崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。
銀河系の施しを受けて横浜【ごちゃまぜの家】に戻る。広島で死にかけていたのが嘘みたいだ。22日間の自転車移動の中で、本当に様々な方々から恩恵を受けた。次は自分が返す番だ。これからしばらくはごちゃまぜの家にいる。家は24時間開放をしているので、興味のある方はお気軽にご連絡ください。ごちゃまぜの家とは何か。以下のリンク先をご覧いただけましたら、ちょっとくらいはわかっていただけるのかなあと思います。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
自転車移動の日々の中でいろいろなことを感じた。自分のためだけに生きるのは虚しい。そんな風に感じることもあれば、誰かのために生きることにも限界があるとも感じる。いい仕事をした1日とは、多分、誰かと心を通わせることができた1日のことだ。金も名誉も命もいらない。そういう人間は最高だなと思う。愚かでもいい。あいつはアホだと後ろ指をさされても気にすることはない。金では動かない人間を動かすことができるもの、多分、それが『心』になるのだと思う。
死なないために生きている訳じゃない。
昔から「自分がやっていることが(たとえ経済的な価値を生まなくとも)未来にとって必要なものであれば、なにかしらの形で自分は生かされるだろう。しかし、自分がやっていることが誰にとっても必要のないものであれば、その時は、自分は野垂れ死ぬのだろう」と思っている。あとはもう、自分【自分のセンス】に賭けるしかない。ダメならダメで仕方ない。その時は潔く死のう。しかし、別に死にたいと思っている訳ではないので、これからも(手を替え品を替え)やっていきたいと思う。
おかげさまでごちゃまぜの家も存続できている。いつまで続くかはわからない。久しぶりにごちゃまぜの家に戻ると、様々な差し入れが届いていて驚いた。未開封のダンボール箱を開けたらホッカイロが180個はいっていて「なんじゃこりゃ!」と震えた。台所には大量の果物と野菜が置かれている。私と、管理人の稲村彰人は料理ができない(正確には「怠惰ゆえに料理をさぼる」)。だから、誰か料理ができるひとに(台所にあるものは自由に使ってくれて構わないから)料理をしてもらえたらうれしいなあと思う。
正月も、実家に帰りたくないとか、そもそもで実家がないという方々はごちゃまぜの家に来たらいいと思う。私と一緒にビリーズブートキャンプをやるもよし、誰かと話すもよし、話さないもよし、料理をするのも読書をするのも昼寝をするのも縁側でひなたぼっこをするのもよし、みんな好きにしたらいいのだと思う(稀に、坂爪圭吾が説教をすることがあります)。管理人の連絡先は以下になります。興味のある方は稲村彰人さんか、坂爪圭吾まで直接ご連絡ください(昨日、奇跡的にぶっ壊れていたスマホが蘇生しました!!)。
管理人・稲村彰人(いなむらあきと)
[メール]akito.inamura@gmail.com
[LINE ID]0reaki10
わたり文庫「ロックンロールバイブル」
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、アーサーホーランド著作『ロックンロールバイブル』です。こちらの本は、札幌で死ぬほどお世話になっている女性S様がおすすめをしてくれた一冊になります。アーサーホーランドさんのサイン入りになります。素晴らしい本です。S様も非常に素晴らしい女性で、素晴らしい人柄に触れると「まだまだ生きていけそうだ!」という晴れやかな気持ちになります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※
できた人ではなく、できない奴でいい。
格好いい人ではなく、格好悪い奴でもいいのだ。
常識をわきまえた人ではなく、わきまえないだらしない奴で結構なのである。
THE BIBLEには「大いなる方は愚かな者を通して知恵あるものをいましめる」とある。
賢いと思われている人が世を変えるのではない。
愚かさを認めている奴を通して世は変えられるのだ。
常識的な人間ではなく、愚か者と思われる人を通して
見たことのないことあ起きるのである。
世間受けする人が世間に影響を与えるのではない。
世間から捨てられたどうしようもない愚か者が世間に慰めと癒しを与えるのである。
崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。
横浜は快晴。縁側に座る。珈琲を飲む。日光浴をしながら読書をする。なんだかもう、これだけで充分なんじゃないだろうかという気持ちになる。わたしには夢や目標と呼べるものがまったくない。生きているだけで充分だと思ってしまう。それ以外はおまけみたいなものであり、あったらあったでいいものなのかもしれないけれど、なければないでどうにかなるものだと思う。この瞬間は余生であり、残された日々はボーナスタイムみたいなものだと思う。
ただ、同時に「自分はこれからなにか大きなことに着手をすることになりそうだ」という予感もある。根拠はない。ただ、静かな予感だけがある。執着と呼ばれているものがある。執着を手放すと楽になるということは、あちらこちらで言われている。多分、最大の執着は「生きていることに対する執着」と「自分自身に対する執着」の二つだと思う。命を惜しむ気持ちが薄まれば、自分を守ろうとする気持ちが薄まれば、もしかすると、この世の中に恐れることなどなにもないのかもしれない。
崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。「有利か不利か」とか「損か得か」とか、多分、大事なことはそういうことではないのだと思う。自分のこころが『美しい』と感じる道を選ぶこと。守るべきは世間的な評価などではない自分自身【魂】の純度だと思う。周りはどうあれば自分だけは、気高さを感じる道を選ぶこと。なにか新しいことをはじめるときに、必要になるものは「崇高な精神」だけだと思う。それ以外は、きっと、あとから全部ついてくる。そこに一筋の光を見たのであれば、もう、心配をすることなどなにもないのだと思う。
道に迷った時は、損得感情じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。自暴自棄にはならないこと。希望が消えてなくなる前に、残された時間に最善を尽くすこと。品位をもって、勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年7月13日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu