京都府丸太町のガストにいる。昨日は漫画喫茶で眠った。誰でも無料で立ち寄れる『ごちゃまぜの家』という活動(?)をやっているが、やはり、時折ひとりになりたいと思う。冬の京都は底冷えが凄い。誰もいない夜の街中を歩きながら「誰でも無料で立ち寄れる家とかあったらなあ。そうすれば俺も眠れるのになあ」などと思った。しかし、冷静に考えると「それはまさに俺がやっていることじゃないか」と思った。なんという自己矛盾だろう。俺はなにをやっているのだろうかと思った。
道に迷った時は、損得勘定じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年12月8日
自暴自棄にはならないこと。勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
自分の聖性に忠実でありたい。 - いばや通信 https://t.co/QTO6mXlm3f
昨夜、京都の八瀬で『カンタ!ティモール』という自主制作映画を見た。東ティモールはインドネシア軍の侵略によって国民の三人に一人が殺される大虐殺を受けた。が、ティモールの人々は報復する代わりに円陣を作り、肩を組み、団結を誓い、歌を歌い、踊りを踊った。闘うとはどういうことか。この問いに対する東ティモールの人々の答えは、武器を取ることでもなければ報復を誓うことでもなく『連帯する』ことだった。それにより、三十年近い虐殺の日々の果てに、東ティモールは奇跡とも呼ばれる独立を果たした。彼らは言う。愛する人々を喪った悲しみは消えないが、怒りはない。敵を恨む気持ちはもうない。死は犠牲だったのだ。と。
金ってなんだ。
東ティモール沖には油田がある。それを巡って戦争が起こる。要するに金の問題で、利権欲しさに戦争が起きる。というロジックがある。なるほど、言われてみれば確かにそうなのかもしれない。戦争反対論者は言う。人生は金じゃない。だから、いますぐ戦争をやめるべきだ。と。しかし、私は思う。戦争をやめるべきなのは、なにも政治家だけの仕事じゃない。私たちひとりひとりが戦争をやめなければ、なにも変わらないだろう。無論、今の日本で実際に血を流すような争いはない。が、金のために嫌な仕事もやらなければならないとか、売りたくもないものを売らなければならないとか、過労になったり(戦死者を超える数の)自殺者がいる状態は、新種の戦争だと思う。金に生き、金に殺される人間は少なくはない。
金ってなんだ。頻繁に思う。お金じゃないよね的な活動をしている人々は年々増えている。が、彼らも「人生は金じゃない」と言う半面で「金がなければこの活動を続けていけない」という葛藤に苦しむ。結果、活動を継続するために金を求める。金じゃない!ということを訴える活動に参加費が必要になり、金じゃない!ということを訴えている空間で自然素材の商品やフェアトレードのなにかを有料で売る。結局、金が生命線になっている。不思議だし、矛盾だし、仕方がないのかなとも思う。多分、私たちは金に変わる『新しい価値』を求めているのだと思う。しかし、その『新しい価値』がなんなのかを知る人は少ない。だから、口先では「金じゃない」などと言いながらも、活動のため、生活のため、生きるために『嫌なことでも嫌々やらなければならない』世界を抜け出すことができない。結果、戦争は続く。
誤解されると困るが、私は金を否定したいわけでも人間の欲望を否定したい訳でもない。空海は「小欲より大欲。小我より大我」的なことを言っている。人間、我欲を捨て去ることはできない。だからこそ、どうせならば「小さい欲望よりも大きな欲望を、世界を変えてしまうくらいの欲望【大我】を抱け」的な意味合いなのだと私は解釈をしている。映画を見ながら、私は、裸足で生きるスラムのこどもたちの凛々と輝く瞳に胸を打たれた。大人も、子供も、非常にいい顔をしていた。表情全体から「生きている」ことの躍動が伝わってくる。私は、キャリアとかセルフブランディングとか自己投資などという言葉が嫌いだ。自分のことしか考えていない器量の狭さ、不潔さ、ケチ臭さを感じるからだ。私は、なぜ、ごちゃまぜの家をやっているのだろうか。私は、自分という概念を拡張したいのかもしれないと思った。
本日はカレー目当てに坂爪圭吾さん(@KeigoSakatsume )達が開いているごちゃまぜの家にお邪魔してまいりました。カレーは美味しく家は心地よく、とても久しぶりに畳の上でゴロゴロして和のパワーをチャージ。大好きな祖母の家みたい。この世界に在り続けて欲しい場所です。
— モスクワカヌ (@mosukuwakanu) 2018年12月9日
「we never close」 pic.twitter.com/538BUoZL99
わたり文庫『いま、生きる力』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、岡本敏子著作『いま、生きる力』です。好きな女性のタイプを聞かれたら、これからは「岡本敏子さんです!」って胸を張って言いたい。男は女をけしかける。女は男をけしかける。結果、世界が豊かに膨れ上がる。こんなにも素敵な女性が過去の日本に生きていたということは、もう、希望でしかないと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、三重県にわたりました ※※※
みんな自分を輝かしたい。ぼくは、私は、もっともっと凄い力を秘めているのに、誰もわかってくれない、と密かに口惜しい思いを噛みしめている。
ならば、うじうじしていないで、そのように振る舞うべきよ。
平気じゃないの。誰に遠慮しているの?
小さいときからまわりを見て、みんなから外れないように、周囲の人たちと同じように、合わせてゆくことばかり強制される。人と違うことを言ったりやったりすると、それだけでハグレ者。ノーマルに世の中を渡ってゆけない落ちこぼれと扱われてしまう。親も先生も何とかして“マトモ”にしようと躍起になるし、友達からはイジメにあう。イジメの悲惨さに耐えかねて、自殺してしまうこもあとを絶たない。
でも考えてみてください。
あせらず、あわてず、たのしんで。
京都にいるが、特段何もすることはない。いつものように呆然としていたら、大阪在住の女性から「私の代わりに久高島に行きませんか?交通費を出します!」という稀有なご要望をいただいた。坂爪圭吾の新しい使い方発見!だなあ。早速「是非!」と快諾をした。小生、数日後には沖縄にいるかもしれない。相変わらず、日々がとっ散らかっている。前回の記事で「ごちゃまぜの家をやりたい人がいたらご連絡ください!」などと自分から言っておきながら、連絡がきたらきたで「返信するのが億劫だ…面倒くさい…」などと自爆している。私はなにをやりたいのだろうか。時折、自分で自分がわからなくなる。一番面倒くさいのは自分だと思う。
メールよりもリアルに限る。先日、大阪であった女性が「坂爪さんに連絡するのは死ぬほど恐怖もあったのですが、前に『1日1F(1日に一回怖いこと【FEAR】をやる)』って坂爪さんが言ってて、よし、このタイミングしかないと思って連絡しました!」と話してくれた。素晴らしい意気込みだと思う。人間の気骨に触れると嬉しくなる。不思議な感覚だが、最近、初対面の人と会っても初対面だと感じない。初対面なのは最初の1秒くらいで、10秒以上一緒にいれば「もはや旧知の仲」みたいになる。人間は細胞分裂を繰り返していて、1秒前とは(それこそ細胞レベルでは)生まれ変わっている。だから、初対面だとしてもこのように感じることは別に変ではないのだろう。誰に会っても、最初の数秒間でだいたいわかる。あとはもう、すぐに(会話が盛り上がるかどうかは別として)旧知の仲になれる。
大阪で会った女性は言った。前に、坂爪さんがツイキャスで『よろしく浸ってんじゃねえよ理論』の話をしていて、ああ、私はすぐに自分の失敗とか弱さに浸ってしまってうじうじしちゃうタイプの人間だから、すごく刺さるし痛いなあって思いました。と。これを聞いた時は「俺って結構いいことを言っているんだなあ!あほだなあ!」って感動した。うきうきした。冬になり、どうしても寒さでカラダは閉じがちになる。しかし、寒さによろしく浸っている場合ではない。今日も、これといって予定はないけど折り畳み自転車を持ってきたから京都を散策したいと思う。夜はまた、漫画喫茶にでも行くのだろうか。どこでもいい。東ティモールの人から見たら、屋根があるだけで天国だ。感謝である。ありがとうございます。あせらず、あわてず、たのしんで。どうなるかわからない人生を、楽しんでいきたいと思う。
人間関係において「嫌われないこと」とか「不快感を与えないこと」を最優先にしてはいけないのだと思う。優しさは大事だ。思いやりも大事だ。でも、それ以上に大事なことは「自分の思いを伝えること」だと思う。他人軸を続けていると、自分の本音を見失う。誰のために生きているのかが分からなくなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年3月13日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu