いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「こうあるべき」の外側。

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横浜駅前のドトールにいる。ドトールには、お世話になっているからこそ言いたい。画一化された店員の心無い「ありがとうございます」を聞くたびに、本当にそう思っていますか?と詰問したくなる。思ってもないことを言うなよ。からっぽな言葉を使い続けると、心が死滅するぞ。この、資本家の手先どもめ。と。よろこびのためというより、生活のため、怒られないため、無難であるために生きているなあと感じる場面は、多い。仕事とは、大前提として「苦しいもの」なのだろうか。

 

 

おおまかなスケジュール

11月1日(金)Agape 千が平塚から大阪まで歩きはじめる「東海道五十嵐次」

11月4日(月・祝日)14時 坂爪圭吾×壇珠「ファンタジーの魔法の使い方」
11月22日(金)19時 Agape 単独ライブ@大阪市心斎橋「
5th-Street

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すべての企画で参加者募集中です🌸🌸🌸

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ibaya.hatenablog.com

 

それぞれの勇気。

昨日から「自立と依存」をテーマに、楽しい迷惑のかけ方実践編を敢行している。本日は東京の新橋からはじまり、その後の予定は未定。呼ばれた場所に移動するスタイルでやりたい(宿も未定)。前々から「めちゃめちゃ金があるひとと、金がなくても生きていけるひとと、どちらが強いのだろう?」的な問いが、自分の中にある。金を否定したいわけじゃなく、ただ、自由を肯定したいだけだ。思うに、どれだけ金があっても、失う恐怖をもっている限り『自由』からは遠い。金がなくても生きていけるものの強みは、少なくとも、金に関しては「失う恐怖」が薄い。なければないで、どうにかなる。これは、ある種の安心感や信頼感につながっていく。

 

 

所有という概念を考える。たとえば、空。空は誰のものだろうか。無論、誰のものでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。海も空も森も星も、自分が見ている間だけは「自分のもの」と呼べるのかもしれない。これくらいの距離感がちょうどよい。物質も同じだ。自分が使っている間は「自分のもの」であり、それ以外は、誰が使ってもいいように思う。さすれば、管理の手間も省けるし、モノを通じた出会いも生まれる。人間も、実は、同じなんじゃないのかなと思う。結婚や恋愛などの契約を通じて付き合うより、あなたは誰のものでもない、ただ、自分と一緒にいる間だけは「友達」であり「恋人」であり「家族」である。そういう感じでいいように思うのだけど、この感覚が伝わることは少ない。

 

 

私は未婚だ。結婚するなら「一緒にいることで、より自由になれる」関係性を期待する。仕事も同じだ。仕事を通じて、より、自分が自由になれるものが理想的だ。それがすぐに見つかるとは思わない。だが、その境地を目指すこと、諦めないこと、求め続けること、なければないで「作り出そうとする」程度の気骨は、超大事だと思う。そうじゃないと、生きることが、ただの苦行になる。大前提として、我々は、死ぬ。死ぬときにもっていけるものは、愛し愛された記憶程度のものであり、あとはなんの役にも立たない。全部置いていく。大事なものも、全部、最後には置いていくのだ。そう思うと、本当の意味で「自分のもの」と言えるものなんて、自分のハートくらいしかないじゃないか、などと自分なんかは思うのである。

 

note.mu

 

「こうあるべき」の外側。

常識や社会通念など「こうあるべき」とされることは多い。日本なら、よい学校に行き、よい会社に入り、よい家庭を築くことがよしとされる。『よい』の意味が曖昧だが、多くの人々は、この命令に従う。私は、この命令に従うことができなかった。なぜなら、こうあるべき(こうすれば安心)とされた生き方をしている人々が、言葉は悪いが、あまり幸せそうに見えないからだ。「なんだか大変そうだなあ」と思うことのほうが、多いからだ。自分を幸せにしない常識なら、従う必要はなのではないか。大事なことは、従うことより改良することであり、その際の基準になるものは、自分のハート以外にあり得ないじゃないか、などと思うのである。 

 

学校の先生や職場の上司に「ああしなさい」とか「こうしなさい」と言われても、それに従ったらお前みたいな人間になるじゃねえか、それだけはお断りだ、などと反発を続けた。結果、学校にも職場にもうまいこと馴染めず、このような生き方に着地をした。だが、これはこれで「まあまあの人生じゃないか」と思う。着地点を見出せてよかったと思う部分と、改良を続けたい気分の両方が、ある。私は、知性のあるひとが好きだ。知性とは、要するに『自分で考えて、自分で決めること』だと思う。宇宙という得体の知れない空間の真っ只中で、ポカリと浮かぶ謎の球体、地球。そこに生きる我々、謎の生命体『人間』。大前提として、実は、我々そのものが得体の知れないものであり、こうであるとされていることのすべては「実は、全部、嘘っぱちかも知れない」おとぎ話でもある。疑おうと思えば、全部、疑うことができる。そのなかで、自分の頭脳で考えて、自分の意思で決断をして、自分の精神で「決断を生きる」力を、私は知性と呼びたい。情報じゃない。知性なのだ。

 

前々から「こうあるべきの外側を見たい」という気持ちが、自分にはある。あなたはこういう人間だとか、生きていくためにはこれをやらなければならないだとか、こうなってしまったら一巻の終わりだとか、決めつけられた言葉を耳にすると「わからないじゃないか」と思う。人間なんて、簡単に変わる。昨日は「これだ!」と思っていたことさえ、明日になれば「こっちかもしれない」と、揺れ動く。揺れ動くというより、流れる。変化こそが常態であり、既定する方が、固定する方が、限定する方が、不自然なのだと思う。前回の記事で「私は、私の自然に従いたいだけだ」と書いた。季節が巡るように、天気が移り変わるように、流れ行くことが自然なのだと思う。そのなかで、時折、それはまるでオーロラを目にするような感じで『自分も知らなかった自分が、姿を現す』瞬間がある。その瞬間に、私は、ああ、世界にはこんなに素晴らしいものがあったのか、と、愛着を新たにするのである。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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