本当にやりたいことをやるためには、一回、ひとりきりになる必要があるんだ。
野口英世も夏目漱石も、一応、千円札にはなっているものの「意外と不真面目な生涯をおくっていた」ことを知ったときはうれしかった。野口さんは、留学資金をすべて飲み代に使い果たし、夏目さんは東京大学にカンニングで合格をしている(らしい)。意外とアウトローと言うか、なんだか「こういうのはいいなあ」と思う。執筆に専念すると宣言して5日目、まだ、なにも書いていない自分を肯定する要素ばかりを探している。
朝仕事。昼遊ぶ。夜は早く寝る。これが理想の生活だけれど「朝遊び、昼遊び、夜も遊ぶ」になっている。これではいけないのかななんてちょっと思ったのだけれど、否、こうでなくっちゃ!と思った。雪国生まれのわたしは、なにかあるとすぐにナイーブになって深刻になり過ぎてしまう。書きたいと思ってはじめたことも、いつの間にか「書かなければならない。書かない自分には価値はない」と思い込み、死ぬ。違う。この世の中にこうでなければいけないことなんてひとつもない。生きなければいけないとか、そんなこともない。生きることよりも「生きたいと思うこと」が大事なのだと思う。
自分の立場を明確にする。
わたしは容貌が軽くキリストに似ているから「あなたは聖者ですか?」と思われてしまうことが定期的にある。期待をされると裏切りたくなるので、崇拝をされかけたときは「わたしはあなたが思うほどホワイトではありません」と言うようにしている。が、最近、そういうことをあまり言っていなかったので毒素が体内に蓄積してしまった。ので、保科さんにお付き合いいただいて「毒出しツイキャス」を毎晩配信するようになった。
趣味で無料でおはなを配ったり、逢初庵やごちゃまぜの家(誰でも無料で寝泊まりできる空間みたいな活動)をやっていると、ああ、さかつめさんは本当に素晴らしい人格者ですねと言われてしまう。素晴らしくないこともないのだけれど、言うほどできた人間ではないので、宿泊予定者の方が「やっぱり今回はやめまーす♪」みたいな感じの適当な連絡をしてきたときは、ああ、お前のそういうところがそういうところなんだぞ、と思いながら「今後は生半可な気持ちで連絡をしないでください」と思ったり実際に伝えたりしている。
動物占いだと「ネアカの狼」になるわたしには、極端な身内びいきをするという特徴があるらしい。その記述を読んだときは「わっかるぅ〜!」と熱烈に肯首した。誰でも自由に使える家をやっていると、まれに変な人が来る。「ここは自由に使える家なんですよね〜♪」とか下劣な口調で言いながら突然押入れをあけて布団を敷きはじめるひともいるのだけれど、わたしは「お前が自由であるように、おれも自由であることを忘れるなよ」と言わんばかりに出て行けオーラを醸し出す。わたしはなにがやりたいのだろうか。なぜ、このような性格なのに誰でも自由に使える家などをやっているのだろうか。多分、それは「それをやっていなかったら、絶対に出会うことのなかったひと」に出会うための罠なのだと思う。めちゃめちゃいい感じのひとが来てくれたときは、もう、あなたに出会うためにこれまでの日々はあったのですと言わんばかりに優遇をする。
本当にやりたいことをやるためには、一回、ひとりきりになる必要があるんだ。
今日こそは執筆活動に専念をしたいと思う。なんのために日本を離れたのか。それは「日本に執着を置いてくるため」だったのではないのか。日本にいると、どうしても隣人の存在や人間関係のごたごたに巻き込まれる。電話だってかかってくるし、メールもラインも頻繁に届く。たとえひとりきりでいたとしても、すぐ近くに「だれかの息吹(他人の存在)」を感じてしまって、なにかこうこころが騒々しいことになってしまう。物理的に距離を置くことで、祖国に執着を置いていく。
わたしは、わたしから生まれ出るものに興味があるのであって、誰かの発言やアクションに対して「ただ、反応をしているだけの自分」から生まれ出るものには興味がない。が、どうしたって刺激が多い環境のなかにいると「反応している間に人生が終わってしまう」ような危機感を覚えるようになり、日本を出た。ら、執筆活動に専念できるだろうと睨んでいたら遊び続ける日々を過ごしている。今日、やっとブログを更新できた。1日進化。あとはこの流れに乗って執筆活動をああだこうだすれば一冊の本ができる。5日間の日々を経て、ようやく、肩肘に張っていた力を抜くことができた気がする。今日から本番だ。今日から本番だと言いはじめてから5日が流れた。
タイのパーイ は天国みたいな場所だ。明け方のスコールを経て昼間の空は青く晴れ渡っている。日中の気温は30度を超えるが、朝と夜は長袖がいるほどに涼しい。物価と人口密度の低いハワイという感じだ。前回の記事で出版の話がなくなった話を書いた。ら、非常にありがたいことに「そうこなくっちゃ!」と言ってくださる方からご連絡をいただいた。それがあまりにもうれしかったので、最後に引用をさせていただきます。野口英世も夏目漱石も、意外とアウトローであったこと。アウトローでも日本のお札になることができるのだということ。これは素敵な話だと思う。やりたいようにやるということ。生きたいように生きるということ。それでなにかを言われることがあったとしても、大丈夫、最後にはみんな死ぬ。好きなように生きても、いやなことをいやいややって生きても、最後にはみんな死ぬ。死ぬ。行く道は違えど、行く先はみんな同じだ。
本当にやりたいことをやるためには、一回、ひとりきりになる必要があるんだ。誰かのためじゃない、誰かに言われたからじゃない、誰かにお願いをされたからでもなく、誰かに認めさせるためでもない。ただ、自分が自分であるために、ひとりきりになる勇気が必要になる時期が、誰にだってあるのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年5月21日
坂爪圭吾様
こんにちは。
>正直に「 編集者のあなたと仕事をしたいとは思いません。あなたがあなたであるからこそ、なにかを一緒にやりたいという気持ちになるのだと思います 」と伝えたら、終わった。
このくだりで思わず『 よっしゃ!』と思わず膝をぽんと叩きたくなるほど嬉しくなりました^^♪
いや、出版の話が立ち消えになったことが、ではありませんよ。
一番大事なところに妥協せずに一歩進まれた坂爪さんの天晴れさに、です!
坂爪さんの文章はもちろん間違っても自己啓発というカテゴリーに属すものではないと思いますが
たしかに敢えて既存の『 書物におけるカテゴリー 』の中で探せば坂爪さんの仰る通り 詩 なのかも知れません。
けれども、私は常々思っていたのですが、坂爪さんの文章は毎回読み終わった後に
まるで素晴らしい交響曲をナマで聞いた後のような感覚を得ることが多いのです。
第一楽章、第二楽章、第三楽章といったような流れがあって。
まるで〇〇の作品のような・・・と作曲家を挙げようと思いましたが
坂爪さんの文章ではもう坂爪さんのカラーが色濃く凝縮して独自の世界観が強く確立されているので
的確な例を思いつきませんでした。
確かに文章なのだけれど、私から見ると完全に音楽に属するものです。
私から見るとショパンやベートーベンと坂爪さんは同じカテゴリーの人なんです。
ただ表れ方が、楽譜に書いて音の流れになるのか、日本語を連ねて文にするのか だけの違いで
やっていることの本質は全く同じに見えます。
書籍化が実現するにしても、坂爪さんのカラーがベストな形態で世に出る方法は必ずあると思いますし
そのチャンスは必ず来ます。
それが実現するまでの過程も私は楽しみです^^!
では!
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu