いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

来た時よりも『逞しく』

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初日の段階で7回くらい「もう帰ろう」と思った。夜の峠が極寒だったり、道路が渋滞していたり、忘れものを思い出したり。だがしかし、私は私に言い聞かせる。俺はこいつを知っている。新しい世界に向かう時、必ず、古い世界に引き戻そうとする力が働く。そんなことをやってなんになるとか、家でゆっくりしていた方がいいとか、特別なことをやらなくても平々凡々な日々でいいじゃないかとか。7回。7回。7回だ。7回「こういう感じの引き戻す声」を振り払うことができた先に、新しい世界、新しい愉悦がある。

 

 

埼玉県の秩父にある武甲温泉に突撃した。峠越えで身体は芯から冷えた。寒いと最初は笑っちゃう。そして、最終的に固まる。途中、道を間違えたりしながら極寒の夜道を走ること二時間、その直後にどぼんした温泉は最高だった。じゅわあと身体が温まる。寒いのは嫌いだが、寒さを経由した温もりは大好きだ。空腹は嫌いだが、空腹時のおかゆが大好きなのと似ている。温泉客を見渡す。ちっぽけな優越感に酔う。いま、ここに大勢の男性衆が温泉にはいっているが、自分ほど気持ちよく温泉にはいれている人間はおるまい。そう思うことで、私は、優越感を獲得する。

 

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世界をぼくらの遊び場に。

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野営。軽量化のため、ハンモックに眠る。


長野は寒い。天気予報を見ると明け方の気温は3度とある。昨夜、夜の峠越えをしながら「これで3度なのかな!」とか思っていたが、道路上にあった温度計を見ると12度と出ていた。まじか。この寒さで12度か。3度だったら凍傷になるんじゃないのかと怯えた。数年前の1月頃、生まれてはじめてマレーシアに足を運ぶ直前に、インターネットで現地の天気予報を見たら『35度』と出ていてビビったことを思い出した。一体、どんな格好をしていけばいいのかわからなくて怯えた。が、実際に現地に行って見たら「意外とどうにかなる」ことがわかった。この、意外とどうにかなると実感した出来事のひとつひとつが、生きる知恵、大胆に生きる勇気や度胸になるのかもしれない。

 

2030年頃には、認知症保有する金融資産が200兆円を突破する見込みらしい。現実味のないほどの金額だ。私はこれから長野県佐久市大町市にある空き家&空き地に向かう。日本には空き地や空き家が年々増えている(らしい)。連絡をくださった女性はこう言った。使われていない土地や建物、車、工場、倉庫、その他もろもろ。寂しいなあと泣いている感じがします。ろくに掃除もしてもらえないし、温めてももらえないし。日本は高齢化が進んで、遊休資産がどんどん増えてくると思います。現金でさえ、認知症になると引き出せない。使えない。持つことにこだわらず、使ってあげるって大事だと思います。そんなんで坂爪さんのされていることを、すごく興味を持って見ています。と。

 

私の実家は新潟にある。所有者は父親だ。しかし、仮に父親から「この家をお前にあげるよ」と言われても、私はおそらく断るだろう。感覚的に、我々の世代は所有すること(維持費・固定費・各種メンテナンス費用)の恐ろしさ・面倒臭さ・不自由さを知っている。 こうなると、資産が本当に資産なのか、自由を奪う邪魔者【負債】なのかがわからなくなる。これまでの時代は「競って奪い合う」世の中だったが、これからは「競って与え合う」世の中になるのかもしれない。なぜならば、もてあますことは余裕ではなく負担だからだ。空き地や空き家活用に関して、私のような人間は社会的信頼が足りない。だから、空き家や空き地の所有者からして見ても「なんだお前は」となる。では、行政がやればいいのか。多分、ダメだと思う。行政や役所に信頼性はあるのかもしれないが、確実に足りていないものがある。それは『エッジ』だ。ここに矛盾が生まれる。新しいことを成すにはエッジが必要だが、尖るほどに信頼性を失う。行政とエッジを持った人間が手を組めば最高なのかもしれないが、おそらく、そんな時は来ないだろう。だから、私は『個』として動く。

 

【動画】坂爪圭吾 - 明日28日(日)@長野県予告動画

 

来た時よりも『逞しく』

いま、考えていることは「日本中の空き家と空き地を活用して、たとえば月額10000円のメンバーみたいなのを募って、メンバーは全国にある家や土地を横断的に自由に使うことができる」みたいな状態を作ることだ。家賃は家計を圧迫する。仮に月額10000円で家に困ることはないとすれば、とりわけ若者たちは、より一層大胆に人生を歩めるように思う。これはまだ構想段階。やりながら理想の着地点を見出していきたい。ハワイ計画が夢に終わったことは前回の記事に書いたが、ベトナムホイアンエストニアのタリン、アラスカのアンカレッジとかにも家があったら幅はグン!と広がるだろう。先日、バイクが寒すぎて中古屋で分厚い真っ赤なセーターを500円で買った。私は中古屋が好きだ。単に金がないだけだが、自分には中古品で充分だと感じる。誰かが使わなくなったものを、自分なりのスタイルで活用するセンスを研磨すること。そこに楽しさやよろこびを見出す人間だ。

 

『0から1』の人間と『1から100』の人間がいる(っぽい)。私は前者で、極論、自分のためには家も土地も必要ないと感じる。そこらへんの山や森を勝手に使って野営をすることに喜びを見出すし、そもそもで『土地を所有する』という西洋的な考え方が気に入らない。土地は誰のものでもないし、極論、この世の中に自分のものだと言えるものはひとつもない。ただ、自分がそれを使わせてもらっているだけに過ぎない。自分のために家は必要ないなどと書いたが、若干訂正をする。自分のためにはいらないが、やがて、自分が築くかもしれない家族のため【自分『たち』のため】に必要なものだ。前回の記事で『生きるために必要なものは火・水・食糧・シェルターの4つ』と書いた。これは、言い換えれば残りのすべては贅沢品ということになる。車も、自転車も、バイクも、家具も、電化製品も、友達も、恋人も、要するに贅沢品なのだ。必需品ではない。ただの贅沢品である。私は、そう思うことで心の安寧を得る。ああ、それを楽しむ分にはいくらでも楽しめばいいのだけれど、それがないからと言って嘆く必要はないのだと。ないならないでどうにかなるのだと。それを「それがなければ生きていけない(生きている値打ちがない)」などと思うから、人生が複雑怪奇の厄介なものになるのだろう。と。

 

シンプルな暮らしは、そういうことに思い至らせてくれる。無論、私は、これからも欲しいものは自分の手で獲りに行く。バイクがないなら最悪の場合は歩くが、バイクがある限りその恩恵を全身でめいっぱい浴びたい。女性や友達と過ごしたいとも思うし、温泉があれば入るし、布団があればもぐりこむし、お湯が出るならお湯を使うし、うまいものが食えるならうまいものを食いたい。昨夜、野営をしながらコーヒーを淹れて、ごちゃまぜの家からかっぱらってきた乾パンをばりぼり食いながら星空を眺めた。乾パンとか「戦時中か」とも思ったが、この固さが楽しかった。多分、食糧が乾パンしか手元に残されていないとき、これらを悲壮感を漂わせながらうつむいて食うことも、楽しみながら「長い人生、たまにはこういう時期があってもいいよね!」と思えるかが、人生を明るく生き延びる根本的な要素になるのだろう。文句を言わず、受け入れることだ。寒さの中にも楽しさはあり、空腹のなかにも楽しさはある。生きる楽しみは、そこら中に転がっているのだと思う。

 

 

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おやすみなさい。。#hennesyhammock #snowpeak #prettycold #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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あると思って生きてみな。金も、時間も、才能も。

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今年一番楽しかったのは4月にハワイ島をテント泊で移動したこと。キラウェア火山の国立公園で寝たり、ウォームポンドという無料の天然温泉で泳いだ記憶は生涯の宝物になった。ハワイ島には「誰でも自由に使える家なり土地」を探しに行った。奇跡に奇跡が重なり、とある場所の土地を自由に使わせていただけることになった。が、その直後、キラウェア火山が大噴火をかまし、すべてが白紙になった。半端ない量の溶岩がすべてを流し去ったからだ。国立公園は立ち入り禁止になり、溶岩に飲み込まれたウォームポンドは、地図上から姿を消した(もう、我々の記憶の中にしかない)。

 

 

大事なものがいつまでもあるとは限らない。この、当たり前の事実に愕然とした。ウォームポンドがなくなったことは悲しすぎるが、実際に目の当たりにしたおかげで、ウォームポンドがどのような場所なのかを記憶に刻むことができた。あれほどの楽園がこの世界に存在したということ。それを体感できたこと。夢でもなんでもいい、一回、楽園を実感したことがあるのならば、それに負けずとも劣らない楽園を「自ら創出する」こともできる。前に、ある女性が話していた。私は、過去に、半端なく気持ちいいセックスの夢を見た。夢だったけれど、あまりにも生々しい実感を伴う夢だった。この夢は、私に、世界にはこれほどまでに気持ちよくなれる瞬間があるのだということを教えてくれた。だから、自分が自分に求める『幸福の基準』みたいなものは、常にそこに定められている。と。

 

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お米2.0

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俺なりのスタンディングデスク。

 

実はこの記事を東京都青梅市のポストの上からこの記事をポストしている。なぜ青梅市にいるのか。野営道具を積んだ原チャで長野に向かっているからだ。なぜ長野に向かうのか。それは「誰でも自由に使える家なり土地」を見つけるためだ。ハワイ島のリベンジという訳ではないけれど、小生、焚き火を愛している。長野の自然に囲まれた山や土地でテントを張ったり小屋を建てて、毎日焚き火をして、自給自足をする代わりに「誰かお米か野菜をもってきていただけたらとっても嬉しいです」などとヘルプ【コミュニケーション】を求めたりしたら、充実した日々を過ごせるような気がした。かの歴史的名著『森の生活』の中で、著者ソローは自給自足の日々を過ごす。しかし、私は自給自足よりも他給他足に関心がある。全部を自分でやりたいとは思わない。なんなら、言葉を綴ること以外はすべて「それが得意なひと」や「それを楽しみながらやってくれるひと」にお願いをしたい。

 

33年間生きてきて、自分が金を稼ぐことが苦手なことは重々承知した。かと言って、農作業や一定の職業に従事できるほどの落ち着きもない。しかし『米をつくることはできないが、米をもらうことならばできる』長所が自分にあることを発見した。私は、稼ぐことも、生み出すことも苦手である。しかし『(あまっているものを)もらう』ことにおいてはこれまでの人生、結構な品々をもらってきた。米。野菜。畑。家。家具。テント。寝袋。調理器具。自転車。スーパーカブ。ポルシェ。豪華クルーザー。など。私は、これらの品々を所有することはなにかが違うと思い、超絶大開放をして『共有』することにした。家も、車も、自転車も、使いたいひとがいれば誰でも自由に使えるように無料で開放をしている。そういう場所(誰でも自由に使えるスペース)を、長野県に見つけることができたらうれしいと思っている。

 

そういうことをSNSから投稿した。すると、非常にありがたいことに「長野県佐久市に空き家があります」というお話と「長野県大町市に空いている土地があります」というお話をいただいた(本当にありがとうございます!)。いま、佐久市方面に向かっている。しかし、道のりが寒すぎていま、東京都青梅市のコンビニ前で震えながら立ち往生をしている。温泉を見つけたのであとで入ろうと思う。私は思う。自分が住む場所を「自然か、都会か」とか「これか、あれか」とか、二者択一的な生き方をする必要はないのだと思う。ここにずっといなければいけないと思うからつらくなる。しかし、もっと柔軟性に富んだ状態で「自然と都会を往復する生活」とか「複数の拠点、複数の仕事、複数の家族を横断する生き方」みたいなものが主流になれば、生き方の幅もグン!と広がるのではないだろうか。移動。共有。複数。分散。このあたりはキーワード感がある。まずは、自分を使って実験をしてみたいと思う。テーマは「最低限の費用で、どれだけ『快適な生活』と『充実した日々』を過ごせるのかを探求する」というものになります。

 

 

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あると思って生きてみな。金も、時間も、才能も。

横浜から長野に向かう途中、相模原の丸亀製麺に立ち寄った。店内は猛烈激混みで大繁盛をしていた。店員さんのお母様たちがバシバシと動き回っている。私は、こういう風景を見ると「このお母さんたちは幸せなのだろうか」などと考えてしまう。疲れて家に帰ったらこどもたちに「お金を稼ぐのは大変なのよ」みたいなことを言うのだろうか。それを聞いてこどもは何を思うのだろうか。とか。そういうことをいちいち考えてしまう。私は、高校時代、近所のコンビニで時給630円で働いていた。5時間働いても3000円程度にしかならず、ああ、金を稼ぐのはこんなに大変なのかと強烈に思った。もし、私が時給で働き続けていたら、自分のこどもたちにも「金を稼ぐのは大変なんだぞ」と言い聞かせていたと思う。しかし、いま、私は(世間一般で言われている意味での)仕事をしていない。昔は、生きるためには仕事をしなければならないものだと思っていた。が、いまでは「生きる方法は無限にある。だから、嫌なことを我慢してまで仕事をする必要はない」と思っている。

 

人間が生きるために必要なものは4つ。それは「火・水・食糧・シェルター」だとサバイバルのプロが話していた。仮にあなたが山に遭難したときなど、最優先に求めるべきは(火でもなく、水でもなく、食糧でもなく)シェルターだと言う。冷静に考えると、いま、日本では蛇口をひねれば水が出て、アウトドアショップに行けば泥水を飲み水に帰る道具が売られていて、ガスコンロなどを使えば火も用意できるし、テントなんて中古で2000円くらいで売られている。別に、これさえあれば人間は死なない。残るは食糧。これは私の弱点である。断食が体にいいと聞いてから、私は朝食を抜くようになった。一応、1日1食で生きていけるようにはなったが、米や野菜をつくるスキルが自分にはない。家にはもらいものの米が50キロくらいある。米だけ食っていれば取り急ぎ死なない。あとは『快適な生活』と『充実した日々』をどこに見出すかだ。罠猟師の免許を取るとか、食べられる野草を研究したり、渓流釣りを極めたら楽しいのかもしれない。と、ここまで書いたら支離滅裂になってきたことを感じる。要するに「火・水・食糧・シェルター」の4つを、悲壮感を漂わせながらではなく『楽しみながら』自分たちの手であっちこっちに創造することができたら、結構楽しい日々を過ごせるのではないだろうかと思っている。

 

大学時代、私は、生活費を自分でアルバイトをしながら捻出して生きていた。周囲の学生は、親から大量の仕送りをもらっていたために「飲みにいこーぜ!」とか気軽な感じで誘ってくる。私は「お前の5000円と、俺の5000円には雲泥の差があるのだぞ」と密かに思っていた。結果、私は飲み会を断り、友達も減った。そんななか、同じような苦学生の友達にたもつという男性がいた。我々は法学部で、たもつは自分で貯めた金を使って弁護士になるための予備校に通っていた。私は尋ねた。おい。たもつよ。みんなが両親からの仕送りで予備校に通っているなか、お前は自分でアルバイトをしながら予備校に通っている。この状態をハンディキャップだとは思わないのか。と。たもつは答えた。いや、俺はそうは思わない。この経験が、やがて、弁護士になった時に必ず役に立つような気がしている。だから、俺は、いい経験をさせてもらっているのだと思っているよ。と。私は「見上げた男だ」と思った。たもつを誇りに感じたのだ。その後、私は大学を退学してストリートで生きる道を選び、たもつは司法試験に現役合格をした。青梅街道でバイクをガタガタ走らせながら、ふと、そんな昔話を思い出していた。

 

 

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人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分の『好き』を貫く勇気。

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昨夜の徹くんの話が超よかった。僕は昔から全力を出させてくれるものが好きだった。僕は新潟の海の家で育った。海も、砂も、どれだけ僕が全力を出しても壊れないからとてもよく遊んだ。6歳年上のお兄ちゃんも「徹、いまから俺の腹を10分殴れ。俺が痛いと言ったら俺の負け、俺が痛いと言わなければお前の負けだ」という遊びをした。お兄ちゃんにはいつもボコボコにされた。ボコボコにされることは悔しいけれど嬉しさもあった。それは『納得できる』という嬉しさだ。いま、僕にはちあきという大切な女性がいる。ちあきも、僕の全力を引き出してくれる。最強で最愛の女性だ。

 

 

徹くんは話す。僕は、昔から『美しい』と思える生き方をしたいと思っていた。格好良い自分でありたいと思い、格好悪い自分は出さないようにしていた。でも、今回、ちあきとの件で自分の中にある極悪な部分がものすごい出た。極悪の自分が出ると、同時に『極善』の自分も出ることがわかった。自分はこんなにもちあきのことが好きなのかと思った。自分はちあきが好きだという気持ちに対する信頼が半端ではない。自分が更新されたように感じた。極悪と極善がタッグを組んで、一緒に生きていくことができたら最高だと思った。全部を脱ぎ捨てて生きること。『裸の太陽』という言葉が浮かんだ時、ああ、この言葉を口に出したら俺は泣いてしまうと思いながらけいごさんと電話していた時に「裸の太陽」と言ってしまって、僕は泣いた。

 

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悪態日記

私は徹くんの気持ちがとてもよくわかるから聞いている途中何回も感動をしてしまった。自分が本気になれる対象を見つけた人間は幸いだ。私は、正直に「徹くんとちーちゃんの関係性が羨ましい」と感じた。自分の本気をぶつけさせてくれる相手。一回や二回などではなく、生きている限り常に全開でお互いをぶつけあい、愛情とも友情とも括りきれない(まるで鋼が溶け合う的な)融合を何度も何度も重ねていく間柄。素晴らしい。これぞ、愛。そう思った。愛を目の当たりにした私は、しばらくの間呆然としてしまった。人間は、誰かをこれほどまでに思い抜くことができるのだという生きた実例は希望だと思った。

 

私が呆然としていると、参加者のひとりが「一緒に写真撮ってください」と言ってきた。私は、いままであなたとは一言も会話を交わしていないのに突然どうしたとイラッときた。言葉のトーンから察するに「俺と写真を撮りたいんじゃなくて、俺と撮った写真をSNSで周囲にひけらかしたいだけだろ」と感じた。ので、悪態をついてしまった。数日前、まだ、一回もあったことのないひとからフェイスブックで友達になってくださいと連絡がきた。こういう連絡は頻繁に届く。私は「友達になってどうするんだ」と思った。友達ってなんだ。俺はお前のことをなんにも知らないぞ。友達になりたければ実際に会うのが筋だろう。そう思って「友達って、お願いされてなるものでも、私たち友達だよねって確認しあうものでもないと思う。苦楽を重ねた回数が、愛情や友情を深めるのだと思う」的なことを伝えたら、そのひとは消えた。この程度で消える人間と、わたしは友達になることはできない。

 

前に、イベント終了後に「坂爪さんこんにちは。私は天才合宿をやっているのですが・・・」みたいな感じでいきなり語りはじめた女性がいた。私は、なぜ、自分が天才合宿を知っている(しかもその趣旨に賛同をしている)前提で話しはじめられているのかが謎過ぎたから「天才合宿なんて知りません」と断った。実は、天才合宿のことは前々から知っていたのだけれど、違和感もあったためにこれを機会に悪態をついた。こういうことばかりをやっているから、周囲からどんどん人が離れていく。しかし、悪態をつくことを抜きに自分は自分でいることができない。そして、悪態をついている自分を結構気に入っている。こういうことを書くと「いいぞ、いいぞ、もっとやれ!」とかまだ会ったことのない人から言われたりする。こう言う人々にも「うるせえ。お前がやれ。」などと思ってしまう。

 

わたり文庫『ミュータント・メッセージ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、マルロ・モーガン著作『ミュータント・メッセージ』です。こちらの本は「わたり文庫に是非!わたしの人生を変えた一冊です」とご郵送をしていただいた一冊になります。小生も読ませていただきました。素晴らしい一冊だと思いました。とりわけ、誕生日というイベントに対するアボリジニたちの言及には「まったくもってその通り!」だなあと、思わず膝を打ちました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

※※※ こちらの本は、岐阜県にわたりました ※※※

 

バースデー・パーティーの話になると彼ら(オーストラリアの原住民たち)は熱心に聞き入った。私はケーキや歌やプレゼントについて話し、年をとるたびにキャンドルが一本ずつ増えると説明した。「なぜそんなことをするのか?」彼らは質問した。「われわれにとって祝いとは特別なことにたいしてするものだ。歳をとることは特別なことではない。なにも努力しなくても自然に歳をとっていくではないか!」

「歳をとることを祝わないとしたら、なにを祝うの?」私は言った。


「よくなること」という答えが返ってきた。「去年より今年のほうがさらに賢くていい人間になったら、それを祝うんだ。それは自分だけしか知らないことだから、自分でパーティの時期がきたとみんなに告げるんだ」。そうだったのか、これはきちんと覚えておこうと私は思った。

マルロ・モーガン『ミュータント・メッセージ』【角川書店

 

自分の『好き』を貫く勇気。

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柿の木に登る。なかなかの笑顔。


人間関係で守り抜きたいと思う言葉がふたつある。ひとつは『知らん』。ひとつは『うるせえ』。このように思うことを自分に禁止してしまった瞬間から、人生の風通しは悪くなる。身の上話などを聞いていると、家庭環境がどうのとか、職場環境がどうのとか、恋愛相手がどうのという流れになることが多い。しかし、私は、話を聞きながら「それって全部言い訳だよね」とか思う。身の上相談にあまりにも親身になりすぎると、話しても聴き手も一緒になって苦しみの沼で溺死をするリスクが高まる。だから、程よく「知らん」とスパッと断ち切れる自分でありたい。過去のことは過去のこと。これまでがこれからを決めるのではなく、これからがこれまでを決める(過去は変えられないけれど、過去の意味ならば変えていける)のだ。

 

誤解されると困るが、わたしは誰かの身の上話を聞きたくないわけじゃない。素直なそのひとの思いを聞かせていただけた時は、ああ、俺はひとつの人生に触れさせていただいているのだ(このひとは、自分の代わりに生きてくださっているのだ)などと思って感動する。昨日、イベント終了後に、ある女性の話を聞いていた。彼女は、話しながら、途中何回か泣いた。私は「泣くのもたまには必要ですよね」とか思いながら、体育座りをしながら黙って話を聞いていた。ら、彼女は、ごめんなさい、いま、私は坂爪さんの貴重な時間を奪っていますよね的なことを言いはじめた。私は「それは違う」と思ってこう言った。俺の時間を無駄にするのか、無駄にしないのか、それを決めるのはあなたではなく俺自身である。この程度で、わたしの時間は無駄にはならない。だから、わたしを言い訳に使わないで欲しい。わたしは、この時間を無駄だとは思っていない。この場を立ち去りたいなら、ただ、立ち去りたいとだけ言ってください。続けたければ、続けてください。ただ、俺のせいにするな。と。

 

我ながら「俺はいいことを言うなあ。今日のMVPは俺だなあ」とか思った。言いたいと思ったから言う。やりたいと思ったからやる。これだけでいいんじゃないかなと思う。たとえ「お前はとんでもない利己的な人間だな」などと責められようが、おいおいおい、この世の中に利己的じゃない行為なんてものがあるとでもお前は思っているのかいと問えばいい。帰り際、彼女とは玄関で軽い抱擁を交わした。よい時間だと思った。私は思う。あんまり難しく考えないでいいのだと思う。ただ、自分が好きなものには「あなたが好きです!」と真っ直ぐに自分の思いを伝える。自分の好きを出し惜しみしたり、こんなことを言われたら迷惑かなとか考えて思いをひっこめたりする経験を何度も重ねると、自分の本音がわからなくなる。死ぬ前に伝えたいことなんて、あなたのことが好きでした以上のことなんてさほどない。だから、自分が好きなものを見つけたら、裸一貫でぶつかって行って「あなたのことが大好きです!」と真っ向勝負で思いを伝える。自分の『好き』を貫く勇気。それだけのことで、意外と、清々しい人生を過ごせるのではないだろうかと思う。

 

 

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みんなありがとう。。。 #柿泥棒

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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退屈なのは、野生が足りないから。

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お金とはなんだろう。いまの私に定職はない。このブログも広告を張っていない。だから、一円にもならない。出会う方々から「どうやって生きているのですか」と頻繁に問われる。私も、なぜ、自分が生きているのかがわからない。もらっているもので生かされている、というのが正直なところだ。昨日、熱海から横浜まで原付で移動をした。この原付(スーパーカブ)も、読者の方から譲り受けたものになる。熱海の朝日が綺麗だった。私は、なぜ、こんな生き方をしているのだろうか。

 

 

私は本が好きだ。だから、読む本がなくなると本屋さんにいく。しかし、多くの場合、自分が買った本よりももっと面白い本を、本を購買した直後に出会う方々がくれたりする。あまりにもそういう出来事が続くものだから、最近、いよいよ「もらい物だけで生きてみろ」的なことを自分に思う。本屋さんに行けば、自分が読みたいと思う本を、自分が読みたいと思うタイミングで買える。逆に、誰かからのもらいもので生きる場合、その辺のコントロールがまったく効かない。大事なことは、多分、どれだけ『わからないこと』を信じられるか・そこに飛び込めるかなのかなと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

お金とはコミュニケーションコストを0にしたもの。

前に家も金も仕事もない状態で、二年間放浪の日々を過ごした。あの頃、わたしは何を学んだかってそれは『謙虚さ』だと思う。ある人が、私の生き方を見て「お金って、コミュニケーションコストを0にしたものなんですね」と言った。これ、非常に興味深い指摘だと思う。お金があれば、ホテルに泊まることも食事をとることもすぐにできる。誰に会うか、誰を避けるか、それを選ぶことができる。逆に、お金がない場合、誰かに「食べ物をください」とか「家に泊めてください」などとお願いをする必要がある。誰に会うか、誰を避けるか、などを選んでいる場合ではなくなる。結果、あらゆるひとを受け入れる度量を持つ必要が生まれる。結果、私は、前よりも少しだけ謙虚になれた。

 

note.mu

 

お金がある限り、誰一人必要とすることはない。お金がないとき、私は『他者を必要とせざるを得ない』状態に置かれた。結果、これが功を奏したのだと思う。私は、全国各地に様々な人々とのつながりが生まれた。お金がなくても、コミュニケーションさえとれたなら、ひとは死なない(もっと言えば想像を超えて面白い展開を生むこともある)ことを肌感覚で学んだ。しかし、常にコミュニケーションをとらなければならない状態というのは、それなりのストレスもかかってくる。だから、私は、稀にもらったお金でホテルに泊まったりもした。誰の顔色を伺う必要もない。誰に気を使う必要もない。そういう『閉ざされた空間』が、自分の心身の状態によっては、最高に居心地のよい空間にもなった。

 

note.mu

 

だが、いま、私は「ホテルに泊まることは退屈だ」と感じている。ホテルは、結果がわかりきっている。わかりきっていることは退屈で、わからないことのなかに楽しさを覚える。結果、野営を連発する日々を過ごしている。野営をしていると自然とのコネクト感がすごい。わたしは、この日々を気に入っている。多くの人々は、いま、生活のため(要するにお金のため)に働いていると思う。では、そのお金でなにをやりたいと思っているのかというと、ずばり、それは『コミュニケーション』なんじゃないだろうか。今時、豪華な家や高級車をゲットするために汗水流して働いているひとは少ないと思う。充実したコミュニケーションさえとれていれば、ひとは、多くのものを求めなくとも安定する。一旦、冷静になってみませんかと周囲に問いたい。コミュニケーションコストを0にしたもの【金】をかき集めて、それを使ってコミュニケーションをとりたいと思っているこの現状には、小生、結構な歪みがあるような気がするのだ。もっと俗っぽい言い方をすれば「お金なんてなくても簡単に幸せになれるよ」的なことを言いたいのだと思う。

 

坂爪圭吾 - 【貨幣経済を考えよう!】...

 

退屈なのは、野生が足りないから。 

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朝日は無料。夕日も無料。気前がよろしい。


私の大好きなエピソードがある。余命半年だったら何をする??という問いに対して、ある日、26歳の女性は「私、死ぬ前に一発ヤりたい」と強く思った。そして、驚いたことにその旨をインターネット上に公開して『SHALL WE SEX???』とセックスの相手の募集をはじめた。自分の連絡先情報も添えて。すると、開始早々30名を超える男性から連絡が届いた。事の顛末は彼女のブログ記事を見ていただきたい(くりちゃん勝手にごめんね!)のだけれど、私は、こういう生き方をしている人間が好きだ。ここには『正しい』とか『正しくない』とかはない。あるのは、ただ、強烈にそうだったのだという実体験だけだ。私は、彼女の生き様を美しいと思う。この強度を、この実体験を、生きている実感と呼びたいと思う。

 

kurikuu.hatenablog.com


大好きなエピソードはもうひとつある。T君は、自分の彼女が別の男と風呂にはいっている場面を目撃した。T君はその男をぶん殴り、彼女は「やめてー!」と絶叫する。これだけ聞いたらかなりの修羅場だと思われるが、すごいことに、すったもんだの挙句、彼らは最終的に『三人で仲良くお風呂にはいる』という衝撃の展開を迎えた。いったい、彼らの間でどのようなコミュニケーションが交わされたのだろうか。この辺の謎は、今夜ごちゃまぜの家で開催されるイベントで紐解かれる予定です。私は思う。自分の体を張った人間の実体験は、どんな教科書より、どんな哲学書より、生々しいから面白い。『生きている人間』の話に触れると、ああ、自分ももっと生きようみたいな原始的な力がむくむくっと湧き上がってくる。

 

toruquqlia.hatenablog.com

 

私は経済を考えるのが苦手だ。「資本主義の次は何がくると思いますか??」などと問われても、まるでピンとこない。贈与交換とか、評価経済とか、AIとか、サステナブルとか、パーマカルチャーとか、ベーシックインカムとか、正直どうでもいいと思っている。そんなことよりも「いま、この瞬間、本当の意味で生きているか」の方が、五億倍重要だと思っている。私の愛する人々、彼らのぶっ飛ばした生き様に触れたとき、私の生命は露骨に反応する。「ああ、いいなあ、すげえいいなあ」って恍惚となる。私は、最近、謎に焚き火にはまっていて「この、小枝をポキっとやる瞬間がたまらないんだよなあ」とか思ったりしている。火を眺めながら酒を飲んだりメシを食ったりしていると、街中の飲食店が退屈に思える。もし、いま、人生につらさを覚えているひとがいたとしたら、僭越ながら言いたい。それは、つらいんじゃなくて『つまらないだけ』だと思う。自分の生き方に飽きたとき、それは、野性が足りていない合図なのだと思う。獣になりましょう。がおー。

 

 

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あたひ。。 #熱海 #朝日 #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

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あなたが楽しく生きることを、喜ぶ人と一緒にいなさい。

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大阪のイベントで100%のムートンマットを貰った。心臓が破裂するほどうれしい。会場にあったムートンを見たとき、超高速で「欲しい!」となった。心の底から欲しがれば与えられるんじゃないかと思い、この手触りは最高だなあ、ムートン大好きなんです、どこで買えるんですか、あまり使ってないと聞きましたが普段は押入れの中にあるのですか、最高だなあ、最高だなあ、こんなものが家にあったら天国だなあ、とか、散々駄々をこねた。ら、持ち主の方から「いりますか…??」と与えられた。私は、両手を上げて「やったー!」とガッツポーズをした。

 

 

梅田駅のかっぱ横丁にある魚屋で、一昨日、夕食をご馳走になった。そしたら数時間後に猛烈な腹痛に襲われて悪寒と冷や汗と目眩が止まらなくなってトイレに籠城した。本気で救急車を呼ぼうかなと思うくらいの腹痛に襲われることが、私には、年に数回ある。インディアンの教えによると、身体の痛みや不調は神様のサインらしい。私は、トイレにこもりながら「神様ごめんなさい、神様ごめんなさい、悪いことはもうしませんから許してください」とか五億回祈った。普段、強気に生きている(いつ死んでもいいとかイキっている)割に、一回の腹痛で私の意思はこんなにも崩れる。冷や汗でびしょびしょになりながら、ああ、神様は俺に何を伝えようとしているのかを考えた。ら、直後に「調子に乗るなよ」という言葉が天から舞い降り小生の身体はビクッ!となった。

 

ibaya.hatenablog.com

 

調子に乗ったら即死する。

私はできるだけ素直に生きたいと思う。嫌なものには嫌だと言いたいし、好きなものには遠慮なく好きだと言いたい。鏡の法則とやらがある。相手の嫌な部分は、自分の嫌な部分を反映しているだけに過ぎないという例のあれだ。私はこれを信じない。自分の中にあろうがなかろうが、嫌なものには嫌だと言いたい。たとえば、私はテレビが嫌いだ。それに対して「あなたはあなたの中にあるテレビが嫌いなんですよ」とか言われてもピンとこない。逆に、嫌いなものを嫌いと言わない自分を、私は嫌う。石頭の教条主義者達、おかしな形で心理学や謎のセラピーを学んだひとほど、そのひと自身はまったく幸せそうに見えないのに「幸せになるにはこうすればいいのですよ」とか言いたがる。セルフブランディングを教えます!とか言ってる人のフォロワー数が15人だったりするのを見ると、こいつはギャグなのかと思う。童貞が恋愛を語ることと同じだ。言葉に、生き方が追いついていない。

 

勘違いされると困るが、私は童貞を軽蔑している訳ではない。単純に「できもしないことを言っている」本人自身の捻れが気になるのだ。たとえば、私はヨガの先生が苦手だ。マクロビにどはまりしてる人々と似た近寄りがたさを感じる。彼らには、多分、一様に信じている『正義』があるのだろう。私は、平和主義者でもなんでもないくせに自分のことを平和主義者だと思っているひとの目が怖い。選挙活動や核廃絶系の運動をしている人々にも、同じ匂いを感じる。彼らは正しさで動く。が、正しさの反対は『また別の正しさ』であることを引き合いに出すまでもなく、私は、こういう人々の臭さを嫌う。ああ、関わりたくねえなと思う。お前は褒められたいだけだろう、お前の中にあるさみしさを活動を通じて埋め合わせたいだけだろう、とかちょっと思う。私のボディは、正しさよりも楽しさに反応をする。楽しそうに生きているならば、正しかろうが正しくなかろうが、私はそういう人々と同じ時間を過ごしたいと思う(稀に、悟りを開いた賢者みたいなひとに出会う。こういう時、私は、その人を前に土下座をしたくなる。私が悪ぅございました的な気持ちになる。こういう人種を真の平和主義と言うのだろう。彼らは、言葉ではなく雰囲気でその場を包む。語るものではない。体現するものなのだろう)。

 

幸福感と降伏感は似ている。腹痛に襲われた私は、健康であることの尊さを思い知った。金も家も仕事もなくても別にいいけど、健康がなくなったらアウトだと痛感した。おかげさまで腹痛は1時間程度で過ぎ去り、私は起死回生を果たした。一回殺していただいてありがとうございますと神様に思った。最近の私は調子に乗っていたのかもしれない。もっと感謝できるものに対する感謝が(いまいち)足りなかったかもしれない。いま、ムートンマットを膝掛けにさわさわさわりながらこの記事を新幹線の中から書いている。名古屋を過ぎ、次の新横浜で降りたら私はごちゃまぜの家に向かう。今日からしばらく関東界隈で暇をしている。みなさまのお力添えにより、存続の危機に喘いでいたごちゃまぜの家も続けることができそうだ。調子に乗ったら即死する。死ぬことも悪くはないが、この言葉を肝に銘じたい。自分を疑う落ち着きを、常に携えていたい。

 
🌸🌸🌸筆者に「あなたはすでに可愛いです!」と伝えたい!🌸🌸🌸

tenshinohashigo.hatenadiary.jp

 

あなたが楽しく生きることを、喜ぶ人と一緒にいなさい。

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能勢の森。紅葉の時期は迫っている。


最近はいかに自分純度を保つかに真剣である。数日前、ある女性から「渡したいものがあるから会えませんか」と連絡をもらった。私は「5分くらいなら会えるな」と思ってOKです!と返信した。ら、彼女から「野営開けでしょ。お風呂はいってないなら家でシャワーを浴びていきなよ。タクシー代も出すから。」と提案された。私は、正直、なんだか面倒臭くなってしまって「ごめんなさいそれはちょっと無理です!」と返信をしかけた。が、私は、なんで俺がごめんなさいとか謝らなきゃいけないんだ(こういうところから自分軸はブレて行くのだ!)と思ってその文章をどりゃーと消して、一旦携帯を置いて深呼吸した。そして、意を決し、嫌われても構わないのだとぷるぷる震えた指先で「最初は受け取るくらいなら5分くらいで終わるから大丈夫かなと思ったのですが、いま、正直あんまり会いたくない気持ちになっています!」とラインを返した。

 

ああ、これで俺もいよいよ嫌われたなとか思っていた数秒後、彼女から「正直!」と返信がきた。そして「では、わたしから行きますね」ということになって我々は会った。お互い言いたいことを言えたからなのか、実際に会ったら会話も弾んで結局1時間くらい一緒にいた。別れ際も爽やかで「なんだか話せてうれしかったです!」とか私は言った。会話の途中、彼女から「男の人は格好いいとか格好悪いとかを気にするけど、そんなことより嘘がないことが大事なのよ」と言われた。私は、ああ、これはめちゃめちゃ大事なことだと思った。相手を傷つけたくない的な『優しくない優しさ』で、私は、安易にごめんなさいを安易に使う。しかし、これでは距離があるままだ。お互いの本音をぶつけあいながら、それでもなお一緒にいることができる関係性。これを理想だなと思う。本音で傷つくのならば構わない。しかし、嘘で傷つくのならばいたたまれない。正面突破。爽快な言葉である。

 

私の求愛方法を定めたいと思う。これは、もう、ひとえに『自分が幸せそうに生きていることを、お前の喜びとして受け取ってくれ』というものになる。間違っても、私は、お前を幸せにするために生まれた訳じゃない。これは、逆の場合も同じ。俺のために生きるな。お前はお前のために生きろ。それが俺の喜びになる。的なことを思う。言葉にするとウルトラ亭主関白みたいに聞こえるかもしれないけれど、結構、純愛だと思う。私は、私の器から溢れ出すものを、周囲の人々に与えたいと思う。間違っても、自分がカラカラに乾いているくせに、無理をしてまで自分を絞り出して『絞りカス』みたいな愛情を振りまきたいとは思わない。自分に娘が生まれたら、私は、こんな風に洗脳をしたいと思う。あなたが楽しそうに生きてることを、よろこんでくれる人と一緒にいなさい。あなたの喜びが、みんなの喜びになるのよ。だから、恐れることなく幸せになっちゃいなさい。と。とかなんとか言いながら、また、腹痛に襲われたりしたら「絞りカスでもなんでもいいから、俺に優しくしてください」とか思うのだろうなあ。まだまだだなあ。精進が足りないなあ。たくましくなりたいなあ。沖縄、福岡、大阪で出会ったみなさま、本当にありがとうございました(これは本音!ありがとうございますと書きながら、俺は、悪態をつかずにはいられないけれど根本的に人間を愛しているのだなと思った)。

 

 

「 苦しみを越えて 」

大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、 謙遜を学ぶように弱い者とされた。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、 よりよいことができるようにと病気を戴いた。

幸せになろうとして富を求めたのに、 賢明であるようにと貧しさを授かった。

世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、 神を求め続けるようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、 あらゆることを喜べるようにと命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、 願いはすべて聞き届けられた。 神の意に添わぬものであるにも拘わらず、 心の中の言い表わせない祈りはすべて叶えられた。 私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。


Creed for Those Who Have Suffered

I asked God for strength, that I might achieve

I was made weak, that I might learn humbly to obey...

I asked for health, that I might do greater things

I was given infirmity, that I might do better things...

I asked for riches, that I might be happy

I was given poverty, that I might be wise...

I asked for power, that I might have the praise of men

I was given weakness, that I might feel the need of God...

I asked for all things, that I might enjoy life

I was given life, that I might enjoy all things...

I got nothing that I asked for-but everything I had hoped for Almost despite myself, my unspoken prayers were answered. I am among all men, most richly blessed!

 

https://www.instagram.com/p/BpLNVvQHP2m/

能勢の森。光彩が素晴らしい。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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油断すると大人になっちまう。

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朝はGRAPEVINEの真昼の子供たちを聴きながらはじまる。その曲のなかに『油断すると大人になっちまう』という歌詞があり、ああ、まじでそうだなと思う。最近の小生、男と女の違いに対する研究に余念がない。男とか女とかで括ると、必ず、ある一定の層から「そういうカテゴライズはしないでください!」と怒られる。しかし、私はそれをガン無視する。だって、やっぱり、男と女はまったく違うと思うから。違いを認識することが、結果的に『愉快に生きる秘訣となる』と思うから。

 

 

野営をしていると「俺は、男であることの特権をフルに活かしてるな」と思う。しかし、同じことを女子にやらせたいとは思わない。女子が連日野宿とかしたら生理が止まると思う。多分、肉体が、そういう風にできていない。こういう時、私は、男女差って確実にあるよなと思う。最近、私は、現代社会は『無性社会(男も女もない社会)』なんじゃないかということを考えているのだけれど、これは説明が長くなるので死ぬまでに論文に書きあげてまとめたい。昨日、私は、男女差において非常に秀逸な例え話ができるようになった。それを『男は桃太郎。女はきびだんご。理論』と名付けた。

 

ibaya.hatenablog.com

 

男は桃太郎。女はきびだんご。

桃太郎という童話がある。一見、主人公は桃太郎っぽいが、真の主人公はきびだんごである。きびだんごがなければ、桃太郎は犬・猿・キジなどの仲間を得ることはできない。では、このきびだんごを作ったのは誰か。そう、おばあちゃんである。おばあちゃん【女】がいなければ、桃太郎【男】は「よっしゃ!これから鬼を倒すぜ!」となったところで返り討ちあって痛い目に遭っていたかもしれない。最悪の場合は殺されていたかもしれないのだ。が、おばあちゃんがいたからこそ、きびだんごがあったからこそ、桃太郎は『鬼を退治する』という手柄を獲得することができた。真の主人公はおばあちゃんである。

 

🌸🌸🌸全然関係ないけど20日の大阪イベント。来てね!🌸🌸🌸 

坂爪圭吾×堀口雅司「これからの生き方を考えよう!」@大阪府能勢町

 

男は桃太郎。女はきびだんご。私が、女性を見ていてすごいなと思うところは、自分の手柄をまったく外側にひけらかすことをしないことだ。もし、私があれほどの痛みを伴った出産を経験したならば、あたりかまわず「俺、まじで頑張った!まじで生き抜いた!誰かほめて!この苦しみを乗り越えた俺を讃えて!」ってなる。しかし、女性は違う。出産のこと??あー、あれね、うん、すごい痛かったよ。でもねえ、みんなやっていることだしねえ。別に普通かな。みたいな感じでケロっとしている。私は、こういう女性に触れた時に「半端ねえな」と思う。絶対に勝てないと思う。男が女に勝てるのは、多分、腕力だけだ。女は最初から強い。だから、強さを求める必要はあんまりない。

 

🌸🌸🌸全然関係ないけど25日の横浜イベント。来てね!🌸🌸🌸 

ごちゃまぜの話 feat.とよずみちあき&かむきとおる love 坂爪圭吾

 

男は『外』に出ることに喜びを見出す。鬼を退治した『手柄』を欲しがる。それに比べると、女性は「自分が作ったきびだんごを食べながら、桃太郎(男)が楽しそうに生きていたり、やりたいことをやっている姿を見ることに満ち足りた充足感を覚える」生き物なんじゃないのかなと思う。あれ。全然まったくうまく書けていないぞ。どうした俺。別に「女は男を支えるべきである」とか、そういうことを言いたいわけじゃない。私という人間は、すぐに手柄をひけらかしたくなる男の弱さを持っている。そんな時、きびだんごを作ったおばあちゃんのように『実は相当なことを成し遂げているのに、まったくそのことをひけらかそうとしない(真の裏方に徹した)女性に対して、相当なリスペクトを感じている』ということが書きたかったのだ。イチローはすごいけど、イチロー奥さんもすごいよね。とか、そういうことを言いたいのだ。が、私は失敗をしてしまいました。出直してきます。

 

🌸🌸🌸全然関係ないけどごちゃまぜの家日誌。見てね!🌸🌸🌸

【10月18日】キクナキャフェやったー!(ほしな) - ごちゃまぜの家日誌

 

油断すると大人になっちまう。

私は、いい感じの女性を見ると「このひとは潤っているな」と思う。逆に、不幸そうな女性を見ると「このひとは湿っているな」と思う。水分の話をしているはずなのに、潤っていると湿っているの間には結構な違いがある。あまりにも頑張りすぎている女性を見ると「お前、ゴリラみたいになっているぞ」と思う。ゴリラは、なんと言えばいいのだろう、もはやあらゆる水分を吹き飛ばして蒸発しきっている乾燥状態に似ている。女性が筋肉隆々だと、なんか、違うんじゃないのかなと思う。あれ、私は悪口を書いてしまっているのだろうか。別に悪口を言いたいわけじゃない。ただ、男である自分には、女性の魅力は『潤い』にあると思っていることを書きたいのだ。男に潤いは出せない。だから、潤っている女性を見ると最高だなあとか思う。が、それ(潤い)が悪く出ると『湿っている』みたいな感じになり、女たちが群れると『(潤いを通り越して)どろどろの沼』みたいに見えたりもする。潤っている女性は魅力的だが、湿っている女性は不幸そうだ。一体、何が違うのだろう。女の沼を見ると、私は速攻で逃げたくなる。

 

私は男だ。男としてなにか停滞していると感じる時に、野営をしたり筋トレをしたりバイクに乗って遠くに行くと、なんだか自分を取り戻せる感覚がある。多分、これは男のやり方である。では、女性の場合はどうなのだろう。男としての喜びがあるとしたら、女としての喜びはどこにあるのだろう。そういうことを考えていた時に、先ほどの『男は桃太郎。女はきびだんご。』理論を思いついた。私は、別に女性を手放しで賞賛したいわけではない。例えば、私は、大前提として母親のことは大好きだけれど、小さな頃から「風呂に入れ」だの「歯を磨け」だの「飯を食え」だの、母親の小言を聞くたびにうるせえなと感じていた。いまでも、目の前の女性から『母親的なうざさ』を嗅ぎ取った瞬間は、一二の三で逃げたくなる。男は、愛より自由を選びたい時があるのだ。女の愛は、時に重い。愛に殺されそうになることがある。だから、私は(TPOによるけれど)愛から逃げる。好きな言葉は『長居は無用』である。なかなか家に帰ってこない旦那の心理は、多分、こんな感じなんだろうなと思う。 

 

とかなんとか言いながら、ずっとひとりでいると「誰かといたい」などと思う。自分は勝手な人間だ。男友達に会いたい時もあれば「女性に癒されたい」などと思うこともある。昨日、私は、大阪でお世話になっている女性S様から豪華なしゃぶしゃぶとお寿司をご馳走になってしまった。別れ際、S様は言った。「私はあなたが好きだ。好きなひとに何かをしてあげたいと思うことは、自分にとって自然なことだ。だがしかし、今回、生まれて初めての感覚を覚えた。あなたに優しくしたいと思うように、自分にも優しくしてやりたいなと、生まれてはじめてそんなことを思った。ねえ、これっていい話だと思いませんか?」。と。私は、ああ、これはめちゃめちゃいい話じゃないかと思った。私は、男として「目の前にいる女性が、自分と会う前より、自分と会った後の方がいい表情をするようになった」ことを目撃できた時、俺はいい仕事をしたな的な気持ちになる。これは、決して自分はすごいと言いたい訳ではなく、なんだろう、女性を通じて『いい仕事をさせていただいた』的な謙虚な気持ちになる。この瞬間も、男は、女によって生かされているのであろう。そう思う時、私は、自分の心にいい感じの風が吹いていることを感じる。

 

When childhood dies, its corpses are called adults.

子供らしさが死んだとき、その死体を大人と呼ぶ。 - オールディス

 

 

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関西空港。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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俺達、もっといい感じになれるよ。

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俺はイタリア人になりたいのかもしれない。女性と会う前に花を買う癖がある。たくさんの花束ではなく一輪に入魂するスタイル。花を片手に街を歩くと「いまの俺、なんだかいい感じなんじゃないの!?」と思う。花屋さんの店員さんは、結構不機嫌なひとが多い。薄利だし、水が冷たいからだと思う。前に、フローリストの女性から「私は現実主義者だから、綺麗事は信じないけれどあなたの生き方には興味がある」と言われた。この時、あれ、この女性は「無料で人間に刈り取られている花のこと(それによって自分が生きていること)を、一体、どう思っているのだろう??」とか疑問に思った。

 

 

昨日は福岡のイベントに登壇した。これから関西空港に飛ぶ。坂爪圭吾をはじめて知ったと話す方々も来てくれて、私は、私の生き方を説明した。が、これがまたまったくうまくいかなくて、不信感を与えた。私は、私を知らない人に私の生き方を説明すると、大概「きょとんとされる」か「お前は人生を舐めているのか」と言って怒られる。自分を説明しながら、同時に「説明なんてできるものか。俺は、説明をできないことをやりたかったのだ!」とか思う。もう、誰かに理解をしてもらうことは諦めよう。だって、自分でもよくわからないのだから。ただ、一言「俺の生き方を見てください」とだけ言おう。俺は何をしたいのか自分でもまったくわからない。というか、説明できることにあんまり興味がない。私は、言葉の外側に行きたいのだ。言葉にならないこと、説明することはできないけれど『なぜだかどうしてもそれをやりたくなってしまうこと』をやりたいのだ。

 

ibaya.hatenablog.com

 

知性と野生。マーキング・マイ・ライフ。

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野営道具を乾かしている時間は幸せ


食事中の方にはごめんだけど「男ならスタンディング・ユリネーション(通称SU。要するに立ちション)」と思う。馬鹿にされることは承知だけれど、屋外SUの開放感は半端ない。SUをした場所に男は過剰な愛着を抱く。犬の気持ちがものすごいわかる。私はマーキングをしているのだ。全国各地で野営をすると、必然的にSUポイントが増す。福岡に来たときは「ああ、俺はこの場所でSUをしたなあ。。」みたいな慕情を覚える。森羅万象にお近づきになれる。トイレの水は水を使いすぎている気がするから、私はあまり好きじゃない。前に、海外に一緒に行った女性がトイレがなくて困っていたから、適当な草むらを見つけて「ここ、どう?」と聞いた。最初は彼女も逡巡していたものの、やがて、意を決して草むらに進軍した。数分後、草むらから出て来た彼女はものすごい晴れやかな顔をしながら頬を染めてこう言った。「なんだかすごい自由を感じました」。

 

 

知性と野生。この両輪が大事だと思う。知性だけでは石頭の教条主義者になるし、野生だけでは下品な野蛮人になる。私は進学校を出たので知性優先型の人間だった。そんな自分に「野性味が足りない!野性味が足りない人間はツマラナイ!」と思っているのが最近で、能動的に野性味を獲得するようにしている。都会はどんどん整備をされる。普通に生きている限り野性味を獲得する機会は皆無に等しい。昨日、福岡のイベントで格闘技を長年続けている男性M様とお会いした。私はM様が大好きだ。男的に「格闘技をやっている(強い)男に惹かれる」部分って、誰にでもあると思う。M様は言う。本当に強い男は常にリラックスをしている。我の強い人間は弱い。稀に、ヤンキーが「おらおら」みたいな感じでリングにあがるが、大抵、そういう人間は音速でボコボコにされる。そして、翌日にはジムから消える。逆に、大人しそうな陰気な青年ほど、どれだけボコボコにされても、ジムに通うことを諦めない。こういう人間は強くなる。格闘技をやっていると、強い人間ほど『過剰なまでの恐怖心』を持っていることがわかる。強い人間ほど、実際は様々なことにビビっている。ビビっているからこそ、備えることを覚える。恐れがないことが強さではない。恐れや弱さを自覚することが強さなのだ。

 

 

私は、毎回、ブログ記事を書きながら超絶ビビっている。今度こそはみんなから嫌われるだろうなと、ビビりながら書いている。言いたいことを言うときも、結構全身を震わせながら言っている。勇気があるから普通に言えるのではなく、毎回、渾身の勇気を振り絞っているのだ。これはみんなと同じである。だって、嫌われたくないという思いが自分にもあるから。野営をするときも「今夜はちょっと寒いかな・・・体調もちょっとあれだし・・・やめておこうかな・・・」とか、その程度の次元で幾度も逡巡する。そんな自分が肯定された気がして嬉しかった。江戸時代の医学者・貝原益軒先生も「最良の薬は恐れである」的なことを言っている。エベレストなどの高山も、自信満々の奴より『ビビり』の方が登頂率は高いと聞いた。恐れるから、ビビるから、それに対する現実的な用意を周到に行う。私の過去記事『世間体を捨てると楽になる』に対して、先日、北海道でライダーハウスを運営している男性が記事を書いてくれた。この記事が良かった。人を縛ろうとするのは弱い人間のすることだ。紳士たれ。知性と野生の両輪を感じる、力強い、美しい言葉だ。

 

サカツメさんのブログで野田ともすけの「ルールに対する考え」のようなものが紹介されていた。野田さんはカヌーをする人なら知らない人はいないパイオニアで、とにかくルールが嫌いな人だ。「ここでキャンプをしてはいけません」という公務員を川にブン投げていたという。

世間体を捨てると楽になる。 - いばや通信

ブログでは「人を縛ろうとするのは弱い人間のすることだ」とバッサリしていた。野田節全開である。強い人の言葉だ。

 

(中略)

 

ルールに関して、とても好きな逸話がある。それは北大の前身である学校を創設するとき、道民はクラーク博士に校則案を見てもらった時の話だ。

まだ教育なんて金持ちの道楽に近い存在だった時だ。あれをするな、これをするなと校則はとても細かく設定されていた。博士はそれを全部投げ捨てて「これだけでいい」と言った。「紳士たれ」とても強く、美しい言葉だ。

紳士とは自分の正義を実行できる人であると思う。誰かが困っているのを助ける、集団でおこなわれる不正義にNOという、それらの行動ができる人を紳士と呼ぶのだ。

 

hatinoyado.hatenablog.jp

 

俺達、もっといい感じになれるよ。

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嘉向さんと豊住さん。喧嘩と仲直りを繰り返している。

 

知性と野生。この両輪を感じることができる人間との出会いは宝物だ。私の友人に嘉向徹&豊住千明という稀有なカップルがいる。彼らは野生がちょっと強めの(だけどしっかり品性もある)最高のカップルだ。彼らが10月25日(木)、横浜にあるごちゃまぜの家でトーク企画を開催する。私の過去記事で「修羅場っくれている人々の話」を何度か紹介したけれど、実際、これらの修羅場は全部彼らの実話になる。彼らほど、本気で生々しい生涯を送っている人々を私は知らない。本気で生きている人間に触れると、いかに自分が本気を出し渋っているけち臭い人間であったかを思い知る。そして「俺ももっと生きたい!生きてやるぜ!」的な、生きる力がむくむくする。お時間のある方も、お時間のない方も、是非、彼らを(職場や学校や家事を一旦全部放り投げて)目撃してください。

 

ごちゃまぜの話 feat.とよずみちあき&かむきとおる love 坂爪圭吾

 

徹さんから「ごちゃまぜの話をシリーズ化できたらいいなと思って見たり見たり!」をご連絡をいただいた。超絶いいなと思った。私は離婚式をコーディネートしたいと思った。別れたいけれどなかなかふんぎりがつかないカップルに、スカッと晴れやかに別れていただく企画。破壊や終焉を祝うデスアニバーサリー。新しい人生に踏み出すひとが醸し出す雰囲気は素晴らしい。離婚届に捺印したり、結婚指輪を粉砕したり、思い出の写真をみんなで一緒に焼却したら、やる側ももちろんのこと、見ている側にもグッ!と来るものがあるだろう。連帯感も生まれると思う。結婚相手とか、パートナーとか、そういう関係性ではいられなくなった二人も、デスアニバーサリーを通じて「出会えて良かった」最高の二人になる。少なくとも、二人の関係がなかったことには絶対にならない。風化することのない、確かに『あった』ことが強烈に刻まれる。

 

ごちゃまぜの話 feat.とよずみちあき&かむきとおる love 坂爪圭吾

 

最近思う。まず、大前提に愛がある。その上に好き嫌いがあるのだと思う。家族間とかもろにそうだと思う。愛しているから好きな時期もあれば、愛しているけど嫌いな時期もある。でも、どちらの場合も、等しく『愛の土俵の上での話』である。嫌いになったからといって、それは「愛していない」とはならない。超絶余計なお世話な話だが、女性と話している時、ある種の違和感を覚えることがある。この違和感は、その女性自身が「過去に、自分が女であることを煩わしく感じていた時期があったのではないか」的なことを私に推測させる。男に比べられて悔しい思いをしたとか、過去に男に酷い目に遭わされたとか、女であることに嫌気が差したとか。その記憶が、自分の女の部分を封印させる。そんな過去があったのだろうかなどと推測をする。私は思う。女が女の部分を封印すると、女は乾く。罪悪感や憎しみで生きるゴリラになる。そんな姿を見ると「あんた、もっと綺麗になれるよ」とか思っちゃう。ゴリラは男の役割である。自分がかわいくあることを自分に許すことができたとき、女は自分で自分を潤わせることができる(とか言うとなんかめっちゃ嫌な言い方になる。だけど本当にそう思う)。男も同じ。自分が格好良くあることを自分に許すことができたとき、男は、自分で自分を律することができる。昨日見たジョン・レノンの言葉がよかった。別に、特別な人間になろうと思わなくてもいい。そんなことよりも、私は、動物的なよろこびを大事にしろと(自分に)言いたい。いい感じの男が増えれば、勝手に女もいい感じになる。いい感じの女が増えれば、勝手に男もいい感じになる。それが、いい感じの循環になればいい。

 

When I was 5 years old, my mother always told me that happiness was the key to life. When I went to school, they asked me what I wanted to be when I grew up. I wrote down ‘happy’. They told me I didn’t understand the assignment, and I told them they didn’t understand life.

私が五歳の時、母はいつも幸せが人生の鍵だと教えてくれた。学校に行くと、彼らは大きくなったら何になりたいかと訊いた。私は「幸せに」と書いた。彼らは私がその課題を理解していないと云い、私は彼らに貴方達は人生を理解していないと云った。ー ジョン・レノン

 

 

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これから人と会う前の俺。。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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最悪の場合でも、死ぬだけ。

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群衆の中に孤独はある。夜の都会を歩くと薄ら虚しい気持ちになる。華原朋美のI'm proudの歌詞「街中で居る場所なんてどこにもない / 体中から愛がこぼれていた」が繰り返し流れる。福岡の薬院界隈で手頃な公園を見つけた。周囲は高級住宅街に囲まれている。「家賃すごいんだろうなあ」とか思いながらハンモックを張る。お湯をわかしてコーヒーを淹れる。木々の隙間から覗く星空を眺め、読書をする。静寂を手に入れて心が和む。私は、都会の隙間を見つけて野営をかまし、それなりにいい時間を過ごしながら「ざまーみろ」とか思っている時間が好きだ。

 

 

夜中3時、雨で目覚める。雨が降るなんて聞いてなかった。寝ぼけ眼でハンモックを出る。私は慌てることが大嫌いだから一旦お湯を沸かして冷静に考える。身体が芯から冷えている。お湯を飲む。「癒されるなあ」とか感じていたら雨足が強くなる。すべてが濡れる。慌ててハンモックの撤収に取りかかる。ずぶ濡れになりながら「金持ちはしない苦労を、貧乏人はするんだなあ」とかちょっとだけ思う。冷えた身体を温めるために夜の福岡を延々と歩く。群れた若者がなにやら大声をあげて騒いでいる。水たまりの上をタクシーが走り抜け、私に向かって「びしゃん!」と跳ね返った。

 

ibaya.hatenablog.com

 

孤独なとき、あなたはひとりではない。

今夜、福岡で『孤独の愉しみ方』をテーマにトーク企画がある。私は、昨日、ものの見事に孤独だった。孤独な時のしんどさは、まるで、自分だけが「周囲から切り離されている」ように感じることだ。誰からの眼差しも感じられない、誰も自分のことなんて見てくれていないのだと感じる時に、人間の心はあっという間に閉じる。逆に言えば、自分の心を開かせてくれるものに出会えたとき、孤独は緩和する。孤独が人間を磨き、孤独が人間に深みを与えることもある。孤独を経ていない優しさは、あまり頼り甲斐がない。

 

ここ数日サバイバル動画を見続けていたから「彼も頑張っていたのだから自分も頑張ろう!」みたいに思えた。実際に会ったことなどないけれど、彼は俺の友達だ。そう思えるひとが世界にたくさんいることは嬉しい。だから私は読書をするのだろう。読書をすると友達が増える。それは『戦友』という感覚に近い。世界にはこんなにも頑張って生きた人間がいる。そう思えるだけで力を得る。過酷な状況の時はエドを、月の夜は西行を、乞食の日々は良寛を、コーヒーを淹れる時は高知のS様を、逆境に置かれた時は中村久子を、空腹の時はガンジーを、雨に濡れた夜は徳永英明を、宝物を奪いに行く時はルパン三世を、都会の喧騒の中では華原朋美を思い出す。

 

孤独な時には「もしかしたら、いま、自分と同じように孤独なひとがいるかもしれない」と思うようにしている。すると、孤独がつながりを生む。人間、それを表に出さないだけで「孤独だな」と感じる瞬間は誰にでもあるだろう。渦中に置かれている時はしんどいが、少しでも、意識を外側に向けることができれば「自分と同じ人間がいる」と思える。自分はひとりではないことを掴む。自分はひとりではない。この感覚が力になる。どのような状態に置かれても、あなたは絶対にひとりではない。あなたと同じ孤独を、あなたと同じ苦しみを、ここに生きている人間がいる。などと、見えない誰かにそんな感じの温度を届けることができたらいいな、この孤独が自分を周囲から孤立させるためのものではなく、みんなとつながるためのものになればいいな、などと思いながら延々と歩いた。

 

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最悪の場合でも、死ぬだけ。

時間がある時に上の動画を見て欲しい。エドの表情が実に素晴らしい。なぜ、エドは自らを過酷な環境に投げ出すのか。彼の目標が最高だ。それは「(過酷な環境の中で)充実した日々を過ごすことだ」と彼は言う。その時の笑顔が素晴らしい。彼は、極論『楽しむ』ために生きているのだ。時に、迫り来る苦しみまでも友にして。過酷な環境にも慣れてきた頃、彼は言う。『今日は自分に試練を課します。充実感を得るために。』と。そして、危険極まりない川辺とかに自分から趣き、そこで獲得したムール貝とかを手に「うほー!最高だ!人生最高のムール貝だ!俺は最高に報われた人間だ!」などと感激をあらわにする。

 

彼を見ていると「俺なんてまだまだだな」となる。清々しい敗北感に包まれる。露骨に元気になる。私が男だからなのだろうか、どうしても人生を勝負事として捉えてしまう。調子に乗っているひとを見ると「これからお前をぶっつぶす」などと思うし、時の権力者に反発するようなことを積極的に採用して「ざまーみろ」などと悪態をついてしまう。そんな自分が好きだ。そんな自分を変えるつもりがない。こういう生き方を許されていることを、非常にありがたいことだなと思う。私は恵まれた人間だ。成功する自由もあれば、今回のように「雨にずぶ濡れて夜な夜な延々と歩き続ける無様な醜態を晒す自由」もある。成功する自由だけではない、時には『失敗する自由』を行使することができたとき、めちゃめちゃ言い訳めいて聞こえるとは思うけれど、真の意味で「俺は自由だ」とかちょっとだけ思ったりする。

 

野営をしていると時折警備員や警察官に怒られる。でも、逮捕をされることはない。最悪の場合でも怒られるだけなのだ。それならば怒られるまでやればいい。そんな腹の括り方をしている。同じように、人生全般に対しても『最悪の場合でも、死ぬだけ』と思っている節がある。最悪の場合でも死ぬだけなのだから、置かれた状態を楽しもう。悲愴感を漂わせるより、できる限り笑えるポイントを抽出しよう。そう思って生きてきた。こんな私の吐き出す言葉に、時折、ありがたいことに「救われました」とかいってくださる人がいる。そんな時、私はこっそり思う。『俺がお前を救ったんじゃない。お前を救ったものは言葉だ。言葉が、お前を救ったんだ。言葉は、誰のものでもない。ただ、俺と言う人間を通過して出てきただけのものだ。』とか、そんなことを思う。いま、私は、言葉を生業として生きている。言葉は誰のものでもない。強いて言えば『神様のもの』的なサムシングである。それによって生きていることを、ちょっとだけ誇りに思ったりする。

 

 

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都会で野宿。。俺なりの反骨。。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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世間体を捨てると楽になる。 

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『他人の修羅場は蜜の味』とはよく言ったもので、修羅場の話を聞くと興奮する。ある日、ある女性が、彼氏じゃない男性と一緒にお風呂にはいっていた。すると、そこに彼氏(私の友達)が登場をして「なにしとるんじゃああああ!!」という状態になった。彼氏は男をボコボコに殴る。彼女は「やめてーーー!」と絶叫する。彼氏は、悪鬼顔負けの形相を浮かべながら、恐ろしいほどに落ち着いた声で「誰が、なにをやめるというんだい??」と問い返す。鳥肌が泡立つほどの修羅場である。生々しい人間の姿に触れると、なにかこう、『グッ!』とくるものがある。

 

 

沖縄を経由して福岡にきた。福岡が想像以上に寒いから無印良品で毛布を買いそうになった。各種電子機器類の電池がなくなり、いま、慌てて最寄りのタリーズに駆け込み充電をしながら無料WiFiを拾ってディスカバリーチャンネルのサバイバル動画を見ている。ここにいると「タリーズは俺の別荘だな」とか思う。家はなくても、自分は貧しいままでも、世界は勝手に豊かになる。どこにいても、まるで自邸にいる時のように寛ぐ能力を磨くこと。寄生力とでも言えばいいだろうか。この能力を極めると、お金はなくても幸せになれる。

 

ibaya.hatenablog.com

 

管理事務所に火をつけろ。 

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自作の封筒と水引

 

さっきまで福岡空港近くの東平尾公園野点カンタービレをやっていた。久留米在住の女性Y様が福岡空港まで車で迎えに来てくださり、博多うどんをご馳走になり、御礼に東平尾公園でコーヒーを淹れた。公園に行くと看板がある。そこには「ボール遊びをするな」だの「寝るな」だの「焚き火をするな」だの管理事務所による規制規制のオンパレードが書かれてある。私は、こういう看板を見るとドロップキックをしたくなる。人間、規則で縛られているうちはまったく本当じゃないと思う。野田知佑さんが著書『本日順風(アウトドア人生相談)』のなかで、私の感じる違和感を見事に代弁してくれている。

 

Q・この前、あるカヌークラブに入ろうと思い、行ってみたら、その会は入会金も会則もなんにもなく、何をやってもよろしいという。いつ誰でも入れるし、いつ辞めてもいいという、とてもでたらめな会でした。そんなだらしない会に入る気はせず、早々に辞退してきました。北海道のカヌークラブでちゃんとしたクラブを知っていたら紹介してください。

 

A・君のような人間は死んだ方がいいと思う。会則のないクラブなんてとてもいいじゃないか。会則がないのなら罰則もないだろう。そういう会は理想だと思うがね。そういうのは「だらしがない」とはいわず「自由な」というのだ。

最近、方々にキャンプ場ができていて、そこに行った人の話を聞くと、ひどいものらしい。罰則だらけなのだ。

人を管理するのが好きという精神はそもそも病的なものであると知りたまえ。弱い人間は他人を管理したがり、規律やルールを好む。弱い人間ほど人間を拘束し、自分を縛るものがないと生きていけない。

ぼくはアウトドアにおけるあらゆる規則、制度に反対する。われわれの頭のなかにある人間としての良識で十分だ。それは「不文律」で、ことさら文章にしたりわめいたりする必要はなかろう。

規則や規律を強調する人間は、自分の良識のなさ、自制心のないことを告白しているのである。自分を縛る規律がないとやっていけない、というのはとても幼稚な精神だ。幼稚なガキは判断力や価値観がない。ルールがないと不安になる。だから自分の上に立って強く命令してくれる人を欲しがる、その結果、独裁者ができるという構図がある。自由になれない奴、石頭の教条主義者は死ね、というのが当、身の上相談の不文律である。


野田知佑『本日順風』【文春文庫】 より引用

 

東平尾公園で淹れたコーヒーが美味すぎてみんなで一緒に発狂した。愛用している珈琲ミルは、数年前、高知で非常にお世話になっている女性S様から譲り受けたものになる。今日、前回の投稿を読んだS様から「もし、この話に出てくるミルがあのミルなら、なんか良かったなあと思いながら読みました」とご連絡をいただいた。まさにそのミルを愛用している。S様を思うと胸がとってもホットになる。S様の胸にはどでかい太陽の刺青がはいっている。前、高知県で一緒に「ここの銭湯は刺青がはいっていても大丈夫なんよ」と、昔ながらの銭湯に連れてってもらった。私は「まさにそのミルを愛用しています!」とS様に返信をした。ら、S様は「ありがとう。なんでこんなバカに俺はコーヒーを飲ませたんだって後悔したらミルで殴っていいからな。」と言った。

 

公園に一緒に行ったY様は「はい!」と言って、自作(!)の封筒と水引を差し出した。すべて手作りとのこと。最近、Y様は紙に強い興味があって紙屋さんに行ったら楽しすぎてテンションがぶちあがった。Y様は言う。「前の記事で『自分の好きを貫く』って言ってたけど、それ、本当に大事だと思う。私も、離婚をして実家に戻ってから、ようやく自分の好きを取り戻すことができた。自分を笑顔にすることをやっていたら、お小遣い稼ぎもできるようになった。最近は農作業もはじめたのだけれど楽しい。坂爪さんは恩人です。」と。野点セラピー(?)、ここに極まれり。封筒の中にはなんと一万円札がはいっていた。最近「なんでもやります!」と息巻いている私の友人の嘉向徹さんに、このお金を使って、何か面白いことを頼んでくださいと頼まれた。

 

toruquqlia.hatenablog.com

 

世間体を捨てると楽になる。 

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東平尾公園

 

最近、ブログを更新するたびに「あなたにはがっかりしました」と言って去る人々が増えた。これでいいのだと思う。過度な期待をかけてくるひとほど、あとから「あなたにはがっかりしました」的なことを言う。大概、どんなひとがそうなりそうなのかが事前にわかるようになった。彼(女)らには、端的に「甘えるな」と言いたい。いまこそ、我らが阿部さん(いばや野球部キャプテン)の言葉を思い出す。自分の中に勝手な「こうあって欲しい」像をふくらませ、人に押し付けたあげく、望む通りに動いてくれないと勝手に落胆し、批判し、糾弾する。その先に一体何があるのか。はっきり言ってロクな未来はないだろう。この言葉を、彼(女)らの背中に強力接着剤で貼り付けてやりたい。

 

悩みの9割は世間体だと思う。世間体を捨てれば楽になる。昔は、キリスト教に入信するだけで、周囲から迫害されたり「耶蘇を捨てねばお前を殺す」とか言われたりした。頭髪が長いだけで学校を退学になったり、小説を書くだけで死刑になった。いま聞けば笑い話になりそうなことも、当時は真剣に行われていた。何が常識を決めるのか。それは、たまたまその時代の多くの人々が「そういうことになっている」と受け入れたことの集大成に過ぎない。常識が、あなたを幸せにするのならば従えばいい。常識が、あなたを不幸にするものであれば、それは違うと言えるだけの勇気を持たなくちゃいけない。誰が。自分が。自分が嫌だと思うことを受け入れることは、自分が嫌だと思うことに加担をすることになる。加担をする限り、悪習は続く。誰かになにかをやってもらうことを期待すると、前述した「あなたにはがっかりしました」とか言い出す人間が続出をする。自分が甘えていることに無自覚な人間が、雨後の筍のようにあらわれてくる。

 

人見知りという言葉がある。しかし、私は「人見知りな人間なんてこの世にいない」と思う。人見知りなんじゃなくて、ただ、目の前にいる人のことが嫌いなだけ。自分を出すには値しないと感じる人間がいるだけ。軽蔑している人間がいるだけ。コミュニケーションを取れない人間がいるだけ。だって、普通に会話が弾むひとは確実にいるのだから。わかり合おうと努力をしなくても、わかり合える人々が世界には無数にいるのだから。だから、自分のことを人見知りだなんて思う必要はない。コミュ障という言葉も最悪だ。そんな程度の低い言葉で自分をカテゴライズする必要はない。そんなことより、自分は「好き嫌いがはっきりしている、いい感じの人間なんだ」と思っている方がずっといい。たとえ、それが世間が定めた基準とはおおきくかけ離れたものだとしても、自分が「おかしい」と感じるならば、お湯に触ったら熱いと感じることと同じように、それは「おかしい」ものなのだ。

 

 

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人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きることそのものが、生きがいになるように。

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漫湖で寝た」と言いたかったためだけに那覇漫湖で野営をする。沖縄が寒すぎて、慌てて無印良品で毛布を買った。が、寒いのは初日だけで二日目からはお荷物になった。毛布は半端なくかさばる。が、毛布は半端ない安心感をもたらしてくれる。まるで熊さんをペットに移動をしているみたいだ。これさえあれば「俺はどこでも生きていける」みたいな気持ちになって安心である。が、やっぱり邪魔になったから宅配便で横浜に送った。

 

 

今日は1日那覇で時間ができた。各種SNSから「那覇で暇です」と投稿したら、複数名から連絡をいただいた。国際通りの東雲食堂で爆盛りの定食をご馳走になり、瀬長島のおしゃれなカフェで爆盛りのぜんざいをご馳走になり、漫湖公園でお土産のみかんをご馳走になった。正直に言うと、毛布の大打撃によって所持金はゼロに近づいていた。与えられたもので生きる。最近、この言葉を頻繁に思う。与えられたもので生きる。とか。あるもので生きる。とか。あ、これってもしかしたら『サバイバル』とかいうやつかもしれないと思った。

 

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漫湖の紳士

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昨日は久高島の猫ちゃんと1日を過ごした。

 

私は屋外でコーヒーを淹れるのが好きだ。真の意味で路頭に迷った時は「めちゃめちゃ心を込めたコーヒーをご馳走するので誰か代わりに食糧をください」というスタイルで乞食(こつじき)をしながら生きることも割と真剣に考えている。今日、那覇で出会った女性にコーヒーをご馳走させていただいた。こちらの女性と実際に会うのは初めてだったが、数年前、私が「大量にこんにゃくをもらったので欲しい人に郵送します!」という企画(?)をやった際に、名乗りをあげてくれた女性だった。

 

「あの時はありがとうございました。おかげで命救われました。」と彼女。話を聞くと、当時、彼女は電気水道全部を止められてしまい、金も水も食糧もなにもなく、文字通り餓死しかけていたのだと話す。そんななか、こんにゃくの降臨で九死に一生を得たとのこと。まさかあのときのこんにゃくがこんな感じで誰かを救っていたとは、と、私は感動した。遊び感覚でやっていたことが、時に、誰かの命を救うことがある。これはきっと誰にでもあることなのだろう。彼女は、私と出会えたことを過剰に取り乱しながら喜んでくれた。あまりにも錯乱していたものだから「一緒にコーヒーでも飲みませんか?」と提案をした。ら、「飲みます!」と彼女。そこで私は「コーヒー豆を挽いてもらってもいいですか?」とお願いをする。彼女「はい!」。豆を挽きながら彼女「ああ、ものを頼まれるのってうれしいことですね」と深めの呼吸、徐々に落ち着きを取り戻していった。

 

数秒後、ミルを回しながら彼女は涙を流していた。もう、きっと思うことがあり過ぎて感極まったのだろう。私は何も聞かなかった。何も聞かない自分を(そして、さっと「コーヒーでも飲みませんか?」とか言っちゃう自分を)結構素敵だなと思った。俺、紳士だなあと。あたたかいコーヒーや紅茶は一旦空気を落ち着かせる力がある。コーヒーを淹れる過程には、心を落ち着かせる瞑想効果がある。豆を挽きながら「なんだか、いま、久しぶりに幸せを感じました」と彼女。その後、コーヒーを飲みながら彼女「あ、いま、ようやく風を気持ちいいと感じられるレベルまで落ち着きました」とのこと。話しながら彼女は何回か涙を流した。俺って結構すごいんじゃないかと思った。途中、彼女から「あなたはキリストみたいですね」と言われた。半端ないやつがきたと思った。野点セラピー、ここに極まれり。明日から福岡だ。福岡でも連日野宿だ。17日はイベントだが、空席がすごい。興味のないひとも遊びに来てください。隙間時間は野点カンタービレを極めたいと思った。

 

🌸🌸🌸福岡のイベントはこちらです🌸🌸🌸

ごちゃまぜの家を救え!対談企画・坂爪圭吾×福岡県のみなさま「孤独の愉しみ方」

 

 

生きることそのものが、生きがいになるように。

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瀬長島

 

久高島から那覇市内に戻ると超絶うるさい選挙カーが街中を走り回っていた。私は、選挙カーほど醜いものはないと思っているので「この国に生まれた自分が恥ずかしい」と思って消えたくなった。このままじゃやばい。このままだと死ぬと思って慌てて最寄りのタリーズに逃げ込んで無料WiFiを拾いディスカバリーチャンネルのサバイバル動画を見た。大自然のなか、懸命に生きようとしている人間の姿に触れると、それだけで「俺も生きよう」みたいな気持ちになる。魚が釣れたことを全身全霊でよろこんでいる男性の姿を見て、ああ、と猛烈に安心をした。力を得た。結果、消えかけたやる気を取り戻して「うおおおおお!」となって漫湖に来た。

 

自分を救うものは「自分の好きなもの」だと思う。過去、体も心もボロボロの厳しい状況に置かれて金もやる気もなにもかもを失っていた時に、とある曲の歌詞を思い出すことで生きる力を取り戻した。それは小沢健二の『天使たちのシーン』という曲で、歌詞は「神様を信じる強さを僕に」というものになる。そのあとに「生きることを諦めてしまわぬように」と続く。この歌詞を聞いた途端、露骨にやさぐれかけていたけいご少年は「ああ、そうだよな(生きることを諦めちゃダメだよな)」と思って少しだけ涙を流したあとに再び歩き出す力を得た。自由であることと、自暴自棄であることとはまったく違う。自由であるためには、凛とした生きる強さを内部にしっかりたくわえなくちゃいけない。ちょっとやそっとでは折れない心。精神性。勇敢さ。それを育んでくれるものは「自分の好きなもの」であり、自分の好きなものが自分を励ましてくれた記憶だと思う。なにかを好きになることが、誰かを好きになることが、自分の好きを思い出すことが生きる強さになる。だからこそ、私は『何かを好きになること』以上に尊いことはこの世にないと思う。

 

ディスカバリーチャンネルの中で、ボロボロになった挑戦者の男性が「しんどさを感じる。しかし、このしんどさこそ私の欲しかったものだ。魂を震わせ、癒しを与えるもの。限界を超える体験がなければ、挑戦の意味がないじゃないか」的なことを言った。格好いい言葉だと思った。ああ、この人も、自分も、結局は「やりたいからやっているのだ」と思った。自分が置かれている状態を、決して、誰のせいにもしないこと。他人の顔色を伺うばかりに、みんなにいい顔をしたいと思うばかりに、身動きがとれなくなってしまうようなダサい自分を蹴飛ばすこと。過酷だなと感じる出来事さえ『ある種の恵み』として引き受けること。そうすれば、どのような瞬間も楽しむことができる。目の前の現実を前向きにとらえ直すことができる。過酷さを乗り越えることで、自分に対する信頼を取り戻すことができる。都会に暮らしていると、どうしても抽象的でふわふわとした悩み方をすることが多い。自然に生きることは、端的に「どこで寝る」とか「何を食う」とか、現実的な問題をひとつずつクリアしていく積み重ねだ。そのひとつひとつの実体験が、ああ、俺はできたという達成感を生む。どうしてこんなことになったのだろう、とか、こんなことになるのなら家でおとなしくしていればよかった、などとは考えない。それよりも「俺は、これをやりたくてやっているのだ」と受けて立つ。すると、愚痴や弱音や言い逃れは消える。よし、やってやるかという前向きな爽快感を取り戻す。

 

 

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#kudaka #sunset #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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美しく生きる。

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昨日、幸福の科学の映画を見た。自分だったらなかなかやろうとは思わないことも、誰かに誘われることで「あ、やってみるのも面白そう!」と思う。興味のないことをやることは、時に、新しい遊びになるのかもしれない。映画館には大勢の観客がいた。色々なことを思ったが、一番は『事実は映画よりも奇なり』と思った。本気を出して生きはじめた人間には、必ず、ドラマティックな展開が起こる。そのことを、ここ数日、身近な友人たちに起きている出来事を通じて実感する。

 

 

今、沖縄県の久高島にいる。猫が近寄ってきた。俺はさみしいのだろうか。動物が近寄るとめちゃめちゃ話しかける。動物と過ごす時間は癒しだ。史上最強に素直になれる。頻繁に「勇気を出す」とか「本音を出す」などの表現を私は使うが、実は、これらは出すのではなく「出させてもらっている」「出しやすい環境や相手がある」だけなのかもしれない。誰と時間を過ごすかで、引き出される自分は大きく変わる。日本で見る夢と、海外で見る夢も違う。自分は出すものではなく「出させてもらっている」ものだとしたら、誰といるか、何処にいるか、自分を何処に置くかは、何をするか【自力】を越える力を生む。

 

ibaya.hatenablog.com

 

自分の『嫌い』を表明する。

沖縄でイベントに登壇した。参加者の男性が実体験を話してくれた。「私は過去にアメリカに旅行をした。空港でレンタカーを借りる際、保健規約がどうのこうので店員と揉めた。私は日本では穏やかキャラだが、海外にいる時は英語を使うからなのかまっすぐに自分の怒りを表明している自分に気づく。店員も店員で言いたいことをガンガン言う。日本では衝突を極端に嫌うが、アメリカでばちばちやった後、ああ、衝突することの中にも気持ち良さはあるのだなと思った。怒りを表明することは、勿論ストレスもあるが、最後には清々しさを私に残した」。

 

揺れる家。。。

 

彼は続ける。「冷静に観察すると、私は怒っていたが店員は決して怒ってはいなかった。私は、自分の言いたいことを言うために怒りを利用した。しかし、いつの日か怒りを通さないでも言いたいことを言えるようになるのだと思った。怒り方を学ぶことは、自分の出し方を学ぶことだ。自分の出し方を学ぶことは、自分を浄化する方法を学ぶことだ。怒りを溜め込むと憎しみになる。溜め込んだ感情は自分の中で腐り、それが憎しみや不機嫌や呪詛になるのだ。その腐敗臭を、おそらく『負のオーラ』と呼ぶのだろう。自分を出すと言うこと。それは怖いことかもしれない。過去に自分を出したことで傷ついたり、大事な誰かを傷つけた経験は誰にでもある。その時は、自分を出さないことが安心を意味した。しかし、その時期は過ぎた。自分を出さないことが安心な時期は過ぎたのだ」。

 

沖焼け。。。#沖縄 #朝焼け #lifeisgood

 

自分の『嫌い』を表明する。それは、自分の『好き』を表明することと同じくらい大切なことだ。嫌い(NO)を表明する瞬間は勇気がいる。もしかしたら「このまま相手との関係性が途切れるかもしれない」という恐れも湧く。しかし、多くの場合、自分の嫌いを表明してもコミュニケーションは続く。恐怖心から全身が小刻みに震えることもあるが、コミュニケーションは終わらない。言いたいことを言った自分に対する信頼感も生まれるし、空間全体に爽快感の風も吹く。逆に、嫌われないために好かれよう好かれようと思って生きているひとほど、その嘘臭さは周囲にモロバレとなり、結果的に嫌われることは多い。そもそもで、嫌われないように生きる人生は疲れる。疲れを覚えるということは、何かしら『やり方を間違っている』のだと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫『われ弱ければ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『われ弱ければ 矢島楫子伝』です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

 

この言葉は私の胸を強く打った。仮に私たちが、どこかの学校の校長になったとしてみよう。誰が一箇条の規則も作らぬという楫子の真似をすることができようか。いつの世も、学校というところには規則や生徒心得があり、さらに細則を加えがちである。現代の学校を見ても、特に中学、高校においては、制服の有無、頭髪を伸ばす伸ばさぬ、スカートの丈、ブラウスの色、運動靴の種類等々、日常生活を規則でがんじがらめにしている話をよく聞く。これは、人間がいかなるものであるかを知らぬところから、生まれたものではないだろうか。人間というものは規則で縛り得るものではない。人の心の中には、「触れるべからず」と書いてあれば、触れてみたい心が湧き、「入るべからず」と書いてあれば、入ってみたい思いも湧く。人間は本来自主的に生きたいものなのだ。

矢島楫子は、「あなたがたには聖書がある、自分で自分を治めよ」と言いきった。この学校は、キリスト教主義の学校で、各自、聖書を学んでいたとはいえ、「自分で自分を治めよ」というこの言葉に、生徒たちはどれほど人間としての自覚を促されたことであろう。これはすべての生徒の人格を認めたことである。

三浦綾子『われ弱ければ』【小学館文庫】

 

美しく生きる。

イベントに参加してくれた男性から「坂爪さんの言葉に触れた時、ああ、自分は許されたのだと感じた。さまざまな本を読んできたが、こんな気持ちになることはいままでになかった。大袈裟だけど救われた思いがした。この感動はひとしおだった」と言われた。この言葉は最高に嬉しかった。自分自身、過去に大好きな音楽の歌詞を通じて「ああ、自分も生きていていいのだ」と存在を許されたように感じた記憶がある。生きていても何もいいことはないと思っていた10代の頃、私は、私の大好きな音楽を通じて「生きててもいいよ」ということを言われた気がした。この時は涙があふれてとまらなかった。世界にはこんなにも優しいものがあったのかと、言葉にすることのできない、全身が震えるほどの感動を覚えた。

 

この時の涙が、自分が生きる指標を与えた。自分がこれからやることも、過去の自分がひどい暗闇の中で何も信じられない、何もかもが嘘臭いと感じる中で「それでもなお、これだけは本当かもしれない」と思えた光。死にたいと思っていた自分を、生きる方向に向かわせた光。自分も、それを生み出す生き方をしたいのだと思うようになった。多かれ少なかれ、誰もが生きる上での指標を持つのだろう。金になるか、否か。モテるか、否か。楽しいか、否か。親から認められるか、否か。など。私の強い部分を占めるもの、それは「美しいか、否か」という指標だ。私は、過去に、私が美しいと感じたもの、自分の心が「これは本当だ」と思うものに光を見た。同じように、いま、自分は自分の生き方に美しさが宿るような、本当の言葉、本当の眼差し、本当の生き方をしていきたいと思っている。

 

美しく生きるということは、自分の中にある美しい部分だけを出すことではない。自分の中にある、一番、本当に一番醜い部分を差し出すことだ。誰からも歓迎されるような善意や良心や光の部分だけではない、弱さや狡さや醜さの闇を、まるごと引き連れて生きることだ。良い部分が本当の自分で、悪い部分は本当の自分ではないなんて、そんなことはないのだ。良い部分も、悪い部分も、良い過去も、悪い過去も、全部ひっくるめての自分だ。美しく生きるということは、自分の中にある優等生だけを引き連れて生きることではない。美しく生きるということは、自分の中にある『みんな』を引き連れて生きることだ。自分の中にあるみんなを引き連れた人間が、周囲の人々、自分の外側の人々も、同じように引き連れていくことになるのだと思う。

 

 

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fast alone, far together

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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もっと真剣に生きてください。

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ごちゃまぜの家の裏側に豚小屋を建てている。豚は私だ。完成したら私(資本主義の豚)が暮らす。先日、大量の廃材をもらった。廃材を使えば無料で作れる。もともと、豚みたいな生活をしていた自分だ。豚は餌をあげると喜ぶ。資本主義の豚はおかねをあげると喜ぶ。見世物小屋みたいな感じになる。豚小屋に私が住み、餌の代わりにお金をねだる。お金をもらえない時は「ぶぅ!」、お金をもらった時は「ぶぅ♡」である。これはもう、どれだけチャーミングに開催できるかの勝負だ。

 

 

ごちゃまぜの家の運営メンバーになかむらさんが加わった。当初は「誰もメンバーこないね…」などと塞いでいたが、ここ数日間で驚きの展開。あれよあれよと参加希望者が集まり、残り座席はひと席程度となった。参加条件などは不文律で、要するに人柄ということになる。ごちゃまぜの家は、基本的に誰がいつ来てもいいことになっている。が、これは受け入れ側にも言えることであり「あなたが自由であるように、こちらも自由であることを忘れるなよ」という、どこかしらパンクな精神が根底に流れている。

 

 

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青年は辺境を目指せ。

将来はゲストハウスをやりたいと話す若者に、多分、これまで100人くらい会った。あまりにも定番すぎるものだから「お前もか!」と毎度突っ込みたくなる。シェアハウスやゲストハウスに興味があるからごちゃまぜの家に来ました、とか言われると「俺(坂爪圭吾)はそういうの全然興味ないからね!」と言うようにしている。すると大概びっくりされる。幻滅されることもあるし、露骨に嫌われることもある。そして、ああ、俺は世間からはそんな風に見られているのかと軽くへこむ。

 

「坂爪さんも地球家族という概念を大事にしているんですよね!」とか前に言われた。一方的に決めつけられている感じがものすごい嫌で、私は「なにそのキモい言葉」と返した。こう言う感じで、私は、頻繁に遊びに来てくれた方々と揉める。未熟な豚である。取材や講演の依頼が来ても、大概、途中で揉めてなし崩し的に終わる。第一に、メールだけで要件を済ませようとする態度が気に入らない。本気ならば(対面コミュニケーションを大事にしたいとこれだけ書いているのだし、自分のスケジュールも公開しているのだから)なんでもいいから一回会いに来いよと思ってしまう私は、古いタイプの人間なのだろうか。

 

きっと私は少数派の人間なのだと思う。ビジネスのやり方とか、メールでことを済ませる(金になるとわかってから実際に動き出す)ことの方が、効率的だし諸々合理的なのだとは思う。しかし、私はそこに反発を抱く。それができていたらこんな生き方はしていないよと思う。誤解を恐れずに言うと、私はお利口さんが嫌いだ。器用にたち振舞われるより「不器用でも熱意のある言葉」に触れた時の方が、五億倍燃える。熱を感じるひとと一緒にいたいし、右に倣えの青年より、辺境を目指す青年が好きだ。市民権が得られているものではなく、まだ、市民権が得られていないものを目指す青年が好きだ。今夜はごちゃまぜの家に泊まり、明日から沖縄に行く。

 

 

わたり文庫『人生の救い』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、車谷長吉著作『人生の救い』です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、栃木県にわたりました ※※※

 

質問・教え子の女性とが恋しいんです。


40代の高校教諭。英語を教えて25年になります。自分で言うのも何ですが、学校内で評価され、それなりの管理的立場にもつき、生徒にも人気があります。妻と子ども2人にも恵まれ、まずまずの人生だと思っています。

でも、5年に1度くらい、自分でもコントロールできなくなるほど没入してしまう女子生徒が出現するんです。

(中略)

教育者としてダメだと思いますが、情動を抑えられません。どうしたらいいのでしょうか。

 

回答・恐れずに、仕事も家庭も失ってみたら


私は学校を出ると、東京日本橋の広告代理店に勤めましたが、この会社は安月給だったので、どんなに切り詰めても、一日二食しか飯が喰えませんでした。

北海道・東北への出張を命じられると、旅費の半分は親から送ってもらえと言われました。仕方がないので、高利貸から金を借りて行っていました。生まれて初めて貧乏を経験しました。二年半で辞めました。

次に勤めたのは総会屋の会社でした。金を大企業から脅し取るのです。高給でしたが、二年半で辞めました。三十代の八年間は月給二万円で、料理場の下働きをしていました。この間に人の嫁はんに次々に誘われ、姦通事件を三遍起こし、人生とは何か、金とは何か、ということがよくよく分かりました。

人は普通、自分が人間に生まれたことを取り返しのつかない不幸だとは思うてません。しかし私は不幸なことだと考えています。あなたの場合、まだ人生が始まっていないのです。

世の多くの人は、自分の生はこの世に誕生した時に始まった、と考えていますが、実はそうではありません。生が破綻した時に、はじめて人生が始まるのです。従って破綻なく一生を終える人は、せっかく人間に生まれてきながら、人生の本当の味わいを知らずに終わってしまいます。気の毒なことです。

あなたは自分の生が破綻することを恐れていらっしゃるのです。破綻して、職業も名誉も家庭も失った時、はじめて人間とは何かということが見えるのです。あなたは高校の教師だそうですが、好きになった女生徒と出来てしまえば、それでよいのです。そうすると、はじめて人間の生とは何かということが見え、この世の本当の姿が見えるのです。

せっかく人間に生まれてきながら、人間とは何かということを知らずに、生が終わってしまうのは実に味気ないことです。そういう人間が世の九割です。

私はいま作家としてこの世を生きていますが、人間とは何か、ということが少し分かり掛けたのは、三十一歳で無一物になった時です。

世の人はみな私のことを阿呆だとあざ笑いました。でも、阿呆ほど木の楽なことはなく、人間とは何か、ということもよく見えるようになりました。

阿呆になることが一番よいのです。あなたは小利口な人です。 

 

車谷長吉車谷長吉の人生相談 人生の救い』【朝日文庫

 

もっと真剣に生きてください。

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先日、こんなメールをいただいた(こんな感じの連絡は頻繁にいただく)。

坂爪さん、ごちゃまぜの家についてお伺いしたいことがありメールさせていただきました。 実は、 児童養護施設の子供たちが、18才になって施設を出されてしまうと、保証人もいないため、なかなか住む所がなくなってしまうこと、そのため、路上生活となり、犯罪に手を出してしまったり、 風俗のお仕事でボロボロになってしまう子供達が多い現実をなんとか変えたい!救いたい!と、友人がNPO法人を立ち上げました。施設を出された子供達が住める場所(できれば無料のところ)を探しているそうです。坂爪さんのごちゃまぜの家の話をしたところ、「一時的にでも、施設を出された子供達を住まわせてもらえるかどうか、勿論、光熱費は支払いますので 聞いてほしい」…と言われております。勿論、ずっと彼らが住めたらありがたいそうですが、それだとごちゃまぜの家の意味がなくなってしまいますので、一時的にでもいいので住むことは可能でしょうか。お返事お待ちしております。

 

小生の立場を明確にするため、返信を掲載する。

 

遅くなりました!

一点 本気
なら、あなたではなく、NPO代表本人が連絡をしなさい。
二点 メールだけ
で済まそうと思うな実際に来い話はそれから
三点 誰かを救いたいなんて、
何様のつもりだ

以上。もっと真剣に生きてください


このような返信をすると、およそ9割からは返信さえ来なくなる。消えるのだ。正直、私は「この程度で引っ込む奴は最初から引っ込めばいい」と思う。最近、頻繁に『ジョゼと虎と魚たち』という邦画のワンシーンを思い出す。詳しくは映画を見ていただきたいのだけれど、主人公のジョゼが、思いを寄せる男性に向かって「帰れ・・・!!『帰れ』って言われて帰るような奴ははよ帰れ!!」と怒りを爆発させる場面がある。私は思う。一回断られたくらいで諦める程度の熱量ならば、そんなものはやめちまえと思うのだ。逆に言えば「私は、いま、メールでお断りをした。それでもなお、あなたには『何度でもしつこくぶつかってくる』権利があることを忘れるな」とも思っているのだ。

 

コミュニケーションとは、こういうことだと思っている。私の目的は「相手をボコボコにする」ことではなく「本音を確かめ合うこと」だ。それによって、最初は断りたいと思っていた提案も、流れによっては「是非、我々にもお手伝いをさせてください」となる場合もある。だからこそ、私の意見が違うと思ったらその時は『違う』とボールを投げてほしい。一回断られた程度で引き下がるような、やわな思いなら最初から声をかけないでほしい。なにかしら自分なりの熱量があったからこそ、あなたはその活動をはじめたんじゃないのか。それならば、その熱量を俺にぶつけてきてみろよ、と、思う。

 

私はこういうタイプの人間だ。自分から歩み寄るタイプの人もいるのだろう。しかし、私は歩み寄りたいとは思わない。できることならば、お前から越えて来いと思う。そのためには、多分、勇気が必要になる。「自分にはそんな勇気はない」などと言って逃げるひともいる。しかし、それは違う。勇気は『出すか、出さないか』だ。これは、逆に言えば『勇気はすでに自分の中に備わっている』ということだ。出すか、出さないか、それを決めるのは常に自分だ。私は、それに助力をしたいとは思わない。私が歩み寄ったら、それは自転車に補助輪をつけて走ることと同じになる。補助輪をつけたままでは、あなたは自転車に乗れないままだ。だから、私は、歩み寄ることをしない。誰かになにかをしてもらおうと思うな。自分には力があるのだと認める恐怖を越えるのだ。勇気を出す瞬間は怖いかもしれない。それでも尚、私は「越えて来い」と思う。勇気には、勇気で応えていきたいと思う。

 

 

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#wanna be a brave explorer

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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愛情表現としての怒り。

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成功体験が足りないとか言うけど、逆で、失敗体験が足りないのだと思う。どうすればうまくやれるか、とか、どうすれば周囲から嫌われないか、とか、そういう風に尋ねられると「逆だろ」と思う。人生の最優先事項が嫌われないことだとしたら惨めだ。それでは誰の人生を生きているのかわからない。無傷で墓場に入るとき、それは誇らしい生涯だったと言えるだろうか。全然言えないと思う。そんなことよりも『嫌われたとしても構わないから、自分がやりたいと思うことを実行する』ことなんじゃないのかと思う。

 

 

今日、ごちゃまぜの家に保険の勧誘の女性が「保険入っていますか?」と下劣な笑顔でやって来た。営業を頑張っている(それが会社の方針である)ことはわかる。しかし、他人の領域に土足で踏み込んでくる精神性と、黒ずんだ表情が無理過ぎて「こんな仕事は早くやめなよ。そうじゃないと、あんた、カラダを壊すよ」と言って追い払った。街中でティッシュ配りをしている人間や、空港でクレジットカードの勧誘をしている人間にも、似たようなことを思う。共通点は『笑顔が嘘くさい』ことだ。日常的に嘘をついていると、やがて「自分が嘘をついていることすらわからない乖離した状態」になる。

 

ibaya.hatenablog.com

 

間違った「ごめんなさい」は自尊心をボロボロにする。

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嘘の笑顔は詐欺師と同じだと思う。前に、綱島駅前でリヤカーを引きながら全国各地のお菓子を売り歩いている若者がいた。彼と目が合ってしまったのが間違いだった。若者は「10秒だけでも見て行ってください!」と、超絶嘘くさい笑顔で私に言った。逃げる機会を逸してしまい、私は「どうしようかな」と思いながらお菓子を眺めた。若者は「おひとついかがですか??」と私に言う。私は、しばらく考えた後に「ごめんなさい」と言ってその場を離れた。ら、若者は、あろうことか私に向かって「いいですよ〜♫」とヘラヘラした感じで私に言った。私は、強烈な違和感を覚えながらその場を離れた。

 

違和感があまりにも強く、消化不良感が半端なかった。消化不良感はやがて『苛立ち』に変わった。この苛立ちは、若者に対する苛立ちではなく「言いたいことを言わなかった自分に対する苛立ち」だった。私は、若者にごめんなさいと言った。しかし、私の本音は「あんた、そんな笑顔が俺に通用すると思うなよ」という怒りだった。私は、彼に対して説教をしたかったのだ。それなのに、実際に口から出た言葉は『ごめんなさい』だった。説教をしたい人間が、謝罪の言葉を口にしているのだ。これはあまりにも真逆だと思った。ごめんなさいと言う言葉は、その場をしのぐには便利な言葉だ。しかし、使い方を間違えると自尊心をボロボロにする。この苛立ちは、私の自尊心が、生ぬるい言葉遣いをする自分に対して「お前、ふざけんじゃねえよ」と抗議をしているのだと感じた。

 

J-POPの歌詞に「ごめんじゃなくて、ありがとう」みたいなものが頻繁に登場する。しかし、使い方を間違えるとありがとうさえも自尊心をボロボロにする。私は、職業上(?)様々な人間からメールをもらう。返信をする際に「ご連絡ありがとうございます」みたいな言葉を癖のように使っていた。が、正直、この人は失礼だなと思う人からも頻繁にメールがくる。それに対しても「ご連絡ありがとうございます」とか言っている自分に激烈腹が立った。失礼なひとは大量にいる。名前さえ名乗らないひとも大量にいる。それに対しても「ご連絡ありがとうございます」とか言っている自分なんなんと思った。私の本音は「いい大人だろ。名前くらい名乗れ」だった。ここでもまた、最大の矛盾が起きている。説教をしたい人間が、謝礼の言葉を口にしているのだ。こういうところから自分はブレていくのだ。そう思い、失礼なひとには「あんたちょっと失礼だよ」とか「出直してこい」と返信をするようにした。ら、メールの返信が楽しくなった。自尊心をボロボロにするものは言葉だ。同じように、自分の自尊心を守るものも言葉だ。

 

わたり文庫『本日順風』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、野田知佑著作『本日順風 アウトドア人生相談』です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

Q・この前、あるカヌークラブに入ろうと思い、行ってみたら、その会は入会金も会則もなんにもなく、何をやってもよろしいという。いつ誰でも入れるし、いつ辞めてもいいという、とてもでたらめな会でした。そんなだらしない会に入る気はせず、早々に辞退してきました。北海道のカヌークラブでちゃんとしたクラブを知っていたら紹介してください。

 

A・君のような人間は死んだ方がいいと思う。会則のないクラブなんてとてもいいじゃないか。会則がないのなら罰則もないだろう。そういう会は理想だと思うがね。そういうのは「だらしがない」とはいわず「自由な」というのだ。

最近、方々にキャンプ場ができていて、そこに行った人の話を聞くと、ひどいものらしい。罰則だらけなのだ。

人を管理するのが好きという精神はそもそも病的なものであると知りたまえ。弱い人間は他人を管理したがり、規律やルールを好む。弱い人間ほど人間を拘束し、自分を縛るものがないと生きていけない。

ぼくはアウトドアにおけるあらゆる規則、制度に反対する。われわれの頭のなかにある人間としての良識で十分だ。それは「不文律」で、ことさら文章にしたりわめいたりする必要はなかろう。

規則や規律を強調する人間は、自分の良識のなさ、自制心のないことを告白しているのである。自分を縛る規律がないとやっていけない、というのはとても幼稚な精神だ。幼稚なガキは判断力や価値観がない。ルールがないと不安になる。だから自分の上に立って強く命令してくれる人を欲しがる、その結果、独裁者ができるという構図がある。自由になれない奴、石頭の教条主義者は死ね、というのが当、身の上相談の不文律である。


野田知佑『本日順風』【文春文庫】 

 

愛情表現としての怒り。

多分、変な自己啓発セミナーにはまっちゃった女性なのだと思う。彼女は「私は、喜怒哀楽の喜と楽だけで生きていきます!」と言っているのを見て、これはやばいなと思った。彼女の笑顔は無理にまみれていた。こういう女性を笑うことはできない。自分にもそんな風に思ってしまう瞬間はある。喜や楽は、ポジティブな感情だから表現することに抵抗がない。それに対し、怒りや悲しみはネガティブとされているから出し方にコツがいる。しかし、私は思う。怒りや悲しみの感情『だけ』を押し殺すことは不可能で、それらを封じることは感情全体を封じることになる。ネガティブに蓋をすると、皮肉なことに『ポジティブも絶滅をする』のだ。自分の嫌いに蓋をすると、自分の好きがわからなくなる。怒りを忘れた人間には、冷たい血が流れる。そして末端冷え性になる。

 

怒りはホッカイロである。怒りはネガティブなものではない。怒りは一種の愛情表現である。不機嫌と怒りは違う。憎しみと怒りも違う。怒りは瞬間沸騰的なもので、あと腐れのないものだ。溜め込んだ怒りが腐敗をすると、憎悪や呪詛や不機嫌になる。誰かに対する憎しみを耕す時、それは『自分自身に対する憎しみ』も同時に耕してしまっている。我々は「愛」とか「感謝」という言葉を好んで使う。大事な概念だとは思うが、愛や感謝が「怒りを出すべきタイミングを殺している」場合もある。愛している場合ではない。感謝をしている場合ではない。それよりも怒ることだ。と、そのように感じる瞬間がある。もっと言えば「愛とかなんだとかお利口なことを言っているときより、怒りを爆発させているときの方がよっぽど人間を愛せている」とさえ思う瞬間がある。もっともっと言えば、怒るときに『愛そのもの』になっているとさえ、私は思う。

 

愛とか感謝とか優しさよりも、我々は怒り方を覚えなくちゃいけない。怒り方にはコツがいる。SNSとかでよく見る「あべ死ね」とか言っているタイプの怒りは最低&最悪で、絶対に真似をしちゃいけない。真の怒りは切れ味鋭く、尾を引かない。爽快で、潔く、根底に愛がある。怒りを避けることは、自分の嫌いを受け入れるということだ。自分の嫌いを受け入れるということは、自分が「嫌うものそのもの」になるということだ。別に人類全体を愛する必要はないと思う。が、自分が常に近くにいる人間、職場、学校、家庭など、自分の生活の基盤となる場所では、怒りを表明していきたいと思う。最近、私は「間合いに入ってくる限り斬る」という武士的な感覚になることが多い。基本的に、みんな好きに生きればいいと思っている。が、俺の間合いに土足で入ってくるならば、その時は斬るぞ的な緊張感を大事にしたい。拙者、これが礼儀だと考える。同じように、目の前の人間に対する礼儀もしっかりわきまえたい。潔い怒り。潔い言葉。潔い生き方。切れ味のよい生き方をしたいものだ。

 

 

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人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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Photographed by Chiaki Toyozumi

 

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過去と現在と未来がつながる。そして無双になる。

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私の友人に、愛し合う二人の男女がいる。先日、女性が「あなたとは別に好きな人ができたから勇気を出してセックスをしました!」と真実を告げた。この男女、これまでも「我々はお互いを束縛しあうものではなく、お互いを自由にするものでいよう。だから、お互い、いろいろなことを自由にやろう」とは話していた。が、まさか、このような出来事が起こる準備を男性側はまったくしていなかったため、ひどく狼狽をした。

 

 

だがしかし、女性側を責めるのは違う。だって、自由であることは約束なのだから。そう思った男性は、結果、路上を裸足で走り回ることによってやり場をなくしたエネルギーを発散した。傷ついた足裏が血を吹き出すギリギリまで走り回ることで、彼は冷静さを取り戻した。そして私に電話をくれた。ことの一部始終を聞いて、私は「ああ、なんだかわかるなあ」となんども思う瞬間があった。男と女のいざこざは絶えない。彼の話を客観的に聞くことで、ああ、俺も客観的に見たらこんな感じなのだろうなと思った。

 

ibaya.hatenablog.com

 

楽園をアップデートする。

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イベント登壇時のMAYUCHAPAWONICAさん。最近は「余命半年だったらなにする?」の問いに興味津々。


10月6日に東京都日本橋でいばや名義のイベントを開催した。濃厚な内容に当日頭痛に悩まされた。情報量が半端なく、いまだに消化し切れていない。いばやの神様・まゆちゃぱうぉにかさんは津波のような女性で、周囲に波乱を巻き起こしまくる。現在は『余命半年だったらなにする?』という問いに熱烈な関心を寄せていて、最近、同じ問いを共有した女性陣が半端ない余生をおくりはじめている。そのうちのひとりは「一発かっ飛ばしたい!"SHALL WE SEX ??"」ということで、ワンナイトフィーバーに付き合ってくれる男性を募集しはじめた。

 

 

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まゆちゃぱうぉにかの自由研究。最近は『遊び』を研究していた。

 

女性側に本領を発揮されると、男性陣はたじたじになる。女性陣サイドから「けいごさんもよめはん(余命半年を想定して生きる企画)やりましょうよ!ねえ!やりましょう!」と畳み掛けられた。女性の勢いはすごい。思わず飲み込まれてしまって「俺も考えてみようかな・・・余命半年だったらなにをするんだろう・・・」とか考え始めてしまった。ので、私は男性陣にヘルプを求めて「ねえ、余命半年づいている女性陣にたじたじになっているのだけれど、俺はどうすればいいと思う?」と相談をした。すると、男友達は「本当に余命半年にしてやればいいんじゃないですか」とのこと。要するに『半年後に実際に殺す』ということなのだけれど、そんなことはできるのだろうか。

 

 

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この星の問題は面倒で愉快だ。


6日に話されたことを乱暴にまとめると「人間には五つのフェーズがあって、戦時中は『がまん』が美徳とされた。時は流れ、がまんしない価値観が台頭した。がまんしないを続けると『してもしなくてもどちらでもよくなる』段階に行く。これがニュートラルの段階。しかし、ニュートラルのままでは退屈【虚無】に殺される。そこで『あそび』が登場する。あそぶことが閉塞感に風穴を開ける。しかし、がまんゾーンの人々に突然『遊ぼうよ!』と言っても何も伝わらない。だって、遊んだことがないから。段階はひとつずつ。そして、あそびの先にもうひとつのゾーンがある。それが『パラダイス』になる。あそぶことは一人でもできるが、パラダイスには複数人が必要。かつて、パラダイスには『ここではないどこか遠くの桃源郷』的な意味合いがあったが、この考え方が古い。パラダイスは遠くにあるものではない。いまの自分がまるごと全部自分なのだと認めた瞬間、ここがパラダイスになる。我々【旧・いばや】はパラダイスをアップデートする。」などなど。感覚的に伝われば嬉しいです。

 

🦄🦄🦄全国行脚のスケジュール 🦄🦄🦄

10月11日(木)@沖縄県読谷村

ごちゃまぜの家を救え!ホームをレスしてもサバイブする方法

 

10月17日(水)@福岡県福岡市

ごちゃまぜの家を救え!対談企画・坂爪圭吾「孤独の愉しみ方」

 

10月20日(土)@大阪府能勢町

ごちゃまぜの家を救え!対談企画・坂爪圭吾×堀口雅司「これからの生き方を考えよう!」@大阪府能勢町


10月開催@ANYWHERE!〜呼ばれた場所〜

野点カンタービレ


SCHEDULE 
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わたり文庫『イーグルに訊け』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、天外伺郎・衛藤信之著作『イーグルに訊け インディアンに学ぶ人生哲学』です。小生、自邸を開放しているものですから、いつの間にか「あれ?こんなもの家にあったっけ???」なんて思うことが毎日のようにあります。ある時は大量の果物が、ある時は大量のお米が、ある時は大量の本が家に『魔法のように』増えている現実を前に、呆然とすることがたくさんあります。この本も、突然、この家に出現をした魔法の一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

お年寄りと子どもを離してはいけない。彼らを引き離すことは、過去と未来を断つことと同じだ。

川の水面だけ見て川を知ったと思うな。

お年寄りのひざは、空いているだろう。お年寄りのひざは、子どもたちのためんおゆりかごとして空けられているんだ。だから、お年寄りと子どもを離しちゃいけない。彼らを引き離すことは、過去と未来を断つのと同じだ。

わしらはやがて大地に戻る。そこに何を持っていく必要があるのかね。この世界で生きてきたことの喜びと、次の時代を生きる子どもたちに、わしらが母なる大地から教えれれた美しさと感動を残してあげられれば、それで十分だ。

私たちの周りすべてに、教師は存在する。石の中にも、風の中にも、木々の中にも、きみが立ち止まって眺め、グレート・スピリットに尋ねれば、必要なことは必要なときに与えられる。

天外伺郎・衛藤信之『イーグルに訊け』【飛鳥新社

 

過去と現在と未来がつながる。そして無双になる。

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イベント中の筆者。(心の)病弱感がすごい。


余命半年だとしたら、みんなはなにをやるだろうか。強がって「別に俺はなにもかわらない。いままでの日々を続けるだけだ」とか言っちゃいそうにもなるけれど、きっと、もうちょっと考えた先に『キラッ!』と輝く何かを獲得できるような気がする。自分だったら、あらゆる垣根をぶっ飛ばした家族を作りたいなと思う。ごちゃまぜの家を通じて現時点でも試してはいることだけれど、余命半年を意識すると『より加速度を増して』自分がやりたいことを遂行できる。正直、自分のこどもが100人いてもいいし、自分の嫁さんが100人いてもいいし、人類全体が自分の家族ということで問題はないと思っている。

 

こんなことを言うのはとても勇気がいることだけれど、最近、自分を見ていると「俺と深めのコミュニケーションを達成した女性は自らの内部に秘めた女性性を猛烈に開放することができて、結果、いい感じの人生を送ることができるようになる」みたいなことを思う。かと言って、その女性が永遠に自分と一緒にいるイメージは(現時点ではあんまり)ない。私は通過点であり、通過儀礼(?)のようなものであり、うまい言葉が見つからないけど『俺を経由して素晴らしい人生を歩んでください』みたいなことを思う。逆に言えば、私は海みたいな存在で、誰のものにもならない。海は誰のものでもないように。空は誰のものでもないように。しかし、自分が海にいる時間(空を見ている時間)だけは「自分のものだとも言える」ような、誰のものでもないからこそ『みんなのものになることができる』的な感覚を抱く。

 

イベント中、まゆちゃぱうぉにか様の話を聞きながら『過去と現在と未来が一致する時、人間は無双になる』的なことを思った。ひどく感覚的な話になるが(自分でもよくわかっていないけれど『これは真実に違いない』的な確信がある)、普通、過去と現在と未来は切り離されたものとして捉えられる。だから「いまはダメだけどいつか」みたいな絵空事が語られる。しかし、そんなことはないのだ。良い過去と悪い過去があるのではなく、すべてを一心に引き受けた瞬間に『過去と現在と未来はつながる。そして無双になる』のだと思う。幼少期の自分も、現在の自分も、老後の自分も、実は「いまこの瞬間にすべてがある」のである。だからこそ、私は、自分の過去を頻繁に思い出していたのだろう。不幸とは、過去や未来が『現在から切り離される』ことである。だからこそ、切り離されたものを統合すること。バラバラなものをひとつにすること。それを成し遂げた瞬間(『思い出す』という言葉が近い)、この世はあっという間にパラダイスになるのだと思う。

 

 

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人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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Photographed by Chiaki Toyozumi

 

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恐怖から解放されたなら、あなたはもう完全に自由だ。

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私には4歳年上の兄と5歳年上の姉がいる。兄も姉も読書家で、私は常に彼らの本棚を盗み見していた。小学生のとき、さくらももこの『もものかんづめ』というエッセイを姉の本棚で見つけた。そして、激烈な衝撃を受けた。言葉だけでこんなにも笑えるものかと感動をした。さくらももこさんは、高校時代に自力で100万円を貯めたらしい。その話を読み、私は「よし、俺も!」と強く思った。この頃から、私は早くおとなになりたくてたまらない気持ちになっていた。

 

 

高校生になり、私はコンビニでアルバイトをはじめた。新潟市の最低時給は630円だった。これでは100万円は無理だとさとり、テレアポやイベント会場設営の仕事も追加でした。学業なんて知るかと思った。担任教師にこっぴどく叱られたが、私は「お前の授業よりよっぽど勉強になっているぞ」と聞く耳をもたなかった。結果的に高校3年間で(ここには書けない仕事も敢行しながら)100万円を貯めることに成功をした。多分、あの頃が人生で一番羽振りがよかったと思う(なにを買うにも値札を見ないで買っていた)。

 

ibaya.hatenablog.com


じぶん昔話

最近、自分の昔話を思い出す。ごちゃまぜの家の管理人・稲村彰人は「自分の幼少時代を思い出せる間は、心に余裕がある証拠だ」と話す。ああ、その通りだと思った。前回の記事で『自分で自分を楽しませられない人間はノイローゼになるかアル中になって死ぬ』と書いた。小学生の頃、私は頻繁に一人遊びをしていた。理由は単純、友達が少なかったからだ。家の近所に崖があった。冬になると雪が積もる。私は、喜び勇んで自宅からソリを持ち出してその崖を滑り落ちていた。通りすがりのおばちゃんが、満面の笑みで崖から落ちてくる私を見て「まあ!」と呆然としていた。スリリングで楽しかったから友達を誘うが、友達は「こわすぎるでしょ」と誰も乗ってこない。結果、私は常にひとりだった。

 

4歳年が離れている兄貴と、頻繁に喧嘩をしていた。年齢的に勝てるわけがないから、喧嘩の際は「最初の一撃でこいつを殺す」くらいの意気込みで兄に突撃をした。最初の一撃で仕留めることができなければ、あとは兄貴にボコボコにされるだけだ。私が素手の人間で、兄貴は屈強なグリズリーみたいなものだった。それでもなお、負けるとわかっていてもなお、私は兄に向かって立ち向かい続けた。なぜ、あの頃の自分にはあれほどまでのガッツがあったのだろう。負けると分かっていても立ち向かう勇気。『損か得か迷うとき、損する道に賭けられる人間こそが真の男である』アウトロー作家・宮崎学さんは語る。私は、その心意気を兄貴との格闘の中から学び取った(気がする)。

 

姉の性格は歪(いびつ)だった。私が小学一年生の頃、小学六年生の姉が「いいかい、けいご」と私に語りかけた。私は「なあに、お姉ちゃん」と無垢に答えた。すると、姉は薄ら笑い(色で言うならパープルな表情)を浮かべながら『悪事はばれなきゃ悪事じゃないのよ』と私のハートに不穏な傷口を刻むように囁いた。無垢な私は「え、お姉ちゃん、それっていったいどういうこと!?」と悶えた。姉は「ふふふ」と答えて部屋に消えた。後日、私は母親から叱られた。戸棚にあったクランキーチョコレートが誰かに食べられていて、私に嫌疑がかけられたのだ。私はクランキーチョコレートなんて食べていなかった。この時、私は、狡猾な姉にはめられていたことを悟った。

 

10月20日(土)ごちゃまぜの家救済企画@大阪府能勢町

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相次ぐ地震や豪雨などによる自然災害。
 
巷では「お金がただの紙切れに!?財政破綻の日も近い?!」などと囁かれているさっこん。
 
いつ、なにが起こるかわからないいまだからこそ、
「なにが起きても楽しく笑って生き延びる」
そんな『力』が必要になっているのではないでしょうか。
 
私、坂爪圭吾は、過去に「家も金も仕事もない」という無一物の状態で、
それでも人間は生きていくことができるのかということを試しました。
 
最初は「そんなことは無理だろう」と結構後ろ向きではあったのですが、
蓋をあけてみるとびっくり!意外とどうにかなってしまうばかりか、
家や金や仕事があったときよりも、世界の豊かさを感じることができました。
 
もちろん、いいことばかりではなく大変なこともたくさんあったのですが、
それでもなお「人生はどうにかなるのだ」と肌身を通じて実感できたことは、
大袈裟な表現になりますが『世界に立ち向かう勇気』を与えてくれました。
 
今回は、坂爪圭吾の経験談も交えながら、お越しいただいたみなさまと一緒に、
「なにが起きても楽しく笑って生き延びる(ホームをレスしてもサバイブする)方法」
を、一緒に、お茶を飲み交わしながらみんなで談笑できたらと思っています。
 
・お金とはなんだろう?
・安心とはなんだろう?
・便利とはなんだろう?
・社会とはなんだろう?
・生きるとはなんだろう?
・いま、必要とされている力ってなんだろう?
 
など、
 
みなさまのご参加をお待ちしております!!
 
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【タイムスケジュール】
 
13時00分 開演・坂爪圭吾による「今回の企画趣旨のご説明」
13時15分 第一部スタート!
14時00分 〜小休憩〜
14時15分 第二部スタート!
14時55分 坂爪圭吾による懇願の土下座(その後、フリータイム)
15時00分 終焉(以降、フリータイム!)
 
〜幻の第3部〜
 
堀口さんのご自宅にはギターやベースなど様々な楽器があります。時間が許される限り、音楽の好きな方は一緒に演奏を楽しみましょう。(坂爪も一曲だけやらせていただきます!!)
 
【登壇者プロフィール】
 
■坂爪圭吾(さかつめけいご)
1985年新潟県生まれ。いばや通信運営。人間は家も金も収入もなくても生きていけるのかを実験するため、2014年から約2年間にわたる「家のない生活」を行い、なんだかよくわからない日々を送る。結果的にブログ読者の方に購買をしていただいた熱海の家に現在は暮らす。2017年、クラウドファンディングで480万円(!)を調達し「横浜に、誰でも自由に無料で使える家」を作る。その名も『ごちゃまぜの家』。しかし、現在、あらゆるものを無料で放出し続けていたために極度の金銭的困窮に喘いでいる。今回は、坂爪圭吾の能勢町の兄貴・堀口さんのお力添えを通じて「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか?」ということを、みなさまに問う。
 
自伝風物語「ホームをレスした話」
 
■堀口雅司(ほりぐちまさし)
1963年大阪生まれ 兵庫県川西市出身 2014年に28年間勤めていた会社を辞めてから有機農業に出合う。 同年11月離婚後能勢の慣行農場でパートで働きながら小さな畑を借りて農薬や肥料を使わない農業を始める。2016年6月から能勢で自分でリフォームした工場あとに住み始める。2018年8月にパートを辞めて現在に至る。 農業の問題を知ったことから今の自然環境、食べ物、ライフスタイル、医療、政治、原発、経済至上主義、沖縄などの問題や疑問に気付くようになる。 人の生き方や考え方や働き方はもっと多様で自由であった方がいい。 自分の人生をもっと楽しんで面白くしていい。 坂爪さんに出逢って強くそう思うようになりました。 自然農と音楽とギターとバイクと二人の娘たちをこよなく愛する55歳。
 
🌸🌸🌸🌸🌸ご参加にあたってのお願い🌸🌸🌸🌸🌸
 
●こちらの企画は、決して答えを(上から目線で)ドヤ顔で語るような内容ではございません。ひとつのテーマをもとに、みんなで、和気藹々と(なによりも楽しく!)時間を過ごせることを最大の目的としています。そのため、ご自身のお考えを誰かに押し付けることなく、異なる意見もまあるい心で受け入れていただけましたら幸いです。
●参加者のみなさまが心地よい時間を過ごせるよう、何卒、みなさまのご協力をお願いいたします。(例:論破することを目的とした議論をしない、とか、誰かひとりだけが話し過ぎることのないようにする、など)
 
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日時:10月20日(土)13時から15時頃
 
会場:堀口雅司さんのご自宅
〒563-0364 大阪府豊能郡能勢町平野1102番地(駐車場もあります!)
※ご注意 マップアプリでこの住所を検索すると何故か違う場所に案内されてしまいます。 マップで検索する場合は1102番地ではなく104番地で検索してください。 ややこしくてすみません。m(__)m

最寄り駅:能勢電鉄「山下」駅より阪急バス73~77系統に乗車し「平野口」下車(約20分)

バス停からの道順:「平野口」バス停から山下方面に戻り最初の三叉路の信号を右折し次のロータリーになった交差点を右折。 能勢小中学校(ささゆり学園)の校門を過ぎて最初の三叉路を左(山側)に入ります。 学校のフェンス沿いに登り坂を百メートルほどいったところです。 バス停から徒歩7~8分くらいです。
 
🌸🌸🌸あいのりのお誘い🌸🌸🌸
 
会場には公共交通機関を利用してお越しいただけるのですが、車でお越しになられる方で「もしだったら、12時30分頃に山下駅でみんなを拾ってから行くよー!」という方がいらっしゃいましたら、お声をかけていただけたら幸いです! !(公共交通機関利用の方で「車だとうれしい!」という方も、お気軽にお声かけください。みんなで力を合わせましょう!!)

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定員:20名(先着順)
 
参加費:1000円+ドネーション(ごちゃまぜの家の運営資金になります。無論、ドネーションは任意です!)
 
申し込み方法:フェイスブックをやっていらっしゃる方は「参加ボタン」を押していただけたら申し込み完了です。参加費は、当日会場の受付にてお支払いいただく形になります。フェイスブックをやっていない方や、諸事情で参加ボタンを押せない方は、お手数ではありますが①お名前②参加希望人数を添えて、下記連絡先までご連絡ください。
 
お問い合わせ:坂爪圭吾(さかつめけいご)
LINE ID ibaya
mail keigosakatsume@gmail.com
 
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「いばや通信」 http://ibaya.hatenablog.com/
緊急連絡先 LINE ID ibaya(坂爪圭吾LINE)
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ごちゃまぜの家を救え!対談企画・坂爪圭吾×堀口雅司「これからの生き方を考えよう!」@大阪府能勢町

 

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わたり文庫『最強の呼吸法 システマ・ブリージング』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、北川貴英著作『最強の呼吸法 システマ・ブリージング』です。去年の今頃、私は、東京から長崎まで自転車で1800キロメートルの距離を移動していた。理由は単純、暇だったからだ。佐賀県武雄市で、私は、システマを極めた男性格闘家と出会った。彼の笑顔は素敵だった。私は「こんなにも素敵な笑顔の格闘家が習う武術に間違いはない!」と思い、システマに強い関心を抱いた。この本は入門に最適な一冊です。強さを持ちたい老若男女のみなさま、是非。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

 『殺しに来た相手すら癒す【システマの極意】』

  

1・呼吸をし続ける(キープ・ブリージング)

2・リラックスを保つ(キープ・リラックス)

3・正しい姿勢を保つ(キープ・ポスチュア)

4・動き続ける(キープ・ムービング)【システマの四原則】

 

内面深くにひそむ恐怖心は、幼少期に植えつけられたものだ。やってはならないことの全ては、恐怖心によって刻み込まれるからだ。

 

恐怖心は攻撃性へと変化する。そうなる前に恐怖心を理解し、解消せよ。


敵意を持ったり、緊張したり、誰かを憎んだりすると、結局自分自身の邪魔をすることになる。

 

恐怖から解放されたなら、あなたはもう完全に自由だ。 

 

北川貴英『最強の呼吸法 システマ・ブリージング』【マガジンハウス】

 

恐怖から解放されたなら、あなたはもう完全に自由だ。

https://www.instagram.com/p/BmnaDf6FKSO/

 

存続の危機に喘いでいるごちゃまぜの家では、現在「たとえばの話だけど、月額一万円で維持活動に参加してくれるメンバー(代わりに寝る場所を提供します)」を募集している。しかし、私に人徳のないことが最大の原因ではあるのだが、誰からも連絡がこないと困っていた。これは静かに破滅を迎えるしかないのかと諦めかけていたが、昨日、新潟の竹谷さんが本格的に運営メンバーに加わってくれることになった。昨夜はその決起集会(?)をごちゃまぜの家で行った。最高にうれしい。遊ぶ友達が増えた気分だ。近所のなほさんが我々に手作りの夕食を振舞ってくださり、悦楽の時間を過ごした。生姜焼きと豚汁と付け合わせの一品。なほさんの料理は最高だ。自然派系のレストランでは絶対に得られない食べ応えに、一同、恍惚とする。我々はがっつく。それを眺めてなほさんは微笑む。翌朝、なほさんから以下のようなラインが届いた。私は、たまらなく嬉しくなった。

 

おはようございます!


昨日は
ツイキャス中が、竹谷さんからはじまり、トオルさん、旦那って
めちゃ笑いましたねー!お腹痛い。。笑

旦那は元中華の
コックさんで
今度餃子作りたいってはりきってましたので
よろしくお願いします!

ちなみ帰り
庭のテントみて
頭抱えながら、
わからないわからない、家があるのに、なぜテント、、、って頭抱えてたのが
面白かったです笑

 

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さっき主人から
電話かかってきて、、、
圭吾さんたちのこと興奮して
話してました!


枠にハマらず
生きてる姿が
男として刺激されると!!いざとなったら、泥水を飲めるであろう彼らが生き残ると思う!まだ飲めない自分は成長の余地があるんだなぁーって!彼らはかっこいいし尊敬する!

年上の自分が
素直に尊敬するって言えるのは
誰も調子に乗ってる人がいないからだと思う!
引きこもってる人もいないしー!
枠に囚われてないから会った後
小さなことで自分は悩んでたなぁーって大きな気持ちになる!
などなど


って感じで
生まれてはじめて
の感動があったらしいです!
42年ではじめて会う人たちと
出会わせてくれて
ありがとうって
言われました!!


なんだか
そーゆー違う生き方を素直に尊敬できる人と結婚したことが幸せだと感じました!


私たち夫婦に
刺激を頂き
考えるきっかけ
ありがとうございます!
感動してLINEしちゃいました!

 

竹谷さんに「なぜ、ごちゃまぜの家に来てもいいと思ってくれたのか」と尋ねた。ら、竹谷さんは「いま、33歳になって仕事のこととかこれからのこととか、真面目に考えることがたくさんある。そのなかで、自分がどういう人生を送りたいのかを考えたら、好きなひとと、好きな場所で好きな時間を過ごせることが、自分にとっては大事なのだと思ったからだ」と話した。めっちゃ素敵だと思った。これから一緒にいろいろなことを、いろいろな場所でやっていこうねと語り合った(竹谷さんは新潟にも拠点があるため、多拠点生活になる)。一緒にホーチミンマジェスティックホテルに泊まったり、ユーコン川を筏で下ったり、エストニアエストニ家』を開設したり・・・そのために、私も仕事を頑張ろうと思った。現在、竹谷さんはフリーランスでライターの仕事をしている。それ以外のごちゃまぜの家の男性関係者は、驚いたことにことごとく無職である。竹谷さんの登場が、無職一同に火をつけた。竹谷さんのためにも、仕事【外貨】をたくさんとってこれる人間になりたいと思った。

 

 

https://www.instagram.com/p/BlnDjG8lQpE/

何度でも生き直せばいい。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

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