いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

すべての瞬間に終わりがある。

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熱海のデニーズにいる。昨日、相模湖畔で壇珠さん(ミユさん)にお会いした。私が、音楽を始めるきっかけを与えてくれた女性だ。小生、シャイニングなシャイボーイであるために、話したいことがあったはずなのにまったく言葉にならず「話したいことがあったはずなのにまったく言葉になりません」とか、そのまんまのことを話した。実は、伝えたい言葉なんて「あなたにあえてよかった」とか、その程度だと思う。いつの間にか生まれてきて、あっという間に死ぬ前に、あなたにあえてよかった。あなたにあえたおかげで、自分にも、生まれてきたかいがありました。

 

 

おおまかなスケジュール

8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
8月31日 13時 Shanti Day@東京都新宿区四谷「シアターウイング」
9月9日 20時頃 命を賭けているライブ@東京都武蔵野市吉祥寺「曼荼羅」

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あなたにあえてよかった。

相模湖畔に続く坂道が急で、滝汗が流れた。息を切らしたミユさんが、いきなり「わたしは死ぬと思います」と言った。ミユさんは結構頻繁に死ぬと言う。私も、結構頻繁に死ぬと言う。それは「いつか死ぬね、俺たち」という真理を確認し合っているようで、悲壮感はない。ただ、清々しさだけがある。地球というテーマパークに生まれて、開園から、閉園までの時間を過ごす。楽しいという乗り物に乗ったり、悲しいという乗り物に乗ったり、嬉しいという乗り物に乗ったり、切ないという乗り物に乗ったり。そして、最後、終わりの時間が来た時に「ああ、愉しかったね」と言って、テーマパークを離れる。それまでの時間を、一緒にキャッキャキャッキャ言いながら遊んでいるこどものような気持ちに、ミユさんといると、なる。

 

 

前に『わたしを忘れないで』という曲を作った。この曲の前半に「本気で人を愛すること、それは命を賭けること」という歌詞がある。そして、後半に「天国にもっていけるのは、愛し愛されたメモリー」という歌詞がある。死を歌うことは、生きることを歌うことと似ている。生まれてきて、生きて、死ぬ。そのなかで、ひとと出会い、ひとと出会うことで「自分にも生まれてきたかいがあった」などと思う。人間は、多分、二回死ぬのだと思う。肉体が滅びたときと、忘れられたときだ。もしよかったら、この曲を、聞いていただけたらうれしいと思う。自分が、自分を、忘れてしまうことがある。自分が、自分を、置き去りにしてしまうことがある。

 

 

ああ、これのためにあったのか。生きていると、そう思うことがある。腹が立った記憶も、音楽に生かされると「ありがとう」となる。横浜の家には、ピアノがある。ただ、誰もピアノを弾けるひとはいなかった。だから、ある種の粗大ゴミみたいになっていた。しかし、最近、りゅーちゃん(19)が一緒に音楽をやれることになり、日の目を見た。日の目を見る。素敵な言葉だ。ただ、やりたい。ただ、歌いたい。ただ、そうしたい。そう思ったことが、結果的に「これのためだったのか!」と何かに繋がることは多い。家のない生活をはじめたおかげで、人々と出会った。ごちゃまぜの家をはじめたおかげで、活動拠点を得た。音楽をはじめたおかげで、自分を思い出すことができた。いま、やっていることが、どのような影響を生み出すのか。みんなが、みんなの全部が、日の目を見ることができたらと思う。

 

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すべての瞬間に終わりがある。

すべてに終わりの瞬間がある。私は、今朝、熱海の家で目を覚ました。顔を洗い、着替え、原チャに乗ってデニーズに向かう。パソコンを開き、Wi-fiを拾い、文章を綴る。この記事を書き終えたら、適当な食料を買って家に戻り、本を読み、音楽を作り、夜は温泉にでも行くのだろう。当たり前の日常だが、当たり前ではないな、とも思う。この日常も、この風景も、来年の今頃はまったく変わっているかもしれない。大事なものが、いつまでもそばにあるとは限らない。すべてに終わりの瞬間がある。失ってから気づくには、あまりにも遅すぎるものたちに、いま、囲まれながら生きていることの当たり前を思う。終わりを感じることは、切ないことだ。

 

すべてに終わりの瞬間がある。人生で最後の今日がはじまり、人生で最後の今日が終わる。今日の自分は今日で最後、もう、明日には別の自分になっているのだ。人生は何度でもやり直せる。そう思う。同時に「人生は取り返しのつかないことの連続だ」とも思う。流れているのは、時間か、自分か。永遠にはここにいられないからこそ、言葉を綴ったり、写真を撮ったり、音楽を作ることで「いまを永遠にする」ことを目論む。言葉を探すことで、目を凝らすことで、思いを馳せることで、永遠に手を伸ばす。忘れないように。いつでも思い出せるように。切ないということは、大切であるということだ。切なさが大きいほど、それは、大切なものだ。

 

すべてに終わりの瞬間がある。地球というテーマパークに生まれて、開園から、閉園までの時間を過ごす。楽しいという乗り物に乗ったり、悲しいという乗り物に乗ったり、嬉しいという乗り物に乗ったり、切ないという乗り物に乗ったり。そして、最後、終わりの時間が来た時に「ああ、愉しかったね」と言って、テーマパークを離れる。私たちは、いま、二度と戻らない時間の中にいるということ。当たり前のこととしてではなく、愛しさと共に、郷愁と共に、思い出される時間の中にいるということ。生きるということと、すべてに終わりの瞬間があるということ。終わりを大事にするということは、いまを大事にするということだ。いまを大事にするということは、自分を、自分を含めた「世界全体」を大事にするということだ。今日の自分(あなた)は、今日で、最後。しっかりと、見届けてやりたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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生きる。自分も他人も凌駕するほど。

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菊名駅前のコロラドにいる。今日で、音楽をはじめてちょうど半年が経過した。開始時に「一年後にどこまで行けるか見てください」と大風呂敷を広げた。自分に重圧をかけた方が、本気で取り組むと思ったからだ。半年間で118曲作り、23回ライブをした。比較的、怒涛(苦悶)の日々だった。一曲一曲に自分の血と汗と涙を感じるため、日々が濃厚になった。いい曲ができたときは、何者かに感謝をしたくなった。神様はいる。そう思うこともあった。残りの半年は、外に出る、世に出る、ということを意識したい。残り半年で、私たちはどこまで行けるのだろうか。 

 

 

おおまかなスケジュール

8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
8月31日 13時 Shanti Day@東京都新宿区四谷「シアターウイング」
9月9日 20時頃 命を賭けているライブ@東京都武蔵野市吉祥寺「曼荼羅」

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半年間を終えて。

普通、なにかをやるときは「上手になってから」人前に出る。だが、我々は「へたくそなら、へたくそなままの自分を見てもらう。そして、そんな我々がどのように進化をするのか、リアルタイムのドキュメンタリーみたいな感じで楽しんでもらおう」と思い、未熟な段階からライブを重ねた(動画の公開も続けた)。上手な人間だけが音楽をやれるわけじゃない。へたくそだって、なにかをやりたいと思う気持ちがあるなら、やっていいはずだ。否、やるべきである。そう思い、率先してダサい姿をさらした。罵詈雑言のシャワーも結構浴びたが、1000人に1人くらいは「感じるものがありました」と感想をくれた。精神病棟で長期入院中の女性から、我々の音楽を聞いて「三年ぶりに笑いました」と連絡をもらったときはうれしかった。

 

 

音楽を楽しめない時期もあった。その理由は「うまくならなければならない」と思っていたからだ。技術がなければ恥ずかしい、技術がなければ人前で演奏をする資格がない、という風に思っていたからだ。しかし、違う。我々の土俵は、技術ではなく『純度』だ。技術があるから感動するわけではなく、技術がないから感動しないわけでもない。私は、私の純度を、言葉や音楽に注ぎこみたい。無論、濁ることもある。大概は濁っている。それでも稀に「ああ、これは本当にその通りだ」と思える言葉や音に出会う。そういうときに、音楽の神様を感じる。この曲(言葉)は、自分が作ったものではない。自分を『通じて』生まれたものだ。自分はただのパイプであり、自分を通じてなにかが生まれたとき、いい作品ができたと感じる。

 

 

音楽は継承である。吉祥寺で音楽スタジオを経営している男性が、言った。坂爪さんは色々な曲を作っていると思うけど、そのどれもが『継承』なのだと思う。歌詞も、メロディーも、まったくのゼロから生まれたものではない。過去に、似た音楽や、似た言葉を、残している人々はきっとたくさんいる。それを、坂爪さんが『継承』しているのだと思う。これは、パクっているとかそういう悪い意味ではなく、大事だと思うものを、大事だと思い続けるために、音楽を通じて『継承』をする。僕は、音楽ってそういうものだと思っています。と。この言葉は、その通りだと思った。私は、私が過去に見た光を、未来に継承するために現在を生きているのだと感じる。その光とはなにか。それを忘れたくないと思い、バンド名に『Agape』と付けた。アガペーという言葉には、無限の愛という意味がある。そこには「罪人である人間に対し、神が注ぐ自己を犠牲にした愛」という意味合いが含まれている。

 

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わたり文庫『銃口(上・下)』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『銃口(上・下)』です。私は、キリスト教とロックンロールに大きな影響を受けて育ちました。これらの共通点は「弱者に対して、優しいこと」だと思います。基本的に、私は「自分なんか生きていても仕方ない」みたいなことを思いながら、多感な時期を過ごしていました。そんな中、自分が好きだと思うものたちは、そんな自分に「生きててもいいよ」と言ってくれているものたちでした。三浦綾子さんの著作からは、過去、幾度となく力を貰いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は北海道にわたりました ※※※

 

今、竜太は庭を眺めながら、故郷というものの不思議さを思った。人間に故郷のあることは、何と幸せなことだろうと思った。ふるさとを思う時、人間は不思議に心素直になるのだ。自分という命がそこに生まれて、そこに育つ。それは人間にとって、決して小さなことではない。それにしても、いったいその命はどこから来て、どこに行くのだろうか。この命は果たして自分自身だけのものなのだろうか。ぞんざいに扱ってよいものなのだろうか。自分の命には負わされた使命というものがあるのではないか。竜太はふっと、死んだ坂部先生を思い出した。先生は、あの旭川の警察署で、最後の別れとなった時にも言われたのだ。

「竜太、自分にとって最も大事なこの自分を、自分が投げ出したら、いったい誰が拾ってくれるんだ」

その声が、今また鮮やかに竜太の胸に蘇った。竜太は大きな力を坂部先生から与えられたような気がした。留置所に入れられていた時も、出所後も、軍隊に入ってからも、竜太はしばしばむなしさに襲われた。幾度か自分を投げ出したい思いに駆られた。が、その度に先生のその声が、竜太を我に返らせたのだった。先生の声こそ、竜太にとってふるさとの声でもあった。

三浦綾子銃口(上・下)』【小学館文庫】

 

生きる。自分も他人も凌駕するほど。

私の最終学歴は東京都立大学(退学)だが、在学中、大学の寮で暮らしていた。家賃は6畳1間(トイレと風呂は共同)1万円程度と安く、貧しい家庭に育った人間だけが暮らせるという条件があった。私はその条件を軽やかにクリアし、そこで「たもつ」という男性と出会った。我々は法学部で、我々は貧しかった。コンビニでバイトをしていた私は廃棄食品をたもつの部屋に運び、たもつは、居酒屋で働いて得たなにかしらを私の部屋に運んだ。我々は、それを「お宝山分け大作戦」と名付けていたが、要するに、貧しさを支え合うことで乗り切っていた。別に悲壮感とかはなくて、楽しかった。楽しかったが、時折、たもつと語り合うことがあった。

 

ある日、たもつに聞いた。普通の大学生は、今頃、飲み会などでどんちゃん騒ぎだ。親からの仕送りもあるから、働く必要のない人間も大勢いる。そんななか、俺たちは教科書代を稼ぎ出すために働かなくちゃならないし、たもつに限っては(弁護士になりたいと思っていたたもつは予備校に通う必要があったから)予備校代も捻出しなければいけない。俺たちが働いている間も、他の人は遊んだり、弁護士になるための勉強をしている。たもつは、そんな俺たちのこの状況を、ハンデみたいに感じることはないのか。と。すると、たもつはいい感じの笑顔を浮かべながら、こう答えた。俺は、これをハンデとは思わない。居酒屋で働いている経験も、いつか、必ず活きる日が来ると思う。いい弁護士になるには、弁護士になる勉強だけをしていては、いけないような気もするし。と。この言葉に、私は「なんと素晴らしい友をもったことか!」と、感動した。そして、見事、たもつは(怒涛の日々を重ねた果てに)現役で司法試験に合格をした。私は、結果的に大学を退学することになったので、それ以降、それほど我々は会うことはなくなった。ただ、いまでも、たもつを思い出すと「俺も、頑張らなきゃいけねえな」みたいな気持ちになる。

 

人間の生き方は連鎖をする。怠惰な姿勢は、怠惰な心を連鎖させる。前向きに生きる姿勢は、前向きな心を連鎖させる。自分がここまで生きてこれたのは、周囲に「前向きに生きようとする人間」がいたからだ。環境に恵まれていたからではなく、過酷な状況のなかで、それでもなお「俺はやるぞ」と前を向くことを諦めなかった人間たちに、私は、励まされてきたように思う。貧しさは、人間をダメにすることもある。しかし、貧しさが人間を鍛えることもある。あらゆる環境は、その環境を「人間自身が、どのように生かしていくか」によって、良い環境にもなれば、悪い環境にもなるのだろう。恵まれた環境とか、恵まれた社会とか、恵まれた能力とか、きっと、全部幻想だ。大事なことは、自分が「それをどう生かすか」なのだろう。それは、いま、ここにある自分を「これが自分という人間なのだから、さて、どういう風に生かしていくか」と、できる限り本気で考えて、失敗を恐れず、無理解を恐れず、できる限り本気で実践することなのだろう。真面目に生きようとすることは、かっこ悪いことなのかもしれない。もっとさらっと、もっと余裕で、もっとなんでもないことのように、なにかをやれることのほうがかっこ良いことなのかもしれない。ただ、私は、無様でも、不器用でも、真面目に生きようとする人間のかっこ悪さや愚直さに、生きることのひたむきさ、生きることの尊さを見る。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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幸せになると決めただけ、幸せになる。

