いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

無一物で、ニッコリ笑う。

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那覇空港から関西空港に向かう。これから数日間関西に滞在する。大阪府今里で22日(土)にイベントに出る。テーマは「プライドの捨て方」で、大阪でごちゃまぜの家的なことをやりたいと思った女性Y様は、家を借りるところまではやったけれど周囲の猛反対などでなかなかうまい展開をできずに「坂爪さん、どうすればいいと思いますか!」とご連絡をくれた。私の場合、自分のダメさを秒速で晒すというやり方で生き延びてきたので、よし、ここはみんなの力を借りながらごちゃまぜの家@大阪を実現させましょう!という流れになり、イベント開催が決定をした。

 

 

関西のみなさまに力を貸してほしい。是非22日(土)に大阪府今里に遊びにきて欲しい。みんなで話しながら「こういう風に展開をしたら面白いと思う」的なディスカスをしたい。同時進行でプライドの捨て方についても語り合いたい。独立したばかりの人々は「うまくやっているように思われたい」などの見栄が働く。結果、実は全然うまくいっていないくせに虚勢を張って最終的に自滅する。そういうパターンは多い。生き延びる人間は、なにごとも完璧にこなす人間ではなく「周囲の援助を浴びまくる人間」だと思う。要するに甘える力であり、楽しい迷惑をかける力だ。そういう力について、みんなで語り合えたら嬉しい。年末だ。ゴミと一緒にプライドも捨てよう。そうすれば、軽やかな足取りで2019年を迎えることができる。

 

【EVENT詳細】12月22日(土)@大阪府生野区「プライドの捨て方」

 

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久高島

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久高島が猛烈によかった。早朝、久高島の海岸沿いを歩く。歩けば歩くほど全身が浄化される。無意識に大地讃頌を口ずさんでいた。母なる大地の懐に、我ら人の子のよろこびはある。その通りだ。前日の夜は久高島在住の船乗りの男性の家にご招待をしていただいた。大量の料理と一緒に「二日酔いになるまで帰さないよ」と泡盛を盛られた。私は、初対面の人の前では何を話したらいいのかわからなくなることが多い。が、男性の家には大量の筋トレグッズがあったので「ちょっと使わせてください!」と能動的に筋トレをはじめることで、親睦を深めることができた。

 

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那覇まで自転車を走らせながら「熱海の家は誰かにあげちゃってもいいな」と思った。私は、今、呼ばれるままに移動を続けて文章を書きながら生きている。ブログに広告を貼りたくないから、収益は1円もない。こういう話をすると、大概「いまはいいけどこれからはどうするの」と問われる。結婚をしたらどうする、とか、老後はどうする、とか、おそらくそういうことを聞かれているのだろう。そして、そのあとに「でも、熱海に家があるならどうにかなるのか」的な納得のされかたをする。これが、ちょっと、癪に障る。だから熱海の家は誰かにあげてしまってもいいような気がした。欲しい人がいたらご連絡をください。「このひとにあげたい!」と思った人に、熱海の家を、いい感じに使っていただけたらうれしいと思う。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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わたり文庫『アナキズム

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、栗原康著作『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』です。伊藤野枝一遍上人の本も書かれている栗原康さんのこちらの著作。面白いです。栗原節というのだろうか、僭越ながら「機会があったら友達になりたい」などと思ってしまった。私も、栗原さんの友達になれるにふさわしい生き方をしていきたい。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

ほんとのところ、だいじなのはこれだけだ。いつだって、なんどだって、これがただしいっていわれている生きかたをぶちこわすことができるかどうか。あたらしい生をつかみとれるかどうか。たとえ、それが予想外の結果をもたらしたり、マジっすか、それ大失敗じゃんってなっちまったりしたとしてもね。かまわずにやれ。おいら、マジメだからもう一回、いっておくよ。ただしいモラルをふりかざして、はじめからなにもおこらないようにしてしまうのはもうやめよう。だれかが失敗したら、おまえがわるい、おまえがわるいっていって、よってたかって問いつめて、謝罪させようとするのはもうやめよう。こりゃダメだァっておもったら、ヒャッハー!っていって、わらいとばせばいい。いつだって、こころの奥底にあるそういうユーモアをもっていることができるかどうか。きっとそれが、なんどでもあたらしい自分にであえるかどうかの分かれ道なんだとおもう。

栗原康『アナキズム』【岩波新書

 

無一物で、ニッコリ笑う。

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GIVE & DIE


先日、那覇市内でイタリアンレストランを営む方からご連絡をいただいた。「これもなにかの御縁!」ということで、昨夜、お店にお邪魔をさせていただいた。最高に素敵なお店だった。料理も半端なく美味しかった。オリーブオイルに島とうがらしを長時間かけてどうのこうのした特製オイルと、名物マルゲリータ・ピザの相性は群を抜いていた。私は、そこに那覇在住の友達と一緒に行った。友達とは「GIVE&TAKEよりもGIVE&DIEの方が面白いよね」などと話していた。絶滅危惧種は大事にされる。だから、我々も大事にされたかったら絶滅危惧種になるしかない。「よし、絶滅しよう!」的なことを話していた。ら、その会話を聞いてくれていた店主さんが、メッセージ付きのデザートを差し出してくれて我々は震えた。

 

雰囲気最高の店主さんは言った。「坂爪さんのブログをずっと読んでいて、いつか、自分も坂爪さんの一助になる女神様的な役割をできたらいいなあって思っていたのです。坂爪さんは、私のことを優しいとかって言ってくれるけど、多分、多くの人たちは『優しいから』坂爪さんを助けるんじゃなくて、ただ、単純に『面白いから』なにかをしてあげたい、『面白いから』坂爪さんの世界に自分も参加をしてみたいって思うのだと思います。だから、自分もそれに参加をすることができて嬉しいです。」と。私は、もう、むはぁって声に出して唸ってしまった。優しいからじゃない。ただ『面白いから』何かをする。そこに損得勘定とか合理的ななにがし、みたいなものはまったくない。言うなれば『遊び』として、私の日々に参入をしてくださる店主さんの存在を猛烈にありがたいと感じた。

 

無一物でニッコリ笑えるだろうか。思えば、私はこれの挑戦(?)をしているように思う。なにかがあるから幸せ。金があるから幸せ。家があるから幸せ。安定した収入があるから幸せ。幸福な家庭や、立派な肩書きがあるから幸せ。これでは普通だ。別に普通が悪いとは言わない。ただ、私は「なにもなくても笑えるか」「無一物でもニッコリ笑えるか」の勝負(?)をしているのだと思う。何かがあるから安心、というのは『これがなくなったらたちまち不安になる』ということでもある。何かを通じて自分を誇るのではなく、あらゆるものを剥ぎ取った後に残る、真っ裸の『自分』を誇りにできるように。無一物で、ニッコリ笑う。そんな姿を想像する時、私のハートはゾクゾクする。あるから元気じゃ、普通すぎる。「こいつ、なにもないくせに妙に元気だ」と思える人間は、大げさな言葉で言えば希望になり得ると思う。

 

 

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渡部篤郎より愛を込めて。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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もっと生きろ。

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久高島の夕日を眺めている。大阪在住のS様から「沖縄に行きたいのだけれど行く時間を作れないから、代わりに行ってきて!交通費を出すから!」とご連絡をいただいた。昨日は、桜坂劇場岡本太郎を鑑賞し、珈琲屋台ひばり屋さんで強烈に癒され、大東そばと大東寿司のセットを喰らい、首里城近くまで自転車をかっ飛ばしてセンスの良い金物細工を購買した。そして、今日、S様が愛する久高島に到着をした。沖縄を愛する人の遠隔操作で、マリオネットのように日々を動く。結果、自分も沖縄を好きになっている。沖縄の魅力を、遠くS様から教えてもらっている。

 

 

那覇から安座真港まで自転車で移動をした。猛烈な気持ち良さを感じた。12月の沖縄は最高だ。ハワイに勝るとも劣らない魅力がある。さとうきび畑の中を自転車で駆け抜ける時間は、たまらない喜びを覚えた。久高島のキャンプ場は500円で利用できる。道中のスーパーでゆし豆腐や納豆や沖縄そばを買い、野営に備えた。しかし、野営道具はクッカーとアルミシートくらいしか持っていない。蚊の襲撃を受け、これは眠れないかもしれないと思っていたら「素敵な民宿が久高島にあるので、よかったら予約をしますよ」と横浜在住の女神様からご連絡をいただいた。

 

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もっと困れ。

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民宿SAWA。素晴らしすぎる。

 

横浜の女神様が用意してくれた部屋が最高だった。きめこまやかな気配りが随所に散りばめられた空間で、女将様の人柄も素晴らしい。適度な距離感で「もてなさないのがおもてなし」的なご対応が猛烈に気持ちいい。一目で惚れてしまった。久高島に向かうフェリーに乗る直前、与那原在住のI様が急遽見送りに来てくれた。I様は、化学物質過敏症だ。綺麗な場所でしか暮らせないため、数ヶ月前に沖縄に来たものの次の場所を探す必要に迫られている。それで「熱海の家を使わせてもらえたらうれしい」とのこと。私は、是非使ってくださいと答えた。そして「同じような症状に悩む人々にとって、居心地のよい場所になったらいいと思う」と話した。

 

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ゴリゴリの石畳。電動自転車は高確率で死ぬ。

 

首里城に向かう道中のオフロードでタイヤが破裂をして階段を登る時に担ぎ上げた電動自転車が思いのほか重く足元の重心が乱れ、履いていた下駄が真っぷたつに割れた。裸足になって自転車を漕ぎ続けて二時間後くらいにたどり着いたダイソーで250円のサンダルを購買した。昼間の沖縄は真夏だ。汗がだらだら流れる。バスにはない苦労が、自転車や徒歩には付き纏う。しかし、トラベルの語源は『トラブル』から来ている通り、普通じゃない体験をした記憶が思い出になる。戦時中に無人島で生き延びた横井庄一さんという男性がいる。28年間に及ぶ無人島生活をひとりで耐え抜き、帰国後、彼が出版した本のタイトルは「もっと困れ!」というものだった。困ることで知恵が出る。だから、積極的に自分を困らせることで人間は勇敢になる。そういう趣旨の内容が書かれている(のだと思う。私は未読だ)。

 

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高台からの眺望。自転車ならではの風景。

 

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今日の晩御飯。豆腐は体に良いと聞いた。

 

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久高島のキャンプ場

 

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コーヒーを飲む。

 

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日光浴する猫

 

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那覇〜与那原〜久高島


12月23日(日)には、ごちゃまぜの家でわたり食堂【0円食堂】を開催する。多分、今回の目玉はUTMさんになるのだろう。UTMさんは、今、ごちゃまぜの家の裏の森でダンボールハウス生活をしている。昨日、那覇のひばり屋さんを見て「これは本当に素晴らしい!こういうことを横浜でやりたいのだ!」と強烈に思った。青空カフェを作りたい。同時進行で青空書房も作りたい。無料の本屋@森と、無料の喫茶店@森。移動を続ける日々のメリットは、各地で発想のヒントをもらえることだ。足を運ぶ先々でアイデアを拾い、戻ったらそれを実際に形にしたり試したりする。私の場合、熱海、横浜、長野に家や土地がある。非常に恵まれていると思う。私は幸せ者だ。この幸せを、周囲の人々とわかちあっていきたいのだと思った。

 

【EVENT詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

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わたり文庫『沖縄文化論』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、岡本太郎著作『沖縄文化論 忘れられた日本』です。こちらの本は、大阪のS様から譲り受けた一冊になります。これを読んだらきっとあなたも沖縄に足を運びたくなると思います。そして、いま、実際に久高島に足を運んでいる坂爪圭吾に強烈な嫉妬心を覚えることになるでしょう。ふふふ。みんなもどんどん好きなことをやってもらえたら嬉しいと思う。そして、その土産話を聞かせて欲しい。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

日本残酷物語』に、柳田国男氏の「山の人生」の一節が収録されている。

美濃のある炭焼きの話である。

「女房はとっくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、おなじ年位の小娘をもらってきて、山の炭焼小屋でいっしょに育てていた。なんとしても炭は売れず、なんど里へ降りても、いつも一合のコメも手に入らなかった。最後の日にも空手でもどってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へはいって昼寝をしてしまった。

眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという。二人の子どもがその日当りのところにしゃがんで、しきりになにかしているので、傍へいって見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。阿翁(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それでじぶんは死ぬことができなくてやがて捕えられて牢に入れられた。この親翁がもう六十近くになってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまたわからなくなってしまった。」

私はかつてない衝撃をうけた。ー 人間生命の、ぎりぎりの美しさ。(中略)沖縄物語を展開する前に、こんな山奥の炭焼きの話をひいたのは、まさにこの島の生活、その基底にこそ、そのような生命の感動が生きつづけているからだ。

岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』【中公文庫】

 

もっと生きろ。

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久高島の夕日

 

ミケランジェロピエタという彫刻作品をご存知だろうか。聖母マリアがボロボロになったキリストを抱きかかえている彫刻作品だ。最近、この、ピエタのイメージが何度も脳裏をよぎる。画像を保存して毎日眺めているくらいだ。ピエタを見ると「お前も安心してボロボロになれ」と言われているような気持ちになる。聖母子像から「大丈夫。骨は拾うから」と常時見守られているような、そんな感覚を覚えるのだ。私は男で、結構強がったり虚勢を張ったりなんだりしながら生きているが、結局、最後は女に抱かれて終わるのかもしれない。女はすべてを知っていて、知っている上で放置をしてくれている。そういうことを思う時、よし、それならば生きている限り生きていこう。ボロボロになるまで自分を使い果たしてやろう。そう思う。女性的な優しさや励ましに背中を押されながら、私は、今を生きている。

 

相変わらずおばあちゃんにモテる。昨日、那覇の食堂で出会ったおばあちゃんに話しかけられた。「あらまー、あなたは食べっぷりがいいわね!でも、もっと食べた方がいいわね。痩せているから。最近の若い人は肉食でしょ。野菜をもっと食べなさい。あとは豆腐。島豆腐。ゆし豆腐は最高だよ。あとはお味噌。味噌汁も飲みなさい。黒砂糖もいいわよ。私は戦争を経験しているから、戦時中は黒砂糖なんてまったく食べられなかったんだから。昔、私、鉄砲で打たれたことがあるの。喉元を鉄砲の弾がバーン!って貫通して、背中から出て行ったんだから。でもね、私、その穴に塩と豚の脂を塗ってなおしたの。昔のひとは知恵があったの。だから治せたのよ。こういう話を孫にするとね、孫は『おばあちゃんは原始人みたいだね』って言うの。私、原始人なんだって。ひえぇっ、ひえぇっ、ひえぇっ!(笑い声)」

 

今、民宿の側ではこどもたちが遊んでいる。笑い声が、小鳥の鳴き声みたいだ。誰もが、小さな頃は無垢で純粋な笑い声を世界に響かせていたのだろう。それが、大人になるにつれて笑い声が濁ったり、笑顔が歪んだり、真っ直ぐに笑えなくなったりする。沖縄の人々、とりわけ、久高島の人々にはその濁りがない。岡本太郎は、沖縄の人々を『底なしに善良』と表現した。純粋なものに触れた時、自分は、自分の汚れを知る。自分をボロボロにしたいと願う気持ちは、内側にこびりついている薄汚れた壁を、見栄の壁を、虚勢の壁を、嫉妬の壁を、比較の壁を、無意味の壁を、無価値の壁を、一枚一枚引き剥がしていきたいと願う、魂の喘ぎなのかもしれない。何もない場所に置かれるほどに、自分の命が際立って見える。心臓の鼓動。呼吸。星空の瞬き。いま、この瞬間も『命は生きたがっている』のだと思う。

 

 

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filtered sunlight

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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いいことを書こうとするな。ただ、自分であれ。

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今日14日18時頃に那覇空港に到着する。基本的に『死ぬ事以外予定なし』の我が身。沖縄でお会いできる方はお気軽にご連絡ください。横浜のごちゃまぜの家は新展開を迎えた。家と金と仕事を失って「俺もいよいよ路頭に迷うのか」と比較的ガチで隅田川で暮らすことを考えていたUTMさん(44歳男性)が、急遽、ごちゃまぜの家の裏の森にテントを張って暮らすことになった。多くの人々は、未来に対する不安を抱いている。仕事を失ったらどうしようとか、路頭に迷ったらどうしようとか。UTMさんにとって、路頭に迷うことは恐怖ではなく『ただの現実』になった。

 

 

UTMさん風味の人間は大量にいると思う。私も同じだ。職業安定所に行ってもやりたいと思える仕事なんてない。選択基準は「わくわくするかどうか」なんて生易しいものじゃない。基本的にどれも嫌で、なんとなく「これが一番ましだ」みたいな選び方になる。週五日勤務も辛い。せいぜい週に一日か二日程度が限界だ。そもそもで雇われることに対する苦手意識がすごい。経済的な安定と精神的な安定が比例をしない。強制されると死亡をする。履歴書を書くくらいなら遺書を書きたい。そういうことを言うと、お前は社会不適合者だと言われる。こういう人種に、月額二十万円前後を稼ぎ続ける道理があるはずもないので「どうすれば低収入でも生きていけるか」的な方向に思考は飛ぶ。UTMさんは、テント暮らしをすれば家賃も0円だから月額三万円もあれば生きていけるかもしれない、という方向性に賭けた。

 

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ごちゃまぜの森【明日は我が身編】

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なにもかもを失った時、男性は路頭に、女性は風俗店の待機部屋に向かう傾向があると聞いた。『路上にいないホームレス』とか『見えない貧困』という言葉もある。ホームレスになるよりは数倍マシ、という理由で風俗店に勤め始める女性も多い。なるほど、これはうなずける話だと思った。男は体を売る代わりに体を張る。女は体を張る代わりに体を売る。やりたくてやるなら問題ないが、やりたくないなら世知辛いと思う。好きでもない異性と性行為をするときはどんな気持ちになるのだろう。自分はただの肉の塊だと自分に言い聞かせたりするのだろうか。『何か』を割り切るのだろうか。割り切るなんてできるのだろうか。私には、ちょっと耐えられない。しかし、耐えられないなどと言っている場合ではないのかもしれない。

 

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昨夜、UTMさんと一緒に動画配信をした。途中、結構すごいことも話しているので暇な時間に見てみてください(私は何度も爆笑した)。UTMさんは数年前に事業で失敗して700万円の借金をこさえた。しかし、法テラスという無料弁護士相談所的な場所に行って借金を25万円まで減らした。現在、月額8000円程度の返済をしているところだ。UTMさんの長所は、何も隠そうとしないところだ。自分の汚点をてらいなく喋る。それを聞いて、我々も笑う。置かれている状態は結構絶望的なはずなのに、なぜか元気になる。笑いながら「UTMさんみたいな人も明るく生きていける世の中になればいい」と思う。坂爪さんの好意で自分は生かされている、的なことをUTMさんは何回も話した。しかし、私には好意でやっている自覚がない。UTMさんがこれから歩き出す人生に『面白さ』『楽しさ』『愉快さ』を感じている。

 

内海さんの連絡先とごちゃまぜの家の住所です。
 
メール
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saiohasso
 
〒222-0012 神奈川県横浜市港北区富士塚2丁目24-5
 
内海さんへのお仕事依頼や引っ越し祝い、電話相談やリアル面会希望・テント見学希望など、常時受付中です!🌸🌸🌸

 

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12月22日は大阪府生野区今里で『プライドの捨て方』がテーマのお話会をやる。私は思う。とりわけ、緊急時こそ人間は絶対に「一人にならないほうがいい」のだと思う。今、UTMさんは我々と一緒にいることで笑えている。問題は何も解決をしていない(ここがポイント!)が、なんだか楽しそうに生きている。人間はみんな弱いから、ひとりきりで問題を抱え込むと「俺は生きていけるのだろうか…無理だ…うわあ…死のう…」みたいな思考回路に絞殺される。こういう時、邪魔になるものはプライドだ。プライドと自尊心は違う。プライドを捨てても自尊心は残る。逆に、プライドを捨てることが『健全な自尊心を培う崇高な経験』にもなることがある。強く握り締めていた自分の力を手放した時、宇宙的なサムシングが「私の出番だね!」みたいな感じで、おかしな角度から救済の措置を差し伸べることがある。

 

12月22日・坂爪圭吾さんと語る「プライドの捨て方」と「愛ってなんだ」

 

わたり文庫『代表的日本人』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、内村鑑三著作『代表的日本人』です。道に迷う時、自分が小さくまとまってしまいそうになった時、私はこの本を取り出します。読むたびに、新しい力を授けてくれる不思議な本です。登場人物の五人、どれも素敵な偉人たちです。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

『左伝』にはこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財も減る。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方しだいで、盛衰、貧富、興亡、生死がある。用心すべきではないか。

世人は言う。「取れば富み、与えれば失う」と。なんという間違いか!農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで撒き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を撒き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精を出すので、収穫は求めなくても訪れる。

 

内村鑑三『代表的日本人』【岩波文庫

 

いいことを書こうとするな。ただ、自分であれ。

自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしない」というものがある。過剰な正義感は、時に価値観の押し付け【暴力】になる。私は、他人に何かを強制したり、自分と同じであることを期待したいとは思わない。自分のためにやることが、結果的に誰かのためにもなったら幸運だと思う。UTMさんの最大の長所は『素直であること』だ。私はそう思ったし、人間、素直であること以上に重要なことはないとさえ思った。だからこそ、UTMさんと話した時、私は「いかに遊べるか」に集中した。絶対に「どうすれば救えるか」とか「どうすれば力になれるか」とか「どうすれば苦しみに寄り添えるか」みたいな思考をしないように意識をした。

 

私は文章を書く。こうして自分の思いを『誰か』に伝える。その営みによって生かされている実感があるし、私の文章を見て「どうすれば坂爪さんみたいな文章が書けますか」と問われることも多い。このようなことを聞かれる時、質問する側の人間は「どうすればうまい文章を書くことができますか?」的なことを聞いているような感覚を覚える。私は思う。いいことを書こうとするからダメなんだ。いいことも、悪いことも、全部ひっくるめての自分なんだ。だから、全部書け。いいことを書こうとするな。ただ、自分であれ。その純度が、それに触れた人間の純性に波紋を起こし、なにかしらの啓発や行動に繋がるのだと思う。いいことだけを書こうとしたら、自分の調子が悪いとき、なにも書けないことになるじゃないか。それはちょっと違うだろう、と。いい部分も、悪い部分も、全部ひっくるめての自分だ。自分をまるごと認めることが『プライドを自尊心に転換する』礎になる、と、思う。

 

動画の最後で、UTMさんはこう言った。自分は恵まれている方だと思う。今の自分よりもつらい状態に置かれている人はたくさんいるのだと思う。だから、もしも自分に力になれることがあったら遠慮なく連絡をして欲しい。話を聞くことくらいしかできないかもしれないけれど、自分にできることがあればそれをやりたいと思う。と。私は、この発言にUTMさんの聖性を見た。誰かに強制されたからではなく、内発的に、自発的に「貢献。誰かの力になりたいという思い」が湧き出してきた時、私は、そこにその人自身の聖性を見る。置かれている状態に関わりなく、人は、人の力になることができる。UTMさんは、新しい生き方の一歩を踏み出した。私は、ただの傍観者ではいたくないと思う。併走者でありたい。UTMさんが果敢な一歩を踏み出したように、自分も、自分なりの一歩を踏み出していきたいと思う。

 

 

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はじめてそれを見たときのように。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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傷つく前に傷つくな。

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神奈川県白楽のドトールにいる。数日前から「欧州に行きたい」と強烈に念じていたら、欧州に飛ぶための魔法のチケットを獲得した。日程は臨機応変。到着予定国も臨機応変。もしも欧州在住の方で「この国に来れば宿はどうにかなる」とか「この国に来たら軽いお話会などを開催できる」などありましたら、ご連絡をいただけましたら幸いです。小生、時間の融通はいくらでも効きます。こういう時、しみじみと「暇でよかったなあ」と思う。必要であれば、明日にでも欧州に飛べる。

 

 

すべての感動的な物語は「旅に出る。なにかを得る。帰還する」の要素で成り立っている。桃太郎であれ、ワンピースであれ、ロードオブザリングであれ。これは、私たちの人生にも当てはまるのだろう。男性的な意味での冒険と、女性的な意味での冒険は異なる。冒険とは、世界に飛び出すことだけではない。出産もひとつの冒険だし、男性には真似することも、おそらく耐えることさえもできない冒険だ。私は男で、子宮をもたない。出産をすることができない。だから、外に出たいと思うのかもしれない。昔、ある人がこんなことを言った。男はバカだから全部を経験しないとわからない。しかし、女性は一部に触れただけで全体がわかる。だから、すべてを経験する必要はないのだ。と。なんとなく、わかるような気がした。

 

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ごちゃまぜの家。

欧州の国々を巡れたら幸せだ。パリの公園でフランスパンをかじるだけで、昔、最大級の幸せを感じた記憶がある。音楽と記憶は強烈に結びつき、ある音楽が流れると、ある風景が瞬時に蘇る。私は、雨が降ると憂鬱になる。これは、幼少期、雨が降ると友達の家に遊びにいくこともできずに家でひとり退屈な時間を過ごしていた、その記憶と結びついているのかもしれない。雨の音も音楽で、海の音も、風の音も音楽だ。私は海が嫌いだった。学校に馴染めず、私はいつもひとりで海にいた。波音は「お前は孤独なんだ」と言っているように聞こえていた。海は孤独の象徴だった。しかし、数年後、新しい友達に海の遊び方を教えてもらってから、私は海を好きになった。私は海が嫌いだった訳ではなかったのだ。そう気づいたのは随分あとになってのことだった。私が嫌いだったのは、自分自身だったのだ。

 

普通に生きているような人でさえ、何かしらの問題を抱えている。問題の多くは家庭環境、その人自身の家族に起因することがわかる。愛されたいように愛されなかった記憶、愛したいように愛せなかった記憶、乱暴にまとめるならばさみしさを蓄積させた結果、人間は病気になったり、精神を患ったり、健全な自己肯定感を抱くことができなくなる。私だって例外ではない。どこかしら、致命的なバグを抱えて生きている。誰もが狂っている部分を抱えながら、うまい具合に折り合いをつけたり、呼吸ができる場所を見つけて、いまを生きているのだろう。バグを抱えていることはおかしいことじゃない。きっと、当たり前のことだ。そう思えた時、自分だけではないのだという知覚は、心の重荷を軽くする。弱さは悪いことではない。弱いからこそ、欠落があるからこそ、人間は人間を必要とすることができる。

 

素晴らしい出会いは人生を肯定する。狂っている自分を肯定するもの、決して正しい生き方はできないけれど「俺の生き方は間違っていなかったな」と思わせてくれるもの、それは出会いだった。なぜ生きるか。その答えを私はまだ知らない。しかし、生きていなければ出会うことのなかった人間がいることは事実であり、彼らの存在を思うと、自分は自分の生き方に誇りを覚えることができる。悪くないな、と、ニヤッとすることができる。人間を疲れさせるものが人間ならば、人間を救い上げるものもまた人間だ。彼らの存在は、私にひとつの教訓を与えてくれた。それは「人間は変われる」という教訓だ。いまいる場所に不満があるならば、人間は、自分の意思でそれを変えていくことができる。舵を握るものは常に自分で、止まることも、歩き出すことも、生きる自由も、死ぬ自由も、選択権は自分にある。どのような状態に置かれても、我々は、常に自由であることを思い出させてくれる。

 

www.msmcmtmr.net

 

わたり文庫『ストレイト・ストーリー

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、村上龍著作『ストレイト・ストーリー』です。アルヴィンという高齢の男性が、仲違いをしたまま危篤になった兄と仲直りをするため、芝刈り機に自作のモービルハウスを連結させて長距離の無謀な旅に出る物語です。20歳前後の頃、村上龍にどはまりをして、村上龍ばかりを読んでいた時期がありました。10数年振りに読み直したこの作品は、言葉にならないほどに素晴らしかった。クリスマスプレゼントに、何を贈るか迷う人は試しにこの本を読んでみてほしい。きっと、誰かに贈りたくなる一冊になると思います。私の大好きな一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

「引っ張っていくには、お、お、お、重すぎるわ。父さん。それは芝刈り機なのよ。本気で、芝刈り機に乗って、州を越えるつもりなの?」

アルヴィンは遠くを見つめていた目をローズに戻した。

「ライルに会いに行くよ。ローズ。自分の力でね。わかるだろう?」

そうね、とローズはうなずいた。アルヴィンは決めたことは必ず実行してきた。その決定が明らかに失敗だったことも数多くあった。失敗のほうが多かったはずだ。今度も失敗するかもしれない。だが、いずれ近いうちにアルヴィンには失敗も成功もできなくなるときがくるだろう。だから、ローズは、そうね、と答えるしかなかったのだ。

「空を眺めてごらん、ローズ。今夜は星が綺麗だな。満点の星だ」

アルヴィンがそう言って、二人は夜空を眺めた。 

 

村上龍ストレイト・ストーリー』【集英社

 

傷つく前に傷つくな。

定職も、定収入も、定住先もないまま、移動を続ける日々を過ごしている。先日、私を見た人が「勇気がありますね」と言った。私に勇気があるのかないのか、よくわからない。感じているのは必然性で、私は、大量の選択肢があるなかからいまの生き方を選んだわけではない。色々やってみたけれどどれもこれもまったくダメで、どうにかこうにか、いまの生き方がはまったことによって生き延びることができている。『いまの生き方』というものを、言葉で説明することは難しい。多くの人々が『ある』を求める中で、私は『ない』に賭けている。私には何もない。肩書きもなければ社会的な信用もない。どこにでもいるようで、どこにもいない、野良猫のような一匹の雄だ。決して褒められたものでもなければ、人様に偉そうに話せることなんてなにもない。ただ「自分はこうです」というだけの話なのだろう。

 

人々と話す中で「前提が違うな」と感じることは多い。どうすればあなたのようにうまくやれるのか。どうすればあなたのように人々のご縁の中で生きていけるのか。など。そういう風に問われることは多い。私は、多分、どうすればうまくやれるのかという考え方で生きていない。真逆で「これでだめなら死ねばいいのだ」と思っている。やりたいことをやって、それがだめになった時は、死ねばいいのだ。それだけの話だ。そう思いながら生きている。無論、死にたいと思っている訳ではない。生きていたい。生きられるだけ、生きていたい。命を燃やしていたい。生きている実感を感じていたい。だから、自分がやりたいと思うことは精一杯にやりたい。逆に、自分がやりたいと思うことでなければ、私は精一杯になることができない。自己責任。そんな言葉が頭をよぎる。自己責任とは、他人に強制するためのものではなく、自分を律するための崇高な理念だ。私は、私の人生に責任がある。

 

傷つく前に傷つくな。傷つくことを恐れる気持ちが、自分自身を傷つけている。大事なことは、いつか、傷つくことさえもできなくなる日が来るということだろう。失敗することも、後悔することさえもできなくなる日が、必ず来る。すべての瞬間に終わりがある。時の流れを、出発しようとする人間を止めることはできない。そう思って生きてきた。裸のままで生まれてきて、人生を終える時は、裸さえも捨てていく。煙になるのか、土に還るのか、海に還るのか、そのすべてになるのだろうか、それは知らない。いま、この瞬間も、出発することを迷う人、出発するものを引き止めたいと願う人、出発することを誓う人、いま、まさに出発をしている人など、様々な人々がいるのだろう。ひとつひとつの出発に、光あれと思う。出発する人間は、見送る側の人間に、健やかな自立を促す。やがて、私たちは、一人の例外もなく最後の出発の日を迎えることになるだろう。その瞬間まで、光あれと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BrRTVGWHVe8/

雨上がり。

「もし今ボクが引き返したら、もう二度とここへこようという勇気はおこらないだろう。ボクは一生のあいだしげみの外をめぐりながら、中にはいる勇気がなかったんだと自分にいいきかせることになるだろう。」

ムーミン谷の名言集

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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あせらず、あわてず、たのしんで。

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京都府丸太町のガストにいる。昨日は漫画喫茶で眠った。誰でも無料で立ち寄れる『ごちゃまぜの家』という活動(?)をやっているが、やはり、時折ひとりになりたいと思う。冬の京都は底冷えが凄い。誰もいない夜の街中を歩きながら「誰でも無料で立ち寄れる家とかあったらなあ。そうすれば俺も眠れるのになあ」などと思った。しかし、冷静に考えると「それはまさに俺がやっていることじゃないか」と思った。なんという自己矛盾だろう。俺はなにをやっているのだろうかと思った。

 

 

昨夜、京都の八瀬で『カンタ!ティモール』という自主制作映画を見た。東ティモールインドネシア軍の侵略によって国民の三人に一人が殺される大虐殺を受けた。が、ティモールの人々は報復する代わりに円陣を作り、肩を組み、団結を誓い、歌を歌い、踊りを踊った。闘うとはどういうことか。この問いに対する東ティモールの人々の答えは、武器を取ることでもなければ報復を誓うことでもなく『連帯する』ことだった。それにより、三十年近い虐殺の日々の果てに、東ティモールは奇跡とも呼ばれる独立を果たした。彼らは言う。愛する人々を喪った悲しみは消えないが、怒りはない。敵を恨む気持ちはもうない。死は犠牲だったのだ。と。

 

ibaya.hatenablog.com

 

金ってなんだ。

東ティモール沖には油田がある。それを巡って戦争が起こる。要するに金の問題で、利権欲しさに戦争が起きる。というロジックがある。なるほど、言われてみれば確かにそうなのかもしれない。戦争反対論者は言う。人生は金じゃない。だから、いますぐ戦争をやめるべきだ。と。しかし、私は思う。戦争をやめるべきなのは、なにも政治家だけの仕事じゃない。私たちひとりひとりが戦争をやめなければ、なにも変わらないだろう。無論、今の日本で実際に血を流すような争いはない。が、金のために嫌な仕事もやらなければならないとか、売りたくもないものを売らなければならないとか、過労になったり(戦死者を超える数の)自殺者がいる状態は、新種の戦争だと思う。金に生き、金に殺される人間は少なくはない。

 

金ってなんだ。頻繁に思う。お金じゃないよね的な活動をしている人々は年々増えている。が、彼らも「人生は金じゃない」と言う半面で「金がなければこの活動を続けていけない」という葛藤に苦しむ。結果、活動を継続するために金を求める。金じゃない!ということを訴える活動に参加費が必要になり、金じゃない!ということを訴えている空間で自然素材の商品やフェアトレードのなにかを有料で売る。結局、金が生命線になっている。不思議だし、矛盾だし、仕方がないのかなとも思う。多分、私たちは金に変わる『新しい価値』を求めているのだと思う。しかし、その『新しい価値』がなんなのかを知る人は少ない。だから、口先では「金じゃない」などと言いながらも、活動のため、生活のため、生きるために『嫌なことでも嫌々やらなければならない』世界を抜け出すことができない。結果、戦争は続く。

 

誤解されると困るが、私は金を否定したいわけでも人間の欲望を否定したい訳でもない。空海は「小欲より大欲。小我より大我」的なことを言っている。人間、我欲を捨て去ることはできない。だからこそ、どうせならば「小さい欲望よりも大きな欲望を、世界を変えてしまうくらいの欲望【大我】を抱け」的な意味合いなのだと私は解釈をしている。映画を見ながら、私は、裸足で生きるスラムのこどもたちの凛々と輝く瞳に胸を打たれた。大人も、子供も、非常にいい顔をしていた。表情全体から「生きている」ことの躍動が伝わってくる。私は、キャリアとかセルフブランディングとか自己投資などという言葉が嫌いだ。自分のことしか考えていない器量の狭さ、不潔さ、ケチ臭さを感じるからだ。私は、なぜ、ごちゃまぜの家をやっているのだろうか。私は、自分という概念を拡張したいのかもしれないと思った。

 

 

gochamaze.hatenablog.com

 

わたり文庫『いま、生きる力』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、岡本敏子著作『いま、生きる力』です。好きな女性のタイプを聞かれたら、これからは「岡本敏子さんです!」って胸を張って言いたい。男は女をけしかける。女は男をけしかける。結果、世界が豊かに膨れ上がる。こんなにも素敵な女性が過去の日本に生きていたということは、もう、希望でしかないと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、三重県にわたりました ※※※

 

みんな自分を輝かしたい。ぼくは、私は、もっともっと凄い力を秘めているのに、誰もわかってくれない、と密かに口惜しい思いを噛みしめている。

ならば、うじうじしていないで、そのように振る舞うべきよ。

平気じゃないの。誰に遠慮しているの?

小さいときからまわりを見て、みんなから外れないように、周囲の人たちと同じように、合わせてゆくことばかり強制される。人と違うことを言ったりやったりすると、それだけでハグレ者。ノーマルに世の中を渡ってゆけない落ちこぼれと扱われてしまう。親も先生も何とかして“マトモ”にしようと躍起になるし、友達からはイジメにあう。イジメの悲惨さに耐えかねて、自殺してしまうこもあとを絶たない。

でも考えてみてください。

みんなと同じであることが、そんなに尊いの?なぜ、同じでなければいけないの?

岡本敏子『いま、生きる力』【青春出版社

 

あせらず、あわてず、たのしんで。

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京都にいるが、特段何もすることはない。いつものように呆然としていたら、大阪在住の女性から「私の代わりに久高島に行きませんか?交通費を出します!」という稀有なご要望をいただいた。坂爪圭吾の新しい使い方発見!だなあ。早速「是非!」と快諾をした。小生、数日後には沖縄にいるかもしれない。相変わらず、日々がとっ散らかっている。前回の記事で「ごちゃまぜの家をやりたい人がいたらご連絡ください!」などと自分から言っておきながら、連絡がきたらきたで「返信するのが億劫だ…面倒くさい…」などと自爆している。私はなにをやりたいのだろうか。時折、自分で自分がわからなくなる。一番面倒くさいのは自分だと思う。

 

メールよりもリアルに限る。先日、大阪であった女性が「坂爪さんに連絡するのは死ぬほど恐怖もあったのですが、前に『1日1F(1日に一回怖いこと【FEAR】をやる)』って坂爪さんが言ってて、よし、このタイミングしかないと思って連絡しました!」と話してくれた。素晴らしい意気込みだと思う。人間の気骨に触れると嬉しくなる。不思議な感覚だが、最近、初対面の人と会っても初対面だと感じない。初対面なのは最初の1秒くらいで、10秒以上一緒にいれば「もはや旧知の仲」みたいになる。人間は細胞分裂を繰り返していて、1秒前とは(それこそ細胞レベルでは)生まれ変わっている。だから、初対面だとしてもこのように感じることは別に変ではないのだろう。誰に会っても、最初の数秒間でだいたいわかる。あとはもう、すぐに(会話が盛り上がるかどうかは別として)旧知の仲になれる。

 

大阪で会った女性は言った。前に、坂爪さんがツイキャスで『よろしく浸ってんじゃねえよ理論』の話をしていて、ああ、私はすぐに自分の失敗とか弱さに浸ってしまってうじうじしちゃうタイプの人間だから、すごく刺さるし痛いなあって思いました。と。これを聞いた時は「俺って結構いいことを言っているんだなあ!あほだなあ!」って感動した。うきうきした。冬になり、どうしても寒さでカラダは閉じがちになる。しかし、寒さによろしく浸っている場合ではない。今日も、これといって予定はないけど折り畳み自転車を持ってきたから京都を散策したいと思う。夜はまた、漫画喫茶にでも行くのだろうか。どこでもいい。東ティモールの人から見たら、屋根があるだけで天国だ。感謝である。ありがとうございます。あせらず、あわてず、たのしんで。どうなるかわからない人生を、楽しんでいきたいと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BrMEWrQHSrf/

あせらず、あわてず、たのしんで。

「だらしがないことも、時には役に立つんだねえ。」

「おまえたち、ほんものの冒険家として、生きるのだよ。それを決して忘れてはならないよ。」

「わしはしばらく眠るよ。ちょいちょい、眠ってる間に、問題が自然に解けることがあるものな。頭はほったらかしにしておくと、よく働くものなんだ。」

ムーミン谷の名言集

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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自分の聖性に忠実でありたい。

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車で京都から長野に行く予定が、運転手予定の女性(まだ会ったことはない)から「ごめんなさい!やっぱりこわくなったので行けません!」と直前にご連絡をいただいた。いまの私が坂爪さんに会ったら悪い影響を与えてしまいそうで、とのこと。この気持ち、ものっそいわかる。直前になっておそろしくなって逃げ出したくなる気持ち、ものっそいわかる。だがしかし、小生、すでに車の同乗者を集めてしまっていた。やばい。どうしよう。禿げちゃう。ここで神様が降臨した。「それならば僕が車を出しましょう!ジャジャーン!」とスーパーヒーローが登場をした。

 

 

ブログには書けないことが多すぎる。が、人生はうまくできているものでどうにかなった。結果、京都から長野を経由して今は横浜にいる。長野では森ジムの開墾に邁進した。色々ありすぎてまとめられない。関西では「自分もごちゃまぜの家みたいな無料で家を開放するみたいなことをやりたいとは思うのだけれど、周囲から『馬鹿者!できるわけないだろ!』と言われまくるから困る」と話す人々に複数名会った。私は思う。毎日じゃなくて「一ヶ月のうちの1日とかだけでも、その空間をごちゃまぜの家みたいにする」とかどうだろうか。それなら負担も少ないし、全国にごちゃまぜの家支部的なものを作ることができる。私を客寄せパンダに使って欲しい。やがてはごちゃまぜの家甲子園みたいなこととか、やりたいなあと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

生き埋めになりたい。

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森ジムにハンモックをぶらさげて遊ぶ。

 

アナスタシアという本を読んだ。なんでも「野菜の種は植える前に9分間舌の下にいれておくと自分の体内情報が種に伝わり、あなたに適した野菜ができる」的なことが書かれていた。私は「こ、これは!」と思った。なんだかありそうな気がした。今、一応、ごちゃまぜの家的なものが横浜と熱海と長野と佐渡島の四箇所にある。私は、一回、これらの土地に丸一日生き埋めになった方がいいのだと思う。砂浴という健康法がある。砂が毒素を吸い出してくれるように、土も毒素を吸い出してくれそうだ。私の体内情報がその土に伝われば、より一層『その土地と仲良くなれる』ように思う。体を這い回る虫たちは毛穴の汚れを除去するらしい。そんなことってあるのだろうか。ありそうな気がする。土の中は寒いのだろうか。それとも意外と温かいのだろうか。最近は生き埋めになることばかりを考えている。

 

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森カフェもオープンしました(文字盤をいただきました!)

 

森ジムを面白がってくれる人がいてくれることが奇跡だ。誰にも理解されないと思っていた。鉈や鋸などの刃物類をいただいたので、森を開墾して道を開いた。若い女性でさえ「手伝いたい!」とか「泊まりたい!」とか言う人がいるから昨今の女性は勇敢である。今、日本全国に空き家や空き地が増えている。見捨てられた土地を見ると残念に思う。有効活用のひとつの手段として、私はごちゃまぜの家(ごちゃまぜの森)を提唱したい。誰でも無料で使えるように開放すること。人間の善意でまわすこと。とか言うと「経費はどうするんだ!」とか「泥棒がきたらどうするのだ!」的なことを言われまくる。これは、やってみればわかる。逆に、やらなければわからないことをやる前に説明することは(佐渡島に行ったことがない人に佐渡島を説明することと同じように)無理だ。だから、私は説明をしたくない。

 

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屋外で料理をすると楽しい。玄米餅を食べました。

 

12月8日&9日は横浜のごちゃまぜの家で無料カレーが食べられる。是非、一回目撃してください。また「自分の家をごちゃまぜの家みたいにしたかったのよ!」的な方がいたら、是非、お気軽にご連絡ください。全国47都道府県(+海外)にごちゃまぜの家ができたら嬉しい。管理人同士の連携プレーが生まれたら楽しい。家に限らず空き地でもいい。海も山も森も活用したい。呼ばれる限り何処にでも行く。時間は(死ぬまでならば)ある。家賃の為に嫌な仕事でも嫌々やらなくちゃいけないみたいな前提を吹き飛ばしたい。や、別にどうにもならなくてもいいのだけれど、生活の不安が薄くなれば「人間はもっとダイナミックに生きることができる」ように思う。そうすれば、世界の熱量は高まる。結果、いまよりももっと一緒に遊べる人たちが増える。私は、単純に、遊びながら生きたいのだ。

 

gochamaze.hatenablog.com

 

わたり文庫『荒野へ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ジョン・クラカワー著作『荒野へ』です。男性におすすめです。この本は、アラスカの荒野に単身分け入り、四ヶ月後に腐乱死体となって発見された若者クリス・マッカンドレスにまつわるノンフィクションです。男なら、誰もが一度は冒険に憧れたことがあると思う。その初心みたいなものを、消しても消しても消しきれない野生みたいなものを、ページをめくるたびに呼び起こす一冊になると思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、岡山県にわたりました ※※※

 

私は変化がほしかったのであり、平穏無事な生活など望んでいない。刺激と危険と、それに愛するもののために身を捨てる機会をもとめていたのだ。自分の内部には、エネルギーがありあまっていて、われわれの静かな生活には、そのはけ口がなかった。

 

レフ・トルストイ『家庭の幸福』(クリス・マッカンドレスの遺体とともに発見された書物の一冊のなかで強調されていた一節)

 

ジョン・クラカワー『荒野へ』【集英社文庫】 

 

自分の聖性に忠実でありたい。

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京都から車を出してくれたスーパーマンY様も、今、横浜のごちゃまぜの家にいる。Y様は9日の朝に横浜を出て京都に戻る。この車、残り座席が2席ある。もしも「ちょうど仕事をズル休みして京都観光したかったのよ!」的な関東在住の方がいたら、お気軽にご連絡ください。Y様が無料で護送をしてくれる上に、伏見稲荷神社近くの素晴らしい宿泊先もあります。私はどうするのだろうか。私はこれからどうやって生きていくのだろうか。そういうことを考えると冬型の鬱病になるから考えない。人生は「どうにかする」ものではなく「どうにかなる」ものだと思い込む。自分の意思を超えて、思いもよらなかった場所に運ばれていくことが人生の醍醐味なのだと思う。

 

連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

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今、ごちゃまぜの家には「仕事と金を失った」内海さんが滞在している。先日、内海さんと話している時に、同席していた人が「雇用主の都合で仕事をやめさせられたのなら、損害賠償的なものを請求する権利があるんじゃないですか?」という鋭い指摘をした。が、これに対して、内海さんは「僕に請求する権利があったとしても、請求をしたいとは思いません」とはっきり答えた。私は、この、内海さんの回答を聞いたときになんだかホッと安心をした。見る人が見たら、取れる金があるのに取らないことは『もったいない』こととして映るのかもしれない。しかし、過去に何度も何度も何度も金の問題を目の当たりにしてきた経験を経て『身を滅ぼす金の使い方・金の稼ぎ方』というものがあることを知った。損得勘定で見れば損をすることでも、別の視点から見れば徳を積む(自分の純粋性を高める)ことに繋がる生き方がある。その生き方を、私は、内海さんと一緒に見出していきたいと思う。

 

カナダのモントリオールからメールが届いた。国境を超えてやりとりができることが嬉しい。巷では「自分を大事に」みたいなことが頻繁に言われるが、私は、結構逆のことを思う。自分を大事にするよりも、めっちゃつらいことをやりまくった結果「それ以外のことがほとんど楽勝になる」みたいな状態に自分を育む。そういう生き方があってもいいと思う(しかし、これは男性向けだと思う)。人間、生きているならばどうしても貫き通したいと思う筋があるはずだ。その筋は、貫けば貫くだけ自分を不利な状態に追い込むだろう。しかし、その筋があるからこそ、自分は自分として強烈に在ることができる。純粋性を守れば守るほど、この世界では生きづらくなる。周囲からも罵倒され、村八分の憂き目にも遭うだろう。しかし、生きづらいということは「自分は自分のままである」ことの最大の証明になる。直感が外れることは多いけれど、違和感が外れることは滅多にない。誰かに合わせる必要はないのだと思う。ただ、自分の聖性に忠実でありたいと思う。

 

 

坂爪さん、初めまして、こんにちは。
 
 
わたしは、○○○○と言います。
カナダのモントリオールに住んでいます。
 
わたしのところにも、あなたの命の光が届きました。
 
強く、たくさん感じることがあり、魂が伝えたい気持ちがあるのですが、
大きすぎて、ありがたすぎて、まだうまいこと言葉として現れません。
 
 
また書きますね!
 
