いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

世間体を捨てると楽になる。 

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『他人の修羅場は蜜の味』とはよく言ったもので、修羅場の話を聞くと興奮する。ある日、ある女性が、彼氏じゃない男性と一緒にお風呂にはいっていた。すると、そこに彼氏(私の友達)が登場をして「なにしとるんじゃああああ!!」という状態になった。彼氏は男をボコボコに殴る。彼女は「やめてーーー!」と絶叫する。彼氏は、悪鬼顔負けの形相を浮かべながら、恐ろしいほどに落ち着いた声で「誰が、なにをやめるというんだい??」と問い返す。鳥肌が泡立つほどの修羅場である。生々しい人間の姿に触れると、なにかこう、『グッ!』とくるものがある。

 

 

沖縄を経由して福岡にきた。福岡が想像以上に寒いから無印良品で毛布を買いそうになった。各種電子機器類の電池がなくなり、いま、慌てて最寄りのタリーズに駆け込み充電をしながら無料WiFiを拾ってディスカバリーチャンネルのサバイバル動画を見ている。ここにいると「タリーズは俺の別荘だな」とか思う。家はなくても、自分は貧しいままでも、世界は勝手に豊かになる。どこにいても、まるで自邸にいる時のように寛ぐ能力を磨くこと。寄生力とでも言えばいいだろうか。この能力を極めると、お金はなくても幸せになれる。

 

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管理事務所に火をつけろ。 

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自作の封筒と水引

 

さっきまで福岡空港近くの東平尾公園野点カンタービレをやっていた。久留米在住の女性Y様が福岡空港まで車で迎えに来てくださり、博多うどんをご馳走になり、御礼に東平尾公園でコーヒーを淹れた。公園に行くと看板がある。そこには「ボール遊びをするな」だの「寝るな」だの「焚き火をするな」だの管理事務所による規制規制のオンパレードが書かれてある。私は、こういう看板を見るとドロップキックをしたくなる。人間、規則で縛られているうちはまったく本当じゃないと思う。野田知佑さんが著書『本日順風(アウトドア人生相談)』のなかで、私の感じる違和感を見事に代弁してくれている。

 

Q・この前、あるカヌークラブに入ろうと思い、行ってみたら、その会は入会金も会則もなんにもなく、何をやってもよろしいという。いつ誰でも入れるし、いつ辞めてもいいという、とてもでたらめな会でした。そんなだらしない会に入る気はせず、早々に辞退してきました。北海道のカヌークラブでちゃんとしたクラブを知っていたら紹介してください。

 

A・君のような人間は死んだ方がいいと思う。会則のないクラブなんてとてもいいじゃないか。会則がないのなら罰則もないだろう。そういう会は理想だと思うがね。そういうのは「だらしがない」とはいわず「自由な」というのだ。

最近、方々にキャンプ場ができていて、そこに行った人の話を聞くと、ひどいものらしい。罰則だらけなのだ。

人を管理するのが好きという精神はそもそも病的なものであると知りたまえ。弱い人間は他人を管理したがり、規律やルールを好む。弱い人間ほど人間を拘束し、自分を縛るものがないと生きていけない。

ぼくはアウトドアにおけるあらゆる規則、制度に反対する。われわれの頭のなかにある人間としての良識で十分だ。それは「不文律」で、ことさら文章にしたりわめいたりする必要はなかろう。

規則や規律を強調する人間は、自分の良識のなさ、自制心のないことを告白しているのである。自分を縛る規律がないとやっていけない、というのはとても幼稚な精神だ。幼稚なガキは判断力や価値観がない。ルールがないと不安になる。だから自分の上に立って強く命令してくれる人を欲しがる、その結果、独裁者ができるという構図がある。自由になれない奴、石頭の教条主義者は死ね、というのが当、身の上相談の不文律である。


野田知佑『本日順風』【文春文庫】 より引用

 

東平尾公園で淹れたコーヒーが美味すぎてみんなで一緒に発狂した。愛用している珈琲ミルは、数年前、高知で非常にお世話になっている女性S様から譲り受けたものになる。今日、前回の投稿を読んだS様から「もし、この話に出てくるミルがあのミルなら、なんか良かったなあと思いながら読みました」とご連絡をいただいた。まさにそのミルを愛用している。S様を思うと胸がとってもホットになる。S様の胸にはどでかい太陽の刺青がはいっている。前、高知県で一緒に「ここの銭湯は刺青がはいっていても大丈夫なんよ」と、昔ながらの銭湯に連れてってもらった。私は「まさにそのミルを愛用しています!」とS様に返信をした。ら、S様は「ありがとう。なんでこんなバカに俺はコーヒーを飲ませたんだって後悔したらミルで殴っていいからな。」と言った。

 

公園に一緒に行ったY様は「はい!」と言って、自作(!)の封筒と水引を差し出した。すべて手作りとのこと。最近、Y様は紙に強い興味があって紙屋さんに行ったら楽しすぎてテンションがぶちあがった。Y様は言う。「前の記事で『自分の好きを貫く』って言ってたけど、それ、本当に大事だと思う。私も、離婚をして実家に戻ってから、ようやく自分の好きを取り戻すことができた。自分を笑顔にすることをやっていたら、お小遣い稼ぎもできるようになった。最近は農作業もはじめたのだけれど楽しい。坂爪さんは恩人です。」と。野点セラピー(?)、ここに極まれり。封筒の中にはなんと一万円札がはいっていた。最近「なんでもやります!」と息巻いている私の友人の嘉向徹さんに、このお金を使って、何か面白いことを頼んでくださいと頼まれた。

 

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世間体を捨てると楽になる。 

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東平尾公園

 

最近、ブログを更新するたびに「あなたにはがっかりしました」と言って去る人々が増えた。これでいいのだと思う。過度な期待をかけてくるひとほど、あとから「あなたにはがっかりしました」的なことを言う。大概、どんなひとがそうなりそうなのかが事前にわかるようになった。彼(女)らには、端的に「甘えるな」と言いたい。いまこそ、我らが阿部さん(いばや野球部キャプテン)の言葉を思い出す。自分の中に勝手な「こうあって欲しい」像をふくらませ、人に押し付けたあげく、望む通りに動いてくれないと勝手に落胆し、批判し、糾弾する。その先に一体何があるのか。はっきり言ってロクな未来はないだろう。この言葉を、彼(女)らの背中に強力接着剤で貼り付けてやりたい。

 

悩みの9割は世間体だと思う。世間体を捨てれば楽になる。昔は、キリスト教に入信するだけで、周囲から迫害されたり「耶蘇を捨てねばお前を殺す」とか言われたりした。頭髪が長いだけで学校を退学になったり、小説を書くだけで死刑になった。いま聞けば笑い話になりそうなことも、当時は真剣に行われていた。何が常識を決めるのか。それは、たまたまその時代の多くの人々が「そういうことになっている」と受け入れたことの集大成に過ぎない。常識が、あなたを幸せにするのならば従えばいい。常識が、あなたを不幸にするものであれば、それは違うと言えるだけの勇気を持たなくちゃいけない。誰が。自分が。自分が嫌だと思うことを受け入れることは、自分が嫌だと思うことに加担をすることになる。加担をする限り、悪習は続く。誰かになにかをやってもらうことを期待すると、前述した「あなたにはがっかりしました」とか言い出す人間が続出をする。自分が甘えていることに無自覚な人間が、雨後の筍のようにあらわれてくる。

 

人見知りという言葉がある。しかし、私は「人見知りな人間なんてこの世にいない」と思う。人見知りなんじゃなくて、ただ、目の前にいる人のことが嫌いなだけ。自分を出すには値しないと感じる人間がいるだけ。軽蔑している人間がいるだけ。コミュニケーションを取れない人間がいるだけ。だって、普通に会話が弾むひとは確実にいるのだから。わかり合おうと努力をしなくても、わかり合える人々が世界には無数にいるのだから。だから、自分のことを人見知りだなんて思う必要はない。コミュ障という言葉も最悪だ。そんな程度の低い言葉で自分をカテゴライズする必要はない。そんなことより、自分は「好き嫌いがはっきりしている、いい感じの人間なんだ」と思っている方がずっといい。たとえ、それが世間が定めた基準とはおおきくかけ離れたものだとしても、自分が「おかしい」と感じるならば、お湯に触ったら熱いと感じることと同じように、それは「おかしい」ものなのだ。

 

 

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人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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