いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

最悪の場合でも、死ぬだけ。

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群衆の中に孤独はある。夜の都会を歩くと薄ら虚しい気持ちになる。華原朋美のI'm proudの歌詞「街中で居る場所なんてどこにもない / 体中から愛がこぼれていた」が繰り返し流れる。福岡の薬院界隈で手頃な公園を見つけた。周囲は高級住宅街に囲まれている。「家賃すごいんだろうなあ」とか思いながらハンモックを張る。お湯をわかしてコーヒーを淹れる。木々の隙間から覗く星空を眺め、読書をする。静寂を手に入れて心が和む。私は、都会の隙間を見つけて野営をかまし、それなりにいい時間を過ごしながら「ざまーみろ」とか思っている時間が好きだ。

 

 

夜中3時、雨で目覚める。雨が降るなんて聞いてなかった。寝ぼけ眼でハンモックを出る。私は慌てることが大嫌いだから一旦お湯を沸かして冷静に考える。身体が芯から冷えている。お湯を飲む。「癒されるなあ」とか感じていたら雨足が強くなる。すべてが濡れる。慌ててハンモックの撤収に取りかかる。ずぶ濡れになりながら「金持ちはしない苦労を、貧乏人はするんだなあ」とかちょっとだけ思う。冷えた身体を温めるために夜の福岡を延々と歩く。群れた若者がなにやら大声をあげて騒いでいる。水たまりの上をタクシーが走り抜け、私に向かって「びしゃん!」と跳ね返った。

 

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孤独なとき、あなたはひとりではない。

今夜、福岡で『孤独の愉しみ方』をテーマにトーク企画がある。私は、昨日、ものの見事に孤独だった。孤独な時のしんどさは、まるで、自分だけが「周囲から切り離されている」ように感じることだ。誰からの眼差しも感じられない、誰も自分のことなんて見てくれていないのだと感じる時に、人間の心はあっという間に閉じる。逆に言えば、自分の心を開かせてくれるものに出会えたとき、孤独は緩和する。孤独が人間を磨き、孤独が人間に深みを与えることもある。孤独を経ていない優しさは、あまり頼り甲斐がない。

 

ここ数日サバイバル動画を見続けていたから「彼も頑張っていたのだから自分も頑張ろう!」みたいに思えた。実際に会ったことなどないけれど、彼は俺の友達だ。そう思えるひとが世界にたくさんいることは嬉しい。だから私は読書をするのだろう。読書をすると友達が増える。それは『戦友』という感覚に近い。世界にはこんなにも頑張って生きた人間がいる。そう思えるだけで力を得る。過酷な状況の時はエドを、月の夜は西行を、乞食の日々は良寛を、コーヒーを淹れる時は高知のS様を、逆境に置かれた時は中村久子を、空腹の時はガンジーを、雨に濡れた夜は徳永英明を、宝物を奪いに行く時はルパン三世を、都会の喧騒の中では華原朋美を思い出す。

 

孤独な時には「もしかしたら、いま、自分と同じように孤独なひとがいるかもしれない」と思うようにしている。すると、孤独がつながりを生む。人間、それを表に出さないだけで「孤独だな」と感じる瞬間は誰にでもあるだろう。渦中に置かれている時はしんどいが、少しでも、意識を外側に向けることができれば「自分と同じ人間がいる」と思える。自分はひとりではないことを掴む。自分はひとりではない。この感覚が力になる。どのような状態に置かれても、あなたは絶対にひとりではない。あなたと同じ孤独を、あなたと同じ苦しみを、ここに生きている人間がいる。などと、見えない誰かにそんな感じの温度を届けることができたらいいな、この孤独が自分を周囲から孤立させるためのものではなく、みんなとつながるためのものになればいいな、などと思いながら延々と歩いた。

 

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最悪の場合でも、死ぬだけ。

時間がある時に上の動画を見て欲しい。エドの表情が実に素晴らしい。なぜ、エドは自らを過酷な環境に投げ出すのか。彼の目標が最高だ。それは「(過酷な環境の中で)充実した日々を過ごすことだ」と彼は言う。その時の笑顔が素晴らしい。彼は、極論『楽しむ』ために生きているのだ。時に、迫り来る苦しみまでも友にして。過酷な環境にも慣れてきた頃、彼は言う。『今日は自分に試練を課します。充実感を得るために。』と。そして、危険極まりない川辺とかに自分から趣き、そこで獲得したムール貝とかを手に「うほー!最高だ!人生最高のムール貝だ!俺は最高に報われた人間だ!」などと感激をあらわにする。

 

彼を見ていると「俺なんてまだまだだな」となる。清々しい敗北感に包まれる。露骨に元気になる。私が男だからなのだろうか、どうしても人生を勝負事として捉えてしまう。調子に乗っているひとを見ると「これからお前をぶっつぶす」などと思うし、時の権力者に反発するようなことを積極的に採用して「ざまーみろ」などと悪態をついてしまう。そんな自分が好きだ。そんな自分を変えるつもりがない。こういう生き方を許されていることを、非常にありがたいことだなと思う。私は恵まれた人間だ。成功する自由もあれば、今回のように「雨にずぶ濡れて夜な夜な延々と歩き続ける無様な醜態を晒す自由」もある。成功する自由だけではない、時には『失敗する自由』を行使することができたとき、めちゃめちゃ言い訳めいて聞こえるとは思うけれど、真の意味で「俺は自由だ」とかちょっとだけ思ったりする。

 

野営をしていると時折警備員や警察官に怒られる。でも、逮捕をされることはない。最悪の場合でも怒られるだけなのだ。それならば怒られるまでやればいい。そんな腹の括り方をしている。同じように、人生全般に対しても『最悪の場合でも、死ぬだけ』と思っている節がある。最悪の場合でも死ぬだけなのだから、置かれた状態を楽しもう。悲愴感を漂わせるより、できる限り笑えるポイントを抽出しよう。そう思って生きてきた。こんな私の吐き出す言葉に、時折、ありがたいことに「救われました」とかいってくださる人がいる。そんな時、私はこっそり思う。『俺がお前を救ったんじゃない。お前を救ったものは言葉だ。言葉が、お前を救ったんだ。言葉は、誰のものでもない。ただ、俺と言う人間を通過して出てきただけのものだ。』とか、そんなことを思う。いま、私は、言葉を生業として生きている。言葉は誰のものでもない。強いて言えば『神様のもの』的なサムシングである。それによって生きていることを、ちょっとだけ誇りに思ったりする。

 

 

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都会で野宿。。俺なりの反骨。。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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