いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

もうひとつの眼差し。

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世間では「楽しむことをやろう」「好きなことをやろう」という言説を頻繁に目にする。確かにその通りだと思うし、自分自身、そのようなことを何度も発言している。が、それだけでは足りないとも思う。それだけでは半分だと思う。楽しもうとか、好きなことをやろうとか、そればかりでは「疲れてしまう」とか「それだけでは満たされない何かがある」と感じることは、実は、誰のなかにもあるんじゃないのかなと思う。

 

人が大勢集まる場所に行くと思う。誰もが名刺を差し出しながら「自分はいかに付き合う価値のある人間か」ということを、必死にアピールしているように見えることがある。面接にも似た感覚を覚えるし、先日、ツイッターを眺めながら似たことを思った。自分を含めた現代人の多くは自転車を漕いでいる。その自転車を漕いでいる間だけは、そのひとにスポットライトがあたる。自転車を漕げば漕ぐほどに「素敵!」とか「格好いい!」とか「ありがとう!」などの賛辞や感謝が降り注ぐ。が、自転車を漕ぐのをやめた途端、そのひと自身に向けられるスポットライトも同時に消えて、そのひとは「いてもいなくても同じ」という、忘れられた存在になる。忘れられた存在にならないために、輝き続けるために、幸せであり続けるために、そのひとは自転車を漕ぎ続けなければならない。ふと、そんな『自転車のイメージ』がよぎった。

 

ibaya.hatenablog.com

 

虚しさについて。 

ミヒャエルエンデの「はてしない物語」という作品は、虚無がゆっくりと世界を侵食する内容になっている。虚無感。虚しさ。この感覚を、どれだけの人が日々の中で感じているのだろうか。私は、定期的に虚しさを覚えることがある。これは「脱力感」とか「無力感」とか「倦怠感」とも呼べるものかもしれない。昨日、街を歩きながらふと『これから虚しさは増えるだろうな』と思った。道中、飲食店に立ち寄る。紙とペンを取り出して、小さなメモを書いた。そこにはこんな言葉が並んだ。

 

これから虚しさは増すよ。自分がやらなくても他の人がやる。自分が生きている必要を感じる場面が減る。自分がいなくてもみんな幸せそうに生きる。虚しさに負けないために、必要なものはなにかな。命の声。さみしさは「生きている」と叫んでいる。そのさみしさが、詩になる。そのさみしさが、光になる。宮沢賢治。告別。いいかおまえはおれの弟子なのだ。あのセリフ。命の声を見つめるまなざし。さみしさを見つめるまなざし。

 

昨夜、ツイキャス音声配信をした。参加をしてくれた24歳の男性は、最近までデザイン関係の仕事をしていた。フリーランスで働いていた経験も、会社員として働いた経験も両方ある。が、どちらのスタイルを試しても「自分の神経がすり減って行くような疲れを避けることはできなかった」と話す。仕事中、パソコン画面がぐにゃぐにゃ曲がって見えたこともあると話す。虚しさはブラックホールにも似ている。真っ黒い穴。深い穴。終わりのない穴。いつまでこれが続くのかと思う時、ふと、大きな黒い穴に飲まれていくような感覚になる、あの感覚。虚しさをごまかして生きることはできる。それは「自転車を漕ぐこと」だ。自転車を漕いでいる間だけは、虚しさを忘れることができる。しかし、虚しさは常に自分のなかにあって、口を大きく開いて「その瞬間」を待っている。その瞬間とは、誰にでも訪れるであろう「自転車を漕げなくなる瞬間」のことだ。

 

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さみしさについて。

私個人の感想として「怒りは、溜め込むと憎しみになる」というものがある。怒りは、怒りを感じた瞬間に発すればあと腐れなく浄化される。が、怒りを我慢して自分の中に溜め込んでしまうと、怒りは発酵をして(世界や自分を呪う)憎しみになる。虚しさを回避するために、必要になるものは「さみしさの自覚」なんじゃないだろうかとふと思った。さみしさは、溜め込むと虚しさになる。そう思った。さみしい自分を認めることができれば、そのさみしさはあと腐れなく浄化される。が、さみしさを「さみしくなんいかない!」と強がったり見栄を張ったり誤魔化す方向に舵をとると、自分のなかに溜め込まれたさみしさが発酵をして、それは『虚しさ』を生む。

 

怒りは、出しちゃいけないものと教えられる。すぐに怒るひとは未熟で、怒りを抑えて寛容な振る舞いをできるひとを『成熟したひと』とする価値観がある。この場合、怒ることは「悪いこと」になる。同じように、さみしいという感覚は「悪いこと」とか「恥ずかしいこと」とか「隠しておきたいこと」になるのだと思う。が、本当にそうだろうか。自分が抱えている感覚を隠し通すことなどできるのだろうか。そのひとの一挙手一投足から、思わず「漏れ出してしまっている」ものが本心ではないだろうか。少なくとも、わたしは、ああ、このひとはいまさみしいのだろうなあ(さみしいということを隠したくて、これをやっているのだろうなあ)と感じることが頻繁にある。多分、全部、バレているのだと思う。

 

さみしいとき、そのさみしさを押し殺すように「ポジティブとされている感情」で上塗りをしようとすることがある。が、大抵の場合、これはうまくいかない。私たちは、ポジティブな感情こそがポジティブな効果を生み、ネガティブな感情はネガティブな効果しか生まないと教えられる。が、これは誤りだと思う。私たちは、切ないバラードに心が慰められることがあるように、他人による「ネガティブな感情の表現」を通じて、自分の心が慰められたり楽になったりすることがある。さみしさが温もりをうむこともあるし、悲しみが温もりを生むこともある。寄り添うものがある限り、あらゆる感情は「温もりを生む」ものになる。問題なのは、寄り添うものがあるかどうか、だと思う。

 

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もうひとつの眼差し。

私は、さみしいとき、苦しいとき、虚しさを覚えた時、など、ネガティブとされている感情にまみれたとき、ひとつの考え方を採用するようにしている。それは「自分と同じ感情のひとが、いま、この世界に必ずいる」と信じることだ。自分ひとりだけの感情として、さみしさや苦しさや虚しさを抱き続けるには、その感情はあまりにも重い。が、もしかしたら「自分と同じ状態のひとが、この世界のどこかにいる」と信じることで、悩むことに意味が生まれる。感情と向き合うことに意味が生まれる。自分が、もし、自分が抱える問題になにかしら一歩進んだ答えを見出すことができたなら、他の誰かにとっても「光となり得る」ような、何かを残すことができるかも。そう思えたときに「つながり」が生まれる。さみしさや虚しさがつらいのは、その感情に呑まれることで『世界と切り離される感覚』を覚えるからだと思う。自分ひとりがさみしいのだと思えばいよいよさみしさも深まるが、もしかしたら、他にも大勢のひとが「自分と似たような気持ちになることがある」と思うことで、さみしさを通じてさえも、人間的なつながり【温もり】は生まれる。

 

虚しさに負けないために、必要なものはなにかな。そう考えた時に、私は「さみしさの自覚」だと思った。自分はいなくても世界はまわる。自分はいなくてもみんなは幸せに生きる。そのとき、自分はいてもいなくてもいいのだなという気持ちに包まれたそのとき、同時に「でも、生きているんだよ」と主張をするこころ。自分はいてもいなくても同じかもしれない、それでもなお、いま、こんなにも生きているのだと叫ぶこころ。生きていることを主張する心。寄り添われることを待っているこころ。誰かからの温かな眼差しを待っているこころ。私は、これを、さみしさと呼びたい。虚しさに負けないために必要なもの。いまの私には、それを考えることで立ち向かうことしかできない。そして、考えながら「もうひとつの眼差しを持つこと」は、わずかでも有効に働くのではないかなと思った。

 

人間が力を失うとき、それは「誰にも見てもらえていない」と感じる瞬間だと思う。普通、生きている限り、人間は「自分から世界を見るまなざし」をベースに生きてしまう。そのために、誰かに自分を見てもらうために必死に自転車をこぎ続ける。しかし、それだけでは、生きている限り自転車を漕ぎ続けなければいけないことになる。自転車を漕いでいる間は価値があるけれど、自転車を漕げなくなった自分には価値がなくなるということになる。私は思う。多分、世の中にはもうひとつの視線がある。それは「世界『が』あなたを見ている眼差し」だと思う。自然でも芸術でも宗教でもいい、それは目には見えない眼差しで、自転車を漕ぐ漕がないに関わらず、常に降り注いでる眼差しになる。この眼差しをどこに見出すか、が、虚しさに負けない力を与えることのように思う。宮沢賢治の『告別』という詩のなかに、私の大好きなフレーズが、もうひとつのまなざしを感じさせてくれるフレーズがある。それは「いいかおまえはおれの弟子なのだ」というフレーズだ。勘違いだとしても構わない。この詩が、自分に対しても読まれているものだと思うことで、たとえば私は生きる力を獲得する。虚しさに負けない意思、世界に立ち向かう勇気を与えてくれるものは、たとえばこのような「もうひとつの眼差し」なのだと思う。

 

「告別」
 
おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかがやく
天の仕事もするだろう
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村の一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
それらのどの人もまたどの人も
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材というものは
ひとにとどまるものでない
(ひとさえひとにとどまらぬ)
 
云わなかったが
おれは四月はもう学校にいないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音が正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけているような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ
もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光の像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい
 
宮沢賢治春と修羅 第二集」より

 

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もうひとつの眼差し。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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