いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。

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70万時間テレビの一環として「おはなをあげに、いかんばなんね」という己の財力が続く限りおはなをばら撒き続ける贖罪風味の企画を敢行しています。これまで32年間生きてきて「ああ、この習慣は死ぬまで続けたいなあ」と思える習慣が108個位あるのですが、そのうちのひとつが「おはなをあげる」というもので、植物のある空間はやっぱりそれだけでいい感じになるなあということを感じています。今日(※ と書いた時点で力尽き果て、実際は昨日になります)は、これから板橋経由で東京&秋葉原&吉祥寺&国領&仙川&新宿&渋谷界隈に向かう流れで、隙さえあらば各地を回遊している坂爪圭吾をひっ捕まえて「おはなをプリーズ!」とご連絡をいただけましたら(タイミングさえ合えば!)おはなを届けにあがります。当選倍率(?)はおよそ10倍ほどと言った感じになるのですが、そしてメールの返信がすごい苦手で結果的に無視をする形になってしまう可能性もおおいにあるのですが「それでも構わないよ!全然いいよ!」という器広めの方はお気軽にご連絡ください。

 

 

この企画を見てくれた女性N様から「12年間仲が悪かった兄に(仲直りの意味も込めて)おはなを届けてほしい」という依頼が届いた。なんだかいい話風の話にも思えたけれど、丹田にグッと力を込めて「それはあなたが直接やった方がいいと思います!」とお答えした。70万時間テレビの醍醐味は『積極的に死にに行く』ことにある(と思う)。毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさいという地上最強のアドバイスがこの世の中にはあるのだけれど、ほんとうに重要なことは(たとえめちゃめちゃ怖いことだとしても)第三者を介することなく自分自身の全身を賭するに限る。わたしはN様を応援する。応援するということは「成功することを祈る」とは少し違う。応援するということは「成功をしても失敗をしても大丈夫!【生きても死んでも大丈夫!】」だと、ひとつの人生を包括的に見届けることだと思っている(そして、自分も自分の人生を生き切ることだと思っている)。

 

【EVENT詳細】【70万時間テレビ特別企画】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

喪中委員長喪主が「あなたの人生を弔う」。

70万時間テレビ開催にあたり、関係者各位に「企画内容をひとことで説明することはとても難しいのですが、ひとり1企画以上を勝手に立ち上げ、勝手に開催をして、勝手に死にに行く【有終の美を飾る】ような流れになればいいなあと思っています。そして、それを見た面々も『あいつ、逝ったな…(自分も負けてられないな…)』的な善循環が起こることを期待します」的な旨を伝えた。70万時間を年月に変換すると80年となり、これは、およそ平均的な人間の寿命と同じになる。70万時間テレビの趣旨のひとつは「いまなら死ねる!と思える瞬間に立ち会うこと」であり、やりたいと思っていたけれど諸々の事情でなかなかやれなかったことなど、そういうことを実行するための機会になればいいなあ(そして、それを見たひとも刺激を受けて触発をされていくような機会になればいい)ということを思う。

 

普通、生きているとどうしても「うまくやるためにはどうすればいいか」的な思考の罠に陥る。が、70万時間テレビを通して「生きても死んでも別に構わないのだ」的な気持ちを自分の掌に取り戻し、過去も未来も一旦全部放り出して、この瞬間に生命を注ぐ。自信があるからやるのではなく「自信はないけどやる」感覚、成功するためではなく「失敗をするためにやる」感覚、傷つかないためにやるのではなく「よし、傷ついてやろう」と突撃をする時のようなあの感覚、私は、そのようなものにある種の清々しさ【凛とした美しさ】を見る。どんなにささやかなことでも構わないから、自分史上「これをやるのはちょっと怖いなあ!でも、やりたいなあ!」と思うことをやる。頭意識でごちゃごちゃ考えるのではなく、カラダで突破する。先日、長野県でお会いした地域振興関連の方が「アイデアは要らない。必要なのは、やる奴だ」的なことを言っていて、その通りだなあと思った。やったひとの話【己の体験談】は面白いけれど、やりたいと思っているひとの話【噂話】はつまらない(と思うことがある)。

 

おはなをあげる水面下で『(子宮委員長はるちゃんに対抗をしない形で)喪中委員長喪主』なる動きも進めている。喪中委員長喪主とは「あなたの人生を弔う」ための活動(?)で、ああ、このひとは慰めるよりも励ますよりも勇気付けることよりも話を聞くことよりも「一回弔う」ことのほうが有効だなあと感じた時に、わたしの中で芽生える人格のひとつという設定で、まったくうまく言葉にできないけれど「敵を弔い、己を弔えば、70万時間危うからず」的な営みになる。昨今のスピリチュアル界隈やカウンセリング界隈や自己啓発系の流行で「癒され過ぎて腐っている」ひとは多い(ような印象を受ける)。喪中委員長喪主は別ベクトルから攻める。古い自分を一回殺して、新しい自分になって生まれ変わる。慰められることも気持ちいいし、励まされることも気持ちいいけれど、同じように「一回スパッと斬られる」ことの中にも清々しさはあると思う。自分で書いていても何が言いたいのかわからないけれど、根本的に「喪中委員長喪主って言いたかっただけ」なのだと思う。

 

【過去記事】まずは自分を救え。 - いばや通信

 

わたり文庫『ゴサインタン

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、篠田節子ゴサインタン』です。こちらの本は、2年ほど前に熱海の家に遊びに来てくれた女性から「素晴らしい小説なので是非!」とお譲りいただいた最高の一冊です。内容を超絶乱暴にまとめると「捨てな祭(さい)」ということで、宗教家的な女性はあらゆる悩み相談に対して一言「捨てなさい」とだけ答えます。あらゆる問題を解決する万能のアンサーだなあと思うのですが、道に迷った時は『捨てる』こと、職場や学校や人間関係に疲れた時は『捨てる』こと、捨てることで逆に開く命があるのだということを示唆してくれる、素敵な素敵な一冊になります(説明が雑でごめんなさい!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

豪農の跡取り、柚木輝和はネパール人のカルバナと結婚したが、両親が相次いで死に、妻の奇異な行動で全財産を失う。怒り、悲しみ、恐れ、絶望…揺れ動き、さまよいながら、失踪した妻を探して辿り着いた場所は神の山ゴサインタンの麓だった。現代人の根源にある、魂の再生を力強く描く第10回山本周五郎賞受賞作。

 

篠田節子ゴサインタン』【文春文庫】

 

毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。

家のない生活をしていた頃、なによりも辛かったことは「横になれない」ことだった。疲れ過ぎている時は「棺桶でもいいから横になりたい」と思うことが頻繁にあり、逆に言えば「男にとっては家なんて横になれれば充分で、もしかしたら棺桶サイズでも充分なのかもしれない」とも思っていた。棺桶で眠るというのはなんだかとっても示唆的で、寝る度に死に、目覚める度に生まれ変わる的な雰囲気を醸し出すことができそうな気がする。そういう話を、昨日、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で行ったツイキャス配信でRちゃん(17歳の家出中男子)と話をした。家賃にお金をかけすぎると自由度は下がる(嫌な仕事もやめることができなくなる)。が、適当な家【寝床】を自作してそこに暮らせば、生きるために必要な金額は格段に下がる。仮に、17歳のRちゃんが折り畳み式のモバイル棺桶を自作して各地を遍歴し、出会った人々の風呂やトイレを使わせていただく日々を過ごした暁には、なにかこう「(普通だったら生まれない人間関係などを通じて)絵的に面白いものが撮れそうな気がする」ということを思った。

 

【音声配信】Recoded Radio まずは自分を救え。 - いばや #396081085 - TwitCasting

 

2017年の常識としては、まだ、親元を離れることはイコール「アパートを借りてひとり暮らしをする」とか「親戚の家にお世話になる」とか「就労先に住み込みで働く」などの手段が一般的になるのだと思う。が、これからは「親元を離れると同時にモバイルハウスを自作し、各地を遍歴しながら暮らし始める」的な若者は増えるような気がする。ひとり暮らしをするには親の仕送りを充てにする必要も出てくるが、そうなると「家族間の癒着を断ち切り難くなる」的な面倒臭さもある。そういう話をツイキャスでしたら、視聴者の方が「資材の面で協力できるかもしれません」という神様過ぎるコメントをくれた。これを聞いた我々は「貰い物だけで家を建てることはできないだろうか」と思い立ち、徐々に出来上がるモバイルハウス【モバイル棺桶?】の試作に取り組むことになった(もしも貰い物だけでそれなりにポップな家が作れるということがわかれば、Rちゃん的家出志願系男女も気軽に家出をしやすくなるような気がする)。

 

70万時間テレビの総合プロデューサー☆Pさんが、先日、70万時間テレビのオープニングソングなるものを作成した。歌詞を見た瞬間に「あほだなー!」とものすごい嬉しくなって、総合的に「全部ギャグなんだな」ということを思った。わたしは、多分、生きているということはコントみたいなものだと思っている(節がある)。家があるとかないとか、金があるとかないとか、仕事があるとかないとか、家族がいるとかいないとか、責任があるとかないだとか、そういうことは「実際はどうでもいい」ことなのだと思う。ただ、それらを(おままごと的な)おもちゃにして、笑ってみたりだとか、泣いてみたりだとか、怒ってみたりだとか、悲しんでみたりだとかをすることが好きな生き物が『人間』なのだと思う。社会的な役割なんていうものは実はただの幻想で、実際は「一匹の動物」に過ぎない我々ヒューマン。生きることで蓄積された執着やしがらみの薄皮を一枚一枚剥ぎ取るように、多分、今日も「恐れていることをやりなさい」という言葉を糧にするのだと思う。

 

 

 ◯70万時間テレビ2017オープニングソング

【TPD48 1st Albam / 700000HELP!!!!!!!】

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
ひまわり笑顔で君に会いたい!

どこからともなくはじまった
ぼくの70万時間が進んでる
残りの時間で何をしよう?

 

“誰かのために”と頑張りすぎて
うまくいかない時は誰かのせいにしてた

 

やる気が出たからやるんじゃなくて
やってみるからやる気が出るんだと
海のお兄さんが言っていた

 

あれもやりたい これもやりたい?
イデアばかり出すのはもうやめて
頭だけの自分には飽き飽きしてたね
そうだ 靴選びなんていいから
走りだすことからはじめよう

 

だから

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
ぼくの一番のファンになろう!

勝手に地球(ここ)からはじまった
きみの70万時間が進んでる
残りの時間をどう過ごす?

 

ホントは嫌なことだと思っていて
それを受ける自分すら嫌になってきてる

 

止まってもいいんだよ
だって心臓だけは動いてるから
何もしていないなんて嘘なんだ

 

ネガティブ好きな大人の噂
他人の失敗 蜜より甘い?
ポジティブ好きな若者増えた
永遠の幸せ それ造られた願い?
やっぱり波がある人生が楽しいよね

 

溺れたら

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
魂使い切って死にたいね!

 

逝ってみよう

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!

 

自分を助けたら
誰かも一緒に助かった!

 

※TPD48の皆さんは辛くなったときなどにこの歌詞でThe Beatles の名曲「HELP!」ふうに歌ってみてください & 引き続きどこかでご奉仕させていただいた様子を下のコメント欄に写真や動画などを貼って70万回目指してください(今こそメンバー全員の力を合わせるとき!!!!!)

 

こどもに喰われたおとなたち。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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まずは自分を救え。

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70万時間テレビとは、本家「24時間テレビ〜愛は地球を救う〜」に対抗をしない形で、いばや界隈の面々が停滞しがちな生命を発露する系の企画になる。根本に流れるテーマは「(愛は地球を救うとか言っている場合ではない!)まずは自分を救え」というものになる。この企画は、基本的に「まずは自分を救え」と言いたかっただけの内容になるので、この時点で既にゴールをしている【大きめの手応えを感じている】感はある。が、今年のテーマは「人類みな SCRAMBLE」ということになったので、俄然気合がはいっている。わたしは思う。固定されるからつまらない。限定されるからつまらない。コミュニティ【枠組み】なんてものを描こうとするからつまらない。もっとごちゃごちゃになればいいのだと思う。秩序を重んじるあまりに精神的な自由が奪われるくらいなら、多少破茶滅茶になっても構わないから、もっとめちゃめちゃに撹拌をしてしまえばいいのだと思う(ことがある)。

 

【EVENT詳細】70万時間テレビ 2017 〜まずは自分を救え〜

 

新陳代謝【古い自分を一回殺す】

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実は、この記事を書き上げて「よし、投稿!」という段階で全部消えた。20秒程度意気消沈をしたのちに、なう、音速で(要所だけかいつまみながら)書き直している。先日、長野県東御市に足を運んだ。10月に開催される天空の芸術祭の打ち合わせ(?)だ。我々いばやは「ごちゃまぜのアトリエ(仮)」的な作品を展示する予定になっているものの、人生はなにが起こるかわからないからもしかしたら全部おじゃんになる可能性もある。長野の夏はものすごく涼しく、蚊も少ないために最高だ。小諸のプルーンは絶品で、自然も美しく、道の駅などに売られている野菜も破格の値段(蕎麦屋ではナスが無料で配布されていた)で、ここで暮らしたいとさえ思った。

 

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森が綺麗で「宿っている…」と思った。地域おこしの一環として芸術祭が利用されることがある。いばや的な観点からものを言うと「(地域おこしとか言っている場合ではない!)まずは自分をおこせ」ということになる。私の中には「地域を元気に!」とか「日本を元気に!」という思いがほとんどない。そんなことよりも、端的に自分を楽しませ続けることさえできていれば、結果的に「自分がいる周辺のひとびとや地域全体は勝手に盛り上がる」と思っている。千葉県を盛り上げるためにディズニーランドにいくひとはいない(と思う)。ディズニーランドがたまたま千葉県にあったから足を運ぶだけで、けとして千葉県も潤う。そういうことなのだと思う(先日の怪我から鈍い痛みが続いていて、集中力が持続をしない。言葉をしっかりとまとめることができなくてごめんなさい!)。

 

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私とMAYUCHAPAWONICAの地元は新潟県で、過去に、東京えちごまつりという企画を一緒に開催していた。新潟をおもちゃにみんなで遊べたらいいなと思ってはじめたものの、参加者や関係者が増えまくった結果「なんだか真面目にやらなくちゃいけないアトモスフィア」が醸成されて、これはやばい方向に向かっているなあと思った。関係者のみなさまに「俺はあんまり新潟を盛り上げたいとか思っていなくて、ただ、自分が面白いと思うことをやりたいと思っている」的なことを伝えたら、見事に伝わらなくて「そんなことは無理だよ」とか「自分は公務員だから、そういう趣旨なら一緒にやることはできない」ということになって最終的にみんないなくなった、が、MAYUCHAPAWONICAさんだけは「いいじゃん、やろう!」という風に賛同をしてくれて、自分たちがやばいと思うことをやろうと思って『(やばいを逆から読んだだけの)いばや』という活動(?)をはじめることになった。開始当初はお前らはバカだとかクソだとか散々言われたけれど、なう、それでも元気に生きている。時代が追いついてきてくれたからなのか、いまでは理解してくれるひとも増えているけれど「自分たちが自分たちに最初に飽きる自分たちでいたいね」ということで、新陳代謝を繰り返している。

 

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多分、いばやの強み(というか醍醐味)は「死にに行くこと」にあるのだと思う。普通、町おこしでもなんでも「自分たちが滅びないために、どうすれば生き残ることができるか」的な思考をする。しかし、我々は『延命措置に未来はない』ということを思う。生き延びようとするよりも、死にに行く(自分を一回殺して、新しく生まれ変わる)方向に次世代の萌芽の可能性を見る。というか、端的にそっちの方が『面白い』と感じる。普通、生きている限り「死にたくない」と思う。が、一回死ぬことで未練タラタラだった何かが吹っ飛んで、結果として「清々しさ」を覚えることは多い。誰かを救うためとか、何かを元気にするための活動にはあまり興味を持つことはない。そんなことよりも「どうすればこの状態を遊べるか【笑えるか】」ということに、多分、私達の関心はあるのだと思う。

 

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ヤマトタケル感を意識した髪型。

 

わたり文庫『木を植えた男』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ジャン・ジオノ著作『木を植えた男』です。こちらの本は、愛するムラキテルミさんから数年前に譲り受けた最高の一冊になります。静けさを持つ、極上の一作になります。内容とは関係ないけれど、著者のジオノさんは十歳頃の時に父親から「これでできるだけ遠くまで旅をしてきなさい」と5フラン(当時としては大金)を渡された。このお金を使って、ジオノ青年は遠くまで旅をして結果最高の体験をすることになるのだけれど、このような子育ての方針は素晴らしいなと思いました。自分もこどもを持つ日がきたら、こういう形で(愛と共に)野に放ちたいと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。 

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

かれ(ジャン・ジオノ)は晩年、あるインタビューに応えて、語っている。小説家の条件とは、「第一に歴史(イストワール)を語る人間であること、第二に創られた物語(イストワール)を語る人間であること、第三に創られた物語を語るときに崇高な人間であること」と。つまり、かれにとって、事実を敷き写しにすることは、真の作家の仕事ではなかった。

 

しかし、さらにかれはこうも語っている。「わたしはすべてを創作するように心がけた。しかし、実在した何らかのものを語ることによってである。なぜなら、無から創造するなど神さまにしかできないことなのだから」と。かれは現実のすぐ隣りに身を置き、時を隔てて見つめなおしたものを描いたのである。

 

ジャン・ジオノ『木を植えた男』【あすなろ書房】訳者あとがきより引用

 

まずは自分を救え。 

いま、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で「交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)」という企画を敢行している。先ほど、これからカレーを20人前つくりにいきますという連絡が届いた。現在、菊名の家には大量の食材と岡山県から届いた(最高にうまい)大量の桃などの果物が転がっている。とてもじゃないけれど、自分ひとりでは食べきることはできない。この場所は足を運ぶのに普段は使わない勇気を必要とする場所だとは思うけれど、飛び込んでみたら飛び込んでみたで意外とどうにかなるのが坂爪圭吾という人間だと思う。時間のある方は、お気軽に遊びにいらしてください(連絡先はブログ末尾に記載をしてあります)。

 

【過去記事】変わらないために、変わり続けよう。 - いばや通信

 

 

療養中なのに、まるで療養できていない。ある程度の人の出入りがあり、いま、隣の部屋ではたこ焼きパーティーが行われている。が、いろいろな目に遭えることはうれしいことだなあと思う。SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】は70万時間テレビの事務局も兼ねる。今後は動画配信なども(遊びにきてくれたひとを道連れにしながら)やりたいと思う。SCRAMBLE HOUSE TOKYOにはルールがある。それは「無理をしない」ということだ。この場所は、何をしてもいいし、何もしなくてもいい場所になる。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいいし、何かを食べたければ何かを食べればいいし、横になりたければ(当たり前のことだけれど家主の許可を取ることなんて必要ないから)横になればいい。これまでの32年間生きてきて、自分をご機嫌に保つことの重要性を痛感している。わたしの役割は「自分をご機嫌に保つこと」であり、誰かをもてなすために自分のご機嫌を押し潰すようなことはしない。あなたが自由であるように、わたしも自由であるのだ(こうして一々言葉にしていないとすぐに忘れてしまう)と思っている。

 

 

何をしてもいいし、何もしなくてもいい。ただ、我慢だけはするなよと思う。そして「欲しいものは獲りに行け」とも思う。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。許可がなければ動けない人間にはならないこと。最初からすべては許されているのだということ。やめてほしいのならばやめてほしいのだとしっかり伝えることができる関係性であること。そのなかで「自分が(やらなきゃ!ではなく)やりたいとも思ったことをまっすぐに敢行できる場所」として、これから作り出す空間が機能をすればいいと思う。今日も人の出入りは多い。隣の部屋では謎に盛り上がっている声が聞こえる。わたしは隣室の個室にこもる。みんなで盛り上がりたい人はみんなで盛り上がるだろうし、坂爪と話したいと思っているひとは(ちょっと勇気がいるかもしれないけれど)個室の扉をノックしてくれることだろう。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。欲しいものは自分で獲りにいくこと。誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、その副産物として、勝手に周囲の人も照らす光を帯びるようになるのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BXsGJ83DTtO/

残暑お見舞い申し上げます。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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変わらないために、変わり続けよう。

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日の出前に目覚めて顔を洗い、濃いめの珈琲を軽く飲み終えた後に自転車に乗るかジョギングをする。昇る朝日を眺めながら1時間ほど体を動かして家に戻り、水のシャワーを浴びて「うおー!」と叫ぶ。塩分補給にマグマ塩を舐めるか、庭に実っているきゅうりやトマトを丸かじりする。午前中は文章などの創作の時間に充て、午後はひとと会ったり街に出かけたりする。暗くなると同時に眠る準備にはいり、読書をしたり(焚き火ができるときは焚き火をしたり)ロウソクの灯りを眺めたりする。こんな感じで一日が終わる(なんて最高だなあとは思っているのですが、実際の達成率は20%程度です!)。今日、これから車で長野県東御市に向かう。まだ確定した訳ではないけれど、10月に開催される天空の芸術祭に我々いばやが「アーティスト集団」として召喚をされることになるかもしれない(ならないかもしれない)。

 

 

と、ここまで書いたところで交通事故に遭った。自転車に乗っていた最中、諸事情が爆発をして30メートル近く吹き飛ぶ出来事があって、全身打撲で歩くこともままらない(が、ブログを更新できる程度には元気です!)。全身が痛いと生きることが辛い。生きることが辛いと後ろ向きになりかねないために、これはもうネタにするしかないと開き直って「交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)」という平凡な企画を立ち上げた。昨日も早速複数名が遊びに来てくれて(貴重な差し入れを提供していただいて)九死に一生を得た。吹き飛んだ先に対向車が来ていたら確実に死んでいたような気がするので、生きていてよかったなあとこころから思う。死を強烈に意識すると、生が輝く。身体は痛いけれど生きていること(「まだまだ生きていられるのか!」と思えること)はとっても嬉しい。お盆のこの時期、親戚の人たちと会うのはちょっと面倒臭いし気がひけちゃうなあという貴殿のご参加(?)をお待ちしております!!

