いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

1日1回、自分が恐れていることをやりなさい。

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名古屋で出会った22歳女性から、透明な眼差しで問われました。「強さを持ちたい。強さを持つためにはどうすればいいと思いますか」と。みなさまなら、22歳女性からこんな風に問われたときになんて答えるだろうか。私は「これは非常に重要な問いだ・・・しっかりと答えたい!」と思って超絶真剣に考えた。超絶真剣な30秒近い沈黙が流れたあと、ああ、これかもしれないと思ったわたしは「恐れていることをやること、かもしれないと思いました」と答えました。

 

 

22歳彼女は言う。「行動を起こせば未来は変わる。最近、そういうことを思う。今日、坂爪さんに「会いたい」とか「話したい」と勇気を出して連絡をしていなければ、なにも起こらないままに日々は過ぎ去っていた。 日常生活のなかで、自分がほんとうに話したいと思えることを話せる機会は少ない。家族にも、友達にも、自分が話したいと思うことを話しているという実感はあまりない。だから、ひととちゃんとコミュニケーションをとりたいって思う。あと、最近はお金について考えることが多いんです。親やまわりは貯金をしろというけれど、自分の好きなことをやったほうがいいんじゃないのかなって、そして、残りのお金は(もちろん貯金をすることもあるのですが)ひとのために使っていきたいなって、そんなことを考えています。」

 

ibaya.hatenablog.com

 

「裸になる」ということ。

昨夜のツイキャス音声配信の中でも軽く話しましたが、数年前、熊本県から「一緒にお風呂にはいってください」という連絡を(あろうことか女性から!)いただきました。風呂にはいるということはお互い素っ裸になるということなので、いろいろと感じるものはあったのですが「ものは試しだ!(やってみなければわからないことを、やる前にわかろうとすることは無駄)」的なことを思いまして、ご依頼に応えさせていただきました。

 

風呂に向かう途中、依頼主の女性に「どうして一緒にお風呂にはいりたいと思ったのですか??」と尋ねましたところ、依頼主の女性は「私の中には『平和』のイメージが昔から結構強くあるのですが、そのイメージは『男のひとも女のひとも仲良く一緒にお風呂にはいっている』というものなんです。ただ、そのイメージをいきなり現実社会で実現することはなかなか難しいから、でも、坂爪さんならこの感覚をわかってもらえるんじゃないかというか付き合ってもらえそうな気がしたのでお願いをしました」とのこと。この後の展開は音声配信のなかで話しているのですが、結論から言うと「初対面の女性も含めた男性ひとり【私】と女性ふたりでお風呂にはいる」という稀有な時間を体験させていただきました。

 

22歳女性に「恐れていることをやりなさい」などと言いながら、さて、いまの自分にが恐れているものはなんだろうかと考えました。お金とか、人間関係とか、将来などに対する不安は(非常にありがたいことに)自分にはない。まったくないと言っても過言ではないほどにない。どうしてないのだろうか。なくてもどうにかなるということを体験したからなのだろうか。「誰かが助けてくれる」という末っ子根性が板につきまくったのだろうか。その理由は不明瞭ですが、最近、裸になるということ【人間のフィジカル】に比較的強めの興味・関心があります。裸になるということ、ヌードであるということ、隠されているものを暴き出すということ(解放をするということ)など。移動時間中などに、いろいろと考えていけたらと思います(本日はこれから兵庫県明石市を経由して大阪方面に向かいます!!)。

 

【4th「背水のジントニック」/TPD48】

 

稲村彰人さんのブログが面白かったのでリンクを貼っておきます。

176r.hatenadiary.jp

 

わたり文庫『木を植えた人』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ジャン・ジオノ著作『木を植えた人』です。自然って、いいですよね。静けさって、いいですよね。そんな「いい感じ」な感じを与えてくれる感じのものって、いいですよね。こちらの本は、まさにそんな感じの一冊なのではなかろうかと、坂爪圭吾は太鼓判をおしたい気持ちでいっぱいです。まだ読んだことのない方は、是非、一度どこかで読んでみていただけたらうれしいです。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をさせていただきます。

 

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※

 

ある人が真になみはずれた人物であるかどうかは、好運にも長年にわたってその人の活動を見つづけることができたときに、初めてよくわかる。もしその人の活動が、たぐいまれな高潔さによるもので、少しのエゴイズムもふくまず、しかもまったく見返りを求めないもの、そして、この世になにかを残していくものであることが確かならば、あなたはまちがいなく忘れがたい人物の前にいるのである。

 

ジャン・ジオノ『木を植えた人』【こぐま社】

 

1日1回、自分が恐れていることをやりなさい。 

私の信条のひとつに「1日1F」というものがありまして、このFは『FEAR』のFを意味します。強さを持ちたいと思うなら・・・面白い人生を送ってみたいと思うなら・・・現状を打破してみたいと思うなら・・・1日1回、自分が恐れていることをやりなさい。そんな風に自分自身に言い聞かせながら、毎日これができているかというとまったくできていない現状ではありますが「もしもこれができたら結構な人生になりそうだなあ」と感じています。 

 

 

自分を出すことで相手に拒絶をされたり周囲から嫌われてしまうこともあるかもしれません。でも、そんなことよりも「自分を取り繕ったまま一生を終える」ことの方が、よっぽど恐ろしいことであるように思います。誰かに嫌われないためとか、周囲と問題を起こさないためという思いは「不安」とか「恐怖」に支えられているような感覚を覚えるので、即刻却下。人生は苦行でもなければ修行でもない。人生はボーナスタイムだと思っています。自分で自分を押し殺し、自分で自分に制限を加え、自分で自分を許すことなく罰を与え続けることで、神様的なサムシングが世界中に散りばめた無限の喜びを体験することなく終わってしまうのはなんだかちょっと残念ではありませんかなどと思います。

 

 

なぜ、恐れていることをやるのか。それは「恐れを手放すため」とも言えます。楽になれる道、それは「あらゆる思いを手放した」先に広がるものだと感じています。結果に執着をするのではなく、ひとつの感情に捕まって精神的な視野を狭くしてしまうのではなく、まず、自分のなかにある感情を一旦全部手放すイメージをすること。「あらゆる思いを手放しなさい」と、おまじないのように脳みそのなかで唱えること。すると、不思議なことに、それがうまいことできた瞬間には『自由』を取り戻せるような感覚を覚えます。そして、さらにさらにさらに不思議なことに『真性の自由が与えられたとき、ひとは、ほっておいても勝手に愛しはじめる』的なことを、静けさと共に感じることができるものだと思っています。

 



https://www.instagram.com/p/BeHMauBjSmM/

1日1回、自分が恐れていることをやりなさい。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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問題の9割はコミュニケーション不足。

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鉄砲玉48の活動の一環として、みなさまからいただいたお米一号で生き延びることを目指す『ライスワーク(仮)』なるものをはじめました。もしも、こちらの記事をご覧の方のなかに「お米あげるよ!」的な神様がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡をいただけたら嬉しいです!!どういうこっちゃ、と思われた方が9割だと思うのですが、もしもよろしければ以下の音声配信を聴いていただけましたら僥倖でございます。

 

 

鉄砲玉の反省として「なんでも無料でやりますなどと言ったところで、見ている側からしたら『なにを頼めばいいの?』ってなるよね!これは重要な発見だ!では、俺たちがお願いを待つばかりではなく、俺たちからもお願いをすることによってコミュニケーションのきっかけをつくっていけたらいいのではないか」ということに気がつきました。<社会との接点を作るジャーニー>ということではじまった鉄砲玉48の真髄は「みなみなさまとコミュニケーションをとりたいです!」と恥ずかしげもなく言えることにあるのだと、それならばやれることはなんでもやろう!的な心持ちで活動三日目を迎えることができました。

 

【4th「背水のジントニック」/TPD48】

 

ibaya.hatenablog.com

 

ライスワーク初日の感想「一合一会の出会いを大切に」

ライスワークをはじめるきっかけになったのは、昨日、綱島在住のN様から「来月末に引越しをするので、いろいろと不要な荷物があります。もしよかったらごちゃまぜの家で使いませんか??配送費用などはこちらで負担をします!!」というご連絡をいただいたことにあります。メールを読んだだけでも、そのひとの人柄といいますか「このひとはいいひとなのかな、わるいひとなのかな??」みたいなものは誰だって敏感に感じ取っているものだと思うのですが、N様からのメールを読んだ瞬間に「ああ!N様はいいひとに違いない!」と直情的に感じました。ので、不要な荷物どうのこうのよりも「実際にN様にお会いしたい!お会いして『N様はほんとうにいいひとですね!』と伝えたい!」という直情のままに昨日は綱島まで(我々三人みんな暇だったので一緒に)行きました。

 

実際にお会いさせていただいたN様は最高すぎる方で、なんだかもう、笑顔がモーレツに可愛いかったです。N様は「みなさまを見ていると『なんだかこのひとたちには栄養をつけさせなくちゃいけない!』と思っちゃって」と、最終的に私たちをスープカレー屋さんに連行してくれました。お土産に大量の冷凍食材やお米や果物や布団一式(!)までもたせてくださり、なんだこれはと、我々は「なんでもやります!」とか言っておきながら、実際のところはなんでもやってもらっちゃっているばかりではないかと、それでもいいのだろうかということをNさんに話したら、Nさんは最高のお返事をくれました。

 

いつも坂爪さんのブログを読みながら、いろいろともらっています。自分も何か力になれることがあればと思っていたけれど、逆に迷惑になってしまうんじゃないだろうかと思うとなかなか声をかけることができませんでした。でも、今回、こうして実際に会ってこんなによろこんでもらえたことが、わたしとしてもとてもうれしいです。多分、これはわたしだけじゃないと思うのですが、誰にでも『誰かの力になりたい』とか『誰かの役に立ちたい』とか、そういう風に思っているひとはたくさんいると思います。ただ、迷惑にならないかなとか、押しつけになっちゃわないかなって考えちゃうから、なかなか連絡がとれないのだと思います。老婆心っていうのかな、おせっかいを焼きたい欲求っていうのは誰のなかにもあると思うから、その辺の感情がうまいことまわる世の中になったらいいですね。

 

Nさんのこの言葉のなかには大切なことが108個くらい詰まっていると思うのですが、もう、本当にその通りだなあと。誰だって「なにかいいことがしたい」的な感情を抱くことはあるとは思うけれど、なかなかそのぶっつけ先が見つからなくて、人々のこころの中に眠る『善意』のようなものが開かれることなく消えてしまうことは多いのではなかろうかと。と、それならば!我々鉄砲玉48が!!みなさまの『善意の受け皿』として!!!まずは「お米一合を与えてください」という提案をさせていただこうではないかと、それを通じてコミュニケーションのきっかけを生み出していけたらよいではないかと、そのようなことを感じて『ライスワーク(仮)』は生まれました。もしも、この文章を読んで「それならお米をあげちゃおうかな」と思ってくださった方は、是非、どなた様でもお気軽に我々三人の誰かにご連絡をいただけましたら幸いです(ご連絡をいただき次第、あなたのもとまでこちらから駆けつける所存です!!)

 

連絡先・坂爪圭吾【牡羊座

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連絡先・稲村彰人【双子座】

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保科さんのブログが面白かったのでリンクを貼っておきます。

ojohakusyo.hatenablog.com

 

わたり文庫『思うとおりに歩めばいいのよ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ターシャ・テューダー著作『思うとおりに歩めばいいのよ』です。ターシャさんの本は言葉も素晴らしいのですが写真も素晴らしい・・・眺めているだけでもこころ穏やかであたたかな時間が流れる、さかつめおすすめの一冊になります。ガーデニングは人生の癒し。土をいじるとこころが落ち着くという体験をされたことのあるかたは、多分、たくさんいらっしゃるのだと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

みんなが本当に欲しいのは、物ではなく心の充足です。幸福になりたいと言うのは、心が充たされたいということでしょう。わたしは、ここの何もかもに満足しています。家にも庭にも、動物達にも天気にも、バーモントのすべてに。

 

家族でおもしろ半分に、スティルウォーター教という宗教を作りました。スティルウォーター(じっと動かない水)と名づけたのは、ストレスのない平安な生活を信捧する、という意味。スティルウォーター教徒は、生活を楽しみます。重荷にしてはいけません。第一の戒律は、フラ・ジョバンニの言葉「世の中の憂鬱は影に過ぎない。その後ろ、手の届くところに喜びがある。喜びをつかみなさい」

 

これまで、よくやってきたと思いますが、みなさんにお伝えするようなメッセージはありません。もし、わたしに人生哲学のようなものがあるとすれば、ソローの言葉がいちばんよく代弁しています。「夢に向かって自信をもって進み、思い描いた人生を生きようと努力するなら、思わぬ成功を手にするだろう」まったくそのとおりです。この言葉は、わたしの人生そのものです。

 

ターシャ・テューダー『思うとおりに歩めばいいのよ』【メディアファクトリー

 

問題の9割はコミュニケーション不足

今後の個人的な予定としては、今日は東京(ちょっと話を聞いてよ的なご依頼)、明日は名古屋(ちょっと話をしませんか的なご依頼)、明後日は兵庫県(逆立ちをマスターしたいから練習するときに足を支えてください的なご依頼)、明々後日は大阪(ダイアログ・イン・ザ・ダークに一緒に行きませんか的なご依頼)に足を運ばせていただく流れになりました。基本的に足を運んだ先でヒマをしていることが大半なので、お近くにお住いの方はなんだってお気軽にご用命いただけましたら僥倖です!!

 

最近、頻繁に感じているのですが、誰かとコミュニケーションをとりたいときは「コミュニケーションをとりたいです!」と真っ直ぐに伝えることが重要なのではないだろうかと思います。人間関係の問題の9割はコミュニケーション不足なんじゃないだろうか、とさえ思うほどに・・・昨日、夜の9時過ぎに東京都文京区在住の方に会いに行きました。その方は非常に素直な方で「最近は仕事も忙しいし体調も悪いしでこころに余裕がなく・・・ハグしてください〜!!」と伝えてくださり「っしゃーー!!かかってこいやーーー!!」と全身全霊でお応えをさせていただく(?)ことができました。自分がしてもらいたいことを真っ直ぐに言葉にする、相手に真っ直ぐに伝えること、など、恥ずかしいと感じる瞬間もあるけれど非常に大切なことであるように思いました。

 

ありのままの自分を表現することは、怖いことかもしれない。ただ、自分を取り繕ったままで生きることのほうが、よっぽど恐ろしいことだと思う。誰かに嫌われないためとか、迷惑をかけないためとか、負担にならないようにという消極的な理由だけでは、自分が潰れてしまう。それよりも「すみませんけどわたしはこういう人間です!どうですか!」的な感じで、前のめりに、消極的なあれではなく積極的なあれとして、ひとと関わっていけたらいいなあなどと思います。乱暴にまとめると「ぶつかっていきましょう!!ぶつかって生じる諸々の摩擦熱によって、自分も相手も世界もまるごとあたためて逝きましょう!!」ということになるのだと思います。拙い表現力ではございますが、最後までご静聴いただきありがとうございました(今後とも鉄砲玉48の活動をよろしくお願いいたします!!)。

 

 

坂爪さん 

 

初めまして、こんにちは。

いつもブログ拝見させて頂いております、◯◯◯◯と申します。

 

坂爪さんてほんとうに素敵な言葉を自由に巧みに綴る方だなぁと、常々思っていたのですが

今日は直近2日間のブログを読み、唐突にふと「あぁ、そろそろ坂爪さんに私の考えも聞いてもらいたい」と

思いましたのでご連絡いたしました。

 

坂爪さん、私は人生で一番大事なことって「人とのつながり」なのではないかと思うのです。

【人間はひとりでは生きられるようにはつくられていないように思う】まさにその通りなんじゃないかと、私も思うのです。

逆に言えば、人は誰かと、何かとつながりを感じる瞬間にこそ最高の幸せを感じるのではないか、と。

  

人と人とのつながりがあってこそ、人が成立ち、温かい循環がうまれ、世界がそれこそ平和になるのではないか、と。

「つながり」って「人間本来の純粋無垢な喜び」ではなかろうかと、そう感じています。

 

人ってもしかしたら、常に誰かのために自分の何か(坂爪さん的にいうサムシング!)を渡したいと思っていて、

(それは物質的な何かでも、目に見えない大切な何かでもどちらでも良いのですが)

それが相手に渡ったときに嬉しくなり、相手の笑顔や感情に触れた時には自分の心にもじわっと温かい心地よい気持ちが生まれ、

その温くて心地よい気持ちは自分を満たし、喜びを、幸せを感じ抜くのだと思うのです。

 

これは「つながり」からしか生まれず、むしろ、誰かと何かの「つながり」があるからこそ生まれる、とっても純粋な何かなのでは、と。

これがこんなにも沢山の人が溢れる世の中で、人と人とがつながりあう根本的な大事なことなのではと思う訳です。

 

極端に人のよいところにフォーカスしてしまっているかもしれませんが、本来の人ってきっと、

「善きこと」(相手の為が、廻り回って自分の為になるようなこと)を行うべき動物なのではないでしょうか。

そう思うと、恐らく多分神様は、人に「悪いこと」をする能力はもともと与えてないのではないか、とも思うのです。

 

だから、自分の行為は相手の迷惑になるのではないかとか、これをしたら嫌われるのではないかとか、

そういったギスギスした感情を持つ必要って一切なく、自分が相手のためにしたいことを純粋に誠意をもって行うことが

結果相手も自分も幸せする究極の方法の1つなのではと感じます。

 

「世の中にいい感じの風を吹かせる」

だからきっと、坂爪さんの行動は幸せをいい感じに循環させているのだと思います。

沢山のつながりを生み、人を想い、何気なく言いだしっぺになっている活動全てが既に【いい感じの風を吹かせてる】のだと思います。

 

つらつらと思うがまま言葉を羅列してしまいました。読みにくく、理解に乏しい文章でしたら誠に申し訳ございません。

だけど、私もこうに思っているよ!ということをどうしても坂爪さんにお伝えしたくて文章をつづったのだと、

それだけ感じていただければ私はとても嬉しいです。

 

いい感じの面ばかり書きましたが、勿論私も人間なので、人のつながりから生まれる行動に理解に苦しみ

「この人は何をどうしてあの行動をしたのか」など悶々とすることも勿論あります。

だけれど今年は、だからこそ「人の不完全さを愛する」ことを目標にしたいと思っています。

人は善いことで溢れていながらも、不完全だからこそ愛おしい。

 

多くのネガティブなニュースがあっても、人の善いこと、不完全さを見れる人間に私はなりたいと思います。

 

これからも坂爪さんの幸せを生む行動、楽しみに応援しています。

ここまで読んでいただきましてありがとうございました(^^)

 

◯◯◯◯ 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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人生はボーナスタイムである。

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「やってもやらなくてもいい」という中庸的なポジションを維持し続けた結果、とんだ腑抜けものになってしまいました。これではいかん!人間が廃る!ということで、鉄砲玉48のメンバーに加えていただきました。一月後半は、やってもやらなくてもいいならば『やるに振り切ろう!』ということで、依頼さえありましたらばなんだってやってやろうの精神で猪突猛進をさせてください。我々三人【坂爪圭吾&稲村彰人&保科亮太】、なにかある方もなにもない方も、いつでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです。

 

 

今回の合言葉は「人生はチームプレイ」ということで、三人で力を合わせてなにかこうの世の中にいい感じの風を吹かせて行けたらいいね的な気持ちで邁進をしていきたいと思っています。働き者になりたい。働き者になりたいと思います。夜、布団にはいりながら「今日はいい仕事をしたなあ」と思いながらスヤスヤ眠れる日々を過ごしたいのです。初見の方から見たら「こいつは何を言っているのだ」と思われることばかりかもしれませんが、鉄砲玉48とはズバリ『我々三人における、社会との接点をつくるジャーニー』ということになります。是非、あたたかく見守っていただけましたら幸いです。

 

ibaya.hatenablog.com

 

今後の身の振り方。

いい仕事をしたい!ということで、鉄砲玉に舞い込むご依頼に応えるかたわらで「これまでの日々を文章にまとめて(電子書籍でも紙媒体でもなんでも)みなさまに読んでいただける状態にしたい」という己の願望を現実化させていきたいと思います。最近、自分のウリはなんなのだろうか的なことを考えるのですが、乱暴にまとめると「ロジックをぶっ飛ばして人生に奇跡を起こす」的な役割があるのではなかろうかなどと思いました。

 

これがどういうことなのかというと、小生、過去に2年間ほど家のない生活をしていました。お金を稼ぐことが苦手すぎて「家賃さえなければ・・・」的なことを常日頃思っていたのですが、それならば家のない生活をすればいいのだということを閃きまして実際にやってみましたところ、結果的にその生活が2年間続いて日本どころか海外にも呼ばれて最終的に家を買ってもらう(!)という、比較的奇跡的なファイナルフラッシュを迎えることができました。何が言いたいのかと言うと、「まともにお金を稼げない自分には家を持つことも結婚をすることも不可能だろうなあと思っていたのに、ふたをあけてみたらびっくり!いまでは家もあるし、やろうと思えば結婚もできるかもしれないし、なにも諦める必要はなかったのではなかろうか」ということです。

 

昨日めぐるめぐるカフェ〜♪に9ヶ月の娘とおじゃましました◯◯です👶

 

前日住所を聞くためにラインの文章を打っていたところから内心ドキドキで、実際お会いした時も「大好きです!」とお伝えしたかったところ緊張により言葉が出ませんでした😅(「坂爪さん、大好きです!ブログから溢れる生き様のファンです!」)

 

なんというか、坂爪さんから漂う空気に清々しさを感じました!生きる空気清浄機のようですね?!(ちなみに彰人さんは湯たんぽっぽかったです)


子育てに伴って眠い〜と人に話したことは沢山ありますが、実際にお布団を用意してくれた人は坂爪さんが初めてでした。


(((はぁ、私の欲求(眠い)が受け入れられている…)))と深〜い安心感でお布団についた数分、本当に心が満たされました(笑)

 

ごちゃまぜの家で生み出される循環に飛び込んで、ひょいっと抜け出して、終始いい感じの時間だったなーと、勇気を出して行ってよかったーと帰りの電車で思いました。

 

坂爪さんの存在に感謝です🙌
素敵な人&犬や食べ物や空間に触れるきっかけをくれてありがとうございました🌟
またふらっと伺うような気がします。

あったか〜くして冬をお過ごし下さいね☃️

 

ここにきて突然昨日の「めぐりめぐるカフェ」にご参加いただいたお母様からのメールを転載させていただきました。なんだかもう遊びにきてくれるひとが素晴らしいかたばかりで、こんなことを言ってもらえると「あらまー!もう、うれしい!」という気持ちになります。うれしくて(みなさまにも見てもらいたくて)勝手に転載をしてしまいました。案外、自宅を除くと「街中で気軽に横になれる空間」というのは少ないのではなかろうか。それならば、ごちゃまぜの家くらいは「横になってってください!」と、子育てでちょっとお疲れのお母様がたが気軽にふらっと立ち寄ってスパッと眠ってシャキッと目覚める、的な空間としても機能をすればいいなあと思いました。

 

お金とはなんだろう。仕事とはなんだろう。

お金とはなんだろう。仕事とはなんだろう。わたしはあんまりお金に対する執着がないみたいで、だからなのでしょうか、鉄砲玉もごちゃまぜの家も基本的に無料で使用できることばかりをやっています。が、昨日、親愛なるMAYUCHAPAWONICAさんが「わたしは参加費10万円のプレイペイントっていう一緒に絵を描くワークショップみたいなことをやっているんだけど、やっぱり参加費も結構高いから、お金を払って参加するひとも『コミットする姿勢』みたいなものが半端ないんだよね。だから、高額なお金をもらうっていうことは参加するひとの『参加しているんだ!』的な気持ちを高める効果はあるよね」ということをおっしゃっていました。

 

本当は、わたしが書いた五億倍くらいはいいことを言っていたのですがうまく表現ができずにすみません。が、それを聞いて「本当にその通りだな!」と思いました。お金を出すことで気合がはいり、元を取ろうとするというとちょっとあれだけど、高額なお金を払うことで(お金を出した側の)腹を据わらせる効果【覚悟決めさせる力】がある。これはもう本当にその通りだなと思いました、ので!ここで!突如!急に!もしもこういうひとがいたらという話にはなりますが、坂爪圭吾に「無料だとあんまりしっかりしたお願いをすることができないから、ちょっと自分を変えるためにもこれこれこういうことをお願いしたいのだ」的な方がいらっしゃいましたら、その際は遠慮なくお気持ちをまっすぐ伝えていただけたらと思います。10万円でも100万円でも1000万円でも、なんでしょう、自分を変えるために清水の舞台から飛び降りたいのだけれど坂爪圭吾よちょっと付き合ってはくれまいかと、そのような方がいたらご連絡(要コミュニケーション!)をいただけましたら幸いでございます。

 

お金とはなんだろう。仕事とはなんだろう。そういうことを考えさせられる日々です。最近頻繁に考えるのですが、人間、仕事がないとダメになるように思います。ただ、ここで言う仕事とは「生活の糧を得るための労働」ということではなく、大袈裟な表現になりますが「祈りを具現化すること」であるように感じています。言い方を変えるならば『ひととひととのこころを通わせること』だと感じています。いい仕事をしたなあと思える1日とは、多分、誰かとこころを通わせることができた1日だと思います。この感覚がなければ、どれだけお金を集めても、どれだけモノを集めても、こころは乾いてしまう【さびしさは埋まらない】ような気がします。逆に言えば、ひととこころを通わせることができたという感覚【温度感】さえあれば、今夜もスヤスヤ眠りにつけるように感じています。

 

【4th「背水のジントニック」/TPD48】

 

わたり文庫『なんていいんだぼくのせかい』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、荒井良二著作『なんていいんだぼくのせかい』です。もしも「お前がこれまでの人生でもっとも愛した絵本をこの場で叫ばなければお前を殺す!」と脅迫されたならば、わたしは、迷わず「なんていいんだぼくのせかい!なんていいんだぼくのせかい!なんていいんだぼくのせかい!」と絶叫をすると思います。それくらい好きな一冊です。今夜本屋さんにいく予定のある方は、是非、立ち読みだけでもしてもらいたいくらいの一冊です。こちらの本、ご希望をされる方は何かしらの方法で坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

それから それから こどもがわらっていった

なんていいんだ ぼくのせかい

 

それから それから こどもがおどろいた

なんておいしいんだ ぼくのせかい

 

それから それから こどもがはしった

なんておおきいんだ ぼくのせかい

 

なんておおきいんだ ぼくのせかい

 

なんていいんだ ぼくのせかい

 

荒井良二『なんていいんだぼくのせかい』【集英社

 

人生はボーナスタイムである。

荒井良二さんの絵本を紹介できただけで今日はもう大満足です。私はすぐに達成感を覚えてしまうところがあるのですが、この人生においても「俺はすでにゴールをしている」なんてことを1日に何回も思ってしまいます。太陽が気持ちいいだけで「俺はすでにゴールをしている」と、ごはんがおいしいだけで「俺はすでにゴールをしている」と、ひととこころを通わすことができただけで「俺はすでにゴールをしている」と、安易に達成感を覚えてしまいます。

 

私の信条のひとつに「人生はボーナスタイムである」というものがあります。過去に一回死んだ命。残りの人生、拾った命でございます。すでに一生分を生きたなと。俺はすでにゴールをしているなと。それなのに「まだ生きててもいいのですか!?(現在32歳なので平均的には50年以上いけるのですか!!)」ということを思います。32歳にして余生に突入をしております。余生とはつまりボーナスタイムのことであり、残りの人生は「世の中にいい感じの風を吹かせる」お仕事(?)という形で、ご奉仕をさせていただけたらいいなあなどと思っています。

 

死ぬことでしか新しくなれない。今月末にいばやは解散をすることになりました。やりたいことをやりたいようにやる。その結果、それを見たひとが「なんだかいい感じでした!」と喜んでくれたり楽しんでくれたりするのであれば、それは非常に幸運なことだなあと思います。めぐりめぐるカフェの参加者のみなさまから続々と感想のメールが届き、それを読むたびに「ああ、おれも生きていていいのだな」的な感覚でじんわりとします。今月後半は「いい仕事をしよう」月間に突入をしますので、なにかあるかたもなにもないかたも、どなた様でもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです。そして、隙さえあらば是非、本屋さんで荒井良二さんの絵本を立ち読みしてみてください!!

