いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

来た時よりも『逞しく』

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初日の段階で7回くらい「もう帰ろう」と思った。夜の峠が極寒だったり、道路が渋滞していたり、忘れものを思い出したり。だがしかし、私は私に言い聞かせる。俺はこいつを知っている。新しい世界に向かう時、必ず、古い世界に引き戻そうとする力が働く。そんなことをやってなんになるとか、家でゆっくりしていた方がいいとか、特別なことをやらなくても平々凡々な日々でいいじゃないかとか。7回。7回。7回だ。7回「こういう感じの引き戻す声」を振り払うことができた先に、新しい世界、新しい愉悦がある。

 

 

埼玉県の秩父にある武甲温泉に突撃した。峠越えで身体は芯から冷えた。寒いと最初は笑っちゃう。そして、最終的に固まる。途中、道を間違えたりしながら極寒の夜道を走ること二時間、その直後にどぼんした温泉は最高だった。じゅわあと身体が温まる。寒いのは嫌いだが、寒さを経由した温もりは大好きだ。空腹は嫌いだが、空腹時のおかゆが大好きなのと似ている。温泉客を見渡す。ちっぽけな優越感に酔う。いま、ここに大勢の男性衆が温泉にはいっているが、自分ほど気持ちよく温泉にはいれている人間はおるまい。そう思うことで、私は、優越感を獲得する。

 

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世界をぼくらの遊び場に。

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野営。軽量化のため、ハンモックに眠る。


長野は寒い。天気予報を見ると明け方の気温は3度とある。昨夜、夜の峠越えをしながら「これで3度なのかな!」とか思っていたが、道路上にあった温度計を見ると12度と出ていた。まじか。この寒さで12度か。3度だったら凍傷になるんじゃないのかと怯えた。数年前の1月頃、生まれてはじめてマレーシアに足を運ぶ直前に、インターネットで現地の天気予報を見たら『35度』と出ていてビビったことを思い出した。一体、どんな格好をしていけばいいのかわからなくて怯えた。が、実際に現地に行って見たら「意外とどうにかなる」ことがわかった。この、意外とどうにかなると実感した出来事のひとつひとつが、生きる知恵、大胆に生きる勇気や度胸になるのかもしれない。

 

2030年頃には、認知症保有する金融資産が200兆円を突破する見込みらしい。現実味のないほどの金額だ。私はこれから長野県佐久市大町市にある空き家&空き地に向かう。日本には空き地や空き家が年々増えている(らしい)。連絡をくださった女性はこう言った。使われていない土地や建物、車、工場、倉庫、その他もろもろ。寂しいなあと泣いている感じがします。ろくに掃除もしてもらえないし、温めてももらえないし。日本は高齢化が進んで、遊休資産がどんどん増えてくると思います。現金でさえ、認知症になると引き出せない。使えない。持つことにこだわらず、使ってあげるって大事だと思います。そんなんで坂爪さんのされていることを、すごく興味を持って見ています。と。

 

私の実家は新潟にある。所有者は父親だ。しかし、仮に父親から「この家をお前にあげるよ」と言われても、私はおそらく断るだろう。感覚的に、我々の世代は所有すること(維持費・固定費・各種メンテナンス費用)の恐ろしさ・面倒臭さ・不自由さを知っている。 こうなると、資産が本当に資産なのか、自由を奪う邪魔者【負債】なのかがわからなくなる。これまでの時代は「競って奪い合う」世の中だったが、これからは「競って与え合う」世の中になるのかもしれない。なぜならば、もてあますことは余裕ではなく負担だからだ。空き地や空き家活用に関して、私のような人間は社会的信頼が足りない。だから、空き家や空き地の所有者からして見ても「なんだお前は」となる。では、行政がやればいいのか。多分、ダメだと思う。行政や役所に信頼性はあるのかもしれないが、確実に足りていないものがある。それは『エッジ』だ。ここに矛盾が生まれる。新しいことを成すにはエッジが必要だが、尖るほどに信頼性を失う。行政とエッジを持った人間が手を組めば最高なのかもしれないが、おそらく、そんな時は来ないだろう。だから、私は『個』として動く。

 

【動画】坂爪圭吾 - 明日28日(日)@長野県予告動画

 

来た時よりも『逞しく』

いま、考えていることは「日本中の空き家と空き地を活用して、たとえば月額10000円のメンバーみたいなのを募って、メンバーは全国にある家や土地を横断的に自由に使うことができる」みたいな状態を作ることだ。家賃は家計を圧迫する。仮に月額10000円で家に困ることはないとすれば、とりわけ若者たちは、より一層大胆に人生を歩めるように思う。これはまだ構想段階。やりながら理想の着地点を見出していきたい。ハワイ計画が夢に終わったことは前回の記事に書いたが、ベトナムホイアンエストニアのタリン、アラスカのアンカレッジとかにも家があったら幅はグン!と広がるだろう。先日、バイクが寒すぎて中古屋で分厚い真っ赤なセーターを500円で買った。私は中古屋が好きだ。単に金がないだけだが、自分には中古品で充分だと感じる。誰かが使わなくなったものを、自分なりのスタイルで活用するセンスを研磨すること。そこに楽しさやよろこびを見出す人間だ。

 

『0から1』の人間と『1から100』の人間がいる(っぽい)。私は前者で、極論、自分のためには家も土地も必要ないと感じる。そこらへんの山や森を勝手に使って野営をすることに喜びを見出すし、そもそもで『土地を所有する』という西洋的な考え方が気に入らない。土地は誰のものでもないし、極論、この世の中に自分のものだと言えるものはひとつもない。ただ、自分がそれを使わせてもらっているだけに過ぎない。自分のために家は必要ないなどと書いたが、若干訂正をする。自分のためにはいらないが、やがて、自分が築くかもしれない家族のため【自分『たち』のため】に必要なものだ。前回の記事で『生きるために必要なものは火・水・食糧・シェルターの4つ』と書いた。これは、言い換えれば残りのすべては贅沢品ということになる。車も、自転車も、バイクも、家具も、電化製品も、友達も、恋人も、要するに贅沢品なのだ。必需品ではない。ただの贅沢品である。私は、そう思うことで心の安寧を得る。ああ、それを楽しむ分にはいくらでも楽しめばいいのだけれど、それがないからと言って嘆く必要はないのだと。ないならないでどうにかなるのだと。それを「それがなければ生きていけない(生きている値打ちがない)」などと思うから、人生が複雑怪奇の厄介なものになるのだろう。と。

 

シンプルな暮らしは、そういうことに思い至らせてくれる。無論、私は、これからも欲しいものは自分の手で獲りに行く。バイクがないなら最悪の場合は歩くが、バイクがある限りその恩恵を全身でめいっぱい浴びたい。女性や友達と過ごしたいとも思うし、温泉があれば入るし、布団があればもぐりこむし、お湯が出るならお湯を使うし、うまいものが食えるならうまいものを食いたい。昨夜、野営をしながらコーヒーを淹れて、ごちゃまぜの家からかっぱらってきた乾パンをばりぼり食いながら星空を眺めた。乾パンとか「戦時中か」とも思ったが、この固さが楽しかった。多分、食糧が乾パンしか手元に残されていないとき、これらを悲壮感を漂わせながらうつむいて食うことも、楽しみながら「長い人生、たまにはこういう時期があってもいいよね!」と思えるかが、人生を明るく生き延びる根本的な要素になるのだろう。文句を言わず、受け入れることだ。寒さの中にも楽しさはあり、空腹のなかにも楽しさはある。生きる楽しみは、そこら中に転がっているのだと思う。

 

 

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おやすみなさい。。#hennesyhammock #snowpeak #prettycold #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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