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いばや通信

ibaya≪いばや≫旧共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

死なないためのユーモア。

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10月5日(水)19時から、東京の国立市でトークイベントを開催していただく運びになりました。どなたでも参加できる内容になるので、是非、お時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください。とてもじゃないけれどブログには書けないようなあれこれを、リアルの空間をお借りしてお話させていただけたら(あと、自分が一方的に話すよりも参加者のみなさまのお話も聞きたい!)と思っています。

【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会in 国立

ブログに書ける範囲内の、最近思ったことをまとめます。

1・動物占いだけが俺を肯定してくれた。

最近は動物占いにはまっておりまして、まず、自分が「ネアカの狼」であることが判明しました。WEBなどで検索をしていただけるとわかるのですが、ネアカの狼の特徴としては「ひとりの時間や空間がないとダメになる」とか「初対面はとっつきにく」などがあります。でも、付き合ってみると以外と可愛らしい部分がたくさんあることがわかり、かつ、ハートがピュアであることもわかります。

私は、何かあるとすぐにひとりになりたがる傾向が顕著にあるのですが、そんな自分を「ダメだ!ダメだ!弱者だ!」と責めてしまうことが頻繁にあります。そんな時は腐ったトドのような顔面になることが多いのですが、動物占いだけは「大丈夫。大丈夫。そんなあなたでも、生きてていいんだよ」と言ってくれているような気がして、それ以来(といっても、数日前から)動物占いを贔屓するようになりました。

動物占いだけでも人間は12種類に分類されるので、当たり前のことですが「誰もが異なった特性をもっているのだから(【例】自分軸を持った方がいいひともいれば、自分軸とかないほうがいろいろなことがスムーズに進むひともいる等)、違いを否定するのではなく、違いを楽しむ精神的な余裕がゆとりを生むのだ」ということを思いました。


2・新潟のひとは優しくて陰湿。

昨夜、新潟市西区イロハニ堂さんで「欧州紀行の結果報告会的なサムシング」を開催しました。そこでは様々な方々と話をする機会に恵まれたのですが、新潟県のひとは「(雪国で冬はまったく晴れないからなのでしょうか)表面的には優しいけれど、内面的には陰湿で陰険なひとが多い」印象があります。

私自身も、高校を卒業するまでは新潟市内で暮らしていたのですが、基本的に「自分は友達も少なくて夢も希望も何もない、生きていてもしょうもない存在だ」みたいな風に自分のことを思いながら生きていました。多分、似たようなひとはたくさんいるのではないだろうかと睨んでいます。だからなのでしょうか、北と南ではどことなくユーモアの種類も異なるような気がしていて、北に行くほど「自虐生が高まる」ように感じています。これは余談になりますが、私は、自虐性の高いひと(自意識に苦しむひと)が好きです。


この前、ロンドンに行った時に「(非常に僭越な話ではありますが)新潟に似ている」と思いました。多分、南国の島々でUKロックを聞いても何も身体にはいってこないと思うのですが、裏日本を覆い尽くす曇天の中でレディオヘッドのハイアンドドライなどを聴いていると、五臓六腑に染み渡る(「ほっといてくれ」的な)共感を覚えることがあります。これは余談になりますが、スペインやオランダに行った時に「ここは本当に素晴らしい場所だと思うけれど、みんなが幸せそう過ぎてついていけない」などと思いました。逆に、モスクワやヘルシンキなど、ある程度の自殺者を安定して輩出している国には、親しみにも似た感情を覚えました。


3・カウンセラー殺人事件。

いきなり何を言うのだ!と思われるかもしれませんが、私には、やりたいこととか夢とか理想とか野望とか、そういうものがありません。しかし、やりたいことがないなどと言うと「お前は無気力な人間だな!死ね!」と言われているような気がして、できるだけ「夢や理想を持っている風」に生きていた時期があります。でも、そうしたふりも長くは続かず、最終的に「俺は俺だからいいのだ」と、やりたいことは何もない自分を肯定的に見れるようになってきました。

それでも、稀に「いやいやそんなことないでしょ!やりたいことは必ずあるはず。あなたは自分のこころに蓋をして生きてきた時期が長いから、でも、大丈夫。安心して。勇気を出して、自分のこころの声を聞いてあげて。さあ、あなたのやりたいことは何??ほんとうは、どうしたいと思っているの??」的なことを聞いてくるカウンセラー的なひとと出会うことがあります。

私は、最初は「はあ」とか「へえ」などと答えているのですが、あまりにもカウンセラー的なひとが「ちゃんと自分と向き合って!こころの声を聞いてあげて!さあ、あなたのやりたいことは何!」などと聞かれてしまうと、最終的に「しつこいお前を殺したい」などという非常にバイオレンスな声が自分の内部から生まれてしまうために、いまでは、カウンセラー的なひとを見かけると一目散に逃げ出すようになりました。

何が言いたいのかというと「やりたいことは必ずあるはず」という謎の前提や「やりたいことをやらなければいけない」という強迫的な雰囲気は、時に、ひとを苦しめてしまうことがあるのではないだろうかということです。上記に挙げた例はひとつの冗談に過ぎないのですが、親や周囲の人間の過干渉が原因で、それを受けたこどもとかが「お前を殺したい」という復讐の感情を抱くようになってしまったら、裏目の中の裏目になると思いました。これは余談になりますが、ネアカの狼としては「ほっといてくれる」ひとの姿に愛を見ます。

4・ヨガの先生はヨガをやった方がいい。

先日、わたしの友人が複数の人達と一緒に登山をしました。登山のメンバーには、普段、ヨガの先生をやっているひとがいて、登山中も「ヨガ的にはこうやって歩くといいんだよ」とか「こういう呼吸をするとこころのモヤが晴れるよ」的なアドバイスをしてくれたのだそうです。それを聞いていた友達は、最初は「へー!なるほど!素晴らしい知識をありがとう!」と感心をしていたのですが、徐々に様子がおかしくなってきました。

前半は、まだまだ体力的にも余裕があるために、ほがらかなムードの中でみんなで登山を楽しんでいました。しかし、後半にさしかかり、みんなの体力が尽きてくるほどに会話も減り、いよいよ『人間の本性が露わになりやすい』状態になってきました。最初にイライラしはじめたのは、ヨガの先生でした。疲れたとか、休みたいとか愚痴をこぼすようになり、付き添いのガイドのひとに「あと何分で終わりますか?」と尋ね、ガイドのひとが答えてくれた時間になっても(途中で休んだりしたために)終わらず「時間になっても終わんねえじゃん!!」と、ガイドさんに向かってブチ切れていたのだそうです。

わたしは、これを聞いて「なんて面白い話なのだろう!」と思いました。誤解されると困るのですが、わたしはヨガの先生という職種を罵倒したい訳ではありません。わたしの感想は、ヨガの先生をやっていると言う人に「表面的にはやさしそうだけど、なんだか怖い。裏がありそう!」と感じた経験が、いままでにもたくさんあったなあということです。これは完全に余計な御世話ですが、ヨガの先生はもっとヨガをやった方がいいと思いました。

5・青いスーツのおばさん。

生きていると「人生はギャグだ」と思うことがあります。多分、誰もが大なり小なり矛盾を抱えた生き方をしていたり、矛盾を抱えた発言をしているのだから、そういった時のベストな対処方は「違いを指摘して是正すること」ではなく「的確なツッコミをいれること【笑いに昇華すること】」ではないのだろうか、と思いました。論理的におかしなことを言っているひとは、漫才でいうところのボケを担当してくれているのだから、こちら側が見事なツッコミをいれることで「無事に笑いが成立する」のだと思いました。

他にもいろいろな話をしたのですが、このような場所に書いてしまうと、誰かを深く傷つけてしまいそうなので書くことができません。最後に、手前味噌ではありますが自身の体験を綴ります。わたしが、まだ、家のない生活をしていた頃(こんな風に過去の話ばかりをしている自分がすごいダサく感じることがあります)、日本のF県で開催されたトークイベントにゲストとして招待されたことがあります。

その日、わたしが壇上で軽い自己紹介を20秒程度した(家のない生活をしています的なことだけを言った)瞬間に、参加者のみなさまから「家がないとはどういうこと?ホームレスなの?なんで働かないの?親にはなんて言っているの?みんなに迷惑をかけているってこと?そんなんで生きていけると思っているの?大人を馬鹿にしているの?感謝が足りないんじゃないの?保険金は?税金は?食費は?結婚は?老後は?あなたは結局、逃げているだけでしょ???」的なことを一方的に言われ続けてボコボコにされていました。

あまりにもボコボコにされるものだから「これはコミュニケーションがとれないな」と思ったわたしは、このイベントに遊びに来てくれていた自分の友達を笑わせてみせるというところに焦点を定めました。どれだけボコボコにされても構わないから、今日、ここに来てくれている友達を笑わせてやりたい。それだけが自分のゴールであり、あとはすべておまけのようなものになりました。

すると、もうひとりのゲストでもある市議会議院のおばさんが、わたしを見て「あなたは結局、目立ちたいだけなんでしょ?」と言いました。そのおばさんは、コンデンスミルクよりも濃いメイクをしていて、かつ、U字工事よりも派手な青いスーツを着ていました。これはチャンス!と思ったわたしは、咄嗟に「でも、僕は青いスーツは着ません」と答えました。その瞬間、わたしの返答を聞いていた友達の腰が少しだけふわっと浮き、わたしは「よっしゃ!」と思いました。

青いスーツのおばさんは、それを聞いて「あなたったら、まったく・・・」と鼻息を荒くしたあとに沈黙をしました。その後、わたしはまた別のひとびとから引き続き罵倒のシャワーを浴びることになるのですが、こころは非常に清々しく、とても良い風が吹いていました。話が長くなりましたが、何を言いたいのかというと「死なないためにはユーモアが必要」ということです。

死なないためのユーモア。

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ほんとうは、今日、今月中に提出しなければいけない各種書類の手続きがあったのですが、あまりにも空が綺麗だったので「すべてを放り出して、海に行こう!」となり、結果的に海にいった自分と(平日の昼間であるにも関わらず仕事をサボって)一緒に海に行ってくれた友達のことが大好きです。どうしてなのでしょうか、社会的にはやってはいけないことばかりをしてしまうけれど、多分、今世は仕方のないことなのだと思います。


最後にちょっとだけ真面目なことを言うと、平和とは「こころの状態」だと思います。世界平和を願うなら、まずは、自分のこころを平和な状態にしておくこと。幸福や充足感は、多分、平和な心持ちの中でだけ感じることのできる感情だと思います。自分のこころの状態が崩れるほどに、見るひとすべてが敵になり、恐怖と猜疑心に包まれて、世界は優しさと色彩を失い、殺伐としたものになってしまう。そして、何よりも悲しいことは「愛する家族や恋人(そして自分自身)のことさえも、疑いの目で見てしまう」ことだと思います。


自分のこころが平和な状態に保たれている時、きっと、それは世界から「敵が消えている」状態になるのだと思います。無敵とは「敵がいない」ことであり、決して完全無欠な個人になることではないのだと思います。個人的な憎しみや恐怖やある種の不機嫌さを抱いたままでは、ネガティブな感情にドライブをされて、利用されたり、利用をしたり、まどわされたり、まどわせてみたり、世界に『敵』を増やしてしまう。幸福や充足感とは「こころの状態」のことであり、自分を楽しませること、自分のこころを満たすこと、自分の状態をピースフルなものに保つことは決して自己満足なんかではない、多分、最優先事項なのだと思いました。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

野垂れ死にこそ、男のふるさと。

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アムステルダムを経由してオランダ各都市を巡り、ベルギーのブリュッセルで二泊をした後にフランスのシャルルドゴール空港に到着した。数時間前に羽田空港に到着をして、これから生まれ故郷でもある新潟県に足を運ぶ。本日、9月28日(水)18時から新潟市西区イロハニ堂で「欧州白書の結果報告会的なサムシング」を開催させていただく運びになりましたので、お時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。


合言葉は「やわな生き様じゃとても絵にはならないね」ということで、自分のケツを叩き続ける日々のど真ん中にいる。生きていると本当にさまざまなことがあるけれど、欧州最終日の昨日、ブリュッセルの駅前でタイカレーを食べながら「野垂れ死にこそ男のふるさと」という言葉が降臨してブルッと震えた。ああ、そうだ、死んだら死んだで仕方がないのだ、生きられるだけ生きたら、適当な場所で野垂れ死ぬのみ。なぜだろうか、この言葉を思うと、不思議と「生きてやるぜ」という気持ちになる。

こどもの仕事が遊ぶことならば、大人の仕事は「もっと遊ぶこと」。


フランス、イギリス、オランダ、ベルギーの四カ国を巡った今回の旅路の中で、一番ひとびとが幸福そうに見えたのがオランダだった。街全体に「ひとの幸せを中心に考えている」雰囲気が漂っていて、絞り出すような笑顔のひとは少なく、溢れ出すような笑顔のひとが多かった。隣のユトレヒトではベーシックインカムを導入していて、いよいよ「必ずしも働かなくてもいい時代」は近づいているのかもしれない。逆に、一番重苦しい雰囲気が漂っていたのはベルギーだった(多分、国旗に黒色を使っているのが原因だと思う)。

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こどもの仕事が遊ぶことならば、これからの大人の仕事は「もっと遊ぶこと」になるのかもしれない。もしも何かしらの天変地異が起きて自分が総理大臣になる日が来たら「ベーシックインカムを導入するので、政治家は無給でもやりたいと思うひと(ベーシックインカムの所得給与の範囲内で、充分に満ち足りた生活のできるひと)がやってください」とお願いをするだろう。働かなくても所得が給付されると人間の勤労意欲が削がれてダメになるという意見もあるけれど、多分、人間はもっと信頼に値するものだと思う。

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金がないから公園で食事を済ませる。これが意外と楽しかった。こどもの頃は、金もない癖に謎に楽しい日々を過ごしていた。最高のパフォーマンスやクリエイティビティは、多分、あらゆる恐怖や強制や管理から自由な状態、リラックスできる環境の中で発揮されるものだと思う。仕事から遊びの要素がなくなると、ある種の奴隷みたいなことになる。大人になろうとも、個人的には「遊びまくっていたら、結果的にそれが仕事になった【それがダメなら野垂れ死ね!】」みたいな形が理想だと思っている。


大事なことは、ゆっくり進むこと。

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オランダの森の中にある美術館に足を運んだ。

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金のない私は「ここら辺に生えている木とじっくり会話を交わしているね」ということで、美術館の外で待機をしていた。森林に吹き抜ける風は心地よく、ああ、自分は自然の寛容さが大好きなのだなあということを思った。昔は美術館が大好きだったはずなのに、最近は、入場料金を必要とする施設に対する違和感(商業主義に乗せられてたまるか!という謎の反発)が強い。ただの強がりが9割だけれど、心の底では「ほんとうに素晴らしいものは、無料か、あまりお金のかからないものがほとんどだ」と思っている。

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森の中を進む。

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無音の空間が広がる。

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何もないが、

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何もないがある。

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自然に融け出す感覚は、素晴らしいものだ。


時間に追われるような日々は好きになれない。それでも、無意識の内に「次はどこに行こうか」「何を食べようか」「何時にここを出ようか」「交通手段は何にしようか」「金は足りるだろうか」「宿は見つかるだろうか」などと、先のことばかりを考えてしまう瞬間がある。そんな時は、中国人の老賢者が言っていた「スローリー、オールウェイズスローリー」という言葉に支えられた。大事なことは、多分、ゆっくりと進むことだ。ゆっくりと進むことと、いま、この瞬間を丁寧に生きることは似ている。

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美術館近くの家。

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宿からの景色。

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「生命に乾杯!」

道端で眠ったからこそ、布団のありがたみがわかるのだ。

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オランダから電車を乗り継いで、ベルギーに着いた。

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おすすめしていただいたレストランでビーフシチューを食べる。美味しかったのだけれど、ほんとうに美味しかったのだけれど、会計を見た瞬間に「死にたい【この金があれば…この金があれば…!!】」と思ってしまった。私は、多分、どうしようもない貧乏性なのだと思う。これは余談になるけれど、家のない生活をしていた頃「家は自分(男)には不要で、女性やこどものために必要なもの【男の役割は家を作る(0を1にする)ことで、女の役割は家を整える(1を100にする)こと】」ということを思った。そして「男は、女のひとを笑わせておけたら一人前」という言葉を思い出した。

誤解を恐れずに言えば、多分、家も料理も高価な服もあらゆる贅沢品も、男のためには必要ないもの(目の前の女性やこどもを、笑顔にするために必要なもの)なのだと思う。どうしてなのだろうか、頭の中で、再び「野垂れ死にこそ、男のふるさと」という言葉が脳裏をよぎった。きっと、男は、女のひとを笑わせておく(自分に必要なものを手に入れるというよりも、大切なひとにとって必要なものを手に入れる)ために、時には野垂れ死ぬことも厭わぬ覚悟で、無駄に身体を張りたがる生き物なのだと思う。

と、ここまで書いて、何がなんだかわからなくなった。道中、何回か死にたくなることがあったのだけれど、これは「野垂れ死ね!」の合図なのだと解釈をした。私は、多分、また家のない生活のようなものを送りたいと思っているのだと思う。道端で眠ったからこそ、布団のありがたみがわかるような、自分には何もないからこそ夕日のまぶしさがより一層の輝きを持って全身に染みてくるような、そういう瞬間を送りたいと願っているのだと思う。結局、いつまでたっても自分のことばかりを考えているひとりのこどもが、自分という人間なのだと思う。

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結果的に、どこの国でも公園にいた。

土に還るまでが人生です。

ひとりの女性と、これだけ長い時間を一緒に行動するのははじめての体験だった。いいことも悪いことも含めて、この数日間、いろいろなことがあった。何かしらの事情で二人の間柄がぎくしゃくする度に、私は「野垂れ死にこそ、男のふるさと…」「オウム、シャーンティシャーンティシャーンティ…」「死ななきゃいいんだ、死ななきゃとりあえず…」「スローリー、オールウェイズスローリー…【女は波…男は海…女は波…男は海…】」などのマントラを繰り返した。


私は単純な人間なので、空が青ければ、大概の問題はどうでもよくなる。これは何度目のことになるのだろうか、私は、やはり「晴れやかなものが大好きだ」ということを思う。ジメジメとした間柄、互いに責任をなすりつけ合うような関係性、中途半端な未練や被害者意識などのケチ臭い考え方は、どうしても好きになることはできない。金があろうともなかろうとも、才能があろうともなかろうとも、世間的な評判や由緒正しき血縁などがあろうともなかろうとも、生きるのならば『晴れやかな生を生きたい』と思い、同時に、死ぬのならば『晴れやかな死を死にたい』と思う。


帰り際、フランスの空港で「とりあえず死なないで日本に戻れるからよかったですね」と私が言うと、ちあきさんは「家に帰るまでが遠足ですよ」と言った。負けず嫌いの私は、即座に「土に還るまでが人生ですよ」と言い返した後に今世最高のドヤ顔を決めた。自分で言ったあとに、ああ、ほんとうにそうだなあと思った。いろいろなことがあるけれど、生きている限り、日々は続く。誰もが日々の途上であり、誰もが未完成の作品の制作過程のど真ん中にあるのだ。死にたくなる時もあるけれど、何度でも「野垂れ死にこそ、男のふるさと」という言葉を思い出そう。このおまじないを口にすると、不思議と「生きてやるぜ」という気持ちになる。


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人生は続く。

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

奇跡は余白に舞い込む。

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パリを経由してロンドンに到着し、数日間、エセックスに暮らす日本人女性とイギリス人男性のご夫婦の家に滞在をさせていただいた。パリからの往復航空券を負担していただいただけでもありがたいことなのに、高級ホテルのような素晴らしい客室と、1日3食の絶品手作りのイギリス料理、プリペイドの携帯を二台とオイスターカード(日本で言うSuicaのようなもの)を二枚、そして、もしもの時のために55ポンドまで持たせてくれた。

ミカさんは、ひと言で言えば「粋なお姉様」という素晴らしい人柄の女性で、あらゆる場面で最高の心配りを与えてくださり、かつ、そこに「一切の恩着せがましさがない」ことがほんとうに凄い。終始「何かをしてあげるというよりも、自分がやりたいからやっているだけなのよ」という雰囲気があり、そのため、受け取る方もある種の負担や緊張感を覚えずに受け取ることができる。やりたいがやらなきゃ!になった瞬間から、多分、前向きな感情は徐々に濁りはじめるのだと思う。南国の風のようにカラッと晴れ渡るミカさんとの時間を通じて、私は「こんな風に誰かに何かを与えられるような人間になれたなら」と思った。


わたりBBQ in LONDON 修羅場に大小はない。

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ミカさんのご好意で、わたりBBQ in LONDONが開催された。直前の告知であったにも関わらず、ロンドン在住の日本人の方々が集まってくださり、静かな空間の中でゆっくりと話をする機会に恵まれた。私の小学校時代の同級生のAKIも遊びに来てくれて、現在、彼女はワーホリのような制度を使ってロンドンでヘアメイクアーティストとして活動をしている。

彼女曰く「数年前にガンみたいな症状が出て、その時にものすごい死を身近に感じた。そこで『前からずっとロンドンに住みたいと思っていたのだから、やろう』と一念発起し、いま、こうしてロンドンにいられることをとても嬉しく思う。嬉しく思うはずなのに、あれだけ死を身近に感じたはずなのに、そのことを簡単に忘れている自分に気がつく。つい最近、こうした初心のようなものを強く思い出せる出来事があって『ああ、仕事でいろいろとつらい思いをすることもあるけれど、そういうものも全部込みで、いま、自分はものすごい幸せな状態にいるんだ』ということを感じた」のだと話してくれた。

彼女の話を聞きながら、私は「人間、生きていれば誰もがこっそり修羅場を乗り越えているものなのだなあ」などと、しみじみとしてしまった。余談になるけれど、私の好きなAKIのエピソードは、ロンドン在住を決意してから「よし!これから日本で仕事を頑張って2年間で二百万円貯めるぞ!」と決意をしたものの、結果的に、2年後の出発の時には貯金を決意した2年前よりも貯金残高は減っていた(そして、そのまま実際に移住をしたけれどもどうにかなっている)というものです。人間、実際にやってしまえば意外とどうにかなるのだということを体現してくれる、素晴らしい友達のひとりです。

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ご自宅の庭にある、花とベンチ。

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特大サイズのシャンパンまで!

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日曜日にはサンデーローストを、

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チキンを切るのは、男性の役割。

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猫と。

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庭の奥にある家屋は、イギリス人の旦那さんが趣味も兼ねて自力で建設をしている。完成した暁には、ヒーリングルームとしても使用ができたらと思っているのだと話してくれた。日本に限らず、ロンドンでも忙しい日々の中で精神的なゆとりをなくしているひとはたくさんいる。ストレスが心身に与える影響はすさまじく、これらを緩和する一助になれたらと旦那さんは話してくれた。その時の旦那さんの表情が素晴らしく、ああ、ひとは自分のやりたいことをやるのに限るのだと思った。

WALKING IN THE WOODS

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ミカさんご夫婦のご好意により、ケント州にある森の中に連れていってもらった。

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ソロー「森の生活」を彷彿とさせる森で、

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空気が綺麗だ。

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ミカさんご夫婦お気に入りのスポットでもあり、

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すれ違うひとは誰もいない、貸切の空間になる。

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あたり一面に芳香を放つ花や、

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野生のラズベリーも群生している。

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森の近くに建つ家。

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自然と調和をしている。

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イギリス人は庭や森を愛していて、

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閑静な自然の中では、富裕層の人々が暮らしている

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街の雰囲気も落ち着いていて、品があり、

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こころなしか、人々の表情にも余裕を感じる。

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花の周りにはミツバチが集い、

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公園には、様々な動物が顔を出す。

ロンドンからアムステルダムまでの一連の流れ。

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1・ロンドン在住の女性T様から「もしよろしければお会いできませんか?」という連絡が届く。私は快諾をする。そのことをミカさんに報告する。すると、ミカさんから「ロンドンの街中で会うのは騒がしくなると思うから、我が家でランチとアフタヌーンティーでもやりませんか?」という素晴らしいご提案をいただく。私は、イギリスに来てから何度目のことになるのだろうか、ミカさんの提案力にまたしても脱帽をする。

2・私はT様に連絡をする。「家主のミカさんが『アフタヌーンティーをやりましょう!』と言ってくださっているので、是非、T様さえよろしければ私たちとご一緒しませんか?」という連絡をする。それを受け取ったT様は「見ず知らずの私を、ご自宅のアフタヌーンティーに招待してくださるなんて!ありがとうございます。必要なものがあればお持ちいたしますので、その際は遠慮なくおっしゃってください!」という返信をくれる。

3・私は「必要なものはありませんので、手ぶらで来てください」と言いかける。言いかけたものの、あ、なんだかいまの自分はものすごいタバコを吸いたがっているぞということに気がつく。ロンドンの秋風を感じながらエスプレッソを片手に吸うタバコは確実にうまいだろうなあという妄想をする。しかし、タバコは高級品なので自力で買うことはできない。そこで、私は決死の覚悟でT様に連絡をする。

4・「こんなことを言うのはほんとうにあれですが、もし、もし、もしもよろしければタバコを一箱購買していただけたらものすごい嬉しいです!!」

5・私は、この程度のお願いをするだけでも「嫌われてもいい」という強目の覚悟を決めなければ、ひとに何かをお願いすることができない。この時も、たとえT様に嫌われることがあっても構わないという決死の覚悟と共に、メールの返信をした。すると、T様からは「よろこんで!与える喜びをありがとうございます!」という女神的な返信をいただいた。私はホッと胸を撫で下ろし、T様に深い感謝をすると共に「与える喜びを与える喜びをありがとうございます!」ということを思った。


6・踊る。

7・ミカさんの家でT様と出会い、皆でアフタヌーンティーを楽しむ。T様は言う。「旦那の転勤でロンドンに来てからまだ半年程度ですが、日本ではスクールカウンセラーの仕事をしていました。カウンセリングの世界では馴染み深い話ではあるのですが、小さな水槽で飼われていた魚は、大きな水槽に移しても結局小さな水槽にいた時と同じ範囲しか動かないようになるらしいのです。でも、この魚たちが広い範囲を泳ぐようになることもあって、その方法は『実際に広い範囲を泳ぐ魚を見せること』だというのです」

8・T様は続ける。「さかつめさんの生き方を見ていると、まさに、固定概念を超えて広い範囲を泳ぐ姿を見せてくれているみたいで、勝手に勇気をもらっています。こどもたちにも、普通じゃない生き方をしているおとなたちの姿を見せることは、きっと、大きな力になるのだと思います。今日はそのことを伝えることができたらと思っていたので、いま、こうして実際に伝えることができてとてもうれしいです」と話してくれた。私は「こちらこそうれしいです!」という気持ちになり、こころがあたたかくなった。

9・T様に「今後の予定は決まっているのですか?」と聞かれる。私達は「21日にパリに戻る飛行機のチケットがすでにあるのですが、24日にフランスで予定がある以外は、まだ何も決めていません。パリはすでに満喫をしているので、隣国のベルギーに遊びに行くのもありなのかなと思っています」と答える。すると、ミカさんから「何なら帰りの便はキャンセルしてもいいからね!ロンドンから高速バスも出ているし、フランスを経由しないで直接行った方が早い場合は、遠慮なくキャンセルをしてください」という女神様的な助言をいただく。

10・T様のスマホで高速バスの便を調べる。ロンドンからアムステルダムまで、片道20ポンド程度からあることを知る。所用時間は12時間。結果的に、私達はその日の夜発のアムステルダム行きのバスを予約する。予約する段階で、支払いのページが出る。私達が「クレジットカードの番号を伝えますね!」というと、T様は「あ、いいんですよ」と軽やかに答える。そして、そのままT様によって決済が行われる。私達は、それを眺めながら「これは、、、いったいなにがおこっているんだ!!!!!!」ということを思う。T様からは「何かこういうことをしてみたくって。すでにたくさんのものをもらっているので、これは、わたしの気持ちです」というようなことを言葉をいただく。

結果的に、いま、私はアムステルダムにいる。

奇跡は余白に舞い込む。

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いろいろなことがありすぎて、うまくまとめることができない自身の文章力の足りなさが歯痒い。皆様のご好意により、いま、アムステルダムからこの記事を更新することができている(高速バスの車内が激烈に冷えていたために風邪をひいてしまい、頭が朦朧としていてうまく文章が書けない)。連続する様々な出来事を通じて、まるで、いまの自分は「大玉送りの玉みたいだ!」と思った。うまく言えないのだけれど、様々な方々のお力によって、坂爪圭吾という得体の知れない奇妙な玉は様々な場所に運ばれていく。

家のない生活をはじめてから「奇跡は余白に舞い込む」ということを、自身の体験を通じて痛感するようになった。そしていま、ポヨーン、ポヨーンと運ばれて、当初は何も予期していなかったオランダに流れ着いていることの奇跡を思う。ほとんど無一文の状態でフランスに着いたのが13日、ロンドンに着いたのが16日、そして22日の今日はオランダで風邪をひきながら(マリファナではなく、ジンジャーパウダーをウェルターズオリジナルと一緒にお湯に溶かしたものをひたすら飲み続けながら)自身の幸福を噛み締めている。自身の幸福を噛み締めながら、日本の自宅で開催されている「逢初庵〜無料の宿屋〜」を利用してくださった方のブログ記事を読ませていただき、何か、不思議なつながりを覚えた。

【参考リンク】逢初庵|Aquaのブログ

スピリチュアル界隈では「2016年秋に何かが起こる」と言われているらしい。今日は秋分の日であり、私達の生きる時代はいよいよダイナミックな変遷の時期を迎えている(のかもしれない)。いままでの価値観が大きく変わるとしたら、果たして、何がどのように変わり、何がどのように残るのだろうか。これは完全に余談になるけれど、世の中が大きく変わる出来事として「戦争・天災・財政破綻」の三つがあるらしい。家のない生活をしていた頃、あるひとから「さかつめさんの生き方は、戦争や天災や財政破綻が起きた時にいちばん強い生き方ですね」と言われて、なるほどなあと思ったことがある。私には、これから何が起きるかなんていうことはわからない。ただ、自分がやりたいと思ってやっていたことが、結果として自分の身を助けてくれることがあるということは、何となくわかるような気がする。多分、我慢をするほど悪影響になるのだと思う。頭が朦朧としている。我慢は良くないことなのだと思う。自分の感情を押し殺しながらやることよりも、自分の感情を最高潮に生かしていけるほうにドライブをしていきたいと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

これは俺たちの旅であって、俺たちだけの旅ではない。みんなの旅、生きとし生けるものの旅になるんだ。

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パリに着いた。前回の投稿で「諸事情が爆発をして、いま、貧困の海に溺れている」と書いたところ、様々な方々から心配のメールをいただき優しさに包まれていた。これはもう何度目になるのだろうか、自分は生きているのではなく「生かされているのだ」ということを強く実感する。記事の最後にボーリングボーイズの動画をご紹介させていただいたところ、それを見てくれた女性の方から一通の連絡が届いた。

圭吾さん、こんにちわ!◯◯◯です。
昨日学校帰りにボーリングボーイズの動画を爆笑して観ていたらお金を拾いました。
面白さって最強なんだな!と思いました。

そこで面白募金をしてみたいなと思い、
誠に勝手ながら圭吾さんに振り込みたいんですが振込先を教えていただけませんか?
iPhoneから送信


こんなことってあるのね!と思った。私は弱者なので、なにかあるとすぐに弱気になったり物事を深刻に考えてしまう。しかし、そんな自分の惨めな湿り気を吹き飛ばしてくれるものは、いつだって周囲のひとたちが与えてくれる温かなユーモアだった。今世のテーマは「深刻にならないこと」でもあるために、可能な限りいろいろなことを笑い飛ばしていけたらと思う。


パリの街並み。

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パリの街は美しく、目に映るどの風景を切り取っても絵になる。吹き抜ける風が気持ち良く、カフェのテラス席で珈琲を飲むだけでも、簡単に多幸感に包まれることができる。聞いた話によると、パリの人々は夏になっても網戸を使うことはないらしい。虫がガンガンはいってくるのに網戸を使わない最大の理由は「美しくないから」ということで、その美意識の高さには驚かされる。多分、美しくものと一緒にいれば人間は勝手に美しくなり、醜くものと一緒にいれば人間は勝手に醜くなる。自分のこころが美しいと思うものを取り入れるように、自分のこころが美しくないと思うものからは、できる限り距離を置いておきたいと思う。

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ルーブル美術館セーヌ川のほとりを歩く。

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私は「観光名所を巡ることよりも、ひとの表情や街路樹や野良猫や花や鳥たちを眺めていることが好きなのだ」ということに気付く。自分の足で歩けば歩くほどに、まるで自分自身が街の空気に溶け出しているような感覚を抱く。バスに乗るよりも、電車に乗るよりも、飛行機に乗るよりも、可能な限り自分の足で歩いたほうが、文字通り「自分たちの足跡を其処に残せる」感覚を覚えることができる。

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晴れの日も雨の日も、パリの街並みは綺麗だ。

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徹底的にパンと乳製品を食べ続けている。

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これで7ユーロ程度。

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エスプレッソを飲み続けている。

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街に沈む日が綺麗だ。

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夜の街並みも綺麗だ。

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朝の空も綺麗だ。

これは俺たちの旅であって、俺たちだけの旅ではない。みんなの旅、生きとし生けるものの旅になるんだ。

うまく言葉にできないのだけれど、この旅を、そしてこの人生を「自分だけのものにしたくない」という感覚を抱くことがある。自分だけの旅をするのではなく、自分だけの命を生きるのではなく、自分が旅をするということがみんなの代わりに旅をするということにつながるような、自分の命を生きるということが結果として人類全体の命を生きることにつながるような、別々の命を生きているのではなくひとつの大きな命を生きているのだということ、言い換えるならば【私はあなたの代わりに生きていて、あなたは私の代わりに生きている】のだということを実感する、そういう生き方をしていたいのだという気持ちになることがある。

恩は「次のひとにまわしていくもの」

ロンドン在住の方から「必要な食料はすべて用意するので、わたりBBQ in LONDONをやりませんか?」という連絡をいただいた。そのため、これからパリを離れてロンドンに向かう。私が生きているということ、こうしてパリやロンドンに生けるということは、とてもじゃないけれど自分ひとりの力では達成することのできないものだった。そういうことを思う時、冒頭でも書いたように「自分は自分の力で生きているのではなく、様々なものの恩恵によって生かされているのだ」という気持ちになる。

【イベント詳細】わたりBBQ in LONDON

多分、恩は返すものではなく「次のひとにまわしていくもの」だと思う。自分がいま生きているということは、両親や兄弟、友達や恋人、学校や職場、先人の知恵や技術に大きく支えられていて、このブログ記事も「インターネットやスマホを開発してくれたひとがいるから」こそ、こうして更新することができている。これらの恩恵を思うとき、とてもじゃないけれど恩は返し切れるものではないのだということを強く実感する。言い換えるならば「ひとりひとりが様々な人々の恩恵によって成立しているのならば、ひとりひとりが愛や恩恵のカタマリである」ということだ。

生きているということは「生かされている」ということであり、そのことを深く実感した時に、多分、自分の役割が見えてくる。それは「いままで自分が受け取ってきた恩恵を、次は、ほかの誰かにまわしていくこと」だ。誰かにエネルギーを貰いたいと願うのではなく、自分はすでに多大なエネルギーを受けてきたのだという実感と共に、今度は「自分の順番だ」と思う時、エネルギーを受け取るのではなくエネルギーを与える側にまわりたいのだと思う時、泉のように自分の内側から湧き出すものを感じることができる。 きっと、大切なことは「自分はすでに多大な恩恵を受けてきたことを思い出すこと」そして「この感覚のバトンを繋げていくこと」なのだと、私は思っている。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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現状を打破する道はただひとつ、自分が恐れていることをやることだ。

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諸事情が爆発して、いま、貧困の海に溺れている。ブログには書けないようなことが連発してしまい、自分自身に「人間万事塞翁が馬!」と言い聞かせている。時を同じくして、ロンドン在住の方から「往復交通費は負担をするので、ロンドンまで来ませんか?」と声をかけていただき、16日から21日までロンドンに滞在をすることになった。絶望のどん底にいた時期に届いたメールだったので、私のハートは「死にたくなることもあるけれど、しっかりと生きていこう」と、奇跡のV字回復を果たした。


こうして実際に声をかけてくださる方々の存在はほんとうにありがたく、フランスでも「空港から市街地までは距離があるので、必要であれば車でお迎えにいきましょうか?」という善意に満ちたご連絡をいただいた。何かをしていただけることももちろんうれしいのだけれど、それ以上にメールの文面から伝わってくるそのひと自身の人柄がほんとうに素敵で、私のハートは「世界は素晴らしい!」というよろこびに打ち震えた。

私は、きっと、酷く単純な生き物なのだと思う。ちょっと嫌なことがあるだけで「もうダメだ、死のう」と思ってしまうけれど、夕日が綺麗だったり、ごはんが美味しかったり、ひとの優しさに触れた瞬間に「生きてきて本当によかった。これからも生きよう」と思い直す。一喜一憂を繰り返す自分の愚かさにあきれはてることもあるけれど、これが自分なのだから、駄目出しをする以上に愛していきたいと思う。

逢初庵【あいぞめあん】〜 無料の宿屋 〜

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日本を離れる間、熱海の自宅を「無料の宿屋」として開放することにした。誰でも自由に使ってくださいなどと言っておきながら、本音では「この家を大切に使ってくれるひとがいいなあ」などと思っている。表面的にはオープンなことを言っておきながら、多分、心の底では「誰にでも愛想良く対応をするというのはいまの自分には無理で、だけど、100人に会ったらひとりくらいは涙が出るほど素晴らしいひととの出会いがある。私は『このひとり』に出会いたくて、こういうことをやっているのだと思う」と思っている。


恐怖の実体とは何だろうか。

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貧困の海を泳ぎながら、私は『恐怖』について考えていた。お金がないことはいまにはじまったことではないけれど、いくつになっても胸のドキドキを抑えることができない。お金がないことは、要するに恐怖だ。クリシュナムルティは「恐怖はそれがいかなるかたちのものであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」と言う。自分のこころが恐怖心に覆われてしまった時、精神は緊張状態を強いられて、視野は狭くなり、場合によっては精神的な不調を生み出すこともある。

しかし、恐怖の実体とは何なのだろうか。私は、過去に四回ほど家を失うという体験をしている。家を失うまでは「家がなければ生きていけない。家がなくなるということは、イコール、死を意味する」と思っていた。しかし、実際に家を失ってみてわかったことは「快適ではないけれど、家がないくらいでは人間は死なない」ということだ。だから、いま、私にとって家を失うということは恐怖にはならない。


普通に家があった当時は、どれだけお金を稼いでいたとしても「何かしらの事情で仕事がなくなったら、お金がなくなったら、自分は路頭に迷う羽目になってしまうかもしれない」という恐怖と不安が、常に頭の片隅にあった。しかし、実際にホームをレスするという体験を通じて「恐怖が現実になってしまった」私は、その体験を通じて「意外とどうにかなる」のだということを肌で覚えた。

そしていま、私は「金がない」という事実に恐怖を覚えている。しかし、私の頭の中に住むリトルさかつめが「おいこらさかつめ、お前は家がなくてもどうにかなったというのに、金がないというだけでそんなにビビるような人間だったのか。いまのお前は、昔のお前とソックリだ。恐怖というまるで実体のないおばけと闘っているようなもので、そりゃああんた、相手は実体がないのだから勝てるはずがないよ。おばけは出てから怖がればいいのだ。もしもお前が『家を失う』恐怖を克服したように『金を失う』という恐怖を克服したいのであれば、そう、実際に金を失ってしまうことだ。そうすれば、恐怖はただの現実に変わる。現実は実体があるから、おばけと闘うよりは張り合いのあるものになるだろう」と言う。

傷つく前に傷つくな。

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乱暴にまとめると「やってみなければわからないことを、やってみる前にわかろうとするのは無理な話だ」ということであり、いつまでも恐怖に怯える日々を過ごしたくないのであれば、恐怖から目を背けるのではなく、恐怖をごまかすような生き方をするのでもなく、実際に恐怖のど真ん中に飛び込んでしまえばいいのだということだ。誤解をされると困るが、これらはあくまでも「私の考え方」であり、誰かに同じであることを強制するためのものではなく「自らのケツを叩くため」に言語化しているだけに過ぎない。

最高のパフォーマンスが発揮される瞬間とは、多分、人間が心の底からリラックスをしている瞬間だと思う。恐怖はリラックスの対極にあり、恐怖のあるところでは真の意味でリラックスをすることはできない。繰り返しになるけれど、クリシュナムルティは「恐怖はそれがいかなるかたちであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」と言う。私には、クリシュナムルティの言葉が強く響いた。そして、いまこそ『恐怖』に直面をする絶好の時期が自身に到来しているのだと感じている。

これだけ長文を綴っておきながら、私が感じている恐怖とは「これから愛する女性と一緒に欧州旅行に行くというのに、金がないという理由だけで辺鄙なものになってしまったら男が廃る」という程度のものであり、我ながら言葉にすると非常に小さいことで悩んでいるのだなあ、と思う。自分ひとりの問題だったら、多分、お金のことでこれほど悩むことはなかった。別に頼まれた訳でもないのに「愛する女性を大切にする」ために、私は、ある程度の金が必要であるという思い込みから自由になりたいだけなのだと思う。

昔から、自分自身に「傷つく前に傷つくな」と言い聞かせていた。傷つくことを恐れる気持ちは、実際に傷つくことよりも苦しいものだと、多分、直観的に感じていたのだと思う。自分のこころの中に住む怪獣を退治するために、ひとは、冒険に出るのだと思う。そして、その怪獣の名前は「不安」や「恐怖」なのだと思う。

遊園地の意味を考えるところからはじめます。

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わたしの周りには、いいことなのか悪いことなのか「まったくお金がない」ひとたちがたくさんいる。先日、嘉向徹の身体ありがとう君という名前の友達(25歳)が、小学生の女の子ふたりを車で遊びに連れて行ってあげることになった。女の子たちに行きたい場所を尋ねると、女の子たちは声を揃えて「遊園地!」と言った。それを聞いた女の子のお母さんは、嘉向徹の身体ありがとう君に「もしも遊園地に行くようであれば、入園料が必要だと思うので先にお金を渡しておきますね」と言った。

しかし、嘉向徹の身体ありがとう君は「いえ、お金は大丈夫です」と返事をした。そして「遊園地という言葉の意味を考えるところからはじめたいと思います」という言葉を残して、そのまま無一文で出発をしてしまった。あとから嘉向徹の身体ありがとう君に何をしていたのかと尋ねると、ありがとう君は「そのまま車で友達の家に直行して、そこにいた複数の大人たちにこどもの世話を頼んだ後に自分は昼寝をして、その後、夜の公園にみんなで行って相撲をとったりしていました」と話してくれた。

話だけ聞くとめちゃめちゃだけれど、遊びから帰ってきたこどもたちは「わたしが相撲で一番だったんだよ!」とか「ブランコであんなお話をしたんだよ!」とか、汚れた服のままで何やらとっても楽しそうにしていた。きっと、そういうことなのだと思う。金のあるなし(用意されたものをひたすら受け身で楽しむこと)よりも、知恵のあるなしなのだと思う。金がなければ楽しめないのではなく、多分、知恵がないから楽しめないだけなのだと思う。

私は、たとえば「お金があれば遊園地とか高級レストランとかブランド物のアクセサリーとかを買ってあげられるのになあ」などと思い悩むことがある。しかし、よくよく考えてみると、そもそもで自分は遊園地とか高級レストランとかブランド物のアクセサリーなどを好む(いわゆる普通のデートスタイルを楽しめるような)タイプの人間ではなかったことを思い出した。そういうことを楽しめる人間であれば、はじめからこのような生き方はしていなかったのだということを思い出した。


ちょっと前に、移動中の車内で嘉向徹の身体ありがとう君が率いる「ボーリングボーイズ(暇な男子たち)」というユニットに参加をさせていただいた。その時の動画がこれであり、私は、こういうことをしている時に比較的高度なよろこびを感じるタイプの人間だ。それがどのようなものであれ、たとえ他人から見れば馬鹿にされるようなことであったとしても、自分を楽しませることが大切になるのだと思う。自分を楽しませることに成功した時、不安や恐怖は姿を消して、ある種のアトラクションのようなものに変容するのだと思う。恐れることなど実はなにもないのかもしれない、きっと、この地球全体がひとつの大きなテーマパークみたいなものなのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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命は生きたがっている。

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朝、目を開けたら窓の外が黄金色に染まっていた。いま、わたしが暮らしている熱海には、家のすぐ目の前に大きな海が広がっていて、毎日、毎日海面を照らしながら太陽は昇る。熱海の家で、朝焼けを見るのは久しぶりのことだった。その風景があまりにも素晴らしくて、素晴らしくて、わたしはいままでいったい何をやっていたのだろうかという気持ちになった。

世界では、自分の知らないところでこんなにも素晴らしい営みが毎日行われているのだということを、わたしは何もわかっていなかった。頭では、わかっていたつもりになっていた。世界は素晴らしいものであるということを、自然の雄大な営みは見るひとのこころを決して飽きさせることはなく、透き通る優しさを与えてくれるものだということを、わかったつもりになっていただけだった。

海面から昇る朝日を眺めながらわたしは、何かに向かって「ごめんなさい」と謝りたくなった。おかしな話に聞こえるかもしれないけれど、まるで、まだ何もわからない生まれたばかりの自分の小さなこどもを何処かに置き去りにして、そのまま二度と迎えにいくことはなかった、そのこどもがいまもこうして元気に生きている姿を目撃したような、大袈裟な表現になるけれど、そういう気持ちになった。

こどもはいまもこうして元気に生きている。そして、元気に生きているばかりか、置き去りにしてしまった自分にも明るい光を与えてくれるのだということが、その事実が、わたしの中にあった「ごめんなさい」という懺悔にも似た感覚を湧き起こした。わたしは黄金色に輝く海面に見惚れながら、同時に、その何かに対して「しっかりと見てやれなくて、ほんとうにごめん」という気持ちになっていた。

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いまでも、わたしは自分が弱気になった時や自分の中に濁りを感じる時、何かを信じることができなくなりそうな時や大きな何かとのつながりを感じてみたいと思った時、海や、山や、森の中に足を運ぶ。その度に、わたしは何度も助けられた。それでも、このような気持ちを覚えるのははじめてのことだった。ここ最近、日々の中で様々な変化が続いていたからなのかもしれない。あるいはただの定期的なもの、ちょっとだけ自分が弱気になってしまっただけのことなのかもしれない。

自然に触れた時、稀に、涙が流れそうになることがある。この涙は、自分の中にある純粋性を必死に守り抜くために、無意識のうちにこころの奥の方から溢れ出そうとしている力の結晶なのかもしれない。自然に触れる時、それにこころが反応する時、ああ、自分だけは自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないという気持ちになる。その思いが消し去られてしまう前に、枯れ果ててしまう前に、押し潰されてしまう前に、生きていることを証明するように外側に溢れ出そうとしている力の結晶が、涙なのかもしれない。

海面から昇る朝日を眺めながらわたしは、何かに向かって強い謝罪の気持ちを抱いた。この『何か』とは、何を指すのだろうか。これは、朝日に対してだけなのだろうか。朝日を含めた、自然の営み全体に対するものになるのだろうか。それとも、自然の営み全体という言葉さえも超えたもの、もっと大きな『何か』に対する思いなのだろうか。

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わたしは歩く。朝の道を、昼の道を、夜の道を、誰もいない道を、人混みに溢れた街並みを、海を、山を、森の中を、自分の力が続く限り、どこまでも、どこまでも歩く。歩くたびに、この足を進めるたびに、面倒臭がっていたはずの身体はゆっくりと生命力を取り戻していく。歩きたくなんかないとクレームを出していたのは、身体ではなく自分の頭だったのだということを、だって身体はこんなにもよろこんでいるじゃないかと、足を進めるほどに元気になる身体を見てわたしは、ひとつのことを思う。

ー 命は生きたがっている。

雲を見る。花を見る。月を見る。空を見る。猫を見る。星を見る。家を見る。道路を見る。看板を見る。商店街を見る。コンビニを見る。ごみ捨て場を見る。自動販売機を見る。すれ違うひとの表情を見る。電灯を見る。遠くのビルを見る。暮らしを見る。暮らしの奥にあるひとつひとつの命を見る。ひとつひとつの命を見るとき、もうひとつの命、自分の中にある命は感じ取っている。すべての命は、こんなにも生きようとしているのだということを感じ取っている。

わたしはひとりの人間で、これを読んでくれているひとがいるならば、ここにはふたりの人間がいる。ここにいるふたりの人間は、同じ性別かもしれないし、違う性別かもしれない。似たような年齢かもしれないし、まったく異なる年齢かもしれない。日本にいるかもしれないし、日本じゃないところにいるのかもしれない。

違うところはたくさんあるかもしれないけれど、でも、日本語が読めることには変わりない。目がふたつあることに変わりはないし、いまも心臓は動いていること、血液が身体中を流れていること、同じ時代を生きていること、夕日を見たときに切なさを覚えることもあるこの感覚は、きっと、そんなに違わないものなんじゃないのかなと思う。わたしにとって、ひとりひとりの人間はそれほど大きく異なっている存在であるとは思えない。同じようなものを綺麗だと思い、同じようなものを美味しいと思い、同じようなものを見て「生きてきてよかった」と思ったりする、似た者同士なんじゃないのかなと思う。

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わたしは、わたしが思うことを綴る。わたしの思いはわたしの内側から湧き出したものであり、わたし以外の誰かから湧き出したものではない。それでも、誰かの言葉が違う誰かの胸を打つことがあるということは、わたしたちは何処かでつながっているからだと言えるのではないだろうか。ひとりひとりが別々の命を生きているように見えて、実は、何処かで深く確実につながっている「ひとつの大きな命を生きている」と言えるのではないだろうか。

歩きながらわたしは、様々なことを思ったりする。わたしがわたしに思うことは果たして、わたし「だけ」に思うことなのだろうか。わたしがわたしに思うことは、わたしを通じた人間全体に対して思っていることなのだろうか。わたしがわたしを励ますことは、わたしを励ますだけのことなのだろうか。わたしがわたしを励ますとき、わたしを通じた人間全体を励ますことにつながるのだろうか。

自分の感情をうまく信じきることができない時、わたしは、わたしの身体を自然のある場所に運ぶ。自然は嘘をつくことがないから、自然は自分を良く見せようとすることはしないから、わたしも嘘をつかないでいることができる。自分を良く見せようとしないでいることができる。自然はありのままでそこにあるだけ、ありのままでそこにあるだけだからこそわたしも、できるだけそこに近づきたいのだと思うことができる。

自然の風景を眺めながら、沈む夕日の紅色に切なさを覚えながら、わたしは「自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながる」ということを思った。思ったのではなく、ただ、そのように信じただけのことなのかもしれない。自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながる。だから、自分を愛することができない時は、自然の中に足を進めるんだ。そういうことを、忘れてしまわないように自分に向けて言い聞かせていた。

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わたしはわたしに願っている。自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけない。その思いが消し去られてしまう前に、枯れ果ててしまう前に、押しつぶされてしまう前に、できるだけ、自然の中を歩いてほしい。毎日じゃなくてもいいから、思い出した時だけでもいいから、朝日を、夕日を、置き去りにされたままの自然を迎えにいってほしいのだと、わたしはわたしに願っている。

ー 自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながるんだ。

昨日の自分は、今日の他人だ。たとえ、どれだけ強くこころが震える日々のど真ん中を生きてきたとしても、それらは過ぎた日のよろこびであり、決して、今日のよろこびにはならないみたいだ。ひとつの答え、ひとつのよろこび、ひとつの感動の上にいつまでも腰を据えていられるほど、ひとは同じでいることはできないのだと思う。

明日には同じではいられないからこそ、今日の自分は今日で最後だからこそ、この命を、二度とは戻らない今日の命を、使い切っていきたいのだと思う。ひとが生きることができるのは「いま」というこの瞬間だけ、今日の自分に必要なもの、それは昨日の感動でもなければ明日の感動でもない、涙が出そうになるくらい「この瞬間の感動」に胸を焦がしている生き物みたいだ。

海面から昇る朝日を眺めながら、わたしは何かに向かって強い謝罪の気持ちを抱いた。この何かの正体が、少しだけわかった気がした。これは『わたし』だ。わたしは、わたし自身に向かって謝っているのだ。置き去りにされていたものは、自然ではない自分自身だった。わたしは『わたし』を置き去りにして、わたしは『わたし』を迎えに行き、わたしは『わたし』に謝罪をしながら、わたしは『わたし』に願っている。同じ過ちを繰り返してしまうことのないように、過ちを繰り返すことがあったとしても、何度でも思い出していけるように、朝日を、夕日を、置き去りにされたままの自然をいつでも迎えに行くのだと、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないのだと、こころに刺青を掘るように、わたしは『わたし』に願っている。

ー 自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないんだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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よろこびを、光を、幸福をふるさとにしていきたい。

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9月13日から26日まで、ちあきさんという女性と一緒にパリに行きます。まだ往復分のチケットを取っただけで、期間中の予定は何も決まっていません。お金がたくさんある訳ではないので、とにかく長い距離を、目新しい街並みの中を一緒に歩けたらいいのかな、と思っています。欧州にお住いの方で、もしも私たちと話してみたいと思ってくださる方がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
MAIL keigosakatsume@gmail.com

最近思うことあれこれをまとめます。

1・幸福が好きなひともいれば、不幸が好きなひともいる。


自由でありたいと思うならば、自分を批判するひとの「批判をする自由」も認めないといけない。認めた上で、話は聞くけど言うことは聞かない。ごめん、やっぱり俺はこうだわという感じで(悲愴感を漂わせるのではなく明朗に)自分の道を歩けばいいのだと思う。ひとりの人間にできることは、完璧ではない自分にできることは、もう、それしかないのだと思う。自分の道を歩こうとするその姿勢が、結果的に見るひとのこころを勇気付けたり、励ましを与えることになったとしたら、それこそが幸運だと思う。

2・絞り出すものではなく、溢れ出すもの。


これをしなければいけないという脅迫的な感情によって、これをしていきたいと思う前向きな気持ちに蓋をしてしまったら、せっかく自分の中に芽生えた感情の命を殺してしまうことになる。きっと、純粋な幸福感などの感情は「絞り出すものではなく、溢れ出すもの」だと私は思う。人間は決してボロ雑巾のような存在ではなく、永遠に枯れ果てることのないパワーの泉を内面に携えた存在なのだと信じていたい。しなきゃ、という気持ちに負けてはいけない。そうしたいと思った、その気持ちこそを大切にしていきたいのだと思う。

3・心配よりも信頼をしよう。


不安や恐怖は、生きるエネルギーをゆっくりと剥奪する。世界に対する不信感を助長して、目に映るものすべてが、まるで自分に敵対するものとして目の前に立ちはだかっているかのような、そういう気持ちにさせてしまう。私は、きっと、世界やひとは信頼に値するのだということを、自分の生涯を通じて(知識や情報としてではなく、細胞レベルの実感を通じて)この掌の中に掴み取りたいのだと、そういうことを願っているのだと思う。

4・真実はひとを自由にする。


ひとの気持ちを沈ませる観念、ひとの気持ちを争いに向かわせるような考え方や、ひとのよろこびや自由や創造力を奪い取るような構造や独善的で分断的なものごとの捉え方など、このようなものが真理であるとは思えない。それに触れた瞬間、思わずうれしさがこみ上げてしまうような、自分もそうでありたいと思えるもの、生きていることのよろこびを肌で感じることのできるものが、私にとっての真理になる。それを表現したいと思う時に、たとえば私は文章を綴り、ひとと話をしたいと思う。

5・天に恥じない生き方をすること。


自分の中にある「愛」と呼ばれる部分に照らし合わせた時に、何もうしろめたさを感じることがないのであれば、これがいまの自分にとっての精一杯なのだと思えるのならば、何を恐れることがあるだろうか。何を躊躇うことがあるだろうか。ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が思う誠実さのど真ん中を生きること。他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になること。大事なことは、他人ではなく「自分」なのだと私は思う。


6・静かな充足感を与えてくれるものたちは、どれもお金のかからないものだった。


お金がなければ幸せになれないということは、一面の真実なのかもしれないとは思う。しかし、お金がなければ幸せになれないという考え方が、いま、目の前にある確かなよろこびの風景を濁らせてしまうこともあるのではないだろうか。多過ぎる選択肢によって、自分にとって大切な何かを見失ってしまうということも、遠くの何かを必死で追い求めるあまり、自分の目の前に転がっている美しさに、自然の雄大な営みに、いつの間にか背を向けてしまっているということもあるのではないだろうか。

7・静かな時間の中で「自分」に出会う。


刺激が多過ぎる世界の中では、反応をしているだけで1日が終わる。ブランドの広告に購買欲を刺激され、レストランの看板に食欲を刺激され、転職サイトや結婚相談所のチラシに競争心と劣等感を刺激され、多過ぎる人混みに疲労感とストレスを刺激され、街頭セールスなどの愛想笑いに不信感を刺激される。いま、必要なのは「静かになれる時間と空間」なのだと私は思う。自分にとっての大切を護るためにも、自分で自分を調律するためにも、ひとりきりになれる時間【静かになれる時間】は必要みたいだ。

8・よろこびを、光を、幸福をふるさとにしていきたい。


それが「悲しみ」や「不幸」と呼ばれるものであろうとも、慣れ親しんだものの中には居心地の良さが宿る。不幸だ、不幸だと言いながら、不幸でいることのメリットを吸い続けながら生きることだってできる。変わりたい、変わりたいと言いながら、変わらないでいることのメリットを吸い続けながら生きることだってできる。でも、と私は思う。でも、こころの深いところでは、これまでの自分とは違う何かに涙が出るほど焦がれている。不安、憎しみ、惨めさ、悲しみ、恐れ、罪悪感や被害者意識などの不幸をふるさとにしてはいけないのだと、それよりも『よろこびを、光を、幸福をふるさとにしていきたいのだ』と、焦がれているのではないだろうか。

9・よし、失敗してやろう。傷ついてやろう。


パリに行くと決める直前まで、様々な不安が頭をよぎっていた。お金がないのにヨーロッパに行くことは自殺行為になるのではないのかと、物価の高さ故に飢えや疲労で苦しむ(場合によっては野宿をする)ことになるのではないのかなど、心配や不安の種を数え上げたらキリがない。しかし、大切なことは「心配をなくすための努力より、心配を楽しむための姿勢」なのだと思い直した。常にこころに太陽を、太陽とは「行く道を照らす光」でもあると同時に「失敗を楽しむための余裕」でもあるのだと思い直した。

10・生きとし生けるものの前途を祝福する。


世界やひとは信頼に値するものだということを実感したい、悲しみや憎しみや不幸ではなく、よろこびや光や幸福をふるさとにしていきたいのだということを、このブログ記事の中で私は書いた。私は、自分の言葉に嘘をつきたくはないと思っている。自分の言葉が嘘になるような、そんな生き方をしたくない。言葉はある種の決意表明のようなものであり、それは、これまでの自分とこれからの自分を大きく
支える軸になる。

軸を強靭なものにするか、軸を脆く頼りないものにするのかは、これからの自分の生き方にかかっている。私は、もう、自分を低く見積もるような考え方や、自分を見限ってしまいそうになる瞬間からは、出来ることならば遠く離れていたいと思う。自分を見限ることは人類全体を見限ることに繋がるから、自分を信じることは人類全体を信じることに繋がるから、もう、自分を低く見積もるような考え方や、自分を見限ってしまいそうになる瞬間からは、出来ることならば遠く離れていたいと思う。

先日足を運んだ新潟県では、日本海に沈む夕日が綺麗だった。まるで、生きとし生けるものの前途を祝福するかのような、金色のメダルみたいな夕日だった。この瞬間があれば、自分はきっと何度でもやり直せる。そう思った。そして、自然に背を向けるような真似だけはしたくない、天に恥じない生き方をしていきたいのだと、そういうことを思った。他人の濁りを指摘する前に、自分自身を透明にしていきたいのだと思った。

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人生は続く。

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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ひとを愛する才能は、きっと、誰の中にもある。

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東の空から太陽が昇る。まるで、世界が金色のメダルを獲得したみたいだ。黄金色に輝く空を見る度に、言葉にならないうれしさが込み上げてくる。声が出る。笑顔になる。何もかもを放り投げて、見晴らしのいいところまで一目散に駆け出してしまう。足りないものは何もない、世界はあらかじめ完璧なものであり、他には何も要らないのだという気持ちになる。


昔から、好きな色を尋ねられる度に「赤と青とゴールドです」と答えていた。赤と青は自分の中にあるものの象徴として、そして、ゴールドは遠い憧れの象徴として、好きになっていったのだと思う。これまでに私が見たことのあるゴールドは、沈む夕日と昇る朝日、水面に映える月の光、そして、焚き火の最後に炭化した木々に思い切り息を吹きかけた時に現れる、マグマみたいな黄金色だ。

美しい自然と、美しい人間。

生まれてはじめてホタルの群れを見たのは、確か、20代の終わりの頃だった。新潟県にあるホタルの里で、無数のホタルが川辺を飛び交う景色は幻想的で美しく、私は「ああ、いつまでのこの景色を眺めることができる世界でありたい」ということを思った。多分、私は、この瞬間に知識としてではなく自分の実感として「自然を守りたい【永遠にそのままでいて欲しい】」と願うようになったのだと思う。

この感覚を覚えるのは自然の風景に対してだけではなく、自分のこころが「美しい」と感じる人物に対しても抱く。私は、多分、初対面のひとと出会うときに「そのひとがどれだけの純度を保ってきたか」を見ているのだと思う。そのひと自身の在り方が純粋であればあるほどに、私のこころは強く惹かれる。この感覚は、まるで絶滅危惧種の天然記念物を目にした時のような感覚と似ていて、私のこころは「よく、いままで生きていてくれた。あなたと出会えたことが、あなたが生きていてくれたことが、本当にうれしい」という喜びに包まれる。

自然を美しいと思うのは、ありのままの姿で其処にあるからだ。ありのままで生きるということは、決して容易なことではないと思う。様々なひとびとや出来事が「いまのお前のままでは通用しない」のだと、自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分であり続ける道を選んだ強さを、気品を、清廉に生きる姿を、私のこころは美しいと思う。そして、この世の中には「美しい人間がいるのではなく、美しくあることを選んだ人間がいるだけだ」ということを思う。

強さの中に優しさがあり、優しさの中に強さがある。

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いま、私には、愛するひとがいる。愛するひとのことを思うとき、ふと「男は強さの中に優しさがあり、女は優しさの中に強さがある」という言葉が浮かんできた。うまく言葉にすることはできないけれど、私を男にしてくれたものは、私自身の力に依るものだけではなく、愛する女の存在に依るものだった。そのひとが女であれば女であるほどに、自分は安心をして男であることができる。より正確に言えば、私は男になったのではなく「(そのひとを通じて)男になることができた」のだと思う。

男性性と女性性の違いについて、昔から思いを巡らせる機会が頻繁にあった。私には、男は「どれだけ遠くに行けるか【導】」を極めるものであるならば、女は「どれだけ自分のいる場所を居心地の良いものにできるか【慈】」を極めるものであるように感じることがある。父親の役割が導くことならば、母親の役割は慈しむことにあり、両者が見事にマッチング(?)をした時に、最大限の力を発揮するようにできているのだと感じることがある。

愛するひとに自分の思いを届けたいと願う時、昔のひとは、風の力を借りたのだろう。風が吹き抜けた時、それは「ひとりの人間が、あなたのことを愛している」という永遠に途切れることのないサインになるように、昔のひとは、風の力を借りたのだろう。あなたのことを愛している人間がここにいるのだということを、風を感じる度に思い出して欲しいと願う気持ちが、愛されるひとの元に運ばれるのだろう。

アルケミスト

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、パウロ・コエーリョ著作アルケミスト』です。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

宝物を見つけるためには、前兆に従って行かなくてはならない。神様は誰にでも行く道を用意していて下さるものだ。神様がおまえのために残してくれた前兆を、読んでゆくだけでよいのだ。ー パウロ・コエーリョアルケミスト【角川文庫】』


ひとを愛する才能は、きっと、誰の中にもある。

世界には様々な問題が溢れているのだと耳にすることは多い。政治の腐敗だとか、貧困や雇用の問題だとか、格差社会だとか、社会全般に蔓延る問題の数をあげたらキリがないのだろう。しかし、問題の数を数え上げるという行為は「足りないものを数え上げる」習慣を無意識のうちに人々に植え付けてしまう力があり、乱暴な言葉でまとめると「(自分から愛すること以上に)自分は正当に愛されていないのだと訴え続けるひと」を量産してしまう結果になる。

しかし、私たちが生きていることの豊かを実感できる瞬間は、愛された時【与えられた時】ではなく「自分から愛していけた時【与えることができた時】」ではないだろうか。そのことを教えてくれるものが、自分が大切に思うひとやものやことの存在ではないだろうか。大好きなひとの存在は「好きなひとに好きだと言えることは、こんなにもうれしいことなんだ」ということを教えてくれる。より正確な表現をすれば、自分と世界の間にある垣根のようなものは実は幻想であり、境目はない「愛する喜びを知った時、同時に愛される喜びを知る」ように世界はできているのではないだろうか。

居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分のこころだ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。嫌いだと思う気持ちではない、報われないと思う気持ちではない、愛されたいと思う気持ちではない、好きなひとを好きだと思うその気持ちに、愛するひとを愛していると思うその気持ちにこそ、殉じること。ひとを愛する才能は、きっと、誰の中にもある。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。

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本家24時間テレビ【愛は地球を救う】の裏の裏の番組として、いばやでは『70万時間テレビ【まずは自分を救え】』を絶賛開催中である。人間の平均的な生涯が80年ならば、時間に直すとおよそ70万時間になる。出演者と視聴者の垣根を越えて、ひとりひとりの人間が「いまなら大往生できる」と感じた瞬間が70万時間テレビの終了であり、要するに70万時間テレビとは『ひとりひとりの人間の一生』でもある。


いばやの保科さんが、ある日、介護関係の仕事のお手伝いをしていた。そこでは「あのひとも90歳まで生きたのだから、大往生だよね」的な会話が飛び交っていた。それを聞いた保科さんは「本当にそうなのかな??」と思った。大往生であるかどうかは相対的な年齢や他人の評価で決められるものではなく、自分で決めることができるんじゃないのかなというひとつの問いが、この企画のはじまりになる。

まずは自分を救え。

愛は地球を救うとか言っている場合ではない、まずは自分を救え。70万時間の人生の中で、ああ、たとえこの瞬間に死んでしまったとしても、立派な大往生だと胸を張って言える瞬間のど真ん中を生きているひとの姿は美しい。私達(少なくとも坂爪圭吾自身)は、この70万時間テレビを通じて、お互いに「生きていることを目撃し合っている」ような感覚を得られたら激烈にうれしいと思っている。

稀に「あなたは詩人ですね」と言ってくださるひとと出会う。私は、そのことをとても嬉しく思う。そして、同時に「あなたが私を詩人にしてくれたのだ」と思う。書くひとがいて、読むひとがいて、はじめて『詩』は成立する。どれだけ多くの詩を書いたとしても、それを読んでくれるひとがいなければ詩人になることはできない。私を詩人にしてくれるものは、私の詩を発見【目撃】してくれたひとの存在だ。

多分、人間が生きるということも同じだ。それを見てくれているひとがいて、はじめて『人生』は成立する。書くひとがいて、読むひとがいて、はじめて『詩』は成立するように、ひとが生きるということは「生きていることを目撃してくれる」他者の眼差しが不可欠になる。自分は生きているのだというエネルギーを放出する主体と、あなたは生きているのだねというエネルギーを受け取る客体、これらが溶け出して混ざり合った【主体を共有する】時に、ひとつの作品【ひとつの詩=UNIVERSE】は完成する。

生きていることを目撃し合っている。

私は、なぜ、言葉を綴るのだろうか。言いたいことや伝えたいことがある訳でもなく、声高に主張をしたいと思うことや実現したいと願う理念や理想がある訳でもない。それなのになぜ、私は、こうして言葉を綴り続けるのだろうか。なぜ、日記帳やメモ帳などの個人的な場所ではなく、ブログ記事という「誰もが目にすることができる場所」に、自分の存在を晒し続ける(他人の眼差しを求める)のだろうか。

それは、生きていることを目撃し合いたいと願うからだ。私は、多分、言葉を綴るという行為を通じて「自分は生きているのだ」という生命のエネルギーを無条件に全方位に向けて放出する。これは、無人島に漂着をした人間が発見をされることを願いながらSOS【アイアムヒア!(私はここにいる!)】のサインを出すことと似ている。SOSのサインを出す時、そこには「どこかで自分のサインを受信してくれる【自分を見つけ出してくれる】ひとがいるはずだ」という、人間に対する希望がある。

無人島に漂着をした人間を助け出す時、救う側にも、救われる側にも、同じように「生きていてよかった」という思いが生まれる。救う側は「ひとりきりでも、お前が生きていてよかった」と、救われる側は「お前が生きていて、ここに来てくれてよかった」と、生きていることに対する強烈な感動の念が湧き上がる。お互いに、生きているものの存在を目撃し合う時、そこには「生きている」ということの感動がある。

ひとりの人間に思いを馳せるということ。

ひとりの人間に思いを馳せるということは、多分、そのひと自身の70万時間に思いを馳せるということだ。生まれてきて、生きている、その間にあった諸々の出来事がそのひと自身のいまの姿を構成している、その「諸々の出来事」について最大限の想像力と一緒に思いを馳せるということが、ひとりの人間を超えた『人類全体に対する理解』につながるのだと私は思う。


ひとりの人間に対してどうしようもない怒りや憎しみを覚えてしまう時、もしかしたら、私達は大切な何かを見落としてしまっているのかもしれない。すべてを知れば、すべてを許せるという言葉がある。ひとりの人間に対して何か許せないことがあるということは、まだ、そのひとについて知らない何かがあるということなのかもしれない。すべてを知れば、そこには善も悪もない、加害者も被害者もいない、ただ「同じ人間がいるだけだ」ということに気付くのだと思う。


ひとりひとりの70万時間のほんの一部分だけでも、このような形で分かち合うことのできる嬉しさを思う。いまを生きているひとがいて、いまを生きているひとを目撃しているひとがいる。与える側も、受け取る側も、そのどちらもが分け隔てなく尊く、そして、そのどちらもが生きていることに対する賛美歌を歌っている。ひとりの人間に思いを馳せるということは、多分、そのひと自身の70万時間に思いを馳せるということだ。

『人はなんで生きるか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、トルストイ民話集『人はなんで生きるか』です。こちらの本は、過去に非常にお世話になっている方から「物語の主人公が坂爪さんに似ていると思って」という言葉と共にプレゼントをしてくれました。物語に触れるだけでも、透明な気持ちを思い出すことができる、とても素晴らしい内容です。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

ここに収められた五つの短編はトルストイ(1828-1910)晩年の執筆になるもの。作者はこの時期いちじるしく宗教的・道徳的傾向を深めていた。そして苦悩に満ちた実生活を代価としてあがなったかけがえのない真実が、幾多の民話となって結晶していったのである。これらの作品には、素朴な人間の善意に対する確かな信頼が息づいている。ー トルストイ民話集「人はなんで生きるか(表紙文章より引用)【岩波文庫】」


どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。

そのひとがそのひとであるほどに、見るひとのこころを勇気付けることがある。たとえ周囲のひとたちとは生き方が異なっていたとしても、大切に思うひとたちからの無理解に苦しむ時期があったとしても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも「そのひとがそのひとでいてくれたこと」が、それに触れたひとのこころに強い勇気を与えることがある。


弱気になりそうな時、周囲との違いに負けそうになってしまう時、自分は自分に言い聞かせている。顔をあげろ。前を見ろ。どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。自分は自分であるということに、誇りを持って生きるんだ。恥じることなく、躊躇うことなく、思い煩うことなく、自分は自分であることを続けるんだ。憎むことなく、恨むことなく、僻むことなく、堂々と、進め、進め、進め!


相手の意見を尊重することの100倍くらい、多分、私たちは自分の意見を尊重してもいいのだと思う。自分の存在を受け入れることができた分だけ、きっと、相手の存在も受け入れることができる。自分の存在を受け入れようとするひとの姿を通じて、私たちは「自分の存在を受け入れようとする」ことができる。世界を救うためにできること、それは「まずは自分を救うこと」だと思っている。


人生は続く。

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真理とは「ひとを自由にする」ものだ。

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所持金が511円になった私は、いばやの保科さんに500円をあげた後に110円の缶コーヒーを飲みたくなったので100円を貰って缶コーヒーを購買し、残額は1円になった。昨夜、東京の国立市で開催されたイベントは非常にありがたいことに満員御礼となり、主催者のやたさんが「坂爪さんを生かしたいと思うので、よろしかったらドネーションをお願いします」と、参加者の皆様にお布施(!)を募ってくださった。

生きていると、とてもじゃないけれどブログには書けないような出来事が頻発する。それでも私が生きていられるのは、多くの方々の支えがあってこそだということを痛感している。昨夜のイベントには、いばやの保科さんとMAYUCHAPAWONICAさんも参戦をしてくれた。彼らに共通しているのは「お金はないけど妙に元気だ」ということで、私は、彼らから大きな力を貰っている。

生きているということは「大丈夫である」ということ。

三年前、私は、高校の同級生でもあるMAYUCHAPAWONICAさんと一緒に合同会社いばやを設立した。いばやとは「とにかくやばいことだけをやる」というコンセプト(?)だけがある合同会社で、設立当初は事業内容も何も決めていなかった。ただ、自分たちがやばいと思うことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人達が現れて、化学反応が起きて、結果的にとんでもないわっしょい状態になるであろうと思っていた。

いばやには「自分たちの活動が未来にとって必要なものであれば、それを見たひとが『こいつらを餓死させてはいけない!』と思い、私たちを生かしてくれるはずだ。しかし、自分たちの活動が未来にとってまるで必要のないものであれば、私たちは餓死をするだろう」という仮説がある。それを実証するために存在しているようなものだけれど、生きているということは「まだ大丈夫である」ということになる。

金になるかどうかはわからない(おそらくならないであろう)、それでも自分がやりたいと思ったことをやる、自分の心が「これは楽しそうだ!」と思ったことだけをやるのだという、それだけの思いが共通したメンバーで構成されているものがいばやになる。久しぶりに再会を果たした三人は、お互いに、笑ってしまうほどにお金を持ち合わせていなかった。それでも「生きているということは大丈夫である」という希望の通奏低音を感じることのできる、非常に稀有な仲間の存在には、何度も力を貰っている。

「不安だから何かをやる」ということは絶対にしない。

イベントの最中、参加者の方から「お金がないことで不安になることはないのですか?」という質問をいただいた。それに対するMAYUCHAPAWONICAさんの返事が素晴らしかったので、以下に簡単にまとめます。私の文体が硬いために実物とはことなる印象を伝えてしまうかもしれませんが、ひまわりみたいな女の子が非常にポップな調子で話している姿を想像しながら読んでいただければ幸いです。

私は、いま、カメラマンのちーちゃんと一緒に『CHAPAWONICA【ちゃぱうぉにか】』という活動をしています。CHAPAWONICAのコンセプトについての説明をはじめると超絶長くなるので省略をしますが、私は絵を描くので、車の中に寝泊まりできる道具と画材とカメラ機材を積んで、呼ばれた場所に車で行って撮影をしたりイラストを描くというような生き方をしています。
この前も、東北の方に行く必要があったのですが、お金が10000円とかしかなくて「このままだと東北に到着できないかもしれない」ということになりました。一緒にいたちーちゃんは「何かイベントなどを企画してお金をつくらないと!」と焦りましたが、私は、断固として「不安だから何かをやるということは絶対にしない」と、何を言われてもひたすらに拒み続けました。
お金に対する考え方はひとそれぞれで、そのことで「やばい、死ぬ!」と感じるひともいるかもしれませんが、私の場合は「うおー!このままだと東北に行けない、いよいよ面白くなってきた!」という感じで、アガります。この時は、奇跡的に「宿泊とか移動とか大変だと思うからこれを使ってよ」と言ってくれる神様があらわれて、私たちは「超絶あざす!!!!!!」ということで受け取り、結果的にどうにかなりました。

「不安だから何かをやる」ということは絶対にしないと話すMAYUCHAPAWONICAさんを見て、ああ、このひとは常に自分の筋を貫いているなあと感服した。MAYUCHAPAWONICAさんの好きな所は、全身からハッピーなオーラが溢れている【端的にかわいい】ということで、言っていることは同じでも、言っているひとから不穏なエネルギーが出ている場合は、どうしても耳を貸すことはできない。

ちゃんとしなさいの「ちゃんと」とは何か。

いばや設立当初には、様々なひとからお叱りを受けた。MAYUCHAPAWONICAさんは「会社をつくったときは、おじさんたちから『事業内容はどうするんだ』とか『そんなんじゃやっていけないよ』的なことを結構言われました。私は『会社ではあるけれど、ギャグみたいなものだから』と答えていたけれど、わかってくれるひとはあまりいませんでした」と(無邪気に笑いながら←これ大事!)話した。

私も、設立当初のことを懐かしく思い出していた。いばやを設立して、家のない生活をはじめた頃からこのブログ【いばや通信】を書きはじめて、ある時は「お前はいつまでこんな生活をしているつもりなんだ」と言われることもあった。要するに「ちゃんとしなさい」ということなのだけれど、私は、心の中では「ちゃんとできるような人間だったら、はじめからこんな生活はしていません」と思っていた。

ちゃんとできないから「いばや」を必要としたのであり、ちゃんとできないから「家のない生活」をはじめたのであり、ちゃんとできないから「ちゃんとできない自分でも、それでも(死なないためではなく)生きたいと思う生き方」を探したのである。はじめからちゃんとできるような立派な人間だったら、このような愚かな生き方はしていないのだ【自分のスタートラインは非常にネガティブなものだった】ということを、ノスタルジックに思い出していた。

『スピリチュアル・コンパス』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サティシュクマール著作『スピリチュアル・コンパス』です。日本語版のタイトルが駄目すぎて悲しい気持ちになるのですが、内容は素晴らしいものであると思います。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、青森県にわたりました ※※※

「神を知ること」

説教では聖書を読めという
神を知るためには
跪いて祈ろう
神を知るためには
義に従おう
神を知るには・・・

しかし私はきのう
蝶を見た
枯れた葉の上にとまっていた
ちょうど日の沈むときだった
そのとき私は神を知った

マオリ族の瞑想から

サティシュクマール『スピリチュアル・コンパス』【徳間書店


真理とは「ひとを自由にする」ものだ。

家のない生活をはじめた頃から、初対面のひとから食事をご馳走になったり、初対面のひとのご自宅に宿泊をさせていただくなど、ひとの優しさに触れる機会は目に見えて増幅した。おそらく、私はいばやの活動や家のない生活を通じて「人間を含めた地球全体に対する共同体感覚」を得たのだと思う。多分、人間とは「関係性のいきもの」であり、家や金や仕事を失くしても死ぬことはないけれど、社会的な繋がりを失ってしまった(と思い込んでしまった)時、ひとは、強い孤立感や分離感に苛まれることになる。


家や金のない生活は、最悪の場合は「森にテントを張って暮らせばいい」「日本全国を托鉢しながら生きればいい」「困ったときはひとに助けてもらえばいい【自分が助けてもらっているように、自分もひとを助けていけばいい】」のだと教えてくれた。静かな充足感を与えてくれるものたちは、どれもお金のかからないものだということを、どのような状態に置かれていたとしても、万人に等しく与えられているよろこびはあるのだということを教えてくれた。


私にとって、真理とは「ひとを自由にする」ものだ。こうでなければいけないという規律の縄でひとの自由を制限する思考の裏側には「人間【世界】に対する不信感」がある。私には、このようなものが真理であるとは思えない。それに触れた瞬間、思わずうれしさがこみ上げてしまうような、自分もそうでありたいと思えるもの、生きていることのよろこびを肌で感じることのできるものが、私にとっての真理になる。それを表現したいと思う時に、たとえば私は文章を綴り、ひとと話をしたいと思う。


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人生は続く。

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ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。

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Envelope【無料の喫茶店】をはじめて数日が経ち、全国各地から足を運んでくださる様々な方々と話をする機会に恵まれている。熱海を離れている時間も多い為に、実際に面と向かって話せる時間は貴重だ。先日、栃木県から小型バイクで8時間(!)かけて来てくれた男性が「坂爪さんの周りに集まる方々は、まるく尖っている印象があります」ということを話していて、うまい表現だなあと思った。

熱海の家に来てくれる方々は、皆、一様に優しい方々ばかりだ。自分を強く主張するような我の強いタイプではなく、思いやりのある柔和な雰囲気の方々が多い。そして、同時に「日常生活の中で、何かしらの違和感を覚えている【自分をごまかすことができない】」方々でもあるのだと思う。言い方を変えれば、自分は自分でありたいのだと思う姿勢が『まるく尖っている』ように見えるのかもしれない。

人間を分類することはできない。

老若男女、年齢や社会的な肩書きを問わず、様々な方々と話をする。その日々の中で「無職とか会社員とか風俗嬢とか、主婦とか身体障害者とかセクシャルマイノリティとか、人間は分類できるものではない」のだということを感じている。カテゴライズを通じて相手を理解したつもりになるのではなく、顔と顔、命と命、魂と魂を付き合わせた先に、分類を超えた「ひとりの人間」と出会う。

私が話をしたいと思うのは「分類を超えた人間」であり、そのひとが社会的にどのようなポジションにいるのだとか、そういうことにはあまり興味が湧くことはない。そのひとの外側に張り付いているもの(世間的な肩書きや能力)ではなく、そのひとの内側に流れているもの(そのひと自身の実感や体験)に興味がある。何をやっているのかではなく、何を思いながらやっているのかということに関心がある。

おそらく、このような話をできる機会は極端に少ないのだと思う。昔、新卒で入社したばかりの友達が「仕事でストレスを抱えないコツは、自分を殺すことだ。自分を殺せば、理不尽なことでも受け入れることができる」というアドバイスを先輩から受けた、という話を聞いた。常に他人の顔色を伺いながら、言われたことだけを無難にやるように強制される環境において、自分が自分でいる必要はなくなる。

道徳の上に経済があるのであり、経済の上に道徳があるのではない。

道徳の上に経済があるのであり、経済の上に道徳があるのではない。真の教育は、金を稼げる人間になる【良い企業に就職する】人間を育てるためにあるのではなく、善い人間を育てるためにあるのだと思う。喜びの対価としてではなく、人間性を犠牲にする代わりに金を得るような働き方や生き方は、多分、誰も幸せにしない。

昔から、ある種の生きづらさを感じていた原因のひとつはここにあるのだと思う。生きることが辛かった時期、私は「生きるためには嫌なことでもやらなければいけない」という前提に立っていた。そして、自分を殺さなければ生きることができない【自分を殺した分だけお金になる】のだとしたら「そこまでして生きていたくない」と思っていた。

独裁者という映画の中でチャップリンが「私たちは家畜でも奴隷でも機械でもない、心を持った人間だ」と演説をしたように、私は、どれだけ青臭いと言われようとも「機械になんてなりたくない!」と思っていた。機械のように生きるくらいなら、人間のままで死にたいと思っていた。そんなんじゃ生きていけないと言われても、自分は自分のままで生きていけない世の中ならば、生きていたいとは思えなかった。

他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になること。

様々な方々と話をする日々の中で、このような思いを抱いていたのは自分だけではないのだということを、自分を殺すことによってではなく、自分を最大限に活かすことによって生きているひとがいるのだということを、徐々に私は知るようになった。生き延びることではなく「生きたいと思う」ことが、強制的にやらされることではなく「おのずからやりたいと思う」衝動的な感情が、ひとに大きな力を与えるのだと思うようになった。

いまの私は、ただ「自分が素敵だと思ったこと」を実際に行動に移し、成り行きを見守り、想像を超えた展開に胸を躍らせていたいだけだ。自分のような生き方が、どこまで通用するのかはわからない。もしかしたら、すぐにダメになるようなものなのかもしれない。明日には路上で野垂れ死ぬかもしれないし、誰にも理解されることのないさみしさと悔しさに敗れ、自分がやっていることを信じられなくなる時もあるのかもしれない。

ただ、と思う。大切なことは「ひとに理解を求めることではなく、天に恥じない生き方をすること」なのだと私は思う。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が思う誠実さのど真ん中を生きるのことなのだと私は思う。他人の濁りを指摘することではなく、自分自身が透明になることなのだと私は思う。変化を求める【口先を変える】ことではなく、自分自身が変化になる【行動を変える】ことなのだと私は思う。

『短歌ください』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、歌人穂村弘講評『短歌ください』です。こちらの本は、先ほど愛知県から遊びに来てくれた女性がお持ちくださったばかりの、綺麗な装丁の一冊です。このようにおすすめの本を持参してくださる方がいらっしゃるということは、とても嬉しいです。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、バングラデシュにわたりました ※※※


天に恥じない生き方をすること。

数日前、江ノ島で見た夕日が綺麗だった。夕日を眺めながら、ああ、自分はひとの気持ちを自由にするものが好きなのだということを思った。言葉にならないよろこびを、自然の風景は与えてくれることがある。言葉にならないさみしさを、自然の風景は掬い取ってくれることがある。深刻になりがちな日々の姿勢を、重くなりがちな自分の身体を、優しくほぐしてくれるものが好きなのだということを思い出した。


横につながりを求めると、多分、人間はさみしくなる。きっと、つながりは横に求めるものではなく「上【天地の間】に既にあるもの」なのだと思う。そのことを簡単に忘れてしまうけれど、忘れる度に、何度でも思い出していきたいと思う。つながりは、横【ひとの間】に求めるものではないのだということを。つながりとは、上【天地の間】にあるものを思い出すことだということを。


Envelopeに遊びに来ようとしてくれた方から、心のこもった一通の連絡をいただいた。自然に法と呼ばれるものがあるのならば、それに適った生き方ができている限り、何かしらの形で自然は必ず豊かな実りをもたらしてくれるのだということを、きっと、私たちはもっと信じていけるのだと思う。天は分け隔てることのない恩恵を大地にもたらすように、私も、そういう生き方をしていきたいと思う。


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坂爪圭吾様

8月20日(土)にお家の場所を電話で伺いたどり着けなかった、○○市の○○○○○と申します。
お手数おかけしてすみませんでした。

早朝に思い立って、住所にたどり着けばなんとかなるだろうと車で出発してしまいましたが…観光シーズンの熱海をなめてました!
渋滞にはまった挙げ句、空いてる駐車場を見つけられず退散となりました。
最初のお電話からずいぶん時間も経ってしまい、ご心配おかけしてしまいました。


ただ、私的にはとても充実した一日を過ごせたのでそれをお知らせしたくてメールしました。


朝3時にふと目覚めて熱海に行くのを決めて、私の実家(静岡県西部地区)の緑茶を水出しにしたものをぜひ誰かに飲んで欲しい!と思ったのです。
この地域のお茶は深蒸し茶といって、茶葉の蒸し時間を長くして甘味とまろみを引き出したものなのですが、それを水出しにするとさらに爆発的な味わいになります。
夏場の来客にはいつもお出ししてお褒めの言葉を頂けます、が…

これを初対面の人に飲んでもらえたらどんな反応が返ってくるだろう?
その人がお茶菓子とか持ってきていて、一緒に飲んだらどんなに楽しいだろう?

そう考えただけでワクワクが止まらなくて、家にある容器を総動員してお茶を入れました。
準備しているうちに「あれも、これも手土産に持っていこう」とひらめいたり。
道中も、どう紹介したらわかりやすく興味を持ってもらえるか言い回しの練習をしたり、どんな方々が集まってくるのか想像したりと脳みそフル回転でした。


結局たどり着くことはできませんでしたが全然ガッカリ感は無く、心地よい疲労感となぜか達成感がありました。

何でかと考えたら、

〉どう紹介したらわかりやすく興味を持ってもらえるか言い回しの練習をしたり、どんな方々が集まってくるのか想像したりと脳みそフル回転でした。

これはいつも夫の役目なんです。私は子供の面倒を見ながらそれを見守ったり同行したり。

でも今回は全部自分でトライ&エラーをしたからこんなに楽しかったんだと思いました。
小さい子供がいるから自由に行動できないと思考停止していたのに気づいてびっくりです。

坂爪さんの設定してくれた場のおかげで、すごく自由になれました。

それに、私の周りには人に自信を持って紹介できる素晴らしいものがたくさんあるのだと気づくことができました。
自分にとって当たり前でも、実はとても価値あるものだったのだと。

今、得体の知れない幸せに包まれています。
ありがとうございました。



長文失礼しました。
また次の機会にぜひ伺いたいと思います。
(今度は計画的に…(^o^;))

今年は残暑が続くようです。ご自愛くださいませ。


○○○○○

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

居場所とは、場所ではなくて人間だ。

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Envelope【無料の喫茶店】初日を終えた。空間を開放するメリットは、滞りがちになる思考や空間に「風」が吹くことだ。不特定多数のひとを迎え入れることによって、熱海の自宅は見えない進化を続けている。貴重な食糧を持参してくださる方々の存在により、所持金2000円程度の私でも非常にありがたいことに餓死FREEだ。庭の草取りや小屋の修繕作業【別荘を作っている】に力を貸してもらえることも嬉しい。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。


ツイッター経由で「優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。まずいケーキを食べてそれが何故どうまずいかを分析するのは遠回り」という言葉を教えてもらった。苦しい仕事や人間関係に耐えて「これも修行だ」とマゾヒスティックに生きる日々にもそれなりの妙味はあるのかもしれないけれど、多分、私には無理だ。私がやりたいと思っていることは、ネガティブな感情の共有ではない「幸福感の伝達」だ。


2・生き延びることよりも「生きたいと思う」こと。


みっつの文章が素晴らしかった。生きるためには必要ないけれど、生きていることを実感するためには必要なものがある。その最たるものが芸術【アート】であり、私は、自分自身がアーティスティックなものに触れることができた瞬間に無上のよろこびを覚える。素晴らしい芸術作品は「特別なアーティストがいるのではなく、ひとりひとりが特別なアーティストなのだ」ということを思い出させてくれる。

自分に問いを突きつけられた時は嬉しくなる。今ある答えに満足するだけではなく、今ある答えを進化させるために問いが必要なのだと思う。自分に問いを突きつけられた時、自分を進化させるために考えたり悩んだり苦しんだりするのだろう。その時、心の奥底では「もっと生きていたい」という気持ちが爆発している。
自分に「もっと生きていたい」と思わせてくれるものは、全てにおいて「アート」であり、「問い」だ。自分はもっと問いに出会いたくて、生きている。
アートはいつだって、もっと生きたいと思わせてくれるものだ。


3・おかしいと思う自分がおかしいのだろうか。


昔から、誰もが当たり前にできることが自分にはひどく難しいと感じる場面が大量にあった。楽しいとされている場面で自分だけは楽しむことができない、正しいとされている場面で自分だけは正しいと思うことができない。そういう時に、私は「おかしいと思う自分がおかしいのだろうか」と、過去に何度も自分を責めた。生きるためには心を殺さなければならないのだろうか。生きるためには様々なことを諦めて、自分の心が美しくないと感じるものも受け入れていかなければならないのだろうか。それが大人になるということなのだろうか。それが生きるということなのだろうか。みんなと同じ気持ちになれたのならば、自分の心を殺すことができたのならば、どれだけ楽になれるのだろうかと思い悩み苦しんでいた。

4・自分を殺さないで良かった。


そしていま、「自分を殺さないで良かった」と強く思っている自分がいる。自分が自分のままでいたからこそ、いま、自分が心の底から好きだと思えるひと【自分のままで生きてきてくれたひと】と同じ時間を過ごすことができている。自分は自分のままでは通用しないのだから、自分以外の何者かにならなければいけないのだという声に耳を傾けることなく、「自分は自分でいいのだ」と自分のど真ん中を貫いて生きてきたひとびとに対して、いま、最大限の賛辞の言葉と祝福を贈りたくなる瞬間が大量にある。

5・幸福は全体感、不幸は分離感。


最近では「幸福は全体感、不幸は分離感」ということを考えている。生きるのが苦痛にまみれていた10代後半から20代にかけて、私は、自分の存在を主張することなしには生きていることの実感を得ることはできないと思っていた。何もしていない自分には何の価値もないものだと思い込んでしまっていた私は、からっぽの自分に価値を与えるかのように、付け焼き刃の正当性を声高に叫んでいた。そして、自分の正当性を主張すればするほどに、まるで世界から切り離されていくような痛みと分離感を覚えていた。

6・自分を強く主張するほど、惨めになる。


乱暴な言葉でまとめると、小物は「俺はすごい人間だ」と、自分の功績や正当性を主張する。自分の功績や正当性を主張するほどに、そのひと自身は世界から切り離される痛みと分離感を蓄積する【孤立する惨めさを生む】。故に、小物になる。大物は「人間はすごい存在だ」と、人類全体の可能性を表現する。人類全体の可能性を表現するほどに、そのひと自身はより一層の全体感を見に纏う。主体は全体に溶け出した『人間』になる【天才は、それに触れるひとの天才を導き出す】。故に、大物になる。

7・何者でもなく生きる姿勢が、自分の中心を生きる軸になる。


やりたいことをやる勇気と同じくらい、やりたくないことはやらない勇気の中に、誇り高い人間の尊さを見る。何かをやることの強さと同じくらい、何もしないでいることの強さの中に、誇り高い人間の気高さを見る。何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何者かになろうとするのではなく、何者でもなく生きる姿勢が、自分の中心を生きる軸になる。

8・ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。


私は、あらゆるひとに対して「そうしたくなった、その気持ちを大切にしてください。しなきゃ、に負けないでください」と願っている。何かをしなければいけないというある種の脅迫的な感情に従うのではなく、これをやりたい、こうしていきたいと思う前向きな感情に従って欲しいと願っている。不安や恐怖を動機に何かをするのではなく、衝動や喜びを動機に生きていて欲しいと願っている。


9・無様でも、不器用でも、愛情を表現していこう。


私達は、多分、大丈夫だ。

『イリュージョン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、リチャードバック著作『イリュージョン』です。最後に紹介されているリチャードバックの言葉が非常に素晴らしいので、長文になりますが全文を引用します。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

「人間が本当に愛するものを見つけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ」

「人間は大体、目に見えるものしか信じないでしょう?たとえば、汽車の二本のレールは地平線のとこで絶対にくっついて見える。そういうふうに見えるからそう信じているけど、そうじゃないんだね。飛行機で線路の上を飛ぶと、二本のレールは、行けども行けども平行なわけだ。また、雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ」

「人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り物にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ」

「どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。もちろん、ドラゴンワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ」

「これからの『神』というのは、決してわれわれに信じて貰うことを要求するのではなく、結局、この世の中はひとつのゲームであって、そのゲームをできるだけエンジョイするためにわれわれは生きているんだということを認識させるために存在する、そういう形での神でしかあり得ない、と僕は思っている」

『イリュージョン』【集英社文庫】リチャード・バック村上龍・訳)より引用


10・居場所とは、場所ではなくて人間だ。


綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。過去の自分は、好きなひとに好きだと言えることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分け合える関係性は、何よりも素晴らしいものだ。

私の存在は、きっと、私が好きだと思うひとやものやことの存在によって強く肯定されているのだと思う。認められることや受け入れられること、愛されることばかりを求めていた頃には感じることのできなかった力強さを、私が好きだと思うひとやものやことの存在は、途絶えることなく心の種に水を注ぎ続けている。

居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。其処で、忘れていた記憶を思い出すのだろう。自分の存在は遥か昔から許されていたのだということを、既に認められていたのだということを、既に受け入れられていたのだということ【自分は既に愛されていたのだということ】を、思い出すのだろう。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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落ち着けば、大概のことはどうにかなる。

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明日18日(木)から8月いっぱい、熱海の自宅を無料の喫茶店【Envelope】として開店します。喫茶店という名目ではあるものの、簡単に言うと「自宅を開放するので、読書や昼寝や料理をしたり、他のひとがいれば会話をしたりしなかったり、自由にお過ごしください」というものになります。店主の私が不在の場合もありますが、鍵は空いている(台所にある食材や調理器具は自由に使ってOK!)ので自由にお寛ぎください。


25日(木)には東京の国立市でトークイベントに登壇します。最近は「対談イベントに呼ばれたい!」と思うことがとても多いので、もしも「あのひとと坂爪圭吾【いばやの人達】を対談させたら面白そうだ!」と思い当たった方がいらっしゃいましたら、ブログ末尾の連絡先よりお気軽にご連絡いただけたら非常に嬉しいです。開催規模の大小や、有名・無名(自薦・他薦)は問いません!!


人生はギャグだ(と思うことがあります)

過去に、イケダハヤトさんと高知県で対談をさせていただいたことがある。その時の様子を、イケダハヤトさんご自身が華麗な言葉でまとめあげてくれた(素晴らしい文才!)。デンマークの絵本作家であるアンデルセンは「人生は、神の手によって書かれたおとぎ話である」という素晴らしい比喩を残したけれど、私は、私の人生を「笑いの神様によって書かれたコントである」ように思うことがある。


この記事を読み直して、ああ、自分のことながら「こいつはバカだなあ」と思った。家のない生活を送っていた頃、海外に暮らす女性から「最悪、余っている住居付きのクルーザーがあるから、海の上で島巡りでもしながら暮らせばいいよ」と言われたことがある。私は「最悪が最高じゃないか…」と軽いパルプンテ状態に陥り、ああ、人生はある種のギャグみたいなものなのだと思うようになった。


数年前に躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで、およそ半年間の寝たきり生活をしていた時期がある。この時も、結果的に自らの貧乏性が功を奏して(医療費をケチって病院通いを勝手に辞めた)、医者からは「完治するのに三年はかかる」と言われた精神疾患が半年で消えた。多分、死んだ魚の目をしながらもビリーズブートキャンプを粛々とやり続けた日々が、功を奏したのだと思う。


深刻さを吹き飛ばしてくれるもの。

深刻なこととか、真面目で重苦しい話題とか、悲壮感が漂っている空間の中にいると、どうしても居心地が悪くなってしまう。ユーモアは酸素みたいなもので、ユーモアが許されないような場所にいると、私の場合は露骨に呼吸が苦しくなる。多分、深刻になってもロクなことはひとつもないのだ。そして、深刻さを吹き飛ばしてくれるものがユーモアであり、私は、ユーモアの力に支えられて来たのだと思う。

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三人兄弟の末っ子として生まれた私は、小さな頃からえらく挑発的な顔をしていた。5歳年上の姉と4歳年上の兄から常にボコボコにされる日々を送りながら、それでも、絶えることなくケンカを挑み続けるようなガキンチョだった(ような気がする)。姉や兄が好むものを必死に真似して、自分の中に取り入れ、おさがりの服を着ながらも気持ちは「宇宙全体【姉と兄】のいいとこどり」をしているつもりだった。


そしていま、自分の役割は「こいつを楽しませること。こいつを驚かせること。こいつの世界を広げてあげること」なのだと思うようになった。自分の中にいる小さな自分を、もっと楽しませてあげること、もっと驚かせてあげること、もっと広い世界を見せてあげること。この世界はよろこびと驚きに溢れたテーマパークみたいな場所なのだということを、その実感を、これからも一緒に深めていきたいのだと思う。

『ベルギー近代美術の精華展』

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関西在住の女性から、姫路市立美術館で開催されている『ベルギー近代美術の精華展』招待チケットが二枚届きました。このような心遣いをいただけることが、とても嬉しいです(S様ありがとうございます!)。8月25日(木)までの開催となるのですが、希望者の方に無料で郵送をいたします。期日が間近に迫ってはおりますが、ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらのチケットは、兵庫県にわたりました ※※※

『見てる、知ってる、考えてる』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、小さなからだの哲学者でお馴染みのBAO君著作『見てる、知ってる、考えてる』です。手書きのメッセージまで添えて丁寧に郵送をしてくれたBAO君に惜しみない拍手を…坂爪圭吾は、BAO君の顔が好きです。ご希望される方は、こちらも何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※

僕が素敵だと思う大人は、自分を生きている。
子供みたいに生きている。
嫌なことは駄々をこねるように嫌と言い、
嬉しい時は子供みたいに喜んでいる。

ようするに僕はこのままでいいということ。
嫌なことは駄々をこねるように嫌といい、
嬉しい時には子供のまま喜ぶ。

中島芭旺「見てる、知ってる、考えてる」【サンマーク出版


落ち着けば、大概のことはどうにかなる。

自分の直感と反射神経に従って生きるようになってから、現在の私は「今世の私はお金に困ることはない」と思うようになった。自分で勝手にそう決め付けているだけのことなのだけれど、稀に、それでもやっぱり「お金がなくなったらどうしよう」と不安を覚えることもある。こういう時は、大概自分の思考が守りにはいっている(あるいは一時的に自信をなくしている)だけのことが多いので、無視をするようにしている。


BAO君曰く「僕の自信は、根拠のない自信。根拠がある自信は、その根拠がなくなったらなくなる」のであり、多分、私が感じている自信や勇気や楽しさやよろこびなどといった類の感情も、きっと根拠のないものになるのだろう。きっと、自信に根拠なんていらないし、やりたいことをやるのに最もらしい意味も理由もいらないんだ。強いて言えば「生きている」というそのことが、私達は大丈夫であるということの最大の証明になる。


落ち着けば、大概のことはどうにかなる。物事を複雑に考えるのではなく、実際に起こるかどうかもわからないことに心を悩ませるのではなく、明日の為に今日のエネルギーを温存しておくのでもなく、自分を出し惜しむことなく、瞬間をぶちまけて輝くこと。今日の自分は今日で最後、明日には二度と取り戻すことはできないのだ。身体よりももっと奥の方で、心よりももっと奥の方で、魂はいつでも「大丈夫だよ」と笑っている。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きろではなく「生きたいと思わせろ」

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数日間の野点カンタービレの日々を終えて、いま、湯河原にあるガストからこの記事を更新している。道中、高速道路内で車が急に動かなくなり「死ぬのかな」と思ったものの、道路脇の僅かなスペースにスライディング駐車することで九死に一生を得た。結果的に、群馬県新潟県の県境にある三国峠をレッカー車内で越境することになったのだけれど、同乗していた女性は終始楽しそうにしていた。

ハプニングの多い人生なので、失敗や失態を一緒に楽しんでくれるひとの存在は大きい。あらゆる問題は、多分、楽しみはじめた瞬間からアトラクションに変わる。ど田舎の高速道路内で車が動かなくなった時、まっさきに「今夜はここで野宿をするのもアリだね!」とはしゃぐ彼女を見て、ああ、自分は最高の女性と同じ時間を過ごしているのだという幸運に感謝をした。

洞窟のオフィス【屋内から屋外へ】

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新潟のポルコロッソでお馴染みの私たちは、過去に生活をしていた洞窟と海に足を運んだ。数年前に合同会社いばやを設立したばかりの頃、まるでお金がなかった(あろうことか家もなかった)為に適当な森や海や洞穴を見つけては「今日からここが俺達のオフィスね!」という中二病的なノリで、森のオフィスや洞窟のオフィス、海のオフィスや星のオフィスなどを連続的に設立した。

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各種取材の対応や打ち合わせなども、海や森で行うようになった。スタバやタリーズなどで珈琲を買う余裕もなかった為に、小型のミルで挽いた貰い物の珈琲豆を湧き水で淹れたりしていた。携帯用の小型ソーラーパネルで電気を自炊し、傘にアルミホイルを敷いて自作したソーラークッカーでお湯を沸かしたりしていた。それが意外と好評で、都心部から来たひとなどは「最高に贅沢ですね!」と喜んでくれるものだから、私は徐々にドヤ顔をするようになっていった。

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貰い物のテントを貰い物のバイクに積んで、毎晩、眠る場所を変えるような生活をしていた。家も金も仕事もない癖に、妙に毎日が楽しかった。有料の宿屋を探す必要はなかった。地球全体が無料のキャンプフィールドになるのだということを覚えた。テントを張る度に、自分の領域が拡張していくような感覚を覚えていた。日に日に増していく「実は何処でも生きていけるんだ!」という実感が嬉しかった。

崖っぷち書道【ひとりの人間が複数の仕事を持つ】

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数年前に、新潟県にある崖っぷちに崖っぷちな人間を集めて「崖っぷち書道」なるものを開催した。風の噂で、日本には年間3万人の自殺者がいて、100万人を越える鬱病患者がいるのだと聞いた。これがほんとうのことならば、日本人全体が潜在的鬱病患者ということであり、これはチャンス!と思った私は「ギリギリ【崖っぷち】なみんなで集まって、ギリギリ【崖っぷち】なことをやろう!」と閃いた。

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潜在的にギリギリなひとたちは結構たくさんいるみたいで、この日は全国から新潟県の崖っぷちに人々が集まった。特大の用紙に特大の筆で「日々の鬱憤を吐き出して燃やす【焚き火にする】」だけのひどくシンプルなこの企画に、これだけのひとが賛同してくれたことが楽しかった。

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日本海の荒波は人間の心を駆り立てる。写真からも「どりゃー!」という声が聞こえてくるみたいだ。私も、これから路頭に迷うことがあったら『崖っぷち書道家』になろうと思う。これからは、ひとりの人間が複数の仕事をやるようになるのだと聞いた。世界中の崖を筆と一緒に巡りながら、現地の人々と鬱憤を晴らし続ける日々は悪くないと思う(けど、私は面倒臭がり屋なのでなることはないと思う)。

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私は、鬱病などのあらゆる病気は「幻想なんじゃないだろうか」と思っている。社会不適合者という言葉もあるけれど、自殺者が3万人いて鬱病患者が100万人を越える社会に適応(!)してしまったら、頭がおかしくならないほうがおかしいのではないだろうかと思うことがある。必要なことは適応よりも『開墾』で、従来の常識に縛られるほどに苦しくなるのではないだろうかと思うことがある。

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これまで何人もの鬱病患者や自称引きこもりの方々と出会ってきたが、皆、場合によっては最高の笑顔を見せる。多分、この世の中には「問題解決型」と「問題もみ消し型」の二種類がいる。私は完全に後者【問題もみ消し型】の人間であり「あらゆる問題は、楽しみはじめた瞬間からアトラクションに変わる【問題を問題として認めない】」と思うタイプの人間だ。

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笑顔になれないひとがいるのではなく、笑顔になれない環境があるだけだ。

生きろではなく「生きたいと思わせろ」

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元気のないこどもたちに「元気を出せ!」とか「志を高く持て!」などと言ってみたところで、大人たちに元気がなければ、大人たちに高い志がなければ、言われたこどもたちは違和感を覚えるだけに過ぎないと思う。言っていることとやっていることが一致していなければ、それを「嘘をついている」ということだ。自分が出来ていないことを、自分が解決できていないことを、他人に強制することはできない。


他人の生き方をああだこうだというよりも、自分を真面目に生きること。ないものねだりを続けたり、不満や愚痴を吐き続けたり、被害者意識を抱き続けるようなダサい真似はしないこと。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を越える。見るひとの心を動かすものは、能書きよりも生き様だ。


日本海の雲が綺麗だった。素晴らしい自然【人間】を目の当たりにしたとき、月並みな言葉になるけれど「自分は自分のままでいよう。やりたいことを、やりたいようにやっていこう」と思う。他人の評価に合わせて何者かになろうとするのではなく、自分は自分でいいのだと腹を据えて生きているひととの時間は潔く、清々しい。そのひとがそのひとであり続けるというただそれだけのことが、見るひとの心を勇気付けることがある。言葉を超えて「生きたい」と思う力になる。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ。

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三日間の無料喫茶店を終えて、いま、熱海のデニーズからこの記事を更新している。これから、車に野営用具一式を詰めて(世界で一番美味しい珈琲を淹れる女性と一緒に)数日間の旅に出る。そして、旅先で最高の珈琲を振る舞う「野点珈琲店【通称・野点カンタービレ】」を敢行する。カンタービレという言葉には「歌うように(美しく)」という意味があり、私は、この言葉の響きを愛している。


私は、過去に、新潟県にある洞窟の中にテントを張って暮らしていた時期がある。日本海に沈む夕日を独占できる素晴らしい景観の場所になるので、そこで「野点珈琲店」を開催できたら面白そうだなあとは思っているものの、アクセスが悪過ぎる為にお客さんは誰も来ないだろうなあとも思っている。具体的な開催場所などは、決まり次第改めてお伝えいたします【告知しない可能性もあります!】。

三日間の無料喫茶店【Envelope】を終えて。

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嵐のように過ぎ去った三日間の無料喫茶店【Envelope】の日々は、たくさんの記憶を残してくれた。Envelopeの玄関には、わたり銀行【みんなの財布】なるものが設置されている。この中にあるお金は誰でも自由に出し入れができる「循環型(?)の財布」になっていて、常に変動を続けているもののお金がなくなったことはない。

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宮城県気仙沼市在住の女性から、Envelopeの開店記念に手作りの花のリースが届いて、私は慟哭した。箱を開けた瞬間にたちこめる花の香りが素晴らしくて、激烈なうれしいが込み上げた。添えられていた手紙には「開店おめでとうございます。新しい、より大きな循環を感じました」と書かれていて、ああ、自分は『(交換ではない)循環』を大切にしていきたかったのだということを思い出した。

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鹿児島県からは「お友達のカメラマンさんが、インドを旅した時の写真をポストカードにしていたものを同封します。逢初庵【Envelope】を訪れた方が、逢初庵から大切な誰かにラブレターを出してくれたらステキだなと思います(ステキだと思うだけです。自由に使ってください!!)」という言葉と共に、ポストカードと切手が届いた。なんて素晴らしい心遣いなのだ!!と、私は慟哭した。

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東京からは手編み(!)のバッグとアクセサリーが届いた。

無料の喫茶店を開かれるということで、もしよろしければ・・・と思い、お送りしました。私は編みものが好きで、小物やセーターなどを編むのですが、これを「無料でいろんな人にあげてみたい」と思ったのです。理由は、ただ単に「売ったり買ったり」するよりも、「あげる・もらう」の方が嬉しいな!と思ったからです。なので、少しなのですが、バッグとアクセサリーを送ります。バッグは、実はMAYUさん(坂爪注・MAYUとは、いばやの共同代表者です)の絵をイメージして作りました!よければ「わたりニット」?として、Cafe Envelopeの一角に置いていただけたら本当にうれしいです。今は暑いので夏素材ですが、冬にはマフラーや手袋もお送りできたらな・・・と妄想しています!暑い日が続きますが(熱海の気候はどんな感じでしょうか?)お身体に気をつけてくださいね。これからもブログ楽しみにしています!

大和民族による心遣いの数々に、私は再び慟哭した。

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江ノ島で喫茶店を営む女性からは、ソファーとちゃぶ台と高級なティーセットまでいただいてしまった。他にも様々な恩恵が熱海に届き、そのすべてを紹介できないことが悔やまれてならない。開店当初は「無料の喫茶店をやりたい!でも、準備が足りないから水しか出せない!」という状態でスタートをしたにも関わらず、いま、皆様の恩恵によって世界にまたとない喫茶店が、ここ、熱海に誕生した。


無料の喫茶店【Envelope】の、これから。

三日間限定となった無料の喫茶店には、およそ50名ほどのひとが(北海道や岐阜や東京や大阪や千葉や愛知や新潟や神奈川や兵庫や栃木から)様々な手土産を持って遊びに来てくれた。テーブルの上は軽い地方物産展状態になり、水と一緒に、全国津々浦々の郷土土産を楽しむような状態が生まれた。喫茶店とは名ばかりで、結果的には座席の垣根を飛び越えて全員で団欒をするような状態が常態になった。

店主役の私は早々と自らの役割を放棄し、途中から昼寝をしたりギターを弾いたりひとり虚空を見つめたりしていたので、いつの間にか台所にはお客様自身が率先して立つようになり(新しく来たお客さんには、お客さんが接客をするようになった)、いよいよ喫茶店【店側とお客様側】という役割のフレームは崩壊した。そこにあるものは「(上下関係のない)ただの人間」だけになった、その感覚がとても心地良かった。

これからも定期的にEnvelopeを開店していきたいと思う。私がいなくても、鍵は開けておいて誰でも自由に出入りができて、軽食を食べたり作ることができて、昼寝もできて、のんびりと手紙を書いたり読書をしたりすることができるような、そういう空間として開放をしていきたいと思う。月並みな言葉になるけれど、自分ひとりだけの力ではなく「みんなの力で進化を続ける永遠に未完成の喫茶店+α」として、新しい展開を見せてくれることを楽しみにしていたい。

『もたない、すてない、ためこまない。身の丈生活』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、静岡県三島市から遊びに来てくれた男性が持ってきてくれたアズマカナコさん著作『もたない、すてない、ためこまない。身の丈生活』です。節約や忍耐という言葉には後ろ向きな響きを感じるけれど、アイデアとか実験などの言葉にはワクワクする前向きな響きを感じます。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

冷蔵庫があったころは、いつも庫内の使いかけの食材や賞味期限の近いものを気にして、献立を考えていました。今は、その日に食べたいものを買い、食べることができます。毎日の食事作りや買い物のストレスが減りました。冷蔵庫を手放した一番の収穫は、ありすぎることの不便さに気付けたことでした。(本文より)【主婦の友インフォス情報社】


生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ。

無料の喫茶店最終日のテーマは「生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ」というものになった。ひとつの企画を主催する時、主催者自身のこころの状態は、空間全体に大きく影響するものだと思う。それならば、主催者にとって何よりも大切な仕事は「(お客さんを大切に扱うこと以上に)自分の状態をピースフルなものにしておくこと【自分自身を大切に扱うこと】」だと私は思う。

平穏なひとと同じ時間を過ごすとき、ひとは、平穏な気持ちでいることができる。同じように、怒りや憎しみにまみれたひとと同じ時間を過ごすとき、ひとは、どうしても目には見えないネガティブなエネルギーを受け取ってしまう。自分に許せていないことを、他人に許すことはできない。家庭でも、学校でも、職場でも、自分のこころの状態ら何かしらの形で必ず周囲に影響を与えているのだと思う。

何かをしなければいけないとか、こうでなければいけないという思考に枠で自分や相手を縛ることよりも、私は「生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ」という精神的なゆとりを身に纏い、あらゆるものを受け入れていけたならいいと思っている。夏だ。嫌なことを嫌々やりながら生きるよりも、やりたいことをやりたいようにぶわあとやって、腹の底から大好きなひとと笑い合えたら最高だ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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