いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

あさになったのでまどをあけますよ。

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素晴らしい本に出会うとうれしくなる。多分、登場人物の人柄に「生きたい自分【このようにありたいと思う自分】」を見るからだと思う。現実世界も同じことだ。素晴らしい人物との出会いは、ただ、それだけのことで「生きよう」と思う力を与えてくれる。ここ最近、歴史物の小説を読んでいた。現代社会とは比べものにならないくらい貧しい生活のなかで、それでも、前を向いて生きようとするひとたちの姿に触れると、ああ、あまったれたことを言っている場合ではないなと思う。

 

自分がどれだけ恵まれているのかわかっていない。諸々の不幸は、このような無知から生まれているように思う。家族がダメだとか、恋人がダメだとか、学校がダメだとか、職場がダメだとか、社会がダメだとか、自分が置かれている環境に対する不満や愚痴を述べるあまり、自分に残されている「恵まれた部分」を忘れてしまう。不満や愚痴を吐くことを悪いことだとは思わない。それによって発散されるストレスもある。ただ、人生がそればかりになってしまうのは、非常にもったいないことだと思う。自分を偉い人間だと思うことが傲慢ならば、自分をダメな人間だと思うことも、同じように傲慢【思い上がり】な行為だと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫【循環型の図書館】

数年前から『わたり文庫』という活動をしている。昔、自分の家の本棚に並べられている書籍の数々を眺めながら「自分がこの本をここで独占していたら、この本は自分しか読めないじゃないか!」という非常に当たり前のことを思った。自分が素晴らしいと思うものは、自分ひとりだけではなく、それを同じように素晴らしいと感じてくれるひととわかちあったほうが数倍良いのではないか。そういう単純な理由から、自分がいいなと思った本を「読みたい!」と思ってくれたひとにわたらせていくようになった。

 

最高に感銘を受けた本でさえ、一年に数回読み直せばいいほうだ。それ以外の時間は、どれだけ素晴らしい本であったとしても「本棚で眠っている」状態になる。蓄えるばかりでまったく活用されない金を『死に金』と呼ぶならば、読まれない本は『死に本』になる。これは非常にもったいない話(本に対して無礼な話)である。使われてこそ本領を発揮するものがモノの真髄である。読みたくなったら、そのときはまた買えばいいのである。本棚で眠らせているよりも、その本に触れたことでなにかしら前向きな気持ちになるひとが増えたのであれば、その方が「なんだかちょっと世界的にいいことのような気がする」と思う。

 

なんの説明にもなっていないと思うけれど、2018年も坂爪圭吾は「本を開放する」「家を開放する」「自分自身を開放する」というよくわからない生き方を続けて行きます。私物を開放するとストックは減る。ストックは減るが、フローが生まれる。フローが生まれると「この本が最高なので坂爪さんも読んでください!」とか「この本をわたり文庫に是非!」とか「本を買ったり贈ったりするお金に使ってください(!)」みたいな感じで、予期せぬところから予期せぬものが舞い込むことが如実に増える。わたしは多分、この、予測不可能性が嬉しくてフローな日々を過ごしているのだと思います。

 

わたり文庫『あさになったのでまどをあけますよ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、荒井良二著作『あさになったのでまどをあけますよ』です。こちらの絵本は、熊本在住の方が贈ってくれた一冊になります。新年一発目にふさわしい、文句なしの最高傑作になります。これは余談でありただのお願いになるのですが、わたり文庫に限りましては、読み終えたあとに所有をするのではなくて「あ、このひともこの本を気に入ってくれそうだな」的な方に続々とまわしていただけたらうれしいなあと勝手に思っています。が、(これはただのお願いに過ぎないので)ストックを選ぶかフローを選ぶかは、あなた様の判断に完全に委ねます!!ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

あさになったので まどをあけますよ

 

うみは やっぱり そこにいて

そらは やっぱり そこにある

だから ぼくは ここがすき

 

きみのまちは はれてるかな?

 

荒井良二『あさになったのでまどをあけますよ』【偕成社

 

素晴らしいものを分かち合う。

元旦の夜、私は岐阜県長良川温泉の旅館に呼ばれて足を運んだ。優しさのかたまりのような方が「ゆっくり過ごしてください」とわざわざ手配をしてくれた宿になる。満月を眺めながら、露天風呂に浸かる。金もなにもない自分がこのような時間を過ごせていることは「この世の奇跡だ…」と震えた。これは決して「どうだ!おれはすごいだろう!」と言いたい訳ではなくて、自分自身の存在を「どうぞご自由にお使いください」とフロー状態に置くことによって、驚天動地の出来事に遭遇することがある不思議について、少しでもみなさまに伝わればいいなあと思いながら書いている次第であります。

 

生きていると、どうしても何かを勝手に決めつけてしまう【思い込んでしまう】ことがある。人間なんてこんなものだとか、世の中なんてこんなものだとか、生きるなんてこんなものだとか、自分の人生はこんな感じでこれからも続いてくのだろうとか、わかりもしないものを「わかったつもり」になることがある。これはもう本当にダサいことだなあと思う。当たり前すぎることだけれど、世界にはまだまだ自分の知らないことがたくさんある。自分が生きている人生は「世界のほんの片隅程度」のものに過ぎない。まだまだ知らない素晴らしい風景、まだまだ知らない素晴らしいひとたち、まだまだ知らない素晴らしい体験は、この世界【内面・外面】に無限に散らばっているのだと思う。

 

素晴らしいものを分かち合いたいと願う感覚は、多分、誰の中にもあるものだと思う。誰かが分け与えてくれた素晴らしいものが自分の世界を広げてくれたように、自分が分け与えることのできる素晴らしいものが、誰かの世界を広げることにつながるかもしれない。生きているこの世界を、生きていこうとするこの自分を、知ったつもりにならないこと。決めつけてしまわないこと。残されている可能性に目を向ける余裕を、勇気を、笑い飛ばせるだけのユーモアを、常に胸に抱き続けること。生きたいと思うことの意味は、もしかすると非常にシンプルなものでできているのかもしれない。それは「素晴らしいと思えるものを見つけること。見つからなければ作り出すこと。そして、それを周囲のひとびとと分かち合うこと」という、単純な言葉で言えるのかもしれないと思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu   

 

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