 

【EVENT詳細】交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)。

 

TPD48【鉄砲玉48】のいま。 

TPD48の活動も粛々と続いている。TPD48【鉄砲玉48】とは「あらゆる依頼に基本無償でお応えする捨て駒の集合体」のことで、金はないけど時間とエネルギーはあります!的な若者たちを集めて6月から実験的にはじめている試み(ある種のエンターテイメント的活動)になります。わたしは元々たけし軍団が好きで、自分の周辺にもこんな集団(?)があったら楽しくなるだろうなあと思っていたので、あとはやりながら考えよう!【見切り発車で死のう!】ということで出発した。最初はどうなることかと思っていたものの、意外とどうにかなっているみたいで「やるじゃん!」と思う。人生の醍醐味はなにが起こるかわからないことにあると思うのだけれど、あろうことか鉄砲玉のひろきさんは最近ツーシートのベンツ(オープンカー!)を乗り回していた。鉄砲玉の分際でベンツに乗るとは何事か!と、軽く嫉妬をした(こういう展開は見ていて楽しいので、ああ、いいなあという気持ちになります)。

 

 【BLOG】ふじわらひろき - ソンス(センスのある損)をしよう。 - Powered by LINE

 

鉄砲玉の核弾頭たくちゃんは、神奈川県で譲り受けた青春18切符を片手に現在は遠路はるばる熊本県にいる(らしい)。鈍行でよくやっているなあと思う。馬鹿みたいに移動を続けているひとを見ると、なんだかこっちまで移動をしているような風が吹く。実際にやっているひとを見ると「やってるねえ!」と思う。普段やらないことをやると、普段出会わないひとに出会う。ひととの出会いは「個人的なセフティネット」を織り成す網の目になり、最悪の場合はここに行けばなんとかなるという安心感を生む(ことがある)。自分がやりたいと思っていたことをやるのではなく「誰かがやって欲しいと思っていること」に応える形になるために、鉄砲玉のみなさまは『自分では発想をすることもなかった』作業をすることもある。結果、広範囲に渡るスキルを獲得する。自分の役割を限定付けないことで、結果、自分という存在の可能性が広がったりすることがある(まったく広がらないこともある)。

 

【BLOG】鉄砲玉依頼でスナックのカウンターの中に入って接客🍷: 2017.8.5 - 私は鉄砲玉。

 

極論、笑えたらいいのだと思う。どれだけ無駄、どれだけ非合理、どれだけ非生産的なことであっても「振り返った時に笑えたら」それでOKだと思う。鉄砲玉のメンバーは随時募集をしている。先日、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に「鉄砲玉にはいりたいです!」と話す若者が来た。これは素晴らしい心意気だと思ったので、わたしは「鉄砲玉のことはわたしよりもたくちゃんやひろきさんが詳しいので、彼らを呼び出すなり実際に会いに行くなりして、詳しいことは彼らに聞いてみてください(そして「いけるな!」と思った場合は、あとは勝手にはじめてください)」とお願いをした。あと、全然関係ないけれど菊名の家は「365日炊き出しが行われている」ことを理想としているために、手始めにまずは週一回からでも「炊き出し系イベント【無料でメシが食える機会】」を創出していきたいと思っている。が、わたしは料理があまり得意ではない。どなた様か「料理が好きだけど食べてくれるひとがいないから普段あんまりできていないのだけど、食べてくれるひとがいるならこれはもう是非是非料理をしたいです!」的な方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡いただけましたら幸いです。

 

【連絡先】LINE「ibaya」

 

わたり文庫『森と氷河と鯨』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』です。こちらの本は、SCRAMBLE HOUSE TOKYOに遊びに来てくれた方が「素晴らしい本なので、是非!」ということで贈呈してくださった一冊になります。星野道夫さんの文章に触れていると、なにか大きな自然につつまれているような感覚、自分の内面にある静けさ【自然】に還ることができるような感覚を覚えます。この感覚は素晴らしい。掲載されている写真も素晴らしく、焚き火を眺めているインディアン・ボブさんの表情にはやられてしまいました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、青森県にわたりました ※※※

 

ぼくは、深い森と氷河に覆われた太古の昔と何も変わらぬこの世界を、神話の時代に生きた人々と同じ視線で旅してみたい ー アラスカに伝わる“ワタリガラスの神話”に惹かれて始まった旅は、1人のインディアンとの出会いで思いもよらぬ方向へ導かれる。目に見えないものの価値を追い続けた著者による魂の記録。解説・池澤夏樹

 

星野道夫『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』【文春文庫】

 

変わらないために、変わり続けよう。

星野道夫さんの親友でもあるシリア・ハンターさんの言う通り「Life is what happen to you while you are making other plan.(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)」なのかもしれない。自分という人間は、自分の人生に対してあまり計画的になることができない。瞬間瞬間において、場当たり的、行き当たりばったり的な生き方を続けてきた。金も家も仕事もなくなった時は「それでも生きていけるか試してみよう!」と閃き、結構いろいろなひとに罵倒をされながらも『家のない生活』をはじめ、結果的に現在は熱海と菊名に二軒の家がある(テントも含めると三軒ある)。別に狙ってやった訳ではなく、ただただ、自分のこころが「こっちの方が面白そうだな」と思う道を選んで来ただけに過ぎない。この数年間の日々で学んだことは『人生とは、自分の意図でコントロールできるほど生易しいものではない』ということで、逆に言えば『自然な流れに抵抗することなく、身を委ねて生きればそれなりの出来事に遭遇できる』ものだと思った。

 

現在のわたし【坂爪圭吾】に肩書きはない。坂爪圭吾という人物を見たひとから、例えば「あなたはアーティストですね!」とか「あなたは吟遊詩人ですね!」とか「あなたの生き方はロックですね!」とか「あなたはダメ人間ですね!」とか「あなたは宗教家ですね!」とか、様々な言葉で形容をしていただける。わたしは、この状態をとても気に入っている。わたしの生き方には名前がない。名前がないということは、固定をされないことになる。わたしは何者でもないからこそ、わたしは何者にでもなることができる。自分が存在をしている場所、自分が置かれている状態【一緒にいるひと】によって肩書きが変わるような在り方、毎日職業が変わるような生き方は面白いなと思う。自分で自分を限定づけないこと、多分、何者でもないからこそ『何者にでもなることができる』のだと思う。

 

決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分はこういう人間だとか、あのひとはこういう人間だとか、限定的な職業や役割や関係性などの小さな枠にはめてしまうのではなく、人間全体として生きるということ、生命全体として生きるということ、固定的な枠組みを超えて『流動的な存在である』ということ。生きるということは、多分、動いているということだ。動いているということは、多分、流れているということだ。わたしたちの身体は『水』でできている。淀まないように、濁らないように、ひとりひとりの身体の中を血液の川が流れている。星々の流れと同じように、歳月の流れと同じように、変わらないことがあるとすれば、それは「変わり続けていく」ということになるのだと思う。変わり続けていくのだというこの一点に支えられて、今日も、この星は回り続けているのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BXlxUGfDnY6/

変わり続けよう。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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明日死ぬとしたら、なにを語るだろう。

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ハンモックで生きる練習をしている。わたしは恐ろしくチキンなため、不測の事態に備えたサバイバル能力を高める系の生き方【遊び方】を好む傾向がある。なにかしらの事情で家や金(いまもない)や仕事(いまもない)や社会的信用(いまもない。なにもないじゃないか!)を失った時に、できるだけ冷静で在りたいと思う。ハンモックテント【筆者は『ヘネシーハンモックのバックパッカー』を使用】の素晴らしいところは、なによりもまず『揺れる』ことだと思う。幼少期の揺籠体験が思い出されるからなのだろうか、ゆらゆら揺られていると(たとえ眠気はなくとも)数十分で眠りに落ちる。あとは「適当な二本の木があればどこでも寝床になる」という点で、適当な木が見つからない場合も、雨よけのタープを器用に張ればツェルト風のシェルターになる。地肌がゴツゴツしている場合の寝心地は快適とは言えないけれど、これも「どこでも寝れるようになるための修行【遊び】の一種」だと思えば楽しむことができる(まったく楽しめないこともある)。

 

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数日前の深夜2時頃、横浜界隈が地震で揺れた。たまたま目が覚めていたわたしは、あ、地震だと思って精神的に身構えた(身体は横になったままだった)。揺れはすぐに収まったものの、ああ、当たり前のことだけれど人間死ぬときは死ぬんだよなということを思った。常日頃から「いつ死んでもいい」などと大言壮語を吐いておきながら、やはり、震災に見舞われた場合などは「死にたくない。生きていたい」などと全然思っている自分を見る。死を強烈に意識することは、時に、最高のスパイスになる。明日死ぬとしたら、今日、わたしはなにを語るだろうか。これから語ろうとしていることは、遺言に足る言葉になり得るだろうか。なり得るかどうかはわからない、ただ、あらゆる言葉は「これが最後の言葉になるのかもしれない」と思いながら使いたい。死にたくないと思うのは、多分、伝えきれていないなにかがあるからだ。それは「さよなら」という言葉であり、あなたに会えてよかったとか、愛しているとかいないとか、あなたのおかげで最高な人生になったとか、多分、生きていたいと思うのは「伝えていきたい」と願うからなのだと思う。

 

【過去記事】楽になる道が正解だよ。 - いばや通信

 

誰もが内面に静けさを抱えている。

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SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】にカブトムシが来た。横浜のど真ん中にこんな生き物が生息していたとは露知らず、小一時間ばかり戯れていた。ひとりきりの時間も、昔より孤独を覚えなくなった。人間の孤独を慰めるものは、なにも人間に限らないのだということを思う。自分の中で、自然を見る目を変えるささやかなルールを設けた。まるで『虹が飛んでいる』みたいに色彩豊かな蝶を目た時は、なにか良いことが起こる前兆だと思うようにした。幸福のシンボルとしてお馴染みのとかげを見た時は「よっしゃー」と思うし、小鳥がちゅんちゅんやってきた時は「肩の力を抜きなさい」とメッセージを伝書しているのだと認識するようにしている。雨の音や風の音に耳をすませる。もしも、雨や風がなにかを語っているのだとしたら、なにを語っているのだろうか。そういうことを考えている時間は、多分、ひとりではない。雨も風も花も鳥も、言葉としてはなにも語らない。なにも語らないからこそ、時に「なによりも雄弁である」と感じる(こともある)。

 

誰もが内面に静けさを抱えている。居場所と呼ばれるものは、場所ではなくて人間のことだと思う。他の誰かではない『自分自身のこころ』のことだと思う。騒がしい頭意識の裏側には、みな、静寂で美しい世界がある。居場所【ホーム】とは、自分の外側に求めるものではなく、多分、自分の内側に発見するものだと思う。だからこそ、いま、必要なのは「静かになれる場所」だと思う。ひとりきりになれる場所、沈黙を共有できる場所、誰かといるときは「まるで世界にふたりきりになれる」ような気持ちになる場所、沈黙を共有できる場所、そういう場所が(とりわけ都心部には)必要なのだと思う。英語に「インナーモスト」という言葉がある。『最も深い部分』を意味するこの言葉に、わたしはコミュニケーション全般の醍醐味を感じる。誰もが内面に静けさを抱えている。その静けさに触れることができた時、わたしは、言葉にならないうれしさを覚える(ことがある)。

 

最近、ロウソクにはまっている。夜、明かりを消してロウソクを灯す。ロウソクの灯りはまるで生きているみたいで、静かな安堵感を覚える。古民家で灯せば山小屋のような雰囲気になり、夜に電気はいらないんじゃないだろうかという気持ちになる。過剰な照明のもとで交わされる会話には、過剰ななにかが混入する(ような気がする)。落ち着いた雰囲気の中で話をすれば、会話の内容も自然とインナーモストなもの【自分の内面から湧き上がるもの。自分の内面を掘り下げるもの】になる。ひとがたくさんいる時も、少数で食卓を囲む時も、ひとりきりでいる時も、内面にある静けさにアクセスすることができるような、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】がそのような空間になればいいと思う。

 

わたり花瓶『MoMA

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菊名の家はTPD48の拠点【フルマラソンのエイドステーション的存在】としても使われている。最近、TPDの私物が家に増えてきたので「明日までにある私物は全部処理をします」という旨をメンバーに伝え、強制断捨離を敢行した。不要物は捨てたりご希望される方にあげたりして、おかげさまで家は非常にすっきりとした。が、まだ少しだけ残りの財宝が眠っています。まずは『MoMA』のビニール製フラワーベース×2。光の屈折が美しく、ビニール製なので割れることもなくお子様のいる家庭でも安心。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの花瓶は、新潟県にわたりました ※※※

 

わたり下駄『桐』

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続いては「女性用の桐下駄(23〜24.5センチ)」です。なぜか下駄箱に箱入りで眠っていたので、必要とされる方に無料でリリースをいたします。ご希望される方は、非常にお手間ではありますが坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの下駄は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたり革靴『PRADA

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続いては『PRADAの革靴』です。一足も靴を持っていなかった数年前のわたしを見かねた神様が「これを持って生きなさい!オフィシャルな場面とかもあるでしょ!」とお譲りいただいたものになるのですが、この数年間一回も履くことはなかったので「今世は、オフィシャルとは無縁の人生になるのだろう」ということで必要とされる方に無料でお譲りします。靴のサイズは26センチ(自分には小さかった!)です。非常に良好な状態で、なんというかこの品物をくださった方が最高に素晴らしい方なのでそういった意味でのご利益(?)も期待できるかと思います。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの革靴は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたりアンティーク『椅子』

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最後は、群馬県在住の美容師の方から譲り受けた「アンティークの椅子(昔、床屋で使われていたもの)」です。ずっしりとした重量感が半端なく、昔風の家具を愛するひとには最高の逸品になると思います。座る部分が若干壊れているというか凸凹になっている(座る分には問題なし!)のですが、それも愛嬌のひとつだと思える方に無料でお譲りいたします。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください(無料で郵送をいたします。が、実施に取りに来ていただける方を優先します!)。

 

※※※ こちらの椅子は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたり文庫『ロングトレイルという冒険』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、加藤則芳著作『ロングトレイルという冒険』です。著者はアメリカにあるアパラチアン・トレイルという全長3500キロ(!)もある道のりを歩いた経験の持ち主で、世界には半端ないひとやものやことが大量にあるのだなあと嬉しくなりました。他にも、日本には(知名度が低すぎて誰にも重要視をされていないものの)世界的に有名な国立公園が何箇所もあるそうです。日本中の国立公園(公園とはいうものの、なんというか「日本を象徴する最高の自然」という意味で使われている言葉です)を遊歩するのも楽しそうだなあ、などと夢想をします。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

何日も何十日も、大自然の懐でそのような生活を続ければ、人はだれでも謙虚になれる。日々、最小限の水と燃料と健康でいられるだけの最小適切な食料とをバックパックに詰めて歩けば、すべてのものがいとおしいものとして、心の壁に染みわたってくる。朝と晩の2回、450ccのコッヘルにそれぞれ一杯だけお湯を沸かす。それでフリーズドライを食べ、スープを飲み、コーヒーを飲み、歯を磨き、コッヘルは拭くだけ。歩きながらの水分補給は別とすれば、たった2杯の水で毎日を生きてゆく。食べ残しは絶対に出さない。残り滓を地面に捨てることもしない。むろん、歯磨き粉も洗剤も使わない。可能な限り自然に負荷をかけないで生きていくテクニックを、歩くという生き方のなかから学び、それを街の生活にも生かし、実践していく。 

 

加藤則芳『ロングトレイルという冒険』【技術評論社

 

明日死ぬとしたら、なにを語るだろう。 

先日、菊名の家で「家族」をテーマにトークイベントを開催した。広い意味での『家族会議』的な意味合いも含まれていて、登壇者だけが話すのではなく参加者の方々の話こそ聞きたいと思っていた。前回の記事にも書いたように「天涯孤独になってもいい」という覚悟で性転換をされた方の話もあり、大袈裟な言葉になるけれど「たまたま同じ場所に居合わせたひととでも、自分の中心にある話ができる限り『だれもが家族になる』のではないだろうか」と思った。この日、富山からひとりの女性S様がはるばる足を運んでくれた。S様には両親がいない。唯一の血縁であるお祖母様は現在危篤の状態にあり、それこそ「天涯孤独になりそうです」ということを事前に話していた。彼女との出会いは数ヶ月前、全国の何処でもおはなを配りにあがりますという企画をやっている時に、S様から「もしよかったら富山県に来てください。おはなが欲しいです」と連絡をもらったことがきっかけになる。 

 

 

後日、S様から連絡が届いた。そこには「家族の話を聴けたり、念願のみっつと話せて良かった」ということや「夜中の1時半に祖母が旅立ってしまって、ごちゃまぜの頭でメールの乱文すみません」ということ、そして「祖母が重篤な状態にも関わらず菊名へ行くという勇気をこれからも大事にしたいなぁと思います」ということが書かれていた。わたしが言葉にすると陳腐なものになるために、S様に了承をいただいてその全文を最後に引用させていただきます。ひとにはそれぞれの事情があるのだな、と思う。そして、誰もが事情を抱えながら、それでも生きていこうとする姿の中に「美しさ」のようなものを覚える。トークイベントの最中も、参加者の方々の話を聞きながら「素晴らしいな。人間って素晴らしいな」と思うことが何回もあった。なにが正しいとか、なにが間違いだとか、そういうことではなく「無様でも、不器用でも、精一杯に生きようとしている姿は、どのようなものであれ生命に輝きを与えるのだな」ということを思った。

 

 

明日死ぬかもしれないのだから、やりたいことをやろう、この瞬間を大切に生きよう、愛するひとには愛していると伝えよう。そのように語る言説は無数にある。同時に、いまを生きるということは、時に「刹那主義」だと悪い意味で使われることもある。わたしは「自分のこころを込める限り、刹那的にはならない」ということを思う。こころを込めるということは『種を撒く』ことに似ている。これから自分がやろうとしていることに、自分なりに精一杯のこころを込めることができた時、その営みのひとつひとつは『種』になる。その種のすべてが芽を出すとは限らないけれど、いつの日か、それをしていなければ絶対に遭遇することのできなかった果実を目にする瞬間が、必ずある。自分でも忘れていた頃に花を開く奇跡を目にする瞬間が、必ずあるのだと思う。こころを込める限り、刹那的にはならない。自分がこれからやることのひとつひとつが、そのまま自分の遺言になり得るような、そういう生き方をしたいと思う。

 

 

 

こんにちは。


この前はありがとうございました。

 

坂爪さんのブログを読みはじめてから、わたり文庫を送って頂いたり、富山に来て頂いたり、私が菊名へ行けたり、生きてるって本当に素晴らしいなぁ。何が起こるかわからないから楽しい。

 

本当にありがとうございます。


家族の話を聴けたり、念願のみっつと話せて良かったです。


みっつといろいろ話せて良かった。また話したいなぁ。ありがとう。

 

ゆっくりと振り返りたかったのですが、夜中の1時半に祖母が旅立ってしまって、ごちゃまぜの頭でメールの乱文すみません。

 

祖母が重篤な状態にも関わらず菊名へ行くという勇気をこれからも大事にしたいなぁと思います。

 

映画のモアナで、おばあちゃんとモアナの別れのシーンがあるのですが、おばあちゃんは「おゆき」って言うんです。でもモアナは躊躇する。

 

おばあちゃんはまたこう言うんです。「どんなに離れてても、おばあちゃんはいつもそばにいるよ」

 

そしてモアナは勇気を出して、おばあちゃんから離れて自分の道を走り出す。

 

それがシンクロして、菊名へ行くことができました。おばあちゃんありがとう。無事に行けたし待っててくれたんだね。

 

別れは悲しいけれど、そばにきっといて見守ってくれている。

 

両親を見送る時は罪悪感というか、悲しみだったけれど祖母は感謝というか、生きていてくれてありがとう。育ててくれてありがとう。家族でいてくれてありがとう。孫でいさせてくれてありがとう。様々な出会いの中で恐れから感謝になれて本当に良かったと思います。


この前の話で天涯孤独という言葉が出ていて、私は自分は少し前までそうだったし、恐れていました、ばぁちゃんがいなくなったらどうしよう。置いて行かないで。さみしいよ。でも、その気持ちを感じきって向き合って、さらに菊名まで行ったら、なんだか私は全然孤独じゃないなぁって。

 

みんな何かしら抱えているし、血の繋がりを超えた人と一緒にいれば孤独じゃない。

 

そう私が思えたから、ばぁちゃんは安心して旅立てたのかなぁと思います。


この前はお花ありがとうございました。

 

祖母にお花をあげれて嬉しかったし、家の玄関にずっと飾ってたんです。

 

そしたらお花は大往生し、実は綿毛になり種を残していきました。祖母も花のように大往生し私に勇気の種を残していったと思います。


ブログ読んでリフレッシュできました。
ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 


◯◯◯◯

 

https://www.instagram.com/p/BXSelAWDLA9/

何もなくても大丈夫。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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楽になる道が正解だよ。

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自分の連絡先や家や住所や財布の中身(?)を公開していると「変なひとは来ないのですか?」と5億回ほど尋ねられる。これに対する回答は20種類くらいあって、都度都度「来るなら来いと思っています」とか「人間に対する信頼の問題だと思います」とか「そんなに来ないですよ」とか「丹田に力を込めることで乗り越えています」とか「結界を張っているので大丈夫です」などと答えている。今回は、この『結界【結界の張り方】』について思うことを書きたい。いま、神奈川県横浜市港北区にある菊名という場所でSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】の活動(?)をしている。これまでは管理人としてえりか姫やひとみさんに常駐をしてもらっていたけれど、これからはわたし【坂爪圭吾】が管理人になる。なぜか。最大の理由は「結界を張るため【結界を張り直すため】」というものになる。 

 

 

そのため、熱海や菊名の家の利用をご希望される方は、誠にお手間ではありますが(8月いっぱいは)事前に坂爪圭吾まで直接ご連絡をいただけると助かります。もちろん、連絡はウルトラ直前(家に来る1時間前とか)でも構いません。LINEからご連絡をいただけると返信が早いです。基本的に「家を見てみたい」とか「坂爪に会えるものなら会ってみたい」程度のご要望であればタイミングさえあえばいつでもご対応できるのですが、宿泊希望者が重なると布団の数の限界で眠れないひとが出る(この前は、夜遅くに家に来たらみんなが寝静まっていて気が引けてしまったので、玄関で寝たという20代女子がいたそうです!可哀想な20代女子!)可能性があります。これは非常に良いタイミングだということで、一回『交通整備』的な意味合いも込めて結界を張り直します。それでは「結界を張る」とはどういうことなのか。わたしは、それを『(そこはかとない)神社感を醸し出す』ことだと思っております。

 

※※※ 坂爪圭吾のLINE連絡先 ※※※

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神社感とは何か。

熱海の家を見ていただいた方には察していただけると思うのだけれど、築90年のこの家に来たひとは「まるで神社みたいですね」的な感想を述べる方がべらぼうに多い。 ひとによってはなんだか居心地が悪い場所なのかもしれないけれど、ひとによっては「まるで神社仏閣に足を運んだ時のようなこころの安らぎを覚えることができる」という点において、わたしは熱海の家を愛している。個人的に、18ヶ月ほど暮らした熱海の家は「すでに結界を張り終えている」という手応えを覚えている。それでは、ここで言う『結界』とは何か。わたしは、結界を張るとは『神社感を醸し出すこと』だと思っている。神社には、空間全体の雰囲気から「ああ、ここは静かに過ごす場所だな」とか「大きな声を出して騒ぐ場所ではないんだな」ということが伝わってくる(ものだと思う)。決して『騒ぐな!』とか『静かにしろ!』と言われたから静かにするのではなく、その場所の空気感を通じて「ああ、ここは静かに過ごす場所だな」ということを感じ取ることができる場所。わたしは、このような神社感を醸し出す空間を目指す行為を『結界を張る』という風に呼んでいる。

 

大前提として、わたしはルールを設けたいと思わない。静かにしろとか言いたくないし、部屋や棚や洗面台の整理整頓をしろとかも言いたくない。しかし、静かにして欲しいとは思っているし、家を大切に使って欲しい【次に使うひとのために使って欲しい】とは思っている。究極的な問題は「強制されて何かをやるのではなく、自ずから『そうしたくなる』ような空間を目指すこと」だと思っているものの、なう、菊名の家は非常にとっ散らかっている。神社感はない。ただの「古い家」になってしまっている。これではいけない。これでは悪霊が取り憑いてしまう(大袈裟!)。取っ散らかると結界の効果は薄れてしまう【家に不要なものが溜まり始めたり、怪しいひとが来たり、生けた花が音速で枯れるようになる】ために、よし、ここは一度大々的な大掃除をしよう!ということになった(こんな説明で伝わるのだろうか…こんな説明でも「わかるよ!わかるよその感覚!」と思ってくださる方を坂爪圭吾は敬慕いたします)。

 

家を整えることは大変である。ここ数日(というか数ヶ月)、掃除ばかりをしている。草抜きをしたり、壊れた用具を修繕したり廃棄したり、屋外の作業では蚊に刺されまくっている。ものを持つことは恐ろしいことですねと話すスナフキン先輩の至言が脳裏をよぎるが、同時に、ある程度の神社感を醸し出すことに成功した時の達成感は大きい。これからも頑張りたいと思う。これからも頑張りたいとは思っているものの、元来末っ子気質のわたしはすぐに投げ出したくなる(誰かにやってもらいたがる)傾向がある。ここは正念場である。こうして文章化をしながら自分のケツを叩いている。もちろん、大掃除中もSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】は誰でも大歓迎な状態を続けたいと思っている(理想的には一対一で話すことが自分は好きなんだな、と最近は思う)ので、何かあればお気軽にご連絡をください。大掃除とは言ってもそんなにやることが大量にある訳でもないので、遠方に呼ばれた際には軽めのフットワークで何処にでも行きます(最近はトークイベント出演に強目の関心があります。なにかありましたらいつでもお気軽にお声掛けください!!!)。

 

【過去記事】家族の問題をクリアすると、人生はボーナスタイムに突入する。 - いばや通信

 

わたり文庫『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、高村友也著作『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』です。まだ読み始めたばかりなのですが、高村さんの文章は非常にすんなりと入って来て非常に心地が良いです(好きです!)。高村さんは、神奈川の河川敷の土地(それなりに市街地で便利)を11万円の破格で購買して暮らしたりしている方なのですが、風変わりなライフスタイルと冷静な知性がとっても素敵です。我々SCRAMBLE HOUSEも、ごちゃまぜの家ならぬ『ごちゃまぜの土地』的なサムシングを世界の何処かで使わせていただけないものだろうか、なんてことを妄想します。自由に使える土地があったら楽しそうだなあ…ノルディスクのテントを張りたいなあ…河川敷なら『モバイル水力発電』とか発明できないだろうか…焚き火語りもしたいなあ…などなど。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、富山県にわたりました ※※※

 

僕が初めて河川敷に来たとき、堤防にはペットボトルやらビニール袋やら釣り道具やらが散乱していた。僕は「自分の家の周りが汚いのは嫌だ」というまったく自分本位の理由から、定期的にゴミ拾いをするようになった。

 

あるとき、トングとゴミ袋を持ってうろうろしていると、よく堤防に散歩に来ているおばさんとすれ違った。おばさんはそれまで、僕のテントが気になって仕方がないが見て見ぬ振りをしているという雰囲気だったが、僕がゴミ拾いをしているのを見て初めて警戒心が解けたのか、「住んでるの?」から始まり、二言三言話しかけてくださった。

 

身の周りをきれいにしようとする姿勢を見せるのは「害のある人間ではない」ということをアピールするためにいくらか有効らしい。ー 高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』【同文館出版】 

 

楽になる道が正解だよ。

昨日、熱海の家で開催されたわたり食堂【0円食堂】には、全国各地から様々な方々が足を運んでくれた。宮崎県から車の屋根にテントを装着して小さなこども三人と一緒に遊びに来てくれたお母さん(非常に可愛らしい外見なのに内面はファンキー!楽しそう!前日は高速のSAで夜を明かしたそうです)や、東京駅から菊名駅まで8時間かけて歩いて来た20代女性(猛者過ぎる!)や、福岡の実感を飛び出してヒッチハイクで熱海まで来た17歳の美少年Rちゃん(ピアノの腕前が達者すぎてやばい!鉄砲玉に誘ったところ、ふたつ返事で『やります!』とのこと。これからが非常に楽しみであります)や、旅する大工と称して呼ばれた場所に足を運びまくっている精悍な男性など、バラエティ豊かなラインナップが楽しかった。これは余談になるけれど、開催中、わたしは(眠くなりすぎて)寝た。ちゃんと寝た自分を褒めたいと思った。主催者が寝たことで「この場所は寝てもいいのか!」という自由度高めの許可がおりた(ように見えたのだと、参加者の方から言っていただいたことも良かった)。多分、自分の好きなようにやるのが一番なのだと思う。誰もが好きなようにやりながら、それでいて調和が成立するための『結界』なのだと思っている。

 

 

家族をテーマに開催されたトークイベント@SCRAMBLE HOUSE TOKYOにも、様々な方々が遊びに来てくれた。40歳になって性転換をされた男性(いまは女性)の体験談からはじまり、その方が「当時は親の目線や友達の目線がこわかったけど、でも、どうしてもそれをやりたいと思ったので『これによってすべての繋がりが断ち切れてもいい。天涯孤独になってもいい』という気持ちで、崖から飛び降りる気持ちで性転換をすることにした。そうしたら、友達は離れるばかりか前よりも近くようになった」と話してくれた。その話を受けて、参加者の女性が「実はわたしの息子も最近性転換をしたのだけれど、親としては、こどもが元気でいてくれることがなによりも嬉しい」と話す。諸々、様々な事情を抱えてはいるのだろうけれども総じて『人間って素晴らしいな』という感想を、わたしとMAYUCHAPAWONICA姫は強く抱いた。「天涯孤独になってもいい」という言葉は、素晴らしいなと思った。ひとりでもいいと肚を括る覚悟が、逆に、自分はひとりではないのだという思いを強めることがある。死んでもいいと肚を括る覚悟が、逆に、生きているのだという思いを高めることがある(のだと経験則的に思う)。

 


社会的にマイノリティであるということだけで「可哀想なひと」だと思われてしまうことは頻繁にある。しかし、究極的な意味では「不幸な人間なんてひとりもいない」のだと思う。自分が置かれている現状の中で、どのように生きるか、どのように楽しむか、どのように愛するものを見つけていくのか、同じ時代に生きるわたしたちひとりひとりは『共通の問い』を抱えている。同じ答えを共有することはできなくても、同じ問いを共有することはできる。その点に置いて、わたしたちは圧倒的にフェアなのだと思う。自分に同情をするのも自由。自分に同情することに飽きて何かをはじめることも自由。いろいろなものの制約を受けているようで、その内実は「誰もが自分のやりたいようにやっている【自分の慣れ親しんだ考え方を採用している】」だけなのではないだろうか。自分のこころが「いいな」と思うものに触れた時、こころがふわっと軽くなることがある。あの感覚、あの瞬間を大切にしたいのだと思う。 自分の考え方は、多分、自分で選ぶことができる。わたしは「自分のこころが軽くなる」道を選びたいと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BXL3bKnD1jH/

楽になる道が正解だよ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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家族の問題をクリアすると、人生はボーナスタイムに突入する。

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答えよりも問いになりたいということでこの世に生まれた我々いばや。合言葉は「世界を変えるのではなく、世界を増やす!」ということで、こうでなければいけないという枠組みを積極的&確信犯的にはみ出しながら、「こういうものがあってもいいじゃないか」的なネオ・サムシングを立証(?)することに今日も命を燃やしています。最近、己の体験を人前で話すこと【ユーモアのセンスと真理をポップに突く精度】に絶大な関心があり、おかげさまで満席を迎えた前回開催から中3日、早くも第2回開催を本日13時から(急!)音速敢行いたします。直前の告知にも関わらず、本日は新潟県富山県やはたまた宮崎県(!)からお越しいただける方もいらっしゃり、タンポポの綿毛のようなフットワークに「これはやばい!」と刺激を受けております。奇跡的に滑り込み参加ができるという方は、是非、ご自身の潜在能力を思う存分発揮していただけましたら幸いです!!

 

【イベント情報】【満席御礼!】Scramble Speaking【三森正道×MAYUCHAPAWONICA×坂爪圭吾】

 

明日日曜日は、熱海でわたり食堂【0円食堂】を開催する。昨日、岩手県でお寺の住職をやっていらっしゃる方から「ごちゃまぜの寺というものをやりたいと思っている(これが本来の寺の在り方だと思っている)ので、是非、東北まで来てください!」という激烈に嬉しいお誘いをいただいた。SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】の活動をはじめて早二ヶ月、なにも家に限らず『ごちゃまぜの寺』でも『ごちゃまぜの船』でも『ごちゃまぜの竪穴式住居』でも、そこに人間の出入り(ある程度の風通し)がある限りいくらでも面白くなるのかもしれない。極論、ある程度の土地の真ん中に共有のシャワーとトイレさえあれば、あとは適当にタイニーハウスを自作したりテントを張ったり車中泊をしながら共同生活を送ることはできる。映画館で映画を見るより、自然のど真ん中にモバイルプロジェクターを持ち出して焚き火を囲みながら映画を見た方が、なんとなく、自由度は高い気がする。多分、これからは「固定よりも流動」「屋内よりも屋外」「移住よりも移動」が主流のライフスタイルになる(ような気がする)。

 

【イベント情報】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

船で暮らすのは楽しそうだ。

いま、横浜の白楽【東横線沿線】という駅前にあるドトールを飛び交う無料Wi-Fiを拾いながらこの記事を書いている。なう、わたしはテントで暮らしている。最近、自分が使っている電子機器類の確認をしたところ「冷蔵庫も洗濯機も究極なくても全然どうにかなる。いまのところ(自分的に快適な生活を送るために)必要なのはスマホの充電と電灯に使っているエネループの充電程度だ」と思ったので、あらゆる電力をモバイルバッテリーで補うことに挑戦をしている。iPhoneを5回〜6回程度充電できる大容量のバッテリーに、ソーラーチャージャーを通じて蓄電をする。エネループの充電はUSBからもできることが判明をしたので、基本的に家庭用コンセントは不要になる。夏は暑いが、USBタイプの扇風機で意外とどうにかなる(夜は寒いくらい)ことが判明した。暑すぎる時は避暑地(適当なカフェや屋内施設など)に逃げる。家にエアコンはなくても、街中には無限にある。どれだけボロいアパートで暮らしていたとしても、街は進化し、カフェはおしゃれになり、Wi-Fiは様々な場所に完備されていく。街はどんどん豊かになるのだから、その分、家は最低限のものだけあればいいのだと思う(ようになった)。

 

もちろん、誰かの家にお邪魔をしている時はコンセントを「貸してください!」と懇願して借りる。なければないでどうにかなるし、あったらあったで大感謝をしながら最大限に生かす。昔、家のない生活をしていた頃、オーストラリアのゴールドコーストに招待をしていただいたことがある。現地では、クルーザーに乗って島巡りをされる方々が一定数いて、ホテルの代わりにクルーザーが民泊として使われることも珍しくないのだと聞いた。確かに、ホテルに泊まるよりも船で寝た方が満足度は高いというか「なんか新しいことをしている感!」は高い。当時、家のなかったわたしに対して、わたしを招待してくれたS様は『家がない生活は大変でしょう。最悪の場合は、使っていないクルーザーがあるからそこで島巡りでもしながら暮らせばいいよ』的なことを言ってくれて、わたしは軽いパルプンテ状態に陥った。最悪の場合はクルーザーで暮らす。さあ、これの一体どこが最悪なのだろうかと訳がわからなくなって愉快になった。人生は何が起こるかわからない。そして『どこかしらになにかしらは余っているものだ。余っている場所を活用しまくれば、必ずしも家【固定費】は必要ないばかりか謎のライフスタイルを開墾することができる』的なことを思うようになったのは、多分、その頃からなのだと思う。

 

いかだとか、竪穴式住居とか、自作のタイニーハウスとか、車の中とか、森の中とか湧水の傍とか、いろいろな場所で暮らしてみたい。「旅するように暮らしたい」的なキャッチフレーズもあるけれど、わたしは「遊びながら暮らしたい」と思う。多分、すべては遊びなのだと思う。家のない生活も遊びだし、テント暮らしオフグリッド生活も遊びだし、ライフスタイルになりかけている『おはなをあげる』という営みもSCRAMBLE HOUSE TOKYOの試みも、多分、全部遊びだ。家も船も寺も金も諸々の道具類も、自分だけのものにしたいとは思わない。端的に、みんなで使った方が(予測不可能な使われ方も開発されるから)面白みは五億倍増す気がする。家【出入り自由な空間】をあちらこちらにつくり、全体で共有をする。いま、そういうことに興味がある(あとは人前で話すことに絶大な関心があるので、もしもイベント的なサムシングかあれば気軽に呼び出してください!8月は猛烈に暇です!)。

 

【過去記事】最高をシェアしよう。 - いばや通信

 

わたり文庫『自作の小屋で暮らそう』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、高村友也著作『自作の小屋で暮らそう』です。格安で購買した土地に自作の小屋を10万円で建てて、そこで暮らす著者の豊富な体験記に溢れるエッセイ集(?)。人間、どこでも生きていけるのだなという元気をもらいます。多分、人間が幸福を覚える要素のひとつに「工夫をしている瞬間」があるのだと思う。先日、裏庭に落ちている竹を拾い集めて棚的なものを作った。ど下手くそだけど、作っている時間(ああでもないこうでもないと思考を錯誤をしている時間)は最高に楽しかった。工夫こそJOY。逆に言えば、決められたことを決められた範囲内でしかできない(工夫されることが歓迎されない)環境の中で、人間性を維持することは非常に難しいことになるのだと思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

誰にも文句を言われず好きなだけ寝ていられる。時間を気にせず好きなことができる。10万円で小屋を作ってベーシックに暮らす(Bライフ)までの試行錯誤。雑木林に土地を買い、手工具で小屋を建て、水や電気、トイレ等の生活設備を整える。地元の人の反応や野生動物との出会いも。文庫化にあたり薪ストーブの楽しみについても追記。小屋ブームの一端を担った本。

 

高村友也『自作の小屋で暮らそう』【ちくま文庫

 

愛と勇気とイマジネイチョン。

記事のタイトルに「家族の問題をクリアすると、人生はボーナスタイムに突入する」と書いているのに全然家族の話ができていない。家族という言葉にはあたたか〜な雰囲気が漂っていてタブーっぽい雰囲気はまるでなさそうに見えて「実際はめっちゃラスボス感が溢れている!」と睨む我々いばや。タブーと言えばお金だとか死だとかセックスだとか、そういうものが思い浮かぶけれど、実際問題『その裏側には家庭環境のあれこれが根深くある』のではないだろうか、と。合言葉は「(非常に抽象的になるけれど)平面よりも多面体」にあるような気がしていて、閉じられた密室的な関係性の中でガチンコに向き合うというよりも、家族を拡張する【拡張するというよりも溶かす】ことにヒントがありそうな気がしています(ナイーブな問題に触れる時は、なによりもまず「落ち着くこと・冷静であること」が大事だと思う)。

 

家族をテーマにイベントをやると告知をしてから、複数名の方から「めっちゃ参加したいけど、めっちゃ参加したくない(向き合いたくない)テーマでもあります!」というご連絡をいただきました。前回の記事でも書いたけれど、最近は『スクランブル(良くも悪くも引っかき回す)』という行為に関心があって、ざわつくということは素晴らしいことだなあと感じています。AirPods【最近購買をしたワイヤレスのイヤホン】で電話をしていると、周囲から(独り言を言っているみたいだから)変な目で見られることが多い。多分、未来的なものは最初は変な目で見られるのだと思います。でも、あとからそれが普通になる。多分、家族の在り方もそんな感じで進化をするんじゃないのかなと、誰からも行為的に迎えられるということは(現代の常識が前提になっているからその時点で古く)未来的ではないということで、周囲の人から変な目で見られるようなこと、見る人が見たらざわつきまくる関係性の中に、ヒントはあるのだと思います。

 

全然関係性ないけど(関係あるかもしれない)、最近は「愛と勇気とイマジネイチョン」という三拍子が大好きで脳内で多用をしています。昔は、日本人がキリスト教徒になるだけで「お前はタブーに触れている!」などと折檻をされちゃう(時には殺されてしまう)ことが普通だった。いまはタブーとされていることも、未来から見たら「なんでそんなことで騒ぐの!?」となることは多い(のだと思う)。いまの常識が未来の常識であるとは限らない。新しいことをやろうとするとそれを潰そうとする力が必ず起こる。それに負けてしまってはもったいないのだと思う。モリー先生の言葉を借りるなら『われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない』ということになる。それならば、ひとと比べてどうのこうのというよりも、自分のハート【絶対性】が「どうしたいと思っているのか」に愚直に従うこと。多分、真理はひとを自由にする。ひとを動かすものは正しさよりも「楽しさ」だ。遊ぼう。正しさで自分自身をがんじがらめにしてしまう前に、楽しさでこころを解き放っていこう。ひとから馬鹿にされることがあったとしても、自分の踊りを踊り続けること【精神的に余裕がある時は、正反対の人柄のひとと「どうすれば一緒に遊べるか」を考えること】。合言葉は「愛と勇気とイマジネイチョン」である。好きな言葉だ。口にするだけで元気になる。合言葉は「愛と勇気とイマジネイチョン」である。それさえあれば、多分、いろいろなことはきっとどうにかなるのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BWeGdhKDjwE/

雲の白さと俺の青さ。。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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最高をシェアしよう。

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前回の記事で「自転車に乗りたい!」という拾う神様的な発言をしたら「(乗らなくなった)自転車をあげたい!」という捨てる神様的なレスポンスをいただき、東京駅付近で受け取った自転車に飛び乗ってごちゃまぜの家【これからはSCRAMBLE HOUSE TOKYOと呼ばれることもあります】まで3時間かけて戻った。最近、Apple社のコードレスイヤホン『AirPods』なるものを購買した。福岡のアップルストアでは入荷6週間待ちなどと言われたけれど、ヨドバシカメラの通販で注文をしたら翌日(!)に届いた。これがまた素晴らしすぎてココロがオドル。自転車に乗っても全力で駆け出しても落ちない安定のホールド感は言うまでもなく、ナビを発動させると直接イヤホンから道案内をしてくれるから(いまでは当たり前のことなのかもしれないけれど)都度都度画面を覗く必要がない。イヤホンに2万円近くもかけるなんて愚の骨頂だと思っていた自分こそが愚の骨頂だった。なう、横浜のみなとみらいからこの記事を更新している。AirPodsを相棒に自転車に乗れることが嬉しすぎて、どこでもいいから行ってみようということでクイーンズスクエアまで来た(菊名の家からは自転車で20分程度だった)。

 

 

突然ですが、明日26日水曜日の夜、SCRAMBLE HOUSE TOKYOでトークイベントを開催します。初回のゲスト(?)は『いばや創始者』でお馴染みの坂爪圭吾×MAYUCHAPAWONICAの男女ペアで、ここ最近の活動から「フレッシュな問いを抽出!」という感じの内容になります。スクランブルという言葉には『ひっかきまわす』という意味があるらしいのですが、おお、なんだかいい言葉だなと思ったのでスクランブルを多用する流れになりました。最近まで「一言も話てはいけないというルールで静岡から江ノ島まで100キロを超える距離を1週間かけて歩いたらどういう気持ちになるのか?」をカラダを張って実験してきたばかりのMAYUCHAPAWONICAさん。しゃべらないモードを終えたばかりのMAYUCHAPAWONICAさんは、なう、しゃべりまくりたいモードに突入をされていらっしゃるとのことなので、我々のおしゃべりにお付き合いいただける方はお気軽にご連絡ください【先着10名になります!】。

 

【イベント詳細】【満席御礼!】Scramble Speaking【坂爪圭吾×MAYUCHAPAWONICA】

 

ネオ人類は『暇とのバトル』に備えている。

最新式のテクノロジーに触れると「いよいよ来たな、未来!」的な気持ちになる。数ヶ月前、ハワイのオアフ島に足を運んだ際にお世話になった家では、3Dプリンタ【なんでも作れちゃうコピー機】が置かれていた。当時、家主の女性は3Dプリンタで大量のウクレレを作りまくっていて、我々が「半端ない量ですね!これは売るのですか?」と尋ねたところ、満面の笑みで「JUST PLAYING!【遊ぶためのものよ!】」とのお返事。ジャストプレイング!遊ぶためだけのもの!なんて素晴らしい言葉!と感動すると同時に、ああ、これからは製造業はかなりやばいんだろうなと思った。家も車も服もテントも家具もなんでも3Dプリンタで製造できる時代が来たら、いよいよ人間がやるべき仕事は減る(機械が代わりにやってくれるようになる)。その時、人間に残された最後の仕事はなんだろうか。わたしのアンサーは『遊ぶ』ということで、多分、これから人類は『壮絶な暇とのバトル』に突入する予感がする。暇な時間は自由を運ぶが、惰性も運ぶ。暇だから熱中できる『何か』を見つけるひともいれば、暇だからテレビを見過ぎたり食べ過ぎたり過去や未来にとらわれてダメになる【自由に殺されてしまう】ひとも(おそらく)大量に出てくるような気がする。 

 

【過去記事】仕事なんてしている場合じゃない、遊べ! - いばや通信

 

ネオ人類は『暇とのバトル』に備えている。そんな風に思うことがある。その点において、いわゆる社会不適合者(働かないニートや引きこもりや不登校のこどもたち)は最先端を行っているのではないだろうか、などと思う(ことがある)。誤解されると困るが、わたしはニートや引きこもりを賛美したい訳ではない。多分、ニートの中にも『いい感じのニート』もいれば『ダメなニート』もいるだろうし、霞ヶ関で働く政治家の中にも『いい感じの政治家』もいれば『ダメな政治家』もいる(のだと思う)。カテゴライズに意味はない。が、端的に、わたしのこころが「あ、このひとはいいな!」と思うひとは総じて『遊びを知っている』ような印象を受ける。言い換えるならば『自分を楽しませる方法を知っている』とでも言えばいいのだろうか、いま、この『自分を楽しませる方法』を知ることは、余暇を楽しむこと以上に『人生をまるごと楽しむため【自由に殺されないため】』にとっても大事なテーマだと思う(ことがある)。

 

【過去記事】道に迷った時は、損得勘定じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。 - いばや通信

 

この点において、MAYUCHAPAWONICA【いばやの神様】のセンスはずば抜けている。いばや設立当初から「とにかくやばいことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人達が現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる」とか「(24時間テレビを見ながら)愛は地球を救う…まずは自分を救え!」とか「宇宙の摂理として、新しいことをやろうとしているひとは死なない」などの様々な啓示を示し、我々男性陣をお導きいただいた。当時は『いばや』を合同会社としてやっていたけれど、会社を設立した最大の理由は「会社でやったほうが面白い目に遭えそうだから」というものになるから不純だ。が、2017年現在では会社を設立するということも新鮮なことではなくなんなら「お前もか!」的な陳腐感を覚えるので、これからは「社長であることよりも、無職であることのほうが面白い!【自分を流動的なものにしておこう!】」ということになって、何年か前に、我々は会社役員から『完膚なき無職』へと華麗なる転身を果たした。そんな(?)二人のトークイベント、お時間のある方は是非お気軽に遊びにいらしてください(毎度告知が直前でごめんなさい!!)。

 

【イベント詳細】【満席御礼!】Scramble Speaking【坂爪圭吾×MAYUCHAPAWONICA】

 

わたり文庫『あそびの哲学』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、別宮貞徳著作「あそびの哲学」です。実はまだ全然読んでいないのですが、表紙裏の『明日を最も必然としない者が最も晴れやかな顔で明日に向かう』というワードにやられ、これだけでも買う価値があるなと思ったので購買をしました。読み終わり次第、ご希望される方に無料でお贈りさせていただきます。テオクリトスしかり、千利休しかり、鴨長明や売茶翁や吉田兼好しかり、いつの時代にも「意味不明な生き方を貫いた結果、後世に引き継がれる文化を築き上げた」ひとはいるのだなってうれしくなります。異端であることを恐れないこと。なにをするにせよ、それが未来にとって必要なものであればあるほど【新しければ新しいほど】に、現在の常識からは「異端だ!」とつまはじきにされてしまいがちなものなのでありましょう。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

 「あそび」とは何か、「あそび」の意義、「あそび」と人生の問題を、エピキュリアンの面目躍如として説く著者は、前編で「あそびのない遊び(レジャー)」「集団に埋没した個人」「戦後日本人の忘れもの」と、現代余暇現象を批判。翻って後編『独楽的人間』では、ストイシズムとエピキュリアニズムを「乱世の哲学」と規定し、東西の風流人テオクリストと千利休の生きざまの中に「明日を最も必然としない者が最も晴れやかな顔で明日に向かう」逆説の美を説く。

 

別宮貞徳『「あそび」の哲学』【講談社学術文庫

 

最高をシェアしよう。

ひとの発言に注意深く耳を傾けていると、その発言が「自分の欠落感を埋めるために表現されているもの」なのか「自分のよろこびの余剰として表現されているもの」なのかがなんとなくわかる。わたしが好きなものは完全に後者で、前者のひとといると眠くなる。MAYUCHAPAWONICAさん【いばやの面々】を好きな理由も完全に後者で、いばや界隈の皆様には、うまく言葉にできないけれど「誰かに対する憎しみや溜め込まれた悲しみや過剰な承認欲求がほとんどない」ように思う。誰かに認められることよりも、自分が自分を認められること【自分が自分を更新すること】に重点は常に置かれていて、だからなのだろうか、自分自身に対する健全な自己肯定感を抱けているような印象がある。そのため、一緒にいると単純に面白いし発想も広がるし精神的な自由を覚える。MAYUCHAPAWONICAさんは「誰かに言えることはなにもないな。自分を生きることがなによりも雄弁だな」と言う。まさにその通りなのだなと思う。

 


わたしは「健やかであること」がものすごい大事なことだと思う。人間、生きていればそりゃあ誰だって闇のような部分を持つことはあるだろう。が、あまりにも闇を深掘りし過ぎると(小生のようなナイーブな人間は)闇に呑まれてそのまま帰ってこれなくなってしまう。もちろん、悲しみが悲しみを中和するように、闇が闇を中和することもあるのかもしれない。しかし、わたしは今後とも『圧倒的な光【圧倒的肯定力】』を叩き出していきたいと思う。新聞やテレビを見ると、これでもかというほどに不幸がシェアをされている。各種SNSでも使われ方は様々で、愚痴や悪口や批判をシェアするひともいる。が、わたしは「最高をシェアしたい」と思う。自分の中にある(かもしれない)闇の部分を克明に描くことで生まれるシンパシーよりも、闇を照らす光、闇を切り裂いた光、闇の中でも消えることのない光、あほくさい言葉で言えば「人生とは、なんでもありのプレイランドなのだ」ということを何度でも思い出すことのできるような、そういう光【幸福感】を表現することができたらうれしいと思う。

 

 

多分、わたしは「でしょ!」と言いたいのだ。自分以外の誰かにとってはゴミ【無価値】だと思われるようなことであっても、自分のこころが「いいな」と思えるものを探し続ける【自分のセンスを更新し続ける】。そして、何かを見つけるたびに「こんなものがあったよ!」的な報告をする。それを見た誰かが「これはいいね!」と言ってくれたのでありますならば、待ってましたとばかりに「でしょ!いいでしょ!」と言えるあの瞬間。わたしは、あの瞬間を愛している。自分の感覚を卑下することはない。誰かのよろこびの基準に自分を合わせることもない。なによりもまず、自分のこころが真っ直ぐに楽しめるものを見つけること【最高を見つけること】。そして、その楽しさを分かち合えるひとを見つけること【最高をシェアすること】。生きていることの醍醐味は、なによりもまず、自分を楽しませること【JUST PLAYING】の中に詰まっているのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BW3M3-xjBX_/

あたひ。。。(熱海の朝日)

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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道に迷った時は、損得勘定じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。

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固定費や維持費を極限まで減らせば、端的に「生きるハードルが下がる【自由になる!】」と思ってはじめた家のない生活を通じて、人生、意外とどうにかなるのだと学んだ。逆に「家がないと楽しい!」と思えた事例は枚挙にいとまがない。まず、野営【テント暮らし】の素晴らしさを知った。個室空間は限りなく狭いが、内と外を隔てる壁(?)が少ない分「地球がおれの家」感が増幅する。不思議な話になるけれど、家が小さければ小さい分「世界を広く感じる」ことができる。自分の庭は持てなくても、緑が豊かな場所にテントを張れば「これがおれの庭だ【借景】」となる。動物は飼えなくても、最初から小鳥などの小動物が大量に生息する場所にテントを張れば「これがおれのペットだ【借ペット】」となる。豪華なプール付きの別荘は持てなくても、海にテントを張れば「これがおれのプールだ【借海】」となる。所有をすると、どうしたって管理費やメンテナンス費用が発生をする。固定費は自由を奪う。逆に言えば、お金がなくても生きていける環境を開墾できれば、嫌な仕事を嫌々やらなくても大丈夫!ということになる(と睨んでいる)。

 

 

バンコクから熱海と横浜を経由して、いま、北海道の新千歳空港『PRONT(無料Wi-Fi付き!)』にいる。北海道行きが決まったのは一昨日の話で、北海道伊達市に空き家を持つ方から「この家をごちゃまぜの家にどうですか?」とご連絡をいただいたことがきっかけになる。よろこび勇んで馳せ参じたものの、結論から言えば「今回は無理!」ということになった。空き家問題という単語を耳にする機会は多いが、「家は資産なのか?負債なのか?」がわからなくなる。広い家を管理する手間は相当なもので、脳内でスナフキン先輩の「ものを持つということは恐ろしいことですね」という言葉がこだました。人間は道具【金】の主人であるべきであり、道具【金】が人間の主人になってしまったら『結構やばい』と思う。所有よりもキャッチ&リリース!ということで、明日、菊名の家にある食糧を無料で放出する炊き出しイベントを鉄砲玉48のみなさまが開催してくださることになりました(わたしも夕方頃には顔を出せたらと思っているので、お時間のあるかたはお気軽にどーぞ!!)。

 

【イベント情報】日本人ならコメを喰え!2017 @ごちゃまぜの家

 

売り手よし、買い手よし、世間よしの『三方よし』を(時には売り手の部分を犠牲にしながら)達成する。

鉄砲玉48では『三方よし』の概念を大切にしたい(と思っている)。三方よしとは、昔の近江商人が重要視していた考え方で、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三つの「よし」を目指すことを意味する。鉄砲玉とは、基本的には「あらゆる依頼に無料で応える便利屋的な捨て駒の集合体」を意味していて、現在も依頼がある限り世界の何処でも積極的に応えるようにしている。何でもやるということにはなっているのだけれど、できることなら「当事者【鉄砲玉のメンバー】と依頼主だけでなく、まったく関係のない第三者にとってもメリットのある動き」をしてもらいたいと思っている。なぜならば、その方が「鉄砲玉のメンバーがいた方がみんなにとってハッピーだから、彼らを死なせてはいけない!」的な力が働いて、金も定職も世間的な肩書きもなにもない彼らも、もしもの時は(多分)なにかしらの形で生かされるであろう、が、第三者にとってなんら有益ではない動きをしてしまっていた暁には、死にたえるだけだろうと思っている。

 

単純にまとめると「無料でご奉仕をすることを通じて幅広い経験と知恵を獲得し、己のセフティネットを構築しつつ、みんなにとってのハッピーも増幅するような動きをよろしく!」ということになる。先日、宮古島に足を運んでいた鉄砲玉のひとみさんは、宮古島にて「この家を自由に使っていいよ」という物件を手に(?)入れた。家主の方が死ぬほど器の広い方で(わたしからも本当にありがとうございます!!)、ひとみさんが「この家をごちゃまぜの家に使ってもいいですか?」と尋ねたところ、家主の方も「あなたがいいなら、それでいいよ」とのこと。これから実際にどういう流れになるのかは未定すぎるためになにも言えないけれど、この点において「ひとみさんは最高にいい仕事をしている」ということになる。仮に、宮古島に誰でも自由に無料で使える家が増えたとしたら、そして、家主や地域住民の方々にとっても(迷惑をかけるのではなく)嬉しい動きを我々がすることができたなら、ひとみよし、家主様よし、世間【ブログ読者のみなさまなど!】よしの『三方よし』が達成されることになる。

 

このたとえは大袈裟だけど、単純に「鉄砲玉のメンバーが誰かの無茶振りに応える。依頼主がその様を見て楽しみ、その様を見ている第三者の方もエンタメ的に楽しむことができる」とかでも構わない。多分、鉄砲玉の活動は非常にバラエティ的なのだと思う。根本的に「見ているひとが楽しめたらそれでいい」というもので、ついでになにかしらのメリットも授かることができたら御の字になる。ので、是非、こちらをご覧の鉄砲玉のみなさまには「人生はギャグだと思って、思う存分、カラダを張って笑いを取りにいってください」と願う。ボロボロになった時のためのごちゃまぜの家である。もしもほんとうにやばくなったら、寝る場所と食べるものはごちゃまぜの家にある。しんどい時はごちゃまぜの家で英気を養い、元気になったら再び、愛と笑いの狩猟採集生活に戻ってもらえたら嬉しいと思う(随時新メンバー&鉄砲玉の活動を支える女子マネージャー的な存在も募集をしています!)。

 

【過去記事】愛想笑いはF◯CKですよ。 - いばや通信

 

責任を果たすことは快楽である。

愛するひとのすすめで、いま、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでいる。最近、責任を果たすことは快楽であるということを思う。うまく説明をできる自信がないけれど、責任という言葉には『できることならば避けたいもの』というイメージがある(ような気がする)。しかし、’真の意味で責任を果たすことができている時、その瞬間に『最高の幸福感』を覚えることができているように人間はできているのではないだろうか。簡単にまとめると、それは「誰かの役に立てているという実感【自分がいることで、世界が少しでもよくなっているのだと思える瞬間】」のなかには、ああ、生まれてきてよかったなあ(これで死ねる!)とさえ思える愉悦感がある。と思っていたら、この本の中にこんな文章が出てきた。

 

配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。「責任がある」ということは、他人に要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』【紀伊国屋書店

 

『責任は、完全に自発的な行為である』という指摘は素晴らしい。先日、学校もアルバイトも嫌でやめたいけどやめられないからどうしたらいいかという相談を受けた。メールの相談だったからいまいち現状が掴みきれなかったけれど、わたしは「(頭でごちゃごちゃ考えてもらちがあかないから)いますぐ直近のフルマラソンにエントリーをしましょう!」と答えた。多分、そのまま流されてしまったとは思うけれど、頭で考えるよりも先にカラダを動かすことで突破できる問題は大量にあると思う。数年前、三ヶ月で15キロを落とした非常に麗しい体験が小生にはあるのだけれど、あの時期は人生のすべてが「いかに痩せるか」で構成されていた。当時はピザ配達のバイトをしていたのだけれど、バイト先までの徒歩一時間弱を毎日歩き、配達中もバイクの中で筋トレになり得る不穏な動きを重ね、配達先の家の前でもスクワットを100回してから玄関のピンポンを押していた。体重が減ることは嬉しい。数字は裏切らない。周囲からは「ストイックですね!」と言われることもあったけれど、端的に「ALL FOR JOY!」という感じだった(話が逸れすぎてしまった…)。

 

物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何か一つでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的に言えば、貧しい人である。気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのだ。彼は、自分は自分の物を他人に与えられる人間なのだ、と実感する。生きてゆくのに最低限必要な物しか持っていない人だけは、物を与えるという行為に喜びを感じることができない。だが日常の経験からわかるように、人がどの程度を最低限の必需品とみなすかは、実際にどれくらい持っているかだけでなく、その人の性格に左右される。誰でも知っているように、貧しい人のほうが豊かな人よりも気前よく与える。とはいえ、貧困もある程度を超えると、与えることができなくなる。貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活がつらいからだけでなく、与える喜びが奪われるからである。

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』【紀伊国屋書店

 

引用が長くなってしまった。今回は「責任を果たすことは快楽である!」ことと「鬱病患者はフルマラソンにエントリーした直後に本屋に走れ!そしてマラソンにまつわるノウハウ本を数冊立ち読みしろ!」的なことを書きたかったのだけれど、時間が足りなかった。情報量が多すぎると全体感が雑になる。これは毎度の反省点である。気をつけよう。全然関係ないけれど、いま、自転車に乗りたい欲求が爆発した。車もバイクも電車もバスも飛行機も交通費がかかるしカラダが鈍る。ミニベロならダホンのボードウォークか調子に乗ってブロンプトンを相棒にして、ハンモックテントとと一緒に水源まで自転車を飛ばして湧水を沸かしてカップヌードルを食べたい。しまなみ街道まで自転車を引き連れてサイクリングとかやりたい。海外にも持ち運んだりしてみたい。もしも不要な自転車をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけましたら幸いです【菊名の家でも必要としています!!】!!

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

わたり文庫『愛するということ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、エーリッヒ・フロム著作『愛するということ』です。こちらの本をおすすめしてくださった静岡市内在住K様からいただいた「おすすめの文章」が綴られた手紙がなんだかあまりにも素敵だったので、そちらをご紹介させていただきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「愛」とことばにすると、もう言い尽くされていてなんだか陳腐な気がしてしまって、会話に出てきてもなんだか恥ずかしいような・・・でも、学校の授業で本気で教えてもいいんじゃないかと思うほど。

 

人の幸せを願う。そう願える自分を素直に喜ぶ。自己満の時もあるかもしれないけれど、こんなに嬉しいことはない!と思えました。与える喜びを与える場所、〝愛の技術〟を学べる場所がこれから増えたらいいな・・・と、思いが膨らむ本でした。

 

静岡市内在住『K様の手紙』より

 

たくさん持っているひとが豊かなのではなく、たくさん与えるひとが豊かなのだ。

K様の意思を引き継ぎ、わたしも「与える喜びを与える喜びツアー(仮)」なるものを開催したいと思った。内容は未定だけれど、基本的に明日から死ぬまで時間があるために、菊名の家には車【トヨタのビッツ!】もあることだし「あなたの家にある(お宝的な、それでいて使っていない)不用品を坂爪圭吾が直接車で回収に伺ってご自宅の断捨離を促し、かつ、それを必要とされる方々まで直接車で手元に届ける『断捨離キャッチ&必要とされる方にリリース!』 なるものを断行する」のはどうだろうか、と思っている。もしも「ちょうど断捨離をしたかったのよ!」的な方がおりましたらば、ブログ末尾にある連絡先より坂爪圭吾までいつでもお気軽にご連絡ください!!(7月21日現在、ものすごい暇です!!)

 

 

自分を幸せにしたかったら、自分のことばかりを考えていてもダメなのだと思う。多分、真の意味で善いことは「世のためにはなるけど自分のためにはならない」なんてことはないのだと思う。逆もまた然りで、世のため、ひとのため、自分のため、これらはまったくの別物ではなく(ほぼほぼ)同義であり、真の意味で善い行いは「世のためにもなるし、ひとのためにもなるし、もちろん自分のためにもなる」ものだと思う。自己犠牲が行き過ぎているなあと感じる時は、多分、何かが少しずれているのだろう。自分を幸せにするということは、他人を蹴落としてでも自分の幸せを実現するとかそんな器の小さな話ではなく、自分の幸せと他人の幸せの掛け算【合わせ技】みたいなものなのだと思う。

 

 

極論、ひとのことは気にしなくていいのだと思う。西洋の本を読んでいると『(キリスト教的な意味での)神様』的なワードが頻繁に出てくるけれど、多分、日本人に一番馴染みのある言葉は『愛』とか『自然』とか『天』とか、そんな言葉になるのだと思う。自分の生き方に迷う時、ひとと比べてどうかということよりも『これからやろうとしていることに、自分なりの愛を込めることはできているか』とか『天に対して恥ずかしくない生き方ができているか』と考えた方が、多分、軸はぶれない。時にひとから馬鹿にされることがあったとしても、誹謗や中傷や周囲の無理解に大なり小なり傷つくことがあったとしても、自分なりに「天に恥じない生き方ができている」のだと思えれば、それは最高の生き方【美】になるとわたしは思う。あとはもう、自分ができる最善を尽くすのみである。朝が来る。外に出る。お湯を沸かす。珈琲を淹れる。空を眺める。風が吹いている。雲が流れている。どのような時も、この空があれば「自分は大丈夫だ」と思うことができる。余計なものに惑わされる必要はない、何かをしなければいけないと肩に入れる必要もない、生きているだけでいい、それ以外はおまけなのだということを思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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愛想笑いはF◯CKですよ。

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ごちゃまぜの家の候補地をバンコクで探している。クラウドファンディングで「100万円の支援者【神様】があらわれてくださった暁には二件目を探します!」と言った手前、引っ込みがつかなくなっている。探すとか言っておきながら「不動産を巡る」的な営みはあまり得意ではないので、奇跡的な出来事が舞い込むことを願う『積極的受け身』スタイルを採用している。先日、沖縄県南城市にある有名な湧水をご案内していただき、ああ、水源のある場所は最高に豊かだなあと思った。日本に戻ったら、この夏は「日本の水源巡りツアー(仮)」をやりたい。聞いた話によると「太陽光【生のエネルギー】で食材を温めるとガス【死のエネルギー】で温めるよりも(太陽光の力が食材に宿るから)五億倍は美味い!」らしいので、太陽光で湧水を沸かして珈琲を飲む(場合によってはそのまま野営!)とかできたら、ああ、いい感じのサマーになりそうだなあと思う。

 

 

家のない生活を通じて確信したことのひとつに「坂爪圭吾という人間は、お米を買うことは(お金がないから)苦手だ。お米をつくることも(甲斐性がないから)苦手だ。でも、お米をもらうことなら得意かもしれない!」というものがある。こんなことを言うと「調子に乗るな!」と怒られてしまいそうだけど、家も金も仕事も何もなかった(現在も仕事はない)わたしには食糧を買う余裕はあまりなかった。それなのに、多分、わたしが家のない可哀想な青年に見えたからなのだと思うのだけれど、様々な方々がほんっっっっっっとうに様々な食糧をもらった。なんなら、家がある頃よりも食生活は豊かだった。わたしは「なんでなくなってからの方が豊かになるんだろう」と不思議に思った。坂爪圭吾という人間を面白がってくれた海外在住者の方々からも「航空券を出すからこっちに来てよ」というご連絡を相次いでいただき、結果的に20カ国くらい巡った。この現象はなんなのだろうか。毎月月末に開催しているわたり食堂【0円食堂】というイベントは、自分なりの罪滅ぼし(?)になる。恩は返すものでもあり、多分、次のひとにまわして行くものでもあるのだと思う。

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

奇跡は余白に舞い込む【ひとみの偉業編】

普通、わたしのような平民は「海外に行くためには三ヶ月はアルバイトをしてお金を貯めないと無理!」なものだと思っていた。が、家がなくなっていろいろなことが自分でやるのは無理!となり、みなさまに助けを求める(自分を徹底的に開示する)ようになってから、いつの間にか「自力で稼いでいては絶対に成し遂げられないハイスピードで海外に行っている」自分はいったいなんなのだろうかと思っていた。あの頃は、一ヶ月に一回は海外に足を運んでいた。しかも、交通費は現地の方々がご負担をしてくださったのでわたしはホイホイ足を運ぶだけでよかった。声をかけてくださる方々は基本的に『超絶やさしい』方々が大半で、現地でのアテンドも務めてくださる方もいた。わたしは、それらの恩恵を全身で受けながら「なんでこんなことになっているのだろう」とすっごい不思議に思っていた。誤解されると困るが、わたしは自分の置かれていた状態を自慢したい訳ではない。ただ、あらゆることは自分の力でできて一人前(誰かに頼るのは半人前のやることだ)とされている風なこの世の中において、自分には無理だとある種のサレンダー【降伏】を決めた瞬間から謎に人生が好転をしている坂爪圭吾という現象を、同じ時代を生きるみなさまと共有できたらうれしいと思う。

 

降伏こそ幸福である!とかくだらない駄洒落を言ってしまう前に、ひとみさんという女性の現象を紹介したい。名古屋生まれのひとみさんは現在24歳、数ヶ月前に一年間務めた仕事を辞めたために現在は無職。「お金はないけどエネルギーはあります!」とのことだったので、なう、ごちゃまぜの家の管理人をお願いしている。ごちゃまぜの家はそれなりに人の出入りがある【風通しは良い】ために、ひとみさんは様々な方々と出会う。一応、管理人をお願いしていたはずなのに、彼女は現在沖縄県宮古島にいる。聞いたところによると、ごちゃまぜの家に遊びに来てくれた方が「これから沖縄に行くんだけど、もしよかったらひとみちゃんも一緒にいく?航空券くらいなら出すよ✨」という奇跡的なお誘いを受けたらしい。所持金四桁のひとみさんが宮古島にいくことは事実上不可能だったはずなのに、彼女はいま、宮古島の風を浴びながらフレッシュジュースを飲んでいる。突発的な誘いに乗る瞬発力も素晴らしいし、与えられた『管理人の職務』を簡単に投げ出してしまう奔放な精神も「当事者としては困っちゃう部分もあるけれど、根本的にイイネ!」と思う。

 

ここ数年の日々の中で「奇跡は余白に舞い込む」ということを実感する。仮に、宮古島に誘われたとしても自分が時間的&精神的に無理な場合は誘いに乗ることはできない。自分に余白があるからこそ、キャッチできる奇跡がある。これを、いばや界隈では『余白力』と呼んでいるのだけれど、余白力のあるひとは稀に面白い展開を(自身の生き様を通じて)見せてくれるから存在がエンターテイメント的だ。しかし、余白があるだけでは足りない。余白がある時こそ、自分を『ある程度の視聴率がある場所(ひとの出入りがある場所)』に置くことがキモなのだと思う。家の中に永遠に引きこもって漫画やアニメを見ていても、多分、奇跡に出会う確率は低い。ごちゃまぜの家的な『ある程度のひとの出入りがある場所』があることで、ひとみの偉業は達成されたのだと睨んでいる。ひとみさんのバカンスを邪魔する(おれも宮古島に行きたかったという悔しさがある)ために彼女のLINE連絡先を公開します。是非、ご覧のみなさまも彼女のバカンスを邪魔してみてください!!

 

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TPD48【鉄砲玉48】の現在。

基本的に呼ばれたことには無償で応える捨て駒の集合体でお馴染みTPD48【鉄砲玉48】も、わたしの知らないところで順調な活躍を見せていた(らしい)。わたしは思う。多分、お金を稼ぐことがなんとなく苦手なひとは自分だけではないのだと思う。わたしが思う仮説のひとつに「自分の存在【自分がやっていること】が未来にとって必要なものであれば、それをみた人が『こいつらを餓死させてはいけない!』となって何かしらの方法で生かされるだろう)」というものがある。TPD48の活動は、多分、その実験と検証なのだと思う。彼らは自分の体を張ってあらゆる依頼に応え続け、現状、とりあえず死なないで生きている。多分、彼らも身近な人間(親とか)から「そんなんで生きていけると思うなよ」的な説教を受けまくっている人種だと思う。しかし、彼らの気持ちを私が勝手に代弁すると「そんなんでは生きていけないと言われても、事実、そんなんで生きているのですが!」ということになる。もちろん、これまでは良くても「これからどうなるのか」はわからない。しかし、これからどうなるかわからないのは鉄砲玉も公務員も大企業の社員も自営業者も気ままなフリーターもまったく同じことであり、そこはお互いさま(あくまでもフェア!)なのだと思う。

 

【セルフ鉄砲玉】爪切りを借りに茨城(片道3時間)へ行ってきた 2017.7.12 - 私は鉄砲玉。

 

鉄砲玉は現在も新メンバーを募集している。先日、愛知県豊橋市在住のひろきさんが新メンバーに加わった。彼は「とりあえず菊名のひとみさんに挨拶してきてよ。鉄砲玉のことは彼女が詳しいから!」というわたしの無茶振りに、ヒッチハイクで応えた。数ヶ月前までバングラデシュで働いていただけあって、日本国内は(多分)どこでも近所なのだと思う。他にも、ボロボロになって帰ってきた鉄砲玉のメンバーを労う『女子マネージャー的な存在』も募集をしています(もうちょっとしたらわたしも菊名の家に戻るので、興味のある方は直接あっていろいろ話したりしましょう!!)。先日、神奈川県在住のニューハーフのA様から「鉄砲玉も女子マネも両方いけます!」というご連絡をいただいた。その後、実際にお会いさせていただいたのですがA様の人柄が素晴らしすぎて音速で大好きになってしまった。鉄砲玉は、なう、とても良い感じに撹拌をされている(のだと思う)。もしも、何かしら鉄砲玉にお願いをしたいことがある方は、いつでもお気軽に彼らに直接ご連絡をしてみてください。きっと、数時間以内に彼らから何かしらの返信があると思います(連絡先は彼らのブログ記事をご覧ください!!)。

 

ふじわらひろき - 優しさの循環の回転速度が高い日 - Powered by LINE

 

撹拌。好きな言葉だ。わたしは「いろいろなものをかきまわしたい」と思っているのかもしれない。こうでなければいけないとされていることがあるとしたら、その内側の世界ではなく、その外側の世界に関心がある。あらゆる物事をかき混ぜて、境界線がわからなくなるほどにかき混ぜてみた結果、どのようなことが起こるのかを見てみたい。家族もしかり。生き方もしかり。働き方もしかり。年齢や性別や国籍もしかり。ごちゃまぜという言葉には「カオスティックな中で保たれる調和」というニュアンスがある。いろいろなひとがいてもいいのだと思う。いろいろな生き方があってもいいのだと思う。いろいろなひとがいてこその社会であり、いろいろなひとがいてこその世界なのだと思う。偏っちゃいけない。閉鎖的&排他的になったらつまらない。風通しが悪くなったら精神にカビが生える。わたし自身【坂爪圭吾】や鉄砲玉のメンバーのような生き方を認めてくれとは言わないけれど、一緒に面白がってもらえたらうれしいと思う。

 

【過去記事】世界の秘密を知ってしまった。 - いばや通信

 

わたり文庫『モリー先生との火曜日』

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ミッチ・アルボム著作『モリー先生との火曜日』です。この本はズバリ素晴らしい。正直なひとが正直な言葉で話す時、話している内容はどのようなものであれ、聞くひとの心を打つ。モリー先生の言葉には、正直なひとにだけ宿る力が秘められまくっているように思いました。これは無理やりにでも読んでもらいたい。そして、この本に書かれていることを一緒に話したりなんだりできたらいい時間になりそうだなあと、そんなことを思いました(こちらの本を譲ってくれた広島県広島市在住のC様、ありがとうございます!!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※

 

「この国では一種の洗脳が行われている」とモリーは嘆く。「洗脳ってどんな風にやるか知っているだろ?同じことを何度も何度もくり返して聞かせるんだ。この国でやっているのはまさにそれだよ。物を持つのはいいことだ。かねは多いほうがいい。財産は多いほうがいい。商売っ気もそう。何もかも多いほうがいい。多いほうがいい。みんなそれをくり返し口にしー くり返し聞かされー ついには、めんどうくさくなってほかの考えを持たなくなる。ふつうの人間は頭が朦朧として、何がほんとうに大事なのか見境がつかないというわけさ。

 

今までいく先々で、何か新しいものをがつがつ買いたがる人にぶつかってきた。やれ新車だ、やれ新しい地所だ、やれ新しいおもちゃだ。それをまた人に言いふらしたがるんだな。『ねえねえ、何買ったと思う、何買ったと思う?』

 

これには私流の解釈があってね。この人たちは、愛に飢えているから、ほかのもので間に合わせているんだよ。物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。だけど、それはうまくいかない。物質的なものは愛ややさしさの代わりにはならない、友情の代わりにはならない。

 

かねはやさしさの代わりにはならない。権力もそう。死を目の前に控えてここに座っている私に言えることは、かねや権力をいくら持っていても、そんなものはさがし求めている感情を与えてくれはしないっていうこと。それをいちばん必要としているときにね。」

 

ミッチ・アルボム『モリー先生との火曜日』【NHK出版】

 

愛想笑いはF◯CKですよ。

最近は「遊ぶ」という概念について考える。遊ぶという行為には「ふざけている」とか「生産的じゃない」というネガティブなイメージも付き纏うけれど、しかし、遊ぶという行為ほど高尚なものはないのではないだろうかと思うこともある。油断をしていると、ついつい物事を真面目に深刻に考え込んでしまう自分がいる。そして、多くの場合、偏った自己解釈によって勝手にダメージを受けたり自爆をする場面は多い(ような気がする)。わたしたちはなぜ生きるのか。極論、それは『遊ぶため』なのではないだろうか。仕事が遊びになるとき、家事が遊びになるとき、目の前にあることが遊びになるとき、わたしたちは自由を感じるようにできている(そして、それに触れたひとのこころまで自由にさせる力がある)。

 


タイ人の笑顔は穏やかで自然だ。笑いたいときにだけ笑い、笑いたくないときには笑わない(ように見える)。自然な笑顔に触れると、こちらも自然と笑顔になる。日本にいると、笑顔が苦しそうなひとを見る。ああ、このひとは無理をして笑っているのだろうなあと思うことがある。そんな時は、ああ、笑いたいときにだけ笑ってくれたらいいのになと思う。愛想笑いをすると死にたくなるし、愛想笑いをしているひとをみると、ああ、このひとは愛想笑いをしているんだなと(なんだか嘘をつかれているみたいで)苦しくなる。わたしは思う。多分、幸福と自然は同義である。自然なものに触れた時、ひとは幸福を覚えるようにできている(ような気がする)。自然とは、なにも緑が豊かだとかそういうことだけではなく、ひとの中にある自然、自然にこぼれる笑顔であったり、自然と湧き上がる共感であったり、そういったものに触れたときに「嬉しさ」は芽生える。

 

 

真の笑顔と嘘の笑顔、多分、笑顔には二種類ある。嘘の笑顔には無理があり、真の笑顔には無理がない。どうせ生きるのならば、愛想笑いをしないで済む生涯を送りたい。笑おうとして笑っているのではなく、いつのまにか「笑顔になっちゃっている」瞬間の中に、幸福のヒントは隠されている(のだと思う)。夕日を見つけたら思わず駆け出し『ちゃう』あの感じ、好きなひとを見つけたら思わず抱き締め『ちゃう』あの感じ、自分でも気がつかないうちに思わず笑顔になっ『ちゃう』あの感じ、この『ちゃうちゃう感』こそ護りたい。バンコクでは気が狂ったみたいに果物を食べていた。一日に5回足を運んだ果物屋のおじさんは、5回目の来訪の時に「また来たのか!」と右腕を振り回しながら最高の笑顔を見せてくれた。わたしも、この日一番の笑顔でそれに応えた。そのやりとりが、なんだか、ものすごいよかった。嘘の笑顔で自分を傷つけることをやめること。笑いたいときだけ笑うこと。笑いたくないときには笑わないこと。笑顔の純度を保つこと。ひとから好かれるための笑顔ではない、みんなと仲良くするための笑顔ではない、同調圧力に屈した時の敗北的な笑顔でもない、自分でも気がつかないうちに思わず自分が笑顔になっ『ちゃう』あの瞬間、その瞬間の中にこそ、自分という人間はめちゃめちゃ凝縮されている【真の自分を発見する】のだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BWq4RyyjPUS/

真の笑顔を取り戻しに行こう。。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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世界の秘密を知ってしまった。

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携帯代金が五万円を超えた。クラウドファンディングの御礼に電話をしまくった結果であり、ああ、無料通話コースに変えておけばよかったと思ってもあとの祭りだ。無料通話コースに変えておけば、などと言っておきながらそういう各種手続きが大の苦手だから、もう、通話機能そのものを解約した。現在は、SIMフリーiPhone格安SIMLINEモバイルの通話機能なし3MBの月額千円程度)を使用している。節約上手である。が、今月も半ばだというのに早くもデータ制限を迎えかけているために、いま、バンコクにいる。表向きは「おはなを配る!」とか「ごちゃまぜの家の候補地を探す!」とは言っているものの、裏のテーマは「海外のワイファイを使い倒す!(そして愛するパパイヤを食べまくる!)」というものになります【バンコク界隈でお時間のある方はお気軽にご連絡ください!今後の予定は何もないので、近隣諸国にも(交通手段さえどうにかなれば)行けるかと思います!】。

 

 

ナイキのフライニットという靴を購買した。靴が変わるだけでこんなにも変わるのか!と感動&興奮をしている。思わず外を走りたくなる。野営道具など、自分を外に連れ出してくれる【思わず外に飛び出したくなる】道具は最高だ。移動を続ける生活を通じて「結局、最後に必要なものは体力だな!体力がなければ、楽しめるものも楽しめない!」ということを悟り、極力、足を動かすようにしている。初めて訪ねる街を歩く(走る)と、街全体と仲良くなれる感覚がある。移動が続く日々を逆手に取り、いわゆる「旅ラン」を日課にしたいと思う。運動をしている(あと、りんごをかじりながら街を歩いている)と「おれはまだまだ戦える」という気持ちになる。野性味とか動物性とか、そういうものが刺激をされているのかもしれない。友達のまゆちゃぱうぉにか姫が日本で半端ないイベントを企画していたので、無事に日本に戻れたら、一緒に歩きまくりたいと思う(ものの、片道切符でバンコクに来たために帰る目処は立っていません!!)。

 

【イベント詳細】『超沈黙型エンターテイメント』 〜神様たち10日間も喋らないで歩くらしいよ?マジ無理じゃない?え、それうちがやるの?絶対死ぬやつだってぇ卍SP〜

 

あらゆるものは神様のものである【誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる】

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おととい、沖縄県の久高島にいた。那覇空港から安座間港まで「車を出しますよー!」と言ってくださる女神様(A様)から連絡が届き、お言葉に甘えてお願いをした。 久高島も良かったけれどA様がよかった。久高島は「所有をしない」ことで有名(?)な島だけれど、元来、琉球という国そのものが「あらゆるものは神様のものであり、わたしたち人間は『それを使わせてもらっている』と思って暮らしています」とA様は話す。A様の話を聞きながら「いやあ、もう、まさにおっしゃる通りなのだと思います。使わせてもらっているという感覚がなくなると、ひとは、簡単に傲慢になってしまう(あらゆるものを『当たり前だ』と思いあがっちゃう)ものなのだと思いまくります」と自戒を込めて返した。

 

ごちゃまぜの家のような「誰でも自由にどうぞ!」的な活動をしていると、稀に、かなりの無礼者に出会うことがある。誤解を恐れずにいうと「自分の権利ばかりを主張する」とでも言えばいいのだろうか、共有されている空間を大切に使おうという意識は皆無で、「自由」イコール「好き勝手にふるまう」ことだと勘違いをしている(ように見受けられることがある)。わたしは、こんな感じのひとを見ると「下品な生き物だな」と思う。しかし、どなたでもどうぞと言っている手前、誰でも一旦は受け入れる。そして、受け入れた後に観察をする。いい感じのひとといい感じではないひとの違いが、A様の言葉を通じて明確になった。多分、なにをするにせよ「使わせてもらっている(やらせてもらっている)」という感覚がなくなった時に、人間は品位を失い、謙虚さを忘れ、傲慢になり、下品な生き物になるのだと思う。

 

わたしは海が好きだ。海が好きだから、海を綺麗に使うひとが好きだ。海は自分のものではないけれど、海を汚すひとを見ると「なんだお前は!」と思う。多分、ごちゃまぜの家に関しても同じ気持ちなのだと思う。ごちゃまぜの家を『みんなの家(人間の家)』的な説明をすると語弊が生まれる。これからは『神様の家』的な説明でいきたいと思う。ごちゃまぜの家は誰のものでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。わたしたちは「使わせてもらっている」身であるということを、忘れていない方が『その場における幸福度』は高いと思う。感謝と幸福は切り離すことができない。使わせてもらっているという感謝が自然と湧き上がるとき、わたしは、幸せのど真ん中にいる。家だけじゃない、海だけじゃない、もしかすると『自分自身(自分のカラダや自分のココロ)』さえも、自分のものではなく神様のものであり、わたしたちは使わせてもらっているだけなのかもしれないと思うと敬虔な気持ちになる(ことができる)。

 

ひとつの大きな命を生きている。

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古代マヤ語の挨拶で「インラケチ」というものがあり、これには「あなたはもうひとりの私です【私はもうひとりのあなたです】」という意味がある。大木に例えるとわかりやすいのかもしれない。人間ひとりひとりは大木【地球】に成る葉っぱの一枚一枚であり、根本は同じである(という意味だと思う)。わたしはこの感覚を気に入っていて、この感覚になれている時は自分の中にある菩薩モードが発動をして優しく穏やかな気持ちになることができる。多分、現代社会の問題点は「分断化が進みまくっている」ことだと思っていて、行き過ぎた個人主義は全体感を破損する。自分のことは自分でやるということは一見すると責任感のある生き方であるようで、内実は「分断化を推し進めている【おれは自分の力で(生かされているのではなく)生きているのだという『奢り』を生む】」のではないだろうかと思う(ことも稀にある)。

 