 

 

坂爪さま


おはようございます。


昨日は初体験のごちゃまぜの家で沢山の
素晴らしい体験をしました。


まるで以前から知っていた以上の
気持ちを抱ける方々と出会い、お出掛けの
約束までする展開になり、
お友達ができました。ギフトです、奇跡です。

 

カオスで調和のとれた
とても居心地の良い美しい空間でした。

 

稲村さんのお茶が美味しくて何度も熱々のを
入れていただく運びになってしまい
、稲村さんにはお手数をおかけしました。若い男性に入れていただくお茶なんて
あまりにもレアな体験で嬉しかったんです。ありがとうございます♡と
お伝えくださいませ。


心の籠もったコーヒーも美味しかったです。しばらく忘れられません。


ご馳走さまでした
そして沢山のありがとうございました


またカッコイイ皆様にお会いできる
機会を楽しみにしてます


愛を込めて

 

◯◯◯◯

 

https://www.instagram.com/p/Bd86fNfjZi9/

人生はボーナスタイムである。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu     

 

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LINE ID ibaya

世界を変えるより、世界を増やす。

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鉄砲玉48【通称・TPD48】を再結成しました。TPD48とは、ちゃんと説明できている自信がないのですが「みなさまの依頼になんでも無償で応える捨て駒の集合体」でございます。要するに「言われたことはなんでも無料でやりますので、お気軽にご用命ください!」という便利屋的なグループになります。今日から早速依頼を受け付ける形になりますので、ほわっ!と来た方はメンバーまで直接ご連絡ください。第3期メンバーは、現在、坂爪圭吾(牡羊座)・稲村彰人(双子座)・保科亮太(蟹座)の3名になります。

 

twitcasting.tv

 

各々のメンバーの特性は、上記のリンク先から聞けるラジオ配信からお話をさせていただきました。なにかしら、ご利用方法をイメージする一助になりましたらば幸いです。この記事を書いている人間の名前は坂爪圭吾と言います。坂爪圭吾の活用方法としては「具体的になにかを頼むというよりも、比較的存在している【ただそこにあること】ことに価値があると思っているタイプの人間なので、青龍を自分の枕元に召喚するようなイメージでご活用いただけたらうれしいなあ」などと考えています。 

 

連絡先・坂爪圭吾【牡羊座

LINE ID ibaya

keigosakatsume@gmail.com

 

連絡先・稲村彰人【双子座】

LINE ID 0reaki10

akito.inamura@gmail.com 

 

連絡先・保科亮太【蟹座】

LINE ID hoshina6

hoshina2906@gmail.com

 

【4th「背水のジントニック」/TPD48】

 

無能冥利に尽きる。 

いま、ごちゃまぜの家では「めぐりめぐるカフェ」なるものを絶賛開催中でございます。めぐりめぐるカフェとは、乱暴にまとめると『食べ物も飲み物も(その他のサービスも)無料の喫茶店』というものになります。なぜ、これをやろうと思ったのかというと「(そんな空間があったら)素敵だと思ったから」というものになります。いま、ごちゃまぜの家の台所では山梨からお越しいただいた方が持参のイノシシ肉をふんだんに使った『いのししカレー』なるものを作ってくれています。もしも、今日、めぐりめぐるカフェに来ようとしてくれているひとがいたとしたら、これを食べることができます。

 

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わたしは、いま、このブログ記事をごちゃまぜの家の居間から書いています。現在、この空間には複数名のおとなたちと小型犬が一匹と9ヶ月の赤ちゃんがいます。昨日も全国各地から参加者の方が集まってくださり、ごちゃまぜの家には豊富な食材が集まりました。私自身は「めぐりめぐるカフェをやりたい!」と言っただけで、言っておきながら自分が用意をできるものは『空間とコーヒー』だけでした。が、ふたを開けてみたらびっくり!!非常にありがたいことに、参加者のみなさまのおかげでバラエティ豊かなメニューが食卓(および空間)を極彩色に彩ってくれました。

 

これはもうほんとうに「無能冥利に尽きる」といった感じでありまして、坂爪圭吾自身はまったくのからっぽにして無能、ただ、できることと言えば『言い出しっぺになること』くらいのことなのですが、非常にありがたいことに「坂爪圭吾の欠落した部分をみなさまの善意が埋めてくださる」的な恩恵を受けまくる日々のど真ん中を過ごしております。TPD48の活動は、つまるところ「日々、みなさまによって生かされている坂爪圭吾のせめてもの恩返し、贖罪、免罪、報恩、ならびに罪滅ぼし的な意味合いを込めた営み」ということになります。基本的にはどのような依頼であっても応えていきたいと思っておりますので、この記事を読んで「ほわっ!」と来た方からのご連絡をお待ちしております。

 

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わたり文庫『小説 上杉鷹山

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、童門冬二著作『小説 上杉鷹山』です。わたしは甲本ヒロトさんと江頭2時50分さんと上杉鷹山さんがなんとも言えずに好きなのですが、一見、まったく共通点のなさそうなこちらの御三方は「弱いものに優しい」という点において見事に一致をしていると、わたしはそんな風に感じております。人間には強いひとと弱いひとがいるのではなく、ひとりの人間のなかに「強い部分もあれば弱い部分もある」ものではなかろうかと。それならば、できることならば「強い部分を引き出しあい、弱い部分を補いあう」ことができたら素敵なのではなかろうかと、そのようなことを感じております。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

「助けよう」

 

と走り出す心理。

 

「そういう人間の自然な心を、孟子は「忍びざるの心」といった。見ているには忍びないという意味だ。いま、米沢藩は潰れるか、潰れないかの瀬戸際にいる。藩を潰さないためには、もちろん金がいる。金をつくらなければならない。しかし、お屋形さまは、貧乏な米沢にも人はいるとおっしゃった。人間がいるとおっしゃった。お屋形さまはよそからこられた遠慮もあり、また、根がおやさしいから強いことはおっしゃっらない。私は、ただ人間がいるだけでは何の役にも立たないと思う。その人間が他人の役に立たなければ駄目だ。人間が人の役に立つためには、まず、この忍びざるの心を持つことが必要だ。井戸に落ちかかるこどもがいたら、衝動的に走り出すやさしさを持つことから始めなければならない。私たちは、この開墾地で、そのやさしさをまなぼう」

 

童門冬二『小説 上杉鷹山』【集英社文庫】 

 

世界を変えるより、世界を増やす。

先日、小さなこどもを育てているお母さんが「こどもが小さいうちは絶対に死ねない。この子が大きくなるまではわたしがなんとかしなくっちゃ!」的なことをおっしゃっていました。すると、それを聞いていた別の女性が「なるほどね!そうなる気持ちはすごいわっかる。でもさ、自分さえいればこどももどうにかなるっていう世の中(というか環境)よりも、自分がいなくてもこどもはきっと大丈夫だって思える世の中(というか環境)になった方が素敵じゃない??」的なことをおっしゃっていました。 

 

わたしは、この会話を聞きながら「なるほどなー」と思いました。こちらの記事をご覧のあなたは、どのようなご感想をお持ちになられましたでしょうか。わたしは定期的に思うのですが、多分、人間はひとりで生きられるようにはつくられていないように思います。与えるとか、受け取るとか、表面的には「与える側と与えられる側」みたいな感じで上下関係があるようにも見受けられますが、裏を返してみれば「与える喜びを与える側と、与える喜びを与えられる側」ということになる【一気にひっくり返る】とでもいいましょうか、与えるという行為も、受け取るという行為も、同じように尊いものではないのだろうかなどと考えます。

 

昔、わたしは「世界を変えるより、世界を増やす」的なことを考えていました。同じような感覚で「椅子取りゲームをするのではなく、椅子をつくるゲームをしたい」的なことを考えていました。この遊び感覚の思考癖はいまでも変わっていないみたいで、わたしは「こうあるべきとされている外側の世界を見てみたい。それがなければつくってみたい」のだと感じています。自分が置かれている状態を窮屈で息苦しいと感じるのであれば、それを変えてもいいのだと、自分が生きやすい環境を(身近になければ)自分の手でつくりだしてもいいのだと、そのようなことを思うのであります。稀に、悩み相談的な話を聞きながら「これは俺に出されているなぞなぞみたいなものだ」と感じることがあります。いま、世の中的に抱えている問題を明るくポップに解決する(解決と言うよりは「問題が問題ではなくなる」とか「どうでもよくなる」的な)ソリューションがあるとすれば、それはなにか。素敵な世界を生きたいと思う。そのためには、なによりもまず「自分の思いに真っ直ぐであること」なのだなあと、そういうことを感じております。

 

 

 

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世界を変えるより、世界を増やす。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。

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1月13日(土)と14日(日)の二日間、実験的に「めぐりめぐるカフェ」なるものを開催させていただきます。非常に乱暴にまとめると「食事も飲み物も全部無料の喫茶店」ということになります。時の旅人という合唱曲に「めぐるめぐる風〜♫」という歌詞があるのですが、この、風の部分をカフェと言い換えることによって「そこはかとなく循環している感じ」を醸し出すことができるのではないだろうか、ということではじまりました『めぐりめぐるカフェ』記念すべき第一回の開催です!!【お時間のある方も、お時間のない方もお気軽にお越しください!!】

 

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大事なことは『GIVE&TAKE』ではなく『GIVE&GIVE&FORGET』だと聞きました。与えて、与えて、忘れてしまう。そうしたら、いつか忘れた頃に何かの形で返ってくる。これが宇宙の法則なのであると聞きました。今回の主催(?)になります坂爪圭吾・稲村彰人・保科亮太3名の人柄的なものについては、以下の音声をお聴きいただけたらなんとなくわかってもらえるのかなと思います。この音声を聞いて「ああ、こいつらの声はいい感じだな」と思っていただけましたら是非来てください。ただ、こいつらの言っていることはクソだなと感じられた場合は、多分、来ないほうがいいのだろうなと思います!!

 

 

最近一番感動をした話。

ひたすらおはなを配り続ける日々を過ごしていました。札幌にて「おはなをください!」というご連絡をいただき、札幌駅前の大丸で女性Y様と待ち合わせをしました。合流直前に、Y様からこんな連絡をいただきました。「実は、わたしは目が見えないのでさかつめさんから声をかけてもらえたら助かります。白い杖をもって立っています」とのこと。わたしは、え、そうなの、そうなの(それではどうやってラインでやりとりできたの!?)みたいな感じになって、なんだかもういろいろとびっくりしました。

 

大丸一階のシャネルの前でY様と合流をしました。立ち話というかたちになりましたが、Y様はいろいろな話を聞かせてくれました。LINEなどの文章は音声で読み上げてくれる機能があるということ。いばや通信も毎回それで読んでいる(聞いている)ということ。ツイキャス配信を聴いてからは、頭のなかで「機械音をさかつめさんの声に変換しながら」聴いているということ、など、など、など。わたしはなんだかもう猛烈に感動をしてしまって、いやあ、生きているとこんなにうれしい気持ちになれることがあるのですね!的なことを不器用な言葉で伝えました。

 

別れ際、Yさんは「さかつめさんの言葉のなかで一番好きな言葉を書いてきたので、よかったら受け取ってください」という言葉とともに、冒頭の写真にある直筆のお手紙(?)を渡してくれました。そこには「オレハオレトイウサクヒンヲカンセイサセルカラオマエハオマエトイウサクヒンヲカンセイサセルンダ。オマエハアイサレテイル。(俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させるんだ。お前は愛されている。)」と書かれていました。こころ打たれる瞬間というのはまさにこういう瞬間のことを言うのだなと、わたしは、激烈に感動をしてしまいました(そして「おはなを配っていて本当によかった。こういう瞬間があるからやめられないんだよなぁ〜!!」と思いました)。

 

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わたり文庫『霧のむこうのふしぎな町

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、柏葉幸子著作『霧のむこうのふしぎな町』です。こちらの本は、仙台在住の方がごちゃまぜの家にと寄贈をしてくださった一冊になります。千と千尋の神隠しに影響を与えたと言われるだけありまして、なんと言えばよろしいのでしょうか、非常に素晴らしい作品だったもので「是非、みなさんも是非!」という気持ちになりました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、長野県にわたりました ※※※

 

わたしたちは、おたがいをよく知らないから、こわいのかもしれない。正面からぶつからないで、遠くから見ているだけだから。リナのように、とびこんでいったほうがいいんでしょう。リナがやったように、トーマス流にどなりちらしてね。

 

柏葉幸子霧のむこうのふしぎな町講談社児童文学新人賞受賞作)』【講談社文庫】

 

生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。 

諸事情が爆発をして、北海道から仙台を経由して現在は横浜にいます。もしも「おはなをプリーズ!」という方がいらっしゃいましたら、東京&神奈川界隈であれば直々にお渡しに伺えるかなと思います。必要とあらばお気軽にご連絡ください。次の土日はごちゃまぜの家でイベント【めぐりめぐるカフェ】があるのですが、土日以外ならどこでも行けます。なぜならば、わたしには時間がたっぷりあるからです!!

 

札幌でY様にお会いしたあと、わたしは「自分が恥ずかしい」という気持ちになりました。このような言い方は失礼にあたるかもしれないのですが、目が見えなくても一所懸命に生きようとしているひとの姿に触れたことで、ああ、自分はこれだけ恵まれているというのにこのザマかと、不平不満をタラタラと数え上げてしまうことはめっぽう多いし、当たり前のことを当たり前のこととしてしまっている(感謝を忘れている)自分は非常にダサい存在なのではないだろうかと、自分で自分が恥ずかしい【生命に対する冒涜なのではないだろうか】と思いました。

 

誠実に自分の命を生き抜くということ。そのことから放たれる輝きは、なんだかもうまじで半端ないなと思いました。と、そんなことを思っていた矢先に、先日東京でお会いした方から一通のメールが届きました。そのなかには「坂爪さんが勝手にやっていることに、いっぱい勇気をもらっています」と書かれてありました。私は思いました。自分の意図しないところで、ひとは勝手に何かを受け取ってくれるものだということを。Yさんも、決して坂爪を励ますために会ってくれた訳ではないのだと思います。ただ、結果として「自分が自分の命をひたむきに生きることで、それに触れたひとを勇気付ける」ことはあるのだなと、それならば、こうでなければいけないという思い込みや社会通念に縛られて「もけー!」となってしまう前に、与えられた命を思い切り生かしていきたいじゃあないかなどと思いました。

 

 

 

坂爪圭吾さま

 

おはようございます。
10月末に、中野のイベントでお目にかかった
○○○○と申します。
(お先に失礼して、帰り際に握手していただいた者です^^)
その節はありがとうございました!

 

私、ずっと坂爪さんの行動と文章の大ファンでしたので、イベントの主催者さんから
「坂爪さん来るよ」と聞いて吃驚仰天、ずっとそわそわしていました^^;
お会いできて「わあ、本物だ」と、単純に、嬉しかったです。

 

ブログを拝読していて、いつも、お返事したくなりつつも、
「いやそんな馴れ馴れしい・・・」と書いたことはありませんでしたが、
なぜか、今朝読んだトピックについては、書きたい!と思ったので早起きした勢いで書いちゃいます。

 

お子さんが5人ほしいというお話について。
なんか、ぜったい、普通じゃない感じで叶いそうな気がします。
きっと、坂爪圭吾父親企画の賛同者となる女性に出会えると思います!
(一人じゃなくて複数でも面白いなあと無責任に思ってしまいました。
一人で5人産むのはそれなりに大変だと思うので^^; )

 

「子育てはお金がかかる」「手がかかる」「5人なんて無理」などの呪文を打ち破って、
ひょうひょうと楽しそうに子どもと過ごす図を実現させてほしいなあ。

 

我が家は全然裕福ではないくせに、3人子どもが来ました。
うっかり、子育てにお金をかけがちな都心部
住んでしまったので、周囲の子育て事情(塾とかお稽古事とか)を耳にして
「うちはムリー。お金のかからなさそうな場所に引っ越そうかな・・・」と、
弱気に揺れることもよくありますし、
「養育費とか受験とか、もう。なんなんだろ。
こんなに恵まれた国にいるんだから、それでいいじゃないか」と
強気に思うこともあります。

できれば、あるものを生かして、あるお金の中で、背伸びせず
豊かに子どもと暮らす方向でゆきたいなあと思います。

 

なぜか、心がふらつく時に、よく坂爪さんの投稿がFacebookに出て来ます。
ブログを読んでは、シンプルな気持ちに戻ります。

 

坂爪さんが勝手にやっていることに、いっぱい希望をもらっています。

またいつかお目にかかれること楽しみにしています。

 

○○○○

 

 

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俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させるんだ。お前は愛されている。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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義人なし、一人だになし。

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ポール・エルデシュという名前の数学者は、下着とノートだけを入れた鞄を抱えて「世界中の数学者と話すため」に各国を放浪した。数学者と面会をしては数学のことを考え、移動中も歩きながら数学のことを考え、生涯に発表をした論文の数は1000を超える。この数は20世紀最大とも言われていて、実際、エルデシュは生きている時間のすべてを数学に捧げた。タイム誌は彼を「変わり者中の変わり者」と称する。エルデシュの生き様は目茶苦茶だった(生活能力が著しく欠如していた)にも関わらず、エルデシュは世界中で歓迎を受けた。最大の理由は「エルデシュには可愛げがあった」から、というものになる。

 

エルデシュのような生き方はいいなあと思う。自分が熱中できるものを見つけて、それ以外は(意識的にしろ無意識的にしろ)周囲のサポートを受けながらひたすらに「己の熱情の赴くまま」に生きる。私は現在、おはなを配る日々を過ごしている。北海道【札幌〜富良野旭川】では15名程度の方々に実際にお会いしておはなを渡した。エルデシュほどではないにしろ、わたしの今世は、非常に様々な方々に支えられながら継続をしている。明日10日からは仙台に行きます。仙台界隈で「おはなをちょーだい!」という方がいらっしゃいましたら、どなた様でもお気軽にご連絡ください【宿も予定もございません!】。

 

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なんでこんなんなっちゃってんの。

前回の記事で、川本真琴さんの「神様はなにも禁止なんかしてない」という歌詞をご紹介させていただいた。素晴らしい歌詞だと思う。昔から私は川本真琴さんが大好きで、他にも「満員のプラットホーム、破廉恥なクラクション、なんでこんなんなっちゃってんの」という好きな歌詞がある。最近、この『なんでこんなんなっちゃってんの』という部分を頻繁に思い出す。私は思う。人間は、最低限衣食住の三つが整っていたら生きていくことはできるはずなのに、いつの間に、生きるということがこれほど『重い』ことになってしまっているのだろうか【なんでこんなんなっちゃってんの】などと思う。

 

余談になりまくるけれど、先日、成田空港を歩きながら「こどもは五人欲しいなあ」と思った。思ったあとに「それは良い考えだ!」と思った。結婚をする予定もなにもないけれど、端的に「こどもが五人もいたら賑やかで楽しそうだなあ(老後の楽しみも増えそうだなあ)」と思った。が、普通、こどもを育てるとなると「養育費がなんたら」とか「教育費がなんたら」とか「現時点での収入がなんたら」みたいな感じで、いろいろなものがついてまわる。いろいろなものがついてまわるから、本当はそうしたいけれどいまはまだそれをすることができない、などと考えることは頻繁にある。しかし、本当にそうなのだろうか(生きると言うことはそれほど重みを伴うことなのだろうか)。

 

こどもが生まれたら学校にやる。その必要はあるのだろうか。学校に行きたければ学校に行けばいいし、学校に行きたくない(行かせてあげることができない)なら行かないでもいいという考え方はダメなのだろうか。坂爪圭吾のこどもとして生まれて来たことが運の尽き、今世は『学校ではなく自然から学べ(あとはインターネットとかもあるしね!)』的な態度でこどもを育てるということは、父親失格な行為になるのだろうか。極論、食べるものと寝る場所があれば人間は死なないと思う。最低限のラインだけは確保する。それ以外は「おのおので頑張れ」ということにする。それではいけないのだろうか。試験や就職に失敗をして自殺をするひとがいる。学校や社会に馴染むことができなくて自殺をするひとがいる。端的に「なんでこんなんなっちゃってんの」と思う。

 

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社会不適合でも楽しく生きる「適応よりも開墾」

かく言う私も、社会にうまく馴染めない自分を「ダメだ!ダメだ!俺はゴミ人間だ!」と思う日々を過ごしていた。が、冷静に考えてみると「年間自殺者3万人いて、鬱病患者も100万人いると噂の日本社会に自分を適応させることの方がやばいんじゃないか」などと開き直るようになり、現在に至る。これは極端な考え方かもしれないけれど、社会に自分を合わせるように生きるより「生きづらさを抱えているならば、生きづらさを抱えているなりに、生きづらさを抱えている自分でも生きて行くことのできる世の中を『開墾する』生き方」みたいなものを養った方が、いろいろと有意義なのではなかろうかなどと思うようになった。

 

革命を起こしたいとか、そんな大仰なことは考えない。私は自己中心的な人間なので、なによりもまず「自分が自分のままで快適に生きるウェイ」を見つけたい。その道が、結果として誰かのためにもなったのであれば最高だと思う。いろいろな人々と話す日々を過ごしていると、みなさま、多かれ少なかれそれなりに「生きづらさ」のようなものを抱えていらっしゃることがわかる。生きづらさを抱えているのは、なにも自分だけではないのだと言う当たり前のことを思う。すると、わたしは如実に元気になる。仮に、仮に、仮に自分が「こんな自分でも生きていくことができました!」的な道を発見(あるいは開墾)することができたとしたら、自分と似たような方々にとっても「それは非常にワンダフルですね!」的なことになるのではなかろうか、などと甘いことを思う。

 

自分のこころが「いやだな」と思うことを受け入れると、いつの間にか自分自身が「いやだな」と思うものと一体になる。これは非常に恐ろしい話だと思う。いやだと思うものを受け入れると、いやだと思うものに自分も加担をする【自分自身が醜い存在に成り下がる】ことになる。私は思う。今の世の中は「生きているだけではいいと思えない罠」的なものが無数にあるように思う。誰かに認められて、はじめて「自分も生きていていいのだ」と思うことができるように仕組まれている。逆に言えば、ただ生きているだけではダメだということになっている。が、これは嘘【罠】だと思う。誰かに認められようが、誰にも認めなかろうが、生きとし生けるものは「生きていていいに決まっている」ものだと思う。多分、わたしはこのからくりを暴きたいのだと思う。このからくりを暴きたくて、ひとと話したり、偉人の生き方に触れてみたり、自分なりに閃いたことを愚直に試したりしているのだろうなあと思う。

 

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わたり文庫『塩狩峠

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『塩狩峠』です。わたくし、先日、旭川にある三浦綾子文学記念館なる場所に足を運ぶことができました。わたしは三浦綾子のファンでございます。とりわけ『母』と『塩狩峠』がとりわけ大好きなのですが、今回は塩狩峠をご推薦いたします。名前は聞いたことあるけどまだ読んだことはない!という方がいらっしゃいましたら、騙されたと思って是非読んでみてください。心が洗れるような、生きる姿勢を正されるような凛とした感覚になります(これが読書の素晴らしいところですね!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※

 

一粒の麦、

地に落ちて死なずば、

唯一つにて在らん、

もし死なば、

多くの果を結ぶべし。

 

何を食い、何を飲み、何を著んとて思い煩うな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給うなり。まず神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。この故に明日のことを思い煩うな、明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。

 

義人なし、一人だになし。

 

三浦綾子塩狩峠』【新潮文庫

 

義人なし、一人だになし。

という訳で、明日から仙台界隈に足を運びます。お時間のある方はどなたでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです。ひとと出会うことの最大のメリットは、多分、あれこれこういう話ができるとかそういう具体的なことではなく「生きていることを確認すること」なのだと思います。生き方に間違いもなければ「これが正解!」というものもないように思うので、ああ、あなたも生きているのですね、わたしも同じように生きております、お互いいろいろありますがこれからも共に生きていきましょう的なアレを交わすことができたなら、多分、それだけで万々歳なのだと思います。

 

先日、北海道でお会いした方から「これまでは寝る前に缶ビール3本くらい空けないと眠れなかったのですが、坂爪さんからおはなをもらってから『なんかもうこれはなくてもいいや』ってなりまして、スパッとお酒をやめることができました。いまでは禁酒4ヶ月になります!」という神懸かり的なご報告をいただきました。僭越ながら「おれはキリストか!」などと思いました。ブログだけだとまったくうまく説明をすることができないのですが、生きているとたくさんの奇跡的な出来事に触れることができます。そのひとつひとつに「生きていてよかったなあ」などとしんみりすることができる今回の人生を気に入っております。

 

生きることに対する過度な緊張をほぐしたい。もしかしたら、坂爪圭吾はそんな風に思っているのかもしれません。坂爪圭吾という漢字の羅列は若干ソリッドなので「それだけではないとんがった部分」も勿論ありまくるのですが、多分、人間の最大のパフォーマンスが発揮される瞬間は「(気張っている時ではなく)肩の力を抜いて、リラックスをできているとき」なのだと思います。わたし自身は天然素材の切込隊長といたしまして、明日から(誰にも呼ばれた訳じゃないけど)勝手に仙台に切り込みをいれて参りたいと思います。お会いできる方がおりましたらば、是非、仙台でも何処でもお会いいたしましょう!!

 

 

 

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三浦綾子に触れたくて。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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人生とは、自分を楽しませることである。

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乱世を生き抜くためにテントで暮らしている。これはある種の訓練である。もしも自分の人生が完全に行き詰まった時は「森にテントを張って静かに暮らそう…最近はタイニーハウスとかもあるから10万円くらいで小屋も建てられるみたいだし…仕事のひとつくらいはあった方がいいんだろうな…手に職をつけよう…こんな自分にもできることなんてあるのかな…ああ…そうだ…森で占い師とかやっていたらそれっぽいから占いの勉強でもしておこう!!」ということで、突発的に『さかつめ占い』をはじめました。

 

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私は人格的な欠陥を抱えているので、このひとは好きだと思えば全身全霊で愛情を注ぐものの、なんだか微妙だなと思うと途端にいろいろ冷めてしまうところがある。ダメだなあと思うけど、仕方がない。今日から「おはなをあげる」ということで北海道は札幌市内に足を運ぶ。片道切符になるために、身の振り方がわからない。札幌は寒いと聞く。わたしは無事に帰れるのだろうか。おはなをご希望される方は、どなた様でもお気軽にご連絡ください。遠方にお住いの方でも、交通費さえ出していただけましたら(その点、甘えてしまってごめんなさい!)世界各国どこでも足を運ぶ勢いだけは大切に守り通したいと思っています!!

 

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言うべきことは言う。

私は牡羊座動物占いは「根が明るい狼」です!】で、かの有名なしいたけ占いさんによると「あなたはジメジメよりも、『言うべきことは言う』とカラッとしたケンカ腰でいるほうがうまくいく」性質があるのだと聞いた。これを聞いたときは「わっかる〜!」と思った。わたしはジメジメした沼的なものがあまり得意じゃない。悩んでいるひとを見ると「いつまでそれをやっているのですか!」とカツをいれたくなる。事実、ごちゃまぜの家に来てくれた方々にも説教的なことをしてしまうことが過去に何回もあった。最近も、遊びに来てくれた女性に結構厳しいことを言ったら、このような感じのメールが届いた。

 

本日、ごちゃまぜの家にお伺いさせていただいた○○○○と申します。

最後に注意されたことは私に足りない部分なのは重々承知しております。また、自分の悪い部分を指摘してくれる人も両親を失ってから初めて出会いました。

数年前、両親も他界し、自分も病気になり、兄弟からは見放され、人間不信になり、一生天井を見つめて生きていくんだろうなあと生きる意味を見失っていたとき、坂爪さんのブログに出会いました。

今は負のオーラしか今は放つことしかできない私かもしれません。

ただ、みんなと一緒に食卓を囲んだとき、勝手に涙が溢れてしまいました。
涙が溢れてきたのは自分でも驚きでした。

本当に菊名の家があったからこそ味わえた一日でした。
坂爪さんや坂爪さんに集まる方々に感謝です。


ありがとうございました。

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

このメールを読んで「(この言葉が彼女の本心だとしたら)言ってよかったんだな」と思った。私は思う。年齢を重ねるにつれて、誰も本当のことを言ってくれなくなる。上辺だけを撫でるかのように「ありのままでいいよ」とか「そのままのあなたが素敵だよ」的なことを言うひとら大量にいる。が、わたしはあまのじゃくな人間なので、どうしてもそういう風潮を目にすると「ありのままで言い訳がないじゃないですか!」などと言いたくなる。「変えてけ、変えてけ!ありのままよりレッツ・ダイ!!!」などと言いたくなる。

 

人生最大の罪は「自分をないがしろに扱う」ことである。

この女性に返信をしたら送信エラーで戻って来た。設定のあれだろうか、それとも「言葉尻ではあれだけど、実際のところ、さかつめけいごは嫌われて終わった」だけなのだろうか。どちらでも構わない。ただ、どうしても言いたいことが自分のなかにはある。ので、この女性に送ったメールをこの場を借りて公開(?)させていただきたいと思った。

 

○○○○さん

 

ご連絡をいただきありがとうございます。

返信が随分と遅れてしまって申し訳ありません。

○○さんのなかには、素晴らしい宝が眠っていると思います。
これはただのお願いになるのですが、
自分でその宝を壊すようなことだけは、しないでいてもらえたらと勝手ながら思いました。

○○さんのなかにある宝を、
大切にすることができるのは○○さんだけです。

どうか、自分をないがしろにするのではなく、
自分自身を貴重品を扱うかのように、大切に扱っていただけたらうれしいです。

取り急ぎの返信のみになってしまい誠に恐れ入りますが、
○○さんにとって、素晴らしい日々が訪れますことをお祈りしております。

さかつめけいご

 

実際にこうやって公開をすると「結構恥ずかしいもんだな」と思う。私は思う。人生最大の罪は「自分をないがしろに扱う」ことではないだろうか。私は割と本気で思っているのだけれど、人間ひとりひとりのなかには『ウルトラ素晴らしい宝』みたいなものが眠っていて、ただ、それを生かすことができるのは自分次第。自分が自分を見限ってしまうことほど、人間としてさびしいことはない。だから、生きているといろいろなことがあるけれど、自分で自分を投げ出す【やけくそになる】ことだけはしないでもらいたいなあと、わたしなんぞは勝手に思う。私は思う。年齢を重ねるにつれて、誰も本当のことを言ってくれなくなる。上辺だけを撫でるように「ありのままでいい」とか「そのままでいい」などと勝手なことを言う。わたしは反逆児だから「ありのままでいい訳がないじゃないですか!」などと思う。いまのあなたは自分自身をないがしろに扱っている。それは自分自身に対する冒涜である。宝を無碍に扱うことを許せない。だから、その点を(できる範囲からで構わないから)改めろと言いたくなる。

 

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わたり文庫『わたしとあそんで』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、マリー・ホール・エッツ著作『わたしとあそんで』です。坂爪圭吾はちょっと父性が強すぎるところがあるので、せめて、わたり文庫のスペースだけでも(ひとのこころをあたたかくしてくれる作品を紹介することによって)母性的な雰囲気を醸し出し、己の中に眠る父性と母性を華麗に消化&止揚をしていけたらいいなあと思っております。この絵本は最高です。いやもう本当にその通りですねという気持ちになります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

ああ わたしは いま、とっても うれしいの。

 

とびきり うれしいの。

 

なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの。

 

マリー・ホール・エッツ『わたしとあそんで』【福音館書店

 

人生とは、自分を楽しませることである。

いま、ごちゃまぜの家の庭に置いてある椅子に座り、太陽をもろに受けながらこの記事を書いている。日光を浴びていると「体内に太陽が蓄電(?)される」みたいな感覚を覚える。もしかしたらいまのおれはめちゃめちゃいい感じの波動を出せているんじゃないだろうか的な気持ちになり、なんなら「さかつめけいごを目撃することはあなたの人生になにかしらプラスの影響を与える(プラスの影響を与える過程で一回殺すこともある)と思いますので、生きているうちに一回は見ておくといいですよ!」的なことを思う。

 

私が人生で大事にしたいと思う形容詞は「清々しい」とか「潔い」とか「痛快である」とか「爽快である」とか、そういう感じの言葉になる。しいたけ占いにもある通り、(ジメジメっとしたものが苦手で)カラッとしたものが好きなのだと思う。乾燥剤みたいなものなのだと思う。しいたけ占いさんは言う。牡羊座のあなたには「周囲にポジティブな影響を与える才能に恵まれています」と言う。同時に「牡羊座のあなたは、周囲からおだてられることで最高のパフォーマンスを発揮します」とも言う。これを見た時は「わっかる〜!」と思った。結局、なんだかんだあるけれどわたしは「ちやほやされたくて生きている」のだと思う。

 

どうしたって人間、生きていると「自分の格好良い部分は見せたいけれど、格好悪い部分は隠したい」的な気持ちになる。が、2018年を迎えたなう、私はこのようなことを思う。「格好いい自分だけではなく、格好悪い自分もさらけ出す。ダメでもいい。それで無敵になる。」のだと思う。ダメでもいいという言葉は、冷静に考えてみると、すごすぎる言葉だ。美しい部分だけではなく、醜い部分も、清濁併せ呑んで「これが自分です」と朗らかに生きる。頭ばかりが優先して働いてしまっているとき、それは「そろそろ自分を楽しませる合図ですよ」ということなのだろう。遊ぶということは、乱暴にまとめるならば『無駄を愛する』精神的な余裕である。毎度のことながら、わたしは思う。人生とは、自分を楽しませることであるということを思う。

 

 

 

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人生とは、自分を楽しませることである。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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あさになったのでまどをあけますよ。

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素晴らしい本に出会うとうれしくなる。多分、登場人物の人柄に「生きたい自分【このようにありたいと思う自分】」を見るからだと思う。現実世界も同じことだ。素晴らしい人物との出会いは、ただ、それだけのことで「生きよう」と思う力を与えてくれる。ここ最近、歴史物の小説を読んでいた。現代社会とは比べものにならないくらい貧しい生活のなかで、それでも、前を向いて生きようとするひとたちの姿に触れると、ああ、あまったれたことを言っている場合ではないなと思う。

 

自分がどれだけ恵まれているのかわかっていない。諸々の不幸は、このような無知から生まれているように思う。家族がダメだとか、恋人がダメだとか、学校がダメだとか、職場がダメだとか、社会がダメだとか、自分が置かれている環境に対する不満や愚痴を述べるあまり、自分に残されている「恵まれた部分」を忘れてしまう。不満や愚痴を吐くことを悪いことだとは思わない。それによって発散されるストレスもある。ただ、人生がそればかりになってしまうのは、非常にもったいないことだと思う。自分を偉い人間だと思うことが傲慢ならば、自分をダメな人間だと思うことも、同じように傲慢【思い上がり】な行為だと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫【循環型の図書館】

数年前から『わたり文庫』という活動をしている。昔、自分の家の本棚に並べられている書籍の数々を眺めながら「自分がこの本をここで独占していたら、この本は自分しか読めないじゃないか!」という非常に当たり前のことを思った。自分が素晴らしいと思うものは、自分ひとりだけではなく、それを同じように素晴らしいと感じてくれるひととわかちあったほうが数倍良いのではないか。そういう単純な理由から、自分がいいなと思った本を「読みたい!」と思ってくれたひとにわたらせていくようになった。

 

最高に感銘を受けた本でさえ、一年に数回読み直せばいいほうだ。それ以外の時間は、どれだけ素晴らしい本であったとしても「本棚で眠っている」状態になる。蓄えるばかりでまったく活用されない金を『死に金』と呼ぶならば、読まれない本は『死に本』になる。これは非常にもったいない話(本に対して無礼な話)である。使われてこそ本領を発揮するものがモノの真髄である。読みたくなったら、そのときはまた買えばいいのである。本棚で眠らせているよりも、その本に触れたことでなにかしら前向きな気持ちになるひとが増えたのであれば、その方が「なんだかちょっと世界的にいいことのような気がする」と思う。

 

なんの説明にもなっていないと思うけれど、2018年も坂爪圭吾は「本を開放する」「家を開放する」「自分自身を開放する」というよくわからない生き方を続けて行きます。私物を開放するとストックは減る。ストックは減るが、フローが生まれる。フローが生まれると「この本が最高なので坂爪さんも読んでください!」とか「この本をわたり文庫に是非!」とか「本を買ったり贈ったりするお金に使ってください(!)」みたいな感じで、予期せぬところから予期せぬものが舞い込むことが如実に増える。わたしは多分、この、予測不可能性が嬉しくてフローな日々を過ごしているのだと思います。

 

わたり文庫『あさになったのでまどをあけますよ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、荒井良二著作『あさになったのでまどをあけますよ』です。こちらの絵本は、熊本在住の方が贈ってくれた一冊になります。新年一発目にふさわしい、文句なしの最高傑作になります。これは余談でありただのお願いになるのですが、わたり文庫に限りましては、読み終えたあとに所有をするのではなくて「あ、このひともこの本を気に入ってくれそうだな」的な方に続々とまわしていただけたらうれしいなあと勝手に思っています。が、(これはただのお願いに過ぎないので)ストックを選ぶかフローを選ぶかは、あなた様の判断に完全に委ねます!!ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

あさになったので まどをあけますよ

 

うみは やっぱり そこにいて

そらは やっぱり そこにある

だから ぼくは ここがすき

 

きみのまちは はれてるかな?

 

荒井良二『あさになったのでまどをあけますよ』【偕成社

 

素晴らしいものを分かち合う。

元旦の夜、私は岐阜県長良川温泉の旅館に呼ばれて足を運んだ。優しさのかたまりのような方が「ゆっくり過ごしてください」とわざわざ手配をしてくれた宿になる。満月を眺めながら、露天風呂に浸かる。金もなにもない自分がこのような時間を過ごせていることは「この世の奇跡だ…」と震えた。これは決して「どうだ!おれはすごいだろう!」と言いたい訳ではなくて、自分自身の存在を「どうぞご自由にお使いください」とフロー状態に置くことによって、驚天動地の出来事に遭遇することがある不思議について、少しでもみなさまに伝わればいいなあと思いながら書いている次第であります。

 

生きていると、どうしても何かを勝手に決めつけてしまう【思い込んでしまう】ことがある。人間なんてこんなものだとか、世の中なんてこんなものだとか、生きるなんてこんなものだとか、自分の人生はこんな感じでこれからも続いてくのだろうとか、わかりもしないものを「わかったつもり」になることがある。これはもう本当にダサいことだなあと思う。当たり前すぎることだけれど、世界にはまだまだ自分の知らないことがたくさんある。自分が生きている人生は「世界のほんの片隅程度」のものに過ぎない。まだまだ知らない素晴らしい風景、まだまだ知らない素晴らしいひとたち、まだまだ知らない素晴らしい体験は、この世界【内面・外面】に無限に散らばっているのだと思う。

 

素晴らしいものを分かち合いたいと願う感覚は、多分、誰の中にもあるものだと思う。誰かが分け与えてくれた素晴らしいものが自分の世界を広げてくれたように、自分が分け与えることのできる素晴らしいものが、誰かの世界を広げることにつながるかもしれない。生きているこの世界を、生きていこうとするこの自分を、知ったつもりにならないこと。決めつけてしまわないこと。残されている可能性に目を向ける余裕を、勇気を、笑い飛ばせるだけのユーモアを、常に胸に抱き続けること。生きたいと思うことの意味は、もしかすると非常にシンプルなものでできているのかもしれない。それは「素晴らしいと思えるものを見つけること。見つからなければ作り出すこと。そして、それを周囲のひとびとと分かち合うこと」という、単純な言葉で言えるのかもしれないと思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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してもらうことを考えると失望が生まれ、してあげられることを考えると希望が生まれる。

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現在、ごちゃまぜの家では「大晦日だよ!もらいもんスペシャル」を開催しています。これは「大晦日だよ!ドラえもんスペシャル」にかけているのですが、多分、こうして説明をしている時点でダメなんだろうなあと思います。連日の移動で無事に体調を壊し、ようやく神様からストップサインが出たぜということで、家で療養をしています。もしも「しかたがないから差し入れでももっていってやるか」的な神様がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。

 

 

ついさきほど、高校生の家出少女が「16時間かけて家から歩いて来ました」ということで、ごちゃまぜの家に登場しました。カバンが重すぎて大変だったとのこと、カバンにはなにがはいっているのかと尋ねましたら「途中多摩川で野宿をしようと思って寝袋をもってきたのですが、寝袋のしたに敷くシートがないから布団をいれてもったきたのが敗因でした」とのこと。彼女の大胆な発想を前に「なんだかこういうのはすごいいいなあ」と思いました。

 

ibaya.hatenablog.com

 

おはなしをつくろう。

ミヒャエルエンデの本を読んでからというもの、生まれて初めての感覚なのですが「自分でも童話みたいなものをつくってみたい!」という願望が芽生えてきました。いままでは、たとえばこのブログ記事とかで「自分が思ったことを思ったままに書く」ということをしていたのですが、思ったままに書くのではなく「自分が言いたいことを物語に込めてみる」という行為は、なんだか新鮮で楽しくて暇なときに「どんな物語をつくったら面白いだろうか」などと考えています。

 

先日、この世の中で一番怖いことはなんだろう?みたいなことを考えていました。怖いことは108個くらいあると思うのですが、その時、パッと閃いたことは「誰にあっても『あなたは誰ですか?』と言われちゃうこと」かなあと思いました。昨日まで友達だったひとにあっても「え、あなたは誰ですか?」と言われてしまう。昨日まで同僚だったひとにあっても、昨日まで家族だったひとにも、なんならコンビニの店員さんにも「え、あなたは誰ですか?」と言われてしまう。この世の中に、自分を認識してくれるひとがひとりもいなくなる。これはとても怖いことだなあと思いました。

 

そんなことを友達と話していたら、なんといいましょうか、こうして「自分を認識してくれるひとが目の前にいる」という非常に当たり前のことが、なんだかとても輝いて見えてきたのでした。そして、自分は自分だと思っているその部分も、他者の視線のうえになりたっているものであり、自分なんていうものは非常に脆い存在【他者なくしてはありえない存在】なのだなあとも感じました。そして、現代社会、もしかしたら「わたしはあなたのことは知りません」という視線が、徐々に蔓延しつつあるのではないだろうか・・・キャー!みたいなことも思いました。そのあたりのことは、昨夜おこなったツイキャス音声配信のなかで話したりしましたので、お時間のあります方は、いつでもひまなときに聞いて見てください。

 

twitcasting.tv

 

【追記】12月29日収録分も公開しました!

 

twitcasting.tv

 

【追記】12月30日収録分も公開しました!

