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いばや通信

ibaya≪いばや≫旧共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

リラックスこそ最高の媚薬。

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お風呂にお湯を貯める。服を脱ぐ。水筒と、全身を磨く為のたわしと、iPhone5sと一緒に浴槽に入る。フリック入力で地道にブログ記事を綴る。ひとつの記事を書き上げるのに、およそ1時間から2時間程度かかる。書き終わる頃には、大量の汗で顔や腕がびしょ濡れになる。ブログ記事を更新しながら半身浴をすると、半身浴の退屈な時間も生産的なよろこびに変わる。私の身長は175センチ弱で、最近は腹もあまり減らない為に体重は53キロに落ちた。食べ過ぎると胃腸が重くなり翌朝「うぐぐ」となるが、体脂肪率が下がりすぎると免疫力は低下をして体調を崩しやすくなる(らしい)。
 
先日、大阪府羽曳野市で開催されたトークイベントに登壇をした。イベント終了後、ひとりの女性が名刺を片手に挨拶に来る。私は名刺が嫌いだ。ゴミが増える。経験則的に、私は、初対面の際に名刺を渡してくるタイプのひとと仲良くなれた試しがない。多分、そのひとの社会的な役割よりも「絶対的なそのひと自身」に、私の興味はあるからだと思う。私はこういうものですと名刺を差し出す女性を見ながら、私は「終わったな」と思う。
 

お前は誰だ!

私は女性に「あなたはいつもこんな感じなのですか?」と問う。女性は「はい」と答える。私は「あなたの態度は表面的で、形式的で、打算的で、あなた自身の純粋性が何も伝わってこない。純粋性が何も伝わってこないから、あなたと友達になりたいとは思えない」的なことを言う。女性は「はい」と言う。私は黙る。女性は「これからもブログ記事を楽しみにしています」と言う。私は、この言葉は社交辞令だなと思う。何も言わない。私は黙る。女性は「今日はありがとうございました」と言う。私は、この言葉も社交辞令だなと思う。何も言わない。私は黙る。女性は消える。周囲にいた人達の顔が、若干、凍りついている。
 
隣にいた大学生の男の子が「実際に言っちゃうんですね〜!」と言う。彼と私は友達だ。私は「だって嘘にまみれてたじゃん!」と言う。もうひとり、同じ時間を過ごしていた20歳の女の子は「私は今日という日を忘れないでしょう」と言う。彼女と私は友達だ。正確には、その日、友達になった。素直なひとは友達で、嘘にまみれているひととは友達になれない。私は、隣で友達が見てくれている時に燃える。私は「ありがとう!二人が見てくれていたから、あたし、張り切っちゃった!!!」みたいなことを言う。
 
結果的に、名刺を差し出した女性とはその後に仲直り(?)する。そこまでの流れは割愛をするが、私は、無理をして生きているひとは多いのだなあみたいなことを思う。一生懸命に「私は付き合う価値のある人間です!」「私は幸せな人間です!」「私は夢と目標に満ち溢れている人間です!」というアピールをしなければ生きていくことができないのだとしたら、私は、そんな世の中を生きていたいとは思わない。逆に「私は付き合う価値のない人間です!」「私は幸せな人間ではありません!」「私は夢や目標の重要性みたいなものって完全に嘘なんじゃないだろうかと思っていて、誤解を恐れずに言うと、みんな騙されているだけなんじゃないだろうかと思うタイプの人間です!」と言うひとと、友達になりたいと思う。
 

お前はそんなもんじゃないだろう!

私は、根底に「お前はそんなもんじゃないだろう!」的な信頼や愛情が流れている限り、何をしてもいいのだと思う。たとえ一時的に衝突をしたとしても、動機が「相手を潰すため」ではなく「こころを通わすため」であれば、出し惜しむことなく、自分の思いはしっかりと伝えていきたいと思う。逆に言えば、自分の気持ちを押し殺して愛想笑いを浮かべながら無難にその場を収めようとするほどに、私は、私の中にある肝心な部分が死滅していく感覚を覚える。
 
過去に「無駄に慰め合うよりも、一回殺す」的な記事を書いた。誤解を恐れずに言うと、私には、自己啓発やスピリチュアルにはまっているひとほど「癒され過ぎて腐っている」ように見える。多分、延命措置に未来はない。安心感を求めて権威者と呼ばれているひとやものやことに答えを求めて彷徨うよりも、一回死ぬ(古い自分を一回殺して、新しい自分になって生まれ変わる)方が話は早いと思う。
 
 
稀に、私に答えを求めて来るひとがいる。しかし、私は「答え合わせ」みたいなことをしたいとは思わない。それをしてしまうと宗教になる。自分の頭で考えることができなくなる。私の考えはあくまでも私の考えであり、あなたの考えにはならない。私の考え方は、あなたにとっては答えではなく「問い」であり、それはつまり「お前はどう思うのか?【お前はどう生きるのか?】」という問いになる。答えよりも問いを共有できた時にこそ、私は、そのひとのことを「同じ時代を生きる仲間」だと思う。そこに上下関係はなく、年齢差も性差も社会的な肩書きの差もない、同じ人間として「あくまでも対等なもの」でありたいと思う。私は上にもならないし、私は下にもならない。わたしはわたしであり、あなたはあなたである。それが素晴らしいことだと思っている。
 

星の王子さま

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグジュペリ著作星の王子さま』です。こちらの本は、昨日、愛知県の刈谷サービスエリアでヒッチハイクをしていた(あろうことか、そのひとは奈良県のイベントにも来ていた!)男の子が「僕は全然本を読まないのですが、これを読んでから本を読むようになったんです!」と語る一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
人間たちはもう時間がなくなりすぎて

ほんとうには、なにも知ることができないでいる。

なにもかもできあがった品を、店で買う。

でも友だちを売ってる店なんてないから

人間たちにはもう友だちがいない。
 
 
 

リラックスこそ最高の媚薬。

大阪のイベントに来てくれた男性が「さかつめさんは何をしている時が一番楽しいですか?」みたいなことを尋ねる。私は、返答に困る。楽しいことなんて100種類以上あるし、このひとはなんでこんなことを聞くのだろうかと思い「あなたはどんな時に楽しさを覚えるのですか?」と尋ねる。男性は「やりたいと思っていることをやっている時です」と答える。私は、なるほどと思う。そして「それでいいじゃないですか」と答える。「それでいいと思うのですが、どうして、私にそれを尋ねるのですか?」と答える。
 
ニュアンスをうまく伝えられる自信がないけれど、男性は「私と同じであることに安心感を覚えようとしていた」ように見えた。そして「楽しむためには何かをしなくちゃいけない!」という焦燥感に駆られているようにも思えた。当たり前のことだけれど、答えはひとつではない。しかし、答えはひとつだと思い込むと「自分と違う答えを持つひとの登場に動揺する」ことになる。結果的に、周囲の人達の意見に惑わされて、自分自身を見失ってしまうことは多い。
 
私は、人間のパフォーマンスが最大限に発揮される瞬間は「リラックスをしている時」だと思う。何かをしなくちゃいけないという強迫観念は緊張感を生み、場合によっては何もしていない自分に罪悪感を抱く結果にもなる。大事なことは、多分、肩の力を抜くことだ。明日からは東京だ。堅苦しい文章を書いてしまった。熱海の空には太陽が輝いている。風呂をあがり、玄関先の椅子に座り、日光を浴びる。鳥が鳴く。木の葉が揺れる。目の前を野良猫が通り過ぎる。なんだか、いろいろなことがどうでもよくなる。自分には健康な体があって、今夜眠る場所があり、明日食うには困らないカネがある。これだけあれば、多分、文句を言ってはいけないのだと思う。足りないものは何もないのだなあという気持ちになる。
 

 
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人生は続く。
 
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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。

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ムラキテルミさんと嘉向徹君と車で京都に行く。ムラキさんは、過去に、余命三ヶ月と言われた肝臓癌を断食で克服した。車内は、健康談義で盛り上がる。病気の原因は血液の汚れ。血液の汚れの原因は『食べ過ぎ』と『低体温』。ムラキさんは言う。さかつめさんは腎臓と肝臓を大事にしてあげるといいよ。肝臓は怒りをため込む臓器とも言われているから、睡眠時間をしっかりとって身体を休めてあげたり、怒りを溜め込まないこと。小豆煮もいいよ。私は、ムラキさんのことが大好きだ。好きな理由は108個以上あるけれど、最大の理由は「かわいいから」だ。
 
 
今週の土日は東京で開催されるイベントに登壇をする。ムラキさんは、私のことを「食客のプロ、現代版の吟遊詩人みたいだね」と言う。私はよろこぶ。秋葉原のイベントには、みっつも(精神的な都合がつけば)来る。私とみっつの出会いはおよそ二年前、東京にある三軒茶屋駅の改札前で、念願の初対面を果たした。その出会いは衝撃的で、以来、みっつとは暇な時に話したり話さなかったりしている。みっつは言う。菩薩みたいにみんなの話を優しく聞いてあげている時のさかつめさんも好きですが、阿修羅みたいに荒れ乱れている時のさかつめさんはもっと好きです。
 
 
 
 

奈良のイベントに登壇をする。

昨夜は奈良のイベントに登壇する。参加者は45名。主催者の女性は「保守的だと言われている奈良のひとがこんなに集まることは珍しい。奈良で何かをやる時は、大抵、奈良以外の方が来ることが多い」と話す。昨夜は、徹君も一緒に壇上にあがる。徹君は、佐渡島に家がある。この家は、佐渡島に家をもつ非常に粋な男性から「君みたいな若者を待っていたんだ!この家を、この環境を、大いに使ってくれたまえ」とプレゼントをされた。この家で、徹君は「誰でも自由に無料で生きていけることをあれこれ」を実験的に試しているが、現金収入がないために、来客を無料でもてなす代わりに自身は「はじめてのアコ○」で借金生活を続けている。

 
前に、ブログ記事で「私の役割は、話の長い校長先生に『校長先生、話が長いです』と実際に言うこと」だと書いた。その記事を見てくれた某S県の中学校の校長先生から「あなたは面白い事を言いますね。今度の全然集会で、一部引用してもいいですか?」という連絡が届く。私は驚き、この展開を愉快だと思う。そして「ご自由にどうぞ!」と答える。奈落の底を這い生きる自分みたいな地底人間の言葉が、非常にパブリックな場所で引用される。誤解を恐れずに言うと、私は、悪い影響を与えたいと思っている。その為、いままでは叱られることの多い人生だったが、最近は「怒られるよりも面白がってもらえる」ことが増えた。
 
 
昨夜、奈良のイベントに来てくれた女性が言う。「さかつめさん、前に『米をつくることや米を買うことは苦手だけど、米を貰うことは得意だ』みたいなことを書いていたじゃないですか。あれ、なんだか妙にツボにはまってしまって、私、7年振りに笑ったんです。この7年間、個人的にいろいろなことがありました。が、その言葉を思い出すだけでも不思議と何度も何度も笑いが溢れてしまって、ああ、自分はまだ笑うことができるんだって、私は、救われてしまったんですよ」と言う。私はよろこぶ。徹君のアコ○で借金生活の話題も、昨夜、非常にツボにはまってくれた方が「君達は最高だね!」と言ってくれた。
 

押し寄せの法則。

引き寄せの法則に対抗しない形で、いばやでは「押し寄せの法則【別名・しわ寄せの法則】」を提唱する。佐渡島で何かをやりたいと願った徹君は、無一物の状態で佐渡島に飛び出し、そこで家を得た。家賃を浮かす為に家のない生活をはじめた私は、無一物の状態で世間に飛び出し、結果的に様々な恩恵を受けることができた。仲間が集まったらやるとか、完璧な環境が整ったらやる的な考え方に象徴される「待ちの姿勢」ではなく、何もないけれどやる、ひとりでもやる、自信はないけれどやる、不完全でもやる、とりあえず実際に火の中に飛び込んで見た愚者の生き様を補う形で、与えられるものが奇跡だと思う。
 
いばやは勝手に押し寄せる。いばやは愚者の集団だ。頼まれもしない場所の中に、環境の中に、状態の中に、遊び感覚で自らを投じて成り行きを見守る。その反動は大きい。押し寄せの法則は、しわ寄せの法則でもある。が、このような生き方をすることの最大のメリットは「粋な人間に出会う率が飛躍的にあがる【ひとの優しさに触れがち】」ことだ。正々堂々、裸一貫、生涯無一物で飛び出す。すると、それを見た人が「あなたたち、このままだと死ぬよ!ほれ、これを使いなさい」的な感覚で様々なものをくれる。私達は「ありがとう!」と言う。頂き物を食べ、生きるパワーを得た所で、また次の死に場所【遊び場】を求めて彷徨う。
 
多分、仲間は「歩き出した後に出会うもの」だと思う。宝物も同じだ。ひとりの人間が覚悟を決める。周囲の人間の反対を押し切り、いまいる場所を離れて、出発をする。歩きはじめる。知らない場所に到着をする。知らないひとと出会う。困難に出会う。困難を乗り越える。また、困難に出会う。困難を乗り越える。また、困難に出会う。困難を乗り越える。困難を経て強さを、困難を経て優しさを得る。そして、歩き続ける。歩き続けるその中で、出会うものが仲間だと思う。そして、歩き続けたその先に、残る記憶【共に生きた形跡】が宝物になる。
 

『第三の嘘』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、私の愛する悪童日記三部作の最終話、アゴタ・クリストフ著作『第三の嘘』です。悪童日記はまじで面白いので、是非、皆様に読んでいただきたい作品になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※
 
 

思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。

トークイベントの際に「自由とは何か」という話題になる。私は「自分が消えている状態だと思います」と答える。過去の自分は、自由とは「やりたいことができる、行きたい場所に行ける、好きなひとといることができる」ような状態を自由だと思っていた。が、最近では「自意識やエゴと呼ばれるものからの自由」こそが、真の自由なんじゃないだろうかと思うことが多い。
 

 
私は、幸福とは全体感であり、不幸とは分離感だと思っている。俺が、俺がとなるほどに、不自由になっている【大きな何かから切り離されている】感覚を覚える。が、ある種の無心になれている瞬間、たとえば、私は夕日が好きなのだけれど夕日を見た瞬間の私は「思わず駆け出しちゃってる」状態になる。この「思わず○○しちゃってる感」こそが重要であるような気がしていて、この瞬間、私の自意識は全体に溶け出している。エゴイスティックな思いは消え失せて、大袈裟な言葉で言えば『主体を共有する』ような感覚を覚える。
 

 
俺が、俺が、となるほどに私は不自由になり、何かに執着をし、結果的に不足感を抱くことが多い。今回のブログ記事は、使う画像がなかった為にいばやのMAYUCHAPAWONCAさんの幼年時代の写真を勝手に拝借した。小さなこどもを見ていると、ああ、こいつらは主体が完全に溶け出している、だからこんなにも好奇心に満ち溢れていて、こんなにも生きる力に溢れているのだろうなあみたいな気持ちになる。見るもの、聞くもの、触れるものが、多分、全部、自分なんだ。思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番だと思う。こどもはいつだって規格外で、そして、自由だ。
 

 

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人生は続く。
 
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。

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湯河原の秘湯、入浴料200円の霊泉『ままねの湯』に向かう。何度か道を間違いながら、建物を発見する。湯治で名高い霊泉だ。景観が凄い。浴室にはいる。先客Aがいる。年齢は60代を超えているように見える。真っ白な体が、茹で豚のように赤くなっている。お湯に足をつける。熱い。熱すぎて「これは無理だな」と思う。次の客Bが来る。年齢は60代を超えているように見える。常連客なのだろうか、先客に「やあ」と挨拶をすると同時に、灼熱のお湯の中にダイブをする。私は「化け物だな」と思う。Bは1分間ほどお湯に浸かり、あああああと吐息を漏らしながら浴槽を出る。真っ白な体が、茹で豚のように赤くなっている。私も、勇気を出してお湯に浸かる。全身が赤く染まり、私は、茹で豚になる。
 
今夜、徹くんの車で京都に向かう。愛するムラキテルミさんが京都に引っ越されるため、その護送をする。明日の夜には奈良県で開催されるイベントに登壇をする。今回の人生はなかなか移動の多い日々で、私は、全国各地をぶんぶん飛び回っていることから「ぶんぶん丸」と呼ばれることがある。私の周りには、ぶんぶん丸と呼ばれているひとが他にふたりいる。ひとりはいばやのほしなさん。野球を愛するほしなさんはバットと周囲の人間を振り回しまくるので「ぶんぶん丸」と呼ばれることがある。もうひとりは、愛するSさんの実の父親。昔、極道をしていたこともあるSさんの実の父親の得意技は、日本刀をぶんぶん振り回すことだった。それでついたあだ名が「ぶんぶん丸」で、私は、同じ異名を授けられたことを光栄に思う。
 

わたり食堂を終えて。

昨日、熱海の家で「わたり食堂」を開催した。全国各地から様々な方々が様々な手土産と一緒に遊びに来る。主催者の私は「特に何もすることはないな」と思って、玄関先をぶらつく。昼寝をする。ひとと話す。ギターを弾く。花の世話をする。あるひとが言う。「ここに来るまではさかつめさんとあれこれ話をしたいと思っていたことがあったのですが、ここに来たら、なんだかどうでもよくなりました」と言う。私は、非常に素晴らしい効果だと思う。前回の記事でも書いたことと重なるけれど、私は、眉間にシワを寄せながら問題解決に果敢に挑む勧善懲悪的なスタイルよりも「遊んでいたらいつの間にか問題が解決した(問題だと思っていたことがどうでもいいことのように思えた)」ようなスタイルを愛する。
 
 
前回の記事を読んでくれた方からメールが届く。
 
坂爪さん、初めまして。
木下 千里と申します。

どうしてもメッセージしたくなってしまって。

いつも、自分が迷ったとき 落ち込んだ時 FB を開くと坂爪さんの記事が目に飛び込んできて 引き込まれて 励まされてます。

いつも ありがとうございます。

少し前に ハートの真ん中に爆弾を落とさせるような衝撃的な出来事があり 一体自分はなんなのか 何がしたいのか 自分の潜在能力を120%出しきって生きていきたいと常に思い悩み生きていたけど 今の自分のこの状況はいったいい何なのだろうか。。という感じの一ヶ月が続き 結果その中で色んな事に気づかせてもらいました。
そして 落ちきったら あぁ。こんな事になっても気づける自分、ピュアな自分、それでも自分を人を愛せる。私は自分の事本当に愛してると心底 おもいました。

そして本当に自分の事を自由にしてあげようと。心の底から想うことができました。

私は今 沖永良部島という奄美諸島の小さな島で 発達障害といわれる子供の支援事業で働いていたのですが 元々北海道出身でこの度、12月で辞めて 北海道に帰ることを決めました。

元々、全て本来あるべき姿 ありのままの美しさに魅力を感じるので 集団生活に馴染めるように 訓練することや、枠にはめていくような指導をしなければならないことなど個性をどんどん押さえ込ませることに 私自身が辛くなってしまったり 色々な葛藤があり これはこれで とても素晴らしい事業だし 職員もとても素晴らしい人ばかりで 島にとっても大切な場所であると感じていますが
じゃあ 自分はどんな風に生きて、この子供たちと、世界と関わっていきたいのか真剣に自分に聞いてみました。

そしたら、とても壮大な夢が出てきました。私は今結婚もしてなく子供もいませんが そもそもの結婚制度や今の日本の単一民族国家に疑問が生じて あぁ、私は地球規模の家族という意味で多民族国家になればいいなぁと思ってる自分に気がつきました。 自分自身も今 もし愛する人の子供が出来てもきっとあまり結婚という法律にはこだわらないだろうとか、
子供が出来ても友人の家で 大好きな人みんな集めてその目の前で出産してみたいなぁとか 大好きな友達 家族と思ってる集団 色んな人と一緒に子育てしたいなぁなど色んな事を思いました。

そして、今私は来年の春には札幌から車で一時間くらいの所にある定山渓という温泉街近くに一軒家をかりて 様々な事をやっていこうと思っています。

その場所で自分の好きなことを思いきりしながら 大好きな人 会いたい人を呼べる そして駆け込み寺のような場所にしたいと思っています。

以前のブログでニュージーランドにいらっしゃるニセコの女性のお話の時にも何故かとっても坂爪さんに連絡がしたくなり私もそのプロジェクト賛成ー!!参加したいですー!!と心で叫び ウズウズしてましたが 文章が上手くないなぁーとか ウジウジと引っ込み思案な私が顔をだし そのまま胸にしまいこんでいました。そしたら今日の記事でまたあー、どうしても連絡したい!!となり、突然ですが。メッセージさせていただきました。

出逢う人とは必然的に出逢うと信じてるので いつか 坂爪さんにも逢えるかなーなどのんきに想ってましたが もぅ気持ちが押さえきれないので 来年なりましたら熱海のお家に一度遊びに行かせて下さい⭐

全くまとまりのない一方的な思いの文章でちょっと恥ずかしいんですけど。。(*´ω`*)

会って、坂爪さんの空気に触れながらお話をしてみたいなと感じています。

読んでいただき、ありがとうございます⭐

なんか照れますけど、大好きです⭐

宜しければこれからご縁を繋いでいきたいです⭐
 
私はよろこぶ。
 
坂爪さん、初めまして。

突然のメッセージ、失礼いたします。
東京でワインのソムリエをしている尾崎由衣と申します。
コメントがどんどん長くなってしまったのでメッセージに切り替えました、笑

いつも投稿楽しみに読んでいます。
沢山励ましてもらい、勇気を貰っています。
ありがとうございます。
そして、写真がいつも綺麗ですね。

今週の西の空、三日月と金星とっても綺麗でしたよね。
私も同じ空見上げてました。
あまりに綺麗で、泣きそうになりながら、
あぁ、星空が綺麗なだけで生きていけるかもと感じてました。単純な自分に万歳です。

日本人は何世代も日本人の人が多いし、
「義務教育」が浸透しているから
世間一般の共通の価値観が生まれやすいのかもしれなーと、フランスで地下鉄に乗りながらふと思いました。

ヨーロッパは人種もバラバラだし、それぞれ自分の価値観で生きるしかない。そんな気がしました。

でも、日本人は団結力があって真面目に働くから、イベント開催時の日本人の働きぶりには感心しました。

私は箱の中のルールに従って動くのが苦手です。
出勤時間や拘束時間、お休みの回数が決まっている一般的な会社勤めをしていると苦しくなって弱ってしまうので、絶対に正社員には二度とならないぞと思ってます。

その代わり、自分の好きなことならいくらでも頑張れる。
自由にいつでも飛び立てる環境に自分自身を置くことで伸び伸びと生きられる。

ストレスの渦巻く東京都心。
みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめてと思います。
そのストレス、こっちに飛ばさないでー!と笑
ストレスって、その人からイライラガスとして発散されてると聞いたことがあります。
本当にガスかどうかはわからないけれど、
ストレスまみれの人の近くにいると身の危険を感じます。

みんな真面目にイライラしながら嫌なことよくやってるなーと感心しますが、私は出来なくて良かったと思います。

小さな頃から多様な価値観が認められる居場所があれば、そんなフリースクールで伸び伸び育つ子供が増えたら、
日本も変わりそうですね。
そうでなければ変わらないかもしれないですね。

私はこれからワインを作りたいと思っています。
来年は山形のグレープリパブリックさんで一二ヶ月住み込みでお手伝いできたらなと計画中です。

来年こそは何処かでお会いできたらなと思います。

いつもありがとうございます!

お風邪ひかないよう、ご自愛ください🍵

尾崎由衣
 
私はよろこぶ!
 
ご無沙汰しております。
以前ローズマリー軟膏達を発送していただいた○○です!
今日投稿されたブログを読んで、これはお伝えしたいと思いLINEいたしますm(_ _)m

長文になってしまうかもしれないので、お手隙でお読みいただけたら幸いです。

私の息子は今3歳で保育園へ通っているのですが朝の9時までに登園するという規則を私が守れないでおります…

私の職場が緩い事もあり元々、朝が苦手な私は9時までに支度を済ませられず申し訳無い気持ちと何で9時なんじゃという気持ちを抱えており誰でも自由な時間に子どもを預けて迎えに行かれる場所があったら喜ぶ親御さんは多いのではないかなと常々、思っていました!

息子が来年サドベリースクールに通える年になり6歳を迎えた歳に小学校へ入学できるのだろうかとフリースクールなども考えていますが坂爪さんがブログに書かれていた通りどうも真剣過ぎて私がついていけなさそうだと悩んでいました。

息子の気持ちを優先するつもりではおりますが坂爪さん達が「いば小」を作られるのであれば是非お手伝いしたく、そして息子を入学させたいと強く思いLINEしています☆

私に何が出来るかは分からなくても何かは出来ると信じて緩い面倒くさがりな親御さんもやっていける様な環境が出来たら幸せかなと思いました。

この様な考えの親も居るという事を、お伝えしたく食堂中失礼いたしました。
またブログなど楽しみにしております!
お身体ご自愛ください☆
 
私はよろこぶ!!!!!
 

まずは自分を救え。

過去に、24時間テレビ「愛は地球を救う」に対抗しない形で、いばやでは70万時間テレビ「まずは自分を救え」を開催した。ひとりの人間の平均寿命を時間にすると70万時間になる。私たちは、基本的に「ただ、言いたいだけ」を動機に何かをすることが非常に多い。この時は「70万時間」という言葉の響きと「まずは自分を救え」という言葉の響きに胸が打たれて、ただ、これを言いたかったがためだけに敢行をした。70万時間という「ぶっ飛ばしている」感覚が好きで、結果的に、非常に自己満足度の高い終幕を迎えた。
 
 
誤解を恐れずにいうと、ひとの生き方をああだこうだという人(こどもの悩み、恋愛の悩み、家族の悩みや政治的な悩みを抱えているひと)は「自分が直面すべきことをごまかしている場合が多い」ように思う。誰かを救いたい、誰かの力になりたいのだと声高に叫ぶひとほど、誰かを救うことを通じて「自分を救いたい」だけなのではないだろうかと感じる。しかし、救われる側からして見ると「自分のエゴを満たすために俺たちを使うのはヤメテ!」となるのではないだろうか、と、思う。だからこそ、いばやでは『【ひとの生き方にああだこうだと口を出すことより】まずは自分を救え』と提唱をした。
 
こどももおとなも、育てるものではなく「勝手に育つ」ものだと思う。楽しそうに生きているひとを見れば勝手に「楽しそうに生きる方法」を学ぶし、苦しそうに生きているひとを見れば勝手に「苦しそうに生きる方法」を学ぶ。どのような考え方を採用するのかはそのひと自身の自由で、人間が他の人間に対してできることは「自分の生き様を通じて、それなりのメッセージを伝える」こと程度なのではないだろうかと私は思う。ひとりの人間にとっての楽しさが、他の人間にとっての楽しさになるとは限らない。自分の意見を他人に押し付けることは『余計な御世話になる』ことが多いので、ひとの生き方にああだこうだと口を出すより、まずは自分。まずは自分を救え、という言葉を私は非常に気に入っている。
 

私は、サンタクロースの存在を信じる。

iPhone7の大きいタイプ(SIMフリー)が欲しい。定価は驚きの10万円近くもする。現在の所持金が550円程度の私には手が届かない贅沢品だ。しかし、欲しいものを欲しいと口にする自由は残されている。どうすればiPhone7の大きいタイプを手に入れることができるのだろうか。私は、このブログをiPadiPhone5sで書いている(使用している写真はすべてiPhone5sで撮影したものになる)。が、いま、iPadiPhone5sも非常に調子が悪くて、なかなか思うように文章を綴ることができない。写真の画質にも限界があり、もしもiPhone7の大きいタイプが手に入ったらなあと考えるだけでもよろこびに震える。
 
私は、とても広い意味でサンタクロースの存在を信じる。聖なる夜は近い。たとえば、丸一日誰かの奴隷になる代わりにiPhone7の大きいタイプをプレゼントしてもらうなどということは可能なのだろうか。定価は10万円近くになるが、果たして、私は1日に10万円に値する働きをすることができるのだろうか。わからない。わからないが、私の存在に価値を見出してくださる者は(自分自身ではなく)それを見る方であるために、そのひとが良いといえば良いのだろうし、そのひとがダメだと言えばダメなのだろう。世界の何処かに、誰か、私を「iPhone7の大きいやつと引き換えに何かを頼む」的な形で生かしてくださる方はいるのだろうか。
 
同じような理由で、いま、熱海の家もそれなりの事情を抱えている。家の名義人は取り急ぎ私がなるという形で、引き続き家は存続できることになった。存続できることになったものの、固定資産税だけではなく取得税(!)や別荘税(!)までがかかることが判明し、おお、これはいよいよいよいよだな、みたいな気持ちになっている。しかし、私が、この数年間の日々の中で得た教訓は「なんでも自分ひとりで背負わないこと!」であり、自分ひとりの力では一見すると難しく見えるようなことでも、みんなでやれば意外とどうにかなることは多い。問題が問題になる前に早めに全体で共有しておくことをモットーに、熱海の家【家の問題については、素晴らし過ぎる女神様の登場によって一時的にはどうにかなる予感に包まれている】、iPhone7の大きいタイプ、など、何かしら素敵な形でクリアされることを願う。
 

伊豆の踊子

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、川端康成著作伊豆の踊子』です。こちらの作品は、30ページ程度の非常に読み易い物語になるのですが、これほどまでに美しい文章というのは他にないのではないでしょうかという心清らかな気持ちになる、私の大好きな作品です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
 
二十際の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくときほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。ほかに『禽獣』など3編を収録。ー 川端康成伊豆の踊子』【新潮文庫
 
 

みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。

私はまだ、結婚をしたことがない。家族の問題に対して、親目線の相談に乗ることはできない。しかし、こども側の気持ちなら何となくわかる。私の場合、自分の親には「不完全でも楽しそうに生きていて欲しい」と思う。金がないとか、学歴がないとか、世間的な肩書きがないとか、そういうことはどうでもいいから楽しそうに生きていて欲しいと思う。親が楽しそうに生きている姿を見ることは、私の場合、それだけで「自分のよろこび【こどものよろこび】」になる。しかし、親から「私は私のやりたいことを我慢して、あなたのために生きているのよ」的なことを言われたら、いやいやいや、俺のことはどうでもいい(霞を食ってでも生きます)から自分のために生きてくださいと願う。
 

 
大人が無邪気だと、こどもは安心するのだと聞いた。逆に言えば、大人が常に緊張をしている環境の中でこどもがのびのびと過ごすことは難しい。極論、家庭というものは「根本的に、俺はお前を信じている。自分がやりたいと思ったことをやりなさい。それがダメになったら、最悪の場合はいつでも戻ってきなさい。家でゆっくりして、また、何かをやりたいと思ったらそれをやればいいじゃないか」的な場所になればいいのだと私は思う。根本的にはほったからし、それでいて、その奥底には『信頼感』が流れているような関係性に、私は、居心地の良さを覚える(これは必ずしも血縁に限る話ではない)。
 

 
と、偉そうなことを書き綴っておきながら、前述した「iPhone7の大きいやつが欲しい」的な内容を書いたことで、いま、比較的こころがざわざわしている。ああ、こいつはなんだか嫌な感じの文章を書く奴だなとか思われちゃったら嫌だなとか、こういうことをするからソーシャル乞食だとかディスられちゃうとか、そういうことを気にする程度には私はチキンだ。が、書く。毎日がバンジージャンプである。長々と書き綴ってしまったが、記事のタイトルにもあります「みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて」という言葉に坂爪圭吾は120%の同意をします。過剰なストレスはあなたの美容と健康を著しく損ねる原因にもなりますゆえ、みなさま、本日も健やかな日々をお過ごしください。我々は、一路新東名高速道路を(布施明のマイウェイを聞きながら)京都目指してかっ飛ばします!!
 

 
人生は続く。
 
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

君は真面目過ぎる。

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新潟を経由して熱海に向かう。新潟では、いばやの仲間達と一緒に動画配信を行う。みんなと同じ時間を過ごしていると、自分の頭がどれだけ凝り固まっていたのかを痛感する。動画59分頃から「どこまでが自分なのか?【自分とは何か?】」という若干哲学的な話になり、やがて、自分が頭だけになったらそれでも生きたいと思うか?みたいな話になり、徹くんや、MAYUCHAPAWONICAさんの発想に度肝を抜かれる。
 
 
熱海では、3日、4日と、自宅を開放している。基本的に、この日以外も自宅は常に開放をしているのだけれど、「この日は開放しますよ!」というアナウンスがあった方が足を運びやすくなる方もいるということで、定期的に熱海で催し事を開催する。今回は、誰でも無料で食べ物や飲み物を楽しむことができる「わたり食堂」を行う。私は、「売る・買う」の関係性以上に「あげる・もらう」の関係性を愛している。飲食店を営業するには各種許認可が必要になるが、金銭のやり取りがなければ無許可でも問題はない。私の場合、「この料理は値段いくらで、1日に何人お客さんが来てくれたら経営が成り立つ」的な思考をするのが性分に合わないために、非常にざっくりとした形でやりたいと思う。
 

 
わたり食堂の開催にあたり、一通のメールが届く。
 
坂爪様

こんばんは!
お久しぶりです。
いつも素敵なブログをありがとうございます。
いつも清々しい気持ちで読ませていただいています。

突然ですが、4日にわたり食堂を開催されると拝見して、蟹!!と思ったので早速蟹を注文したので2、3日後に届くかと思われます。
事後報告ですみません(>_<)
量はあまり多くないかもしれませんが、大好きなわたり食堂で皆様が喜んでくださったらと出しゃばった事をしてしまいました。。

(中略)

私ももし伺えたら子供たちと共にお邪魔させてください。

開催日どうか素敵な1日になりますように。

○○○○
 
私はよろこぶ。
 
わたり食堂開催にあたり、大阪からは生姜茶やゆず茶、広島からは甘酒や梅干しや手作りの味噌が届く。手土産にみかんやせんべいや自家製のビーフジャーキーを持ってきてくださる方もいる。私の家にある食材は、玄米や、北海道産のじゃがいも、鳴門のわかめや岩戸の塩程度のもので、ものの少ない家になる。様々な方々が、様々な食糧を調達してくれる。動画配信の中で、ちーちゃんという女性が「けいごさんはものを集めるのが得意ですよね」と言う。私は、そうかもしれないと思う。正確には「私には何もない。何もないからこそ、周囲のひとたちが様々なものを補ってくれる」のだと思う。
 

君は真面目過ぎる。

新潟から熱海に向かう途中、新潟県三条市で女性と出会う。
 

 
彼女は、新潟県三条市フリースクールをやっている。最近、フリースクール関係者の方々とお会いすることが多い。私は、不登校支援とか、シュタイナー教育とか、居場所作りとか、サドベリースクールなどの単語を聞くと「素晴らしい活動なのかもしれないけれど、真面目過ぎる」と思う。私は、性格的に、悪ふざけをしたくなる。サドベリースクールに対抗しない形でマゾベリースクールをやったらどうなるのだろうかと思い、女性に、たとえば私のような人間でもある日突然「フリースクールをやります!」みたいな感じではじめちゃうことはできるのでしょうかと尋ねる。女性は、できますと答える。
 
私の中にある、何かしらのスイッチが押される。徹くんと一緒に、熱海に向かう車の中で、もしもいばやがフリースクールをやるとしたらどのような名前がいいだろうかと考えて、いばや小学校という候補案が出る。最初、いばや大学という名前が浮かんだものの「(自分たちを含めて)小学校からやり直した方がいいひともいるよね」ということになり、いばや小学校(通称・いば小)はどうだろうかという流れになる。居場所を作りたいとか、居場所を増やしたいと口にするひとたちは大量にいる。それならば、私たちも「いば小を作りたい」とか「いば小を増やしたい」などと口走ってみようか、みたいな話をする。
 
専門家でもなんでもない私たちが、仮に、突然学校や保育園をはじめたとすれば、多分、それを見たひとたちは「お前たちがやるんかい!」となる。そして、笑ってくれる。あるいは、説教をしてくれる。そんな生半可な気持ちでやるものではないよ、などと言われたりする。だからこそ、私は、良いのだと思う。あらゆるものが「ちょっと真面目に過ぎる」なかで、非常にライトな感覚で「とりあえずやってみました」みたいな感じで何かをはじめることの中には、見るひとのこころをざわつかせる何かがある。
 

問題を問題と思うから問題になる。

家族全体で食事をとらないバラバラの家族を見ると「それは問題だ!」と叫ぶ専門家がいる。しかし、インドネシアのバリでは家族全体で食事を摂る習慣はなく、ひとりひとりが好きな時間に好きな料理を好きなように食べる。家族が別々で食事を摂ることを「バラバラな家族」と言えば、彼らはバラバラな家族になる。家族が別々で食事を摂ることを「バリ風だね!」と言えば、彼らはバリ風の家族になる。ものはいい方であり、逆に、ものはいい方でしかないのだと思う。問題とは、多分、問題を問題と思うから問題になるのであり、問題を問題と思わなければ問題にはならない。私は、問題を解決したい訳ではなく「問題が問題ではなくなるような視点、および生き方」のようなものを模索したい類の人間なのだと思う。
 

 
こういうことを話すと、君は発達障害だからねとか、いばやはADHDの集団だからね、などと言われることもある。また、自分は発達障害ADHDで苦しんでいるのだと話すひとたちと出会うこともある。私は発達障害かもしれないし、発達障害じゃないかもしれない。私はADHDかもしれないし、ADHDじゃないかもしれない。ただ、どれだけ足掻いてみたところで自分にはこの身体とこの精神しかないのだから、仲良くやっていきたいと思う。たとえ、普通と呼ばれるものとは異なるものであったとしても、そもそもで普通と呼ばれるものにうまく馴染めなかった人間であり、普通であることにそれほどの面白みを見出せなかった人間でもあるのだから、別に問題はないのだと思う。別に問題はないはずなのに、油断をしていると「普通と違う」ことによるさみしさや悲しみを無意識に抱いてしまうこともある。
 

 
このさみしさや、この悲しみを払拭してくれるものがいばやの仲間達であり、彼等は、月並みな言葉で表現をすれば『こども』だ。発達障害と呼ばれるものや、ADHDと呼ばれるものも、ただ、普通の人よりもちょっとだけ「素直」なだけに過ぎないのだと思う。やりたいことはやる。やりたくないことはやらない。言いたいことは言う。言いたくないことは言わない。違うと思うものには違うと叫び、自分のこころが「そうだ!」と思ったものには諸手を挙げて賛同する。それが、極端に表に出ているだけに過ぎないのだと思う。きっと、誰もがこどもの頃は天才だった。問題は、いつまで天才でいられるかだ。私は、こどものままでいるひとの存在を見ると、天然記念物を発見した喜びに満ち溢れる。
 

 
トイレに行きたい気持ちを我慢しながら書き綴ったために、まとまりのない、忙わしない文章になってしまった。私は、多分、真面目過ぎる。もっと柔らかな思考を持ってもいい。もっと幅広いこころで世界を捉えてもいい。こうあるべきの思考の枠を飛び越えて、こんなものがあってもいいじゃないかというある種のギャグ、見るひとのこころを解きほぐすギャグをかましたい。笑いと許しは何かが似ている。怒りに満ちているひとも、悲しみに満ちているひとも、一回の笑いが大きく精神をほぐすことがある。それならば、かましてやりたいじゃないかと私は思う。笑って泣ける、最高のギャグを。
 

 
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人生は続く。
 
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セフティネットとしての自己開示。

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数年前から自分をオープンにすることを趣旨に掲げて、基本的には「呼ばれる限り何処にでも行く」というスタンスで生きてきた。現在は新潟市内のガストにいて、12月の上旬は関西と関東に足を運ぶ。私は、まだ、自分のような生き方に名前を与えることができていない。ただ、私のような生き方を面白がってくださる方々の声に応える形で、日本各地から近年では東南アジアや欧州にいたるまで実際に訪れた。また、基本的には「現地までの交通費などは依頼主の方が負担をしてくれている」のが現状になる。
 
 
 
  
私は、自分のスケジュールをWEB上に公開している。それを見てくれた方が「あ、この日が空いているなら自分が住んでいる場所まで呼ぼうかな」とか「あ、近くにいるなら会いたいな」的な感じでお声をかけてくださり、個別での面会やトークイベントなどの登壇や海外旅行の護衛としてなど、依頼者の方の要望に応える形で生きている。特定の職業には就ておらず、安定した収入もないために、世間的に言えば「無職」であり「ニート」であり「ダメ人間」であるとも言える。このブログにも、広告などは一切貼り付けていないために一円にもなっていない。特別な信条があって広告を貼っていない訳ではなく、ただ、ほとんどのブロガーと呼ばれる類の人々は広告を貼り付けているために「自分は貼らなくてもいいだろう」程度に思っている。
 
【SCHEDULE】坂爪圭吾
 

自分をオープンにすることの実験。

2014年の冬から「家のない生活」をはじめ、私を泊めてくださる方々の家を転々とし、結果的に家のない生活は2年程度続いた。自分でもまるで想像をしていなかったが、最初は東京都内で呼ばれる限り何処にでも足を運んでいたが、やがて全国各地から「交通費を出すから泊まりにおいで」とか「話が聞きたいからトークイベントのゲストに来てくれ」などの声がかかるようになった。2年目は、海外からも声がかかるようになり「交通費は出すから◯◯に来てください」とか、時には「私は日本在住の人間ですが、ずっと昔からインドに行ってみたいと思っていて、だけど、ひとりで行くのはちょっと怖いので交通費や宿代はすべて負担をするので一緒に行ってくれませんか?」などの声もかかるようになった。最近では編集者や報道関係者からも声がかかるようになったけれど、まだ、本を出す予定はない。
 
結果として、呼ばれていった国は15カ国程度、護衛としての付き添い的な形で同行した国は5カ国程度になり、金のない私には到底いけないと思っていた国々に(言葉が悪いけれど「ひとさまのお金」で)行ける形になった。私は、決して海外旅行が好きなタイプの人間ではなかった。しかし、実際に「いったことのない場所にいくこと」や「やったことのないことをやること」の中には自身の想像を超えた面白みがあり、結果的に、私は「自分の頭で考えられることなんてタカが知れている(自分が「自分はこういう人間だ」と思っていることでさえ思い込みであることが多い)のだから、自分がやりたいと思うことをやるというよりも、誰かに『これを一緒にやってほしい』と言われたことを共に遂行するほうが、経験の幅も広がるし世界も増える」みたいなことを思うようになった。
 
私には、夢や目標がない。こうなりたいと思う自分もなければ、死ぬまでに成し遂げたいと思う何かがあるという訳でもない。こういう風に書くと「無気力な人間だな」と思われてしまうかもしれないが、事実、私は無気力な人間なのかもしれないと思うこともある。が、それでいて「何もやりたいことがないといっている割には、なかなか面白い人生を送っているなあ」などと自身を客観的に観察している自分もいる。思うに、私の日々を面白くしてくれたものは「自己開示【自分をオープンにすること】」に依る部分が多大にあり、言い方を変えれば、私は、自分の力【自力】で自分の日々を面白くした訳ではなく「自分の力で何かを成し遂げることを放棄して、ただ、みなさまに自分を自由に使ってもらうこと【他力】によって自分の経験の幅が広がった」ように感じている。稀に、このような私の生き方を「すごいですね!」と言ってくださる方ともお会いするけれど、すごいのは、坂爪圭吾ではなく「坂爪圭吾を面白い形で活用してくれたひとたち」だと思っている。
 

自分をオープンにすることの防犯性。

家のない生活を2年間続けた後に、ブログ読者の方に熱海に家を購買してもらうという形で、家のない生活は終了した。これだけでも、もう、ものすごい話だと思う。人生は何が起こるかわからない。ひとは優しいのだということを痛感すると同時に、その方の善意によって与えられた家でもあるために、私は、この家を自分のためだけに使いたいとは思えなかったために、現在も「全体的に無料で開放をして、使いたいひとがいれば自由に使ってもらう」という形で開放している。この瞬間も、私の体は新潟市内にあるけれど、熱海の家には(まだお会いしたことはないものの)女性の方が利用をしてくれている。一応、利用を希望される方には事前にメールか何かで連絡をくださいとお願いをしている。理由は、他の方が「イベント利用で使いたい」とか「大勢のひとと会うのがあまり得意ではなく、個人的な静けさを守りたい」などの理由で、不特定多数が突然押し寄せると困る場合があるからになる。
 
家の鍵はかけていない。玄関には「みんなの財布」といって、出し入れ自由の財布が掲げてある。住所もあらゆる連絡先も公開をしているが、それを見たひとから「そんなにオープンにしていると、危ない目にあうことはないのですか?」と尋ねられることは多い。結論から言うと、この数年間の日々で、物理的に危ない目に遭ったことは一度もない。誰かに襲われたこともなければ、何かを盗まれたこともなく、稀に、朝、目覚めてみると隣に知らないひとが座っていたということは数回あるけれど、また、ちょっとしたストーキングチックな行為に悩まされかけて「これは家をクローズドなものにしたほうがいいのかな」などと思いかけた瞬間もあるものの、ひとつのことに思い立ち、現在も「家も自分もオープンにし続ける日々」を過ごしている。
 
ひとつのこととは、要約すると「家も、オープンにしている方が防犯性が高い【風通しが良い】」ということになる。泥棒が来ても、ストーカーが来ても、この家は「いつ誰がやって来てもおかしくない家」でもあるために、ある種のやましさを抱えるひとは長居をすることができない(と思う)。逆に言えば、家を密室【クローズドなもの】にしてしまうと、泥棒もストーカーも、結果的にやりたい放題になる。これは、多分、家だけではなく人間の精神にも通じる話だと思う。自分をオープンにすれば、風通しが良くなり、ひとの助力や優しさ、自分でも思って見なかった素晴らしい瞬間に出会える。逆に、自分をクローズドなものにすれば、不安や恐怖心が自らの精神を蝕み、自分でも無意識の内に「深刻になりすぎてしまう」ことや「自身の恐怖心によって殺されてしまう」ことは多い。
 

閑話休題

小難しい話を長々と書き綴ってしまった。
 
ほんとうは、こう、笑ったりしながら話をしたい。
 
真面目に考え過ぎるのはよくないと思う。
 

自分をオープンにすることの可能性。

今回は「自己開示がセフティネットになる」みたいなことが書きたかった。おとといも、横浜から来てくれたご夫婦が30キロの玄米を届けてくれた。こういうことが日常的にあると、なんだろう、うまく言えないけれど「自分をオープンにしていれば死なないばかりか、自分ひとりの力では決して成し遂げられなかったであろう素晴らしい瞬間に立ち会える」のだということを思う。そういう話を、堅苦しい文面ではなく、イベントなどの際に実際にお会いした方々と面と向かって話をしたいと思っている。最近、ひとと話をするのが好きだ。一対一は緊張をする(緊張をするというか、相手のエネルギーをもろに受け取ってしまうために稀に苦しくなる)けれど、大勢のひとの前で話している時は、元気になる。
 
玄米30キロを届けてくれたご夫婦のご主人は、昔、整体師をやっていたそうで「全国どこでも整体します!みたいな形で、場所にとらわれない移動型の生き方ができたらいいなあとも思っていたのですが、整体という行為に限定してしまうことも何だかつまらなくて、どうしたものかと思っていました」的な話をしてくれた。この感覚が、私には、ものすごいわかる。私も、自分で自分の役割を限定したくない気持ちがあるからこそ、多分、現在も「社会的な肩書きを与えられることから逃げている」ような生き方をしているのだと思う。逆に言えば、自分に肩書きがないからこそ、自分の発想を超えた依頼が舞い込み、ある時は作家、ある時は講演会、ある時はコメディアン、ある時はツアーコンダクター、ある時は登山家、ある時は旅館の女将、ある時はギタリスト、ある時はホームレス、みたいなことになっている。変幻自在のアメーバ的な存在。そういうもので、私はありたいのかもしれないと思う。
 
これは完全なる余談になるけれど、私は、お米をつくること【農作業】も苦手な人間で、お米を買うこと【お金を稼ぐこと】も苦手な人間だけれど、お米を貰うことは得意な人間みたいだとこの前思った。これは、個人的に非常に興味のあるテーマで、つくることが得意なひとはつくり、お金を稼ぐことが得意なひとはお金を稼ぎ、ものをもらうことが得意なひとはものをもらう、これらがうまいこと共存関係を結ぶ(?)ことができれば、世の中はうまくまわるのではないだろうかということを思った。この辺のことは、また、まとまり次第イベントなどの機会にお話できたらいいなあと思っております。
 

悪童日記

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アゴタ・クリストフ著作悪童日記』です。こちらの作品は小説になるのですが、過去に何度も読み直したのですが、言葉では説明できない衝撃的な内容といいますか、衝撃的な文体といいますか、とにかく「読め!読めばわかる!」としか言えない、そんな私の大好きな作品です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※ 
 
「乞食の練習」

ぼくらは破れた汚い衣類を身に纏う。裸足になり、顔と手をわざと汚す。街中へ出かける。立ち止まり、待つ。

外国人の将校がぼくらの前を通るとき、ぼくらは右腕を挙げて敬礼し、左手を差し出す。たいてい、将校は立ち止まらず、ぼくらに気づきもせず、ぼくらを見もせず、通り過ぎる。

やっと、ひとりの将校が立ち止まった。彼は、ぼくらに理解できない言語で何事かと言う。ぼくらに、あれこれ問いかけているらしい。ぼくらは返事しない。一方の腕を挙げ、もう一方を差し出したまま、じっとしている。すると彼は、ポケットの中を探り、硬貨一枚とチョコレートのかけらをぼくらの汚れた掌の上に載せ、しきりに首を捻りながら立ち去る。

ぼくらは待ち続ける。

婦人が通りかかる。ぼくらは手を差し出す。彼女が言う。

「かわいそうにね・・・。私には、あげられるものが何ひとつないのよ」

彼女は、ぼくらの髪をやさしく撫でてくれる。

ぼくらは言う。

「ありがとう」

別の婦人が林檎を二個、もう一人がビスケットをくれる。

また別の婦人が通りがかる。ぼくらは手を差し出す。彼女は立ち止まり、言う。

「乞食なんかして、恥ずかしくないの?私の家にいらっしゃい。あなたたち向きの、ちょっとした仕事があるから。たとえば薪を割るとか、テラスを磨くとかね。あなたたちくらい大きくて強ければ充分できるわよ。ちゃんと働いてくれたらば、お仕事が終わってから、私がスープとパンをあげます」

ぼくらは答える。
 
「ぼくら、奥さんのご用を足すために働く気はありません。あなたのスープも、パンも、食べたくないです。腹は減っていませんから」

彼女が訊ねる。

「だったらどうして、乞食なんかしているの」

「乞食をするとどんな気がするのかを知るためと、人びとの反応を観察するためなんです」

婦人はカンカンに怒って、行ってしまう。

「ろくでもない不良の子たちだわ!おまけに、生意気なこと!」

帰路、ぼくらは道端に生い茂る草むらの中に、林檎とビスケットとチョコレートと硬貨を投げ捨てる。

髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない。

アゴタ・クリストフ悪童日記』【早川書房
 
 

セフティネットとしての自己開示。

いままでの自分の半生を振り返りながら、導き出せる教訓的なものはないだろうかと思い立って書き始めたこのブログ記事だけれど、ここまで書いて「ああ、俺の役割はとにかく自分を生きることだ。生き方に名前を与えることとか、ひとりの人間の生き方を具に観察して分析するとか、これからはこうなる的な時代予測とか、こうするとこうなる的なテクニック論とか、多様性だとか、贈与経済だとか、サステナブルな経済だとか、そういうことは、そういうことが得意なひとに任せて、自分は、ただ、自分を生きていればいいのだ」ということを思った。
 

 
私の場合は、自己開示をすることによって面白い目に遭えた。しかし、面白い目に遭うために自己開示をはじめた訳ではないのだ。順番が、逆だった。セフティネットとしての自己開示ではなく「自己開示をした結果、思いもよらない形でセフティネットが構築されていた」だけの話に過ぎないのだと思う。繰り返しになるけれど、人生は、何が起こるかわからない。自分が思ったようにいくことよりも、自分が思ってもみなかったことの方に日々は大きく揺さぶられるもので、だからこそ「何が起こるかわからない」これからの日々を、ひとつの映画以上に、ひとつの漫画以上に、面白がっていくことができる。
 

 
どのような生き方をするにせよ、私は「こころを込める」ということを大切にしたい。いまを生きるということは、決して「いまが良ければそれでいい」という刹那的なものではなく、いまという瞬間に自分の最大限の思いを込めることが、ひとつの小さな『種』となり、未来に花を咲かせることもあるのだと思う。いまを生きるということは、多分、自分の思いを出し惜しみしないということだ。こころを込めずに過ごした時間は虚しさを残すが、無様でも、不器用でも、自分なりにこころを尽くしたと思える瞬間のあとには清々しさが残る。そういった意味で、私は、悔いのない日々を過ごしていきたいと思う。
 

 
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人生は続く。
 
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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社会不適合者でも楽しく生きる。

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久し振りに熱海に戻り、昨日は、千葉と北海道とニュージーランドから来客があった。千葉県からのお客様は、非常に有り難いことに「さかつめさんが風邪だと聞いていたので」と、大量の漢方薬と大量のヒートテックと大量の干し芋を持参してくださり、私は「風邪をひいて良かった!」と思った。北海道からのお客様は「さかつめさんはいくらが好きだと聞いていたので」と、大量のいくらを購買して来てくださり、私は玄米2合を瞬時に炊き上げて一目散に食べ散らかしながら「家を開放していて良かった!」と思った。
 
何事もオープンにしてみるものである。一ヶ月程度前に「家にある食糧が尽きて、最近は小麦粉を捏ねてうどんを作っています」的な投稿をしたら、それを見てくださった方々から様々な食糧が届いた。本日も、日本の何処かから玄米30キロ(!)を抱えて車で熱海まで来てくださるご夫婦とお会いする予定がある。巷の噂によると『玄米は完全食である』らしいので、とりあえず玄米を食べていれば人間は死なない(のだと思う)。私は、ああ、こうして今日もみなさまに生かされていることの幸福と玄米を噛み締めている。
 

Q「さかつめさんは反資本主義なのですか?」
A「いいえ、違います。お金がないだけです」

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全国行脚の日々も終わり、ようやく腰を据えてひと段落という形で、熱海でのんびりとした時間を過ごしている。トップ画像は東京の渋谷で開催されたあとの全体写真になる(追記・諸事情により変更しました!)のですが、この日は、女性陣に囲まれまくって緊張をした。が、参加者の方から「声が美しいですね!」と言ってもらえたことを自分は死ぬまで忘れないと思う。このブログを読んでくださる方々は、坂爪圭吾という人間に対して様々なイメージを抱いているみたいで、あるひとは「もっと僧侶みたいなひとかと思っていました」とか「もっと怖いひとかと思っていました」とか「もっと声の小さいひとかと思っていました」とか、いろいろなひとから、いろいろなお声を実際にいただけることが面白い。
 
この前は「さかつめさんは、資本主義に反対なんですよね?」と尋ねられて、全然そんなことはないから「いいえ、違います。お金がないだけです!」と答えたら、会場のみなさまが笑ってくれて嬉しかった。質問者の方は「社会に対する不満とか、そういうものはないのですか?」と尋ねるので、私は「ええと、多分、そんなにないと思います。コンビニ店員やカフェ店員の接客があまりにも冷たいと死にたくなる程度で、世の中に対する不満とか、何かを変えてやりたいみたいな思いはありません」という風に答えた。
 
それを聞いて、ある方が「みんなもさかつめさんみたいに自由に生きられてらいいのにと思います」というので、私は二つの点から意見を述べた。一つ目は「ええと、まず、私は『みんな』という言葉があまり好きではありません。みんなとか多分幻なんじゃないだろうかと思うので、他のひとのことはとりあえず置いておいて、自分に集中していればいいような気がします」という点。二つ目は「自由じゃないひとなんて実際はいなくて、やりたいことをやる自由もあれば、やりたくないことをやる自由もあるし、楽しく生きる自由もあれば、深刻に思い悩みながら生きる自由もあるし、自分なりに自由を行使して生きているのが現在なのだと思います」という点。
 

遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。

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もともとお金を稼ぐことが非常に苦手で、ひとともうまくコミュニケーションがとれず、30種類程度のアルバイトをしてみたものの長続きをすることはなく、学校でも職場でも毎日同じことをしなければいけないという暗黙のプレッシャーに発狂しかけてみたり、ああ、自分は社会不適合者なんだろうなと自分を責めていた時期もあったけれど、生まれてきたからには生きなければいけないと当時は思っていたために、私は「社会不適合者でも楽しく生きる道を探そう!」みたいな発想のもとに、現在の生活に辿り着いた。
 
だから、私は、とてもじゃないけれど「みんなも家のない生活をはじめましょう!」とか「みんなも会社勤めをやめて物乞いの日々を送りましょう!」とか「みんなも自分と同じような考え方を持ちましょう!」だなんて、口が裂けても口にすることはできない。私が言葉にするものは「私はこう思う」というだけのものであり、自分と同じであることを誰かに強制したいとは思わないし、他の生き方を否定するものでもなければ、限定的な答えの中に自分や他人を押し込めるものでもない。多分、正解はひとの数だけあるのだと思うし、私は「正解を答える生き方ではなく、正解を増やすような生き方をしよう!」とか「自殺者三万人の社会に適応するとやばいから、適応よりも開墾をしよう!」などの言葉を通じて、ただ、ダメな自分を肯定&鼓舞をしていただけに過ぎないのだと思う。
 
振り返ってみると、私は、ただ「遊んでいただけ」なのではないだろうかと思うことがある。金がないなら金がないなりに、家がないなら家がないなりに、定期的な収入がないなら定期的な収入がないなりに、自分のこころが楽しめる生き方を続けてきた結果、現在の生き方になっているのだと思う。「遊ぶ」という言葉は、私の大好きな言葉だ。金にならなくてもいい、誰にも理解してもらえなくてもいい、無意味でもいい、無価値でもいい、ただ、自分のこころが「これは面白そうだ!」と思う生き方を続けた結果、奇跡的に多くの方々の力を得ることができた私は非常に恵まれていて、自分を責める時期もあったけれど、いまでは「こういう生き方も悪くはないなあ」と思えるところまで来ることができた。
 

方丈記 全訳中』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、鴨長明著作(安良岡康作)『方丈記 全訳中』です。鴨長明のすごいところは、齢60歳を間近にして「自作のタイニーハウスでモバイル生活」をはじめたことにあると思う。類稀なる表現能力もさることながら、私には『実践が伴っているアバンギャルドな男性』を(同じ男として)尊敬する傾向があります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※
 
遠く行く河の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居とは、やはり同じく、このようなものである。
さて、露のようにはかない、六十歳に近い、年老いた命の消えかかるころに達して、また改めて、草木の枝の先の葉のような、余生のための住居をこしらえることになった。たとえて言えば、旅人が、一晩だけの宿舎を造り、年老いた蚕が、繭をせっせと作るようなものだ。これを、賀茂の河原近くに造った、生涯の中ごろの家に比べると、これはまた小さく、その百分の一にも達しない。
あれこれと愚痴を言っているうちに、わたくしの年齢は、年々に積もって来、住む家は移転の度ごとに狭くなってくる。この度の家の様子は世間一般のものとも似ていない。広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも足りない。土地柄を心に選んできめないから、土地を自分で所有したうえで造ったのではない。土台を組み合わせて造り、簡単な屋根を上にふいて、材木と材木との継ぎめには、どれも、締りとする鉤をかけてある。これは、もしも、自分の気持に合わないことが起きたら、簡単に、ほかの場所へ移そうと思うからである。その改築することには、どれほどの苦労があろうか。車に積む所の資材は、たったの二台分であって、その車で運ぶ者の労力に報酬を払う以外には、まったく、出費を必要としない。ー 鴨長明(安良岡康作)『方丈記 全訳中』【講談社学術文庫
 
 

社会不適合者でも楽しく生きる。

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トークイベントの参加者の方から「私も楽しく生きたいとは常々思っているのですが、いかんせん、自分で自分を責めてしまうことがあります。さかつめさんにはそういうことはないのですか?」という質問をもらった。私は、いつの間にか自分を責めてしまうこともなくなっているのだけれど、なぜ、そのような変化が自身に起きたのかを振り返りながら、質問者の方に対して、以下のような返答をした。
 
「やっぱり、2年間の家のない生活は大きかったように思います。自分でも無意識の内に、その時期に、多分、私は二つの覚悟を決めていたのだと思います。ひとつ目は『ひとりでもいい』という覚悟。理解者はいなくてもいい、仲間も友達も恋人も家族も協力者もできなくてもいい、ひとりでもいいから自分は自分がこれだと思った生き方を続けていくのだという覚悟。ふたつ目は『死んでもいい』という覚悟。他にも様々な生き方があった中でこの生き方を選んでいる訳ではなく、いろいろとやってみたけれどどれもダメで、結果的にこういう生き方しかできなかった自分を認める覚悟、自分を殺して生きるくらいなら、自分を出し切って死ぬのだと腹を括る覚悟のようなものを、無意識の内にしていたのだと思います。そして、不思議なことに、ひとりでもいいと思ってからの方が、自分はひとりではないのだという実感が増していることを感じています。そして、死んでもいいと思ってからの方が、生きていることの実感は増していることを感じています」
 
私は、自分のことをダメ人間だと思っていた。自分のことをダメ人間だと思っている人間でも、ひと並みに「楽しく生きたい」「遊びたい」「生きていることをよろこんでいたい【よろこびを分かち合いたい】」と願う気持ちがある為に、ダメ人間ならダメ人間なりに楽しく生きる道を探し続けて、結果的に、現在のような生き方をしている。だからこそ、私は「このような生き方をするべきです!」だなんていうことを、他の方々に偉そうに言うことはできない。私にできることは、ただ、私の身の上に起きたことやその中で私が感じたことを通じて、聞くひとが「このような生き方でも、どうにかなっているひとがいるということを、ひとつの素材として面白がってもらえたら嬉しい」と思っている。
 

 
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人生は続く。
 
413-0002
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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無駄に慰め合うよりも、一回死ね。

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広島県尾道市を経由して東京に入り、昨夜は、日本橋で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。私の場合、あらかじめ話すことを用意して何かを話すというよりも「簡単な自己紹介をしたあとは、質疑応答のような形で参加者のみなさまと対話を重ねるソクラテススタイル」で呼ばれることが多いのだけれど、イベント参加者や空間の雰囲気、その日の自分の体調次第で会場の空気感はものすごい変わる。
 
尾道のイベントは非常に素晴らしいものになり、私も、まるで菩薩のような気持ちで愉悦の時を過ごすことができた。しかし、場合によっては阿修羅【鬼】のような存在になってしまうこともあり、山口県光市や、昨夜日本橋で開催されたトークイベントでは、自分のお話会であるにも関わらず「黙秘権を行使する」という結果になった。私は、多分、「楽しかったね!」で終わることだけを良しとしている訳ではないのだと思う。偽りの言葉を口にして、自分を殺して愛想笑いを浮かべながら参加者のみなさまのご機嫌を伺い、表面的で当たり障りのない会話に終始して時間を過ごす位なら、お互いに多少傷つくことがあったとしても、地獄のような沈黙を経由した後に沸き立つ「自身の生き方や在り方に伴う根本的な問い」のようなものを共有したいと思っている。
 

自分の役割を認識する「校長先生、話が長いです」

最近、自分の役割とは何だろうかと思うことがある。私の場合、多分、それは「本音を伝える」ことだと思うことがある。例えるならば、小学校などの全校集会の際に、話の長い校長先生の話に誰もがうんざりしている中で、ある種の特攻隊長のようなものになって「校長先生、話が長いです」と実際に口に出して伝えてしまうことが、自分の役割なのではないだろうかと思うことがある。
 
多くの場合、校長先生の話が長くても「ちょっと我慢すればいい」とか「適当に聞き流す」などの形で、その場をやり過ごすのが賢明なのだと思う。話が長い人に「話が長いです」なんて言ってしまったら、人間関係に角が立つ。人間関係に角が立つくらいなら、ちょっと我慢をすればいいのだと考えるのは非常に賢明な処世術だと思う。しかし、私は、どうしてなのだろうか、言いたいことを言わないでいると精神的におかしくなる。精神的におかしくなることは嫌だから、思っていることは実際に口に出して伝えてしまう。すると、空間にある種の歪みが生じる。予定調和的なサムシングが破壊されて「おっ!」と会場全体に緊張感が宿り、これは、言い方を変えるならば「つまらないと思っていた空間が、瞬時に、ある種のエンターテイメントに変わる」のではないだろうか、みたいなことも思っている。
 
誰もが思っているけれど、言わないでいること(言わないほうがいいと思っていること)を、実際に口に出して伝えること。誰もが辟易している「話の長いひとの話を聞く」拷問的な時空間に、戦闘開始のゴングが鳴り響き、その場にいた人々も「あいつ、言いやがった!」と内面密かに盛り上がる。誤解を恐れずに言うと、自分が実際に口に出すことは憚られるけれど、誰かに代弁してもらうことでスッキリするということは、往々にしてあるものだと思う。私の役割は、多分、これだ。この瞬間の『言ったった!感』が私は好きで、だからなのだろうか、ある種のサービス精神やいたずら好きの小学生にも似た精神から「本音を口にする(積極的に予定調和を乱そうとする)」傾向が、私の中には確実にある。
 

本音はエンタメ【戦闘開始のゴング】になる。

昨夜、イベントの最中にちょっとだけ話の長い女性がいた。彼女は、最近、彼女自身が抱えている悩みや苦しみについてウジウジと愚痴のようなものを吐き続けていたので、私は「話が長いです」と実際に言葉にして伝えた。続けざまに「いまのあなたの姿は、私から見ると、非常に格好悪いものに見えます。初対面の人間が言うのは変なことかもしれませんが、あなたの底力は、そんなもんじゃないような気がします。多分、もう、悩むということは充分にやり切った感があると思うので、そろそろ腹を括ってみたらいかがですか?」みたいなことを伝えた。
 
誤解をされると困るが、私は、この女性(瞳の綺麗な美しい女性だった)を責めたい訳ではない。ただ、私には「無駄に慰め合うよりも、一回殺す」みたいなコミュニケーションを好む傾向があって、いつまでも親身に寄り添い悩みや苦しみを聞いていられるほど広いこころは持ち合わせていない。もっと言えば、悩みや苦しみの大半は『甘え』であり、本当は「誰かに頼ったり甘えたりしなくても、自分の中には、既に自分の力で道を切り開く能力が備わっている」ものだと思っている。だからなのだろうか、いつまでもウジウジと悩み続けるひとを見ると「お前はそんなもんじゃないだろう!」という愛の手裏剣をかましたくなる。
 
文章だけで伝えることは非常に難しいのだけれど、私は、根底に愛が流れている限り「何をしてもいい」と思っている節のある人間で、自分を過少評価している人間を見ると「生命を見くびるような真似はするな!」と、怒りにも似た感情が湧く。同じように、上から目線で物事を話すひとをみると「お前は誰だ!」と腹が立ち、人間関係には上も下もなく、あくまでもフェア、あくまでも対等、上から目線で物事を話す人や、あまりにも卑屈になっているひとを見ると「傲慢な人間だな」と思ってしまう。
 

被害者意識を喝破して、自分を生きる。

トークイベントなどに登壇する際、最も多く受ける質問は「不安になることはないのですか」というものになる。私は「ええっと、ありません」と答えているのだけれど、多分、定職も金も社会的な肩書きも何もない私は、不安になろうと思えばいくらでも不安になり得るのだと思う。ただ、不安にフォーカスをしていない(不安や恐怖心を抱えたまま生きていけるほど強い人間ではない)だけで、生きていれば様々なことがあるけれど、とりあえず、いま、無事に生きているのだから「何か問題が起こった時は、問題が起こった時に考えればいい」と思っている。
 
次に多い質問は「親はなんて言っているのですか」というもので、この質問を多く受けることにびっくりしている。これは私の憶測に過ぎないけれど、自分に何かやりたいことがあったとしても、親や周囲の人々が反対するからできないみたいなことが、現代社会にはたくさんあるのかもしれない。私の場合、非常にのんびりとした親に育てられたために「とやかく言われることは微塵もない」のだけれど、これは、非常に恵まれていることなのかもしれない。親や周囲の人間の過干渉に悩まされているひとは意外と多いみたいで、私は、率直に「(いろいろな人間の顔色を伺わなければいけないだなんて)気苦労の絶えない人生だな!」と思う。
 
他人との比較において苦しめられることもあるかもしれないが、自分は自分であり、他人は他人である。他人の幸福が自分の幸福と重なる時もあれば、他人の幸福が自分にとっては幸福でもなんでもなく、逆に足枷にさえなることもある。大切なことは「どれだけ足掻いても自分は自分でしかないのだから、無駄な比較や競争をやめて、自分は自分を生きる」と腹を括ることではないのだろうか。自分以外の何者かになろうとするのではなく、自分を自分以上に見せようとするのでもなく、ただ、自分は自分であると腹を括って生きている人間から漂う清々しさのような空気感に、私は魅力を覚えるし、そういう人間と同じ時間を過ごしていきたいと思う。
 

『ハンパな人生論より極道に学べ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮崎学著作『ハンパな人生論より極道に学べ』です。私が二十歳そこそこの頃、就職活動に専念をしている友人が「いまはいろいろなひとと会って話を聞きたいんだ」みたいなことを話していた。しかし、彼が話を聞いていたのは「いろいろな会社に勤めるひとびと」であり、つむじまがりの私は「本当にいろいろなひとの話が聞きたいのであれば、極道とか牧師さんとか少年兵の話を聞かなきゃ!」みたいなことを思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※
 
この時代、日常性のなかで高じるばかりのストレスの捌け口を、ひそかな不倫や浮気に求めるといったことは多々ある。しかし、一方ではその発覚を恐れ、ちゃちな罪悪感にとらわれて、あらたなストレスを抱え込むという悪循環にはまていく。その挙げ句の「失楽園」じゃあ、シャレにもならない。たかが「女を抱くこと」にさえ市民はタガをはめずにはいられないのである。
アウトローの発想、思考、行動様式はわけもなく、そうした情況を突破する。いともたやすく閉塞感に風穴を穿つ。私にはむろんのこと、アウトローを賛美するつもりもないし、「極道はおいしいぜ!」という気もない。が、日々「おもしろくねぇな」「なんとかならねぇかな」という思いを引きずりながら生きている〝いま〟の突破口は、アウトロー的世界にあるとだけはいえる。まずは本書でそれを覗き、あとは読者が判断すればいい。ー 宮崎学『ハンパな人生論より極道に学べ』【青春出版社
 
 

ダメじゃない!からのハグ。

本音で生きることにはある種の清々しさが伴うが、やはり、それに伴う反動も大きいためにすべてのひとに勧めることはできない。ただ、このような生き方しかできなかったからこそ「このような生き方をしていたからこそ、出逢えた素晴らしい瞬間がある」ことも確かだと思う。昨夜、イベントに参加してくれた女性が「私は自分に自信がない」みたいなことを比較的乱暴な口調で話していたので、私は「そんなことはないと思います」と伝えた。「自分はダメだと思うことはよくないし、厳しい言い方をすれば、それは傲慢な態度だと思う。私には、あなたがダメだとは思えない。あなたはあなたであり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。ただ、絶対に、ダメではないと思います」と伝えた。
 

私が「ダメじゃないです」と伝えると、女性は「もう一回言ってください!」と言って会場全体は笑いに包まれた。私は、もう一度「ダメじゃないです!」と伝えると、女性は「ありがとうございます!なんだろう、胸にじんわりとくるものがあります。あの、帰り際にハグをしてもいいですか?」と言うものだから再び会場全体は笑いに包まれた。私達は、約束通り(?)帰り際にハグを交わし、なんだかよくわからないけれどある種の清々しさに包まれて「ああ、今日も素晴らしい一日だったなあ」みたいな感覚を覚えた。
 

尾道で出会った女性は「さかつめさんは、この前のブログで『温泉になりたい』みたいなことを言っていましたが、私には、さかつめさんは『すべてのひとの中にある温泉を、掘り出してくれる存在』なのだと思いました」という言葉を与えてくれた。私は、ああ、なんて嬉しい言葉を言ってくれるのだろうかと感動をした。私の役割は、多分「本音を言うこと」であり、それが、結果として「すべてのひとの中にある温泉を掘り出す【自分には力があるのだということを思い出す】」ことになれば、これほど嬉しいことはない。ひとびとのこころの中にある温泉を掘り出すボーリング人間として、これからも、自身の生き様と言葉を武器(?)に、ああでもない、こうでもないとわちゃわちゃ騒いで行きたいと思う。
 

 
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人生は続く。
 
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楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。

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全然風邪が治らない訳だが、いま、山口県岩国駅から広島県尾道市に向かう快速シティライナーの車内でこの記事を更新している。北海道、福岡、佐賀、島根、山口、広島と立て続けにトークイベント的なあれこれに登壇を続けているものの、自己紹介が苦手な私は「三年ほど前から家なし生活をはじめまして、結果的にその生活は2年ほど続き、最初は東京からスタートしたのですが、やがて県外からも『交通費を出すから泊まりにおいでよ』などとお声をかけていただけるようになり、非常に有り難いことに一年間の間に47都道府県を制覇する形になりまして、2年目からは海外からも声がかかるようになりましていまでは20カ国近くに足を運びました」みたいな説明からはじまる。
 
「自分でもまさかこんな展開を迎えるとは思ってもいなかったので毎日ビックリしているのですが、都度都度、思ったことなどをブログ記事などに書いておりましたら、ブログ読者の方から『さすがに家のない生活は大変でしょう。熱海でもよろしければ家をご用意いたします』と連絡をいただき、なんと、その方に築89年の小さな古民家を購買していただきまして奇跡的に熱海に拠点を構えることにはなったのですが、基本的には呼ばれる限り何処にでも足を運ぶような生活を続けております」という説明で終わる。あとは、参加者の方から何かしらの形で質問が飛び出すことが多いので、それに答える形でトークイベントは進むことが多い。
 

いばや【とにかくやばいことだけをやる】

改めて文面に起こしてみると、我ながら、漫画みたいな日々だなと思う。漫画みたいな日々を過ごしていると、非常に有り難いことに、漫画みたいな出逢いに恵まれることが多い。私は「いばや」という名前の団体を3年ほど前から主宰(?)していて、これは「とにかくやばいことだけをやる」というコンセプトと共に、単純にやばいを逆から読んでいばやという名前にして、金になるかならないかは置いておいて「とにかく自分たちがこれは新しい!とか、これは面白い!と思ったことをやろう」と思ってはじめた団体になる。
 
最初は合同会社としてやっていたのだけれど、まるで金にならないから「法人税を払うだけ無駄だね」となり、今年の一月に会社としては倒産した。だけど、みな、とても仲が良いのでいまでもみんなで集まって何かをしたりしなかったりしている。いばやには複数人の男女がいて、これがまた非常に愉快な面々で構成をされていて、今回はいばやの男性陣3名が非常に私好みのイベントを立ち上げてくれたので下記にリンクを貼り付けて置きます。
 
【イベント詳細】0th「突破者はだれ」/TPD48
 
いばやの仮説のひとつに「自分たちがやっていることが未来にとって必要なものであれば、私達を見た誰かが『こいつらを死なせてはいけない!』となって助けてくれるだろう。しかし、自分たちがやっていることが未来にとってまるで必要のないことであれば、私達は死ぬだろう」というものがある。この考えは現在でも根本的には変わっておらず、何かをする代わりに対価を得る形で生き延びようとするスタイルではなく、損を承知で火中に飛び込み、あとはなるように任せる身体を張った生き方が主流の団体になる。
 