インラケチの考え方はいいなと思う。この感覚を言い換えると「あなたは私の代わりに生きている【私はあなたの代わりに生きている】」ということだと思う。わたしは家のない生活をしていた。当時、あらゆるひとから「あなたの生き方には憧れるけれど、自分にはできない」という声を聞いた。誤解を恐れずに言うと、真似をする必要はまったくないのだと思う。逆に言えば、人間、おれみたいになれと言った瞬間からダサくなるのだと思う。自分は自分を生きること。自分を生きることが、結果として(根本では繋がっているから)誰かのためにもなるのだということ。わたしは、たまたま『家のない生活』ができる状態にあった。だから、あなたの代わりに自分がその生活を生きる。その生活を生きることで感じたことを共有する。だから、あなたはあなたを生きること。あなたを生きる中で感じたことをおれにも共有してもらえたらうれしいと、そういうう風に感じていた。

 

生き方には正解はないのだから、生き方には間違いもない。それが世間一般的なものとはかけ離れていたとしても、自分の命を誠実に生きる限り、必ず何かしらの果実を得る。その果実こそが『自分は自分である』ことの最高の収穫物であり、ひとと同じであることに神経を擦り減らすことよりも、人並みであることを捨てて「おれはおれを生きる」と決めたひとから、結果的に人類全体における最高の共有財産を築いていく(のだと思う)。わたしたちは別々の命を生きているのではなく、多分、ひとつの大きな命を生きている。自分が自分を生き切ることが、結果的に「誰かの人生にも貢献することができる」ものだとしたら、それほど素晴らしいことはないと思う(そして、事実世界はそのようにできているのだと思う)。

 

わたり文庫『葉っぱのぐそをはじめよう』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、伊沢正名著作『葉っぱのぐそをはじめよう』です。前回の記事でご紹介をした糞土師の方の著作で、タイトルからして結構やばい(本屋で購買する時は恥ずかしかったです!)が、内容は最高でした。こういうひとが日本にいることが素晴らしい・・・この本が三省堂岡山駅ビル店の『華道』のコーナーに陳列されていたことにも笑いました。やはり、笑えるということは素晴らしい。笑い飛ばしたあとに発見もある(世界が広がる)感じも最高で、個人的には『屋外で用を足したあとに使用する葉っぱを通じて、季節の移ろいを肌【ケツ】で感じることができる』という件には「ほっほー!(季節感っていいですよね!)」と思いました。無料郵送をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をさせていただきます。 

 

 ※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

 

大災害が起きると、まずはライフラインがストップし、水と食糧が不足し、トイレも使えなくなり、生きるための基本が脅かされることになります。じつは東南海地震で心配されることの一つが、静岡県富士市周辺に製紙工場が集中しているため、地震津波でその操業が停まるとトイレットペーパーの約4割が、一ヶ月ほど供給が滞ると予想される点です。そこで水や食糧だけでなく、携帯トイレと紙の備蓄が防災対策の大きな課題として取り上げられるようになりました。

 

東日本大震災では私の住む茨城県の田舎町でも震度6強の揺れを記録し、我が家は半壊。電気が止まり、3週間断水、多くの人がトイレを流すために沢水や側溝から水を汲んだりして苦労していました。また、各地でトイレットペーパーの買い占めも起きました。ところが以前から葉っぱノグソをしていた私は、世間の混乱を尻目に、排泄に関しては普段とまったくかわらない生活を送ることができたのです。

 

伊沢正名『葉っぱのぐそをはじめよう』【山と渓谷社

 

【過去記事】人生の本質は「JOY」だ。 - いばや通信

 

世界の秘密を知ってしまった。

わたり文庫の活動をはじめてから、様々なひとが「これは無理やりでも読ませたい!」と思う本をくれる。いま、わたしは広島県で受け取った『モリー先生との火曜日』という本を読んでいる。この本が最高で、最高の本に出会えると猛烈に嬉しくなる。素晴らしい本との出会いは、素晴らしい人間との出会いにも並ぶ喜びがある(そして、人生全体を肯定する力がある)。この本の中にはいくつもの名句が飛び出しているのですが、とりわけ印象に残っているものがある。それは『われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない』というもので、ああ、モリー先生!!という気持ちになりました。

 

 

モリー先生は難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されている。死に行く直前に「これから最後の旅に出る自分を見てくれ。そして、自分から学んでくれ」と話す。死ぬことは自然なことなはずなのに、死にたくないと思っている自分がいる。死んでしまうことは悲しいことで、それを避けたいと思っている自分がいる。死ぬことを避けたいと思うあまりに、最後の瞬間が訪れることを知っておきながら、死ぬことを信じていない(死ぬことを信じていないような生き方をしている)自分がいる。いつまでも生きるつもりでいる自分がいる。明日死ぬとしたら絶対にこれはやるだろうと思えることを、先送りにしている自分がいる。死に方を考えることは、そのまま「生き方を考える」ことにつながるのだろう。死ぬことをリアルに感じる時、この瞬間に「いまだけ」の強烈な光が宿る。憎しみ、怒り、悲しみに貴重な時間を割いている時間はないのだということを、残された時間があるならば、愛しているひとに伝えたいことがあるのだということを思う。

 

 

多分、死は「人間を謙虚にする」力がある。終わりを強く意識することで、いまここにある瞬間が際立つ。やり残していることが明確になり、人生を真剣に生きることができるようになる。恥ずかしがっている場合ではないのだと、先送りにしている場合ではないのだと、出し惜しみをしている場合ではないのだということを思う。明日死んでしまうとしたら、やり残していること【言い残していること】は何だろうか。わたしは、わたしが大切だと思うひとに「自分が死んでも悲しまないでほしい」と思っている。死んでしまったあとも、天国みたいな場所があるとしたら、そこからあなたのことを確実に見守っているのだと伝えたい。会えなくなることはさみしいことかもしれないけれど、さみしさに飲み込まれてしまうのではなく、残された日々を生き切ってほしいと思う。自分を生きて欲しいと思う。最善を尽くして欲しいと思う。そして、天国と呼ばれる場所があるのだとしたら、その場所で再会できたらうれしいのだと思っている。

 

 

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世界の秘密を知ってしまった。

 

人生は続く。

 

413-0002
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

人生の本質は「JOY」だ。

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不食(食べないで生きているひと)でお馴染みの森美智代さん推奨『スイマグ』を10ケース(!)いただき、隙を見て飲む。乱暴に説明をすると「人畜無害の下剤」であるスイマグは、飲み続けることで長年腸壁にへばりついていた宿便を溶かす。スイマグを一年飲み続けていたらカラダが軽くなったばかりか花粉症やアトピーなどのアレルギー症状も治ってハッピー!という話を頻繁に耳にするものだから、自分を使って試している。なにかこう、カラダをよくするためには「何を食べるか」ではなく「何を食べないか【引き算の美学!】」なのだとわたしは睨む。ソリッドな肉体を獲得できたら個人的にあがる。カラダが軽くなることは嬉しい。昨日は満月ということもあり、新月に向かうこのタイミングに合わせて「自分を一回からっぽにする」ことに興味がある。これはカラダに限った話ではない、多分、精神的にも「軽くなる方向を選ぶ(気持ちが楽になる道が正解!)」なんじゃないのかな、などと思うことは多い。

 


ごちゃまぜの家をほったらかして「おはなをあげる」日々を過ごしている。現在は岡山市内にいて、これから尾道を経由して向島にはいる。明日の朝9時に広島駅におはなを届けた後は何も予定がない。その後は福岡に向かう予定になるのだけれど、広島で何も予定がはいらなければ福岡に向かう(広島駅周辺で「おはなちょーだい!」という方はお気軽にご連絡ください!)。その後は「福岡→那覇バンコク」という流れになりました。バンコクではごちゃまぜの家の候補地も探すことができたらとっても嬉しいので、広島&福岡&沖縄&バンコク周辺でお時間のある方はお気軽にご連絡ください(菊名の家も、管理人のひとみさんとえりかさんが懇切丁寧な対応をしているので興味のある方は彼女たちに直接連絡をしてください!!)。

 

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【イベント詳細】 おはなをあげに、いかんばなんね。

 

悪態のすすめ。

昨日、愛媛県松山市にあるリトリート施設で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。前日の夜は会場に宿泊をする流れだったのだけれど、個人的に「こんな場所で寝たくねーな!!」と思うポイントが8個くらいあったので、よし、ここは自分に正直になることが大切だと一念発起をして家から逃げた。わたしには「大事に使われていない感じが満載の空間で長時間を過ごしていると体調が悪くなる」という持病があるのだけれど、なんだか物置で寝かされているような気持ちになってしまって「なにがリトリートだ!ふんがー!」と静かな怒りが爆発、結果的に最寄りの海で野宿をした。自分の扱われ方に憤慨をしていたわたしだけれど、海に出たら出たで「ああ、なんか海っていいな」と怒りも収まり、ギターを弾いていたら多幸感があふれてきた。最初は「海で野宿をするなんて俺は世界でいちばんの不幸者だ」と自己憐憫に浸りかけていたものの、夜の海が良すぎて「俺は世界でいちばんの幸福者だ」と形勢は逆転をした(が、海で変な虫に噛まれてその後足が腫れた)。

 

よく、自分に正直に生きることが大切だという(ひとが多い気がする)。わたしは、綺麗事があまり好きではないので「いいこぶってんじゃねーよ!」と思う。そこで、愛媛県トークイベント終了間際に「悪態をつきましょう!」ということを(家を飛び出した例などを出しながら)提唱した。悩み相談みたいな話になると「どうすればひとから嫌われないでいることができるでしょうか【どうすればうまくやることができるでしょうか】」みたいな話になることが多いけれど、潔く、一回嫌われてみることを推奨したい。何回も何回も何回も書いていることだけれど、うまくやろうとするためではなく、よし、失敗してやろう、傷ついてやろうと思って突撃をすればすべてが筋肉に変わる(成功も失敗もなくなる)。家を飛び出す前は勇気がいるけれど、家を飛び出したおかげで海の素晴らしさに出会えた(あとは快適な野営を行う実地的なスキルが向上をした)。多分、この世の中には「悪態をついたおかげで獲得できる生きる力」があるのだと思う。

 

うまく言葉にできている自信がまったくないけれど、わたしは「自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたい」と思っているタイプの人間なので、できることならば自分に正直でありたいと思う。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。自分であり続けることには時に「試練の時」みたいなものが訪れることがあって、その瞬間、神的なサムシングから「それでもお前はお前でいることを選び続けることができるか?」と問われる。悪態をつくことは、ひとつの正義である(俺は何を言っているのだろうか)。多分、悪態をつくセンスというものがある。センスの良い悪態は、意外なことに「周囲にいい感じの風を吹かせる」ことができる。多分、ああ、こんなことをやっちゃってもいいんだ!というある種の許しを、見ている人に与えることができるからなのだと思う。中途半端な悪態は、周囲の反感を買うだけで終わる。悪態のセンスを磨くこと。これはひとつのテーマである。わたしもまだまだ修行中の身である。今後も「悪態のセンス」に磨きをかけていきたいと思う(リトリート施設の方とはそのあと無事に和解をしました。器の広い対応をありがとうございました!!)。

 

どうでもいい話。

ごちゃまぜの家の第2号を世界のどこかに持ちたい。いく先々で候補地になりそうな場所を探している。どうでもいい話になるけれど、個人的に「立ちションができる場所が周囲にあること」が理想的な条件になる。こいつは突然何を言い出すのかと思われるかもしれないけれど、昔から「トイレ一回で使う水量は多すぎるだろ!」と密かに思っていた。一年前から熱海で暮らすようになり、もちろん、熱海の家にはトイレもある。しかし、流す水がもったいないのでお小便に限っては外でするようにしている。男性ならわかってもらえると思うが、野外でお小便をしていると「なんだか俺って自由だな」という気持ちになる。熱海の家は山に囲まれているために、場所に困ることはない。が、菊名の家は住宅地のど真ん中にあるために色々と困ることが多い。トイレに行くたびになんだかちょっぴり悔しい気持ちになる。

 

このような話は馬鹿にされるだろうなと思って黙っていたけれど、ある日、ウルトラ可愛い女の子にこの話を試しにしてみたところ、非常に驚いたことに「こんなことをひとに話すのははじめてのことなのですが…わたしも外でしていますよ!」との返事が返ってきた。しかのこの女性はかなりの猛者で、大も小も一旦バケツにした後に、肥料になるからという理由で庭に埋めている(!)のだと話す。なんていうか、ああ、素晴らしい話だな【素晴らしい女性だな】と思った。彼女いわく「わたしは地球から酸素とか野菜とか果物とかいろいろなものを貰いながら生きているけれど、貰ってばかりの自分が地球に還せるものってなにがあるんだろうって考えた結果、うまく言えないのですが自分の排泄物くらいしかないのかなあって思って、トイレットペーパーを流すと地球に悪いとか言う話も聞いたことがあったから、こっそりやるようにしているのです」とのこと。

 

これらは非常に誤解を招きかねない話題になるために、あまり大きな声で話すことはできない。そのため、ごちゃまぜの家の候補地を探している時も「立ちションができる場所がいいです!」なんて言えたものではないから、オブラートに「おはなを買わなくても、周辺の野花を摘んでお部屋に飾れるような環境が理想的です」などとファンタジックに話している。これは余談になるけれど、日本には『糞土師』なるひともいて、その方は「屋外【非常時】における用の済ませ方」とか「トイレットペーパーよりも快適にお尻をふける自然の葉っぱランキング」的なものも(自身の体験から)数冊の本にまとめている。世界は広い。いろいろな生き方があるのだ(それで本を出しているひともいるのだ)。こういう話を聞くと、生きることがちょっとだけ楽しくなるのは自分だけなのだろうか(自分だけなのかもしれない)。

 

【過去記事】この空があれば大丈夫だ。 - いばや通信

 

わたり文庫『マザーテレサ あふれる愛』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、沖守弘著作『マザーテレサ あふれる愛』です。糞土の話をした後にマザーテレサの話をするのもアレですが、こちらの本はマザーテレサ関連でもずば抜けて素晴らしい最高の一冊になると思います。読んでいるだけで心が洗われるような気持ちになります。こういう気持ちを忘れてはいけないのだと思う。マザーテレサの生き方や、マザーテレサの周辺のひとびとの生活に触れると「俺も贅沢を言っている場合じゃないな。もっと生きていることを慈しみたいな【生きていることを慈しめるな】」という気持ちになる。ブックオフでも(多分)100円程度で手に入ると思うから、無理矢理にでもみなさまに読んでいただきたい一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※

 

人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ。そしてまた、原世の最大の悪は、そういうひとに対する愛が足りないことだ。(中略)とにかく貧しいひとを見たら、そのひとたちのために仕える手と愛する心、それに『聞く耳』を持つことですよ。貧しいひとたちはね、オキ、お金を恵まれるよりも食べ物をあたえられるよりも、なによりもまず自分の気持ちを聞いてほしいと望んでいるのよ。実際は何も言わないし、声も出ないけれどもね。健康な人や経済力の豊かな人は、どんなウソでもいえる。でもね、飢えた人、貧しい人は、にぎりあった手、みつめあう視線に、ほんとうにいいたいことをこめるのよ。ほんとうにわかるのよ、オキ、死の直前にある人でも、かすかに震える手が〝ありがとう〟っていってるのが。

 

沖守弘「マザーテレサ あふれる愛」【講談社文庫】

 

人生の本質は「JOY」だ。

愛媛県松山市のイベントに、二人のこどもを育てているシングルマザーのお母さんA様が遊びに来てくれた。A様は震災経験後「(死んだら死んだで仕方がないから)自分が楽しめることだけをやろう!」と一念発起をし、神奈川から愛媛県に移住をした。愛媛県でごちゃまぜの家にもちょっとだけ似ている活動をやりつつ、どうしたって周囲のひとびとに叩かれることもあるもので、それでもいばや通信を読みながら「もうちょっと頑張ろう」と思ってくれていたのだと話す。こういう話を聞けることは物凄い嬉しい。このひとと出会えただけでも愛媛に来てよかったと思う。A様は笑いながら「シングルマザー三ヶ条っていうのがこの世の中にはあるみたいで、わたしはそれが大嫌いなんです!」と話してくれた。わたしは「三ヶ条ってなんですか??」と問う。A様は「寝ずに働かなければいけない。ボロアパートに住まなければいけない。楽しそうに生きていてはいけない」と教えてくれて、わたしは思わず笑ってしまった。

 

 

イベント参加者の方が「さかつめさんは昔からそんなに自由だったのですか」と問う。わたしは返答に困り、しばらくした後に「(自分のことを特段自由だとはあまり思わないけれど)ここにいるひとみんな、最初は自由だったんじゃないのかなって思います」と答えた。多分、誰もが、小さな頃は思い切り自由に生きていてそこらじゅうを遊び駆け回っていたのだと思う。それが、いつからか「これをしてはいけない」とか「あれをしてはいけない」などと制限をされたり、両親の顔色を伺いながら「両親を悲しませないため」などといった理由で自分の気持ちを制御するようになる(のだと思う)。いつからか自分の気持ちよりも『自分以外の他人』の気持ちが優先されるようになり、生きることが楽しみではなく「我慢」とか「苦労」とか「忍耐」の度合いでその良し悪しを測られるようになってしまう(ような気がしている)。

 

 

人生の本質は「JOY」だ。わたしはそのように思う。苦しみに耐えたものにだけ褒美が与えられるのではなく、この世界に生まれて来たというまさにそのことにおいて『誰もがみな、褒美のど真ん中を生きている』のだと思う。問題は、そのことを実感できているかどうかなのだと思う。選ばれたものにだけ褒美が与えられるのだというともすると排他的な思想から、生きとし生けるものは誰もがみな祝福をされている(とっくの昔から我々は恩恵を受けていたのだ!)と思い出せるコミュニケーションを、交わしていきたいのだと思う。トークイベントの休憩時間中に、勝手に外に飛び出して手頃な花を摘んで参加者の女性の方に「お近づきの印に…(はあと)」と渡した瞬間に、なんだかいい風が吹き抜けたような気がした。おはなにはそういう力がある。そういう力がある世界に生まれたことを、性懲りもなく「素晴らしいことだ」とわたしは思う。

 

 

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瀬戸内の夏。。。

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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この空があれば大丈夫だ。

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「あらゆる病気は断食で治る!」とはよく聞く話で、多分、その通りなのだと思う。愛するムラキテルミさんが「固形物を食べないファスティングは良い!」とブログの中で言っていたので、早速真似をしている。自分の食い癖を眺めてみると、腹が減ったからという理由よりも「暇だから」とか「ストレスが溜まっているから」という理由で何かを口にしている時が多い。これではいけないと思う。ので、自分を使った人体実験【肉体改造】を試している。まずは「ある程度の運動をしなかった日は自分に食事(固形物)を与えない」というところからはじめたい。身体を動かしたあとに食う飯には動物的(?)なうまさがあるが、特になにもしていない時に食う飯は『惰性の味』がする。

 

 

過去に、友達と一本下駄登山をしたことがある。一本下駄で登山をするのは割と過酷で、下山後には「よくやったなー!」と自分で自分を褒めたくなった。下山直後、最寄りの自動販売機でファンタグレープを購買して「乾杯!」と祝杯をあげた。これまでの人生で一番美味かった飲み物は、間違いなくあの時に飲んだファンタグレープだと思う。そして、あの時ほど心の底から「乾杯!」と言えた瞬間はない。いまだにあの味を更新できていない自分がいる。多分、なにを飲むかではなく「どのような状態で飲むか」の方が五億倍重要で、砂漠の中で飲む水は豪華なラウンジで飲むカクテルの五兆倍美味い(気がする)。こういう話をすると「あなたはストイックだね」的なことを言われることがあるけれど、ストイックとは結局「その先によろこびがあることを信じている」ゆえの行為であり、多分、よろこびとは『落差』だと思う。極限を生きると、当たり前が当たり前ではなくなる。当たり前の輝きが増す。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

生きている実感。

おはなを配る日々を過ごしている。一昨日は宇都宮に、昨日は熱海から浜松を経由して名古屋&岐阜に、今日は奈良から梅田を経由して神戸にはいり、明後日は愛媛県松山市で開催されるイベントに登壇をした後に今治に向かう。移動が続く日々を過ごしていると、いま、自分が何処にいるのかわからなくなる。自分をある種の混乱状態に陥らせることにの中には、過酷さと楽しさがある。合理的でもなければ効率的でもなんでもないことをやっていると、そういうことを(この年齢になっても)できている自分を「いい感じだな」と好きになる。これから、おはなを届けるためだけに自腹でレンタカーを借りて奈良県の奥地に足を運ぶ。俺はなにをしているのだろうと思うこともあるけれど、同時に、こういうことをしていなければ絶対に遭遇することのなかった面白い目に遭うこともできているから「バランスはとれているのだな」と思う。

 

移動を続ける日々を過ごしていると、家がなかった頃を思い出す。家のない生活をしていた時の方が、乱暴にまとめると『生きている実感』があった。家がないと、当たり前が当たり前でなくなる。お湯が出ることとか、風呂にはいれることとか、布団で眠れることとか、屋根があることとか、その程度のことでいちいち感動できる『幸福多感症』な自分になる。何もかもを一回失ってみることは、必ずしも悪いことではない。金も宿も何もない日は野営をすることもあった。野営をしている瞬間は孤独にもなるが、野営をしていなければ絶対に出逢うことのなかった朝日の美しさや小鳥の囀りや朝露の煌めきがある。紅の豚じゃないけれど「綺麗…世界って本当に綺麗。」だと思う。家のない生活を通じて、わたしは体質が変わった。朝日が昇る前に身体が勝手に目覚めるようになり、目覚まし時計が不要になった。そして「目覚し時計で目覚める日々は、もしかすると人間的ではないのかもしれない」などと思うようになった。

 

熱海と横浜に家があるいまも、定期的に家出をする。多分、家がない生活が懐かしいのだと思う。当たり前を当たり前と思わないために、定期的に「何もない状態」に自分を追いやる。誤解を恐れずに言うと、自分のためだけならば家はいらないのだと思う。家は「女やこどものため」に必要なもので、多分、自分だけのためには家はいらない。いま、ごちゃまぜの家の活動をしているのは自分のためというよりも「自分の周囲にいる女やこどものため」であり、こんなことを言うとあまりにも偉そうだけど『男は外に出てなんぼ(外に出ている時の方が状態が良い)』なのだと思う。逆に言えば、わたしの場合は家を増やすことは得意でも家を整えることは苦手だ。だからこそ、女の人に家を整えてもらえると猛烈に助かる。この点においても「バランスはとれているのだな」と思う。家はたまに帰る場所【ルンバにとっての充電器】であり、長居をしてしまうと「男性的ななにかがダメになる」的な危機感を覚える。落ち着きがないと言ってしまえばそれまでの話だけれど、日本を離れることで日本の素晴らしさを知るように、家を離れることで家の素晴らしさを知ることは多い。

 

塩をなめる。

と、ここまで書いて時間が流れた。現在は三ノ宮駅前にあるドトールにいる。奈良県でおはなを渡した方は非常に素晴らしい方で、なんと、わたしが持参したおはなを「今日はこの方にお渡ししたいと思ってお願いしたのです!」と、その場にいた別の方にプレゼントをした。素晴らしいおはな(及び坂爪圭吾)の使い方だと感動をした。その後、梅田に移動をして「幸せのパンケーキ」なるものをご馳走していただき、これから三件おはなを渡した後に今夜は三宮駅前のホテルに泊まる。このホテルは、なんと、これからおはなを渡す予定の方が「もしよかったら宿も予約をしておきます!」と手配をしてくださったものになる。本来であればわたしが『与える側』であるはずなのに、いろいろなものを貰っている。ああ、生かされている、自分は生かされているのだとうれしくなる(ここでは書ききれないほどお世話になっているみなさまほんとうにありがとうございます!!)。

 

「運動をしない限り食事を与えない」などと書いておきながら、早速誓いを破ってしまった。特別ルールとして「ひとと食べる限り食事はOK!」ということにする。自分で約束をしたことを音速で破る自分はなんなのだろうと思う反面、そんな自分が嫌いではない。カバンの中に『マグマ塩』という塩がある。この塩はムラキテルミさんおすすめの岩塩で、汗をかいた後などに食べると猛烈に体力が蘇る(ような感覚になるから大好きです)。今後は塩を舐めながら命を繋いでいきたいと思う。旅先でランニングをする「旅ラン」をやりたいと思い、暇な時間を見つけてはランニングウェアやシューズをネットで物色している。こういう時間は楽しい。スポーツウェアを私服にして、いつでも走り出せる体制を整えておきたい(なんてことを考えていると楽しくなる)。

 

また、ごちゃまぜの家の第2号を日本のどこかに持ちたいと思う。どなたか「使っていない家があって管理に困っている」的な方がいたら、格安で譲っていただけないだろうかと思う(もちろん超絶大切に使います!)。インターネットで空き家バンクを物色していたら、安いものだと5万円(!)程度から売りに出されている物件が大量にあった。賃貸で家を借りるより、格安で家を購買(?)した方が自由度は高いような気がする。これは余談になるけれど、ある日突然財政破綻的なことが日本でおきて「明日からお金はただの紙切れになります」みたいなことがあった時に、平気でいるひとたちは『食糧や水やエネルギーを自炊できているひとたち』なのだと思う。ごちゃまぜの家のようなものが(ロシアのダーチャみたいな感じで)世界各地に複数個あれば、仮にひとつの場所がダメになっても他の場所で代替可能になるのかなと思う。何かが起こる前に、何が起きてもいいような状態を(遊び感覚で楽しみながら)整えておけたら「ベストだな!」と思う。

 

【過去記事】生きとし生けるもののうえに幸いあれ。 - いばや通信

 

わたり文庫『ウルトラマラソンマン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ディーン・カーナゼス著作『ウルトラマラソンマン』です。この本は、近年稀に見る名著【全男性必読!】だと睨みます。このひとはうまく言葉にできないのですが最高の愚か者で、自分が愚か者であることを自覚している点において猛烈に賢い。そして、愚行を通じて生きるために必要なエッセンスを確実に抽出している感じが最高に素敵!読後感の爽快感が半端なく、生きるためにはまったく必要ないけれど、生きていることを楽しむために必要なあれこれが大量にあふれているなあと思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

翌朝、ジュリーを起こさないように夜明け前に起きて、ゴールデンゲートブリッジに向かって走った。太陽が上がると魚釣りの船が沖に向かい始め、小鳥も鳴いていた。一ヶ月以上も鳥の鳴き声を聞いていなかったが、極限の地に行くといつも近くにある日常のありがたみを深く感じる。世界を新鮮な目で見られるようになり、当たり前と思わなくなる。自分の限界まで走ることは、自己再生をするチャンスなのだ。

 

自分をそんなに苦しめるなんて正気ではないと、誰もが思う。でも僕らはどこかの時点で、快適さを幸福と取り違えてしまったように僕には思える。僕は、実は正反対なのだと信じ始めていた。「苦痛は意識の唯一の起源である」ドストエフスキーの言葉は正しい。苦痛が始まると、感覚が研ぎ澄まされる。苦しみにこそ、幸福に至る秘密が隠されているのだ。

 

サンタクルーズに向かって走りながら、僕は深い達成感を感じた。多くの人はそこに辿り着くことはない。大変なことをやるのを嫌がっているのか、臆病なのか、負荷が一番少ない楽な道を選んでしまうからである。でも僕に言わせれば、苦しんで頑張ることが意味ある人生につながる。自分を常に駆り立てながら、前に進みながら、学んで成長するべきだ。自分が居心地の良い狭い範囲を超えなければ、無意味な存在に甘んじることになる。素晴らしい人生の旅を歩めなくなってしまう。

 

ランニング仲間が言った言葉に、「墓に入る時は無傷のきれいな身体ではなく、使い果たし、疲れ果てた体で、『最高だった』と叫びながら、滑り込みたい」とあった。

 

ウルトラランニングは僕の生きがいでもあり、僕が墓に入る時までの生き方でもある。だから今ここで連続2日間かけて、自分の精神的・肉体的限界を試しながら、もっと上を、もっと遠くを目指し、もっと出し切ろうとしていた。自分が選んだ道を極めるなら、どんな精神的な障害物があってもそれをぶち抜き、どんな強烈な痛みと絶望感の壁に当たっても、頑張り続ける勇気を持たなければならない。

 

ディーン・カーナゼス『ウルトラマラソンマン』【Discover】

 

この空があれば大丈夫だ。

偉大な人間との出会いや、偉大な自然との出会いは人間を謙虚にする。自分なんてまだまだだなと思える瞬間の敗北感には、ある種の清々しさがある。世界にはまだまだ自分の知らないすごい奴らが大量にいるのだと思える時、どうしてなのだろうか、これからの自分が楽しみになる。多分、人間というものは違っているように見えて実はたいした違いなんてなく、ひとりの人間ができるということは人類全体ができるということであり(やる必要があるかどうかは別として!)、偉大な人間は「俺はすごい!」という個体の優位性を主張しているのではなく「(俺を含めた)人間という生き物は素晴らしい!」ということを証明してくれているように思う。大袈裟な言葉で言えば「自分の代わりに生きている」のが他人であり、あなたはわたしの代わりに生きていて、わたしはあなたの代わりに生きている(だから同じである必要は微塵もない!)のだと思う。

 

 

 

最近は「欲望を追い求めるとキリがない」ということを思う。ごちゃまぜの家を菊名ではじめてから、あれも欲しい、これも欲しいみたいな感じで次から次へと欲望が湧き出る。ひとつのものを揃えると、また新しい「これがあるならこれも欲しい!」みたいな気持ちが湧き出してきて、なんだかもうキリがなくて疲れてしまう。だからこそ、あくまでもベースは『ない』に置いておきたいと思う。これがあるから大丈夫という思考ではなく、これがなくても大丈夫(最悪の場合は「家がなくても大丈夫!」)的な思考を忘れたくないと思う。あるものは楽しむ。あるものには最大限の感謝をする。ただ、ないならないでどうにかなるのだという思考を忘れたくないと思う。家のない生活をしていた頃に、お湯が出ることや風呂に入れることや布団で眠れることなどにいちいち感動をしていた自分の感受性を、忘れてしまいたくないと思う。

 

 

移動中に見上げた空が綺麗だった。空が晴れているだけで、こんなにも嬉しくなるのはなぜなのだろうか。たったそれだけのことで自由を感じる。笑顔になる。元気が出る。世界に空があってよかったなと思う。空を見上げながら、ああ、この空があればどのような時も自分は大丈夫なのだと思った。空だけではない、花に、鳥に、風に、月に、こんなにも多彩な世界に生まれてよかったなと思う。すぐそこにある彩りを、すぐそこにある豊かさを、すぐそこにある奇跡のような出来事を、忘れるたびに思い出していける自分でありたいと思う。何度でも、何度でも、この空があれば大丈夫だと思えた時のあの感覚を、心臓に刺青を掘るようにしっかりと刻みたいのだと思う。

 

 

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この空があれば大丈夫だ。

 

人生は続く。

 

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生きとし生けるもののうえに幸いあれ。

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ごちゃまぜの家にはWi-Fiがない。その為、わたしは最寄りのデニーズまで無料Wi-Fiを拾いに、えりか姫は自宅から徒歩10分弱の場所にあるファミリーマートまで毎回無料Wi-Fiを拾いに行く『Wi-Fi乞食』的な生活をしていた。その暮らし振りを見るに見かねた東京都江東区在住の女神K様が「それはあまりにも大変でしょ!Wi-Fi代金程度ならわたしが出すから一刻も早く導入しちゃいなさい!インターネットはあなたたちの生命線でしょーが!」 ということで、ごちゃまぜの家に高速Wi-Fiを設置してくださることになった。神様はいるのだと思った。そして「生かされている…」と思った。ごちゃまぜの家の基本コンセプトは「必要とされる限り続き、必要とされなくなった瞬間に散る【生かされる限り続く】」というものになる。

 

 

生かされている限り続くというこの在り方を、わたしは、結構気に入っている。無理をしてまで続けない。延命措置に未来はない。誰かに必要とされる限り、多分、(宇宙的なサムシングの力が働いて)何かしらの形で我々は生かされるであろう、逆に言えば『生かされない』ということはいまの世界に必要ないということなので、その際は自然の摂理に従って散りたい(新しい別の何かを試すことにしたい)と思う。あとはやってみなければわからないということで、一ヶ月の月日が流れた。非常にありがたいことに、現状、ごちゃまぜの家は「みなさまに生かされまくっている」状態の中にある。ありがたすぎて血反吐が出る。自分の中でバランスをとる(自分にも何かできることで恩廻しをしなければ壊れてしまう!壊れてしまうよ!と思った)ために、おはなを配ることにした。おはなが欲しい方はお気軽にご連絡をください。おはなは最高だと思います(おはなのある生活は素晴らしい!)。奇跡的にタイミングさえ合えば、小生、あなたがお住いの場所までおはなを届けにあがります!!

 

【イベント情報】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

延命措置に未来はない。必要とされる限り生かされる。 

「もてなさないことがおもてなし」をモットーに、ごちゃまぜの家が誕生して一ヶ月の月日が流れた。来客があっても特段何もしない。ごちゃまぜの家は、別名『好きにやっちゃっ邸(ダサっ!)』でもあるために、やりたいことがあればストレートにそれをやればいいし、やりたいことがなければ何もしないでいればいいのだと思う。そのため、来客があっても(自分のこころが「何かをしたい!」と思わない限り)基本的に放置をする。この瞬間、それなりに我々のこころはざわついている。もっと話した方がいいのかなとか、もっとおもてなしをした方がいいのかななどと考える頭意識を一回無視して、自然な流れに任せる。「何かをした方がいい」と考える頭意識ではない、自分のこころが「何かをしたい」と前のめりになれるあの感覚を大切にしている(たとえば、話したいと思ったら喜びと共に話しかけるけれど、なんとなく『話さなくちゃいけない』的な雰囲気にはなるべく流されないようにしている)。5分で帰る人もいれば、24時間滞在をするひともいる。どのような気持ちなのかは当の本人しかわからない。もしかしたら謎に傷ついたひともいるのかもしれない(いないかもしれない)。ただ、はるばる関西から遊びに来てくれた方からこんな感じの連絡をもらった時は嬉しくなる。

 

坂爪さん

 

おはようございます。

 

昨日お邪魔させていただいた◯◯です。

 

良い空気を感じさせていただいて、
本当にありがとうございました!

 

「何をしなくてもいい」ということが
ごちゃまぜの家の空気を感じることで初めて実感できました。

 

そういえば、本当に久しぶりに、人前で横になって休んでいたような気がします。

 

本当にありがとうございました!!!

 

私のことはほとんどお話しできませんでしたが、
あのごちゃまぜの家の空気を作っているのは間違いなく坂爪さんだと思いますし、
本当に感謝しております。

 

なのでというか、一方的にメールを送らせていただきましたので、返信は不要です。

 

これからも関西から陰ながら応援しております。
自分自身もやりたいことに向けて命を燃やしていこうと思います。

 

◯◯◯◯

 

一歳五ヶ月の赤ちゃんと来てくれたお母様からも、後日、うれしい連絡をいただいた。この前の土日は(土日ということもあって)大量の来客に空間はごちゃまぜった。来客のみなさま、大小様々な差し入れを持って来てくださるものだから、現状、ごちゃまぜの家の食材は豊富だ。我々管理人(えりか姫&つるの仁美)を含めた住人は滅多に料理をしない惰性的な人間なので、このままだと貴重な食糧を腐らせてしまう。これではいけない。どなた様か、えりか姫かつるの仁美さんに料理を教えてくださる方がおりましたら、彼女たちに直接コンタクトを取ってみていただけたら猛烈にうれしいです。文面だけだとなかなか伝わらない部分もあるとは思いますが、えりか姫もつるの仁美さんも、性根は素直でとっても優しい女の子(美形!)です。彼女たちの連絡先は、ひとつ前の記事『頭がいいってことは、ひとの気持ちがわかるということ』をご参照ください。

 

圭吾さん

 

こんばんは。

 

昨日、今日はありがとうございました!
◯◯(こどもの名前)はすんなり寝てくれました。

 

出向く場所があって、迎えていただけて
ありがたい気持ちでした。

 

◯◯(こどもの名前)と遊んでいただけて嬉しかったです。


さっきツイキャス聞いてました。

 

圭吾さんが全部過去のことと言ってたの、いいなと思いました。

 

私が最近ハマってるのは
1秒1秒新しい自分に生まれ変わってるって意識して生活することです。

 

ごちゃまぜの家に居たら めちゃめちゃ細胞が生まれ変わってる気がしました。

 

普段の家にいる時と思考回路が変わっちゃうようです。

外出たほうがいいですね。
しかも気持ちいい人がいると。
気持ちいい場に来られて気持ちよくなったので、まわりの人にもちょっとでもそれがうつればいいなと思います。


自分の話はする価値がないと思ってる人が多いと思うというくだり、まさに!でした。

 

言っても意味ないかな、面白くない人だと思われるのが嫌だな、話すのがこわいなーとかそんなふぅに思って言えなかったことがありました。

 

話しながらも自分、いい人に思われようとしてんなーー!とかこんなこと言ったら嫌われちゃうかもしれないからよしとこー!とか
思ってたなー、そんな気づきがありました。


このような場をありがとうございます!!

 

あでゅー!

 

◯◯◯◯

 

小さなこどもと長い時間一緒にいると、蹴り飛ばしたくなる瞬間もあると思う。こども1人に対して、大人は3人は必要である(ように思う)。ごちゃまぜの家を通じて、お母さんの負担が少しでも軽くなれば嬉しい。これは余談になるけれど、先日、えりか姫とつるの仁美さんと『真夜中のツイキャス音声配信』をした。えりか姫は現在14歳、この前、実の母親とのバトル(?)に同席をする機会に遭遇をさせていただいたのだけれど、えりか姫がお母様に向かって「わたしのことはもう大丈夫だから、わたしのために生きないでいいよ。お母さんは、お母さんのために生きて。」と伝えた瞬間には、なんだか感動をしてしまった。腹を割って生きれば、多分、毎日はドラマになる。母親と娘という関係性は、母親と息子という関係性とはまるで異なる性質を帯びたものになるのだろう。是非、勇猛果敢に突破をしていただきたいと思う。

 

【音声配信】Recoded Radio ごちゃまぜの思想 - いばや #384328615 - TwitCasting

 

わたり文庫『梅原猛の授業 仏教

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、梅原猛著作『梅原猛の授業 仏教』です。お釈迦さまの言葉には非常に素晴らしいものがいくつもあると思っているのですが、とりわけ、こちらの本の中で紹介されているお釈迦さまの言葉の訳が超絶素敵だったので、僭越ながら(ちょっと長くなりますが!)引用をさせていただきます。説教臭いところがたまに疵ではありますが、梅原さんの言葉は非常にわかりやすい。この時期の梅雨の夜長、雨音を聞きながらひとり静かに仏道入門をするなんていかがなものでしょうか。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※

 

よく教えの道理を会得したるものが

自由の境地をえてのちに為すべきことはこれなり

有能、率直、そして端正なること

よき言葉を語り、柔和にして、高慢ならざること

 

足ることを知りて、養い易きこと

雑事にかかわらず、簡素に生きること

五根を清らかにして、聡明、謙譲なること

檀越(施主)の家におもむいて貪りなきこと

 

卑賤のわざをなして識者の批難をうくることなかれ

ただ、かかる慈しみをのみ修すべし

生きとし生けるもののうえに

幸いあれ、平和あれ、安楽あれ

 

目に見えるもの、また見えざるものも

遠くにあるものも、また近きものも

すでに煩悩尽くるものも、また尽きざるものも

生きとし生けるもののうえに幸いあれ

 

あたかも、母性がそのひとり子を

おのが命に代えてまもるがごとく

生きとし生けるもののうえに

かぎりなき慈しみの思いをそそげ

 

また一切の世間にたいして

かぎりなき慈しみの思いをそそげ

上にも、下にも、また四方にも

うらみなく、敵意なく、ただ慈しみをのみそそげ

 

梅原猛梅原猛の授業 仏教』【朝日文庫

 

生きとし生けるもののうえに幸いあれ。

昔、ボロボロの状態で京都にある三十三間堂に足を運んだことがある。その時のわたしは家のない生活をしていて、呼ばれた場所に移動を続ける日々を過ごしていた。家がない生活はそれなりにエキサイティングで軽快な部分ももちろんあれど、体力的に厳しいと感じる瞬間も頻繁にあった。いいひとと出会うことが大半だったけれど、稀にボロクソに扱われる瞬間もあった。京都にいた時は、多分、ボロクソに扱われた直後だったのだと思う。まともに横になれない日々が続き、精神的にも肉体的にも疲弊をしていた。 そんな時、足を運んだ三十三間堂の奥の方に、小さな看板が掲げてあった。その看板には「大切なひとのために祈りましょう」と書かれていた(ように記憶をしている)。

 

 

大切なひとのために祈りましょうという言葉に、わたしは心臓はドキン!と鳴った。疲弊を言い訳に、わたしは、自分のことばかりを考えてしまっていた。誰かに自分の気持ちをわかってもらいたいとか、誰かに寄り添ってもらいたいとか、誰かに何かをして貰うことばかりを求めてしまっていた。大切なひとのために祈りましょうという言葉は、その瞬間のわたしに「自分のことばかりを考えているんじゃないよ」と言っているように思えた。大切なひとという言葉を通じて、家族の表情、友達の表情、自分が好きだと思うひとたちの表情が目に浮かんだ。そして、疲れていたはずのココロやカラダが元気になるのを感じていた。多分、自分のことばかりを考えている時にはなかなか湧き出すことのないパワーが、この世界【人間の奥底】にはあるのだと思う。その力は、大切なひとを思う瞬間に発揮をされて、結果的に「勇気百倍、自分でもびっくりをするような力になる」のだと思う。

 

 

仏教における重要な概念は『慈悲』だと聞く。お釈迦様は『(西洋的な)愛』ではなく『(東洋的な)慈悲』という言葉を使う。大切なひとを通じてだけではなく、動物や昆虫や植物や自然界のあらゆるものを丁寧に扱うことができた時、それは『自分自身を大切に扱っている』ことに繋がるのだと、多分、そういうことを言いたかったのだと思う。誰かに自分のことを好きになって貰うということは、自分のコントロールの範囲を超えている。しかし、自分から「何かを好きになるための自由」は、常に掌の中に残されている。大切なひとのために祈ること。愛されたいと願う前に、まずは自分から愛すること。マザーテレサは「人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ」と言う。そしてまた、原世の最大の悪は、そういうひとに対する愛が足りないことだと言う。自分のことを愛してくれる誰かを見つけることではなく、自分から愛していける『何か』を見つけること。矛盾するような話になるけれど、自分から先に愛していきたいと思う時、ああ、自分はとっくの昔から愛されていた【すべては優しさで織り成されていた】ことを理解するのだと、そういうことを考えていた。

 

 

人生は続く。

 

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頭がいいってことは、ひとの気持ちがわかるということ。

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毎晩、テントで眠っている。風通しが良い場所が好きだ。テントの中にいると、雨の音さえも心地よく響く。愛用しているテントはノルディスクの『アスガルド』というもので、これさえあれば何処でも生きていける(ような気持ちになる)。読書をしたり、珈琲を淹れたり、雀に話しかけたり、ギタレレを弾いたり、簡単な料理を作ったりする。不思議な話になるけれど、家の中で眠るよりもテントの中で眠る方が随分とよく眠れる。多分、自然に囲まれていることによる安堵感(?)が大きいのだと思う。テントの中で眠ったことがないひとには、是非、無理やりにでも実際に体験をしてもらいたい。野宿経験者ならわかると思うけれど、一度でも野営をすると「地球が俺の家だ」的な感覚を獲得することができる。

 

 

明日から7月になるので、鉄砲玉48の新メンバーを募集します。鉄砲玉48とは「基本的になんでも無料でご奉仕をする捨て駒の集合体」で、乱暴にまとめると『(捨て身の)便利屋集団』的なものになります。お金はないけど時間とエネルギーはあります!という若い面々を揃えたら何か面白いことが起こるかなと思って生まれた当企画。一ヶ月やってみての感想は「まあ、こんな感じか」といったもので、これじゃ何も伝わらないと思うのですが、なにはともあれ風通しは大事!そのためには変化だ!変化を加えよう!名著『仕事は楽しいかね?』でおなじみマックスおじさんも「試すことに失敗はない。遊び感覚でなんでも試して、成り行きを見守るのだよ」って言っていたしなといった感じです。7月1日&2日は坂爪圭吾も菊名の家におりますので、時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください(事前にご連絡をいただけると助かります!)。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com 

 

鉄砲玉48新メンバー&マネージャー&母親募集!

冷静に考えたら「はッ!必ずしも鉄砲玉のメンバーは菊名の家にいる必要はないのだから、世界の何処にいてもメンバーになることはできるんだよな!」と思ったので、遠隔からの参加希望者も募集します。また、同時に「女子マネージャー」的な存在も募集をします。女子マネの役割は、ボロボロになって帰って来た鉄砲玉の男性陣を温かな飲み物や温かな食事を通じて「労う」ことがメインのお仕事になります。そういうのが得意な方がおりましたら、こちらもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです(展開的に一番最高なのは、1日&2日に菊名の家に来ていただくことです!)

 

同時に、えりか姫の「逆家庭教師」的な存在も募集いたします。逆家庭教師とは何か。それは、乱暴にまとめると「えりか姫に料理を教えることができる」というものになるのですが、えりか姫が料理を学ぶ生徒になるというよりも、教える側が「教えることを学ぶ【お教えさせていただく】」という点において生徒【この点が逆家庭教師!伝わるでしょうか!ダメか!ダメですよね!】でもあるという、なんともしっちゃかめっちゃかな試みになります。えりか姫は現在14歳。料理は好きだけれどもレパートリーにはまだまだ限界があります。そんなえりか姫に「是非、料理を教えてあげたい!」なんて思ってくださる粋な女神様がおりましたら、いつでもお気軽に(えりか姫まで直接)ご連絡をお願いいたします!! 

 

えりか姫の連絡先

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同時に、過去記事でも書きましたが「ごちゃまぜの家の文通相手(?)」も引き続き募集をしております。最近手紙を書いていないなあ、誰かに手紙を書きたいなあ、でも手紙を書く相手がいないんだよなあと思われたあなた!ごちゃまぜの家の(女子マネージャーの)面々が文通相手になりましょう!もしも「それならあたしも手紙を書いてみたいわ!」なんて思われた方がおりましたら、えりか姫か榊原仁美さんに直接ご連絡をいただけましたら幸いです。彼女たち、本日6000円分ものレターセット諸々を横浜のロフトで購買しております(予算は3000円だったのになにをどう間違えたのか倍額になった)ので、準備は過剰に万端です。なんだか色々なことを長々と書きましたが、要するに「なんらかのかたちでごちゃまぜの家に関わってくれるひとが増えたらうれしい!」ということになります。WEBの先には『生身の人間』がいます。表面的なものの奥にある『生身の人間』を感じ取ることができるような、そんなコミュニケーションが生まれることを願っています。

 

榊原仁美(つるの仁美)さんの連絡先

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【過去記事】生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。 - いばや通信

 

わたり文庫『楽しみは創り出せるものよ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ターシャ・テューダー著作『楽しみは創り出せるものよ』です。このシリーズの素晴らしいところは、ターシャさんの素晴らしい言葉だけでなく『ターシャさんの家の素晴らしい写真』も同時に楽しむことができる点にあります。もしもまだ『思うとおりに歩めばいいのよ』をご覧になっていない方は、何よりも先にそちらをお読みいただくことを激しくリコメンドいたします。素晴らしい本【人物】と出会えた一日には、それだけで「今日は素晴らしい一日になった」と思わせてくれる力があります。こちらの一冊をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※

 

わたしは花をあふれんばかりに咲かせるのが好きです。一種類の花に持ち金を全部つぎ込んで大量に咲かせてみると、それは豊かな気持ちになりますよ。 

 

素焼きの植木鉢があるだけで庭の雰囲気が変わります。手作りの鉢から、植物が元気いっぱい、こぼれるように育っている姿は何とも言えません。美的に相性がいいだけでなく、実際、素焼きの鉢に植えられた植物は生育がいいのです。素焼きの気孔と関係があるようです。

 

わたしは、いつも、何かしています。もちろん、嫌いではないので、座っておしゃべりもします。でも、人生について語る時も、自由やルピナスについて語り合う時も、手は動かしています。

 

わたしは、家中を花で飾るのが好きです。鳥かごの中にも小さな一輪挿しを入れてやります。鳥がついばんでしまうので、毎日、花を補充しなければなりませんけど。大事なお客様がある時は、居間に大きなアレンジメントを生けます。

 

一日の始まりは、風通しのいい明るい台所での朝食。摘みたてのイチゴにクリームをかけたもの、ハーブ入りのオムレツ、それにブルーベリーマフィン。摘んだばかりのイチゴほど、おいしいものはないと思うわ。

 

わたしはスープを作るのが大好き。週に最低一回は、大きな鉄鍋を薪ストーブか、冬の間は火を絶やしたことのない暖炉にかけて、コトコトと煮込みます。

 

わたしはジョージ・バーナード・ショーの次の言葉を座右の銘として生きて来ました。「人は自分が置かれている立場を、すぐ状況のせいにするけれど、この世で成功するのは、立ち上がって自分の望む状況を探しに行く人、見つからなかったら創り出す人である」

 

人を喜ばせ、人の役に立ち、自分もおもしろいと思う生き方をして来られたこと、これからもそのように生きていけそうなことを、嬉しいと思います。ー ターシャ・テューダー『楽しみは創り出せるものよ』【メディアファクトリー

 

頭がいいってことは、ひとの気持ちがわかるということ。

頭がいいということはどういうことだろうか。学校の勉強ができるということだろうか。豊富な知識を持っているということだろうか。自分にとって有利な道を選べるということだろうか。わたしは思う。頭がいいということは「ひとの気持ちがわかる」ということではないだろうか。どれだけ勉強ができたとしても、どれだけ豊富な知識を持っていたとしても、どれだけ有利な道を選ぶことができたとしても、それによって相手を小馬鹿にするような人間になってしまったら、自分は偉い人間なのだと傲慢になってしまったら、自分みたいになることを周囲に強要するようになってしまったら、そのひとは簡単に孤立をする。

 

 

人間にとって、普遍的なよろこびのひとつに「喜びを分かち合う」というものがあると思う。わたしがターシャさんの本をおすすめしたり、テントで眠ることをおすすめしたり、ごちゃまぜの家に関わるひとが増えたら嬉しいなあと思うのも、最大の理由は「喜びを分かち合いたい」と願うからなのだろう。どれだけ素晴らしい体験ができていたとしても、分かち合う相手がいなければ、よろこびはひとり分で終わってしまう。分かち合う相手がいる時、よろこびは増幅をする。だから、わたしはこうしてブログ記事を書くのだと思う。誰かと話してみたいと願ったり、誰かの話を聞いてみたいと思ったりもする。どのような感情だとしても関係はない、孤独もさみしさも悲しみも、分かち合えるひとがいる限り温もりを生むのだと思う。

 


頭がいいということは、多分、ひとの気持ちがわかるということなのだろう。ひとの気持ちがわかるということは、自分の意見を押し通す【相手に理解をしてもらう】ことではなく、相手の人生に寄り添う【相手を理解しようとする】ことなのだと思う。誰かに対して怒りや憎しみなどの感情を抱く時、多分、それは「相手についてまだ分かっていないことがある」ことのサインだと思う。怒りや憎しみなどの感情は、重い。胸の内に秘めているだけでも疲れる。きっと『すべてを知れば、すべてを許せる』ものだと思う。許せないということは、まだまだ理解が足りていないだけなのだと思う。そういうことを、テントの中で考えていた。テントの中は静かで、虫の鳴き声が聞こえる。虫の声を聞きながら「自分が好きだと思える生活を続けることができている、この日々を感謝したい」と思う気持ちが湧いた。誰に向けてなのかはわからない、ただ、こんな自分でもすきなように生きていられることをありがたいと思った。生きているということは、多かれ少なかれ「許されている」ということなのだろう。それならば、と思う。自分がこれまでの日々で許されてきた【許されている】ように、自分もひとを許せる人間でありたいと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BWFQBtUD9Ud/

何もなくても大丈夫。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。

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最近のテーマは「ルパン感を出して行こう!」ということで、ルパン三世を意識しながら生きている。ルパン感とは「風のように現れ、サッとお宝【それはあなたのハートです】を盗み、あっという間に過ぎ去ること」であり、わたしはこれを別名『ほの字狩り』と名付けている。出会うひとびとの心臓を射抜き、なんだか知らないけどキャー!【ほの字!】みたいな状態を作り上げた後に(半端な執着を残さないためにも)音速でその場を離れる。秋の季節は紅葉狩りちびっこギャングはおやじ狩り、我々いばや【坂爪圭吾】はほの字狩りということで、今後とも、隙さえあらば小粋な風を吹かせていきたいと思っている(とは思っているものの、常に「調子に乗ったら即死する」という自戒を忘れてはいけないのだと思う)。

 

 

一日一回は、いままでやったことのないことをやりたい。昨日、ごちゃまぜの家に来てくれた女性C様が「こんにゃく湿布」なるものを施してくれた。鍋にお湯を沸かして10分程度湯煎したこんにゃく2袋を(袋のまま)タオルに包み、丹田&肝臓周辺に置いて30分寝る。その後、うつ伏せになった状態で仙骨&背骨周辺(?)にこんにゃくを置いて再び30分。極楽の温泉体験に並ぶ気持ち良さが尋常ではなく「これは金を獲れるレベルだぞ!(マッサージみたいに自分のカラダを動かす必要もないから疲れることもないし)えりか姫、やれ!」と命令をした。えりか姫も「これはやばいですね!」とご満悦だ。えりか姫にはガシガシと働いていただき、今後はごちゃまぜの家の大黒柱になっていただきたいと思う。菊名の家を「Retreat KIKUNA」とか名付けていい感じに仕上げたら、いよいよいい感じになるのかもしれない(なんて思いました。みなさまもお試しあれ!!)。

 

【イベント情報】【2th「Yabaival days!!」/TPD48】

 

「こころの充足感」を与えるもの。 

菊名の庭をハイパーオーガニックガーデンと名付け、花を植えたり野菜やハーブを育て始めている。この時期の湿気は苦手だけど、植物を育てていると(水やりをする手間も省けるから)梅雨も悪くないなあと思う。ぐんぐん伸びる野菜の成長を眺めていると、静かな安らぎに満ち溢れる。巷で言われ過ぎていることだけれど、人間を幸せにするものはモノでもカネでもなく「こころの充足感」なのだと思う。目覚めの珈琲を淹れる時間、土をいじっている時間、焚き火用の小枝を拾い集める時間、こどもの笑い声を聞いている時間、歌を歌う時間、ひとと話す時間、踊りを踊る時間、料理を作る時間、愛するひとと抱き合っている時間、ロウソクの灯りに囲まれた時間、虫の声を聴きながら夜空を眺めている時間、など、静かな充足感を与えてくれるものは「お金のかからない」ものが多いことに気がついた。

 

 

夢や目標を持つことは悪くない。高い志を抱くことは結構なことだ。ただ、遠くにあるものを追い求め過ぎるあまり、手元がお留守になってはいないかと、自分に感じることがある。他人【理想の自分像】との比較がモチベーションに繋がる場合もあるとは思うけれど、基本的に「比べる限り負け続ける」ものだとわたしは思う。他者との比較で実力を語ったり悦に入ることほど、愚かなことはない。人間に価値があるとすれば、それは自然と同じように(相対的なものではなく)絶対的なものだと思う。何かあるからすごいという訳でもなければ、何かがないからダメだという訳でもない。普遍性とか本質などと呼ばれるものの真価は『不増不減』のものであり、ただ、自分は自分以上でもなければ自分以下でもないのだと真っ直ぐに感じることができた時、はじめて「(他の何者でもない)自分であること」を誇りにすることができるのだと思う。静かな充足感は、そういうことを教えてくれているように感じている。

 

手紙とはな。

これまでの人生の中で、ああ、この習慣は素晴らしいなと思えるものがふたつある。ひとつは「わたり文庫」の活動で、わたり文庫の当選者の方には(毎回という訳じゃないけれど)本と一緒に季節の花や紅茶の袋を香り付けに添えてみたり、チョコやクッキーなどのお菓子を同封したりしている。わたり文庫の当選者の方からお返事の手紙をいただくこともあり、この年になるとなかなか手紙をもらう機会もないものだから、小包を開ける瞬間はまるで「クリスマスのプレゼントを開封するこどもの気持ち」みたいなものが蘇る。手書きの文字には、メールにはない温度【温もり】がある。だからなのだろうか、わたり文庫当選者の方や届いた手紙の返事を書いている時間は、ああ、なんだかこれは非常に素晴らしい時間(絶対に途絶えさせてはいけない時間)だなあと思う。

 

もうひとつは「おはなをあげる」という習慣。わたしには、余裕がある時期限定で(特別な理由は何もないけれど)出会うひとびとにおはなを配る癖がある。おはなを配っていると、想像以上に喜んでもらえることが多い。なかには涙を流すひとまでいる。わたしには財力がないので、高価なダイヤモンドを購買する余裕はない。ただ、おはななら買える。安いものなら一輪百円程度からある。おかねをおはなに変え、出会うひとびとに配布をする。いい感じの空気が流れる。はなの威力は素晴らしいものがあると思う。これからも隙さえあれば「おはなをあげる」営みを続けていきたいと思うし、何かしらピンと来るものがある方は、このあとすぐにでも誰かに手紙を書いたり実際におはなを渡してみたりしてもらえたら嬉しい(と思う)。 

 

菊名の家は現在も絶賛準備中で、少しづつではあるけれどお客様を出迎える体制(?)も整ってきた。菊名の家を見てみたいという方は、現在管理人を務めているえりか姫か榊原仁美さんに直接ご連絡をいただけましたら幸いです。遠方にお住いの方は、えりか姫や榊原仁美さんが謎の文通相手(?)になる可能性も充分にあり得ますので、そちらも前向きにご検討ください【こんなことを言うと非常に図々しいことこの上ないのですが、我々、差し入れをいただけた瞬間は飛びあがるほどよろこびます!!参考(あくまでも参考!)までに、えりか姫の好物は珈琲豆、榊原仁美さんの好物は果物全般、坂爪圭吾の好物は植物全般となっております!!】。

 

さかつめけいごの連絡先

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たかやまえりかの連絡先

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さかきばらひとみ(つるの仁美)の連絡先

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【参考記事】ラプンツェル仁美の懺悔室♡クズでごめんなさい - 地球に生息する榊原の一種

 

幸福とは「感謝」である。 

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わたしが不在の間、ごちゃまぜの家を訪問してくれたお母様方とこどもたちの写真が届いた。こどもたちの姿がまぶしい。家に小さなこどもたちが来てくれるということは、まるで、自分が作った庭に蝶が遊びに来てくれたように嬉しい。大袈裟な表現になるけれど、こどもたちを見ていると「これが未来だ」という気持ちになる。こどもたちの笑顔がゆっくりと削られてしまう世の中ではなく、こどもたちの笑顔がいつまでも続く世の中になればいいと思う。

 

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写真を見ながら、なぜだかちょっとだけ泣けた。いろいろなことをやっているといろいろなことが起きて「いろいろなことがあるなあ…いろいろなことがあるなあ!!」と軽いダメージを喰らうこともあるけれど、このような瞬間を目撃させていただけると「ああ、素晴らしいじゃないか…人間って素晴らしいじゃないか…!!」という気持ちになる。大袈裟な言葉になるけれど、肯定されたようなうれしさと、報われたようなよろこびと、自分がやっていることに間違いはなかったのだと思えるこころ強さをもらった。そして『感謝と幸福は同義である』ということを思った。感謝をしろと言われてやらされる感謝はあんまり好きじゃないけれど、内側から「感謝をせずにはいられない!」と湧き上がる、この瞬間の幸福感にはたまらないものがある。

 

【過去記事】好きなひとに嫌われても、自分を選ぶ覚悟。 - いばや通信

 

わたり文庫『生きていることを楽しんで』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、引き続きターシャ・テューダー著作『生きていることを楽しんで』です。先日、ターシャ・テューダーを愛する方とお話をさせていただいた際に、その方が「ターシャさんには、女の一生【すべて】がはいっているような気がするんです。赤ちゃんのようでもあり、少女のようでもあり、処女のようでもあり、お母さんのようでもあり、おばあちゃんのようでもある、ターシャさんの表情にはそのすべてが詰まっているみたいだなって思うんです」と話してくれて、わたしは「おお…まじだ…」と思いました。ターシャさんのような人間の存在に触れると、人間はいくらでも「素晴らしい形で年齢を重ねることができるのだ」と思える希望の力をいただきます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

世間を騒がすような嫌な事件は、いつの時代にもありました。そのようなケースは、ほんとうは少数なのに、メディアが大々的に取り上げるものだから、そこまで事件を起こさない人までもが、それをお手本にして行動してしまうのではないかしら。まともな生き方は、ニュースにはならないけれど、そちらのほうが大多数であることを、信じましょうよ。

 

親が、自分ができなかったことを、子どもにさせてやりたいと思う気持ちはわかりますが、その結果、子どもに干渉しすぎるようになっているのは残念なことです。子どもは、のびのびとした楽しい子ども時代を過ごし、その間に自分で感じ、考え、夢を見、決断し、実験する必要があるのです。子どもは大人のミニ版ではないのですから。

 

近しい人の死や、かわいがっていたペットの死は、これきりもう会えないのだと思うと、生前のことがいろいろと思い出され、悲しみにくれました。でも、この世は生きている人のものだと、気づいたのです。生きている人に必要とされている自分、その人達なしでは生きられない自分に。

 

「美は見る人の目の中にある」と言います。醜い考えを排し、そばにいる人に愛を施し、思いやりある行動をとっていれば、それを見る人の目には、あなたの周囲が美に満ちている、と映るでしょう。

 

生きていれば、落ち込むこともあります。状況を好転できると思ったら、ぜひ努力すべきです。でも、変えられないなら、それを受け入れて歩み続けるしかありません。何があっても「生きていることを楽しもう」という気持ちを忘れないで。ー ターシャ・テューダー『生きていることを楽しんで』【メディアファクトリー

 

生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。

誤解を恐れずに言えば、人間の役割や使命や意味なんてものは実はなくて、あるとすれば「自分を楽しませること」とか「自分を幸せにすること」くらいだと思う。逆に言えば、どれだけ素晴らしいとされていることをしていたとしても、自分がそれによって窮屈そうに生きていたり、他人に犠牲を強いてしまったり、何よりも自分自身が無理をしてしまっていては、その『無理をしている感じ』は空間に思い切り反映をされる。主催者が自由な精神の持ち主であれば、空間全体にも自由な精神は反映をする。主催者がガッチガチのギッシギシであれば、空間全体もガッチガチのギッシギシになってしまう。わたしはガッチガチのギッシギシな空間があまり好きではないために、一応、ごちゃまぜの家の主催者としては「まずは自分を楽しませる(もっともらしいことを言うのはその後だ!)」ということを繰り返し思う。

 

 

わたしは過去に大学を辞めた。大学を辞める時は、周囲のひとから「辞めて何をするの?」と五億回は問われた。わたしは「やりたいことがあるから辞めるんじゃなくて、やりたくないから辞めるんだ」と答えていた。理解されることは少なかったけれど、あの時に辞めて本当に良かったと思う。責任【無責任】とは何だろうか。わたしは思う。責任とは「自分を生きる覚悟」ではないだろうか。何かをはじめることと同じくらい、何かをやめることには勇気がいる。しかし、その勇気を通じてしか得ることのできない覚悟が、多分、ある。わたしには、そのように感じることがこれまでも頻繁にあった。

 

 

自分であること以外に、何があるだろうか。自分を生きるということは、これがあるから安心だとか、これがあるからきっと生きていけるだとか、自分の外側に張り付いている諸々の条件を取り除いたあとに残る「何もなくてもいい【生きているだけでいい】」と思える状態だと思う。わたしは思う。生きているということは、生きているというまさにそのことにおいて、まるで『奇跡』みたいなことなのだと思う。耳が聞こえること。目が見えること。足があること。腕があること。友達がいること。家族がいること。電車に乗ること。酸素があること。言葉を話すこと。料理を作ること。季節が巡ること。草木が茂ること。果実が実ること。心臓が脈を打つこと。ひとを好きになること。ボールを投げること。ボールを受け取ること。今夜眠る場所があり、着る服があり、明日食うに困らない金があるということ。見出そうと思えば、ありがたいことは無限に転がっている。自分にはこの肉体とこの精神しかないのだから、ないものを嘆くよりも、あるもので生きる。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。この瞬間は常に最初で最期、今日の自分【世界】は今日だけのもの、明日には二度と取り戻すことはできないのだから、自分は自分をまっとうして死にたい【生きたい】のだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BV3vPq7jhSR/

光にあふれている。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu