いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

不自由と嘆いている自由がここにある。

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静岡県三島のデニーズにいる。名古屋から横浜に戻り、今、原チャに乗り換え再び長野県に向かっている。今月3度目の長野だ。長野県大町市の森に『森ジム』を作るぞと鼻息を荒くして五日、こういうのは場数であると思う。昔、なにかの恋愛本で「好きなひとができたら偶然を装って何回も会え。そうすれば付き合える可能性は格段にあがる。期限は三週間だ」的なことが書いてあり、これに従ったら彼女ができたことがある。以来、人生は『短期的な場数である』と思い込むようになった。

 

 

短期的に死ぬほど執着し、それでもダメなら諦める。今回が最終アタックである。肉体造りのために食べるトレーニングをしていると過去記事で書いたが、諦めた。あれは金銭的に余裕のある人間のやることで、私のような貧者には無理だった。私はアメ車にはなれない。代わりに『死ぬほど燃費のいい人間』になりたいと思う。食事に関する健康法を諸々実践した結果、以下の二つを守ればあとはなんでもいいと思うようになった。ひとつは『よく噛むこと』であり、もうひとつは『食べ過ぎないこと』。この二つを守れば、もう、あとはなんでもいいような気がしている。

 

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自由とは制約である。

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一瞬横浜のごちゃまぜの家に戻った。新規女性入居者M様が増えて賑やかだ。歓迎会と称してしゃぶしゃぶ屋に行った。ごちゃまぜの家には自転車が6台ある。夜のサイクリングと称して、みんなで夜道を自転車で走った。楽しい。よし、みんなで『サイクリング部』を結成しようという流れになる。しゃぶしゃぶが美味すぎて震える。よし、みんなで『しゃ部(しゃぶしゃぶ部)』を結成しようという流れになる。M様は究極の冷え性で、布団の中に電気毛布と湯たんぽがないとダメだと聞く。私は思う。これはチャンスだ。仮に、M様の冷え性が「ごちゃまぜの家に暮らしたことで完治しました!」となったら万々歳。最高だ。管理人の稲村彰人さんも、ごちゃまぜの家に暮らしはじめてから体重を10キロ以上落としている。

 

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M様に冷え性の原因を聞くと「多分、筋肉不足だと思う」とのこと。よし、ということで『ビリー部(ビリーズブートキャンプ部)』が結成された。ビリーをやることで肉体改造を行う。これ、是非、みんな騙されたと思って腹筋編だけやってみてほしい。動画がある。道具はいらない。ただ、ビリー隊長の真似をすればいいだけ。1日30分。腹筋はすぐにつくから変化を楽しめる。ビリーをやると「まったく動けない自分」に結構笑える。ダメすぎる自分がおかしくなるのだ。が、やり続けていると「あんなにできなかったあれが、今の自分にはできる!」という感動を覚える。この感動が嬉しい。登山家も言っていた。体はすぐに負荷になれる。人間は慣れの生き物なんだよ。大事なことは「自分が慣れてしまっている習慣が、良い習慣なのか、悪い習慣なのか、それを見極める目を養うことなんだよ」と。

 

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登山部もやりたい。関東圏なら鍋割山の山頂で名物『鍋焼きうどん』を富士山を眺めながらみんなで食べたい。誰か、一緒に登りませんか。乱世の備えて野外メシを作る練習だけはしている。今日、パスタの代わりにそばを使ってアンチョビそばを作ったら美味かった。オリーブオイルを垂らしまくる。残りの蕎麦湯を使って白菜とかぼちゃのスープを作った。この組み合わせが意外と美味い。野営中は持ち物に限りがある。だから調味料も見極めが必要だ。これが楽しい。自由とは制約である。制約があるから知恵が働くのだ。制約こそ自由。ならば、自らに制約を与えることは遊ぶヒントになると思う。『一週間0円で生きてみる』とか『一週間家に帰らないで転々としてみる』とか。人生を楽しむ知恵は、多分、いくらでもある。

 

 

不自由と嘆いている自由がここにある。

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名古屋を自転車で走っていたら轢き殺されかけた。名古屋の運転は荒い。窓から強面の男性が顔を出して「危ねえだろうが!」と叫ぶ。咄嗟に、私は、相手の五億倍くらいの音量で「おめぇじゃろがい!」と言い返した。道中、好きな歌を熱唱しながら自転車を漕いでいたから喉の調子は完全に整っていた。準備万端である。『じゃろがい』という言葉も、大声で叫びやすいグッドワードだ。最悪、相手に殴られたとしても絶対に車のナンバーは暗記してやる、的な覚悟を瞬時に決め、吼え返したら相手は逃げた。まさか、吼え返されるとは思っていなかったのだろう。吼えてよかった。こんな時、吼えずにいたら『自分の内側に怒りや悲しみを溜め込んで、腎臓や肝臓を悪くする』羽目に陥っていたと思う。おかげさまで吼えた直後はルンルンで走ることができた(が、私の名古屋嫌いは決定的なものになった)。

 

前回の記事で「長野に一緒にいけるひとは行きましょう!」と書いたが、結局ひとりぼっちで行く。無茶振りだったのか、なんなのか、こういう募集をしても大概誰も来ない。私に人徳がないのが最大の原因なんだけど、四年間暮らした熱海でもまだ友達がひとりもいない。熱海に戻ったら「熱海から小田原の間で誰か友達になってください!」キャンペーンをしたいと思う。けど、多分、友達なんてできないんだろうな。実際、私は『ひとりでもやる人間が一番強い』と思っている。そういう人間が好きだし、自分がそう言う風に生きていればいつか必ず出会うと思う。友達に。森ジムをやるか否かの判断基準も、仮に、自分一人しか興味を示さないとしてもやるだろうかと己に問い、己が「やる」と答えたからやる。みんなでやろう!とか、自分にはない。私の世界に『みんな』とかいない。ひとりでもやる人間が一番強い。が、それは少しだけさみしい。

 

最近はイエモンばかり聞いているから「吉井さんは俺の友達…」と思うことで自分自身を慰めている。自分の好きな音楽の話を書くと「自分も好きです!」と読者の方から連絡が届く。素直に嬉しい。今度会いましょうねってなる。が、好きなものがあるひとの役割は、群れることより「自分の好きなものを自分の生き様に宿らせる」ことだと思う。好きな言葉があるなら、その言葉の通りに生きること。その先に最高の出会いがあるのだと思う。何かに感動するということは、自分も『そうありたい』と無意識に願うからだ。感動を語り合うより、自分が感動そのものを生きること。本当に素晴らしいものに対して、人は、対抗心のようなものを抱かない。ただただ、その素晴らしさを前に『降伏する』ことの幸福を覚える。誰かを蹴落とすための行為や、さみしさを埋め合わせるための行為に、私は真の魅力を覚えない。闘争心や嫉妬心や競争心【さみしさ】を燃料に生きることは、もう、終わりにしたんだ。私は、あくまでも「自分が思う最上を相手に生きていたい」と思う。自分が思う最上の相手こそ、自分にとっての友達になるのだと思う。

 

 

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夜明け

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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