いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

まずは自分を殺せ。

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家の中でじっと座って考える時と、屋外を歩きながら考える時と、考えている内容も質も明らかに異なることを感じる。わたしの場合、長い間屋内で考え事をしていると「なにかが停滞していく」感覚を覚える。歩きながら考えると、風が吹き抜けるからなのだろうか、余分なものが削ぎ落とされる。思考がクリアになる。じっくりと腰を据えて考えたいこともあるので、明日から、新潟に向けて徒歩で移動をしてみることになった。

 

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先日、働く無職をテーマに音声配信をおこなった。この中で、無職とは「お金では動けなくなったひとたち」のことなのではないだろうかと思った。歩きながら考えたい内容とは、その続きになる。わたしは思う。ひとは「死にたくない」と思う。死なないために(時には嫌なことを嫌々やりながらでも)生活費を稼ぐ。が、同時に「現代人は、生き延びるためだけに生きることに疲れている」とも感じることがある。誤解を恐れずに言うと、死なないために生きるのではなく「これのためなら命を捨てても構わない」と思えるものを必要としているのではないだろうか。

 

 

 

 

死ぬことはいつでもできる。肝心なことは、生きることだ。

昔から「いい大学にはいり、いい企業に就職する」的なレールに違和感があった。経済的な安定と精神的な安定が、必ずしもイコールになるとは思えなかった。そして、誤解を恐れずに言うと「自分が有利になることしか考えられない人間を量産することになる」と思っていた。しかし、当時の自分は(現在もだけど)別にたいした影響力も発言力もある訳ではないので、まあ、自分は自分が思うような人生を送ろうと思って生きてきた。

 

いま、周囲を見渡してみる。もしかしたら自分と似たような気持ちを抱いているひとは、少なからずいるのではないだろうかと思うようになった。資格を取るとか、手に職を持つとか、英語を話せるようになるとか、学歴がとか、多拠点生活がとか、複数の収入源がとか、巷では「こうすれば有利に豊かに楽しく暮らせますよ」的な情報は溢れている。これらの情報は、結局、いい大学にはいる的なアレと同じことだと思う。自分が有利になることを最上の価値としている限り、幸せを感じることは難しいのではないだろうかと思う。

 

なぜそう思うのか。それは「自分というものにとらわれてしまうから」だと思う。有利な道を進むほど、得になる道を進むほど、自分というものにとらわれていく【他者から切り離されていく】。自分さえよければそれでいいという思考は、短期的には充足感やある種の優越感を与えるかもしれないけれど、多分、最終的には「周囲から切り離された痛み」を与える。なにかを得ると守りたくなる。得た瞬間から、失う不安や恐怖がはじまる。そして、失うことを恐れるあまりに「がっちりそれをホールドする」的な心理状態になり、両手は埋まり、新しいなにかを掴むことができなくなる【この世界に散らばる無数の宝物を受け取る機会を失っていく(ように思う)】。

 

自分というものをどこまでなくせるだろうか。

自分自身にとらわれない方法は、多分、複数個ある。大自然の中を歩くときなど、誰にだって「自然と溶け合って一体になる」的な感覚を覚えることがある。この瞬間、自分というものは溶け出している。その瞬間の中によろこびがあり、その瞬間のなかに自由がある。これは『自分が消えるパターン』だと思う。そしてもう一種類、自分が消えるパターンに対して『自分を超えるパターン』もあると思う。それはどのようなことか。

 

私利私欲を捨てよという言葉がある。世のためひとのために生きることは素晴らしいとする価値観だ。清貧の思想と近いのかもしれない。清く、貧しく、美しく。そのように生きることができる人間は素晴らしい。人間の鑑である。が、多くの人々にとって清貧を維持することは(多分)難しい。頑張っても「清く、『豊かに』、美しく」くらいには言い換えないと誰も聞く耳を持たないだろう。ということで、そこで登場するのが『自分を超えるパターン』になる。

 

欲望を完全に捨て去ることは難しい。自我を完全に捨て去ることも難しい。それならば、自分だけの幸せを願うようなチャチな状態を蹴飛ばして、『小欲よりも大欲』を胸に抱き、『小我よりも大我』のど真ん中を生きるといった感じで、大袈裟な言葉で言えば「自分を通じて人類全体の幸福も同時に実現できてしまうような生き方をする」ということ。ちっぽけな自分【独立している自分】を生きるのではなく、おおきい自分【人類全体としての自分】を生きるということ。それが、ここで言うところの『自分を超えるパターン』ということになる。

 

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わたり文庫『リヤカー引いて世界の果てまで』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、吉田正仁著作『リヤカー引いて世界の果てまで 地球一周4万キロ、時速5キロのひとり旅』です。これだけの距離を実際に歩き通したひとの話を聞くと、自分がこれからやろうとしていることは小学生の夏休みの自由研究レベルだなと、非常に爽やかな敗北感(?)を抱くことができます。私の場合、頭で考えただけの話よりも「実際にやったひとの話」が好きなのだなと再認識しました。頑張れと言われるよりも、実際に頑張っているひとを目の当たりにする方が五億倍励まされる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

ダメな自分と決別すべく、愛車(リヤカー)とともに旅に出た。ブルガリアで凍傷による指切断の危機に直面し、東ティモールでは警官からケツバットを食らい、カナダでは熊と一戦交え・・・波乱万丈の、遅々として終わりなき旅。「遅ければ遅いほどいい」とリヤカーを引いて歩き続けることにこだわった著者が見た、時速5キロの旅の絶景。

 

吉田正仁『リヤカー引いて世界の果てまで』【幻冬舎文庫

 

歩きながら、考えよう。

明日には横浜を出て、一旦東京に向かう。それからひたすら北上をして、特段何も予定がはいらなければ、福島界隈から左折をする【新潟に向かう】。道中、一緒に歩きたいと思ってくださる方がいれば、どなた様でもお気軽にご連絡ください。話し相手ができることは貴重です。道中、誰かと話をすることで「自分ひとりでは出てこなかった言葉」に出会うこともあります。宿もなにも決めていないので、もしもなにかあればお気軽にご連絡ください(毎日歩いては休み、歩いては休みを繰り返して、最終的には漫画喫茶で横になる流れになるのだと思います)。

 

歩きながら自分はなにを思うのだろうか。歩き出す前の自分は「つまらない私利私欲にとらわれるのではなく、どうせならでかいことを考えろ」ということを思っている。ちっぽけな私利私欲にとらわれるから、苦しみと呼ばれているものが生まれるのだろう。どうせ抱くなら「小欲より大欲」「小我より大我」ということで、自分をどれだけなくすことができるのだろう【自分をどれだけ乗り越えることができるのだろう】ということを思いながら、新潟までの道を歩く。

 

実はもうひとつだけ猛烈に考えたいことがあるのだけれど、それはまだまったくまとまっていない。最近の自分に感じていることは「まずは自分を殺せ」ということで、ちっぽけな自分にとらわれそうになるときこそ、つまらない自分を蹴飛ばしてやれと思う。寒い、寒い、などと愚痴を言っていつまでも家にいるようでは、精神も肉体も醜悪になる。なにもすることがないときほど、体力と精神力の培養に励もう。歩きながら体力も培い、思考もまとまり、なんだったら「道中で出会う方々と最高の時間を過ごす」なんてことができたのならば、もう、ほかになにも言うことはないなあと思う。

 

 

 

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本当に大事なことは、先延ばしにしないで、いまやらなくちゃいけない。


 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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