いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

横を見るな。縦を見ろ。

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広島県福山市を経由して、三原市の民宿にいる。瀬戸内海は綺麗だ。自転車を走らせていると、忘れたい思い出が記憶の底から蘇り「あああああああああああああああ!!」となることがある。感情のアップダウンは定期的に訪れるが、これもある種の浄化体験(?)だと決め込むことにする。生きていると濁る。自分の未熟さが浮き彫りになる。多分、幸福は全体感で、不幸は分離感だと思う。「俺が、俺が」となるほどに、幸福【全体性】から離れていく感覚を覚える。

 

孤独やさみしさに捕まることがある。いまもそうだ。正確には「さっきまでそうだった」。ぬくもりを求めたり、ふれあいを求めたり、愛されることを求めたりする。自分がやっていることを疑うこともある。こんなことをしてなにになるのかとか、意味はあるのか、価値はあるのか、最悪の場合は「こんな自分はいない方がいいのではないだろうか」とか。どれもこれも「俺の」さみしさであり、「俺の」孤独であり、「俺が」生きていることの意味であり、『俺が、俺が【俺の、俺の】』に捕まってしまっている時の思考の癖だ。

 

風になれ。

自分の役割を決めるものは、自分だと思っていた。が、どうやら違うみたいだ。私はおはなを配る。そして移動をする。その場にとどまることはない。時折、流れ着いたさきで「おれはなにをやっているのだろう」などと思ったりする。が、あとから「坂爪さんからおはなをもらったように、今日、あるひとに花をあげたらすごいよろこんでもらえました。なんだかそのことをすごい伝えたくなりました!!」という連絡をもらうことがある。

 

風になりたいと思う。風が吹く。タネが飛ぶ。周囲に何かしらの実りをもたらす。もしかしたら、風にも「俺はなにをやっているのだろう」なんて思う瞬間はあるのかもしれない。が、風がなければタネが飛ぶこともなかった。風は、風の知らないところで、何かの役に立っている。ひとりの人間が生きているということも、多分、同じようなことなのだと思う。

 

出会う人から見たら、わたしは只の流れ者に過ぎない。が、自分が生きているということが、ほかの誰かにとって「こころに風が吹き抜ける【たとえ一時的なものだとしても、こころがふわっと軽くなる】」ような、そういう効果を生み出せたならうれしい。これは、多分、狙って生み出すような効果ではない。あくまでも結果的なことであり、副産物にすぎない。もちろん、風はタネを飛ばすために吹く訳ではない。あくまでも「結果として」タネを飛ばすこともあるというだけの話で、風は、ただ風であるだけに過ぎない。

 

横を見るな。縦を見ろ。

西郷隆盛の言葉に「人を相手にせず、天を相手にせよ」というものがある。人を咎めるようなことをせず、自分が出来る限りの真心を尽くすこと。問題を感じることがあったとしても、環境【他人】の責任にするのではなく、自分の誠の至らなさを知ること。他人から認められるとか、他人からどう見られるとか、一般的な常識や世間体に合わせた生き方をするのではない、天【自分】に恥じない生き方をするということ。

 

さみしい時、孤独を覚える時、私は「横を見るな、縦を見ろ」と自分に言い聞かせることがある。人との繋がりが横ならば、天との繋がりは縦になる。誰かに自分のさみしさをどうにかしてもらおうと思うな。誰かに自分の孤独をどうにかしてもらおうと思うな。人との繋がりを求めるのではなく、天との繋がりを思い出せ。横を見るな。縦を見ろ。天は、どのような状態に置かれていても、常にお前を見ている。そのことを忘れてはいけない。

 

横の繋がりを求めるほどに、さみしさや孤独は際立っていく。しかし、横ではなくて縦を見るとき、人との繋がりではなく『天との繋がり』を意識するとき、さみしさや孤独の感覚が薄らいでいることを感じる。自分の中心に、一本の幹が通る。天地万物一体。多分、すべては繋がっている。そして思う。自分にはこの肉体とこの精神しかないのだから、それならば、これを生かしてやりたいと思う。自分の命をまっとうすることが、結果として誰かの力になることがある。そのようなことを、時折、祈るように思うことがある。

 

 

 

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虹と夕日。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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