いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

世界を変えるより、世界を増やす。

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鉄砲玉48【通称・TPD48】を再結成しました。TPD48とは、ちゃんと説明できている自信がないのですが「みなさまの依頼になんでも無償で応える捨て駒の集合体」でございます。要するに「言われたことはなんでも無料でやりますので、お気軽にご用命ください!」という便利屋的なグループになります。今日から早速依頼を受け付ける形になりますので、ほわっ!と来た方はメンバーまで直接ご連絡ください。第3期メンバーは、現在、坂爪圭吾(牡羊座)・稲村彰人(双子座)・保科亮太(蟹座)の3名になります。

 

twitcasting.tv

 

各々のメンバーの特性は、上記のリンク先から聞けるラジオ配信からお話をさせていただきました。なにかしら、ご利用方法をイメージする一助になりましたらば幸いです。この記事を書いている人間の名前は坂爪圭吾と言います。坂爪圭吾の活用方法としては「具体的になにかを頼むというよりも、比較的存在している【ただそこにあること】ことに価値があると思っているタイプの人間なので、青龍を自分の枕元に召喚するようなイメージでご活用いただけたらうれしいなあ」などと考えています。 

 

連絡先・坂爪圭吾【牡羊座

LINE ID ibaya

keigosakatsume@gmail.com

 

連絡先・稲村彰人【双子座】

LINE ID 0reaki10

akito.inamura@gmail.com 

 

連絡先・保科亮太【蟹座】

LINE ID hoshina6

hoshina2906@gmail.com

 

【4th「背水のジントニック」/TPD48】

 

無能冥利に尽きる。 

いま、ごちゃまぜの家では「めぐりめぐるカフェ」なるものを絶賛開催中でございます。めぐりめぐるカフェとは、乱暴にまとめると『食べ物も飲み物も(その他のサービスも)無料の喫茶店』というものになります。なぜ、これをやろうと思ったのかというと「(そんな空間があったら)素敵だと思ったから」というものになります。いま、ごちゃまぜの家の台所では山梨からお越しいただいた方が持参のイノシシ肉をふんだんに使った『いのししカレー』なるものを作ってくれています。もしも、今日、めぐりめぐるカフェに来ようとしてくれているひとがいたとしたら、これを食べることができます。

 

www.facebook.com

 

わたしは、いま、このブログ記事をごちゃまぜの家の居間から書いています。現在、この空間には複数名のおとなたちと小型犬が一匹と9ヶ月の赤ちゃんがいます。昨日も全国各地から参加者の方が集まってくださり、ごちゃまぜの家には豊富な食材が集まりました。私自身は「めぐりめぐるカフェをやりたい!」と言っただけで、言っておきながら自分が用意をできるものは『空間とコーヒー』だけでした。が、ふたを開けてみたらびっくり!!非常にありがたいことに、参加者のみなさまのおかげでバラエティ豊かなメニューが食卓(および空間)を極彩色に彩ってくれました。

 

これはもうほんとうに「無能冥利に尽きる」といった感じでありまして、坂爪圭吾自身はまったくのからっぽにして無能、ただ、できることと言えば『言い出しっぺになること』くらいのことなのですが、非常にありがたいことに「坂爪圭吾の欠落した部分をみなさまの善意が埋めてくださる」的な恩恵を受けまくる日々のど真ん中を過ごしております。TPD48の活動は、つまるところ「日々、みなさまによって生かされている坂爪圭吾のせめてもの恩返し、贖罪、免罪、報恩、ならびに罪滅ぼし的な意味合いを込めた営み」ということになります。基本的にはどのような依頼であっても応えていきたいと思っておりますので、この記事を読んで「ほわっ!」と来た方からのご連絡をお待ちしております。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫『小説 上杉鷹山

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、童門冬二著作『小説 上杉鷹山』です。わたしは甲本ヒロトさんと江頭2時50分さんと上杉鷹山さんがなんとも言えずに好きなのですが、一見、まったく共通点のなさそうなこちらの御三方は「弱いものに優しい」という点において見事に一致をしていると、わたしはそんな風に感じております。人間には強いひとと弱いひとがいるのではなく、ひとりの人間のなかに「強い部分もあれば弱い部分もある」ものではなかろうかと。それならば、できることならば「強い部分を引き出しあい、弱い部分を補いあう」ことができたら素敵なのではなかろうかと、そのようなことを感じております。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

「助けよう」

 

と走り出す心理。

 

「そういう人間の自然な心を、孟子は「忍びざるの心」といった。見ているには忍びないという意味だ。いま、米沢藩は潰れるか、潰れないかの瀬戸際にいる。藩を潰さないためには、もちろん金がいる。金をつくらなければならない。しかし、お屋形さまは、貧乏な米沢にも人はいるとおっしゃった。人間がいるとおっしゃった。お屋形さまはよそからこられた遠慮もあり、また、根がおやさしいから強いことはおっしゃっらない。私は、ただ人間がいるだけでは何の役にも立たないと思う。その人間が他人の役に立たなければ駄目だ。人間が人の役に立つためには、まず、この忍びざるの心を持つことが必要だ。井戸に落ちかかるこどもがいたら、衝動的に走り出すやさしさを持つことから始めなければならない。私たちは、この開墾地で、そのやさしさをまなぼう」

 

童門冬二『小説 上杉鷹山』【集英社文庫】 

 

世界を変えるより、世界を増やす。

先日、小さなこどもを育てているお母さんが「こどもが小さいうちは絶対に死ねない。この子が大きくなるまではわたしがなんとかしなくっちゃ!」的なことをおっしゃっていました。すると、それを聞いていた別の女性が「なるほどね!そうなる気持ちはすごいわっかる。でもさ、自分さえいればこどももどうにかなるっていう世の中(というか環境)よりも、自分がいなくてもこどもはきっと大丈夫だって思える世の中(というか環境)になった方が素敵じゃない??」的なことをおっしゃっていました。 

 

わたしは、この会話を聞きながら「なるほどなー」と思いました。こちらの記事をご覧のあなたは、どのようなご感想をお持ちになられましたでしょうか。わたしは定期的に思うのですが、多分、人間はひとりで生きられるようにはつくられていないように思います。与えるとか、受け取るとか、表面的には「与える側と与えられる側」みたいな感じで上下関係があるようにも見受けられますが、裏を返してみれば「与える喜びを与える側と、与える喜びを与えられる側」ということになる【一気にひっくり返る】とでもいいましょうか、与えるという行為も、受け取るという行為も、同じように尊いものではないのだろうかなどと考えます。

 

昔、わたしは「世界を変えるより、世界を増やす」的なことを考えていました。同じような感覚で「椅子取りゲームをするのではなく、椅子をつくるゲームをしたい」的なことを考えていました。この遊び感覚の思考癖はいまでも変わっていないみたいで、わたしは「こうあるべきとされている外側の世界を見てみたい。それがなければつくってみたい」のだと感じています。自分が置かれている状態を窮屈で息苦しいと感じるのであれば、それを変えてもいいのだと、自分が生きやすい環境を(身近になければ)自分の手でつくりだしてもいいのだと、そのようなことを思うのであります。稀に、悩み相談的な話を聞きながら「これは俺に出されているなぞなぞみたいなものだ」と感じることがあります。いま、世の中的に抱えている問題を明るくポップに解決する(解決と言うよりは「問題が問題ではなくなる」とか「どうでもよくなる」的な)ソリューションがあるとすれば、それはなにか。素敵な世界を生きたいと思う。そのためには、なによりもまず「自分の思いに真っ直ぐであること」なのだなあと、そういうことを感じております。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/Bd6gN3Jj0ZZ/

世界を変えるより、世界を増やす。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu    

 

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