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アピタ新潟西店のキーズカフェにいる。さっき携帯会社a○と揉めた。違約金とかうんこだと思う。実在しない物件をオトリに集客する不動産、不安を煽って稼ぐ保険会社、見栄だけの結婚式場、入場料金とは別途でかかるドリンク代、飲食店のサービス料とか、全部、うんこだ。安く見せかけて、高く取る。これが、まるで商売上手みたいに言われるが「詐欺師と同じ」だと思う。家族を守るためには嫌な仕事も仕方がない、と言う人もいるが、それは「家族を守るためには強盗も仕方がない」と強盗犯が言うことと似ている。思わず「資本家の手先め」と言ってしまった。

 

 

おおまかなスケジュール

8月9日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
9月9日 20時頃 念願の吉祥寺ライブ@曼荼羅(詳細は決まり次第更新します)

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卑怯な人間だけにはなるなよ。

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新潟の空


結婚できるか謎だが、子育てのシミュレーションだけは準備万端だ。「まず、諦めてもらう」ことを大事にしたい。自分のこどもに生まれたことが運の尽き。まず、最初にそう言いたい。学校は、行かないでいい(個人的にランドセルの値段が気に食わない)。iPad一台あればきっと自宅学習は可能だから、あとは「自分で学べ」と言いたい。子育てに平均2000万かかるとか言われているが、従う必要はない。全部、自力で行ける。通常なら20歳で成人するところを、我が家では10歳成人説を採用したい。10歳になったら、一人前の男(女)だ。男なら、元服式をやる。適当な島に放り投げて「生きて帰ってこい」と伝え、野営道具と釣り道具だけを渡し、数日間生き延びてもらう。きっと、帰ってくる頃には顔つきも変わっているだろう。

 

この前、いい話を聞いた。漫画家のYさんは、中学時代に「自分は絵で生きていきたい」と確信した。しかし、学校の先生から「絵でごはんは食べられませんよ」と言われ、まあ、よくある反対をされた。しかし、彼女の母親は違った。14歳のYさんに「これでルーブル美術館を見てこい」と言って、フランスの往復航空券とまとまった金額をYさんに渡した。結果、Yさんは14歳という若さで1ヶ月間の欧州旅行を果たし、いま、漫画家になっている。こういう母親を素敵だと思う。『ドリームキラー』という言葉がある。学校の先生のように、善意の仮面を被って「他人の夢を殺す」人々は多い。ドリームキラーのメカニズムとして、彼らは、自分よりも意識の高い人間を見ると『居心地が悪くなる』という構造がある。目標を低く設定しているひとや、固定観念に縛られているひとは、そうではない人といると居心地が悪くなるのだ。そのため、引き摺り下ろすことに命を燃やす。ドリームキラーに惑わされちゃいけない。我が子には『ドリームキラー・キラー』になって欲しい。

 

人間には素晴らしい創造力と想像力がある。しかし、ダサい年齢の重ね方をすると、言い訳や言い逃れをする時にだけクリエイティブな人間になる。お金がない。時間がない。自信がない。勇気がない。能力がない。そんな言葉を言っているうちに、あっという間に人生は終わる。死に際に「I'm an old man filled with regret waiting to die alone」と言う羽目になる。これは最悪だ。繰り返すが、我が子には『ドリームキラー・キラー』になって欲しい。それは、自分の中にいるドリームキラーをぶっ壊すという意味合いもある。他の誰でもない、自分が自分に「無理だよ」と言うことがある。その言葉を、ぶっ壊してほしいと思う。そのためにも、まず、親自身がそういう生き方をできていなければ、言葉が嘘になる。真剣に生きていないおとなが、一体、こどもになにを教えられると言うのだろうか。おとながかっこよければ、こどもは生きることに希望を見る。おとながかっこわるければ、こどもは生きることに絶望を見る。純粋なこどもの眼差しは、常に、おとなを問う。

 

note.mu

 

幸せになると決めただけ、幸せになる。

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音楽をやっていると思う。手段と目的は、本来、同じものだ。私には、音楽でどこかに行きたいという思いがない。そりゃあ、有名になったら面白いだろうなとか、有名人と知り合えたら面白いだろうなとか、Mステに出演したら面白いだろうなとか、思うことは思う。ただ、それは『おまけ』に過ぎない。音楽をやりたいと思う。そして、音楽をやる。以上。音楽をやりたいと思うことがスタートで、実際に音楽をやることがゴールならば、我々は毎日ゴールをしている。それは、結成したばかりのバンドが、めちゃめちゃ下手くそな状態で最初の一音を合わせた瞬間と、同じだ。あの瞬間の感動。あの瞬間の興奮。『いま』にすべてがある。やりたいと思ったから、やる。ただ、それだけのことだ。御託を並べ始めると、人間はおかしいことになる。携帯を売りたいから携帯を売る。そんな人間はレアだ。金のため、生活のため、上司に言われたから、そういう決まりだから、売ると褒美がもらえるから、売らないと叱られるから、そういう外部的な要因で、人間は簡単にぶれる。

 

俺の人生、所詮、そんなものだ。そう思う男の人生は、所詮、そんなものの人生で終わるだろう。いや、違う。自分には、きっとやれることがある。そう思う男の人生には『可能性』が生まれる。意外と、全部、自分が決めている。自分が「自分は幸せだ」と思えば、自分は幸せになる。自分が「自分は不幸だ」と思えば、どれだけ金があろうが、どれだけ健康だろうが、どれだけ環境に恵まれていようが、簡単に不幸になる。全部、自分が決めている。だからこそ、私は「仕事とはそういうものだ」と、悪い意味で決めつけられているものを見ると腹が立つ。ふざけるな、と、思う。お前の人生は、確かにその程度だったかもしれない。しかし、お前と俺を一緒にするな。過去の統計がどうだったかとか、知らない。その統計のなかに、俺は含まれていない。なぜ、そこに怒りを覚えないのか。なぜ、そんなところで甘んじるのか。怒りを忘れた猿なのか、とか、思うことがある。怒りは、歓迎されない感情だ。しかし、怒りを忘れた猿になるくらいなら、私は「死にたい」と思う。

 

誤解を恐れながら言うと、多くの人々は「人並みであること」に命を燃やしているように見える。要するに『見栄』だ。そして、人生を退屈にさせるものも、同じように『見栄』である。多くの人々が欲しがるものが、自分も欲しいものであるとは限らない。多くの場合、実は、自分はまったく興味がないものだったりする。それを「もっていないと恥ずかしい」みたいな理由で、欲しがる気持ちは精神的に貧しい。もし、いま、なにかに挑戦をしているひとがいたら、そのひとは「悔しさ」や「不安」や「苛立ち」にまみれていると思う。それは、正常な働きだと思う。いま、社会的なあれこれは、あなたに「諦めろ」と言うメッセージを放ち続けている。個人的な夢なんか捨てて、みんなと同じになれば楽になれるよ。みんなと同じになれば安心できるよ。みんなと同じになれば笑顔で生きることができるよ。などなど。しかし、もちろん、そんな言葉は、嘘だ。「みんな」なんていない。もし、自分が、誰かと同じであることを目指すのならば、それは自殺と同じである。どこにもいない『みんな』に合わせて生きるとき、残るものは、平均的な人間になることを成し遂げた自分ではなく、もう、何者でもなくなった『生きる屍』だと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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何度でも、何度でも、はじめるんだ。

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アピタ新潟西店のキーズカフェにいる。お前、金ねえとか言ってるくせにカフェとか行ってんじゃねえよという罵声が聞こえるが、いいのだ。作詞も執筆も全部カフェだ。炎天下じゃ書けない。我輩は必要経費だ。回収の見込みはない。自分みたいな人間が生きていてもいいのか、と、頻繁に感じるが「いいのだ」と言う。自分が自分を肯定できただけ、他者を肯定できる。「自己投資」とか「自分を売り込む」という言葉を聞くが、嫌いだ。人間は商品じゃない。ターゲットという言葉も、嫌いだ。人間は標的じゃない。奴隷でも家畜でも機械でも、ない。人間は、人間だ。

 

 

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8月5日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
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挑戦しないで、何が人生だ。

人間は「応援したい」生き物だと思う。誰かが頑張る。誰かの頑張りに触発されて、よし、自分も頑張ろうと思う。あるいは、誰かの頑張りを通じて「うおー」と、自分の中に眠るたぎる命の存在に気付く。前に、自転車で横浜から長崎に行った。1日100㎞程度しか進めなかったが、読者の方から「いまも坂爪さんは同じ空の下を自転車で移動しているのだなあ、と考えるだけで励みになります」と言われた。この感覚は、とてもよくわかる。いま、この瞬間もあいつは挑み続けているのだろうな、と思える感覚は素敵だ。思わず応援をしたくなるようなチャレンジをする。誤解を恐れながら言うと「挑戦しないで、何が人生だ」と思う。挑戦は楽しい。創意工夫に満ちている。と言う訳で、私は、音楽を通じて挑戦をしている。

 

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愛する秀眞君が個展@岡山を開催中だ。漁夫の利的なあれで、Agapeが紙面デビューを果たした。素晴らしい。どんどん頑張ってほしい。頑張りは伝染する。成功は副産物で、挑戦そのものが娯楽になる。我々は音楽ど素人で、日々、罵詈雑言を浴びながら音楽活動を頑張っている。罵詈雑言の内容を分析すると「へたなくせに音楽をやるな」ということになるのだが、私は、微妙なことを言ってんじゃねえよと思う。ありがちな罠のひとつに「上手じゃなければ発表してはいけない」というものがある。違うだろ、と、思う。万物は、万人に開かれている。やりたければ、やればいいのだ。上手になってから発表するのではなく、上手になっていく過程を、へたくそならばへたくそな状態のまま「ここからがスタートです!」と、どんどん出して行けばいいのだと思う。そうでなければ、スタートすることのハードルが高いままだ。やった人間は尊い尊い人間をこき下ろす人間の精神性は、哀しい。

 

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応援されるためにやっているわけじゃないが、応援をされると(やっぱり)うれしい。応援をしてほしいと思う。我々を。我々は、素人集団でありながら「頑張ればMステくらい出れるんじゃねえか」と思っている。我々がMステに出たら、笑ってくれるひとは結構いるんじゃないかと思っている。笑ってほしいな、と、思う。あいつら、本当に出やがった!と。愉快な気持ちになってほしい。痛快な気持ちになってほしい。こんなにへたくそな俺らでも、ここまで来れたよ。と。そんな感じの言葉を言いたい。だからこそ、へただから音楽をやるなという批判の、退屈さを思うのである。逆だろ。と。へたな奴らが、世の中から見捨てられたような連中が、圧倒的弱者が逆転ホームランをかっ飛ばすからこそ、人生は面白いのだろう。と。

 

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何度でも、何度でも、はじめるんだ。

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初対面のひとに「今世の調子はどうですか?」と聞くことが趣味だ。最近の日々とか狭い範囲ではなくて『今回の人生』という、大まかな枠で会話をすることが好きだ。人間、やはり、使命があるように思う。私の場合は「予定調和を破壊する」瞬間に生き生きとする。クラッシュ・アンド・ビルド(破壊と創造)という言葉もあるが、創造は、あまり得意じゃない。0から1は好きだが、1から100の集中力に欠ける。破壊だ。破壊することは好きだ。愛のある破壊。しがらみから解き放つ破壊。人間を自由にするための破壊。できれば、そういう破壊でありたいと思う。

 

まずはひとり。仲間ができたらとかではない。準備ができたらとかでもない。最初はひとりでもやる。そして、出す。無視されても、罵倒されても、出し続ける。自分の世界に閉じこもるのではなく、外側の世界にコンタクトを続ける。ボールを投げ続ける。まずはひとり。100人いても『たったひとり』を大事にする。大衆に向けるのではなく、たったひとりの人間に向ける。99人が呆れても、1人が笑うなら俺達の勝ちじゃねえか。と。99人が素通りしても、1人が涙を流すならそれが俺達の価値じゃねえか。と。そう言う言葉を言うと、必ず、こういう感じの言葉を言われる羽目になる。「プロなら、100人全員笑わせてみろ」と。しかし、私は思う。違うだろ、と。プロとか、アマとか、ないんだよ。職業を超えて、誰もが「プロの人間」だろう。同時に、誰もが「今日という一日のアマチュアだろう」と。誰かの生き方をああだこうだと言える人間はいない。プロなら全員楽しませてみろと思うなら、そう思うお前が、全員を楽しませる生き方をしろ。話はそれからだ。と。

 

俺たちはまだまだガキンチョで、本当の意味での『愛』や『赦し』を知ることはない。突っ張って、突っ張って、突っ張ることを続けながら、徐々にわかることがある。それは、絶対に許さないと思っていた彼等にも、ひとつの人生があったということだ。誰もが、その瞬間はそうするしかなかった事情を抱えていたのだということを、徐々に思いやれるようになる。優しい気持ちに包まれながら、しかし、優しさを持続する強さが、ない。その代わりにあるものが『若さ』だ。若さとは、突っ張る力だ。 自分が自分であることを続けた分だけ、誰かの「そうするしかなかった」事情を汲み取れるようになる。だから、何度でも、何度でも、はじめるんだ。はじめたら、はじめただけ、強くなる。そして、優しい人間になれるのだと思う。

 

 

「ぼくは坂爪さんに出逢うまで、ぼくじゃないだれかにならなきゃいけないような気がずっとしていた。
どこへ行っても、誰と会っても、そのままのぼくじゃダメだって言われてる気がしていた。
坂爪さんに初めて会った時、ぼくは感動した。みんなみたいにうまくしゃべれないぼくをそこら辺にある空気とおんなじように、気にしないでいてくれた。ぼくはそれがものすごいうれしかった。
坂爪さんに出逢ってから、ぼくは永遠に死ぬまでぼくで生きようと決めた。
坂爪さんの歌を聴くたびに、その気持ちを思い出す。坂爪さんとはなかなか会えないし、ずっと一緒にもいられないけど、離れていても会えなくても坂爪さんはすぐそこにいてくれて、「ほら、楽しもうぜ!」って言ってくれる。
ぼくは坂爪さんが大好きだ。
ぼくは一生坂爪さんの友達でいる。」秀眞

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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旅は道連れ、世はアガペー。

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菊名駅前のコロラドにいる。音楽業界の方々が「へたくそだけど胸が震える音楽もあるし、うまいけど退屈な音楽もある。技術じゃないんだよ」と言っていた。本当にその通りだ。私はキャッフェで作業をすることが多いが、大概の店員は機械的で無機質だ。冷酷であるとさえ言える。ありがとうございますとか言われても「お前、絶対そんなこと思ってねえだろ」と感じる。しかし、若葉マークをつけた新入りさんは違う。彼らは、ぎこちないが、真剣だ。一挙手一投足に血が通っている。へたくそだけど一生懸命な姿に、心は打たれるのだ。若葉を守れ。初期衝動を失った人間は、技術的には優れるが、人間ではなくなる。冷酷なロボットになるのだ。

 

 

おおまかなスケジュール

8月2日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
8月30日 EVENT@東京都恵比寿界隈(詳細は決まり次第更新します)
9月9日 20時頃 念願の吉祥寺ライブ@曼荼羅(詳細は決まり次第更新します)

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若葉を守れ。

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念願の日比谷野外音楽堂(前)デビューを果たす。

 

生きていると「ふざけんじゃねえよ」と思うことがある。調子に乗った人間を一列に並べて、スピニングバードキックで鼻をへし折りたくなる。どうしてなのだろうか、常に「ぶっ壊したい」と思ってしまう自分がいる。巷には『クレイジー○○○』とか『○○○ロック』とか『新しい○○○』とか、自分で自分のことをロックだのクレイジーだの新しいだの言っている人々は多い。しかし、どう見ても「全然クレイジーだと思えない」「全然ロックだと思えない」「新しいとか言いながら全然枠を出ていない」と感じる。そんなことよりも、先日、巣鴨で喰らったモンゴル料理のAコースの方がよっぽどクレイジーでロックで新しい存在だった。本物は、自分をクレイジーとか言わない。自分をロックとか言わない。自分を新しいとか言わない。

 

 

昔は、音楽は反権力の象徴だった(気がする)。だが、いまは、女子高生がエレキギターを担いで学校に行くと、教師から「おお、頑張ってるね」と言われるらしい。生徒も生徒で、真面目な人が多いらしい。吹奏楽部みたいなものだ。別に、吹奏楽部をダメだとは思わない。ただ、ブルーハーツが歌ったように「おとなに褒められるようなバカ」になっていないか、一抹の不安を覚える。ギターは、むかつく奴の頭をぶん殴るためにあるものだと思う。実際に暴力を振るうと、犯罪になる。しかし、音楽を通じて心をぶん殴れば、それは感動になる(ことがある)。褒められるためにやるなんて、真面目すぎる。優等生すぎる。全員が出木杉くんになってしまったら、ドラえもんは退屈だ。ジャイアンがいるから、嫌われ役がいるから、面白くなるのだ。ジャイアンになれよ。嫌われてしまえよ。そう思うことがある。

 

 

誰にだってあるだろう。年齢を重ねるにつれて、昔よりは落ち着いたかもしれない。しかし、落ち着いたかもしれないが、昔よりも「つまらない」人間になっている場合は多い。どうしたんだ(ヘヘイヘーイ!)、と、問いたい。お前はそんなにつまらない人間だったのか。と。風紀委員をあれだけ毛嫌いしていたお前が、いつの間に、風紀委員長みたいなことになってしまったんだ。と。内村鑑三大先生の『代表的日本人』を読み直してくれよ。と。死んでもいいと思うからこそ、生の充実を見るのだろう。と。こどもの頃、お前が「こうはなりたくない」と思っていたおとなに、いま、お前自身がなってしまってはいないか。と。クソガキだったお前を、どこに置き忘れてきたのだ。と。忘れないでくれよ。思い出してくれよ。と。

 

note.mu

 

わたり文庫『イン ザ・ミソスープ

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、村上龍著作『イン ザ・ミソスープ』です。20歳前後の頃、村上龍の本しか読まなかった時期がありました。彼の本を読むたびに「強くならなければ」と(暗黒の部屋の中で)感じていたことを思い出します。とりわけ20歳前後の方々に、読んでいただけたら嬉しいです。アマゾンのレビューには「気持ち良いほど残酷な本を読みたい方にお勧めです」と書いてありました。悪い影響を与えたい。不思議なことに、時折「悪い影響を与えたいなあ」と、ひっそり思うことがあります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

大人達は、金と、何か既に価値の定まったもの、つまりブランド品のようなもののためだけに生きている。テレビや新聞や雑誌やラジオやつまりあらゆるメディアから、自分達は金とブランド品しか興味がないし、必要でもないという大人達のアナウンスが聞こえてくる。政治家から官僚、その辺の屋台で安酒を飲んでいる最低のリーマンのオヤジまで、欲しいものは金しかないのだと生き方で示している。口では、人生は金だけじゃないなどと偉そうなことを言うが、生き方を見るとやつらが他に何にも探していないのがすぐにばれる。女子高生の援助交際を批判するオヤジ系の週刊誌は、同じ号の中で、お得な値段のファッションヘルスや早朝ソープを推薦しているし、政治家や官僚の汚職を糾弾しながら、安く買える優良株や不動産を紹介し、人生の成功者として、金持ちの自宅とか、高価なものを身につけただけのアホをグラビアで見せたりする。この国の子ども達は毎日毎日三百六十五日、そしてほとんど一日中、餌と電流の猫のような思いを味わっている。そんなことを一言でも言うと、こんな食い物も充分にあって豊かな世の中で何を甘えたことを言ってるんだ、わたし達は芋を食いながらがんばってこんな金持ちの国にしたんだぞ、とじじい達から言われる。それも、こういう生き方は絶対にしたくない、と見ていて思うようなじじいに限って偉そうなことを言う。おまえの言うとおりに生きたらきっとおまえみたいな大人になってしまう、といつもおれ達は思っている。それは苦痛だ。じじいはすぐに死ぬから別にかまわないのだろうが、おれ達はあと五、六十年この腐りきった国で生きていかなくてはいけないのだ。

「ケンジ、どうしたんだ」

フランクがおれの顔を見ている。

 

「ぼくのような人間は明らかに有害だ、ぼくはウイルスにとてもよく似ている、人間に病気を起こさせるウイルスは実は非常な少数派で、その他にも無数の、数えきれないほど多くの種類のウイルスが存在する、その役割は一口で言うと、突然変異に手を貸して生命の多様性を創り出す、ということになる、ウイルスについてもたくさん本を読んだ、睡眠が少なくて済むということは、本を読む時間が多いということだ、ウイルスがもし地球に存在していなかったら、人類は誕生していなかったと思う、ウイルスの中には、われわれの遺伝子の中に入り込んで、直接遺伝情報を変えてしまうものもある、エイズを引き起こすHIVが、将来、人類のサバイバルになくてはならない遺伝情報の書き換えをしていないとは誰も断言できない、ぼくは、自覚的に殺人を犯し、他の人間達にショックを与え、考え込ませる、でもぼくはこの世界に必要とされていると思う、でも、ああいうのは、違う」

そう言ってフランクはまたホームレスを見た。ホームレスは段ボールの上に座ったきり動こうとしない。橋の上にも人がだいぶ増えてきたが、ホームレスの周りには誰も近寄ろうとしない。

「あいつらは、生きようという意志を放棄しているわけではない、他の人間とのコミュニケーションを放棄しているんだ、貧しい国には、難民はいるが、ホームレスはいない、実はホームレスはもっとも楽に生きている、社会生活を拒否するのだったらどこか他の場所に行くべきだ、何らかのリスクを負うべきだ、少なくともぼくはそうしてきた、彼らは罪さえ犯せない、退化している、ぼくは、ああいう退化している人間達を殺してきたんだ」

村上龍イン ザ・ミソスープ』【幻冬舎文庫

 

旅は道連れ、世はアガペー

なぜだかわからないが、幼少期から「全部嘘じゃん」と思っていた。両親の言葉であったり、先生の言葉であったり、周囲の諸々が発しているメッセージの全部が『嘘』に見えた。正確には「これは本当だ」と思うものもあったが、大概は、嘘っぱちに思えた。一番記憶に残っているのが、生まれ故郷である新潟の片田舎にある薬局に行った際、視界に入ったポスターだった。テレビなどでよく見る女優が、なにかの化粧品を片手に「これがあれば綺麗になれる」みたいなことを謳っている、どこにでもあるポスターだった。それを見たとき、この女優が生きる世界と、地方都市である新潟の実生活との間にある、あまりにも激しい乖離に『怒り』を覚えた。あのとき、なぜ、私は怒りを抱いたのだろうか。ここにいる限り、全部が、嘘になる。無意識に、そう思ったのかもしれない。それは「ここにいたら自分がダメになる」という、焦りにも似た(自分に向かった)怒りだったのかもしれない。

 

その後、私は「新潟にいたくない」という理由で、東京の大学に進学をした。しかし、そこでも「全部嘘じゃん」という思いは消えず、再び、ここにいたら自分がダメになるという『怒り』を抱いた。周囲の人間は、授業ダルいとか言いながら、取るべき単位はしっかり取得している。私も、授業をダルいと感じるところまでは同じだったが、実際に単位を取ることができなかった(2年間で取ったた単位数は「2」だった)。嫌だ、嫌だ、と思いながらも現実をクリアすることができず、卒業なんてできるはずがないと諦め、大学を辞めた。この時も、新潟の薬局で感じた『乖離』を感じた。乖離とは、要するに「嘘をつくな」という怒りだった。ここにいる限り、全部、嘘になる。それならば、私は「これは本当だ」と思える生き方を、見つけなければいけない。そんなことを思いながら、退学届けを提出した。なにかが終わるときは、常に、非常にあっさりとしている。退学手続きはものの数秒で終わり、私は、大学生という肩書きをなくした「なんでもない人間」になった。

 

なんでもない人間になったとき、もちろん、将来の不安なども覚えたが、同時に「ようやく自分が世界と一致をした」ような爽快感を覚えた。思えば、これまで、自分は常になにかに所属をしていた。中学生のときは『中学生』だったし、高校生の時は『高校生』だったし、大学生のときは『大学生』として、周囲から見られる。しかし、いま、自分は生まれてはじめて『なんでもない人間』になることができた。これまでは、レールの上を歩くことが人生だった。しかし、これからは「レールを作ること」が、自分の人生になる。レールを作ることができれば生きることができるが、それができなければ、自分は、無様な醜態を晒しながら路上で野垂れ死ぬことになる。(レールの上を)歩け、歩けと言われても「歩きたくない」と思うものだが、いざ、レールの上を歩かなくてもよくなったとき、私は「歩きたい(生きていきたい)」と思うことができた。 これからは、もう、誰の責任にしないでもいい。生きるも、死ぬも、自分次第。これは、非常に清々しい感覚だった。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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君を好きになることは、自分を好きになることだった。

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横浜駅前のドトールにいる。楽曲を作る。出来上がりの段階では「これはいいかも!」と思っても、録音後、聞き直すと「ゴミクズじゃないか」と愕然とする。駄作にもほどがある。消したくなるし、消えたくなる。しかし、そこをグッとこらえて公開&更新を続ける。私は、小中学校野球部だった。一本のヒットは、十本の空振りに支えられている。思い出せ。けいご。空振りも必要なのだ。空振りあってこそのホームランなのだ。ホームランを打ちたいのならば、打席に立つことをあきらめてはいけない。恥をかくことを、周囲にバカにされることを恐れてはいけない。

 

 

おおまかなスケジュール

7月30日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
8月24日&25日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
8月30日 EVENT@東京都恵比寿界隈(詳細は決まり次第更新します)

SCHEDULE on 
http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

国語。算数。理科。革命。

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念願の公園デビューを果たす。


喰えないバンドでおなじみ、我々Agapeも念願の公園デビューを果たした。公園は良い。自由で、無料だ。とにかく場数を重ねたい。ライブの数だけ強くなる。「ギリギリ怒られよう」と思って代々木公園に突撃したが、代々木公園は広く、誰にもなにも言われなかった。最初、原宿駅の激混み具合に辟易し、俺はもう生きていけないと一回生きることを諦めかけたが、緑に囲まれて「やっぱりこれだよねー」と復活した。巨木を見ると登りたくなる。木登りは健康によい。人間に突然抱きつくと犯罪になるが、巨木に抱きつくと安定剤になる。バガボンドを読み過ぎたため、巨木を見るたびに「父ちゃん」と吐息を漏らし、抱擁する傾向が自分にはある。

 

 

場数を重ねたいとか言いながら、ライブ出演のお誘いを断ってしまった。主催者側から「出させてやってもいいよ」的な、上から目線を感じたからだ。媚びない。これは、私が私と交わした約束である。媚びた瞬間に死ぬ。頭をさげたくないときには、頭をさげない。そうすることで、本当に頭をさげたいひとと出会ったときに『真の意味で』頭をさげることができる。あとから「やっぱりちょっともったいなかったかな」とか思うが、否、微妙なものを拒否することで、より良いものが舞い込んでくるのが人生である。つまらないものを握りしめてしまうと、入ってくるものも入ってこない。ミラクルは余白に舞い込むのである。つまらないもので、余白を埋めてしまってはいけない(と言いながら、自分を慰めているがここに書く程度には色々思うところがある。テレビ出演も書籍出版も、同じ理由で断っている)。

 

 

高校時代、新潟中央高校に通う一歳年下の女子(名前は「しょうこちゃん」)から、ある日突然「新潟の桜が、どうして美しいかわかりますか?」と問われた。高気圧系女子で、年下なのに生意気な女子だった。私は、わからないから「わからない」と答えた。すると、彼女は「遅咲きだからですよ」と言った。ドヤ顔だった。それは別に関係ないんじゃないか(というか、お前は新潟の桜以外を見たことがないだろう)などと一瞬思ったものの、なるほど、と思ったのも事実である。新潟の桜が美しいのは、遅咲きだからですよ。いい言葉じゃないか。我々、丸腰中年団は全員新潟生まれである。冬の日照時間が極めて少ない地域で育った我々は、いつ、開花の時期を迎えることができるのだろうか。一ヶ月後だろうか。一年後だろうか。死後だろうか。できることならば、それが美しいものであればいいと思う。

 

note.mu

 

わたり文庫『家日和』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、奥田英朗著作『家日和』です。私は奥田英朗さんが好きです。読んでいると和みます。読書にはリラックス効果があると聞きました。私は読書が好きです。しかし、当たり前のことですが「面白い本を読む」ことが好きなのであって、読んでいて面白くない本を読むことは嫌いです。時に、それを誤解して、たまたま自分が読んでいる本がつまらなかっただけなのに、俺は読書があまり好きではないのかもしれない、読書は暇人の娯楽に過ぎない、みたいな勘違いをしてしまうことがあります。この勘違いは、非常に、もったいない。是非、この本を通じて「読書の楽しさ」を思い出してください(って、俺は一体誰に言っているのだろう)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

物事の大半は、時間が経てば全部笑い話だ。

奥田英朗『家日和』【集英社文庫

 

君を好きになることは、自分を好きになることだった。

素晴らしい時代だ。古本は百円程度で手に入るし、電子書籍も無料で読める。街中にワイファイが飛び交い、冷暖房完備、YOUTUBEで無料で音楽や動画を楽しめる。社会福祉も充実し、生活保護も各種NPOの活動もあり、飢え死にすることは(多分)ない。音楽活動をやりたい!となれば、すべてiPhone一台でやりくりできている。執筆も、録音も、撮影も、これ一台だ。豊かな時代である。だが、なぜ、幸せそうに生きているひとは少ないのだろう。なぜ、豊かな社会で過労死をしたり、なぜ、将来の不安に押し潰されそうになったり、なぜ、多くの人々は疲れた表情を浮かべ、なぜ、自殺者や精神病患者が減るどころか増える一方なのだろうか。

 

これは、端的に「希望がない」からだと思う。私だったら、路上で野垂れ死にそうになっても、生活保護は受けないと思う。福祉施設に駆け込むことより、死を受け入れること、要するに諦めることを選びそうだ。大事なことは、生きることより『生きたいと思う』ことだと思う。衣食住があっても、希望がなければ、絶望に取り囲まれれば、人間は生きることが難しくなる。生きるためにしなければならないことに囲まれたとき、なぜ、こうまでして生きなければいけないのかという重荷に耐えきれなくなり、なにかが切れる。そして、爆発したり、朝、目覚められなくなる。生きることが苦行になり、生まれたことが罰ゲームになる。それを打開するものが『希望』だと思う。生まれてきてよかった。生きててよかった。そう思える瞬間だと思う。生きるために必要なことと、生きたいと思うために必要なものがある。前者は「金」とか「仕事」になるのだろう。そして、後者は、乱暴な言葉でまとめれば「恋」だと思う。恋とは、なにかを好きになることだ。なにかを好きになり、それがある世界を「まだまだ捨てたものではない」と思わせてくれるものだ。

 

誤解を恐れずに言うと、私は、後者だけで生きていく実験をしているように感じる。生きるために必要とされているもの、金とか、家とか、仕事とか、資格とか、安定した収入とか、具体的な将来設計とか、そういうものが、自分にはない(あるっちゃあるけど、ないっちゃない)。金がなければ生きていけない。定期的な収入がなければ生きていけない。そう言う言葉を、これまで、たくさん言われた。私は、ただ、ピンとこないという理由で、それらを弾き返してきた。生きるために必要なことと、生きたいと思うために必要なこと。これを、できる限り、イコールにさせたかった。私の場合、生きたいと思うために必要なものは「恋」だ。それは、なにかを好きになるということだ。なにかを好きになるとき、それがある世界を「生きていきたい」と思う力になる。それは、北風と太陽の童話で言うところの、太陽的な力だ。生きなければいけない、ではない。我々には、等しく、自殺をする自由がある。それでもなお「生きたい」「生きていきたい」と思うのは、好きなものがあるからだ。好きなひとがいるからだ。なにかを好きになることは、誰かを好きになることは、そのまま、世界を好きになることだ。自分を好きになることだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

生きててもいいよ。

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兵庫県三宮駅前のドトールにいる。電車内で、女子が化粧をしていた。化粧は美しくなるための行為なのに、なぜ、化粧をしている姿はあんなにも醜いのだろうか。誤解されると困るが、私は電車で化粧をする女性をディスりたい訳ではない。ただ「化粧をした女性は綺麗だが、化粧をしている女性は醜い」と思っただけだ。そんな話を(私が綺麗だと思う)女性に話したら「電車で化粧をしなければならない余裕の欠如が、既に美しくない」と一刀両断。彼女の言葉に、吹き出してしまった。

 

 

おおまかなスケジュール

7月25日以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
7月27日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

男の生理。

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京都でエレキギターを譲り受けた。ギブソンレスポールで、色は「チェリーサンバースト」と言うらしい。さくらんぼ。太陽。爆発。燃える炎のイメージ。これで、自分をどこまで引き出せるのだろう。ギターから「遠慮するなよ」と言われた気がした。思い切りかき鳴らしたい。しかし、エレキのことは全然わからない。アンプがないと音は出ないらしい。エフェクターがないと、音を変えることはできないらしい。楽器屋に行くのが筋なのだろうが、私は『店員さん恐怖症』なのでお買い物ができない。必然、あるもの(舞い込んできたもの)で勝負になる。誰か、使っていないアンプなどなどありましたら、お譲りいただけましたら超絶幸いです。

 

音楽をはじめて数ヶ月。いまでは「1日ギターを触らない日があると、もぞもぞする」程度には、ギター愛が芽生えた。これまでギターなしで生きていたのが不思議だ。ギター自体は、高校生の頃から触っていた。が、正直、ギターなんて大嫌いだった。理由は「うまく弾かなければならない」と思っていたからだ。うまく弾かなければならないという思い込みと、うまく弾けない自分との乖離に毎回「うぎゃー!」となって、投げ出していた。だが、いまは、違う。ギターは楽しむための道具であり、自分を表現するための道具である。言葉も音楽も似ている。いい言葉(いい音楽)を作ろうとすると、苦しくなる。だが、青臭い表現だが「ありのままの自分を表現する」ために使うと、最高のお友達になる。叫びたいなら、叫ぶ。暴れたいなら、暴れる。泣きたいなら、泣く。その時、音楽は最高のお友達になる。


私たちはすでに許されている。最近、そんなことを思う。たとえば、誰かに認められるために音楽を利用してしまうことがある。すごい曲を作りたいと思う。誰かを楽しませたいと思う。それが前向きに働く時期はよいが、変なふうに作用をすると「音楽が、自分の欠落を埋めるための道具」になる。これはよくないと思う。少なくとも、私は、こういう付き合い方をしたいとは思わない。私たちはすでに許されていて、私たちはすでに認められている。すでに認められている上で、それでもなおやりたいと思うもの。それが、音楽だ。共有したいものは素晴らしさであり、この感覚は、うまく言えないが自分という個人を超えている。自分という個人を超えて「人間賛歌」みたいなものを歌えたら、最高に気持ちいいだろうなあ。と、思う。欠落なんて、あると思えばあるが、ないと思えばないのだ。もっと言えば、欠落があろうがなかろうが、金があろうがなかろうが、才能があろうがなかろうが、人間は(それとはまったく関係ないところで)歓びを感じることができるのだ。

 

note.mu

 

わたり文庫『イニュニック

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、星野道夫著作『イニュニック』です。こちらの本は、長崎県五島列島在住の男性が「わたり文庫に是非」と寄贈をしてくださった一冊です。最近、ハワイ島で野営をしながら過ごした日々を頻繁に思い出します。夢のような日々で、ああ、この瞬間もハワイ島では穏やかな時間が流れているのだなあと思うと、安らかな気持ちになります。死にたくなったら、ハワイ島に行こう。あるいは、アラスカに行こう。ユーコン川を筏でくだろう。いまいる場所だけが世界ではないのだ。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、京都府にわたりました ※※※

 

1946年の冬、23歳のシリアがたった一人で小型飛行機を操縦し、アメリカ本土からアラスカへ飛んできた時から始まる彼女の軌跡は、そのままこの土地の歴史の一端を語ることになるだろう。僕はシリアとジニーから、できるだけたくさんの古い物語を聞いておきたかった。もう年老いた二人なのに、彼女らと会うたび、僕はある豊かさをもらっている。それを言いかえれば、限られた一生の中で何を大切にしてゆくかということだろう。シリアの口ぐせで、僕の好きな言葉があった。

Life is what happens to you while you are making other plans.
(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)

波乱の人生を生きたシリアの口からこぼれると、その言葉は暖かかった。

星野道夫イニュニック』【新潮文庫

 

生きててもいいよ。

あらゆる能力は、使い方を誤ると「自分を殺す」道具になる。私は(自分で言うのも変だが)敏感な人間で、社交辞令とか愛想笑いとか表面的な言葉を聞くと、毎回ダメージを負う。しっかり傷つく。前にバイトをしていたときは「心を殺せばいいんだよ」と助言されたが、だったら死んだ方がマシだと思った。結果、こんな生き方になってしまった。鈍感力を身につけられたらどれだけ楽か、などと思った時期もあるが、自分の敏感さを愛したいと思う。敏感さを愛するには、敏感さを「許す」方向に使わないと、死ぬ。他者に向けられた鋭敏な洞察力の矢は、必ず、自分自身にも向かう。処罰的な洞察力は、いつか、自分を殺める。深い洞察力は、人間を許す方向に使ってこそ、真価を発揮する。言葉も同じだ。自分の闇を表現するのは構わない。だが、最終的に「許す」方向に舵を取らなければ、言葉に殺される。

 

私は「音楽とユーモア」に救われたと思っている。地元新潟で暗黒時代を過ごしていた時期、自宅に引きこもりお笑い番組を見るか音楽を聞くかしていた。これがなかったらとっくの昔に自殺をしていたと思う。音楽。ユーモア。これらに共通するものは『許し』だと思う。自分が好きだと思う音楽は、大袈裟だが、私に「生きててもいいよ」と言ってくれている気がした。その言葉は温かく、どうしようもなく嬉しいものだった。ユーモアも似ている。それは、どうしようもない自分に「ダメでもいいよ」と言ってくれている気がした。ダメでもいい。ダメならダメなほどいい。そういう世界があるのだということを、教えてくれた。生きててもいいよ。ダメでもいいよ。だから、胸を張るんだ。自分が生きていることを、卑屈に思うんじゃなくて、ダメならダメなまま、胸を張って生きるんだ。そういうことを、言ってもらえているような気がした。「嘘でも構わない」と思った。死ぬまで騙されていたい嘘を、死ぬまで騙されたいたい光を、私は、あの瞬間に見ていたのだと思う。 

 

そういう光のために、生きてこそだと思う。ひとつの嫌な出来事があると、そればかりにとらわれて、まるで人生全体が嫌なことばかりに見える夜もある。だが、自分がこれまで生きてこれたのは、紛れもなく「なにかに許されてきた」からだ。いま、生きている。それは「生きていきたい」と思わせてくれるものが、確実にあったからだ。それは、母親の胎内にいた遠い記憶とも、つながっているのかもしれない。生きていれば、また、ぬくもりに触れることができるかもしれない。そういう思いが、人間を「生きたい」と思わせる方向に向かわせる。生きなければ、という義務的な感覚ではない。それは「生きたい」と思う、前向きな意思になる。希望になる。あらゆる能力は、使い方を誤ると「自分を殺す」道具になる。しかし、正しい使い方をできたとき、それらは「人間を生かす」最高の道具になる。道具をもっていない人間はいない。ただ、正しい使い方をできない時期が、誰にでもあるだけだ。正しい使い方とは、人間を許す方向に向かわせる、生きたいと思う方向に向かわせる、慈悲を感じさせるものだ。それを、日本人は「愛」と呼んだのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

必要なものは与えられる。

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熱海のデニーズにいる。熱海に来ると元気になる。なぜか。人間が免疫力を回復するには『五つの浴』が有効だと聞く。森林浴。月光浴。日光浴。温泉浴。海水浴。多分、これが全部あるからだと思う。突然ですが、明日7月21日(日)熱海の家で演奏会をやります。毎回突然でごめんなさい。ひとりでも来てくれたら嬉しいです。こんな機会でもないと熱海なんて来ないと思うので、是非、遊びに来てください。意外と東京からも近く、新幹線で50分、鈍行でも2時間かからない距離です。

 

 

おおまかなスケジュール

7月21日 15時 定期演奏会@静岡県熱海市「逢初庵」
7月22日 死に支度、いたせいたせと名古屋かな。
7月23日 京都以降、FREE!【呼ばれた場所に行きます】
7月27日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

つまらなく生きるなら、死んだほうがいい。

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おいでませ熱海

 

東京の神田駅でK様に寿司をごちそうになった。K様から「坂爪さんは、つまらなく生きるくらいなら死んだ方がいい」と言われた。嬉しかった。潔い。清々しい。こんな言い方をしてくれるひとは少ない。日本の湿度はすごい。油断をしていると精神にカビが生える。せめて、人柄だけでもカラッとしていたい。話題は『言葉が与える力』になった。ドラえもんジャイアンというキャラクターがいる。みんなが彼をジャイアンと呼ぶからこそ、ジャイアンの力は強化される。だが、ジャイアンの母はジャイアンを『たけし』と呼ぶ。だから、彼の母にはジャイアンの効力は通用しない。ジャイアンジャイアンと認識するものにだけ、その効力は及ぶ。

 

私は坂爪圭吾だ。坂爪圭吾名義で音楽を作る。創作活動では「自分を表現したい」みたいなことを思う。だが、常に、頭の片隅に「自分とはなにか」という問いがある。坂爪圭吾は、坂爪圭吾である以前に、ひとりの人間だ。名前のない存在として自分を見ると、よく、わからなくなる。空を飛ぶ鳥に名前はない。それでも、悠々と空を舞う。鳥は、偉くなりたいとか成功をしたいとか、そういうことを思わない。鳥の前で「俺はこれだけ金持ちなんだぞ、えっへん!」と胸を張ったところで虚しい。逆に言えば、我々が自然や動物に癒されるのは、彼らが『ただの命としてそこにある』からだと思う。彼が彼だから、という個別の特徴を超えて、命が、ただ、命のままそこにあることに安寧を覚える。社会的動物である人間は、何者かになるために常に四苦八苦する。そんななか、何者でもなく悠々と生きる存在に、慰められる。そして思う。何者かになれないことが苦しいのではなく、何者かになろうと思うことが苦しいのだ。現在の自分を受け入れられないことが、苦しみになるのだ。そして、また、自分も(動物と同じように)自然物であることを思い出す。

 

社会を変えよう。多様性を認めよう。そんなスローガンを耳にする。私は違和感を覚える。社会とはなにか。それは「社会を構成する一人一人の集合体」でしかないと思う。だから、社会を変えるには、社会を構成する一人一人が変わる以外に、方法はない。理想的な社会を実現したければ、理想的な人間になるしかない。世の中がまともになれば自分もまともになれる、とは、嘘だ。多様性を叫ぶひとが、私には「自分を認めて欲しい」と叫んでいるように見える。別に、他人が自分を認めずとも、自分が自分を認められたらそれでいいと思う。逆に言えば、周囲がどれだけ自分を認めようが、自分が自分を認められなかったら『命のままでそこにある』ことは不可能だ。幸福の秘訣は「誰かのせいにしない」ことだと思う。自分が幸福を感じることができないのは、誰かのせい、社会のせい、環境のせい、時代のせい、周囲の無理解のせい、などと言っている限り、永遠に幸福にはなれない気がする。

 

note.mu

 

必要なものは与えられる。

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前回の記事で「車があったら移動をしながら暮らしたい」とか「エレキギターがあったら幸せだっちゃ」と書いた。すると、広島在住の女性から「自由に使える車があります」と連絡が届いた。また、京都在住の男性から「使っていないギターがあります」と連絡が届いた。驚いた。自分から「これがあったら幸せ」と言っておきながら、いざ、それが実現しそうになった瞬間、湧き出した感情はよろこびではなく『恐怖』だった。新しい生活に突入するとき、過去の生き方を一回捨てることになる。多分、そこに怯えているのだと思う。前に、こんな言葉を聞いたことがある。もし、あなたが生き方を大きく変えたいと思うならば、自分が恐れていることをやるか、好きなひとに告白をするのがいいよ。と。それと似ているのだと思う。

 

迷ったらGO。湿度を吹き飛ばすには、これが一番だ。大前提として「必要なものは与えられる」と思いながら生きていたい。自分に車やエレキギターが必要なら、必ず、なにかしらの出来事を通じてそれは与えられる。与えられないということは、必要ない(いまあるもので戦え)ということだ。必要なものは与えられると信じることは、逆説的だが「なにもなくても生きていける」ことを信じることだ。なにもなくても生きていける。馬鹿にされても生きていける。どのような状態に置かれても生きていける。みんなが当たり前に持っているものを、自分だけがもっていないとしても、生きていける。なぜなら、まだ、命があるからだ。感じる心があるからだ。命(感じる心)があるということは「役割がある」ということだ。役割がある限り、私は、死ぬことはない。逆に言えば、役割を終えたとき、死ぬのだと思う。役割とはなにか。抽象的だが、それは「自分を通じて行われること」だ。自分の意思を超えて、自分がただのパイプのようなものになり、自分を通じて行われる『神の御業』とでも言えばいいのか、それが自分(というか人類全体)の役割だ。

 

音楽をやっていると、不思議なアドバイスを受ける。「音楽をやるには金が必要だよ」とか「音楽をやるには環境や才能や人脈が必要だよ」とか。違う気がする。音楽をやるには、ただ、音楽をやればいいのだ。私の夢は実現している。私の夢は「音楽を通じて有名になること」ではない。違う。私の夢は「音楽をやること」だ。お金がなければ自由になれないなんて、嘘だ。だって、私は、音楽そのものに自由を見たのだから。なにかを好きになるということは、そこに『光』を見ることだ。自由になるために音楽をやるのではない。自由だから、音楽をやるのだ。金の先に自由があるのではない。環境の先に自由があるのではない。才能の先に自由があるのではない。自由ならば、ここにある。どこか遠くに存在するものではなく、自分の中に『すでにあるもの』を愛するために、音楽をやっているのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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ちょっとの勇気があれば、人生はとても楽しい。

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バンコクのよくわからない場所にいる。日本だと「お客様は神様です(従業員は奴隷です)」みたいな構図をよく見るが、タイは良くも悪くも無関心で、あ、いたの?みたいな対応が多い。人間的にフェアで、それが心地よかったりする。ほっといてくれる感じがいいのだ。スペインでは「俺の店にようこそ(俺の店を選ぶ君のセンスは素晴らしい)」みたいな対応を受けた。誤解を恐れずに言うと、日本は気を使いすぎて全滅していると思う。何を隠そう、私自身が頻繁に自滅をしている。

 

 

おおまかなスケジュール

7月18日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます】
7月21日 15時 定期演奏会@静岡県熱海市「逢初庵」
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

Live to the point of tears.

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Agape(愛)× anthos(花)= Agapanthus(愛の花)

 

この花は『アガパンサス』というらしい。Agape(我々のバンド名)と同じだ。 花は美しい。儚い。儚いということは流れていくと言うことだ。忘れると言う言葉と、流れると言う言葉は似ている。厳密には異なるが、忘に「氵」がつくと流になる。ちなみに、戻に「氵」がつくと涙になる。水に戻ると涙になる。海に還ると言うことか。曲作りをするとき、それを聴きながら『涙を感じるか』を基軸にしている(気がする)。明るい曲でも、悲しい曲でも、グッとくる曲はグッとくる。涙が出そうになるかどうか。そこに涙はあるか。これが、自分の行動基準になる。どれだけ金を儲けても、どれだけ安定の生活を得ても、涙が出なければ大概は虚しい。

 

帰国したら車に野営道具とギターを積んで各地を遍歴するなんてことをやりたい。サーフボードも一緒に運べたらなんかもう家とかいらないんじゃないかとさえ思う。素敵な音楽を作るためには、音楽ばかりやっていたらダメだ。そう思った。人生を楽しむこと。自分を楽しませた余剰が、音楽に乗っかる気がする。私は遊ぶことが苦手だ。好きなことは野営程度。燃える炎を眺めると和む。最近、そこにサーフィンが増えた。自然と戯れたい。所有することの自由さと、所有することの不自由さ。家は便利だ。だがしかし、メンテナンスが面倒だ。維持費もかかる。テントならすぐに直せる。最悪ビニールシートでいい。簡易な家屋で暮らすタイ人は多い。車で気ままに移動しながら生きられたら素敵だなと思うが、肝心の車がない。

 

4ヶ月で100曲作った。ライブ活動をやりたい。保科さん曰く「少年野球で強いチームと弱いチームの差は何か、それは試合をしている数である、という持論を元に我々Agapeはライブを重ねたいのである」とのこと。完全にアグリー。本番でしか鍛えられない筋肉がある。成長の鍵は「短期間にどれだけ恥をかけるか」だと思う。成長、なんて言葉を使ったが成長という言葉は嫌いだ。成長もクソもない。あるのは『躍動』だと思う。成長したいというよりも、躍動したい。咆哮したい。跳躍したい。ギャラもいらないし交通費もいらないから、誰か、私をライブに呼び出してください。エレキもほしい。エレキギターは格好いい。エレキギターで創作をしたらまた生まれる曲も変わるのだろう。エレキを獲得する道も同時に模索したい(熱海と横浜の家は引き続き開放しています。利用希望の方はご連絡ください)。

 

note.mu

 

100曲記念カバー「ひだまりの歌(山形弁ver.)」

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ちょっとの勇気があれば、人生はとても楽しい。

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そのひとが抱く答えより、そのひとが抱く葛藤に惹かれる。選挙期間中だからなのか、様々な意見を聞く。誰もが「自分は○○のためにこれをやっている」と声高に叫ぶ。正直、全部綺麗事に聞こえる。社会活動家などは、明確なビジョンを持つことをよしとされる。自分はこれのために頑張っているのだと、動機が明確なひとほど評価をされる社会だ。しかし、まったく、魅力を覚えない。私は、答えに興味がない。答えを持っているひとは止まっている。魅力的なひとは、答えを求めているひとだ。葛藤を抱くひとだ。矛盾を生きるひとだ。自分がなぜこれをやっているのかわからず、それでもなお、この中にしかない『光』のようなものを感じているからこそ、それを止めることができない。自分がやっていることの理由や意味なんてわからないまま、それでもなお、どうしても感じる光があるから、これをやっている。そういう雰囲気をもつ人間が、言語化しきれない世界を生きるひとが好きだ。

 

動き出した理由が、動き続ける理由になるとは限らない。理由さえも流転する。そっちの方が真実だ。流転を続けるなかで、それでもなお『変わらないもの』を握り締める。私は、いま、道を示したいと思っている。過去に家も金もなにもかも失った時、周囲から「お前は終わったな」的な目線で見られた。一般的なレールを逸れた人間は、不幸になる。そう決めつけられている気がした。それが癪で、私は「なにもなくても楽しそうに生きている人間がいたら、それは痛快な出来事だ」と思った。自分の人生を、環境に決めつけられてたまるか。自分の人生を、他人に決めつけられてたまるか。泣くか。笑うか。それは、自分で決めることができる。否、自分しか決めることはできない。そういうことを思いながら、私は「置かれた状態をどれだけ楽しく生きられるのか」を検証した。金がない奴は不幸。家がない奴は不幸。そういう社会通念みたいなものに中指を立てて「そうとは限らないじゃないか」と、新しいあり方を示したいと思った。そしていま、音楽をやっている。年齢が。技術が。環境が。能力が。周囲は散々なことを言う。言われながら、私は、やってみなければわからねえぞ、と思う。「そうとは限らないじゃないか」と思う。

 

不幸だと思われる人間が、その不幸によって飛翔をすることがある。同時に、幸福だと思われる人間が、その幸福によって堕落をすることがある。短期的なジャッジが、長期的なジャッジと一致するとは限らない。だからこそ、私は、他の誰でもない自分自身に「道を示したい」と思う。こんな生き方もできるぞ。と。一寸先は光だぞ。と。どのような状態に置かれても、泣くか、笑うかは自分で決めることができるんだぞ。と。諦めるのも自由。諦めないのも自由。前を見るのも自由。下を見るのも自由。なにをするも自由。なにもしないのも自由。ただ、お前が人生に『涙』を求めるのならば、正しさを超えて、言葉を超えて、生きるの一択になるだろう。停滞した日々を打開してくれたものは、いつも、小さな勇気だった。勇気は、一度出せばいいというものではない。それは、瞬間瞬間に必要とされる、立ち向かう意思だ。そのすべてがうまく行くとは限らないが、すべてがダメになるとも限らない。自分には無理、と伏し目がちになることも多い。それでもなお「ちょっとの勇気があれば、人生はとても楽しい」ということを、自分に示したいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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弱いから、やっちゃだめってことはない。

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バンコクのオンヌット駅前にいる。よく使われる前置きに「これは別に批判をしているわけじゃないんだけどね」みたいな表現がある。私は、それ、普通に批判をしているじゃんと思う。はっきりそう言えばいいのに、と思う。ストレートに行こうぜ、と。もっと言えば「理解あるひとぶってんじゃないよ」と思う。優しさと、卑怯さは紙一重だ。本当に優しいひとは、傷つく覚悟がある印象を覚える。優しいっぽいひとは、自分は土俵に上がらないままで、他人のことをああだこうだと言う。

 

 

おおまかなスケジュール

7月15日以降、FREE@タイ界隈【呼ばれた場所に行きます!】
7月18日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます!】
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

踏み込む勇気。

巷では「自立した人間になりましょう」などと言われる。恋愛も、自分が自立をしているからこそ楽しめるものであって、依存になってはいけない。とか。あなたがいなければ生きていけないと思うことは依存の最たるものであり、それは弱さだ。まずは自分でしっかり立ちなさい。ひとりで生きる強さを持ちなさい。とか。私は、こうした意見に「異議あり」と言いたい。別にどっちでもいいじゃないか、と、思う。依存をしたければ思い切りすればいい。それで死ぬことになったとしても、思い切り誰かを愛して、それによって死ぬなら本望じゃないか、と、思う。

 

人間は矛盾した生き物だと思う。自立したいと思う自分もいれば、誰かとぐちゃぐちゃになるほど混ざり合ってみたいと思う生き物でもあると思う。依存はダメ。これは、多分、正解だ。しかし、正解だけでは満たされない心の部分がある。依存しないように、依存しないように、腫れ物を扱うような付き合いでは、心の一部はさみしいままだ。 私は、単刀直入に「それは、生き方としてさみしくないか?」と思う。あなたはあなた。自分は自分。よく、心理学などで「それは相手の課題だから自分が気にすることはない」などと言われるが、これは本当だろうか。自分と他人を、明確に区別することなんてできるのだろうか。区別するほど、自立はできるかもしれないが、同時に、境界を深めるさみしさを培うことにはならないだろうか。

 

他人の領域に踏み込まないように、自分の領域だけを守る。それは、やはり、さみしい気がする。余計なお世話という言葉がある。他人の領域に踏み込むことは、おそらく『無礼』にあたるのだろう。だが、他人に踏み込むことをせず、他人から踏み込まれることを拒む日々に、充実はあるのだろうか。年齢を重ねるほど、誰も、本当のことを言わなくなる。あなたはあなた。自分は自分。あなたにはあなたの人生があり、自分には自分の人生がある。これらはまったくの別物で、だから、他人がああだこうだと言えることではないということ。これは、最もな意見だと思う。だが、同時に「それはさみしすぎるだろ」とも、思う。依存はいけません。執着はいけません。自立しましょう。誰にも頼らないで生きていける人間になりましょう。これらは、全部、正解だ。ただ、退屈な正解だ。教科書みたいな正解だ。血の通っていない正解だ。かしこくなるほど、さみしくなる。そういう種類の正解だ。

 

note.mu

 

弱いから、やっちゃだめってことはない。

自分を弱いと感じることがある。強くなりたいと思う。よくなりたいと思う向上心は大事だ。しかし「弱い自分は存在をしていけはいけない」などと思ったら、大間違いだ。弱い自分を責める。それは仕方のないことだ。ただ、弱いからといって「生きていけはいけない」なんてことはない。強くなってはじめて生きる権利を得るなんてことはない。だから、強くなってからなにかをやろうとするんじゃなくて、弱いなら、弱いまま、やる。弱さを克服してからやろうとするのではなく、弱いなら、弱いまま、やる。弱いからと言って、なにかをやっちゃだめってことはない。ビビる自分を変えようとするのではなく、ビビる自分のまま、生きる。弱いまま生きる。ビビりながら生きる。永遠に弱いまま生きる。そっちの方が爽やかだ。

 

どうすれば強くなれるか。そんなことは考えないでいいのだと思う。弱いなら、弱いままで生きる。恐れながらぶつかって、恐れながら清濁を併せ飲み、恐れながら手応えを覚える。きっと、その繰り返しだと思う。そして、振り返ったときに、確かに生きてきた自分と出会う。昔より強くなっている自分や、昔より汚れている自分や、昔となにも変わらない自分と出会う。色々なことを覚えてきたようで、実は、何も変わっていない『自分』という存在。人間の価値は、不増不減だ。誰かが褒めたから増えるものでもないし、誰かがけなしたから減るものでもない。自分は、常に、自分のまま。自分の価値も、常に、自分のまま。誰かが褒めても自分は自分。誰かがけなしても自分は自分。なにかを覚えても自分は自分。なにかを忘れても自分は自分。常に、自分はそこにあり続ける。弱かろうが、強かろうが、それが自分であることに代わりはない。だから、この自分で生きる。そう思えたとき、自分という存在に対して『健やかな誇り』のようなものを、抱けるのだと思う。

 

生きていればいろいろなことがある。痛い。苦しい。悲しい。切ない。人間関係が広がるほど、様々な感情に縛られる。家にひとりでいれば、少しはましになるだろう。それでも、なぜ、ひとと交わることをやめないのか。それは「簡単には傷つかない自分を知るため」だと思う。痛い。苦しい。悲しい。切ない。傷を受けることは頻繁にある。しかし、同時に、まったく傷ついていない部分を知る。どんな目にあっても、絶対に傷つくことのない『自分』という部分。自分の尊厳。自分の魂。自分の価値。人間の価値。生命の価値。言葉はなんでもいい。本当に大事なものは、どれだけ肉体は傷ついても、ひとつも傷つかないまま、自分の中に残り続ける。弱いから、なにかをやっちゃだめってことはない。弱いなら、弱いからこそ、弱いままで生きる。簡単には傷つかない自分を知るために、生きるのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

誰にもわかってもらえない部分、それこそが自分だ。

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バンコクのカオサンロードにいる。テラス席に座り、虚空を見つめたり、虚空に見つめられたりしている。行き交う人々は楽しそうに見える。友達や恋人や家族連れがメインだ。俺も、誰かと来ればまた違った楽しさがあったのか、と考えた2秒後に「どうせひとりになりたがるのだろう」と諦めた。ひとりでいればさみしいし、誰かといれば煩わしい。実は、昨夜から、欧米人と一緒にいる。ヒゲも髪も長い彼は、永遠に洋書を読んでいる。行動パターンが同じなため、いつの間にか仲良くなった。一緒にいても、ひとりでいられる。彼を「ベストフレンド」と呼んでいる。

 

 

おおまかなスケジュール

7月8日以降、FREE@タイ界隈【呼ばれた場所に行きます!】
7月17日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます!】
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

男はロマン。

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安い飯ほどうまい気がする

 

タイ料理最高!毎日食っても全然飽きない!と言いたいところだが、飽きた。自分は退屈な人間だなと思う。積極的に観光地を巡る気力もないし、食事に対するこだわりも薄い。音楽以外にやることがない。音楽があってよかった。音楽がなければ破滅をしていたと思う。つまらない人間は、畢竟どこに行ってもつまらないのだ。繁華街では爆音で流れる音楽に欧米人が酔いしれている。私は「うるさいな」と思う。そう思いながら、同時に「なんで俺は一緒に楽しめないのだろう」と思う。みんなが楽しいと思うことも自分も楽しいと思えたら、また、違った人生になっていただろう。そう思いながら、いや、別に一緒に楽しめなくても全然いいや。とも思う。結果、自分自身に帰結する。自分は、結局いまの自分を選択して生きている。

 

車はガソリンで走る。男はロマンで走る。なんかもうロマンしかないのだと思った。夢。愛。志。希望。信頼。自由。理想。言葉はなんでもいい。これらは、すべて『欲』と言い換えることができる。欲望を、綺麗な言葉で言い換えただけのような気がする。欲に支配された自分を、正当化する(ごまかす)ためにある言葉。そんなことを思った。純粋な善意など、この世に存在するのだろうか。権力に抵抗を続ける姿も、乱暴にまとめれば権力的だ。それを悪いとは思わない。むしろ、自然だ。人間には欲望がある。欲望とは、生きる力だ。食べなければ死ぬ(やばい、不食のひともいる)し、眠らなければ死ぬ(やばい、不眠のひともいる)。暇だから、自分の欲望をじっと眺めてみる。俺は、なんのために生きたいと思うのだろうか。出てきた答えは、とんでもなく青臭い言葉だった。それは『ロマン』だった。

 

この世で一番ロマンチックな言葉は『革命』だと思う。小学校時代、私は少年野球チームに所属していた。野球の醍醐味はホームランだ。私は常にホームランを狙っていた。そのためスイングも大きく、派手な空振りを繰り返した。私が一番魅力を覚えた言葉は『逆転サヨナラホームラン』だった。当たり前のことだが、逆転ホームランは負けている人間にしか打てない。私は、当時から下克上という言葉にとんでもない魅力を覚えていた。勝てるはずはないと言われていたチームが、全部をひっくり返して逆転勝利をおさめる。そこにたまらない魅力を覚えていた。勝てるチームが勝ってもつまらない。なぜなら、それは当たり前のことだからだ。勝てるはずのないチームが勝つ。そこに魅力がある。奇跡を起こす。予定調和が崩される瞬間。革命とは、なにかをひっくり返すことだ。私は、そこに『ロマン』を覚える。

 

note.mu

 

わたり文庫『サウスバウンド』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、奥田英朗著作『サウスバウンド』です。めちゃめちゃ大好きな本なのでみなさま是非読んでください。面白い本に出会うと「読書とは本当に素晴らしい体験だ」と思えます。上原二郎のおかあさん(御茶ノ水ジャンヌダルク)は言いました。世間なんて小さいの。世間は歴史も作らないし、人も救わない。正義でもないし、基準でもない。世間なんて、戦わない人を慰めるだけのものなのよ。と。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※

 

世の中にはな、最後まで抵抗することで徐々に変わっていくことがあるんだ。

奥田英朗『サウスバウンド』【角川文庫】

 

誰にもわかってもらえない部分、それこそが自分だ。

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「虚空」 撮影・ベストフレンド

 

何回も書いているけれど「社会不適合者って言葉もあるけど、自殺者三万人、鬱病患者100万人の社会に適応したらおかしくならないほうがおかしい」と思う。必要なのは、適応よりも開墾だ。常識のカルティベーションだ。生きているこころがなにかをおかしいと思う。おかしいのは自分なのか。おかしいのは社会なのか。おかしいのは自分だと思うと奴隷になる。あるいは、鬱病になる。おかしいのは社会なんだと思うと、革命家になる。あるいは、ロックンローラーになる。革命とは、なにかをひっくり返すことだ。と、ここまで書きながらはっきりと思った。俺は中二病なのだ。おとなになれないおとななのだ。そんなんじゃ生きていけないよと言われても「そこまでして生きていきたくねーよ」と思っているのだ。そんなんじゃ社会はまわらねえよと言われても「そんな社会はいらねーよ」と思っているのだ。

 

なにかをやりたいと思う。それは、そこに光を見たからだ。音楽をやる自分は、過去、音楽に光を見た。社会活動をやる人間は、過去、そこに光を見たのだろう。それは正しい光ではなかったかもしれない。多くの人から見れば、取るに足りない光だったかもしれない。でも、それでもなお、その人自身からすれば『確かに見た光』だったことに変わりはない。正しいからそれをやるのではなく、ただ、そこに光を見たからこそ、それをやりたいと思う。なにかを美しいと思う。なにかを素晴らしいと思う。なにかを見て「自分もこうありたい」と思う。そのとき、心を震わせたものは『ロマン』の光だ。ロマンを見たから、憧れを覚えたからこそ、そこに近づきたいと思う。それは、金になるとかならないとか、世間に認められるとかられないとか、そういう世界を超えている。ロマンがある。そこに感じるロマンがあるからこそ、何度でも立ち上がる勇気を得る。自分を使って、ロマンを継承する。

 

と、ここまで書いたところで日本人女性に声をかけていただいた。彼女いわく「彼氏が大ファンなんです!」とのこと。なんということでしょう。という訳で、これからみんなで一緒にスイカジュースを飲むことになった。自分みたいな生き方でも、支持(?)をしてくださる人々がいることはうれしい。常識を強制しあう関係性より、常識を拡張しあう関係性の方が、端的に楽しいと思う。自分という人間を使って「こんな生き方もできたよ」ということを、わずかでも証明できたら爽やかだ。このような生き方が、まるで通用することなくダメになることがあれば、そのときは「ダメでした」と言って死ねばいい。裏を見せ、表を見せて、散るもみじ。だがしかし別に死にたい訳ではないので、どこまでやれるか試してみたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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心配よりも、信頼をしよう。

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タイのバンコクにいる。路上に腰掛け、虚空を見つめたり、虚空に見つめられたりしている。何をしたらいいのかわからない。昨夜はバンコク在住Y様の家にお世話になった。いい人(という表現は語弊があるが)に出会うと「生きていこう」と思える。二週間の滞在で予算は三万円。宿代に毎日千円かけたとして、1日千円は食費に充てられる計算だ。が、どうしても「安全なうちは本当じゃない」などと考えてしまう自分がいる。ゼロになってからが勝負だ。自分を追い込み、自分を守る自分を蹴飛ばし、もうダメだと思った(自力を超えた)とき『真の他力』に出会う。

 

 

おおまかなスケジュール

7月3日以降、FREE@タイ界隈【呼ばれた場所に行きます!】
7月17日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます!】
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

圧倒的肯定力を、胸に。

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練習の風景

 

写真中央の男性(私)を「ああ、この人はこのあとタイでお亡くなりになったのだ」的な視点で眺めると、ちょっとばかりジーンとする。生きていると腹が立ったり理不尽な仕打ちを受けることもあるが、みんな、最後には死ぬんだよなと思うと赦せる。赦せるばかりか、何かが輝く。最近、複数名から「坂爪さんが死んでしまいそうで心配です」と言われた。あまりにも言われるから「本当に死ぬよ?」って思った。言葉には二種類ある。祈りか。呪いか。心配はありがたいが、呪いをかけられている気持ちになった。できることならば、祈りを。心配よりも、信頼を。数ヶ月前に作った『ねえ』という曲に「ここで死ぬならそれまでのことだよねえ。まだ生きているそのことが答えだねえ」という歌詞がある。きっと、そんな感じだ。

 

note.mu

 

Agapeというバンド名で活動している。直訳すると『神の愛』になる。神の愛を伝える。そのための道具になる。そのために音楽をやる。そういう初心を忘れたくないと思う。歌うと、稀に、自分が透明になれる感覚を覚える。してもらえないこと(してもらえなかったこと)を考えると疲れる。しかし、自分にできることを考えると、力が湧く。前に、究極的に落ちていた時期に「こんな自分にも、誰かの幸せを願うことはできる」と思った。人間の行為の中で、多分、一番美しいものは祈りだと思う。私は、誰かになにかをして『あげる』という表現が苦手だ。上から目線で、傲慢な考え方だと思う。誰かになにかをしてあげるとき、それは、なにかを『させていただいている』のだと思う。誰かのためではなく、自分のために、やらせてもらっている。自分を好きになるために、やらせてもらっているのだと思う。

 

note.mu

 

知性に触れると嬉しくなる。東京で開催されたミニライブに男性N様が来てくれた。僭越ながら、N様から「坂爪さんは、アラジンに似ている」と言っていただいた。軽妙洒脱な雰囲気が似ているのだという。N様に言われたのでとても嬉しかった。その後、N様に問われた。自分にとって美しさを感じるかどうか、ということはとても大事なことで、坂爪さんの文章を読んでいると同じものを大事にしている気がする。美意識、とでも言えばいいのかな。仕事などをしていると「俺、穢れているなあ」と思うこともしきりですが、美意識が自分を取り戻す軸になっています。坂爪さんは、生きる上で大事にしている概念ってありますか???と。私は、しばらく考えたあとに「嬉しさ」と答えた。嬉しさを感じるか、否か。それは、自分にとってとても大事なものさしになっている。その後、N様から届いた感想メールに、私はとても大きな嬉しさを覚えた。いい人に出会うと「生きていこう」と思える。N様と出会えた。それだけでも、東京でミニライブを開催してよかったと思った(もちろん、他にもやってよかったと思えた出来事は大量にあります!!)。

 

坂爪さん、本日3時のライブでお話させてもらった○○です。

嬉しい時間と元気と勇気を頂きました。
ありがとうございます。
現場では感想が言葉にまとまらなかったので、少しばかり。

アガペーの音楽は、これがメッセージだ!と自己陶酔したり押し付けがましくするわけでもなく、お客さんのために歌います!と恩着せがましくするわけでもなく、ただただ、自らが音楽を奏でる喜びと、どこかで共感できたら嬉しいなという品の良い軽やかな祈りを纏っていました。

生きているうちに無意識に溜まった“思い込みの穢れ”を少しずつ祓ってくれるような時間でした。
バンドの皆さんの醸し出す雰囲気も、素朴で温かく柔らかで、 自由時間のぎこちなさも“らしくて”良かったです。
「あ、これでいいんだ。ちゃんとしなくていいんだ。」とw

その後の坂爪さんとのお話で印象的だったのは(うろ覚えですが)「嬉しく美しく楽しく生きるために、過去の自分を乗り越えて成長するために、自分と喧嘩&仲直りを繰り返すことで、自分との絆が出来た気がする。」的な言葉。

自信や自分軸を持つアプローチとしても、自分に喧嘩をふっかけるヤンキーのカツアゲみたいな逆説的な手法は、むしろ本質的な気がしたし、何より面白かったです。

また会いに行きますね。
「会いに行けるアイドル」ではなく、「愛に生きるアラジン」にw  

○○○○

 

gochamaze.hatenablog.com

 

心配よりも、信頼をしよう。

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とても音がくがとてもたのしくてともだちともあそんでとてもたのしいいちにち


小学2年生の女の子が定期演奏会の感想をくれた。超かわいかった。最近思う。巷では「愛は無条件」みたいなことを言われるが、本当だろうか。誰かに腹を立てたとき、愛は無条件ということになれば、腹を立てる自分には愛がないということになる。これは、本当だろうか。許すことが愛。受け入れることが愛。頭ではわかる。しかし、誰かに何かを言いたいと思ったときに「これを言うことは愛に反する」などと考えて自分の思いを引っ込めることは、自分を傷つけることにならないだろうか。ぶつかり合いを避ける関係性に、自分を取り繕って生きる関係性に、自分が無理をすることで維持をされる関係性に、果たして、真の『絆』は宿るのだろうか。自分を押し殺したままでは、心の一部はさみしいままではないだろうか。

 

似た言葉に「ジャッジをしない」と言う言葉もある。良いも悪いもない。だから、ジャッジをすることはいけないことだ。と。本当だろうか。私は、嘘だと思う。人間なのだから、ジャッジをしてしまうことが本当だと思う。ジャッジをしてしまう上で、どう生きるか、という話なのだと思う。「ジャッジをするのはいけないことだ」という言葉自体が、おい、ジャッジをしてるじゃねえかと私は思う。賢者ぶってんじゃないよと頭にくる。同じような言葉に「比べない」というものもある。頭ではわかる。誰かと比較をして自分をすり減らすことは、自分にもある。しかし、人間なのだから、誰かと比べてしまうことが本当だと思う。ジャッジをすることは当たり前のこと。誰かと比べてしまうことも当たり前のこと。自然な、心の働きだと思う。心の働き(自然)を否定することは、生命力を剥奪する。だからこそ、そういうことをしてしまう人間であるからこそ、どう生きるか、という話なのだと思う。そこで、私は、大事にしたい感覚のひとつが『嬉しさ』ということになる。

 

比較とは「こっちじゃない!」のサインだと思う。嫉妬する対象、悔しさを覚える対象は、実は「そっちじゃない!そっちに行くな!」ということを伝えている。思い出して欲しい。本当に素晴らしいものに出会ったとき、胸に抱いた感情は嫉妬でも劣等感でも悔しさでもないはずだ。本当に素晴らしいものは、ただただ、受け取る側の人間に嬉しさを刻む。その嬉しさは、ああ、自分はこのままでいいんだと思える嬉しさに似ている。音楽も似ている。かっこいいと思う音楽は大量にある。しかし、かっこよさばかりを追い求めると、必ず、疲れる。しかし、真に素晴らしい音楽は嬉しさを刻む。かっこいい音楽は大量にある。しかし、嬉しさを与える音楽は意外と少ない。だからこそ、私は、嬉しさを感じるものを指標にしたい。嬉しさとは、圧倒的肯定力を伴ったものだ。聞く側の人間に「いいんだ、このままでいいんだ」と思わせるものだ。そして、なにかを強制する感じではなく、自然な心の働きとして「自分もこうなりたい。自分もこうありたい」と思わせてくれるものだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

photographed by Chihiro Igarashi

 

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LINE ID ibaya

神と踊る。

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横浜駅前のドトールにいる。休むことが下手だ。鬱病だった時期、周囲から「いまは休めばいいのよ」と言われた。私は、そう言われることが苦痛だった。休むことがどれだけ大変か、お前にわかるのか。とか。横になっていても頭は常にフル回転なんだよ。とか。俺に休みかたを教えてください。とか。そういうことを思った。時は流れてナウ。鬱病は完治したが、引き続き休みかたを知らない。無意識に呼吸は続く。呼吸は休まない。だから、俺は呼吸と同じなのだと思うことにした。

 

 

おおまかなスケジュール

6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
7月1日 【昼】15時【夜】19時 東京公演@東京都日本橋「モリモトハウス」
7月2日 15時頃 
ドンムアン空港到着以降、FREE!

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

男は、死んでから眠るもの。

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結果的に「あの世でゆっくり眠れればいい」とかなんとか言っちゃって、今日も動く。7月2日からタイのバンコクに行く。行った途端に暇になる(誰か「タイに行くならここがいいよ!」などあれば教えてください)。音楽修行と銘打っているが、ただ、日本を出たいだけなのだと思う。海外旅行は一人暮らしと似ている。実家を出ることで、家族や故郷のありがたみを知る。最近、保科さんと「日本はゾンビ大国かもしれない!」みたいなことを語った。誤解を恐れながら言うと、こりゃもう、こんな国にいたら頭がおかしくならない方がおかしいよね、みたいに感じることは毎日ある。日本を離れると、日本の良さを気づく。普段は忘れている良さを取り戻すために、憎むためではなく愛を取り戻すために、一度、離れる必要がある。

 

闇という漢字がある。昔から、なぜ、闇の中に『音』があるのか気になっていた。音楽をはじめたいま、漢字の成り立ちを(白川静さんを参考にしながら)改めて調べた。俺調べによると、音と、まったく似ている漢字がある。それが『言』だ。上の部分は、もとは、同じ象形文字だったらしい。だから、音と言の違いは、下が『日』か『口』かの違いでしかない。この説明でわかるだろうか。不安だが、続けます。そして、口という漢字は、顔にある口がもとになってできた漢字ではないらしい。口の象形文字は『容器に、なにかがはいっている状態』から生まれた。容器とは、祝詞のことである。だから、目には見えないものだ。目には見えないものに、なにかが満ちている状態。要するに、祈りが込められている状態が『口』ということになる。祈りを込め、神に捧げる。人間にできることは、ここまでになる。

 

太古から、日本は言葉を大事にしてきた。言霊という言葉もある。だから、言葉を軽々しく扱う人間は、釘刺しにして処刑された。その、言葉を軽々しく扱ったら釘刺しにするぞっていう思いが、口の上にある四本の線に現れている。四本の線(釘)と、口、それによって『言』という漢字は生まれた。軽々しく扱うと、釘打ちの刑に遭うもの。それが『言』だ。こわい言葉なのである。そして『日』という感じの成り立ちを調べた。神に捧げた祈り(『口』)に、神様が応える。すると、容器の中にさざなみが立って、口は『日』になる。そう。日という漢字も、太陽がもとになって生まれた漢字ではないのだ。『日』の成り立ちは、祝詞に、神様がレスポンスを与えている状態を意味する。言葉は、人間が成し得ること。音楽は、神様がレスポンスを与えた状態。死ぬほど乱暴にまとめると、こういうことになる。

 

note.mu

 

わたり文庫『星の王子さま

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、サン=テグジュペリ著作『星の王子さま』です。王子さまとバラの関係、王子さまとキツネの関係には、惹かれるものがたくさんあります。ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった!ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった。あの花はぼくをいい香りでつつんでくれたし、ぼくの星を明るくしてくれたんだ。ぼくは、逃げだしたりしちゃいけなかった!あれこれ言うかげには愛情があったことを、見ぬくべきだった。花って、ほんとに矛盾してるんだね!でもぼくはまだ、あまりに子どもで、あの花を愛することができなかった。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

君がバラのために使った時間が長ければ長いほど、バラは君にとって大切な存在になるんだ。

君は、飼いならしたものしか知ることができないんだよ。
人間たちには、もう何かを知るための時間がない。
だから、お店に行って、出来合いのものを買うだけさ。
だけど、友だちはどこにも売っていないから、人間たちは友だちを持っていないんだ。

サン=テグジュペリ星の王子さま』【新潮文庫

 

神と踊る。

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雨上がり

 

スイスには『人間の混乱と神の摂理』という諺がある。闇という漢字は、乱暴にまとめると「神は夜に来る」ことを意味する。我々は、苦しみたくないと思う。できることなら楽しみながら生きたいと思う。しかし、生きている限り、苦しみを避けることはできない。辛い。苦しい。悲しい。時には「死にたい」とさえ思うことだってある。しかし、死にたいと思うとき、自分が苦しみに置かれているまさにその瞬間、そのひとは神と交わっているのだ。苦しみ(夜)のなかで、ひとは、神に出会う。神は夜に来る。そういうニュアンスの言葉が、闇という言葉になる。これにはちょっとびっくりした。そういえば、先日、私は強烈な腹痛に苛まれ、トイレで悶絶していた。冷や汗をダラダラ流して目の前も真っ白になり、朦朧とする意識の中で「神様ごめんなさい悪いことはもうしませんから許してください」みたいなことを、思った。そう。私は、死域を漂う苦悶のなかで、神と交合した(違うか)。

 

皮肉なことに、苦しいときほど、さみしいときほど、良い言葉(良い音楽)が生まれることは多い。幸せなとき、ひとは、言葉も音楽も必要としない。ただ、幸福感のまっただなかを漂っていればいい。神が訪れる必要もない。だが、逆境に置かれたとき、苦しみの渦中にいるときこそ、神は、その気配を濃厚にする。『闇』という言葉は、ネガティブな意味合いで使われることが多い。しかし、闇は、希望だ。そこには『神が来る』という最初で最後の希望がある。振り返ってみればわかる。もうダメだ。そう思ったときほど、奇跡は起こる。所持金がゼロになると、銀河の彼方から施しが舞い込む。俺は終わった。そう思ったときほど、そのときの苦しみが「自分をタフにする」最高の出来事であったことに、後で気付く。そのときは苦しみでしかなかったものが、実は、最高のギフトであったということを思い知る。

 

言語学者白川静さんは『遊』という漢字を愛した。この言葉は、要約すると「人間は、人間だけで遊ぶことはできない。神が遊ぶとき、はじめて、一緒になって人間も遊ぶことができる」という意味合いの言葉になる。深い言葉である。いま、私は、音楽をやっている。苦しいこともあるが、音楽をやっていなければ絶対に味わえなかったよろこびもある。自分の心が「最高だ」と感じること。その瞬間が、また、音楽をやりたいと思わせる。人生は捨てたものじゃないと思わせる。このひとたちと生きていきたいと思わせる。そして、音楽のある「この世界を生きていきたい」と思わせる。楽しいと思う。きっと、それがゴールなのだと思う。楽しむひとの姿を見て、周囲のひとたちも、つられて楽しく感じるような、ポジティブな循環を起こしたい。なにかを好きになるということは、生きていきたいと思うことだ。

 

 

https://www.instagram.com/p/BzUD5rfgyZx/

Love is always with you

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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戦う限り、負けない。

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菊名駅前のコロラドにいる。雨。寒い。梅雨。湿度。朝5時。雨音で目覚める。テントの中。寒い。お湯を沸かす。湯気。暖気。お湯。飲む。早朝、一番崇高な時間。この時間帯に思ったことが、1日の質を決める(気がする)。戦う限り負けない。なぜ生きるか。それは「勝つため」ではないと思う。私の場合「負けないため」だ。勝ちたいとは思わない(たまに思う)。ただ、負けたくないとは、思う。

 

 

おおまかなスケジュール

6月24日以降 死に支度、いたせいたせと、菊名かな
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
7月2日 15時頃 ドンムアン空港到着以降、FREE!

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

世界には、こんなに楽しいことがあったのか。 

ひたすら曲を作り続けている。駄曲の数々。創作は孤独だ。毎日作ると「もう、俺からはなにも出てこないよ」と思う。それでも作る。作ろうとする意思を持つ。気力はなくとも、楽器を持つ。椅子に座る。ノートを広げる。言葉を綴る。作ろうとする意思をもつと、不思議なことに、言葉が出る。音楽が出る。創作に疲れて「もうやめたい」などと思いながら、創作によって励まされている自分を見る。人間関係と似ている。人間に疲れ、人間に嫌気が差す時もあれば、人間に救われることもある。創作の時間は孤独だが、音をあわせる時間はたまらない。ああ、音楽をはじめてよかったと思える最高の瞬間のひとつだ。やめないでよかった。心から思う。

 

千葉県で開催されたライブ出演直前、女性Mさんからもらった言葉。楽しんでほしい。失敗しないようにやるんじゃなくて、楽しみながらやってほしい。楽しむ姿を見て、自分たちも一緒に楽しむことができる。間違えたときも、ああ、間違えたって閉じてしまわないで。堂々と間違えて、間違えたことも楽しんでほしい。と。大事な言葉だと思う。どれだけ正しいことをやっていても、当事者たちが「楽しそう」でなければ、見ている側も窮屈になる。私達は、多分、誰もが『自由』を感じたくて生きている。自由に触れるとうれしくなり、自由を奪われると悲しくなる。自由を『愛』や『よろこび』に置き換えてもいい。楽しんでほしい。この言葉は、多分、人類全体に共通する祈りだ。誰もが、大切なひとには「生きることを楽しんでほしい」と願うだろう。完璧であることより、完全無欠であることよりも、無様でも、不器用でも、不完全でも「楽しみながら生きてほしい」と、願うだろう。

 

反対のないもの。そこに興味がある。誰かを「優しいひと」「冷たいひと」「明るいひと」「無口なひと」などと表現するとき、必ず、何かを取りこぼす。言葉は足りない。誰にでも、それだけじゃない部分がある。誰かを「優しいひと」と形容するとき、同時に、そのひとの『優しくない部分』が浮き彫りになる。対義語のない言葉、反対のない言葉を通じて、自分の好きなものを表現できたらと思う。そのもののど真ん中。そのひとのど真ん中。それを表現したい。音楽をやっていると、稀に『ど真ん中』を体験できる瞬間がある。ただ、そうであること。ただ、それでしかないこと。瞬間的なものだとしても、何かが合致した時、我々は、高次の次元に引き上げられる。ただ、そうでしかないことの境地。それは、おそらく『遊び』を通じて辿り着く境地。楽しいのなかには、全部ある。遊びのなかには、全部ある。

 

note.mu

 

わたり文庫『代表的日本人』 

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、内村鑑三著作『代表的日本人』です。生き方に迷う時、私は、長く親しんできた本を手に取る。そこには、自分の原点のようなもの、初期衝動のようなものが書かれている。たとえば、西郷隆盛の「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」という言葉。自分は、自分の『好き』を通じて、自分をチューニングするのだろう。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

誠の世界は常に密室である。そのなかで強い人は、どこにあっても強い。

 

命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。

 

「天」と、その法と、その機会とを信じた西郷は、また自己自身をも信じる人でありました。「天」を信じることは、常に自己自身を信じることをも意味するからです。

内村鑑三『代表的日本人(西郷隆盛・新日本の創設者)』【岩波文庫

 

戦う限り、負けない。

強制収容所の体験記を読んだ。過酷な状況で生き延びた人間は、不思議なことに、体力のある人間より「繊細な人間」だった。そして、極限の状況の中に置かれても、最後まで奪われることのなかったものが『音楽』と『ユーモア』だったという。どれだけ腹をすかしていても、自分に残された最後の食糧と引き換えにしてでも、不定期で開催された音楽の催しに集まる人間は、決して少なくなかったという。繊細な人間は、言い換えれば「情操豊かな人間」とも言える。ささいな出来事に、芸術性を見いだせる人間とも言える。強制収容所では、希望をなくした人間から、死んでいった。希望を抱き続けた人間は、強制収容所でも自分を保ち続けた。

 

ある心理学者は、強制収容所での数々の体験を、いつの日か、大勢の聴衆の前で語る自分を想像しながら、日々を乗り越えた。ここでの体験が、いつの日か、必ず報われる瞬間が来る。そう信じることが希望となり、彼を『生きる』方向に向かわせた。強制収容所と、いまの日本は、まったく違うもののようで「どこか似ている」と思う。それは、希望の欠如だ。私達には、どのような環境に置かれても「そこでどう動くか」を決める自由がある。態度決定の自由だ。逆に言えば、希望を失うことは、意思を失うことと似ている。意思を失うと、環境の奴隷になる。蔓延する諦めのムードに蝕まれ、自分を保つことが難しくなる。「なにをしても無駄」という気分が蔓延すると、自分を捨てることが賢明なこととなり、自分を出すこと、夢を見ること、希望を抱くことは「愚かなこと」になる。そして、夢は、希望は、次々とその芽を摘み取られてしまう。賢明であるために。この世を生き延びるために。

 

ここでいきなり突拍子もないことを言うけれど、私は、孤独死でもいいじゃないかと思う。みんなに囲まれながら死ぬことがひとつの終わりなら、人知れず、こっそり息を引き取ることもひとつの終わりだ。自分がどれだけ生きたのかは、おそらく、自分が死ぬ瞬間にわかるのだろう(わからないかもしれない)。自分がごまかしてきたものと、自分がごまかさないできたもの。自分が避けてきたものと、自分が貫いてきたもの。自分が愛してきたもの。自分が愛されてきたもの。私は、今朝、負けたくないと思った。自分を大事にするということは、自分の『希望』を大事にするということだ。自分に嘘をつくくらいなら、自分をごまかすくらいなら、自分を貶めるくらいなら、自分の希望を貶めるくらいなら、私は、私に「孤独死を贈りたい」と思う。その孤独は、きっと、遥かに充実した孤独であるように思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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本当の生き方をすれば、本当の人間に出会える。

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静岡県熱海市デニーズにいる。一応、いま、熱海と横浜で「誰でも自由に使える家」的な活動(?)をやっている。駆け込み寺のように使われることも多く、布団が足りなくなったり、精神的に「無理!」となったとき、私は、野宿をしたり漫画喫茶に行ったり東横インに泊まったりする(無論自腹)。夜の街を歩きながら、ああ、何処かに「誰でも自由に使える家」はないかなあと思いを馳せる、この、矛盾。矛盾と言うか、ギャグみたいだ。一体、私はなにをやっているのだろうか。

 

 

おおまかなスケジュール

6月21日以降、FREE!【東京でイベントをやりたい!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

7月2日 15時頃 バンコクドンムアン空港到着以降、FREE!
(ギターを預けるよりも現地で買った方が安いかもしれないと思い、手ぶらで行くことになりました。誰か、バンコク界隈で「ギター余ってるよ!」的な方がいたら、お願いがあります。そのギター、あたしに売ってください)

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

家主はつらいよ。

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佐賀は非常に良いところでした。

 

精神的に追い詰められ、一旦、熱海の逢初庵を閉めた。ようやく落ち着きを取り戻した私は、再び、この家を開放することに決めた。これまでは「家の鍵は空いているので誰でもいつでも使ってください」スタイルだったが、これからは「使いたい人は事前に連絡をいただけたら助かります」スタイルに変える。なぜか。開放し過ぎたあまり、粗雑に使われていろいろ壊れるという憂き目を見たからだ。多くの場合、利用者の方々はこの家を大切に使ってくれる。掃除をしてくださる方や、光熱費を能動的に支払ってくださる方もいる。しかし、99人の善意も、1人の悪意で簡単に木っ端微塵になる。そのことを、実感した出来事があったのだ。これは非常にいたたまれない。自分が大事にしているものが、粗雑に扱われる瞬間はつらい。 

 

www.youtube.com

 

熱海の家。利用料金はかからない。何泊滞在しても無料。布団は二組ある。冷蔵庫にあるものも、押入れにあるものも、この家にあるものは全部無料で使っていい。玄関には財布も掲げてある。みんなの財布だ。出すのも自由。入れるのも自由。好きにして欲しい。家の名前は逢初庵(あいぞめあん)。活動開始時に「はじめてそれを見たときのような、新鮮な気持ちで生きることができたなら」という思いを込めた。この家は、譲り受けたものになる。だから、自分一人で使うことは違うと思った。横浜の家も同じだ。自分の家であって、自分の家ではない。使わせて『いただいている』ものだ。この『いただいている』という感覚が薄れた時、邪気にまみれる。当たり前なんてない。時折、利用者の一部に「ここは自由なんでしょ!じゃあ、なにをしてもいいってことだよね!」的なノリで、アホみたいに騒ぐ人間がいる。私は、そういう連中をこらしめる。ここはそういう場所じゃないんだよ。と。

 

gochamazekikuna.wixsite.com

 

イメージは神社や教会に近い。私は、ルールが嫌いだ。だから部屋中に張り紙をしたり、ルールブックを作るとかを絶対にしたくない。ルールで縛られている間は本当じゃない。神社感、教会感を目指したい。神社や教会にルールブックなんてない。だが、空気感を通じて「ここは騒ぐ場所じゃない。見定める場所なんだよ」的な雰囲気を醸し出す。来訪者の方々は、一様に「なんだか来る前はすごい緊張しました」と言う。緊張させちゃって悪かったなあ、と思う反面「それは正常な反応だ」と思う。緊張感のない人間が、アホみたいに騒ぐのである。と、こんなことを書くと余計近寄りがたくなるとは思いますが、熱海、横浜、門戸は常に開かれています。もしも「そんな逢初庵(あるいはGOCHAMAZE no IE)を見てみたい!泊まりたい!」と思われた方がいたら、事前にご連絡をいただけましたら助かります。

 

note.mu

 

わたり文庫『自分を信じて生きる』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、松木正著作『自分を信じて生きる』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性が「坂爪さんに読んでもらえたらうれしいです!」と、わざわざ御郵送をしていただいた一冊になります。自分を信じる。大事なことだ。自信を保つためには、多分、ふたつ必要になる。自分が自分を信じること。苦難を乗り越える体験などを通じて、自分自身に対する信頼を取り戻すこと。そして、もうひとつは「自分以上に、誰かに自分を信じてもらうこと」。この、二種類の自信が必要だと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

アンクル・ロイがぼくを見てこう言った。

「タダシ、判断を急ぎすぎてはいけない。何が起きているのか、よーく見るんだ。そうすると、いつしか頭ではなくハートが『よし!』と判断をくだすときが来る。それを覚悟というんだ」

この言葉は、強烈に心に響いた。

松木正『自分を信じて生きる』【小学館

 

本当の生き方をすれば、本当の人間に出会える。

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東京の夕日

 

ブログを書くたびに批判され、音楽を更新するたびに罵倒される。なにかするたびに一々傷つくのは、調練の不足か。会う人に「坂爪さんは自由だから、何を言われても平気ですよね!」などと言われるが、違う。私は、一々、傷ついている。傷つきながら、いまの生き方をやめることができない。何か言われると「今に見てろよコンチクショー!」みたいな気持ちになる。怒りや、復讐を、ガソリンにして高速道路をぶっ飛ばしたくなる。が、怒りや、復讐は、一時的なものに留めたい。自分の純粋な思いを、怒りや、復讐などの感情で濁らされてたまるか。私は、あくまでも『喜び』をベースに、言葉を綴ったり、音楽を作ったりしたい。言葉の素晴らしさ、音楽の素晴らしさを忘れたくない。そうでなければ、怒りをベースにビーガンを推奨する人々や、怒りをベースに猫カフェを営業する人々や、怒りをベースに政治批判を続ける人々と、似た雰囲気を帯びてしまう(口が悪くてごめんなさい)。

 

悔しさでは戦わないと決めた。無論、生きていれば悔しくなることはある。いまにみておれと思う。しかし、大前提は『喜び』のために、生きていたいのだ。自分が愛するものを、自分を正当化するために使いたくない。油断をしていると、競争の世界で苦悶する。誰かよりも優れることが、自分の価値であるかのような錯覚をする。が、多分、その先に幸福はない。あるのは、摩耗する日々、絶えざる欲求不満の日々だ。本来、比べられるはずのないものを、比べる世界に摩耗は絶えない。幸福とは一体感であり、不幸とは分離感だと思う。「俺が、俺が」となるほど、案外、不幸になる。音楽をやっていると思う。人間、同じ人間だと思う。多くの人々は夕日を美しいと思うし、走ると疲れるし、愛するひとを失えば苦しくなるし、煩悩や矛盾や軋轢を抱えているし、さみしさを覚えることも、消えてなくなりたくなることもある。多様性が叫ばれるが、私は、人間のど真ん中を射抜きたいと思う。

 

さみしいな、と思うことがある。同時に「本当の生き方をしていたら、本当の人間に出会える」ような気もする。では、本当とは、なんだろう。わからない。ただ、誠実であること、とは、思う。それは世間的なルールに誠実であるということより、自分が思う『美しさ』に対して、誠実であることだと思う。自分が感じる誠実さに、我が身を賭して投げ出すこと。美しささえ、流れていく。それは安定せず、形を変えたり、美しさそのものを更新したりする。その流れに翻弄されながらも、必死に、必死に、懸命に食らいつくこと。追い求めること。それが、誠実さだと思う。誠実という漢字を眺めてみる。言葉が成って、実る。いい言葉だ。まだまだ自分は未熟者で、芯はぶれる。しかし、ぶれながら、ぶれながら、自分の芯を見定める。ぶれることで、芯の存在に気づくのだ。誠実であること。誠実であることのなかで、傷ついたり、これは本物だ!などと思ったりしながら、人間のど真ん中を見定めたい。言葉が成って、実る。自分の言葉に、嘘のない生き方をしたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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