生きることそのものが、生きがいになるように。
「漫湖で寝た」と言いたかったためだけに那覇の漫湖で野営をする。沖縄が寒すぎて、慌てて無印良品で毛布を買った。が、寒いのは初日だけで二日目からはお荷物になった。毛布は半端なくかさばる。が、毛布は半端ない安心感をもたらしてくれる。まるで熊さんをペットに移動をしているみたいだ。これさえあれば「俺はどこでも生きていける」みたいな気持ちになって安心である。が、やっぱり邪魔になったから宅配便で横浜に送った。
良い過去、悪い過去、全部ひっくるめての自分だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年10月14日
美しく生きるとは、優等生の部分だけを引き連れて生きることではない。弱い部分、醜い部分、誰にもわかってもらえない部分、自分の中にある『みんな』を引き連れて生きることだ。
美しく生きる。 - いばや通信 https://t.co/gwAoQn4j5M
今日は1日那覇で時間ができた。各種SNSから「那覇で暇です」と投稿したら、複数名から連絡をいただいた。国際通りの東雲食堂で爆盛りの定食をご馳走になり、瀬長島のおしゃれなカフェで爆盛りのぜんざいをご馳走になり、漫湖公園でお土産のみかんをご馳走になった。正直に言うと、毛布の大打撃によって所持金はゼロに近づいていた。与えられたもので生きる。最近、この言葉を頻繁に思う。与えられたもので生きる。とか。あるもので生きる。とか。あ、これってもしかしたら『サバイバル』とかいうやつかもしれないと思った。
漫湖の紳士
私は屋外でコーヒーを淹れるのが好きだ。真の意味で路頭に迷った時は「めちゃめちゃ心を込めたコーヒーをご馳走するので誰か代わりに食糧をください」というスタイルで乞食(こつじき)をしながら生きることも割と真剣に考えている。今日、那覇で出会った女性にコーヒーをご馳走させていただいた。こちらの女性と実際に会うのは初めてだったが、数年前、私が「大量にこんにゃくをもらったので欲しい人に郵送します!」という企画(?)をやった際に、名乗りをあげてくれた女性だった。
「あの時はありがとうございました。おかげで命救われました。」と彼女。話を聞くと、当時、彼女は電気水道全部を止められてしまい、金も水も食糧もなにもなく、文字通り餓死しかけていたのだと話す。そんななか、こんにゃくの降臨で九死に一生を得たとのこと。まさかあのときのこんにゃくがこんな感じで誰かを救っていたとは、と、私は感動した。遊び感覚でやっていたことが、時に、誰かの命を救うことがある。これはきっと誰にでもあることなのだろう。彼女は、私と出会えたことを過剰に取り乱しながら喜んでくれた。あまりにも錯乱していたものだから「一緒にコーヒーでも飲みませんか?」と提案をした。ら、「飲みます!」と彼女。そこで私は「コーヒー豆を挽いてもらってもいいですか?」とお願いをする。彼女「はい!」。豆を挽きながら彼女「ああ、ものを頼まれるのってうれしいことですね」と深めの呼吸、徐々に落ち着きを取り戻していった。
数秒後、ミルを回しながら彼女は涙を流していた。もう、きっと思うことがあり過ぎて感極まったのだろう。私は何も聞かなかった。何も聞かない自分を(そして、さっと「コーヒーでも飲みませんか?」とか言っちゃう自分を)結構素敵だなと思った。俺、紳士だなあと。あたたかいコーヒーや紅茶は一旦空気を落ち着かせる力がある。コーヒーを淹れる過程には、心を落ち着かせる瞑想効果がある。豆を挽きながら「なんだか、いま、久しぶりに幸せを感じました」と彼女。その後、コーヒーを飲みながら彼女「あ、いま、ようやく風を気持ちいいと感じられるレベルまで落ち着きました」とのこと。話しながら彼女は何回か涙を流した。俺って結構すごいんじゃないかと思った。途中、彼女から「あなたはキリストみたいですね」と言われた。半端ないやつがきたと思った。野点セラピー、ここに極まれり。明日から福岡だ。福岡でも連日野宿だ。17日はイベントだが、空席がすごい。興味のないひとも遊びに来てください。隙間時間は野点カンタービレを極めたいと思った。
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ごちゃまぜの家を救え!対談企画・坂爪圭吾×福岡県のみなさま「孤独の愉しみ方」
🦄🦄🦄今後のスケジュール🦄🦄🦄
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年10月8日
10月11日(木)@沖縄県読谷村https://t.co/KWiRe10v2K
10月17日(水)@福岡県福岡市https://t.co/gOVBA0tXMf
10月20日(土)@大阪府能勢町https://t.co/5H3cBKHiVd
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生きることそのものが、生きがいになるように。
久高島から那覇市内に戻ると超絶うるさい選挙カーが街中を走り回っていた。私は、選挙カーほど醜いものはないと思っているので「この国に生まれた自分が恥ずかしい」と思って消えたくなった。このままじゃやばい。このままだと死ぬと思って慌てて最寄りのタリーズに逃げ込んで無料WiFiを拾いディスカバリーチャンネルのサバイバル動画を見た。大自然のなか、懸命に生きようとしている人間の姿に触れると、それだけで「俺も生きよう」みたいな気持ちになる。魚が釣れたことを全身全霊でよろこんでいる男性の姿を見て、ああ、と猛烈に安心をした。力を得た。結果、消えかけたやる気を取り戻して「うおおおおお!」となって漫湖に来た。
自分を救うものは「自分の好きなもの」だと思う。過去、体も心もボロボロの厳しい状況に置かれて金もやる気もなにもかもを失っていた時に、とある曲の歌詞を思い出すことで生きる力を取り戻した。それは小沢健二の『天使たちのシーン』という曲で、歌詞は「神様を信じる強さを僕に」というものになる。そのあとに「生きることを諦めてしまわぬように」と続く。この歌詞を聞いた途端、露骨にやさぐれかけていたけいご少年は「ああ、そうだよな(生きることを諦めちゃダメだよな)」と思って少しだけ涙を流したあとに再び歩き出す力を得た。自由であることと、自暴自棄であることとはまったく違う。自由であるためには、凛とした生きる強さを内部にしっかりたくわえなくちゃいけない。ちょっとやそっとでは折れない心。精神性。勇敢さ。それを育んでくれるものは「自分の好きなもの」であり、自分の好きなものが自分を励ましてくれた記憶だと思う。なにかを好きになることが、誰かを好きになることが、自分の好きを思い出すことが生きる強さになる。だからこそ、私は『何かを好きになること』以上に尊いことはこの世にないと思う。
ディスカバリーチャンネルの中で、ボロボロになった挑戦者の男性が「しんどさを感じる。しかし、このしんどさこそ私の欲しかったものだ。魂を震わせ、癒しを与えるもの。限界を超える体験がなければ、挑戦の意味がないじゃないか」的なことを言った。格好いい言葉だと思った。ああ、この人も、自分も、結局は「やりたいからやっているのだ」と思った。自分が置かれている状態を、決して、誰のせいにもしないこと。他人の顔色を伺うばかりに、みんなにいい顔をしたいと思うばかりに、身動きがとれなくなってしまうようなダサい自分を蹴飛ばすこと。過酷だなと感じる出来事さえ『ある種の恵み』として引き受けること。そうすれば、どのような瞬間も楽しむことができる。目の前の現実を前向きにとらえ直すことができる。過酷さを乗り越えることで、自分に対する信頼を取り戻すことができる。都会に暮らしていると、どうしても抽象的でふわふわとした悩み方をすることが多い。自然に生きることは、端的に「どこで寝る」とか「何を食う」とか、現実的な問題をひとつずつクリアしていく積み重ねだ。そのひとつひとつの実体験が、ああ、俺はできたという達成感を生む。どうしてこんなことになったのだろう、とか、こんなことになるのなら家でおとなしくしていればよかった、などとは考えない。それよりも「俺は、これをやりたくてやっているのだ」と受けて立つ。すると、愚痴や弱音や言い逃れは消える。よし、やってやるかという前向きな爽快感を取り戻す。
受け入れること。そうすれば、楽しむことができる。抵抗をすれば、怒り、失望、困惑、苛立ちに襲われる。恐れを突破するには、恐れの中に飛び込むこと。そして、そこにある恐れを受け入れること。受け入れて、現実を展開する一歩を踏み出すこと。頭だけじゃない、その経験値が、自信になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年10月15日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu