いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

見えないものを見る力。

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自分が嫌いな職業、それは「自分に向いている職業」なのかもしれない。わたしは、小さな頃から学校の先生が嫌いだった。正確には『権威』や『規則』に縛られることが大嫌いで、学校の先生だから嫌なことでも言うことを聞かなければならないという状態が大嫌いだった。いま、時は流れ、毎日ツイキャス配信を行う日々を過ごしている。今日はなにを話そうかなあとネタを考えているとき、あれ、これは大学の教授がレジュメを用意しているのと似ているなあ、と思った。私は、学校の先生になりたいのかもしれない。

 

twitcasting.tv

 

規則があるからやるというのは、何か、人間として本当ではないように思う。規則とは、言い換えるならば「期待」とか「世間体」でもあるように思う。敬愛する三浦綾子さんは、自身の著作のなかで「自分の悩みから世間体を除くがよい」と言っている。そうすることで「真に悩むべきものは何かがはっきりし、悩みは確かに半減はおろか、皆無になることさえある」と言う。規則【期待や世間体】は、それによって人間を統制することができる。が、同時に、個々人の精神性を否定し、排除的な思想が蔓延して、馴染まないものを重度の精神疾患や自殺に追い込むこともある、とても恐ろしいものだとも思う。

 

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わたり食堂【0円食堂】開催のお知らせ。

6月10日(日)12時~18時迄、横浜にあるGOCHAMAZE no IEでわたり食堂【0円食堂】を開催します。合言葉は「交換感より循環感!」ということで、果たして無料で飲食ができる空間を実現することはできるのか、という実験の場的な空間です。是非、どなたでもお気軽に遊びにいらしてください。15時頃からツイキャス公開配信も行う予定です。聞きたい方、一緒に参加したい方のご参加もお待ちしております。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】 feat.ツイキャス公開配信

 

坂爪圭吾の今後の予定【随時更新予定!】

6月1日から4日 チェンマイ

6月5日から6日 札幌(モエレ沼公園や札幌芸術の森美術館)

6月7日 東京(この日以降、FREE!)

6月10日 わたり食堂@横浜【GOCHAMAZE no IE】

6月12日 愛知県一宮市(この日以降、FREE!)

6月30日 台湾(一緒に行ける方は行きましょう!)

7月3日 ホノルル(道連れいただきありがとうございます!)

 

※※※  坂爪圭吾の使い方は、過去記事をご参照ください ※※※

 

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誰かに何かをしてもらおうと思うな。

三浦綾子「われ弱ければ(矢島楫子伝)」を読む。この人物は凄い。凄い人物に出会うと嬉しくなる。女子学院の院長を務めた彼女は数々の逸話を残した。なかでも印象に残ったのは、テスト中、教室から監視役の教師を追い出した話。教師陣は猛反発をする。そんなことをしたら生徒はカンニングをしまくるでしょ!と。矢島楫子は言う。私は、人が見ているから悪いことはしないとか、そんな人間を育てたくはない。規則は無用。校則は無用。私たちには聖書がある(女子学院はミッションスクールです)。自分で自分を治めることが必要です。それこそが真の自律である。と。この院長の思いは生徒たちにも伝わり、自分たちが信頼されていることへの喜びと、その喜びのうえにたった人間としての自覚によって、生徒たちは『人を恐れるよりは神を恐れる』聖書の精神を身につけた。結果、カンニングに関するトラブルは、ただの一度も起こらなかったと言う。

 

GOCHAMAZE no IEをやっていると「ルールを決めてくれ」と稀に提言をもらう。ルールがないとどう動いていいかわからない。ルールがあればそれに従うことができる。だからルールを決めてくれという要望を受ける。が、現状、なにもルールを決めないできた。GOCHAMAZE no IEとは「誰でもいつでも無料で使える家」であり、常に開放をしている。この家にあるものはなんでも自由に使っていいから、そのあとのことは「自分で決めてください」とお願いをしている。正確に言えば「あなたの良識に従って決めてください」ということになるのだけれど、そこまで言うとちょっと細かすぎるのではしょっている。説明が足りないと怒られることは多い。が、説明をすることがあまり得意ではない私は、現状、このスタイルで活動(?)を続けている。人々の善意が続く限りこの家は続き、人々の善意が途絶えたとき、この家の活動も終焉を迎えるのだと思う。

 

いつの間にか、私たちは「誰かに何かをしてもらう」前提で人生を生きる。幼少期は親が敷いたレールを、少年期は教師が敷いたレールの上を、青年期は社会が敷いたレールの上を歩く。自分がそうなりたいからというよりも、誰かに期待されている道を歩くようになる。最初はそれでよかったのかもしれない。が、ふとした瞬間に、多くの人々は考えはじめる。自分は、いま、この道を歩いているのか。それとも、ただ、この道を『歩かされている』だけなのか。誰かの期待に応えるために、自分なりに精一杯生きてきた。が、あるとき、ある瞬間、あれ、となる。自分は誰の人生を生きているのだろうかと、そんな風に感じる瞬間がある。そんな瞬間は恐怖だ。そして探す。自分がやりたいことを探し始める。しかし「自分で決める」ということに慣れていない。レールの上を歩く訓練は受けて来た、が、レールを作り出す訓練を受けていない。誰かの期待に応える訓練は受けて来た、が、自分の期待に応える訓練はまったくない受けていない自分を知り、ゴングが鳴る。

 

さがしたってないんだ

じぶんが

ぐうっと熱がたかまってゆくほかはない

じぶんのからだをもやして

あたりをあかるくするほかはない

 

八木重吉

 

人間を、自分を、どこまで信じられるかだと思う。

 

言葉にされた優しさと、言葉にされなかった優しさ。

いつも微笑みを絶やさないひとと、いつも無表情なひとがいたとする。微笑みを絶やさないひとは周囲から好かれ、無表情や不機嫌なひとは疎まれる。だから、私たちは「いつも笑顔でいましょう」とか「明るく元気でいましょう」という教育を受ける。その通りだなとは思うが、同じように「それじゃ半分だろ」とも思う。このとき、私たちは、大事ななにかを見落としている。それは「目に見えるものがすべてになっている」というポイントだと思う。

 

あるひとは言う。夢を実現するには、まず、口に出すこと。行動を起こすこと。口に出さないことは、ないのと同じだから。と。その通りだとは思う。でも、これまた「半分だな」と思う。これらの言葉を耳にするほど、ちょっとした危険性を感じることがある。それは「行動に移されたもの、目に見えるものだけがすべてになり、行動に移されなかったこと、目に見えないものはまるでないもののように扱われること」だ。悲しいとき、ひとはこどものように大声をあげてわんわん泣くこともできる。同時に、ただひとり、悲しみに耐え忍び声を殺して泣くこともできる。この場合、人目に触れるものは前者になり、人目に触れないものは後者になる。どちらの悲しみが深いのか、どちらの悲しみが大きいのか、それは、誰にも決めることはできない。ただ、わたしは、人知れず悲しみに耐え忍ぶそのひとの姿に、崇高なもの、高貴なもの、気高さのようなものを感じることがある。表現されたものだけではなく、表現されることのなかったもの、そのひとが「そのひとのなかだけでとどめておいたもの」が、人間的な深みを与えることがある。表現されたものだけではなく、表現されなかったものへのまなざし、これが欠けてしまうと、私たちは「目に見える・半分だけの・精神的に貧しい世界観」を生きることになるのではないのかと、そういうことを思う。

 

言葉にされた優しさと、言葉にされなかった優しさがある。行動に移された優しさと、行動に移されなかった優しさがある。どちらも「ある」ことに代わりはないが、私たちは、目に見えるものだけを受け取ってしまう。いま、この瞬間も、誰かがあなたのために祈っているかもしれない。いま、この瞬間も、神様はあなたのために最高の贈り物を目の前に提示しているかもしれない。しかし、その祈りは、その恩恵は、目に見える形ではあらわれない。簡単に素通りできてしまうものだし、簡単に「そんなものはない!」と言えてしまえる種類のものだ。しかし、この、目には見えない優しさを、目には見えない恩恵を「それは常に降り注いでいる」と信じる自由も、常に、私たちには残されている。見えるものだけではなく『見えないものを見る』力。見えないものを見ようとするとき、私たちは、意識をひとつ先に進ませる。人間の表面【表現されているもの】から、人間の内面【表現されていないもの】まで意識を進ませることができる。多分、そこに、すべてを見る。そのすべてのなかで、ひとは「自分」を発見するのだと思う。

 

坂爪圭吾さん
 
いつもブログを読ませて頂いています。
初めてメールをお送りします。
 
自分がいばや通信を読み始めたのは、2年ほど前、心がボロボロになっていた頃でした。
自分で自分の心に暴力を振るい、ズタズタにしてしまっていました。
 
そこから回復し、今年の4月に就職しました。就職先では仲間もでき、日々楽しく過ごしていたのですが、数日前からまた気持ちが落ち込み、自分の言動の一つ一つが気になり、周りの人が自分を嫌っているような気がしてならなくなりました。
 
 
そんな時に、久々に坂爪さんのブログを読むと、
 
自分を責めたくなる気持ち、不安、自分を否定したくなる気持ち、それは「この瞬間の自分こそ、ほんとうの自分であることを認めたくない」という思いから派生をしている
 
と書かれていました。
 
それを読んで、心がじんわりほどけていくような感覚になりました。
 
 
仕事があり今はなかなか旅行に行けない私にとって、いばや通信そのものが逢初庵であるように感じます。
 
ふと立ち寄り、羽を休めたり、いらないものをそぎ落としたり、パワーをもらったり。
 
私にとっていばや通信はそんな拠り所になっています。
 
いつも本当にありがとうございます。
 
これからも、坂爪さんの文章を読めることを楽しみにしています。
坂爪さんが元気に過ごされることを祈っています。

 

千と千尋の神隠し。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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