いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

命は、踊りたがっている。

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愛媛県松山湊町のドトールにいる。今日は三津浜で弾き語りライブだ。まったく歓迎されていない場所で演奏をするのは初体験だ(こんな書き方は語弊があるが、これまでは呼ばれた場所で演奏していた。今回は、飛び込みみたいな感じになる)。最初っからゴールしているひとが好きだ。ゴールとは「楽しむこと」だと思う。金持ちになるとか、名誉を得るとか、豪邸に住むとか、幸福な家庭を築くとか、そんなものは副産物だ。人生とは自分を楽しませることであり、売れないバンドも、売れているバンドも、楽しむことができているなら「ゴールしている」のだと思う。

 

【後日談】まったく歓迎されていない、などと卑屈なことを書いてしまいましたがめちゃめちゃ歓迎していただきました!!猛烈にありがとうございます!!幸せ!!

 

 

おおまかなスケジュール

9月23日(月・祝日)18時 弾き語りLIVE@愛媛県松山市「厨さん」
9月24日以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
9月26日(木)20時 弾き語りLIVE@大阪市北区中津「EARTH DIVER」
9月27日以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます!)
9月29日(日)15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
9月30日以降、東南アジア巡業編スタート(最初はバンコク
11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」

🌸🌸🌸すべてのイベントで、常時参加者募集中です🌸🌸🌸

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

楽しく生きることが、一番の反骨。

教育問題を語る人々と結構あった。私は、学校とは「楯突く力を学ぶ場所」だと思う。先生に騙されちゃいけない。両親に騙されちゃいけない。自分の頭で考える力を養うのだ。たとえ、周囲と違う自分は頭がおかしいんじゃないかと自分を責めてしまうことがあっても、おかしいと思う自分がおかしいのだと思うと鬱病になる。だから、自分の感性を信じることだ。そう思いながら生きてきた。だから先生にも嫌われたし友達も少なかったが、悔いはない。なぜならば「真の友達(真の教師)と出会うことができた」からだ。一般大衆は「これができないと生きていけませんよ」的な言葉で、我々を脅す。しかし、惑わされちゃいけない。実は生きているだけで全然OKなのであり、ねばならないという強迫観念で動き出してもロクなことはない。それよりも「これがしたくてたまらない」と、自分の内側からあふれ出すものに従っていれば、絶対に人生はどうにかなる。牙を抜かれてはいけないのだ。

 

楽しく生きることが、一番の反骨である。過去に家なし生活をしていた頃「家がなくても楽しそうに生きている人間がいたら、結構なカウンターパンチになるだろう」とか思った。金があるから幸せ。家があるから幸せ。これじゃ、普通だ。しかし、金も家も仕事も、生きるために必要と言われているもののほとんどがないくせに、それでも楽しそうに生きている人間がいたら、結構な衝撃になるだろうと思った。そこを狙った。非常にありがたいことに、いまでは熱海と横浜(Agapeのメンバーの活動も含めたら、新潟の佐渡島にも誰でも自由に使える家があるから)結果四軒の『家』がある。奇跡のJ字回復(?)である。人生は何がおこるかわからない。漫画みたいな着地をした。そしていま、私は音楽活動をしている。気をつけたいところは「歌がうまいから素晴らしい」とか「技術があるから素晴らしい」とか、そっちの方向に引っ張られないことだ。うまいからすごい。技術があるからすごい。これじゃ、普通だ。しかし、ヘタクソなくせにやたら楽しそうに生きていたら、結構な衝撃なんじゃないか。そう思った。だから、うまくなることより「技術だけじゃないなにか」を大事にしたい。そう思っている。あるから素晴らしいのではなく、ないのに素晴らしい。ダメだからこそ素晴らしい。そこを狙いたいのだ。

 

学校をやめたとき、仕事をやめたとき、家をなくしたとき、音楽をはじめたとき、周囲の人々から「これでお前の人生は終わったな」的な視線を、結構浴びた。私は、いま、彼らに「ざまーみろ」と言いたい。お前が終わったと思った男の人生は、いま、結構な光度で輝いているぞ。お前らが言うところの「そんなんじゃ生きていけないよ」的な方法で、実際に、しぶとく生き延びている人間がここにいるぞ。しぶとく生き延びているばかりか、結構毎日はドラマティックで、結構毎日は充実していて、結構毎日「今日も生きた」と思いながら、お布団でスヤスヤ眠れているぞ。おれを脅したおとなたちよ。みているか。おれはハピネスだぞ。おとなに脅されているこどもたちよ。みているか。おれはハピネスだぞ。おとなの言うことを無視しても、結構幸せになれるぞ。人生、意外とどうにかなるじゃねえか。と。あれだけ脅された言葉を、無視した過去の自分に拍手!と、自分を賞賛したい。

 

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命は、踊りたがっている。

強がってみたものの、実は毎日ビビっている。私は気を遣い過ぎて自滅するタイプの人間だから、音楽をやるときも「踊りたいひともいれば、静かに聞きたいひともいるよな」とか、お客様満足を考える。が、全員の期待に応えようとすると、途端に窮屈になる。だから、もう、私は極論を生きることにした。それは「命は、踊りたがっている」と信じることだ。たとえ、いま、自分はそんな気分じゃないと言うひとがいても、自分は静かにしていたいのだと言われても、それは(命ではなく)頭の言葉に過ぎない。その奥にある命は、常に、踊りたがっている。だから、我々(というか現時点では自分ひとり)の役割は、踊りたがる命を躍らせることだ。音楽を通じて、言葉を通じて、存在を通じて、踊りたがる命を自由にさせることだ。

 

もたざる者の凄みを見せてやる。家がない頃、所持金もそこをつき、ああ、いよいよ俺にはなにもなくなったなと夕日を見ていたことがある。その時、私は、強烈に確信したことがある。それは「まだ、自分には体温が残されている」ということだ。生きていると言うことは、体温があるということだ。熱量があるということだ。あらゆるものを失って、なお、残るもの。それは『体温』だ。それは『熱量』だ。それは『生命』だ。私は、この、最後の最後まで残るものに自分を賭けたいのだ。前に、音楽評論家のような方から「伝えたいものがあるひとの演奏は、ハートに響く。あなたにはそれを感じた」と言われた。端的にうれしかったが、しかし、私は特別何かを伝えたいとかまったく思っていない。伝えたいこと。そんなもの、自分にあるのだろうか。強いて言えば「生きている」ということ。その程度のことだ。伝える、というよりも、空間全体に滲み出るもの。俺は生きている。お前も生きている。いま、そのことを確認し合っている。LIVEとは、そんな感じの瞬間だ。

 

命は、踊りたがっている。頭意識は「疲れた」だの「面倒臭い」だの「自分はダメな人間だ」だの、余計なことをぺちゃくちゃ喋る。しかし、命は常に踊りたがっている。小さなこどもたちを見よ。歩きながら踊り、走りながら踊り、遊びながら踊る。歳をとるから踊らなくなるのではない。逆だ。踊らなくなるから歳をとるのだ。踊っている人間は、総じて『若い』。最強のアンチエイジングであり、最強の自己啓発であり、最強のエンターテイメントである。真に価値あるものは、酸素も海も風も、全部無料だ。踊りも無料。いま、この瞬間から踊ることはできる。踊れ。踊れ。踊れ。笑いながら踊り、泣きながら踊る。怒りながら踊り、嘆きながら踊る。叫びながら踊り、黙りながら踊る。踊れ。踊れ。踊れ。人生は踊りだ。命は、踊りたがっている。頭意識は「愛とはなにか」「許しとはなにか」「生きるとはなにか」的なことを、頻繁に考える。しかし、踊っている瞬間には、愛もある。許しもある。優しさもある。生きていることの全部が、ここにある。瞬間をぶちまけて輝く。踊りたがる命を、爆発させる。それが『いまを生きる』ということだ。

 

 

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俺の幸せが、みんなの幸せになることを信じる!愛媛!

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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