「生きろ」と言われる喜び。

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そんなんで生きていける訳がないよと言われ続けて早三年、ところがどすこい、この瞬間もしぶとく生き続けているのがいばやの面々であり、自身の体験を通じて「人生は意外とどうにかなるのだ」ということを実感している。基本的には定期的な収入とは縁のない生活をしているのだけれど、じゃあ、お金はどうしているのかと問われれば「みなさまからの施しによって生きております」としか答えることができない。私達の生き方を見て「あんたらみたいなひとが生きていけなくなったら日本は終わりじゃ。これ、とっておけ」みたいな形でお布施をいただくことがあり、私達は、それによって九死に一生を得続ける日々のど真ん中を過ごしている。
 
何かを売ってお金を得るという交換的な生き方ではなく、とにかく、身体を張って自分たちが「こっちだ!」と思った方角に突き進む。それを見たひとが「あんたらみたいな生き方を待っておったんじゃ!じゃけれども、そんな生き方では金も食料もなかろうもん。これ、使いなさい」と言って、何かしらの形で私達を生かしてくれる。言葉で伝えることは難しいが、最優先事項は「生きる」ことであり、私達を生かしたいと思ってくださった方々が私達を生かしてくださるおかげで、これからどうなるのかはまるでわからないけれどいまのところは死なずに生きていることができている。
 
私達には何もない。少なくとも、私自身には何もない。金も仕事も家もなく(家は1年前から与えられた)、あるのは脈打つ鼓動と肌の温もり程度のものであり、社会的に見れば格差社会の底辺を這うような生き方を続けている。しかし、こんな人間でも「あんたみたいなひとが好きだよ」と言ってくださるひとがいることは本当に嬉しく、生きる力をもらっている。同じように、私以上に愚かな生き方を続けるいばや男性陣の面々には、常に、勇気付けられることの多い日々を過ごしている。
 

損を承知で負ける側に賭ける。

私が魅力を覚えるタイプの人間は、宮崎学氏の言葉を借りれば「損を承知で負ける側に賭けられる人間」だ。見るひとが見れば、怒りの炎に駆られかねない生き方を続ける人間に、私は、長年勇気付けられてきた。そして、彼らと同じ時を過ごせること、喜怒哀楽を共にできることに大袈裟な言葉で言えば「生きていることの醍醐味」を感じるようにできている。
 
宮崎学氏は言う。
 
丸山眞男は、『現代政治の思想と行動』という名著のなかで、法的な秩序と無関係な次元で生きる「無法者」について述べています。彼は、「無法者」を否定的にとらえているのですが、私はもちろんこれを肯定的に考えるものです。以下に「無法者」のエッセンスを列挙してみます。言うまでもなく、これは私の生き方にまったく重なるものです。
一・市民生活のルーティンに埋没しない。丸山はそれを、「一定の職業に持続的に従事する医師と能力の欠如」と規定しているが、それはとりも直さず退屈な日常生活が嫌いであるということだ。
ニ・モノへの関心より人間への関心が強い。金より、人間関係を重視する。
三・常に非日常な冒険、破天荒の「仕事」を追い求める。
四・しかもその「仕事」の目的や意味よりも、そこで引き起こされる紛争や波乱のほうに興奮と興味を覚える。
五・公的な責任意識が欠け、その代わりに私的な、あるいは特定の人的な義務感(仁義)が、以上に発達している。
六・規則的な労働により、定期的な収入をうることへの無関心もしくは軽蔑。これはつまり、賃金や報酬の奴隷にならないということである。
七・最悪事態における思考様式やモラルが、物事を判断する日常的な規準になっている。そのため、瞬間的に善悪を判断し、きっぱりとトドメを刺す。
八・性生活の放縦、好きな異性と、好きなときに寝る自由をもっている。
このような「無法者」の生き方のほうが、私にはずっと人間らしく思えます。所詮、生まれて死ぬだけの人生。その間の時間はすべて自分のもの、どんなふうに生きようと、人生は一回きりなのです。それならば、興奮できる冒険的な人生のほうが楽しいに決まっています。ただし、こういう生き方をしていると、その反動は大きい。私の五十数年の人生を振り返っても、死屍累々、それはもう無残なものであります。それでも私は、「突破者」としての自分の人生をまっとうしたい。
もし「たった一つだけ、突破者の条件を挙げてくれ」と問われれば、私はためらわずにこう答えます。それは、「損を承知で負ける側に賭けられるかどうかということや」と。もちろん、私のこんな生き方を人に強いるつもりはまったくありません。ただ、突破者として、こんな生き方を楽しんでいるのです。どちらがよい悪いというのではなく、それを選ぶのは自分自身。ですから、「無法者」だろうが「市民的人間」だろうが、自分の人生で生じたことは自分で責任をとらなければならないのです。ー 宮崎学宮崎学の兵法」【サンマーク出版
 
西郷隆盛の言葉に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)をともにして国家の大業は成し得られぬなり。」というものがある。金でも名誉でも動かない人間を動かすもの、それを共有できる人間とだけ、分かち合うことのできる素晴らしい宝物がこの世の中にはあるのだということが、感覚的にだけれど、私にはわかる。
 
 

『インド放浪』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、藤原新也著作『インド放浪』です。こちらの本は、先日、島根県津和野町でお会いした方が「さかつめさんにおすすめです!」と譲ってくださった一冊になります。ご希望される方(インドに興味のある方!など)は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※
 
この「インド放浪」は、私が二十三歳の時、はじめてその熱球の下の大陸に遊んだ時の記録である。はじめて、その土地を踏んだ一九六〇年代の終りのころ、日本はちょうど高度経済成長の最中だった。物質的な豊かさを求めて、誰もが一生けんめいに働いていた。この国の近代化と、経済の豊かさを求める過程において、失われて行くものも多かった。そして、社会は管理化されつつあった。管理化のシステムの中で人間的なる息吹は隠滅され、それに対する抵抗もあった。そういう状況の中で、私ば大学を捨て、自分の経歴のすべてを捨て去るようなかたちでインドに行った。この国は貧困であった。ただ、そこに私が見たものは、その物質的貧困と同時に、あの、我々が今現在失いつつある、熱、であった。つまり、ちょうど日本では、この熱という一つの生命の根本が、何か巨大なものによって管理されて行こうとしている最中だったから、私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生きものの命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の存り場所もはっきりと見ることができた。それは、私の二十代の一つの革命だった。ー 藤原新也『インド放浪』【朝日新聞社
 
 

楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。

西郷隆盛は「徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から得ることを損とした。いまは、まるで正反対だ。」と嘆いたと聞く。この言葉を読んだ時、結果論ではあるけれど「いばやの男性陣と同じことを言っているじゃないか!」と、私は強い感動を覚えてしまった。現代を生きる無名の人間たちの感覚的な生き方が、結果的にいにしえの聖人と被ることがあるのだという事実(あるいは単なる勘違い)を前に、私達は震えた。
 
生きる上で何を大切にしたいと思うのか。ひとによって答えは異なり、何がよいとか悪いとかはなく、多分、こういったものは「趣味の違い」程度のものでしかないのだと思う。ロック音楽を好きなひとが、ボサノバやクラシックを好きだと話すひとを罵倒するのはお門違いで、ひとにはそれぞれ心地のよいものがあり、自分と同じであることを相手に求めるよりも「自分の好きなことを個々人が勝手に楽しんでいれば、結果として同じ趣味を持つ者同士が類友的な眼科で集まって盛り上がる」ことになるのだと思う。
 
他人の生き方をああだこうだと言う前に、自分を真剣に生きること。他人を変えることにエネルギーを注ぐ位なら、自分が「これだ!」と思う道に集中すること。私は、自分と同じであることを他人に強制したいとは思わない。誰かを否定したいとも思わないし、自分の生き方を「これが正解だ!」なんて言い切ることは、とてもじゃないけれどすることはできない。ただ、分かり合おうと努力しなければ維持することのできない関係性よりも、はじめから同じ趣味を共にする者同士、楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだと思っている。
 

 
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人生は続く。
 
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いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。

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福岡を経由して佐賀県武雄市にはいり、過去に非常にお世話になった方々と夕食を共にした翌朝、電車を乗り継いで島根県の津和野町にきた。見事な紅葉である。先日は、津和野町で開催されたお話会的なサムシングに登壇(?)をしたのだけれど、参加者の女性から「さかつめさんの空気がきもちよすぎて、もっと一緒にいたかったです!」とか「お肌綺麗ですね!」とか「お顔もお顔以外も美しいですね!」みたいなことを言ってもらえて、ああ、死んでもいいと思った。
 
 
世間的な肩書きはなにもない私だけれど、これから、職業を尋ねられた時は「温泉です」と答えようかなと思った。そう、それはまるで温泉のようにその空間にいるもののこころとからだを問答無用でほぐしてしまうような存在、そういうものにわたしはなりたい。そういうものにわたしはなりたいと思っていた矢先に、昨夜、早速ある方とひと悶着を起こしてしまって、宿泊を予定していた場所を放り投げて真夜中の山口県内を3時間ほど歩き、結果的に真っ暗な山間部で野営をした。最初はルンルンで夜道を歩いていたものの、途中、もしかしたら猪が出てくるかもしれないという妄想が頭をもたげてからは恐怖心の虜となり、木の葉が落ちる度に「うわああああああああああああ!!」とか「やめろおおおおおおおおおおお!!」などと、情緒を不安定にしていた。
 

野生の勘を取り戻せ!

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結果的に体調は悪化して、微熱と咳は止まらず、意識は朦朧としていて、下腹部には謎の蕁麻疹が出てきたり(風邪薬を投入したからなのかもしれない。薬との健全なお付き合いを見極めていきたい)、割りと散々な目にあっていたけれど元気だ。これは、多分、神からの「初心を思い出せ!」という合図なのだと思う。家のない生活をしていた頃、あの頃は、いいこともあったけれど悪いこともそれなりにあった。ただ、悪いことがあったからこそよいことがより一層際立って見えるものであり、文明の力、金の利便性、布団や風呂の有り難みなど、当たり前がいかに当たり前でないのかということを全身で痛感した。
 
移動を続ける生活、ひとに会うことの多い生活を続けていると、それなりに「人間の本性を読み取る能力【動物的な勘】」のようなものが鍛えられているような感覚を覚える。そのひと自身の一挙手一投足、言葉の使い方、声の抑揚、姿勢、瞳の輝き、服装、表情の均整や歪み、そういったものから「ああ、このひとは自分を自分以上に見せたいんだな」とか「ああ、このひとは自分のことが嫌いなくせにプライドだけは異様に高いんだな」とか「ああ、多分、このひとはひとをすぐに裏切るぞ」とか「ああ、このひとになら騙されても構わない」とか「ああ、このひとは自分で自分に超絶OK!を出せているからこんなにも魅力的なんだな」みたいなことが、少しずつわかるようになってきたように感じる。
 
私は、多分、そのひとが話している内容そのものではなく「どのような温度で話しているか」を聞いているのだと思う。表面的には「YES」と言っているようなことでも、そこにそのひと自身の血が通っていなければ、私には「NO」を言っているように聞こえる。何を言っているのかではなく「どのような気持ちで言っているのか」に重点を置いて聞いているのだけれど、その嗅覚というか、その違いを見極める力が(少なくとも数年前よりは)身についてきたので、それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、嘘を感じる空間にいると「無性に居心地が悪くなる」病気のようなものになってしまった。
 

「修行」と「遊び」のハイブリッド。

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私は大袈裟な人間だから、聞きたくない話を聞いていると「耳が腐る」と思ってしまうし、見たくないものを見ていると「目が腐る」と思ってしまうし、自分の気持ちをごまかしていると「心が腐る」と思ってしまう。だからなのだろうか、自分や他人を欺いているひとと同じ空間にいることができず、逆に言えば「自分の状態がよかろうが悪かろうが、それを素直に認めて、それを率直に言葉にできる」ひとと出会うと嬉しくなる。人間としての純度とでも呼べばいいのだろうか、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けたひと、私は、そういう人たちのことを敬意を込めて「天然記念物」と呼びたいと思う。
 

 
移動を続ける生活は、私にとっては「修行と遊びのハイブリッド」のようなものであり、この生活に鍛えられている部分も大量にあり、この生活によって得られた恩恵も大量にある。その、最も素晴らしい恩恵のひとつが「天然記念物との出会い」であり、現在では絶滅危惧種になっている『自分純度が死ぬほど高い人々』との遭遇の中には、いままでの日々を大きく肯定してくれる力がある。自分がどれほど体調を崩して寝込んでしまっているような時でさえも、こういう人々と電話などで話をすると「あらゆる出来事を前に人間が選択できる道は泣くか笑うかの二者択一であり、泣くのはダサい、何かのせいにすることもダサい、俺は、ただ、こういう人達と一緒に笑っていたかったのだ」ということを思い出して、もりもりっと元気になる。
 

 
生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
 

男は女に許されて生きている。

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前回のブログ記事で「おはなをあげる@福岡」を開催する旨を告げた。驚いたことに、開催二時間前の告知であったにも関わらず10名以上の方々が足を運んでくださり、別れ際に「これを受け取ってください!」と、手紙と一緒に飴玉をくれた女性もいた。手紙をあけると、そこには非常に可愛らしい文字で「いつもありがとうございます。」と書かれていて、ありがとうございますはこちらこそです!と、泣けた。
 
 
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佐賀県武雄市では、小学四年生の女の子と同じ布団で寝た。寝る前にラジコンで遊び、眠り、目覚めてすぐにバトミントンとボール遊びをした。帰り際、女の子が「これ」と言って手紙をくれた。そこには「さかなのかんづめへ(多分、坂爪ということなのだと思う)。どこに行ってもがんばれ!」と書かれていて泣けた。手紙の裏には「じゃあね」と書かれていて、なんというかもう、自分はこういう類の優しさに弱いのだと改めて痛感をして、腹が温かくなるような感覚に包まれて、少しばかり泣けた。
 
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津和野町の翌日は、山口市阿東町「地球食堂」でお話会が開催された。
 
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店主のMさんの笑顔がお世辞抜きに可愛くて、一緒にいるだけで多幸感に満ち溢れてしまった。私は(初対面のひとの前では)決して口数の多いタイプの人間ではないけれど、でも、それなりにそのひとが持つ「隠された優しさのようなもの」を敏感に察知するようにできているみたいで、Mさんの底知れぬ大海のような愛の器に、なんというかもう、山口県に来て本当に良かったという気持ちになった。
 
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店内に掲げられていた看板には「愛がとう。」と書かれていて笑った。Mさん曰く「愛がとうと言われて、嫌になるひとはおらんじゃろ」ということで、おっしゃる通りだと思った。私は、これら一連の流れの中(及びいままでの人生全般を振り返ってみた中)で、ああ、男は女に許されて生きているのだなということを思った。うまく言葉にすることはできないけれど、女は、男のダメなところを受け入れ許して支えてくれる。その支えによって、いま、男【少なくとも自分自身】は好きなことができているのではないだろうかということを感じた。
 

マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』です。私は、この生活の中で、多分、何人もの「日本のマザーテレサ」と出会ってきたのだと思う。何か大きなことをやるだけではない、小さなことにこころを込めてやることの大切さを教えてくれたのは、彼女たちの存在だった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、山口県にわたりました ※※※
 
人々は時に、食べ物以外のもので飢えていることがあるものです。私たちの子どもたち、夫、妻は食物、衣服、住む所に飢えてはいないでしょう。でも、彼らが一人っきりで淋しく、見捨てられ、無視されている結果、愛情に飢えていないとは断言できないのです。こういう貧しさも存在しているのです。
私たちは忙しすぎます。だからお互いを見つめ合う時間も、互いにほほえみ合う時間も持ち合わせていないのではないでしょうか。
政治家たちは、謙虚にひざまずく時間をもっともっと、ふやさないといけません。そうしたら、きっと彼らはより良い政治家になると、私は信じています。
私が喜びという時、それは、大声で笑うこと、馬鹿騒ぎをする状態を意味していません。それらは真の幸せな状態とは異なります。人は、笑いとか馬鹿騒ぎで何かをごまかそうとすることがあるものです。
きわめて安楽な生活、ぜいたくな生活のできる人々がいます。それは彼らが努力した結果手に入れた特権と言えるでしょう。私が怒りを覚えるのは、無駄遣いです。まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。
私は、一対一のパーソナルな触れ合いが大切だと信じています。
私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。
何度でも飽くことなく繰り返して言います。貧しい人々が最も求めているのは、憐れみではなく愛なのです。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、他の人間のそれと全く同じ質と量の尊厳なのです。ー 渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』【PHP
 
 

いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。

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高知県在住のSさんは私の姉御的な存在で、Sさんは、私とたいして年齢は変わらないくせに私のことを「孫」と呼ぶ。そして、自分のことを「祖母」と呼び、愛に満ち溢れている自分の能力を「祖母力」と呼んでいる。私はSさんのことが大好きで、時折LINEなどで会話をするのだけれど、私の祖母は日々に何かしらの出来事が生じた時や、新しい刺青を入れた時などは私に連絡をしてくださり、私は、その美しさを前に「かっこいいですねーー!!」などと感嘆の声をあげたりしている。
 
最近、祖母にはとてもいいことがあったみたいで、孫としてもとても嬉しい。祖母にまつわるエピソードは108個位あるためにとてもじゃないけれどすべてを紹介することができないのだけれど、彼女は、私達が暮らしている地球のことを「この世ランド」と名付けている。俺たちはこの世ランドにパスポートを持って遊びに来ているお客さんのようなもので、何をするのも自由、この世ランドにはいろいろな不思議が隠されていて「感情を先取りしたら、すべての現実が追いつくのがこの世ランドの仕組み」であることを教えてもらった。
 
目で恋に落とし
耳に愛をささやき
頭から離れさせず
心を奪い
胸で抱きしめて
尻で敷く

女の六段活用じゃ
覚えとけ 試験に出るぞ

by 祖母
 
祖母からはいろいろなことを教わる。最近、素晴らしい出会いに恵まれたらしい愛する祖母は「いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ」という名言を残した。私は、端的に、なんてかっこいい女なのだろうかと思った。そして、私は、思う。どのような生き方でもいいから、胸を張って、ただ、どーんと構えていればいいのだ。人間の生き方に正解はないのだから、多分、人間の生き方に間違いもないのだ。どのような生き方でもいいから、自分が自分であることに胸を張り、正々堂々、ただ、どーんと構えていること。それだけのことで、以外と、いろいろなことはスムーズにまわりはじめるような気がしている。
 

 
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人生は続く。
 
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。

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北海道を経由して福岡にはいり、今夜は「おはなをあげる@福岡」というイベントを勝手に開催する。初対面の方々に自己紹介をする際、社会的な肩書きのない私は「二年間程度、家のない生活をしていました」とか「みなさまの施しで生きております」とか「何もしていません」とか言うのだけれど、大概の場合は怪訝な顔をされて終わる。しかし、昔、洞窟に住んでいた時期があるという話をすると若い男の子たちにはウケることがわかった。
 
【イベント詳細】おはなをあげる@福岡
 
昔から、どうやって稼ぐかということよりも「どうすれば稼ぎが少なくても生きられるか」ということに興味があり、その第一弾(?)としての『家なし生活』だった訳だけれど、これからも根本的な部分は変わらないのだと思う。多分、起業家【独立した人間】には二種類いる。あらゆることを器用にこなせる優等生タイプの起業家と、あらゆることをやってみたものの何もかもが全然ダメで、結果として「自分でやらざるを得なかった」ゆえに起業家になった【奇跡的にオリジナルな生き方を発掘した】人間の二種類で、私は(起業家ではないけれど)完全に後者だ。いろいろなことをやってみたけれど全然まともに生きていける気配がせず、他人の言うことを聞けず、マニュアルが大の苦手で、集団行動がとれず、愛想笑いをすると死にたくなり、自分を殺して生きるくらいなら自分を出し尽くして死にたいと願うような人間で、だからなのだろうか、現在は、自分でもあまりよくわからない生き方をしている。
 

「何が起こるかわからない」を愉しむ。

トークイベントなどに登壇をすると「夢は目標はありますか?」と尋ねられる。私には、夢も目標もないために「夢も目標もありません」と答えると、質問者にびっくりされることが多い。でも、やりたいことも特にないので「やりたいことも特にありません」などと答えたりすると、じゃあ、なんでそんなに元気なのですかというようなことを聞かれる。自分でも自分のことがあまりよくわかっていないから「なんでなんだろう。なんでだと思いますか???」と逆に尋ねたりするのだけれど、そんなことを聞かれても困ると思うので、改めて自分自身の嗜癖と言うか傾向を振り返って見た。
 
多分、私は「何が起こるかわからない」という、想定の範囲外の出来事に触れることが好きなのだと思う。家のない生活も、いまのように「あらゆる個人情報を晒して生きるスタイル」なども、家がある時よりも(自分をクローズドな状態にしている時よりも)面白い目に会える可能性が高まるから、多分、このような生活をしているのだと思う。言い換えるならば「面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置く」ことには興味があるけれど、そこで何が起こるかということに対する期待やコントロールは何もない。期待やコントロールを超えた出来事に遭遇できた時、私は、ああ、このような生き方をしていた良かったと心の底から思うことができる。
 
「面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置く」という言葉は、我ながらほんとうにそうだなあと思っていて、熱海の家を開放しているのも「その方が面白いことが起こりそうだから」という理由に尽きる。決して社会的に良いことがしたいとか誰かを救いたいとかそういう思いがある訳ではなく、どこまでも、自分自身のためにやっている部分が強い。ただ、自分自身のためにやっていることが結果として誰かの力にもなることがあるのだとすれば、それは本当に素敵なことだとは思う。素敵なことだとは思うけれど、それを目的にしてしまうと何かがズレてしまう気がするので、あくまでも最優先事項は「自分が面白いと思ったことをやる」にしていたいとは思っている。
 

ラッキー!【誰かの幸福は副産物】

自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしないこと」というものがある。過剰な使命感や正義感は「価値観の押し付け」的な暴力を生みやすいし、私は、自分と同じであることを誰かに強要したいとは思えない。ただ、自分のために生きることが、結果として、誰かのためにもなることがあるとすれば「ラッキーパンチだ!ありがとう!」と思うし、もちろんそのことに対する強い嬉しさや喜びもあるのだけれど、あくまでもそれは副産物である【数ある『面白い目』のひとつに過ぎない】のだと思う。
 

このような生活をしていると、普段は出会うことのない様々なタイプのひとたちと出会う。そんな方々から「いままでは自分の境遇を嘆いたり自分で自分に同情してしまうことも頻繁にあったのですが、さかつめさんみたいに家も金も仕事もなにもない癖に元気に生きている(失礼!)ひとがいるんだって思うと、自分も人生を愉しみたいって思うようになりました」なんて言われてしまうと、おお、友よ!(お互いにイロイロなものがないけれど、まあ、明るく楽しく生きていこうじゃないか!)という気持ちになる。この時に感じる感覚はとても清々しく、非常に爽やかな風が吹き抜けるために「ああ、このような生き方をしていてよかった」という気持ちになる。
 

「鉄砲玉48」というアイデア

前回のブログ記事でも書いたように、熱海の家がなくなるかもしれない問題はなにも解決していないのだけれど、前に、天然記念物的レベルでどうしようもないひとたち(失礼!)を集めて『鉄砲玉48(仮)』みたいなグループを結成したらどうなるのだろうかと考えたことがある。とりあえず住む場所と食べるものはあるのだから、みんなで簡素な生活を続けながら「人手が足りないからちょっと手伝ってよ!」みたいな声がかかれば、世界中どこでも実際に足を運んで無給で働く(ここ大事!無給は大事!まずは自分の身を粉にすることからはじまる)御用聞きみたいなことをやれば、新しい人間関係も生まれ、経験の幅も広がり、謎の技術も徐々に身につくなど、それなりに楽しく生きていけるのではないだろうかと思った。
 
 
しかし、私には管理能力がないので「誰か、女中さん的なひとが(複数人の交代制ででも)熱海の家を取り仕切ってくれたらいいのになあ」などと甘い妄想を抱きながら、このアイデアは未だに眠り続けている。最近では「ひとりでは難しく感じることでも、みんなでやればどうにかなる(どうにかなるばかりか、想像を超えて楽しくなる)」ということを感じていて、学校教育とか、子育てとか、老人ホームとか、孤児院とか、介護施設とか、限定的で閉ざされたコミュニティ内で(ある種隔離をしながら)抱え込むことよりも『社会全体で共有してしまう』ことの中には、なにかしらの突破口が隠されているような気がしている。
 
ジブリ映画『風立ちぬ』に登場するカプローニは「センスは時代を駆け抜ける。技術はその後について来るんだ」と言っている。大事なことは、多分、センスだ。いまはまだ名前のつけられていない、名前がつけられていたとしても社会的に低く見積もられてしまうようなことでさえも、そこにセンス【新しい組み合わせ】を上乗せすれば、きっと、世の中をひっくり返しちゃうような(別に世の中をひっくり返したい訳ではないけれど)何かを生み出してしまうことはあるのだと思う。自分を変えたいと思う訳ではないけれど、自分が変わっていく姿を見ることの中には楽しさがある。自分を大きく変えちゃいそうなこと、自分を面白い目に遭わせてくれそうなこと、面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置くこと、多分、私の興味はそこにあるのだと思う。
 

『突破者の母』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮崎学著作『突破者の母』です。前述したように、このような生活を続ける中で、時には「極道の親元で育ちました」とか「自分は昔はヤクザでした」と話すひとたちと稀に出会う。私が出会ったひとたちに限る話になるけれど、彼らは、一様に『非常に魅力的な人柄の持ち主』だった。その理由が、この本の中で見事に言語化されているような気がしました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※
 
極道の世界は「男の花道」がどうの「男ぶり」がどうのと、ことあるごとに「男」を云々する男臭い世界であるが、実は母性原理に貫かれた母系社会的な要素がきわめて強い。男たちは「人は一代、名は末代」などと勝手なことをいいながらおのれの面子や名分にこだわって游俠の限りをつくす。そして、喧嘩沙汰で命を落としたり放蕩の果てに窮死したりで、多くが若死にする。その男たちの精神的な拠り所となっているのは「母的なもの」である。
この社会には必ずグレートマザー的な女性がいる。その大いなる母が死んでいった男たちの死を癒し、男たちの勲を語って伝説化・神話化していく。男の馬鹿さ加減に半ばうんざりしながらの営為であるのだが、その母性に支えらえて男たちはひたすら跳ねていくわけである。典型的な男尊女卑の世界のように見えながら、女の存在は物心両面にわたって実に大なるものがあるのである。
生きることを媒体としていた昔のヤクザの女は、男が生きてゆくために一つの重要な役割を確実に果たしていた。それは、何かにつけてはヤクザな男たちの武勇伝に尾ヒレを付け、ついには伝説にまで仕上げてしまうことだ。それは、体を張って生きている者にとっては勲章をもらったようなもので震えがくるほど嬉しいことなのである。
だいたいにおいて、アウトローというのは失敗に失敗を重ねながら生きているのであって実はそんなに立派な生き方をしているわけではない。それを周りの女たちが褒め讃え美化してくれるおかげで、アウトロー的モラルのタガがはめられて共同体の成員としての自覚が培われて行くのである。つまり、その美談が本人の耳に入り女たちが美化したような人間になろうと努力する。そういうふうにしてアウトローとして徐々に純化してゆくわけである。
「馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て」ー 宮崎学『突破者の母』【徳間文庫】
 
 

馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。

昔から、既存の生き方にうまく馴染めなかった私は、結果的に「自分なりの生き方を自分で築き上げる」ことになった。言葉にすれば格好良いものに響くかもしれないけれど、道中は(現在も)それはそれは悲惨な出来事の繰り返しで、何度も「ああ、俺はクズだ、死んだほうがきっといいんだ!」と思わされることの連続だった。しかし、そんな時でも、自分と同じようにどうしようもない生き方をしてくれているひとの存在(失礼!)は、大きな慰めとなり、大袈裟な言葉で言えば『生きる力』になっていた。
 
現在も、諸事情で色々と滞納をしている諸々のアレは大量にあるが、そのような中で「おはなをあげる」とかやっている自分はいったい何がやりたいのだろうかと自分を疑ってしまうこともあるけれど、そのような時ほど「他人の借金を返すために自分が借金をしてお金をあげた」女性の存在や、「三ヶ月電気代を滞納していて家が暗くて、臨時収入で8000円貰ったけれどそれじゃ全然足りないと思って中目黒に行ったらパチンコ屋が数店あって『私は前のめりに生きたいから、一番前の店にはいる』と決めてパチンコをしたら、四万円近く勝ったから電気代を払えました!」みたいな話を聞くと、なんだろう、物凄い元気になる。
 
多分、世間的に言えばこういう生き方は「おそろしく間違っている」ことなのだと思う。しかし、私は「間違っていることは百も承知で、でも、そういう風にしか生きれなかった」ひとたちの存在が本当に好きだ。多くのひとから見て正解とされるような生き方はできなかったとしても、そのひと自身が思う『正解』を生きることができているひとに、私は、最大限の敬意を込めて拍手を贈りたいと思う。自分で自分を許せない時期はつらいが、自分の心が軽く扱われてしまう時期はつらいが、あまりにも味方が少なすぎる故に自分を信じることが難しい時期はつらいが、それでも、泣く道ではなく『笑う道』を選んだひとの姿に、私は、いまもまだ全然治らない鼻風邪に悩まされつつも強く勇気付けられている。
 

 
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人生は続く。
 
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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

ひとにはそれぞれの役割がある。

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北海道で、素晴らしい出会いを果たしている。いま、私は、熱海にひとつの拠点を構えている。家のない生活を2年間程度続け、それと並行してこのブログ【いばや通信】を書きはじめたのがいまからおよそ3年前、このブログを見てくださった方から「さすがに家のない生活は大変でしょう」と、完全なる御厚意で熱海に家を用意していただいたのが、いまからちょうど一年前、2015年の12月になる。

私は、完全なる御厚意で与えられたこの家を「自分のためだけに使うのは何かが違う気がする」と思い、泊まりたいひとがいれば泊まっていただき、何かを食べたいと思うひとがいれば(家に食料がある限り)自由に好き勝手に食べてもらい、イベントスペースなどで使いたいひとがいれば使っていただき、各種無料のイベントを企画したり、わたり文庫やわたり食堂に代表される「大袈裟な言葉で言えば『循環型』の試み」を実験的に行うになった。

熱海とニュージーランドの架け橋。

この家が、いま、もしかしたらなくなるかもしれないという状況に置かれたのが先月の出来事で、私は「自分の力だけで解決をしようとするのは違う気がする」と思い、家がなくなるかもしれないのだけれど何かいいアイデアはあるだろうか、というようなことをブログ記事として投稿した。すると、その記事を読んでくれたニュージーランド在住の40代女性【K様】から一通のメールが届き、私はそのメールの内容に強くこころを動かされた。


「最近、子宮頸癌の手術をしたためにガン保険が200万円ほどおりました。そのお金を使って世界一周をしてきたのですが、まだ少しだけ手元にお金が余っているので、これをさかつめさんの家に使ってもらえたらいいのかな、と思いご連絡をさせていただきました。私は子宮を摘出したためにもう自分のこどもをつくることはできないのですが、熱海の家が『みんなで子育て』をできるような場所になればいいなあと思い、また、いつでも泊まれる、いつでも食べるものがある、何かあってもそこにいけばどうにかなるという場所が世界中にもっとできたなら、それだけで安心できるひとはたくさんいると思うんです。熱海の家も、まだ、実際には足を運んだことのないひとでも『熱海にはあの家がある』と思えるだけで、気持ちが楽になると思うんです」

私は、うまく言葉にすることができないのだけれど、K様の文章に触れて「美しい思いだ」と思った。こうした思いこそ引き継いでいきたいと思うし、こうした思いこそ世界に広がっていったらいいなあと、そういうことを感じて音速でメールに返信をした。その後、私たちはスカイプで30分程度の会話をし、K様が日本に戻られた際に、実際に熱海の家を見てもらうという約束を交わして終了をした。

支援は「私怨」【逆もまた然り】

札幌のスタジオで収録されるラジオ番組に出演するために、いま、私は札幌にいる。K様の地元も同じ札幌で、ちょうどK様も札幌に帰郷していらっしゃるタイミングだったので「蕎麦でも食べましょう」ということになり、昨日、志の家という蕎麦屋で食事をしながら会話をした。実際にお会いしたK様は笑顔が大きく、温和な人柄で「この方のことを好きになるひとは、たくさんいるんだろうなあ」という気持ちになった。

まだ、実際にK様の援助のもとに熱海を維持していくことに決まった訳ではない。今月末、K様は実際に熱海に来てくれることになったので、実際に家を見た時に感じたことをベースに、お互い無理のない決断(?)をしていけたらいいのだろうなあと思っている。K様は、昔から、自分でも孤児院を開設してみたいという思いがあるのだと話してくれた。いまはニュージーランドに拠点を構えているけれど、北海道のニセコの近くに素敵な物件を見つけたということで、明日、一緒に車でニセコ界隈まで足を運ぶことになった。K様とは「それぞれの場所でやっていることは別々でも、ニュージーランドニセコと熱海が、何かしらの形で繋がったら面白いですね!【単純に繋ぎ遊びたい!】」という話もした。

誤解を恐れずにいうと、私は「支援活動【慈善活動】」とか「弱者救済のボランティア」みたいなものになかなか興味をもつことができない。多分、その理由は「弱者を弱者と呼んでいる呼び手側の、その独善的な傲慢さ(上から目線)が苦手だから」なのだと思う。なんというか、問題解決型のアプローチは「自分たちはこんなに重要な問題に取り組んでいるというのに、周囲の人たちはまったく理解してくれないからムカつく!」という私怨【憎しみ】を生みやすい。私は、あらゆる物事において『フェアでありたい』という思いがある。もっと言えば、弱者だろうがなんだろうが「一緒に遊びたいと思うひととは弱者だろうが遊ぶし、一緒に遊びたいと思えないひととは強者だろうが遊ばない」という思いがある。

ひとにはそれぞれの役割がある。

先日、ある方から「手元に玄米が30キロあるので、さかつめさんが熱海にいる時に車で届けにいってもいいですか?」というご連絡をいただいた。私は、なんてありがたいお言葉なのだろうかと感動をしてしまって、今月末にその方と熱海でお会いする約束を交わした。熱海の家には、様々な方々から譲り受けた、様々な食材が溢れている。決して豪華な暮らしができるという訳ではないけれど、基本的な調味料や調理器具や大量の玄米など、最悪の場合でも「これさえあれば死なない」程度の食材ならば、非常にありがたいことに常にストックされている。

多分、私は「ひとからものを貰うこと」が得意(?)な人間であるのだと思う。同じように、私の役割は「文章を書くこと」であったり「世界各地を飛び回ること」であったり「様々なひとと実際にあって対話を重ねること」であり、それが自分のポジションのようなものであると感じている。逆に言えば、私はひとつの場所にずっといることができない。今月も、熱海には3日程度しかいないことになる。私が安心をして熱海を離れることができるのは『熱海を守ってくれるひとがいるから』であり、多分、ひとにはそれぞれの役割があり、それが見事に合致した瞬間に最高のパフォーマンスは発揮されるのだと思う。

傲慢な言い方になるのかもしれないけれど、私は、私のためには家はいらないと思っている。しかし、私達のためには家が必要であると思っている。私は、多分、家があってもそこに長期滞在をすることは(自分のこどもでも生まれない限り)まだないのだと思う。私は、また次の新しい家や何かを探して外に出て、仮に新しい何かを獲得することができた暁には、熱海の家と、新しい何かを繋ぐような架け橋的なアイデアを模索し、編み出し、試行錯誤を繰り返しながら、また更に(その場所の管理は他の方に任せて)別の場所に足を進めるのだと思う。私は、誰かのために生きるということが酷く苦手な性格であるために、自分のために生きることが結果として誰かの役にも立ったというような、頗るラッキーパンチ的な生き方をしていきたいと思っているのかもしれない。

多拠点生活【新しい家族】

札幌市内は自然も豊かで料理も美味しく、ここのひとつの拠点が持てたらどれだけ素晴らしいだろうかということを思った。17日には新千歳空港から福岡空港に飛ぶ(この日は午後から何も予定がないので、福岡界隈で時間のある方はお気軽にご連絡ください)のだけれど、札幌も、福岡も、格安航空券などの普及で気軽にアクセスできるようになっている。いままでは「ひとつの場所を見つけて、そこに根を張るような暮らしをすること」が大多数の日本人にとってのスタンダートだったけれど、戦争や天災や財政破綻など、何が起こるかわからない時代には「複数の拠点を持つことが、結果的にセフティネットの拡張になる」こともあるのだと思う。

複数の拠点を持つための動きが、私には、複数の家族を持つための動きに見えることがある。私は、家のない生活をしていたころ、様々な方々の家に泊めていただいた。彼らは一様に「困った時はまたいつでも遊びにおいで」と言ってくれた。私は、大袈裟な言葉で言えば、新しい方々の家に泊まる度に『新しい家族が増えている』ような感覚を覚えていた。家がなくなることを通じて、日本中に、世界中に、家が増えているような感覚を覚えた。少なくとも「家がなくならなければ絶対に出会うことのなかったひとたち」との出会いは、私の人生観を大きくエクスパンドしてくれた。家がないことは非常にリスキーな生き方であるはずなのに、不思議と、家のない生活を続ける(ひとに泊めてもらう日々を過ごす)ほどに、自分が生きていくことに対する不安は薄れ、世界に対する信頼感や安心感は増しているように感じていた。

私は思う。ひとにはそれぞれの役割があり、得手不得手があるのだから、なんでも自分ひとりの力でやろうとすることには無理がある(たとえ実現できたとしても、タカが知れている)のだと思う。K様は、熱海の家を『みんなで子育て』ができる場所になればいいと話してくれた。私は、この感覚に強い共感を覚えた。有り体の言葉になるけれど、みんなでやればどうにかなるということが、この世の中にはたくさんあるのだと私は思う。問題なのは、ひとりひとりの個のパフォーマンスが落ちていることではなく、ひとりひとりの結びつきが強まり、なんでも自分ひとりの力でやらなければいけないという風潮が強まっていることにあるのだと感じている。

助ける側にも、助けられる側にもよろこびはある。

私はいま、このブログ記事を、札幌にあるホテルの部屋から更新をしている。風邪気味で頭が朦朧としてしまっているものの、温泉もあり、朝食バイキングも豪華(もとから朝食は食べない派だけれど、貧乏性なのでヨーグルトと輪切りのキウイフルーツを50枚くらい食べた)で、とてもじゃないけれど私には贅沢過ぎる環境にビビっている。私は、このホテルをとってくれたS様に「こんなにも素敵な場所をありがとうございます!」と言わずにはおれず、何度も、くどかったかもしれないけれど何度も何度も何度も繰り返し感謝の気持ちを伝えてしまった。


私にできること、多分、それは「こころを込める」ということなのだと思う。トークイベントなどに呼ばれて登壇をする時も、誰かと実際にあって話をする時も、こうして自分の思いを言葉に綴る時も、私にできることは「こころを込める」という、ただ、それだけのことなのだと思う。私には何もない。何の専門性もなければ、社会的な信頼も肩書きもなく、定職もなければ、所持金も少ない。それでも、なぜ、自分のような人間でも生きてこられたのかというと、K様やS様のようなひとの優しさによるところが非常に大きく、私は、ひとの優しさに触れる度に「自分をしっかりと生きよう」という気持ちになる。


ひとにはそれぞれの役割がある。なんでも自分ひとりの力で成し遂げようとするのではなく、重要なことは「自分の役割を知る【自分の持ち場を守る】」ことなのだと思う。私の場合、2年間の家のない生活はそれを知るために大いに役に立った。私の役割は「言葉を綴ること」「外に出ること」「ひとに会うこと」などに代表されることであり、大切なことは『こころを込めること【自分の純度を高めること】』なのだと感じている。きっと、自分ひとりの力では難しいことでも、みんなでやればどうにかなることはたくさんある。現在の私に提供できるものは「自分の存在」と「熱海の家」程度でしかない。この程度しかないけれど、自分にあること、自分にできることを最大限に生かしていきたいと思う。


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人生は続く。

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過酷で楽しい托鉢生活。

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タイ最終日は非常に印象的な1日になり、この日は、バンコク在住の日本人女性のご自宅(非常に豪華!ちなみにこの日が初対面)にお招きいただき、お集まりいただいた方々とタイ料理を囲んだ。参加メンバーのみなさまの個性が半端なく、ひとりの女性は「数年前までレバノンの難民キャンプで生活をしていて、隣で銃撃戦が行われている中でこどもを出産した」経歴の持ち主だった。
 
もうひとりの女性は、数年前までネパールの山奥で風呂もなにもない生活をしていて(1年半前位にバンコクに移住をした)、こどもが3人いるのだけれど「こどもたちは学校には行かないで、ホームスクール(先生役はお母さん&WORLD)という形でやっています」と話してくれた。日本の常識は世界の非常識などと言いますけれど、なんかもう、みなさまの生き方がカラフル過ぎて「俺の出る幕はないな」と悟った私は、ひたすらごはんを口に運び続けた。
 

過酷で楽しい托鉢生活。

11月11日の朝8時に成田空港に到着をして、昼の12時からは下北沢で「坂爪圭吾を囲む会的なサムシング」が開催された。主催の方のご自宅で開催されたのだけれど、下北沢という好立地にも関わらずご自宅が豪華過ぎて「ご自宅が豪華過ぎる!」と思った。平日の昼間の開催であったにも関わらず、たくさんの方々が駆けつけてくれて「(徹夜明けみたいな頭の状態はちょっとしんどいけれど)やっぱりひとと実際に会って話すのはいいなあ」と思った。
 
私のように、ブログなどを通じて(リアル社会よりも先に)バーチャルな世界から先に名前ばかりが知られるようになると、どうしても「伝言ゲームのように、根も葉もないデマや噂が飛び交う」ことに悩まされることは多い。自分程度の知名度でもこれだけの情報が流れているのだから、国民的な有名人の風評被害(?)というものは、半端ないのだろうなあと想像する。しかし、有名無名を問わず「同じ人間であることに変わりはない」のだから、面と向かった会話を交わせることの中にはリアルな繋がりを覚える醍醐味がある。
 
そして、改めて「自分が大切にしたいのは、まだあったこともないひとからの目線や批判や好感度ではなく、実際にお会いした方々とのリアルな繋がりなのだ」ということを思った。こうして文章を綴っている私の中には血が流れていて、こうしてこの文章を読んでいるあなたの中にも血は流れている。人間関係に上も下もない、ただ、この「同じ血が流れている【同じ時代を共に生きている】」というある感覚こそ、自分が大切にしたい感覚なのだと思った。
 

「生きているぜ!」という感覚の共有。

15時から、下北沢駅前のファミレスで雑誌の取材を受けた。インタビュアーの方も、副編集長の方も、非常に素晴らしい人柄の方々で「このひとたちと出会えただけで今日は幸せ!」と舞い上がった私は、非常に上機嫌(?)な状態でインタビューにお答えさせていただくことができた。私は、多分、性別を問わず『穏やかで品のあるひと』が好きなのだと思う。親しき中にも礼儀ありという言葉が好きなのだけれど、初対面から「いえーい!」などとタメ口を話す方々とは「星が違うなあ」という感想を抱く。
 
インタビューを受ける際、記者の方が「さかつめさんの言葉はメッセージ性が高い」というようなことを言ってくださり、私は、個人的にはメッセージを発信しているつもりはない(ただ、自分に言い聞かせていることを言語化しているだけ的な感覚です)という返答をした。私は、ただ、言葉という容れ物の中に自分の生命を流し込みたいと思っている。内容がどうのこうのというよりは、言葉の躍動を通じて「俺も、あなたも、生きているぜ!」的な感覚を(結果的に)共有することができたのならば嬉しいと思っている。
 
いまの社会が悪いとか、いまの日本人は悪いとか、自分以外の誰かを悪いと言えるほど、自分は善い生き方をできているとは思えない。ただ、できることならば「善い生き方」をしたいと思う気持ちはある。だからなのだろうか、私は、自分以外の誰かにメッセージや助言をできるような立場にあるとは思えない。私は、ただ、自分が体験したことの中から「自分が感じたこと」を言葉にしているだけに過ぎない。その言葉が、結果的に誰かに前向きな力を与えることになっていたとしたら、それは非常に幸運なことだとは思う。非常に幸運なことだとは思うけれど、誰かを幸せにするために言葉を書いている訳ではない。
 

「粋」な女性の登場。

昨日、小田急線沿線在住の女性から「さかつめさんに、どうしてもお渡ししなけれないけないものがあります」という連絡が届いた。私は「え!なんだろう!」とドキドキしながら、15時に下北沢駅前で女性と落ち合う(結果的に雑誌の取材とダブルブッキングになってしまった!)と、その女性は出会い頭に「はい」と謎の紙袋を手渡してくださるやいなや、そのまま、颯爽と下北沢の街の中へと消えていった。
 
紙袋を開けると、あろうことか(前回のブログ記事で紹介させていただいた)身体を洗う為の高級タワシと、手拭いと、手紙と、東京都内で使える銭湯の無料券が複数枚同封されていた。私は「なんて粋なことをする女性なんだろう!」と嬉しくなってしまって、ああ、世界は優しさに溢れているなあと感慨に浸った。私は、いま、多くの方々からの施しを受けながら生きている。文章だけではなかなか伝わりづらい現象だと思う(お前は宗教家か!とディスられることもある)けれど、この現象は、実際に目撃したことのある方にならわかる感覚だけれど、実際に目撃しなけれな絶対にわからない類の現象なのだと思う。
 
 
そこで、私は「せめてもの恩返し【恩送り】として、みなさまにおはなをあげるイベントをやろう!」と思い立ち、昨夜、誠に突然ではありますが『おはなをあげる@渋谷』というイベントを立ち上げた。内容は、単純に「さかつめと、さかつめの友人のあべさんと一緒に、私たちは渋谷のファミレスでお茶をしています。おはなを五輪ほどご用意しておりますので、早い者勝ちになってしまいますが、もしもおはなが欲しいという方がいらっしゃいましたらデニーズまでお越しください(ご希望される方には、珈琲をご馳走します!)」というものになる。
 

おはなをあげる@渋谷の展開。

開始直前の告知になったために「ひとりくらいでも来てくれたらいいね」と話していたら、結果的に8名程度の方々がデニーズに駆けつけてくれた。ここでも奇跡的な展開は複数個起こり、青森県から届いたりんご8個を届けるためだけにデニーズに来てくれた方(3分程度でお帰りになられた)や、隣の席で食事をしていた男性が「突然申し訳ありませんが、あの、さかつめさんですか?実は、私が来た時にはお座席がすでに満杯で隣で食事をしていたのですが、これ、みなさまの食事代に使っていただけたら嬉しいです」と、非常に格好いい形でテーブルの上に封筒を置き、そのまま、颯爽とお店を出て行かれた。
 
こんなことを書くと「だからお前は宗教家なんだ!」と即座にディスられてしまいそうだけれど、違う、多分、それは違うのだと思う。あの場を共有してくださった方々ならわかってくださると思うのだけれど、昨夜、私はデニーズの店内でひたすら自身の顔面をタワシでこすり続けていた。決して「生きるとは…」みたいな話を神妙な面持ちでみなさまと語ったりしていた訳ではなく、阿呆みたいな顔をして「お肌がテュルッテュル!お肌がテュルッテュルだよ!」などと叫んでいた時に、突然りんごを貰ったり、突然お布施を貰ったりしていたのだ。
 
誤解されると困るが、私は「私は宗教家ではない!」という必死の弁解をしたい訳ではなく、自分はこれほど面白い目に遭えているのだという自慢をしたい訳ではない(のだと思う)。ただ、巷では「都心の人間は冷たい」とか「多くの日本人には余裕がない」とか「世間は物騒である」みたいな話が跋扈しているけれど、実際のところは「いいひとばかりじゃないかもしれないけど、でも、悪いひとばかりでもないぜ!」ということを、誰かに伝えたいと思っている(のかもしれない)。
 

オン・ザ・ロード

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ジャック・ケルアック著作オン・ザ・ロード』です。ノーベル文学賞でお馴染みのボブ・ディランに「この本は僕の人生をかえてしまった」と言わせちゃう程度には世界的にも有名な一冊で、先日、東京都内の本屋さんで購買をしたのですがなかなか読み切る時間に恵まれておりません。故の、放出でございます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※
 
若い作家サルとその親友ディーンは、自由を求めて広大なアメリカ大陸を疾駆する。順応の50年代から叛逆の60年代へ、カウンターカルチャー花開く時代の幕開けを告げ、後のあらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書。バロウズギンズバーグ等実在モデルでも話題を呼び、ボブ・ディランに「ぼくの人生を変えた本」と言わしめた青春のバイブル『路上』が半世紀ぶりの新訳で蘇る。ー ジャック・ケルアックオン・ザ・ロード』【河出書房】(表紙裏帯より引用)
 
 

ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。

ラジオ番組の収録に読んでいただき、14日から数日間北海道に向かいます(16日は札幌で終日暇をしているので、何かあればお気軽にお声かけください!)。なかなか熱海の家でゆっくりすることができていないのだけれど、昨夜、数日振りに帰宅をすると、全国各地から様々な贈り物が届いていた。北海道産のじゃがいも、にんじん、玄米、乾き物、お手紙、お手紙、お手紙と一緒に同封されていたクオカード(そこには「必要な誰かに使ってもらえたら嬉しいです」と書かれていました)など、大量の施しをいただいた。
 
【補足】逢初庵をご利用予定の方々は、台所の食材も自由にお使いください!
 
施しなんていう宗教的な言葉を使うから誤解を招いていることはわかっているのだけれど、でも、それでも尚「施し」と呼ばざるを得ない(そのように呼びたくなる)現象の連続に、ああ、自分は生きているのではなく生かされているのだなあという思いを禁じ得ない。郵送された荷物を開封しながら天上を仰ぎ、神様的なサムシングに「ありがとうございます」と囁きながら土下座をしたくなった(実際にした)。現在、18日は佐賀県武雄市、21日は山口県光市、23日は広島県尾道市に足を運びます。もしも実際にお会いできる方がいらっしゃいましたら、どなたでもお気軽に遊びにいらしてください!!
 
 
 
 
海外に行くと「日本は、子育てをするには不適切な場所【こどもや母親に冷たい環境】」という声を頻繁に耳にするが、しかし、そんなことはないんじゃないのかなと思う自分がいる。本当は、多くの人たちは「誰かに何かをしてあげたい」と思っていて、ただ、迷惑になるかもしれないという遠慮や気遣いが働いて、声をかけたいけれどかけられずにいるだけ【ある種の『許可』さえおりれば、気軽にひとと助け合えるもの】なのだと私は思う。
 

 
ひとのこころを開くもの、善性の花を咲かせるものは、きっと「正しさよりも『楽しさ』」のある環境だと思う。単純に、すれ違うひとと軽い挨拶を交わせただけでも、心地の良い風は吹き、身体が軽くなるような嬉しさを覚える。私は、ある種の許可がある限り、ひとはいくらでも優しくなり得る生き物なのだと思う。この『許可』とは何か、何がひとのこころを開き、何がひとを菩薩的なものに変えるのかということに関心があり、難しい場合もあるけれど、お互いの【阿修羅スイッチではなく】菩薩スイッチを押し合える関係性を築きたいのだと、そういうことを思っている。
 

 
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人生は続く。
 
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健康のためなら死ねる。

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タオ島を南下してパンガン島、サムイ島、スラータニーを経由して再びバンコクに来ました。日本は初冬を迎えている頃にも関わらず、タイは連日30度を超える真夏日が続き、こころも毛穴もフルオープンです。来たる11月11日(金)お昼頃から、非常にありがたいことに下北沢でお話会的なサムシングを開催していただける運びになりましたので、お時間のある方はお会いできますことを楽しみにしております!!

【イベント詳細】坂爪圭吾を囲む会|下北沢NOWHERE ☆☆☆Speak from your heart☆☆☆ 

最近思うことあれこれを「健康」をテーマにまとめます。

 

1・歯磨きよりも「歯茎磨き」

かつては1分程度でササっと済ませていた歯磨きも、様々な方々から「歯よりも歯茎を磨くイメージが大事よ!」的なアドバイスをいただきまして、時間がある時は10〜30分程度は磨くようになりました。感覚的な話になりますが、これ、なんだかとってもいいことのような気がします。歯茎をマッサージしてあげる感覚でゆっくりと時間をかけて優しくほぐしてあげますと、過去に歯医者さんで使った薬品的なサムシングが歯茎から漏れ出る(!)ひともいるらしく、一説によると「よだれを出しまくると小顔効果がある!!」とか、ないとか!!
 

2・五つの「浴」

自然治癒力と言うのでしょうか、身体の免疫力を高めるには「五つの『浴』が大事よ!」という話を聞きました。それは「日光浴」「月光浴」「森林浴」「海水浴」「温泉浴」の五つでありまして、あろうことか、私の自宅があります熱海ではこれらすべてを網羅できる(海あり!山あり!温泉あり!)ということに、今更ながら気が付きました。科学的な根拠は謎ですが、経験則的に「そんな気がする!【過去、一ヶ月の間に150回は海に入っていた時期は猛烈に体調が良かった!】」と思わされる話題だったので、この場をお借りして皆様とシェアをさせていただきます(ました)。
 
こちらは余談になりますが、私が不在の間、熱海の家は全開放ということで「使いたいひとがいれば自由に使ってもらう(大事に使ってくださる方、優遇!)」スタンスでやらせていただいております。現在も、新潟と、栃木から来てくれた方々が利用をしているのですが、実際に熱海の家を使ってみたいという方がいらっしゃいましたら、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。先着順になります(返信が大幅に遅れる場合がございます)が、徒歩5分の場所にある「走り湯」や「伊豆山神社」のみならず、海から昇る日の出【月の出】の瞬間は最高です!!
 

3・タワシで身体を洗う。

今回一番おすすめしたいのはこれで、先日、ある方の熱烈なリコメンドにより「タワシで身体を洗う」という体験をしたのですが、これが非常に気持ちよく、全身の血行を促進するばかりか便秘や肩こりや汗疹などの症状にも(もちろん美容にも!)効果的、私自身もここ数日間の体験により「なんだか身体全体が生まれ変わろうとしている!」的な感動を覚えております。タワシで全身を洗い、風呂上がりには水のシャワーで締める(あるいは水風呂にはいる)コンビネーションは最強で、風呂が大好きになりました。
 
現在はドイツ製の馬の毛のタワシを借りて使っているのですが、数日間の使用により「これは是非とも自分自身で購買をしたい!」と思い立ちまして、移動が続く日々もタワシは常にカバンにいれておく生活に突入したいと思っております。通常であれば「最初は柔らかいもので徐々に慣らし、ゆっくりと硬いタワシに移行をする」のがベストらしいのですが、まどろっこしいので、最初から一番硬いタワシ(なんなら普通に食器洗いで使用をする例のやつ)を購買しよう!と、密かに胸を躍らせております。タワシでカラダをゴシゴシ洗う…騙されたと思って、是非!!
 

4・ターメリック玄米。

非常に栄養価の高い食物を「スーパーフード」などと呼んだりしますが、チアシードやカカオやスピルリナのみならず、アーモンド、アボカド、ドラゴンフルーツ、生姜、ターメリック(ウコン)などもスーパーフードの仲間であることを小耳に挟んでからというもの、玄米を愛する私としては「玄米でターメリックライスを作ったらどうなるのだろう」という新しい興味が湧き出しております。また、オール全粒粉のうどん作りを研究したい熱も出ておりまして、日本に戻るのが楽しみになっております。
 

5・ヨガマットで寝る。

布団は柔らかいよりも硬い方がいい!などと言いますが、今年の春からヨガマットで就寝をするようになってからというもの、どこでも寝られる屈強なボディを手に入れられたような気がしています。これは決して自慢をしたい訳ではなくて、最初は少し慣れなくて身体が痛くなったりもするのですが、徐々に慣れてくると「柔らかい布団で寝るよりも睡眠の質が高く、短時間睡眠でも寝起きは爽やか、いつもより眠りも深い気がする!」ことを実感できるのではないでしょうか、と思っております。
 
一説によると「木の板の上にバスタオル一枚敷いたくらいで充分!」らしいのですが、これは、個人差もあると思うので実際に試しながら自分に合った硬さを見つけるのが良いのだと思います。私自身、睡眠の質はまだまだ向上の余地がある(木の枕で寝るとか、寝起きになんでもいいから思ったことをノート三枚分書きまくるとか)ような気がしているので、遊び感覚で様々なトライアルを積み重ねている最中であります。
 

6・病気の原因は「身体の冷え」と「血液の汚れ」

携帯用のおろしがねを持参して、海外でも現地の生姜をすりおろして飲みまくっている程度には生姜を愛しているのですが、病気の原因は「身体の冷え」と「血液の汚れ」に依るところが多いとのことで、これはもしかしたら精神的にも同じことがいえるのではないだろうかと睨んでいます。無機質な情報ばかりを頭に詰め込むよりも「一回のハグ」や「一輪の花束」がこころを温めることもあるということは、前回のブログ記事で考察済み(?)です。何はともあれ、自分のこころが歓ぶ生き方をしましょう!!

 

7・家だけベジタリアン

油ものの料理は片付けが面倒くさいので、自宅では玄米と簡単なおかず程度で済ませるようになり、いつの間にか「家ではベジタリアン」な日々を1年近く過ごしています。肉や魚や油を使わなければ、洗剤も不要で水でサッと洗い流すだけで食器洗いも終わるので、怠惰な自分はこれをとても気に入っています。未だに肉も魚もあればあるだけ食べるのですが、食後の「重さ」が気になるようになり、南国ではひたすらフルーツばかりを食べ続ける日々を過ごしております。

家だけベジタリアン、これ、おすすめです!!
 

8・光熱費0円ハウス。

熱海の家がなくなるかもしれない問題を抱えている我が身ではありますが、光熱費などが問題であるならば「光熱費0円ハウスを目指せばいいじゃないか!」という、非常に安易な発想を持つようになりました。いますぐには無理でも、家の裏にある川から水を引き、コンポストトイレ的なサムシングを設置して、太陽光などを駆使して、キャンプ道具をメインに生活をする日々も乙なのではないだろうか、という発想に男の子的なワクワクを感じています。

簡素な生活は端的に身体に良いような気がしていて、皮膚を鍛えれば「真冬も半袖短パンで行ける!」と言う新潟の猛者もおりますので、何事も「人生は人体実験である」のマインドを大切に、遊びながら様々なスキルを習得できたらいいなあなどと思っています。ドライヤーを使わずに髪を乾かす方法や、冷蔵庫を使わずに食材を維持する方法など、研究のしがいのあるテーマは無数に転がっています!!

 

9・歩きまくる【踊りまくる】。

最近では、散歩に行くことを「ちょっとドライブに行ってくるね」と表現するようになったのですが、車や自転車を動かしてあげることと同じくらい、自分の体を乗り物と捉えて「たまには長距離ドライヴを楽しむ!」ことも、非常に有意義で健康にも良く、個人的な体感としては「徒歩30分を超えたあたりから瞑想モードに突入する」ように感じています。馬鹿にされることも多いのですが、歩くこと、最高です!!

また、歩くことと同じくらい「踊ること」も非常に最高だと思っておりまして、最近では、及川光博さんの動画を参考に踊りのスキルに磨きをかけている昨今であります。この前、小学四年生の女の子と一緒に踊ったのですが、なんていうかもう最高でした。こちらの動画、見ているだけでも幸せになるので、是非、振り付けを覚えた方から一緒に「死んでもいい!」を共に踊り狂いましょう!!

 【毎朝一回は必ず視聴している動画】及川光博 - レッツ・ダンス~死んでもいい'98 - YouTube
 

10・好きなひとに好きだと言う。

様々な能書きを垂れてきた私ではありますが、これに勝る健康法はないのではないだろうかと思っています。なぜ生きるのか?と問われたら、音速で「好きなひとに好きだと言うためです!」と即答できるほどには成長できた私ですが、やはり、自分のことばかりを考えていてはなかなか幸せにはなれない生き物が人間なのではないだろうか、ということをひしひしと感じております。

最近は、旅先の風景と共に「あいらぶゆー!」と突拍子もないメッセージを友達に送りまくることが日常的になっていて、これがまたとても素晴らしい手応えを与えてくれます。愛されることもうれしいことですが、自分から誰かを愛していけるということも、同じように素晴らしいことなのだと感じております。愛する三森さんが「生きる意味、それは、人を幸せにするということ」とおっしゃっておりましたが、さすが!!三森先輩!!といった気持ちであります。

と、これだけ心身の健康についてアツく語っておきながら、先程「南国の雰囲気にはやっぱりこれだよな〜!」と、タバコを一箱購買してしまいました。数年前に軽度のアルコール中毒に陥ってから、お酒はほとんど飲まなくなったのですが、タバコだけは時折吸いたくなってしまう自分がおります。はい、まだまだですね!!けれども、この、まだまだである自分を受け入れることを通じて「人間は矛盾を抱えた生き物である」ことを認め、許容して、愛する。自分を使った人体実験【時には周囲のひとたちも巻き込んだ集団人体実験】は、これからも、まだまだ続きそうです。

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人生は続く。

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怒りは人生を駄目にする。

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新潟、群馬、神奈川、成田、ドンムアン、バンコク、チュムポーン駅を経由して、爆揺れするフェリーにしがみつきながらタイの南部にあります雨季ど真ん中のタオ島に到着しました。私、坂爪圭吾は基本的に呼ばれた場所なら何処にでも行くスタンスで生きておりまして、11月9日はバンコク、12-13日は関東圏、16日は北海道、17日は福岡、21-22日は山口県及び広島県、24日は東京、30日は新潟で暇を持てあましております。

 

【11月18日(金)は佐賀県に行くことになりました!】あいつが武雄に帰ってくる! ホームをレスしてヒットした!!! 坂爪圭吾を囲む会

 

様々な方々と出会う日々を過ごしながら、ひとりの時間と同じ位、人とリアルに対面してお話をする時間も大切なのだということを感じています。もしも、上記の日程で「時間もあるから坂爪圭吾を囲む会的なサムシングを企画してもいーよ!」という方が奇跡的にいらっしゃいましたら、気軽にご連絡をいただけると幸いです。規模の大小などは問いませんので、ピン!と来た方はお気軽にご連絡ください!!

 

連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

 

おはなをあげる。

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先日、11月3日は国民の祝日ということもあり、私も「国民の皆様の生命を祝福したい!」と思い立ち、その時はたまたま神奈川県藤沢市にいたので「関東圏でお会いできる方々にリアルで対面をして、おはなをあげる」という企画を敢行しました。私は花を愛していて、また、花を愛するこころの余裕を愛しているので、誠に勝手ながら「是非とも、皆様とこの喜びをシェアしたい!」と思い立ちまして、このような企画を突然(その日の昼過ぎから当日限定で)開催させていただきました。

 

誰かひとりからでも連絡が来ればいいなあ程度に構えていたのですが、結果的に五組もの方々に実際に対面しておはなをあげることができまして、あろうことか「男性からお花をもらうなんて何年振りかしら!」と、涙を流して喜んでくださる方もいらっしゃり、こちらとしても「そんなに受け取ってもらえるなんて、こっちが幸せ!」と、貰い泣きをしてしまいそうになりました。ただ、おはなをあげてさようなら!程度に終わるものかと思いきや、皆様、ご自宅にあげてくださりお茶やお菓子を振舞ってくださるものだから、こちらとしても「新しい家族が増えた!」的な喜びを強く噛み締めることができた、とても素晴らしい時間になりました。

 

他にも感動的なシーンは108個位あったのですが、ひとつだけ言えることは「男性はもっと女性に花をあげたほうがいい!」ということです。切り花であればそれほど高価なものではないですし、多分、野花でも構わないのだと思います。大事なものは気持ちであり、今回の裏テーマは「アドバイスではなくおはなをあげよう!【WANDS風に言えば『愛を語るより口づけを交わそう』】」だったのですが、一輪の花が、言葉を超えた力を(受ける側にも与える側にも)授けることも確実にあるのだなということを強く実感した1日になりました。

 

世界をぼくらの遊び場に。

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いまはタイのタオ島にいるのですが、とりわけ特別なことをするでもなく、海辺にあるカフェのテラス席で寄せては返す波の音を聞きながらこのブログ記事を更新しています。私の好きな言葉に「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」というものがあるのですが、本当は書きたいと思っていたことが108億個位あったはずなのに、良くも悪くも「いまが幸せならそれでいいよね」的な気持ちになってしまって、小難しいことを書くことができません。

 

最近思うことは、遊ぶということが人生にとってどれだけ大切なのかということで、誤解を恐れずに言えば「人間には二種類いる。遊んでいる人間と、遊んでいない人間だ」みたいに感じることがあります。これは、巷で頻繁に耳にする「遊びと仕事の境目をなくす」みたいなことを言いたいのではなく、ただ、何かに夢中になって遊んでいるひとたちを見ると、見ているこちらまで楽しさが伝染してきていい感じになってしまう、最高に遊べる瞬間を見つけてそれを実行しているひとの姿は、本人的にも無意識のうちに周囲を「善の循環」に巻き込んでいるのではないだろうか、小さなこどもとかまさにそんな感じだよな、という風に感じています。

 

生産的であるとか、効率的であるとか、数値化できる損得勘定は一旦脇に置いておいて「なんだか知らないけど、これがやりたい!」と思うことを実際にやってしまっているひとの姿からは、いい風が吹いているなあと感じることの多い昨今です。自分のこころがピースフルであれば勝手にひとにも優しくしたいと思うものであり、自分をピースフルな状態に保つことは単なる自己満足ではなく、巡り巡って世界平和に貢献するのではないだろうか、それならば「まずは自分のご機嫌を死守する!【遊ぶ!】」ということは、とても大切なことではないのだろうかと感じています。 

 

怒りは人生を駄目にする。

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病気は身体のサインと言いますが、現代社会においては「言いたいことが言えないあまりに、身体が先に病気になる」ということが、とてもたくさんあるのだと思います。怒りや悲しみなどのネガティヴな感情を自身の内側に溜め込み過ぎると、自分でも気がつかないうちに腐敗をはじめてしまって、病気や体調不良という形を通じて「腐ってますよー!あなた、いま、腐敗してますよー!」というサインを放つ、みたいなイメージがあります。

 

また、言葉だけではない「肉体を通じたスキンシップ」も死ぬほど大切だと思っていて、どれだけ頭で考えてもどうにもならなかったことが一回のセックスで霧消した、みたいなことは往々にしてあるのだと思います。自分が抱えている問題の多くは表面的なものに過ぎず、実は「(いつも怒ってるひとはいいセックスをしていないだけで)ただ、温もりに触れたかっただけなのだ【あるいは、単なる睡眠不足か運動不足】」ということは、意外とあるあるなんじゃなかろうか、などと思うことがそれなりにあります。

 

怒りは人生を駄目にする。これは、最近のわたしの課題でもあり、いかに怒らずに日々を穏やかに過ごせるのかが当面の目標でもあり、自分を使った実験でもあります。昨日、タオ島のオフロードをバイクで滑走していたら見事に横転をして膝小僧が悲鳴をあげているのですが、これは神からの「お前、あんまり調子に乗るなよ」というポップな戒めと受け取り、傲慢になりそうな自分の萌芽を発見しては摘み取り、摘み取り、罪を取り、より一層のイノセントな日々に磨きをかけて行きたいと思いました。

 

 

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人生は続く。

 

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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

あなたは素晴らしい存在だ。

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新潟市西区の愛するカフェ「イロハニ堂」が10月31日で閉店することになり、これは絶対に駆けつけなければならない(from熱海)ということでWEB上に公開しているスケジュールに『新潟』と記載したものの、エコノミックな理由で「最悪の場合はヒッチハイクだな!」と思っていた。ら、奇跡的に新潟在住の方から「ちょうどその日に出張で東京にいるのですが、もしよろしければ、交通費は負担するので新幹線で一緒に帰りませんか?」というご連絡をいただいた。

 

非常にありがたいことに11月23日(水・祝日)には広島県尾道市でイベントを開催していただけることになり、こんなことを偉そうに書くことは気が引けてしまうけれど、家や金がなくなってから、圧倒的にひとの優しさに触れる機会が増えた。「なんでそこまでしてくれるんですか!」と思わされることが、ほぼ、毎日のようにある。これは決して自慢をしたい訳ではなく、ただ、世界や人間は「信頼に値する」のだということを強く実感する。渡る世間に鬼はなし、自分を閉ざせば世界も閉じるが、自分を開けば世界も開く、多分、人の心の中には「お互いに助け合いたいと思う素晴らしい部分がある」のだということを、身をもって実感する。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークライブ@尾道

 

私も、出世したなあ。

お言葉に溺れて新幹線に同乗させていただき、この日、東京駅で待ち合わせをすることになった。この日が初対面の男性(以降、K様)だったのだけれど、その方は新潟市内でフリースクールをやっていらっしゃる方で、新幹線の中で「今度、是非、お話会をやってくださいよ」という風に言ってくたさった。私は、新幹線に乗せていただいた御恩があるばかりではなく、何よりもその方の瞳があまりにも綺麗なものだったから「もちろんです!」と答えた。

 

すると、K様は「ありがとうございます!では、明後日なんていかがでしょう?」と満面の笑顔でおっしゃり、私は「明後日!早っ!やりましょう!この速度好きです!」ということになった。K様は「では、いまからイベント告知のメールマガジンを書きますね」と言いながら、新幹線の車内でマックを開き、カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ!!と音速でキーボードを打ち始めた。新幹線の車内で仕事をするK様を横目に「ああ、なんだか、いま、それっぽいことをしている!」という気持ちになった。

 

新潟駅に着いて新幹線を降りると、あろうことかK様がお寿司をご馳走してくれた。私は「新幹線にお寿司とか、VIP過ぎる!(新宿駅から東京駅までは歩いて移動をしたのに、落差が激し過ぎる!)」と恐縮に震え、さすがにそこまでしていただくのは非常に申し訳ないという旨を伝えると、K様は「いやいや、いつも坂爪さんのブログには力をもらっているので、これはせめてものお礼です」みたいなことを言ってくださり、私は、何か大きなものに感謝をしたくなった。帰り際、私も出世をしたなあなどと思いながらK様に全身全霊の御礼を伝えた後に、実家のある小針駅まで歩いて帰った。

  

調子に乗ると即死する。

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こちらは、イロハニ堂の店主サカノヒロミさん(通称・ヒロミ1000000ボルト)との写真です。この日、私は大学院生の男の子【かずし】に珈琲&ケーキをご馳走していただきました。数年前だったら「いい大人が、大学生に奢られるなんて!逆だろ!」みたいに思う自分もいましたが、いまでは、そういうことをあまり思わなくなりました(人間関係に上も下もない、あるのは「ひとりの人間」と「ひとりの人間」だけである、的な思考になりました)。

 

帰り際、今日は来てくれて本当にありがとうございましたと告げるサカノさんの瞳からじわっと涙が溢れて来そうになるのを目撃してしまって「やばい!これはもらい泣きをするパターンだ!」と思った私は、挨拶もそこそこに店を退出してしまった。素晴らしい瞬間だと思ったし、うまく言葉にできないけれど、美しい瞬間だと思った。やはり、実際に足を運んでリアルに顔を合わせることに勝るコミュニケーションはないなあと思いながら、実家のある小針駅まで歩いて帰った。

 

三人兄弟の末っ子として生まれ、自営業を営む両親からは基本的にほったらかされて育った私は、何かあるとすぐに調子に乗ってしまう悪い癖がある。いまの自分があるのは、自分が凄いからではなく「自分を生かしてくれるひとたちが凄いからだ」ということを忘れてしまった瞬間から、自分の中に濁りが発生して、純度は下がり、傲慢になり、結果的に痛い目を見るようにできているのだと思う。いまあるものに最大限の感謝を示しながら、同時に、絶対に調子に乗らないこと。いまあるものを当たり前だ【何かをしてもらって当然だ】と思った瞬間から、多分、自分の中にある純度は簡単に濁るのだと思う。

 

やばさぎっしり、新潟。

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新潟在住の女性で、写真が好きだという方と出会った。今回、このブログ記事で使用している風景写真のすべては、その女性(以降、H様)が撮影したものになります。私は、普段、カメラ機材などは持っていないので自分のiPhone5sで撮影した写真をブログ内で使っている。H様が撮影しているこれらの写真も、すべて携帯で撮影したものになります。

 

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H様の写真を見ていたら「ああ、新潟にはこんなに素晴らしいものたちがあったのか!」と、嬉しさがこみ上げた。それは、既に紅葉がはじまっている越後の山々に対して抱いただけのものではなく、こうした美しい風景を美しいと思うH様のこころに対しても、また、同じようにK様のこころに対しても、かずしのこころに対しても、サカノさんのこころに対しても、私は、同じような感覚を抱いたのだと思う。

 

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何かを「素晴らしい」と思えるということは、既に、自分の中にその素晴らしさが備わっているからなのだと思う。自分が愛するものに出会えた瞬間のよろこびは、自分が素晴らしいと思える場面に立ち会えた瞬間のよろこびは、その対象だけではなく、その対象を通じて「自分自身を含めた世界全体を賛美している」のだと思う。自分と世界は切り離されたものではなく、実は、境目のない同質のものであるという感覚。だからなのだろうか、私は、私が好きだと思えるものに出会えるほどに、大袈裟な言葉で言えば「生きる力」をもらっているような、そういう気持ちになることがある。

 

旅をする木

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作旅をする木』です。星野道夫さんの著作には名作が多いですが、この本は、その中でもとりわけ大好きな一冊になります。下記に、私の好きな星野道夫さんの言葉をのべつまくなし列挙します。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。
僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。
バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
偶然の一致に意味を見出すか、
それとも一笑に付すか、
それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。
その大切な何かが、
たましいというものだった。
一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。
もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい
寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。
離れていることが、人と人とを近づけるんだ。
人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。
大切なのは、出発することだ。
この世に生きるすべてのものは
いつか土に帰り、また旅が始まる。
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・ その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

あなたは素晴らしい存在だ。

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新潟で開催されたイベントには、様々な年代の方々が足を運んでくれた。実際にリアルに対面して話せることのよろこびは大きい。参加者の方々の中には「私も、いばやの嘉向徹君や保科亮太君と友達なんですよ」という方もたくさんいて、そのひとたちの話を聞いていることがとても楽しかった。私は、いばやの人達を愛している。だからなのだろうか、いばやの人達の話を聞けることがとても嬉しい。

 

参加者の女性S様が、こんな話をしてくれた。「ある日、嘉向徹君と保科亮太君が、私の事務所まで遊びに来てくれたんです。あの人たちはまったくお金を持っていないのに、自分たちの生活だけでも精一杯だと思う(坂爪註・破綻をしています)のに、その日はかすみ草の花束も持ってきてくれて、ああ、この子たちはなんていい子達なんだろうって思ったんです。」と。私は、この話を聞いて、やっぱりこの人達は最高だなあと嬉しくなった。

 

自分が素晴らしいと思うもの、同じように素晴らしいと思ってくれるひとの存在は、大きな力になる。時に、自分自身も信じることが難しくなる場面もあるけれど、ひとに優しくすることと同じくらい、自分にも優しくすることが大切な場面があるのだと思う。自分が自分に優しくすることができない時、周囲のひとの声が、周囲のひとの行動が、パッと輝く前向きな力を与えてくれることがある。「あなたは素晴らしい存在だ」と、実際に言葉にして伝えること、相手に対して、自分に対して、お前はお前で最高に素晴らしいと言えるやり取りがより多く交わされるようになったら、世界は簡単に平和になるのではないだろうかと、そんなことを考えていた。

 

 

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人生は続く。

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