いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

もっと自分を出してみろよ。

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高知県宿毛市の港から、大分県佐伯市の港にはいる。自転車で日本国内を巡っている。先週は大阪にいた。伊丹空港から高知空港に飛び、高知をひとしきり回っていまは別府にいる。なぜ、金もないくせに飛行機に乗ることができたのか。それは「さかつめけいごを召喚してくれたひとがいるから」である。別に自転車移動にこだわりはない。交通費さえどうにかなるなら、飛行機だって新幹線だって乗りたいと思っている。

 

多分、今夜は湯布院に行く。九州の神々は優しい。昨日は、佐伯港まで車で迎えに来てくれた神様と出逢った。別府在住とのことだったので、別府まで運んでいただいた。これから別の神様と合流をする。今夜は何処に眠るのだろうか。運ばれるままに身を委ねている。佐賀県在住の神様からは「車出せるからいつでも声かけてください」という連絡が届いた。長崎在住の神様からは「温泉宿をやっているので困った時はお声かけください」という連絡が届いた。感動した。これはもう、最高の人生じゃないかと思った。

 

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600円のダリアを買うか、250円のバラを買うかが人生を決める。

行く先々で花を配っている。先日、30人くらいに花を配る場面があった。毎回、花は最寄りの花屋さんで自腹で購買をしている。良心的な花屋さんでは一輪100円程度で素晴らしい花を手に入れることもできるけれど、都心部の花屋さんなどは比較的高級なお店が多く、金欠時などは「生きるか死ぬか花か」みたいなことになる。花屋さんに足を運んだら、閉店間際だったからなのだろうか在庫が少なく、250円のバラと600円のダリアくらいしか「いいな」と思う花はなかった。

 

一瞬、250円のバラを買いかけた。が、その後「これじゃ誰も幸せにならない」的な感覚が湧き出して来て、ええい、ままよ【よし、死のう】と600円のダリアをあるたけ購買した。バラを手にした瞬間、ああ、俺は「安い」という理由だけでこの瞬間にバラを買おうとしているなと思った。そして、そんな自分を死ぬほどダサいなと恥じた。私には、しりとり要素満載のおまじないがある。それは「落ち着け。ケチるな。なるようになる」というおまじないである。所持金は尽きかけていたが、ダリアを買えたことに後悔はなかった。

 

その後、ダリアを配りまくった。すると、奇跡が起きた。ダリアを渡した方から「あの、これ、少ないですけど活動の足しに使ってください」と、決して少なくないお金をちょうだいした。感動した。感動した後に「ダリアを選んでよかった」と割と本気で思った。非常に感覚的な話になるけれど、多分、あの瞬間の妥協を許して安いバラを買っていたら、多分、この奇跡は起きていなかったのだと思う。大袈裟な表現になるけれど、死ぬ気でなにかをやると「こいつを死なせてはいけない」的な力が銀河から降り注ぎ、生き延びる。逆に言えば、損得勘定で生きている限り、このような奇跡に出会うことはない(ような気がする)。

 

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許しちゃいなさい。

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DAHONという自転車メーカーの「カーブ」で移動をしている。カーブ男子である。16インチの小さなタイヤなので、あまりスピードが出ない。よくもまあこの自転車でここまで来たなあと思う。荷物は最小限度にとどめたかった(旅をしている感を極力出したくなかった。自転車で日本一周中!とか、あんな感じの張り紙は死んでも貼りたくない)ために、小さめのリュックに二日分の着替えだけを詰めた。が、全然足りなかった。全然足りなかったけれど「意外とどうにかなるもんだな」とも思った。

 

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おれはなぜ自転車移動をしているのだろうかと、稀にわからなくなる。それでも「ああ、この瞬間のためだったんだな」と思える瞬間がいくつもある。その瞬間があるだけで、いろいろな物事が肯定をされている感覚になる。多分、わたしは圧倒的肯定力のあるもの【大きなイエスを伴ったもの】が好きなのだと思う。それは「許す・許される」ことに似ている。多分、神様が人類に与えた最終兵器は「許すこと」だと思う。許せない何かを抱えている人間は、争いに向かう。争いに向かうと余裕が消える。余裕が消えると肉体的・精神的に無様になる。難しい場合もあるけれど、できることならば余裕を護りたい【許す方向に舵を取りたい】と思う。

 

 

黄金を抱いて翔べ。。。

 

 

わたり文庫『クローディアの秘密』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、E.L.カニグズバーグ著作『クローディアの秘密』です。こちらの本は、過去記事をご覧いただいた読者様が「死ぬまでに何度も読み直したい本とのことですが、この本は死ぬまでになんども読み直したい本です!」とゴリ押しをしてくださった一冊になります。随所随所に名言が散らばっている、グッドな本(小学校高学年の女の子に読んでもらいたいと思う本)です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

ばかね、なんにもわかっちゃいないんだから。だれかをだきしめれば、今までわからなかったことがわかってくるものなのよ。たいせつなことがね。

 

お金をもってると、なんとなくいい気もちで安心なものなのね。

 

でもね、クロード、ぼくたちは、安心てものと引き換えで、冒険のほうをとったのさ。さ、まいりましょう、クローディア姫。

 

E.L.カニグズバーグ『クローディアの秘密』【岩波少年文庫

 

もっと自分を出してみろよ。 

昨日、佐伯港から別府まで私を運んでくれた神様は、大学生の男の子だった。彼は言う。自分はどうしても他人の顔色を伺ってしまうから、これを言ったら相手に失礼になるんじゃないだろうかなどと考えてしまって表面的な会話をしてしまう。でも、本当は真っ直ぐ本音のやり取りを交わしたいのだ、と。私は答えた。失礼かどうかを気にして当たり障りのない【心のない】言葉を交わす、その行為こそが(自分にも相手にも)失礼なんじゃないだろうか。

 

 

人間関係で悩むことが多いから、卒業後は心理カウンセリングの資格的なものをとるためにお金を溜めていると彼は話す。私は「そんなものに金を使うくらいなら、俺を中南米に連れていってください」と思った(けど言わなかった)。誤解を恐れずに言うと、私は自己啓発セミナーやカウンセリング養成講座的なものに多額の費用を請求する人たちが嫌いだ。端的に不潔だなと思う。自信のないひとたちを悪用しているだけに見えるし、ひとの話くらい無料で聞いてやれよと思う。ひとと話をするのにも、金がかかる時代になったのかなんて暗澹たる気持ちになることもある(けどまあ別にいいや)。

 

 

と、まあ、上段で「許す」とか書いておきながら早速許せないものの話をしてしまった。自分はまだまだガキンチョなんだなと思う。しかしながら、実際に口にするだけで「言葉にしただけでなんかスッキリ!あとはもうどうでもいいや(俺は俺の人生を生きよう)」という気分になる。人間は矛盾を抱えた生き物である。まずはそれを肯定したい。矛盾を受け入れ、矛盾を晒し、矛盾を超える。自分を殺す方向ではなく、自分を出すことの先にある調和。融解して強くなる鋼のように、ほこほこたてたてぽよぽよしながら、ゆっくりでもいいから「世界と和解をする」道を歩みたいのだと思う。

 

 

 

 

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四万十川より愛を込めて。。。



人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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我々は、宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。

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京都を経由して大阪にはいる。今夜は(多分)大阪に泊まる。おはなを無料で配り続けている。なぜ無料なのか。無料のほうが「なんか素敵だから」と思うからだ。当然のことだけれど、配るほどに身銭はなくなる。しかし、この身銭も本来は自分のお金ではない。別に誰かに託されたもの、別の誰かから巡って来たものが「たまたま自分の手元にあるだけ」に過ぎない。問題は、これを「(いろいろ思うことはあるけれど)いかに素敵に潔く使うか」だと思う。

 

金銭に善悪も美醜もない。とは言うものの、嬉しい気持ちでもらったお金は「綺麗に使いたい」と思うし、あんまり嬉しくない気持ちでもらったお金は「汚く使ってしまう」ことが多い。綺麗なお金は「誰かをよろこばせるため」に使いたいと思うが、自分の時間【命】を犠牲にすることで手にしたお金は、やけ食いをしたり無駄な散財に使われることが多い。お金とはなんだろうか、などと思いながら今日もお金をおはなに変える。昨日は京都の山科在住の方のご自宅に宿泊をさせていただいた。家主の方が素敵すぎて最高の時間になった。京都で出会う人々は本当に良い人が多い。今日は13時頃に梅田駅に到着をする。それ以降は、梅田駅界隈で希望者の方々におはなを配りたいと思っているのでお時間のある方はお気軽にご連絡をください。

 

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「いい仕事をしたなあ」と思いながら死ね。

眠ることと死ぬことは似ている。1日の終わりに「今日はいい仕事をしたなあ」と思って眠れる夜は素敵だ。昨日は、京都駅で気持ち35本のおはなを気持ち38人の方に配った。(途中、あまりにも連絡が届きすぎてパニック障害になり携帯をかち割りかけたものの)素晴らしい出会いにも恵まれ、ああ、生きていてよかった【京都に来てよかった】と心底思った。みなさまは、いい仕事をしているだろうか。いい仕事をした1日とは、多分、誰かと心を通わせることができた1日だと思う。金も大事。時間も大事。見栄や礼節や世間体も大事。だけど、その五億倍は大切なものは「ひとりの人間の心」だと思う。

 

心がなければ、何をしても虚しい。逆に言えば、どれだけささやかなものであろうとも、そこに人間の心を感じることができるものは「最高だなあ」と思う。心のない時間を過ごしていると、端的に人間性が乾く。言葉遣いは殺伐になり、表情には諦めの雰囲気が漂い、人間も世界も見限りがちになる。乱暴にまとめると不細工になる。人間には二種類あると思う。乾いているひとと、潤っているひとの二種類だ。人間性が乾いたらアウトである。できることならば、潤っている状態を保ちたいとは思うけれど、自分自身も「ああ、いまのおれは乾いてしまっている」と思うことは多い。

 

「いい仕事をしたなあ」と思える実感は潤いにあふれている。人間の心は、まるで一輪の花のようだなと思う。水やりを怠れば枯れるが、しっかりと水を与えれば生きている限り必ず蘇る。水は一回やればいいというものではない。今日の水は今日の水であり、明日の水にはならない。今日には今日の水が、明日には明日の水が必要だ。多分、人間にとっての水は「感動」だと思う。感動がなければ人間は枯れる。感動と呼ばれるものには様々な種類があるけれど、ああ、いまおれは目の前にいるひとと心を通わせることができているという種類の感動は最強だと思う。逆に言えば、心のない言葉を使えば使うほどに、使い手の心は乾いていく(心の潤いは、乾いた言葉に吸い取られていく)。

 

有意義より無意義。

自転車を走らせながら「もっとめちゃめちゃにやってしまえよ」と思った。おれはなんで寒空のなか自転車を漕いでおはなを配ったりなんだりしているのだろうか、とか、こんなことをやっていったいなにになると言うのだろうか、とか、そういうことを思うことは多い。が、しかし、こんなことをやっていなければ絶対に出会うことのなかった素晴らしい出来事が起こるたびに「俺の生き方は間違いだらけかもしれないけれど、間違っていない」的な肯定感を覚える。

 

「おれはなにをやっているのだろうか」と思った瞬間ほど、多分、そのひとはいい感じのことをしている。これは自分を肯定するために言いたい。「おれはなにをやっているのだろうか」と思ったらチャンスだ。多分、どんどんやったほうがいいのだと思う。もっともらしい理由があるひとよりも、よくわからないけれどやりたいからやっているひとの方が(私の中では圧倒的に)好感度が高い。意味不明な人間は素敵だ。あなたくらいの才能があればいくらでも働き先があるであろうに、なぜ、そんなことをやっているのか(もったいない!)と周囲から問われまくるくらいになったら『一人前』だと思う。

 

有意義より無意義。大勢の人が「何か有意義なことを」的なことを考える中で、我々「無意義に賭ける」少数民族は無意義街道を爆走する。有意義街道は大渋滞を起こしているので、遠くまで行きたくてもなかなか進むことはできない。が、無意義街道は「誰もそんなところを通りたくねえよ!」的に感じるひとが多いためにこの瞬間もガラガラだ。無意義上等。無意義上等、と書いて「なんだかいい言葉だな」と思った。社会的にはなんのアレもないから周囲からボロクソに言われることも多いこの道だけれど、有意義街道ではなかなか得ることのできないよろこび、誰もいない道路を「おらおらおらー!」と爆走するよろこび【生きている実感】を得ることはできる(おれはなにを言っているのだろうか)。

 

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我々は、宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。

生きているといろいろなことが起こる。離婚や死別や犯罪や虐待、家族関係性や学校【職場】での人間関係など、この世の中で「不幸」とされているものをあげたらきりがない。人生が旅なら、人間のカラダは乗り物で、いまいる場所は幹線道路の真っ只中みたいなものである。そりゃあ、生きていれば誰でも一度は(割と酷目の)交通事故に遭うこともありゃあと思う。その瞬間、多分、我々は試されている。それは「どのような瞬間であれ、お前はお前であることの矜持を保つことはできているか?」という試練だと思う。

 

学歴の有無、収入の上下、交友関係の広狭など、社会的なランクづけはあらゆる場所で行われている。私は思う。そんなものに負けてしまってはいけないのだと思う。生きていればトラブルは起こる。自分のことをクソムシだと罵り倒したくなる瞬間もある。が、いつまでも自分を責めて卑屈に塞ぎ込んだままでいてはいけないのだと思う。ある程度塞ぎ切ったら、あとはもう開くだけだ。過去を変えることはできない。しかし、未来を選ぶことはできる。過去は過去。もう、充分に過去を過去し尽くす【嘆き尽くす】ことを終えたら、あとはもう「自分の好きなように未来をカスタマイズしていく」方向に舵をとる。

 

所詮、生まれて死ぬだけの人生である。なんて言うと若干厭世的に響くかもしれないけれど、違う。我々はなにももたずに生まれて来て、なにももたずに死んでいく。裸で生まれて裸で死ぬということ、そのことのなんという圧倒的な安心感【平等感】たるや!!なんだかよくわからないテンションになってしまった。夜明け前から自転車を走らせたために、いまだに指がかじかんでいる。寒い。寒いけれど気持ちいい。これからまた自転車を飛ばして、花の都大大阪に向かう。今日も素敵な出会いがあればいいなと思う。この記事をご覧のみなさまにも、憂鬱を軽く吹き飛ばすほどの素敵な出会いがありますことをお祈りしております。

 

 

 

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我々は、宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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行く道は違えど、共に進もう。

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自転車移動も五日目にはいる。静岡県湖西市にあるコメダ珈琲に来た。私は軟弱者だと思う。チェーン店の従業員の笑顔が硬直的(接客が機械的)なだけで「死にたい」とか思う。もしも、たとえば自分の母親が死んだ顔でスーパーのレジを打っている様子を見たら、わたしは「この世の中に希望なんてないな」とか思っちゃうのだろう。笑いたくないときでも笑わなくちゃいけないし、思ってもいないことを口にしなくちゃいけないこともある、それが生きるということなのよとか言われたら「それをするくらいなら死にたい」と思う。

 

これから愛知県の一宮を目指す。一宮在住のA様が「よかったら、良い宿があるのでおとりします!」と連絡をくれた。ものすごいありがたい。うれしい。夕方までに着きたい。それ以降は関西にはいる。特段予定も何もないので、和歌山経由で徳島に行こうかなと思う。自転車を漕ぎ続けていると、己を鼓舞するために歌を歌ったりなにかを叫び出している自分を見る。この前は「うおー!」とか「だるあー!」などと叫びながら峠を超えたのちに、あいらぶゆー(ハアハア)、あいらぶゆー(ハアハア)、とかつぶやきながら漕ぎ出したときは「俺はこんなことを言いながら走るような男だったのだな」と感心した。

 

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「生きづらいな」と思う。

生きづらいなと思うことがある。ひとと話している時に、そう感じることは多い。誰かに何かを聞かれたときに「なんでそんなことを聞くのだろう?」と思うことは多く、誰かが何かを話しているときに「なんでそんなことを話すのだろう?」と思うことも多い。表面的なもの【どうでもいいこと】に、多分、わたしは反応することができないのだと思う。どうしてもそれが話したいから話すというものではなく、ただ、なんとなく話されているものに対してうまい反応をすることができない。

 

この前、ある女性と話した。その女性は「最近は調子がいいんですよー、あはは」と話していたけれど、目がうつろだなと思った。目がうつろなひとを見ると「このひとは自分の喜怒哀楽を無視している【自分自身を蔑ろにしている】のではないだろうか」とわたしは感じる。世間的な風潮がそうさせるのだろうか、常に明るくいなくちゃいけないとか、元気でいなくちゃいけないとか、幸せに生きている風に見せなくちゃいけないとか、ポジティブ風に装っていなければいけないみたいなものを感じることがある。そういうひとと過ごすと疲れる。全部バレているのだから「嘘をつくな」と思う。

 

だからわたしは「嘘をつくな」と言う。そういうことを言ってしまうからなのだろうか、嫌われることも多い。嫌われすぎてしまって生きるのがつらくなる。ギリギリもちこたえることができているのは、そんな自分でも好きだと言ってくれるひとの存在である。みんなどうやって生きているのだろうか。思ってもいないことを口にしていると病気になるし、思ってもいないことを口にしないでいると(結構な確率で)嫌われる。まさに八方塞がりである。だからわたしは自転車を漕ぐ。自転車を漕いでいる時間だけは、自由でいることができる。

 

人間と出会う。

それでも稀に「人間を見つけた!」的なよろこびを覚えることがある。わたしは「ひとと話したい」と思っている。が、ひとと話しているときも「ひとと話しているとは思えない」と感じることは多い。日本だけでも一億人を超える人間が暮らしているというのに(毎日すれ違うひとは大量にいるのに)、心を通わせることができたと実感できる瞬間は猛烈に少ない。

 

これはどういうことなのだろうか。せっかくひとと話をするのであれば、わたしは「お互いの本音をやりとりしたい」的なことを思う。社交辞令とか無駄な世間話は不要だ。真剣勝負という言葉がある。わたしは大袈裟な人間だからなのだろうか、常に「斬るか・斬られるか」みたいな瞬間を理想としている。別にひとを傷つけたい願望があるわけではない。ただ「斬られたい」と思うことはある。ひとと話すことの最大のメリット、それは「自分の旧態依然な価値観の殻がパカッと割れて、新しい自分がひょっこり顔を出す」ことにある(と思う)。

 

人間と話をしたいと思う。人間を見つける旅をしているのだといっても過言ではない。人間みたいなひとはたくさんいるけれど、人間と出会うことは少ない。これはどういうことなのだろうか。おれの目が節穴だからなのだろうか。おれの性格が悪いからなのだろうか。幸せそうに生きている人が少ないと感じるのは、わたしの性格がひねくれているからなのだろうか。それとも「実際にその通り!」なのだろうか。まあいいや。他のひとのことは知らない。ひとの言葉に期待をするより、ひとの生き様に期待をするより、いまの自分がやるべきことは「己の生き様に言葉を宿らせること」なのだと思う。

 

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わたり文庫『ザ・ロード

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、コーマック・マッカーシー著作『ザ・ロード』です。自転車移動はそれなりに疲れるのですが、この本を読んでいると「おれよりも五兆倍つらそうな主人公がこの瞬間も頑張って生きている!(頑張るってレベルじゃない!)」的なことを思って励まされます。内容がダークなのですべてのひとにおすすめすることはできないのですが、ちょっとくらいたい方には良い本なのかなと思います【ピュリッツァー賞受賞作】。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

あの男の子のことを憶えてる、パパ?

ああ。憶えてるよ。

今でも元気でいると思う?

ああもちろん。元気でいると思うな。

でも迷子になっちゃったかな。

いや。迷子にはならなかったと思うよ。

迷子になったんじゃないかって心配なんだ。

あの子はきっと無事だよ。

でももし迷子になったら誰が見つけてくれるの?あの子を誰が見つけてくれるの?

善意が見つけてくれるんだ。いつだってそうだった。これからもそうだよ。

 

コーマック・マッカーシーザ・ロード』【早川書房

 

行く道は違えど、共に進もう。

ひとと話していてわかったことがある。わたしは、多分、ひとの話を真剣に聞き過ぎている。相手としてはなんとなく話していることでも、必要以上に真剣に聞いてしまうから、勝手に真剣に考えて、勝手に相手の身になって、勝手に想像力を働かせて、勝手に疲弊をしたりなんかして、勝手に「人間関係に疲れた!」と自爆をすることが多い。あるひとは「わたしはこういうことがやりたいのです」的なことを言う。しかし、多くの場合は「やりたいのではなく、ただ、やりたいと言いたいだけ」なのだとようやくわかった。

 

ほんとうにやりたい人間は、話す前にやる。話し続けている時点で、多分、そのひとは「やりたいのではなく言いたいだけ」なのだと思う。だからこそ、多分、その時点ですでにゴールをしているのだと思う。やりたいひとはやるし、話したいひとは話す。ひとの生き方をああだこうだと言って見たり、他人の人生に余計なアドバイスをする暇があったら「お前はお前の人生を生きろ、バカ!」と自分に思う。他人の言葉に反応をしている場合ではない。反応するな。行動をしろ。言葉で語るな。背中で語れ。説明をするな。理解者を求めるな。みんなでやろうなんて甘えるな。ひとりで生きろ。ひとりで生きることをはじめたとき、仲間も理解も応援も、あとから勝手についてくる(ものだと思う)。

 

自転車を漕いでいると、無様な自分が浮き彫りになる。俺はクソムシだなと思う。俺はクソムシだなと思いながら、俺は俺でしかないのだから「この俺で生きよう」とも思う。自分が自分であったからこそ、出会うことのできた人間がいる。それならば、俺は俺を続けよう。自分は自分を続けることが、巡り巡って「あなたはあなたを続けること」の連結になったら最高だ。静岡の天気は晴れ。愛知県との県境に向かう。この前、ちょっと切ない別れがあった。また会いたいと思えるひととまた会えたとき、恥ずかしくない自分でありたいと思う。その時は、胸を張って「久しぶりだね」と笑いあえればいいなと思う。

 

 

 

 

人生は続く。

 

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10個の偽物より、ひとつの本物を。

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東京から広島まで自転車で行く。静岡県三島市まで来た。三日目の今日は静岡駅を目指す。宿はない。熱海から函南に抜ける峠が地獄で、汗が冷えて全身が凍えた。手先が痺れて、タイピングが器用にできない。道中、隙あらば出会う方々におはなを届けたい。予算は三万円。食費をけちるためにナッツ類をカバンに詰めて、ちょいちょいつまみながら走る。自転車旅のようなものは未経験なので、いろいろと新鮮で勉強になる。素足で出発をしたことと、手袋をしないで出発をしたことは失敗だった(あとで軍手を買う)。

 

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【追記】今月の携帯データ残量がゼロになりました。ラインモバイルを使用しているため、LINEからのご連絡に限り24時間確認できます。何かありましたら、LINE(LINE ID ibaya)よりご連絡ください。

 

銀座で生かされる。

初対面のひとと話すとき、わたしが重要視をしているのは「(過去の業績とか、そのひとの人脈や肩書きや知識なんかより)謙虚か、傲慢か」なのだと思う。先日、銀座で食事会に招かれた。食事会の席には、大概よくわからなひとがいる。なんだかそんな感じのひととなんだかそんな感じになり、わたしはなにも話せなくなった。そのひとが「普段はなにをしているのですか?」とわたしに問う。その声は、腹から出ているものではなく、頭から出ているものだなと思った。わたしは「(このひとに説明をすることは多分無理だから)なにもしていません」と答える。途端に会話が詰まり、場の空気感は最悪になる。

 

稀に、高級な食事をご馳走していただくことがある。が、正直に言えば美味しいと思ったことはあまりない。この金があれば一輪挿しが50本買えるとか、そういうことを考えてしまうわたしは貧乏性だ。もう、今世はこういう場所に足を運んではいけないのだと思う。食事会の空気が耐えられなくて、わたしは(これでもくらえ!的な感覚で)一万円札を置いて店を出ようとした。すると、主催者の方が「坂爪さんはゲストなのでお金はいりません」と言う。わたしは「いえいえ、いろいろと食べたので」と答える。主催者の方は「大丈夫ですよ」と言う。わたしは「そうですか…それではお言葉に甘えます!」と答えて店を出る。

 

一万円札を格好つけて出したものの、所持金三万円で広島まで行こうとしている人間にとっての一万円はでかい。正直、出さずに済んだことがうれしかった。そして「おれはこの程度の人間なんだな」と思った。気の合わないひとともうまくやりとりすることがおとななら、自分は死ぬまでこどもなのだと思う。傲慢なひとを見るとひねり潰したくなる。その後、いつもお世話になっている方が「自転車で広島まで行くんですね!これ、緊急時に使ってください!」と、はるばる銀座まで救援物資を届けてくれた。最高に嬉しかった。そして、ひねり潰したいとか思ってしまっていたおのれの醜さを恥じた。

 

引き寄せよりも『押し寄せ』

引き寄せの法則というものがあるけれど、いばや界隈では「押し寄せの法則」を採用している。引き寄せるとか言う前に自らを積極的に押し寄せ、そこで起こる事象を楽しむ。別に頼まれてもいないのに広島まで低予算で自転車で向かうのは、多分、なにかをすればなにかが起こるという予測不可能性をくらいたいからなのだと思う。これから数日間、宿もなにもきまっていない。雨の日はどうすればいいのかという知恵もない。ただ、やったことのないことをやることを通じて「自分の限界の幅」をわずかでも拡張できたらいいなと思う。

 

こんなことを言うと「おまえはゲンキンなやつだな」と思われちゃうかもしれないけれど、わたしは『ものをくれるひと』が好きだ。ごちゃまぜの家をやっていてもそうだけど、差し入れを持って来てくれるひとの存在は爆裂的にありがたい。ものをもらえることも嬉しいけれど、そこに込められた気持ちがうれしいのだ。どうしたって、こういう生き方(?)をしていると「坂爪さん!なにか答えを教えてください!」みたいな感じで、くれくれモードのひとと出会う機会は多い。そんななか、なにかを与えようとしてくれるひとにある『自分から先になにかを与えようとする姿勢』が好きなのだと思う。

 

そして、安直かもしれないけれど「なにかをもらうと、こっちからもなにかをあげたくなっちゃう」的な気持ちになる。ものを贈ると言うことは、多分、人間関係のはじまりである。なにかを一方的に受けているばかりでは、そのサークルの中に加わることはできない。自分にできることを差し出すこと。その「贈り物」を通じて、自分が生きたいと思う世の中のサークルに加わること。私の場合、それが『おはな』であり『言葉』であり『自分自身』だったりするのだと思う。自分にできることを差し出すこと。そして、相手から差し出されたものをしっかりと受け取ること。それが『生きる』ということなのかもしれない(というのは言い過ぎかもしれない。もしかしたら全然違うかもしれない)。

 

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わたり文庫『カラフル』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、森絵都著作『カラフル』です。こちらの本は、内容の素晴らしさもさることながら、わたしの手元に届くまでの流れも素晴らしいものでした(いただいた手紙をご紹介させていただきます!!)。どうしてなのでしょうか、いま、この記事を読んでいるあなた(そう、あなた!)に猛烈に感謝をしたくなりました。諸々の流れの中で、無限の網の目の中で、さかつめけいごは本日も生かされています。これもひとえに、あなたの存在があってこそ【「わたしはあなたの代わりに生きていて、あなたはわたしの代わりに生きている」的なこと】なのだと思います。こちらの本をご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

 

坂爪さんへ

 

こんにちは、◯◯と申します。

 

いつも坂爪さんのブログを読んで、坂爪さんが紡ぐ言葉に癒されたり、気づかされたり勇気をもらったりしています。

 

今回は本を一冊同封させていただきました。11月1日の記事で「死ぬまでに何度も読み直したいと思う本」の話をされていて、私だったら何の本だろうと考えた時に、すぐに森絵都さんの「カラフル」が思いうかびました。この本を読んで心が少しかるくなったのと同時に、前向きになれて、まわりの人達に感謝したい気持ちになりました。

 

大人が読んでも楽しめますが、主人公と同年代の中高生に読んでほしい本です。黄色い表紙もとても好きです。誰かに読んでもらいたいと思い同封しました。それから、趣味で作っているしおりとブローチも同封させていただきました。もし、使ってくださる方がいましたら、その方にお譲りします。よろしくお願いいたします。体調不良が続いているそうでとても心配です。はやく治りますように。

 

これからも坂爪さんのブログや活動を楽しみにしています。

 

少しですが切手も同封させていただきました。使っていただけるとうれしいです。それでは失礼いたします。

 

2017・11・6 ◯◯より。

 

10個の偽物より、ひとつの本物を。

10個の偽物より、ひとつの本物を持ちたいと思う。どうでもいい10人の知り合いよりも、ひとりの友達を大事にしたいと思う。わたしがブログを書く理由、わたしがおはなを配る理由、わたしが予測不可能性に賭ける理由、多分、それは「そこから発生するコミュニケーションを楽しみたいから」なのだと思う。10個の偽物より、ひとつの本物を持ちたいと思う。高級料理についてあれこれウダウダ言ったのも、わたしにとって重要なのは人間のこころであり、話題のメインが料理のことばかりになってしまって「こころの部分」から離れて行くことが嫌なだけなのかもしれない。

 

前回の記事で「何もしないで死ぬことも偉業」ということを書いた。生きていることが自然であれば、死ぬこともまた同時に自然である、だから死ぬことを否定的に考える必要はないのではないだろうかということを書いた。あらゆる恐れがなくなったとき、ひとは愛することしかしなくなるという言葉を聞いた。最大の恐れは『死』だと思う。逆に言えば、死ぬことに対する恐怖が消えた時、生きることは結構気軽な旅路になる。生きろ【生きなければいけない】と言われると人生に対する緊張感が生まれる。生きてもいいし、死んでもいい【生きても死んでも大丈夫】と言われると、ふんわりと安らぐ。それなりに安らぐと「せっかく生まれて来たのだから(そして勝手に死ぬのだから)、生きている時間は、生きている時間を楽しもう」みたいな気持ちになる。

 

この記事を読んでくれた方からメールが届いた(最後に引用させていただきます)。私は、多分、一対一の関わりを大事にしたいのだと思う。誰かといる時のあなたではなく、誰ともいないときのあなた、常識とか世間体とか社会的な役割を全部取っ払った後に残る「あなた自身」に興味があり、その部分にこそコミュニケートをしたいのだと思う。裸の付き合いを望むなら、まずは、自分から裸になることだ。わたしは、このブログを通じて「わたしはこういう人間です」ということを綴る。そして、自分が自分であることを面白がってくれるひととの間に発生するコミュニケーションを糧に、やれ「峠の坂道が厳しい」だの「汗が冷えて凍える」だの「宿がなくて死んじゃう」だの「そろそろナッツ類がなくなりそう」だの時折グハグハ悶えながら、生きていく【押し寄せていく】のだろうなと思う。

 

 

圭吾さん
 
こんばんは!
濃いめの緑茶などすすりながら過ごすにはうってつけの夜ですね。
のんびりと養生楽しんでいらっしゃるようで何よりです。
 
改めまして…
先日は曇天の体調のなかお時間をつくっていただいて本当にありがとうございました。
同じ空間で同じ釜の飯を食べられたこともしみじみ嬉しかったです。
 
今日のブログも。
わたしにぴったりなタイミングで届きました。
なんでだろう?すごくほっとしてしまって。
そして圭吾さんにメールしたくなってこうして徒然と綴っております。
 
圭吾さんがブログに書いてくれたこと(くれたというのも変な表現ですが…)
いつもわたしの胸の真ん中にあることです。
 
息子の出産。
2011年の震災を挟むように両親の他界。
いのちというものにこれまでにないくらい真剣に向き合った日々を経て、
死というものは忌むものではないどころか祝福のようなものでさえあると。
ごくごく自然な営みである、とすんなりと受け入れている自分がいます。
 
死なないで、と相手に願うことはあくまでも自分の都合であるのだな、と。
死んでしまいたいくらいキツくて重いものを抱えているひとに
それでも死なずにがんばれとは言えない自分がいます。
あ、わたしも自殺斡旋とか尊厳死の是非とかを主張したいわけではなく、
人生の終わり方についても本人が主役であって欲しいと思うだけなのです。
 
産後まもなくの両親の他界や離婚。
ひとから見れば決して幸せそうとは言えないわたしの人生だけど、
涙することはあっても不思議と不運だと嘆くことはなかった気がします。
うん。思うように生きてきた。
 
幼い頃から漠然と、
 
″何ものも妨げず、何ものにも妨げられず。
すべてのものがのびやかであれ″
 
という想いを抱いていて、それがわたしの世界観なのだと思うのですが、
あきとさんの言葉の意味、わたしなりにわかる気がします。
 
″何ものにも妨げられない″ こと
多分これが多くの人が持つ自由のイメージかな?と感じているのですが、
それだけじゃ足りない。
 
″何ものも妨げない″
相手への敬意と尊重がなければ自由は成り立たないのだと。そう思ってます。
 
あきとさんにそう伝えたら「違う」って言われてしまうかもですが…笑
 
本題のわたり文庫の件、
「借りの哲学」ぜひぜひ読んでみたいです。
わたしもこの世界に本当の意味で自分のものってひとつもない気がしているんです。
手元にこの本がやってきてくれたら大切に読みます。ご縁があるといいな。
 
風が冷たい夜です。
あたたかくしてゆっくりとお過ごしてください。
それでは、素敵な時間を♪ 
 
◯◯◯◯

 

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あたひ。。(熱海の朝日)

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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「何もしないで死ぬ」ことも偉業。

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体調不良の恩恵を受けて、おじいちゃんのような日々を過ごしている。寝起きに珈琲を挽き、敬愛する藤岡弘さんに倣い「ありがとう」と囁きながらお湯を注ぐ。縁側で日光浴をする。庭を行き交う蝶々を眺める。午前中は軽い運動か創作か読書の時間に充てる。午後以降は、来客があれば対応をして、一緒に飯を食べたりお茶を飲んだりする。夜、月のあかりを眺めながら「月があるなあ」とか思ったりする。もう、30歳で定年でいいと思う。30歳以降は余生【ボーナスタイム】である。

 

人生はボーナスタイムである。これはわたしの好きな言葉【考え方】である。これまで、好きな言葉とか座右の銘を尋ねられてもまったく上手に答えられない自分がいた。これからは「人生はボーナスタイムである」と返したいと思う。生まれて来ただけで全員勝ち組、生きているだけでいい、それ以外はまったくのおまけみたいなものである。金持ちになるとか有名になるとかある種の功績を残すとか、全部、おまけ。今夜眠る場所があり、明日食うに困らない金があるならば万々歳であるとわたしは思う(12月3日に広島県金輪島に伺います。お時間のあるかたはお会いいたしましょう!!)。

 

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「何もしないで死ぬ」ことも偉業。

「何もしないで死ぬ」ことも偉業だと思う。生まれたからにはなにかをしなければいけないという考え方にとっ捕まると、なにもしていない自分【他人】を許せなくなる。中庸という言葉がある。個人的に「どちらでもいい」という状態が理想だと思う。なにかをしたければなにかをすればいいし、なにもしたくなければなにもしなければいい。多分、それだけでいいのだと思う。「そんなんじゃ生きていけないだろ!」と怒られてしまいそうだけど、わたしは思う。生きていけなくなった時は、潔く、死ねばいいのだと思う。

 

自殺を勧めている訳ではない。ただ「死を否定的に捉える必要はない」ということを思う。誰だって、当たり前のことだけれど「死にたくない」的なことを思う。だから、いやなことをやってでも生きようとする。生にしがみつき、死を忌避する。結果、それによって自由になれるのであればいいのだけれど「なんだか生きていることそのものがつらいものになっちゃった!」みたいになることは多い。『死ぬ』ことは自然の一部である。生にしがみつく【死ぬことが許されなくなる】ことの方がよっぽど不自然で、不自然な状態では「(流れに逆らう形になるから)生きていることが苦行になる」ことが多い。

 

「死ぬな!」と言われると(生きなくちゃいけない!となって)カラダがこわばる。「死んでもいいよ」と言われると謎の安寧を見る。繰り返しになるけれど、わたしは自殺を勧めている訳ではない。ただ、延命措置に未来はないということを感じていて、死んだように生きるなら、一回死んじゃえばいいんじゃないのかなと思う。死ぬとはつまり「社会的に死ぬ」ということで、普通を降りる【人並みをやめる】ということでもある。いま、ここまで書いて『死に損ないはゾンビになる』という言葉が脳裏をよぎってドキッとした。ゾンビにはなりたくないなあと思う。多分、そのための新陳代謝なのだと思う。

 

自分にとらわれると不幸になる。

ごちゃまぜの家でいろいろなひとと話す。楽しそうに生きているひともいれば、あんまり楽しくなさそうに生きているひともいる。人生を最高のテーマパークのようなものだと捉えるひともいれば、人生を修行の場所だと捉えるひともいる。生きていることを軽やかに【柔らかく】とらえるひともいれば、生きていることを重く【固く】とらえるひともいる。同じ現実を生きているといえども、その捉え方は百花繚乱、誰もが「自分の見たいように世界を見ている」のだと思う。

 

ごちゃまぜの家の管理人のあきとさんが「自分のことばかり考えているひとは、自由を行使できない気がする」的なことを言っていた。わたしは、理由はわからないけれど「なんだかそんな気がする!」と思った。自分のことばかり考えているひとは、自由を行使することはできない。ううむ、ううむ、自分でもどういうことなのかあまりよくわかっていないけれど、非常に含蓄のある言葉だなと思う(未だに自分の中で咀嚼は続いている)。

 

自分にとらわれると不幸になる。そういうことを思う。このさみしさをどうにかしたいとか、この欠落をどうにかしたいとか、そんな感覚に包まれているときは自由から遠い。自由とは「自分が消えている状態」だと思う。多分、創造性の中に自由はある。稀に、文章を書きながら「これは俺が書いているようで『何者かによって書かされている』のだ」と思うことがある。大袈裟な言葉で言えば、自分はただの触媒であり、神的なサムシングを「(自分を通じて)おろしている」状態。この瞬間、自分はただの道具になる。それは神を表現する道具であり、逆説的だけれど、自分が道具になることで「自分を最高レベルで満たすことができる」ある種の没我感を覚えることがある。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫『借りの哲学』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ナタリー・サルトゥー=ラジュ著作『借りの哲学』です。本の帯に書いてある「私たちの持っているもので、人から借りていないものがあるだろうか?」という言葉にビビッと惹かれまして、先日購買をしたのですがまだすべてを読みきれていません。こちらの本で登場するシェイクスピアヴェニスの商人のある箇所が非常に印象に残っているので、そちらを紹介をさせてください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※

 

ヴェニスの商人』のなかでは、一箇所だけ、《本当の贈与》、すなわち《返礼を求めない贈与》について言及がされる。それは、美しく裕福なポーシャにバッサーニオが求婚したとき、自らの愛を示すために「箱」を選ぶ場面にあらわれている。ポーシャと結婚するために、求婚者たちは金と銀と鉛の箱の三つからひとつを選ぶという試練を受けなくてはならないのだ。

 

金の箱には以下のような文面が彫られている。

 

「我を選ぶものは、誰もが欲しがるものを得られる」

 

銀の箱にはこう彫られている。

 

「我を選ぶものは、自分にふさわしいものを手にいれることができる」

 

そして、鉛の箱にはこう彫られていた。

 

「我を選ぶものは、自分の持っているすべてのものを差し出さなければならない」

 

バッサーニオは鉛の箱を選んだのだが、そこに彫られた言葉は、《返礼を求めない贈与》 - つまり、「愛」の本質を語っている。愛することとは、「自分の持っているすべてのものを差し出す」ことにほかならないからだ。「愛」は見返りを期待しない。すべての打算や利益を超えたところに生まれるのである。これによって、バッサーニオはポーシャを得るが、それは《交換》を意味しない。問われているのは、自分が与えるかどうかだけだからである。

 

ナタリー・サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』【太田出版

 

人生はボーナスタイムである。

ここまで書いて書き忘れに気づいた。わたしはいま、神奈川県横浜市にある菊名という場所で「ごちゃまぜの家」という営み(?)をしている。なぜこれをやりたいと思ったのか、多分、理由は500個くらいある。そのうちのひとつに「なぜ分ける?」というものがあり、こどもは保育園や学校に、障害者は障害者施設に、老人は老人ホームにぶち込まれる。だから「ごちゃまぜの家」という名前をつけた。全部ごちゃまぜでいいんじゃないだろうか。お前たちの問題はお前たちだけで解決をしろという風潮の世の中では、関係者にかかる負担が増える【社会的な分断が進む】。それならば「関係者の枠をふわっと増やせないものだろうか」と思うようになり、実験的にごちゃまぜの家を試している。

 

家とはなにか。家族とはなにか。ウルトラ引き伸ばして考えて見ると、生きとし生けるものは全員家族【地球が家】であるように思う。誰から生まれたとか、誰に育てられたとか、それらは些少な問題に過ぎない。たとえば誰かが犯罪を起こす。それをテレビとかで見たひとは「物騒な世の中ね!」とか「あんなひとになったらおしまいね!」とか言う。が、ウルトラ引き伸ばして考えて見ると、悪いのは犯罪者そのひとではなく「犯罪者を生み出すような世の中の土壌」であり、この土壌を構成しているのはわたしたちひとりひとりである(という点において、私は勝手に責任を感じている。いい人ぶりたいとかそういうことではなくて、なんとなく「他人事とは思えない」ことがある)。

 

人生はボーナスタイムである。そういうことが書きたかったはずなのに、話が広がり過ぎて着地点が見つからない。追い詰められた人間はおかしなことをするようになる。自分を見ていても思う。抑圧された魂は、必ずどこかで暴動を起こす。わたしには「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」くらいの考え方がちょうど良い。今夜眠る場所があり、明日食うに困らな金があるのであれば万々歳である。残された日々をどのように過ごすのか、それはひとりひとりの自由である。人生を苦行ととらえて修行を続けるもよし、今いる場所を天国ととらえて創造性の扉を全開にするもよし、好きなように生きたらいいのだと思う。恨みっこなしの一蓮托生である。わたしの場合は、自分のこころが「いいな」と感じる時間や空間や人間の記憶を、脳髄に焼き付けて散りたいと思う。

 

 

 

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生きているかぎり、何かを学びつづけている。

  

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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人生は、生き方ではなく「遊び方」の勝負である。

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体調が激烈に悪化をして歩くのがやっと、昨日は喉がバキバキになってしゃべることもできなくなった。これは死ぬのかもしれないなあと思っていたら、ごちゃまぜの家に遊びにきたひとが「遺言を残すとしたら何をいいますか?」なんて不謹慎なことを尋ねてきたので、一瞬ピカッとしたあとに「恐れていることをやるんだよ」という言葉が脳天をかすめた。毎日ひとつ(できることならば瞬間瞬間)、自分が恐れていることをやるということ。それは好きな人に好きだと言うとか、抱きしめたい時に抱きしめたいと言うとか、そういうレベルで良いのだと思う。これは(それだけで人生は勝手に流動的でエキサイティングなものになっちゃう程度には)最高の教訓だなと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

明日5日(日)はごちゃまぜの家の見学ツアーがある。今後、ごちゃまぜの家の離れの部分が賃貸物件として貸し出される。この物件に住む最大の特徴は、多分、坂爪圭吾という人間が比較的近いところにいる(同時に、坂爪圭吾的な存在に興味を持ってくださる方々と広範囲で知り合うことができる)ことだと思う。これは、見る人にとってはメリットになると思うけど、見る人にとってはデメリットになると思う。残りの部屋数は三室。菊名駅から徒歩10分。死ぬほど閑静な住宅街のど真ん中にあり、広めの庭もあるから家庭菜園も超絶可能。ごちゃまぜの家はシェアスペースとして常時利用可能で、自由に使える車もあります。興味のある方は(明日は無理でもいつでも内覧可能なので)お気軽に遊びにいらしてください。

 

ごちゃまぜの家&シェアハウス案内ツアー

 

学校なんて行かなくてもどうにでもなる。 

いま、高校二年生の女の子A様がごちゃまぜの家にいる。話を聞くと「学校では受験受験みたいなモードになっていて、大学に行かない人間はひとにあらず的な雰囲気もあるくらいで、わたしはそれにいい感じに洗脳されつつあると言うか周囲から刷り込みまくられているのだけれど、でも、冷静に考えると大学なんてまったく行きたいと思っていない自分がいるというかそもそもで勉強が全然好きじゃないということに最近気がついてしまったのですがどうすればいいでしょうか??」みたいな話をした。

 

A様は「(高校は)みんな同じ時間に来て、みんな同じようなことを考えている。そのことがなんだかものすごい狭くて、時折頭かおかしくなりそうになる」と話してくれた。私は「素晴らしい感受性だなあ!」と思ったので、あなたの感受性は最高に素晴らしいと思うからどうかその感受性だけは死守していただきたいとお祈りしていますと伝えた。「学校なんていかなくてもどうにでもなるよ」などと軽々しく言ってしまう私は、もしかしたら彼女に悪い影響を与えているのかもしれない。でも、実際どうにでもなるのだと思う。テレビやネットでは「どうにもならないかもしれない」不安や恐怖を煽る情報が大量にあふれているけれど、リアル社会に踏み出せば「意外とどうにかなっているばかりか、想像以上に楽しそうに生きている人種」は結構な数、いる。

 

その後、私たちは「どれだけ耳当たりの良い言葉でも、直感的に『なんだか嘘っぽいな』と感じる言葉は聞き流す」とか「やりたいことをやるのも大事だとは思うけど、やりたくないことをやらないことも同じくらい大事だと思う。笑いたくないのに笑っておくとか、沈黙が怖いから何かを話しちゃうみたいなこととか、そういうのは要らないと思う」とか「そういうのができるひとをいわゆる『社会性(社交性)のあるひと』とか言うのかもしれないけど、でも、無理をしすぎて潰れるひとたちを結構見て来た。笑いたいときだけ笑うひとの方が、俺の場合は信用できる。愛想笑いばっかりのひとよりも、笑いたいときだけ笑うひとの方が『いい笑顔をするひとだなあ』と感じることは多い」みたいな話をした。

 

やっててよかった「ごちゃまぜの家」

日常的に年齢の離れたひとと話せる機会があることは非常にうれしい。どんどん遊びに来て欲しいと思うし、一緒に過ごしているだけで勉強になる。小さなこども連れのお母さんが来てくれることも最高にうれしい(それにしても、なぜ、赤ちゃんと行動を共にしているのはお母さんだけなのだろうか。父親と赤ちゃんという構図を見る機会は少ない)。日本社会では、なかなか小さなこどもたちと一緒に遊べる機会は少ないけれど、ごちゃまぜの家の活動(?)をはじめてから「小さなこどもと戯れる機会」は結構増えた。これがうれしい。子育ての練習をしている気分にもなるし、ベイビーズたちから学ぶことも多い。稀に、大人たちに囲まれると「こいつらの精神は濁り過ぎていてやばい!」と感じることもあるけれど、目線を大人からこどもに移すだけで、呼吸が楽になる(ことがある)。

 

体調不良が続いているが、精神だけは死んでいないつもりだ。こどもを見ていると「こいつらは元気がありまくってていいな。おれにもちょっとわけてくれよ」と思う。どうしてこんなに元気があるのかを観察しまくった結果、ひとつだけわかった。こどもたちには「圧倒的に無駄が多い」ということ。いちいち飛んだり跳ねたりしなくてもいいところで、あいつらは飛ぶ。あいつらは跳ねる。あいつらは騒ぐ。カラダを動かしまくることで「おのずから発電しまくっている」状態に置いている気がする。私は安易な人間なので「そうか!こどものように無駄にカラダを動かしまくっていれば、常にターボ全開でおらおらおらっと生きていけるのかもしれない!」と思うようになった。

 

カラダを動かさないとアタマがおかしくなる。こどもたちが元気なのは、多分、カラダを動かしまくっているからだと思う。言い方を変えれば「無駄にあふれている」からなのだろう。やつらはいちいち意味など考えない。価値も考えない。考えていることは「面白いかどうか」くらいのもので、面白ければとどまるし、面白くなければ次に行く。それ【面白ければとどまるし、面白くなければ次に行く】が人間として自然なのかもしれないと思う。これは多分、おとなもこどもも同じだ。やれと言われるとやりたくなくなり、やるなと言われるとやりたくなる。やりたいことだけやりたいと思っているが、しかし、やりたいと思っていることでさえ「やれと言われるとやりたくなくなります!」と感じる心の動きは、誰の中にでもあるのではないだろうか。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫『モモ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ミヒャエル・エンデ著作『モモ』です。小生、現在32歳になるのですが生まれてはじめてこの本を読みました。そして「これはすげえ本だ!」と猛烈に感動をいたしました。このタイミングで読めてよかったなあと思える最高の一冊です。なんかもう、小難しい本を読むよりも子供向けの小説とか絵本ばっかり読んでいた方が、精神衛生上もすこぶるよろしいのではないだろうかと思うことの多い昨今です。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチなひとりで、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。

 

こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!

 

ミヒャエル・エンデ『モモ』【岩波少年文庫

 

人生は、生き方ではなく「遊び方」の勝負である。

冒頭の写真は、高校生のA様が「私もなにかやらなきゃって思ってたときに、坂爪さんのブログを見たら『おはなをくばる』ってのをやってて、よし、わたしもそれをやろうとは思ったのですがおはなを買うお金がなかったので折り紙でおはなを作ってそれを配ることにしました!」と、ごちゃまぜの家で折ってくれた花束になります。写真だとなかなかうまく伝えることができないのですが、非常に完成度が高くて(そしてA様の人柄が伝わってくる素晴らしい温度感で)最高だなあと感じています。我々、なう、非常に牧歌的な時間を過ごしております。

 

 

A様が「大学に行くか行かないかいまでも全然迷うのですが、どうしたらいいですかね〜」的なことを話す。その場にいた私(とロゼカンパニーの徹さん)は「大学に行かないならいますぐにでも一緒に遊べるし、大学に行くならしばらくしてから一緒に遊べるようになるわけだね」的なことを言った(このニュアンスが伝わるだろうか…)。このようなことを話しながら、ああ、自分は「どう生きるか」よりも「どう遊ぶか」を考えていた方が日々に充足感を覚えるタイプの人間なのだな、なにが正しいかなんてわからないけれど「なにが楽しいか」だったら少しくらいわかる。それならば、正しさよりも楽しさだ的な波乗りで、生き方ではなく「遊び方」に重点を置いた生き方を心がけた方が(とりわけ体調を崩したりメメントモリが行き過ぎたときは)有効なのだろうなあと思った。

 

 

人生は、生き方ではなく「遊び方」の勝負である。わたしの場合、そんな感じで世界を捉えていた方が、のびのびと健やかに日々を楽しむことができる。大学に行かなければひとにあらず、正社員でなければひとにあらず、そういう価値観でひとを値踏みする部族もこの世の中にはいるのかもしれない。きっと、それはそれでありなのだと思う。そういう部族から見ると、我々のような生き方は「そんなんじゃ生きていけないよ」的なツッコミどころ満載の生き方になるのだろう。それに対して我々が言えることは「そんなんじゃ生きていけないとは言われますが、しかしながら、そんなんで生きてきてしまったのは事実なのです。もちろんこれからどうなるのかはわからないけれど、それはあなたもわたしも同じこと。それならば、できるだけ自分がハッピーになれる道を選びたいではありませんか」みたいなことを思っている。

 

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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なんとなく生きるなんてクソだ。

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「死ぬまでに何度も読み直すことになりそうな本は?」という問いに対して、ある女性は「よしもとばななの『デッドエンドの思い出』と、村上春樹の『風の歌を聴け』です」と答えた。ある男性は「南直哉の『老師と少年』と、あとは『星の王子さま』とかになるのかなあ」と答えた。自分だったら何を答えるだろうかなと考えて、ふと、漫画バガボンドの37巻が頭に浮かんだ(あとは日本橋ヨヲコの『G戦場ヘブンズドア』)。このブログ記事をご覧のあなたにとって、この本は、死ぬまでに何度も読み直すことになるだろうなと思える本はありますでしょうか(もしもあったら教えてください。11月は時間があるので読みまくります!!)。

 

【ANN】ごちゃまぜの家&シェアハウス案内ツアー

 

沖縄で体調を崩し、台風の直撃で飛行機も飛ばず、結構ギリギリな日々を過ごしていた。JALが臨時便を飛ばすことになり、50000円近い正規料金を出して羽田に戻り(死んだ)、現在は横浜にあるごちゃまぜの家にいる。明日からパリ界隈に行く予定だったのだけれど、諸々の費用を臨時便に充ててしまったので身動きの取れない肉の塊になった。体調不良はいまだ治らず、しかし「体調不良でもビリーズブートキャンプはできる!」ということがわかったので、これから数日間はごちゃまぜの家で合宿をすることになりました。

 

【GSK】ごちゃまぜの家改め、ビリーズブートハウス!

 

ロックンロールとキリスト教

沖縄でぶっ倒れながら「俺はロックンロールとキリスト教に影響を受けたんだな」なんてことを考えていた。冬の新潟の曇天のように灰色の学生時代を過ごしていたとき、学校は退屈で、友達も少なく、生きていても何もいいことはないと思っていた。が、自分が好きな音楽を聴いている時間だけは『自由』のようなものを感じることができた。音楽のジャンルで言えば、多分、ロックンロールとことになるのだと思う。当時の私は、吉井和哉浅井健一甲本ヒロト田中和将坂本龍一などの音楽を好んで聴いていた。

 

どうしてロックンロールが好きなのだろう。多分、最大の理由は「やさしいから」なのだと思う。周囲にうまく馴染めない自分、ひとと同じであることがなかなかできない自分に、ロックンロールは「それでいいよ」と言ってくれているように感じていた。きっと、それがたまらなくうれしかったのだと思う。親、教師、周囲の人間、学校、社会などから「お前はお前のままでは通用しない」と言われているように感じている日々の中で、ただ、ロックンロールだけはやさしかった。そのままでいいよという言葉は、大袈裟な言葉で言えば『生きててもいいよ』という言葉になり、乾きかけていた自分のこころに最後の潤いを与えてくれた(ように思う)。

 

現在の私は32歳で、世間的には立派な大人の年齢だ。しかし、この歳になってもまだ、自分の中にある『反骨精神』のようなものがあることを感じる。世の中の多くの人が「これが本当だ」と信じているものに対して、どうしてなのだろうか、素直に受け入れることができずに「それは本当か?」と感じることは多い。良い大学にはいること、良い企業にはいること、それが人間としての幸せです的な教育を受けて我々は育った。多分、私はそういう画一的な考え方に中指を立てているのだと思う。これがよしとされている道ではない、なんなら「こうなったら人間の終わりです」とさえされている道を選び、かつ、その道の上で幸せそうにしている。幸せそうにしながら「ざまあみろ」って何かに対して言ってやりたいと思っている、そういう幼稚な自分がいる(ことを感じている)。

 

ibaya.hatenablog.com

 

なんとなく生きるなんてクソだ。

キリスト教の影響とはなんだろうか。10代の頃は、三浦綾子の小説を好んで読んでいた。多分、当時の私はキリスト教の思想の中に、なにかしら『美しいもの』を感じたのだと思う。何を美しいと思ったのかはわからない。その後、20代前半の頃、ひょっとした縁でイラン人の牧師さんと知り合い、教会にも足を運ぶ(というよりは遊びに行く)ようになった。私はクリスチャンという訳ではなかったけれど、金持ちも貧乏人も様々な職種の人間が「神の名の下に」同じ場所に集って祈りを捧げている姿は印象的だった。美しいなと思うこともあったけれど、初対面の人間に「おお、兄弟!」と言うテンションにはついていけなくて疲れた(その後、自然消滅的に教会には足を運ばなくなった)。

 

誰かの生き方をああだこうだと言うつもりはない。ひとのことを言えるほど、自分は正しい人間ではない。俺は俺の生き方を見て思う。なんとなく生きるなんてクソだ。生活のために生きるのは虚しい。生きるために必要なことではなく、生きていることを実感するために必要なこと。「命の燃焼」の不足。そのことが、悔しいのだと思う。

 

自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死ぬほうがいい。自分を殺してひとから好かれるくらいなら、自分を出してひとから嫌われるほうがずっといい。そんなことを思いながら数十年間生きてきたが、自分に対して腹立たしくなる瞬間は頻繁にある。体調不良の時などは、特にそうだ。なんとなく過ごしてしまっている怠惰な自分に、手元にあるものをまるで活かせていないばかりか無駄にしてしまっているのではないだろうかと思う時、私は「生きている実感」から遠く離れた場所にいる。そんな時、私は「畜生、畜生、」みたいなことを思いながら悶える。あたえられた命を使いきれていない自分に、大袈裟な言葉で言えば『生命に対する冒涜』とも思えるような腹立たしさを感じる(ことがある)。

 

わたり文庫『デッドエンドの思い出』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、よしもとばなな著作『デッドエンドの思い出』です。冒頭でも書いたけれど「死ぬまでに何度も読み直したいと思う本」というものを、誰でも一冊くらいは持っているものなのだろうか。もしも「自分にとってはこれがそれです」的なものをお持ちの方は、暇な時にでも教えていただけたらうれしいです。ごちゃまぜの家に直接郵送をしてくれてもうれしいし、その場合は、ごちゃまぜの家からも「誰かが置いて言った『死ぬまでの何度も読み直したいと思う本』を御礼(?)に郵送します。ごちゃまぜの家にある本棚が、誰かにとっての「死ぬまでに何度も読み直したい本」ばかりで構成される日がきたら、それはなんだか素敵なことだなと思いました。デッドエンドの思い出をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

今、この別々の空の下で、お互いが痛いくらいに切ないのがわかって、私の心にはまたあの店の二階の窓から見る光景と、果てしなくいちょうの葉が降り積もる静かな金色の世界が浮かんできた。

 

きっとそれは私の心の中の宝箱のようなものにおさめられ、どういう設定で見たのか、どんな気持ちだったのかすっかり忘れ去られても、私が死ぬときに幸福の象徴としてきっときらきらと私を迎えに来る輝かしい光景のひとつになるだろう、と思った。

 

よしもとばなな『デッドエンドの思い出』【文春文庫】

 

仕事とは、祈りの具現化である。

ロックンロールとキリスト教について書きたかったが、まるでうまくまとめることができなかった。私は思う。この世でいちばん美しい営みは「祈り」なんじゃないのかと思う。そして、世で言う仕事とは『(生活に必要なお金を得るというだけではなく)祈りを具現化すること』ではないのだろうかと思う。私はこうしてWEB上に文章を書く。文章は読める。読めるけれど触れない。冊子なら読める。活字になれば触ることができる。編集者の方が「本は出さないのか」と問う。わたしは「わからない」と答える。が、本にすれば触ることができる。目に見えないもの【祈り】を形にすることができる。

 

 

私は、私の好きなひとには「幸せであれ」と願う。楽しそうに生きていてほしいと思うし、幸せそうに生きていてほしいと願う。願うだけでもいいのだろうけど、願うだけでは足りないとも思う。私は花が好きだ。だから、私は「幸せであれ」という願いをのせて、好きなひとには花を贈る。この瞬間、花は祈りを具現化したもの(祈りの器)になる。これは料理も同じだと思う。料理そのものではなく、多分、私たちは「作り手が込めた思い」を食べている。料理もまた、祈りを具現化したものだと思う。仕事とは、なにも職業のことばかりを指すのではない。自分はどのような祈りを抱いていて、それをどのようなものに注いでいるのか、なにによって『自分の祈りを具現化しているのか』が、そのひとにとっての仕事になるのではないだろうか(そして、私の場合は『言葉』がそれにあたるのだと思う)。

 

 

私の場合は『言葉』がそれにあたる、と書いて軽い違和感を覚えた。もちろんわたしは言葉を綴る。しかし、言葉以上に「祈りを具現化しているもの」が自分にはあるような気がした。それはなにかと考えて、ああ、それは『自分自身』だと思った。変な言い方になるけれど、わたしは花を贈るような感覚で、目の前にいるひとに『自分自身を贈っている』ように思う(ことがある)。きっと、今世のわたしは「(何かをするということではなく、何者でもなく強烈にそこにあるということ、つまり)存在に賭けたい」と思っている。言葉だけではない、自分は「自分と言う存在【肉体と精神】」に瞬間最大燃焼的な祈りを込める。何を語るでもなく、何をやるでもなく、ただそこにあるという存在を通じて「生きていたい」とか「生きててもいい」とか「生きてやるぜ」とか、それを見たひとの内部になにかしらあたたかなものを生み出すことができたのであれば、それは最高だなと思う。

 

 

 

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ガラクタだって構わないのだ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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奇跡の中を生きている。

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沖縄に来たものの、体調不良でぶっ倒れている。明日の便で成田に戻る予定だけれど、台風が来ている。飛行機は飛ぶのだろうか。明後日の日曜日には、横浜にあるごちゃまぜの家の見学ツアーがある。これに間に合うようには戻りたい。が、どうなるのかはわからない。この記事をご覧のみなさまは、健やかな日々を過ごしているだろうか。最近、自分が体調不良の時など「体調が悪いのは自分だけではないのかもしれない」などと思ったりする。自分と似た周波数(?)を生きているひとは、もしかすると、最近体調不良に悩まされたりしていたのではないだろうかと思ったりする。

 

ごちゃまぜの家&シェアハウス案内ツアー

 

頭の中で「これでいいのか」と「これでいいのだ」の声が、シーソーみたいに揺れている。いまの自分の生き方は間違っていないだろうかとか、このままじゃいけないような気がするとか、そういうことを思うことは多い。しかし、「こんな風にしか生きれなかったんだろ?」と言われたら、うん、その通りだなと思う。頭の声はいろいろなことを言う。別の生き方があったのではないだろうかとか、他にも良いやり方があるのではないだろうかとか、なぜ、自分はひとと同じように生きることができないのだろうかとか。ひとつの選択肢を選ぶということは、他の選択肢を捨てるということならば、この日々は取り返しのつかないことの連続だ。頭の声は「これでよかったのか」と言う。その声に悩み、その声に迷う。しかし、多分、腹の声は「これでいいのだ」と言っているのだと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

軽い気持ちで遠くに行こう。

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沖縄の空は青い。

 

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空の海を泳ぐ。

 

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読谷村にあるビーチでは、五歳の女の子と仲良くなった。

 

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写真を撮ってもらった(女の子の指がはいっている)。

 

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綺麗な景色を眺めていると、ここに来て良かったなと思う。自分のこころが「いいな」と思う瞬間の中には、自分の選択を肯定する力がある。あんまり小難しいことは考えないで、実際にやってみることも悪いことではないのだなと思う。今、目の前にあるものを「まるで生まれてはじめてそれを目にしたかのように」新鮮な思いで眺めることができたなら、どれだけ世界は輝きを取り戻すのだろう。当たり前のことなんて、多分、ひとつもないのだと思う。そのことを、私はすぐに忘れる。忘れるたびに思い出して、ああ、とか、おお、とか、思ったりする。

 

わたり文庫『ムーミン谷の名言集』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、トーベ・ヤンソン(文・絵)『ムーミン谷の名言集』です。この話が本当かどうかはわからないけれど、ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソンさんは、ヘルシンキにある自宅を常に開放していて、来客があれば誰でも出迎えて話をしたり一緒にお茶を飲んだりしていたと聞く。それを聞いたときに「それは素晴らしい営みだな」と思い、わたしも、僭越(?)ながら自分の家【ごちゃまぜの家や熱海の家】を開放するようになった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

だれも心配しすぎないって、よいことでした。ムーミンたちは、ほかの人のために、やたらと心配しないでいようと、決めていました。つまり、そのほうが、心配をかけたと思って良心を痛めなくても、すみます。それに、ありったけの自由をあたえあっていることにもなるのです。

 

ムーミン谷の仲間たち』

 

 

 

「なんだって、できるわ。だけど、なにもやらないでいましょ。あぁ、なんだってできるって、なんてステキなことなの!」

 

ミムラねえさん『ムーミン谷の十一月』

 

 

 

「死んだら、死んだのよ」

トゥーティッキが、やさしくさとしました。

「このリスは、そのうち、土にかえるでしょ。やがて、その土から木がのびて、その木の上で新しいリスたちがはねまわるわ。それが、そんなに、悲しいことだって思う?」

 

ムーミン谷の冬』 

 

 

 

「歌をうたい、りんごを食べ、朝寝坊を好きなだけできる自由!それこそが、人生の醍醐味というものなのさ。それと、『これは重要事項だから後回しにはできません。すぐにやるのですよ』なんて、せっつく人がいないこと。そんな人は、勝手に、好きなように、させておくのさ!」

 

ヨクサル『ムーミンパパの冒険』

 

 

 

「物は、自分の物にしたくなったとたんに、あらゆる面倒が、ふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり・・・。ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。そのほうが、かばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからねぇ・・・」

 

スナフキンムーミントロールと彗星』

 

 

 

「ねえムーミン、友だちが、いちばん好きなことをしながら生きていけるようになるって、すてきなことじゃない?」

 

ムーミンママ『ムーミン谷の夏まつり』

 

 

 

霧の夜明けでした。みんなは、庭へ駆け出していきました。八月の、ステキな一日を約束するように、東の空に、バラ色の光がさしはじめていました。

朝日がのぼるのです。新しい門が、開かれます。すばらしい可能性への、扉です。なんだって、やってのけられる新しい一日が、待ってくれています。そう、きみたち、ひとりひとりが、気づきさえしたら!

 

ムーミンパパの冒険』

 

 

 

トーベ・ヤンソンムーミン谷の名言集』【講談社文庫】

 

奇跡を生きている。

当たり前のことを当たり前だと思えなくなる時、ああ、俺たちは奇跡の中を生きているのだなということを思う。アインシュタインの有名な言葉に「人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ」というものがある。どう生きるかということを迷うとき、私は、大前提となるはずの『生きているとはどういうことか』をまだなにも知らない。わかっていることを前提に生きているのではなく、わからないことを前提に【わからないままで】生きているのだということを思う時、ああ、奇跡と呼ばれているものは『(わかることではなく)わからないこと』を意味しているのだなと思う。

 

なぜ太陽は輝く。なぜ雨は降る。なぜ虹はかかる。なぜ食物は実る。生きているとはどういうことなのか。死んでいるとはどういうことなのか。わからない。その実態をまだなにもわからないまま、同時に、私たちは「わからないままで、それを味わうことを許されている【わからない中を生きている】」のだということを思う。小さなこどもを見ていると思う。彼らにとって世界がこれだけ新鮮に見えるのは、彼らにとって「わからないこと」がこの世界には大量に転がっているからなのだろう。年齢を重ねるにつれ、なにかを知ったつもりになることは多い。なにかを知ったつもりになることは、世界に対する複眼的な思考や新鮮味を奪い、画一化された思い込みの世界【固定化された世界】を生きることにつながっていく。

 

小さな頃、わからないということはそのまま「世界に対する好奇心」につながっていた。おとなになると、わからないということは「将来に対する不安」や「コントロール不可能なもの」など、自分にとってネガティブなものに変化をする。だから、できるだけわからないものを排除して、あらゆるものを自分のコントロールの範囲内に置きたいと願う。要するに、わかることは『安心』になり、わからないことは『不安』になる。しかし、私は思う。わからないぜ、と思う。いままでこれがほんとうだと信じていたものも、もしかすると「全然そんなことはない」のかもしれない。この世の中にあるあらゆるものが「そうかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない」のだと思う時、私のこころは自由を見る。世の中の価値観がひっくり返る前のあの瞬間、天動説が地動説になる瞬間、もしかしたら、その時代の人々はこんな気持ちだったのかななんて思う。わかるから面白いんじゃなくて、わからないから面白いんじゃないか。奇跡と呼ばれているものが「わからない」とされているものならば、自由と呼ばれているものも「わからない」ことの中にあるのかもしれないと、それならば「わからないことを楽しめた方が、ずっと豊かな人生になるのではないだろうか」と、そういうことを考えている。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BatXK8tjhjB/

はじめてそれを見たときのように。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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好きなことを、好きなように、どんどんやりなさい。

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ごちゃまぜの家の第二弾候補地をルキンフォーするために、明日から急遽沖縄県に飛ぶことになりました。10月24日(火)の21時頃に那覇空港に到着をして、28日(土)10時20分那覇空港発の便で成田空港に戻ります。が、沖縄での宿も予定も交通手段もすべてが(経済的な理由で)未定になりますので、もしも、もしも那覇界隈滞在の方で「ごちゃまぜの家に使えそうな場所があるよ!」とか「宿がなければ我が家においで!」とか「沖縄のここがいいから無理やりにでも連れていきたい!」などなどありましたら、是非、是非、是非、どなたさまでもお気軽にお声がけいただけましたら幸いです。

 

連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

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WHAT is GOCHAMAZE no IE...???????????

 

ibaya.hatenablog.com

 

ごちゃまぜの家より愛を込めて。

昨夜、菊名にあります『ごちゃまぜの家』からツイキャス音声配信を行いました。いろいろと程度の低いことをダラダラと話してしまったのですが、小生、32年間生きてきて「これだけは死ぬまで続けたい!」と思える所業がふたつほどあります。ひとつは「おはなをあげる」という行為です。これは声を大にして言いたい(「おはなはいいぞ」って言いたい)。誰かに会う時、特別な理由は別になくても全然構わないから、駅近くにあるおはなを一輪買って、出会い頭に「はい、これ」みたいな感じでさらっと差し出す。それだけでいい。それだけで「なんだかよくわからないけれど空間全体が華やいで、いまという瞬間の輝きが増すね!」的な気持ちになれます。

 

おはなだけを買って渡すのも最高だけど、個人的なおすすめは「小さなメッセージカードを用意して、一言だけでもいいから手書きのメッセージを添える」ことです。これがあるとないとでは、感覚的に八倍くらい気持ちの伝わり方が違う(ような気がする)。男性的にはこっぱずかしい行為に見えるかもしれないけれど、これ、やってみると「ああ、なんだかいまいいことができているなあ」みたいな気持ちになれるから騙されたと思ってやってみてください。ひとと話すことが苦手なひとも、花に思いをこめて届ければ、きっと何かしら相手に伝わるものがあると思います。コミュニケーションは何も「言葉」だけではないのだと、小生、そういうことを思うことは最近頻繁にあります(頭ばかりを使っていると、身の回りにある自然【すぐそこにある愛】を慈しむ余裕がなくなります!)。

 

そしてもうひとつが「手紙を贈る」的な営みです。非常にありがたいことに、ごちゃまぜの家などに食料品や日用雑貨などの救援物資を送ってくださる方々が日本にはたくさんいらっしゃいまして、この国は最高だなと思うことは頻繁にあります。小包に添えられている手紙などを読むと、ああ、なんだかやっぱり肉筆にはメールにはない「ひとの温度感」を感じることができて嬉しいなあとハートがほぐれます。返事を書いている時間も、なんだか非常に素敵な時間になるので、是非、みなさまも「久しぶりに誰かに手紙でも書いてみるか」と思ってくださった方から順番にやってみてください。多分、すごいいい時間になると思います。(ごちゃまぜの家は静かな環境なので、多分、手紙を書くのに適した空間だと思う。家の片隅に「手紙コーナー」と称して誰でも自由に使える便箋や葉書や切手などを大量に置いておくので、ご希望される方は無許可で使い倒してください。また、誰かに手紙を贈りたいけれど贈る相手がいないから泣いちゃうという方は、ごちゃまぜの家(坂爪&稲村)でもよろしければ『是非、受け皿役を担わせていただきたい!』と感じておりますので、ご希望される方は非常にお手間ではありますが一回ご連絡ください。折り返し、ごちゃまぜの家の住所をお伝えさせていただきます)。

 

録画ラジオ ごちゃまぜの家より愛を込めて。 - TwitCasting

 

わたり文庫『すみわたる夜空のような』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、銀色夏生著作『すみわたる夜空のような』です。この本の中に収録(?)されている「君へ」という詩が好きで、ああ、なんだかこれを他のひとにも読んでもらえたらうれしいなあと思ってこの本を選びました。私は現在横浜にいるのですが、昨日までの嵐は嘘のようで、ひっさしぶりの太陽が家の庭を照らしています。それだけでこんなにも幸せになれるのかと、天気がいいだけで人間はこれだけ幸せになれるのかと感じております。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

 

「君へ」

 

君は好きなことを、

好きなふうにやるべきだ。

そのことが他人から見て、どんなに変でも、

損でも、バカだと言われても、

気にするな。

だって彼等は、君の願いを知らない。

君は彼等と違うものを見ているのだから。

あの、強い思いだけを、繰り返し思い出して。

そのことを忘れないで。

 

他人の説教やからかいなど気にせずに、どんどんやりなさい。

けして周りを見たらダメだ。

仲間はいないんだ。すくなくとも途中には。

君はやりたいように、どんどんやりなさい。

やりたいことを。

好きなやり方で。

その行為が同時に君を救うだろう。

その行為は同時に人をも救うだろう。

そのことを忘れないで。

 

銀色夏生『すみわたる夜空のような』【角川文庫】

 

愛することを恐れないで。

愛を表現することを禁止された時に、多分、人間は老いる【生きていることを楽しめなくなる】のだと思う。ひとが何か新しいことをやろうとする時、大概、その動機は『愛』か『恐れ』のどちらかになるのだと聞いた。多分、その通りなのだろうなと思う。不安や恐れを動機になにかをする(なにかをしない)のではなく、できることならば希望やよろこびをベースに生きていたいと私は思う。それが、時に周囲の人から「お前の生き方はありえない!」とか「クソだ!」とか「ウンコたれだな!」とか言われたとしても、自分の中に「これが私の愛情です」的な思いがあるのならば、ひるむことはない。周りはどうあれ自分だけは、どんどん、どんどん、どんどんやってしまえばいいのだと思う。

 

繰り返しになるけれど「愛を表現することを禁止された時に、ひとは老いる【生きていることを楽しめなくなる】」のだと思う。おはなをあげる行為や、手紙を贈ると言う行為は、大袈裟な言葉でいえば「愛することなんて実はまったく禁止なんてされてなかった」ということを思い出すための最適な機会になる。何かを愛すること、自分の中にある愛情を表現することは、実はまったく禁止なんてされていなかったのだと、仮に「愛を贈った相手から何かしらの見返りを得る」ことはできなかったとしても、自分自身が愛を表現することは誰にも奪うことはできないのだと、そういうことを思う時に(私の場合は)エネルギーが湧く。愛することは禁止されていない。禁止されているとしたら、それは「自分が自分に制限をかけて抑圧をしている」だけなのだと思う。このトリガーを外す。目の前には、いくらでも愛すべき対象が転がっている。別に無理をしてまで愛する方向に舵をとる必要はないけれど、なにかを愛しているときに「ああ、生まれてきてよかったな」的な気持ちになることはできる。

 

時間がなくって「ぐおらららららら!!!」と最高速度でこの記事を書き上げたからまたしても文章が雑になった。でも、30分程度の隙間時間さえあればこれだけの分量が書けるのだということがわかったので楽しい。私は思う。金を稼ぐとか、有名になるとか、世間的に認められるとか、夢や目標を達成するとか、愛されるために何かをするとか、多分、そんなことはどうでもいいのだと思う。自分以外の何者かになろうとすることは、極端な話、自殺行為と同じ(真の自己を否定する行為)だと思う。そんなことよりも、自分であることを楽しむこと、生きていることを楽しむこと、目の前にあることを楽しむこと。やりたいことを、やりたいときに、やりたいように、クソミソに言われたとしてもきっと全然大丈夫だから、どんどんどんどんやってしまうこと。自由になるために誰かの許可が必要なわけでもなければ、愛を表現することに誰かの許可が必要なわけでもないし、誰かの許可がなければ生きててはいけないなんてこともない。自由になるのはきっとおそろしく簡単なことで、いま、この瞬間に「おれは自由だ」と認めるだけでいいのだと思う。生きるとは無垢に無邪気に純粋に自分らしく楽しむことで、何かを成し遂げることではないのだと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BakoxOZDlJH/

愛することを恐れてはいけない。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きていることを楽しんでいるか。

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2017年4月にクラウドファンディングでプロジェクトを企画し、多くの方々のご支援をもとに、翌月末には横浜市港北区菊名で産声をあげた「ごちゃまぜの家」。誰でも自由に使える空間があったらいろいろと良いんじゃないだろうかと思い、この活動(?)をはじめて五ヶ月の月日が流れた。良いことも悪いこと【やってみてはじめてわかったことなど】も大量にあり、尽きることのないお勉強の日々のど真ん中にいる。

 

 

ごちゃまぜの家についてまとめます。

 

ごちゃまぜの家とはなにか。

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図書館みたいな、無料の喫茶店&託児所&宿泊施設も兼ねる「ごちゃまぜの家」の第一弾を東京に!!基本的な使用料金は完全に無料で、珈琲もタダ、料理もタダ、欲しい本があればあげるし、なんなら泊まってくれたひとに100円あげちゃう(未定)くらいの場所を作りたいです。有志を集めたら、実現できちゃうものなのでしょうか!?【CAMPFIRE・プロジェクトページより引用】

 

「(自分の生き方はギャグみたいなものだから)この生き方を笑ってもらえたらうれしいなあ」くらいの気持ちで、プロジェクトページは「ごるぁ!」と1時間程度で書き上げた。翌日には早速CAMPFIREに掲載をされて、4月7日は私の誕生日でもありますので「こんなことをやるのでよかったら見てください!」的な感じでSNSでシェアをした。ら、非常に驚いたことにあれよあれよと(誕生日プレゼント的な意味合いも含めて)支援が集まり、三日間で目標金額は達成されてアゴが外れた。

 

これはもう「神に『やれ』と言われている…!!」とわたしは勘違いをいたしまして、神の粋なはからいによってベストな物件が現れることを祈るようになった。ら、支援者の方のひとりでありますY様から「私は不動産関係の仕事をしているのですが、ごちゃまぜの家に使えそうな家があります!」という連絡が届いた。私は「なんということでしょう!」と戦慄をして、後日、Y様と一緒に菊名駅から徒歩10分程度の場所にある築60年以上の古民家に足を運んだ。

 

結果的に、いま、この家が「記念すべきごちゃまぜの家の第一弾」として機能をしている。非常に閑静な住宅街の中にあるために「あまりにもひとが来すぎるとやばい」ということで、住所はまだ公開をしていない。利用希望者の方には、お手間ではありますが一旦坂爪圭吾にご連絡をしていただくようにお願いをしていて、折り返しごちゃまぜの家の所在地や簡単な利用法をお伝えしている。このブログでは、ごちゃまぜの家の雰囲気や使い方のイメージだけでもみなさまに伝わればうれしいと思い、いま、書いています。

 

ごちゃまぜの家の使い方。

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ごちゃまぜの家の使い方はシンプル。基本的に鍵は常に開けているので、誰でも来たいと思った時に来ればいい。私は過去に「家のない生活」を二年間程度していたのだけれど、その時期になにがいちばん辛かったって「横になれないこと」だった。喫茶店などでコーヒーを飲みながら椅子に座ることなどはできたが、横になることは憚られる。座ることで回復する体力が10なら、横になることで回復する体力は100くらいある(十倍くらい違う)。都会では横になれる場所が少ないなあと思っていたので、ここに行けばいつでも昼寝をできる場所があれば最高だ、なんてことは痛切に感じていた。

 

この家では、読書をするのも自由、料理をするのも自由、瞑想をするのも自由、ひとと話をするのも自由、手紙を書くのも自由、昼寝をするのも自由、なにかをするのに「別に誰の許可もいらない」空間になる。たまたま居合わせた人と同じ空間を共にすることになるので(一応、部屋は三つあるから個室がよければ個室に行けばいい)、初対面の誰かと一緒になることもあれば、広い家にポツンとひとりきりになることもある。すべてはタイミング次第で、流れ次第になる。

 

ごちゃまぜの家に来る人の共通点は皆無で、単純に興味本位で来る方や、誰か(坂爪圭吾)と話をしたいから来る人や、静かな環境に身を置きたいから来る人、ちょっと子育てに疲れたからこの場にいるひとにこどもの世話を任せて自分はちょっと昼寝でもしようと思うお母様方など、その内実は様々だ。が、常に誰かが必ずいるという訳でもなくて「意外と誰もいない時間は結構多い」のも特徴的で、なんといえばいいのだろうか、その時にふさわしいタイミングでふさわしい人々が集うようにできている(ように思う)。

 

みんなの財布。

この家の玄関には「みんなの財布(仮)」なるものが掲げられている。この財布の中にあるお金は出し入れ自由で、この家の存続を願ってくださる方々は自由にお金をいれることもできるし、経済的にちょっとアレで帰りの交通費がない方などは、このなかにあるお金を無許可で使っていいことになっている。基本的に、この家も坂爪圭吾という人間の一生も「みなさまの善意によってまわっている」節がありまくるので、さあ、財布をオープンにしたら一体なにが起こるのだろうかということをこの場を借りて実験している。

 

現状、財布の中のお金がゼロになったことはない。ゼロになりかけたことはあるが、神の粋な計らいがあるのだろうか、ゼロになりかけると必ず「ゼロにさせない力」みたいなものが働いて、財布の中に何かが舞い込む。それはお金であることもあるし、お金以外の何か(クオカードとかギフトカードとか美術館のチケットの類)だったりする。家のない生活をしていた時、わたしは、様々な教訓をその日々の中で得ることができた。そのうちのひとつは「自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない」ということで、逆にいえば「自分をクローズドなものにした瞬間、死は隣り合わせになる」みたいなことを感じた。

 

ごちゃまぜの家は営利目的でやっている訳ではないので「誰かに必要とされる限り続き、誰にも必要とされなくなった瞬間に散る」ものになる。自分的には「こんな空間があったほうがいいだろうなあ」的な思いでやっているものの、他の方々から見れば「あってもなくても別にいい」ものなのかもしれない。その時は、潔く散ろうと思う。現状、おかげさまで五ヶ月間は問題なく続けることができている。この先も続けることができるかどうかは、利用者のみなさま【そしてこの家が醸し出す雰囲気】にかかっている。

 

循環型の図書館。

先ほども紹介をしたように、この家には「わたり文庫」という無料の循環型図書館の棚がある。わたり文庫とは「誰かに無理やりでも読ませたいと思う本を様々な方々からかき集めて、それを無料で放出する」21世紀型の図書館になる。誰だって、誰かに無理やりにでも読ませたいお気に入りの本が一冊か二冊はあると思う。その本をこの家にもってきていただいて、その本を「あ、読みたい!」と思うひとにまわしていく。図書館とは名ばかりで、返却の義務は微塵もない。もしもその本を楽しんでもらえた場合は、返却をするのではなく「次のひとにまわしてください」とお願いをしている(わたり鳥のように一冊の本が世界をわたっていく、という意味合いから『わたり文庫』と名付けている)。

 

あらゆる物質は共有財産。

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この家にあるものはなんでも「共有財産」ということで、すべては自由に使えるものになる。冷蔵庫にあるものも、冷蔵庫にいれた瞬間に「みんなのもの」になる。だから、利用者の方々は遠慮なく料理をしてもらいたいと思う。家には結構な種類の調理器具や調味料がある(絶対に死守をしたいものには、自分の名前を書いておくなどする必要がある)。

 

この家を利用する際の注意点があるとすれば「次のひとのため」という視点の維持だと思う。あらゆるものは自由に使えるが、できることならば「次に使う人が気持ちよく使えるように」ささやかでもいいから心遣いをもって使っていただけたら嬉しい。稀に、好き勝手に散らかしまくって帰るひとがいるのだけれど、ああ、これはもう完全に俺の説明不足だなと反省をする。誰でも自由に使えるということ、この『自由』という言葉は使うひとによって感じる意味合いが全然違うから、どうしたってこういうことは起こる。

 

一応、誰でも泊まれることになっている。が、布団の数に限りがあるので、宿泊希望者の方は事前にご連絡をいただけると助かります。坂爪圭吾の連絡先は以下になります(交通費さえどうにかなれば、私から出張訪問をすることも可能です)。一時的な利用であれば、事前連絡の必要はありません。現在、稲村彰人という24歳の男性が管理人役をしてくれているけれど、この家には「誰かが住んでいる」ということはない。誰かが暮らし始めると、そのひとを中心に「常連」みたいなものが生まれる。常連ができると「常連と、そうじゃないひと」みたいなことになるのが嫌なので、できるだけ風通しの良い空間作りを意識している。仮に、あなたがこの家で「常連ぶっているひと」と遭遇することがあったら、そのひとのことは軽くあしらっちゃってくださいと思う。

 

連絡先・さかつめけいご

keigosakatsume@gmail.com

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コミュニティを溶かしたい。

こういうことをやっていると「坂爪さんはコミュニティをつくりたいんですね!」とか言われるが、違う。結構真逆で、私は「コミュニティを溶かしたい」と思っている。価値観を同じにする人々が集まる空間ではなく、価値観はまるで違うけれど、同じ人間であるというその一点において「共存することができる」空間になればいいなあと思っている。

 

旅人には無償で宿と食事を与えなさい。

昔、旅好きの女性(職業は学校の先生)が「いまは仕事が忙しいので旅をする時間がない。だから、自分の家を解放して(この女性はカウチサーフィンをやっている)旅人を迎え入れることで、旅の雰囲気を味わっている」と話してくれた。私は「素晴らしい感性だな」と思った。生きていると、どうしても「自分と似た環境の中で過ごしているひと」とばかり同じ時間を過ごすことになる。日々の生活も人間関係もパターン化をされてしまう【小さな世界に閉じこもりがちになる】けれど、旅(旅人を迎え入れること)は『日常的に触れ合うことの少ないひとと出会うことで、価値観を広げる』最良の機会になる。

 

イスラム教の聖典コーランには「旅人には無償で宿と食事を与えなさい」と書かれている。だからなのだろうか、イスラム圏では旅人に親切にするという考えが浸透をしている(ような気がする)。日本なら、四国のお遍路がそれにあたるのだと思う。この国に「いつでも無料で食事ができる場所」や「いつでも無料で泊まれる場所」が増えたとしたら、どのような世界になるだろうか。何もかも失ったとしても、食べる場所と寝る場所はどうにかなると思えることが、結構大きな安心感を生むのではないだろうか。それがあると思えるだけで(実際に使うかどうかはおいておいて)いまよりも少しだけ大胆に生きることができるのではないだろうか。

 

聖地サンティアゴを目指すスペイン巡礼の道がある。およそ800キロ(ルートによっては3000キロ)を徒歩で移動するのだけれど、その道中には、アルベルゲという巡礼者向けの安宿が大量にある。食事が無料で振る舞われる施設もあり、巡礼者は歩き疲れた果ての喜びとともにその食事をいただく。このようななことを、日本でもできないものだろうかと考えた。自分の家を開放して、巡礼者(旅行者でもいいし一般人でもいい)を迎え入れる。仮に、二つの旗を用意する。緑の側と、黄色の側。緑の側を掲げている家は「今夜はこの家に泊まれますよ!」というサインになり、黄色の旗を掲げている家は「(宿泊は無理だけど)食事程度なら振る舞えますよ!」的なサインになる。シンプルな仕組みだけど、なんだろう、こういう仕組みをWEBも交えてうまいこと配置をすれば「ひととひとが出会う機会」を増やせそうな気がした(まずはごちゃまぜの家を通じて、実験的に試している)。

 

わたり文庫『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、森知子著作『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』です。離婚の悲しみを払拭するために巡礼の旅に出た著者の思考が、長距離を歩き続けることでゆっくりと整理をされていく様(?)が素晴らしいです。この本を読むと、無性に歩きたくなり(巡礼の旅に出たくなり)ます。何処かにわたしをスペインまで吹き飛ばしてくださる神様はおられませんでしょうか。最近は海外旅行に行きたくてたまりません!!こちらの本をご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

9年連れ添った年下のイギリス夫から、突然離婚を迫られ、傷心と勢いで旅立ったスペイン。目指すは聖地・サンティアゴ。失業中のバックパッカーから巡礼オタク、果ては白馬連れ女子まで、国籍も目的も多種多様な旅人達と、ビール&トルティーリャをお供に歩いた44日間。男がなくても、旅がある!傷心を吹き飛ばす、スペイン横断巡礼エッセイ。

 

森知子『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』【幻冬舎文庫

 

稼働をさせることよりも、存在を続けること。 

ごちゃまぜの家をやっていると「せっかくこういう場所があるのだから、なにかをしなくちゃ!」みたいな思いになることは多い。場所を与えられたことにより、この場所を有効に生かさなければいけないという思いに駆られることがある。が、五ヶ月やってわかった。この家は「稼働をさせることよりも、ただ、そこに『在る』ということが大事なのだ」ということを思う。別に、常に大量のひとが出入りをする必要はない。この家があるということが、誰かにとって「この家があるおかげで(実際に使うかどうかはおいておいて)いまをもう少しだけ大胆に生きることができる」のであれば、それが最高なのだと思う。

 

この前、ごちゃまぜの家に来てくれた女性が「私はひとと話がしたいと思っています。でも、ひとと話していても『ひとと話している』って思えないことが多くて、でも、坂爪さんの存在をはじめて知った時には『ああ、ここにはひとがいる!』ってなんだかうれしくなったんです」と話してくれた。これを聞いた時はうれしかった。何かの役割を通じてではなく、同じ人間として、対等な立場で話ができる機会はそれほど多くはない。だからこそ、ごちゃまぜの家が「ひとと話せる空間」とか「静かになれる空間」とか「自分を思い出すことができる空間」とか、そんなふうに機能をすればいいなあと思う。

 

長々と書いてしまった。読みづらい文章だったと思う。ここまで読んでくれたあなた様に最大限の感謝を。最近は金欠で軽く死にかけていて、家では玄米ばかりをかじっていたのだけれども、今日のお昼は「読者【27歳女性】の方に雑司が谷で鰻をご馳走していただく(!)」という、非常に優雅な時間が訪れようとしている。人生、山あり谷ありである。しんどい時期があるからこそ、その先にあるよろこびは輝く。くだらないことで一喜一憂を繰り返し続ける日々だけれど、できることならば「生きていることを楽しんでいたい」のだと、俺は楽しみながら生きていたいのだと、そういうことを思っている。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BafcRpbD3oK/

生きていることを楽しんでいるか。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きる意味より死なない工夫だ。

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世界一周9万5000キロを自転車で走った方が「最初の一週間は筋肉痛とかで死ぬけれど、それでも走り続ければ人間の肉体はアップデートされる」的なことを言っていた。70キロ超過の荷物を荷台に乗せて、1日平均(走るときは)100キロ程度は走ったという。これを聞いて「人間ってすごい!自転車素人の自分でも、1日かければ結構行けちゃうかも!」と感銘を受けて、折り畳み自転車で80キロくらい駆け抜けてみたら、なう、筋肉痛がものすごい(けど気持ちいい)。

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・鬱病患者にはビリーズブートキャンプを。

真の意味で腹が減っているからメシを食べているときは稀で、暇だからとか、食事の時間帯だからとか、さみしいからとか、空腹以外の理由でメシを食べていることは多い。これではいかんということで「滝汗を流さない限り飯は食わない」というルールを己に課した。基本的にはビリーズブートキャンプをやる日々を過ごしている。過去に重度の鬱病ビリーズブートキャンプで吹き飛ばした経験があるのですが、もしも、鬱病でお悩みの方がいたら「騙されたと思って、毎日ビリーズブートキャンプを続けてほしい」と思う。私の場合、二週間くらいで鬱病は消えた(気がする)。

 

ibaya.hatenablog.com

 

2・腹筋運動をすると便通がよくなる。

現代は素晴らしい時代だ。(これは違法なのかもしれないけれど)ビリーズブートキャンプの動画はネット上で無料で閲覧できるようになっていて、やる気さえあれば何処でもエクササイズを行うことができる。ごちゃまぜの家でも、遊びにきた方々を道連れにして男女問わず(わいわい話しながら)苛烈なトレーニングを重ねている。運動はきついが、終了後の爽快感や達成感、苛烈な運動の後のキムチ鍋は最高だった。運動の後の食事は、通常の八倍くらい美味い。腹筋運動を続けていると、蠕動活動(?)が促進をされるからなのだろうか、便通がよくなる。冬は精神的に閉じこもりがちになるからこそ、ごちゃまぜの家では毎日鍋を囲みたいなと思った(鍋の前にはビリーズブートキャンプ!)。

 

3・運動によって得られる効能が違う。

ランニングはシャープな思考を、自転車ロングライドは自由を、ビリーズブートキャンプは爽快感を与えてくれる。なんて言えばいいのだろうか、同じ運動でもその後の効能(?)は結構違って、ランニングのあとは思考が整理をされてアイデアが閃いたりするのに対して、自転車や筋トレは脳みそをからっぽにする効果が(自分の場合は)高い。人間のカラダって面白いなあと思う。さみしいとき、わたしは「誰かに抱きしめられたい」みたいな気持ちになることがあるけれど、激しい運動をすると「自分で自分を抱きしめている【温もりを自家発電している】」的な気持ちになる。まるで欲望が整理(鎮魂?)されているみたいだ。

 

4・人生は自分の力で変えていくことができる。

ビリーズブートキャンプをやっていると「人生は自分の力で変えていくことができる」ことを実感する。寒い時期とかは特に「気候がこんなんだからやる気でないよね」みたいな怠慢な気持ちになりがちだけれど、運動をすると「うおらー!」という感じで、閉塞気味な空気感を盛り返すことができる。これは個人的にものすごい大発見で、何も『身を委ねる』とか『流れに任せる』だけが人生ではないのだと。受け入れるとか許すとか自分を愛するとか、言葉は綺麗だけれど、多分、それだけじゃない。気に入らない何かがあるのならば、自分の手で変えていくことができる、自分の手で変えようとしてもいいのだということを、ビリー隊長から学んだ(ビリー隊長、ありがとうございます!)。

 

5・発信より発熱。

稀に、出会うひとから「どうすれば坂爪さんのように『発信』が上手になりますか?」とか「ブログを書くときに気をつけていることはありますか?」とか「どうすればフェイスブックのいいね数は増えるのですか?」とか、こう、テクニック的なものを問われることがある。私は、謎に『発信』という言葉が大嫌いなので、そういうときは「発信をしているつもりはありません。強いて言えば、発信ではなく『発熱』をしています」と答える。発信という言葉には、なにかこう「世間的に価値があるとされている情報を世に出し、それが認められることで己の承認欲求を満たそうとする【外付けの存在価値を与える】」的な匂いを感じる。

 

6・愛はないけど熱はある。

稀に、出会うひとから「坂爪さんのブログには愛を感じるから好きです」なんて言ってもらえることがある。そんなふうに受け取っていただけることはとても嬉しい。しかし、昨夜のツイキャス音声配信でも話したように、私は、過去に「あなたはひとを愛せない人間だ」と言われて彼女に振られた経験があります。いまでは「ひととちょっと違うだけで、決して愛がない訳でない!」と思うことで精神の安定を保つことができているけれど、自分に愛があるのかどうかは未だに謎です。が、最近は『愛はない(かもしれない)けど熱はある』ということを己に感じる。

 

Recoded Radio ビリーズブートハウス - いばや #411626550 - TwitCasting

 

7・俺には『体温』が残されている。

家のない生活をしていた頃、金も仕事も家も社会的な信用も、俺にはなにもないじゃないかとへこみにへこみまくっていた夜に、ふと、ああ、それでも『こんな俺には体温はまだ残されている』と思ったことがある。なにもなくても体温はある。身体中には血が巡り、この瞬間も臓器は『生きるため』に活動をしている。うまく言葉にできないけれど、この時に『生命は生きようとしている【生命は生きたがっている】』ということを感じた。普段、日常的な生活の中で『カラダ』を意識することは少ない。言葉だけじゃない、頭意識だけじゃない、もっとこう『カラダを通じたよろこび【カラダを通じた生きている実感】』を感じてみたいのだと、わたしは、そういうことを思った。

 

8・心がある内に、命がある内に、身体を流れる熱量がある内に。

 

ツイキャス音声配信の中で「履歴書を書く【ハローワークに通う】くらいなら出家をする」みたいな話をした。履歴書を書くのが苦手なひとは、多分、自分だけじゃないと思う。社会不適合者なのかもしれない。表面的な会話をしていると死にたくなるし、愛想笑いをすると死にたくなる。思ってもいないことを口にしていると死にたくなるし、やりたくもないことをやっていると死にたくなる。裸のままで生きれたらと思う。できることならばウソのない日々を、(肝心なところだけは)ごまかす必要のない日々を送りたいと思う。こころのないやりとりを重ねていると、いつのまにかこころは冷え切ってしまう。温度感のあるやりとりを、お互いの「生きている熱」を感じる交わりを重ねて行きたいと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

9・生きててもいいよ。

 

前は「どうすればフェイスブックのいいね数は増えますか?」とか聞かれた時など、いちいち苛立ってしまう自分がいた。が、いまでは「ああ、もしかしたらこのひとはつらいのかもしれない。いま、感じている苦しみや寂しさをフェイスブックのいいねを増やすこと【金を稼ぐこと】【有名になること】【ひとから認められること】で埋めたいだけなのかもしれない」と感じるようになった。なんだろう、これはよくない考え方かもしれないけれど「みんなさみしいんだな」的なことを思う。誰かに「生きててもいいよ」って言ってもらうために、存在意義や存在価値を追い求めたくなる気持ちはわかる。でも、そんなことはないんじゃないのかなと思う。他者からの承認があるから生きてていいということになると、他者からの承認がない限り「生きているだけではダメ」ということになる。それではあまりにも辛すぎるのではないだろうかと、なにかがあるから生きててもいいというのではなく、なにもなくても生きててもいいと思えることが大事なのではないだろうかと。

 

わたり文庫『老師と少年』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、南直哉著作『老師と少年』です。こちらの本は、現在、ごちゃまぜの家の管理人をしてくれているあきとさん絶賛の一冊になります。非常に読みやすい良書で、小生、久しぶりに読み返して「生きる意味より死なない工夫だ」というワードに胸がときめきました。あと、個人的に隠者の登場にテンションがあがりました。なんだろう、話の趣旨とは全然違うのだろうけれど、勝手にすごい元気になった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、鹿児島県にわたりました ※※※

 

生きる意味より死なない工夫だ。 - 南直哉『老師と少年』【新潮文庫

 

生きる意味より死なない工夫だ。

生きたくなったり死にたくなったり忙しない日々だ。これから先、一切の予定がないので「死ぬまで暇です」という状態に置かれている。私はなにをすればいいのだろうか。本日はお昼に東京の神田駅でお寿司をご馳走していただくという幸せすぎるお誘いを受けたので、これから電車で神田駅に向かう。午後は池袋でお茶をする予定があるけれど、明日からは何も予定がない。スケジュール的にガラガラなので、もしも「坂爪圭吾とのタイマントークを希望する」的な方がいらっしゃいましたらば、お気軽にご連絡ください。交通手段さえどうにかなれば、よろこびとともに参上いたします(本当は南米やアフリカ大陸に行ってみたい。どうにかすれば行けるのだろうか)。

 

ごちゃまぜの家で生活をしていると、様々な人々と出会う。最近は、カフェインの錠剤を致死量飲んで自殺未遂をはかったけれど途中で吐き出してしまい数日前まで入院をしていた方や、事業の失敗で自己破産をしたひと、35年の住宅ローンを支払うことが難しくなって八方塞がりになった方や、血縁者が全員いなくなってしまってしまった方など、なんと言えばいいのだろうか「ほんとうにいろいろな方々」と出会う日々のど真ん中にいる。こんな書き方をすると、みんな深刻そうなひとをイメージするかもしれないけれど、表面的にはみなさん「非常にいい感じのひと」に見える。一見すると普通に生きているようなひとでも、人知れず、誰にも言えない問題を抱えているものなのかもしれない。

 

様々な話を聞きながら「物事に重いも軽いもないな。ただ、そうなだけなんだな。それを重くしているのは自分自身なんだな。重いと思えば重くなるし、軽いと思えば軽くなる。どのような状態に置かれたとしても、きっと、その中で自由を感じることもできるし、まるで一切の自由を失ったように感じることもできる。このご時世、飢えで死ぬことは絶対にないとは思うけれど、飢えへの恐怖心で死んでしまうことはあるのだろうな」と思った。生きとし生けるものの心の中を蝕む『恐怖心』と呼ばれているものが、少しでも軽くなればいいと思う。自分が生きているということが、誰かにとって「人生は意外とどうにかなるのかもしれない」なんて思えちゃう【こころが軽くなる】ようなものになればいいなななんて、そんなことを思いながら神田駅に向かいます。

 

 

 

 

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人間は弱いが、生命は強い。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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正しさよりも「楽しさ」だ。

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Mr.Childrenの「光の射す方へ」を聴きながら新横浜駅まで歩く。雨だ。天気予報はしばらく雨だ。天候と精神状態は比例をする。やばい。このままだと(最近調子に乗りはじめた自転車ロングライドやランニングの類もできなくなるし)絶対に滅入ると思って日本の天気をざっと調べたら、札幌と那覇だけは晴れるみたいだから飛行機で飛んでやろうかと思った。が、なんだかむなしくなってやめた。こんな時はどうすればいい。連日の雨の中どうやって精神状態を保てばいいのだと苦悶していたら「あっ!」と閃いた。そうだ。私には伝説のビリーズブートキャンプがあるじゃないかと閃いた。

 


私は過去に半年間寝たきりで一ヶ月間で20キロ太り「俺の人生は終わった」と嘆きながらも徐々に体調は回復をして「伝説のビリーズブートキャンプ」を通じて三ヶ月で15キロ痩せる奇跡のJ字回復を果たしたことがある。そのことを思い出した。詳細はイベントページに譲るけれど、なにもやることがない時こそ「基礎体力の増強」に限る。これからしばらく菊名にいる。時間のあるひとはあったり話したりしましょう。カラダを動かさないとアタマがおかしくなる。私の場合は「(カラダを動かさないと)すぐに死にたくなる」衝動に駆られるから厄介だ【生きる意味より死なない工夫だ!】。

 

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自由とは何か。

ごちゃまぜの家の活動をはじめて五ヶ月目になる。良いことも悪いことも五億個くらあったけれど、総じて「いい感じ」だと思う。ごちゃまぜの家は「みなさまの善意によってまわっている」基本的になにをしても自由な空間ということになっているのだけれど、自由の名のもとに「人間の品性は丸裸になるのだな」的なことを思う。様々な利用者が来る。家にあるものを大切に扱ってくれるひともいれば、なんというか下劣な人も来る。家にあるものを大切に扱ってくれるひとが来てくれた時は非常に嬉しいけれど、どうしようもないひとが来た時は「お前は誰だ!」と思うこともある(「帰ってくれ」と言うこともある)。

 

自由とはなんだろうか。わからない。私はなにがやりたいのだろうか。あまりよくわからない。誰でも自由に足を運べる空間があったらいいだろうなと思ってはじめたものの、よくわからない人が来ると「お前は帰れ」とか思う俺はいったいなんなのだろう。これじゃ罠を仕掛けているのと同じじゃないかと思う。表向きには「誰でも来てください!」とか行っておきながら、気に入らないひとが来ると不機嫌になる。ごちゃまぜの家とか言っておきながら、こころの何処かでは「ごちゃまぜにされてたまるか!」とか思っている自分もいる。

 

思うことはふたつある。私の役割は「本当のことを言うこと」だということ。そして「お前が自由であるように、俺も自由であることを忘れるな」ということ。この家は、あらゆるひとに対して門戸を開く。門戸は開かれているものの、この空間を甘えや依存を助長する場所にしたいとは思わないので、それなりの緊張感をもって臨んでいる。この家は、みんなの家でありながら、誰の家でもない。誰もが使える家でもあると同時に、誰もが『使わせていただいている家』でもある。なんと言えばいいのだろうか、感謝と緊張感を忘れたらアウト、(これはあくまで自分自身に対して感じているものだけれど)調子に乗ったらご臨終、傲慢になった瞬間に即死をしてしまうものだと思う。

 

お前はお前でかかって来い。

この家にいると「ああ、このひとに説教をしたいな」と思う瞬間がある。牡羊座生まれだからなのだろうか、私は、私の中に「静謐にして苛烈な炎【ファイアー】」的なものを感じることがある。なんだかだらけているだけに見えるひと、自分や他人をまったく大切に扱えていないように見受けられる人を見ると、「お前はそんなもんじゃないだろう!」みたいな感じでビシッと説教をしたくなる。多分、私は『なにかをごまかしている』と感じるものに対して過剰に鋭敏で、あれ、いま、お前はウソをついているだろうとか思ってもいないことを言っているだろうとかお前は何かを隠しているだろうと感じる時に、その点を突かずにはいられない傾向がある(のだと思う)。

 

この感覚は、多分、こどもが「王様は裸だ!」と叫ぶ時のアレと似ている。偉そうなひとを見ると「なんぼのもんじゃい!」と天狗の鼻を折りたくなるし、あまりにも長い間悲しみに浸っているひとを見ると「浸ってんじゃねえよ!」的なことを言いたくなる。いや、別に、自分といない間はいくらでも好きなようにしてもらっていて構わないのだけれど、この瞬間、坂爪圭吾と居合わせたことが運の尽き、私と言う人間といる間は「申し訳ないけれど、思ったことを言わせていただきます」ということを感じることは多い。

 

相手が誰であれ、良くも悪くもまっすぐに向き合ってしまう。瞬間瞬間に最大限のエネルギー【集中力的なサムシング】を注力してしまうし、相手が有名人であろうが無名人であろうが関係ない、『瞳』や『声』や『表情』や『仕草』や『言葉遣い』など、その人自身から(無意識のうちに放たれているであろう)情報のようなものを総動員して、さて、このひとのコア(それを抱えて生きることはとても苦しいことだからどうにかしたいとは思っているけれど、でも、それを手放すことも物凄い怖いと感じる矛盾的なもの)を織りなしているものはなんなのだろうかをできるだけ見極めて、最小限の言葉で其処を突く。9割聞いて、1割突く。それが私のやり方だ。だから、話している時に相手の涙を見ることは多い。なんて書くと「会いにくくてたまらないひと」みたいに思われちゃうかもしれないけれど、事実、その通りなのだからどうしようもない(のだと思う)。

 

わたり文庫『かもめ食堂

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は『かもめ食堂』です。映画も原作も素晴らしい最高の一冊になります。私はこの作品が大好きです。読書の秋ということで、雨の日は家でゆっくり本を読むのも素晴らしいかもしれません。この作品を読んでいたら無性にヘルシンキに行きたくなったのですが、誰か、坂爪圭吾を北欧界隈まで飛ばしてくださる神様はいらっしゃらないものでしょうか。こちらの本をご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。これは余談になりますが、ごちゃまぜの家には『わたり文庫の部屋』みたいなものがあって、そこに置いてある本は誰でも自由に持ち出しできる形になっています(返却不要!面白かったら次の誰かにまわしてください)。もしも「この本は素晴らしいから誰かに無理矢理でも読ませたい!」みたいな本をお持ちのかたは、是非、わたり文庫の部屋に勝手に置いて言っていただけましたら幸いです。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「で、これはひとこといってやらねばと思って、弟の家に行って、『あんたのおかげでくさくさするから、気晴らしに旅行に行ってくるわ。しばらく帰らないから放っておいてちょうだい』って怒鳴ったんです。ちょっとすっきりしました」

 

「それがフィンランドなんですね」

 

「父のオムツを換えているとき、テレビでフィンランドのニュースを何度も見たんですよ。『エアーギター選手権』『嫁背負い競争』『サウナ我慢大会』『携帯電話投げ競争』でしたね。いちばんすごかったのは、『嫁背負い競争』です。ふつうに考えると、おんぶすると思うでしょう。それが違うんです。奥さんの両膝を後ろから自分の両肩にひっかけて、ものすごい速さで走るんですよ」

 

「ということは奥さんは逆さ?」

 

「そうなんです。もう両腕なんかぶらぶらしちゃって。それを見て、こんなことを一生懸命にやる人たちって、いいなあって思ったんです。どこかすこーんと抜けてるっていうか。妙なしがらみなんかが全然なさそうで。人生がとても楽しそうだったんです。で、来ちゃったんですけど・・・」

 

マサコはすまなそうな顔になった。

 

群ようこかもめ食堂』【幻冬舎文庫

 

正しさよりも「楽しさ」だ。

先日、食育をやりたいと語る女性と出会った。食事がカラダに与える影響はなんとかかんとかと語る女性自身がなんだかちょっと不健康そう(生きていることが苦しそう)に見えたので、正しい食事療法が云々よりも『自分の体がよろこびを感じる食事』の方が五億倍重要だと思った。なんだろう、自分に対する自信がない時とか、弱気な時は「正しいとされているもの」にすがりつきたくなる気持ちはめちゃめちゃわかる。だがしかし、私は「そこによろこびはあるのかい?」と問いたい。私は「人生を苦行にしてはいないかい?」と問いたい。そんなことよりも「感動を大事にしろ」と言いたい。

 

うまく言える自信はないが、自分に自信がないとき(自分の価値判断に信用を置けない時)、世の中でよいとされているものを通じて自分に自信や価値を持たせようとしてしまうことがある。だがしかし、それでは「他人がよいと言っていること」を間借りしているだけで、いつまでたっても「俺はこれが素晴らしいと思う」的な自分軸を築くことはできない。ここまで書きながら「私はなにが言いたいのだろうか」とか思ってしまった。どうしよう。どこに着地をすればいいのだろう。私は「感動を大事にしろ」という感じでこの件を書き始めている。そうだ。私は「他の誰かが言っていることではない、自分のカラダが感じるよろこびを基礎に人生を築いてもいいのだ」ということを思っていたのだ。

 

私は夕日が好きだ。夕日が好きだとか言っておきながら、ほとんど夕日を見ない日々が続いていた。久しぶりに夕日を見た時、ああ、やっぱり夕日は最高だなと思った。そして、夕日を見るという行為を非日常的な行為(自分から遠く離れたもの)にする意味も義務も必要もまったくないのだと、それが本当に大好きならば「毎日見てもいいのだ」「(非日常のままにするのではなく)自分の日常にしてもいいのだ」「自分の好きなもので日々を構成してもいいのだ」ということを思った。世間的な知名度とか見栄とかプライドとか親の期待とか世間体とか他人から幸せそうだと思われることだとか、そういうことはどうでもいい。誰がなんと言おうが、自分のこころが「これは最高だ!」と思えるもので己の日々を構成し尽くした者。私は、そういう人間こそを『勝ち組』と呼びたいのだと思う。

 



https://www.instagram.com/p/BaK8fLJDieg/

「感動を大事にしろ」と言いたい。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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まずは自分を許せ。

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生姜と大根をすりおろし、蜂蜜を加え、お湯を注ぐ。カラダ全体が温まり、なにかこう「俺はいま、カラダにとって『よいこと』ができている」という気持ちになる。弱気な時、不安な時、心許ない時、自分がやっていることが(どれだけささやかなものだとしても)なにかしらに対して『よいこと』であると思えることは、精神的な安定を生む。逆に言えば、自分の存在が誰の役にも立っていない、自分は無価値である、誰かに迷惑をかけているという感覚は自尊心を奪い、精神的な安定を削る。

 

ー 孤独に捕まってしまった。

 

最近は孤独に捕まっていた。この記事をご覧のあなたは、孤独を覚えることはあるだろうか。ああ、やばい、このままだと鬱病になりそうだと感じる程度の孤独、そんな孤独を覚える時は、どのように対処をしているのだろうか。寝れば忘れる程度の孤独であれば問題はない。が、今回の孤独は厄介だった。なにをしていても気分が晴れることはない。逃げても逃げても追われるし、どれだけ振り払ってもまとわりつく。自分が好きだったはずのことをしても、自分の内部に届かない。孤独は常に隣にいて、そいつは「俺はお前を見ている」と囁く。どうすればいい、どうすればいいとどれだけ考えてみたところで妙案は浮かばない。頭の中では「このままではいけない、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、」ということばかりを感じていた。

 

ibaya.hatenablog.com

 

孤独に捕まったことを認めた。

 

が、不思議なことに孤独は消えた。なぜだ。昨日、東京駅で待ち合わせていた方と合流をするために、東京駅のホームを花を片手に「さみしいなあ。さみしいなあ」などと思いながら腐ったトドみたいな表情で歩いていた。自分がこのように孤独マックスの状態でまともに会話ができるかどうかまるで自信がなかったから、そのひとにあったら「ここ最近は孤独に捕まってしまっているために、まともに話ができないかもしれないけれど許してください」的なことを言えばいいかな、なんて思っていた。ら、孤独が消えた。孤独に捕まってしまったと言葉にしたら、孤独が消えた。これはなぜだ。

 

孤独は「ごまかすな」と言っている。

 

多分、自分は「どうすれば孤独を忘れることができるか」とか「どうすれば孤独を消し去ることができるか」とか「どうすれば孤独を乗り越えることができるか」とか、そんなことばかりを考えていたのだと思う。目の前にある孤独を直視することなく、その先のことばかりを考えていた。が、これから人と会うということで「自分の現状をしっかりと言葉にしよう」と思ったわたしは、なりたい自分像ではなく「ごめんなさい、いまの自分はこんな感じです」的な意味合いを込めて、孤独に捕まってしまっていますと言葉を与えた。ら、孤独が消えた。あれだけしんどさを覚えていたはずの感情が、不思議な話だ、音速で消えた。心は軽くなり、あれ、おれ、孤独だったはずだよなあとどれだけ考えてみても既に実感がない。合流後、わたしは非常に爽快な気持ちでうどんの大盛りとカツ丼を食べた。

 

孤独が教えてくれたこと。

孤独を打ち消すために様々なことをやった。8時間くらい自転車を漕ぎ続けたり、精神が安寧を取り戻すまで歩き続けることを試みたり、マインドフルネスがどうのこうの的な感じで瞑想の真似事をしてみたり、野性味が足りないのかもしれないと思って野宿をしてみたり、全身をタワシでこすってみたり、道端の草を食って見たり、ひとの相談事に乗ってみたり、いろいろやったけど全然ダメだった(ただ、ひたすら体を動かした後の空腹感は半端ないから、その後の食事は最高だった。食事の瞬間は最高だったのだけれど、食後の満腹感から「ああ、おれはクソだ」的な思考に逆戻りをするまでは早かった)。

 

 

自分にとらわれるから苦しくなる。ただ、自分を超えて「誰かの幸せをいい感じに願えている時」だけは、自分の苦しみを忘れることができた。が、二十四時間誰かのことを考えていられる程度にはまだまだ全然成熟をしていないために、自分に立ち返ると「ああ!ダメだダメだダメだ!」みたいな感じになる。このあたりはまだまだ全然修行が足りない。もっとひとを愛せたらとか、もっと自分を消し去ることができたらとは思うものの、結局「俺の孤独が」とか「俺の弱さが」とか、俺の、俺が、俺は、そういうことばかりを考えてしまう。

 

 

ひとはみんな弱いのだとか、ひとはみんな孤独なのだとか、そういうことを考えれば少しだけでも自分の孤独が和らぐような気がした。別に孤独が消えた訳じゃない。ただ、つらいのは自分だけではないのだよなと思うことで少しだけこころは軽くなるような気がした。が、正直に言えば気休め程度に過ぎなかった。この違いはなんだろうか。東京駅で「孤独に捕まってしまった」と認めたあとの開放感、すべてから解き放たれたあの感覚は、一体なんだったのだろうか。まるでうまく説明をすることはできないけれど、もしかすると「孤独という言葉があるから孤独にはまってしまうだけで、極論、孤独もさみしさもあらゆる感情も幻に過ぎないのではないだろうか」ということを思った。

 

テントの明かりは温かい。

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ごちゃまぜの家でおまちしております。

謎にスッキリしている。何も解決した訳じゃないのに、現状は何も変わっていないというのに、まったく問題はないではないかという気持ちである。自分の気分屋っぷりには愛想が尽きそうになる。結局、すべては「心の状態」なのかもしれない。難しいことはわからない。が、もしかすると「難しいことなんてなにもない」のかもしれない。今日から一週間、横浜にあるごちゃまぜの家の管理人として、新潟から『伝説のあきとさん』が滞在をする。坂爪圭吾も(少なくとも今日と明日は)ごちゃまぜの家にいると思いますので、興味のある方といいますか、誰かと話がしたい方は坂爪圭吾かあきとまでご連絡ください。

 

[メール]akito.inamura@gmail.com
[LINE ID]0reaki10
(その他、Facebookで「稲村彰人」と検索して友達申請していただいた後、Messengerでやり取りするという形でもOKです)

 

まずは自分を許せ。

葛藤と苦悶の日々を過ごし、最終的に「ジタバタするなよ」という思いに着地をした。無理をしてまでなにかを愛そうとしなくてもいい。明るく元気になろうとしなくてもいい。強くなろうとしなくてもいい。弱さを克服しようとしなくてもいい。自分を変えようとしなくてもいい。目の前にある物事を、肯定的に考える必要も、否定的に考える必要もない。多分、全部、そのままでいい。どんな思いも重荷になる。あらゆる思いを手放した時、心の重荷は軽くなる。

 

 

なにかをしなくちゃいけないという思いで、自分を責め立ててしまってはいけないし、自分を絞り出してしまってはいけない。なにかをしたくなる瞬間は、誰の元にも必ず訪れる。そうしなければいけないという思いではない、そうしたくなったその瞬間の「あふれだした」気持ち【通称・あふれちゃん】を信じたいと思う。誰の中にも『泉』のようなものは確実にあって、それは、時が来れば勝手に噴出をして、自分を内側から突き動かす。外側からの刺激に反応をするような形ではなく、自分自身の内なる要求として、勝手に『命』は動き出すようにできている。

 

 

繰り返しになるけれど、なにかをしなくちゃいけないという思いで自分を駆り立ててはいけない。そのままでは、必ず何処かで無理が出る。無理が出ることは悪いことではないし、そのことで学習をできることも確実にあるとは思う。が、自分に無理を要求するほどに他人にも無理を要求するようになり、結果、世の中がギスギスしてしまっては元も子もない。気分が晴れない時は、単純に「なにもしない」を選べばいい。なにもしないと決めた中で、ふと、散歩をするとか料理をするとか、そういうことをやりはじめる瞬間がある。その中で、時折、たとえば綺麗な空を目撃したりすることがある。この世界を「捨てたもんじゃないな」と思わせてくれる瞬間は、多分、あちらこちらに転がっているのだと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BZ8KzoMDau_/

空が綺麗だ。

  

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させるんだ。

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東北から菊名に戻り、熱海の伊豆山神社と箱根の九頭竜神社を経由して、いまは東京の板橋周辺にいる。岩手県で開催された「ごちゃまぜの寺」のイベント時に、なにかこう神的なものから「自然に還れ」と言われたような気がした。自然に還るとはなんだろうか。森や山の中で小屋でも建てて自給自足の生活をすることだろうか。そういうこととはちょっと違う気がする。それは「思い出す」とか「取り戻す」という感覚に近い。自分の中にある自然を思い出す【取り戻す】こと、それが自然に還るということなのかもしれない。

 

ibaya.hatenablog.com

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・ あとは全部こっちで用意するから、お前はお前の中にあるやつを全部出せ。

神と直接交信ができる訳ではないけれど、稀に、神的なものの声を聞くことがある。神という言葉に違和感を覚える場合は、それを「自然」とか「内なる声」などに置き換えてもいい。最近の私は、神的なものから「あとは全部こっちで用意するから、お前はお前の中にあるやつを全部出せ」と言われている気がする。生活のあらゆることは一切無視をしてもいい、これからどうなるかなどといったことは全部こっちで用意をするから、お前はお前のなかにあるやつを全部出せ。そんなことを言われているような気がする。

 

2・神の世界ではなんでも叶う。それじゃ愛を実感できないから、この世界に来た。

神的な世界では「思ったことが瞬時に実現する」世界であると聞いた。そんな世界では何かを成し遂げるよろこびであるとか、それを成し遂げるまでの心の葛藤や愛の喜びみたいなものを感じることができないからと、ある程度不完全な状態で放り込まれた世界が「地球【いまいる世界】」であるのだと、そういう話を聞いた。諸々の出来事で四苦八苦をすることは多いけれど、それもこれも「それらを経験するために生きている」のだと、そのような話を聞いた。

 

3・神であることを思い出したらゴール。

そんな世界では「自分は神である」ことを思い出したらゴールになる。多分、これは誰にでもある瞬間だと思うけれど、生きていると「あれ、いま、俺は何かを悟っちゃったかもしれない」とか「あれ、いま、俺は世界の秘密を知ってしまったかもしれない」なんて思う瞬間がある。多分、その瞬間、そのひとは神的なものに触れているのだと思う。だが、悲しいかな、24時間常に神的なものに触れ続けていることはできない(神であり続けることはできない)から、再び『ぶれ続ける人間』に戻る。

 

4・呼吸。

天から降り注ぐエネルギーを体内に取り込むイメージで、鼻から大きく息を吸う。その後、吸い込んだ息を(自分の中にある悪い気を放出するような感覚で)天に吐き還す。その後、大地から湧き上がるエネルギーを体内に取り込むイメージで、鼻から大きく息を吸う。その後、吸い込んだ息を(自分の中にある悪い気を放出するような感覚で)大地に吐き還す。ある程度繰り返すことで、自分の中に「スッ」とした(天地と繋がる的な)一本の芯を通す。

 

5・余剰物を削ぎ落とす。

コンクリートに囲まれた中でもこの呼吸法は有効なのかもしれないが、私のような弱者はある程度の自然に囲まれた中でやらないと、なかなか集中をする(効果を発揮する)ことができない。都会の生活が長く続くと、情報にまみれた日々を長く過ごすと、自分の中に『余剰物』がたまる。荷物みたいなもの、重荷になるもの、ゴミみたいなもの。自分の中にある余剰なものを削ぎ落とす、葬り去るための儀式的な時間が必要になる。

 

https://www.instagram.com/p/BZzlNDUDYIE/

横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを。


6・横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを。 

横【ひと】との繋がりだけを求めると、どうしたって辛くなる。さみしさなどの感情は、誰かに何かを埋めてもらいたい(誰かに何かを埋めてもらえない)と感じる時に生まれる感情なのかもしれない。ひとの感情は流れさるものであり、移りゆくものだ。横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを取り戻すことができる場所や時間や空間を持つこと。私の場合、それが熱海市にある神社であったり、新潟市にある海辺の空き地や夕日を眺めることができるスポットになるのかもしれない。この場所があれば何度でもやり直せると、自分にとっての「おっさん岩(井上雄彦バガボンド』参照)」的な場所を持つということ。

 

7・月が太陽になり、太陽が月になる。

いままで通用していたものが、これから通用をしなくなるような時代が来る。そういう予感めいたものを感じる瞬間がある。それは世の中の常識とされているものがひっくり返るような瞬間の到来。月が太陽になり、太陽が月になるような瞬間の到来。強いものが弱いものになる瞬間の到来と、弱いものが強いものになるような瞬間の到来。表側が裏側になる瞬間の到来と、裏側が表側になる瞬間の到来。

 

8・水になれ。

無用の用という言葉がある。コップなどの器は、その空白【なにもない】部分があるからこそ、そこに水をいれることができる。部屋などの空間は、その空白【なにもない】部分があるからこそ、家具を置いたりひとが横になるスペースを生むことができる。なにかがあるからではない、なにもないことの中で真髄を発揮するもの。頭をからっぽにするということ。かたちを持たない水のように、何者でもないからこそ、何者にでもなることができる。

 

9・生きとし生けるものはすべてたおやかである。硬直したものは砕けやすく、力強いものは必ず転げ落ちる。

ブルースリーは恩師から「生きとし生けるものはすべてたおやかである。硬直したものは砕けやすく、力強いものは必ず転げ落ちる」という教えを繰り返し受ける。カンフーの目的は『欲望や執着から自分を解き放ち、心と体の調和を手にすること』にあると聞く。そしてまた「この道を志すものは己を慎まなければならない。地位や名声は武闘家にとって意味をもたない。地位を失う恐怖心を抱かざるをえなくなるからだ」とも言われている。これはなにも、カンフーに限った話ではないのだと思う。俺が俺がとなるほどに、自分自身にとらわれていく。とらわれた心は固くなり、とらわれた心は重くなる。「重い」部分を軽くするもの。自分の中にある「硬い」部分を柔らかくするもの。軽く、軽く、軽く、柔軟であるということ。

 

10・俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させるんだ。

岩手県で「けいご」という私と同じ名前の3歳の男子と出会った。名前が同じだからなのだろうか、強い共感を覚えて(非常に短い滞在時間だったけれど)仲良くなった。けいごにはお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんはけいごにやさしくもするけれど厳しい言葉もど直球に浴びせる。けいごが邪魔な時は「けいご邪魔、どっかいって!」と言い、場合によっては「けいごなんていらない!けいごなんていなくなればいいのに!」と声を荒げる。その度にけいごは泣き、そしてまた、時間が流れると再びおねえちゃんのもとに(何もかも忘れてしまったかのように満面の笑顔で)足を向ける。

 

お寺の境内をとぼとぼと1人で歩く小さなけいごを眺めながら、ふと、お前は愛されているという言葉が脳裏をよぎった。これは決して、私【坂爪圭吾】という人間個人が小さなけいごに対して抱いた感情なんかではない、なにかこう、天から降り注ぐ『親愛に滿ち溢れた声』とでも言えばいいのだろうか、神的なものはどのような時でもお前を見守っているのだと、周囲の人々はどうであれ、どのような時でもお前は愛されているのだと、お前は守られているのだと、だからなにも恐れることはないのだと、そういうことを(小さなけいごに対しても、自分自身に対しても)感じた瞬間があった。

 

生きているといろいろなことがある。いろいろな気持ちにもなるだろうし、自分が自分であるということに押し潰されそうになることもあるだろう。それでもなお、俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させろ。小さなけいごと過ごした時間に湧き出した感情は、そのまま、自分自身に向けられた光となってあたたかに包んだ。お前は愛されている。お前は守られている。その声を、神の御加護を胸に進め。この瞬間に湧き出した想いは、願いは、祈りは、多分、こんな簡単な言葉でまとめることができるのだと思う。

 

ー 自分であれ。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BZuoSkhDf7h/

お前は愛されている。お前は守られている。その声を、神の御加護を胸に進め。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる。

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新潟から熱海を経由して横浜に立ち寄り、東北新幹線で岩手県一ノ関駅に到着をする。宮城県気仙沼市岩手県奥州市で開催されたイベントに登壇(?)したのちに、いま、仙台駅構内にあるカフェからこの記事を更新している。連日の移動で頭がイカれたのだろうか、季節の変わり目だからなのか、最近はさみしさを覚えることが多い。さみしさだけではない、自分の生き方に対する「このままでいいのか」感も強く覚えている。

 

私は有名になりつつある。街角で声をかけられる場面や、書籍出版や各種メディアへの出演依頼も増えた。有名になることと「幸せになること」はまったくの別物で、有名になればなるほどにイメージが一人歩きをするようになる。出会う人々の多くは「目の前にいる坂爪圭吾」ではなく「イメージとして先行をしている坂爪圭吾」と話をする。これも仕方のないことなのだなと思いながら、誰もおれのことを見てはくれないのだなと湿っぽい気持ちになることもある。しかし、冷静に考えて見ると「有名になる前から、お前は人と話をしていても『人と話している』と思えていないことが何回もあったじゃないか」ということを思い出す。

 

さみしさを溜め込み過ぎた。

最近はさみしさを覚えることが多く、瞬間瞬間に生まれては消えていくさみしさもあれば『ああ、このさみしさは昔から無意識に溜め込んできてしまったものだな』と感じるものもある。さみしさの正体はなんなのだろうかと思いながら、いまだに突き止めることはできていない。そして、おれはいつまでこのさみしさを抱えて生きるつもりなのだろうかと、死ぬまでこれを抱えて生きるつもりなのだろうかと、否、さみしさを抱えていることを悪いことだとは思わないけれど『そろそろこのさみしさにケリをつけにいこう』と思っている自分もいる。

 

ibaya.hatenablog.com

 

己をぶちまけて輝け。

昨夜、こんなメモ書きをした。 

 

もう、こんな生き方はやめよう。大衆に迎合するような生き方は終わりにしよう。必要としてくれる人に自分を合わせる生き方はやめよう。これで死んでしまうなら仕方がない、その時は死んでしまおう。媚びることはできない。愛想笑いも作れない。この先に見たいと思える景色があるとも思えない。ダメになるかもしれない。破滅するかもしれない。それでも、仕方ない。俺はどうしようもなく俺なのだと思う。それならば、己をぶちまけて輝け。祈るように、歩みを進めていこう。

 

生き方を変える時期が来ているのだと思う。他人の必要に応えるのではなく、自分の必要に応える時期が来ているのだと思う。様々な人々が、様々な形で自分のことを形容する。他人だけではない、自分自身も「自分はこういう人間だ」と、自分のことを決めつける。しかし、どれだけ多くの形容をされた(してみた)ところで、自分の中にある部分は「それだけじゃない」と叫んでいる。この「それだけじゃない」と叫んでいる部分を、自分さえも知らなかった自分の部分を、しっかりと外側に出してやるということ。

 

ー それが、表現をするということだと思う。

 

すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる。

自分を説明したりだとか、説得したりだとか、正当化してみたりだとか、多分、そういうものの一切は不要なのだと思う。自分でもまるでわかっていないほんとうの自分を、誰か【自分や他人】に説明なんてできるはずがない。説明をした瞬間に、自分の中にある部分が「それだけじゃない」と叫び出す。自分の中にある矛盾、自分の中にある弱さ、自分の中にあるグチャグチャな部分を、統合するでもないままにまるごと前面に打ち出すこと。醜いなら醜いまま、ダメならダメなまま、自分を外側に打ち出すということ。

 

 

溜め込み過ぎたかなしみを、溜め込み過ぎたさみしさを、外に出してやる時期が来ているのだと思う。自分のことなんてわかってもらえなくてもいいなどと突っ張りながら、実際は「わかってもらいたくてたまらなかった」のだと思う。愛しているとか愛していないとか、そういうものを飛び越えて、ただ、そのままであることを許して欲しかったのだと思う。期待されている枠の中に自分をあてはめることで「生きる許可」を得るのではない、ただ、自分はどうしようもなく自分であるということを、誰かに許して欲しかったのだと思う。

 

 

岩手県奥州市で開催されたイベントの後に、参加者の方から「心の奥にある隠しても隠しきれないほんとうのことを言われると、涙が出る」と連絡が届いた。なぜ、涙は流れるのだろうか。すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなるという言葉を聞いた。愛することを恐れる時、愛されることを恐れる時、生きていくことを恐れる時、自分はなにを恐れているのだろうか。許せない何かを「許す」方向に舵をとる。そのための戦いを、いま、この瞬間も多くの人々が人知れずおこなっているのだということ。自分の歌を歌うということが、いつの日か「自分を許す」ことにつながればいいと思う。 

 

 

 

坂爪さん

 

今日はリアルでお会い出来て嬉しかったです。ありがとうございます。

 

前ならえが得意です。
だけど生きづらいです。
わたしは人と繋がりたい

 

と、おはなしされていた女性のことばに泣きそうになりました。
今更ながら、ハグすりゃよかったと後悔してます。

 

自分の心の奥にあることをえぐられたと思いました。心の奥にある隠しても隠しきれないほんとうのことを言われると、涙が出ますね。帰りの車の中で、あたたかい涙が垂れました。

 

嫌っていいし、
お前くそだなって罵ってもいいし、
罵らなくてもいいし、
誰かに合わせなくてもいいし、
合わせてもいい、
好きなことしまくって、
罪悪感を抱いてもいいし、
いい子でいなくてもいいし、
いい子でいてもいい。

 

愛されなかった(と思ってる)自分、
我慢して好かれようとしてた自分、

 

もうどんな自分でも大丈夫だからね。と、自分を抱きしめております。

 

『すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる』

 

坂爪さんのツィッターを見て、心にずんずん響いてきました。

 

わたしが、分かち合うことができる得意分野は、風俗という世界なのですが、あぁこれでいいのだと、自分に対し頼もしい気持ちになりました。

 

目を通してくださって、ありがとうございます。
自分のことばかり書き連ねて、スッキリしました(笑)

 

今度は、熱海か菊名に馳せ参じたく存じます。

 

追記
お花を差し上げたときの坂爪さんのキラキラした眼差しに、やられました。すごく美しく、なんて可愛らしいのだろうと。

 

 

 

 

 

 

 

 

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すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu