いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

嫌われることに、憧れている。

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横浜駅前のドトールにいる。昨日、各種SNSから「誰か夕ご飯なるものをわたしにご馳走してくれませんか@中目黒」と投稿した。最近、思う。自分の欲求ははっきり口にした方がいい。食べ物ならなんでもいい、という書き方ではダメだ。うどんなら、うどん。絶対にうどん。自分はうどんを食べたいのだ、と。だから、そう投稿した。ら、驚いたことにその1時間後に、初対面の方からうどんをご馳走しただく僥倖に恵まれた。心の底から「ありがとうございます」と言うことができた。

 

 

おおまかなスケジュール

10月29日以降、身売り2.0(必要とされる限り、なんでもやったる所存
11月1日(金)Agape 千が平塚から大阪まで歩きはじめる「東海道五十嵐次」

11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape 単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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すべての企画で参加者募集中です🌸🌸🌸

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE on 
http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

自分を出さないことは、ずるいよ。

自分は「売る・買う」よりも「あげる・もらう」が好きだ。普通、うどんを食べたいなら「そのための金を稼げ」とか言われる。だが、なんと言うか、それに異論を唱えるつもりはないが「うどんをご馳走してもらったほうが嬉しいじゃないか」と思う。 これは、きっと、世界の優しさを実感するからだ。これは仮説だが、人間は『実は、与えたい生き物』なんじゃないか。だが、与える機会はなかなかない。だから、ストレートに「これをしてもらえたらめっちゃよろこびます」と表現する人間が登場したとき、自分に余裕があるならば、よろこんでそれをやりたいと思う。

 

自分は、気を使いすぎて自滅するタイプだ。複数で食事をするときなど、みんなが何を食べたいのかを異常に気にして、全員が満足する道を選ぼうとする。が、その過程で疲れ果てて「これだから集団行動は苦手だ」と、自分の殻に閉じこもる。これはよくない。だから、もう、自分の欲求をはっきり口に出すことにした。自分はうどんだ。俺は、いま、めっちゃうどんが食べたい。めっちゃうどんを食べたいと思っている俺が、めっちゃおいしそうにうどんを食べている姿を見たら、きっと、みんなも「うどんも悪くないな。というか、うどんを食べられてよかったねえ」と、ほんわり幸せな気持ちになれるはずだ、的な勢いで「うどん!」と提案する。

 

他人に気を使いすぎて、四苦八苦して、最終的に「あいつのせいで…」とか誰かを恨むのは、卑怯だ。私は、卑怯だ。もっとまっすぐに生きたい。卑怯とは、自分の選択を「誰かのせい」にすることだ。責任転嫁。これが卑怯の本質だ。うどんを食べたい。そう叫ぶ私は、自分の欲求に責任を感じている。だから、清々しい。責任と爽快感は連結する。最近思う。自分を出さないことは、周囲に合わせることは、美徳でもなんでもない。卑怯者のやることだ。責任転嫁の言い逃れだ。というのは言い過ぎだけど、でも、自分の欲求をまっすぐに口にすることの威力を痛感する。誰にもわかってもらえないと嘆く前に、察してもらえないと拗ねる前に、自分は、自分の欲求を(回りくどい言い方ではなく)はっきりと口にしたかと問いたい。言わなきゃわからないのだ。しかし、言えば『わかってもらえることもある』のだ。

 

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嫌われることに、憧れている。

Agapeのあきとが「(絵も、音楽も)作ろうと思うと作れない。自分のバイオリズムに乗ると作れる」と言っていた。あきとは天才だ。天才とは、自分の自然に沿って生きている人間である。あきとは話す。自分にとって、絵を描くこと、音楽をやることは自然なことだ。ローソンの店員になることより、絵を描いて誰かに見てもらうとか、踊る、歌を歌う方が、なんと言うか、自然だ。でも、人間として自然なことをやると、社会的に不自然になる、と。この指摘は鋭い。私にとって「あげる・もらう」の関係性を構築することは、自然だ。別に変わったことをやりたいわけではなく、自分にとって自然なことをやりたいだけだ。が、こういう生き方をすると「変わっていますね」と言われる。社会的に、異物扱いをされることは多い。

 

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前に「他力で生きる」的な意味合いも込めて、家のない日々を二年間過ごした。この日々を見たひとが「あなたの生き方はすごい!」と、私をほめてくれた。 確かに、わたしは、強烈な存在かもしれない。でも、なによりもすごいのは「こういう生き方を成立させてくれた、周囲の人々の存在」だと思う。家なし生活を続けるためには、それを成立させる(ごはんをご馳走してくれるとか、家に泊まらせてくれる)人々がいなければ、成り立たない。こんな意味不明な人間の生き方を面白がり、一緒に楽しんでくれるひとがいたからこそ、成立した生き方である。だから、すごいのは「(坂爪圭吾ではなく)坂爪圭吾を成立させた人々」だと思う。本来、すべての生き方はそういうものだ。あらゆるひとがなにかを売っていて、それで生活をする。だが、すべては「それを買ってくれるひと」がいるから成立しているのであり、私と同じである。だが、そのことを頭ではわかっていても、リアルに実感する(心の底から「ありがとうございます」と思える)瞬間は、少ないと思う。

 

note.mu

 

私たちは嫌われることを恐れる。できることなら、ひとから好かれたいと思う。だが、冷静に観察すると「嫌われることに、憧れている」部分が、誰の中にもあると思う。好かれること以上に、嫌われることに憧れているのだ。なぜか。たとえ、嫌われるとわかっていてもそれを実行する者には、自分がある。自分に対する信頼や、周囲の評価などでは揺らぐことのない絶対的な価値を、周囲の人間に感じさせる。そういう風に見えるから、嫌われても、馬鹿にされても、それでも自分であることをやめない人間に、私たちは惹かれるのだ(と思う)。実は、私たちは、好かれたいと思う以上に、嫌われたいのではないだろうか。好かれたいと思う以上に、嫌われることによって「自分は、自由である」ということを感じたいのではないか。うまくやろうとするあまり、行動が鈍ることは多い。だが「嫌われても構わない」と踏み出す一歩には、自分でも驚くほどに、ダイナミックな力が宿り始める。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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