現在、ごちゃまぜの家では「大晦日だよ!もらいもんスペシャル」を開催しています。これは「大晦日だよ!ドラえもんスペシャル」にかけているのですが、多分、こうして説明をしている時点でダメなんだろうなあと思います。連日の移動で無事に体調を壊し、ようやく神様からストップサインが出たぜということで、家で療養をしています。もしも「しかたがないから差し入れでももっていってやるか」的な神様がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。
「もらいものだけで生き延びることはできるのか?」ということで、本日より、横浜にありますごちゃまぜの家を完全フルオープンにしてみなさまからの救いの一手を求める所業に出ます。お時間のある方の参加をお待ちしております!!
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年12月28日
大晦日だよ!もらいもんスペシャルhttps://t.co/pmgfDBwJhZ
ついさきほど、高校生の家出少女が「16時間かけて家から歩いて来ました」ということで、ごちゃまぜの家に登場しました。カバンが重すぎて大変だったとのこと、カバンにはなにがはいっているのかと尋ねましたら「途中多摩川で野宿をしようと思って寝袋をもってきたのですが、寝袋のしたに敷くシートがないから布団をいれてもったきたのが敗因でした」とのこと。彼女の大胆な発想を前に「なんだかこういうのはすごいいいなあ」と思いました。
おはなしをつくろう。
ミヒャエルエンデの本を読んでからというもの、生まれて初めての感覚なのですが「自分でも童話みたいなものをつくってみたい!」という願望が芽生えてきました。いままでは、たとえばこのブログ記事とかで「自分が思ったことを思ったままに書く」ということをしていたのですが、思ったままに書くのではなく「自分が言いたいことを物語に込めてみる」という行為は、なんだか新鮮で楽しくて暇なときに「どんな物語をつくったら面白いだろうか」などと考えています。
先日、この世の中で一番怖いことはなんだろう?みたいなことを考えていました。怖いことは108個くらいあると思うのですが、その時、パッと閃いたことは「誰にあっても『あなたは誰ですか?』と言われちゃうこと」かなあと思いました。昨日まで友達だったひとにあっても「え、あなたは誰ですか?」と言われてしまう。昨日まで同僚だったひとにあっても、昨日まで家族だったひとにも、なんならコンビニの店員さんにも「え、あなたは誰ですか?」と言われてしまう。この世の中に、自分を認識してくれるひとがひとりもいなくなる。これはとても怖いことだなあと思いました。
そんなことを友達と話していたら、なんといいましょうか、こうして「自分を認識してくれるひとが目の前にいる」という非常に当たり前のことが、なんだかとても輝いて見えてきたのでした。そして、自分は自分だと思っているその部分も、他者の視線のうえになりたっているものであり、自分なんていうものは非常に脆い存在【他者なくしてはありえない存在】なのだなあとも感じました。そして、現代社会、もしかしたら「わたしはあなたのことは知りません」という視線が、徐々に蔓延しつつあるのではないだろうか・・・キャー!みたいなことも思いました。そのあたりのことは、昨夜おこなったツイキャス音声配信のなかで話したりしましたので、お時間のあります方は、いつでもひまなときに聞いて見てください。
【追記】12月29日収録分も公開しました!
【追記】12月30日収録分も公開しました!
わたり文庫『星の王子さま』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、サン=テグジュペリ著作『星の王子さま』です。おととい、神戸でお会いさせていただいた方が「うまれてはじめて星の王子さまを読んだのですがこれは素晴らしいですね!さかつめさんに託します!」ということで、お譲りいただいた一冊になります。横浜に戻る新幹線の中で読み終えたのですが、この本は本当に何回読んでも(読む時期によって染みる部分も毎回異なり)こころがあらわれるような素晴らしい本だなあと思います。死ぬまでに、こんな本を書けたら本望じゃなあなんて思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※
「ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった!ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった。あの花はぼくをいい香りでつつんでくれたし、ぼくの星を明るくしてくれたんだ。ぼくは、逃げだしたりしちゃいけなかった!あれこれ言うかげには愛情があったことを、見ぬくべきだった。花って、ほんとに矛盾してるんだね!でもぼくはまだ、あまりに子どもで、あの花を愛することができなかった」
してもらうことを考えると失望が生まれるけれど、してあげられることを考えると希望が生まれる。
この前、ごちゃまぜの家に遊びに来てくれた女性がこんな話を聞かせてくれました。わたしの両親はすでに他界をしていて、実家も売りにだしてしまったので、自分には実家と呼べる場所がありません。実家がないから『ただいまを言える場所』が自分にはないことをたまーにさみしいなあと思うこともあったのですが、ごちゃまぜの家にはじめて来た時、昔暮らしていた実家にすごい似ている感じをうけて、なんだか『ただいまを言える場所』が自分にも与えられたように勝手に思っちゃて、それがすごいうれしいです。
この話を聞いたときに、わたしはなんだかじいんとしてしまって「それならもういつでも好きなときに好きなだけ来てください!」と思いました。同時に、自分がやっていることがこんな感じで誰かの役に立つ(?)ことがあるものなのかと、非常に驚いたことを覚えています。その時に、わたしは「誰もが(自分の意図を超えたところで)誰かの役に立っている」ということを思いました。自分や、自分のやっていることの価値なり意義深さを決めるものは、必ずしも自分だけではないということ。逆に言えば、自分では「ダメだ、ダメだ、ダメだ」と思い塞ぎ込んでしまっているときでさえ、思わぬところで「誰かの役に立っている」可能性は常に残されているのだということを静かに思いました。
自分がやっていることが誰かの力になれているのだという実感、これは非常にうれしいものなのだなあと思いました。最近思うことは「してもらうことを考えると失望が生まれるけれど、してあげられることを考えると希望が生まれる」ということです。誰かになにかをしてもらいたいと思うと、さみしくなったり、がっかりしたり、みじめになります。慰められることよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを私が求めますように。私たちは与えることで多くを受け、許すことによって許され、ひとのために命をささげることによって本当の命をいただくのですから。そのような祈りの言葉がキリスト教にはあったように記憶をしています。誰かになにかをしてもらうことではなく、ただ、自分にできることを考えはじめたときに、毎回というわけではないけれど「希望の火種」のようなものが胸に宿り、生きようとする力になるのだと思いました。
何かをしてもらいたいと思うとき、何もしてくれないひとの存在は幻滅を生む。何かを与えたいと思うとき、あらゆる出会いは喜びのチャンスになる。誰かの顔に喜びの微笑を浮かべるために、街に出る。ひとに会う。誰かに連絡をする。与えることにフォーカスをすれば、世界は喜びのチャンスに溢れている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年12月29日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu