いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

道に迷った時は、損得勘定じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。

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固定費や維持費を極限まで減らせば、端的に「生きるハードルが下がる【自由になる!】」と思ってはじめた家のない生活を通じて、人生、意外とどうにかなるのだと学んだ。逆に「家がないと楽しい!」と思えた事例は枚挙にいとまがない。まず、野営【テント暮らし】の素晴らしさを知った。個室空間は限りなく狭いが、内と外を隔てる壁(?)が少ない分「地球がおれの家」感が増幅する。不思議な話になるけれど、家が小さければ小さい分「世界を広く感じる」ことができる。自分の庭は持てなくても、緑が豊かな場所にテントを張れば「これがおれの庭だ【借景】」となる。動物は飼えなくても、最初から小鳥などの小動物が大量に生息する場所にテントを張れば「これがおれのペットだ【借ペット】」となる。豪華なプール付きの別荘は持てなくても、海にテントを張れば「これがおれのプールだ【借海】」となる。所有をすると、どうしたって管理費やメンテナンス費用が発生をする。固定費は自由を奪う。逆に言えば、お金がなくても生きていける環境を開墾できれば、嫌な仕事を嫌々やらなくても大丈夫!ということになる(と睨んでいる)。

 

 

バンコクから熱海と横浜を経由して、いま、北海道の新千歳空港『PRONT(無料Wi-Fi付き!)』にいる。北海道行きが決まったのは一昨日の話で、北海道伊達市に空き家を持つ方から「この家をごちゃまぜの家にどうですか?」とご連絡をいただいたことがきっかけになる。よろこび勇んで馳せ参じたものの、結論から言えば「今回は無理!」ということになった。空き家問題という単語を耳にする機会は多いが、「家は資産なのか?負債なのか?」がわからなくなる。広い家を管理する手間は相当なもので、脳内でスナフキン先輩の「ものを持つということは恐ろしいことですね」という言葉がこだました。人間は道具【金】の主人であるべきであり、道具【金】が人間の主人になってしまったら『結構やばい』と思う。所有よりもキャッチ&リリース!ということで、明日、菊名の家にある食糧を無料で放出する炊き出しイベントを鉄砲玉48のみなさまが開催してくださることになりました(わたしも夕方頃には顔を出せたらと思っているので、お時間のあるかたはお気軽にどーぞ!!)。

 

【イベント情報】日本人ならコメを喰え!2017 @ごちゃまぜの家

 

売り手よし、買い手よし、世間よしの『三方よし』を(時には売り手の部分を犠牲にしながら)達成する。

鉄砲玉48では『三方よし』の概念を大切にしたい(と思っている)。三方よしとは、昔の近江商人が重要視していた考え方で、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三つの「よし」を目指すことを意味する。鉄砲玉とは、基本的には「あらゆる依頼に無料で応える便利屋的な捨て駒の集合体」を意味していて、現在も依頼がある限り世界の何処でも積極的に応えるようにしている。何でもやるということにはなっているのだけれど、できることなら「当事者【鉄砲玉のメンバー】と依頼主だけでなく、まったく関係のない第三者にとってもメリットのある動き」をしてもらいたいと思っている。なぜならば、その方が「鉄砲玉のメンバーがいた方がみんなにとってハッピーだから、彼らを死なせてはいけない!」的な力が働いて、金も定職も世間的な肩書きもなにもない彼らも、もしもの時は(多分)なにかしらの形で生かされるであろう、が、第三者にとってなんら有益ではない動きをしてしまっていた暁には、死にたえるだけだろうと思っている。

 

単純にまとめると「無料でご奉仕をすることを通じて幅広い経験と知恵を獲得し、己のセフティネットを構築しつつ、みんなにとってのハッピーも増幅するような動きをよろしく!」ということになる。先日、宮古島に足を運んでいた鉄砲玉のひとみさんは、宮古島にて「この家を自由に使っていいよ」という物件を手に(?)入れた。家主の方が死ぬほど器の広い方で(わたしからも本当にありがとうございます!!)、ひとみさんが「この家をごちゃまぜの家に使ってもいいですか?」と尋ねたところ、家主の方も「あなたがいいなら、それでいいよ」とのこと。これから実際にどういう流れになるのかは未定すぎるためになにも言えないけれど、この点において「ひとみさんは最高にいい仕事をしている」ということになる。仮に、宮古島に誰でも自由に無料で使える家が増えたとしたら、そして、家主や地域住民の方々にとっても(迷惑をかけるのではなく)嬉しい動きを我々がすることができたなら、ひとみよし、家主様よし、世間【ブログ読者のみなさまなど!】よしの『三方よし』が達成されることになる。

 

このたとえは大袈裟だけど、単純に「鉄砲玉のメンバーが誰かの無茶振りに応える。依頼主がその様を見て楽しみ、その様を見ている第三者の方もエンタメ的に楽しむことができる」とかでも構わない。多分、鉄砲玉の活動は非常にバラエティ的なのだと思う。根本的に「見ているひとが楽しめたらそれでいい」というもので、ついでになにかしらのメリットも授かることができたら御の字になる。ので、是非、こちらをご覧の鉄砲玉のみなさまには「人生はギャグだと思って、思う存分、カラダを張って笑いを取りにいってください」と願う。ボロボロになった時のためのごちゃまぜの家である。もしもほんとうにやばくなったら、寝る場所と食べるものはごちゃまぜの家にある。しんどい時はごちゃまぜの家で英気を養い、元気になったら再び、愛と笑いの狩猟採集生活に戻ってもらえたら嬉しいと思う(随時新メンバー&鉄砲玉の活動を支える女子マネージャー的な存在も募集をしています!)。

 

【過去記事】愛想笑いはF◯CKですよ。 - いばや通信

 

責任を果たすことは快楽である。

愛するひとのすすめで、いま、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでいる。最近、責任を果たすことは快楽であるということを思う。うまく説明をできる自信がないけれど、責任という言葉には『できることならば避けたいもの』というイメージがある(ような気がする)。しかし、’真の意味で責任を果たすことができている時、その瞬間に『最高の幸福感』を覚えることができているように人間はできているのではないだろうか。簡単にまとめると、それは「誰かの役に立てているという実感【自分がいることで、世界が少しでもよくなっているのだと思える瞬間】」のなかには、ああ、生まれてきてよかったなあ(これで死ねる!)とさえ思える愉悦感がある。と思っていたら、この本の中にこんな文章が出てきた。

 

配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。「責任がある」ということは、他人に要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』【紀伊国屋書店

 

『責任は、完全に自発的な行為である』という指摘は素晴らしい。先日、学校もアルバイトも嫌でやめたいけどやめられないからどうしたらいいかという相談を受けた。メールの相談だったからいまいち現状が掴みきれなかったけれど、わたしは「(頭でごちゃごちゃ考えてもらちがあかないから)いますぐ直近のフルマラソンにエントリーをしましょう!」と答えた。多分、そのまま流されてしまったとは思うけれど、頭で考えるよりも先にカラダを動かすことで突破できる問題は大量にあると思う。数年前、三ヶ月で15キロを落とした非常に麗しい体験が小生にはあるのだけれど、あの時期は人生のすべてが「いかに痩せるか」で構成されていた。当時はピザ配達のバイトをしていたのだけれど、バイト先までの徒歩一時間弱を毎日歩き、配達中もバイクの中で筋トレになり得る不穏な動きを重ね、配達先の家の前でもスクワットを100回してから玄関のピンポンを押していた。体重が減ることは嬉しい。数字は裏切らない。周囲からは「ストイックですね!」と言われることもあったけれど、端的に「ALL FOR JOY!」という感じだった(話が逸れすぎてしまった…)。

 

物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何か一つでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的に言えば、貧しい人である。気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのだ。彼は、自分は自分の物を他人に与えられる人間なのだ、と実感する。生きてゆくのに最低限必要な物しか持っていない人だけは、物を与えるという行為に喜びを感じることができない。だが日常の経験からわかるように、人がどの程度を最低限の必需品とみなすかは、実際にどれくらい持っているかだけでなく、その人の性格に左右される。誰でも知っているように、貧しい人のほうが豊かな人よりも気前よく与える。とはいえ、貧困もある程度を超えると、与えることができなくなる。貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活がつらいからだけでなく、与える喜びが奪われるからである。

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』【紀伊国屋書店

 

引用が長くなってしまった。今回は「責任を果たすことは快楽である!」ことと「鬱病患者はフルマラソンにエントリーした直後に本屋に走れ!そしてマラソンにまつわるノウハウ本を数冊立ち読みしろ!」的なことを書きたかったのだけれど、時間が足りなかった。情報量が多すぎると全体感が雑になる。これは毎度の反省点である。気をつけよう。全然関係ないけれど、いま、自転車に乗りたい欲求が爆発した。車もバイクも電車もバスも飛行機も交通費がかかるしカラダが鈍る。ミニベロならダホンのボードウォークか調子に乗ってブロンプトンを相棒にして、ハンモックテントとと一緒に水源まで自転車を飛ばして湧水を沸かしてカップヌードルを食べたい。しまなみ街道まで自転車を引き連れてサイクリングとかやりたい。海外にも持ち運んだりしてみたい。もしも不要な自転車をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけましたら幸いです【菊名の家でも必要としています!!】!!

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

わたり文庫『愛するということ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、エーリッヒ・フロム著作『愛するということ』です。こちらの本をおすすめしてくださった静岡市内在住K様からいただいた「おすすめの文章」が綴られた手紙がなんだかあまりにも素敵だったので、そちらをご紹介させていただきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「愛」とことばにすると、もう言い尽くされていてなんだか陳腐な気がしてしまって、会話に出てきてもなんだか恥ずかしいような・・・でも、学校の授業で本気で教えてもいいんじゃないかと思うほど。

 

人の幸せを願う。そう願える自分を素直に喜ぶ。自己満の時もあるかもしれないけれど、こんなに嬉しいことはない!と思えました。与える喜びを与える場所、〝愛の技術〟を学べる場所がこれから増えたらいいな・・・と、思いが膨らむ本でした。

 

静岡市内在住『K様の手紙』より

 

たくさん持っているひとが豊かなのではなく、たくさん与えるひとが豊かなのだ。

K様の意思を引き継ぎ、わたしも「与える喜びを与える喜びツアー(仮)」なるものを開催したいと思った。内容は未定だけれど、基本的に明日から死ぬまで時間があるために、菊名の家には車【トヨタのビッツ!】もあることだし「あなたの家にある(お宝的な、それでいて使っていない)不用品を坂爪圭吾が直接車で回収に伺ってご自宅の断捨離を促し、かつ、それを必要とされる方々まで直接車で手元に届ける『断捨離キャッチ&必要とされる方にリリース!』 なるものを断行する」のはどうだろうか、と思っている。もしも「ちょうど断捨離をしたかったのよ!」的な方がおりましたらば、ブログ末尾にある連絡先より坂爪圭吾までいつでもお気軽にご連絡ください!!(7月21日現在、ものすごい暇です!!)

 

 

自分を幸せにしたかったら、自分のことばかりを考えていてもダメなのだと思う。多分、真の意味で善いことは「世のためにはなるけど自分のためにはならない」なんてことはないのだと思う。逆もまた然りで、世のため、ひとのため、自分のため、これらはまったくの別物ではなく(ほぼほぼ)同義であり、真の意味で善い行いは「世のためにもなるし、ひとのためにもなるし、もちろん自分のためにもなる」ものだと思う。自己犠牲が行き過ぎているなあと感じる時は、多分、何かが少しずれているのだろう。自分を幸せにするということは、他人を蹴落としてでも自分の幸せを実現するとかそんな器の小さな話ではなく、自分の幸せと他人の幸せの掛け算【合わせ技】みたいなものなのだと思う。

 

 

極論、ひとのことは気にしなくていいのだと思う。西洋の本を読んでいると『(キリスト教的な意味での)神様』的なワードが頻繁に出てくるけれど、多分、日本人に一番馴染みのある言葉は『愛』とか『自然』とか『天』とか、そんな言葉になるのだと思う。自分の生き方に迷う時、ひとと比べてどうかということよりも『これからやろうとしていることに、自分なりの愛を込めることはできているか』とか『天に対して恥ずかしくない生き方ができているか』と考えた方が、多分、軸はぶれない。時にひとから馬鹿にされることがあったとしても、誹謗や中傷や周囲の無理解に大なり小なり傷つくことがあったとしても、自分なりに「天に恥じない生き方ができている」のだと思えれば、それは最高の生き方【美】になるとわたしは思う。あとはもう、自分ができる最善を尽くすのみである。朝が来る。外に出る。お湯を沸かす。珈琲を淹れる。空を眺める。風が吹いている。雲が流れている。どのような時も、この空があれば「自分は大丈夫だ」と思うことができる。余計なものに惑わされる必要はない、何かをしなければいけないと肩に入れる必要もない、生きているだけでいい、それ以外はおまけなのだということを思う。

 

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

愛想笑いはF◯CKですよ。

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ごちゃまぜの家の候補地をバンコクで探している。クラウドファンディングで「100万円の支援者【神様】があらわれてくださった暁には二件目を探します!」と言った手前、引っ込みがつかなくなっている。探すとか言っておきながら「不動産を巡る」的な営みはあまり得意ではないので、奇跡的な出来事が舞い込むことを願う『積極的受け身』スタイルを採用している。先日、沖縄県南城市にある有名な湧水をご案内していただき、ああ、水源のある場所は最高に豊かだなあと思った。日本に戻ったら、この夏は「日本の水源巡りツアー(仮)」をやりたい。聞いた話によると「太陽光【生のエネルギー】で食材を温めるとガス【死のエネルギー】で温めるよりも(太陽光の力が食材に宿るから)五億倍は美味い!」らしいので、太陽光で湧水を沸かして珈琲を飲む(場合によってはそのまま野営!)とかできたら、ああ、いい感じのサマーになりそうだなあと思う。

 

 

家のない生活を通じて確信したことのひとつに「坂爪圭吾という人間は、お米を買うことは(お金がないから)苦手だ。お米をつくることも(甲斐性がないから)苦手だ。でも、お米をもらうことなら得意かもしれない!」というものがある。こんなことを言うと「調子に乗るな!」と怒られてしまいそうだけど、家も金も仕事も何もなかった(現在も仕事はない)わたしには食糧を買う余裕はあまりなかった。それなのに、多分、わたしが家のない可哀想な青年に見えたからなのだと思うのだけれど、様々な方々がほんっっっっっっとうに様々な食糧をもらった。なんなら、家がある頃よりも食生活は豊かだった。わたしは「なんでなくなってからの方が豊かになるんだろう」と不思議に思った。坂爪圭吾という人間を面白がってくれた海外在住者の方々からも「航空券を出すからこっちに来てよ」というご連絡を相次いでいただき、結果的に20カ国くらい巡った。この現象はなんなのだろうか。毎月月末に開催しているわたり食堂【0円食堂】というイベントは、自分なりの罪滅ぼし(?)になる。恩は返すものでもあり、多分、次のひとにまわして行くものでもあるのだと思う。

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

奇跡は余白に舞い込む【ひとみの偉業編】

普通、わたしのような平民は「海外に行くためには三ヶ月はアルバイトをしてお金を貯めないと無理!」なものだと思っていた。が、家がなくなっていろいろなことが自分でやるのは無理!となり、みなさまに助けを求める(自分を徹底的に開示する)ようになってから、いつの間にか「自力で稼いでいては絶対に成し遂げられないハイスピードで海外に行っている」自分はいったいなんなのだろうかと思っていた。あの頃は、一ヶ月に一回は海外に足を運んでいた。しかも、交通費は現地の方々がご負担をしてくださったのでわたしはホイホイ足を運ぶだけでよかった。声をかけてくださる方々は基本的に『超絶やさしい』方々が大半で、現地でのアテンドも務めてくださる方もいた。わたしは、それらの恩恵を全身で受けながら「なんでこんなことになっているのだろう」とすっごい不思議に思っていた。誤解されると困るが、わたしは自分の置かれていた状態を自慢したい訳ではない。ただ、あらゆることは自分の力でできて一人前(誰かに頼るのは半人前のやることだ)とされている風なこの世の中において、自分には無理だとある種のサレンダー【降伏】を決めた瞬間から謎に人生が好転をしている坂爪圭吾という現象を、同じ時代を生きるみなさまと共有できたらうれしいと思う。

 

降伏こそ幸福である!とかくだらない駄洒落を言ってしまう前に、ひとみさんという女性の現象を紹介したい。名古屋生まれのひとみさんは現在24歳、数ヶ月前に一年間務めた仕事を辞めたために現在は無職。「お金はないけどエネルギーはあります!」とのことだったので、なう、ごちゃまぜの家の管理人をお願いしている。ごちゃまぜの家はそれなりに人の出入りがある【風通しは良い】ために、ひとみさんは様々な方々と出会う。一応、管理人をお願いしていたはずなのに、彼女は現在沖縄県宮古島にいる。聞いたところによると、ごちゃまぜの家に遊びに来てくれた方が「これから沖縄に行くんだけど、もしよかったらひとみちゃんも一緒にいく?航空券くらいなら出すよ✨」という奇跡的なお誘いを受けたらしい。所持金四桁のひとみさんが宮古島にいくことは事実上不可能だったはずなのに、彼女はいま、宮古島の風を浴びながらフレッシュジュースを飲んでいる。突発的な誘いに乗る瞬発力も素晴らしいし、与えられた『管理人の職務』を簡単に投げ出してしまう奔放な精神も「当事者としては困っちゃう部分もあるけれど、根本的にイイネ!」と思う。

 

ここ数年の日々の中で「奇跡は余白に舞い込む」ということを実感する。仮に、宮古島に誘われたとしても自分が時間的&精神的に無理な場合は誘いに乗ることはできない。自分に余白があるからこそ、キャッチできる奇跡がある。これを、いばや界隈では『余白力』と呼んでいるのだけれど、余白力のあるひとは稀に面白い展開を(自身の生き様を通じて)見せてくれるから存在がエンターテイメント的だ。しかし、余白があるだけでは足りない。余白がある時こそ、自分を『ある程度の視聴率がある場所(ひとの出入りがある場所)』に置くことがキモなのだと思う。家の中に永遠に引きこもって漫画やアニメを見ていても、多分、奇跡に出会う確率は低い。ごちゃまぜの家的な『ある程度のひとの出入りがある場所』があることで、ひとみの偉業は達成されたのだと睨んでいる。ひとみさんのバカンスを邪魔する(おれも宮古島に行きたかったという悔しさがある)ために彼女のLINE連絡先を公開します。是非、ご覧のみなさまも彼女のバカンスを邪魔してみてください!!

 

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TPD48【鉄砲玉48】の現在。

基本的に呼ばれたことには無償で応える捨て駒の集合体でお馴染みTPD48【鉄砲玉48】も、わたしの知らないところで順調な活躍を見せていた(らしい)。わたしは思う。多分、お金を稼ぐことがなんとなく苦手なひとは自分だけではないのだと思う。わたしが思う仮説のひとつに「自分の存在【自分がやっていること】が未来にとって必要なものであれば、それをみた人が『こいつらを餓死させてはいけない!』となって何かしらの方法で生かされるだろう)」というものがある。TPD48の活動は、多分、その実験と検証なのだと思う。彼らは自分の体を張ってあらゆる依頼に応え続け、現状、とりあえず死なないで生きている。多分、彼らも身近な人間(親とか)から「そんなんで生きていけると思うなよ」的な説教を受けまくっている人種だと思う。しかし、彼らの気持ちを私が勝手に代弁すると「そんなんでは生きていけないと言われても、事実、そんなんで生きているのですが!」ということになる。もちろん、これまでは良くても「これからどうなるのか」はわからない。しかし、これからどうなるかわからないのは鉄砲玉も公務員も大企業の社員も自営業者も気ままなフリーターもまったく同じことであり、そこはお互いさま(あくまでもフェア!)なのだと思う。

 

【セルフ鉄砲玉】爪切りを借りに茨城(片道3時間)へ行ってきた 2017.7.12 - 私は鉄砲玉。

 

鉄砲玉は現在も新メンバーを募集している。先日、愛知県豊橋市在住のひろきさんが新メンバーに加わった。彼は「とりあえず菊名のひとみさんに挨拶してきてよ。鉄砲玉のことは彼女が詳しいから!」というわたしの無茶振りに、ヒッチハイクで応えた。数ヶ月前までバングラデシュで働いていただけあって、日本国内は(多分)どこでも近所なのだと思う。他にも、ボロボロになって帰ってきた鉄砲玉のメンバーを労う『女子マネージャー的な存在』も募集をしています(もうちょっとしたらわたしも菊名の家に戻るので、興味のある方は直接あっていろいろ話したりしましょう!!)。先日、神奈川県在住のニューハーフのA様から「鉄砲玉も女子マネも両方いけます!」というご連絡をいただいた。その後、実際にお会いさせていただいたのですがA様の人柄が素晴らしすぎて音速で大好きになってしまった。鉄砲玉は、なう、とても良い感じに撹拌をされている(のだと思う)。もしも、何かしら鉄砲玉にお願いをしたいことがある方は、いつでもお気軽に彼らに直接ご連絡をしてみてください。きっと、数時間以内に彼らから何かしらの返信があると思います(連絡先は彼らのブログ記事をご覧ください!!)。

 

藤原弘宜 - 優しさの循環の回転速度が高い日 - Powered by LINE

 

撹拌。好きな言葉だ。わたしは「いろいろなものをかきまわしたい」と思っているのかもしれない。こうでなければいけないとされていることがあるとしたら、その内側の世界ではなく、その外側の世界に関心がある。あらゆる物事をかき混ぜて、境界線がわからなくなるほどにかき混ぜてみた結果、どのようなことが起こるのかを見てみたい。家族もしかり。生き方もしかり。働き方もしかり。年齢や性別や国籍もしかり。ごちゃまぜという言葉には「カオスティックな中で保たれる調和」というニュアンスがある。いろいろなひとがいてもいいのだと思う。いろいろな生き方があってもいいのだと思う。いろいろなひとがいてこその社会であり、いろいろなひとがいてこその世界なのだと思う。偏っちゃいけない。閉鎖的&排他的になったらつまらない。風通しが悪くなったら精神にカビが生える。わたし自身【坂爪圭吾】や鉄砲玉のメンバーのような生き方を認めてくれとは言わないけれど、一緒に面白がってもらえたらうれしいと思う。

 

【過去記事】世界の秘密を知ってしまった。 - いばや通信

 

わたり文庫『モリー先生との火曜日』

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ミッチ・アルボム著作『モリー先生との火曜日』です。この本はズバリ素晴らしい。正直なひとが正直な言葉で話す時、話している内容はどのようなものであれ、聞くひとの心を打つ。モリー先生の言葉には、正直なひとにだけ宿る力が秘められまくっているように思いました。これは無理やりにでも読んでもらいたい。そして、この本に書かれていることを一緒に話したりなんだりできたらいい時間になりそうだなあと、そんなことを思いました(こちらの本を譲ってくれた広島県広島市在住のC様、ありがとうございます!!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※

 

