「預かり者」として生きる。
生命の危機を感じて愛知に逃げた。明日は鹿児島に飛ぶ。ふふふふ、これでストーカー連中も追ってこれまい。。(実は複数人いる)。。。いやもうほんとうに各種著名人はいったいどうやってストーカー対策をしているのだろうか。ボディガード的なプロを雇用しているのだろうか。財力のない人間はどうすればいいのだろうか。死ねばいいのだろうか。
昨日、包丁を向けられたときの予行練習ということで、ごちゃまぜの家住人のY様に「ちょっと包丁代わりにボールペン持ってこっちに迫ってきてください」とお願いをした。ら、想像以上の威圧感に「う、う、うわあああああああああああ!!!!」となった。先端を向けられるとやばい。予行練習は重要だと学んだ。包丁はリーチが短いから木刀を常に持ち歩けと言われた。が、それはちょっと現実的じゃないと思うから「シュッとやったらジャッと伸びる、携帯用の棒とかないのかな」って気になり始めている。
笑いたいのだな。と。
色々な方々から「ストーカー大丈夫ですか!?」と連絡をいただいた。自分から困っているとか言っておきながら、ひとりひとりに事情を説明するのが死ぬほど億劫なことに気がついて「ちょっと余裕ないのでごめんなさい!」と、逆に心配をかける返信しかできていない。末っ子根性を爆発させて「ストーカー被害にあっているとか書いたらみんなに心配してもらえるかな・・・どきどき♡」みたいなテンションで書いてしまったのだけれど、軽はずみな言動は控えなければならないのだなと(一時的に)猛省をする。
心配されたらされたで「面倒くさっ!」とか思う自分を見た。俺はなんて自分勝手な人間なんだろうと思った。と、ここで気が付いた。私は、多分、問題を解決したいのではなく「問題を通じて飛翔したい」と思っているのだと思う。乱暴にまとめれば「ネタにしたい」と思っていて、言い換えるならば「どのような状態に置かれても、必ず『笑いに転換できるポイント』は隠されている」みたいなことを思っている。そのポイントをオーディエンスのみなさまと一緒に模索したい(楽しみたい)と思っているみたいだ。
自伝風の物語を書き進める。家なし生活もストーカー被害も似ている。家なんてあったほうがいいに決まっているし、ストーカー被害なんてあわないほうがいいに決まっている。が、事実、家がなくなってしまった(ストーカー被害にあってしまった)のだから、起きたものは仕方がない。あとはもう、どれだけ笑い【生きる力】に転換できるか、そのことによってどれだけ飛翔できるかなのだと思う。物理的には、明日鹿児島に飛ぶ。精神的には・・・・・一体、私はどこまで飛翔をすることができるのだろうか。
押し寄せの法則
鹿児島に行く。が、予定はない。巷では引き寄せの法則が話題になったが、私は「押し寄せの法則」を採用している。押し寄せの法則とは「呼ばれてもいないのに一方的に現地に押し寄せ、押し寄せることによって生じるミラクルを期待する他力本願的な生き方」みたいなものになる。鹿児島ではなにが起こるのだろう。なにも起こらないかもしれない。明日13日の19時に鹿児島空港についた瞬間にひまになる。なにもすることがない。さて、私はどうすればいいのだろうかと社会に釣竿を投じることで「なにかおこれ!」と念じている(多分、安易にこういうことを書くからストーカーに追われるのだと思う。気をつけたいとは思うのだけれど、この生き方をやめることができない)。
「預かり者」として生きる。
前回のツイキャスで「こどもは預かりものだと思って育てている」と話したお母様のエピソードを紹介した。預かりものとは素晴らしい言葉だと思った。同時に、その話を聴きながら「実はすべてが預かりものなんじゃないだろうか」などと思った。こどもだけじゃなく、いま、我々が使わせていただいているごちゃまぜの家も「神様的なサムシングから一時的に預けられたもの」だと思うと、身が引き締まる。シュッとなる。逆に言えば「これは自分のものだ!」と思った瞬間、そこには執着のようなものが生まれる。預かりものだと思う時、そこには「使わせていただいている」という感謝が生まれる。
多分、命も同じだ。この肉体も「仮の宿」みたいなものであり、生きている間の預かりものなのだと思う。自分が持っている金銭も、財産も、自分が持っている経験でさえも、自分のものではなく「預かりもの」なのだと思う。占有の概念からちょっと距離を置くと、ふと、こころが軽くなる感覚を覚える。自分の金も、自分の経験も、自分の命さえも「俺のであって、俺のではない」くらいに思っているのがちょうどよいのかもしれない。金も命も経験も、真価が問われているのは「その使い方」だと思う。なにをもっているかではなく、自分がもっているものを「どのように生かすか」なのだと思う。
この点において、我々は(表面的には差異にあふれているようで)実際は極めてフェアな状態だと思う。どのような生き方にも価値はある。どのような状態に置かれても「その状態を生かす道」は必ずある。私は、多分、家なし生活を通じて「希望を見出す力」を鍛えられたのだと思う。いまもなお、その途上にあるのだと思う。無論、生きていると「なんなんだよもう!いい加減にしてちょーだい!」となにかに向かって叫びたくなることは頻繁にある。が、困ったときの「みんなの丹田」である。自暴自棄になるのではなく、恐怖で自分を閉ざすではなく、調子に乗って自滅をするのではなく(昨日自滅しましたごめんなさい)、冷静に、沈着に、自分に捕まってしまうことより「自分を解き放って行く」ことなのだと思う。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2017年8月6日
坂爪さん、こんばんは。
今日お邪魔させて頂きました○○○です。
色々な方からご連絡頂いてるかと思いますが、お礼をさせて頂きたくて…。
今日は本当にありがとうございました。初めての、ごちゃまぜの家、こんな感じなんだなぁと思いました。
子供が楽しそうに走り回り、うまく言えませんが、人の優しさや気遣いを、今日会ったばかりの人同士が与え会っている場面も多々あり、不思議な、居心地の良い感じがありました。
途中、坂爪さんが疲れてしまった部分があり、坂爪さん自身が嫌な思いをしたと思います。
お疲れ様でした。私は事情など何も分からないので、こんなことしか言えませんが…。
ただ、あのような不思議な空間、エアコンついてないのに湿気こもってない、なんとも言えない空気が流れる場所は、誰でも作れる場所ではないと思うんです。
あの場所を作ってくださり、私のような来る人に、他では出来ない体験をさせてくださる。
それを、心から感謝したいです。本当にありがとうございます。
また、私の顔をまさか覚えててくださるとは思いませんでした。日々色々な場所で色々な人と接しているので、1年近く前に数分だけ会っただけの私を覚えててくださったこと、正直メチャメチャ嬉しかった!!!!あの時のお花、家で咲いて枯れて、、、でも私の記憶や思い出にはきちんと残っています。
それも何もかも全部含めて、今日は本当にありがとうございました!!!!
またブログやツイキャス、はたまたごちゃまぜの家でお目にかかることを楽しみにしています✨
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
まずは自分を騙せ。
ストーカー被害に遭っていて生きるのが辛い。が、きっと「自分以外にも同じ感じで苦しんでおるひとがいるじゃろう」的な思考をすると、少しだけ心が軽くなる。人間、いつすれ違いざまにナイフで刺されて死んでしまうのかわからないのだ。ならば、死ぬ前にやっておきたいことはやっておこうということで自伝風物語を書き始めた。ら、楽しくなってきた。なんならストーカーの人にちょっとだけ感謝をしたくなった(けど、おそろしいからストーカーはやめてください!!)。
私は弱い人間なので、常に「最悪の場合を想像しながら生きる」癖がある。では、最悪の場合とはなんだろうか。殺されることだろうか。財産を失うことだろうか。否、ちょっと違うような気がする。殺されることよりも最悪なことがある。それは「希望を失った状態で生きること」だと思う。生きる希望も張り合いもなにもなく、ただ、拷問のような日々を生きることは辛い。だからこそ、私は「人間に希望を与えること」こそ最高の営みだと感じるし、逆に言えば「人間から希望を奪うこと」ほど残酷な営みはないように思う。
坂爪圭吾の今後の予定【随時更新予定!】
6月10日 わたり食堂@横浜【GOCHAMAZE no IE】
6月12日 愛知県一宮市
6月13日 鹿児島県(この日以降、FREE!)
※※※ 坂爪圭吾の使い方は、過去記事をご参照ください ※※※
運命にぶん回されるのではなく、運命をぶん回す。
昨夜のツイキャス音声配信で、保科亮太さんに愚痴を吐き出した。が、やがて話題は「人生、いかにハッタリをかますかである」という方向にシフトをし、個人的には「めちゃくちゃ下手くそな話し方になったけれど内容的には多分結構いいぞ!」という手応えを得た。自伝風物語を書きながら、私は「事実なんてどうでもいい。そんなことより真実を書け」的なことを何回も思った。極論、嘘でもいいのだと思った。なんなら「嘘をつくのが仕事である」とさえ思った。死ぬまで騙されていたい嘘をつく、そのためにこそ生まれてきたのではないかとさえ思った(のでよかったら聞いてみてください)。
まずは自分を騙せ。
愛する甲本ヒロトさんは「お前がやっている音楽は、所詮、がきんちょを騙す程度のものに過ぎない」的なことを周囲から言われたことがある。その際、甲本ヒロトさんは「そうだ、それがやりたかったんだ!」と返答をする。なぜならばと言うと「がきんちょを騙すのがロックだと思う。だって俺、中一んときに騙されたんだもん」とのこと。ああ、もう、これはもうほんとうに素晴らし過ぎる話だと思う。私自身、生きていてもなんもいいことはないと思っていた中学高校時代に、ただ、好きな音楽を聞いている時間だけは「生きててもいいかな」と思うことができた。自分も、中学校の頃に、ロックンロールに騙されたもののひとりなのだと思う。
死ぬまで騙されていたい嘘を、私は、音楽のなかに感じたのだと思う。なにもしてもうまくいかない、生きていてもなにもいいことはないと思っていた私に、ただ、音楽は優しかった。それを聞いている時間だけは「生きててもいい」とか「お前はお前のままでいい」とか、なにかこう、許しにも似た優しさの極みみたいなものを勝手に感じ取っていた。音楽がなければ、多分、とっくの昔に自殺をしていただろうと思う。命の恩人【恩音】である。そして、非常に安直な展開ではあるけれど、当時のけいご坊やは「現在の自分が音楽によって命を救われるほどの感動を受けているように、やがて、自分も誰かを感動させられるような存在になりたい」的な、そんな感じの希望を抱くようになった。
まずは自分を騙せ。無難なことをやっている場合ではない。悟りを開いている場合ではない。誰かに合わせている場合ではない。「生きていることに感謝」なんて言葉にまるめこまれて、自分の可能性を眠らせている場合ではない。ありったけの想像力と、ありったけの行動力をフル動員して、自分が欲しい未来を獲りに行く。自分が「死ぬまで騙されていたい嘘」を生きるとき、その嘘は現実になる。自分が感じる居心地の良さ、自分が感じる気持ち良さをどこまでも追求する。その姿が、自分でも気がつかないうちに、見るもののこころにまで「うおー!」と奮起をさせる火をつける。瞬間瞬間を思い切り生きるものだけが、同時に、周囲のひとびとまで「生きる方向」に向かわせるのだと思う。なんだっていい、それに触れた人が「生きてやるぜ!」みたいなこころの躍動を覚える、そんな連鎖を生み出したいのだと思う。
嫉妬を消すには「あの人は、もうひとりの自分である」と決めつけることだと思う。じゃないと、自分の方が容姿は優ってるとか、くだらない勝負が始まる。人間一人一人は大樹の子葉で、根源は同じ。同じ人間だと悟ったとき、お前はお前を生きろ、俺は俺を生きるから的な広い視野を獲得する(気がする)。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年6月6日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
自分もこうありたいと思うものを見た時に、ひとは、感動をするのだと思う。
新千歳空港に着き、桑園の温泉に向かう。常日頃からお世話になりまくっている女性S様にキャデラック(!)でお迎えに来ていただき花まるで寿司を食べる。S様は言う。自分のこどもから「なんでうちのお母さんは普通のお母さんじゃないの??」って泣かれたり交流会とかに革ジャンで行って「なにあのひと??」とか言われまくったりしたけれど、誰かに合わせて着たくもない服を着ていくよりも絶対にそっちの方がよくて、もう、私は規格にはまれない人間なんだって諦めてからは『自分を大事にする』って決めたの。うちの旦那はベンツに乗っているんだけどベンツにわたしの細胞はまったく反応をしなくって、アメ車、キャデラックの馬力が(周りからは浮きまくるけど)自分には一番心地よくて気持ちいいの。だからメンテナンスはしっかりやる。これは人間関係も同じ。自分にとって「気持ちいいこと」「居心地がよいこと」が大事だよね、と。
告発を超えて。
三浦綾子著作「われ弱ければ」に感動をしまくり、ツイキャス音声配信で軽く話した。他にも、私の愛する作品にヴィクトール・フランクル著作「夜と霧(アウシュビッツ強制収容所の体験記)」や、石牟礼道子著作「苦海浄土(水俣病のルポルタージュ)」がある。これらの作品に共通している点は、作品が『告発で終わっていない』ところにあると思う。フランクルは言う。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ、と。前者だけではなく、後者の部分【それでもなお、祈りのことばを口にする存在】という部分が描けているかどうか。苦境の最中でも、それでもなお「生きようとする人間の姿」を描いているものに、多分、わたしの心は強く打たれているのだと思う。
きよ子は、手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。
それがあなた、死にました年でしたが、桜の散ります頃に。
私がちょっと留守をしとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面に這うとりましたですよ。
たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。
曲がった指で地面ににじりつけて、肘から血ぃ出して、
『おかしゃん、はなば』
ちゅうて、花びらば指すとですもんね。
花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の花びらば拾うのが、望みでした。
それであなたにお願いですが、文ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。
いや、世間の方々に。
桜の時期に、花びらば一枚、きよ子の代わりに、拾うてやって下さいませんでしょうか。
花の供養に。
ー 石牟礼道子『花の文を 寄る辺なき魂の祈り』より
ロックンロールとキリスト教。
私は、ロックンロールとキリスト教に影響を受けて育った。最近、自分の生き方が「ちょっと宗教に偏りすぎている」となんとなく感じていて、自分のなかにいるリトルけいごが「それだけじゃないぞ!」と暴動を起こした。高校時代の私は、多分、音楽がなければ自殺をしていたと思う。忘れもしない、13歳か14歳の時(年齢は忘れた)にたまたま耳にしたハイロウズの音源に「なんじゃこりゃー!」と心臓を貫かれ、そのまま服も買わずに家と真逆の方向に自転車を走らせたあの日。音楽はひとを救うものではないと思う。ただ、救われないまま「それでも、生きてていいよ」と踊らせてくれるものだと思う。
自分もこうありたいと思うものを見た時に、ひとは、感動をするのだと思う。
今日、たまたま、イタリアで暮らすミユ様のスーパー感動的な自伝を拝見させていただき、細胞が茹で上がった。お会いしたこともないミユ様に対して「生きててくれてありがとうございます。。」とものすごい感謝があふれた。あまりにも感動をしたものだから「ちょっとやばいからこれ読んで!」と、周囲の友達などにも連絡をしまくった。ら、あろうことか、私が強制共有をさせていただいた女性K様から「うわー!これ、私の姉です!」とまさかのお返事。過去に、手作りのローズマリー軟膏を贈ってくださった、あの、知る人ぞ知るK様のお姉さまがミユ様だということを知って、もう、なにがなんだかわからない感じになって「人生って素晴らしいなあ…」と展開にのぼせた。
ロックンロールだと思う。そう思わせる生き方がある。ロックとは、必ずしも音楽のジャンルだけの話ではない。それは「ひとを生きる方向に向かわせるもの」だと思う。世の中には、多分、ふたつの評価軸がある。ひとつは「溜め込んでいるものでそのひとを見る」という視点。金や家や車などの財産、地位、名誉、他のひとがもっていないものを持っているものを評価する時点。もうひとつは「出し切っているものでそのひとを見る」という視点。溜め込むと言うことをせず、出し惜しむということをせず、瞬間瞬間に自分の生命を出し尽くそうとするものに宿る光。いまをぶちまけて輝くひとを評価する視点。わたしは、この、後者の視点に感じている魅力を「ロック」と呼んでいるのだと思う。その点において、三森さんの生き方はロックだと思う。不良少年だと思う。
自分もこうありたいと思うものを見たときに、ひとは、感動をするのだと思う。自分には到底無理だと思っていた生き方、とてもじゃないけれど考えも及ばなかった生き方を実際に体現している人間がいるということ。これは本当にうれしいことであり、自分にも「そうすることができる」という希望を与えてくれる。私が愛するものたちは、決して、世の中を告発したり「世を呪う」方向に舵を取らない。様々な目に遭いながらも、それでもなお「生きる方向に舵を取る」姿に、私の心は強く打たれる。キャデラック【エスカレード】のS様に聞いた。あなたからは世を呪うという雰囲気を微塵も感じない。様々な裏切りにあったら、人間不信になったりしてもおかしくないと思うのに、なぜ、そんなにも爽やかで前向きな状態を保てるのか。S様は答える。ははは、なんでだろうね、わからないけれど、私は良いエネルギーをまわしていきたいだけなんだよ。ただ、それだけのこと。悩むひまがなかっただけだし、呪うひまがなかっただけ、それだけのことだよ、と、S様は笑った。
人は、きっと、自分もこうありたいと思うものを見た時に、感動をするのだと思う。だからこそ、感動を受け取った人には、一つの責任が生まれる。それは「変わって行くこと」だと思う。責任という言葉は重いけど、その責任を果たした時に、とても大きな喜びに成り得る役割を、受け取っているのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年6月4日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
見えないものを見る力。
自分が嫌いな職業、それは「自分に向いている職業」なのかもしれない。わたしは、小さな頃から学校の先生が嫌いだった。正確には『権威』や『規則』に縛られることが大嫌いで、学校の先生だから嫌なことでも言うことを聞かなければならないという状態が大嫌いだった。いま、時は流れ、毎日ツイキャス配信を行う日々を過ごしている。今日はなにを話そうかなあとネタを考えているとき、あれ、これは大学の教授がレジュメを用意しているのと似ているなあ、と思った。私は、学校の先生になりたいのかもしれない。
規則があるからやるというのは、何か、人間として本当ではないように思う。規則とは、言い換えるならば「期待」とか「世間体」でもあるように思う。敬愛する三浦綾子さんは、自身の著作のなかで「自分の悩みから世間体を除くがよい」と言っている。そうすることで「真に悩むべきものは何かがはっきりし、悩みは確かに半減はおろか、皆無になることさえある」と言う。規則【期待や世間体】は、それによって人間を統制することができる。が、同時に、個々人の精神性を否定し、排除的な思想が蔓延して、馴染まないものを重度の精神疾患や自殺に追い込むこともある、とても恐ろしいものだとも思う。
わたり食堂【0円食堂】開催のお知らせ。
6月10日(日)12時~18時迄、横浜にあるGOCHAMAZE no IEでわたり食堂【0円食堂】を開催します。合言葉は「交換感より循環感!」ということで、果たして無料で飲食ができる空間を実現することはできるのか、という実験の場的な空間です。是非、どなたでもお気軽に遊びにいらしてください。15時頃からツイキャス公開配信も行う予定です。聞きたい方、一緒に参加したい方のご参加もお待ちしております。
【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】 feat.ツイキャス公開配信
坂爪圭吾の今後の予定【随時更新予定!】
6月1日から4日 チェンマイ
6月7日 東京(この日以降、FREE!)
6月10日 わたり食堂@横浜【GOCHAMAZE no IE】
6月12日 愛知県一宮市(この日以降、FREE!)
6月30日 台湾(一緒に行ける方は行きましょう!)
7月3日 ホノルル(道連れいただきありがとうございます!)
※※※ 坂爪圭吾の使い方は、過去記事をご参照ください ※※※
誰かに何かをしてもらおうと思うな。
三浦綾子「われ弱ければ(矢島楫子伝)」を読む。この人物は凄い。凄い人物に出会うと嬉しくなる。女子学院の院長を務めた彼女は数々の逸話を残した。なかでも印象に残ったのは、テスト中、教室から監視役の教師を追い出した話。教師陣は猛反発をする。そんなことをしたら生徒はカンニングをしまくるでしょ!と。矢島楫子は言う。私は、人が見ているから悪いことはしないとか、そんな人間を育てたくはない。規則は無用。校則は無用。私たちには聖書がある(女子学院はミッションスクールです)。自分で自分を治めることが必要です。それこそが真の自律である。と。この院長の思いは生徒たちにも伝わり、自分たちが信頼されていることへの喜びと、その喜びのうえにたった人間としての自覚によって、生徒たちは『人を恐れるよりは神を恐れる』聖書の精神を身につけた。結果、カンニングに関するトラブルは、ただの一度も起こらなかったと言う。
GOCHAMAZE no IEをやっていると「ルールを決めてくれ」と稀に提言をもらう。ルールがないとどう動いていいかわからない。ルールがあればそれに従うことができる。だからルールを決めてくれという要望を受ける。が、現状、なにもルールを決めないできた。GOCHAMAZE no IEとは「誰でもいつでも無料で使える家」であり、常に開放をしている。この家にあるものはなんでも自由に使っていいから、そのあとのことは「自分で決めてください」とお願いをしている。正確に言えば「あなたの良識に従って決めてください」ということになるのだけれど、そこまで言うとちょっと細かすぎるのではしょっている。説明が足りないと怒られることは多い。が、説明をすることがあまり得意ではない私は、現状、このスタイルで活動(?)を続けている。人々の善意が続く限りこの家は続き、人々の善意が途絶えたとき、この家の活動も終焉を迎えるのだと思う。
いつの間にか、私たちは「誰かに何かをしてもらう」前提で人生を生きる。幼少期は親が敷いたレールを、少年期は教師が敷いたレールの上を、青年期は社会が敷いたレールの上を歩く。自分がそうなりたいからというよりも、誰かに期待されている道を歩くようになる。最初はそれでよかったのかもしれない。が、ふとした瞬間に、多くの人々は考えはじめる。自分は、いま、この道を歩いているのか。それとも、ただ、この道を『歩かされている』だけなのか。誰かの期待に応えるために、自分なりに精一杯生きてきた。が、あるとき、ある瞬間、あれ、となる。自分は誰の人生を生きているのだろうかと、そんな風に感じる瞬間がある。そんな瞬間は恐怖だ。そして探す。自分がやりたいことを探し始める。しかし「自分で決める」ということに慣れていない。レールの上を歩く訓練は受けて来た、が、レールを作り出す訓練を受けていない。誰かの期待に応える訓練は受けて来た、が、自分の期待に応える訓練はまったくない受けていない自分を知り、ゴングが鳴る。
さがしたってないんだ
じぶんが
ぐうっと熱がたかまってゆくほかはない
じぶんのからだをもやして
あたりをあかるくするほかはない
人間を、自分を、どこまで信じられるかだと思う。
言葉にされた優しさと、言葉にされなかった優しさ。
いつも微笑みを絶やさないひとと、いつも無表情なひとがいたとする。微笑みを絶やさないひとは周囲から好かれ、無表情や不機嫌なひとは疎まれる。だから、私たちは「いつも笑顔でいましょう」とか「明るく元気でいましょう」という教育を受ける。その通りだなとは思うが、同じように「それじゃ半分だろ」とも思う。このとき、私たちは、大事ななにかを見落としている。それは「目に見えるものがすべてになっている」というポイントだと思う。
あるひとは言う。夢を実現するには、まず、口に出すこと。行動を起こすこと。口に出さないことは、ないのと同じだから。と。その通りだとは思う。でも、これまた「半分だな」と思う。これらの言葉を耳にするほど、ちょっとした危険性を感じることがある。それは「行動に移されたもの、目に見えるものだけがすべてになり、行動に移されなかったこと、目に見えないものはまるでないもののように扱われること」だ。悲しいとき、ひとはこどものように大声をあげてわんわん泣くこともできる。同時に、ただひとり、悲しみに耐え忍び声を殺して泣くこともできる。この場合、人目に触れるものは前者になり、人目に触れないものは後者になる。どちらの悲しみが深いのか、どちらの悲しみが大きいのか、それは、誰にも決めることはできない。ただ、わたしは、人知れず悲しみに耐え忍ぶそのひとの姿に、崇高なもの、高貴なもの、気高さのようなものを感じることがある。表現されたものだけではなく、表現されることのなかったもの、そのひとが「そのひとのなかだけでとどめておいたもの」が、人間的な深みを与えることがある。表現されたものだけではなく、表現されなかったものへのまなざし、これが欠けてしまうと、私たちは「目に見える・半分だけの・精神的に貧しい世界観」を生きることになるのではないのかと、そういうことを思う。
言葉にされた優しさと、言葉にされなかった優しさがある。行動に移された優しさと、行動に移されなかった優しさがある。どちらも「ある」ことに代わりはないが、私たちは、目に見えるものだけを受け取ってしまう。いま、この瞬間も、誰かがあなたのために祈っているかもしれない。いま、この瞬間も、神様はあなたのために最高の贈り物を目の前に提示しているかもしれない。しかし、その祈りは、その恩恵は、目に見える形ではあらわれない。簡単に素通りできてしまうものだし、簡単に「そんなものはない!」と言えてしまえる種類のものだ。しかし、この、目には見えない優しさを、目には見えない恩恵を「それは常に降り注いでいる」と信じる自由も、常に、私たちには残されている。見えるものだけではなく『見えないものを見る』力。見えないものを見ようとするとき、私たちは、意識をひとつ先に進ませる。人間の表面【表現されているもの】から、人間の内面【表現されていないもの】まで意識を進ませることができる。多分、そこに、すべてを見る。そのすべてのなかで、ひとは「自分」を発見するのだと思う。
坂爪圭吾さんいつもブログを読ませて頂いています。初めてメールをお送りします。自分がいばや通信を読み始めたのは、2年ほど前、心がボロボロになっていた頃でした。自分で自分の心に暴力を振るい、ズタズタにしてしまっていました。そこから回復し、今年の4月に就職しました。就職先では仲間もでき、日々楽しく過ごしていたのですが、数日前からまた気持ちが落ち込み、自分の言動の一つ一つが気になり、周りの人が自分を嫌っているような気がしてならなくなりました。そんな時に、久々に坂爪さんのブログを読むと、自分を責めたくなる気持ち、不安、自分を否定したくなる気持ち、それは「この瞬間の自分こそ、ほんとうの自分であることを認めたくない」という思いから派生をしていると書かれていました。それを読んで、心がじんわりほどけていくような感覚になりました。仕事があり今はなかなか旅行に行けない私にとって、いばや通信そのものが逢初庵であるように感じます。ふと立ち寄り、羽を休めたり、いらないものをそぎ落としたり、パワーをもらったり。私にとっていばや通信はそんな拠り所になっています。いつも本当にありがとうございます。これからも、坂爪さんの文章を読めることを楽しみにしています。坂爪さんが元気に過ごされることを祈っています。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
もうひとつの眼差し。
世間では「楽しむことをやろう」「好きなことをやろう」という言説を頻繁に目にする。確かにその通りだと思うし、自分自身、そのようなことを何度も発言している。が、それだけでは足りないとも思う。それだけでは半分だと思う。楽しもうとか、好きなことをやろうとか、そればかりでは「疲れてしまう」とか「それだけでは満たされない何かがある」と感じることは、実は、誰のなかにもあるんじゃないのかなと思う。
人が大勢集まる場所に行くと思う。誰もが名刺を差し出しながら「自分はいかに付き合う価値のある人間か」ということを、必死にアピールしているように見えることがある。面接にも似た感覚を覚えるし、先日、ツイッターを眺めながら似たことを思った。自分を含めた現代人の多くは自転車を漕いでいる。その自転車を漕いでいる間だけは、そのひとにスポットライトがあたる。自転車を漕げば漕ぐほどに「素敵!」とか「格好いい!」とか「ありがとう!」などの賛辞や感謝が降り注ぐ。が、自転車を漕ぐのをやめた途端、そのひと自身に向けられるスポットライトも同時に消えて、そのひとは「いてもいなくても同じ」という、忘れられた存在になる。忘れられた存在にならないために、輝き続けるために、幸せであり続けるために、そのひとは自転車を漕ぎ続けなければならない。ふと、そんな『自転車のイメージ』がよぎった。
