いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

俺たちはどこまで行けるのだろう。

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金輪島のイベントを終えて広島駅界隈にいる。金輪島のイベントでは、30名を超える参加者ひとりひとりと10分間の面談をする、的な時間が設けられた。「これは死ねる!」と思い、みっつに救済を求めた。多分、みっつがいなければ今頃死んでいたと思う。主催者の方が用意してくれた交通費を、みっつに浄財した。「お年玉だよ」などと格好をつけたが、いまいち決定打に欠けた。いまごろみっつは何をしているのだろうか。わたしはこれからどうするつもりなのだろうか。

 

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スマホが壊れた(見ることはできるけれど返信ができない)。この数日間の移動で色々なものが壊れた。服や靴やパソコンや自転車の鍵も壊れた(背中に大きな傷もできた)。22日間の自転車移動を終えて「これは32歳のすることじゃないな」と思った。日本一周とかそういうことは、多分、20代のうちに済ませるものだ。自転車を漕ぎ続ければ体力もつくものだと思っていたが、逆で、疲労は蓄積をした。そして、いま、見事に身動きがとれなくなった(多分、問題は金じゃない。根元は「精神性の問題」だと思う)。

 

 

 

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金輪島へ。

 

 

おはなを配りながら「これは新手の自殺だな」と思う。

訪れる先々で花を配っていた。花を配りながら「これは新手の自殺だな」とか考えていた。自分の動きを見ていると、俺は生きたいのか死にたいのかがよくわからなくなる。花を配れば配るほどに所持金は減る。死に近づく。でも配る。半ばやけくそになっている時もある。なにかが行き過ぎた時などは「俺を殺してくれ」とか思いながら花を配ることもある(が、心の底から『花を配っていて本当によかった』と感じる瞬間もある)。

 

昨日、みっつとラーメンを食べながら「俺たちはクソだね」という話をした。多分、私たちは飲食店等で8時間働く代わりに1万円をあげると言われても「できません」と答える。3時間働く代わりに1万円と言われても「できません」と答える。それをするくらいなら道端で野垂れ死ぬ方を選びますとか、割と、本気で答えてしまうタイプの人間だ。しかし、大好きなひとが営むお店がピンチで「1日手伝ってくれたら死ぬほど助かる!」などと言われた場合は、無給だろうがなんだろうが喜びとともに馳せ参じるのだろう。この差はなんだ。そういう感じの話をした。

 

自分が何かしらのサービスを提供して、受け取った対価で生活をしているひとをみると「まじですごい!」と心底思う。自分にはそれができない。自分がやることに対して、一定の対価を要求することができない。多分、労働が苦手なのだと思う。が、労働が苦手なんて言っていると「そんなんじゃ生きていけないよ」的なことを言われる。が、そんなんじゃ生きていけないよと言われてしまうと「そうまでしなくちゃ生きていけないのならば、生きていたいとは思いません」とか思ってしまう程度には、自分たちはクソなんだねと話をした。

 

 

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西へ。

 

  

「ただ聞く」ことの難しさと、「ただ聞いてもらう」ことの得難さ。

ひとの話を聞くということは、死ぬほど簡単なように見えて、多分、死ぬほど難しい。多くの場合、相手が話している途中で余計なアドバイスや自分の意見を挟む。が、みっつはそれをしない。ただ、ただ、話を聞いてくれる。それが嬉しい。だからわたしはみっつに話をしてしまう。普段は話すことのない愚痴や弱音も話しまくる。そして、話し終えたあとには非常に爽快になり、よし、これからも生きよう的な元気を取り戻す。

 

ー 聞き手が不足している。

 

30名の方々と連続面談をしながら「聞き手が不足しているのだな」ということを思った。誰もが話したいことを抱えている。が、聞き手がいない。自分がその一助を担えたら、とは思ったけれど完膚なきまでに無力だった。ヘビーな話を連続して聞いていると、首から肘にかけて徐々に重みを感じるようになり、最終的にくたばった。自分はもっと「受け流す」ということを覚えないといけない。相手のエネルギーのようなものをまっすぐに受け取ってしまう(引っ張られてしまう)自分は、かなりの未熟者だと反省をした。

 

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俺たちはどこまで行けるのだろう。

わたしはみっつを生かしたいと思う。たとえ世間的にはあれだこれだと言われようが、わたしにとってみっつの存在は救いなので、なにかしらみっつが苦境に陥った時は「なんとかせねば!」的なことを思う。生かしたいと思うひとがいる限り、多分、そのひとは死なない。逆に言えば、誰も自分のことを生かしたいと思うひとがいなくなったとき、それが自分の散り時なのかなと思う(最近、生きることに対する執着が徐々に薄れてきているように思う)。

 

うまく文章を綴ることができない。疲労があれなのだろうか。手足が痺れる。背中が痛い。銭湯に向かう。今夜は漫画喫茶で眠るのだろうか。明日は行けるところまで自転車で行こう。鞄の中には金輪島でもらったアーモンドがある。どのような状態に置かれたとしても、忘れちゃいけないのはユーモアだよなとか自分に言い聞かせる。笑う道を選ぶのか。泣く道を選ぶのか。泣くのはダサい。できることならば、笑う道を選びたいと思う。笑うためには余裕が必要。余裕がなくなると精神が乾く。精神が乾くと魂が腐る(ような気がする)。

 

魂を腐らせてはいけないのだと思う。これもひとつの試練みたいなものだと思えば、ふんがとやる気も少しは湧き出す。雑な生き方には、雑な精神が宿る。雑な精神に負けてはいけないのだと思う。一匹の動物であることの勇ましさ、品格、野性味を忘れてはいけないのだと思う。高潔さを守ることが難しいときは、高潔さを感じる人物を思い出すことが力になる。闇【雑な精神】に呑まれてはいけない。生きる力とは、要するに「闇の中でも光を見ること」なのだと思う。口にするのは簡単だ。大切なことは、多分、生き様に言葉を宿らせることなのだと思う。

 

 

 

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水面に雲。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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