「この国では一種の洗脳が行われている」とモリーは嘆く。「洗脳ってどんな風にやるか知っているだろ?同じことを何度も何度もくり返して聞かせるんだ。この国でやっているのはまさにそれだよ。物を持つのはいいことだ。かねは多いほうがいい。財産は多いほうがいい。商売っ気もそう。何もかも多いほうがいい。多いほうがいい。みんなそれをくり返し口にしー くり返し聞かされー ついには、めんどうくさくなってほかの考えを持たなくなる。ふつうの人間は頭が朦朧として、何がほんとうに大事なのか見境がつかないというわけさ。

 

今までいく先々で、何か新しいものをがつがつ買いたがる人にぶつかってきた。やれ新車だ、やれ新しい地所だ、やれ新しいおもちゃだ。それをまた人に言いふらしたがるんだな。『ねえねえ、何買ったと思う、何買ったと思う?』

 

これには私流の解釈があってね。この人たちは、愛に飢えているから、ほかのもので間に合わせているんだよ。物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。だけど、それはうまくいかない。物質的なものは愛ややさしさの代わりにはならない、友情の代わりにはならない。

 

かねはやさしさの代わりにはならない。権力もそう。死を目の前に控えてここに座っている私に言えることは、かねや権力をいくら持っていても、そんなものはさがし求めている感情を与えてくれはしないっていうこと。それをいちばん必要としているときにね。」

 

ミッチ・アルボム『モリー先生との火曜日』【NHK出版】

 

愛想笑いはF◯CKですよ。

最近は「遊ぶ」という概念について考える。遊ぶという行為には「ふざけている」とか「生産的じゃない」というネガティブなイメージも付き纏うけれど、しかし、遊ぶという行為ほど高尚なものはないのではないだろうかと思うこともある。油断をしていると、ついつい物事を真面目に深刻に考え込んでしまう自分がいる。そして、多くの場合、偏った自己解釈によって勝手にダメージを受けたり自爆をする場面は多い(ような気がする)。わたしたちはなぜ生きるのか。極論、それは『遊ぶため』なのではないだろうか。仕事が遊びになるとき、家事が遊びになるとき、目の前にあることが遊びになるとき、わたしたちは自由を感じるようにできている(そして、それに触れたひとのこころまで自由にさせる力がある)。

 


タイ人の笑顔は穏やかで自然だ。笑いたいときにだけ笑い、笑いたくないときには笑わない(ように見える)。自然な笑顔に触れると、こちらも自然と笑顔になる。日本にいると、笑顔が苦しそうなひとを見る。ああ、このひとは無理をして笑っているのだろうなあと思うことがある。そんな時は、ああ、笑いたいときにだけ笑ってくれたらいいのになと思う。愛想笑いをすると死にたくなるし、愛想笑いをしているひとをみると、ああ、このひとは愛想笑いをしているんだなと(なんだか嘘をつかれているみたいで)苦しくなる。わたしは思う。多分、幸福と自然は同義である。自然なものに触れた時、ひとは幸福を覚えるようにできている(ような気がする)。自然とは、なにも緑が豊かだとかそういうことだけではなく、ひとの中にある自然、自然にこぼれる笑顔であったり、自然と湧き上がる共感であったり、そういったものに触れたときに「嬉しさ」は芽生える。

 

 

真の笑顔と嘘の笑顔、多分、笑顔には二種類ある。嘘の笑顔には無理があり、真の笑顔には無理がない。どうせ生きるのならば、愛想笑いをしないで済む生涯を送りたい。笑おうとして笑っているのではなく、いつのまにか「笑顔になっちゃっている」瞬間の中に、幸福のヒントは隠されている(のだと思う)。夕日を見つけたら思わず駆け出し『ちゃう』あの感じ、好きなひとを見つけたら思わず抱き締め『ちゃう』あの感じ、自分でも気がつかないうちに思わず笑顔になっ『ちゃう』あの感じ、この『ちゃうちゃう感』こそ護りたい。バンコクでは気が狂ったみたいに果物を食べていた。一日に5回足を運んだ果物屋のおじさんは、5回目の来訪の時に「また来たのか!」と右腕を振り回しながら最高の笑顔を見せてくれた。わたしも、この日一番の笑顔でそれに応えた。そのやりとりが、なんだか、ものすごいよかった。嘘の笑顔で自分を傷つけることをやめること。笑いたいときだけ笑うこと。笑いたくないときには笑わないこと。笑顔の純度を保つこと。ひとから好かれるための笑顔ではない、みんなと仲良くするための笑顔ではない、同調圧力に屈した時の敗北的な笑顔でもない、自分でも気がつかないうちに思わず自分が笑顔になっ『ちゃう』あの瞬間、その瞬間の中にこそ、自分という人間はめちゃめちゃ凝縮されている【真の自分を発見する】のだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BWq4RyyjPUS/

真の笑顔を取り戻しに行こう。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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世界の秘密を知ってしまった。

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携帯代金が五万円を超えた。クラウドファンディングの御礼に電話をしまくった結果であり、ああ、無料通話コースに変えておけばよかったと思ってもあとの祭りだ。無料通話コースに変えておけば、などと言っておきながらそういう各種手続きが大の苦手だから、もう、通話機能そのものを解約した。現在は、SIMフリーiPhone格安SIMLINEモバイルの通話機能なし3MBの月額千円程度)を使用している。節約上手である。が、今月も半ばだというのに早くもデータ制限を迎えかけているために、いま、バンコクにいる。表向きは「おはなを配る!」とか「ごちゃまぜの家の候補地を探す!」とは言っているものの、裏のテーマは「海外のワイファイを使い倒す!(そして愛するパパイヤを食べまくる!)」というものになります【バンコク界隈でお時間のある方はお気軽にご連絡ください!今後の予定は何もないので、近隣諸国にも(交通手段さえどうにかなれば)行けるかと思います!】。

 

 

ナイキのフライニットという靴を購買した。靴が変わるだけでこんなにも変わるのか!と感動&興奮をしている。思わず外を走りたくなる。野営道具など、自分を外に連れ出してくれる【思わず外に飛び出したくなる】道具は最高だ。移動を続ける生活を通じて「結局、最後に必要なものは体力だな!体力がなければ、楽しめるものも楽しめない!」ということを悟り、極力、足を動かすようにしている。初めて訪ねる街を歩く(走る)と、街全体と仲良くなれる感覚がある。移動が続く日々を逆手に取り、いわゆる「旅ラン」を日課にしたいと思う。運動をしている(あと、りんごをかじりながら街を歩いている)と「おれはまだまだ戦える」という気持ちになる。野性味とか動物性とか、そういうものが刺激をされているのかもしれない。友達のまゆちゃぱうぉにか姫が日本で半端ないイベントを企画していたので、無事に日本に戻れたら、一緒に歩きまくりたいと思う(ものの、片道切符でバンコクに来たために帰る目処は立っていません!!)。

 

【イベント詳細】『超沈黙型エンターテイメント』 〜神様たち10日間も喋らないで歩くらしいよ?マジ無理じゃない?え、それうちがやるの?絶対死ぬやつだってぇ卍SP〜

 

あらゆるものは神様のものである【誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる】

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おととい、沖縄県の久高島にいた。那覇空港から安座間港まで「車を出しますよー!」と言ってくださる女神様(A様)から連絡が届き、お言葉に甘えてお願いをした。 久高島も良かったけれどA様がよかった。久高島は「所有をしない」ことで有名(?)な島だけれど、元来、琉球という国そのものが「あらゆるものは神様のものであり、わたしたち人間は『それを使わせてもらっている』と思って暮らしています」とA様は話す。A様の話を聞きながら「いやあ、もう、まさにおっしゃる通りなのだと思います。使わせてもらっているという感覚がなくなると、ひとは、簡単に傲慢になってしまう(あらゆるものを『当たり前だ』と思いあがっちゃう)ものなのだと思いまくります」と自戒を込めて返した。

 

ごちゃまぜの家のような「誰でも自由にどうぞ!」的な活動をしていると、稀に、かなりの無礼者に出会うことがある。誤解を恐れずにいうと「自分の権利ばかりを主張する」とでも言えばいいのだろうか、共有されている空間を大切に使おうという意識は皆無で、「自由」イコール「好き勝手にふるまう」ことだと勘違いをしている(ように見受けられることがある)。わたしは、こんな感じのひとを見ると「下品な生き物だな」と思う。しかし、どなたでもどうぞと言っている手前、誰でも一旦は受け入れる。そして、受け入れた後に観察をする。いい感じのひとといい感じではないひとの違いが、A様の言葉を通じて明確になった。多分、なにをするにせよ「使わせてもらっている(やらせてもらっている)」という感覚がなくなった時に、人間は品位を失い、謙虚さを忘れ、傲慢になり、下品な生き物になるのだと思う。

 

わたしは海が好きだ。海が好きだから、海を綺麗に使うひとが好きだ。海は自分のものではないけれど、海を汚すひとを見ると「なんだお前は!」と思う。多分、ごちゃまぜの家に関しても同じ気持ちなのだと思う。ごちゃまぜの家を『みんなの家(人間の家)』的な説明をすると語弊が生まれる。これからは『神様の家』的な説明でいきたいと思う。ごちゃまぜの家は誰のものでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。わたしたちは「使わせてもらっている」身であるということを、忘れていない方が『その場における幸福度』は高いと思う。感謝と幸福は切り離すことができない。使わせてもらっているという感謝が自然と湧き上がるとき、わたしは、幸せのど真ん中にいる。家だけじゃない、海だけじゃない、もしかすると『自分自身(自分のカラダや自分のココロ)』さえも、自分のものではなく神様のものであり、わたしたちは使わせてもらっているだけなのかもしれないと思うと敬虔な気持ちになる(ことができる)。

 

ひとつの大きな命を生きている。

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古代マヤ語の挨拶で「インラケチ」というものがあり、これには「あなたはもうひとりの私です【私はもうひとりのあなたです】」という意味がある。大木に例えるとわかりやすいのかもしれない。人間ひとりひとりは大木【地球】に成る葉っぱの一枚一枚であり、根本は同じである(という意味だと思う)。わたしはこの感覚を気に入っていて、この感覚になれている時は自分の中にある菩薩モードが発動をして優しく穏やかな気持ちになることができる。多分、現代社会の問題点は「分断化が進みまくっている」ことだと思っていて、行き過ぎた個人主義は全体感を破損する。自分のことは自分でやるということは一見すると責任感のある生き方であるようで、内実は「分断化を推し進めている【おれは自分の力で(生かされているのではなく)生きているのだという『奢り』を生む】」のではないだろうかと思う(ことも稀にある)。

 

インラケチの考え方はいいなと思う。この感覚を言い換えると「あなたは私の代わりに生きている【私はあなたの代わりに生きている】」ということだと思う。わたしは家のない生活をしていた。当時、あらゆるひとから「あなたの生き方には憧れるけれど、自分にはできない」という声を聞いた。誤解を恐れずに言うと、真似をする必要はまったくないのだと思う。逆に言えば、人間、おれみたいになれと言った瞬間からダサくなるのだと思う。自分は自分を生きること。自分を生きることが、結果として(根本では繋がっているから)誰かのためにもなるのだということ。わたしは、たまたま『家のない生活』ができる状態にあった。だから、あなたの代わりに自分がその生活を生きる。その生活を生きることで感じたことを共有する。だから、あなたはあなたを生きること。あなたを生きる中で感じたことをおれにも共有してもらえたらうれしいと、そういうう風に感じていた。

 

生き方には正解はないのだから、生き方には間違いもない。それが世間一般的なものとはかけ離れていたとしても、自分の命を誠実に生きる限り、必ず何かしらの果実を得る。その果実こそが『自分は自分である』ことの最高の収穫物であり、ひとと同じであることに神経を擦り減らすことよりも、人並みであることを捨てて「おれはおれを生きる」と決めたひとから、結果的に人類全体における最高の共有財産を築いていく(のだと思う)。わたしたちは別々の命を生きているのではなく、多分、ひとつの大きな命を生きている。自分が自分を生き切ることが、結果的に「誰かの人生にも貢献することができる」ものだとしたら、それほど素晴らしいことはないと思う(そして、事実世界はそのようにできているのだと思う)。

 

わたり文庫『葉っぱのぐそをはじめよう』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、伊沢正名著作『葉っぱのぐそをはじめよう』です。前回の記事でご紹介をした糞土師の方の著作で、タイトルからして結構やばい(本屋で購買する時は恥ずかしかったです!)が、内容は最高でした。こういうひとが日本にいることが素晴らしい・・・この本が三省堂岡山駅ビル店の『華道』のコーナーに陳列されていたことにも笑いました。やはり、笑えるということは素晴らしい。笑い飛ばしたあとに発見もある(世界が広がる)感じも最高で、個人的には『屋外で用を足したあとに使用する葉っぱを通じて、季節の移ろいを肌【ケツ】で感じることができる』という件には「ほっほー!(季節感っていいですよね!)」と思いました。無料郵送をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 

 

 ※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

 

大災害が起きると、まずはライフラインがストップし、水と食糧が不足し、トイレも使えなくなり、生きるための基本が脅かされることになります。じつは東南海地震で心配されることの一つが、静岡県富士市周辺に製紙工場が集中しているため、地震津波でその操業が停まるとトイレットペーパーの約4割が、一ヶ月ほど供給が滞ると予想される点です。そこで水や食糧だけでなく、携帯トイレと紙の備蓄が防災対策の大きな課題として取り上げられるようになりました。

 

東日本大震災では私の住む茨城県の田舎町でも震度6強の揺れを記録し、我が家は半壊。電気が止まり、3週間断水、多くの人がトイレを流すために沢水や側溝から水を汲んだりして苦労していました。また、各地でトイレットペーパーの買い占めも起きました。ところが以前から葉っぱノグソをしていた私は、世間の混乱を尻目に、排泄に関しては普段とまったくかわらない生活を送ることができたのです。

 

伊沢正名『葉っぱのぐそをはじめよう』【山と渓谷社

 

【過去記事】人生の本質は「JOY」だ。 - いばや通信

 

世界の秘密を知ってしまった。

わたり文庫の活動をはじめてから、様々なひとが「これは無理やりでも読ませたい!」と思う本をくれる。いま、わたしは広島県で受け取った『モリー先生との火曜日』という本を読んでいる。この本が最高で、最高の本に出会えると猛烈に嬉しくなる。素晴らしい本との出会いは、素晴らしい人間との出会いにも並ぶ喜びがある(そして、人生全体を肯定する力がある)。この本の中にはいくつもの名句が飛び出しているのですが、とりわけ印象に残っているものがある。それは『われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない』というもので、ああ、モリー先生!!という気持ちになりました。

 

 

モリー先生は難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されている。死に行く直前に「これから最後の旅に出る自分を見てくれ。そして、自分から学んでくれ」と話す。死ぬことは自然なことなはずなのに、死にたくないと思っている自分がいる。死んでしまうことは悲しいことで、それを避けたいと思っている自分がいる。死ぬことを避けたいと思うあまりに、最後の瞬間が訪れることを知っておきながら、死ぬことを信じていない(死ぬことを信じていないような生き方をしている)自分がいる。いつまでも生きるつもりでいる自分がいる。明日死ぬとしたら絶対にこれはやるだろうと思えることを、先送りにしている自分がいる。死に方を考えることは、そのまま「生き方を考える」ことにつながるのだろう。死ぬことをリアルに感じる時、この瞬間に「いまだけ」の強烈な光が宿る。憎しみ、怒り、悲しみに貴重な時間を割いている時間はないのだということを、残された時間があるならば、愛しているひとに伝えたいことがあるのだということを思う。

 

 

多分、死は「人間を謙虚にする」力がある。終わりを強く意識することで、いまここにある瞬間が際立つ。やり残していることが明確になり、人生を真剣に生きることができるようになる。恥ずかしがっている場合ではないのだと、先送りにしている場合ではないのだと、出し惜しみをしている場合ではないのだということを思う。明日死んでしまうとしたら、やり残していること【言い残していること】は何だろうか。わたしは、わたしが大切だと思うひとに「自分が死んでも悲しまないでほしい」と思っている。死んでしまったあとも、天国みたいな場所があるとしたら、そこからあなたのことを確実に見守っているのだと伝えたい。会えなくなることはさみしいことかもしれないけれど、さみしさに飲み込まれてしまうのではなく、残された日々を生き切ってほしいと思う。自分を生きて欲しいと思う。最善を尽くして欲しいと思う。そして、天国と呼ばれる場所があるのだとしたら、その場所で再会できたらうれしいのだと思っている。

 

 

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世界の秘密を知ってしまった。

 

人生は続く。

 

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人生の本質は「JOY」だ。

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不食(食べないで生きているひと)でお馴染みの森美智代さん推奨『スイマグ』を10ケース(!)いただき、隙を見て飲む。乱暴に説明をすると「人畜無害の下剤」であるスイマグは、飲み続けることで長年腸壁にへばりついていた宿便を溶かす。スイマグを一年飲み続けていたらカラダが軽くなったばかりか花粉症やアトピーなどのアレルギー症状も治ってハッピー!という話を頻繁に耳にするものだから、自分を使って試している。なにかこう、カラダをよくするためには「何を食べるか」ではなく「何を食べないか【引き算の美学!】」なのだとわたしは睨む。ソリッドな肉体を獲得できたら個人的にあがる。カラダが軽くなることは嬉しい。昨日は満月ということもあり、新月に向かうこのタイミングに合わせて「自分を一回からっぽにする」ことに興味がある。これはカラダに限った話ではない、多分、精神的にも「軽くなる方向を選ぶ(気持ちが楽になる道が正解!)」なんじゃないのかな、などと思うことは多い。

 


ごちゃまぜの家をほったらかして「おはなをあげる」日々を過ごしている。現在は岡山市内にいて、これから尾道を経由して向島にはいる。明日の朝9時に広島駅におはなを届けた後は何も予定がない。その後は福岡に向かう予定になるのだけれど、広島で何も予定がはいらなければ福岡に向かう(広島駅周辺で「おはなちょーだい!」という方はお気軽にご連絡ください!)。その後は「福岡→那覇バンコク」という流れになりました。バンコクではごちゃまぜの家の候補地も探すことができたらとっても嬉しいので、広島&福岡&沖縄&バンコク周辺でお時間のある方はお気軽にご連絡ください(菊名の家も、管理人のひとみさんとえりかさんが懇切丁寧な対応をしているので興味のある方は彼女たちに直接連絡をしてください!!)。

 

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【イベント詳細】 おはなをあげに、いかんばなんね。

 

悪態のすすめ。

昨日、愛媛県松山市にあるリトリート施設で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。前日の夜は会場に宿泊をする流れだったのだけれど、個人的に「こんな場所で寝たくねーな!!」と思うポイントが8個くらいあったので、よし、ここは自分に正直になることが大切だと一念発起をして家から逃げた。わたしには「大事に使われていない感じが満載の空間で長時間を過ごしていると体調が悪くなる」という持病があるのだけれど、なんだか物置で寝かされているような気持ちになってしまって「なにがリトリートだ!ふんがー!」と静かな怒りが爆発、結果的に最寄りの海で野宿をした。自分の扱われ方に憤慨をしていたわたしだけれど、海に出たら出たで「ああ、なんか海っていいな」と怒りも収まり、ギターを弾いていたら多幸感があふれてきた。最初は「海で野宿をするなんて俺は世界でいちばんの不幸者だ」と自己憐憫に浸りかけていたものの、夜の海が良すぎて「俺は世界でいちばんの幸福者だ」と形勢は逆転をした(が、海で変な虫に噛まれてその後足が腫れた)。

 

よく、自分に正直に生きることが大切だという(ひとが多い気がする)。わたしは、綺麗事があまり好きではないので「いいこぶってんじゃねーよ!」と思う。そこで、愛媛県トークイベント終了間際に「悪態をつきましょう!」ということを(家を飛び出した例などを出しながら)提唱した。悩み相談みたいな話になると「どうすればひとから嫌われないでいることができるでしょうか【どうすればうまくやることができるでしょうか】」みたいな話になることが多いけれど、潔く、一回嫌われてみることを推奨したい。何回も何回も何回も書いていることだけれど、うまくやろうとするためではなく、よし、失敗してやろう、傷ついてやろうと思って突撃をすればすべてが筋肉に変わる(成功も失敗もなくなる)。家を飛び出す前は勇気がいるけれど、家を飛び出したおかげで海の素晴らしさに出会えた(あとは快適な野営を行う実地的なスキルが向上をした)。多分、この世の中には「悪態をついたおかげで獲得できる生きる力」があるのだと思う。

 

うまく言葉にできている自信がまったくないけれど、わたしは「自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたい」と思っているタイプの人間なので、できることならば自分に正直でありたいと思う。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。自分であり続けることには時に「試練の時」みたいなものが訪れることがあって、その瞬間、神的なサムシングから「それでもお前はお前でいることを選び続けることができるか?」と問われる。悪態をつくことは、ひとつの正義である(俺は何を言っているのだろうか)。多分、悪態をつくセンスというものがある。センスの良い悪態は、意外なことに「周囲にいい感じの風を吹かせる」ことができる。多分、ああ、こんなことをやっちゃってもいいんだ!というある種の許しを、見ている人に与えることができるからなのだと思う。中途半端な悪態は、周囲の反感を買うだけで終わる。悪態のセンスを磨くこと。これはひとつのテーマである。わたしもまだまだ修行中の身である。今後も「悪態のセンス」に磨きをかけていきたいと思う(リトリート施設の方とはそのあと無事に和解をしました。器の広い対応をありがとうございました!!)。

 

どうでもいい話。

ごちゃまぜの家の第2号を世界のどこかに持ちたい。いく先々で候補地になりそうな場所を探している。どうでもいい話になるけれど、個人的に「立ちションができる場所が周囲にあること」が理想的な条件になる。こいつは突然何を言い出すのかと思われるかもしれないけれど、昔から「トイレ一回で使う水量は多すぎるだろ!」と密かに思っていた。一年前から熱海で暮らすようになり、もちろん、熱海の家にはトイレもある。しかし、流す水がもったいないのでお小便に限っては外でするようにしている。男性ならわかってもらえると思うが、野外でお小便をしていると「なんだか俺って自由だな」という気持ちになる。熱海の家は山に囲まれているために、場所に困ることはない。が、菊名の家は住宅地のど真ん中にあるために色々と困ることが多い。トイレに行くたびになんだかちょっぴり悔しい気持ちになる。

 

このような話は馬鹿にされるだろうなと思って黙っていたけれど、ある日、ウルトラ可愛い女の子にこの話を試しにしてみたところ、非常に驚いたことに「こんなことをひとに話すのははじめてのことなのですが…わたしも外でしていますよ!」との返事が返ってきた。しかのこの女性はかなりの猛者で、大も小も一旦バケツにした後に、肥料になるからという理由で庭に埋めている(!)のだと話す。なんていうか、ああ、素晴らしい話だな【素晴らしい女性だな】と思った。彼女いわく「わたしは地球から酸素とか野菜とか果物とかいろいろなものを貰いながら生きているけれど、貰ってばかりの自分が地球に還せるものってなにがあるんだろうって考えた結果、うまく言えないのですが自分の排泄物くらいしかないのかなあって思って、トイレットペーパーを流すと地球に悪いとか言う話も聞いたことがあったから、こっそりやるようにしているのです」とのこと。

 

これらは非常に誤解を招きかねない話題になるために、あまり大きな声で話すことはできない。そのため、ごちゃまぜの家の候補地を探している時も「立ちションができる場所がいいです!」なんて言えたものではないから、オブラートに「おはなを買わなくても、周辺の野花を摘んでお部屋に飾れるような環境が理想的です」などとファンタジックに話している。これは余談になるけれど、日本には『糞土師』なるひともいて、その方は「屋外【非常時】における用の済ませ方」とか「トイレットペーパーよりも快適にお尻をふける自然の葉っぱランキング」的なものも(自身の体験から)数冊の本にまとめている。世界は広い。いろいろな生き方があるのだ(それで本を出しているひともいるのだ)。こういう話を聞くと、生きることがちょっとだけ楽しくなるのは自分だけなのだろうか(自分だけなのかもしれない)。

 

【過去記事】この空があれば大丈夫だ。 - いばや通信

 

わたり文庫『マザーテレサ あふれる愛』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、沖守弘著作『マザーテレサ あふれる愛』です。糞土の話をした後にマザーテレサの話をするのもアレですが、こちらの本はマザーテレサ関連でもずば抜けて素晴らしい最高の一冊になると思います。読んでいるだけで心が洗われるような気持ちになります。こういう気持ちを忘れてはいけないのだと思う。マザーテレサの生き方や、マザーテレサの周辺のひとびとの生活に触れると「俺も贅沢を言っている場合じゃないな。もっと生きていることを慈しみたいな【生きていることを慈しめるな】」という気持ちになる。ブックオフでも(多分)100円程度で手に入ると思うから、無理矢理にでもみなさまに読んでいただきたい一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※

 

人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ。そしてまた、原世の最大の悪は、そういうひとに対する愛が足りないことだ。(中略)とにかく貧しいひとを見たら、そのひとたちのために仕える手と愛する心、それに『聞く耳』を持つことですよ。貧しいひとたちはね、オキ、お金を恵まれるよりも食べ物をあたえられるよりも、なによりもまず自分の気持ちを聞いてほしいと望んでいるのよ。実際は何も言わないし、声も出ないけれどもね。健康な人や経済力の豊かな人は、どんなウソでもいえる。でもね、飢えた人、貧しい人は、にぎりあった手、みつめあう視線に、ほんとうにいいたいことをこめるのよ。ほんとうにわかるのよ、オキ、死の直前にある人でも、かすかに震える手が〝ありがとう〟っていってるのが。

 

沖守弘「マザーテレサ あふれる愛」【講談社文庫】

 

人生の本質は「JOY」だ。

愛媛県松山市のイベントに、二人のこどもを育てているシングルマザーのお母さんA様が遊びに来てくれた。A様は震災経験後「(死んだら死んだで仕方がないから)自分が楽しめることだけをやろう!」と一念発起をし、神奈川から愛媛県に移住をした。愛媛県でごちゃまぜの家にもちょっとだけ似ている活動をやりつつ、どうしたって周囲のひとびとに叩かれることもあるもので、それでもいばや通信を読みながら「もうちょっと頑張ろう」と思ってくれていたのだと話す。こういう話を聞けることは物凄い嬉しい。このひとと出会えただけでも愛媛に来てよかったと思う。A様は笑いながら「シングルマザー三ヶ条っていうのがこの世の中にはあるみたいで、わたしはそれが大嫌いなんです!」と話してくれた。わたしは「三ヶ条ってなんですか??」と問う。A様は「寝ずに働かなければいけない。ボロアパートに住まなければいけない。楽しそうに生きていてはいけない」と教えてくれて、わたしは思わず笑ってしまった。

 

 

イベント参加者の方が「さかつめさんは昔からそんなに自由だったのですか」と問う。わたしは返答に困り、しばらくした後に「(自分のことを特段自由だとはあまり思わないけれど)ここにいるひとみんな、最初は自由だったんじゃないのかなって思います」と答えた。多分、誰もが、小さな頃は思い切り自由に生きていてそこらじゅうを遊び駆け回っていたのだと思う。それが、いつからか「これをしてはいけない」とか「あれをしてはいけない」などと制限をされたり、両親の顔色を伺いながら「両親を悲しませないため」などといった理由で自分の気持ちを制御するようになる(のだと思う)。いつからか自分の気持ちよりも『自分以外の他人』の気持ちが優先されるようになり、生きることが楽しみではなく「我慢」とか「苦労」とか「忍耐」の度合いでその良し悪しを測られるようになってしまう(ような気がしている)。

 

 

人生の本質は「JOY」だ。わたしはそのように思う。苦しみに耐えたものにだけ褒美が与えられるのではなく、この世界に生まれて来たというまさにそのことにおいて『誰もがみな、褒美のど真ん中を生きている』のだと思う。問題は、そのことを実感できているかどうかなのだと思う。選ばれたものにだけ褒美が与えられるのだというともすると排他的な思想から、生きとし生けるものは誰もがみな祝福をされている(とっくの昔から我々は恩恵を受けていたのだ!)と思い出せるコミュニケーションを、交わしていきたいのだと思う。トークイベントの休憩時間中に、勝手に外に飛び出して手頃な花を摘んで参加者の女性の方に「お近づきの印に…(はあと)」と渡した瞬間に、なんだかいい風が吹き抜けたような気がした。おはなにはそういう力がある。そういう力がある世界に生まれたことを、性懲りもなく「素晴らしいことだ」とわたしは思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BWWW79bjLap/

瀬戸内の夏。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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この空があれば大丈夫だ。

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「あらゆる病気は断食で治る!」とはよく聞く話で、多分、その通りなのだと思う。愛するムラキテルミさんが「固形物を食べないファスティングは良い!」とブログの中で言っていたので、早速真似をしている。自分の食い癖を眺めてみると、腹が減ったからという理由よりも「暇だから」とか「ストレスが溜まっているから」という理由で何かを口にしている時が多い。これではいけないと思う。ので、自分を使った人体実験【肉体改造】を試している。まずは「ある程度の運動をしなかった日は自分に食事(固形物)を与えない」というところからはじめたい。身体を動かしたあとに食う飯には動物的(?)なうまさがあるが、特になにもしていない時に食う飯は『惰性の味』がする。

 

 

過去に、友達と一本下駄登山をしたことがある。一本下駄で登山をするのは割と過酷で、下山後には「よくやったなー!」と自分で自分を褒めたくなった。下山直後、最寄りの自動販売機でファンタグレープを購買して「乾杯!」と祝杯をあげた。これまでの人生で一番美味かった飲み物は、間違いなくあの時に飲んだファンタグレープだと思う。そして、あの時ほど心の底から「乾杯!」と言えた瞬間はない。いまだにあの味を更新できていない自分がいる。多分、なにを飲むかではなく「どのような状態で飲むか」の方が五億倍重要で、砂漠の中で飲む水は豪華なラウンジで飲むカクテルの五兆倍美味い(気がする)。こういう話をすると「あなたはストイックだね」的なことを言われることがあるけれど、ストイックとは結局「その先によろこびがあることを信じている」ゆえの行為であり、多分、よろこびとは『落差』だと思う。極限を生きると、当たり前が当たり前ではなくなる。当たり前の輝きが増す。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

生きている実感。

おはなを配る日々を過ごしている。一昨日は宇都宮に、昨日は熱海から浜松を経由して名古屋&岐阜に、今日は奈良から梅田を経由して神戸にはいり、明後日は愛媛県松山市で開催されるイベントに登壇をした後に今治に向かう。移動が続く日々を過ごしていると、いま、自分が何処にいるのかわからなくなる。自分をある種の混乱状態に陥らせることにの中には、過酷さと楽しさがある。合理的でもなければ効率的でもなんでもないことをやっていると、そういうことを(この年齢になっても)できている自分を「いい感じだな」と好きになる。これから、おはなを届けるためだけに自腹でレンタカーを借りて奈良県の奥地に足を運ぶ。俺はなにをしているのだろうと思うこともあるけれど、同時に、こういうことをしていなければ絶対に遭遇することのなかった面白い目に遭うこともできているから「バランスはとれているのだな」と思う。

 

移動を続ける日々を過ごしていると、家がなかった頃を思い出す。家のない生活をしていた時の方が、乱暴にまとめると『生きている実感』があった。家がないと、当たり前が当たり前でなくなる。お湯が出ることとか、風呂にはいれることとか、布団で眠れることとか、屋根があることとか、その程度のことでいちいち感動できる『幸福多感症』な自分になる。何もかもを一回失ってみることは、必ずしも悪いことではない。金も宿も何もない日は野営をすることもあった。野営をしている瞬間は孤独にもなるが、野営をしていなければ絶対に出逢うことのなかった朝日の美しさや小鳥の囀りや朝露の煌めきがある。紅の豚じゃないけれど「綺麗…世界って本当に綺麗。」だと思う。家のない生活を通じて、わたしは体質が変わった。朝日が昇る前に身体が勝手に目覚めるようになり、目覚まし時計が不要になった。そして「目覚し時計で目覚める日々は、もしかすると人間的ではないのかもしれない」などと思うようになった。

 

熱海と横浜に家があるいまも、定期的に家出をする。多分、家がない生活が懐かしいのだと思う。当たり前を当たり前と思わないために、定期的に「何もない状態」に自分を追いやる。誤解を恐れずに言うと、自分のためだけならば家はいらないのだと思う。家は「女やこどものため」に必要なもので、多分、自分だけのためには家はいらない。いま、ごちゃまぜの家の活動をしているのは自分のためというよりも「自分の周囲にいる女やこどものため」であり、こんなことを言うとあまりにも偉そうだけど『男は外に出てなんぼ(外に出ている時の方が状態が良い)』なのだと思う。逆に言えば、わたしの場合は家を増やすことは得意でも家を整えることは苦手だ。だからこそ、女の人に家を整えてもらえると猛烈に助かる。この点においても「バランスはとれているのだな」と思う。家はたまに帰る場所【ルンバにとっての充電器】であり、長居をしてしまうと「男性的ななにかがダメになる」的な危機感を覚える。落ち着きがないと言ってしまえばそれまでの話だけれど、日本を離れることで日本の素晴らしさを知るように、家を離れることで家の素晴らしさを知ることは多い。

 

塩をなめる。

と、ここまで書いて時間が流れた。現在は三ノ宮駅前にあるドトールにいる。奈良県でおはなを渡した方は非常に素晴らしい方で、なんと、わたしが持参したおはなを「今日はこの方にお渡ししたいと思ってお願いしたのです!」と、その場にいた別の方にプレゼントをした。素晴らしいおはな(及び坂爪圭吾)の使い方だと感動をした。その後、梅田に移動をして「幸せのパンケーキ」なるものをご馳走していただき、これから三件おはなを渡した後に今夜は三宮駅前のホテルに泊まる。このホテルは、なんと、これからおはなを渡す予定の方が「もしよかったら宿も予約をしておきます!」と手配をしてくださったものになる。本来であればわたしが『与える側』であるはずなのに、いろいろなものを貰っている。ああ、生かされている、自分は生かされているのだとうれしくなる(ここでは書ききれないほどお世話になっているみなさまほんとうにありがとうございます!!)。

 

「運動をしない限り食事を与えない」などと書いておきながら、早速誓いを破ってしまった。特別ルールとして「ひとと食べる限り食事はOK!」ということにする。自分で約束をしたことを音速で破る自分はなんなのだろうと思う反面、そんな自分が嫌いではない。カバンの中に『マグマ塩』という塩がある。この塩はムラキテルミさんおすすめの岩塩で、汗をかいた後などに食べると猛烈に体力が蘇る(ような感覚になるから大好きです)。今後は塩を舐めながら命を繋いでいきたいと思う。旅先でランニングをする「旅ラン」をやりたいと思い、暇な時間を見つけてはランニングウェアやシューズをネットで物色している。こういう時間は楽しい。スポーツウェアを私服にして、いつでも走り出せる体制を整えておきたい(なんてことを考えていると楽しくなる)。

 

また、ごちゃまぜの家の第2号を日本のどこかに持ちたいと思う。どなたか「使っていない家があって管理に困っている」的な方がいたら、格安で譲っていただけないだろうかと思う(もちろん超絶大切に使います!)。インターネットで空き家バンクを物色していたら、安いものだと5万円(!)程度から売りに出されている物件が大量にあった。賃貸で家を借りるより、格安で家を購買(?)した方が自由度は高いような気がする。これは余談になるけれど、ある日突然財政破綻的なことが日本でおきて「明日からお金はただの紙切れになります」みたいなことがあった時に、平気でいるひとたちは『食糧や水やエネルギーを自炊できているひとたち』なのだと思う。ごちゃまぜの家のようなものが(ロシアのダーチャみたいな感じで)世界各地に複数個あれば、仮にひとつの場所がダメになっても他の場所で代替可能になるのかなと思う。何かが起こる前に、何が起きてもいいような状態を(遊び感覚で楽しみながら)整えておけたら「ベストだな!」と思う。

 

【過去記事】生きとし生けるもののうえに幸いあれ。 - いばや通信

 

わたり文庫『ウルトラマラソンマン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ディーン・カーナゼス著作『ウルトラマラソンマン』です。この本は、近年稀に見る名著【全男性必読!】だと睨みます。このひとはうまく言葉にできないのですが最高の愚か者で、自分が愚か者であることを自覚している点において猛烈に賢い。そして、愚行を通じて生きるために必要なエッセンスを確実に抽出している感じが最高に素敵!読後感の爽快感が半端なく、生きるためにはまったく必要ないけれど、生きていることを楽しむために必要なあれこれが大量にあふれているなあと思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

翌朝、ジュリーを起こさないように夜明け前に起きて、ゴールデンゲートブリッジに向かって走った。太陽が上がると魚釣りの船が沖に向かい始め、小鳥も鳴いていた。一ヶ月以上も鳥の鳴き声を聞いていなかったが、極限の地に行くといつも近くにある日常のありがたみを深く感じる。世界を新鮮な目で見られるようになり、当たり前と思わなくなる。自分の限界まで走ることは、自己再生をするチャンスなのだ。

 

自分をそんなに苦しめるなんて正気ではないと、誰もが思う。でも僕らはどこかの時点で、快適さを幸福と取り違えてしまったように僕には思える。僕は、実は正反対なのだと信じ始めていた。「苦痛は意識の唯一の起源である」ドストエフスキーの言葉は正しい。苦痛が始まると、感覚が研ぎ澄まされる。苦しみにこそ、幸福に至る秘密が隠されているのだ。

 

サンタクルーズに向かって走りながら、僕は深い達成感を感じた。多くの人はそこに辿り着くことはない。大変なことをやるのを嫌がっているのか、臆病なのか、負荷が一番少ない楽な道を選んでしまうからである。でも僕に言わせれば、苦しんで頑張ることが意味ある人生につながる。自分を常に駆り立てながら、前に進みながら、学んで成長するべきだ。自分が居心地の良い狭い範囲を超えなければ、無意味な存在に甘んじることになる。素晴らしい人生の旅を歩めなくなってしまう。

 

ランニング仲間が言った言葉に、「墓に入る時は無傷のきれいな身体ではなく、使い果たし、疲れ果てた体で、『最高だった』と叫びながら、滑り込みたい」とあった。

 

ウルトラランニングは僕の生きがいでもあり、僕が墓に入る時までの生き方でもある。だから今ここで連続2日間かけて、自分の精神的・肉体的限界を試しながら、もっと上を、もっと遠くを目指し、もっと出し切ろうとしていた。自分が選んだ道を極めるなら、どんな精神的な障害物があってもそれをぶち抜き、どんな強烈な痛みと絶望感の壁に当たっても、頑張り続ける勇気を持たなければならない。

 

ディーン・カーナゼス『ウルトラマラソンマン』【Discover】

 

この空があれば大丈夫だ。

偉大な人間との出会いや、偉大な自然との出会いは人間を謙虚にする。自分なんてまだまだだなと思える瞬間の敗北感には、ある種の清々しさがある。世界にはまだまだ自分の知らないすごい奴らが大量にいるのだと思える時、どうしてなのだろうか、これからの自分が楽しみになる。多分、人間というものは違っているように見えて実はたいした違いなんてなく、ひとりの人間ができるということは人類全体ができるということであり(やる必要があるかどうかは別として!)、偉大な人間は「俺はすごい!」という個体の優位性を主張しているのではなく「(俺を含めた)人間という生き物は素晴らしい!」ということを証明してくれているように思う。大袈裟な言葉で言えば「自分の代わりに生きている」のが他人であり、あなたはわたしの代わりに生きていて、わたしはあなたの代わりに生きている(だから同じである必要は微塵もない!)のだと思う。

 

 

 

最近は「欲望を追い求めるとキリがない」ということを思う。ごちゃまぜの家を菊名ではじめてから、あれも欲しい、これも欲しいみたいな感じで次から次へと欲望が湧き出る。ひとつのものを揃えると、また新しい「これがあるならこれも欲しい!」みたいな気持ちが湧き出してきて、なんだかもうキリがなくて疲れてしまう。だからこそ、あくまでもベースは『ない』に置いておきたいと思う。これがあるから大丈夫という思考ではなく、これがなくても大丈夫(最悪の場合は「家がなくても大丈夫!」)的な思考を忘れたくないと思う。あるものは楽しむ。あるものには最大限の感謝をする。ただ、ないならないでどうにかなるのだという思考を忘れたくないと思う。家のない生活をしていた頃に、お湯が出ることや風呂に入れることや布団で眠れることなどにいちいち感動をしていた自分の感受性を、忘れてしまいたくないと思う。

 

 

移動中に見上げた空が綺麗だった。空が晴れているだけで、こんなにも嬉しくなるのはなぜなのだろうか。たったそれだけのことで自由を感じる。笑顔になる。元気が出る。世界に空があってよかったなと思う。空を見上げながら、ああ、この空があればどのような時も自分は大丈夫なのだと思った。空だけではない、花に、鳥に、風に、月に、こんなにも多彩な世界に生まれてよかったなと思う。すぐそこにある彩りを、すぐそこにある豊かさを、すぐそこにある奇跡のような出来事を、忘れるたびに思い出していける自分でありたいと思う。何度でも、何度でも、この空があれば大丈夫だと思えた時のあの感覚を、心臓に刺青を掘るようにしっかりと刻みたいのだと思う。

 

 

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この空があれば大丈夫だ。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

生きとし生けるもののうえに幸いあれ。

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ごちゃまぜの家にはWi-Fiがない。その為、わたしは最寄りのデニーズまで無料Wi-Fiを拾いに、えりか姫は自宅から徒歩10分弱の場所にあるファミリーマートまで毎回無料Wi-Fiを拾いに行く『Wi-Fi乞食』的な生活をしていた。その暮らし振りを見るに見かねた東京都江東区在住の女神K様が「それはあまりにも大変でしょ!Wi-Fi代金程度ならわたしが出すから一刻も早く導入しちゃいなさい!インターネットはあなたたちの生命線でしょーが!」 ということで、ごちゃまぜの家に高速Wi-Fiを設置してくださることになった。神様はいるのだと思った。そして「生かされている…」と思った。ごちゃまぜの家の基本コンセプトは「必要とされる限り続き、必要とされなくなった瞬間に散る【生かされる限り続く】」というものになる。

 

 

生かされている限り続くというこの在り方を、わたしは、結構気に入っている。無理をしてまで続けない。延命措置に未来はない。誰かに必要とされる限り、多分、(宇宙的なサムシングの力が働いて)何かしらの形で我々は生かされるであろう、逆に言えば『生かされない』ということはいまの世界に必要ないということなので、その際は自然の摂理に従って散りたい(新しい別の何かを試すことにしたい)と思う。あとはやってみなければわからないということで、一ヶ月の月日が流れた。非常にありがたいことに、現状、ごちゃまぜの家は「みなさまに生かされまくっている」状態の中にある。ありがたすぎて血反吐が出る。自分の中でバランスをとる(自分にも何かできることで恩廻しをしなければ壊れてしまう!壊れてしまうよ!と思った)ために、おはなを配ることにした。おはなが欲しい方はお気軽にご連絡をください。おはなは最高だと思います(おはなのある生活は素晴らしい!)。奇跡的にタイミングさえ合えば、小生、あなたがお住いの場所までおはなを届けにあがります!!

 

【イベント情報】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

延命措置に未来はない。必要とされる限り生かされる。 

「もてなさないことがおもてなし」をモットーに、ごちゃまぜの家が誕生して一ヶ月の月日が流れた。来客があっても特段何もしない。ごちゃまぜの家は、別名『好きにやっちゃっ邸(ダサっ!)』でもあるために、やりたいことがあればストレートにそれをやればいいし、やりたいことがなければ何もしないでいればいいのだと思う。そのため、来客があっても(自分のこころが「何かをしたい!」と思わない限り)基本的に放置をする。この瞬間、それなりに我々のこころはざわついている。もっと話した方がいいのかなとか、もっとおもてなしをした方がいいのかななどと考える頭意識を一回無視して、自然な流れに任せる。「何かをした方がいい」と考える頭意識ではない、自分のこころが「何かをしたい」と前のめりになれるあの感覚を大切にしている(たとえば、話したいと思ったら喜びと共に話しかけるけれど、なんとなく『話さなくちゃいけない』的な雰囲気にはなるべく流されないようにしている)。5分で帰る人もいれば、24時間滞在をするひともいる。どのような気持ちなのかは当の本人しかわからない。もしかしたら謎に傷ついたひともいるのかもしれない(いないかもしれない)。ただ、はるばる関西から遊びに来てくれた方からこんな感じの連絡をもらった時は嬉しくなる。

 

坂爪さん

 

おはようございます。

 

昨日お邪魔させていただいた◯◯です。

 

良い空気を感じさせていただいて、
本当にありがとうございました!

 

「何をしなくてもいい」ということが
ごちゃまぜの家の空気を感じることで初めて実感できました。

 

そういえば、本当に久しぶりに、人前で横になって休んでいたような気がします。

 

本当にありがとうございました!!!

 

私のことはほとんどお話しできませんでしたが、
あのごちゃまぜの家の空気を作っているのは間違いなく坂爪さんだと思いますし、
本当に感謝しております。

 

なのでというか、一方的にメールを送らせていただきましたので、返信は不要です。

 

これからも関西から陰ながら応援しております。
自分自身もやりたいことに向けて命を燃やしていこうと思います。

 

◯◯◯◯

 

一歳五ヶ月の赤ちゃんと来てくれたお母様からも、後日、うれしい連絡をいただいた。この前の土日は(土日ということもあって)大量の来客に空間はごちゃまぜった。来客のみなさま、大小様々な差し入れを持って来てくださるものだから、現状、ごちゃまぜの家の食材は豊富だ。我々管理人(えりか姫&つるの仁美)を含めた住人は滅多に料理をしない惰性的な人間なので、このままだと貴重な食糧を腐らせてしまう。これではいけない。どなた様か、えりか姫かつるの仁美さんに料理を教えてくださる方がおりましたら、彼女たちに直接コンタクトを取ってみていただけたら猛烈にうれしいです。文面だけだとなかなか伝わらない部分もあるとは思いますが、えりか姫もつるの仁美さんも、性根は素直でとっても優しい女の子(美形!)です。彼女たちの連絡先は、ひとつ前の記事『頭がいいってことは、ひとの気持ちがわかるということ』をご参照ください。

 

圭吾さん

 

こんばんは。

 

昨日、今日はありがとうございました!
◯◯(こどもの名前)はすんなり寝てくれました。

 

出向く場所があって、迎えていただけて
ありがたい気持ちでした。

 

◯◯(こどもの名前)と遊んでいただけて嬉しかったです。


さっきツイキャス聞いてました。

 

圭吾さんが全部過去のことと言ってたの、いいなと思いました。

 

私が最近ハマってるのは
1秒1秒新しい自分に生まれ変わってるって意識して生活することです。

 

ごちゃまぜの家に居たら めちゃめちゃ細胞が生まれ変わってる気がしました。

 

普段の家にいる時と思考回路が変わっちゃうようです。

外出たほうがいいですね。
しかも気持ちいい人がいると。
気持ちいい場に来られて気持ちよくなったので、まわりの人にもちょっとでもそれがうつればいいなと思います。


自分の話はする価値がないと思ってる人が多いと思うというくだり、まさに!でした。

 

言っても意味ないかな、面白くない人だと思われるのが嫌だな、話すのがこわいなーとかそんなふぅに思って言えなかったことがありました。

 

話しながらも自分、いい人に思われようとしてんなーー!とかこんなこと言ったら嫌われちゃうかもしれないからよしとこー!とか
思ってたなー、そんな気づきがありました。


このような場をありがとうございます!!

 

あでゅー!

 

◯◯◯◯

 

小さなこどもと長い時間一緒にいると、蹴り飛ばしたくなる瞬間もあると思う。こども1人に対して、大人は3人は必要である(ように思う)。ごちゃまぜの家を通じて、お母さんの負担が少しでも軽くなれば嬉しい。これは余談になるけれど、先日、えりか姫とつるの仁美さんと『真夜中のツイキャス音声配信』をした。えりか姫は現在14歳、この前、実の母親とのバトル(?)に同席をする機会に遭遇をさせていただいたのだけれど、えりか姫がお母様に向かって「わたしのことはもう大丈夫だから、わたしのために生きないでいいよ。お母さんは、お母さんのために生きて。」と伝えた瞬間には、なんだか感動をしてしまった。腹を割って生きれば、多分、毎日はドラマになる。母親と娘という関係性は、母親と息子という関係性とはまるで異なる性質を帯びたものになるのだろう。是非、勇猛果敢に突破をしていただきたいと思う。

 

【音声配信】Recoded Radio ごちゃまぜの思想 - いばや #384328615 - TwitCasting

 

わたり文庫『梅原猛の授業 仏教

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、梅原猛著作『梅原猛の授業 仏教』です。お釈迦さまの言葉には非常に素晴らしいものがいくつもあると思っているのですが、とりわけ、こちらの本の中で紹介されているお釈迦さまの言葉の訳が超絶素敵だったので、僭越ながら(ちょっと長くなりますが!)引用をさせていただきます。説教臭いところがたまに疵ではありますが、梅原さんの言葉は非常にわかりやすい。この時期の梅雨の夜長、雨音を聞きながらひとり静かに仏道入門をするなんていかがなものでしょうか。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※

 

よく教えの道理を会得したるものが

自由の境地をえてのちに為すべきことはこれなり

有能、率直、そして端正なること

よき言葉を語り、柔和にして、高慢ならざること

 

足ることを知りて、養い易きこと

雑事にかかわらず、簡素に生きること

五根を清らかにして、聡明、謙譲なること

檀越(施主)の家におもむいて貪りなきこと

 

卑賤のわざをなして識者の批難をうくることなかれ

ただ、かかる慈しみをのみ修すべし

生きとし生けるもののうえに

幸いあれ、平和あれ、安楽あれ

 

目に見えるもの、また見えざるものも

遠くにあるものも、また近きものも

すでに煩悩尽くるものも、また尽きざるものも

生きとし生けるもののうえに幸いあれ

 

あたかも、母性がそのひとり子を

おのが命に代えてまもるがごとく

生きとし生けるもののうえに

かぎりなき慈しみの思いをそそげ

 

また一切の世間にたいして

かぎりなき慈しみの思いをそそげ

上にも、下にも、また四方にも

うらみなく、敵意なく、ただ慈しみをのみそそげ

 

梅原猛梅原猛の授業 仏教』【朝日文庫

 

生きとし生けるもののうえに幸いあれ。

昔、ボロボロの状態で京都にある三十三間堂に足を運んだことがある。その時のわたしは家のない生活をしていて、呼ばれた場所に移動を続ける日々を過ごしていた。家がない生活はそれなりにエキサイティングで軽快な部分ももちろんあれど、体力的に厳しいと感じる瞬間も頻繁にあった。いいひとと出会うことが大半だったけれど、稀にボロクソに扱われる瞬間もあった。京都にいた時は、多分、ボロクソに扱われた直後だったのだと思う。まともに横になれない日々が続き、精神的にも肉体的にも疲弊をしていた。 そんな時、足を運んだ三十三間堂の奥の方に、小さな看板が掲げてあった。その看板には「大切なひとのために祈りましょう」と書かれていた(ように記憶をしている)。

 

 

大切なひとのために祈りましょうという言葉に、わたしは心臓はドキン!と鳴った。疲弊を言い訳に、わたしは、自分のことばかりを考えてしまっていた。誰かに自分の気持ちをわかってもらいたいとか、誰かに寄り添ってもらいたいとか、誰かに何かをして貰うことばかりを求めてしまっていた。大切なひとのために祈りましょうという言葉は、その瞬間のわたしに「自分のことばかりを考えているんじゃないよ」と言っているように思えた。大切なひとという言葉を通じて、家族の表情、友達の表情、自分が好きだと思うひとたちの表情が目に浮かんだ。そして、疲れていたはずのココロやカラダが元気になるのを感じていた。多分、自分のことばかりを考えている時にはなかなか湧き出すことのないパワーが、この世界【人間の奥底】にはあるのだと思う。その力は、大切なひとを思う瞬間に発揮をされて、結果的に「勇気百倍、自分でもびっくりをするような力になる」のだと思う。

 

 

仏教における重要な概念は『慈悲』だと聞く。お釈迦様は『(西洋的な)愛』ではなく『(東洋的な)慈悲』という言葉を使う。大切なひとを通じてだけではなく、動物や昆虫や植物や自然界のあらゆるものを丁寧に扱うことができた時、それは『自分自身を大切に扱っている』ことに繋がるのだと、多分、そういうことを言いたかったのだと思う。誰かに自分のことを好きになって貰うということは、自分のコントロールの範囲を超えている。しかし、自分から「何かを好きになるための自由」は、常に掌の中に残されている。大切なひとのために祈ること。愛されたいと願う前に、まずは自分から愛すること。マザーテレサは「人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ」と言う。そしてまた、原世の最大の悪は、そういうひとに対する愛が足りないことだと言う。自分のことを愛してくれる誰かを見つけることではなく、自分から愛していける『何か』を見つけること。矛盾するような話になるけれど、自分から先に愛していきたいと思う時、ああ、自分はとっくの昔から愛されていた【すべては優しさで織り成されていた】ことを理解するのだと、そういうことを考えていた。

 

 

人生は続く。

 

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頭がいいってことは、ひとの気持ちがわかるということ。

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毎晩、テントで眠っている。風通しが良い場所が好きだ。テントの中にいると、雨の音さえも心地よく響く。愛用しているテントはノルディスクの『アスガルド』というもので、これさえあれば何処でも生きていける(ような気持ちになる)。読書をしたり、珈琲を淹れたり、雀に話しかけたり、ギタレレを弾いたり、簡単な料理を作ったりする。不思議な話になるけれど、家の中で眠るよりもテントの中で眠る方が随分とよく眠れる。多分、自然に囲まれていることによる安堵感(?)が大きいのだと思う。テントの中で眠ったことがないひとには、是非、無理やりにでも実際に体験をしてもらいたい。野宿経験者ならわかると思うけれど、一度でも野営をすると「地球が俺の家だ」的な感覚を獲得することができる。

 

 

明日から7月になるので、鉄砲玉48の新メンバーを募集します。鉄砲玉48とは「基本的になんでも無料でご奉仕をする捨て駒の集合体」で、乱暴にまとめると『(捨て身の)便利屋集団』的なものになります。お金はないけど時間とエネルギーはあります!という若い面々を揃えたら何か面白いことが起こるかなと思って生まれた当企画。一ヶ月やってみての感想は「まあ、こんな感じか」といったもので、これじゃ何も伝わらないと思うのですが、なにはともあれ風通しは大事!そのためには変化だ!変化を加えよう!名著『仕事は楽しいかね?』でおなじみマックスおじさんも「試すことに失敗はない。遊び感覚でなんでも試して、成り行きを見守るのだよ」って言っていたしなといった感じです。7月1日&2日は坂爪圭吾も菊名の家におりますので、時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください(事前にご連絡をいただけると助かります!)。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com 

 

鉄砲玉48新メンバー&マネージャー&母親募集!

冷静に考えたら「はッ!必ずしも鉄砲玉のメンバーは菊名の家にいる必要はないのだから、世界の何処にいてもメンバーになることはできるんだよな!」と思ったので、遠隔からの参加希望者も募集します。また、同時に「女子マネージャー」的な存在も募集をします。女子マネの役割は、ボロボロになって帰って来た鉄砲玉の男性陣を温かな飲み物や温かな食事を通じて「労う」ことがメインのお仕事になります。そういうのが得意な方がおりましたら、こちらもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです(展開的に一番最高なのは、1日&2日に菊名の家に来ていただくことです!)

 

同時に、えりか姫の「逆家庭教師」的な存在も募集いたします。逆家庭教師とは何か。それは、乱暴にまとめると「えりか姫に料理を教えることができる」というものになるのですが、えりか姫が料理を学ぶ生徒になるというよりも、教える側が「教えることを学ぶ【お教えさせていただく】」という点において生徒【この点が逆家庭教師!伝わるでしょうか!ダメか!ダメですよね!】でもあるという、なんともしっちゃかめっちゃかな試みになります。えりか姫は現在14歳。料理は好きだけれどもレパートリーにはまだまだ限界があります。そんなえりか姫に「是非、料理を教えてあげたい!」なんて思ってくださる粋な女神様がおりましたら、いつでもお気軽に(えりか姫まで直接)ご連絡をお願いいたします!! 

 

えりか姫の連絡先

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同時に、過去記事でも書きましたが「ごちゃまぜの家の文通相手(?)」も引き続き募集をしております。最近手紙を書いていないなあ、誰かに手紙を書きたいなあ、でも手紙を書く相手がいないんだよなあと思われたあなた!ごちゃまぜの家の(女子マネージャーの)面々が文通相手になりましょう!もしも「それならあたしも手紙を書いてみたいわ!」なんて思われた方がおりましたら、えりか姫か榊原仁美さんに直接ご連絡をいただけましたら幸いです。彼女たち、本日6000円分ものレターセット諸々を横浜のロフトで購買しております(予算は3000円だったのになにをどう間違えたのか倍額になった)ので、準備は過剰に万端です。なんだか色々なことを長々と書きましたが、要するに「なんらかのかたちでごちゃまぜの家に関わってくれるひとが増えたらうれしい!」ということになります。WEBの先には『生身の人間』がいます。表面的なものの奥にある『生身の人間』を感じ取ることができるような、そんなコミュニケーションが生まれることを願っています。

 

榊原仁美(つるの仁美)さんの連絡先

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【過去記事】生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。 - いばや通信

 

わたり文庫『楽しみは創り出せるものよ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ターシャ・テューダー著作『楽しみは創り出せるものよ』です。このシリーズの素晴らしいところは、ターシャさんの素晴らしい言葉だけでなく『ターシャさんの家の素晴らしい写真』も同時に楽しむことができる点にあります。もしもまだ『思うとおりに歩めばいいのよ』をご覧になっていない方は、何よりも先にそちらをお読みいただくことを激しくリコメンドいたします。素晴らしい本【人物】と出会えた一日には、それだけで「今日は素晴らしい一日になった」と思わせてくれる力があります。こちらの一冊をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※

 

わたしは花をあふれんばかりに咲かせるのが好きです。一種類の花に持ち金を全部つぎ込んで大量に咲かせてみると、それは豊かな気持ちになりますよ。 

 

素焼きの植木鉢があるだけで庭の雰囲気が変わります。手作りの鉢から、植物が元気いっぱい、こぼれるように育っている姿は何とも言えません。美的に相性がいいだけでなく、実際、素焼きの鉢に植えられた植物は生育がいいのです。素焼きの気孔と関係があるようです。

 

わたしは、いつも、何かしています。もちろん、嫌いではないので、座っておしゃべりもします。でも、人生について語る時も、自由やルピナスについて語り合う時も、手は動かしています。

 

わたしは、家中を花で飾るのが好きです。鳥かごの中にも小さな一輪挿しを入れてやります。鳥がついばんでしまうので、毎日、花を補充しなければなりませんけど。大事なお客様がある時は、居間に大きなアレンジメントを生けます。

 

一日の始まりは、風通しのいい明るい台所での朝食。摘みたてのイチゴにクリームをかけたもの、ハーブ入りのオムレツ、それにブルーベリーマフィン。摘んだばかりのイチゴほど、おいしいものはないと思うわ。

 

わたしはスープを作るのが大好き。週に最低一回は、大きな鉄鍋を薪ストーブか、冬の間は火を絶やしたことのない暖炉にかけて、コトコトと煮込みます。

 

わたしはジョージ・バーナード・ショーの次の言葉を座右の銘として生きて来ました。「人は自分が置かれている立場を、すぐ状況のせいにするけれど、この世で成功するのは、立ち上がって自分の望む状況を探しに行く人、見つからなかったら創り出す人である」

 

人を喜ばせ、人の役に立ち、自分もおもしろいと思う生き方をして来られたこと、これからもそのように生きていけそうなことを、嬉しいと思います。ー ターシャ・テューダー『楽しみは創り出せるものよ』【メディアファクトリー

 

頭がいいってことは、ひとの気持ちがわかるということ。

頭がいいということはどういうことだろうか。学校の勉強ができるということだろうか。豊富な知識を持っているということだろうか。自分にとって有利な道を選べるということだろうか。わたしは思う。頭がいいということは「ひとの気持ちがわかる」ということではないだろうか。どれだけ勉強ができたとしても、どれだけ豊富な知識を持っていたとしても、どれだけ有利な道を選ぶことができたとしても、それによって相手を小馬鹿にするような人間になってしまったら、自分は偉い人間なのだと傲慢になってしまったら、自分みたいになることを周囲に強要するようになってしまったら、そのひとは簡単に孤立をする。

 

 

人間にとって、普遍的なよろこびのひとつに「喜びを分かち合う」というものがあると思う。わたしがターシャさんの本をおすすめしたり、テントで眠ることをおすすめしたり、ごちゃまぜの家に関わるひとが増えたら嬉しいなあと思うのも、最大の理由は「喜びを分かち合いたい」と願うからなのだろう。どれだけ素晴らしい体験ができていたとしても、分かち合う相手がいなければ、よろこびはひとり分で終わってしまう。分かち合う相手がいる時、よろこびは増幅をする。だから、わたしはこうしてブログ記事を書くのだと思う。誰かと話してみたいと願ったり、誰かの話を聞いてみたいと思ったりもする。どのような感情だとしても関係はない、孤独もさみしさも悲しみも、分かち合えるひとがいる限り温もりを生むのだと思う。

 


頭がいいということは、多分、ひとの気持ちがわかるということなのだろう。ひとの気持ちがわかるということは、自分の意見を押し通す【相手に理解をしてもらう】ことではなく、相手の人生に寄り添う【相手を理解しようとする】ことなのだと思う。誰かに対して怒りや憎しみなどの感情を抱く時、多分、それは「相手についてまだ分かっていないことがある」ことのサインだと思う。怒りや憎しみなどの感情は、重い。胸の内に秘めているだけでも疲れる。きっと『すべてを知れば、すべてを許せる』ものだと思う。許せないということは、まだまだ理解が足りていないだけなのだと思う。そういうことを、テントの中で考えていた。テントの中は静かで、虫の鳴き声が聞こえる。虫の声を聞きながら「自分が好きだと思える生活を続けることができている、この日々を感謝したい」と思う気持ちが湧いた。誰に向けてなのかはわからない、ただ、こんな自分でもすきなように生きていられることをありがたいと思った。生きているということは、多かれ少なかれ「許されている」ということなのだろう。それならば、と思う。自分がこれまでの日々で許されてきた【許されている】ように、自分もひとを許せる人間でありたいと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BWFQBtUD9Ud/

何もなくても大丈夫。

 

人生は続く。

 

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生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。

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最近のテーマは「ルパン感を出して行こう!」ということで、ルパン三世を意識しながら生きている。ルパン感とは「風のように現れ、サッとお宝【それはあなたのハートです】を盗み、あっという間に過ぎ去ること」であり、わたしはこれを別名『ほの字狩り』と名付けている。出会うひとびとの心臓を射抜き、なんだか知らないけどキャー!【ほの字!】みたいな状態を作り上げた後に(半端な執着を残さないためにも)音速でその場を離れる。秋の季節は紅葉狩りちびっこギャングはおやじ狩り、我々いばや【坂爪圭吾】はほの字狩りということで、今後とも、隙さえあらば小粋な風を吹かせていきたいと思っている(とは思っているものの、常に「調子に乗ったら即死する」という自戒を忘れてはいけないのだと思う)。

 

 

一日一回は、いままでやったことのないことをやりたい。昨日、ごちゃまぜの家に来てくれた女性C様が「こんにゃく湿布」なるものを施してくれた。鍋にお湯を沸かして10分程度湯煎したこんにゃく2袋を(袋のまま)タオルに包み、丹田&肝臓周辺に置いて30分寝る。その後、うつ伏せになった状態で仙骨&背骨周辺(?)にこんにゃくを置いて再び30分。極楽の温泉体験に並ぶ気持ち良さが尋常ではなく「これは金を獲れるレベルだぞ!(マッサージみたいに自分のカラダを動かす必要もないから疲れることもないし)えりか姫、やれ!」と命令をした。えりか姫も「これはやばいですね!」とご満悦だ。えりか姫にはガシガシと働いていただき、今後はごちゃまぜの家の大黒柱になっていただきたいと思う。菊名の家を「Retreat KIKUNA」とか名付けていい感じに仕上げたら、いよいよいい感じになるのかもしれない(なんて思いました。みなさまもお試しあれ!!)。

 

【イベント情報】【2th「Yabaival days!!」/TPD48】

 

「こころの充足感」を与えるもの。 

菊名の庭をハイパーオーガニックガーデンと名付け、花を植えたり野菜やハーブを育て始めている。この時期の湿気は苦手だけど、植物を育てていると(水やりをする手間も省けるから)梅雨も悪くないなあと思う。ぐんぐん伸びる野菜の成長を眺めていると、静かな安らぎに満ち溢れる。巷で言われ過ぎていることだけれど、人間を幸せにするものはモノでもカネでもなく「こころの充足感」なのだと思う。目覚めの珈琲を淹れる時間、土をいじっている時間、焚き火用の小枝を拾い集める時間、こどもの笑い声を聞いている時間、歌を歌う時間、ひとと話す時間、踊りを踊る時間、料理を作る時間、愛するひとと抱き合っている時間、ロウソクの灯りに囲まれた時間、虫の声を聴きながら夜空を眺めている時間、など、静かな充足感を与えてくれるものは「お金のかからない」ものが多いことに気がついた。

 

 

夢や目標を持つことは悪くない。高い志を抱くことは結構なことだ。ただ、遠くにあるものを追い求め過ぎるあまり、手元がお留守になってはいないかと、自分に感じることがある。他人【理想の自分像】との比較がモチベーションに繋がる場合もあるとは思うけれど、基本的に「比べる限り負け続ける」ものだとわたしは思う。他者との比較で実力を語ったり悦に入ることほど、愚かなことはない。人間に価値があるとすれば、それは自然と同じように(相対的なものではなく)絶対的なものだと思う。何かあるからすごいという訳でもなければ、何かがないからダメだという訳でもない。普遍性とか本質などと呼ばれるものの真価は『不増不減』のものであり、ただ、自分は自分以上でもなければ自分以下でもないのだと真っ直ぐに感じることができた時、はじめて「(他の何者でもない)自分であること」を誇りにすることができるのだと思う。静かな充足感は、そういうことを教えてくれているように感じている。

 

手紙とはな。

これまでの人生の中で、ああ、この習慣は素晴らしいなと思えるものがふたつある。ひとつは「わたり文庫」の活動で、わたり文庫の当選者の方には(毎回という訳じゃないけれど)本と一緒に季節の花や紅茶の袋を香り付けに添えてみたり、チョコやクッキーなどのお菓子を同封したりしている。わたり文庫の当選者の方からお返事の手紙をいただくこともあり、この年になるとなかなか手紙をもらう機会もないものだから、小包を開ける瞬間はまるで「クリスマスのプレゼントを開封するこどもの気持ち」みたいなものが蘇る。手書きの文字には、メールにはない温度【温もり】がある。だからなのだろうか、わたり文庫当選者の方や届いた手紙の返事を書いている時間は、ああ、なんだかこれは非常に素晴らしい時間(絶対に途絶えさせてはいけない時間)だなあと思う。

 

もうひとつは「おはなをあげる」という習慣。わたしには、余裕がある時期限定で(特別な理由は何もないけれど)出会うひとびとにおはなを配る癖がある。おはなを配っていると、想像以上に喜んでもらえることが多い。なかには涙を流すひとまでいる。わたしには財力がないので、高価なダイヤモンドを購買する余裕はない。ただ、おはななら買える。安いものなら一輪百円程度からある。おかねをおはなに変え、出会うひとびとに配布をする。いい感じの空気が流れる。はなの威力は素晴らしいものがあると思う。これからも隙さえあれば「おはなをあげる」営みを続けていきたいと思うし、何かしらピンと来るものがある方は、このあとすぐにでも誰かに手紙を書いたり実際におはなを渡してみたりしてもらえたら嬉しい(と思う)。 

 

菊名の家は現在も絶賛準備中で、少しづつではあるけれどお客様を出迎える体制(?)も整ってきた。菊名の家を見てみたいという方は、現在管理人を務めているえりか姫か榊原仁美さんに直接ご連絡をいただけましたら幸いです。遠方にお住いの方は、えりか姫や榊原仁美さんが謎の文通相手(?)になる可能性も充分にあり得ますので、そちらも前向きにご検討ください【こんなことを言うと非常に図々しいことこの上ないのですが、我々、差し入れをいただけた瞬間は飛びあがるほどよろこびます!!参考(あくまでも参考!)までに、えりか姫の好物は珈琲豆、榊原仁美さんの好物は果物全般、坂爪圭吾の好物は植物全般となっております!!】。

 

さかつめけいごの連絡先

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たかやまえりかの連絡先

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さかきばらひとみ(つるの仁美)の連絡先

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【参考記事】ラプンツェル仁美の懺悔室♡クズでごめんなさい - 地球に生息する榊原の一種

 

幸福とは「感謝」である。 

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わたしが不在の間、ごちゃまぜの家を訪問してくれたお母様方とこどもたちの写真が届いた。こどもたちの姿がまぶしい。家に小さなこどもたちが来てくれるということは、まるで、自分が作った庭に蝶が遊びに来てくれたように嬉しい。大袈裟な表現になるけれど、こどもたちを見ていると「これが未来だ」という気持ちになる。こどもたちの笑顔がゆっくりと削られてしまう世の中ではなく、こどもたちの笑顔がいつまでも続く世の中になればいいと思う。

 

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写真を見ながら、なぜだかちょっとだけ泣けた。いろいろなことをやっているといろいろなことが起きて「いろいろなことがあるなあ…いろいろなことがあるなあ!!」と軽いダメージを喰らうこともあるけれど、このような瞬間を目撃させていただけると「ああ、素晴らしいじゃないか…人間って素晴らしいじゃないか…!!」という気持ちになる。大袈裟な言葉になるけれど、肯定されたようなうれしさと、報われたようなよろこびと、自分がやっていることに間違いはなかったのだと思えるこころ強さをもらった。そして『感謝と幸福は同義である』ということを思った。感謝をしろと言われてやらされる感謝はあんまり好きじゃないけれど、内側から「感謝をせずにはいられない!」と湧き上がる、この瞬間の幸福感にはたまらないものがある。

 

【過去記事】好きなひとに嫌われても、自分を選ぶ覚悟。 - いばや通信

 

わたり文庫『生きていることを楽しんで』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、引き続きターシャ・テューダー著作『生きていることを楽しんで』です。先日、ターシャ・テューダーを愛する方とお話をさせていただいた際に、その方が「ターシャさんには、女の一生【すべて】がはいっているような気がするんです。赤ちゃんのようでもあり、少女のようでもあり、処女のようでもあり、お母さんのようでもあり、おばあちゃんのようでもある、ターシャさんの表情にはそのすべてが詰まっているみたいだなって思うんです」と話してくれて、わたしは「おお…まじだ…」と思いました。ターシャさんのような人間の存在に触れると、人間はいくらでも「素晴らしい形で年齢を重ねることができるのだ」と思える希望の力をいただきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

世間を騒がすような嫌な事件は、いつの時代にもありました。そのようなケースは、ほんとうは少数なのに、メディアが大々的に取り上げるものだから、そこまで事件を起こさない人までもが、それをお手本にして行動してしまうのではないかしら。まともな生き方は、ニュースにはならないけれど、そちらのほうが大多数であることを、信じましょうよ。

 

親が、自分ができなかったことを、子どもにさせてやりたいと思う気持ちはわかりますが、その結果、子どもに干渉しすぎるようになっているのは残念なことです。子どもは、のびのびとした楽しい子ども時代を過ごし、その間に自分で感じ、考え、夢を見、決断し、実験する必要があるのです。子どもは大人のミニ版ではないのですから。

 

近しい人の死や、かわいがっていたペットの死は、これきりもう会えないのだと思うと、生前のことがいろいろと思い出され、悲しみにくれました。でも、この世は生きている人のものだと、気づいたのです。生きている人に必要とされている自分、その人達なしでは生きられない自分に。

 

「美は見る人の目の中にある」と言います。醜い考えを排し、そばにいる人に愛を施し、思いやりある行動をとっていれば、それを見る人の目には、あなたの周囲が美に満ちている、と映るでしょう。

 

生きていれば、落ち込むこともあります。状況を好転できると思ったら、ぜひ努力すべきです。でも、変えられないなら、それを受け入れて歩み続けるしかありません。何があっても「生きていることを楽しもう」という気持ちを忘れないで。ー ターシャ・テューダー『生きていることを楽しんで』【メディアファクトリー

 

生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。

誤解を恐れずに言えば、人間の役割や使命や意味なんてものは実はなくて、あるとすれば「自分を楽しませること」とか「自分を幸せにすること」くらいだと思う。逆に言えば、どれだけ素晴らしいとされていることをしていたとしても、自分がそれによって窮屈そうに生きていたり、他人に犠牲を強いてしまったり、何よりも自分自身が無理をしてしまっていては、その『無理をしている感じ』は空間に思い切り反映をされる。主催者が自由な精神の持ち主であれば、空間全体にも自由な精神は反映をする。主催者がガッチガチのギッシギシであれば、空間全体もガッチガチのギッシギシになってしまう。わたしはガッチガチのギッシギシな空間があまり好きではないために、一応、ごちゃまぜの家の主催者としては「まずは自分を楽しませる(もっともらしいことを言うのはその後だ!)」ということを繰り返し思う。

 

 

わたしは過去に大学を辞めた。大学を辞める時は、周囲のひとから「辞めて何をするの?」と五億回は問われた。わたしは「やりたいことがあるから辞めるんじゃなくて、やりたくないから辞めるんだ」と答えていた。理解されることは少なかったけれど、あの時に辞めて本当に良かったと思う。責任【無責任】とは何だろうか。わたしは思う。責任とは「自分を生きる覚悟」ではないだろうか。何かをはじめることと同じくらい、何かをやめることには勇気がいる。しかし、その勇気を通じてしか得ることのできない覚悟が、多分、ある。わたしには、そのように感じることがこれまでも頻繁にあった。

 

 

自分であること以外に、何があるだろうか。自分を生きるということは、これがあるから安心だとか、これがあるからきっと生きていけるだとか、自分の外側に張り付いている諸々の条件を取り除いたあとに残る「何もなくてもいい【生きているだけでいい】」と思える状態だと思う。わたしは思う。生きているということは、生きているというまさにそのことにおいて、まるで『奇跡』みたいなことなのだと思う。耳が聞こえること。目が見えること。足があること。腕があること。友達がいること。家族がいること。電車に乗ること。酸素があること。言葉を話すこと。料理を作ること。季節が巡ること。草木が茂ること。果実が実ること。心臓が脈を打つこと。ひとを好きになること。ボールを投げること。ボールを受け取ること。今夜眠る場所があり、着る服があり、明日食うに困らない金があるということ。見出そうと思えば、ありがたいことは無限に転がっている。自分にはこの肉体とこの精神しかないのだから、ないものを嘆くよりも、あるもので生きる。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。この瞬間は常に最初で最期、今日の自分【世界】は今日だけのもの、明日には二度と取り戻すことはできないのだから、自分は自分をまっとうして死にたい【生きたい】のだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BV3vPq7jhSR/

光にあふれている。。。

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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好きなひとに嫌われても、自分を選ぶ覚悟。

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北欧スウェーデン発『Acne Studious』 のジーンズを中古屋さんで発掘し、定価の80%オフで購買した。履き心地があまりにも最高で、生きているだけで嬉しい。なんだって良いもの【自分のこころがトキメクもの】を身につけた方が幸福度は高いのだな、と実感をする。引き続き、隙間時間を見つけては身の回りの断捨離を続けている。ダサいと感じるものは勇気を出して捨てる。多分、掃除は人生哲学にも通底している(ような気がする)。中途半端なひとと一緒にいると、端的に『覇気が下がる』。同じように、中途半端や物質や習慣や人間関係にまみれた生活を続けていると、波動的なサムシングが下降をしまくって死臭にも似た腐敗臭が漂う。梅雨の時期は湿度が高い。魂までカビ臭くなったら『おしまい』だと思う。

 

 

カビルンルン的にはルンルンな日々なのだろうけど、わたしは湿気が苦手だ。『ジメッ!』としているひとを見ると『カラッ!』とさせたくなる。最近のTPD48【鉄砲玉48】の動きを見ていても、なんだかパッとしない印象【ある種のマンネリズム】を覚えてつまらねーなと感じていた。ら、チームゼロの嘉向徹さんと保科亮太さんが勝手に解散総選挙を勝手にはじめてくださり、空間に緊張感が走った。自分たちがはじめた活動に、誰よりも先に自分たちが飽きる。飽きることは大切だ。飽きることで変化は生まれる、多分、悪玉は必要なのだなと思う。わたしには気を遣い過ぎて自滅する傾向があるため、今後は『TPD48に積極的に嫌われていくAKD48【悪玉48】』を秘密裏で結束していく必要があるのだなと感じた。

 

【音声配信】TPD48勝手に解散総選挙 - TwitCasting

 

潜在能力は『遊び』の中で引き出される。

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昨日、熱海の自宅でわたり食堂【0円食堂】を開催した。昨日は国際色が強く、ブラジルから一時帰国中のY様ファミリーや、ポッドキャスト収録のために気持ち100カ国を巡った高知県在住のM様や、最近まで東南アジアに気持ち20年暮らしていた女性S様などが来てくれた。M様には、数年前にタイのチェンマイトークイベントを主催していただいたことがある。『ごちゃまぜの家をチェンマイにどうですか?都心部から少し離れたら一軒家も一万円以下でありますよ』的な話をされた日には、ああ、必ずしも日本にこだわる必要はなにもなかったのだなあと感じた。M様とは、その後もマレーシアなどの東南アジア各地で何度も再会をしてはいたものの、祖国日本で会うのははじめてのことだった。

 

昨日のわたり食堂の中で印象的だったことはふたつ。ひとつは、ブラジルから一時帰国中のY様の息子と娘さまの日本語の上達具合。お子様達は基本的に現地でポルトガル語を話す日々を過ごしているために、日本語はどうしたって片言程度になる。が、昨日、小さなこどもが他にも何人か遊びに来てくれたために、みんなで遊びながら彼らは半端ない勢いで日本語を獲得していった。これにはビビった。最初は発音もままならなかった日本語を、帰る頃には現地人さながらペラッペラッに話していた。それを見て、お母様も『信じられない!どれだけ教えても全然だったのに!』という驚愕の表情を浮かべている。潜在能力は、多分、遊びの中で最大限に引き出されるものなのだろう。教えるとかでもない、育てるでもない、こどもたちは遊びながら『勝手に(しかも最速で)学んでいく』ものだと痛感した。これはこどもに限らない、おとなも同じことだと思う。こどもの仕事が遊ぶことならば、おとなの仕事は『もっと遊ぶ』ことである(のだと思った)。

 

もうひとつは『勇気に大小はない』ということ。昨日、海外組の話を聞きながら「わたしは、いままで、このような初めましての方々が集まる場所に自分ひとりだけで来たことがなくて、だから今日は自分的にはものすごい勇気を出してこの場所に来たのですが、みなさまの話を聞きながら自分はちっぽけだなあと感じました」的なことを柔和な笑顔で話す女性がいた。その話を聞きながら、否、あなた様がこの瞬間に絞り出した勇気は他の誰にもひけを取らないものすごい尊くて素晴らしい輝きに満ち溢れたものだとわたしは感じた。多分、勇気に大小はない。何かを変えるために振り絞る勇気、その勇気は、振り絞るものだけではなくそれに触れるものの瞳をキラッ!とさせる力がある(のだと思った)。

 

【過去記事】「わがままの純度」を磨け。 - いばや通信

 

行動の伴わない覚悟は戯言である。

TPD48の今後について考える。これは「我が子のひきこもり対策」にも通じると思うのだけれど、閉塞的な人間関係【親子関係?】を突破する最高のソリューションは「(愛をもって)追い出す」ことだと思う。いま、鉄砲玉のメンバーは四名いる。取り急ぎ、本日から男子諸君には連泊禁止令を出したい【ごちゃまぜの家以外にも宿泊できる場所をガシガシ獲得して欲しい】と思う。同時に、ごちゃまぜの家で眠ることができるのは(鉄砲玉のメンバーは)最大2名までとする。今週は、このやり方で進めて見たいと思う(来月以降、どのようになるのかは白紙です)。あと、これは余談になるのですが「菊名の家に足りていないものはありますか?」と頻繁に問われるので、思いつく限り下記にまとめます【お気にかけてくださる方々、ほんとうにありがとうございます!!】。

 

・大きい洗濯機【小さい洗濯機はあるのだけど小さい!】※※※ 東京都在住の方からいただけることになりました!!※※※


・大きい冷蔵庫【小さい冷蔵庫はあるのだけど小さい!】※※※ 東京都在住の方からいただけることになりました!!※※※


・バスタオル【現状、一枚を四人で(!)共有しているみたいです!】※※※ 神奈川県在住の方からいただけることになりました!!※※※


・台所のガスコンロ【一応あることはあるのですが、片側が爆発して機能不全に陥りました!都市ガスです!】※※※ 徳島県在住の方からいただけることになりました!!※※※


・敷き布団&掛け布団カバー【現状、裸(?)に近い状態で使っています!キャー!】


・トイレットペーパー【いくらあっても足りません!鉄砲玉のメンバーはもっとケチケチ使うこと!(お客様のみなさまは思う存分ご利用ください!)】


・珈琲豆【単純に、坂爪圭吾とえりか姫がよろこびます!】

 

・果物全般【単純に、坂爪圭吾とえりか姫と榊原仁美がよろこびます!】

 

※ ※※ 随時更新予定! ※※※

 

「自分で買えよ!」的なツッコミの声が聞こえてきますが、居住環境を整えるには随分とお金がかかるものですね!これではお金がいくらあっても足りないことに気がついたので、もしも奇跡的に「それ余ってるからあげるよー!」的な方がいらっしゃいましたら、非常にお手間ではありますが坂爪圭吾までご連絡いただけましたら猛烈に幸いです。場合によっては、鉄砲玉の誰かをあなた様のもとに派遣します(指名も可能!)。郵送でお送りいただいた方々には、荷物を受け取らせていただいた鉄砲玉のメンバーが精一杯の御礼状を書かせていただきます。鉄砲玉とペンフレンド(古ッ!)になりたい方からの救援物資(?)及び救援措置(?)もお待ちしております!!

 

【イベント情報】【2th「Yabaival days!!」/TPD48】

 

わたり文庫『思うとおりに歩めばいいのよ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ターシャ・テューダー著作『思うとおりに歩めばいいのよ』です。こちらの本は、ごちゃまぜの家をはじめるにあたり「家の庭がこんな感じになるといいですね!」というお言葉と共に、植物を愛する可憐な女性Y様から譲り受けた極上の一冊です。いまちょっと手元に本がないのでアレですが、これはもう(言葉も写真も)最高の宝物でございます。わたり文庫用に新しく買い足した(一冊は菊名に常備しておきます!)ので、ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、フィレンツェにわたりました ※※※

 

私が心掛けてきたことは、騒音、ごたごた、攻撃的で付き合いにくい人を避けること。自分の経済力に見合った生活をすること。できるだけ自給自足すること。

 

わたしは、ひとりの時間が好きです。自分勝手だと思われてもいいの。子供が家を出て行き、二度と一緒に住みたがらないと言って淋しがっているお母さん達。ちょっと周りを見回してごらんなさい。やろうと思えばできる楽しいことが、たくさんありますよ。人生、長くはないんですもの。うかうかしていると、何もできないうちに終わってしまうわ。

 

生きていれば、落ち込むこともあります。状況を好転できると思ったら、ぜひ努力すべきです。でも、変えられないなら、それを受け入れて歩み続けるしかありません。何があっても「生きていることを楽しもう」という気持ちを忘れないで。

 

みんなが本当に欲しいのは、物ではなくて心の充足です。幸福になりたいというのは、心が充たされたいということでしょう。ちょっと周りを見回してごらんなさい。やろうと思えばできる楽しいことが、たくさんありますよ。

 

今が、人生でいちばんいい時だと思います。若い頃は、やりたくないこともやらなければならなかったし、疲れることも、やってもやっても終わらないことも多かったわ。家計のやりくり、税金の支払い、仕事の締め切り、契約の更新といったことのうえに、途中からは、四人の子どもをひとりで育てるという仕事が加わりました。それらのことが、全部なくなり、今は子どもや孫にしてやりたいことをし、好きなように絵を描き、大好きな庭仕事をし、動物との生活を楽しめるのですもの。

 

朝日の輝きが、風にゆれる枝が、心を満たしてくれる。その喜びを忘れずに生きていきなさい。

 

私は、社会通念より自分の価値観に従って生きるほうを選びました。だから、おもしろくて充実した人生を歩んできたのだと思います。

 

自分のまわりを美しい考えで満たし、親しい人々に愛と優しさのこもった行動をとることをおすすめします。

 

家事をしている時、あるいは納屋で仕事をしている時、これまでの過ちや失敗を思い出す時があります。そんな時は、考えるのを急いでやめて、スイレンの花を思い浮かべるの。スイレンはいつも、沈んだ気持ちを明るくしてくれます。思い浮かべるのは、ガチョウのひなでもいいんだけど。 ー ターシャ・テューダー『思うとおりに歩めばいいのよ』【メディアファクトリー

 

好きなひとに嫌われても、自分を選ぶ覚悟。

セックスレスからセックス過多(!)へと華麗なるシフトを果たしたいばやな友達・まゆちゃぱうぉにかさんが、自身のブログ記事で『例え好きな人に嫌われたとしても、自分を選ぶ覚悟』という最高過ぎる言葉を残していた。気を遣い過ぎて自滅をしがちな小生に染みる言葉の数々、彼女の存在には毎度助けられている。とりわけ、彼女のアイパッドに残されていた『一日も無駄にしたくない』というメモ書きには、心臓を射抜かれる思いがした。好きなひとに嫌われてしまうことは悲しいことだ。ひとりきりになることは、もしかしたらとてもこわいことなのかもしれない。でも、それでもなお、ひとりでも生きるのだと腹を括ったものにだけ、宿る光もあるのだと思う。

 

一日も無駄にしたくない


本音で生きない日なんて、もう1日もいらない


我慢する日はもう1日もいらない


スネてる時間はない!!


やりたいことはやりたい


いま、この瞬間に、言いたい言葉は全部言いたい

 

セックスレスの唯一最大の解決法はセックスすること - CHAPAWONICA BLOG ~らぶ&ぱぽぷ~

 

世界を変えるのではなく、世界を増やす。こうでなければいけないと思っていたことの大半は、ただ、自分の勝手な思い込みによるものになるのだろう。勝手な思い込みで不自由になることができるのならば、同じように、勝手な思い込みで自由になることも簡単だ。どのような世界を生きるのか、多分、私達はいくらでも好きな道を選ぶことができる。不幸なままでいたければ不幸なままでいればいいし、幸福でありたければ幸福であり続ける【幸福を日常にする】ことをこの瞬間から決めてしまえばいいだけの話だ。湿気を嫌うわたしは、カラッとした人生を望む。こうでなければいけないという生き方よりも、こういうものがあってもいいじゃないかという『正解を増やす』 生き方をしていきたいと思っている。

 

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

「わがままの純度」を磨け。

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今年も納豆にはちみつの季節がやって来ました。わたしの趣味は「珈琲を野外で淹れること。余裕があるときはホットサンドも作ること」 でございまして、適当な食材を買い込んではなんでもかんでも有機のパンに挟みたがる癖があります。現時点では『納豆+クリームチーズ+はちみつ』のコンボが不動の第1位になっているのですが、あり得ないこの美味さを周囲に熱弁をしても「そんなもん美味い訳がないだろう!」的な表情をされてしまうので、ああ、これだから何事も自分で試すということを経由しないで物事を決めつけてしまう人間は嫌いなんだよと悪態をついております(言うほどついていません)。先日、半ば強制的にあるひとに食わせたところ「う、う、まい!!」というリアクションを獲得することに成功をいたしましたので、明日のわたり食堂で提供をさせていただくメニューに加えたいと思いました。

 

 

ごちゃまぜの家をはじめてから勉強になることが多過ぎる。わたしは新潟市内にある海沿いの田舎で育ったために、両親の教育方針も限りなくゆるく、比較的好き勝手に自由にのびのびと育てられた。いま、横浜【菊名】でごちゃまぜの家をはじめたばかりなのだけれど、この場所は土地柄的にも「お厳しい方々」が密集している空気感が漂っていて、わたしのようなヒエラルキーの底辺がその辺をふらふらしていると「民度が下がるのでやめてください」と言われている気持ちになる。近隣の方々に挨拶をしても返事はない(怪訝な表情をされてしまう)。わたしの見てくれに問題があるのかもしれない(多分、問題があるのだと思う)。このままだと「ああ、挨拶をするだけ無駄なんだな」という悲しい結論をくだしてしまいかねないために、よし、これは俺と横浜のキャッチボール【コミュニケーションの勝負】なんだなと思うことで気持ちを持ち直している。

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

「我を通す」センス。

日本では「我を通す」ことはダメだと思われることが多い。そのため、多かれ少なかれ誰もが何かしらの我慢をしながら生きている。しかし、わたしは「我慢と憎しみは比例する」という意見の持ち主であり、我慢をするほど精神的なストレスは蓄積をされてそのひとを精神的・肉体的に蝕む。我慢をしているひとほど肌は乾き、自由に生きているひとを憎むようになり、自分が自由になることよりも「他人の自由を奪うこと」に意識が向かう。そして、最終的には「自分を自由にさせてくれなかった家族や社会や時代」に責任を置き、最後の瞬間まで自分を許す【愛する】ことができないままで冥土に向かう。こんな書き方は極論かもしれないけれど、わたしは「誰もが自己中心的であることに勤めれば、意外と、世界は勝手に調和を保つようにできているのではないだろうか」と思う。少なくとも、誰もが我慢をすることで保たれる調和があるならば、自分は「そんな調和なんていらない」と思うタイプの人間だ。

 

こどものおもちゃを取り上げる。

先日、ごちゃまぜの家に小さなこどもが遊びに来た。その子がおもちゃのピアノで爆音の音楽を流すので、わたしはおもちゃをとりあげて「はい、おしまい」とだけ伝えた。昔の自分だったら、とてもじゃないけれどこんなことはできなかった。自分が不快だ(わたしは根本的に騒音が苦手だ)と思うことでも「でもこの場所は『みんなの家』でもあるのだから、こどもも楽しそうだし自分が我慢をすれば済む話だよな」なんて思ってしまうタイプの人間だった。が、これからは違う。わたしはごちゃまぜの家の発起人ではあるけれど、ごちゃまぜの家の利用者の方々の奴隷でもなければ執事でもない。この家は「誰でも自由に使える」ということになっているけれど、この『誰でも』という言葉の中には(当たり前のことだけれど)わたし自身【坂爪圭吾】も含まれている。お前が自由であるように、俺も自由であることを忘れるなよと言わんばかりにこどものおもちゃを取り上げたものの、その後、こどもとは(電子的なノイズを間に介在させることなく自然な流れで)仲良くなることができたので結果オーライである。

 

気を遣い過ぎると自滅する。

最近の反省は「気を遣い過ぎると自滅する」という一言に尽きる。言いたいことは言う。その時はこころを込めて言う。それだけで人生の大半は清々しく生きることができる。何かしらに停滞感を覚えている時は、大概、自分が言いたいことを言えていないことが多い。先日、4歳と2歳の男の子を子育て中のお母さんが遊びにきた。とても優しいお母さんで「優しいけど、優し過ぎる。これじゃいつかお母さんが破綻する」などと勝手に思った。ので、お母さんに「頑張り過ぎると自滅をするというのが最近のぼくの自論です」的なことを伝えた。すると、お母さんは「ありがとうございます。でも、みんな(他のお母さん)もきっとちゃんとやっていると思うので」的な返答をした。その言葉を聞きながら、ああ、これはつらくなるパターンのやつなんじゃないのかなと思った。

 

うまく説明できるかわからないけれど、わたしは二つのことを思った。ひとつは「みんなって誰だよ!」ということ。わたしは、根本的に『みんな』という言葉を信用していない。みんながそう言っているとか、みんなにとっての幸せになるとか、みんなそうしているとか、得体の知れない『普通【不特定多数】』と呼ばれる概念に囚われて、結果ものすごい不自由になっている(そしてそれを仕方のないことだと受け入れてしまっている)ひとは半端なく多い(気がする)。みんなとかどうでもいいから、まず、自分自身はどう思うのかということの方が五億倍くらい重要なのではないだろうか。わたしは、あらゆるものは食べ物の好き嫌いと同じだと思っている。わたしは『納豆+はちみつ』が好きだ。だから納豆にはちみつをかける。たとえ、あらゆるひとが『納豆+はちみつ』はあり得ないとわたしを糾弾する日が来ても、わたしは納豆にはちみつをかけ続けるだろう。それを「みんなはこうだから」という謎の指標で殺してしまったら、頭がおかしくならない方がおかしいと思う(というのはちょっと言い過ぎかもしれない。ただ、自分の『好きがわからなくなる』ことは目に見えている)。

 

そしてもうひとつは「罪悪感を植え付けるな」ということ。ほかのお母さんもできているのだから、自分もできて当然だと思うことは違う。そもそも「他のお母さんもできている風に見えるだけで、意外と全然できていない」ことの方が現実的だと思うし、それでいいのだと思う。他のお母さんもちゃんとやっているのだから自分も頑張ろう!なんて思い過ぎると、多分、ものすごい疲れる。それができていない自分を責めることになり、結果的に『罪悪感が増幅される』ことになる。人間を動かすものは『罪悪感を植え付けること』か『希望を共有すること』か、多分、そのどちらかになる。北風と太陽の童話で言うところの、強制的にやらせる方向に仕向けることが北風WAYなら、そのひとが進んでそうしたくなるように仕向けることが太陽WAYになる(のだと思う)。自分が自分の北風になってはいけない。北風よりも太陽になろう。人生は楽しむためにある。深刻になってもロクなことはない。人生の醍醐味は、いかに完璧な人間になるのかではなく『いかに(不完全なままだとしても)自分を楽しませ続けることができるか』の勝負なのだとわたしは思っている。

 

【過去記事】殺伐とした世の中が、少しでもほぐれたらいい。 - いばや通信

 

わたり文庫『違う自分になれ!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岩本能史著作『違う自分になれ! ウルトラマラソンの方程式』です。現在、わたしが暮らしている熱海の家は修験道でもお馴染みの伊豆山神社までの道中にあり、数年前まで山伏的なサムシングがこの辺りを往来していた。わたしは修験道という言葉が好きで、家の裏にある物置を改造して『修験堂』という風雪庵を現在絶賛建築中になるのですが、自分を追い込むことは時に最高のよろこびに変わる。女性のことはあまりよくわからないけれど、男性的には「人生に一度は死ぬほど苦しい思いをしてみる」ことは、今後の人生を生きるにあたって「あの頃に比べればマシだ」と思える強さになる。こちらの本は、人間【一匹の動物】の可能性を半端ない形で示してくれる最高にご機嫌な一冊になります。読んでいるだけで、何かこう、伊豆山神社修験道を駆け出したくなる【原始的な何かが疼く】。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、栃木県にわたりました ※※※

 

人はなぜ苦しい思いまでして走るのでしょう。健康、ダイエット、爽快感のため、限界への挑戦……。人それぞれ理由があると思いますが、僕は変身欲だと思っています。今の自分ではないもっと違う自分に変わりたいという欲求は、生きている限り誰にでもあると思うのです。走れば体も変わり、気持ちも変わる、思考も変わる。自分の潜在能力が顕在化する喜び。まさか自分がフルマラソンを完走できるなんて。マラソン経験のある人は、初めて完走したときの震えるような感動をいつまでも鮮明に覚えているものです。

 

過酷なウルトラマラソンのひとつ、アメリカ・デスバレーの「バッドウォーター・ウルトラマラソン」に参戦したときのこと、一緒に行った仲間たちと、あとあとまで話題にのぼるエピソードがありました。

 

前日の選手受付エリアでのことです。どう見てもその場に似つかわしくない太りぎみの中年の女性がいました。選手をサポートするクルーにしても、摂氏56.7度という世界最高気温を記録したこの地で、とうてい30分も耐えられないのではないかと心配してしまうような婦人です。

 

僕は「暑いね!」と声をかけました。

 

彼女は「Piece of cake!(楽勝よ!)」と笑い飛ばしました。

 

ところが、彼女はクルーどころか、このレースの参加者だったのでした。それを知ったのは、レースの制限時間である48時間の直前にゴールをした姿を、仲間たちと目撃したときのことでした。みな一様に感動を抑えられませんでした。

 

217キロを走りきるということは、資質や練習量、戦術だけではないのだということを証明してくれたように思ったからです。彼女は、誰とも闘っていない、自分のことをよく知っている、あきらめない。しなやかな覚悟があった。

 

僕らがウルトラマラソンに、何度でも挑みたくなる理由を教えてくれたように感じました。

 

日々、自分にいい聞かせていたこと。バッドウォーターの相手は地球だ。熾烈な自然環境だ。大自然にまともに向かい合って勝てるわけがない。だから大切なのは自然環境と融合すること。何とも闘わないこと。 ー 岩本能史『違う自分になれ!』【講談社

 

人生とは「ボーナスタイム」である。

ターシャ・テューダーの本を読みながら、ああ、自分が女に生まれて来たらきっとこんな生き方をしたいと思っただろうななんて思う。彼女の瞳は美しく、彼女の自宅も服装も仕草も言葉も何もかもが潤っている。わたしの今回の人生は男としてのものであり、せっかく男に生まれて来たのであれば(女に生まれなかったことを嘆くことはナンセンスだと思うから)男であることを生かしたいと思う。これまで、そんな気持ちで「いばや(『やばい』を逆から読んだだけ)」だの「家のない生活」だの「ごちゃまぜの家」だの「野点カンタービレ」だの「モバイル小学校(通称『モバ小』。これについては今回まったく書けなかったけれど、いま、移動式の小学校【サーカスみたいな教育施設】の準備をはじめている)」だの、身体を張る系の実験を重ねているのだと思う。


 

このタイミングで「モバ小」を軽く説明すると、これからの時代は「固定は古い!これからは流動的で多面的な時代になる!」という鼻息荒めな感じで、少し先の未来を想像した結果ひらめいたものになります。 いまこの瞬間も、ポリアモリーだの多夫多妻制だの、シェア別荘だのクラインガルテン【シェア畑】だの、既存の枠がゆるやかに溶け出している感覚は結構ある。ごちゃまぜの家のテーマは『家族』なら、モバ小のテーマはなにになるのだろうか。『教育』なのだろうか『移動』なのだろうか、多分、生活全般に関わるものなのだと思う。これまでは「ひとつの場所にひとつのもの【家や学校や仕事】を構える」ことがよしとされてきたけれど、これからは「ひとつの場所に縛られるということは、不自由であることの何よりの証明」になるのかもしれない。身軽であること、いつでも移動をできる態勢を整えておくこと、どこにいても生きていることを楽しめるボディ&ソウルを自身の内部に培っておくことは、意外と効果的なのではないだろうか(と思う)。

 

 

現在のわたしは32歳。これまでの人生で「充分生きてきたな」感は結構あるのだけれど、それなのに「まだ生きてていいのですか!うれしい!」と思うことは頻繁にある。32歳と言えば立派な老害。残りの人生は余生【ボーナスタイム!どどーん!】である。若いひとたちの邪魔にならないように、自分は自分が思う「真面目な遊び」を、一緒に楽しめるひとたちとガシガシ愚直に試して生きたいと思う。なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい。何処に行ってもいいし、何処にも行かなくてもいい。この世の中に「こうでなければいけない」なんてことは、多分、なにひとつもないのだと思う。自分を縛り上げていたものは「自分の思考」そのものでしかなく、自由になることはほんとうはとても簡単。いまこの瞬間から「自分は自由なんだ」と思うこと、たったそれだけのことで、ひとは簡単に自由になるのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BVgmu9AD9Zg/

軽い気持ちで遠くに行こう。。。

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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殺伐とした世の中が、少しでもほぐれたらいい。

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車にテント道具を積んで、人口密度の少ない場所に足を運ぶ。高級ホテルや洒落乙なカフェで高い金を払うサードウェーブ的な珈琲も美味いとは思うが、自分の場合、海岸や山頂などの「大自然ど真ん中」で淹れた珈琲の味はやっぱり格別だなと思う。朝日と共に目が覚める、目覚し時計を使わない生活に突入をしたのは、およそ2年間に渡る「家のない生活」に依るところが大きい。いまでは熱海と菊名に家がある(家のない生活は終止符を打たれた)けれど、稀に、家のない生活をしていた時の方が「世界を広く感じていた」ように思うことがある。今日は何処へ行こうか、今日は何処で眠ろうかなどと考えながら、気の向いた方向に移動をする。過酷で厳しい部分ももちろんあったが、自分は何処にでも行くことができる(自分のいる場所が、どこであれ「自分の家になる」)ということの『身軽さ』と『生きていることの手応え』が、たまらなく嬉しかったのだと思う。

 


家のない生活を終え、熱海と菊名に家を構えた。自分ひとりだけのために使うのは何かが違うと思い、ごちゃまぜの家というコンセプトで菊名を拠点に活動をはじめた。この前の日曜日、近隣住民の方々に向けた説明会(?)の場を設けた。みなさまからは「得体の知れないひとが住み着いたらどうするのか」とか「閑静な住宅街だから騒音を出されては困る」という声をいただき、基本的には『近隣の方々のご迷惑にならないように徹底的に配慮を重ね、不特定多数の出入りは最低限度に抑え、静かに、ゆとりのある生活をする』ということで合意(?)を得た。TPD48の活動も今月末まで延期をされ、新メンバー「ひとみ【MADE IN NAGOYA】」が新しい風が吹かせている。ごちゃまぜの家の2階部分と離れの部分は賃貸物件として貸し出されることになり、後日、不動産の方が詳細をまとめてくれることになっている(居住希望者の方はお気軽にご連絡ください)。

 

【イベント詳細】【2th「Yabaival days!!」/TPD48】

 

人間に対する信頼を取り戻す。

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ごちゃまぜの家の準備をしながら、なぜ、自分はこのような活動(?)をやりたいと思ったのかを考える。家のない生活を通じて、多分、わたしは『様々な方々に育てられる』という体験をさせていただいたのだと思う。当時、家も金も仕事も何もなかったわたしに救いの手を差し伸べてくださる方々は、驚く程に大量にいた。我が家に泊まりに来たらいいだとか、ごはんならいつでもご馳走をするよとか、様々な方々が様々な形で『優しさ』を示してくれた。わたしは、これほどまでにひとは優しいものなのかということを実感し、感動し、当たり前のことなのかもしれないけれど「ひとは優しい」ということが日に日に細胞に刻まれていった。人間に対する不信感は徐々に消え去り、ひとは優しいものなのだということ、本音で話せば「本当は誰もが助け合って生きていたいと思っているのだ」ということを思うようになった。

 

家のない生活を通じて、わたしは「自分は生きているのではなく『生かされている』のだ」ということを強く感じるようになる。この思いには、何かあるとすぐに傲慢になりがち(自分は自分の力で生きているのだと思い込みがち)な自身の醜い自惚れを、そっちじゃないぞと『中心』に引き戻してくれる力がある。冷静に考えて見ると、家のない生活をはじめる前【生まれた瞬間】から「自分は生かされていた」ことに変わりはないことはわかる。ブログを書けているのは言語やiPhoneやWEBを開発してくれたひとがいるからであり、電気やガスや水道などのあらゆる公共設備を発明してくれた先人がいるおかげで、私たちはその恩恵を授かりながら「いまを生きる」ことができている。ただ、日常的な恩恵を受け続けていると「恩恵が恩恵であるということを忘れてしまう」のが人間だ(と思う)。一度、何もかもを失ってみたことではじめて、すべては恩恵に包まれていたのだということを(結果的に)細胞に刻むことができた。

 

人間に対する信頼を取り戻す。大袈裟な言葉になるけれど、今回のテーマはこれに尽きるのだと思う。多分、現在の日本の空気感は「人間に対する不信感」で醸成されている。他人とは「【味方ではなく】敵」であり、ともすると自分に危害を加えかねない(だからこそ監視をする必要がある)ある種の脅威であるという認識は強い。だからこそ、自分の身は自分の力で守らなければいけないということになり、学歴や資格や社会的な肩書きを目指してみたり、家や車などの物資を共有するのではなく独占をしたり、カネを溜め込んでみたりするのだけれど、それで幸せになれたかという謎だ。溜め込むという行為には「いつか失うかもしれない」という恐怖【欠乏感】が付きまとい、それがうまくいっている間は何も問題ないけれど、何かしらの事情でそれを失うことになった時、同時に精神的な支えまで失ってしまう。ひととの繋がり【共有財産】があれば「自分がこれを失ってもあのひとが持っているから大丈夫(あのひとが困っている時は自分が助ける側にまわる)」という相互補完が成り立つが、分断、分断、分断の【自己責任化】が進み過ぎると、ひとりですべてを背負いこむことになり「何かしらの事情で継続が困難になった」瞬間に、そのひとは即座に困窮に陥る。そして、困窮に陥った時にはじめて「誰かに助けを求める力を養う機会が、これまでにまるで足りていなかった」ことを知る。

 

【過去記事】絶滅危惧種で行こう! - いばや通信

 

共有財産を増やす。

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占いなどのカウンセリングを受けるのは「調子が悪い(何かしらの問題を抱えている)時ではなく、調子が良い時にこそ受けるのが良い」と聞いたことがある。自分が窮地に陥ってから外部に救いを求めるのではなく、特に問題を抱えていない時から、相互に関わりを築き合う(日常的に本音を話せる関係性を築く)こと、最悪の事態を意識的に想定すること、自身を冷静に客観的に眺める習慣をつけること、など、そういったことが大切になるのだと思う。大袈裟な言葉になるけれど、家のない生活はわたしに「生きる力」を授けてくれた(ように思う)。最悪の場合は家も金も仕事もなくてもどうにかなる、ひととの繋がりがあれば人間は死なない、テントを張れば世界中の大地が自分の家になる、そんな『遊牧民的な生き方』もあれば『托鉢僧のような生き方』もあるのだということを教えてくれた。

 

わたしは「共有財産」を増やしたいのだと思う。端的に、誰でも自由に使える家が世界中に増えたら、家や金や仕事がないことで困る(最悪の場合は精神的に追い詰められて自殺をする)ひとは減ると思う。最悪の場合はここに行けばどうにかなるという場所があれば、いまよりも少しだけ大胆に生きることができる。家も車も必要な家財道具なども「全体で共有されている」ものが一定数あれば、ひとりあたりの負担額は減る。固定費が下がると「生きるハードル」も下がる。ものを媒介としたコミュニケーションも発生をして、結果的にひととの繋がりも生まれやすくなる(その分、人間関係におけるストレスも増えるのかもしれないがこれは一長一短である)。絵空事にも程があると笑われるかもしれないが、多分、人間を幸せにするものはモノでもカネでも社会的な名誉などでもなく「ひととひととのコミュニケーション」だとわたしは思う。自己責任の分断化が進み過ぎると、コミュニケーションの機会が絶たれる。コミュニケーションの機会が絶たれると、これだけ多くの人々が同じ世界に暮らしていながらも「誰もが孤独を抱えている」というあまりよくない現象が起きる。

 

もちろん、菊名の家でこれらすべてを補うことができるとは思わない。近隣の方々との兼ね合いもあるし、最初は「目指すところの20%程度でも達成できたら御の字だ」と思っている。その土地土地によって、できることもあれば(当たり前のことだけれど)できないこともある。だからこそ、わたしは「熱海や菊名以外にも、比較的自由に使える家が増えたらうれしい」と思う。菊名の家の清掃&準備は一旦落ち着き、明日からしばらく(しばらくというか死ぬまで)時間がある。もしも「ごちゃまぜの家に適当な家を知っている」という方がいたら、ご連絡をいただけたら幸いです。日本全国【世界各国】、都合がつく限りどこにでも足を運びたいと思っています(ごちゃまぜの家以外でも、比較的どのようなことでもやると思いますので何かしらご用件のある方はお気軽にご連絡ください)。

 

【過去記事】真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。 - いばや通信

 

わたり文庫『思いを伝えるということ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、大宮エリー著作『思いを伝えるということ』です。こちらの本は、先日、わたしが不在時に熱海の家を訪ねてくれた20代の女性R様が置いていってくれた珠玉の一冊になります。この前、熱海の家を掃除するために、久しぶりに熱海の家に戻りましたところ居間のテーブルの上にこの本が置かれていました。本の横にはR様からの置手紙があり、そこに書かれていた内容と、可愛らしいR様の丸い文字に激しく癒されました(手書きの文字はいいものですね!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

圭吾さん

 

おじゃましております。そして、この度も、本当にありがとうございます!

 

ここ最近、予定をツメツメにして忙しく過ごしていたら、「忙」の文字通り心を亡くしてしまったようで、「嫌だな」と思ったことをなかったことにしてみたり無理矢理プラス思考にしていたら、金曜日のバイト中に突然の!「どーせ、私は嫌われてるし。」という思いに襲われ、やっと自分のSOSに気が付いた次第でございます・・・。本当に突然!何もないのに!(笑)

 

この「どーせ、嫌われる」は小1のとき位からずーっと私の中にあるもので、ここ1年位は大丈夫だったので忘れていましたが、久しぶりに出会ったので今回は「そんなことないよー。大丈夫だよー。」の為の熱海訪問でした。いろいろ考えていることはあるのですが、今回置き土産にしていく本が私の気持ちは変じゃない。と思わせてくれた一冊になりますので、お時間あれば読んでいただけると嬉しく思います。

 

メールでも手紙でも自分の文才のなさに悲しくなりますが(笑)とにかく、もう、坂爪さんに感謝∞です!絶対的信頼感です!好きです!幸あれ〜!!!【2017.6.17 21:41 ◯◯】

 

殺伐とした世の中が、少しでもほぐれたらいい。

何か新しいことをやろうとする時は、どうしたって誹謗や中傷がついてまわる。時には「死ね」とか「消えろ」とか、こんなことまで言われなきゃいけないんだねと愕然とする(!)こともあるけれど、まあ、この程度のことは仕方のないことなのだと思う。もののけ姫ではないけれど「憎しみに憎しみで対応をしてしまっては、世界に憎しみを増やすだけだ。憎しみを消し去ることができるもの、それは愛だ」ということになる。自分が信じるものがあるならば、まわりに何を言われても信じた道を貫くこと。正解か不正解かはわからない。それは歴史が決めることだ。言葉は生き様に宿らせよう。それを見たひとがどのようなことを思うのかは、自分のコントロールの範囲を超えている。自分にできることは「瞬間瞬間にこころを込めること」、ただ、それくらいのことなのだと思う。

 

 

人間に対する不信感を基盤にした世の中が、少しでも「人間に対する信頼感」を基盤にした世の中になればいいと思う。他人とは自分の敵であるという認識から、少しでも「他人は自分にとっての味方(になり得る存在である)」という世の中になればいいと思う。自分の力で生きることができて一人前【誰かに助けを求めることは半人前】という認識から、少しでも「困ったときはお互いに助け合える」世の中になればいいと思う。ひとに迷惑をかけてはいけないという認識から、少しでも「ひとに迷惑をかけてしまうかわりに、ひとの迷惑にも寛大になれる」世の中になればいいと思う。自分も我慢をしているのだからお前も我慢をしろと強制をされる世の中から、少しでも「誰もが好きなことをやりながら、それでも調和が保たれている」世の中になればいいと思う。殺伐としている世の中に、それでも捨てたものではないと思える一陣の風を、閉塞感や停滞感でがんじがらめになっているこの国の雰囲気が、少しでもほぐれたらいいと思う。

 

 

自分に何ができるのかはわからない。ごちゃまぜの家というひとつのアイデアも、ただの絵空事で終わり途中で頓挫をするのかもしれない。自分にできることは、ただ、自分が思うベストを尽くすということ。深刻になるのではなく「楽しむ」ことを忘れないこと。小沢健二の流動体についてという曲の歌詞にある通り、誓いは消えかけてはいないかと、深い愛を抱けているのかと、できる限りの自問を続けること。多分、それくらいなのだと思う。その先に何が待っているのかはわからない。ただ、何が待っているのかを見てみたい、感じてみたい、そこでは自分はどのような気持ちになるのかを知りたいとは思う。うまくいくかもわからない、ダメになるかもわからない、それでも「その先に見える景色を見てみたい」という思いがあるからこそ、多分、わたしは今日を生きていきたいと思えるのだろう。失敗することを恐れることよりも、批判をされることを恐れるよりも、失ってしまうことを恐れるよりも、恐れることによって「よろこびに触れる機会」を失ってしまうことを、何よりも恐れていたいのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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極限とも言える苦しみは、最高の喜びになる。

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島根県松江市から羽田空港を経由して菊名に戻る。その後、ごちゃまぜの家@菊名の家&庭&物置の掃除をしたり(終わりが見えない)東京に行ったり熱海に行ったりしながら時は流れた。菊名の家は大きくて古いために、修繕箇所や清掃箇所は無限にある。来週中には「誰でもおいでやす!」的な感じでみなさまに開放できたらいいとは思うものの、あきらかに人手が足りていない。家にいると掃除ばかりをしてしまうから、寝る暇がない。寝てもすぐに起きてしまう。多分、ある種の緊張状態に置かれているのだと思う(こんな時は愛する女性に抱きしめられたくなる)。この土日で「時間もあるから手伝うよ!」的な方がおりましたら、坂爪圭吾に直接ご連絡をしていただく(照)か、TPD48の誰かに連絡をしていただけると猛烈に助かります。

 

 

ブラジルから一時帰国される方から「日本に戻ったら熱海のわたり食堂【0円食堂】に子供を連れて行きたいと思っていたのですが、終わってしまったのですか!?」という連絡をいただいた。前回の開催をもって勝手に最終回にしてしまっていたのだけれど、これは復活させるタイミングが来たということで『わたり食堂リバイバル』を、6月25日(日)に開催いたします。菊名【横浜】の家は高級住宅街のど真ん中にあるから、諸々の作業などで疲れた後に熱海に戻ると半端なく癒される。多分、人間には「静かになれる場所」が必要なのだろう。熱海の家は海から登る朝日を眺めることができる(海と山と温泉がある)。それだけで、ああ、熱海に家があってほんとうによかったとこころの底から思うことができる(みなさまのお越しをお待ちしております!!)。

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

笑顔と同じくらい、涙は素敵なものだ。

先日、広島県在住の女性Y様から「島根県松江市から出雲空港まで車を出すので送りますよー!」という連絡が届いた。わたしは、お言葉に甘えて「猛烈ありがとうございます!お願いいたします!」と返信をした。Y様とは松江城で合流をし、空港までの道のりおよそ40分間を車内で過ごす。Y様は、広島県内で電気もガスも水道もないサバイバルな生活を実践しているのだと言う。「旅人なども頻繁に足を運んでくれて、毎日はとても楽しいです!」と話すY様の言葉を聞きながら、わたしは、楽しそうだと話している割にはなんだかちょっと辛そうに見えるなと思った。Y様の話をしばらく話を聞き続けたあとに、わたしはいまだ!と思って「なんだかつらそうだなって思いました。つらそうと言うか、Y様は楽しく生きている風な仮面を被って話しているように感じました」と伝えた。

 

このことを伝えると、これまで明るい口調で話をしていたY様の口調は一変をして、実は最近は大変なことがあってちょうどさっきも小さな揉め事が起きてて苦しかったんですが、せっかく坂爪さんと話せるのだから楽しまなくちゃ!いい時間にしなくちゃ!って思って、それが裏目に出ちゃったのかもしれません的なことを話してくれた。わたしは、Y様のこの発言を聞いた瞬間に「やっと会話ができている!」という嬉しさを覚えた。わたしは、多分、いわゆる『裸の付き合い』が好きなのだと思う。何かで取繕われたそのひとではなく、何かで装飾をされたそのひとではなく、何もかもを取り去った後に残る「そのひと自身」と会話ができていると思える手応えの中に、わたしは『コミュニケーションをとることの嬉しさ』を覚えるタイプの人間なのだと思う。

 

自分の身の上を話しながら、Y様は少しだけ涙を流した。わたしは、その涙を見て「美しいな」と思った。笑顔と同じくらい、涙は素敵なものだとわたしは思う。涙は素敵なものなのに、泣いちゃいけないなどと思って無理をしてまでつくられた笑顔に触れると、見ているこちらまで辛くなってしまう。『笑顔は素晴らしいものだ』的な雰囲気が世の中にはあるけれど、無理をしてまで笑うという行為が、そのひと自身を酷く傷つけているように見受けられることは多い。笑う時は笑う。泣く時は泣く。これがまともな人間のまともな反応だと思うのだけれど、笑いたい時に苦しみ、泣きたい時に笑ってしまうと、大袈裟な言葉で言えば「頭がおかしくなってしまう」とわたしは思う。自分の気持ちは大切に扱った方がいい、誰かに合わせて自分を押し殺し続けていると、前回の記事にも書いたけれど「小さな自殺」を続けることになってしまう。

 

【過去記事】絶滅危惧種で行こう! - いばや通信

 

腹を割って生きれば、毎日はドラマになる。 

最近は「腹を割って生きれば、毎日はドラマになる」ということを思う。様々な方々と話す日々を通じて、わたしは「いったいどれだけのひとが、自分がほんとうに話したいと思うことを話せているのだろうか」などと疑問に思う。多分、多くの人々は自分の本音を押し殺しながら当たり障りのない会話を続けている(続けざるを得ない)状況にあるのだろう。だからこそ、自分の本音を話すことに不慣れになり、時には「本音を口にすることで謎の蓋がオープンになってしまい、原因不明の涙が流れ出してしまう」のだと思う。この前も、菊名の家にひとりの女性が遊びに来てくれた。女性は「これは家庭環境の影響が大きいとは思うのですが、わたしは自分が生きていることに価値があるとはどうしても思えなくて、何かをすることができてはじめて『そこにいてもいい』って思うことができるのです」と話しながら涙を流した。

 

わたしは、涙に触れた時に相反するふたつの気持ちを抱く。ひとつは「もっと泣け!【泣いて泣いて泣き尽くしてスッキリしちゃえ!】」というもので、もうひとつは「泣くな!バカ!【おまえはそんなもんじゃないだろう!的な意味で、これまでとこれからはまじで関係がないのだから、いつまでもそんなところに長居をしていないで『自分がなりたいと思うような』日々を生きろよ!】」的なものになる。何が言いたいのかと言うと「日常的に自分の本音を口にすることができていたのならば、多分、その涙は流されることはなかったのだろうな」ということです。自分の本音を口にするということを『非日常』的な行為にしてしまってはいけないのだと思う。そうでなければ、溜め込まれた感情が自分の中で腐敗臭のようなものを発してしまって、乱暴な言葉でまとめると「なんだかあまりイケていない人生」を過ごす羽目になってしまう。

 

わたしは清々しい日々を愛する。苦手な場所に長居をしてしまうと、苦手なひとと(苦手だと思う関係性のままで)付き合いを継続してしまうと、一緒に過ごした時間の分だけ憎しみが溜まる。ゆっくりでもいいから、嫌だと思う付き合い方を変えること。最初は1割だけでもいいから、自分のこころが「いいな」と思うものを日々に導入していくこと。自分のこころが「嫌だな」と思うものに対しては、勇気を出してNOを示すこと。自分が嫌だと思うものを受け入れ続ける日々を過ごしてしまうと、最悪の場合は魂が腐る。魂が腐ると内臓が腐りはじめて、具体的には「口臭がきつくなる」というあまり良くない感じのデメリットがある(ような気がしているけれど、これは完全に余談でした!!)。

 

【音声配信】Recoded Radio 無礼者の撃退法 - いばや #379726965 - TwitCasting

 

わたり文庫『極限のトレイルラン』

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わたり食堂の復活と同時に『わたり文庫』も復活をします(あとで名前を変えるかもしれない)。一旦終わらせたものを、再び蘇らせることが好きです。復活第一弾のわたり文庫は鏑木毅著作『極限のトレイルラン』になります。意味はなくていい、価値はなくていい、ただ、徹底的に肉体を酷使することで見えてくる喜びがあるということは、アホみたいな日々を過ごしている自分を肯定してくれる【背中を押してくれる】力がある。頭で考え過ぎてもロクなことはない、もっと身体を動かしていこうという動物的な気持ち【野性味】を取り戻すことができる一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

「あの崖から飛び降りて、大怪我でもすれば、この地獄から逃れられるし、リタイアの立派な理由がたつじゃないか」

 

「あの岩に頭を強打させて、頭蓋骨にヒビでも入れば、仕方ないなと思ってくれるだろう」

 

苦しさのあまりにこんなことを考えはじめました。

 

今思えば、何と自分は恥ずかしいことを思ったのだろうと自己嫌悪に襲われるのですが、この時の私にはこれしか逃げ場がありませんでした。

 

しかし、すんでのところで私を支えてくれたのはこんな思いでした。

 

「カブラキツヨシたれ」

 

自分はこれまで、どんなに苦しい絶望的な状況でも逃げずに、現実を直視し、闘ってきたじゃないか。2007年に初めて出場したUTMBもそうだった、同じく100マイルを走った2009年の「ウエスタンステイツ・エンデュランス(耐久)ラン」も40度になる気温のなか必死にもがいて乗り越えた。絶対に無理という状況を何度も打開し、乗り越えてきたじゃないか。

 

『極限のトレイルラン』ー 鏑木毅【新潮文庫

 

極限とも言える苦しみは、最高の喜びになる。

明日死ぬかもしれないという言葉が好きだ。今日の命は今日で最後、明日には再び取り戻すことはできない。それならば、今日の命を思い煩うことなく精一杯使い果たしてやりたいじゃないかと、そういう気持ちにさせてくれる。限りあるこの時間を、湧き上がり出す感情を、出し惜しみしている場合ではないのだと思う。やりたくないことをやっている場合ではないのだと思う。小さなこと【どうでもいいこと】にいつまでも拘っている場合ではないのだと思う。誰かと衝突することを恐れて、嫌われることを恐れて、悪く言われることを恐れて、いつまでもいい子【いい人】の振りをしている場合ではないのだと思う。

 

 

生きていることの醍醐味は「新しい自分に何度でも出会える」ことだと思う。自分はこういう人間だからという限界を、枠を、つまらない思い込みを、想定外の出来事はいともたやすく打ち砕いてくれる。ダサい自分に飽きたなら、自分で自分を壊していく。言い訳を重ねる自分。誰かのせいにしたがる自分。誰かに何かをしてもらうことばかりを求める自分。被害者意識を武器にする自分。何かを知ったつもりになる自分。まるで粋じゃない【ダサい】行為をいつの間にか選択しそうになっている自分。自分のこころが「ダサいな」と思う、ダメな自分を自分で壊していく。健全な日々とは、多分、健全な自己肯定感と、健全な自己否定感のサンドウィッチなのだと思う。ダサい自分を壊した先に、新しい自分【最高よりももっと最高な自分】と出会うのだと思う。

 

 

島根県松江城では双子のお母さんにおはなを贈り(よろこんでいただけたことが本当に嬉しかった)、その後、その場にいたみなさまと城壁の周辺を散策する。こどもは遊ぶ。とにかく遊ぶ。いろいろなものを作り上げては、作り上げた瞬間から壊していく。クラッシュアンドビルドを生き様で体現するその姿を見て、ああ、これなんだよなあみたいな気持ちになった。こどもを見ていると「清々しくていいな」と頻繁に思う。嫌なものには嫌だと言い、好きなものには全身全霊で「好きだ!」と表現する。泣きたい時には泣き、笑いたい時には笑う。だからこそ、瞬間瞬間の感情に真っ直ぐで無駄な未練に引き連られることもない。後日、双子のお母様から嬉し過ぎるお言葉をいただいた。なにかがあるからスゴイということでもない、なにかがないからダメだということでもない。瞬間瞬間に湧き上がる思いに、瞬間瞬間に存在をする自分自身に、絶大なる信頼【絶頼】を寄せてもいいのだと思った。

 

 

夜分に失礼します。

 

昨日はありがとうございました!

 

ドキドキしながら向かわせてもらい到着したところ、
子ども達が爆睡。。。

 

これも運命、必然かな…と感じました。

 

そんな中でも、坂爪さんの"寝てることは自然なことなので"(うろ覚えですみません)のような言葉に、"あー、なんて穏やかなんだろう"とほっこり致しました。

 

(結果的に娘は起こしてしまう形になってしまったのですが…)


坂爪さんは、子ども達をまっすぐに見て下さっているというか、観察して下さっているように感じて、
それは、とても楽しそうであり幸せそうでもあり、

子ども達を純粋に観て下さっている方と子ども達が関われていることが、とても幸せでした。

 

今回近隣に坂爪さんが来られるということで、ただただお会いしたかったのです!

 

私がお花をいただけるとは思っていなくて、メッセージカードまで添えてあり、会う前に名前まで覚えていて下さっていて。

 

お花をいただけることがこんなに嬉しいと感じたのは初めてです。


それから、お会いしてからのこの2日、ずーっと心が穏やかで、子ども達が可愛くて可愛くて。

 

それが、何よりの私の幸せです。

 

この現象はなんなのでしょうか。

 

説明できない現象が起きています。

 

表現力が乏しく、どれだけ伝わるかわかりませんが。

お会いできたこと、やはり嬉しいです。

 

帰宅後、娘がお花を持って、
"お花〜♡うれしい〜♡"
と言っておりました。

生で聞いていただきたかったです。


最後まで読んでくださりありがとうございます!

 

お忙しいと思いますので、返信は不要です!

 

お身体お気をつけて。

 

男の子と女の子。。。

 

人生は続く。

 

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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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絶滅危惧種で行こう!

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梅田散策を経由して岡山にはいり、これからクラウドファンディング支援者N様におはなを届けるために島根県松江市に向かう。N様曰く「岡山から松江までの特急は死ぬほど揺れるので電車酔いには気をつけてくださいね♡」とのこと、そんなこと言われてもどうすればいいのでしょう!などと思っていたところ、奇跡的に岡山県津山市在住のM様から「津山まで来てくれたら松江まで車で送りますよ!(ドライブデートしましょう♡)」という奇跡的な連絡が舞い込む!この絶妙なタイミング!猛烈スーパーありがとうございます!ということで、これから岡山県津山駅に向かう。夜には松江空港から羽田空港にひとっ飛びをするために、一応、今回の「ごちゃまぜの家を横浜以外にも増やそう!」的な企画は一旦終了を迎える。

 


最初は「札幌と梅田にごちゃまぜの家を!」などと意気込んでいたけれど、この数日間を経て「別に新しく増えるなら場所はどこでもいいや。こういうのはきっとすべてご縁なのだと思う。さかしらな思考を働かせて家を増やそうとするよりも、素敵な誰かから『ここをごちゃまぜの家に使いませんか?』的な声がかかるまではおとなしくしていよう」というところに着地をした。言うなれば『老子的な心境』である。自分の力で「どうにしなきゃ!」と肩に力を入れるのではなく、自分を含めた宇宙全体の力に絶大なる信頼を置きつつ「どうにかなるだろう」とリラックスをしながら構えていたい。どうにか『する』とどうにか『なる』の間には、気が遠くなるほどの違いがある。わたしは後者を採用したい。そういう話を、昨夜、孤独なホテルの室内から配信をしていた(参加してくれたみなさまありがとうございました!!)。

 

【音声配信】Recoded Radio 絶滅危惧種で行こう! - いばや #379236427 - TwitCasting

 

絶滅危惧種で行こう!

わたしは採算を考えることが苦手だ。活動を維持するためには月額これくらいの収入が必要だとか、客単価はこのくらいで回転率はどうのこうのとか、そういうことを考えることができない。そのため、経営には恐ろしく不向きだ。基本的に「ざっくりやるから、ざっくりいただきたい」などと思っている。ごちゃまぜの家に関しても同じで、この家は「誰でも無料で泊まれて、誰でも無料で食事をとることができて、誰でも好きなだけ居座ることができる」というコンセプトでやっているために、乱暴にまとめれば「やればやるだけ主催者側が赤字を垂れ流す」ことになる。非常にありがたいことに、この度はクラウドファンディングの支援者の方々のおかげで無事にごちゃまぜの家を横浜につくることができた。しかし、どれだけ続くのかは時間の問題になる。誤解を恐れずに言えば「誰かに必要とされる限りこの家は続く(何かしらの救いの手が差し伸べられて維持をされていくであろう)けれど、誰からも必要とされない時はひとり静かに終焉を迎える」ということになる。

 

このままでは生きていくことができないということは「絶滅危惧種である」ということで、絶滅危惧種の存在に触れた世の人々が「こいつらを死なせてはいけない!」と思ってくださった暁には(何かしらの形で)我々は保護をされるだろう。しかし、別にこいつらは死に絶えてしまっても別に何も問題はないなと思われた場合には、我々は華麗に野垂れ死ぬことになるだろう。あとはもう、実際にやってみなければわからない。絶滅危惧種であるということは「常にエッジに立ち、ギリギリであり続ける」ことであり、現在と未来の境界線に立ちながら、自分たち的には「多分、未来的にはこっちだと思う!」と感じたことを死を厭わぬ覚悟で(なんて書くと大袈裟だけど、基本的には遊び感覚で)攻め続ける。そういう生き方が、多分、自分には合っているのだと思う。

 

通常であれば「お金がなければ生きていけない」というのがこの世界の常識だと思う。だから、誰もが何かをやる時に「採算性を重要視する」のだと思う。しかし、わたしは天邪鬼な性格だから「採算を度外視しても謎に続く活動を生み出せたら痛快だな」なんて思ってしまうものだから、あとはもう神に委ねる。自分たちの活動が必要とされる限りこの活動は続き、自分たちの活動が必要とされないのであれば潔く散るまでのこと。残された日々がどのような展開を迎えるのか、また、これからの我々の脳味噌が「どのような新しいことを創造していくのだろうか」ということに関心がある。これは面白そうだと思ったことは、積極的に試していきたい。うまくいくと思うから試すのではなく、ただ、面白そうだから(そういうものがあった方が絶対に世界は面白くなるような予感がするから)と思ったものを、 時には失敗することは明白であったとしても試し続けていきたいと思う。 

 

【過去記事】だから楽しめ。自分を信用するために。 - いばや通信

 

クラウドファンディング支援者のみなさま。

菊名の家に遊びに来てくれたお母様K様からメールが届いた。非常に素晴らしい内容だと思った。クラウドファンディング支援者のみなさまに、改めてお礼の気持ちを伝えたくなった。支援者のみなさまは、このブログを読んでいてくれるだろうか。みなさまのおかげでこの家は無事に生まれることができて、そして、以下のような素晴らしい働きを見せてくれている。本当に素晴らしいことだと思う。誤解されると困るが、わたしは「どうだ、俺の創造力はすごいだろう!」と言いたい訳ではない。わたしは自分のすごさを証明する為に生きている訳ではない。でも、自分ではなく「人類全体のすごさ」を証明するためになら、命を捧げてもいいのだと思っている。こちらのメールにはその片鱗を垣間見ることのできる、ほんとうに素晴らしい内容だと思った。

 

昨日は菊名の家へお邪魔させて頂きましてありがとうございました。

 

正午過ぎの陽射しが強い時間帯に菊名に着いたので
息子を励ましつつ坂道を登って行きました。

 

坂道の街に慣れていない私は「この坂道どこまで続くんだろう?住んでる人(幼児、おじいちゃん、おばあちゃん)は普段どうしてるんだろう?」
などと思いつつたかだかその程度の坂が続いただけて
一瞬後ろ向きな気持ちになりました。

 

が、登りきって急に視界が開けた時、強めの風が吹き抜けた時、目の前の道が急に下り坂になった時、
説明仕様のないワクワク感と達成感、そこまで来てる感が込み上げて妙にテンションが上がりました。

普通の住宅街で山登り的な気持ちを感じられるなんて(初回限定か?)お得な気持ちになりました。

 

お庭もお家もお花が沢山で素敵ですね。
若干お庭の花達が水切れ気味だったので、お水あげておきました。
暑い季節は植えたばかりのものは朝晩お水をあげてもいいかもしれません。
卓ちゃんと彰人さんにもその様に伝えておきました。
(花の様子を観察して加減する様に伝えるのを忘れました!)

 

私もターシャの映画を見たので、ターシャの庭みたいに一見自然で、でもとても手の込んだお庭になるといいなぁと思いました。

 

私は自然もお花も好きですが、家で花を飾って置くと猫が悪戯したり食べたりするので
日常的に花を室内に飾る生活はしていないので
花がふんだんに飾ってあるって本当に素敵だよなぁと改めて思いました。

 

そういう気持ちの人が沢山あの家に出入りしてる事を家のそこかしこの花が教えてくれて、その会った事の無い人達の面影を残していていいなぁと思いました。

 

当たり前かもしれませんが、その人はその場に居なくても花がその人達の存在をちゃんと教えてくれてるなぁと。

 

そして、何だかよくわからないけれど連れて来られた息子。
昨日触れ合えた人の人数はそんなに多くもなくて、
他に子供にも会えなかったけれど
すっごくすっごく楽しかったみたいで「ここに泊まりたい~」と到着して数時間後には言ってました。

 

大人の大半は泊まりたいと思って、泊まりたいと口にだしても心の中では「泊まれない」って思ってると思うのですが、子供は本気で「泊まる」気で言ってるんだもんなぁいいなぁと思いました。

 

そりゃ泊まりたくなるよね、私もそうだよ。

 

人の家だから泊まれないみたいな大前提は子供の中には存在しないから言われてみればごくごく自然な発言だなと思いました。

 

でも本気で泊まりたければ本当に泊まれるって言うメルヘンチックな家がこの家というのが、そういう家が実在する事が改めて凄いなと思いました。

 

凄く長くなってしまいました。

 

まだ滞在前半までの話なんですけど…。

 

とにかく、圭吾さんありがとうございます。
田舎や帰る実家のない私には、菊名の家たまらない存在です。

 

存在してくれていてありがとうございます。

 

ありがとうございました。

 

支援者のみなさま、これを見ているだろうか。あなた様のおかげでできたこの家は、こんなにも素晴らしい働きをしている。何度でも言いたいと思うことは、すごいのは坂爪圭吾という個人ではなく「坂爪圭吾をとりまく周囲の人々の存在」なのだということ。わたしという人間は生きているのではなく「生かされている」のだということ、そして、わたしが生かされていることを通じて「同じように生かされるひとが発生していく」この謎の循環、恩恵のリズム、生命の結びつきを、わたしはなんだかとっても素晴らしいものであるように感じている(だとかなんとか偉そうに書いていてごめんなさい!なにはともあれ関係者のみなさまほんとうにありがとうございます!!)。

 

【過去記事】人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。 - いばや通信

 

自分の信じる道を進むんだ。それで良い。喜びも不安も丸ごと抱き締めて前へ前へ。

先日、札幌でM様という女性におはなを渡した。M様は非常に忙しい方なので、お会いする予定の時間に会えるかどうかがちょっと微妙だった。そのため、もしも会えなかった時に備えて「坂爪圭吾に渡す用の手紙」を事前に書いていてくれた。私たちは無事に会うことができたので、面と向かってしばらく話をした後に、帰り際「これ、受け取ってください」という言葉と共にM様の手紙を受け取った。わたしは「ありがとうございます」とだけ伝えて、手紙を読まずにカバンにしまった。M様と別れた後、電車の中で手紙を開く。手紙を読む。感動をする。手紙の中には「自分の信じる道を進むんだ。それで良い。喜びも不安も丸ごと抱き締めて前へ前へ」という、これから新しい一歩を踏み出そうとしているM様の覚悟にも似た心境が綴られていた。

 

 

ひとの本気に触れた時、ただそれだけのことが「自分の生きる力になる」ことがある。ひとの純粋な思いに触れた時、ただそれだけのことが「自分のこころが浄化されるような気持ちになる」ことがある。ここ数日間、わたしはごちゃまぜの家の候補地を探す散策をしていた。しかし、わたしが欲しいと思うものは『家』そのものではなく『ひとの純粋な思いに触れることができる場所』なのだと思った。自由に使える空間があるだけでは、多分、まったく足りない。こころがなければ、そこに「生きている人間の血が通って」いなければ、空間はただの空間で終わる。血が通ってはじめて、その空間は「生きている空間」になるのだと思う。生きている空間にはこころがある。生きている人間の質感や温もりがある。表面的なものではない、根底に流れている「思いやり」のようなものがある。

 

 

奈良県明日香村で開催されたトークイベントの時間中、その場で懐いてくれた女の子が(イベント開催中であるにも関わらず)わたしの膝の上にちょこんと座って寛いでいてくれたことが嬉しかった。こどもたちの感情表現はあまりにもストレートで、嫌いなことには嫌いだと叫び、好きだと思うことには肉体全体を通じて「好きだ!」ということを表現する。そういう姿に触れた時、わたしは「たまらないな」なんて思ったりする。自分の命全体を使って、自分の感情を表現するということ。多分、それが「生きている」ということなのだと思う。自分の感情を押し殺すということ、それは『小さな自殺』だと思う。生まれてきたこの命を、生まれてきたこの感情を、殺すのではなく「生かす」方向に舵を取っていきたいのだと、そういうことを考えている。

 

 

今朝、仕事へと向かう地下鉄の中でスマホを取り出すと飛び込んできました。坂爪さんが今日札幌へいらっしゃるんだ!…その瞬間から、不思議な力が?指先にまで沁み渡り、良い意味で脱力しました。

 

現在の私は10年間働いてきた職場を6月いっぱいで辞め、7月から新たな一歩を踏み出すための様々な事で心身共に余裕がなう、体もカチカチになっていました。慣れた環境から離れ、踏み出すその一歩は予想以上に希望のかけらよりも不安や恐れの方が強く、本当にこの選択は自分にとって良かったのか?と自問自答を繰り返していたのです。

 

しかし、坂爪さんがいらっしゃると知り、ワ〜!っとみるみる希望のかけらが増大していきました。何と言う素晴らしいタイミングなんだ・・・このタイミングで、もし一目でも坂爪さんに会えたならおじけづいている一歩が背中を押され“自分の信じる道を進むんだ。それで良い。喜びも不安も丸ごと抱き締めて前へ前へ”と言われている気がしたのです。

 

タイミングが合って昨年の2月以来の再会が出来るかは微妙ですが同じ土地に今立っているんだ。同じ空を眺めているんだ・・・いつもよりとても近くで・・・と、思うだけで不思議な安堵感とパワーを頂けました。ありがとうございます。

 

会えると嬉しいですが、会えなくともとても良い日になりました。

 

https://www.instagram.com/p/BVLWxbvjzrV/

懐いてくれた女の子を抱え(?)ながらのお話会。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

真面目なひとほど知能は低い。

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北海道から高野山を経由して和歌山県橋本市ゆの里温泉にいる。これから奈良県明日香村で開催されるトークイベントに登壇をして、明日は梅田周辺で「ごちゃまぜの家の候補地探し」を行う。北海道と梅田にごちゃまぜの家をつくりたい!という思いはあるものの、いまだに物件のあてはなにもない。どこかに「月額一万円で自由に使えるスペース」を貸してくださる神様はいらっしゃらないだろうか。どのような場所でも構わない。極狭の空き部屋でも屋根裏でも駐車場でも営業終了後の飲食店でも庭の隙間でもいい(その場合、坂爪圭吾がテントを張って実験的に暮らしてみたい)。ここ数日の探索を経て、まずは『自分自身がその土地に根を生やす【馴染む】』ことが非常に重要だと思った。まずは小さな空間からでも『実際に暮らし始める』ことを通じて、地域のみなさまとコミュニケーションをはかることができたなら嬉しい。

 


出会い頭におはなを配る日々を過ごしている。わたしと話しながら、涙を流される方々がたくさんいる。みんな、なにかしらを溜め込みながら生きているのだろう。この世の中には聞き手が圧倒的に不足をしているので、ほんとうに話したいことを話せているひとはもしかしたらものすごい少ないのかもしれない。個人的に、涙は笑顔と同じくらい素敵なものだと思う。だから、(笑顔で涙を殺すのではなく)どんどん泣いた方が浄化も進むと思っている。また、わたしと話しながら【わたしの存在に触れながら】無性にざわつくひとも結構いるみたいなので、札幌か梅田で小さなスペースを確保できた暁には「ざわつく部屋」をやりたいと思った。ざわつく部屋とは、ただ、坂爪圭吾が鎮座をしているだけの空間になる。訪れたひとびとは、坂爪圭吾との対話【真剣勝負】を通じて「ざわざわ」を体験する。そのような非日常空間(?)を札幌か梅田につくれたらいいなあと思う【空きスペースをお持ちの方はお気軽にご連絡ください!!】。

 

【イベント情報】おはなをあげる【北海道&大阪&島根編】

 

菊名の家はいい仕事をしている。

家主(?)不在であるにも関わらず、菊名の家は非常にいい仕事をしている。前回の記事で「家を追い出されることになった主婦の方が菊名の家を一時的な避難所に使いたいと思っている」的な投稿をしたものの、後日、その方から非常に素晴らしい内容のメールが届いた。実際的には、菊名の家はなにもしていない。ただ、存在していただけの話になる。「存在をしている」というただそれだけのことが、誰かの力になることがある。こんなにもうれしいことはあるだろうか。下記に、その方から届いたメールを転載いたします(K様、素晴らしい内容をありがとうございます!!)。 

 

圭吾さん

 

◯◯◯です。


昨日はお返事出来ず申し訳ありませんでした!

 

実は家族(元夫)との別居の事を母に泣きながら相談したら、父と母がサポートしてくれる事になり今週末引っ越しになりそうです。

 

私は実家の両親とは昔からあまり折り合いが良くなく、特に母とはずっと疎遠だったのですが、今回私が仕事を始めて別居に至る事で始めて真剣に向き合ったり頼ることが出来ました。

 

親に心配や迷惑をかけたくないとか、親とは昔から仲良くないからとか、色々な理由で頼らなかったのですが、ここまで至って始めて頼らざるおえない状況になり

 

昔は私に対して無関心な両親(特に母)だと思ってたのですが、今回の件で一生懸命私に向き合ってくれた両親に心からの感謝と愛情が蘇りました。

 

圭吾さんが菊名の家を作ってくれたおかげで、私は最悪の場合でも居場所があるかもしれないと希望が見えました。(本当にお金も頼る人もなかったので!)

 

また、追い出されるような形でしたが、最悪の関係にしがみつかず進む決意が出来たのも菊名の家のおかげだと思います。

 

ご連絡いただきまして本当にありがとうございます。

 

この度はご心配とお手数おかけしまして申し訳ありませんでした。


心より感謝致します。(^^)

 

ここ最近は「(最大のタブーとしての)家族」というものに関心があって色々考えたりひとと話しまくったりしていたのだけど、最近の発見としては『家族の問題がクリアされると、人生はボーナスタイムに突入する』というものがある。逆に言えば、自分がなにかしらの問題を抱えているとしたら、それは多くの場合「解決されていない家族間の問題が、別の形となって現れているだけ」なのかもしれないとさえ思う。先日、ちょっと子育てに疲れてきた主婦の方A様から「保育園の帰りに菊名の家によってもいいですか?」という連絡が届いた。わたしは「待ってました!」とばかりに(自分は菊名にいないくせに)快諾をして、家のお留守番をしているあきととえりか姫に「あとは任せた!」と丸投げをした。数時間後、A様から下記のようなメールが届いてわたしは非常にうれしい気持ちになった(あきと&えりか姫まじでありがとうございます!!)。

 

坂爪さん、お邪魔しました。


今家を後にしました。


えりかさんに駅まで送っていただいて…子どもと手をつないでいただいて。カバンまで持っていただいて。


見ず知らずの親子の突然の訪問にも関わらず、受け入れてくださり感謝でいっぱいです。


また、遊びに行きますね。4歳の息子はえりかさんのことが気に入ったようです。


ありがとうございました!!

 

あきととえりか姫のグッジョブ具合が素晴らしい。菊名の家はいい仕事をしている。単純に、日本中にもっとこういう場所が増えたらいいのにと思う。菊名の家には庭がある。先日、庭師の方のご指導のもとに雑草をすべて引っこ抜き、いまでは「なんでも植え放題!」という状態になっている。先日、植物園で働いている女性T様が菊名の家に遊びに来てくれた(のに坂爪は不在のためにご対応することができなくて非常に残念!)。後日、T様からメールが届く。わたしはそれを読んでまたうれしくなる(T様、ほんとうにありがとうございます!!)。

 

坂爪さま


こんばんは、本日、はじめて菊名のごちゃまぜの家に行って参りました!


先日のツイキャスにてお庭の仕事をしたいです!と開口一番手をあげました
ついつい、調子に乗って水曜どうでしょう、と遊んでしまった《かようび》こと
◯◯◯◯◯◯です。

 

あきとさんに駅まで迎えにきていただき、えりかさんもいらっしゃってくださり
ゆっったりと贅沢な時間を過ごすことができました。


お二人とも、暖かく出迎えてくださり、菊名の家も優しく迎えてくださいました。

 

淀みのない清らかな空気が流れておりました。

 

少しばかりの花の苗をえりかさんと植え、
もう一人後からいらした方と東側の土の土壌を整えるために
クワとシャベルで土をおこし、石灰とくんたんを撒いてきました。


かなりふかふかにもなっていたので、以前に耕した方が頑張ってくださった賜物だと思いました。
早く、みみずや様々な微生物が動きだすといいですね


生きとし生けるものすべてに愛おしく感じる瞬間です。


なんともしあわせなひとときでした。


はじめましての人と蕎麦をつつきながら、土いじり・・感動しまくりです!!


えりかさんのコーヒーも畑仕事の後(あまりしませんでしたが)に格別でした。


私がごちゃまぜの家の支援をしたいな、と思ったきっかけの1つに
そこのお家にお庭があったなら、小な畑でもいいからお庭に畑があったなら
そこで季節の野菜をお家の人たちと、あーでもない、こーでもないと言いながら
種まきやら、除草やら、水やりやら、収穫やら、その時々を楽しめると
楽しそうだなあなんて思ったのです。


幼い子も収穫の喜びなんかを感じてくれたら、なんだかしあわせな気持ちいっぱいになりますよね〜。

 

今仕事している植物園でも、ちいさな畑を作っておりそこでの野菜作りはとても楽しいのですが
東京都の所有物の故に、お客様はあくまでも観賞用にしかできず、収穫することができない
はがゆさを感じてました。


私の自宅はマンション、近くに畑を借りるのともちょっと違うんですね、
坂爪さんのおっしゃるように、共有できる喜びがほしかったんです。


菊名のお家はちいさなお子さんもよくいらっしゃるようなので食べどきトマトとか
バキバキにもいでほしいですよね。

 

改めてありがとうございます。


夏野菜は植えつけ時期がもうぎりぎりですが、
元気に育つことを願ってます!


あ!!さつまいもの苗はこれからなので、お勧めです!!

 

長々と失礼しました。


キャンプファイヤーにも粋なメッセージありがとうございます!!

 

坂爪さんにもいつかお会いできます日を楽しみに。

 

【過去記事】好きなことをやっていられる、こんな素晴らしいことはない。 - いばや通信

 

坂爪圭吾はいい仕事をしている。

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北海道ではおはなを配りまくってきた。 

 

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おはなをあげると「いい仕事をしているなあ」と思う。 

 

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【過去記事】自分の「好き」を貫く。 - いばや通信

 

真面目なひとほど知能は低い。 

札幌市内で飲食店を営む方から「下の車庫が空いているから、そこで『ざわつくガレージ』をやるのはどうですか」という提案をもらった。車中泊をできる車を手に入れて、坂爪圭吾は車庫に暮らす。トイレはコンビニや公園のものを利用する。風呂はない。風呂がないことはチャンス!になるので、「風呂乞食」的な活動(?)を敢行する。常々、わたしは「お金よりもコミュニケーション!」をモットーに生きているのだけれど、お風呂を貸していただくことで普通の暮らしの中では絶対に生まれることのなかった地域住民の方々との友好的なつながりが生まれることを狙う(ひととのつながりがあれば人間は死なないとは思っているものの、蹴散らかされて終わるかもしれない)。この話はあくまでも提案という形だけで終わってしまったけれど、実際問題、わたしは「いけるかもしれない」と思った。こういう話を面白がってくださる方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡ください【不要な車をお持ちの方もお気軽にご連絡ください!】。

 

多分、わたしは「自分が置かれている状態を遊びたい」だけなのだと思う。先日、自分にとって非常に都合のいい話を聞いた。生きるためにまったく必要のない行為をすること、それは『知能が高い』最高の証明になるのだと言う。滑り台で遊ぶカラスや、嫁にプレゼントを贈る狼の話もある。真面目なひとほど知能が高いように見えて、実際は「真面目なひとほど知能は低い【遊ぶほど賢くなる】」のだという指摘は、聞いているだけでドキドキする。ごちゃまぜの家や風呂乞食という活動(?)も遊びのひとつで、ただ、遊びながら仲良くなれるひとを増やすこと、遊びながら「この星【世界全体】を自分たちのプレイランドにする」ことこそ、わたしがやりたいと思っていることのひとつなのかもしれない。自分は、ただ、遊びたいのだ。そして、時には涙が出そうになる程に遊びながら「世界がいまよりもちょっとだけ良いもの」にすることができたなら、それは最高だなと思う。

 

遊びの効能は「凝り固まった思考をほぐし、感性に潤いを与える」ことにあると思う。これは何かに似ているなと思った時に、ああ、これは芸術【アート】と同じことなんだなと思った。美しい音楽に触れた時、独創的な建築物に触れた時、素晴らしい作品に触れた時、自分のこころの中に定められた「こういうもの」という既存の枠に歪み【ざわざわ】が生じて、そこから「こういうものもありなのか!」という新種の萌芽が出現する。遊びを通じて世界は広がり、遊びを通じて『自分の限界』を広げていく。そして最後に気づくのだと思う。不可能なことはなにもない、ただ、自分の思考が限界をつくっていただけなのだということに気づくのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BVIqyDcjpIT/

自由を感じている俺。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

最後は女に帰りたくなる。

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ごちゃまぜの家を北海道にもつくりたい!という思いが爆発をして、いま、札幌にいる。昨夜は「札幌の奥座敷」でお馴染み定山渓在住O様の自宅マンションに宿泊させていただいた。一階部分には住人共有の温泉(!)があり、マンションの住人は24時間いつでも自由に利用ができる。寝起きも「顔を洗ってくるね」という一言と共に、洗面台ではなく温泉に直行する。洗面台で顔を洗った記憶は、ここ最近ではそう言えばまったくないなあなんてことをO様は笑顔で話す。わたしのアゴは「半端ない暮らしですね!」と外れる。朝晩と温泉につかり、ああ、日本人にはこれが必要なんだよ、温泉にはいることでほぐれる何かがあるのだよ、などということを思った。定山渓には、既に廃墟と化している企業の保養所がいくつもある。ここを(管理をする代わりに)安価で使わせていただくことはできないものだろうか、などということを考えていた。

 

 

札幌中心部なら、円山公園中島公園界隈がいいのかななどと夢想をする。菊名の家を離れても、菊名の家のことが常に脳内にある。先日、千葉県から遊びに来てくれたM様のこどもたちが猛烈にかわいくて、この瞬間も写真を眺めながらニヤニヤしていた。別に血の繋がりがある訳でもないのに、さも【SAMO】父親になったような気持ちになる(勝手に)。一昨日の夜は、菊名の家で音声配信を行なった(7歳の女の子と3歳の男の子も一緒だった)。こどもの声が聞こえるだけで、謎にこころがほぐれる【小鳥のさえずりを聞いているような気持ちになる】のは、きっと自分だけではないはずだと思う。

 

【音声配信】Recoded Radio 最後は女に帰りたくなる。 - いばや #378014072 - TwitCasting

 

遠く離れてそばにいて。 

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菊名の家を離れることで、菊名の家のことを冷静に(客観的に)眺めることができる。あまりにも同じ場所【ひと】と長くいると、癒着のようなものが生まれて物事を冷静に考えられなくなる。高城剛さんが「アイデアと移動距離は比例する」ということを仰っていたけれど、多分、その通りなのだと思う。自分の場合、風通しが良いこと【積極的に外の空気を取り入れること】は必須事項であり、菊名の家を離れることで「菊名の家には駐車場の空きが一台分あるから、寝泊まりができる車【最高の理想はマイクロリーノ&野営道具!】をつくってみんなで共有できたら面白そうだな」とか「庭にノルディスクのテントを張って、居住空間も拡張すれば『横浜のど真ん中でグランピング』なるものも実現可能かもしれない」など、その場所を離れることで舞い降りるアイデアもある。同時に、離れることで育まれる【再認識される】愛情もある。まったくそこにはいないくせに、ああ、俺は菊名や熱海の家が大好きなのだなあということを、離れるほどに感じたりする(帰る場所があるということは幸せなことだ)。

 

ごちゃまぜの家がはじまってから、早速「家を追い出されることになってしまったので、しばらくの間菊名の家に滞在をさせていただけませんか?」というエマージェンシーな連絡が立て続けに届いた。このような場合、わたしはどのような対処をすればいいのだろうか。一番怖いのは「余裕もないくせに引き受けた結果、共倒れになる」ことだと思うけれど、まあ、その時はその時なのかもしれない。みんな、いろいろあるのだなあなんてことを薄らぼんやりと思う(いろいろありますね!)。ごちゃまぜの家の二階部分と離れの部分は、当初は賃貸物件として貸し出される予定になっていたものの、ちょっとだけ事情が変わって「これからどうしていこうか」という白紙の状態になっている。こういう場合、そういうひとが一時的な避難所として暮らせるようにすればいいのだろうか。それとも、そういうことをやってしまうと「そういうひとばかりが集まってしまう」ことになってしまうからやめたほうがいいのだろうか、など、わたしにはわからないことが多い。これからも(その場に居合わせたひとと一緒に考えながら)ごちゃまぜの家の在り方を模索していきたいと思う。

 

近々、菊名の家で「ごちゃまぜの家のオープンハウス」なるものを開催したいと思う。まずは実際に物件を見てもらわないことには何もはじまらないのだと思う。ごちゃまぜの家は、自分で言うのもあれだけど、非常にいい感じの空間になりつつある。人間は、多分、ひとりで生きられるようにはできていない。自分ができることは自分でやって、自分が苦手なことは誰かにやってもらった方が話は早いことが多い。料理ひとつとっても、自分だけのためにつくるよりも食べてくれる人がいた方が作り甲斐もあるというものだ。子育ても、こどもひとりに対しておとな三人くらいがちょうどいいのだと思う。ごちゃまぜの家では「365日炊き出しが行われている」ような状態になればいいと思っているのだけれど、これには女性の力が不可欠になる。女性の出入りが増えてからというもの、圧倒的に台所の諸々が充実をしてきている(男ばかりで空間をつくっていた時は、屋外ばかりが整うばかりで内装はめちゃくちゃだった)。どちらか一方に偏ることのない、男女【陰陽】がいい感じに融合する空間になることを願う。

 

それにしてもかわいい。

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それにしてもかわいい。

 

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なんなんだいったい。

 

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写真を見るだけで癒されてしまう。 

 

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これなんかもう犯罪レベルだと思う。 

 

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悔しくなってきたのでわたしの幼年時代の写真も一緒に貼ります。誰にでも無垢なこども時代があったのだよな…などと思うと(たまに)泣きそうになることがあるのはなぜなのだろう。純粋なものに触れると涙が流れそうになることがある。自分の何かが薄汚れてきている証明なのだろうか。こどもと過ごしていると、何かが浄化されていくような感覚を覚えるこ 。自分や親戚にこどもが生まれない限り、なかなか「日常的にこどもと触れ合える機会」はないものだ。これは意外と盲点である。誰もが同じ社会に暮らしていながら「まったく接点のない」ひとたちがこの世界には無数にいる。この境界線が溶け出した時、果たして、世界はどのような風景を見せてくれるのだろうか。ごちゃまぜの家が、結果として「いろいろなこども【おとな】と触れ合うことができる」人間交差点的な21世紀のパワースポット(?)としても機能をしていけばいいなあと思う。

 

読者プレゼント『morihiko COFFEE』

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わたり文庫が終了をしてしまったものの、これからも「坂爪圭吾が移動先で譲り受けたもの・購買したものなどを読者の方々に無料でリリースしていく」的な営みは続けたい。この活動(?)にまだ名前は与えられていないけれど、先刻、札幌でお会いした女性から『morihiko』の珈琲【ドリップ】を頂戴した。今回は、こちらの珈琲をご希望される方に送料無料(坂爪圭吾が負担します!)で勝手にプレゼントをさせていただきます。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間【詳細になっていない詳細は過去記事を参照してください!】以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの珈琲は、和歌山県にわたりました ※※※

 

【過去記事】どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。 - いばや通信

 

最後は女に帰りたくなる。

最近、最後は女に帰りたくなるということを思う。わたしは男で、たとえば「今日はいい仕事をしたなあ」と思えた1日の終わりには、女のもとに帰りたくなる。寂しいからという理由でもなく、人肌が恋しいという理由とも少しだけ違う。ただ、男性にとって女性は「(誤解を恐れずに言うと)充電器的な役割がある」ように感じていて、最後は女のもとで眠りたいとかなんとか思ったりする。そういうことを、同じ場所に居合わせた39歳の男性と14歳のえりか姫にしたところ、39歳の男性は「それはすごいわかります。わたしの場合、嫁がまさにそういう感じで、充電してくれている感が半端ないです」と話してくれた。続けて、39歳の男性は「えりか姫には、まだこういう話はちょっと早いかな??」とえりか姫に問いを投げた。すると、えりか姫は(14歳なんていう年齢はまるで関係がないのだとわたしたちに教え諭すかのように)このようなことを話しはじめた。

 

わたしも、最近は『帰りたいと思える場所』みたいなひとになりたいなあって思いがあります。いままでは、自分にはこれができるんだっていう何か【行為】を通じて、自分の存在価値というか重要性を周囲のひとたちにがんばって認めてもらおうとしていたところがあったんだけど、最近では「特別なことは何もしようとしなくてもいいんだ。ただ、堂々と、そこで待っていればいいんだ」って思うようになりました。鉄砲玉のみんなが疲れて帰ってきた時に、たとえば珈琲を淹れたり料理をつくって待っていたりできたらいいなあとかは思うけど、特別ななにかをするというよりも、ただ、そこにいる【そこに在る】ということが誰かにとっての応援とか癒しみたいなものになれたらいいなあって思います。

 

これを聞いた瞬間、わたしは「えりか姫やるな!」と思った。そして「是非とも帰りたい女ナンバーワンになるのだよ」とアホな父親振りながら伝えた。39歳の男性も「それができたら多分モテまくるよ」などと伝えていた。多分、男はぶんぶん丸みたいなもので日中は自分の好きな場所まで自由に好き勝手に動き回っていたいなどと願いながら、最後は「女のもとに帰りたい」と思う生き物なのではないだろうか、などということを自分を見ていると思う。散々自由に動き回った末に、最後は女【充電器】に戻るお掃除ロボット『ルンバ』みたいなものだ。きっと、男だけでは埋められないアナが男にはあって、女だけでは埋められないアナが女にはあるのだろう。それは、きっと『自分ひとりで埋める必要のないアナ』でもあるのだと思う。アナがあるからこそ、それを埋めることのよろこびを覚えることができる。だからこそ、わたしたちは「ひとりで完璧になることよりも、お互いに補い合っていくことを願う」生き物なのではないだろうかと、そういうことを考えていた。

 

 

人生は続く。

 

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