虚しさについて。
ミヒャエルエンデの「はてしない物語」という作品は、虚無がゆっくりと世界を侵食する内容になっている。虚無感。虚しさ。この感覚を、どれだけの人が日々の中で感じているのだろうか。私は、定期的に虚しさを覚えることがある。これは「脱力感」とか「無力感」とか「倦怠感」とも呼べるものかもしれない。昨日、街を歩きながらふと『これから虚しさは増えるだろうな』と思った。道中、飲食店に立ち寄る。紙とペンを取り出して、小さなメモを書いた。そこにはこんな言葉が並んだ。
これから虚しさは増すよ。自分がやらなくても他の人がやる。自分が生きている必要を感じる場面が減る。自分がいなくてもみんな幸せそうに生きる。虚しさに負けないために、必要なものはなにかな。命の声。さみしさは「生きている」と叫んでいる。そのさみしさが、詩になる。そのさみしさが、光になる。宮沢賢治。告別。いいかおまえはおれの弟子なのだ。あのセリフ。命の声を見つめるまなざし。さみしさを見つめるまなざし。
昨夜、ツイキャス音声配信をした。参加をしてくれた24歳の男性は、最近までデザイン関係の仕事をしていた。フリーランスで働いていた経験も、会社員として働いた経験も両方ある。が、どちらのスタイルを試しても「自分の神経がすり減って行くような疲れを避けることはできなかった」と話す。仕事中、パソコン画面がぐにゃぐにゃ曲がって見えたこともあると話す。虚しさはブラックホールにも似ている。真っ黒い穴。深い穴。終わりのない穴。いつまでこれが続くのかと思う時、ふと、大きな黒い穴に飲まれていくような感覚になる、あの感覚。虚しさをごまかして生きることはできる。それは「自転車を漕ぐこと」だ。自転車を漕いでいる間だけは、虚しさを忘れることができる。しかし、虚しさは常に自分のなかにあって、口を大きく開いて「その瞬間」を待っている。その瞬間とは、誰にでも訪れるであろう「自転車を漕げなくなる瞬間」のことだ。
さみしさについて。
私個人の感想として「怒りは、溜め込むと憎しみになる」というものがある。怒りは、怒りを感じた瞬間に発すればあと腐れなく浄化される。が、怒りを我慢して自分の中に溜め込んでしまうと、怒りは発酵をして(世界や自分を呪う)憎しみになる。虚しさを回避するために、必要になるものは「さみしさの自覚」なんじゃないだろうかとふと思った。さみしさは、溜め込むと虚しさになる。そう思った。さみしい自分を認めることができれば、そのさみしさはあと腐れなく浄化される。が、さみしさを「さみしくなんいかない!」と強がったり見栄を張ったり誤魔化す方向に舵をとると、自分のなかに溜め込まれたさみしさが発酵をして、それは『虚しさ』を生む。
怒りは、出しちゃいけないものと教えられる。すぐに怒るひとは未熟で、怒りを抑えて寛容な振る舞いをできるひとを『成熟したひと』とする価値観がある。この場合、怒ることは「悪いこと」になる。同じように、さみしいという感覚は「悪いこと」とか「恥ずかしいこと」とか「隠しておきたいこと」になるのだと思う。が、本当にそうだろうか。自分が抱えている感覚を隠し通すことなどできるのだろうか。そのひとの一挙手一投足から、思わず「漏れ出してしまっている」ものが本心ではないだろうか。少なくとも、わたしは、ああ、このひとはいまさみしいのだろうなあ(さみしいということを隠したくて、これをやっているのだろうなあ)と感じることが頻繁にある。多分、全部、バレているのだと思う。
さみしいとき、そのさみしさを押し殺すように「ポジティブとされている感情」で上塗りをしようとすることがある。が、大抵の場合、これはうまくいかない。私たちは、ポジティブな感情こそがポジティブな効果を生み、ネガティブな感情はネガティブな効果しか生まないと教えられる。が、これは誤りだと思う。私たちは、切ないバラードに心が慰められることがあるように、他人による「ネガティブな感情の表現」を通じて、自分の心が慰められたり楽になったりすることがある。さみしさが温もりをうむこともあるし、悲しみが温もりを生むこともある。寄り添うものがある限り、あらゆる感情は「温もりを生む」ものになる。問題なのは、寄り添うものがあるかどうか、だと思う。
もうひとつの眼差し。
私は、さみしいとき、苦しいとき、虚しさを覚えた時、など、ネガティブとされている感情にまみれたとき、ひとつの考え方を採用するようにしている。それは「自分と同じ感情のひとが、いま、この世界に必ずいる」と信じることだ。自分ひとりだけの感情として、さみしさや苦しさや虚しさを抱き続けるには、その感情はあまりにも重い。が、もしかしたら「自分と同じ状態のひとが、この世界のどこかにいる」と信じることで、悩むことに意味が生まれる。感情と向き合うことに意味が生まれる。自分が、もし、自分が抱える問題になにかしら一歩進んだ答えを見出すことができたなら、他の誰かにとっても「光となり得る」ような、何かを残すことができるかも。そう思えたときに「つながり」が生まれる。さみしさや虚しさがつらいのは、その感情に呑まれることで『世界と切り離される感覚』を覚えるからだと思う。自分ひとりがさみしいのだと思えばいよいよさみしさも深まるが、もしかしたら、他にも大勢のひとが「自分と似たような気持ちになることがある」と思うことで、さみしさを通じてさえも、人間的なつながり【温もり】は生まれる。
虚しさに負けないために、必要なものはなにかな。そう考えた時に、私は「さみしさの自覚」だと思った。自分はいなくても世界はまわる。自分はいなくてもみんなは幸せに生きる。そのとき、自分はいてもいなくてもいいのだなという気持ちに包まれたそのとき、同時に「でも、生きているんだよ」と主張をするこころ。自分はいてもいなくても同じかもしれない、それでもなお、いま、こんなにも生きているのだと叫ぶこころ。生きていることを主張する心。寄り添われることを待っているこころ。誰かからの温かな眼差しを待っているこころ。私は、これを、さみしさと呼びたい。虚しさに負けないために必要なもの。いまの私には、それを考えることで立ち向かうことしかできない。そして、考えながら「もうひとつの眼差しを持つこと」は、わずかでも有効に働くのではないかなと思った。
人間が力を失うとき、それは「誰にも見てもらえていない」と感じる瞬間だと思う。普通、生きている限り、人間は「自分から世界を見るまなざし」をベースに生きてしまう。そのために、誰かに自分を見てもらうために必死に自転車をこぎ続ける。しかし、それだけでは、生きている限り自転車を漕ぎ続けなければいけないことになる。自転車を漕いでいる間は価値があるけれど、自転車を漕げなくなった自分には価値がなくなるということになる。私は思う。多分、世の中にはもうひとつの視線がある。それは「世界『が』あなたを見ている眼差し」だと思う。自然でも芸術でも宗教でもいい、それは目には見えない眼差しで、自転車を漕ぐ漕がないに関わらず、常に降り注いでる眼差しになる。この眼差しをどこに見出すか、が、虚しさに負けない力を与えることのように思う。宮沢賢治の『告別』という詩のなかに、私の大好きなフレーズが、もうひとつのまなざしを感じさせてくれるフレーズがある。それは「いいかおまえはおれの弟子なのだ」というフレーズだ。勘違いだとしても構わない。この詩が、自分に対しても読まれているものだと思うことで、たとえば私は生きる力を獲得する。虚しさに負けない意思、世界に立ち向かう勇気を与えてくれるものは、たとえばこのような「もうひとつの眼差し」なのだと思う。
「告別」おまえのバスの三連音がどんなぐあいに鳴っていたかをおそらくおまえはわかっていまいその純朴さ希みに充ちたたのしさはほとんどおれを草葉のようにふるわせたもしもおまえがそれらの音の特性や立派な無数の順列をはっきり知って自由にいつでも使えるならばおまえは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだろうけれどもいまごろちょうどおまえの年ごろでおまえの素質と力をもっているものは町と村の一万人のなかにならおそらく五人はあるだろう泰西著名の楽人たちが幼齢 弦や鍵器をとってすでに一家をなしたがようにおまえはそのころこの国にある皮革の鼓器と竹でつくった管とをとったそれらのどの人もまたどの人も五年のあいだにそれを大抵無くすのだ生活のためにけづられたり自分でそれをなくすのだすべての才や力や材というものはひとにとどまるものでない(ひとさえひとにとどまらぬ)云わなかったがおれは四月はもう学校にいないのだ恐らく暗くけわしいみちをあるくだろうそのあとでおまえのいまのちからがにぶりきれいな音が正しい調子とその明るさを失ってふたたび回復できないならばおれはおまえをもう見ないなぜならおれはすこしぐらいの仕事ができてそいつに腰をかけているようなそんな多数をいちばんいやにおもうのだもしもおまえがよくきいてくれひとりのやさしい娘をおもうようになるそのときおまえに無数の影と光の像があらわれるおまえはそれを音にするのだみんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときにおまえはひとりであの石原の草を刈るそのさびしさでおまえは音をつくるのだ多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだもしも楽器がなかったらいいかおまえはおれの弟子なのだちからのかぎりそらいっぱいの光でできたパイプオルガンを弾くがいい
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
よろしく浸ってんじゃねえよ理論。
6月1日から6月4日までタイのチェンマイ、5日からは北海道の新千歳空港に飛ぶ流れになりました。チェンマイや札幌界隈でお会いできる方がおりましたら、お気軽にご連絡ください。6月6日以降の予定はなにもありません。呼ばれる限りどこにでも向かいますので、旅の道連れなり旅の身代わりなり、もう、それ以外でもなんでももう、坂爪圭吾という人間を好きに使っちゃってくださいという気持ちです。
お金0.1
「坂爪さんはどうやって飯を食べているのですか?」と頻繁に問われるので、ツイキャス音声配信で釈明をさせていただきました。何回も言いたいのですが、私は「これが新しい生き方だ!」と思ってこんな生き方をしている訳ではなく、いろいろやってみたけれどダメで、ダメで、ダメで、なにもかもダメだった結果「増やすことより減らすこと」によって活路を見出したタイプの人間になります。ので、参考にならない点が大量にあると思いますが、内容的には面白い気がするのでよかったら聞いてみてください。
よろしく浸ってんじゃねえよ理論。
毎晩開催していたツイキャス音声配信も、5月31日をもって最終回となりました。昨日のツイキャスのなかで「人生に悩んだり生きる意味を考えてる時って、多分、自分の人生に退屈をしているだけだよ。頑張りが足りないとか、お金が足りないとか、能力が足りないとか、勇気が足りないとか、魅力が足りないとか、自信が足りないとか、そんなことって全然なくて、ただ『楽しみ』が足りていないだけなんだよ。『遊び』が足りていないだけなんだよ」という話をしました。暴論だとは思いますが、実際、そうなんじゃないのかなあと思う部分も結構あり、深刻に考え過ぎて勝手に鬱っぽくなって勝手に自滅をする現象を保科さんが「よろしく浸ってんじゃねえよ理論」と名付けてくれました。いつまでも自己憐憫に浸ってんじゃねえよ、と。
🌈🌈🌈5億万人に読まれたもと記事はこちら🌈🌈🌈
物事を深刻に考えると「難しすぎてわからないよ!」ってなると思います。そんな時は、一旦深呼吸をしたあとに「難しくない!」と脳内で一回諸問題をぶった切ることは有効だと思います。難しい前提で物事を考えると、物事は難しくなります。が、難しくない前提で物事を考えると、意外とシンプルな道筋を得ます。なんならもう「シンプル」と口にするだけでも有効だと思います。自分の生き方を悩むとき、ひとは「どう生きるか?」と考えます。この思考は比較的重いです。愛でさえ、重いものは敬遠されます。ここで、どう生きるかという問いを「どう遊ぶか?」とか「(この現状を)どう笑うか?」と置き換えると、あの、重苦しい雰囲気はほんの少し薄らいで「なんだかちょっと楽しそうアトモスフィア」が醸成されるように思います。重いものは軽く、多いものは少なく、複雑なものはシンプルに。
自分がこの世界からいなくなったことを想像しながら、対話をすること。
私の中のおかまさんが言います。「1日1N。新しいことやんなさい。いまのあなたは思い悩むことが好きになってる。浸ることが趣味になってる。幅、広げて行きなさい。なんでもいいから、新しいことをやりなさい。どんどんやりなさい。疲れたらしっかり休みなさい。そしてまたどんどんやりなさい。好きなことをやるっていうより、やったことのないことをやる感じ。そうじゃないと、同じところをぐるぐるするだけ、広がって行かないから。お金が足りないんじゃなくて、頑張りが足りないんじゃなくて、魅力が足りないんじゃなくて、遊びが足りないのよ。遊びなさい。くだらないことをやりなさい。お金にならないことをやりなさい。もう、張り裂けちゃいなさい。張り裂けちゃいなさい。」
やりたいことがわからないという人は多く、これは自分も同じです。ただ、やりたいことがわからないひとでも「やるのが怖いこと(だけど本当はやりたいこと)」ならあると思います。誰かに告白をするとか、嫌いな仕事を辞めるとか、恥ずかしいと思ったことをやるとか。これを私は「1日1F」と名付けていて、Fとは『FEAR(恐怖)』のFになります。1日1Nからの1日1F。これでもう、あなたの毎日はドキドキハラスメントの連続になること間違いなし、という話をツイキャスでしました。愛は「恐れのない状態である」という言葉があります。これは勝手な想像になるのですが、恐怖とは「頭のなかで考えているときが一番恐い」ものであり、実際にやってみると意外とたいしたことのない場合が多いです。毎日、少しずつFを実行することによって、もしかしたら(恐れがなくなって)自分自身が愛の塊になるという可能性もあると思います。
多分、私は「新しい言葉に出会うため」に生きている節があるのだと思います。移動を続けるのも、自分をオープンにしているのも、本を読むのも、散歩を好むのも、文章を綴るのも、そのことによって「新しい言葉に出会う」可能性がグイッと高まるから、であるように感じます。聖書の中にも「はじめにことばありき」とありますが、多分、私たちは言葉でできている。だからこそ、新しい言葉と出会うことによって、人生【自分自身】は変幻自在に姿を変えることができる。言葉とは、日常的なものでもあると同時に、魔法のようなものでもあると思います。誰の中にも「言葉」は眠っていて、それは引き出されることを待っている。言葉は「誰といるか」「どこにいるか」「なにをやるか」によって、引き出されるものが大きく変わる。自分という存在が、自分という存在が放つ言葉が、誰かの中に眠っている「引き出されることを待っている言葉」を同時に呼び起こすことのできるような、そういう時間、それを対話と呼ぶのだと思いました。
坂爪様はじめてメールをさせていただきます。いつか、お手紙が書けたらなあと思っていたのですが、えいやっと、はじめて、メールをさせていただきました。恋バナを読ませていただいて、えいやっと、メールができました。我ながら意外です。なぜ、恋バナ、、?(笑)。実は、最近、愛って何だろ?と真面目に考えてました。高校生のための哲学の本に、愛とは?友愛、博愛など書いてありました。そこには、愛すべきものがいるのではなく愛することにより愛すべきものになる、と書いてありました。愛されファションとか、愛されヘアとか、そういう言葉とは、対局ですよね。(笑)。むかし、平和とは?ということを、授業で語り合ったことを思い出しました。ずっと暴力をうけつづけていたある女性がいいました。平和とは、自分がこの世界からいなくなっても、この世界に、存在し続けてほしいと願うものがあること。彼女はさらにいいました。今まで、世界に愛されたいと思っていた。でも、世界を愛したい。この言葉は、愛とは何かを考えるヒントになるのではないかと思います。平和とは、暴力ではなく、対話により問題を解決しようとすること。この平和とは?という問いも、愛とは?という問いと重なりそうです。自分がこの世界からいなくなったことを想像しながら、対話をすること。これが愛のような気もします。すると、愛とは、坂爪さんのされていることではないですか?(笑)。愛のタイムトンネルみたいですよね。見知らぬ無数の人々の愛が注がれて、坂爪さんというメディアを通じて循環していますよね。(中略)移動中なこともあり、乱筆乱文、申し訳ありません。今日も、生きていてくださることに感謝します。○○○○
髪が長いと神話感があるなあ。。 #thai #pai #hotsprings #mineralbath #lifeisgood
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
好きなように生きなさい。
執筆活動も落ち着き(放棄しました)、明日から何をしようかなと考える。現在はタイのメーホンソーンにいて、近隣諸国を巡るのもよし、日本に戻ってハーバルサウナを自作するのもよし、です。もしも「それならここにおいでよ!」的なサジェストがありましたら、ご連絡をいただけましたら幸いです。のどかな風景にも、正直、ちょっと飽きちゃっている。私は若い。まだまだ人生をぶんぶん振り回したい衝動がある。都市と田舎の高速反復横跳びが、自分にはあっているのだろうなあと思う。
と、ここまで書いたところで「突然ですが、7月に一緒にハワイに行きませんか?旅費は負担できます!!!」というご連絡が届きまして「こ、これは…」と震えました。行かせていただくことにしました。ふと、同時に、なんだか自分の新しい使い方(?)が見えたような気がしたので「言うだけチャレンジ!」ということで来月以降死ぬまで予定のない坂爪圭吾の3つの使い方をご提案させていただきます!!!
1・坂爪圭吾を旅の道連れにする
いかんせんお金のない生活が長かったもので、自費で御同行できないことが悔やまれてならないのですが、小生、旅費さえ出していただけましたら基本どこでも同行します。ので、もしも「ちょっとあそこまで行きたかったのだけれどひとりはちょっとあれなのよね」的な方がいらっしゃいましたら、道連れにお使いください。現状、2018年6月の予定は皆無です。何かしらピンと来た方がいらっしゃいましたら、まずはお気軽にご相談ください。遠くまでは無理だけれど「自分がいるところまで来てくれ!」とか「一緒にツイキャスやりませんか?」とか、そんな需要でも嬉々と伺います。現状、まだタイ王国にいるので、空港待ち合わせでも現地合流でも柔軟に対応いたします!!
2・坂爪圭吾を旅の身代わりにする
自分が行きたい場所に自分が行く代わりに坂爪圭吾を旅費を負担してまでぶっ飛ばすという「そんなこと誰がやるんだよ!」的なプランです。や、や、や、自分で言っておきながらも「そんなやついねーよ!」ということは重々承知をしているつもりですが、もしかしたらそんな需要もあるのかもしれないという一縷の望みに託し、言わせてください。あなたの代わりに、坂爪圭吾が現地でやれることと言えば「現地の写真を撮る」とか「現地の映像を撮る」とか「現地での気分をボイスメッセージでお贈りする」とか「お土産を買ってくる」程度しか思い浮かばないのですが、そんなのでもいいよ的(もちろん追加注文もOK!)な方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください。
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
以上です。何もなければ、日本で粛々とサウナを作ります!!
今世は諦めてください。
生まれた月に関わらず、7日、16日、25日生まれのひと(誕生日を足すと『7』になるひと)は『ドラゴンテイル』らしいです。また、4日、13日、22日、31日生まれのひと(誕生日を足すと『4』になるひと)は『ドラゴンヘッド』らしいです。ドランゴテイルとは『頭のない胴体だけの龍』で、ドラゴンヘッドとは『頭だけの胴体がない龍』らしいです。私は4月7日生まれなので、ドラゴンテイルということになります。ドラゴンテイルには「こだわりや執着は少ないけれど、まるで統制が取れていないカオス野郎になりがち」という苦い特徴があるそうです。どうでしょうか、ドラゴンテイルのみなさま。共感していただけるところはありますでしょうか(私の場合はおおいにあります!!)。
逆に、ドラゴンヘッドには『やりたいことがたくさんあるけれど(文字通り)からだが足りなくて困っている』という特徴があるそうです。どうでしょうか、ヘッドのみなさま。共感していただけるところはありますでしょうか。何が言いたいのかと言うと『ドラゴンヘッドとドラゴンテイルが組むと最強!』ということで、小生、ドラゴンテイルの身としては「正道よりも覇道を好む。が、特にやりたいことがある訳ではない。が、動き回っていないと落ち着かない」というあばれぬんちゃく的な要素があります。この、統制の取れない我が身を統制してくれるものがドラゴンヘッド【頭意識でがっちり統制を取ることが得意】の存在であり、多分、わたしはドラゴンヘッドに出会わない限り「死ぬまで動き続ける多動少年」のまま、生涯を終えることになるのだと思います。
こんな自分の特性を「俺はいつになったらまともになれるんだ・・・」と悲壮感を漂わせる感じで思い悩むと簡単に鬱病になるのですが、世界にこんな人間がひとりくらいいてもいいだろうと開き直ることで「ま、いっか」と切り替えることができます。これはもう、仕方のないことなのだと思う。生まれもった性質は変えられない。生まれもった性質は変えられないのだから「そんなあなたが大好きよ」と言ってくださる方々と親交を育み、そんな方々と共に『愛』と『感謝』の素晴らしい日々を過ごして行けばいいのだと、諦めると同時にちょっと清々しい気持ちになりながら生きている日々です。
好きなように生きなさい。
最近、自分の中にいる謎のおかまさんキャラクターが妙に顔を出す。彼女(彼?)は、定期的に登場しては「うだうだ言ってないでやんなさいよ」と言う。誰かに勝つためにやるとか、誰かに認めさせるためにやるとか、誰かに好かれるからやるとか、誰かに嫌われるからやらないとか、まだ時じゃないだとか、いつか時が来るだとか、そんな貧しいことを言ってないで、あんたが好きなことをやりなさいよ。好きなんでしょ、それが。やりたくなったんでしょ、それが。だったらさあ、うだうだ言ってないでやんなさいよ。玉砕覚悟で行きなさいよ。人生、それからでしょ!!と、叱咤激励をする。
私はおかまさんに励まされる。お、おう、そ、そうだよな…!!みたいな感じになる。タイ王国での数日間を経て、いったいこれで何度目になるのだろうかという着地点を見出す。それは「人生とは、自分を楽しませることである」という毎度お決まりのフレーズであり、それは「好きなように生きなさい」と導く神様のお告げだ。金を稼ぐとか、夢や目標を達成するとか、愛されるためになにかをするとか、多分、そんなことはどうでもいいのだと思う。自分以外の何者かになることは、大袈裟な言葉で言えば自殺と同じ。生きるとは、誰かの期待に応えることでもなければ、何かを成し遂げることでもない。生きるとは、純粋に自分らしく楽しむことであり、生きるとは、他の誰でもない自分自身を楽しませることである(と思う)。
おかまさんは言う。みんなの期待に応えるとか、無理だから、きりがないから。これからはもうAIとかバイオテクノロジーとかの大躍進で、医療も教育も科学も経済も哲学も宗教も建築も食も性も街も人間の寿命も働き方も家族の在り方も全部ぜーんぶ変わるから、ね、誰かが決めた価値観に縛られたりするんじゃなくて、見えない誰かと比べて自分をすり減らしたりするんじゃなくて、もう、素直に自分が楽しめることをやるのが一番だよね。自分が気持ちよくなれること。自分が真っ直ぐに「これが好き!」って言えること。それしかないと、あたしは思うよ。と。私は「ああ、まったくもってその通りだなあ」と同意をする。好きなんでしょ、それが。やりたくなったんでしょ、それが。だったらさあ、うだうだ言ってないでやんなさいよ。おかまさんの声は厳しい。が、しかし、厳しいと同時に常に優しいのである。
自分の予定帳を眺めながら「人生とは、自分を楽しませることである」ということを思った。自分を楽しませることができていない時に、人間は苛立ち、他人と比較し、未来に不安を覚えたりする。川本真琴風に言えば神様は何も禁止なんかしていないし、ほんとうは「何をしてもいい」のだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2016年9月11日
坂爪さん、おはようございます(⌒‐⌒)
「生活は祈り」のツイキャスをいま、30分くらい聞いたところでメッセージしているので、もしかしたら失礼な内容になってしまっていたらすみませんm(__)m
私は小さいときに、メーテルリンクの青い鳥という本を読みました。
はじめて、絵本ではない本を読みきった、子供ながらに達成感があり記憶に残っています。想像の世界での青い鳥は、それは鮮やかで美しく、一緒になって青い鳥を追っかけていたことが、まだ心の片隅に残っております。その頃の記憶で、それ以降読むことがなかったので、内容が本当のことなのだかわからなく、完全に間違った内容かもしれません。。m(__)m(これを機に今日にでもゲットして読もうと思います)
亡くなったたぶんおじいちゃんだかがでてきて、普段はロッキングチェアで眠っているのだけど、あなただちが思い出してくれたときだけ、目を覚ますんだよと伝えるんです。
ちゃんと考えると、赤ちゃんで亡くなる方もいたりなので、おかしなことなのかもしれないのだけど、その当時は『死』というのは、年をとった順番にと思っていた頃なので、すんなり心に入ってきたようで、それからずっと、今も、なくなってしまった私の大切な人たちを思い出すたび、あちらで目を覚ましているのかな?なんて、本気で思っています。宗教的なことではなく、物語なので完全に思い込みなのですが(笑)
それでも、ずっと信じて私は話しかけたりしています。
マザーテレサも「愛の反対は憎しみではなく無関心です』といっていますが、どの世も、自分のことを思い出してもらえる、自分に目を向けてもらえるってかけがえのないことだなと思いました。みんな自分をみていてほしいんですよね😄
なんだか、朝から久々に心の中がスッと言葉にできた気がします。
長々とすみません。
今日のスイッチが入ったー!!可愛く咲きます。
よい1日を☆
人生とは、自分を楽しませることである。。 #thai #pai #lifeisgood
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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すべての言葉は遺言のように。
もし、明日死ぬとしたら、
いま、自分は何を語るだろうか。
もし、目の前にいる相手が、
明日には消えてしまうとしたら、
いま、同じ言葉を語るだろうか。
もし、明日生まれるこどもたちに、
ひとつだけ言葉を遺せるとしたら、
自分は、どんな言葉を遺すだろうか。
すべての言葉は遺言のように
生きることが、できているだろうか。
すべての言葉は遺言のように。
こんばんは。
大阪に住む大学生の○○○○と申します。
いつもありがとうございます。
今回は、先日の番組(ツイキャス)でのお話に対して感想?感じていること?を改めてお伝えしたいと思い、メール致しました。
「祈る」ということについてのツイキャス後、じっくり自分なりに考えてみているものの、やはりまだ難しいです。
私は、自分自身が今「相手のために何かする」または、「自分のために何かする」の2つの視点しか持っていないと思います。
しかし、「祈る」ということは、このどちらでもないような気がします。
「相手のため」ではありますが、「自分のためじゃなく、相手のために価値を与える行動をしましょう」といったような、よく言われる分かりやすいものではなさそうです。
また、テイクではなくギブをしましょう、ということもしばしば耳にしますが、「祈る」ことはテイクはもちろん、ギブでもありません。
行動をギブかテイクの軸で考えている限り、理解できないことなのかもしれないです。
「祈る」について"分っかるー"ってなるかどうかで、自分のこれからが大きく変わるような予感があります。
しかし同時に、本来はシンプルなものであるものの、答えを求めてる内はいくら考えても分からないものかもしれません。
このなんとも言えない思いをお伝えしたく、自分の中ですらまとまっていないことをまとまってない文章にしてしまいました。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
これからもツイキャスやブログを楽しみにしております。
よろしければ、また感じたことを送らせていただきます。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
誰かのために祈るということ。
2014年からおよそ2年間、家のない生活を過ごしました。漫画みたいな日々のあれこれを、この度、一旦音声配信でまとめました。きっと面白がっていただける気がするので、是非、時間のある時に聞いてみてください。毎晩日本時間22時から、リアルタイムのツイキャス音声配信も引き続き行なっています。日本を離れて10日目。ようやく、ようやく執筆活動をはじめることができました。書く、食う、寝るのシンプルな日々の中で、さて、いったいどのような本が出来上がるのでしょうか・・・!!
前回の記事で「好きなひとに好きだというために生きている」と書いて、ああ、まったくもってその通りだなあと感じました。これは「どうだ!こんなことを言える俺はすごいだろう!」ということが言いたいのではなく、自分と言葉を切り離して、ただ、この言葉だけを眺めてみた時に「ああ、いい言葉だなあ」と思えるときのあの感覚。それは、夕日を見ながら「綺麗だね」と言っている時の感覚と似ている気がします。夕日は自分のものではないけれど、夕日を綺麗だと思う感覚は自分のものであり、また、その感覚は他のひとのものでもあるということ。私たちは、もしかしたら『同じ気持ちになりたくて生きている』のではないだろうかと、だからこうして言葉を綴ったり、ツイキャス配信をするのではないだろうかと、そういうことを思いました。
おまけ動画『パーイの街並みをあなたと。。』
小さな我ではなく、大きな我を生きる。
昨夜のツイキャスで「雑誌などでは愛されるための方法ばかりが紹介されるが、愛するための方法が紹介されることはない」という話をした。これは何も、愛に限った話ではない。どうすれば成功できるか、どうすれば収入が増えるか、どうすれば美しくなれるか、どうすればフォロワーの数が増えるか、など、全部同じことだと思う。これらは「自分のことばかりを考えている」という点で共通をしているように思う。私は思う。自分のことばかりを考えているひとが、真の意味で愛されることなどあるのだろうか。愛されるひととは、つまるところ「愛することができるひと」なのではないだろうか。
空海の話をした。多くの宗教が禁欲的であるなかで、密教は「人間だから我を捨て去ることも欲を捨て去ることもできない。だからこそ、どうせならば小さい我を生きるのではなく、大きい我を生きてみろ。小さい欲で満足をするのではなく、人類全体が幸福になるような、大きい欲を生きてみろ」的なことを言う。この、我欲に対して肯定的な密教が好きだという話をした。が、結局、密教もそれ以外の宗教も、つまるところは「小さい我ではなく、大きい我を生きろ」という点において共通しているのだと思う。自分にとらわれるのではなく、自分を一回消すことで、自分を一回越えることで、より大きな「人類全体の命」を生きることができるのだと、そのことによって自分が活きていくのだと、そのなかにこそ自由はあるのだと、そういうことを説いているように思う。
欲求不満とは、要するに「なにかをしてもらえなかった記憶の蓄積」なのだと思う。そして、欲求不満は「より多くを得ること」では埋まらないものだと思う。得ることではなく、自分から与えることによってそれは解消をするものだと思う。誰かに与えることを通じて、ああ、なんだ、それははじめから自分のなかにあったのだということを知る。しかし、それを知るためには「他者の存在」が必要になる。自分のことばかりを考えているうちは、自分の真価が発揮されることはない。あらゆるものの真価は、それを受け取ってくれる誰かによって与えられるものであり、芸術作品と呼ばれるものも「それを見てくれる鑑賞者がいることによって」はじめて、作品として完成をするのだと思う。
誰かのために祈るということ。
昔、まだ家のない生活をしていた頃、ボロボロの状態で京都の街をさまよっていた。三十三間堂という大量の仏像がずらっと立ち並ぶ御堂が好きで、その場所に足を運ぶも、ボロボロの精神状態が癒されることはなかった。が、仏像の羅列を抜け、堂を出たところに立てかけられていた小さな看板が目に入った。そこには「大切なひとのために祈りましょう」と書かれていて、私は、この言葉を目にした瞬間に「うわあああああああああああ・・・・・・」という、どうしようもなくやるせない気持ちになった。
ボロボロになって疲れていた私は、ボロボロであることを言い訳に、自分のことばかりを考えていた。どうすれば自分を癒せるか、どこに行けば自分を元気にしてくれるものがあるのか、など、自分にとってメリットのあるものばかりを探していた。が、この看板を見た瞬間に「ああ、俺は自分のことばかりを考えていたから疲れていたのだな」と思った。涙が出そうになるほど自分を恥じて、そして、自分自身を思い直した。ボロボロな自分にも、最後の瞬間まで残されていることがある。それは「誰かのために祈ること」だ。そう思い、自分にとって大切なひとの存在を思い浮かべた。そして、そのひとが幸せであることを願った。ら、不思議なことに、先程までの疲れが緩和をしている自分に気が付いた。私は、なにもできない自分に疲れていたのであり、誰かのために「自分にもできることがある」と思い出したことで、生きる力を取り戻したのだと思う。
この世で一番崇高な行為は「祈る」だと思う。どのような状態に置かれても「誰かのために祈る」自由は、あらゆるひとに残されている。引きこもりのひとも、寝たきりのひとも、元気がないひとも、自信がないひとも、自分には価値がないと思っているひとでさえも、誰かのために祈ることならば、この瞬間からできる。私は思う。仕事には、多分、二種類ある。世の中で言われている「生活の糧を得る」という意味での仕事とは別に、もうひとつの仕事がある。それは「祈りを具現化したもの」だと思う。私にとって、仕事とは「そのひとの祈りを具現化したもの」だ。今、私は、徐々に原稿を書き進めている。自分に捕まらないように、つまらない我や欲にとらわれそうになったときは、おまじないのように繰り返している言葉がある。それは「お前の祈りはどこにあるのか」という問いだ。いま、自分が書き進めている本が、無様でも、不器用でも、自分なりの祈りを具現化したものになればいいと思う。
自分は必要のない人間だと感じた時、同時に、そんな自分でも「誰かの幸せを願うことはできる」と思った。愛するひとの幸せを願う時、心の空白は埋まる。さみしいとか、悲しいとか、しんどいとか、苦しいとか、「自分の」感覚が消える。愛とは、自分の命を、自分以外のものに注ぐ行為なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2017年10月8日
先日初めて坂爪さんのキャスを聞きました。
そしたらまさかの恋愛話の会で、赤裸々なトークが楽しかったです!次の日のキャスも聴きました。
私が坂爪さんを知ったのは高校生の時だったと思います(現在21です)。その時に、まさに「よろしくやってんじゃねーよ理論」などの記事を読んだ記憶があります。先日のキャスを聴いてまさに思い出しました。
その当時の私は、「世の中にはこんな人もいるんだ」「自由で楽しそう」「なんかすごい人」「日本に1人しかいなさそう」「自分が男だったら憧れる生き方だ」などと思っていましたが、憧れるけど別世界の人、という目線で坂爪さんのブログなどを時々読んでいました。世の中には坂爪さんのような人もいるとただ「知っている」だけでも、目の前の現実に対して、心にひとつ逃げ場所・選択肢ができたような気になっていたのだと思います。
それから自分の進路に進み、目の前の忙しさなどに追われ、坂爪さんのブログなどを読む機会もすっかりなくなっていました。
しかし高校卒業後色々な場所に属すも、どこか不安で、自分の人生がうまくいかなくなり、空回りばかりし、ついには引きこもるような形になってしまいました。(色々な要因が重なったと思いますが、トータルで自分の人生を見失ってしまいました)
そんな日々の中で、時間の経過に少しずつ心を癒されながら前向きさを少し取り戻し、ツイッターなどをやる(見る・自分の思いを吐き出す)余裕も出てきました。
気づいたら再び坂爪さんのツイッターなどをフォローしておりましたが、やはりどこか「自分とは最初から色々違う、すごい人」と思っておりました。
でも、先日キャスを初めて聴いた時、赤裸々な恋愛トークなどを聞いて、「坂爪さんも同じ人間なんだ!」ととても親近感が湧きました。
坂爪さんはキレイに生きれてるイメージでした。悟っていて、強くて、色々と乗り越えるような。(本当に勝手にそう思っていたのですが)
だけど坂爪さんにも弱さがあり、葛藤があり、同じ人間なんだ!と思えるようなエピソードを聴き、今まで坂爪さんという人を何年も誤解していたことに気がつきました😱笑
次の日のキャスでも、坂爪さんのお話を聞けば、ワクワクし、自分のタメになる!!!楽しい。
私は不思議でした。高校生の時、異世界の人と思っていた坂爪さんが、数年後こんなに親近感の湧く存在になるなんて。
人生って繋がっているんだなぁ、なんて思ってしまいました。
とりあえずキャスを開いて頂きありがとうございます!私にとってはあの坂爪さんが!身近に感じられてとても嬉しいです。タメになります!
ブログも、美しくて、気づきがあり、涙が出そうになります。更新ありがとうございます!!
すみません、
しどろもどろな文章になりましたが、
嬉しかったので送らせて頂きました!✨
何かしらが伝われば、幸いです^ ^
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
好きなひとに「好きだ」と言うために生きる。
男は女に振られると人生が変わる説を、実体験を振り返りながら検証した結果「おおいにあると思う」という結論に達した。わたしの場合、20歳の頃に彼女に振られて大学を辞めてホストをはじめ、24歳の頃に彼女に振られて躁鬱病と統合失調症の最悪期に突入をして、27歳の頃に彼女に振られて「家のない生活」に突入をした。男性のみなさま、あなたの人生が大きく動き出したのは「彼女に振られたこと」がきっかけだったりしませんか??今度、よかったら、そんな話を聞かせていただけたらうれしいです。
男は女に振られると人生が変わる
昨夜のツイキャスは恋話になった。恋愛は難しい。わたしは33歳になるのだけれど、いまだに「付き合うってなあに??人間は人間を所有できるものなの??」などと思う。自身の恋愛観の変化を感じる。昔は、たとえば学校に行けばまたあのひとに会えルンルン的な高まり(毎日でも会いたい気持ち)を感じていたけれど、徐々に「あのひとがあのひとであるように、俺も俺も生きよう。各々が各々の人生を生きることこそ重要であり、必ずしも毎日のように会う必要はない」などと思うようになった。
あなたと出会えたことで、より、自分は自分を生きることができる。このような気持ちになる。書きながらわかった。昔は「好きなひとと一緒にいる時間」こそが大事だと思っていたけれど、徐々に「不在の時間も、実在の時間も、同じように大事である」と思うようになったのだと思う。好きなひとができることの最高のよろこび、最高の感謝、それは「こんな気持ちにさせてくれてありがとう」的な言葉で表現できると思う。誰かを好きになることの尊さは、対象である誰かだけに向けられたものではなく、誰かを通じて「新しい自分を発見すること」にある。自分の中にある、まだ、掘り出されたことのない泉を掘り当てたようなうれしさがある。
新川和江「わたしを束ねないで」という詩がある。
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃(はばた)き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注(つ)がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮(うしお) ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
この詩に共鳴を覚えるひとは少なくないように思う。誰だって、誰かや何かに縛られることよりも、自分が自分であることを尊ばれたいのだと思う(ような気がする)。究極の愛があるとすれば、それは「あなたが生きているだけで嬉しい」と思う心の働きではないだろうか。何かしらの役割をこなしてくれるからという条件付きの好きではなく、ただ、あなたが生きているということが自分の心に大きな充足を与えてくれる、そのことに対する感謝。など。綺麗事に聞こえかねない我々の恋愛観を、具体的なエピソードを交えつつ話しました。寝る前のお供に、聞いてみていただけたらうれしいです(おすすめの聞き方は、通勤途中や料理中、散歩中など、動きながらのイヤホンです!!)。
好きなひとに「好きだ」と言うために生きる。
カリオストロの城のインタビューかなにかで、宮崎駿監督が「ルパンは、命懸けでクラリスを助けるものの、クラリスと付き合うとかクラリスを連れて行くということをしない。それは、ルパンが『クラリスを背負うことはできない』ということを知っているから。それに対して、峰不二子に対しては『背負う必要がないから』安心をして追いかけることができる。だから、映画の最後は、ルパンが懲りずに峰不二子を追いかける場面で終わる」みたいなことを話していたのだと聞いた(又聞きでごめんなさい)。
これはなんだかものすごいわかる話だと思った。誰もが、いま、多かれ少なかれ「何かを背負いながら」生きているのだと思う。それは家族であったり、職場の責任であったり、人間関係のあれこれであったり。それが大人になるということであり、どれだけ広範な範囲を背負うことができるのかが人間の器を決めるのだ、という言説も耳にすることがある。が、極論、人間が背負うことができるのは「自分」の人生だけであり、誰かが、誰かの人生を背負うことはできないのではないだろうか。愛という言葉を言い換えるならば、それは「そのひとがひとりでも生きていけるようにすること」ではないだろうか。
書きながらいろいろわからなくなった。なぜ、原稿はまったく書けない癖にブログになるとこんなにも書けるのだろうか。それは「気楽」だからだと思う。ということは、わたしは、原稿を書くという行為に「勝手に重荷を感じている」ということになる。この「勝手に重荷を感じている」というのはあらゆることに言えるような気がして、生きるということも、ひとと付き合うということも、自分が勝手に重荷を感じて勝手に重荷を背負ってしまっているだけのことなのかもしれない。恋愛は不思議な営みだ。しかし、誰かを好きになるということほど尊いことはないように思う。関係性に名前を与えない勇気。最近は、そんなことを考える。自分は自分であり、あなたはあなたである。それだけで、もう、充分なんじゃないだろうかと思う。なぜ生きるのか。それは「好きなひとに好きだと言うため」だと思う。生きたいと思うこと、それは誰か【なにか】を好きになることだ。なにかを好きになる自分を通じて、世界【自分】は捨てたものではないのだと、好きなものがあるこの世界を、もっと生きていきたいと感じるのだと思う。
生きることではなく「生きたいと思う」ことの方が、多分、何億倍も大切なことだと思う。生きるためではなく、生きたいと思うために必要なもの、それは「好きなひとに好きだと言うこと」だと思う。自分の好きなもの、自然、音楽、自分が好きだと思えるひとの存在が、生きたいと思う力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2017年5月25日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
損得勘定よりも「美しい」道を。
まだなにも書かない自分を鞭打つために禊ぐ。滝。滝に打たれると「はわああああああ!!」と声が出る。目が覚める。この声が出ちゃう感じがいいのだろうなと思う。出すと元気になる。出さないと停滞をする。昔、重度の鬱病患者だった男性から「きこりに同行して、巨木をチェーンソーでなぎ倒したら一瞬で回復した」という話を聞いた。わかるような気がする。鬱病になったら滝行をすればいいのかもしれない。滝に打たれた今日はなんだか生き切った気がしてしまって、結果、いまは極めて風光明媚なカフェでまったりしている。アイスコーヒーが美味しい。明日から本番がはじまる。
時代が、お金に代わる価値観を見出せないでいる。
昨夜のツイキャス配信のなかで「時代が、お金に代わる価値観を見出せないでいる」という話をした。昔、なにかの本で「好きでもない仕事をやりながら、同時に、それを失うことを恐れている」という記述を読んだ。当時、わたしは見事にやりたくない仕事をしながら生きながらえていたので、その記述を読んだときは「わっかるぅ〜!」と猛烈に共感した。嫌いな仕事をやりながら、同時に、それを失うことを恐れている。なんという皮肉。なんという軋轢。ちょっとピンと来ないぞという方は、人間関係に置き換えるとわかりやすいのかもしれない。好きでもない人と付き合いながら、同時に、そのひとを失うことを恐れている。これは、ちょっと、思い当たるひとも結構いるのではないだろうか。
誤解を恐れずに言うと、いま、時代は新しい価値観を求めているように思う。生活のためにお金は必要、だから嫌な仕事でもやらなくちゃいけない。これは、これまで、結構常識とされてきた考えだと思う。でも、その反面で「いつまでこんな生活をしなければいけないのか!」とか「自分はなんのために生きているのか!」と、こころが痛切な叫び声をあげているひとは少なくないと思う。少なくとも、過去の自分のこころは、こんな感じの悲鳴を毎日あげていた。金のために生きるなんて虚しい。もっと、なにかこう「全人間的に生きることはできないのか」と、そんなことを思いながらも突破口を見出せずにいた。
これまでの世界にとどまるのか。それとも、自分が見たいと思う世界に踏み出すのか。もしも後者を望むなら、経済的な安定を求めることはおかしい。なぜなら、経済的な安定とは「これまでの常識のなかで安定した生き方を獲得すること」であり、なんと言えばいいのだろうか、結果的に「経済的には安定するけれど、精神的には安定しない」日々が続くように思う。先が見えないと言えばいいのか、生き方として苦しいと言えばいいのか。では、精神的な安定を、我々はどこに見出せばいいのだろうか。と、こんな感じの話をツイキャス配信で話しているので、興味のある方は聞いて見てください。
道に迷った時は、損得勘定ではなく、自分の心が「美しい」と思う道を選ぶこと。
なにか新しいことをやろうとするとき、必ず、それを阻害する出来事が起こる。通過儀礼みたいなものだ。これは、言い換えるならば「従来の常識に引き戻そうとする力」だと思うのだけれど、この時、どう動くかが正念場だと思う。引き戻そうとする力に打ち負けて、従来の常識に舞い戻るのか。それとも、引き戻そうとする力を「うがががががー!」と振り切って、自分はこの道を生きるのだと決断するか。みんなと同じで安心をするか。それとも、自分は自分であることの誇りを優先するのか。岐路だと思う。
新しいことをやりたいと思うのならば、最初はどうしたって少数派になる。理解されるよりも理解されないことの方が多くなる。が、無理解であることは「間違いじゃない」と思う。むしろ、無理解こそがパイオニアにだけ与えられる栄光の光だと思う。だからこそ、無理解を嘆くのは違う。無理解に対して憤ることも違う。新しいことをやりたいと思うなら、尽力すべきは「理解されることに力を注ぐのではなく、実際にそれを実現してどや顔を決め込む(「これが未来です!」と目に見える形で提示をする)ことだと思う。
道に迷う時は、損得勘定ではない、自分の心が「美しい」と思う道を選ぶこと。潔い、清々しい生涯を送りたいと願うのならば、もう、これしかないんじゃないのかなと思う。昨夜のツイキャス配信後、とても嬉しい感想をいただいた。我々のような人間でも、ただ、生きていることが誰かの力になるのであれば最高に嬉しい。これからも生きていきたいと思う。できることならば、自分の心が「美しい」と感じる道を。金になるからやるだとか、認められるためにやるだとか、無難にまとめあげるためにやるだとか、それだけの動機で動きたくない。高次な次元、精神性の光。愚かだと笑われても、お前は間違っていると後ろ足で砂ばかけられても、それでも尚、自分の心が「美しい」と思う道を歩くこと。その先にこそ、潔い、清々しい生涯は待っているのだと思う。
昨日のキャス、ありがとうございました。
仕事を3月で辞め、それから1か月半、人との出会いがあったり、知らなかったことを知ったり、仕事してたときには一週間、1ヶ月単位で見てた人生を、本当に一日一日、一瞬一瞬感じていることはちがうんだなぁと、当たり前のようで全然実感できていなかったことを感じる日々です。
だけど不安もやっぱりあって、人と会ってると楽しかったけど家に帰るとなんかめっちゃ落ちることもあったり。
だけど昨日、坂爪さんと保科さんが言ってくださったことがなんか、なんかすごく腑に落ちて、今朝起きるとすごくすっきりしていました。
一言でいうと、「なーんだ!」っていう感じです。笑
なーんだ、そんなことだったんだ~!みたいな。
起きて、ちょっと体を動かして、なんか書きたくなったのでノートを開いて浮かんだ言葉を並べると、あー自分は、別になにってしなくても、自分といられるだけで、自分として生きているだけでめっちゃ嬉しいんやな~って言葉が並びました。
いつもありがとうございます!
日本も今日はとても晴れてて、空が青いです(*^^*)
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
本当にやりたいことをやるためには、一回、ひとりきりになる必要があるんだ。
野口英世も夏目漱石も、一応、千円札にはなっているものの「意外と不真面目な生涯をおくっていた」ことを知ったときはうれしかった。野口さんは、留学資金をすべて飲み代に使い果たし、夏目さんは東京大学にカンニングで合格をしている(らしい)。意外とアウトローと言うか、なんだか「こういうのはいいなあ」と思う。執筆に専念すると宣言して5日目、まだ、なにも書いていない自分を肯定する要素ばかりを探している。
朝仕事。昼遊ぶ。夜は早く寝る。これが理想の生活だけれど「朝遊び、昼遊び、夜も遊ぶ」になっている。これではいけないのかななんてちょっと思ったのだけれど、否、こうでなくっちゃ!と思った。雪国生まれのわたしは、なにかあるとすぐにナイーブになって深刻になり過ぎてしまう。書きたいと思ってはじめたことも、いつの間にか「書かなければならない。書かない自分には価値はない」と思い込み、死ぬ。違う。この世の中にこうでなければいけないことなんてひとつもない。生きなければいけないとか、そんなこともない。生きることよりも「生きたいと思うこと」が大事なのだと思う。
自分の立場を明確にする。
わたしは容貌が軽くキリストに似ているから「あなたは聖者ですか?」と思われてしまうことが定期的にある。期待をされると裏切りたくなるので、崇拝をされかけたときは「わたしはあなたが思うほどホワイトではありません」と言うようにしている。が、最近、そういうことをあまり言っていなかったので毒素が体内に蓄積してしまった。ので、保科さんにお付き合いいただいて「毒出しツイキャス」を毎晩配信するようになった。
趣味で無料でおはなを配ったり、逢初庵やごちゃまぜの家(誰でも無料で寝泊まりできる空間みたいな活動)をやっていると、ああ、さかつめさんは本当に素晴らしい人格者ですねと言われてしまう。素晴らしくないこともないのだけれど、言うほどできた人間ではないので、宿泊予定者の方が「やっぱり今回はやめまーす♪」みたいな感じの適当な連絡をしてきたときは、ああ、お前のそういうところがそういうところなんだぞ、と思いながら「今後は生半可な気持ちで連絡をしないでください」と思ったり実際に伝えたりしている。
動物占いだと「ネアカの狼」になるわたしには、極端な身内びいきをするという特徴があるらしい。その記述を読んだときは「わっかるぅ〜!」と熱烈に肯首した。誰でも自由に使える家をやっていると、まれに変な人が来る。「ここは自由に使える家なんですよね〜♪」とか下劣な口調で言いながら突然押入れをあけて布団を敷きはじめるひともいるのだけれど、わたしは「お前が自由であるように、おれも自由であることを忘れるなよ」と言わんばかりに出て行けオーラを醸し出す。わたしはなにがやりたいのだろうか。なぜ、このような性格なのに誰でも自由に使える家などをやっているのだろうか。多分、それは「それをやっていなかったら、絶対に出会うことのなかったひと」に出会うための罠なのだと思う。めちゃめちゃいい感じのひとが来てくれたときは、もう、あなたに出会うためにこれまでの日々はあったのですと言わんばかりに優遇をする。
本当にやりたいことをやるためには、一回、ひとりきりになる必要があるんだ。
今日こそは執筆活動に専念をしたいと思う。なんのために日本を離れたのか。それは「日本に執着を置いてくるため」だったのではないのか。日本にいると、どうしても隣人の存在や人間関係のごたごたに巻き込まれる。電話だってかかってくるし、メールもラインも頻繁に届く。たとえひとりきりでいたとしても、すぐ近くに「だれかの息吹(他人の存在)」を感じてしまって、なにかこうこころが騒々しいことになってしまう。物理的に距離を置くことで、祖国に執着を置いていく。
わたしは、わたしから生まれ出るものに興味があるのであって、誰かの発言やアクションに対して「ただ、反応をしているだけの自分」から生まれ出るものには興味がない。が、どうしたって刺激が多い環境のなかにいると「反応している間に人生が終わってしまう」ような危機感を覚えるようになり、日本を出た。ら、執筆活動に専念できるだろうと睨んでいたら遊び続ける日々を過ごしている。今日、やっとブログを更新できた。1日進化。あとはこの流れに乗って執筆活動をああだこうだすれば一冊の本ができる。5日間の日々を経て、ようやく、肩肘に張っていた力を抜くことができた気がする。今日から本番だ。今日から本番だと言いはじめてから5日が流れた。
タイのパーイ は天国みたいな場所だ。明け方のスコールを経て昼間の空は青く晴れ渡っている。日中の気温は30度を超えるが、朝と夜は長袖がいるほどに涼しい。物価と人口密度の低いハワイという感じだ。前回の記事で出版の話がなくなった話を書いた。ら、非常にありがたいことに「そうこなくっちゃ!」と言ってくださる方からご連絡をいただいた。それがあまりにもうれしかったので、最後に引用をさせていただきます。野口英世も夏目漱石も、意外とアウトローであったこと。アウトローでも日本のお札になることができるのだということ。これは素敵な話だと思う。やりたいようにやるということ。生きたいように生きるということ。それでなにかを言われることがあったとしても、大丈夫、最後にはみんな死ぬ。好きなように生きても、いやなことをいやいややって生きても、最後にはみんな死ぬ。死ぬ。行く道は違えど、行く先はみんな同じだ。
本当にやりたいことをやるためには、一回、ひとりきりになる必要があるんだ。誰かのためじゃない、誰かに言われたからじゃない、誰かにお願いをされたからでもなく、誰かに認めさせるためでもない。ただ、自分が自分であるために、ひとりきりになる勇気が必要になる時期が、誰にだってあるのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年5月21日
坂爪圭吾様
こんにちは。
>正直に「 編集者のあなたと仕事をしたいとは思いません。あなたがあなたであるからこそ、なにかを一緒にやりたいという気持ちになるのだと思います 」と伝えたら、終わった。
このくだりで思わず『 よっしゃ!』と思わず膝をぽんと叩きたくなるほど嬉しくなりました^^♪
いや、出版の話が立ち消えになったことが、ではありませんよ。
一番大事なところに妥協せずに一歩進まれた坂爪さんの天晴れさに、です!
坂爪さんの文章はもちろん間違っても自己啓発というカテゴリーに属すものではないと思いますが
たしかに敢えて既存の『 書物におけるカテゴリー 』の中で探せば坂爪さんの仰る通り 詩 なのかも知れません。
けれども、私は常々思っていたのですが、坂爪さんの文章は毎回読み終わった後に
まるで素晴らしい交響曲をナマで聞いた後のような感覚を得ることが多いのです。
第一楽章、第二楽章、第三楽章といったような流れがあって。
まるで〇〇の作品のような・・・と作曲家を挙げようと思いましたが
坂爪さんの文章ではもう坂爪さんのカラーが色濃く凝縮して独自の世界観が強く確立されているので
的確な例を思いつきませんでした。
確かに文章なのだけれど、私から見ると完全に音楽に属するものです。
私から見るとショパンやベートーベンと坂爪さんは同じカテゴリーの人なんです。
ただ表れ方が、楽譜に書いて音の流れになるのか、日本語を連ねて文にするのか だけの違いで
やっていることの本質は全く同じに見えます。
書籍化が実現するにしても、坂爪さんのカラーがベストな形態で世に出る方法は必ずあると思いますし
そのチャンスは必ず来ます。
それが実現するまでの過程も私は楽しみです^^!
では!
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
あなたはわたし理論。俺の旅は、お前の旅。
小学校時代は野球部で、バットをぶんぶん振っていた。大人になってからは人生を棒に振り続ける日々を過ごしている。せっかく本を出せる貴重な機会をいただいたのに、再び棒に振ってしまった。理由は108個くらいあるのだけれど、編集者の方が編集者の方でしかなかったので、正直に「編集者のあなたと仕事をしたいとは思いません。あなたがあなたであるからこそ、なにかを一緒にやりたいという気持ちになるのだと思います」と伝えたら、終わった。
【坂爪圭吾の取り扱い説明書】あなたのキャラは?
これまで何度も出版の話はあった。が、どうしても自己啓発にまとめられる(売れ線を狙う)ことが嫌で辞退をしてきた。別に、自己啓発書の棚に並べられることに問題はない。自分の言葉がどんな風に読まれるかにこだわりはない。ただ、自分のなかに「自己啓発書を書きたい」と思う気持ちは微塵もない。あんなものは大嫌いだし、害毒であるとさえ思う。それならば、自分はなにを書きたいと思っているのだろうか、と考えた時に「詩」という言葉が頭をよぎった。私は、それが従来の意味や形式とは異なるものであれ、詩を書きたいのだと思う。このブログも、詩を書いているつもりで書いている。
家を使ってください。
出版の話がなくなったいま、もう、自力で書き上げるしかない(本当は誰かと一緒に作品を作るという体験をしてみたかった)のだと思う。書きあげるまでは日本に帰らない、くらいの気概で書きあげたい。日本で使っている熱海の家【逢初庵】は、現時点では無人になります。もしも使いたい人がいたら、どなた様でもお気軽にご連絡ください。この家は最高の家だと思います。謙遜なんてできません!使い方次第では、地上の楽園になると思います。以下に紹介動画を貼っておきます。
横浜のごちゃまぜの家も、宿泊希望者を受け入れております。布団の数の関係上、事前にご連絡をいただけたら幸いです。遊びに来るだけなら誰でもいつでも問答無用で立ち寄っていただいても構いません(最近まで一旦予約制にしておりましたが、リニューアル期間を経て、再度開放をすることになりました)ので、奮ってご活用ください。私自身は、これからタイに向かうのですが、タイでもシェルター【ごちゃまぜの家もどき】をつくれないものかと考えています。執筆活動における自身の集中力は1日3時間が限界になりますので、それ以外の時間は、家探しに邁進をしたいと思います。
5月21日、保科さんと合流する。
生活必需品をカバンに詰めて旅に出る。生きるために必要なものは、それほど多くはないのだなと思う。食べるものがあって、着る服があって、寝る場所があれば、人間は生きていける。他人の目線さえ気にしなければ、生きることは決して難しいことではないのだと思う。逆に言えば、他人の目線、それはひとから嫌われないことであったり、ひとと合わせてしまうことによって、余計な荷物を背負い込み、余計なストレスを背負い込み、人生はどんどん重く複雑なものになってしまう。旅がいいのは、そういう、生活の中で身にまとってしまった見栄やプライドなどの余計な垢を、削ぎ落としてくれることにあるのだと思う。重く複雑な人生を、軽くシンプルなものにしてくれることにあるのだと思う。
あなたはわたし理論。俺の旅は、お前の旅。
いまから8年程前のある時期。私は、人生で一番最悪の時期を過ごしていた。毎日、死ぬことばかりを考えていた時期、ふと、窓から外を眺めるとひとりの老人が歩いていた。わたしは、その様子を見て「よく、いままで死なないで生きてこれたな」と思った。わたしには自信がなかった。生きていくために必要なもの、愛も、勇気も、希望も、虚無に立ち向かう意思も、当時の自分にはあらゆるものが欠乏していた。目の前を老人が通り過ぎる。わたしは、彼と同じように年齢を重ねていく自信をもてなかった。よくぞその歳まで、死なないで(自殺をすることもなく)生きてこれたなと尊敬すると同時に、とてもじゃないけれど自分にはできないという絶望的な気分に陥っていた。
【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信
時は流れ、いま、自分は平気な顔をして生きている。8年間の日々のなかで、様々な出来事を通過した。現在の自分の価値観を形成するにあたって、一番大きな役割を果たしたのは「およそ2年間にわたる、家のない生活の日々」だった。家のない生活は、様々な恩恵を与えてくれた。かつて、わたしにとって他人とは敵であった。しかし、いまでは「他人とは味方である」と思えるようになった。かつて、わたしにとって人生とは生きるに値しないものであった。しかし、いまでは「生きるに値する」ものに変わった。諸々の常識や固定観念にとらわれて氷結していたこころを、ゆっくりと溶かしてくれた出来事【ひとは変われるのだと言う実感】を、まとめてみたいと思う。虚無的だった人間が、ひとのやさしさに触れ、変わる過程を描きたいと思う。
もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。
しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら
私は何であろうか。
そして、もし私がいましなければ、いつするのだろうか。
命の境目はどこにあるのだろうか。わたしは、いま、ひとりで「自分の人生」を生きている。しかし、私の人生は「自分だけの人生」なのだろうか。生命に源のようなものがあるとすれば、わたしは、自分の人生を生きると同時に「みんなの人生」を生きているとも言えるのではないだろうか。わたしはあなたの代わりに生きていて、あなたはわたしの代わりに生きている。そんな風にも言えるのではないだろうか。これまでの日々を振り返りながら思う。わたしは、物が欲しかったのではない。わたしは、意味が欲しかったのだと思う。生きていることの意味、生きていくことの意味。当時のわたしは、意味がないことに耐えられず、意味を見出せないことに耐えられなかったのだと思う。意味とはなにか、それは「世界との繋がり」だと思う。この感覚は、多分、この瞬間も変わっていない。生活のためだけに生きることは虚しく、自分のためだけに生きるのは虚しい。世界に、命に、意味を見出すために手を伸ばす行為、それは表面的には無様で醜くなにも生み出さないようなものに見えたとしても、それを『希望』と呼ぶのだと思う。
ひとから嫌われないように生きるほど、自分自身に嫌われる。周囲に合わせて生きるほど、自分自身から遠く離れていく。認められるためではない、馬鹿にされても構わないと思えるその中に、純然なその人自身の美は宿る。罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年2月18日
けいごさんこんばんは🌙
空港や飛行機の中など、もしもお暇な時間ができてしまったらお読み下さいね。
Facebookを拝読しました。けいごさんは今夜から海外へ行かれるのですね。
千利休は忍者だった説は聞いたことがありますが、「多動症だった説」を読んで、ふむふむ実にその通りかもしれないと妙に納得しておりました。
けいごさんは多動症、私は不動症、
今までは、あまりに自分と対局の個性を持つ人に会うとつい「足して2で割ったらちょうどいいのになあ」などと思いがちの私でしたが、いま改めて考えてみるとそれでは「普通×2」という(普通・中庸というのも素晴らしい状態なのですが)没個性的で案外平凡でつまらなくなるかもなぁと思いました。
ここにも【素晴らしき明太子理論(補足・過去にさかつめが「本当はあなたにもこの明太子をお分けできたらとは思うのですが、しかし、あなたはわたし理論で言えば、ぼくが食べることであなたが食べたことにもなります!」と明太子を独占した実話に基づく)】が輝いており、けいごさんは存分に多動症を発揮して色々な方に素敵な影響を及ぼし、私は存分に不動症を発揮して胸に飛び込んでくるものを抱き続けようと、そうやって世界はバラバラに見えてひとつのいのちなんだと、(1ミリも上手く言葉にして伝えることができないのですが)そんなように思いました。
つまりは、私が「ちょっと行動が足りないなぁ」と訳もなく不安になる時、けいごさんを思い出せば「その分もけいごさんがいっぱい動いてるから世の中的にはオッケーだ!!」と元気になれるわけです笑✨
というわけで、ありがとうけいごさん✨
お気をつけてけいごさん✨
行ってらっしゃいけいごさん✨
P.S.戴いたカーネーション、まだまだ元気に綺麗に咲いています🙌大切にしますねー
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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誰かのためにできることなんてない。
松尾芭蕉も一休も良寛も売茶翁も鴨長明も、偉人である前に「多動症」だったのではないだろうか。同じ場所にいることが苦手で、同じ場所にいると『自分と向き合いすぎて自滅する』タイプの人間は、少なくないんじゃないのかなと思う。何を隠そう自分自身がまさにそれで、明日から懲りずに海外に足を運ぶ。今回の目的は、一応「執筆活動に専念するため」と「ごちゃまぜの家@アジアを実現すること」になるのだけれど、もちろんこれらは表面的な口実で、端的に日本を飛び出したくなったからというのが一番の理由になる。
アーユルヴェーダに詳しい方から「あなたは動きすぎる傾向があるから、勇気を出してゆっくりしなさい」と言われた。無性に動きたくなる自分を封じて、数日間、温泉にはいりまくる日々を過ごしていた。タワシで全身をこするのにはまり(ツルツルになります!)、傷口に染み込ませた走り湯源泉に「めちゃめちゃ治癒されている気がする〜!」などと悶絶をしていた。熱海では、人間よりも虫や動物や山川草木と会話をする時間が長い。温泉にはいりながら、ああ、海外で執筆活動をやりたいなあなどと思っていた。ら、編集者の方から「本を出しませんか?」と連絡が届いた。これは神様の思し召しと信じて、明日、東京都内で打ち合わせをする。
安心感と緊張感
前回の記事で「これからとある女性に説教をすることに決めた」と書いたら大反響があって震えた。生きるために必要なもの、それは安心感だと思っていた。いまでもその考えは変わらない。が、これには補足が必要だと思った。安心感と同じくらい、わたしは緊張感のあるものが好きだ。これは「誰かに怒られることを恐れて萎縮をしてしまう」という意味での緊張感とは違う。自分で自分を律するという意味での緊張感、それは「凛としている」とか「高貴である」とか「品性を感じる」などの言葉で言い換えることができるものだと思う。
言葉は恐ろしいものだ。言葉は諸刃の剣で、一方向だけに向けるということはできない。他者に対して向けた言葉は、そのまま自分自身にはね返ってくる。先日、渋谷の街を歩きながら「人間には二種類しかいない」などと思った。それは「生きている人間」と「死んでいる人間」の二種類だ。わたしは、生きようとしている(生きたいと思っている)人間が好きだ。逆に言えば、真剣に生きていないひとを見るとむかついてしまう。自分の人生を投げ出してしまっているひと、自分自身をみくびっているひとをみると、どうしてなのだろう、お前はこんなもんじゃないだろうと説教をしたくなってしまう。この言葉は、間違いなく、自分自身に向けても放たれている。他人を説教する資格が、果たして自分にあるだろうか。自分は、胸を張って「いまを真剣に生きている」と言えるだろうか。誰かに対して向けた刃は、そのまま、自分の胸へとはね返ってくる。
とある女性(名前はよりこさんという)との会話を通じて、ふたつの約束を交わした。ひとつは毎日ブログを書くことと、ひとつは毎日ビリーズブートキャンプをすること。ごちゃまぜの家は文武両道を尊ぶ。頭の問題を頭だけで解決するのではなく、カラダを通じて突破する。カラダを動かしている時間は辛いが、爽やかな汗を流せば、乱暴な表現になるけれど「いろいろなことがどうでもよくなる」と思う。運動は裏切らない。やる前は面倒臭くも感じるが、やったあとに「やらなければよかった」とは絶対に思わない。心身は引き締まり、生きることが楽しくなる。自分との約束を守ることを通じて、見失いかけていた信頼を取り戻すこともできる。少なくとも「自分はやった」と思える達成感を抱くことができる。そして思う。いまのよりこさんの気持ちを真っ直ぐにブログに綴ること、それは「いまのよりこさんだからこそ、寄り添えるひとがいるのだということ」を思い出すきっかけになればいいと、そういうことを思って約束を交わした。
わたり文庫『デミアン』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ヘルマン・ヘッセ著作『デミアン』です。ひとから嫌われないように生きるほど、自分自身から嫌われる。誰かに合わせて生きるほど、自分自身から遠く離れていく。ヘッセは、この小説のなかで「私は、詩作するために、説教するために、絵をかくために、存在しているのではなかった。私もほかの人もそのために存在してはいなかった。それらのことはすべて付随的に生ずるにすぎなかった。各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった」と書いています。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※
鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。
シンクレール、だれかを殺したいとか、なにか恐ろしくみだらなことをしたいとかいう気になったら、きみの心の中でそんな空想をしているのはアプラクサスだということを、ちょっと考えてみたまえ。きみが殺したいという人間はけっして某々氏ではなくて、それはきっと仮装にすぎないのだ。われわれがだれかを憎むとすれば、そういう人間の形の中で、われわれ自身の中に宿っているものを憎んでいるのだ。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない。
だが、シンクレール、見ていたまえ、これはほんの始まりだ。おそらく大戦争になるだろう。非常な大戦争に。だが、それも始まりにすぎないんだ。新しいものが始まる。古いものに執着している人たちにとっては、新しいものは恐ろしいだろう。きみはどうするかい?
誰かのためにできることなんてない。
冒頭で「自分と向き合いすぎて自滅をする」と書いた。今回の療養中(?)も、幾度か自滅をしかけていた。熱海の家の玄関にある椅子に座る。鳥の声を聴きながら読書をする。幸せと言えば幸せなのだけれど、どこかで「このままでいいのか」という気持ちになる。これまでの日々、いろいろなことをしてきたようで、なにもしてこなかったようにも感じる瞬間がある。自分は、与えられた日々を充分に生かすことができているだろうか。その問いに対して、胸を張って「イエス」と言えない自分を見る。おれはなにをしてきたのだろうか。ただ、貴重な時間を、与えられた生命を、一度しかない人生を、無為に過ごしてきただけなのではないだろうかなどと思う。小さな自分、つまらない自分が顔を出す。自分を責めたくなる気持ちにもなるし、ある種の不安を覚えたり、ある種の苛立ちや焦燥感や不甲斐なさを覚えたり、自分を否定したくなる気持ちにもなる。
そしてひとつの確信にいたった。自分を責めたくなる気持ち、不安、自分を否定したくなる気持ち、それは「この瞬間の自分こそ、ほんとうの自分であることを認めたくない」という思いから派生をしていることを思った。私は、私の頬をひっ叩きたいと思った。どこかにほんとうの自分がいるなどと思わないことだ。この、ダサい人間が、自分。この、弱い人間が、自分。この、醜い人間が、自分。この、どうしようもない人間こそが、お前自身なのだと認めてしまえよと、自分の頬をひっ叩きたいと思った。遠くにいる自分の幻想を求めるのではなく、いま、この瞬間におかえる自分自身と共に生きる覚悟を決めろと、自分自身に言い聞かせてやりたい気持ちになった。そして、そう思った途端、これまでの不安や自責の念は嘘のように消え去り、ああ、おれはおれでしかないのだから、おれはこれで生きるしかないんだなというある種の潔さに到達をした。
最近は思う。誰かのためにできることなんてない。自分を真面目に生きることだ。この感覚をうまく説明することはできない。ただ、集合意識と呼ばれるものがあるのだとすれば、わたしたちは、別々の命を生きているのではなく「ひとつの大きな命」を生きているのだとすれば、自分のために生きることが、結果として誰かの力にもなることがあるのだと思う。誰もが、多分、それぞれのベストなアンサーを生きている。自分から見たら「違うだろ」と感じるようなことでも、そのひとにとっては、それが必要な過程であることも多い。誰かを変えたいと願うなら、まず、自分自身を変えること。平和を求めるなら、まず、自分のなかで戦争を終わらせること。他人の生き方にああだこうだと口を出す前に、自分を真面目に生きること。自分を愛するようにしか誰かを愛することはできないし、また、自分を許したようにしか誰かを許すことはできないのだと思う。
誰かの為とか言ってないで、自分の為に生きること。誰かの期待に応えるのではなく、自分の期待に応えること。何かをしてもらうことを待つのではなく、欲しいものは自分で獲りにいくこと。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、その副産物として、勝手に周囲の人々も照らす光を帯びるのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年4月2日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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語られることのなかった思いを、語れ。
根性を叩き直すという言葉はいいなと思う。叩き直すということは「根源はOK」という信頼を感じる。ごちゃまぜの家をやっていると、様々な方々が足を運んでくださる。希望に満ち溢れたひともいれば人生に疲れ切っているひともいる。前回の記事で「家も金も身寄りもいないから途方に暮れている」と話す女性Yさんの話を書いた。Y様は、現在、横浜の家で療養(?)をしている。正直に話すと、いま、わたしはY様に説教をしたいと思っている。このブログを書き終え次第、説教をすることに決めた。
横浜に召喚して諸々の事情を聞いた。リゾートバイトと呼ばれる住み込みバイトを続ける日々を過ごし、伊豆の旅館で働くはずが直前に予定がキャンセルになり、静岡県内で途方に暮れていたと話す。2日間、駅前で(最近は寒く眠ったら死ぬと思って)永遠に立ち続けていたらしい。その前は、新千歳空港で夜を越したと話す。新千歳空港は夜になると追い出される。彼女は、あまりにも寒すぎるものだから電話ボックスの中で立ちながら夜を過ごしたらしい。結果、彼女は3日連続立ち続けることとなり、4日目の夜、いよいよ体力の限界を迎えた頃に「そういえばさかつめさんが誰でも来れる家的なことをやっていたんだった…!!」と思って連絡をくれたのだと話す。
おにぎりと命
ごちゃまぜの家@横浜でY様と合流する。なにもごはんを食べてないと話す。私は「いろいろと半端ないですね!」と不謹慎だけど愉快な気持ちになる。同席をしていたM様が「まー、なにも食べてないの!あとで食べようと思っていたのだけれど、これ、よかったら食べて」と、コンビニのおにぎりとお茶を差し出す。Y様は受け取り、感謝をしながらおにぎりを頬張る。わたしは、この風景を眺めながらなんだか美しいなあと思った。飯を食わせることは、目の前の相手に「生きろ」と伝える行為だと思った。自分の食糧を誰かと分け合うという光景が、まるで「命を分かち合っている」ように見えた。
ある日、ごちゃまぜの家に綺麗な女性が来てくれた。彼女は主婦、趣味は料理、だから今日は料理を作ってきましたと話す。我々は、あまりにも料理が美味しかったから「すごい美味しいです!」と伝えた。ら、彼女は「普段そんなことをまったく言われないからうれしいです」と話した。即座に、我々は「どんな普段なんだよ!」とつっこみをいれたくなったものの、とどめ、毎日料理をつくっているのに美味しいと言ってくれるひとがいない(相手から感謝をされることのない)日々を過ごしているひとは、決して少なくないのかもしれないと思った。そして、これはとてもさみしいことだと思った。こんなにも綺麗なひとなのだから、もっと幸せな日々を過ごしていてもいいように思えるけれど、もしかしたら「このひとはあまり幸せではないのかもしれない」と思った。
さみしさについて考えることは多い。もちろん、自分自身さみしさを覚えることもある。あらゆる欲望の根源はさみしさだと言うひともいる。なんだか、わかるような気もする。食べたいから食べているというよりも「さみしいから食べている」ことが自分にはある。さみしさを誤魔化すため、さみしさを紛らわせるために、別の何かを求めてしまうことがある。でも、これでは空白がうまることはないのだろうなと思う。むしろ、さみしさをごまかすことによって「さみしさは深まっている」ようにさえ思う。では、我々は、さみしさとどのように向き合えばいいのだろうか。さみしさを覚えることは悪いことなのだろうか。さみしさは、ごまかす必要もあるもの、忌避すべきものなのだろうか。
ローズマリー軟膏
そんなことを考えていた折、神奈川在住の女性K様から「ローズマリー軟膏ができたので贈りますね!」と連絡が届いた。過去に何度も贈っていただいたローズマリー軟膏の新作が、今年も出来あがったのだとメールをいただいた。今日、届いた小包を開けると、一緒に手紙も同封をされていた。手書きの文字はいいなあと思う。メールにはない温度感のようなものを感じるし、文字を通じて伝わるそのひとの人柄がうれしい。文面を読みながら「読む」という行為の深さを感じた。多分、私たちは書かれているものだけを読んでいるのではなく、書かれていないものも同時に読んでいるのだと思う。
ローズマリー軟膏をまた作るきっかけになったのは、友人のお子さんの指先が(特に)ひどく割れて困っていると聞いたからです。当時の私と同じ症状で、とてもかゆがっていて、ステロイドも効かなくなっているそうなんです。圭吾さんも以前言っておられましたが、手荒れに困っている人は沢山いるのだな、と思いました。圭吾さん、また手荒れに困っている人がいらっしゃったら、少しですが軟膏を渡してあげて下さいね。今回の軟膏は、時間が経つと色褪せてしまうタイプのものですが、お渡しする時に一言お伝えして下さると助かります。(きれいなやわらかい葉の部分を使って作りました!!)
手荒れに悩んでいるひとや、身近な誰かが手荒れに悩んでいるひとに、限定9名様になりますがローズマリー軟膏を(坂爪経由で)プレゼントをさせていただきます。ご希望される方は、何かしらの方法で直接ご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。贈り主のK様自身、過去に酷い手荒れに苦しめられていた時期がありました。が、自作のローズマリー軟膏で手荒れを克服(?)された経験から「自分のようなひとが、少しでも楽になってくれたのであればうれしいです」と、こちらの軟膏を贈ってくれました。これはほんとうに素晴らしい行為だと思う。手荒れはとてもつらいことだと思う。ローズマリー軟膏およびK様の思いを通じて、誰かひとりでも、楽になれるひとがいるのであればうれしいです。
※※※ こちらの募集は、終了しました ※※※
連絡先・さかつめけいご
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
わたり文庫『なんていいんだぼくのせかい』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、荒井良二著作『なんていいんだぼくのせかい』です。こちらの絵本、坂爪圭吾が人生史上最高に愛する一冊になります。佐渡島に行ったことがないひとに佐渡島の魅力を伝えることが不可能なように、この絵本を読んだことがないひとにこの絵本の魅力を伝えることは不可能なんだと感じます。だから、お願いをすることしかできません。もしも、本屋さんに立ち寄ることがあったなら、そのときは騙されたと思ってこの絵本を立ち読みしてみてもらいたい、と。そして、もしも気に入ってくれた場合は「自分のために買うのもよし、あるいは『誰かにあげるため』に買うのもよし」と強く思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※
それから それから こどもがわらっていった
なんていいんだ ぼくのせかい
それから それから こどもがおどろいた
なんておいしいんだ ぼくのせかい
それから それから こどもがはしった
なんておおきいんだ ぼくのせかい
語られることのなかった思いを、語れ。
さみしさについて考える。たとえば、さみしさを紛らわせるためにセックスをする。これで解決をするだろうか。一時的には解決をするだろう。しかし、やがてまた似たようなさみしさに襲われるだろう。さみしさをごまかすことは簡単で、しかし、そのさみしさが自分のなかから消えることはない。さみしいとき、わたしたちはある種の欲求に襲われたりする。それを別の欲望(食欲や性欲や睡眠欲など)でごまかそうとすることもある。しかし、それはさみしさを先送りしただけだと思う。さみしさの本質、それは「語られることのなかった思いを語りたい」と希求する切実な願いではないだろうか。
さみしさは、伝わらなかった愛情だ。愛したいように愛せなかった記憶が、愛されたいように愛されなかった記憶が、悲しみとなって蓄積をして、さみしさとなって噴出をする。「いま」悲しむと同時に、わたしたち「これまで」も一緒に悲しんでいるのだと思う。さみしさとは、多分、身体中からこぼれ落ちている愛情だと思う。さみしさとは、多分、行き場をなくしてさまよう愛情だと思う。さみしさとは、多分、語られることのなかった思いを語りたいと願う、生々しい切実な思いだ。わたしたちは、本当は知っているのだと思う。これまでがこれからを決めるのではなく、これからがこれまでを決めるのだと。いまの価値を決めるものは、これまでではない。これまでではなく「これから」こそが、いまの価値を決めるのだということを、本当は知っているのだと思う。
年齢を重ねるごとに、誰も本当のことを言わなくなる。さみしいひとを見ても「さみしいひとだね」とは言わなくなる。言えば悪口になり、言えば険悪になる。無難な道を尊び、表層的で画一的な道を尊ぶようになる。が、そのことによって「さみしさが内側にこびりついている」ように感じることは多い。わたしは思う。『傷つく』ことと『気づく』ことは非常に似ているように思う。痛いポイントを突かれた瞬間はつらい。怒りを覚えることも、憎しみを覚えることもあるかもしれない。しかし、傷つくことで自分の内部に気付けるのであり、話すことで「離す」ことができるのだと思う。いつの間にか、自分の内側にこびりついていたさみしさを、言葉や、言葉以外のコミュニケーションを通じて『引き剥がす』ことができる。自分と『切り離す』ことができる。感情を認めることで、その感情は成仏する。その時に流れるものが、涙だと思う。「水に戻る」と書いて涙と読む。昔のひとは、どのような思いで涙という漢字を定めたのだろうか。わたしはこのブログを書き終え次第、隣室にいるY様のもとに向かう。涙を見ることがあったとしても、それは悪い涙ではないように思う。涙は、すべて、浄化であるように思う。涙も、涙以外も、おさえるのではなく、どんどん流したほうがいいのだと思う。
昔、おれはずっとさみしかったんだなと声に出してつぶやいた時、堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなったことがある。言葉が与えられたことで、内側にあったものが外側に溢れた。話すは離すを体感した瞬間だった。さみしさは、自覚をすることで成仏する。言葉は、多分、この世とあの世の間にある。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年5月12日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu