いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分に「いいね!」を出し続ける。

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神奈川県綱島デニーズにいる。ロードバイクを譲り受けたので、メットを買いにブックオフに向かう。中古でも高額で戦慄する。1500円のヤツを見つけたのでレジに並ぶ。行列。横浜。都会。店員のおばちゃんが猛烈なスピードで客をさばく。声は大きいが、声が死んでいる。機械だ。目が客を見ることはない。顔面も陰っている。覇気はない。死臭がする。一体、誰に向かって「ありがとうございました」と言っているのだろう。私は、対面相手からモロにエネルギーを受け取るために、息を止めた。自分の順番だ。私は、小刻みに鼻息を噴射し続けることで「お前の波動を絶対に俺の体内にいれてたまるものか」と抵抗し続けることでことなきを得た。

 

 

バイトリーダーらしき細身のヒョロい眼鏡の男性が「そろそろ休憩まわすからね!いいね!」とイキっていた。私がここで働くとしたら、彼に従わなければならないのだろうか。無理だ。集団で働いている人々を尊敬する。金のため、と割り切ることが自分にはできない。店内では音楽が流れている。私は、J-POP(とかテレビとかラジオ)を聞くと頭がおかしくなる。精神的にレイプをされている気持ちになる。耳が腐る。嫌いな先生の授業中も耳を塞いでいた。最近の流行歌手らしき女性が「出会いと別れを〜♩」と歌っている。私は、おい、このあとに『繰り返し』とかありきたりなことを歌うんじゃねえぞと思った。ら、大音量で「繰り返し〜♬」と流れてきて、ああ、この世の終わりだとか思いながらファックオフを出た。

 

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生きづらいったらありゃしない。

私は新潟高校という比較的進学校を卒業した。同級生で、小学校の先生になった女性がいる。彼女に「学校で一番大事だと教えていることはなに?」と尋ねたら、彼女は、冗談一切抜きで「空気を読むこと」と答えた。私は、率直に言うと「彼女に教えられたこどもたちはかわいそうだな」と思った。これが日本のスタンダードなのだろうか。私の友達にOという男性がいる。Oは、大学卒業後大手企業に就職した。職場の先輩に「どうすれば仕事になれることができますか?」とOは問うた。ら、職場の先輩は「自分を殺すことだよ」と答えた。これが日本のスタンダードなのだろうか。Oは、結局会社に馴染めず三年で辞めた。現在は台湾で会社を経営している。

 

昔から「俺は人間と話をしたいと思っている。だが、人間と話していても『人間と話している』と思えない」と感じることが頻繁にあった。ひとりひとり違う人間のはずなのに、大概、返ってくる言葉は紋切り型の退屈な定型句で、お前は誰かのコピーなのかと突っ込みたくなる。自分の意見を持つことは、多分、日本社会では『死に近くなる』ことを意味するのだろう。自分の意見を持つから生きづらくなる。疑問を抱いた人間から死んでいく。自分を殺して、周囲にあわせて生きることができれば、無駄に悩むことも少なくなる。だから、自分を殺した方が楽になれるよ。という、甘い(?)誘惑はそこらへんに転がっている。この誘惑に「うるせー!黙れ!」と抵抗し続けてきたのが私の33年間であり、だからこそ、たかだか買い物をするだけでもボロボロになる。「生きづらいなあ」などと思ったりする。

 

こんな時こそ筋トレである。健康は資本。体力は資本。私は痩せやすい体質だから、油断をしているとすぐに頬がこけて周囲から「死ぬの?」と心配される。ので、現在は『食べるトレーニング』をしている。1日3食。これが苦しい。太るのだって大変なのだ。が、面白い。カラダは最高のおもちゃになる。カラダで遊ぼう。男性とは筋トレを、女性とは柔軟を一緒にやりたい。スクワットをするとプリケツになることを知った。実際に、半端ないプリケツの女性を見て「プリケツってすごい!」と感動をした。昨日、筋トレ中に悩み相談の電話が来た。私は、スピーカー機能を使って「一緒に逆立ちやりましょう!頭の問題を、頭だけで解決することは無理です!」ということで一緒に遠隔逆立ちセラピー(?)をした。ら、電話相手も「うわー!逆立ちって面白いですね!」と元気になった。悩みに対する処方箋は二種類ある。ひとつは真剣に向き合うこと。ひとつは「問題なんてどうでもよくなるなにかをやること」であり、筋トレは後者だ。生きづらさが吹き飛びます。

 

自分に「いいね!」を出し続ける。 

前回の記事で「所有なんてクソだ!共有の時代だ!」的なことを書いたけれど、小生、譲り受けた自転車を熱烈に愛しはじめてしまった。もう、誰にもこの自転車を使わせてたまるかと思っている。所有を悪いとは思わない。モノを大事にするマインドはプレシャスだ。私は、多分、所有が嫌いなんじゃなくて「モノを大事に扱わない」ことが嫌いなのだ。ごちゃまぜの家を乱雑に扱う人々を見ると「出て行け」と思う。言葉も同じだ。言葉を粗雑に扱うと、自分自身が粗雑になる。そればかりではなく、周囲にソザモスフィア(粗雑なアトモスフィア)を蔓延させる。不機嫌も同じだ。不機嫌なひとがいると、それだけで空気はぶち壊される。ブックオフの店員を見ていたたまれなくなったのは、彼女が日本を象徴しているように見えたからだ。心のない言葉、心のない時間、心のない空間にあふれているように思う。

 

この前会った女性に、社交辞令風味の愛想笑いを感じた。私は「笑顔は好きだけど、その笑顔は嫌いだ」と言った。愛想笑いをしていることがバレていないとでも思っているのか。と。笑顔は好きだ。でも、その笑顔は好きじゃない。何かを取り繕うための笑顔なんだろうけど、その笑顔はお前を傷つけている。笑っているのに、泣いているように見える。自傷行為みたいな笑顔はやめなよ。俺は心からの笑顔が見たいんだよ。笑いたくないのに笑うなよ。笑いたいときだけ笑えよ。そうじゃないと、笑顔が曇る。せっかくの命が枯れ果ててしまう。そのようなことを思った。私は性格が歪んでいるのだろうか、女性と話していると「泣かせたい」とか「怒らせたい」などと思うことは多い。男性に対しても同じだ。なにかを取り繕っているひと、なにかをセーブしているひとを見ると、泣かせるような、怒らせるようなことを言ったりやったりして「おらおらおら。もっとお前を見せてみろよ」みたいなことをやってしまう。相手の懐にサッ!と飛び込んで、一番敏感で柔らかい部分をギュッ!と握る。そこからはじまるコミュニケーションに醍醐味を覚える。

 

誰にも認められなくてもいい。自分だけは「自分っていいなあ!」ってにっこり笑って、自分をまるごと肯定する。そうすれば、毎日は豊かだ。自分なんかに愛されても困るだろうとか、そういうことを考えない。自分を褒め上げ、自分を認め上げ、自分史上最高な自分自身を、惜しげも無くまるごと世界に捧げて生きる。自分に愛されたあなたはラッキーね!と、自分自身に胸を張る。自分の愛に胸を張る。自分の『好き』に胸を張る。巷でよく聞く「自分を愛する」とか「自分を受け入れる」とか、こういうものはゴールではなくスタートなのだ。大前提であり、出発点なのだ。そこから、さて、なにをして遊ぼうかといった感じなのだ。間違っても、自分を愛するために遊ぶとか、自分を受け入れるために遊ぶとか、そういうものではない。良い時も、悪い時も、自分をまるごと肯定する。花に水をやるように、自分に「いいね!」を出し続ける。そうすれば育つ。いつの日か、でかい愛が育っていることに気付く。騙されたと思ってやってみよう。自分をまるごと肯定する。自分に「いいね!」を出し続けよう。そうすれば育つ。たわわな愛が実るのである。

 

 

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自然に憧れている。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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