自分もこうありたいと思うものを見た時に、ひとは、感動をするのだと思う。
新千歳空港に着き、桑園の温泉に向かう。常日頃からお世話になりまくっている女性S様にキャデラック(!)でお迎えに来ていただき花まるで寿司を食べる。S様は言う。自分のこどもから「なんでうちのお母さんは普通のお母さんじゃないの??」って泣かれたり交流会とかに革ジャンで行って「なにあのひと??」とか言われまくったりしたけれど、誰かに合わせて着たくもない服を着ていくよりも絶対にそっちの方がよくて、もう、私は規格にはまれない人間なんだって諦めてからは『自分を大事にする』って決めたの。うちの旦那はベンツに乗っているんだけどベンツにわたしの細胞はまったく反応をしなくって、アメ車、キャデラックの馬力が(周りからは浮きまくるけど)自分には一番心地よくて気持ちいいの。だからメンテナンスはしっかりやる。これは人間関係も同じ。自分にとって「気持ちいいこと」「居心地がよいこと」が大事だよね、と。
告発を超えて。
三浦綾子著作「われ弱ければ」に感動をしまくり、ツイキャス音声配信で軽く話した。他にも、私の愛する作品にヴィクトール・フランクル著作「夜と霧(アウシュビッツ強制収容所の体験記)」や、石牟礼道子著作「苦海浄土(水俣病のルポルタージュ)」がある。これらの作品に共通している点は、作品が『告発で終わっていない』ところにあると思う。フランクルは言う。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ、と。前者だけではなく、後者の部分【それでもなお、祈りのことばを口にする存在】という部分が描けているかどうか。苦境の最中でも、それでもなお「生きようとする人間の姿」を描いているものに、多分、わたしの心は強く打たれているのだと思う。
きよ子は、手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。
それがあなた、死にました年でしたが、桜の散ります頃に。
私がちょっと留守をしとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面に這うとりましたですよ。
たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。
曲がった指で地面ににじりつけて、肘から血ぃ出して、
『おかしゃん、はなば』
ちゅうて、花びらば指すとですもんね。
花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の花びらば拾うのが、望みでした。
それであなたにお願いですが、文ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。
いや、世間の方々に。
桜の時期に、花びらば一枚、きよ子の代わりに、拾うてやって下さいませんでしょうか。
花の供養に。
ー 石牟礼道子『花の文を 寄る辺なき魂の祈り』より
ロックンロールとキリスト教。
私は、ロックンロールとキリスト教に影響を受けて育った。最近、自分の生き方が「ちょっと宗教に偏りすぎている」となんとなく感じていて、自分のなかにいるリトルけいごが「それだけじゃないぞ!」と暴動を起こした。高校時代の私は、多分、音楽がなければ自殺をしていたと思う。忘れもしない、13歳か14歳の時(年齢は忘れた)にたまたま耳にしたハイロウズの音源に「なんじゃこりゃー!」と心臓を貫かれ、そのまま服も買わずに家と真逆の方向に自転車を走らせたあの日。音楽はひとを救うものではないと思う。ただ、救われないまま「それでも、生きてていいよ」と踊らせてくれるものだと思う。
自分もこうありたいと思うものを見た時に、ひとは、感動をするのだと思う。
今日、たまたま、イタリアで暮らすミユ様のスーパー感動的な自伝を拝見させていただき、細胞が茹で上がった。お会いしたこともないミユ様に対して「生きててくれてありがとうございます。。」とものすごい感謝があふれた。あまりにも感動をしたものだから「ちょっとやばいからこれ読んで!」と、周囲の友達などにも連絡をしまくった。ら、あろうことか、私が強制共有をさせていただいた女性K様から「うわー!これ、私の姉です!」とまさかのお返事。過去に、手作りのローズマリー軟膏を贈ってくださった、あの、知る人ぞ知るK様のお姉さまがミユ様だということを知って、もう、なにがなんだかわからない感じになって「人生って素晴らしいなあ…」と展開にのぼせた。
ロックンロールだと思う。そう思わせる生き方がある。ロックとは、必ずしも音楽のジャンルだけの話ではない。それは「ひとを生きる方向に向かわせるもの」だと思う。世の中には、多分、ふたつの評価軸がある。ひとつは「溜め込んでいるものでそのひとを見る」という視点。金や家や車などの財産、地位、名誉、他のひとがもっていないものを持っているものを評価する時点。もうひとつは「出し切っているものでそのひとを見る」という視点。溜め込むと言うことをせず、出し惜しむということをせず、瞬間瞬間に自分の生命を出し尽くそうとするものに宿る光。いまをぶちまけて輝くひとを評価する視点。わたしは、この、後者の視点に感じている魅力を「ロック」と呼んでいるのだと思う。その点において、三森さんの生き方はロックだと思う。不良少年だと思う。
自分もこうありたいと思うものを見たときに、ひとは、感動をするのだと思う。自分には到底無理だと思っていた生き方、とてもじゃないけれど考えも及ばなかった生き方を実際に体現している人間がいるということ。これは本当にうれしいことであり、自分にも「そうすることができる」という希望を与えてくれる。私が愛するものたちは、決して、世の中を告発したり「世を呪う」方向に舵を取らない。様々な目に遭いながらも、それでもなお「生きる方向に舵を取る」姿に、私の心は強く打たれる。キャデラック【エスカレード】のS様に聞いた。あなたからは世を呪うという雰囲気を微塵も感じない。様々な裏切りにあったら、人間不信になったりしてもおかしくないと思うのに、なぜ、そんなにも爽やかで前向きな状態を保てるのか。S様は答える。ははは、なんでだろうね、わからないけれど、私は良いエネルギーをまわしていきたいだけなんだよ。ただ、それだけのこと。悩むひまがなかっただけだし、呪うひまがなかっただけ、それだけのことだよ、と、S様は笑った。
人は、きっと、自分もこうありたいと思うものを見た時に、感動をするのだと思う。だからこそ、感動を受け取った人には、一つの責任が生まれる。それは「変わって行くこと」だと思う。責任という言葉は重いけど、その責任を果たした時に、とても大きな喜びに成り得る役割を、受け取っているのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年6月4日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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