑怯だ。もっとまっすぐに生きたい。卑怯とは、自分の選択を「誰かのせい」にすることだ。責任転嫁。これが卑怯の本質だ。うどんを食べたい。そう叫ぶ私は、自分の欲求に責任を感じている。だから、清々しい。責任と爽快感は連結する。最近思う。自分を出さないことは、周囲に合わせることは、美徳でもなんでもない。卑怯者のやることだ。責任転嫁の言い逃れだ。というのは言い過ぎだけど、でも、自分の欲求をまっすぐに口にすることの威力を痛感する。誰にもわかってもらえないと嘆く前に、察してもらえないと拗ねる前に、自分は、自分の欲求を(回りくどい言い方ではなく)はっきりと口にしたかと問いたい。言わなきゃわからないのだ。しかし、言えば『わかってもらえることもある』のだ。

 

note.mu

 

嫌われることに、憧れている。

Agapeのあきとが「(絵も、音楽も)作ろうと思うと作れない。自分のバイオリズムに乗ると作れる」と言っていた。あきとは天才だ。天才とは、自分の自然に沿って生きている人間である。あきとは話す。自分にとって、絵を描くこと、音楽をやることは自然なことだ。ローソンの店員になることより、絵を描いて誰かに見てもらうとか、踊る、歌を歌う方が、なんと言うか、自然だ。でも、人間として自然なことをやると、社会的に不自然になる、と。この指摘は鋭い。私にとって「あげる・もらう」の関係性を構築することは、自然だ。別に変わったことをやりたいわけではなく、自分にとって自然なことをやりたいだけだ。が、こういう生き方をすると「変わっていますね」と言われる。社会的に、異物扱いをされることは多い。

 

note.mu

 

前に「他力で生きる」的な意味合いも込めて、家のない日々を二年間過ごした。この日々を見たひとが「あなたの生き方はすごい!」と、私をほめてくれた。 確かに、わたしは、強烈な存在かもしれない。でも、なによりもすごいのは「こういう生き方を成立させてくれた、周囲の人々の存在」だと思う。家なし生活を続けるためには、それを成立させる(ごはんをご馳走してくれるとか、家に泊まらせてくれる)人々がいなければ、成り立たない。こんな意味不明な人間の生き方を面白がり、一緒に楽しんでくれるひとがいたからこそ、成立した生き方である。だから、すごいのは「(坂爪圭吾ではなく)坂爪圭吾を成立させた人々」だと思う。本来、すべての生き方はそういうものだ。あらゆるひとがなにかを売っていて、それで生活をする。だが、すべては「それを買ってくれるひと」がいるから成立しているのであり、私と同じである。だが、そのことを頭ではわかっていても、リアルに実感する(心の底から「ありがとうございます」と思える)瞬間は、少ないと思う。

 

note.mu

 

私たちは嫌われることを恐れる。できることなら、ひとから好かれたいと思う。だが、冷静に観察すると「嫌われることに、憧れている」部分が、誰の中にもあると思う。好かれること以上に、嫌われることに憧れているのだ。なぜか。たとえ、嫌われるとわかっていてもそれを実行する者には、自分がある。自分に対する信頼や、周囲の評価などでは揺らぐことのない絶対的な価値を、周囲の人間に感じさせる。そういう風に見えるから、嫌われても、馬鹿にされても、それでも自分であることをやめない人間に、私たちは惹かれるのだ(と思う)。実は、私たちは、好かれたいと思う以上に、嫌われたいのではないだろうか。好かれたいと思う以上に、嫌われることによって「自分は、自由である」ということを感じたいのではないか。うまくやろうとするあまり、行動が鈍ることは多い。だが「嫌われても構わない」と踏み出す一歩には、自分でも驚くほどに、ダイナミックな力が宿り始める。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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できるできないじゃない、やりたいが勝つ瞬間。

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心斎橋のドトールにいる。誰かに泣き言を言いたくなる夜がある。が、言っても仕方ないよなと思う自分も、同時に存在する。そういうときは、文章を書く。あるいは、一人で延々と歩き続ける。神様に語りかけるように、書いたり、話したり、する。生きている人には話せないことがある。言えば、泣き言になるから。言えば、愚痴になるから。そういうとき、神様の存在は、とても役に立つ。役に立つという言葉は不謹慎か。とても、力になる。こういう力に、私は、凄い支えられている。

 

 

おおまかなスケジュール

10月26日(土)18時 KEIGO&RYU&千 LIVE@大阪市大正区「和み中華 威」
10月27日(日)15時 Agape 定期演奏会@横浜市港北区「わたり食堂」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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ibaya.hatenablog.com

 

遠くの誰かではなく、目の前のあなたに歌うのである。

自分の中に矛盾がある。音楽は誰のものでもない。だから、大前提として「みんなで楽しめたら最高!」と思う。真の調和を目指し、昨夜のライブでは誰でも使える楽器を用意し、みんなで演奏する形式を採用した。しかし、演奏中に小さなこどもたちが鈴やマラカスを乱発射しはじめ「正直、うるせえ」と思った。演奏の邪魔だと思ってしまったのだ。が、みんなでやりましょうと言った手前、どうすることもできない。ここは精神統一で突破だ!と丹田に力を込めるものの、あえなく玉砕。演奏中にも関わらず「ちょっと休憩しましょう」と、私は一回会場を逃げ出した。 

 

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「すみれちゃん」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

踏みつけた靴の かかとまで
いい匂いにする すみれちゃん

握った手のひらに 甘い香り残す

とおり過ぎていく ひとまでも
いい気持ちになる すみれちゃん

春の訪れ告げる 風にからだ踊る

消えないで 醒めないで 楽しそう
だまってて 揺れていて 楽しそう

なんのために歩くかなんて
君に会うためでいいでしょう?

なんでもないことを 笑ってくれたね

冷たい雨に 打たれながら
ひっそり泣いてる すみれちゃん

これから会いに行く 君に会いに行く

たくさんの光 吸い込んで
露のドレス舞う すみれちゃん

アスファルトの割れ目から ひょっこり顔を出した

消えないで 醒めないで 楽しそう
だまってて 揺れていて 楽しそう

なんのために生きるかなんて
君に会うためでいいでしょう?

なんにもないぼくに 笑ってくれたね

 

アメリカの作家・マークトウェインの言葉に「赦しとは、踏みにじられたスミレの花がそのかかとに放つ芳香である」というものがある。この言葉を見たとき、す、すげえなと思った。自分には到底無理だと思ったが、そうあれたらと思う気持ちも抱いた。同時に「どこか、女性的だな」と思った。自分は男で、これまで、母親を含めた様々な女性に『赦されながら』生きてきた気がする。女は花で、男は種子なのか。花は、その土地を動かない。だが、女から生まれた男(種子)は、どこまでも運ばれる。男は、自分が遠くまで行くことを「自分の力でやっているんだぜ」と容易に思い込むが、ただ、運ばれているだけだ。花の力。風の力。命の力。生きているのではなく生かされていることを忘れた時、私は、容易に傲慢な存在になる。

 

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イチカ」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

あんまり先を 考えちゃうとさ
どうしたって すぐ 疲れちゃうから 

いまはここに 君といよう このままで

とんちんかんな 安心感でも
ないよりは ずっと うれしいだろう

勘違いだと わかっている でも 続けていこう

夢の終わりは少しせつなく 涙がこぼれそうにだってなる
生きているだけでいいよ あとは全部おまけだろう

再び生きることのない今日の 太陽が海に沈んで消える
いちからひゃくを 繰り返す むきだしのまま

顔がいいだけじゃ 飽きられちゃうから
みそから セクシーにならなくっちゃ

ひたむきに生きる姿は「美しい!」

みそっかすでも 出たとこ勝負で
かっこ悪さも かっこ良さになる

いちかばちかの大博打「それでこそ!」なんてね

自分でもびびるほどのでかい夢が いま 目の前で帆を上げる
汚れたままでもいい はみ出し者にも福は来る

どうすりゃいいかわからんときは 損になる道を選べばいいよ
いちからひゃくを 投げ返す からっぽのまま

夢の終わりは少しせつなく 涙がこぼれそうにだってなる
「生きているだけでいいよ あとは全部おまけだろう」

二度と会えない人の言葉も いま ぼくたちの胸を温める
一度きりの朝(あした)を 迎えにいこう 迎えにいこう

 

すべてはベストなタイミングで起こる。現実に抗うのではなく、現実を受け入れ、楽しむこと。そんなことを休憩中に思った。抵抗するから、ダメになるのだ。変えようと思うから、肩に力が入るのだ。波乗りと同じである。自分も波になればいいのだ。そんな抽象的なことを思いながら、後半戦に突撃した。ら、実に良い空間が生まれた。2時間のライブに、人生のすべてが詰まっていた。そして思った。俺は、遠くの誰かに歌うのではなく、目の前のあなたに歌うのである。文章を書くときも同じだ。得体の知れない『みんな』に向けて書くのではなく、いま、これを読んでいるたったひとりに向けて、歌ったり、話したり、思いを飛ばすのだと思う。 

 

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「アリエル」 作詞 Ryota Hoshina 作曲 Keigo Sakatsume

僕は檻に閉じ込められたライオンさ 適度に演じて人を騙す
肉が欲しいと たまには吠えて 三度の飯だけ求めて生きる

僕は王に飼いならされたライオンさ 大あくびして 目を瞑る
不具でもないのに駆けやしない 半分 フリで 半分 寝てる

どうやら夢ってやつを見たらしい 地平線を往くあの太陽と
風に吹かれ黄金(きん)に輝く草 踏んだ大地は火より赤く

肚の底から咆えたくなって 生きてるな 生きてるぞ 意気揚々
エモノは 己で獲るんだな 駆け出して 駆け抜けて 空になる

息が苦しい傷が絶えない これが生きるってことなのか
百獣たちよ 待たせたな 流れた 涙が 答えのようだ

僕は夢から醒めたライオンだ 誰の期待にも応えない
その餌には 誘われないぜ 断食中さ 頭が 冴える

はじめて願いを持ったんだ 水平線から昇る眩しい光
雷鳴とどろく荒野の雨に かかる虹を見てから死のう

心の臓から震えてくるな 勇んでるな 挑んでるぞ 闘ってるぜ
機会(チャンス)は自分でつくるもの 血が流れて 嬉しくなって 倒れちまった

身体が鉛にもう動けない なんだ 空ってこんなに青く
百十回目の 敗けがつく だけど 気分は 晴れていた

死に方よりも 生き方だろう どこにぶち当たるのかわからない
わからないけれどここではない ここではないからまず飛び出す

腹の底から湧き上がってくる 生きてるな 生きてるぜ 意気揚々
エモノは 己で掴むもんだ 懸け出して 駆け抜けて 駄目になれ

ああ愉しかった そう言いたい 遠い夜空に笑顔浮かべ
百十個目の 星 となって 闇の中へ 流れて 消えた

僕は檻に閉じ込められたライオンさ 大あくびして 目を瞑る

 

できるできないじゃない、やりたいが勝つ瞬間。

なぜ、自分は音楽をやりたいと思ったのだろう。それは、音楽に心を動かされた記憶があるからだと思う。ひとつの音楽に触れて、心がどうしようもなく嬉しくなったり、心がどうしようもなく楽しくなったり、自分もやってみたい、自分もこういう人間になりたい、歌いたい、踊りたい、自分を全身で表現したいという思いが芽生えた瞬間、それが『夢』になる。感動と夢はリンクしている。感動は、自分もそういう人間になりたいと働きかける、魂の合図だ。自分が感じた感動を、自分が感じた美しさを、自分が感じた素晴らしさを、自分を通じて体現するための合図だ。

 

なにかをどうしようもなくやりたいと思う。そのとき、できるできないは問題じゃない。ただ『やりたい』という気持ちだけが、自分の内側からあふれ出る。そして、実際にそれをやる。自分の夢にダイブをする。そして思う。ああ、これが音楽ってものなのか!ああ、これが表現をするということなのか!ああ、これが生きているってことなのか!と。思っていたことと違うこともあるだろう。思ったようにいかないこともあるだろう。ただ、そのすべてをまるごとひっくるめて、生きている現実が『夢』なのだ。なぜ、自分がそれをやりたいと思ったのか。答えは、全部、初期衝動の中にある。それに触れている時間が、どうしようもなく楽しいものだったから、それをやる。その気持ちがあれば、もう、足りないものはなにもない。ひたすら、ひたすら、ただ、ひたすら、夢のど真ん中を生きればいいのだ。

 

楽しければそれだけでいいのか。そう問われることがある。私は、堂々と胸を張りながら「いいんだよ」と答えたい。楽しければ、もう、それだけで充分なんだよ。楽しいと思った瞬間が、ゴールなんだよ。ひとりの人間がなにかを思い切り楽しむとき、きっと、そこにひとつの『渦』が生まれる。この渦は、たとえ最初は小さなものだったとしても、それを一緒に楽しむ人々が増えたら、大きなうねりとなって次の『なにか』を創造する。必要なのは、最初のひとりだ。いつの時代も、最初のひとりから、そうした渦は生み出されてきたのだ。だから、私は、自分自身に願う。遊び続けよう。それを見た人々も、思わず一緒になって遊びたくなるような、命の遊びを。できるできないじゃない、やりたいが勝つ瞬間を、選びたいと思う。

 

 

坂爪さん、こんにちは。
○○と申します。
 
お礼の気持ちを伝えたくて、メールをかいています。
一昨日までアメリカに大好きな人に会いに行ってきたのですが、それが出来たのは坂爪さんのおかげでもあります。
 
昨年の12月にタイであった人なのですが、一週間しか一緒にいなかったのにものすごく好きで、会いに行きたくて、でも会いに行って嫌われたらどうしようとずっと恐がっていました。
 
その時坂爪さんのブログなどをみて、世界はお前が思ってるより広いとか、傷つく前に傷つくな、会いたい人に会いに行け、勇気を出した人に神様は見捨てるような真似はしない、といった言葉に励まされ、先日会いに行ってきました。
 
結論としては、もう本当に最高の日々で、会いにいって良かったし、自分の世界が大きく変わったことをかんじました。
 
坂爪さんの歌で、会いに行くとか愛とかの歌詞を聞いて泣いていた日々があり、何もかも完璧だったなと思います。
 
世界は自分が思うより大きく、懐が深く、また自分もタフになっていることがとても嬉しいです。
 

「月に向かう」

君に もう一度 会うため
勇気なら 出す 歩き出す
 
あんまり よく知らなくても
好きになって いいんだよな

たくさん知ったあとも 好きでいて ほしいな
 
この部分が本当に好きです。
よく知らないのに好きなのは本当なのか?とかよく知ったら失望されるだろうという思いも、会ったら全部消し飛びました。
 
あと、わたしを忘れないで、も好きで今回の旅の曲にしようかと思ったのですが、私がその曲を聴いて感じていた切なさがあまりにもそぐわないほど毎日が輝いていて、旅の曲にならずにすみました(旅の曲になると思い出して悲しくなる可能性が高かったので、そうした位置付けをせずに済んだことはとても幸いです。)これからも好きで聴き続けることができそうです。
 
長くなりましたが、本当にありがとうございます。
○○より

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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人間を救うのは、愛じゃない。言葉だ。

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心斎橋のドトールにいる。前に、不倫中の女性の話を聞いた。不倫相手は職場の男性。その女性は、ある日、男性とレストランに行った。帰り際、駐車場の車内で二人はいい感じになり、女性は男性にけしかけた。ねえ、いま、あたしが何をしてほしいかわかる?と。男性は、一瞬ひるんだのちに、女性を抱きしめようとした。が、女性は、男性を軽やかに避けた。違うだろ、と。私がしてほしいのは、その程度のものじゃないんだよ、と。この時点では、まだ、二人に体の関係はなかった。

 

 

おおまかなスケジュール

10月25日(金)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
10月26日(土)18時 KEIGO&RYU&千 LIVE@大阪市大正区「和み中華 威」
10月27日(日)15時 Agape 定期演奏会@横浜市港北区「わたり食堂」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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すべてのイベントで参加者募集中です🌸🌸🌸

連絡先・坂爪圭吾
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やればできるじゃねえか。

男性は、勇気を出して、女性に接吻をした。初キッスである。ときめきの瞬間だ。甘い時間が流れる。しかし、この女性がなかなかの組長気質なもので、初キッスの直後、男性に向かって「やればできるじゃねえか!」と肩を叩きながら叫んでしまったのだ。女性は、このことをとても後悔していた。もっとしおらしく、もっと女性的に「う、うれしい・・・(はあと)」とか言えたらよかったのに、ここにきて自分の本性が出てしまった、と。私は、このエピソードが大好物である。昨夜、ちょうど、200曲を達成した。今年の3月から「1日1曲つくる!」と鼻息を荒げ、7ヶ月強、悲願の200曲を達成した。そう。男は、やればできるのである。

 

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「月に向かう」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

君のことは よくわからない
この星のこと よくしらない

でも 好きになったよ この星も 君も

自分を知ること だなんて
自分だけで できるのかな

知らないことを 知ることは 楽しいね

虹を 見たくなったときは
雨のなかに 散歩に 行く

空を飛べない ぼくらの 飛ばすジョーク

君に もう一度 会うため
勇気なら 出す 歩き出す

月に向かう ぼくらは 歩き出す

あんまり よく知らなくても
好きになって いいんだよな

たくさん知ったあとも 好きでいて ほしいな

君と生きた 日々のことを 
僕は 時々思い出すだろう

これからも ずっと ぼくのね そばにね いてね 

雨の中を 今日も 歩く
歩いちゃいけない 場所に 行く

翼のない ぼくらの イマジネーション

あの日見た 夢の数だけ
今も傷は 増えていたね

月に向かう ぼくらは 振り返る

虹を 見たくなったあとは
雨のなかに 散歩に行こう

空を飛ばない ぼくらの 飛ばすジョーク

雨の中を 今日も歩く
退屈じゃない 考える

月に向かう ぼくらは 考える

君に もう一度 会うため
勇気なら 出す 歩き出す

月に向かう ぼくらは 歩き出す

 

大阪で花を配った。男性から「おはなをください」と連絡が届いた。阪急梅田駅前にある巨大液晶前で待ち合わせた。男性に花を渡す。男性は「いつもブログを読んでいます。共感するところが多くあります」と話してくれた。私は「どんなところに共感されるのですか」と尋ねた。しばらく考え込んだあと、男性は、ゆっくりと話し始めた。実は、私は、昔は女だったのです。と。世間的な常識に囚われている時期は、生きることもしんどかった。ただ、自分は自分なのだからと、ある意味開き直ることで生きることが楽になった。もし、いま、常識に囚われて苦しんでいるひとがいたら、その常識が自分を幸せにするものなのかどうか、もし、それが自分を苦しめるものならば「自分で変えていける」ということを、こんな言い方もあれだけど知ってもらえたらうれしいと思う。と。そういう感じの会話を、交わした。

 

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「雨あがり」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

雨が 赤い屋根に 降る
それを見た ぼくたちは ただ ただ

雨は ぼくの代わりに 泣いているのか
流れていく 時間だけ ただ ただ

どこから来て どこに帰る このままじゃ 置いてかれるから
本当はもっと動きたいのに 「どうして?」 … 動けない

雨が 木々の葉を 揺らす
立ち止まる ぼくたちに ただ ただ

もしかしたら ぼくは ずっとさみしくて
それを見た かみさまが ただ ただ

ここではない どこかから ここではない どこかに続く

「元気ですか?」「調子はどう?」
「またいつでも、遊びにおいでよ」

ここから来て ここに帰る ひとりでも なにをしていても
ずっと ここにあったものと これからも これまでも

雨があがり やがて空が 晴れてくる
終わらない ぼくたちは ただ ただ ただ

 

心斎橋の朝。秋雨が降り続いている。雨の曲を三曲。昨日、りゅーちゃんと合流した。そこで「衝突を恐れず、自分を出す」という話をした。衝突を恐れ、相手の顔色を伺ったり、自分を引っ込めたり、礼儀を重んじるばかりあとからどっと疲れることがある。我々は、優しい。優しい人間ほど、優しさに押し潰されて生きることが苦しくなる。優しさと言えば聞こえは良いが、これは、形を変えた『保身』であり、形を変えた『卑しさ』である。自分が我慢をすればよいと思う時点で、人間をなめている。自分をなめている。「そんなもんじゃねえ」と苛立つ精神が、疲れとして、痛みとして、ボディに「そんなことは、やめろ」というサインを発する。自分を低く置くようなことはやめろ。自分を低く見積もるような真似はやめろ。と。

 

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「Umbrella」 作詞 Hoshina Ryota 作曲 RYU-CHAN

雨がぽつぽつ降っていた 人はうつうつ歩いてた
誰かがくれたティッシュ ポッケに入れずゴミ箱に投げた
何をくれた誰だグレタ この指とまれず一人はぐれた
誰が決めた羽交い締めだ 切れるナイフと知らず渡した

通りすがった長い髪、雨に、濡れてか見とれてた
ファミマ曲がったところからすぐ足早に消える後ろ姿
カンタはさつきに強引にボロ傘 渡して飛び跳ねてたな
そんな理由で風邪ひいて そんな男で終われれば

ああいつから、溜息漏らし 苦し紛れのその日暮らし
不思議なくらい失ってばっか 悲しい報せも知らないフリし
繰り返す話白々しい 街の匂い 立ち込める「けはい」に
愛想付き、嫌気差し、足取り早く喧騒を後に


アンブレラ
雨降れば one more chance?
アンブレラ
逡巡は 憑き物だ
難解だ
君だけは ラビリンス
アンブレラ
韻踏めば 笑うかな

俺ら新潟曇天暮らし 心に晴れを見出しがち
夢に描いた大どんでんも 価値感違いどこも場違い  
杉と男は育たない?なんて言ってくれるね ホシナナイト
居なくなってから聞こえる声に、どこかで読みたい『べしゃり暮らし!』

「やりたいことだけやりましょう」「好きなことを仕事にしましょう」
トキだと思えば大事にしてさ サギだと分かれば逮捕する?
「やりたくないことやりません」「好きなことしかできません」
それってホント人間らしい?、聞いた? アイツも鬱らしい

結局みんな暇だから 頭は先攻心は後攻
エネルギーの消耗戦 ヒエラルキーの延長線
俺は生きている甲斐が欲しいから 身体先行 結果親不孝
納得できっか勝負だろ 納豆食って丈夫になれよ

アンブレラ
ドングリの 背くらべ
アンブレラ
勘ぐれば ブレブレか
シンデレラ
念ずれば 花開く
アンブレラ
犯人は 何でも屋

ナンマイダ
ばあちゃんが 拝んでら
アンブレラ
損すれば ヒーローだ
アンブレラ
踏ん張れよ いい加減
案ずれば
死んだなら 産めやしない

シャングリラ
Don’t give up まだまだか
曼荼羅
みんなでさ よかったな
アンブレラ
出し切れば 悔いはない
アンブレラ
死んでもな 甲斐がありゃ
ナンマイダ
ばあちゃんが 拝んでら
アンブレラ
損すれば ヒーローだ
アンブレラ
踏ん張れよ いい加減
案ずれば
死んだなら 産めやしない

シャングリラ
Don’t give up まだまだか
曼荼羅
みんなでさ よかったな
アンブレラ
出し切れば 悔いはない
アンブレラ
死んでもな 甲斐がありゃ

 

note.mu

 

人間を救うのは、愛じゃない。言葉だ。

昔から『してあげる』という表現が苦手だった。上から目線であり、恩着せがましく、厚かましくて、フェアじゃない。ただ、自分はそうしたいと思ったからしているのだと思いたい。だから、ああ、いま「誰かになにかをしてあげちゃっているなあ」と思ったときは、気をつけたい。私は、よく、食事をご馳走になったり寝る場所を提供してもらったりする。そういうとき、これだけのことをしてもらっているのだから、話を聞いて『あげる』とか、掃除を手伝って『あげる』とか、これくらいのことは我慢をしなくちゃ、みたいな感じで自分に言い聞かせることがある。それがマナーだと思っていた。だが、違う。真の礼儀とは、自分の思いを心を込めて伝えることだ。嫌なことには嫌だと言う。違うと思ったことには違うと言う。思いを込めて、礼儀正しく、丁寧に伝えることだ。心は、そっちの方向に使うことだ。

 

世の中には、多分、こういうコントロールが無数にある。「給料をもらっているんだから」とか「養ってもらっているのだから」とか「お世話になっているのだから」的なあれで、自分をセーブする。礼儀正しく、優等生的な態度ばかりを選ぶようになる。だが、誤解を恐れず言えば、上っ面のマナーばかりを重んじるひとといても、微塵も楽しくない。つまらない人間だな、と、思う。言葉には二種類ある。頭から出てくる言葉と、肚から出てくる言葉だ。私は、社交辞令や愛想笑いが苦手だ。きっと、これは「頭から出てくる言葉に、空間が支配されていく」からだと思う。頭が痛くなる。胃が痛くなる。まぶたが重くなる。一気に眠くなる。しかし、肚から出てくる言葉を聞いた瞬間、人間の『切実な本心』みたいなものに触れた時、途端に目覚める。そして、思う。ああ、俺はこういう会話がしたかったのだ。と。人間と人間が話すということは、こういう瞬間のことを言うのだろう。と。

 

誰にもわかってもらえないと感じる心情は、きっと、多くの人々が抱えている。しかし、多くの人々が「誰にもわかってもらえない」という思いを抱えて生きているのならば、そう思っているのが自分だけではないのだとしたら、この瞬間に『ぬくもり』が生まれることを感じる。苦しいのは、自分だけではない。悲しいのは、自分だけではない。悲しみも、同じ悲しみに出会うとき、それはぬくもりを生む。本当に苦しいとき、ひとが求めるものは愛ではないように思う。愛を含めた『言葉』を、求めているのだと思う。言葉は、自分の、本当のおもいにつながっている。自分の本当のおもいを摑むとき、ひとは、どのような状態に置かれていても『自由』を感じることができる。その言葉は、一時的には残酷に響くこともある。しかし、残酷な言葉が、自分の心の奥底にある炎の存在を、強く知らしめることがある。

 

 

私は今まで『幸せ』と書かれた箱の中でひとりで泣いていたのですが、坂爪さんの言葉をこれでもかという程読んでいるうちに『自分』と書かれた箱の中で、蓋も開けて、泣いたり笑ったりしたいと思うようになりました。

心から感謝しております。

このような気持ち?感覚?を音楽を作って聴いて頂く事で、広めていけたら、萌え死にます。


【Yさんからいただいたメッセージより、抜粋】

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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わたしは生きたがっていたのだと、涙が出ました。

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大阪駅前のカフェにいる。前回の記事を読んだ方から「恥じらいを失えばおばちゃんになる!同感ですが、女を女たらしめるのはやはりいい男ではないか?なんて思った次第です…。」とお言葉をいただいた。ごもっともである。男を男たらしめるものも、また、女なのであろう。自分を知ることは、自分ひとりではできない。自分を好きになることも、自分が生まれてきた甲斐を知ることも、他人なくしてはできない。人間関係に疲労しながらも、同時に、人間関係に救われているのだろう。

 

 

おおまかなスケジュール

10月23日(水)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月25日(金)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
10月26日(土)18時 KEIGO&RYU&千 LIVE@大阪市大正区「和み中華 威」
10月27日(日)15時 Agape 定期演奏会@横浜市港北区「わたり食堂」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

🌸🌸🌸
すべてのイベントで参加者募集中です🌸🌸🌸

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE on 
http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

傷つくことを恐れることは、傷つくことより苦しいことだ。

自分が自分をどう思うか。それが、これから踏み出す一歩を大きく分ける気がする。自分が不幸に生きることで、誰かに復讐をすることができる。ほら、ごらん。あなたのおかげで、あたしはこんなにも傷ついているよ。あなたのおかげで、あたしはこんなにも不幸に生きているよ。と。ただ、こういう生き方は、あまりにも悲しい。生きていれば、なんらかの被害者になることはある。ただ、被害者になることと「被害者であり続けること」は、違う。私は、できることならば、勇敢な冒険者でありたい。自分を惨めな存在だと思うことをやめて、自分を勇敢な冒険者だと思いたい。過去は変えられないが、生きて、過去の意味を変えることならできる。

 

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 「wanna be a brave explorer」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

明日はなにをしよう 明日はどこに行こう
明日はだれに会おう 夢があるよ 僕にも

傷つくことを 恐れることは
傷つくことよりも 苦しいことだな

wanna be a brave explorer
wanna be a brave explorer

勇敢な冒険家に ああ なるのだ

小さな頃から あこがれていた 
宝物を探す 冒険家になるのだ

wanna be a brave explorer
wanna be a brave explorer

勇敢な冒険家に ああ なるから

昔はよかったとか そんなこと 言わないで
いま 行こう いま はじめよう ここから

明日はなにをしよう 明日はどこに行こう
だれにだって会えるよ 夢の中で 君にも

 

これまでがこれからを決めるのではなく、これからがこれまでを決めるのだと思う。生きるということは、無傷で墓に入るためのレースではない。逆に、生きた証になるものが『傷』だと思う。誰にでもある人知れない悲しみが、瞳の奥に優しさを宿らせる。傷ついて、傷ついて、それでもなお前を向こうとする人々がいる。生きることを諦めそうになったとき、私は、こういう人々に励まされ、こういう人々に勇気づけられてきた。彼らは、自分が愛されていることを知っている。自分が赦されていることを知っている。そして、実は、誰もが愛されていることを、誰もが赦されていることを、誰もが自由に生きることができることを、叫び続けている。

 

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「I’m with you」 作詞 Keigo Sakatsume 作曲 RYU-CHAN

愛されていることを知っている
許されていることを知っている

怖くて 痛くて 私にはできない
でも羨ましいと ずっと思ってた

まる裸傷だらけ血まみれ
ただ愛を叫び続けている

 

生きるということは、傷つくということだ。傷つくということは、生きているということだ。傷つくことを恐れて、踏み出す一歩を躊躇することがある。しかし、いつの日か、私たちは傷つくことさえもできなくなる日が必ず来る。命に声があるとしたら、それは「無難であること」を望んではいない。それは、ただ「生きる」ことを望んでいる。そのように思う。傷つくことを恐れることは、生きることを恐れることだ。そして、傷つくことを恐れることは、実際に傷つくことよりも、何倍も、何倍も、苦しいことだ。命は、今、この瞬間も表現されることを望んでいる。

 

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「私はここにいる」 作詞 KIKA 作曲 Keigo Sakatsume

手のひらでつつんだ命 この胸で抱きしめた未来
飛び上がれ青空目指し 振り向くな私はここにいる

旅立ちの朝 君の背中は震えていた
迷わずにいま進めばいいのさ 恐れても

繋いでいた君の手を 離す日が来たなら微笑んで

手のひらでつつんだ命 この胸で抱きしめた未来
立ち上がれ情熱 胸に 恐れるな私はここにいる

私はここにいる 私はここにいる

 

わたしは生きたがっていたのだと、涙が出ました。

生きている限り恐れは芽生える。恐れが芽生えることは、おかしいことではない。当然のことだ。だから、恐怖心を打ち消そうとするのではなく、恐怖心があることを受け入れた上で、飛び込んでいくことが大事なのかもしれない。恐れには様々な種類があるが、そのひとつに「変わってしまうこと」への恐れが、あると思う。自分が変わることの恐れ。そして、そのことによって周囲が変わっていくことの恐れ、自分が「前の自分ではなくなる」ことへの恐れが、変わろうとする自分を引き留めることがある。このままでいいじゃないか。恐怖心は囁く。無理をしてまで変わる必要はない。このままでいいじゃないか。なにもしなくてもいいじゃないか。

 

しかし、私たちは「いっさいは流れていく」ことを知っている。変わらないものはないという、そのこだけが変わらないことを知っている。そして、変われること、変えていけることの素晴らしさを知っている。だからこそ、それでもなお大丈夫であることを確認するために、愛されていることを、赦されていることを確認するために、私たちは飛び込むのだと思う。ひとりひとりの命は、別個のものとして存在しているのではなく、底の方では繋がっている。そのことを、頭ではなく肉体で実感するために、恐怖の渦に飛び込むのだろう。たったひとりの人間が、恐怖心を克服したとき、それは人類全体の業績になる。そのことを知っているからこそ、真の意味で自由であることを望むからこそ、傷つくことを受け入れていくのだろう。

 

人間の勇気をくじくもの。それはたくさんあるかもしれないが、ひとつはプライドだと思う。見栄と言い換えてもいい。他人からどう思われるかを気にするあまり、生きることを抑えることがある。表現を押し殺すことがある。自分の幸せより、自分が「幸せだと思われること」に、エネルギーを費やしてしまうことがある。心は、答えを知っている。間違った道を選ぶとき、心は、しっかりと摩耗する。しっかりと虚無を生み出す。なぜ、見栄を張るのか。なぜ、他人の目を気にするのか。それは、背後に恐怖心があるからだ。自分のままでは通用しないという恐怖心が、自分に張り付けたものを通じて、自分を誇らせようとする。そして、命は、呻き続ける。わたしを出してくだい。わたしをここから出してください。と。プライドという鎧を脱ぎ捨てた先に、恐怖心を越えた先に、心は、自由を観るのだと思う。

 

 

圭吾さん、こんばんは。
圭吾さんの歌を聴いて心が震えました。
正確にいえば、一瞬、心や呼吸が止まって、そのあと心が震えたような感覚です。
時間差で、そのあと穏やかで優しい気持ちになりました。
そして、わたしも詞を作ってみたい気持ちが溢れてきて、
note始めました。

上手く書けませんでしたが、圭吾さんのことを日記に書きました。
前に作った詩と、今朝溢れてきた詩も載せました。
圭吾さんにお読みいただけましたら嬉しいです。
これからも、詩を作って載せたいと思っています。
もし、もしも圭吾さんの気持ちが向いてくれるときがありましたら、わたしの詩で曲を作っていただけたらとても嬉しいです。
詩の一部でも全部でもアレンジして変えてもらってもなんでもいいです。

圭吾さんの歌やAgapeや慈 御陀武流の生演奏を聴いてから、あふれる想いを止めることができなくなりました。
わたしは生きたがっていたのだと、涙が出ました。

長い文章になり、ごめんなさい。
圭吾さんに素敵な夜が降り注ぎますように🌠🌠🌠

【Nさんからいただいたメッセージより、抜粋】

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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本当の音楽には、ゆるしがある。

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横浜駅前のドトールにいる。自分を好きになることは、自分が自分に勝ち続けることと似ている。負けることより恐ろしいことがある。それは『勝つこと』だ。勝ち続けることはとても大変なことだから、負けてしまう方が簡単だ。諦める方が簡単だ。誰かのせいにする方が簡単だ。面倒臭いと投げ出す方が、もう知らないと投げ出す方が、自分はこんな程度だと見限る方が、簡単だ。だからこそ、変わりたいなら、強くなりたいなら、優しくなりたいなら、励まし合うしかないのだと思う。

 

 

おおまかなスケジュール

10月20日(日)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月25日(金)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
10月26日(土)18時 KEIGO&RYU&千 LIVE@大阪市大正区「和み中華 威」
10月27日(日)15時 Agape 定期演奏会@横浜市港北区「わたり食堂」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
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ibaya.hatenablog.com

 

言葉を覚えるほど、音楽を忘れていく。 

曲をあげるたびに「ヘタだね」とか「音程がダメだね」とか「リズム感が0だね」とか、色々言われる。罵倒されるために音楽を更新しているのか、俺は、とか思っちゃうけれど辞めない。昨日、お世話になっているピアノの先生と一緒に曲を作った。We are blessed。直訳すると『私たちは祝福をされている』という意味で、このことを忘れたくない。どれだけ罵倒されようが、俺は、いまこの瞬間も祝福をされている。俺は、地球に愛されている。そう思うだけで力を得る。たとえ、それが勘違いだとしても、実際にそれでパワーを得ているのなら、それを本当だと思う。

 

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「We are blessed」 作詞 Keigo Sakatsume 作曲 Yasuko Kosuge

晴れた日に 星を見たような
透き通る 白い息

見たこともないような 青
この空に 描く夢

遠く 遠く 降り注ぐ 光たち

雨の日に 虹を見たような
やがて 消えて行く ぼくたちを 照らす日を

We are blessed
We are blessed

見たこともないような 青
この空に 生きる

We all are blessed in delight

 

小さな子供たちは、常に踊り、常に歌う。おとなになるほど、ひとは歌わなくなり、ひとは踊らなくなり、代わりに言葉を覚える。まるで「言葉を覚えるほど、音楽を忘れていく」ように思う。言葉には正解がある。だが、音楽には正解がない。正解がない世界を、おとなたちは恐れる。絵を描けと言われても「自分はヘタだから」と逃げる。歌を歌えと言われても「自分はうまく歌えないから」と逃げる。拒む。避ける。自分は避けるくせに、上手じゃない人間を「ヘタだ」と批判する。そういう構図(自粛の文化)を感じる。違うだろう、と、俺は突っ込む。芸術は、本来、万人に開かれているはずだ。そこに正解だの不正解だの、つまらない考え方を持ち込むこと自体、不潔だ。うまくないなら歌ってはいけない、うまくないなら描いてはいけないだなんて、嘘だ。本来、上手も下手もない。堂々と歌うこと、堂々と描くこと、堂々と踊ることのなかに、原始的なよろこびがあるのではないか。

 

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「Hannah」 作詞 Keigo Sakatsume 作曲 Yasuko Kosuge

You can hear Me ねえ見てよ ハンナ
あたたかい空に 目に映る景色

You can hear Me ねえ見てよ ハンナ
どこまでも続く 長いこの道を

光と色にあふれ めぐる季節
戦ぐ風に 真っ白い雪が降る

You can hear Me さあ行こう ハンナ
暗闇に浮かぶ 瞬きの音符(ノート)

You can hear Me さあ行こう ハンナ
輝ける未来(あす)が 僕らを見ている

流れている音に合わせ 踊りたがる命のリズム

You can hear Me ねえ見てよ ハンナ
あたたかい空に 目に映る景色

You can hear Me さあ行こう ハンナ
切なさの果てへ … 切なさの果てへ …

 

前に音楽が好きだと話すひとに会った。そのひとに「音楽をやりたいのですか?」と聞いた。すると、その人は自信がないとか勇気がないとかお金がないとか技術がないとか経験がないとか怖いとか小さな頃に母親から自分の歌を否定されて云々カンヌンとか、そんなことを話し始めた。私は、正直に言うと「そんなことは聞いていない」と思った。俺は、やりたいか、やりたくないかを聞いているんだ。だから、そういう前置きはいいからやりたいかやりたくないかで答えてください。と。やりたいならやれるし、やりたくないならやらないでいい。それだけの話だ。結局、お前が気にしているのは人の目だろう。人の目を恐れて生きるのと、罵倒されてもやりたいことをやって生きるのと、どちらが清々しいだろうか。私は、人の目を恐れること以上に、人の目を恐れるあまり『自分を喪失する』ことを恐れる。

 

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「ジュピター」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

強くもないし優しくもない
ただ命の限り踊っていたい
清くもないし正しくもない
でもいのちの限り生きたい

本気じゃないなら もう いらないし
たのしくないなら もう やらないし

僕にないものが君にあって
君にないものが僕にあって
必要とすることならできる
確かめ合うおなじ命がある

本気じゃないなら もう いらないし
うれしくないなら もう やらないし

死なないように 死なないように
死なないように 生きても 死ぬんだよなあ

誰のものでもない君がいて
誰のものでもない僕がいて
誰のものでもないこの星で
ふたりだけの時間を刻もう

本気じゃないなら もう いらないし
さみしくないなら もう やらないし

死なないように 死なないように
死なないように 生きても 死ぬんだよなあ

本気じゃないなら もう いらないし
だれともなにとも もう くらべない

死なないように 死なないように
死なないように 生きても 死ぬんだよなあ

死なないように 死なないように
死なないように 生きても 死ぬんだよなあ

 

note.mu

 

本当の音楽には、ゆるしがある。

最近思う。悩みの9割は「いい男(女)になる」ことで解決する。小難しいことを考えることはよくない。ただ、自分が「いい男(女)になる」だけでOK。非常にシンプルである。あとはもう、美学の問題だ。どんな人間を『いい男(女)』と思うか。その感性に従うだけだ。足りないものを嘆いても仕方がない。うじうじするほど魅力は減る。それよりも「ただ、自分がいい男(女)になればいいのだ」という回答は、シンプルで気持ちが良い。私が思ういい男は、ないものを嘆いたりしない。なければないで、堂々としている。堂々としているが傲慢ではない。私が思ういい女は、大前提として『健やか』である。そして、品性があってチャーミングである。恥じらいを失った時、女性は「おばさん」という別の生き物になると思う。

 

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10月25日&26日に大阪でライブがあります。是非、来てください。昨夜、あきととFacebook動画配信をした。あきとは、前に「此の期に及んで、恥ずかしがることが一番恥ずかしい」という言葉を残した。この言葉は刺さった。その通り過ぎてあきとに謝りたくなった。その後、あきとは「恥じらってたら何もできないけど、恥じらいを感じさせない人にはなんの共感も覚えない」とも言った。この言葉の共感度は高い。私は「嬉しさ」が好きだ。自分の心が嬉しさを感じるものを指標に、これまでも生きてきたしこれからも生きていきたいと思っている。同時に、私は「切なさ」が好きだ。切なさを感じるものが好きだし、もっと言えば「切なくないものを信じない」傾向がある。どれだけもっともらしい言葉を聞いても、そこに『切なさ』がなければ、自分は、その考え方を採用しない。そういう、謎の基準がある。

 

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良い音楽と悪い音楽の違いは何か。技術か。違う。技術は大事だ。だが、それだけじゃない。それは『おまけ』だ。上手な歌に、まったく感動しないことがある。下手な歌に、心臓を鷲掴みにされることがある。なにが違うのか。それは『ゆるし』だと思った。本当の音楽には、ゆるしがある。それは「生きててもいいよ」という赦しであり、それは「ここにいてもいいよ」という赦しでもある。音楽をやるたびに、新しい自分を知る。新しい自分を知るたびに「俺は、これがやりたかったんだ」と思う。自分のやりたいことは、きっと固定的なものではない。もっと流動的なものだ。発展的なものだ。これからも、私は、生き続ける中で「ああ、俺はこれがやりたかったんだ」と思う瞬間のど真ん中を、通過するのだと思う。瞬間のど真ん中は、常に、いつかはここを離れていくと言う切なさを帯びている。永遠に生きることはできない私たちが、永遠に手を伸ばす行為を『祈り』と呼ぶのだと思う。

 

 

坂爪さんこんばんは!

ジュピターとてもいいですね。
坂爪さんの音楽は「祈り」だなあと思いました。

本当に真摯なものに触れた時、人は即座に反応できないものだと思います。
なのでその場の評価というか、反応はあまり気にせずに、ただひたすら祈り続けてほしいです。

【Kさんからいただいたメッセージより、抜粋】

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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よし、傷ついてやろう。失敗してやろう。

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阪急梅田駅前のサンマルクカフェにいる。お世話になっているピアノの先生に「作曲してください」と言った。先生は「あなたはなんであたしが一番やりたくないことを言うの」と。私「やりたくないということは、やりたいということです」と。先生「じゃあ、いつかね」。私「はい。いつでも大丈夫です」。数日後、先生から「曲を作ったので詞をつけなさい」と、驚いたことに曲が送られてきた。やばい。大変なことになった。プレッシャーをかけて楽しんでいたら、今度は自分がプレッシャーをかけられた。下手な作詞はできない。プレッシャーをかけ合う日々だ。

 

 

おおまかなスケジュール

10月18日(金)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月25日(金)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
10月26日(土)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市大正区「和み中華 威」
10月27日(日)15時 Agape 定期演奏会@横浜市港北区「わたり食堂」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
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ibaya.hatenablog.com

 

踊れない革命はいらない。

生き方に迷う時は『美しさ』を大事にしたい。損得勘定ではない。自分のこころが感じる美しさに従えば、迷いはない。反省もしない。後悔もしない。ダメになっても、自分の心に殉じることができたなら、清々しい。それともうひとつ、私はユーモア【うれしさ】を大事にしたい。どれだけ正論でも、笑えないものには惹かれない。思わず笑っちゃうもの。思わずカラダが踊り出しちゃうもの。思わず走り出したくなっちゃうもの。そんな感じのものに『ほんとう』を見る。自分がクスッと笑えているとき、それは、ご先祖様も一緒に笑っているのだと思う(嘉向徹・談)。

 

 

「さよならフォロワー」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

俺で失恋しろ バカ 俺に降参しろ バカ
俺を賞賛しろ バカ バカ バカ バカ

裏切られただとかバカ 人のせいにするなバカ
口にホコリ入れるぞ バカ バカ バカ バカ

「あなたにはがっかりしました」
「悲しくなりました」
そんなこと 俺に言われても 知らねえ

ていうかお前誰だバカ 名前くらい名乗れバカ
世が世ならアレだぞ バカ バカ バカ バカ

「あなたには感謝が足りません」
「真面目に生きなさい」
そんなこと 俺に言われても うるせえ

お前よりよっぽど バカ 俺は俺の道を バカ
真面目に生きてるぞ バカ バカ バカ バカ

バーカバーカ ベロベロベー
バーカバーカ ベロベロベー
バーカバーカ ベロベロベー

ああ あああ あーあ

 

音楽をはじめてフォロワーが激減した。ただ減るだけならまだしも、みんな、ちゃんと捨て台詞を残す。あなたにはがっかりしたとか、感謝が足りないとか、聞くに耐えないとか、真面目に生きなさいとか。私は(すでに)ミュージシャンなので、フォロワーが減った悲しみを歌にした。誤解を恐れずに言うと、誰かになにかをしてもらうことを期待してばかりの人間が、この国には多い。なんだかもう、そういうゴミみたいなひとには「あなたは本当にゴミですね」と、言ってしまっていいと思う。これは、人格の否定ではなく、思考の否定である。誰もが生まれた時は純潔だから、ゴミみたいな思考を捨て去れば、純潔が残る。だから、ハゲに変なことを言われたら「うるせえ、ハゲ」って言ってもいいと思う。大事なことは、言いたいことを我慢することじゃなくて、ポップに(あとぐされなく)言うことだと思う。

 

 

「ハゲ」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

ハゲなんて言っちゃダメ

でも 言いたい 
いま 言いたい

うるせえ、ハゲ。 

 

貧乏生活をしていると思う。選択の余地がある時点で『豊か』なのだ。腹が減る。真の意味で空腹ならば、白米だけでも最高に美味い。だが、腹は減っているけど白米だけは嫌だ、とか思っている時点で『豊か(別に、真の意味で困ってはいない)』なのだと思う。豊かさは、同時に暇人を生んだ。自分で自分の暇を処理できない人間が、誰かをいじめたり、他人の生き方に口を出したり、職場や学校の悪口を言う。何かに夢中になっている人間は、そんなことをする暇はない。多くの悩みは、ただ、暇なだけだと思う。暇だから、暇つぶしに『悩み』を作り出しているだけだ。愚者の暇つぶしに、巻き込まれて終わる人生はごめんだ。そんな時は、この曲を。お祭り野郎。外野のノイズに巻き込まれると、こころの声が聞こえないぜ。

 

 

「お祭り野郎」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

ぼくのママは お祭り野郎
毎朝フェス 毎晩フェス

おきな祭 ねむりな祭 ごはんをしっかりと食べな祭
勉強しな祭 テレビ消しな祭 いい加減お風呂に入りな祭

ぼくの先生 お祭り野郎
一限フェス 二限もフェス

ああしな祭 こうしな祭 話はしっかりと聞きな祭
ちゃんとしな祭 個性出しな祭 空気はしっかりと読みな祭

うるせえな うるせえな ほっといて
こころの声が 聞こえないぜ

ぼくの人生 お祭り野郎
そうなんフェス いやなんフェス 

信じな祭 見まもりな祭 瞬間をしっかりと生きな祭
愛しな祭 受けいれな祭 永遠にそのままで行きな祭

バカも 休み 休み yeah!!
バカも 休み 休み yeah!!
バカも 休み 休み yeah!!
バカも 休み 休み yeah!!

生きたくなったり 死にたくなったり
人生は とっても 忙しい
ちゃんと生きること できるなら
こんな生き方は していないよ

バカも 休み 休み yeah!!
バカも 休み 休み yeah!!
バカも 休み 休み yeah!!
バカも 休み 休み yeah!!

ぼくのママは お祭り野郎 

 

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よし、傷ついてやろう。失敗してやろう。

自由じゃないひとはいない。自分はダメな人間だと思うひとは、自分はダメな人間だと思う自由を行使している。成功するひとは成功する自由を、失敗するひとは失敗する自由を行使している。愚者でいる自由もあるし、聖者を目指す自由もある。なんでもいいし、なんでもありだ。なんでもありの世の中で、なにを目指すか、どのように在りたいのかを選ぶのは自分だ。私は、否定的なエネルギーに飲まれたくない。どちらかと言えば、否定的なエネルギーを吹き飛ばす側に、結果的に「なんだかいろいろなことがどうでもよくなっちゃった♡」と思わせる側につきたい。なぜならば、私は、それを気持ち良いと思うからだ。正しいからじゃない。ただ、気持ち良いと感じるからだ。ただ、そっちの方を「いい感じだ」と感じるからだ。

 

生きていれば腹が減るように、心も腹が減る。心は『感動』を食べて生きる。一回食べれば済む話ではなく、食べても、食べても、生きている限り腹は減る。だから、心は常に新しい感動を求めている。心にエサを与えないと、体は生きてても、心は死んだ人間になる。肌と瞳から潤いが消え、黒ずみ、濁り、全体的にどんよりとする。日常的に感動を味わうために、一番手っ取り早い方法が「自分が感動したもののように、自分自身が生きること」だ。漫画の主人公に憧れたなら、漫画の主人公のように生きる。ロックミュージシャンに憧れたなら、ロックミュージシャンのように生きる。感動したものと自分自身を切り離すのではなく、感動したものを、自分の内部に取り入れる。感動そのものになる。感動そのものを生きる。感動したものの素晴らしさを、自分を使って体現する。さすれば、毎日はドラマだ。

 

私が『美しい』と思う人々は、決して傷つかない人々ではなかった。傷ついても、それでもなお、自分で在ることを諦めなかった人々だ。葛藤を抱えたまま、傷を受けながら、時には血反吐を吐きながらでも「生きる」意思を失わなかった人々に、私の心は反応する。なにかに感動するということは、自分も、そのようにあれたらと願う心の働きがあるからだ。感動したものには、責任が生まれる。それは、自分が受けた感動を『継承する』責任だ。責任という言葉は忌避されがちだが、私は、素晴らしい言葉だと思う。責任の先に、よろこびがある。自分が自分として生まれたよろこびは、自分が感じる責任にある。だから、傷つかないことよりも「よし、傷ついてやろう。失敗してやろう」と思いながら、立ち向かっていくくらいがちょうど良いのだと思う。傷つかないように生きても、最後には死ぬ。死なないように、死なないように、自分を守りながら生きたとしても、最後には死ぬのである。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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LINE ID ibaya

自由に生きるために、必要なのは金じゃない。勇気だよ。

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松山市駅ドトールにいる。やると決めたら、やれる。やれたらいいなあ程度じゃ、やれない。1日1曲作ると決めた。気分が乗らないときもあった。それでも、石にかじりついて作った。すると、音楽の神様はいるもので、必ず「今日はこれを作りな」的なヒントをくれた。結果、毎日、作れた。毎日毎日「今日こそ無理だ」と思いながら、それでも、やると決めたら毎日できた。そして、いま、毎日ライブをやることを決めた。決めることの威力。それを、自分に見せてやりたいと思う。

 

 

おおまかなスケジュール

10月14日(月)16時 KEIGO&RYU LIVE@愛媛県東温市「あそびハウス」
10月15日(火)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月25日(金)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
10月26日(土)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市大正区「和み中華 威」
10月27日(日)15時 Agape 定期演奏会@横浜市港北区「わたり食堂」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

仲間は、歩き出したあとに出会うものだ。

ほぼ全員音楽素人のバンドを結成した。名前はAgape。神の愛(罪人に向けた愛)という意味がある。9月9日、東京の吉祥寺でデビューライブをやった。我々に技術はない。だが『技術だけではない何か』があると思い、そこに賭けた。現在の年齢は34歳。音楽をやるには遅すぎる年齢かもしれない。しかし「遅すぎることはない」とも思う。夢を諦める理由なんて、そこら中に転がっている。ただ、自分は、自分に「やろうぜ」と言いたかった。言い訳をかき集めることにクリエイティブになるのではなく、愉しい人生を送ることに、自分に「世界には、こんなに面白いことがあるんだぜ」と見せてあげることに対して、クリエイティブでありたかった。

 

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「あふれちゃん」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

伝えられなかった 思いは 何処に 行くんだ
言わずに終わるか 言って終わるのは どうだ

俺を叩けば 罪が まるでホコリみたいに
晴れた日に 舞い上がれ きらきら 光れ

悲しみ 深いほど 慰めも 深く 深く
闇が 強いほど 光もまた 強く 強く

ただ あふれる あふれる

使い込まれた 命 だから 味が出るのだ
愛ならば ある 見捨てられることはない

矛盾のなかに 俺は ど真ん中を見る
涙 流しながら 笑う 黙って 騒ぐ

胸が 苦しいほど よろこびも 深く 深く
寂しさ 抱くほど ぬくもりも 強く 強く

ただ あふれる あふれる

悲しみ 深いほど 慰めも 深く 深く
闇が 強いほど 光もまた 強く 強く

胸が 苦しいほど よろこびも 深く 深く
寂しさ 抱くほど ぬくもりも 強く 強く

ただ あふれる あふれる

 

最初はひとりだった。延々と曲を作り続けた。曲を更新しても、特段反応はなかった。闇の中に放り続けるような、心許ない日々でもあった。だが、同時に充実した。それは「やるべきことをやれている」充実だった。自分のやりたいことを、誰のせいにしないでもいい。その充実。理想と現実の一致感。最初はひとりだ。ひとりでもやる人間が、一番強い。仲間は、歩き出したあとに出会うものだ。そんな言葉を自分に言い聞かせて、来る日も来る日も曲を作った。50曲を超えたあたりで、メンバーが増えた。一人から二人。二人から三人。毎月メンバーは増え、現在は七人。ドラゴンボールと同じ数になったとき、デビューライブの夢がかなった。

 

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「flow-er」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

悲しいこともあるのに 大丈夫!と笑って
息も止まるほど 恋をして

足りないもの数えて キリないとか言うけど
終わりないもの 求めてる

それでよかった ふたり
なにもなくても
懐かしいいま 抱えていける

楽しいこともあるのに 切ない!とか笑って
世界のやさしさ 覚えたよ

結末だけ夢見て あとは全部投げ出した
恥ずかしがり屋 信じてる

あいも変わらず ぼくら
息をしてる
純粋なまま 汚れていこう

悲しいこともあるのに 大丈夫!と笑って
息も止まるほど 恋をして

足りないもの数えて キリないとか言うけど
終わりないもの 求めてる

それでよかった ふたり
なにもなくても
純粋なまま 汚れていこう

 

吉祥寺のライブは、凄まじいエネルギーが宿った。誰がなんと言おうが「最高だ」と言える瞬間が、あった。決めることの威力。やると決めたら、やれる。諦める理由なんてそこら中に転がっている。それでもなお「やる」と決め続ける。やるということは、一回やればいいという話ではない。毎日、毎日、やり続けること。自分との戦いだ。この戦いは、毎回、自分に報酬を与えてくれた。それは「俺はやった」と思える爽快感。清々しさ。『生きた手応え』だった。音楽を通じて伝えたいことなど、自分にはない。あるとすれば『生きている』ということ。俺も、お前も、いま、この瞬間に『めちゃめちゃ生きている』ということを、音楽を通じて、言葉を通じて、共有していきたいのだ。そのための勇気を、護り続けたいと思う。

 

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「ねえ」作詞・作曲 Keigo Sakatsume

俺のこどもたちが おとなになる頃に
君のこころまでも おいていかないように

美しいままでは 生きられないからね
涙が出るくらい きれいになりたいね

ここで死ぬなら それまでのことだよね
まだ生きている そのことがこたえだね

ねえ 寂しくて 悲しくて 嬉しくて 楽しくて
積み重ね 生きてるねえ 愛を求め

君は悲しいほど 優しいひとなんだね
俺は何も言わない 冷たいひとなんだね

でもいつまでも 見ているよ 君のこと
ただいつまでも 見ているよ 君のこと

ねえ 嗚咽して苦悶して 武者震いとかもして
身を売って 生きてるねえ 銭を求め

死んでしまうことに 安らぎを求めて
生きることのなかに 手応えを求めて

そういうことのすべてがね おかしくて
そういうことのすべてがね いとしくて

ねえ 情けもねえ不甲斐もねえ 勇気も金も自信も才能もねえ
それでもねえ 生きてるねえ 命よ 暴れまわれ

なにひとつ諦めず 欲しいもの取りに行け
安パイは 投げ捨てて 危ない橋を渡れ

血を晒せ肉を斬れ 骨を断ちハイになれ
このままじゃ 終わらんねえ 愛を求め

 

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自由に生きるために、必要なのは金じゃない。勇気だよ。

偶然なんかない。そう思えば、毎日はドラマだ。今日こそ無理だ、今日こそ無理だ、と感じることは創作の日々と似ている。ライブを諦めそうになることは毎日ある。が、同時に「今日はこれをやりな」という神様からのヒントも、毎回、ある。不思議だ。この星は「これをやる」と決めた人間に対して、必ず、何かしらの前兆を与えるようにできている。それを、受け取り手である私たち自身が、うつむいて生きることで、卑屈に生きることで、見逃している。愉しく生きるヒントは、夢をかなえるヒントは、そこら中に転がっている。神様は常に我々を見ていて、さあ、顔をあげなと言っている。そして、同時に「顔をあげない自由」も、残している。

 

顔をあげようじゃないか。自分に言い聞かせる。なにが起きても、泣く道を選ぶか、笑う道を選ぶか、それは『自分で決めることができる』という衝撃的事実。私は、謎に「泣くのはダサい」と強烈に思っている。泣くのは簡単だ。だが、泣き続けるのはダサい。自己憐憫に浸るのは簡単だ。だが、浸り続けている人間はダサい。泣きたい夜は、泣けばいい。だが、思い切り泣いたら、翌朝からは「よし」と、新しい人生を踏み出す。俺たちが生きることができるのは、いま、この瞬間だけなのだ。過去も未来も背負えない。他人の気持ちも背負えない。ただ『いま』と『自分』だけならば、背負うことができる。恥ずかしいとか、嫌われるかもしれないとか、失敗するかもしれないとか、そんなことはどうでもいい。とにかく出す。自分を出す。そこから、未来に続く扉が、栄光に続く扉が、開くのだと思う。

 

自由に生きるために、必要なのは金じゃない。勇気だよ。勇気を出した人間を、神様は見捨てるような真似はしない。必ず、素晴らしい報酬を用意している。無論、全部がうまく行くとは限らない。時には、血を吐くような痛い目に遭う。そして、我々は『教訓』を得る。それは、教科書からは学べない、生きた知恵になる。勇気を出す。毎日出す。そうすることで、我々は、ひとつの真実に至る。それは「自分を縛っていたのは、自分だけだった」という真実だ。こうでなければいけないということは、実は、なにひとつない。ただ、自分が自分を縛っていただけに過ぎない。自分を自由にさせてやれた人間が、周囲の人間も、一緒になって自由にする雰囲気を身にまとう。本当の意味で自由な人間は、それに触れた人々の心まで、自由にする。自由に生きるために、必要なのは金じゃない。勇気だよ。勇気を出した人間を、神様は裏切らない。屈しないこと。否定的な考え方に、屈しないことだ。

 

 

坂爪さん

こんにちは!

台風が一過して関東地方は快晴です。
昨夜は私の住んでいる地域では避難勧告が出されてなかなか緊迫状態だったのですが、
そんな中で思い出すのは、なぜか数日前に坂爪さん達と過ごしたカラオケボックスでのことでした。

坂爪さん、りゅーちゃん、見知らぬ男性(SPさん)が、日常のなかに突然現れた小さな台風のようだったな~なんて。

私一人のために開催されたライブ(SP付・笑)はなんて贅沢で素晴らしい時間だったのだろうと。
演奏はもちろん合間のお話とか、全てが私の中で宝物のように輝いております。

坂爪さんとりゅーちゃんが、「こんな感じでやってみようよ」と、音を合わせていく様子をみるのが最高に楽しかったです。

そして、演奏をしない私とSPさんが、ただ聴くことで「何か」が引き出されてくるのを感じました。

それは、「この曲やって!」とか「もっとこうした方がいいよ!」などアドバイスをするとか盛り上げるとかそういうことではなく・・・

なにもせず、集中して聴くことで磁場のようなもの(?)、何かが生まれてくる空間を広げているような・・・そんな感じです。

だから、聴くって演奏するのと同じくらい大切なのかもな~と思いました。

それまでは「演奏する人」と「お客さん」で分けて考えていたのですが、その境界線て実は無かったんだな~と。

今までカラオケボックスで楽しかったことはありますが、その時は盛り上がって楽しかった~!スッキリ!みたいな感じなので、
振り返ってみると一つ一つのことは全く覚えておらず、漠然とした「なんとなくみんなで騒いだな~」という記憶しかありません。

でも、先日のことは他のことと混ざり合ったりしない、唯一の記憶としてずっと私の中で保存されていくと思います。

私の大好きなオニキスを歌ってくれたり、りゅーちゃんの歌も聴けたり・・・。

「楽しかった」なんて言葉ではくくれない素晴らしい時間でした。本当にありがとうございました!!

坂爪さんは存在そのものが台風のような人なので、いろいろ大変なことがあると思いますが、台風なんだから仕方ないとあきらめて(?)
引き続き面白く生きてください!!

※またカラオケライブもお願いします!!

 

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大丈夫だよ。全部うまく行くよ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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毎日がスタートで、毎日がゴールだ。

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天神北のドトールにいる。昨日、福岡のホテルニューオータニの近くで野営をした。そこを『ニュー・ニューオータニ』と名付けてにはにはしていたのに、あろうことか、深夜1時頃、酔っ払いが私をめがけて立ちションをした。私が、あまりにもうまく雑踏に紛れていたため、彼は(まさかビニールシートの中に人間がいるとは思わなかったのだと思う)私にションベンをひっかけたのだ。生きていると、こんなこともあるのか。小便を浴びながら、ああ、これはネタになるなあと思った。

 

 

おおまかなスケジュール

10月13日(日)
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月14日(月)16時 KEIGO&RYU LIVE@愛媛県東温市「あそびハウス」
10月25日(金)18時 KEIGO&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
10月26日(土)18時頃 LIVE@大阪市大正区某所(決まり次第更新)
10月27日(日)15時 Agape 定期演奏会@横浜市港北区「わたり食堂」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

自粛しても誰も幸せにならない。

昨日のnoteで「二子玉川が冠水したとか、悪いニュースばかり見ているとダメになる」とか書いた。悪い映像ばかり見ていると心身が滅入る。ニュースなんて、一部を全部みたいな報道をする。惑わされるな。自粛しても誰も幸せにならない。そんなことを書いた。ら、その夜、自分が冠水をした。バチが当たったのか。だが言う。言いたいことは言う。台風がすべてを洗い流した。もう、人に好かれようと思うことは終わりにしよう。日和見主義の大衆に、自分を合わせると簡単に揺らぐ。積極的に、嫌われに行こう。嫌われに行くくらいが、ちょうど良いのだと思う。

 

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「死ぬ気」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

人生の 前半は おやたちに 壊された
人生の 後半は こどもらに 壊された

ふざけんな たまらんな おいまてよ まだいくな
これからだ おいまてよ まだいくな

放課後の 河川敷 教科書を 燃やしたよ
誰もいない 夜の海 裸になって 飛び込んだ

ふざけんな たまらんな おいまてよ まだいくな
これからだ おいまてよ まだいくな

死ぬ気 死ぬ気 死ぬ気の 死ぬ気 
死ぬ気でやろうよ 死ぬから

運命の 人ならば 刑務所の 中にいる
運命の 道ならば 工事中 通れない

ふざけんな たまらんな おいまてよ まだいくな
これからだ おいまてよ まだいくな

死ぬ気 死ぬ気 死ぬ気の 死ぬ気 
死ぬ気でやろうよ 死ぬから

死ぬ気 死ぬ気 死ぬ気の 死ぬ気 
死ぬ気でやろうよ 死ぬから

健康食 食い過ぎで ポンポンは パンパンだ
自己啓発 読み過ぎで ポンポンは パンパンだ

パンはパン パンはパン パンはパンでも 食えない爺
パンはパン パンはパン パンはパンでも 食えない婆

死ぬ気 死ぬ気 死ぬ気の 死ぬ気 
死ぬ気でやろうよ 死ぬから

死ぬ気 死ぬ気 死ぬ気の 死ぬ気 
死ぬ気でやろうよ 死ぬから

うるせえな 余計なお世話 ポンポンは パンパンだ
うるせえな 余計なお世話 ポンポンは パンパンだ

 

ドリカムに「嬉し恥ずかし朝帰り」という曲がある。朝帰りより、より一層嬉しくて、より一層恥ずかしいことがある。それは『穀潰し』だ。極論、我々、全員が穀潰しみたいなものだ。酸素、雨、食物、地球の恵みを抜きにして、生きることはできない。ここ数日、ひとが大量に集まる空間に数ヶ所顔を出した。誤解を恐れずに言うと「みんなさみしいんだな」と思った。さみしさを、大盛り上がりすることでごまかそうとしているように見えた。上部だけの付き合い、上部だけの盛り上がりは、あとに疲労感(虚しさ)を残す。さみしさを乗り越えたければ、さみしさを自覚した上で、爆発することだ。友達ごっこの中に、一時的な盛り上がりの中に、爆発はない。そんなものは、気晴らしに過ぎない。自分をごまかしているだけだ。

 

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「嬉し恥ずかし穀潰し」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

かみさまは不必要な 人間をつくるほどに
愚かなわけではないぜ 俺にも価値はある

食べていくために 生きてるんじゃなくて
生きていくために 食べているんだ なあ

自分の力ひとつで 生きてるやつなどいない 
生かされてここにあるぜ 我ら 宇宙のヒモ

幸せになるために 生きてるんじゃなくて
生きていることが 幸せなんだ なあ

うれしくて はずかしい 僕 穀潰し
うれしくて はずかしい 僕 穀潰し
うれしくて はずかしい 僕 穀潰し
うれしくて はずかしい 僕 穀潰し

人間に生まれたこと これでラストチャンスかも
お次は何になろうか クラゲか? ミジンコか?

ああ 誰かのために 生きてるんじゃなくて
ああ 生きるために 生きているんだ なあ

うれしくて はずかしい 僕 穀潰し
うれしくて はずかしい 僕 穀潰し
うれしくて はずかしい 僕 穀潰し
うれしくて はずかしい 僕 穀潰し 

 

自分が夢中になれる対象を見つけたとき、他人の生き方にああだこうだと口を出さない。誰かを批判したり、なんだり、それは暇人のやることだ。暇人の「負のエネルギー」に巻き込まれちゃいけない。そんな時はジャンプだ。二分間くらい飛び出して、脇の下から「掻きだしてー!掻きだしてー!」と(ラーメンズのネタのように)負のエネルギーを排出するイメージで繰り返し跳ねると、徐々に気分は上向く。否定的な考えは、即刻排出する。純粋に怒る。純粋に叫ぶ。純粋に暴れる。命は、踊りたがっている。負のエネルギーを振り払うもの。否定的な考え方を取り払うもの。どうしようもなく、強く、いまを生きようとするもの。それが『命』だ。

 

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 「命よ、踊れ。」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

どう生きるかより どう遊ぶかだろう
泣くか笑うか 決めるのは自分だろう

こどもの役割(しごと)が 遊ぶことならば
おとなの役割(しごと)は もっと遊ぶこと

明日はないのだ ただ 今日があるだけ
毎日がゴールで 毎日がスタートだ

いいことばかりじゃ 半分なんだ
本当のいいには 悪いもあるんだ

自分に同情を している場合じゃない
被害者ヅラを している場合じゃない

次はないのだ ただ いまがあるだけ
これが最後だからと 暴れ出す 命が

ああ 踊りたがっている 命が 俺と

幸せになるより 感じ取れる美々を
自由に心を 遊ばせておける日々を

カラダを越えて 時を空間を越えて
あなたの笑顔が ぼくを笑顔にする

明日はないのだ ただ 今日があるだけ
これが最後だからと あふれ出す 今も

ああ 生きたがっている 命よ 踊れ
ああ 生きたがっている 命よ 踊れ

 

note.mu

 

毎日がスタートで、毎日がゴールだ。

昨日、天神駅前で人生初の路上ライブを経験した。やる前は「なにを思われるのか」とかビビったが、やってしまえば余裕だった。この感覚は、野宿やヒッチハイクや海外旅行を初めて体験した記憶と似ていた。やってしまえば、余裕なのだ。福岡の人々は優しかった。みんな、我々の前を通過する際に笑顔になった。冷たい眼差しを向けるものは皆無だった。両隣では、しっとりモテモテ系のコブクロとか上手に演奏する歌手がいた。大人気だった。が、私は「よろしく浸ってんじゃねえよ」とか思ってしまって、その隣で暴れた。みんな、そんな我々を見て苦笑していた。まるで、こどもが大騒ぎしている様子を見守るおとなのように、我々を遠くから眺めていた。が、やがて、一緒に踊りはじめる人々も、少数ながら登場した。

 

自分が恐れていることをやることは、自分を解放することと似ている。聖書に「愛に、恐れはない」という言葉がある。逆に言えば「嫌われるかもしれない」みたいな恐れと共に差し出す優しさは、愛ではない。そんなものは、ただの保身だ。りゅーちゃんの言葉を再録する。りゅーちゃんは言った。嫌われないように生きていたら、そこに愛みたいなものが生まれない気がする。だから、俺は、嫌われてもいいのだと思う。と。この純度。この純度が大事なのだと思う。愛されたいとか、認められたいとか、つまらないエゴを捨てる。エゴを捨て切ることはできない。だったら、小さなエゴではなく大きなエゴを抱くべきだ。自分だけの幸福を考えるのではなく、自分を通じて、人類全体が幸福を感じるような、大きなエゴ、大きな欲望、大きな夢を生きるべきだ。そうじゃなければ、端的に、退屈だと思う。生きている手応えは、無欲ではなく『大欲』の中にある。無我ではなく『大我』の中にある。

 

明日から四国に行く。予定はないが「毎日ライブをする」という目標だけはある。我々Agape(現在はKEIGO&RYUの二人で行動している)にライブの機会を与えてくださる方がいたら、是非、お気軽にご連絡ください。与える喜びを、与え合う。そこに生まれるうねりを生きる。生きていると色々なことがある。知らないおっさんの小便に冠水することもある。だが、毎日がスタートで、毎日がゴールだ。昨日のことは昨日こと。まだ、誰にも汚されていない今日がはじまる。くだらない記憶に引っ張られて「俺はダメだ」と思う暇があったら、今日、いま、ここからはじまる瞬間瞬間に、自分を出していきたい。生きることができるのは、いまだけだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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LINE ID ibaya

人間をなめるな。

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天神駅前のタリーズにいる。開く。開くという行為が大事だと思う。疲れたとき、嫌なことがあったとき、心は簡単に閉じようとする。でも、開くことを、開いていこうとすることを、開いていける自分を忘れないことが、大事だと思う。自分が笑えば、世界も一緒に笑う。自分が泣く時、自分はひとりぼっちで泣くことになる。自分を閉じれば、世界も閉じる。開く。開いていける自分を、忘れないことだ。

 

 

おおまかなスケジュール

10月11日(金)20時 KEIGO&RYU&SP LIVE@福岡県久留米市ひなぎく
10月12日(土)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月25日(金)18時 坂爪圭吾&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu 

 

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嫌われないように生きると、嫌われる。

福岡到着前夜、成田空港で演奏をした「SARAH」。男は真理を求めて生きている。女は真理そのものを生きている。水に戻ると書いて『涙』になることが、昔から不思議だった。人間も、地球も、70%以上は水でできている(らしい)。同じように、なぜ、闇の中に『音』があるのかも、不思議に感じていた。昔の人々の感性には敬服する。日本語を美しいと思う。言葉は、私が生まれる以前から存在していた。私は、言葉を使って、音楽を使って、自分を使って『なにか』を継承する。なにかとは、なにか。それがなにかはわからない。ただ、大事なものであると思う。

 

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「SARAH」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

IN SARAH 思い出したら 夢になんて 戻れないぜ
DEAR LOVERS 踊り出したら 水になって あふれ出して
THIS FLOWER ここにないさ いまにないさ

I’m always seeking for truth

硬くなる思考と 柔らかな君
呑気な笑顔に 救われるのさ

You always live in that truth

星が 瞬く間に 許されていく
愛しくて たまらなく ゆれる

IN SARAH はしゃぎ出したら 涙なんて 乾かないぜ
DEAR LOVERS 歌い出したら あわになって 流れ出して
THIS FLOWER ここにないさ いまにないさ

I’m always praying for leave

憎しみにも似た 怒り抱いて
それも含め 恋 だったこと

You give off an enchanting light

星が 瞬くように 輝く君
その光に 満たされていた

IN SARAH はしゃぎ出したら 涙なんて わけもないぜ
DEAR LOVERS 描き出したら うたになって 暴れ出して
THIS FLOWER ここにないさ いまにないさ

IN SARAH 思い出すから 夢になんて 還らないで
DEAR LOVERS 踊り出すから 水になって あふれ出して
THIS FLOWER 花 開いて 種子を蒔いた 光の中

LOVERS,  LAST FLOWER,  SARAH

 

好きなひとに「愛してる」ということは容易だが、好きでもなんでもない人に「愛してる」ということは、滅多にない。滅多にないけれど愛してると実際に口にすることで、あとから「あ、意外と愛してるのかも」みたいな感じで、言葉に感情が引き出されることがある。だから、私は、出会い頭に「愛してるよ」と言っちゃうことを(言わずとも、頭の中で思い浮かべること)を推奨したい。そんな曲『すべての言葉は I LOVE YOU』を作った。似たような感じで「私は地球に愛されている」と口癖のようにつぶやくことを推奨したい。言葉が現実を作る。それならば、前向きな言葉を、明るく、楽しく、ポップな、生きることが楽しくなるような言葉を使っていたい。言葉が先か。感情が先か。きっと、世界は『意識』でできている。

 

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「すべての言葉は I LOVE YOU」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

あいらぶゆーと言ってみよう ガラじゃないだなんて言わないで
あいらぶゆーと言ってみよう すれちがっただけの!あのひとに!

あいらぶゆーと言ってみよう 愛されることをまたないで
あいらぶゆーと言ってみよう 最初から!自分から!先手!必勝!

世界は どうやら 映し鏡みたいなもので
僕らの中にあるものが滲み出てるらしい

俺が笑えば 世界も一緒に笑うのだろう?
俺が泣けば 俺はひとりで泣くのだろう? 

悲しみよ BYE-BYE BA BYE-BYE!

あいらぶゆーと言ってみよう ガラじゃないだなんて言わないで
あいらぶゆーと言ってみよう 遠く離れているあのひとに

あいらぶゆーと言ってみよう 気分が乗らないときにこそ
あいらぶゆーと言ってみると あら不思議!少しだけ!体温あがる!

僕らは どうやら 魔法使いみたいなもので
世界に振り撒く言葉が 現実(せいかい)を作る

張り倒したくなるやつも うじゃうじゃいるけど
まるごとひっくるめて愛せたら 俺の勝ちだろう 

憎しみよ BYE-BYE BA BYE-BYE!

あいらぶゆーと言ってみよう ガラじゃないだなんて言わないで
あいらぶゆーと言ってみよう 絶対に!許せない!あのひとに!

あいらぶゆーと言ってみよう 愛されることをまたないで
あいらぶゆーと言ってみれば あら!不思議!気分まで!ほら!

天にも昇っちゃう!そら!

あいらぶゆーと言ってみよう ガラじゃないだなんて言わないで
あいらぶゆーと言ってみよう すれちがっただけの!あのひとに!

あいらぶゆーと言ってみよう 気分が乗らないときにこそ
あいらぶゆーと言ってみよう 遠く離れている!あのひとに!

あいらぶゆーと言っているよ 生きとしいけるもの 全部
あいらぶゆーと言っているよ きっと そう

すべての言葉は 「I LOVE YOU」

 

昨日、コミュニケーションとは何かという話をした。一般的には「誰とでも仲良くなる力」がコミュ力と言われている。でも、これは、違うと思う。誰とでも仲良くなることより、大事なことがある。それは「自分が、これは大事だと思ったことを伝える力」だと思う。油断をしていると、人生の最優先事項が嫌われないこととか傷つかないこととか一般的であることになる。でも、それじゃ、人生の半分も楽しめない。薄っぺらい絆しか結べない。真の絆は、苦楽を共にすることから生まれる。だからこそ、嫌われないためではなく「嫌われたとしてもいいから、自分が大事だと思うことを伝えていくこと」だ。無難な道を選ぶと、無難な関係が残る。無難は関係は、当たり障りはないものの、全体的に冷たい。心の一部はさみしいままだ。憎しみは身体を冷やすが、怒りは体温をあげる。怒りを悲しみに置き換える前に、美しく、怒る。美しく、叫ぶ。美しく、暴れる。それが、大事だと思った。

 

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「かかって恋」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

なんにもしてないひとたちが なにかしているひとを馬鹿にするなよ
決めつけることも 押し付けられるのも 嫌だな

まだ見たこともない宝物(じぶん)が 見つけられることをまっているのだ
馬鹿にするよりも 馬鹿になれる方が 好きだな

君となら 不幸になってもいいよ
ぶつかって恋 全部 捨てて恋

なんにもできない自分には 生きる意味などないなんて言うなよ
君に会えたこと おれは たまらなくうれしいぞ

誰かのために灯をともせば おれの目の前も明るくなるだろう?
昨日よりちょっとよくして 明日の君にシュート決めたい

骨身なら 砕け散ってもいいから
ぶつかって恋 いいぞ かかって恋

まだ見たこともない世界(じぶん)が 見つけられることをまっているのだ
馬鹿にするよりも 馬鹿になれる 恋をしよう

 

「スミカ」作詞・作曲 Keigo Sakatsume

愛想ばっか 振りまいてないで コアを見せてくれ
そんなもんじゃ ないことは みんなバレてるんだ

ひとりじゃないふり してるけど
本当は いまも ひとりのままなんだろう?

Love is always with you もう一度 君の祈りを
俺にだけ聞かせてよ 夢を聞かせてよ

愛を こけにしてみたり すがりついたり
袖振り合わせたさみしさが ぬくもりに変わるまで

愛想ないぜ 真の君は バカに正直で
わがままで 生意気で それが魅力なんだ

何者かになれないことよりも
何者かになろうとすることが 苦しいんだろう?

Love is always with you そのままで そのままでいい
無邪気な笑顔を見せて 同じ空を見よう

居場所は きっと場所ではない 君の心だ
君が「好き」を取り戻す時 この星が 居場所になるだろう

Love is always with you もう一度 星に祈りを
君にいま 降り注ぐ夢を もう一度

地球がひとつの家ならば ぼくたちふたり
一緒に暮らしていることと もう同じだろう?

愛さないぜ 無理になんて 俺は自然派なんだ
半端ないぜ 決めたことだ 終のスミカは君だ

 

note.mu

 

人間をなめるな。

昨日、男3人で語り合った。生きる上で大事にしたいこと。話題は「傷つきたくない」と思う感情について。傷つくことを恐れるあまり、嫌われないように、ひとの迷惑にならないように生きる。そういう癖は、誰にでもあると思う。ただ、昨日、強く思った。嫌われたくないと話す男性に対して、私は「人間をなめるな」と言った。嫌われないように生きて、それで相手から好かれると思うことは、人間をなめている。 生きている限り、そりゃあ、波長が合う人間もいれば合わない人間もいる。優しい人間もいれば「なんでこんな冷たい対応をするのだろう」と感じるひともいる。だから、自分が好きだと感じるひととだけ一緒にいたいと思う感情は、自然だ。ただ、それが行きすぎると「自分が、この人には話せると思ったひと以外の前では、自分を出せなくなる」危険がある。日常的に自分を抑圧している(他人に合わせて生きている)と、自分を見失う。

 

人間は、人生は、お前が思うよりもよっぽど広い。偏った認識で、人間をみくびるような真似をするな。世界を低く見積もるな。そう思った。人間とは、自分のことであり、他人のことであり、人類全体のことだ。もしも「嫌われないこと」が最優先の世の中なら、俺は、お前に、なにかをおかしいと思っても「人間をなめるな」とは言わないし「それじゃさみしいままじゃないか」とも言わない。ただ、お前の話を聞いたあとに、それでいいんじゃないとか適当な言葉を使って、話を深めるようなことをしない。それが、お前の望みか。ただ、受け入れて欲しいだけなのか。違うだろう。人間と人間が語り合うということは、そういうことではないだろう。もっと、こう、命と命がぶつかりあうような、それによって生じる摩擦熱を通じて『生』を実感するような、そういう瞬間、そういう手応え、そういうコミュニケーションをお前は求めているのとは違うか。少なくとも、自分は、そうだ。適当な社交辞令を繰り返すよりも、本当のことを言い合えるひとが好きだ。だから、俺は、言う。嫌われてもいいから、言う。これが俺なりの愛である。そう思った。

 

このやりとりのあと、RYU-CHANは言った。嫌われないように生きていたら、そこに愛みたいなものが生まれない気がする。だから、俺は、嫌われてもいいのだと思う。自分は、Agapeで音楽をはじめるまでは、常に「なにか違う」と思いながら毎日を生きていた。なにをしていても「なにか違う、なにか違う、なにか違う」と感じていた。ひとといることに疲れて、ひとりで真っ暗な道を何時間も歩いたりしていた。誰とも会わない日々を過ごしたあと、自然と「ひとと関わりたい」と願う気持ちが湧き出してきた。音楽をやりながら思うことは、爆発。人間のポテンシャルはやばい。ひとりの人間ができることには無限の可能性がある。それを引き出すようなことを、それらを阻害しているものを解放したい。そういうことを自分自身に感じながら、音楽をやっている。と。自分を解放できただけ、きっと、それに触れたひとを解放できるのだと思う。行動を共にしているSPは、こう言った。自分にとって、幸せとは「自分いいな」って思えた瞬間である。と。すげーいい言葉だ。そうだ。その通りだ。こういう語り合いをできている自分を、自分たちを、すげーいいなと思った。生きている限り、浮き沈みもある。色々な感情になる。だが、そのトータルで「最高だった」と言える生涯を送りたいと思う。

 

 

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福岡に埋伏…目指せ毎日LIVE…

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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LINE ID ibaya

夢を生きる。

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横浜駅前のドトールにいる。夢。追うことは楽しいが、追われるのはしんどい。夢を追うべし。追いかけよう。夢を諦めた時、冴えない現実に呑まれるのだ。とか言うと「夢とか甘いことを言っていないで、現実を見ろ」と言われてしまう。ドリームキラーなんて言葉もあるが、誰かの夢を終わっていると言うひとは、ただ、その人自身の夢が終わっているのである。生きていることが、夢であるというのに。

 

 

おおまかなスケジュール

10月9日(水)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月25日(金)18時 坂爪圭吾&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu 

 

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命は、生きたがっている。

昨夜、音声配信をした。最初はあふれちゃん(合唱)。生きる上で大事にしたいことは「絞り出したものではなく、あふれ出したものに従いたい」という思いだ。人間はボロ雑巾なんかじゃない。こうでなければいけないとか、これをしなければいけないとか、そういうものではなく「これをしたくてたまらない」「気がついたらやってしまっていた」という、自分の内側からあふれ出すものに従いたい。そうじゃないと、生きることが苦行になる。我々は、苦しむために生まれたわけじゃない。よろこびのために、生まれてきたのだ。闇が強いほど、光もまた強いはずだ。

 

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「あふれちゃん」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

伝えられなかった 思いは 何処に 行くんだ
言わずに終わるか 言って終わるのは どうだ

俺を叩けば 罪が まるでホコリみたいに
晴れた日に 舞い上がれ きらきら 光れ

悲しみ 深いほど 慰めも 深く 深く
闇が 強いほど 光もまた 強く 強く

ただ あふれる あふれる

使い込まれた 命 だから 味が出るのだ
愛ならば ある 見捨てられることはない

矛盾のなかに 俺は ど真ん中を見る
涙 流しながら 笑う 黙って 騒ぐ

胸が 苦しいほど よろこびも 深く 深く
寂しさ 抱くほど ぬくもりも 強く 強く

ただ あふれる あふれる

悲しみ 深いほど 慰めも 深く 深く
闇が 強いほど 光もまた 強く 強く

胸が 苦しいほど よろこびも 深く 深く
寂しさ 抱くほど ぬくもりも 強く 強く

ただ あふれる あふれる

 

次はジュリー(合唱)。我々は、別に、望んで生まれてきた訳ではないと思う。いつの間にかこの星に生まれ、生きることを強制されたり、価値のある人間になることを強制されたりする。それに疲れると「別に、生まれたくて生まれた訳じゃない」などと思う。自分なんか、居ても居なくても同じだという思いに、覆い込まれることもある。しかし、命は、この瞬間も生きたがっている。望んで生まれてきた訳ではなくても、生きることを望んでいない訳じゃない。否、生きることを強く望むからこそ、葛藤を覚えるのだ。悩むということは、真剣に生きている証拠だ。

 

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「ジュリー」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

恋に 恋をした また 傷が ひとつ増えた
でも 明るい未来を 信じるんだ ジュリー

一輪の花を 見ろ とても綺麗ではないか
吹き荒れる 雨風に 負けるな ジュリー

望んで 生まれた わけじゃないけど
生きることを 望んでいない わけではないし

わたしの 代わりに 生きている

故意に 恋をした コラ また いつものやつだろう
性懲りもない いい加減 目を覚ますのだ ジュリー

みんなもがきながらも 幸せに 手を伸ばすよ
完璧な人間は いない 受け入れろ ジュリー

遊びで 生きてる わけじゃないけど
遊びで 生きてはいない わけでもないし

ひとつの 命を 生きている

愛に 恋をした ほら きっと また会えるよ
奇跡は 何度でも 起きる さあ 顔あげろ ジュリー

ああ 思い出していた 君と 歩いた 道
夢中で 走り出す君が 大好きだ ジュリー

世界は愛でできている と 思ってたけど
どうやら 世界は恋でできている ようだ

あなたは もうひとりの わたしです
あなたは もうひとりの わたしです

 

最後は、わたしを忘れないで(合唱)。小さなこどもたちは「ねえ見て」「ねえ聞いて」「ねえ抱っこして」と、自分の思いをストレートに伝える。おとなになったからと言って、こうした思いが消えた訳じゃない。誰かが見てくれること、誰かが聞いてくれること、誰かが触れてくれること、ただそれだけのことが『大きな力』になることがある。逆に言えば、誰も自分のことなんか見てくれていないのだと思うとき、生きる力は大幅に失われる。ツイッターなどを見ていると思う。みんな、様々なことを書いているが、結局、同じ言葉を言っているのではないだろうか。それは「わたし(命)を忘れないで」という言葉に、集約できるような気がする。

 

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「わたしを忘れないで」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

本気で ひとを愛すこと
それは 命を賭けること

わたしを 置いて 行かないでね
わたしを 連れて 行ってね

ねえ見て ねえ聞いて ねえ わたしに さわって
ねえ見て ねえ抱いて わたしを 忘れないで

天国に持って 行けるのは
愛し 愛された メモリー

あとは何の役にも立たないの
なにもかも 置いて 行くの

ねえ見て ねえ聞いて ねえ わたしを さらって
ねえ見て ねえ泣いて わたしを 離さないで

ねえ見て ねえ聞いて ねえ わたしに さわって
ねえ見て ねえ抱いて わたしを 忘れないで

 

夢を生きる。

昨夜、壇珠さんとインスタ音声配信をした。11月4日(月・祝日)に、東京でトークライブがある。時間のあるひとは、是非、足を運んでほしいと思う。壇珠さんは、紡ぎ出す言葉も素晴らしいが、何よりも存在が素晴らしい。声が素晴らしい。佇まいが素晴らしい。本当に素晴らしいひとは、やっていることではなく、言っていることではなく、存在そのものが光を放つ。一度、本物に触れると「偽物を見分ける」力がつく。自分が見るべきものが定まり、余計なものに惑わされなくなる。壇珠さんが言っている言葉を信じるというよりも、壇珠さんを見たとき、自分が感じた思いを信じること。それが、大事だと思う。それが、光になるのだと思う。

 

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11月22日(金・いい夫婦の日)、大阪でAgape初の単独ライブがある。Agapeの魅力は『純度』だと思う。我々は7人組のバンドである。音楽経験こそ乏しいが、共通点として純度の高さがある。純粋であること。それ以上に大事なことはない。はたから見たら「生きるのが下手くそ」な7人組である。だが、思う。生きるのが下手くそなひとは、下手くそに生きることで「純粋な部分を、護り続けている」のだと思う。純粋であることは、器用に生きることより、ずっと素晴らしいことだ。だから、生きづらさに悩むことがあっても、大事なものを明け渡さないで、そのままで生きていてくださいと思う。7個集めたドラゴンボールが願いを叶えるように、この日、奇跡が起こる。この奇跡を、あなたにも目撃していただきたいと思う。

 

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音楽をはじめるまで、私は「人生に夢や目標は必要ない」と思っていた。生きているだけでいい。そう思っていた。しかし、いまでは「夢は、最高に素晴らしいものだ」と思う。音楽をやりたいと思う人間にとって、夢とは有名になるとか金持ちになるとか武道館でライブをするとか、そういうことではない。音楽をやりたいと思う人間にとっての夢は、ただ、音楽をやることだ。だから、私は、すでにゴールをしているのだ。ゴールのど真ん中、夢のど真ん中を生きると、不思議なことに「世界の方から、新しい景色をどんどん見せてくれる」現象が起こる。私は、ただ、そこに舞い込むひとつひとつを、愚直に生き抜くだけでいい。夢を生きる。夢は、叶えるものではなく「ど真ん中を生きる」ものだ。自分の夢を阻害するもの。自分の理想を阻害するもの。それは「ひとからどう思われるだろうか」という、恐怖心だ。それは「失敗するんじゃないだろうか」という、恐怖心だ。だが、思う。夢のど真ん中を生きる限り、必ず、世界はそれを助ける方向に力を与える。自分を縛っているものは、自分だけだ。解放のエネルギーを、撒き散らしていきたいと思う。

 

 

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All of the feelings

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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「俺を見ろ」と言いたい。

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タイのルーイ空港にいる。不思議だ。タイにも赤ちゃんは大量にいるが、ギャン泣きをしている場面を一回も見ない。たまたま居合わせた人々が、赤ちゃんをあやしている。誰もがこどもを大事に扱っている。そんな印象を受ける。こどもの声はよく通る。ボイトレなんか受けなくても、誰もが、最初はよく通る声だったのだ。健やかな成長を阻害するもの。そこに興味がある。何かを身につけるのではなく、何かを削ぎ落とすことで、我々は完璧に近づく(元来、完璧であった)のだと思う。

 

 

おおまかなスケジュール

10月6日(日)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
10月25日(金)18時 坂爪圭吾&RYU LIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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環境に負けるなんて、癪じゃないか。

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チェンカーンの宿。対岸はラオス

 

東京駅に着いた。昨夜、バンコクで元カノの近藤さんとラジオ配信をした。五年前、私は同棲をしていた彼女と別れたことをきっかけに家なし生活に突入した。その、きっかけとなった女性だ。結果的に、そのおかげで私はプチブレイクスルーを果たし、全国各地やはたまた海外諸国を巡ることができた(最終的には、熱海に家を購買していただいた)。ラジオ配信中、近藤さんは「同棲していたとか言うけど、あたしの家にあなたが転がり込んで来ただけじゃない」という、的確な指摘をした。ごもっともだ。頭が上がらない。金がないのは、今も、昔も、同じである。

 

note.mu

 

本当は、9月30日の便でタイにいく予定だった。しかし、あろうことか飛行機に乗り遅れてしまった私は、近藤さんに「ごめん。飛行機に乗り遅れたからタイに行けない」と連絡をした。すると、彼女は、翌日発の格安航空券を複数個調べて私に送りつけてきた。一回乗り遅れたくらいで、たやすく諦めてんじゃねえよ。そう言われている気がした。私は「はっ!」となり、航空券を取り、タイ行きのリベンジを決めた。近藤さんの秘書力は高い。ケツを叩かれると「はっ!」となる。それが、男というものだ。女性に振られた勢いで、自分自身を振り切れるかどうか。いつまでも未練タラタラでは、湿ったダンボールみたいになる。男たるもの、振っていただいた動的エネルギーを最大限に生かし、自分自身を振り切ることだ(自戒)。

 

note.mu

 

ラジオ配信後、このようなご連絡をいただいた。「元旦那と仲良くしてると『いつまでも仲良くしてないでお互い別々に歩まなきゃ💢』とか言ってくる人おんねんけど、うるせーーーー!💩っていつも思うの。別れたって仲良くしてもいいやんねぇ!圭吾くんが元カノさんと楽しそうで、なんかよかった!!勝手に『間違ってないもんねーーー!』って激しく思いました!!笑」。と。いやもう本当にその通りだと思います。恋人同士が、別れたらいきなり他人になるのも、どうなのかなっと。結構な距離感で連れ添った仲なら、第三の家族的なポジションになればいいと思う。坂爪圭吾の『CHINA IS BIG』。死ぬほど暇なときに、聞いてみてください。

 

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「俺を見ろ」と言いたい。

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メコン川の夕暮れ。

 

時は流れ横浜。昨日、代々木公園で演奏会をした。RYUと話す。我々Agapeにもっとも必要なものはなにか。結論は「毎日ライブをすること」となった。あらゆる機会を捉えて、ライブをしたい。全国各地どこでも行きます。必要とあらば声をかけてください。挑戦。実験。目標。遊戯。爆発。言葉はなんでもいい。挑むときに、張り合いが生まれる。タイから戻り日本を歩く。誤解を恐れずに言えば「覇気がない」と感じる。しょうがないの停滞感に溢れている。楽しそうに生きている人間が少ない。絶対に俺より金も地位もあるひとが、俺より不機嫌に見える。なんだこれは。悩み相談的な連絡も届く。社会的底辺の自分が、一般的な人々から悩み相談を受けているこの構造はなんだ。逆じゃないのか。自分が相談をしたいくらいだ。一般的というのは幻想で、実は、誰もがなにかしらを抱えて生きているのだろうか。

 

自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしない」というものがある。過剰な正義感は、価値観の押し付け(暴力)になる。私は他人に何かを強制したり、自分と同じであることを期待したいとは思わない。自分のためにやることが、結果的に誰かのためになれば幸運だと思っている。だから、悩み相談をされても困る。問題を解決することも、的確なアドバイスをすることもできない。「俺を見ろ」としか言えない。金も家も仕事もなくてもどうにかなったぞ。誰にでもあてはまるかは謎だけど、全部、どうにでもなる気がするぞ。人並み(見栄とかプライド)を捨てたら、俺の場合は楽になったぞ。問題を解決することはできないけれど、問題を抱えたまま幸せになることはできるぞ。こうでなければいけないという世界観の外側には「こんな生き方もありなのか!」が、たくさん転がっていたぞ。 

 

自分なんか、居ても居なくてもおんなじ。そんなことを言う人がいる。私は突っ込む。そんなわけあるかい。命が、そんなことを言う訳がない。生き物としての面白さ。それは、言うまでもなく全員にある。だから、正確には「他人に合わせて生きる限り、自分なんか居ても居なくてもおんなじ」だと思う。Life is a showtime - 聴かせてくれよ。君の歌を。魅せてくれよ。君の光を。そんなことを思う。愛媛のライブに来てくれた男性から、猛烈に嬉しいメールをいただいた。死なないように生きても、死ぬ。人生は(多分)有限だ。ただ、こんな風にも生きられるんだぜと思わせる人間の存在は、それに触れた人々の心に、永遠に生きる。素敵じゃないか。俗世を生きるより、人々の心の中に生き続けようではないか。そんなことを思う。

 

 

坂爪さま


先日は、愛媛県内子町のライブ、本当にとても楽しかったです。
ライブにて、感じることが色々と多すぎて、終了直後は脳みそを整理出来ずにいました。
それと、自分の考えを坂爪さんに言う必要は全くないと思い、ほとんど何もお話し出来ずでした。
しかし、だからといって後悔をしているでもなく、本当に充足感でいっぱいでした。


数日たち、自分の中で整理出来てきまして、これはもしかしたら坂爪さんに伝え方が良いのではないかと思いはじめ、このメールを打っています。
たぶん、超長文になると思いますので、気が進まなければ無視して下さい。
僕は自分の気持ちの整理の為に、この文章を書いています。


僕は2年前に会社を辞めて、今は貯金と、あとはフリーランスの仕事を少しずつやったり、自宅を民泊として運営したりしながら、のんびりと暮らしています。
ちなみに独身です。
毎日時間がたっぷりあるので、自分と向き合ったり、瞑想したり、色んな本を読んだり、思った事をノートに書き留めたり、しています。
そういう事をしていると、価値観がガラッと変わったり、どんどん自分が幸せだったんだと気づくようになったりしました。価値観が変わる時は、コロコロ変わると言うよりは、アップデートしていく感じです。前へ進んでいます。


そんな中、最近の心境は、まず
「ネガティヴは百害あって一利なし」
といった感じで、良いココロの波動を出し続けるように心掛けたり、物事の印象には必ずプラスとマイナスがあるので、プラスを見れば良いじゃん、と、前向きな気持ちになったり、そうこうしているうちに、もうどんな事が人生に降りかかってきても、自分は精神的にダメになる事はないのだから、全ては宇宙に委ねるかぁ、という心境になっていて、すごく静かな日々を過ごしていました。


そんな中、坂爪さんに会えると分かってから、前日の夜にかけて、とある「怖さ」が襲ってきました。
僕は坂爪さんを「完全な本物」だと思っています。
その「本物」に会うと分かってから、自分自身の「偽物感」がどんどん現れました。
そこで、僕は「本物感」と「偽物感」について、ちゃんと考えました。
本物感とは、その人の「心の印象」と、「やっている事の印象」が、食い違っていないかどうか?という事だと思います。
人間は、「脳で考えている事」と「心で感じている事」があって、その人の人生の生き方や、創作活動を見る時に、
「脳で考えている事」=「やっている事の印象」
で、
「心で感じている事」=「心の印象」
というわけです。


で、僕が僕自身に偽物感を感じるのですが、それはそれで、そこまで分析した結果、そこまで悪いものでもないという風に落ち着きました。
僕は、1つの方向に向かい続けるのが嫌いなのです。多様性が好きというか。
何に対しても、1つの視点から見た後は、別の角度から見てみよう、を繰り返す傾向にあるのです。
なぁんだ、研究者向きか?みたいな感じで自己肯定感は再浮上し、落ち着いてぐっすり眠る事ができました。


で、内子町ライブ当日です!


僕は坂爪さんに会って、神様に直接会ったくらいのじんわりとした感動がありました。
黒目が綺麗でした。
歌って動く肉体が、楽しそうでした。
やおよろずの神は万物に宿ると申しますので、木にも石ころにも神は宿るくらいですから、人間の坂爪さんに神が宿っていないはずも無く、よって、坂爪さんに神を見るのはまんざら大袈裟な表現でもありません。


歌と歌詞もむちゃくちゃ良かったです。


ジュリーの歌詞で、
世界は愛で出来ていると思ってたけど
どうやら世界は恋で出来ているようだ
って歌詞を聴いて、そうかもしれない!と思いました。
「愛」と「恋」という言葉について、「愛」とは、相手のことを思い、何かを与える事で、「恋」とは、自分の為に、何かを欲しがる事だと思います。
なので、愛が上で、恋が下で、愛が良くて、恋はまだまだで、そんな価値観を持っていたのですが、だんだん、「欲しがらなきゃダメだ!」と思えるようになってきました。
ここからは恋愛の事よりももっと人生全般の話になりますが、僕は会社員のころは、世間や自分の生き方に対して、「違う!違う!」ともがき苦しんでいました。
でも今は、悟ったかのように、「全ては、そうだ。」という境地に入りかけています。
それはそれで大切なのですが、坂爪さんの曲を聴いていると、「違う!違う!」ともがき苦しんでいる人も美しいし、「欲しい!欲しい!」と苦悩する事も、必要な気がしてきます。
そう考えると、世界は、「愛」という、静かな、満ち足りた、分け与える慈愛で満ちているというよりは、「恋」という、活動的で、枯渇的な、情熱が原動力なんじゃないか?
自分は家で瞑想している場合なのか?
本当は寂しいんじゃないのか?
でも、寂しいのも、自分を不幸に感じるのも、別にいいんじゃないか?
それでも心に感じる何かを、切実に追い求めて探求していけば、それは美しいんじゃないのか?
と思えてきました。
坂爪さんは、ココロは共通して、踊りたがっているんじゃないか?と言っていて、僕は直感的に、「多分その通りだ!」と思いました。
別にダンスが好きとかではないですが、活動を、喜怒哀楽の活動を、楽しくやりたがっているんだと思います。多分その通りです。


そんなこんなで、ライブが終わった後は受け取った荷物が多すぎて、僕は坂爪さんに何も話しかける内容がありませんでした笑


家に帰ってから、もう一度、頭を整理しました。


「ネガティヴは百害あって一利なし」
の価値観はアップデートされました。
「愛」は充足感から、与えたい気持ち。
呼吸でいうと、息を吸って吸って、吐きたくなってる所。
「恋」は枯渇感から、欲しい気持ち。
呼吸でいうと、息を吐いて吐いて、吸いたくなってる所。
どちらが良いも悪いもないし、どちらも素敵。
ポジティブもネガティヴも、両方大事。


心は踊りたがっている。
爽やかな空気を吸って、美しい息を吐きながら。


いけないのは、妥協したものを欲しがって、あげたくないものをあげる事。
それはつまり、やりたくない仕事をして給料が少ないと愚痴を言う事とか。
それと、完全に息を止める事。(死んじゃうからね!)

 


と、言うわけで、坂爪さんのおかげで、価値観がアップデートされて、素晴らしい体験でした。
本当に本当にありがとうございました。


坂爪さんは、人から聞いた事や、本で読んだ事をそのまま言っているのではなく、かなり自分の中で考えて、何より自分の「心で感じて」歌詞を書いてらっしゃると思いますし、その歌詞と歌を、ギター1本で、目の前で歌うというのは、すごくすごく説得力があります。
またそれは、雑に歌ってないからだとも思います。
ちゃんと練習して、ちゃんと心を込めて、ちゃんと毎回新鮮な気持ちで歌ってらっしゃるからだと思います。
(ちなみにプロの方でも、雑に歌っている場合「あれ?1番が2番に聴こえる」ってなります)


本当に良いライブでした。
あ、それと、子ども達が外で遊び回ってて、坂爪さんがそれを全く気にしていなくて、っていうのが、すっごく心地良い空間でした。
「心は踊りたがっている」と歌いながら「ガキどもよ黙って座って俺の歌を聴け」なんて表情してたら、矛盾してますもんね。
「子どもは遊ぶ!俺は歌う!大人はそれを聴く!どうだ!」みたいなビューティフルワールドが生まれてました。

 


長くて、抽象的で、ごく個人的な文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
もちろん気が進まなければ返信不要です。
ブログへの転載等は、ご自由にお使いください。


これからの活動も楽しみにしております。
坂爪さまの健康と、幸せがますます降り注ぐ事を、お祈りしております。


また、地球のどこかで!

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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命は、踊りたがっている。

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愛媛県松山湊町のドトールにいる。今日は三津浜で弾き語りライブだ。まったく歓迎されていない場所で演奏をするのは初体験だ(こんな書き方は語弊があるが、これまでは呼ばれた場所で演奏していた。今回は、飛び込みみたいな感じになる)。最初っからゴールしているひとが好きだ。ゴールとは「楽しむこと」だと思う。金持ちになるとか、名誉を得るとか、豪邸に住むとか、幸福な家庭を築くとか、そんなものは副産物だ。人生とは自分を楽しませることであり、売れないバンドも、売れているバンドも、楽しむことができているなら「ゴールしている」のだと思う。

 

【後日談】まったく歓迎されていない、などと卑屈なことを書いてしまいましたがめちゃめちゃ歓迎していただきました!!猛烈にありがとうございます!!幸せ!!

 

 

おおまかなスケジュール

9月23日(月・祝日)18時 弾き語りLIVE@愛媛県松山市「厨さん」
9月24日以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
9月26日(木)20時 弾き語りLIVE@大阪市北区中津「EARTH DIVER」
9月27日以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
9月29日(日)15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
9月30日以降、東南アジア巡業編スタート(最初はバンコク
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」

🌸🌸🌸すべてのイベントで、常時参加者募集中です🌸🌸🌸

連絡先・坂爪圭吾
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楽しく生きることが、一番の反骨。

教育問題を語る人々と結構あった。私は、学校とは「楯突く力を学ぶ場所」だと思う。先生に騙されちゃいけない。両親に騙されちゃいけない。自分の頭で考える力を養うのだ。たとえ、周囲と違う自分は頭がおかしいんじゃないかと自分を責めてしまうことがあっても、おかしいと思う自分がおかしいのだと思うと鬱病になる。だから、自分の感性を信じることだ。そう思いながら生きてきた。だから先生にも嫌われたし友達も少なかったが、悔いはない。なぜならば「真の友達(真の教師)と出会うことができた」からだ。一般大衆は「これができないと生きていけませんよ」的な言葉で、我々を脅す。しかし、惑わされちゃいけない。実は生きているだけで全然OKなのであり、ねばならないという強迫観念で動き出してもロクなことはない。それよりも「これがしたくてたまらない」と、自分の内側からあふれ出すものに従っていれば、絶対に人生はどうにかなる。牙を抜かれてはいけないのだ。

 

楽しく生きることが、一番の反骨である。過去に家なし生活をしていた頃「家がなくても楽しそうに生きている人間がいたら、結構なカウンターパンチになるだろう」とか思った。金があるから幸せ。家があるから幸せ。これじゃ、普通だ。しかし、金も家も仕事も、生きるために必要と言われているもののほとんどがないくせに、それでも楽しそうに生きている人間がいたら、結構な衝撃になるだろうと思った。そこを狙った。非常にありがたいことに、いまでは熱海と横浜(Agapeのメンバーの活動も含めたら、新潟の佐渡島にも誰でも自由に使える家があるから)結果四軒の『家』がある。奇跡のJ字回復(?)である。人生は何がおこるかわからない。漫画みたいな着地をした。そしていま、私は音楽活動をしている。気をつけたいところは「歌がうまいから素晴らしい」とか「技術があるから素晴らしい」とか、そっちの方向に引っ張られないことだ。うまいからすごい。技術があるからすごい。これじゃ、普通だ。しかし、ヘタクソなくせにやたら楽しそうに生きていたら、結構な衝撃なんじゃないか。そう思った。だから、うまくなることより「技術だけじゃないなにか」を大事にしたい。そう思っている。あるから素晴らしいのではなく、ないのに素晴らしい。ダメだからこそ素晴らしい。そこを狙いたいのだ。

 

学校をやめたとき、仕事をやめたとき、家をなくしたとき、音楽をはじめたとき、周囲の人々から「これでお前の人生は終わったな」的な視線を、結構浴びた。私は、いま、彼らに「ざまーみろ」と言いたい。お前が終わったと思った男の人生は、いま、結構な光度で輝いているぞ。お前らが言うところの「そんなんじゃ生きていけないよ」的な方法で、実際に、しぶとく生き延びている人間がここにいるぞ。しぶとく生き延びているばかりか、結構毎日はドラマティックで、結構毎日は充実していて、結構毎日「今日も生きた」と思いながら、お布団でスヤスヤ眠れているぞ。おれを脅したおとなたちよ。みているか。おれはハピネスだぞ。おとなに脅されているこどもたちよ。みているか。おれはハピネスだぞ。おとなの言うことを無視しても、結構幸せになれるぞ。人生、意外とどうにかなるじゃねえか。と。あれだけ脅された言葉を、無視した過去の自分に拍手!と、自分を賞賛したい。

 

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命は、踊りたがっている。

強がってみたものの、実は毎日ビビっている。私は気を遣い過ぎて自滅するタイプの人間だから、音楽をやるときも「踊りたいひともいれば、静かに聞きたいひともいるよな」とか、お客様満足を考える。が、全員の期待に応えようとすると、途端に窮屈になる。だから、もう、私は極論を生きることにした。それは「命は、踊りたがっている」と信じることだ。たとえ、いま、自分はそんな気分じゃないと言うひとがいても、自分は静かにしていたいのだと言われても、それは(命ではなく)頭の言葉に過ぎない。その奥にある命は、常に、踊りたがっている。だから、我々(というか現時点では自分ひとり)の役割は、踊りたがる命を躍らせることだ。音楽を通じて、言葉を通じて、存在を通じて、踊りたがる命を自由にさせることだ。

 

もたざる者の凄みを見せてやる。家がない頃、所持金もそこをつき、ああ、いよいよ俺にはなにもなくなったなと夕日を見ていたことがある。その時、私は、強烈に確信したことがある。それは「まだ、自分には体温が残されている」ということだ。生きていると言うことは、体温があるということだ。熱量があるということだ。あらゆるものを失って、なお、残るもの。それは『体温』だ。それは『熱量』だ。それは『生命』だ。私は、この、最後の最後まで残るものに自分を賭けたいのだ。前に、音楽評論家のような方から「伝えたいものがあるひとの演奏は、ハートに響く。あなたにはそれを感じた」と言われた。端的にうれしかったが、しかし、私は特別何かを伝えたいとかまったく思っていない。伝えたいこと。そんなもの、自分にあるのだろうか。強いて言えば「生きている」ということ。その程度のことだ。伝える、というよりも、空間全体に滲み出るもの。俺は生きている。お前も生きている。いま、そのことを確認し合っている。LIVEとは、そんな感じの瞬間だ。

 

命は、踊りたがっている。頭意識は「疲れた」だの「面倒臭い」だの「自分はダメな人間だ」だの、余計なことをぺちゃくちゃ喋る。しかし、命は常に踊りたがっている。小さなこどもたちを見よ。歩きながら踊り、走りながら踊り、遊びながら踊る。歳をとるから踊らなくなるのではない。逆だ。踊らなくなるから歳をとるのだ。踊っている人間は、総じて『若い』。最強のアンチエイジングであり、最強の自己啓発であり、最強のエンターテイメントである。真に価値あるものは、酸素も海も風も、全部無料だ。踊りも無料。いま、この瞬間から踊ることはできる。踊れ。踊れ。踊れ。笑いながら踊り、泣きながら踊る。怒りながら踊り、嘆きながら踊る。叫びながら踊り、黙りながら踊る。踊れ。踊れ。踊れ。人生は踊りだ。命は、踊りたがっている。頭意識は「愛とはなにか」「許しとはなにか」「生きるとはなにか」的なことを、頻繁に考える。しかし、踊っている瞬間には、愛もある。許しもある。優しさもある。生きていることの全部が、ここにある。瞬間をぶちまけて輝く。踊りたがる命を、爆発させる。それが『いまを生きる』ということだ。

 

 

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俺の幸せが、みんなの幸せになることを信じる!愛媛!

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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俺達は、最初から最高で、最後まで最高だよ。

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新大阪駅前のカフェにいる。今夜は福岡でLIVE。終了後速攻で小倉港に移動し、夜行船で愛媛に行く。LIVEの場数を重ねながら思う。メンバーのあきとが「此の期に及んで恥ずかしがることが、もっとも恥ずかしいことだ」と言っていた。この言葉がグサリと刺さる。舞台の上で、余計な言い訳は禁物だ。そんなことより「これが自分です」と堂々とやること。お客さんだって、謎の言い訳(言い逃れ)を聞きに来た訳じゃない。個々の人間のベストアクトに触れんがために、生きているのだ。

 

おおまかなスケジュール

9月21日(土)19時 弾き語りLIVE@福岡市中央区清川「i&i」
9月22日(日)14時 弾き語りLIVE@愛媛県内子町「丘の上の日曜市」
9月23日(月・祝日)18時 弾き語りLIVE@愛媛県松山市「厨さん」
9月24日(火)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
9月26日(木)20時 弾き語りLIVE@大阪市北区中津「EARTH DIVER」
9月29日(日)15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
9月30日以降、東南アジア巡業編スタート(最初はバンコク
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」

🌸🌸🌸すべてのイベントで、常時参加者募集中です🌸🌸🌸

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あなたは、もうひとりの私です。

過去に『ジュリー』という曲を書いた。その歌詞に「あなたはもうひとりの私です」という歌詞がある。出会った方から差し入れをいただくことがある。うまい言葉を選べないが、自分の生活だって大変なはずなのに、それなのに贈り物をくださる方がいる。猛烈にグッとくる。まるで、その人の命をいただいているような気持ちになる。生きろ。そう言われている気がする。生きようと思う。そして、自分を恥ずかしく思う。自分のことばかり考えていた自分を恥じ、同時に「あなたはもうひとりの私です」と感じる。あなたは私の代わりに生きていて、私はあなたの代わりに生きている。自分が、自分の命をしっかりと生きるとき、それは(めぐりめぐって)誰かの力になるのだと思う。しっかりと生きよう。そういう気持ちになる。

 

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稀にキリストの存在を思う。彼は、ひとりきり部屋に篭り日々を過ごすのではなく、街に出た。しかも、著名人と人脈を築き上げるのではなく、市井の人々、とりわけ社会的に低く扱われている人々と時間を共にした。私は音楽をやっていて、時折、著名な方々と出会うことがある。そういうときに「うわー!有名人と知り合うの、おもしれー!」とか、思う。が、同時に違和感も感じる。多分、今回の人生は、自分はこっちじゃないんだろうな、みたいな気持ちになる。すごい人々と知り合って、華美な人生を築くことは、何か違う。それよりも、普段、日の目を見ることのない(しかし、確実に生きている)人々と触れ合うことで、市井の人々の声を代弁する。本音を汲み上げ、言葉にならない叫びみたいなものを翻訳する。金持ちになることより、有名になることより、自分の役割はそこにあるような気がする。

 

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移動する日々を過ごしていると「あなたが羨ましい」的なことを言われる。だが、思う。当たり前だが、人間、誰もが同じ生き方をする必要はない。違うから、価値があるのだ。言葉を選べないが、私は、あなたの代わりに生きているのだと思う。あなたの代わりに移動をして、あなたの代わりに人々と出会い、あなたの代わりに世界の風景を眺め、あなたの代わりにそこで感じたことを言葉にしたり、歌にする。そして、あなたは、私の代わりに生きているのだと思う。ずっと同じ場所にいられない自分の代わりに、あなたは、あなたがいまいる場所で感じたことや、思ったこと、学んだことなどを、私の代わりに獲得する。そして、いつか、出会った時にそれらを交換(?)する。生きるということは、多分、そういうことだと思う。

 

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俺達は、最初から最高で、最後まで最高だよ。

日々、自分の非力さを嘆く場面に出会う。昨日もそうだ。己の非力さに、悔しさや不甲斐なさを抱いた。そういうときは「俺はダメな人間なんじゃないか」などと思う。そして「今に見てろよ」みたいな、なにくそ根性を発動させてしまう。だが、違う。私は、自分を含めた誰かに対する「なにくそ根性」で、飛翔をしたい訳じゃない。違う。きっと、俺達は最初から最高で、最後まで最高なのだ。音楽をやる理由は、ただ、音楽をやりたいからだ。音楽をやっている。その時点でゴールをしているのだ。技術があるから、とか、キャリアがあるから、とか、そういうことに胸を張りたい訳じゃない。違う。私は、端的に「生きていることのよろこび」を歌いたいだけだ。それは、全員共通のことだ。うまいから素晴らしいのではなく、ダメでも素晴らしいのだということを言いたい。生きていることに胸を張りたいのだ。

 

演奏中、カフェの店主M様が「カホン(座って叩ける太鼓)で参加してもいいですか?」と加わってくれた。それがすごい良かった。人前でカホンを叩くことは、初体験だとM様は話した。自分は、うまくなければやっちゃいけないと思っていた。でも、坂爪さんを見ていたら、ダメでもやってもいいのだと思いました。すごい楽しかったし、すごい嬉しかったです。演奏終了後、小さな女の子が「ねえ、お願いがあるの」と話しかけてきた。その子はけん玉が得意で、私の歌に合わせてけん玉をやりたいのだと言った。よし、わかった。やろう。ギターを弾いて私は歌った。女の子は、音楽に合わせてけん玉を使ってまるでドラムのようにリズムを刻んだ。あ、これだ。そう思った。音楽のよろこびはここにあるのだ。音を合わせる。それが、楽しい。うまいとかへたとかじゃない。ただ、どうしようもなく楽しい。ただ、それだけのことなのだ。ただそれだけのことが、どうしようもなく尊いのだ。

 

この「どうしようもなく楽しい」渦を、作りたいのだと思う。歌い手と聞き手の境目を溶かし、全員が一丸になって楽しむ。これは、盆踊りに似ているのだろう。なにかを楽しむ時、自分が自分の「好き」を生きる時、才能の有無や精神的な欠落や日常的な悩みや些細な出来事が、どうでもよくなる。ただ、生きていることの実感が残る。この実感は「俺達は、最初から最高で、最後まで最高なんだ」と思わせる感覚を与える。なにかができるからすごいんじゃない。なにかができないからダメなんじゃない。俺達は、生まれた時から最高で、最高なまま生き、最高なままこの星を離れて行く。足りないものはなにもない。ただ、俺達は、最初から最後まで最高であり続けるだけなんだ。と。この感覚を、大事にしたいと思う。読者の方からメールが届いた。自分も最高で、あなたも最高だ。そのことを忘れそうな時は、また、いつでもこの瞬間に戻ってくればいい。命は踊りたがっている。踊りたがる命を、躍らせること。多分、生きているということは、そういうことなのだと思う。

 

「みんなの前で歌いたい」というきもちが多分何年も前から自分の中にあって、、

でもどうしたらいいのかわからなくて。めちゃくちゃ恥ずかしいし、きっかけもないし、普段から歌をやってるわけでもない。上手いわけでもない。どうしたらいいのかわからないけど、なんか歌ってみたいというきもち。

今日、それを叶えられた!

仲間たちの前で、一曲だけ、久しぶりのギターをひきながら、歌った。

「歌うかも」とみんなにメッセージした時、こわくて手が震えた。でもわたしの真ん中のきもちが「願いを叶えてくれるの?」とよろこんでいたのかも、涙がでてきた。

恥ずかしいし、こわいし、わけわからなかったけど、、、

下手くそなものを下手くそなまま、やりたいきもちだけでただやればいい、ということを私は坂爪圭吾さんから教えてもらった。勇気をもらった。

ただやりたい、というきもちだけで、ちょっと勇気を出して、恥ずかしいきもちを乗り越えて、自分の願いを叶えた。こわかった。でも願いを叶えられて、、うれしかったよ。

自分の中で今日はとびこんでみた日。ああ、こわかったけれど、おもしろかった。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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踊れない革命はいらない。

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名古屋駅前のカフェドクリエにいる。名古屋ドーム前LIVEを終え、心地よい爽快感に包まれている。来てくれたお客様は一名様。この一名様がよかった。何が良かったのかをここに書きたい。私は『清々しさ』とか『潔さ』とか『爽快感』とか、そういった感覚が好きだ。どのような生き方であれ、清々しさを伴ったものでありたい。そう願って生きている。湿ったダンボールみたいな気分になることもあるが、基本は潔く、ストレートに、シンプルで力強く、ロマンチックなものでありたい。

 

 

おおまかなスケジュール

9月19日(木)19時 弾き語りLIVE@大阪ドーム(前)
9月20日(金)13時 弾き語りLIVE@奈良県奈良市「GUEST HOUSE OKU」
9月20日(金)20時 弾き語りLIVE@大阪市鶴見区「Cafe de Lien」

9月21日(土)19時 弾き語りLIVE@福岡市中央区清川「i&i」
9月22日(日)14時 弾き語りLIVE@愛媛県内子町「丘の上の日曜市」
9月23日(月・祝日)以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)

9月29日(日)15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
9月30日以降、東南アジア巡業編スタート(最初はバンコク

🌸🌸🌸すべてのイベントで、常時参加者募集中です🌸🌸🌸

問い合わせ先・坂爪圭吾
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Be いい男(いい女)。

あらゆる恋愛問題系の悩みは「自分が、いい男(女)になればいい」の一言で片付く。あのひととの関係性が、みたいなことをごちゃごちゃ考えはじめると、泥沼にはまる。そんなことよりも、自分にとってのいい男(女)像をイメージして、それに近づこうとする方が早い。相手が離れたなら、それは、端的に「自分に魅力が足りなかったから」だと思う。違うかもしれないが、そう思う方が好きだ。誰かの責任にしたり、自己嫌悪や自己憐憫に浸ることも悪くはないが、それよりも「自分が、いい男(女)になればいい」と考える方が、トータルで清々しいし、爽快だ。 

 

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前々から「社会不適合者という言葉もあるが、自殺者が3万人いて鬱病患者が100万人を超える社会に適応したら、頭がおかしくならないほうがおかしい」的なことを思っていた。この考え方はいまでも変わらず、必要なのは適応よりも『開墾』だと思っている。なにか新しいことをやろうとするとき、必ず、周囲の反発を受ける。そんな生き方はありえないとか、そんな生き方は受け入れられないとか、そういうことを言われる。しかし、そう言っている人々は、実際には「やったことがないだけ」だったり「新しい世界に触れることを恐れているだけ」だったりする。だから、気をつけよう。必要なのは、適応よりも開墾だ。世間的な常識に引っ張られることも頻繁にあるが、大事なことは「自分がやりたいことを通じて、自分がやっていることを通じて、いい感じのエネルギーを撒き散らしていくこと」だと思う。

 

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自分が生きたいと思う未来を生きること。そうじゃないと、端的に「生きたいと思う」ことが難しくなる。生きているだけ、死なないでいるだけでは足りない。大事なことは「生きたいと思う」ことだ。未来と呼ばれるものは、ただ単に楽しいだけのものではなくて「ちょっとビビる」ものだ。車が生まれる前は、みんな、車にビビった。そんなものは危ない。馬が一番だ。そんなものに乗るな。馬に乗れ。そういう風に言った人間も絶対にいたと思う。しかし、いまでは、全員が当たり前に車に乗る。スマホも同じだ。昔のひとが見たら「なんじゃこりゃ!」と、腰を抜かすだろう。それらを、誰もが、いま、当たり前に操作している。未来とは「ちょっとビビる」ものだ。ビビるからこそ、面白いのだ。だからこそ、自分が恐れていることをやるのがいいのだと思う。自分が「ちょっとこれはまずいだろ」と思う方向に、突っ込む。前のめりになって、突っ込む。自分が楽しいと思う未来に、突っ込む。その繰り返しが、自分が生きたいと思う世界の実現に、貢献するのだと思う。

 

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踊れない革命はいらない。

音楽は問題を解決しない。しかし「問題を抱えたまま踊らせてくれる」ものだ。だから、私は音楽が好きだ。ふとした瞬間にニュースを目にする。政治がダメだとか、福祉がダメだとか、文句ばかりを並べた発言は多い。これらは正論かもしれない。しかし、正論はつまらない。私は、革命という言葉が好きだ。面白い世の中になればいいと思う。だが、踊れない革命はいらない。正しさが起こす革命は、退屈だ。正しさよりも楽しさだ。誰かに対する憎しみや、誰かに対する怒りではなく、生きていることの『歓喜』で起こる革命に、関与したい。金がないから幸せになれない。仕事がないから幸せになれない。恋人がいないから幸せになれない。環境が悪いから幸せになれない。これらは、全部、嘘だと思う。その気がないから、幸せになれないだけだ。幸せになら、1秒でなれる。ただ、その気になればいいのだ。

 

真理は大きな声で叫ばない。だが、常に囁いている。真理は「人間を自由にする」ものだと思う。音楽も同じだ。文章も同じだ。良い音楽には、良い文章には、人間を自由にする力がある。心に蓄積していた『何か』を解き放ち、それに触れた人間を自由にする。私は、自由を感じさせるものが好きだ。それは、北風と太陽の『太陽』に似ている。ねばならないという強制的な力ではなく、思わず「そうしたくなってしまった」という、自然発生的な人間性の発露を愛する。踊れと言われて踊るのではなく、思わず踊り出したくなってしまうような、そういう雰囲気を愛する。そこに関与したいと思う。だが、油断をしていると、自分も北風みたいなことをやってしまう。正しさを武器に、常識を武器に、都合の悪い人間を排除したり、自分の正当性を主張してしまうことがある。気をつけたい。屈辱をバネにするのではなく、復讐を力にするのでもなく、自分は、あくまでも『歓喜』で飛翔をしていきたいと思う。そのことを忘れたくないと思う。忘れたくないと思うことを、この場を借りて文章にしたり、歌にする。忘れないために。いつでも、思い出せるように。

 

いろいろなひとが、いろいろなことを言う。だが、私は「どう転んだとしても、大丈夫だ」と思う。そして、実は、誰もがそのことを知っているのだと思う。傷ついても、嫌われても、ひとりきりになったとしても、自分(あなた)は、自分(あなた)が大丈夫なことを知っている。自分には力があることを知っていて、自分は、自分が「幸せになる」と決めただけ、幸せになれることを知っている。大好きなあのひとは、自分を幸せにすることはできない。大嫌いなあのひとは、自分を不幸にすることはできない。自分を幸せにするのも、自分を不幸にするのも、すべては自分なのだと言うことを、誰もが知っているのだと思う。私たちは無知なのではない。ただ「無為」なだけだ。私たちには、幸せになる自由もあれば、不幸になる自由もある。成功する自由もあれば、失敗する自由もある。きっと、全部、自分(あなた)が決めている。忘れてしまうことを、いつでも思い出すことができるように、これからも書き続けていきたいと思う。そして、歌い続けていきたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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