ありがとう! ありがとう!! ありがとう!!!
 
会えるのも楽しみにしています。
 
 
ありがとう!!!!!!
 
 
今日も、今、この瞬間も、
あなたの命が、張り裂けんばかりに喜び、ありがたいなぁ〜と安堵し、
 
体の隅々が冴え渡り、生命力にみなぎり、心地よく軽やかに動き、
あなたの命の自然や資質を最大限に満喫されていますように。
 
関わる全ての、生きとし生けるもの、見えるもの見えないもの、
あるものないものと楽しく遊んでいますように。
 
 
 
 
○○○○より

 

https://www.instagram.com/p/BrGsDkYHzc5/

森ジム。

「みてるわよ、あなたがしていること。あのね、神様じゃないわよ。もうひとりのあなたがよ。もうひとりのあなたがたなたをみているのよ。見放されないようにね。嫌われないようにね。」

「新しい生活、その不安ね。大丈夫よ、全然、大丈夫よ。いま考えてもしかたないじゃない。何かあったらその時に考えればいいのよ。本当にそんなものよ。それで意外とうまくいくのよ。」

「逆よ、全く逆よ。自分と向き合うにはひとりになるんじゃないわ。いろんな人と関わりあうのよ。お友達とおままごとしろって言ってるんじゃないの。自分の知らない、自分を知らない人たちと関わりあうのよ。見えてくるわよ、本当の自分が。」

ムーミン谷の名言集

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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自分をオープンにしている限り人間は死なない。

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私のオラクルカードが大阪で奇跡を連発している。また人類を救ってしまった。今朝、タロットカードの使い方まで覚えてしまった。金曜日の昼過ぎには長野の森に行く。森ジムに加えて『森のタロット屋さん』をやりたいと思う。森の中に小屋を建てて、怪しげなタロット屋さんを開設するのだ。鑑定される側の人間は、鑑定料として食糧(最近の私はアボカドが大好き!)を献上する。それによって私は命を繋ぐのである。ふふふ。完璧である。が、私は飽き性なので1日に鑑定できる人数には上限がある。

 

 

京都から車を出してくださる女性が「空席があるので、他にも長野に行きたい人がいたら一緒に行きましょう!」と提案をしてくれた。現状、残り座席が2人分ある。12月7日(金)朝8時大津駅前某所待ち合わせ、その後5時間程度車を走らせたら長野県大町市に到着をする。その後の予定は完全に未定になりますが「片道切符でも構わないから、一緒に行きたい!」と思われたフットワークの軽い素敵なあなたは、お気軽にご連絡ください。今、私は大阪駅の地下のカフェにいます。心ある読者様から「肉を食え!」とお誘いをいただき、昼、神戸牛を食べる予定である。

 

※※※ おかげさまで満席となりました ※※※

 

連絡先・坂爪圭吾

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ibaya.hatenablog.com

 

マッチ売りの少女を殺したのは誰か。

ごちゃまぜの家に滞在をしている内海さんがいい感じだ。小生、人生哲学のひとつに「自分をオープンにしている限り人間は死なない」というものがある。自分を閉じると死ぬ。しかし、自分を開けば世界も開く。結果、いい感じになる。極論、人間の状態は『開いているか閉じているか』の二種類だと思う。今夜、私は、京都で「誰も使っていない古民家があるから、ここをごちゃまぜの家みたいにしたいと思っている。よかったら一回遊びに来てください!」とお声をかけていただき、そちらに向かうことになった。こうして声をかけていただけることはうれしい。結果、今夜の宿もどうにかなってとってもうれしい。

 

gochamaze.hatenablog.com

 

まだ家がなかった数年前、イギリスに呼ばれて行ったことがある。そこで素晴らしい出会いを果たしたのだが、時は流れ、数年後の今(なう)「奇跡が奇跡を呼ぶ」みたいな現象が起きた。長野の森を開墾してINN THE FORESTをオープンして数日しか経っていないが、イギリスからも「素敵な森がイギリスにありますので、いつでも遊びに来てください」的なお声をかけていただいた。なんということだろう。素敵すぎる。私はしばらく茫然とした。嗚呼、いますぐにでもイギリスに飛びたい。誰か一緒にイギリスに行きませんか。日本では、ちょっと前に『死ぬこと以外かすり傷』という本が話題になった。私の場合は『死ぬこと以外予定なし』の人生である。死ぬこと以外に予定がない。時間だけは無限にある。航空券を調べたら往復10万円弱程度かかる。この費用をどうするのか。これが当面の課題である。

 

ameblo.jp

 

ここまで書いたところで「大阪でごちゃまぜの家みたいなことをやりたいと思ったものの挫折した。よかったら一回家に来てくれませんか??」的なご連絡が届いた。楽しい。早速「今日の夕方なら行けます!」と返信をした。これから、私の人生はどうなるのだろうか。資本主義社会とか経済合理性などと謳われるが、結構多くの人々が「無償で人々に与える側にまわりたい」と思っていることを知ることは楽しい。なんだ、みんな遊びたいと思っているんじゃないか!みたいに思えるからだ。最近思う。公衆便所があるなら『公衆台所』とかあってもいいじゃないか。公園に台所をバコン!と設置して、誰でも好きに使えたらコミュニケーションも生まれそうだ。が、色々問題もあるのだろう。私は般若心経が好きだ。困ったときは「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」と唱える。これで、大概の問題はどうにかなる。

 

ibaya.hatenablog.com

 

自分をオープンにしている限り人間は死なない。

ロンドンでイベントをやりましょう!とお誘いを受けた。凄い。ロンドンなんて格好いい。私のふるさとは新潟県で、私は勝手に『日本のロンドン』と呼んでいる。寒い国の人間は頭がおかしくなる。よく言えば『(内的世界が充実するから)文学が育つ土壌になる』とも言えるし、悪く言えば『精神が異常をきたして自殺率がうなぎのぼり』とも言える。寒ブリがうまいことと、北の国の人間はいかめしいことは似ている。地元の人間に「最近どう?イエローモンキーのプライマルを聞いていたら君を思い出したよ」と連絡をした。すると、その人は「新潟はまじでドブみたいな灰色だよ」と言った。曇天が続くと人間は頭や語彙力はおかしくなる。彼女は、最近、髪をぶった切った。切ったとかのレベルではない。『ぶった』切ったのである。愛する吉井和哉さんは「さみしがりは激しいジョークを欲しがるのさ」と歌った。物凄いわかる。物凄いわかるなあと思いながら私は灰色の青春時代を過ごした。

 

昨日、大阪の道頓堀で開催されたミュージカルに招待をしていただいた。ここには書ききれない様々なことを思った。表現者を目の前にすると(良いも悪いも)色々なことを思う。終盤、キャスト全員が客席におりてきて観客とハイタッチをする、という演出があった。私の前にもキャストが来る。私は、正直、あんまりハイタッチをしたい気分にはならなかったのだけれど、目の前にきたキャストが大量の汗を流しているのを見て「うわー!」と思った。流れる汗に感動をしたのだ。汗、それは『実際にやっている人間からしか絶対に出ない』ものだ。私は猛烈に感動をしてしまい、満面の笑顔でハイタッチをした。脳内で中島みゆきの「ファイト!」が流れた。戦う君の歌を戦わない奴が笑うだろう。だが、その後、これも違うなと思った。私は男だから、どうしても戦う人間を賛美する傾向がある。しかし、彼らに「頑張れ!戦え!俺も戦う!」と願うことは違うような気がした。その直後、私の脳味噌に黒柳徹子がふわっと降臨をした。

 

本当に凄い人間は戦っていない。ただ、圧倒的にそこに存在している。私は黒柳徹子とか広瀬香美の明るさとかMAYUCHAPAWONICA様の存在感が好きだ。戦う人間からは、どうしても『勝ちたい』とか『認めさせたい』とか『成り上がる』的な野心が滲み出る。しかし、本当に凄い人間が醸し出している空気感は圧倒的な肯定力を帯びる。恨みがない。憎しみもない。あるのは、ただ、生きてここにあることの歓喜とでも言えばいいのだろうか、愛や光を自分自身が体現している。踊りそのものになっている。音楽そのものになっている。そんな感じの印象を受ける。ミュージカルの踊り子に、私は、その日一番の光を見た。終演後、彼女と話をする時間があった。20歳になったばかりの女性だった。私は「あなたは何をやっても絶対にうまくいくと思う」と伝えた。事実その通りに感じた。が、ひとつだけ言い忘れたことがあった。それは「世界に出た方がいい」という思いだった。日本に留まるのではなく、広い世界に出てほしい。もっと自分を膨らませて欲しい。そういうことを彼女に対して思った自分は、また、自分自身に対しても「世界に出ろ」と思っているのだろうな、と思った。

 



乱世に備えて。。。

#あなたは良質の油を摂取しなさい
#お告げをいただく
#無農薬バターとか亜麻仁油とかオリーブオイルとか
#最近調味料に興味あります
#アボカドとかブロッコリーとかアーモンドとか
#カツオもいいよと言われる
#賞与
#アボカドくり抜いて卵を乗せて良質の油で炒めたやつを森で食べたい
#赤身
#プロテインは噛みながら飲めと言われた
#鬱とか気持ちじゃなくて体調の問題
#岡本太郎の沖縄論に感動
#お金以外の価値観で動く人間が好きだ
#損をしてもいい
#そう思える人間と一緒にいたいと思う

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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本音で生きると、毎日がドラマになる。

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京都在住の女性から「長野に行くなら車を出せます!時間の融通もきくので、都合のいい時に一緒に行きましょう」とご連絡をいただいた。よし。という訳で明日から関西に押し寄せする。金曜日まで(長野の)天気が悪いみたいだから、しばらく関西に滞在する予定です。が、予定も宿もなにもない。常に乱世に備えていたい私は「占い師になる」ことを決めた。小生、よくあたると評判のオラクルカードを持っている。これで数億人の命を救ってきた。呼ばれた場所なら何処でも行く、出張型の占い師になりたいと思う。鑑定料金は驚きの0円である。今夜横浜発の高速バスに乗り、明日4日(火)の朝7時過ぎにはなんば駅界隈に到着する。それ以降は死ぬまで何も予定がない。関西在住の方は、是非、お気軽にご連絡をください。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

 

関西に空き地や空き家はあるのだろうか。全国にごちゃまぜの家を作れたらうれしい。誰かに食事をご馳走していただけたらもっとうれしい。無理矢理にでも連れて行きたいおいしい飲食店をご存知の方がいたら、小生、お付き合いをさせていただきます。あたたかな手料理も超絶大歓迎です。「実は行きたいお店があるのだけれどひとりではちょっと」みたいな要望にも応えられるかもしれない。誰か、私の有効な活用法を見出してください。なんでもいいのだ。きっと、俺はなんでもいいのだと思う。移動している時の方が、誰かと話している時の方が、いい感じの風を感じる。逆に言えば「同じ場所にずっといると死ぬ」という致命的な弱点が私にはある。

 

ibaya.hatenablog.com

 

ひとりにならない。

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GOCHAMAZE no IE

 

自分で決めたルールのひとつに『ひとりで抱え込まない』というものがある。悩みや苦しみを自分ひとりで抱え込むと、あっという間に深刻になってドツボにはまって恐怖心に取り憑かれて自滅をする。今、横浜のごちゃまぜの家に内海さんという男性が滞在をしている。内海さんは、過労で仕事を辞めてから貯金を使って生活をしていたが、いよいよ貯金が底を尽きて『山梨県の住み込み労働』に採用されたものの、諸事情により働き続けることができなくなり、金も家もない状態でごちゃまぜの家に来た。こういう時、ひとりきりで生きていると「俺はどうすればいいんだ。お先真っ暗じゃないか!」的な感じになって死にたくなる。が、ごちゃまぜの家の良いところは「とりあえず暇そうな人が何人もいるし、寝る場所と食うものがあるから一旦冷静になれる」ことだと思う。

 

内海さんは「人生、どつぼにはまってしまいました」と半ば自嘲気味に言った。しかし、私は、話を聴きながら「別にどつぼにはまっている訳じゃなくて、ただ、ゼロになっただけだと思う」と思った。仕切り直せばいいだけの話である。ごちゃまぜの家にいたら、もしかしたら「それなら、今、人材を募集しているからよかったらうちで住み込みで働きませんか??」みたいな話が舞い込むかもしれない。あるいは、内海さんと似たような状態の人々が「実は自分も同じ状況で…」なんて悩み相談にくるかもしれない。この瞬間の内海さんなら、そういう人々に親身に寄り添うことができる。無論、ただ単にごちゃまぜの家に遊びに来た人々とも、なんとなく会話を交わすことで「いい感じの風が吹き抜けて心がふわっと軽くなる」なんてことも見込める。ある程度の交流量(ひとの出入り)がある場所に自分を置くと、自分一人では発想することのなかった道を示されることは多い。という訳で、内海さんは次の仕事を探す間、一週間程度ごちゃまぜの家に滞在することになった。

 

誤解されると困るが、ごちゃまぜの家は「支援団体」などではない。困っている人々を救いたいとか力になりたいとか、そういう理念で動いていない。自分たちが面白いと思うことをやっていたら、いつの間にか「結果的に困っている人々も救われていた!」みたいな状態を理想とする。だから、なんとなく興味を持った人々は遠慮なくごちゃまぜの家に遊びに来てください。住所は横浜市港北区富士塚2丁目24-5で、家の鍵は常に空いています。布団の関係で宿泊希望者に限り事前に連絡をもらえたら助かります。ご飯は、多分、ひとりで食べるよりもみんなで食べた方がうまい(ことがある。とかいう自分は、結構、ひとりきりで食べていても最高においしいと感じたりする)。最近、ごちゃまぜの家の各種調味料をすべて一等品に品替えをした。キッチンも常時オープンにしている(台所にある食材は誰でも自由に使えるようになっている)ので、誰か「内海さんに元気になる料理をつくってあげたい!」みたいなことを思ってくださる、優しい方々のご来訪もおまちしております。

 

gochamaze.hatenablog.com

 

本音で生きると、毎日がドラマになる。

若い女性陣には変質者扱いされるが、最近、おばあちゃん達にものすごいモテる。この前も山梨県の大滝神社で湧水をボトルに汲んでいたら、車で来た可愛らしいおばあちゃんが「あらまー!あなた、いい男ね!」と突然声をかけてくれた。話を聞くと、彼女、現在の年齢は79歳だが定年と同時に『家出宣言』をしてから神奈川の自宅に見切りをつけ、山梨の小淵沢に掘っ立て小屋を建てて念願の『一人暮らし』をはじめた。70歳からロッククライミングをはじめたらしく、今も、プロに同行しながら岩肌を登る日々を過ごしているとのこと。血色が凄まじくよかった。彼女は言う。私はドレスも指輪も宝石もいらない。自然があればそれだけでいいの。ロッククライミングって集中力がものすごいのよ。人生であんなに集中したことはないってくらい、集中するの。それがボケ防止には最高なのよ。と。

 

ごちゃまぜの家の活動などをやっていると「どうしてごちゃまぜの家をはじめたのですか?」とか「なにかたどり着きたい目標はなんですか?」とか「これからやりたいと思うことはありますか?」とか、死ぬほど聞かれまくる。私は、正直、どうしてそんなことを聞くのかがわからない。なぜやるのか。もっともらしい理由をつけるのは簡単だが、一番根本にある思いは『やりたいと思ったから』だ。それだけだ。これからを聞かれても困る。これからなんてない。あるのはこの瞬間だけだ。なにかのためにやっているのではなく、これのためにやっているのだ。手段と目的が一致しているのだ。過去と未来が一致をするのだ。瞬間瞬間に湧き上がる「これをやりたい!」に従った結果、いま、この空間が目の前にあるのだ。お前はなにがやりたいのか。人々は聞く。私は思う。これがやりたかったんだ。と。これをやり続けていきたいんだ。こうしなければとかこうであるべきとかそういうことじゃない、瞬間瞬間に湧き上がる「これをやりたい!」に従いながら、これからの日々を生きていきたいのだ。と。一ヶ月後のことは、一ヶ月後の俺に聞いてくれ。十年後のことは、十年後の俺に聞いてくれ。今の俺に聞かれても困る。きっと、今よりももっといい感じのフレッシュな答えを、その時の自分は答えるだろう。と。

 

私は海や川が好きだ。日本を走ると素敵な海や川に遭遇する。しかし、どこも護岸工事で川も海も死につつある。ダムを作ると川が死ぬ。人間も同じだ。安心を求めて金やエネルギーを溜め込む道を我々は選びがちだが、溜め込むことは『死』と同じだ。流れていないと腐るのは水だけじゃない。変化を恐れることは多いが、自然の摂理として「変化をしない方が変だ」ということになる。流れていることが、生命として自然なのだろう。我々は失うことを恐れてなにかを溜め込む。しかし、溜め込むことで不安がなくなるかと言えば、そうではない。流れていること。循環をしていること。巡り続けていること。最近は『本音で生きると、毎日がドラマになる』ことを痛烈に感じている。本音を口にすること、自分の本音を生きることは、精神的なダムを壊す。精神の放流である。瞬間瞬間の「これをやりたい!」に従うことで、世界は素晴らしいドラマを見せてくれる。その先に何が待っているのかは知らない。知らないということは、時に恐ろしいことに見えるかもしれない。しかし、結果のわかりきっている固定的な人生を歩きたいとは思わないように『どうなるかわからないからこそ面白い』という、生きることの醍醐味を思い出させる。

 

 

https://www.instagram.com/p/BepyNMljJb3/

神様は、不必要な人間を作るほど愚かではない。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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何をやっても非難されるのだから、好きなように生きよう。

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男性読者T様から「僕もブランキーやミッシェルが好きです。いきなりステーキをご馳走します!」とご連絡をいただき、東京都王子駅に自転車で向かう。道中、普段はインドに住んでいる女性から「インドのゴアという場所でごちゃまぜの家に使えそうな家があって、今、私は日本に一時帰国中なのですが会えませんか???」とご連絡をいただく。物凄い話だ。が、ちょっとタイミングが合わずお会いするのはまた近々、ということになった。王子駅に到着をする。肉を食う。美味しい。別れ際、T様が「これを使ってください」と寸志を手渡してくれた。ああ、これは『行け』ということだなとぷるぷる震えていた直後、一通のメールが届いた。

 

 

そこには「最新記事を読みました。今夜なら車を出せます。長野に行けます」と書かれていた。時がきた。私は「行きましょう!」と返信をすると同時に下道を高速で駆け抜け、大急ぎで横浜に戻って荷造りをした。ごちゃまぜの家関係者のよしえさんとなかむらさんに「今夜長野行くけど行く!?」と聞くと「行く!」とのこと。素晴らしいフットワークだ。こうして、0泊3日の弾丸長野ツアーがはじまった。目的は『INN THE FOREST』を開店させること。準備不足だろうがなんだろうが「開店しました!」と言えば開店になるのだ。この時の時刻は11月30日22時。頑張れば翌日12月1日にはオープンできる。私の鼓動はいい感じに高まっていた。

 

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祝・INN THE FOREST 開店記念日

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INN THE FORESTの入り口

 

結論から言うと『INN THE FOREST』は2018年12月1日に無事開店をした。利用方法は不明である。場所もまだ公開をしていない。興味のある方は坂爪圭吾と友達になってください。埼玉からハイエースを出してくれたK様が「供託品です」と言ってテント二個とタープと諸々のアウトドアグッズをくれた。これが基盤になった。冬用の寝袋や簡易調理セットや非常食を常備しておける状態になったので、人間ひとりなら夜を越せる。あとは「寝袋の数だけ」宿泊可能な人数は増える。どうやら私やよしえさんは異常に自然が好きなようで、何時間でも森のなかでダラダラしていられる。同行者のなかむらさんは、我々の真横で寒さに凍えていた。湘南育ちのシティボーイであるなかむらさんは、顔面を真っ青にしながら「もうだめです」と痙攣をしていた。

 

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森からの眺め。徐々に整えていきたい。

 

それなりに全国津々浦々を見てきたつもりだが、長野の自然は群を抜いている。長野県民の方々の人柄も最高で、なぜ、長野はこれほどまでに素晴らしいのかを考えた結果「標高だな」と邪推するに至った。母親の胎内で胎児が感じる気圧は標高1,000メートル程度だと聞いた。長野県大町市は標高700メートルあまりで、母親の胎内圧に近づくほど『遠い記憶』が呼び覚まされる。脳味噌が研ぎ澄まされて静謐になる。先日、長野県白馬でJAFにお世話になった際に運転手さんと話が弾んだ。長野の人々は表情が澄んでいる(ような気がする)。JAFの人は「私は長野を出たことがないからわからないのですが、山々に囲まれた閉鎖的な環境で育ったから、長野は内気なひとが多いかもしれませんね」と話した。これを聞いた時、私は「長野は日本のマチュピチュである」と発作的に思った。長野は日本のマヤである。高度な文明(というか人柄)を生み出す、この国のファイナル・ホープだと思った。

 

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マヤ文明に思いを馳せていたら虹が出た。五回くらい出た。

 

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荷物を運ぶ。

 

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また虹が出た。

 

今回は0泊3日の弾丸ツアーとなった。いまは横浜に戻ってきた。が、懲りずに何度も足を運びたい。同行者から「それなら長野にいればいいじゃん!なんで横浜に帰るのよ!?」と問われたが、違う。何度も頻繁に行き来をすることで長野を身近に感じたいという思いがある。ずっと同じ場所にいるより、一旦、その場所を離れた方が「こうした方が面白いかな」とか、鳥瞰的な発想も浮かぶ。無論、交通費はかさむ。どうするのか。私の場合は「誰か一緒に行ってくれる人(交通費や車を出してくださる神様)が登場するたびに、長野県に足を運びまくる」スタイルを採用したいと思っています。完膚なきまでの他力本願ベースになります。誰か長野に一緒に行きませんか。車さえあれば私が運転手役もやります。多分、関東からなら10000円程度で行って帰ってこれるのかなと思うので、たまには「普通の旅行とはちょっと違う、非日常な体験もありかな!」と思ってくださるフットワーク軽めのあなたからのご連絡をお待ちしております。自分の中で決めたルールがある。それは『自分ひとりだけでやらないこと』である。みなさまからのお力を存分にいただきながら、INN THE FORESTを我々の遊び場にしていきたいと思っています。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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森カフェ

 

わたり文庫『超・筋トレが最強のソリューションである』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、Teststerone著作『超・筋トレが最強のソリューションである』です。こちらの本は、森ジムを作りたいと鼻息を荒くしている坂爪圭吾に「それならこれを読めば良い!」と、長野県大町市でお会いした男性T様が譲ってくださった一冊になります。T様は、他にも供託品として腕立てグッズやプロテインクッキーまで我々に与えてくれました。本当にありがとうございます。みなさまのおかげでINN THE FORESTは今日も豊かです。筋トレの素晴らしいところは子育てに似ている。誰だって自分の子供に体に悪いものを食べさせたくはない。その感覚を、自分自身にも抱けるようになる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

死にてぇって思ったら、筋肉を殺そう。- Teststerone『超・筋トレが最強のソリューションである』【文響社

 

何をやっても非難されるのだから、好きなように生きよう。

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眺望


他力本願ばかりではいられない。長野県松本までなら高速バスもある。しかし最近の高速バスは輪行ができない。荷台に自転車を積めないのだ。どうしようか考えた結果「キックボードならいけるんじゃないか!」と思った。最悪の場合は紙袋にキックボードを詰めてバスに乗って長野に通う。ふふふ。精神面は用意周到である。が、私はキックボードを所有していない。もしも「使ってないキックボードあるよ!」という方がおりましたらば、我々の共有財産として一緒に使わせていただけたら最高に幸せです。と、ここまで書きながら「結局お前は他力本願じゃねえか!」と思う自分がいる。YES。それでいいのである。人生とは、どれだけ迷惑をかけずに生きるかではなく『どれだけ楽しい迷惑をかけられるか』である。ただの迷惑は言語道断。しかし、一緒に楽しんでくれる人がいるならば迷惑は遊びになる。

 

この前自転車が壊れた。とある自転車屋さんに持って行ったら「これは修理に多額の費用がかかりますね」と言われた。私はとぼとぼと自転車屋さんを後にした。後日、一縷の希望とともに別の自転車屋さんに行ったら「こんなのすぐになおりますよ」と音速でなおしてくれた。私は感動にむせび泣きながら工藤静香の慟哭を歌った。こういうことってよくあると思う。とりわけ、自分の専門外のことになると「それに詳しいっぽいひとの意見を鵜呑みにしてしまう」弱さが人間にはある。しかし、誰かに無理と言われたからと言って、それが100%無理とは限らないのだ。癌などの場合なら尚更だ。私の愛するムラキテルミさんは、余命半年と宣告された癌を断食療法でなおしている。別にすべてのひとに断食が効くなどと言いたい訳ではないが、最後まで希望を失わなかった人間は、時折、新しい道を見出すことがある。ひとりの人間が見出した新しい道は、他の誰かにとっての希望にもなる。素晴らしい連鎖だと思う。逆に言えば、誰かの「それは無理だよ」は負の連鎖を生み、勇気をくじき、諦めの心を蔓延させる。どちらの道を選ぶか。それは自由だ。私は、できることならば「その手があったか!」を連発する人生を過ごしたい。

 

極論、なにをやっても非難をされるのだ。みんなの意見を聞いていたら、もう、なにもできなくなってしまう。例えば、長野の山々には熊が出る。INN THE FOREST界隈にも出るかもしれない。ここで熊を恐れて投げ出してしまえばすべては泡沫になる。が、ここで人間の知恵が登場する。人生、知恵と勇気で大概のことはどうにかなる。熊よけスプレーを使うのか。頑丈な古屋を建てるのか。それとも、熊と友達になる方法を学ぶのか。無論、勇気を出す過程で死んでしまう人間もいるだろう。私は写真家の星野道夫が大好きだが、星野道夫は熊に殺されてしまった。だが、それはそれで立派な『男の人生』だと思う。人間、死なないために生きている訳じゃない。自分自身に対して過保護になることで、自分の可能性を奪うことがある。自分の可能性を奪うことに慣れてしまった人間は、いつの間にか、無意識に周囲の人間の可能性も奪い去るようになる。私は、熊よりもそちらの方を恐れる。そして自分に言い聞かせる。嫌なことをやって生きるより、好きなことをやって死のうよ。我々の前にある道は、生きるか死ぬかの二択ではない。人生とは、きっと「好きなことをやって死ぬ」か「嫌いなことをやって死ぬか」の二択なのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/Bq3RdOJnvBY/

森ジムを作る。虹を五回くらい見た

「このリスは、そのうち、土にかえるでしょ。やがて、その土から木がのびて、その木の上で新しいリスたちがはねまわるわ。それが、そんなに、悲しいことだって思う?」

「忙しい忙しいって言う人いるじゃない。きっと頑張っているわねって褒めてほしいのよ。だからこう言ってあげたほうがいいわ。時間の使い方が下手ねって。」

「その調子だと、おまえ、すぐにおとなになっちゃうぞ。父さんや母さんみたいな、おとなになるんだ。ごくふつうに見えて、ごくふつうに聞くだけのおとなだ。つまり、なーんにも見ないし、なーんにも聞かないってことだな。とどのつまり、おまえは、なんにもできなくなっちまうんだ。」

「嵐の中にボートを出すばかりが勇気じゃないんだよ。」

ムーミン谷の名言集

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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楽しいことなら、どんどんやりなさい。

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長野県白馬の山中で夜にタイヤが爆発した。JAFを呼ぶにも私は電話をもっていない。進退窮まった。が、どうにかこうにかJAFに電話をしていただける人と出会い、救護の目処がたつ。到着まで二時間弱かかるとのこと。よし。わかった。隙間時間こそ筋トレのチャンス!ということで、腕立て伏せとスクワットを繰り返す。空を見上げると半端ない天の川が広がっていた。タイヤが爆発しなければこの天の川を見ることはなかった。ボディが温まる。筋トレをワンセット終えるたびに服を一枚脱ぐ。いつの間にか、ひとり野球拳がはじまっていた。白馬で上裸になっていた。「やればできるじゃないか!」とニコッとした瞬間、一通のメールが届いた。

 

 

メールには「私は東京在住だが明日車で長野に行こうと思う。あなたと一緒に北アルプスを見たい。会えますか?」と。よしきた。私は「オフコース!なんなら帰り道車に俺を乗せてください」と返信をする。了承を得る。よし。足が見つかった。これで潔くバイクを捨て去ることができる。この日の晩、私は、長野県大町市在住I様の家に向かう予定だった。結果的にJAFのトラックにバイクと一緒に私も乗り、JAFでI様の家に到着した。I様は「まさかこんな形で来るとは思いませんでした」と笑う。私も、まさかこんなことになるとは思っていなかったけれどみんなが面白がってくれるならうれしいなあと思った。バイクは、翌朝、修理に出した。

 

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INN THE FOREST(仮)

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INN THE FOREST(仮)の森ジム

 

今回長野県大町市にきた目的は「自由に使わせていただけるかもしれない土地のお話をいただいたから」になる。昨日、土地の持ち主M様と実際にお会いした。言葉にならないくらい最高のお人柄の持ち主で、男が男に惚れる瞬間はこういう瞬間なのかと思った。M様は言う。ここの土地は自由に使っていいよ。楽しいのが一番だよね。お金とかいらないよ。木とかも好きに切っていいからね。五右衛門風呂とかもいいんじゃない。なんでも自由にやっていいよ。なにか面倒が起こったら「土地の所有者の許可を得ているので」とか、全部俺のせいにしちゃえばいいんだよ。そうすれば逃げられるからね。へへへ。と。うわあ。私は、もう、M様の器を前に完全に降伏してしまった。自由にさせてくれる人の前で、人間は、横柄になることはできない。逆に「死ぬほど大切に使います!」という猛烈に謙虚な気持ちになる。

 

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ここの土地を使って『INN THE FOREST(仮)』をやりたいと思う。泊まれる森。眠れる森。もちろん森ジムも併設する。併設するとか偉そうに言っているけれど、基本、全部素人の手作りだ。木の棒一本ぶらさげて「これがジムです(これは懸垂棒です)」とか言っちゃう感じのクオリティだ。これまで、初対面の人に普段はなにをしているのかと問われる度に辟易していた。自己紹介は死ぬほど苦手だ。が、これからは「ホテルを運営しています。名前はINN THE FORESTと言いまして、目の前に北アルプスが広がる宿泊施設です」とか言える。そうすれば、前向きに勘違いした人々が「うわー!素敵!星野リゾートみたいな感じですか???」などと騙されるだろう。ふふふ。実際はただの森であるというのに。ふふふ。人生の9割はハッタリである。

 

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森で料理。森でテント。森の生活のあれで「森の婚活」とかもやりたい。添付した動画は参考資料(?)で、誰か、こういう暮らしを一緒に作りあげてみたいなどと思ってくれる人はいませんか。私はブッシュクラフト【ブッシュクラフト×森の喫茶店×森ジム×森の図書館】みたいなことをやりたいのだ。小生、土地はあるけどお金がない。これから全部手作りになる。使っていないアウトドア用品があったら譲っていただけたら最高に嬉しいです。斧やノコギリなどもほしい。今、私の肉体は横浜にある。バイクは長野に置いてきた。だから、再びバイクを回収に行かないといけない。誰か「それなら自分も長野の土地を見てみたいから、車を出すから一緒に行こう!」とか言ってくださる方の登場を心からお待ちしております。毎回、人頼みばかりで申し訳ありません。よかったら動画を見てください。誰でも泊まれる、無料の宿泊施設【INN THE FOREST(仮)】を一緒に作りませんか。

 

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連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

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わたり文庫『ヤナの森の生活 ハワイ島の大地に生きる』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ヤナ著作『ヤナの森の生活』です。ハワイ島の大地で、床も壁もないジャングルの中で暮らすフランス人の女性です。ヤナさんとは、数ヶ月前、ハワイ島で迷子になっていたときに奇跡的にお会いすることができました。最高にチャーミングな女性でした。INN THE FOREST(仮)も、ヤナさんのデザインセンスを参考にしながら「女性にも楽しんでいただける」空間にできたら嬉しい。男は家を作る。女は家を整える。そんなチームプレーができたら幸福である。自分のような人間にそんなことってできるのだろうか。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※

 

日本のブラザー&シスター、アロハ!

私がまだ幼かったころ、よく聞かれたことがあります。

「大きくなったら、何になりたい?」

その質問を受けるたびに私は思っていました。

「私は私でありたいわ」

そのころからずっと私は、私らしさを探す旅を続けてきているように思います。

 

心配するのをやめて、どんな世界にくらしたいのかを、想像してください。

イメージしたものを創造してください。

 

ヤナ『ヤナの森の生活 ハワイ島の大地に生きる』【WAVE出版】

 

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楽しいことなら、どんどんやりなさい。

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INN THE FOREST(仮)からの眺望

 

ごちゃまぜの家が経済的存続の危機を迎えたのが今年の9月。全国各地を流転しながら「助けてください!系イベント」をやりまくり、その時に大阪で出会った女性K様が「長野に土地を持っている友達がいます」とご連絡をくれたのが今年の10月。そして実際にM様とお会いさせていただいたのが今年の11月(要するに昨日)。ひとつの危機はひとつの契機となり、毎度、人生は思わぬ展開を見せてくれる。昨日、M様とお会いした際にK様も(はるばる兵庫県から!)長野まで来てくれた。最高に嬉しかった。K様も、M様も、社会的にはいわゆる成功者と呼ばれる方々で、その佇まいからも「酸いも甘いも猛烈に経てきているのだろうなあ」感がすごい。貫禄が違う。全身から余裕が漲っている。宇宙人みたいだなあと思った。

 

K様は著名人の知り合いも多い。K様は言った。経営者なんてみんなきちがいだよ。いい意味でね。0から1をやるひとは頭おかしいんだよ。2代目は綺麗にまとまっている人も多いけど、でも、どこかボーッとしている。1代目は半端ないね。みんな頭がぶっ飛んでいる。と。私は、この言葉を聞いた時になんだか自分の生き方が肯定された気がして「(きちがい業界の)先輩、ありがとうございます!」と思った。自分は自分でいいのだと思った。否、むしろ「自分はもっと自分である必要がある」と思った。M様も、社会的には成功しているのにまったく偉そうな雰囲気がない。私が見る限り、成功しているひとほど謙虚だ。それでいて、決して自慢するような形ではなく「いかに自分は人生を楽しんでいるか」ということを、空気感を通じて伝えてくる。だから、一緒にいるだけでもうれしくなる。同じ時間を過ごすだけでも「自分にも何かをできそうな気持ち」になる。真の成功者には、そんな力がある。私は、そんな圧倒的肯定力こそ「最高だなあ!半端ないなあ!」と思う。

 

車で東京に戻る。送迎車は私と同じ年代の女性I様。I様は山を愛していて、冬は山小屋で働き夏はニュージーランドの山々をトレッキングしながら自然を満喫する。いまはオフシーズンだから家にいることが多いらしく、気分転換に長野に来てくれたのだが「今日は来れて本当によかった!白馬の眺望は最高だったし、坂爪さんにも会えたし、友達も増えて、久しぶりにこんな濃い1日を過ごしました!」と喜んでくれた。これは最高に嬉しいと思った。I様は海外の登山経験は大量にあるが日本は北アルプスあたりだけだと話す。それならば、私も、いまは登山に興味があるから今度一緒に登ろうという話になった。関東ならば丹沢界隈がいまは紅葉のシーズンだ。みんなも行こう。一緒に登ろう。山が好きならば、月に一回と言わず(当たり前のことだけれど)毎日登ってもいいのだ。濃い1日を非日常にするのではなく、毎日を『濃い1日』にしてもいいのだ。金になるとかならないとか、後先のことがどうだとか、そういうことは置いておいて、自分の『好き』に突撃しなさい。楽しいことなら、どんどんやりなさい。一回とか二回とかじゃない。どんどんやるんだ。どんどんやったら、きっと物凄い場所にいけるよ。ここ数日間の日々の中で、私は、神様的なサムシングからそのように言われているように思った。

 

 

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楽しいことなら、どんどんやりなさい。

「何かを信じるために、それが真実かどうかを知る必要はない。」

「あなたを愛してる人達は、あなたが少々かっこ悪くても全く気にしない。」

「一人でいる方法を知ることは大切なこと。みんなと仲良くする方法を知るのも同じくらい大切なこと。」

「ちょっとした自然がありさえすれば、退屈することなんて決してないはず。」

「だいたいにおいて、世界は絶対に素晴らしい。」

ムーミン谷の名言集

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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自分を幸せにする。それ以上の偉業はない。

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朝霧高原を経由して長野県白馬のガストにいる。凍死ギリギリで朝霧温泉にスライディング入店するも「受付は既に終わりました」と無慈悲の雨。とぼとぼと温泉を出る。鼻水が氷柱になるほど寒い。温泉に入る前提でバイクを走らせていたから予定が狂った。このままでは低体温症で死ぬ。温泉がないならば、自分が温泉になるしかない。腕立て伏せとスクワットを繰り返した。体温が戻る。再びバイクを走らせて適当な野営地を探すが、あれ、なんだかこの辺りは雰囲気がおどろおどろしいなあ(野営をするにはこわすぎるなあ)と思ってGoogleマップを開いたら『青木ヶ原樹海』と出た。

 

 

昨夜は長野県木崎湖の湖畔で野営をしたが、寝る直前「熊とかいるのかな」と思ったら気になってしまってWebで検索したら「出る」とのこと。Googleマップを開いたら、今、自分がいる裏の山の名前が『小熊山』というネーミングで「もろやないか!」とビビって逃げることを決める。私は軟弱者なので、まだ、熊などの対処法を知らない。結果的に誰もいない草っ原にテントを張って寝た。朝、目覚めるとあらゆるものが凍り付いていた。真冬の長野県大町市はマイナス20度まで下がることもあるらしい。寒いのが苦手なのはみんな同じだと思うけれど、冬、自然は最高の美しさを見せる。トマトは危機的状況に晒すことで甘みを増すとトマト農家さんに聞いた。私の心のトマトも、甘みを醸し出すことができるだろうか。

 

ibaya.hatenablog.com

 

男は桃太郎。女はきびだんご。

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大滝神社


山梨県北杜市でS様とお会いした。蕎麦をご馳走になった後に珈琲をご馳走になり、大量の手土産までいただいてしまった。手作りの栗のお菓子までいただいた。それを今朝、激烈な寒さの中でむしゃむしゃ食べたら「最高にうまい!」と感動した。ああ、男は桃太郎で女はきびだんごなのだなあと思った。童話桃太郎の真の主人公は桃太郎ではなくきびだんごである。桃太郎は自分の魅力のおかげで仲間が増えたと思っているかもしれないが、犬も猿もキジも「きびだんごに惹かれて」仲間になりたいと思ったのだ。真の主役はきびだんごであり、きびだんごのない桃太郎は『ただのイキっている男性』に過ぎない。きびだんご抜きに鬼退治はできない。

 

人間としての喜びとは別に『男(女)のよろこび』があると思う。私は男なので、野営生活を過ごしていると「過酷だけど楽しい!」みたいな喜びを覚える。が、同じ体験を女性がする必要はないと思う。なんと言えばいいのか、男(女)に生まれた喜びと言うか、男(女)の特権を最大限に活かすと言うか、そういうやり方がある気がするのだ。感覚的な話になるが、私は、女が女でいてくれると「自分も安心して男でいることができる」的なことを思う。私は古いタイプの人間なのか、男は船で女は港的なことを思う。別にすべての男性が船になる必要はないと思うが、自分自身を見ていると「俺は船だな」と思う。だから、女性から家に呼ばれることを「自然だな」と思う。港に立ち寄る的な気持ちになり、安心感を覚えるのだ。

 

この前お会いした女性から「男女の交歓を通じてクンダリーニが上昇してちょっと前までやばかった。頭の裏が常にパッカーン!って開いている感じでエネルギーが廻り続けて常時覚醒、おなかも減らないし眠くもならないのです。食べないと死ぬとか、寝ないと死ぬって嘘でした。性的なエネルギーってすごいですねえ。ところで、坂爪さんはポリネシアンセックスって知っていますか?????」と唐突に問われた。詳細は省くが、いま、断食どころか『不食(食べない人々)』も市民権を得ているし、瞑想だけで筋骨隆々になる人々や、厳冬を真っ裸で乗り越える人々、超能力で雲間から太陽を覗かせる人々など、半端ない人たちは大量にいる。こういう人たちの話を聞くと、究極、なんでもありなんだなあと思う。食べたければ食べればいいのだし、食べたくなければ食べないでもいい。鬼退治に行きたければ鬼退治に行けばいいし、永遠に家でゴロゴロしていたいならば永遠に家でゴロゴロしていればいい。私の人生は「永遠に家でゴロゴロしていたい怠け者タイプの人間だけれども、ゴロゴロしていることにもやがてすぐに飽きるので、それじゃあ鬼退治でもするかと思って屋外に飛び出してみたらと想定外のところからきびだんごが飛び込んでくるこの人生を気に入っている」みたいな状態にある。

 

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峰不二子って『マウント富士子』なのかな…???

 

自分を幸せにする。それ以上の偉業はない。

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精進湖


結婚とはなんだろうと既婚者から問われることが多い。私は未婚者なので全然わからない。結婚とはなんだろう。制度とはなんだろう。人間の三大欲求が食欲・性欲・睡眠欲ならば、神様は『それをしている間は非常に気持ちよくなれる』ように人間を設計した。だがしかし、現代社会では性的なものだけはタブー視されるようになっている。藤子・F・不二雄の短編漫画に『気楽に殺ろうよ』という作品がある。ここでは、性欲は(人類を存続させる公益的性格が強いために)タブー視されることはない。代わりに、食欲は(個体の生存のみに必要な独善的性格が強いために)タブー視をされ、罪深く恥ずかしいこととされる。だから、セックスのシーンなどはおおっぴらにされるが食事のシーンは隠蔽される。漫画に登場するエロ医師は、乱交の代わりに乱「食」の写真を(ポルノの代替として)得意げに自慢をする。この漫画では食欲が『恥』とされるのだ。食欲と性欲。どちらももっとも根源的な欲求であり、これがなければ人類は滅亡するとされてきたものである。が、今、食べないでも平気な人々がでてきた今、色々なものが揺らいでしまっている。

 

短編漫画『気楽に殺ろうよ』の世界観のすごいところは、殺人が社会的に認められているところだ。主人公の青年が「殺人はダメでしょ!命は大事でしょ!」的なことを言う。すると、それを聞いた医者は「生命はなぜ尊重せねばならないか?」と問い返す。この問いに、青年はなにも答えることができなかった。さて、もしもあなたが「生命はなぜ尊重せねばならないのか?」と問われたら、一体全体どのように答えるだろうか。答えられるだろうか。答えられないだろうか。大前提として「命を大事に!」とか「地球を大事に!」と叫ばれて久しい昨今だけれども、なぜ、それを大事にしなければならないのか。なぜ、生命はそこにあるだけで尊いと言うことができるのか。この問いに真っ向勝負でお答えできる人は、果たして、どれだけの数いるのだろうか。

 

私はなんにもわからない。私は正しさを知らない。が、『楽しさ』ならばなんとなく分かる。私は自然が好きだ。だから、自然があると心底嬉しいし、自然が破壊されているのを見ると残念になる。多分、これは趣味の問題である。私は生きたいと思う。だから、殺されたくないなあと思う。完璧に独善的な理由である。同時に、この世の中に「誰かを殺したくてたまらない」人々がいることも薄っすらとわかる。だからこそ、いい感じにまわっていけばいいなあと思う。私は、すべての生命が『いい感じにまわっていく』ことを祈る。時折誰かを憎むことがあったとしても、時折濁ったり淀んだりすることがあったとしても、生きとし生けるものには総じてハッピーな日々を過ごしてもらいたいなあと思う。そのことが、お前が言っていることはただの独善的な理由に過ぎないと揶揄されても結構、自分自身の喜びにつながるのだと思う。

 

 

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永遠にそのままで行け。

「きっと嵐って、朝日が、そのあとにのぼってくるためだけに、あるんじゃないかなあ」

「おだやかな人生なんて、あるわけがないですよ」

「この子、怒ることも、できないのよ…それが、この子の悪いところだわね」

「ほかのものの名前を忘れると、ちょっとやるせなくなります。しかし、自分の名前を忘れるのは、気楽でいいもんです。」

ムーミン谷の名言集

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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不自由と嘆いている自由がここにある。

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静岡県三島のデニーズにいる。名古屋から横浜に戻り、今、原チャに乗り換え再び長野県に向かっている。今月3度目の長野だ。長野県大町市の森に『森ジム』を作るぞと鼻息を荒くして五日、こういうのは場数であると思う。昔、なにかの恋愛本で「好きなひとができたら偶然を装って何回も会え。そうすれば付き合える可能性は格段にあがる。期限は三週間だ」的なことが書いてあり、これに従ったら彼女ができたことがある。以来、人生は『短期的な場数である』と思い込むようになった。

 

 

短期的に死ぬほど執着し、それでもダメなら諦める。今回が最終アタックである。肉体造りのために食べるトレーニングをしていると過去記事で書いたが、諦めた。あれは金銭的に余裕のある人間のやることで、私のような貧者には無理だった。私はアメ車にはなれない。代わりに『死ぬほど燃費のいい人間』になりたいと思う。食事に関する健康法を諸々実践した結果、以下の二つを守ればあとはなんでもいいと思うようになった。ひとつは『よく噛むこと』であり、もうひとつは『食べ過ぎないこと』。この二つを守れば、もう、あとはなんでもいいような気がしている。

 

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自由とは制約である。

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一瞬横浜のごちゃまぜの家に戻った。新規女性入居者M様が増えて賑やかだ。歓迎会と称してしゃぶしゃぶ屋に行った。ごちゃまぜの家には自転車が6台ある。夜のサイクリングと称して、みんなで夜道を自転車で走った。楽しい。よし、みんなで『サイクリング部』を結成しようという流れになる。しゃぶしゃぶが美味すぎて震える。よし、みんなで『しゃ部(しゃぶしゃぶ部)』を結成しようという流れになる。M様は究極の冷え性で、布団の中に電気毛布と湯たんぽがないとダメだと聞く。私は思う。これはチャンスだ。仮に、M様の冷え性が「ごちゃまぜの家に暮らしたことで完治しました!」となったら万々歳。最高だ。管理人の稲村彰人さんも、ごちゃまぜの家に暮らしはじめてから体重を10キロ以上落としている。

 

ibaya.hatenablog.com

 

M様に冷え性の原因を聞くと「多分、筋肉不足だと思う」とのこと。よし、ということで『ビリー部(ビリーズブートキャンプ部)』が結成された。ビリーをやることで肉体改造を行う。これ、是非、みんな騙されたと思って腹筋編だけやってみてほしい。動画がある。道具はいらない。ただ、ビリー隊長の真似をすればいいだけ。1日30分。腹筋はすぐにつくから変化を楽しめる。ビリーをやると「まったく動けない自分」に結構笑える。ダメすぎる自分がおかしくなるのだ。が、やり続けていると「あんなにできなかったあれが、今の自分にはできる!」という感動を覚える。この感動が嬉しい。登山家も言っていた。体はすぐに負荷になれる。人間は慣れの生き物なんだよ。大事なことは「自分が慣れてしまっている習慣が、良い習慣なのか、悪い習慣なのか、それを見極める目を養うことなんだよ」と。

 

sp.nicovideo.jp

 

登山部もやりたい。関東圏なら鍋割山の山頂で名物『鍋焼きうどん』を富士山を眺めながらみんなで食べたい。誰か、一緒に登りませんか。乱世の備えて野外メシを作る練習だけはしている。今日、パスタの代わりにそばを使ってアンチョビそばを作ったら美味かった。オリーブオイルを垂らしまくる。残りの蕎麦湯を使って白菜とかぼちゃのスープを作った。この組み合わせが意外と美味い。野営中は持ち物に限りがある。だから調味料も見極めが必要だ。これが楽しい。自由とは制約である。制約があるから知恵が働くのだ。制約こそ自由。ならば、自らに制約を与えることは遊ぶヒントになると思う。『一週間0円で生きてみる』とか『一週間家に帰らないで転々としてみる』とか。人生を楽しむ知恵は、多分、いくらでもある。

 

 

不自由と嘆いている自由がここにある。

https://www.instagram.com/p/BqDkLOtnemW/


名古屋を自転車で走っていたら轢き殺されかけた。名古屋の運転は荒い。窓から強面の男性が顔を出して「危ねえだろうが!」と叫ぶ。咄嗟に、私は、相手の五億倍くらいの音量で「おめぇじゃろがい!」と言い返した。道中、好きな歌を熱唱しながら自転車を漕いでいたから喉の調子は完全に整っていた。準備万端である。『じゃろがい』という言葉も、大声で叫びやすいグッドワードだ。最悪、相手に殴られたとしても絶対に車のナンバーは暗記してやる、的な覚悟を瞬時に決め、吼え返したら相手は逃げた。まさか、吼え返されるとは思っていなかったのだろう。吼えてよかった。こんな時、吼えずにいたら『自分の内側に怒りや悲しみを溜め込んで、腎臓や肝臓を悪くする』羽目に陥っていたと思う。おかげさまで吼えた直後はルンルンで走ることができた(が、私の名古屋嫌いは決定的なものになった)。

 

前回の記事で「長野に一緒にいけるひとは行きましょう!」と書いたが、結局ひとりぼっちで行く。無茶振りだったのか、なんなのか、こういう募集をしても大概誰も来ない。私に人徳がないのが最大の原因なんだけど、四年間暮らした熱海でもまだ友達がひとりもいない。熱海に戻ったら「熱海から小田原の間で誰か友達になってください!」キャンペーンをしたいと思う。けど、多分、友達なんてできないんだろうな。実際、私は『ひとりでもやる人間が一番強い』と思っている。そういう人間が好きだし、自分がそう言う風に生きていればいつか必ず出会うと思う。友達に。森ジムをやるか否かの判断基準も、仮に、自分一人しか興味を示さないとしてもやるだろうかと己に問い、己が「やる」と答えたからやる。みんなでやろう!とか、自分にはない。私の世界に『みんな』とかいない。ひとりでもやる人間が一番強い。が、それは少しだけさみしい。

 

最近はイエモンばかり聞いているから「吉井さんは俺の友達…」と思うことで自分自身を慰めている。自分の好きな音楽の話を書くと「自分も好きです!」と読者の方から連絡が届く。素直に嬉しい。今度会いましょうねってなる。が、好きなものがあるひとの役割は、群れることより「自分の好きなものを自分の生き様に宿らせる」ことだと思う。好きな言葉があるなら、その言葉の通りに生きること。その先に最高の出会いがあるのだと思う。何かに感動するということは、自分も『そうありたい』と無意識に願うからだ。感動を語り合うより、自分が感動そのものを生きること。本当に素晴らしいものに対して、人は、対抗心のようなものを抱かない。ただただ、その素晴らしさを前に『降伏する』ことの幸福を覚える。誰かを蹴落とすための行為や、さみしさを埋め合わせるための行為に、私は真の魅力を覚えない。闘争心や嫉妬心や競争心【さみしさ】を燃料に生きることは、もう、終わりにしたんだ。私は、あくまでも「自分が思う最上を相手に生きていたい」と思う。自分が思う最上の相手こそ、自分にとっての友達になるのだと思う。

 

 

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夜明け

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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馬鹿のままでいい。馬鹿のままがいい。

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岐阜県多治見のデニーズにいる。県境を超えると「うおー!」となる。今日はイエローモンキーばかりを聞いている。頻繁に思い出す歌詞に『せめて身体だけはキレイに』というものがある。野性を取り戻すだとか獣になるだとか、そういうことをテーマに日々を生きている。しかし、獣になればなろうとするほど、獣になりきれない自分を見る。美女と野獣。多分、一人の人間のなかには両面がある。獣になればなろうとするほど、自分のなかにある美しさを知る。獣のままではいられないし、美しいままでもいられない。その屹立が『人間であること』の証明だと思う。

 

 

どれだけ社会から弾き出されても、身体だけはキレイにしておきたいと思う。そう思うことで、かろうじて人間でいられる気がする。強制収容所無人島に漂着した人々の中で、生存率が高いのは『身だしなみを整え続けた人々』だったと聞く。人間であることを投げ出した時、人間は、人間以外のものになる。そういう話を昨日出会った男性にしたら、彼は言った。昔、どこにでもいるような普通の女の子と付き合っていたことがある。ある日、彼女は『せめて手だけはキレイにしておきたいと思って』と、手の手入れだけは毎日しっかりしているのだと聞かせてくれた。その話が、私にはなんだか物凄いグッときて、彼女がとてもかけがえのないものに思えた。」と。身体をキレイにすること。それは、言い換えれるならば『慈しむ』ということだ。自分自身を慈しむ。祈りにも似ている。人間的な行為だと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

敬虔さを取り戻す。

長野県では複数の登山家と出会った。私は、登山家の雰囲気が好きだ。地に足がついている落ち着き。物腰は柔らかく穏やかだが、言葉のひとつひとつが静謐で深い。巨木と話している感覚になる。ある登山家は言った。私は山が好きだ。山に行くことで自分がひとつの生命体であることを思い出す。森林限界に足を運ぶと、こんな世界もあるのかと厳粛な気持ちになる。しかし、最近は忙しいためにあまり山を登れていない。具体的に次はあの山を登りたいと目指す気持ちもあるが、実際、大事なことは『自分の山を登れているか』どうかだと思う。と。私は、ああ、いいなあと思った。自分の山を登るということ。自分は、自分の山を登れているだろうか。その後、登山家に問われた。坂爪さんは自然が好きなように見える。では、なぜ、自然に足を運ぶのだと思いますか。

 

私はしばらく考えた。自然に足を運ぶことと、本を読むこと、音楽を聞くこと、ひとと話すことは似ている。それは『敬虔さ』を取り戻すことだ。自然の中に足を運ぶと、時折、どうしようもない感動に打ち震えて何も言葉が出てこない瞬間がある。大げさだが『神に触れた』としか形容ができないような瞬間。その時、私は敬虔さを胸に抱く。ひとと話している時も同じだ。いま、自分は魂に触れることができたと思える瞬間の中には、たまらない喜びを覚える。逆に言えば、敬虔さから遠く離れた日々を過ごすと、自分の内側に『驕り』が蓄積する。俺が、俺が、の思考にまみれて、結果つまらない人間になる。競争・優劣・比較などの相対的評価の中でしか自分自身を確認することができない、頼りない矮小な存在になる。目の前にある自然に対するリスペクトを失い、転じて、自分自身に対するリスペクトを失う。慈悲を失う。慈悲のない誇りは傲慢である。そのことを容易に忘れてしまう。

 

私は連絡先を公開している。様々な方々から連絡が届く。頻繁に感じることは「自己受容度の圧倒的低さ」で、これだけ物質的に豊かな日本で健全な自己肯定感を抱けている人間は圧倒的に少ない。なぜだろう。幼少期から、勇気をくじかれるような体験を重ねたからだろうか。なにが人間の勇気をくじくのか。なにが『そのひとが、そのひとであることを阻害する』のか。自身の無さや無価値観は、大きな何かと切り離されている感覚を生む。自然に足を運ぶと、大きな何かとのつながりを取り戻す。何かに対して敬虔な気持ちを抱くとき、自分自身もまた、同じ創造物のひとつであることを知る。自分が尊いように、他のすべても尊いのだ。そう思えた時、ひとは健全な自己肯定感を胸に抱く。が、いま、この世の中ではそれを抱くことがとても難しいことになっている(ように思う)。否、難しいと書いたが「難しいことはない」と思う。ちょっとしか考え方の切り替えで、ひとは簡単に自分【世界】を肯定することができる。では、そのスイッチはどこにあるのだろうか。

 

わたり文庫『はたらく動物と』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、金井真紀著作『はたらく動物と』です。長野県辰野町でお会いした女性Y様から「この本は素晴らしいので、友人に配るために大量に購買したのでわたり文庫にもぜひ!」とお譲りいただいたい一冊です。まだ半分しか読めていないのですが、名著の香りがぷんぷんします。Y様には、その日、辰野町名物『まつくぼ』の爆盛りソースカツ丼もご馳走していただきました。最高だったので辰野町に行く機会があれば是非。ながたの湯の回数券までいただきました。こちらの本をご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな

 

芭蕉先生もそうおっしゃっている。

鵜ががんばってとった鮎を人間サマがかすめとる。それを、やんややんやとはやしたてる鵜舟のお客。愉快な夏の風物詩だ。でも、なぜだろう。はじめはおもしろいんだけど、だんだんかなしくなってくるのである。

 

(中略)

 

どんな人もその人にしかできない経験をしていて、その経験ゆえの物の見方や物語をもっている。わたしは、その断片を拾い集めるのが好きだ。それも教訓めいた立派なものじゃなく、すこし間が抜けているもの、にんまりできるおmの、癖のあるものにひかれる。

 

今回、拾い集めたのは、犬、ニワトリ、馬、そして鵜といったはたらく動物とその周辺に生きる人たちの物語。

 

はたして、鵜はかなしかったのか ー

 

金井真紀『はたらく動物と』【ころから】

 

馬鹿のままでいい。馬鹿のままがいい。

犬の調教師曰く「凶暴な犬も、多くの人に触ってもらうことでおとなしい犬になる」らしい。人間も同じだ。私は男で、女性と抱き合っている時にエネルギーの循環を感じる。よく「エネルギーが充電されるぅ」とか言うが、違う。エネルギーはすでにある。ただ、停滞しているだけだ。抱き合うことでエネルギーが循環する。循環の感覚をいいなと思う。愛するムラキテルミさんのブログを見たら「逆立ちをしたらハゲが治った」的な驚愕の話を聞いた。ハゲに悩む企業の社長さんが、あらゆるハゲ対策を試した結果『要するに頭に血を流せばいいのだ』と思って逆立ちをしながら読書をした結果、毛が生えた。ふさふさである。逆立ちは最高だ。踊りとかもいいのだと思う。自転車移動中、疲れた時に腕をぶんぶん振ると結構元気になる。要するに血流だ。腕も、腰も、人生も、ぶんぶん振り回していくことが大事なのだ。

 

突然だけど今月末に一緒に関東から長野県大町市に行けるひとを募集する。11月28日〜30日のどこかで、目的は「長野県大町市にある土地の件について、実際に大家さんに会って具体的なお話を聞く」というものになる。何度か足を運んだものの、大家さんも非常に忙しい所ジョージさんのような人柄であるためにまだ会えていない。が、この日程なら時間を作ってくださるとのこと。大家さんという呼称だと「堅苦しい人なのか…」って身構えちゃう部分もあるかもしれないけど、恐れるなかれ、半端なくいいひとであること間違いなしです(なんて偉そうに書いてしまって超絶ごめんなさい…!!)。日帰りでもいいし、野営道具などを持参して数日長野に滞在してもいい。理想は車で行けることなのだけれど、いま、ごちゃまぜの家に車はない。誰か「車を出すよ!」とか「レンタカー借りるからみんなでいくか!」とか、フレキシブルに対応できる方がいたらご連絡をいただけましたら超絶うれしいです。人数が集まり次第、日程や待ち合わせ場所を決めていけたらと思います。場合によっては、速攻で『森ジム』作りにはいるかもしれません(インディアンのテントを張って、焚き火をして、とりあえず暮らせるようにしたい)。

 

連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

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これから一応名古屋に向けて自転車を漕ぐが、宿のあてもなにもない。俺はどこに行くのだろうか。一回休むと歩き出すためにエネルギーを要するが、一回、自転車を漕ぎはじめたら野生アゲインである。ゴリラみたいな顔をして自転車を漕ぐと「大概のことは、どうでもいいことだ」みたいな気持ちになる。宿がない。飯がない。金がない。仕事がない。夢がない。目標がない。友達がいない。彼女がいない。社会的信用がない。希望がない。未来が見えない。それがどうした。それがなんだっていうんだ。そんなこと、どうでもいいじゃないか。目の前に壁があるとする。壁を前に嘆くことは簡単だ。しかし、簡単なことに価値はない。壁に落書きをするのも、壁をぶち壊すことに楽しさを覚えるのも、壁をすり抜ける忍術を覚えるのも、生き方はそれぞれの自由だ。今朝、長野を出たときは小雨が降っていた。しかし、現在の岐阜は快晴である。雲間から太陽が覗く。それだけでたまらない開放感に包まれたりする。そんな単純無欠の自分を、いいな、などと思ったりする。

 

 

https://www.instagram.com/p/BqeLo-WHeTZ/

俺はどこに行くんだろう。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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楽しいなら、正しい。

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筋トレも兼ねて、長野県を自転車で移動している。松本駅から走り出して数分後「なんで俺はこんなことをやってるんだろう」と思った。毎回、新しいことをやるときは「もう帰りたい」と何回も思う。引き戻そうとする力が働くのだ。だがしかし、この声に負けてはいけない。こんなことをやっても無駄だよと囁く悪魔の声に対し、私は言う。俺はお前を知っている。お前の声を聞いたら俺はうだつのあがらない人生を送ることになるだろう。しかし、お前の声を突破した先にまだ見たことのない快楽が待っていることを知っている。

 

 

天国と地獄を反復横跳びする日々を過ごしている。長野の紅葉は最高だ。悪魔の声に屈しないで良かった。別に特段用事があるわけではないので、今は、長野県箕輪町で呆然としている。昨夜は大町市在住の方にお世話になり、数週間ぶりに布団で寝た。すごい寝た。今日は、松本駅で合流した方に箕輪まで車で送っていただき、温泉をご馳走になった。今日はどうしようか。野営道具はない。最悪漫画喫茶で寝るが、なんか嫌だ。奇跡が降臨することを待ちながら、いま、みのわ温泉の休憩所で横になりながらこの記事を書いている。筋肉痛が痛い。

 

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プロテイン片手に未来を語り合う。

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長野県大町市でもしかしたら自由に使わせていただけるかもしれない空き地がある。整地されていないため、土地というより完全に森だ。仮に森が与えられたら何をしたら面白いのか。そうだ、森にジムを作るのはどうだろう。最近は筋トレがブームだ。が、ジムには行く気が起こらない。人間、狭いところに押し込まれるとどうしても闘争心や競争心が芽生える。俺の方が筋肉がすごいとか、やわな自分はジムに足を運ぶ資格がないとか。多分、ジムの弱点は「屋内であること」だと思う。私は、風が吹かない場所が嫌いだ。それならば、森にジムを作って『森ジム』とか作ったらどうだろう。最初は懸垂棒一個でもいい。懸垂棒一個(もはや木)しかないのに「ジムです」といえば、そこはジムになる。言ったもの勝ちだ。あとは廃タイヤなどを器用に使えば、手作りのジムを生み出せるかもしれない。鶏も飼ったら素敵だと思う。

 

アラスカの住人は『フルライフ』という言葉を使う。体全体をフルに使って生きる生活を彼等はフルライフと呼ぶ。都会に暮らしていると、頭ばかりを使って嫌な感じの疲労感が溜まる。肉体労働をする機会も少ないから、毎日2〜3割程度の力しか出し切っていない感覚がある。私は、人間全体、肉体全体で生きたいと思う。仮に森が与えられ、野営生活をしながらジムを作ったり渓流釣りをしたり農作業をうんちゃらかんちゃらしていたら、晩飯は酷く美味いものになるだろう。夜もすやすや眠れそうだ。自転車を漕いでいると少しだけ野性味が蘇る。もう漕げない、もう終わりだと思った時にブランキージェットシティの『PUNKY BAD HIP』という曲を流すと踏ん張りが効く。古い世代の奴らは金でなんでも買い漁った。だけど俺たちは自然の掟の中で生きるケダモノの世代さ。となる。

 

もう帰りたいと囁く声に従わないで良かった。長野の自然は格別だし、疲労後の温泉や食事や睡眠も最高だ。登山家の方は「毎回登り始めは、なんでこんなことやってんだろうって思う」と話していた。筋トレも同じだ。最初はやらない言い訳が大量に生まれる。しかし、やった後は確実に「やってよかった!」となる。数日前に会った女性は、極度のカナヅチだったが沖縄の海を泳ぎたいという熱烈な情熱を実現させるべく、大人のスイミングスクールに通ってクロールを覚え、先日久米島の海に潜って素晴らしい写真を撮影してきた。苦手を克服する姿はまじで素晴らしい。仮に、私が自転車を途中で諦めていたら「自転車で走るなんて馬鹿らしいからやめなよ」みたいなことを周囲に言ったりするのだろう。やりきったことのない人間が、周囲にネガティブな情報を振りまきはじめる。やりきった人間は『やりきった感動』を語る。エネルギーの質が異なる。私はやりきった人間が好きだ。感動を語れる人間が好きだ。北アルプスを登りたいと思う。小柄な女性も20キロ近い荷物を背負って山頂を目指す。その姿を、私は猛烈に美しいと思う。

 

森を開墾してジムを作る。森ビルに対抗しない形で「森ジム」を手伝りするのはどうだろう。気温0度。寒いです。 #みんなでプリケツ #北アルプリケツ

 

楽しいなら、正しい。

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去年の今頃、自転車で横浜から長崎まで1800キロ程度走った。なぜ走れたのかは謎だが、長崎に比べたらどこも近距離だなと思える。愚行の良い所【暇人の底力】は、謎の基準を増やせることだ。長野県大町市は寒く明け方は氷点下を記録した。これから岐阜を目指して南下するため、基本的には温かくなる。地獄を経るメリットは『相対的に世界が天国になる』ことだ。この前強盗に拳銃を突きつけられたから、拳銃以外ならもうなんでもいいやみたいにもなる。合言葉は『来た時よりも逞しく』である。昔なら血反吐を吐くほどのダメージを負っていたであろうことに、割と平気でいられる自分を発見した時に「俺って成長したんだな」と思える瞬間は楽しい。

 

楽しいなら、正しい。大町市で一晩お世話になった還暦を迎えたばかりの女性T様は言った。「私には息子が三人いる。親としては、どんな生き方をしてくれても構わないから、楽しそうに生きていて欲しいなあと思う。世間的にどうだとか、ちゃんとするとか、しないとか、そういうことはあまり気にしないでいい。どんな道でも、本人が『それを楽しめているならば』、それは正しい道なのだと思う」と話していた。素晴らしい言葉だ。楽しいなら、正しい。逆に言えば、どれだけ世間的には正しいことをしていたとしても、当人が苦しそうにしているのならばそれはとっても悲しいことだ。自分の体が感じる喜びを大切にすること。私は、私の大好きな人々には「どのような生き方だとしても構わないから、無論、不完全でも構わないから楽しそうに生きていて欲しい」と思う。同じように、自分自身に対しても楽しそうに生きていて欲しいと思う。

 

巷では「遊びで生きてるわけじゃない」などとそれが素晴らしいことのように言う人もいるけれど、私は、遊びで生きててなにが悪いのかがわからない。誤解を恐れずに言えば、私は「面白ければなんでもいい」と思っている。日本各地や世界各国を流転しながら、私は、面白いと思えるものを探している。しかし、最近頻繁に思う。面白いと思えるものなんて、世界にそれほどないのだ。この世で一番面白いもの、それは『自分自身』だ。受け身の自分、お客様である自分、その他大勢の自分であることを乗り越えて、創造する側にまわること。環境とは、自分の中にあるものを引き出す為の要因でしかない。あくまでも、主役は自分である。自分は、これからなにを生み出すのだろうか。自分は、自分に期待をしたいと思う。

 

 

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紅葉の長野を自転車で走る。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分に「いいね!」を出し続ける。

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神奈川県綱島デニーズにいる。ロードバイクを譲り受けたので、メットを買いにブックオフに向かう。中古でも高額で戦慄する。1500円のヤツを見つけたのでレジに並ぶ。行列。横浜。都会。店員のおばちゃんが猛烈なスピードで客をさばく。声は大きいが、声が死んでいる。機械だ。目が客を見ることはない。顔面も陰っている。覇気はない。死臭がする。一体、誰に向かって「ありがとうございました」と言っているのだろう。私は、対面相手からモロにエネルギーを受け取るために、息を止めた。自分の順番だ。私は、小刻みに鼻息を噴射し続けることで「お前の波動を絶対に俺の体内にいれてたまるものか」と抵抗し続けることでことなきを得た。

 

 

バイトリーダーらしき細身のヒョロい眼鏡の男性が「そろそろ休憩まわすからね!いいね!」とイキっていた。私がここで働くとしたら、彼に従わなければならないのだろうか。無理だ。集団で働いている人々を尊敬する。金のため、と割り切ることが自分にはできない。店内では音楽が流れている。私は、J-POP(とかテレビとかラジオ)を聞くと頭がおかしくなる。精神的にレイプをされている気持ちになる。耳が腐る。嫌いな先生の授業中も耳を塞いでいた。最近の流行歌手らしき女性が「出会いと別れを〜♩」と歌っている。私は、おい、このあとに『繰り返し』とかありきたりなことを歌うんじゃねえぞと思った。ら、大音量で「繰り返し〜♬」と流れてきて、ああ、この世の終わりだとか思いながらファックオフを出た。

 

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生きづらいったらありゃしない。

私は新潟高校という比較的進学校を卒業した。同級生で、小学校の先生になった女性がいる。彼女に「学校で一番大事だと教えていることはなに?」と尋ねたら、彼女は、冗談一切抜きで「空気を読むこと」と答えた。私は、率直に言うと「彼女に教えられたこどもたちはかわいそうだな」と思った。これが日本のスタンダードなのだろうか。私の友達にOという男性がいる。Oは、大学卒業後大手企業に就職した。職場の先輩に「どうすれば仕事になれることができますか?」とOは問うた。ら、職場の先輩は「自分を殺すことだよ」と答えた。これが日本のスタンダードなのだろうか。Oは、結局会社に馴染めず三年で辞めた。現在は台湾で会社を経営している。

 

昔から「俺は人間と話をしたいと思っている。だが、人間と話していても『人間と話している』と思えない」と感じることが頻繁にあった。ひとりひとり違う人間のはずなのに、大概、返ってくる言葉は紋切り型の退屈な定型句で、お前は誰かのコピーなのかと突っ込みたくなる。自分の意見を持つことは、多分、日本社会では『死に近くなる』ことを意味するのだろう。自分の意見を持つから生きづらくなる。疑問を抱いた人間から死んでいく。自分を殺して、周囲にあわせて生きることができれば、無駄に悩むことも少なくなる。だから、自分を殺した方が楽になれるよ。という、甘い(?)誘惑はそこらへんに転がっている。この誘惑に「うるせー!黙れ!」と抵抗し続けてきたのが私の33年間であり、だからこそ、たかだか買い物をするだけでもボロボロになる。「生きづらいなあ」などと思ったりする。

 

こんな時こそ筋トレである。健康は資本。体力は資本。私は痩せやすい体質だから、油断をしているとすぐに頬がこけて周囲から「死ぬの?」と心配される。ので、現在は『食べるトレーニング』をしている。1日3食。これが苦しい。太るのだって大変なのだ。が、面白い。カラダは最高のおもちゃになる。カラダで遊ぼう。男性とは筋トレを、女性とは柔軟を一緒にやりたい。スクワットをするとプリケツになることを知った。実際に、半端ないプリケツの女性を見て「プリケツってすごい!」と感動をした。昨日、筋トレ中に悩み相談の電話が来た。私は、スピーカー機能を使って「一緒に逆立ちやりましょう!頭の問題を、頭だけで解決することは無理です!」ということで一緒に遠隔逆立ちセラピー(?)をした。ら、電話相手も「うわー!逆立ちって面白いですね!」と元気になった。悩みに対する処方箋は二種類ある。ひとつは真剣に向き合うこと。ひとつは「問題なんてどうでもよくなるなにかをやること」であり、筋トレは後者だ。生きづらさが吹き飛びます。

 

自分に「いいね!」を出し続ける。 

前回の記事で「所有なんてクソだ!共有の時代だ!」的なことを書いたけれど、小生、譲り受けた自転車を熱烈に愛しはじめてしまった。もう、誰にもこの自転車を使わせてたまるかと思っている。所有を悪いとは思わない。モノを大事にするマインドはプレシャスだ。私は、多分、所有が嫌いなんじゃなくて「モノを大事に扱わない」ことが嫌いなのだ。ごちゃまぜの家を乱雑に扱う人々を見ると「出て行け」と思う。言葉も同じだ。言葉を粗雑に扱うと、自分自身が粗雑になる。そればかりではなく、周囲にソザモスフィア(粗雑なアトモスフィア)を蔓延させる。不機嫌も同じだ。不機嫌なひとがいると、それだけで空気はぶち壊される。ブックオフの店員を見ていたたまれなくなったのは、彼女が日本を象徴しているように見えたからだ。心のない言葉、心のない時間、心のない空間にあふれているように思う。

 

この前会った女性に、社交辞令風味の愛想笑いを感じた。私は「笑顔は好きだけど、その笑顔は嫌いだ」と言った。愛想笑いをしていることがバレていないとでも思っているのか。と。笑顔は好きだ。でも、その笑顔は好きじゃない。何かを取り繕うための笑顔なんだろうけど、その笑顔はお前を傷つけている。笑っているのに、泣いているように見える。自傷行為みたいな笑顔はやめなよ。俺は心からの笑顔が見たいんだよ。笑いたくないのに笑うなよ。笑いたいときだけ笑えよ。そうじゃないと、笑顔が曇る。せっかくの命が枯れ果ててしまう。そのようなことを思った。私は性格が歪んでいるのだろうか、女性と話していると「泣かせたい」とか「怒らせたい」などと思うことは多い。男性に対しても同じだ。なにかを取り繕っているひと、なにかをセーブしているひとを見ると、泣かせるような、怒らせるようなことを言ったりやったりして「おらおらおら。もっとお前を見せてみろよ」みたいなことをやってしまう。相手の懐にサッ!と飛び込んで、一番敏感で柔らかい部分をギュッ!と握る。そこからはじまるコミュニケーションに醍醐味を覚える。

 

誰にも認められなくてもいい。自分だけは「自分っていいなあ!」ってにっこり笑って、自分をまるごと肯定する。そうすれば、毎日は豊かだ。自分なんかに愛されても困るだろうとか、そういうことを考えない。自分を褒め上げ、自分を認め上げ、自分史上最高な自分自身を、惜しげも無くまるごと世界に捧げて生きる。自分に愛されたあなたはラッキーね!と、自分自身に胸を張る。自分の愛に胸を張る。自分の『好き』に胸を張る。巷でよく聞く「自分を愛する」とか「自分を受け入れる」とか、こういうものはゴールではなくスタートなのだ。大前提であり、出発点なのだ。そこから、さて、なにをして遊ぼうかといった感じなのだ。間違っても、自分を愛するために遊ぶとか、自分を受け入れるために遊ぶとか、そういうものではない。良い時も、悪い時も、自分をまるごと肯定する。花に水をやるように、自分に「いいね!」を出し続ける。そうすれば育つ。いつの日か、でかい愛が育っていることに気付く。騙されたと思ってやってみよう。自分をまるごと肯定する。自分に「いいね!」を出し続けよう。そうすれば育つ。たわわな愛が実るのである。

 

 

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自然に憧れている。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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