 

twitcasting.tv

 

わたり文庫『星の王子さま

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、サン=テグジュペリ著作『星の王子さま』です。おととい、神戸でお会いさせていただいた方が「うまれてはじめて星の王子さまを読んだのですがこれは素晴らしいですね!さかつめさんに託します!」ということで、お譲りいただいた一冊になります。横浜に戻る新幹線の中で読み終えたのですが、この本は本当に何回読んでも(読む時期によって染みる部分も毎回異なり)こころがあらわれるような素晴らしい本だなあと思います。死ぬまでに、こんな本を書けたら本望じゃなあなんて思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

「ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった!ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった。あの花はぼくをいい香りでつつんでくれたし、ぼくの星を明るくしてくれたんだ。ぼくは、逃げだしたりしちゃいけなかった!あれこれ言うかげには愛情があったことを、見ぬくべきだった。花って、ほんとに矛盾してるんだね!でもぼくはまだ、あまりに子どもで、あの花を愛することができなかった」

 

サン=テグジュペリ星の王子さま』【新潮文庫】 

 

してもらうことを考えると失望が生まれるけれど、してあげられることを考えると希望が生まれる。

この前、ごちゃまぜの家に遊びに来てくれた女性がこんな話を聞かせてくれました。わたしの両親はすでに他界をしていて、実家も売りにだしてしまったので、自分には実家と呼べる場所がありません。実家がないから『ただいまを言える場所』が自分にはないことをたまーにさみしいなあと思うこともあったのですが、ごちゃまぜの家にはじめて来た時、昔暮らしていた実家にすごい似ている感じをうけて、なんだか『ただいまを言える場所』が自分にも与えられたように勝手に思っちゃて、それがすごいうれしいです。

 

この話を聞いたときに、わたしはなんだかじいんとしてしまって「それならもういつでも好きなときに好きなだけ来てください!」と思いました。同時に、自分がやっていることがこんな感じで誰かの役に立つ(?)ことがあるものなのかと、非常に驚いたことを覚えています。その時に、わたしは「誰もが(自分の意図を超えたところで)誰かの役に立っている」ということを思いました。自分や、自分のやっていることの価値なり意義深さを決めるものは、必ずしも自分だけではないということ。逆に言えば、自分では「ダメだ、ダメだ、ダメだ」と思い塞ぎ込んでしまっているときでさえ、思わぬところで「誰かの役に立っている」可能性は常に残されているのだということを静かに思いました。

 

自分がやっていることが誰かの力になれているのだという実感、これは非常にうれしいものなのだなあと思いました。最近思うことは「してもらうことを考えると失望が生まれるけれど、してあげられることを考えると希望が生まれる」ということです。誰かになにかをしてもらいたいと思うと、さみしくなったり、がっかりしたり、みじめになります。慰められることよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを私が求めますように。私たちは与えることで多くを受け、許すことによって許され、ひとのために命をささげることによって本当の命をいただくのですから。そのような祈りの言葉がキリスト教にはあったように記憶をしています。誰かになにかをしてもらうことではなく、ただ、自分にできることを考えはじめたときに、毎回というわけではないけれど「希望の火種」のようなものが胸に宿り、生きようとする力になるのだと思いました。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BdRG42EDVeY/

ごちゃまぜの家より愛を込めて。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、世界は素晴らしい展開を見せてくれる。

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効率ばかりが人生じゃない。という訳で、福岡から成田空港を経由して横浜に着いた翌日に、新横浜から広島に行くという「福岡から広島にいけばいいじゃねえか!」的な遠回りをして現在は福山駅にいる。いろいろ説明したいことが多すぎて、逆になにも説明できない。おはなを届けるためにこれから神戸に向かおうとしているいま、風邪をひいていて頭が朦朧としている。界隈でおはなを希望される方はお気軽にご連絡ください。

 

連絡先・坂爪圭吾

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keigosakatsume@gmail.com【データ制限中で返信できない場合があります!】

 

新種の自殺行為ということで、行く先々でおはなを配っている。福岡では8本配り、広島では2本配った。12月は時期的に落ちる。油断をしていると孤独感とか虚無感に襲われる。稀に「あれ、呼吸をすることさえ苦しいぞ」とかなることもある。こんな時は結構やばい。みんなは、孤独感や虚無感のようなものに襲われて呼吸をすることさえ苦しくなるなんてことはあるのだろうか。わたしにはある。これはある種の通過儀礼だと思うことにしている。深い孤独に陥るとき、普段だったら「これをやれば元気になれる!」的なことをやってもまったく元気にならない。が、多分、孤独なときというのは『これまでの自分をより深い部分から引き上げてくれる言葉なり行動なりを見つけ出すべき時がおとずれたサイン』なのだと思うことにして、闇の深淵に飲み込まれてしまわないように四苦八苦をしている。

 

ibaya.hatenablog.com

 

言葉を獲得するために動く。

基本、会いたいと連絡をくれた方には(時間の都合がつく限り)会うようにしている。クリスマスは福岡で開催された食事会に呼ばれ、諸々のハプニングを突き抜けた先に「行ってよかった」的な悦楽を得た。広島に来るまでの流れは、広島在住の方から「一緒にお酒を飲みたいという理由だけで坂爪さんを呼んでもいいのですか??」という連絡を25日の夜にいただき、もちろん!と答えて26日の夜には広島県の山間部にいた。なんの説明にもなっていないと思うけど、わたしはそういう生き方をしている。

 

こういう生き方をしていると「さかつめさんはひとが好きなのですね」と言われるけれどちょっと違う。多分、わたしは言葉を獲得するために動いているのだと思う。自分ひとりで考えているだけでは出てくることのなかった言葉が、ひとと話しているなかで出てくることがある。自分で話をしながら「ああ、おれはこんなことを思っていたのだな」と話しながら思い知ることは多い。多分、誰にでもそういう体験はあるのだと思う。自分から出てくる言葉を通じて、自分を知ることができる。目の前にいる誰かと深い部分で会話ができていると思うとき、あなたとわたしの間にある境界線は溶ける。あなたを知ることが自分を知ることになり、自分を知ることがあなたを知ることになる。

 

諸々の予定が終わり次第横浜のごちゃまぜの家に戻る。現在は稲村彰人さんが管理人をしてくれている。稲村彰人さんの素晴らしいところは108個くらいあるのだけれど、そのうちのひとつに「このひととなら会話をできている感を覚えることができる」というものがある。人間の三大欲求は、食欲と睡眠欲と性欲と言われているけれど、最後の性欲は(セックス欲求というよりも)コミュニケーション欲求だと思う。性欲を満たすものはセックスだけではない。誰かと深い部分で会話をすることができている、同じ時間を共有することができていると感じる瞬間の中には、多分、性欲は消えている。逆に言えば、自分は誰ともつながれていないという感覚が性欲となって外側に出てくるのだと思う。私も、特に誰からも呼ばれることがなければ年末は横浜に戻り、そこで年越しをする予定だ。誰かと話をしたいとか、誰かと話をすることで自分をもうちょっと知りたい的な感覚を覚えることがあるかたは、いつでも気軽にごちゃまぜの家まで遊びにきてください。人間はたくさんいるけれど、人間と話しているときに「ああ、自分は人間と話せている」とは思えないことは多い。話をするというのは、簡単なようで非常に難しいことだ。が、決して無理なことではないし、その中には最高のよろこびがある。この家はまだ住所を公開していないので、気になるかたはわたしか稲村彰人さんまでご連絡ください(長い文章だな!読んでいただきほんとうにありがとうございます)。

 

管理人・稲村彰人

[メール]akito.inamura@gmail.com

[LINE ID0reaki10

(その他、Facebookで「稲村彰人」と検索して友達申請していただいた後、Messengerでやり取りするという形でもOKです)

 

わたり文庫『はてしない物語

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ミヒャエル・エンデ著作『はてしない物語』です。これはもうこの年末年始に時間のある方は全員読め!といいたくなるくらい、素晴らしい作品でした。この本を読んだ時間は決してあなたを裏切らないだろう(そして願わくばこの本に書かれている内容などを、あなたと語り合いたい)なんて思ってしまいました。物語は「虚無が世界を侵食する」ところからはじまる。なんとも現代的な話ではないだろうか、などと思ってしまうわたしは虚無に飲み込まれすぎているのだろうか。エンデの「モモ」もごちゃまぜの家にあるので、年末暇なひとは読書をするためだけでもごちゃまぜの家にお越しください。長くなりましたごめんなさい。こちらの本をご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

「わからない。」アトレーユは口ごもった。

 

「連中はな、人間の頭の中の妄想になるんだ。ほんとは怖れる必要なんかなんにもないのに、不安がっていろんな思いを持つようにさせたり、自分自身をだめにしちまうものなのに、まさにそれを欲しがる欲望を持たせたり、実のところ絶望する理由なんてないのに絶望だと思いこませたりするんだ。」

 

「われわれはみんな、そうなるのだろうか?」アトレーユはぞっとしてたずねた。

 

ミヒャエル・エンデはてしない物語』【岩波少年文庫】 

 

自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、世界は素晴らしい展開を見せてくれる。

新幹線の中で赤ちゃんが泣き喚いていた。お母さんはどうにか赤ちゃんを泣き止ませるために必死で、周囲の乗客は迷惑そうな顔を浮かべるひともおおく、実際に「うるせえな!」と舌打ちをしているひともいた(自分の隣に座っていた男性がそれだった)。こういう場面に遭遇するといたたまれない気持ちになる。お母さんの大変さはどうすれば軽減するのだろうとか、そういうことを考える。そして「こんな感じのいたたまれなさがあるからこそ、ごちゃまぜの家をはじめたのだった!」なんてことを思い出した。

 

 

生きるために必要なもの、それは安心感だと思っている。だが、安心感にも二種類あるなあと思った。ひとつは「死なないための安心感」。自分がなんらかの事情で住居や仕事や健康を失ったとしても、周囲の誰か【それが行政の場合もある】がきっとなにかをしてくれるはずだ(自分の生活はどうにかなるのだ)と思える安心感。安心して働ける(逆に言えば、安心してカラダを壊すことができる)世の中であること。要するに『どのような状態に置かれても、自分は人間的な生活を営み続けることができる』のだと思える安心感【そのための土壌作り】。それに対して、もうひとつの安心感は「生きたいと思うための安心感」。言い換えるならば「自分が自分であることに対する安心感」だと思う。多分、人間には二種類の欲求がある。ひとつは「自分もあなたと同じ人間である」のだと、周囲の人々と対等に自分も扱われたいのだと願う欲求。もうひとつは「自分が『同じ人間だから』というそれだけの理由で大切に扱われるのではなく、自分が自分である【この世の中に唯一無二の代わりがきかない存在である】というまさに点において、良い部分も悪い部分も全部ひっくるめて対等に扱われたい(ありのままで生きていることを許されたい)」と願う欲求。人間、生きているだけ【死なないでいるだけ】では足りないのだと思う。死なないことではなく、その先にある『生きたいと思うこと』が重要なのだと思う。それも、ひとと同じことができることで「存在することを許される」的な許可ではない、なにかができるとかなにかができないとか、そういうことを飛び越えて「あなたがあなたであることが素晴らしい」のだと思わせてくれる他者からのまさざし、それが重要なのだと思う。

 

 

頭が朦朧としていることを言い訳に、長い、非常にまとまりのない文章になってしまった。私は「二種類のまなざしが必要」だと感じている。ひとつは「あなたがどのような状態に置かれても、あなたの生活は大丈夫だ」と思わせてくれる周囲からのまなざし。もうひとつは「他の誰でもない、あなたはあなたであるからこそ素晴らしいのだ」と思わせてくれる周囲からのまなざし。いまはまだ、この『二種類のまなざし』が希薄だと思う。自分自身、揺らぐことのない自分自身の価値を胸に抱き続けることはまだできていない。平気で揺らぐし、平気で闇に飲まれるし、平気で浮き沈みを繰り返している。ただ、不思議なことに「この二種類のまなざしを世の中に増やすことが多分大事で、自分がその一端を担うことができるのならばうれしい」と思うだけでも、不思議と力が出る。多分、これを「意志の力【言葉の力】」と呼ぶのだと思う。現状を突破するものは意志であり、孤独感や、得体の知れない虚無感に飲まれないために必要なものも『意志』なのだと思う。自分がこれからやろうとしていること、そこに自分なりの「美しさ」を感じることができたのであれば、恐れることはなにもないのだと思う。自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、きっと、世界は素晴らしい展開を見せてくれるのだと思う。

 

 

 

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自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、世界は素晴らしい展開を見せてくれる。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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永遠にそのままで行け。

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自分という肉体はひとつだけれど、自分という人格は複数個あるように思う。最近の自分は完全なるおじいちゃんで、縁側に座り日光浴をしていると「これだけでもう充分じゃないか」などと思ったりする。最近まで、1800キロの距離を自転車で移動していたのがウソみたいだ。こどものように落ち着きなくそこらじゅうを駆け回るのが自分ならば、余生を生きるおじいちゃんのような自分もまた、同じように自分なのだと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

死ぬこと以外に予定なし。

ごちゃまぜの家に遊びに来てくれたT様に、ランチをご馳走していただく。菊名駅前の老舗の洋食屋さん『サンロード(従業員の方々が完膚なきまでに最高!)』にはいり、T様はオムライスを、私はナポリタンの大盛りを注文する。T様は言う。坂爪さんの文章が個人的にツボで、読んでいるとわたしはなんだかすごい笑っちゃうんです。これはすごいいい意味で言っているのですが、ああ、このひとはバカだなあって思うとうれしくなっちゃうんです。

 

バカだなあと言われたとき、お前に言われたくねえよと露骨にイラっとすることもあれば「あなたに笑ってもらえてわたしはうれしい!」とよろこびに溢れることもある。T様にバカだと言われてよろこびを覚えたわたしは「う、うれしい!」となり、ナポリタンに大量のタバスコをかける。「めちゃめちゃタバスコをかけますね」と突っ込むT様に「生きている実感が欲しくて…」と答える。タンスの角に足の小指をぶつけたときに「痛い!痛い!」って思うと痛みが強化されちゃうけれど、「生きてる!ああ、生きてるぅ!」って思うと痛みが歓喜に転化することってありますよね、的なことを話す。

 

T様が「これから先の予定とかあるのですか?」と問う。私は「死ぬまでひまです。これから先に待っていることは、死ぬことくらいしかありません」と答える。T様は「潔くていいですね!」と笑う。笑ってもらえると嬉しくなる。半分くらいはギャグで言ったつもりだったけれど、冷静に考えてみると「死ぬこと意外に予定なし」というのは意外に本質的だと思った。夢も目標も死ぬまでに成し遂げたいことも(ストックとしては)特にない。私は非常にからっぽである。なにかをやりたいと思うことはあるけれど、毎回、最終的には「やってもやらなくてもどちらでもいい」というポイントに着地をする。

 

人生は夢。

T様がごちゃまぜの家を気に入ってくれた。T様は茶道を嗜んでいる。茶道は禅とも通じるものがあり、過去、T様は禅寺で「無」という掛け軸を見て震えたことがあるのだと話してくれた。私も禅が好きで、老子的な考え方(無用の用)も好きなものだからよろこぶ。しばらくの間ごちゃまぜの家で歓談をして、T様を駅に送る。菊名駅までの道すがら、T様は言う。ごちゃまぜの家で過ごした時間は、うまく言えないのですが、なんだか夢のような感じでした。この街並みの風景も、映画のセットみたいなものなんじゃないのかなって感じます。

 

人生は夢だ。お互いにそのように感じることがあるという話をしながら、駅までを歩いた。別れ際、T様は言う。坂爪さんは、洋服も和服も似合うとは思うのですが、一番似合うのは裸だと思います。槍をもって海に突撃する、みたいな。わたしは「それはうれしいお言葉です」と返事をする。私は、動物を見るたびに「こいつらは全員全裸で偉いな」と頻繁に思う。海に突撃しないでも、裸で蓮華座を組んだり、裸で立っているだけでも、それなりのインパクトはあるのだと思う。素っ裸の似合う男になりたいと思う。

 

ここ最近、ひとつの思いをずっと胸に抱き続けることができなくなっている。自分にはなにもないし、俺はからっぽだなと感じることが頻繁にある。T様から「ごちゃまぜの家を全国各地にもつくりたいとか言っていましたよね」と言われたとき、ごくごく自然な感じで「昔はそんなことも思っていましたねえ…」などと遠い目をしてしまった。過去は過去であり、現在は現在である。人間の気持ちは変わる。先のことはわからない。気持ちは変わることの方が自然であり、変わらない気持ちを抱き続ける【固定する/される】ことには無理があるのではないかとさえ、最近では感じるようになっている。

 

わたり文庫『女は毎月生まれかわる』 

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、高岡英夫・三砂ちづる著作『女は毎月生まれかわる』です。こちらの本は、福岡在住の女性N様から「ごちゃまぜの家には女性の方もたくさんいらっしゃると思うので、この本を是非」とご献本いただいた一冊になります。正直に言うと、私は男性なので女性の生理現象的なものにうとい。ただ、このストレスと死ぬまで共にしなければならないと思っていたものが「実は意外とどうにかなる」道があるのだとしたら、これほど素晴らしいことはないなあと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※

 

皆さんは「月経血コントロール」と聞いたとき、どう思われたでしょうか?「何それ?」「信じられない?」とびっくりされましたか。「まさか」「できるわけない」と首を横にふったでしょうか。それとも「授業中や仕事中に血がモレないかと心配だったので、ぜひやってみたい」と興味をもっていただけましたか。

 

[中略]

 

この「月経血コントロール」は、実はそんなにびっくりするような、あるいは、画期的なものではないのです。いま、95歳以上くらいの日本女性の多くが、自然に行なっていたことです。簡単にひと言でいうなら「月経中は下半身を自分で締めて、月経血をため、一定の時間をおいて腹圧をかけてトイレなどで出す」ということです。下着をつけずに着物を着て、姿勢を正して正座し、しゃがむ姿勢の多かった日本の伝統的な生活の中では、自然にできていたからだの所作なので、あえて言語にされていなかったものです。ことさら言葉にする必要もなく、きちんと伝えられていたのでしょう。 

 

高岡英夫・三砂ちづる『女は毎月生まれかわる』【ビジネス社】

  

永遠にそのままで行け。

この世の中で『善い』とされていることの、果たして何処までが「本当に善い」ことで、果たして何処からが「実は全然善くない」ことなのだろうか。考えてみてもよくわからないことを、それでもなお、性懲りもなく考え続けている自分がいる。どのように生きるのが『善い』ことなのか。正解を求めてみても答えはない。本を読んでもわからない。ひとと話したところで謎は深まる。ただ、ひとつだけ常に感じていることがある。それは「命は生きたがっている」ということで、小さなこどもを見るたびにそのことを思う。

 

私は小さなこどもが好きだ。人間の根源はここにあるように思う。誰だって小さな頃は、無条件に命を爆発させて(無駄に弾んだり、無駄に雄叫びをあげながら)天真爛漫に世界を駆け回っていたのだと思う。世の中で善いとされているから弾むのではなく、世の中で善いとされているから大声をあげて走り回る訳でもない。あくまでも無条件・無目的な行為であり、ただ、そうしたいからそうしている(そうしないではいられない)透明なエネルギーの純粋な爆発。生きようとしているエネルギーを全身にまとい、瞬間瞬間に開ききる命。そのようなものに触れたとき、ああ、最高だなあとわたしは思う。

 

私はまだ、生きることの意味や目的はわからない。ただ、自分が口にする言葉や、自分がやっているものに触れたひとのこころが「よっしゃ、生きてやるぜ」という方向に振れたのであれば、それだけで大成功だなあと思う。誰もが当たり前にできることが自分には無理で、いろいろなことを【今世は無理だなと】諦めた結果が現在の自分である。こんな自分でも生きることができている現状に強い感謝を抱きながら、もしも、社会やみんなが押し付けてくる「こうあるべき」的なものに苦しめられているひとがいたとしたら、そんなことはないぜって言えるほどの逞しさを、自分の存在に宿らせていけたらと思う。

 

 

  

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このままでいい。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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神様は我々に成功を望まない。ただ、挑戦することだけを望んでいる。

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昔、多分違法だと思うけど新潟市内の海岸沿いにテントを張って暮らしていた時期がある。風呂がないから知人に借りる。夜は防砂林から松の木などを拾い、焚き火を囲む。最初は変態扱いされていたけれど、徐々にひとが集まるようになり、食糧も勝手に集まった。釣りをしたり楽器を弾いたりベリーダンスを披露してもらったりなど、結構賑やかでそれなりに楽しい日々を過ごしていた。わざわざ車で県外から訪れるひともいた。

 

最悪の場合、また、ここでテント生活をすればいいのだと思うことで精神を落ち着かせている。生きていると、いつの間にか『守りの姿勢』みたいなものを覚える。なにも持っていないくせに、失うことを恐れてみたりする。「違うだろ」と自分に突っ込む。持たざるものがなにを恐れる。お前の強みは、もたないものの軽やかさだろう。もたないものの潔さだろう。もたないものの激しさだろう。恐れることはなかろうもん。そういうことを言い聞かせるとき、ああ、その通りだなあと明朗さを取り戻す。

 

ibaya.hatenablog.com

 

最大の不幸は、自分は必要のない人間だと感じること。

新潟での予定を終え、横浜にあるごちゃまぜの家に戻る。管理人のあきとさんにお願いをして、今月中は、自分(坂爪圭吾)ひとりで管理人をさせてもらうことになった。管理人役を務めながら、家の掃除をして、訪問客がある場合は対応をさせていただき、なにもなければ生まれて初めての執筆活動に専念をする。過去に家のない生活を2年間程度していた。2018年を迎える前に、過去の自分が経験してきたことを(別に出版の予定もなにもないけれど)一回文章にまとめてみたい気持ちがある。

 

この世の中で最大の不幸は、多分、金がないことでも家がないことでも仕事がないことでもない。それは「自分は誰にも必要とされていないと感じること」だと思う。飢えているのは、なにも貧しい国の人々だけではない。マザーテレサは言う。この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。導いてくれるひとを待っていてはいけません。あなたが人々を導いていくのです。所有すればするほど、とらわれてしまうのです。より少なく所有すれば、より自由でいられます。もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人を愛していないからではなく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。

 

自分がマザーテレサのような慈悲深さを持っているとは思わない。それでも、自分なりにできることをやろうと思ってはじめた活動が「ごちゃまぜの家」になる。自分に愛があるのかどうかはわからない。ただの独善的な思いかもしれない。それでも、自分には「熱」があることを感じている。昔、家も金も仕事もいろいろなものを同時にうしなったとき、まだ、自分には体温が残されていると感じたことがある。それならば、この熱を、この体温を、なにかに繋げていくことができたならいいなあと思う。ごちゃまぜの家は常に開放をされているのですが、住所を公開していないために、興味のある方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

連絡先・坂爪圭吾

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神様は我々に成功を望まない。ただ、挑戦することだけを望んでいる。

生きるために必要なもの、それは金でも勇気でも名誉でもなければ特別な才能でもない、安心感だと思う。失敗しても良いという安心感、自分は護られているのだという安心感、ダメな時は元気が出るまでゆっくりしていればいいのだという安心感があれば、多分、人間は何度でもやり直せる。ごちゃまぜの家は、あらゆるものが完備されている完全無欠の最強空間というわけではまったくない。が、ごちゃまぜの家【最悪の場合はここに行けばどうにかなる的な場所】があるということが、少しだけでも、自分の人生を大胆に生きることができる一助になったら素敵だなあと思う。

 

極論、どれだけ社会福祉的なシェルターが増えたとて、究極の安心感とは「外部環境に左右をされるものではなく、自分の内側に(己の力で)築き上げていくもの」なのだと思う。新潟市内の海岸沿いを歩きながら、私は「最悪の場合はここに戻ろう」という僅かながらの安心感を取り戻した。これは、多分、自分が海辺にテントを張って暮らすという実際の体験があったからこそ、どうにかこうにか覚えることのできた安心感なのだと思う。安心感とは、きっと、誰かに用意をしてもらうものではない。自分の体験を通じて、自分の中に築き上げていくものなのだと思う。

 

周囲の人間にできることは、そのひとが自分の力で歩き出すためのサポートまでだ。実際に大地を踏みしめるものは、ほかの誰でもない、そのひと自身の両足になる。マザーテレサは言う。神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ、と。なにかに挑戦をしている人間は、それだけである種の熱を帯びる。その熱は周囲に伝染をして、生きる力を引き出し合う。なにかをすれば、なにかを学ぶ。意外とどうにかなることを掴む。うまくいくとかうまくいかないとか、そんなことよりも大切なこと。それは「自分は生きているのだ」という手応えであり、ひとつひとつのその手応えが、やがて、生きていくうえでの安心感【生きる力】を醸成するのだと思う。

 

 

 

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神様は我々に成功を望まない。ただ、挑戦することだけを望んでいる。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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まずは自分を殺せ。

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家の中でじっと座って考える時と、屋外を歩きながら考える時と、考えている内容も質も明らかに異なることを感じる。わたしの場合、長い間屋内で考え事をしていると「なにかが停滞していく」感覚を覚える。歩きながら考えると、風が吹き抜けるからなのだろうか、余分なものが削ぎ落とされる。思考がクリアになる。じっくりと腰を据えて考えたいこともあるので、明日から、新潟に向けて徒歩で移動をしてみることになった。

 

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先日、働く無職をテーマに音声配信をおこなった。この中で、無職とは「お金では動けなくなったひとたち」のことなのではないだろうかと思った。歩きながら考えたい内容とは、その続きになる。わたしは思う。ひとは「死にたくない」と思う。死なないために(時には嫌なことを嫌々やりながらでも)生活費を稼ぐ。が、同時に「現代人は、生き延びるためだけに生きることに疲れている」とも感じることがある。誤解を恐れずに言うと、死なないために生きるのではなく「これのためなら命を捨てても構わない」と思えるものを必要としているのではないだろうか。

 

 

 

 

死ぬことはいつでもできる。肝心なことは、生きることだ。

昔から「いい大学にはいり、いい企業に就職する」的なレールに違和感があった。経済的な安定と精神的な安定が、必ずしもイコールになるとは思えなかった。そして、誤解を恐れずに言うと「自分が有利になることしか考えられない人間を量産することになる」と思っていた。しかし、当時の自分は(現在もだけど)別にたいした影響力も発言力もある訳ではないので、まあ、自分は自分が思うような人生を送ろうと思って生きてきた。

 

いま、周囲を見渡してみる。もしかしたら自分と似たような気持ちを抱いているひとは、少なからずいるのではないだろうかと思うようになった。資格を取るとか、手に職を持つとか、英語を話せるようになるとか、学歴がとか、多拠点生活がとか、複数の収入源がとか、巷では「こうすれば有利に豊かに楽しく暮らせますよ」的な情報は溢れている。これらの情報は、結局、いい大学にはいる的なアレと同じことだと思う。自分が有利になることを最上の価値としている限り、幸せを感じることは難しいのではないだろうかと思う。

 

なぜそう思うのか。それは「自分というものにとらわれてしまうから」だと思う。有利な道を進むほど、得になる道を進むほど、自分というものにとらわれていく【他者から切り離されていく】。自分さえよければそれでいいという思考は、短期的には充足感やある種の優越感を与えるかもしれないけれど、多分、最終的には「周囲から切り離された痛み」を与える。なにかを得ると守りたくなる。得た瞬間から、失う不安や恐怖がはじまる。そして、失うことを恐れるあまりに「がっちりそれをホールドする」的な心理状態になり、両手は埋まり、新しいなにかを掴むことができなくなる【この世界に散らばる無数の宝物を受け取る機会を失っていく(ように思う)】。

 

自分というものをどこまでなくせるだろうか。

自分自身にとらわれない方法は、多分、複数個ある。大自然の中を歩くときなど、誰にだって「自然と溶け合って一体になる」的な感覚を覚えることがある。この瞬間、自分というものは溶け出している。その瞬間の中によろこびがあり、その瞬間のなかに自由がある。これは『自分が消えるパターン』だと思う。そしてもう一種類、自分が消えるパターンに対して『自分を超えるパターン』もあると思う。それはどのようなことか。

 

私利私欲を捨てよという言葉がある。世のためひとのために生きることは素晴らしいとする価値観だ。清貧の思想と近いのかもしれない。清く、貧しく、美しく。そのように生きることができる人間は素晴らしい。人間の鑑である。が、多くの人々にとって清貧を維持することは(多分)難しい。頑張っても「清く、『豊かに』、美しく」くらいには言い換えないと誰も聞く耳を持たないだろう。ということで、そこで登場するのが『自分を超えるパターン』になる。

 

欲望を完全に捨て去ることは難しい。自我を完全に捨て去ることも難しい。それならば、自分だけの幸せを願うようなチャチな状態を蹴飛ばして、『小欲よりも大欲』を胸に抱き、『小我よりも大我』のど真ん中を生きるといった感じで、大袈裟な言葉で言えば「自分を通じて人類全体の幸福も同時に実現できてしまうような生き方をする」ということ。ちっぽけな自分【独立している自分】を生きるのではなく、おおきい自分【人類全体としての自分】を生きるということ。それが、ここで言うところの『自分を超えるパターン』ということになる。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫『リヤカー引いて世界の果てまで』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、吉田正仁著作『リヤカー引いて世界の果てまで 地球一周4万キロ、時速5キロのひとり旅』です。これだけの距離を実際に歩き通したひとの話を聞くと、自分がこれからやろうとしていることは小学生の夏休みの自由研究レベルだなと、非常に爽やかな敗北感(?)を抱くことができます。私の場合、頭で考えただけの話よりも「実際にやったひとの話」が好きなのだなと再認識しました。頑張れと言われるよりも、実際に頑張っているひとを目の当たりにする方が五億倍励まされる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

ダメな自分と決別すべく、愛車(リヤカー)とともに旅に出た。ブルガリアで凍傷による指切断の危機に直面し、東ティモールでは警官からケツバットを食らい、カナダでは熊と一戦交え・・・波乱万丈の、遅々として終わりなき旅。「遅ければ遅いほどいい」とリヤカーを引いて歩き続けることにこだわった著者が見た、時速5キロの旅の絶景。

 

吉田正仁『リヤカー引いて世界の果てまで』【幻冬舎文庫

 

歩きながら、考えよう。

明日には横浜を出て、一旦東京に向かう。それからひたすら北上をして、特段何も予定がはいらなければ、福島界隈から左折をする【新潟に向かう】。道中、一緒に歩きたいと思ってくださる方がいれば、どなた様でもお気軽にご連絡ください。話し相手ができることは貴重です。道中、誰かと話をすることで「自分ひとりでは出てこなかった言葉」に出会うこともあります。宿もなにも決めていないので、もしもなにかあればお気軽にご連絡ください(毎日歩いては休み、歩いては休みを繰り返して、最終的には漫画喫茶で横になる流れになるのだと思います)。

 

歩きながら自分はなにを思うのだろうか。歩き出す前の自分は「つまらない私利私欲にとらわれるのではなく、どうせならでかいことを考えろ」ということを思っている。ちっぽけな私利私欲にとらわれるから、苦しみと呼ばれているものが生まれるのだろう。どうせ抱くなら「小欲より大欲」「小我より大我」ということで、自分をどれだけなくすことができるのだろう【自分をどれだけ乗り越えることができるのだろう】ということを思いながら、新潟までの道を歩く。

 

実はもうひとつだけ猛烈に考えたいことがあるのだけれど、それはまだまったくまとまっていない。最近の自分に感じていることは「まずは自分を殺せ」ということで、ちっぽけな自分にとらわれそうになるときこそ、つまらない自分を蹴飛ばしてやれと思う。寒い、寒い、などと愚痴を言っていつまでも家にいるようでは、精神も肉体も醜悪になる。なにもすることがないときほど、体力と精神力の培養に励もう。歩きながら体力も培い、思考もまとまり、なんだったら「道中で出会う方々と最高の時間を過ごす」なんてことができたのならば、もう、ほかになにも言うことはないなあと思う。

 

 

 

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本当に大事なことは、先延ばしにしないで、いまやらなくちゃいけない。


 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。

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銀河系の施しを受けて横浜【ごちゃまぜの家】に戻る。広島で死にかけていたのが嘘みたいだ。22日間の自転車移動の中で、本当に様々な方々から恩恵を受けた。次は自分が返す番だ。これからしばらくはごちゃまぜの家にいる。家は24時間開放をしているので、興味のある方はお気軽にご連絡ください。ごちゃまぜの家とは何か。以下のリンク先をご覧いただけましたら、ちょっとくらいはわかっていただけるのかなあと思います。

 

 

自転車移動の日々の中でいろいろなことを感じた。自分のためだけに生きるのは虚しい。そんな風に感じることもあれば、誰かのために生きることにも限界があるとも感じる。いい仕事をした1日とは、多分、誰かと心を通わせることができた1日のことだ。金も名誉も命もいらない。そういう人間は最高だなと思う。愚かでもいい。あいつはアホだと後ろ指をさされても気にすることはない。金では動かない人間を動かすことができるもの、多分、それが『心』になるのだと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

死なないために生きている訳じゃない。

昔から「自分がやっていることが(たとえ経済的な価値を生まなくとも)未来にとって必要なものであれば、なにかしらの形で自分は生かされるだろう。しかし、自分がやっていることが誰にとっても必要のないものであれば、その時は、自分は野垂れ死ぬのだろう」と思っている。あとはもう、自分【自分のセンス】に賭けるしかない。ダメならダメで仕方ない。その時は潔く死のう。しかし、別に死にたいと思っている訳ではないので、これからも(手を替え品を替え)やっていきたいと思う。

 

おかげさまでごちゃまぜの家も存続できている。いつまで続くかはわからない。久しぶりにごちゃまぜの家に戻ると、様々な差し入れが届いていて驚いた。未開封のダンボール箱を開けたらホッカイロが180個はいっていて「なんじゃこりゃ!」と震えた。台所には大量の果物と野菜が置かれている。私と、管理人の稲村彰人は料理ができない(正確には「怠惰ゆえに料理をさぼる」)。だから、誰か料理ができるひとに(台所にあるものは自由に使ってくれて構わないから)料理をしてもらえたらうれしいなあと思う。

 

正月も、実家に帰りたくないとか、そもそもで実家がないという方々はごちゃまぜの家に来たらいいと思う。私と一緒にビリーズブートキャンプをやるもよし、誰かと話すもよし、話さないもよし、料理をするのも読書をするのも昼寝をするのも縁側でひなたぼっこをするのもよし、みんな好きにしたらいいのだと思う(稀に、坂爪圭吾が説教をすることがあります)。管理人の連絡先は以下になります。興味のある方は稲村彰人さんか、坂爪圭吾まで直接ご連絡ください(昨日、奇跡的にぶっ壊れていたスマホが蘇生しました!!)。

 

管理人・稲村彰人(いなむらあきと)

[メール]akito.inamura@gmail.com
[LINE ID]0reaki10

 

わたり文庫「ロックンロールバイブル」

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、アーサーホーランド著作『ロックンロールバイブル』です。こちらの本は、札幌で死ぬほどお世話になっている女性S様がおすすめをしてくれた一冊になります。アーサーホーランドさんのサイン入りになります。素晴らしい本です。S様も非常に素晴らしい女性で、素晴らしい人柄に触れると「まだまだ生きていけそうだ!」という晴れやかな気持ちになります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

できた人ではなく、できない奴でいい。

格好いい人ではなく、格好悪い奴でもいいのだ。

常識をわきまえた人ではなく、わきまえないだらしない奴で結構なのである。

 

THE BIBLEには「大いなる方は愚かな者を通して知恵あるものをいましめる」とある。

賢いと思われている人が世を変えるのではない。

愚かさを認めている奴を通して世は変えられるのだ。

 

常識的な人間ではなく、愚か者と思われる人を通して

見たことのないことあ起きるのである。

世間受けする人が世間に影響を与えるのではない。

世間から捨てられたどうしようもない愚か者が世間に慰めと癒しを与えるのである。

 

アーサーホーランド『ロックンロールバイブル』【小学館スクウェア

 

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。

横浜は快晴。縁側に座る。珈琲を飲む。日光浴をしながら読書をする。なんだかもう、これだけで充分なんじゃないだろうかという気持ちになる。わたしには夢や目標と呼べるものがまったくない。生きているだけで充分だと思ってしまう。それ以外はおまけみたいなものであり、あったらあったでいいものなのかもしれないけれど、なければないでどうにかなるものだと思う。この瞬間は余生であり、残された日々はボーナスタイムみたいなものだと思う。

 

ただ、同時に「自分はこれからなにか大きなことに着手をすることになりそうだ」という予感もある。根拠はない。ただ、静かな予感だけがある。執着と呼ばれているものがある。執着を手放すと楽になるということは、あちらこちらで言われている。多分、最大の執着は「生きていることに対する執着」と「自分自身に対する執着」の二つだと思う。命を惜しむ気持ちが薄まれば、自分を守ろうとする気持ちが薄まれば、もしかすると、この世の中に恐れることなどなにもないのかもしれない。

 

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。「有利か不利か」とか「損か得か」とか、多分、大事なことはそういうことではないのだと思う。自分のこころが『美しい』と感じる道を選ぶこと。守るべきは世間的な評価などではない自分自身【魂】の純度だと思う。周りはどうあれば自分だけは、気高さを感じる道を選ぶこと。なにか新しいことをはじめるときに、必要になるものは「崇高な精神」だけだと思う。それ以外は、きっと、あとから全部ついてくる。そこに一筋の光を見たのであれば、もう、心配をすることなどなにもないのだと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BcT3nITjg4M/

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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俺たちはどこまで行けるのだろう。

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金輪島のイベントを終えて広島駅界隈にいる。金輪島のイベントでは、30名を超える参加者ひとりひとりと10分間の面談をする、的な時間が設けられた。「これは死ねる!」と思い、みっつに救済を求めた。多分、みっつがいなければ今頃死んでいたと思う。主催者の方が用意してくれた交通費を、みっつに浄財した。「お年玉だよ」などと格好をつけたが、いまいち決定打に欠けた。いまごろみっつは何をしているのだろうか。わたしはこれからどうするつもりなのだろうか。

 

www.mitz3.com

 

スマホが壊れた(見ることはできるけれど返信ができない)。この数日間の移動で色々なものが壊れた。服や靴やパソコンや自転車の鍵も壊れた(背中に大きな傷もできた)。22日間の自転車移動を終えて「これは32歳のすることじゃないな」と思った。日本一周とかそういうことは、多分、20代のうちに済ませるものだ。自転車を漕ぎ続ければ体力もつくものだと思っていたが、逆で、疲労は蓄積をした。そして、いま、見事に身動きがとれなくなった(多分、問題は金じゃない。根元は「精神性の問題」だと思う)。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BcMRSmrD0n9/

金輪島へ。

 

 

おはなを配りながら「これは新手の自殺だな」と思う。

訪れる先々で花を配っていた。花を配りながら「これは新手の自殺だな」とか考えていた。自分の動きを見ていると、俺は生きたいのか死にたいのかがよくわからなくなる。花を配れば配るほどに所持金は減る。死に近づく。でも配る。半ばやけくそになっている時もある。なにかが行き過ぎた時などは「俺を殺してくれ」とか思いながら花を配ることもある(が、心の底から『花を配っていて本当によかった』と感じる瞬間もある)。

 

昨日、みっつとラーメンを食べながら「俺たちはクソだね」という話をした。多分、私たちは飲食店等で8時間働く代わりに1万円をあげると言われても「できません」と答える。3時間働く代わりに1万円と言われても「できません」と答える。それをするくらいなら道端で野垂れ死ぬ方を選びますとか、割と、本気で答えてしまうタイプの人間だ。しかし、大好きなひとが営むお店がピンチで「1日手伝ってくれたら死ぬほど助かる!」などと言われた場合は、無給だろうがなんだろうが喜びとともに馳せ参じるのだろう。この差はなんだ。そういう感じの話をした。

 

自分が何かしらのサービスを提供して、受け取った対価で生活をしているひとをみると「まじですごい!」と心底思う。自分にはそれができない。自分がやることに対して、一定の対価を要求することができない。多分、労働が苦手なのだと思う。が、労働が苦手なんて言っていると「そんなんじゃ生きていけないよ」的なことを言われる。が、そんなんじゃ生きていけないよと言われてしまうと「そうまでしなくちゃ生きていけないのならば、生きていたいとは思いません」とか思ってしまう程度には、自分たちはクソなんだねと話をした。

 

 

https://www.instagram.com/p/BcJQvseD2v4/

西へ。

 

  

「ただ聞く」ことの難しさと、「ただ聞いてもらう」ことの得難さ。

ひとの話を聞くということは、死ぬほど簡単なように見えて、多分、死ぬほど難しい。多くの場合、相手が話している途中で余計なアドバイスや自分の意見を挟む。が、みっつはそれをしない。ただ、ただ、話を聞いてくれる。それが嬉しい。だからわたしはみっつに話をしてしまう。普段は話すことのない愚痴や弱音も話しまくる。そして、話し終えたあとには非常に爽快になり、よし、これからも生きよう的な元気を取り戻す。

 

ー 聞き手が不足している。

 

30名の方々と連続面談をしながら「聞き手が不足しているのだな」ということを思った。誰もが話したいことを抱えている。が、聞き手がいない。自分がその一助を担えたら、とは思ったけれど完膚なきまでに無力だった。ヘビーな話を連続して聞いていると、首から肘にかけて徐々に重みを感じるようになり、最終的にくたばった。自分はもっと「受け流す」ということを覚えないといけない。相手のエネルギーのようなものをまっすぐに受け取ってしまう(引っ張られてしまう)自分は、かなりの未熟者だと反省をした。

 

ibaya.hatenablog.com

 

俺たちはどこまで行けるのだろう。

わたしはみっつを生かしたいと思う。たとえ世間的にはあれだこれだと言われようが、わたしにとってみっつの存在は救いなので、なにかしらみっつが苦境に陥った時は「なんとかせねば!」的なことを思う。生かしたいと思うひとがいる限り、多分、そのひとは死なない。逆に言えば、誰も自分のことを生かしたいと思うひとがいなくなったとき、それが自分の散り時なのかなと思う(最近、生きることに対する執着が徐々に薄れてきているように思う)。

 

うまく文章を綴ることができない。疲労があれなのだろうか。手足が痺れる。背中が痛い。銭湯に向かう。今夜は漫画喫茶で眠るのだろうか。明日は行けるところまで自転車で行こう。鞄の中には金輪島でもらったアーモンドがある。どのような状態に置かれたとしても、忘れちゃいけないのはユーモアだよなとか自分に言い聞かせる。笑う道を選ぶのか。泣く道を選ぶのか。泣くのはダサい。できることならば、笑う道を選びたいと思う。笑うためには余裕が必要。余裕がなくなると精神が乾く。精神が乾くと魂が腐る(ような気がする)。

 

魂を腐らせてはいけないのだと思う。これもひとつの試練みたいなものだと思えば、ふんがとやる気も少しは湧き出す。雑な生き方には、雑な精神が宿る。雑な精神に負けてはいけないのだと思う。一匹の動物であることの勇ましさ、品格、野性味を忘れてはいけないのだと思う。高潔さを守ることが難しいときは、高潔さを感じる人物を思い出すことが力になる。闇【雑な精神】に呑まれてはいけない。生きる力とは、要するに「闇の中でも光を見ること」なのだと思う。口にするのは簡単だ。大切なことは、多分、生き様に言葉を宿らせることなのだと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BcJ2cPrDSt4/

水面に雲。

 

 

人生は続く。

 

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