いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

美しく生きる。

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昨日、幸福の科学の映画を見た。自分だったらなかなかやろうとは思わないことも、誰かに誘われることで「あ、やってみるのも面白そう!」と思う。興味のないことをやることは、時に、新しい遊びになるのかもしれない。映画館には大勢の観客がいた。色々なことを思ったが、一番は『事実は映画よりも奇なり』と思った。本気を出して生きはじめた人間には、必ず、ドラマティックな展開が起こる。そのことを、ここ数日、身近な友人たちに起きている出来事を通じて実感する。

 

 

今、沖縄県の久高島にいる。猫が近寄ってきた。俺はさみしいのだろうか。動物が近寄るとめちゃめちゃ話しかける。動物と過ごす時間は癒しだ。史上最強に素直になれる。頻繁に「勇気を出す」とか「本音を出す」などの表現を私は使うが、実は、これらは出すのではなく「出させてもらっている」「出しやすい環境や相手がある」だけなのかもしれない。誰と時間を過ごすかで、引き出される自分は大きく変わる。日本で見る夢と、海外で見る夢も違う。自分は出すものではなく「出させてもらっている」ものだとしたら、誰といるか、何処にいるか、自分を何処に置くかは、何をするか【自力】を越える力を生む。

 

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自分の『嫌い』を表明する。

沖縄でイベントに登壇した。参加者の男性が実体験を話してくれた。「私は過去にアメリカに旅行をした。空港でレンタカーを借りる際、保健規約がどうのこうので店員と揉めた。私は日本では穏やかキャラだが、海外にいる時は英語を使うからなのかまっすぐに自分の怒りを表明している自分に気づく。店員も店員で言いたいことをガンガン言う。日本では衝突を極端に嫌うが、アメリカでばちばちやった後、ああ、衝突することの中にも気持ち良さはあるのだなと思った。怒りを表明することは、勿論ストレスもあるが、最後には清々しさを私に残した」。

 

揺れる家。。。

 

彼は続ける。「冷静に観察すると、私は怒っていたが店員は決して怒ってはいなかった。私は、自分の言いたいことを言うために怒りを利用した。しかし、いつの日か怒りを通さないでも言いたいことを言えるようになるのだと思った。怒り方を学ぶことは、自分の出し方を学ぶことだ。自分の出し方を学ぶことは、自分を浄化する方法を学ぶことだ。怒りを溜め込むと憎しみになる。溜め込んだ感情は自分の中で腐り、それが憎しみや不機嫌や呪詛になるのだ。その腐敗臭を、おそらく『負のオーラ』と呼ぶのだろう。自分を出すと言うこと。それは怖いことかもしれない。過去に自分を出したことで傷ついたり、大事な誰かを傷つけた経験は誰にでもある。その時は、自分を出さないことが安心を意味した。しかし、その時期は過ぎた。自分を出さないことが安心な時期は過ぎたのだ」。

 

沖焼け。。。#沖縄 #朝焼け #lifeisgood

 

自分の『嫌い』を表明する。それは、自分の『好き』を表明することと同じくらい大切なことだ。嫌い(NO)を表明する瞬間は勇気がいる。もしかしたら「このまま相手との関係性が途切れるかもしれない」という恐れも湧く。しかし、多くの場合、自分の嫌いを表明してもコミュニケーションは続く。恐怖心から全身が小刻みに震えることもあるが、コミュニケーションは終わらない。言いたいことを言った自分に対する信頼感も生まれるし、空間全体に爽快感の風も吹く。逆に、嫌われないために好かれよう好かれようと思って生きているひとほど、その嘘臭さは周囲にモロバレとなり、結果的に嫌われることは多い。そもそもで、嫌われないように生きる人生は疲れる。疲れを覚えるということは、何かしら『やり方を間違っている』のだと思う。

 

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わたり文庫『われ弱ければ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『われ弱ければ 矢島楫子伝』です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

 

この言葉は私の胸を強く打った。仮に私たちが、どこかの学校の校長になったとしてみよう。誰が一箇条の規則も作らぬという楫子の真似をすることができようか。いつの世も、学校というところには規則や生徒心得があり、さらに細則を加えがちである。現代の学校を見ても、特に中学、高校においては、制服の有無、頭髪を伸ばす伸ばさぬ、スカートの丈、ブラウスの色、運動靴の種類等々、日常生活を規則でがんじがらめにしている話をよく聞く。これは、人間がいかなるものであるかを知らぬところから、生まれたものではないだろうか。人間というものは規則で縛り得るものではない。人の心の中には、「触れるべからず」と書いてあれば、触れてみたい心が湧き、「入るべからず」と書いてあれば、入ってみたい思いも湧く。人間は本来自主的に生きたいものなのだ。

矢島楫子は、「あなたがたには聖書がある、自分で自分を治めよ」と言いきった。この学校は、キリスト教主義の学校で、各自、聖書を学んでいたとはいえ、「自分で自分を治めよ」というこの言葉に、生徒たちはどれほど人間としての自覚を促されたことであろう。これはすべての生徒の人格を認めたことである。

三浦綾子『われ弱ければ』【小学館文庫】

 

美しく生きる。

イベントに参加してくれた男性から「坂爪さんの言葉に触れた時、ああ、自分は許されたのだと感じた。さまざまな本を読んできたが、こんな気持ちになることはいままでになかった。大袈裟だけど救われた思いがした。この感動はひとしおだった」と言われた。この言葉は最高に嬉しかった。自分自身、過去に大好きな音楽の歌詞を通じて「ああ、自分も生きていていいのだ」と存在を許されたように感じた記憶がある。生きていても何もいいことはないと思っていた10代の頃、私は、私の大好きな音楽を通じて「生きててもいいよ」ということを言われた気がした。この時は涙があふれてとまらなかった。世界にはこんなにも優しいものがあったのかと、言葉にすることのできない、全身が震えるほどの感動を覚えた。

 

この時の涙が、自分が生きる指標を与えた。自分がこれからやることも、過去の自分がひどい暗闇の中で何も信じられない、何もかもが嘘臭いと感じる中で「それでもなお、これだけは本当かもしれない」と思えた光。死にたいと思っていた自分を、生きる方向に向かわせた光。自分も、それを生み出す生き方をしたいのだと思うようになった。多かれ少なかれ、誰もが生きる上での指標を持つのだろう。金になるか、否か。モテるか、否か。楽しいか、否か。親から認められるか、否か。など。私の強い部分を占めるもの、それは「美しいか、否か」という指標だ。私は、過去に、私が美しいと感じたもの、自分の心が「これは本当だ」と思うものに光を見た。同じように、いま、自分は自分の生き方に美しさが宿るような、本当の言葉、本当の眼差し、本当の生き方をしていきたいと思っている。

 

美しく生きるということは、自分の中にある美しい部分だけを出すことではない。自分の中にある、一番、本当に一番醜い部分を差し出すことだ。誰からも歓迎されるような善意や良心や光の部分だけではない、弱さや狡さや醜さの闇を、まるごと引き連れて生きることだ。良い部分が本当の自分で、悪い部分は本当の自分ではないなんて、そんなことはないのだ。良い部分も、悪い部分も、良い過去も、悪い過去も、全部ひっくるめての自分だ。美しく生きるということは、自分の中にある優等生だけを引き連れて生きることではない。美しく生きるということは、自分の中にある『みんな』を引き連れて生きることだ。自分の中にあるみんなを引き連れた人間が、周囲の人々、自分の外側の人々も、同じように引き連れていくことになるのだと思う。

 

 

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fast alone, far together

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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