いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにする。

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パリを経由してイタリアのミラノにいる。今朝、両親がただ仲良く過ごしている、それだけの夢を見て泣きながら目覚めた。不思議だ。別に、自分に何をしてくれた訳でもない。ただ、自分にとって大切な人には、不完全だとしても構わないから、幸せそうに生きていて欲しいと願う。そして、自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにするのだと思った。

 

 

おおまかなスケジュール

2月14日 ヴェネツィア【イタリア】
2月15日 ブタペスト【ハンガリー
2月16日以降、FREE!【欧州界隈】
2月20日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 タリン【エストニア
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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生かされている責任。

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Paris

 

13日早朝にパリに到着をする。パリ在住の日本人女性から「お昼をご一緒しましょう」とご連絡をいただく。到着ゲートでチュニジア人の男性が「Mr.Keigo Sakatsume」と書かれた紙を掲げている。黒塗りのワーゲンに乗り込む。全席が革張りで、走りの安定感が凄い。女性のご自宅に到着し、大量の果物をいただき、浴槽に浸からせていただいた後に「長時間フライトでお疲れでしょう」と布団をご用意していただいた。数時間眠り、昼前に目覚め、北アフリカ料理を提供するレストランに足を運び、タジン料理やクスクスをいただく。食後に「消化を助ける作用があるのですよ」と甘いミントティーをご馳走になった。幸せな時間が流れていた。

 

神谷美恵子の作品に「生きがいについて」という書籍がある。その本のなかに『生かされている責任』という言葉が出てくる。わたしは、現在、家も仕事も特定の肩書きも持たないまま、呼ばれた場所に呼ばれるまま移動を続ける生活をしている。いま、自分が生きているのは「自分を生かしてくれている」人々がいるからだ。このような生き方をしていると、出会う人々から「あなたには夢や目標はあるのですか」と頻繁に問われる。しかし、わたしには、夢や目標などがない。ただ、瞬間瞬間における「こうしたい」と思った声に従って生きているだけで、目指している境地、こうなりたいと思う人間像、ストックされている夢や目標みたいなものはない。しかし、時折、自分は「大きな何かにつながる道を歩いている」と感じることがある。これは、自分の意思を超えたものだ。歩いているというよりも『歩かされている』ような、書いているというよりも『書かされている』ような、自覚している夢や目標はないけれど、まだ、自覚をしていない夢や目標の存在を感じている。

 

パリでお会いした女性は、わたしの生き様を見て「こんなにも清く、こんなにも美しいものはない」と仰った。彼女は長年演劇を生業として生きている。あらゆる作品は、見る人がいてはじめて完成する。だから、誰の前でやるか、何処の国でやるか、など、それを見る人が変わるだけで(同じ作品を公演しているにも関わらず)完成度は大きく変わるのだと言った。作品の価値は、固定的なものではなく流動的なものなのだ。あらゆる作品が『見る人がいてはじめて完成する』ものならば、多分、人間も同じだと思う。その作品の価値、その作品の意味、それを決めるのは作り手だけではない。作り手は、それを世の中に放った瞬間に「その解釈は聞き手に委ねている」のだと思う。わたしという人間が生きる意味。それは、わたしだけでは織りなすことのできないものだ。それを見てくれているひとがいて、はじめて、自分という人間の『意味』であったり『価値』であったりが、織りなされるのだと思う。だから、わたしは、呼ばれるままに移動を続けて、書きたいと思うことを、時折「書かされている」などと思いながら、こうして書き続けているのだと思う。

 

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自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにする。

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Aéroport de Paris-Charles-de-Gaulle

 

今朝、両親の夢を見た。わたしの両親は新潟で床屋を営んでいて、土日祝日も仕事があったためにわたしはほったらかされて育った。家族旅行の記憶もないし、基本、ひとりで遊びを見つけてはそれを実行する日々を過ごしていた。彼らは、勉強をしろとかそういうことを一切言わなかった。警察のお世話だけにはなるなよ、と、親から言われたことはその程度だった。高校に(禁止されている)原チャで通っても何も言わなかったし、教師から怒られても「それはあんたの問題だからね」と、わたしが怒られる責任(怒られる自由)をわたしに残したままにしてくれた。

 

わたしは鈍感な人間だから、普通、夫婦というものは仲の良いものだと思っていた。しかし、小学校高学年くらいの時に「あれ、もしかしたら自分の両親はあまり仲良くないのかもしれない」ということを、突然思った。きっかけは忘れた。ただ、この時の衝撃は結構なものがあった。仲が良いと思っていたはずの両親は、実は『情』でつながっているだけなのだと、そういうことを兄や姉から聞いたときは「まじか!」と驚きを禁じ得なかった。悲しみを覚えた。こどもたちのために別れたいけど別れないでいるとか、嫌な仕事も嫌々やっているのだとか、もし、そういうことであれば「俺のことは気にしないでくれ」と思った。自分の存在が重荷になっているとか、自分の存在が身近な人間の自由を奪っているのだとか、そういう風に感じることはしんどかった。だから、俺のことは気にしないでいいから、自分が楽になる道を選んでほしいと思った。しかし、まだ、わたしは無力で、言葉を選べずに、帰り道の匂いだけ優しかった(cocco「Raining」参照)頃のわたしは気持ちを伝える言葉をもてず、やさぐれるという非常にわかりやすい形で不良になった。

 

こどもと親が思っていることは、多分、一致をしている。それは「不完全でも構わないから、幸せそうに生きていてほしい」という思いであり、生きていることを楽しんでほしいという願いだと思う。 母親(父親)が不幸そうに生きている姿を見せることは、それだけで虐待にあたる。そういう言葉を前に聞いた。人間を傷つけるものは、必ずしも悪意だけではない。良かれと思ってやっていること、善意を通じてでも人間は人間を傷つけることができる。あなたのためにやっていることが「あなた」のためにならないこともあるし、自分のために生きることが、結果的に「あなた」のためになることもある。だから、わたしは思う。わたしは、わたしの幸せに責任がある。自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにするのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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心はあなたのもとに。

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川崎アゼリアロッテリアにいる。欧州遠征にあわせて「ブタペストの『セ』からはじまる名前の温泉に行って、過去に水着を忘れて入れなかったわたしの雪辱を果たしてください!」と御依頼を受けた。これはもうハンガリーに行くしかない。調べたらブタペストは温泉天国みたいだ。温泉は大好きだから高まる。20日はロンドンで追加公演と言う名のお話会が開催されることになった。是非、みなさまも坂爪圭吾を好きなように(身代わり旅行の分身として)使っていただけたら幸いです。

 

 

おおまかなスケジュール

2月13日 昼・パリ【フランス】
2月13日 夜・ミラノ【イタリア】

2月14日 昼・ヴェネツィア【イタリア】
2月15日 夜・ブタペスト【ハンガリー
2月16日以降、FREE!【欧州界隈】
2月20日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 昼・タリン【エストニア
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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逢初庵 

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熱海の家を「売るだのあげるだの」など言っていたが、引き続き開放している。希望者の方は無料で利用&宿泊できる。各種イベント開催なども一切料金は取らない。多分、この家には神様が住んでいる。だから、これまでのように「必要とされる方に無料で提供する」在り方を続けたいと思う。管理人は不在で、家の鍵は常に空いている。利用者は家にあるものを自由に使える。玄関に置いてある財布のお金も出し入れ自由。一切のルールはないが、家は常に綺麗に保たれている。もしかしたら、これは奇跡なのかもしれない。利用者の方々は、大概、この家を大切に使ってくれる。完全なる善意で掃除や洗濯をしてくれたり、わたしの代わりに「光熱費の請求書が届いていたので払っておきました」と連絡をくださる方も少なくない。

 

冬の熱海はハワイに似ている。温暖な気候が、そのように感じさせるのかもしれない。熱海駅前は完全に俗っぽい雰囲気だが、逢初庵のある伊豆山界隈は空気が綺麗だ。様々な鳥の鳴き声が常に響いている。昨日、名古屋在住の女性から「逢初庵に桃の花を生けさせてください」と連絡をいただいた。いま、逢初庵の床の間には桃の花が飾られている。家具や食器などを見て、女性は「ひとつひとつが素晴らしいですね」と言った。この家にあるものはすべて、来訪者の方々から譲り受けたものになる。だから、わたしは「素晴らしいですよね」と衒いなく答えることができる。謙遜をする必要がない。この家は、わたしのものであって『わたしだけ』のものではない。家具も食器も、わたしが手に入れたものではなく、わたしに『与えられた』ものである。わたしが讃えられているのではなく、わたしに関与してくれた世界が讃えられているのだと感じる。わたしも『讃える側』でいることができる。

 

逢初庵と同じような家を横浜の菊名に設け、ごちゃまぜの家と名付けた。もうすぐ二年の月日が経つ。どちらも家も、一時利用なら事前連絡は不要。宿泊やイベント利用の場合に限り、ダブルブッキングを避けるために事前連絡をもらえたらと思う。熱海の家は坂爪圭吾まで、横浜の家は稲村彰人までご連絡をいただけたら、数時間以内に返信をする。これらの活動は「人間をどこまで信用できるか」の実験みたいなものかもしれない。家を解放していると危ない目にあうことはないのか、と、行く先々で問われる。が、事実、危ない目にあったことは一度もない。家のものがなくなることはないし、なくなって困るようなものもない。わたしは、地球に財布はひとつしかないと思っている。だから、お金がなくなることはない。畢竟、誰がもっているかの違いでしかない。金だけではない。家も家具も食器も同じだ。

 

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わたり文庫『心はあなたのもとに』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、村上龍著作『心はあなたのもとに』です。他にも紹介したい文章がいくつもあったのですが、長くなるために以下の引用箇所だけで留めておきます。小池真理子が「優れた自己分析の書」と評したように、村上龍の観察眼が抜群です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

あなたはお父さんが道楽者だっていうけど、児童心理学的に言うとね、父親の役目は、子どもたちにね、自分の世界は自分でエクスパンドできるってことを教えることなのよ。自分がいる場所や世界ね、それに人間関係も、閉じられていなくて、拡げることができるって、言葉じゃなくて、行動とか態度で伝えることなんだけど、そのためにはあまり家にいなくて、社会的規範から自由なのが、実は理想なんだよね。もちろん犯罪者じゃだめよ。その辺が微妙だからむずかしいんだけどさ。楽しくてしょうがないっていう仕事を持っていることが大事、それで家にずっといて家庭のことに口出しなんかするのは最悪。適当がいいの。適度にふまじめでないとダメなの。社会的規範をしっかり守るのは、息苦しくて、子どもにとっては世界が閉じられたも同然なの。わたしがこんなことを言うのも変だけど、お父さんはあなたに本当に大切なことを教えたのよ。自分の世界は自分で拡げることができるってことを、言葉じゃなくて態度と行動で教えたの。そんなことを話す母は、とても幸福そうに見えた。わたしと久しぶりに食事をしているからではない。子どもの父親としてではなく男として好きな夫と暮らしているからだと思った。

 

村上龍『心はあなたのもとに』【文春文庫】 

 

心はあなたもとに。

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河津桜


誰もがファンタジーを生きているのだと思う。見たいものを見て、聞きたいことを聞き、捉えたいように世界を捉える。それがどれだけモノクロの世界だろうが、そう見たいと思うのならば、世界は要望に応えてくれる。熱海の家にあるボケの木が、赤い花を実らせた。わたしは、それを見たときに「おかえりなさい」と言われているような気がした。無論、ただの勘違いかもしれない。しかし、わたしは、たとえば燦々と照りつける太陽を浴びるだけで、俺は祝福されていると思えるような多幸感を得る。俺は地球に愛されている。たとえ、ただの勘違いだとしても、そのことがわたしを幸せにするものであれば、ただの勘違いでも構わないのだと思う。

 

わたしはミユさんと言う女性を広い意味で愛していて、だが、最近のミユさんのnoteの記事の最後に「大好きな男性と東京でイベントをします!」と書いてあるのを見ると、穏やかではない気持ちになる。誤解を恐れながら言うと、共演者の男性に対して「けっ!」みたいなことを感じる。そして、ああ、これが嫉妬なのかということを思い知る。俺のほうがあいつよりももっと彼女の魅力を知っているはずだ、とか、勝手なことを思い巡らせて自爆する。別に、その人が誰かを好きだと思うことが、自分に向けられた愛情の減少を意味するわけではない。頭ではわかっている。頭ではわかっているはずなのに「お前がそっちに行くなら、俺だってあっちに行っちゃうぞ!」とか、幼稚的な反発心を燃やして一方的に拗ねる。書きながら「自分、まじでだせぇな」と思う。まじでだせぇなと思いながら、嫉妬を打ち消す方向ではなく、嫉妬を受け入れる方向に舵を取る。嫉妬をするということは、その人が、自分にとって大切なひとだからだ。だからこそ、嫉妬をしない方向(ひとりになる方向)に舵を取るのではなく、そのひとを好きだと思う「その気持ち」に殉じる方向に舵を取る。そう思った途端、嫉妬を悪いものとしてではなく、嫉妬を当たり前のものとして受け入れた途端、不思議と、嫉妬の思いは消えてなくなった。

 

後に残ったものは『爽快感』だった。愛されたいと願うより、好きでいてもらいたいなどと願うより、自分はただ、自分が思う『好き』に殉じればいい。その『好き』が、時には嫉妬という形を借りて表現されることもある。しかし、自分の嫉妬を打ち消すことは、自分の好きを打ち消すことにもなる。だからなのだろうか、嫉妬を認めた途端、嫉妬は消え、ただ『好き』だけが残った。時折、恋愛ドラマなどで「私とはただの遊びだったの!?」みたいな感じで、男性に翻弄された怒りを表現する女性を見る。それを見るたびに、わたしは、こんなことを思う。これはお前との関係だけじゃない。俺の人生は、全部、遊びなんだよ。と。軽い気持ちで付き合っていることを咎められても、俺は、愛も、命も、人生も、重いものにはしたくない。無責任だと思われようが、俺は、軽い気持ちでやっていきたいんだよ。と。

 

 

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Spring has come

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ただ、自分に飽きただけ。

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和歌山の紀の川にいる。欧州遠征にあわせて「エストニアのタリンの街並みが大好きなので、もしもエストニアに行くなら写真を撮って送ってください!」とお仕事を受けた。これはもうエストニアに行くしかない。そう思い、2月22日にエストニアに行く。わたしの予定はこういう感じで決まる。先にやりたいことがあるというよりも、誰かの希望を通じて自分のやることが定まる。自分自身はからっぽだが、からっぽであるが故に人生が有効活用される「無用の用」的な生き方をしている。

 

 

おおまかなスケジュール

 

2月7日~12日 季節労働真っ盛り!お仕事募集中!【日本】
2月13日 パリ【フランス】

2月14日 ヴェネツィア【イタリア】
2月15日以降、FREE!【欧州界隈】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 タリン【エストニア
2月23日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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優しさが邪魔。

和歌山で「僕にも珈琲を淹れてください!そしてお話をしましょう!」というご依頼を受けて紀の川の河川敷に来た。男性は話す。自分は人に嫌われたり人を悲しませたりすることを過度に恐れる気持ちがあり、他者と腹を割って話すことができない。自分らしくあれたらと思うのだが、恐怖心が常につきまとうからどうすればいいのかわからない。と。それを聞いたわたしは、まず、いの一番に「俺が一番嫌いな生き方は、嫌われないように生きることだ」と返答した。嫌われたくないということは、逆に言えば「無難に振る舞っている限り自分は嫌われることはない」という思い上がりを感じてしまう。ふざけるな。そんなものが俺に通用すると思うな。無難な対応をされるのが俺は一番嫌いなんだよ、と、そういう感じで返答をした。

 

あともうひとつ。「自分らしさ」などとあなたは言うが、そこはかとない生ぬるさを感じる。自分らしさとは良いことばかりじゃないんだよ。逃げるのも自分なら、傷つきたくないとビビるのも自分。全部ひっくるめての自分なんだ。どこかに「本当の自分」がいると思うのは幻想だ。いまの自分がダサいなら、この『ダサい自分』が自分なんだ。だから、恐怖心さえなくなれば云々ではなく、恐いなら、恐いままやる。恐いまま生きる。それが自分を生きるってことなんじゃないのか。良い部分だけをチョイスして、悪い部分は「本当の自分ではない」ことにする生き方は欺瞞的だ。全部ひっくるめての自分なのだから、自分の中にある『全部』を引き連れて生きるのが本当なんじゃないのか。それが自分らしさなんじゃないのか。と。

 

あなたは優しい人間なのだと思う。優しいからこそ自分の本音を押し殺して、優しいからこそ周囲に合わせた生き方を選んできたのだと思う。無論、優しさは大事だ。思いやりも大事だ。しかし、誰かの犠牲の上に成り立つ予定調和的な平和は『偽物の平和』だと思う。誤解を恐れながら言うと、あなたの優しさがいまはすげぇ邪魔だ。あなたはもう既に充分に優しい。だから、これ以上優しくなろうとする必要はない。優しさではなく『強さ』を持ちなさい。あほな意見だと思うかもしれないが、筋トレは非常に効果的だと思う。自分らしさよりも『男らしさ』を感じた方が効果的な時期がある。あなたは男だ。野性味を取り戻す時間が必要だと思う。

 

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ただ、自分に飽きただけ。

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野点カンタービレ

 

河川敷で話したことが功を奏したのかもしれない。屋根があると閉鎖的になる。男性は話す。自分は仕事を辞めて半年近く実家で引きこもりのような生活をしていた。だから、こうして外に出るきっかけを求めて、坂爪さんに連絡をしたのだ。と。これは素晴らしい試みだと思う。家にいると(特に男は)思考が偏って物事を深刻に考える。自分なんかダメだ、自分なんかダメだという感覚に取り憑かれて、抜け出すことが大変になる。しかし、生きることがなかなかつらいと感じている原因の大半は、実は「つらいのではなく『つまらない』だけ」というのがわたしの自論だ。単純に、いまの自分(いまの自分の日々)に飽きているだけなのだと思う。

 

そういうことを男性に話すと「そ、そうかもしれません!自分は、引きこもりみたいな生活に飽きているのかもしれません。みんなは、なんと言えばいいのか、いまはゆっくり休めばいいんだよとか、僕を慰める言葉をかけてくれます。でも、坂爪さんに『自分に飽きている』と言われて、すごい腑に落ちる感覚がありました。勇気とか、自分を奮い立たせるとか、そういうことではないのだなって。ただ、自分は自分に飽きていただけなんだなって思ったら、なんだか気持ちが楽になりました。実は、親にずっと言いたかったけど言えないことがあったのですが、それを話してみたいと思います。どうしても傷つけることや傷つくことを恐れてしまう部分はありますが、それも含めて自分なら、退屈な日々を過ごすよりも変えていこうとする方が、なんだかいいなあって。そういうことを思いました」と話してくれた。

 

ここまではよかった。ここで終わればハッピーエンドなのだが、その後、男性は「(腹を括った表情を浮かべながら)今日は野宿をします」と突然の野営宣言をした。それだけならまだしも、自分の財布をおもむろに取り出して「こんなものがあるからダメなんです」と言いながら、所持金のすべてをわたしに向かって差し出した。わたしは、もう、なんだか愉快な気持ちになってしまって「よっしゃ!それならばあなたの心意気を受け取りましょう!」と言いながら声をあげて笑った。笑いながら、ああ、そう言えばこの男性と会ってからはじめて俺は声をあげて笑っているなあと思った。この男性は死ぬ気である。わたしは「死なないでくださいね。あくまでも『生きる』とか『生きてやるぜ』って気持ちを前提に生きてくださいね」と言った。すると、男性は「ありがとうございます。言っていることの意味はわかります。ただ、僕は、ここで一回死にたいのだと思います。そして生まれ変わったらまた会いたいと思います」と言いながら、車に乗り込んで姿を消した。彼は、今夜、どこで眠っているのだろうか。季節は真冬である。この星のどこかで、彼は、どこかで凍えながら眠っているのだろうなと思うと、地球をいつもよりも身近に感じる。彼も生きているのだから、よし、俺も生きてみせようという気持ちになる。

 

 

https://www.instagram.com/p/BtkTNksAF1j/

Kinokawa

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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かわいそうな人間なんていない。

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大阪のなんば駅にいる。過去記事を発作で削除してしまった。非常にありがたいことにお仕事のご依頼をいただいた。小生、出稼ぎの季節労働者である。欧州行きの旅費を稼がなければならない。仕事の内容は「坂爪さんの淹れた珈琲を飲みたい!」というものと「荷物を届けて欲しい!」というもので、これくらいだったら自分にもできる。嬉しい。よかった。基本的に予定はガラガラなので、もしも「それならばあなたにこれをお願いしたい!」などあったらお気軽にご連絡ください。

 

twitcasting.tv

 

 

おおまかなスケジュール

 

2月6日~12日 季節労働真っ盛り!お仕事募集中!【日本】
2月13日 パリ【フランス】

2月14日 ヴェネツィア【イタリア】
2月15日以降、FREE!【欧州界隈】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月23日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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諸悪の根源は家庭環境にある。のか?

元気について考えた。元気にも二種類あって、相手の元気を奪って元気になる人と、自分の元気を通じて相手まで元気にする人がいる。前者は一緒にいると爆発的に疲れるし、後者は一緒にいると前向きな気持ちになる。元気とは、よく喋るとか、よく動き回るとか、そういうことではない。一緒にいると前向きな気持ちになるということだ。元気な人は自然だが、元気「風」な人は不自然だ。元気風に見せることで、何かを隠している、何かから目を逸らしている印象を受ける。背後にあるのは、多分、恐怖だ。忙しく立ち回っている間は、その恐怖を忘れていられる。しかし、その恐怖は常に自分の裏側にあって、それが周囲に伝染するのだと思う。

 

人と会うことが多いから、そう言う時は、できるだけ冷静に相手を観るようにしている。多くの場合、わたしは「家庭環境に問題があったのかな?」という感想を抱く。親から愛されなかった人間は他者を愛することができない。など、そういう話は頻繁に聞く。虐待を受けて育ったこどもは健全な自己肯定感を抱くことができない。だから、常に周囲にあわせるような行動をしたり、自分の感情を押し殺す方向に舵を取る。とか。しかし、本当にその通りなのだろうか。この論理でいくと、たとえば、孤児院で育ったこどもは全員「幸せになれない」ということになる。そうなのだろうか。そうではないような気がする。親から愛されていないことと、親から愛されていないと『思っている』ことは別物だ。完全に不幸であることと、自分は不幸だと『思っている』ことは、似ているけれど結構な違いがあるように思う。

 

私は反骨精神強めの人間だから、家も金も仕事も色々なものを同時に失った時、自分に同情することを自分に禁じた。多くの人々から見て「かわいそうなことになっちゃったね」と思われるような状態になっても、へっちゃらでありたいと思った。笑ってやりたいと思った。勝手に決めつけてくれるなと思った。一番恐ろしいことは、自分が自分に「自分は無価値な人間だ」と決めつけることだ。それだけは避けたいと思った。世間的にはどれだけ惨めでも、常に「まだまだわからねえぞ」と思っていた。幸せになるための必要条件がまったく足りていない自分でも、ほれ見ろ、全然幸せになれましたよー(バーカバーカベロベロベ〜!)みたいなことをやりたいと思った。そして実践をした。実践をしたらできた。ざまーみろと思った。

 

note.mu

 

かわいそうな人間なんていない。

昨日、免許更新をしなければならないのに眼鏡の度があわなくて(眼鏡を買い換えるお金の余裕もないから)更新ができない、最悪の場合は免許を捨てることも考えていると話した内海さんに「それならわたしが眼鏡を買ってさしあげましょう!キラーン!」という女神様が降臨した。驚愕した我々は横浜のルミネにある眼鏡屋さんに足を運び、そこで、内海さんの眼鏡を一緒に選んだ。女神様は、決して、内海さんをかわいそうだと思ったから眼鏡を買ってあげた訳ではないのだと話す。内海さんの話している感じがなんだかすごい面白くて、共感もできるし、なによりも楽しそうだと感じたから「眼鏡を買わせていただきたい!」と思ったのです。と。それは、まるである種のゲームに「自分も参加をしている」ような話し振りだった。

 

正しいからじゃない。優しいからでもない。人格的に優れた人間だからでもない。ただ単に「楽しいと思ったから」誰かに何かをしたい・自分から動き出したいと思う時、その行為は最も純粋なものであるように思う。わたしは思う。かわいそうな人間なんてひとりもいない。ただ、人間を「かわいそうだと決めつける」固定的な考え方があるだけだ。我々の生き方は、見る人が見たら、他者からの施しを受けなければ生きていくことのできないかわいそうな人々、愚かな人々、劣悪な人種、圧倒的敗者、社会のゴミ、地球のフケということになるのかもしれない。しかし、昨日、我々は一緒に笑うことができた。そこに上下関係はない。買ってあげたほうが上で、買ってもらった方が下だとか、そういうものの一切がなかった。我々はフェアに話し、我々はフェアに笑い、我々はフェアに同じ時間を楽しむことができた。

 

人間、ひとりひとり違うように見えて「実はそんなに違わない」と思うことは多い。誰だって、夕日を見れば感動をするし、お風呂に入れば気持ちがいいし、お寿司を食ったらうまいと思うし、夏の終わりは切なくなるし、期末テストが終われば開放感で「うおー!」となる。大富豪だろうが貧乏人だろうが、上流階級だろうが被差別部落だろうが、親が健在だろうが不在だろうが、多分、一緒に笑えるポイントは無限にある。一緒に遊べるポイントは無限にある。かわいそうだから一緒にいるのではなく、あなたがいなければ生きていけないから一緒にいるのでもない。ただ、一緒にいることが楽しいから、一緒にいることがうれしいから、一緒にいたいのだと思う。笑う時、時折、涙が出そうになることがある。ふれあいを通じて生まれる温もりが、凝り固まった『何か』を溶かして、涙となって流れるのだと思う。

 

 

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222-0012
横浜市港北区富士塚2丁目24-5
05010268936

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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嫌われないように生きるより、潔く、嫌われてしまおう。

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みなさまは、誰かに「クソババア」って思うことはありますか??実際に、誰かにむかって「クソババア」って口にしたことはありますか??わたしはあります。昨日、生まれてはじめてクソババアと女性にむかって言いました。なぜならば、クソババアと言いたくなるほどに、その女性が、クソババアだったからです。私は、クソババージン(クソババアと生まれてはじめて口にすること)を卒業したのです。

 

 

おおまかなスケジュール

 

2月1日~12日 FREE!【関東&関西】
2月13日 バリ【フランス】

2月14日 ヴェネツィア【イタリア】
2月15日以降、FREE!【欧州界隈】
2月21日 EVENT@ロンドン(詳細は決まり次第更新します)
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ケツの座りの悪い都会で。

一応、わたしにも「クソババアなんて言っちゃいけないよな」という良識はあります。なので、例えば、自分の発言や言動が誰かを不快にさせ、相手が激おこをもよおしてしまった場合などは「わたしの軽率な行動があなたを不快にさせてしまい、誠に申し訳ありません」みたいな言葉で謝罪をします。しかしながら、わたしの本心は、決して「自分が悪い」などとは思っていません。ただ、その場を丸く収めるために、相手が言ってほしそうなことを言ってあげているだけに過ぎないのです。

 

わたしは、学生時代の頃から教師を怒らせることが好きなタイプの人間(話が長い先生に、先生、あなたの話は長くてつまらないですと言っちゃう系)だったので、昨日、公開しているLINEで粘着質な女性から執拗に絡まれた際、ふと、そんな自分の特性を思い出しました。その女性は、彼女の一方的な思い込みでわたしに悪態の限りをついてきたのですが、さて、わたしはどのように返答をすれば彼女の誤解をとけるのか、とか、余計な刺激を与えずにそのままスルーをすればいいのか、など、そういうことを思い巡らせました。が、どれもこれもしっくりきません。消化不良で終わることは健康によくありません。そういうときは「自分に正直になるのが一番!」ということで、わたしは、一回冷静になって「いま、自分は彼女に対してどういう気持ちを抱いているだろう?」ということを観察することにしました。

 

出てきた言葉は『クソババア』でした。ああ、なるほど、そうなのか。彼女みたいな女性を世界はクソババアと呼ぶのだな、と、わたしは妙に腑に落ちてしまって、そんなことは言っちゃいけない、そんなことは言っちゃいけないと思いながらも「言ってしまったらどうなるのだろう」という好奇心がボロ勝ちをして、わたしは実際に口にしました。数々の悪態を書き連ねた彼女からの長文LINEに、わたしは、たった一行「クソババア」と返信をしたのです。その時は、もう、このやりとりが例えばスクリーンショットで記録されてWEB上などで公開されたとしても、別に、全然それでいいやという気持ちでした。わたしは、クソババアと言わない側の人間ではなく、クソババアと言ってしまう側の人間なのだと、そういう感じの市民権をあらかじめ得てしまった方が「結果的に生きることが楽になる」と感じたのです。

 

🌸🌸🌸わたしが生きる力を得ているKUMUさんの記事です🌸🌸🌸 

note.mu

 

嫌われないように生きるより、潔く、嫌われてしまおう。

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茅ヶ崎の海に行ってきました。

 

普通なら『クソババア』なんて口が裂けても言わないものだと思います。たとえ、誰かをクソなババアだなあと感じたとしても「この感情をどのように言い換えたら、相手を不快にさせない感じで、かつ、自分の言いたいことを的確に相手に伝えることができるだろう」みたいなことを考え、それを実践するのが『おとな』のやることなのだと思います。わたしも、一回、それをやろうと頑張ってみました。が、やっぱり、ダメなものはダメだったのです。遠回りな変化球を投げるトレーニングを重ねるよりも、わたしは「ストレートに勝負をしたい」と思ったのです。

 

普通なら言い換える。それがおとな。なら、おれはこどものままでいいや。なら、おれはクソガキのままでいいや。と、そういう感じの許可を自分に出して、わたしは『クソババア』と返信しました。返信しながら、ちょっと、体が震えていることを感じました。そうなのです。わたしの精神は、しっかりと怯えているのです。恐怖心がないからそういうことを大胆にやれるのではなく、しっかりとビビりながら、恐れながら、おののきながら、そういうことをやっ(ちまっ)ているのです。とは言いましても、では、クソババアと言ったことを後悔しているのかと言うと、それがまた微塵も後悔をしていないのです。非常に爽快な気持ちになり、長く続く便秘が解消した時のように、晴れやかな心持ちで「清々した」と感じるのです。

 

不思議なもので、人間は無意識のうちに「嫌われないためにはどうすればいいか」とか「失敗しないためにはどうすればいいか」という思考をする生き物だと思います。無論、真っ当な社会生活を送るためには必要な思考だとは思うのですが、どうしても、それだけでは窮屈に感じてしまうことが頻繁にあります。そんな時は、嫌われないためにはという制約を一旦全部取っ払って、逆に『思い切り嫌われに行く』というクソガキ的な在り方は、ひとつの突破口になり得るのではないか、と、そんなことをわたしは思ったのであります。無論、その後の反動も尋常ならざるものになりますが、それらを差し引いても「今日の俺、言ってやったぜ!」と思える1日があるということは、人生に素晴らしい広がりを与えるものだと感じました。 

 

 

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Chigasaki

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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一歩踏み込む。

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昨夜22時過ぎに「坂爪さんといつか話したいです!」と女性M様からLINEが届き、いつかとか言ってんじゃないよと思って「今夜ならいけます!それ以降は死んでいるかもしれません!」と御返事をした。ら、急遽、その日の24時に渋谷駅で落ち合うことになって我々は合流をした。適当なバルに入り、私はラムコークを、M様はりんごジュース(氷抜き)を注文した。氷を抜いた分、しっかりと全体量も少なく運ばれてきたりんごジュースを見て「この店はクソだな」と思ったことは内緒だ。

 

 

おおまかなスケジュール

 

1月28日~2月12日 FREE!【日本】

2月13日 欧州リベンジ【東京~パリ~ミラノ】

2月14日以降、FREE!【欧州界隈】
2月21日 EVENT@ロンドン(詳細は決まり次第更新します)
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】

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ぶつかり稽古。

M様の話を聴きながら、なんだか、この人の言葉は頭で話されていることが多いなあと思った。私は、話を聞くときに、その言葉が「頭から出ている」のか「腹から出ているのか」を注意深く聞く。頭から出てくる言葉は一旦全部無視をして、腹から出てくる言葉だけに反応をする。だから、一見すると愛想が悪くて怒っているように見られることは多い。そんなことはない。私は全然怒ってなんかいない。だけど、あまりに誤解されることが多いから「なんだか頭から話される言葉が多いですね」とストレートに伝えることにしている。昨夜も、M様に、そのように伝えた。

 

M様は言う。頭で話していることは自分でも良くわかる。しかし、どうすれば腹から声を出せるのかがわからない。私は、自分から湧き出してくる思いに自信がない。だから、常に「正解とされていること」を必死に探して、それを使って会話をしてしまう。でも、そんな自分はもうこりごりなんです。私は自分を変えて行きたい。でも、どうすればいいのかがわからない。坂爪さん、私はどうすればいいと思いますかといきなり聞かれたので「それでは僕と相撲をとりましょう」と私は答えた。M様は「えっ!(なに言ってんのこいつ!頭おかしいんじゃないの!)」と軽く狼狽をした後、しばらく考えて、それはいい考えなのかもしれませんということを言った。我々は、バルを離れ、相撲をとるために真夜中のホテル街に向かった。

 

このあとの流れは読者のみなさまのご想像にお委ねする。大体、頭の問題を頭だけで突破することは無理がある。頭の問題こそ「体で突破する」ことが基本だと思う。文字通り、生々しいぶつかり合いを通じて「わー!」とか「ぎゃー!」とか叫び声をあげ、激流の渦に飲まれてへどろもどろになりながら、その体験を経て得た諸々を『生きた糧』にすればいいのだと思う。先に正解があって、それに従うという生き方は変だ。まず先に生き方があって、生き方の数だけ正解が生まれる。それが多様性だ。だから、正解は「みんなと同じ」である必要はない。自分にとって、それが正解ならば周囲から「お前は頭がおかしい」と言われても、それは正解になる。ぶつかり稽古を終え、M様の表情は清々しいものになった。無邪気な笑顔にあふれ、体が軽くなったと話した。それを見て、私も清々しい気持ちになっていた。

 

一歩踏み込む。

前に、KUMUさんと話したときに「バイクの教習所で立ちごけをしてしまって、その反動でコサックダンスを踊り出したら止まらなくなってみんなが見ている前で永遠に踊り続けてしまった恥で死にたくなった」とか「家の前でうんこ座りをしながらタバコを吸って、長渕剛の『とんぼ』を熱唱していたら近所のご夫婦に目撃されてしまってもう生きていけない」などと聞かせてくれた。私は、KUMUさんのこういうところ(ちゃんと恥ずかしがるところ)が大好きだ。じゃあやるなよ、とも思うけど、それ以上に「やり続けてほしい」とも思う。私は、変な人間が大好きだ。

 

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こういうことを書いていたら「坂爪さんの最近の記事にはがっかりしています!自分の好き嫌いを露骨に書くなんて!もう、あなたの記事を読みたいとは思いません!この、差別主義者!」などと訴える連絡が届いた。こういう連絡は稀に届く。勘違いをするなよと思う。別に俺はお前の期待に応えるために生きている訳ではないし、勝手に期待して、勝手に裏切られたと思う自分のメンタリティをまずは疑ってみたまえと思う。お前は甘い。ケーキにシロップをかけて食べるよりも甘い。ある意味同僚の保科さんは、今、宮城で死に物狂いの取り組みをしている。その営みに意味があるのか、ないのか、そういう基準を飛び越えたことをやる人間がいる。私はそういう人間を美しいと思っているだけであり、そうではない人間を醜いと言っている訳ではない。ただ、私は、私が「潔し」と思う人間を賛美したいだけだ。

 

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一歩踏み込む。一線を越える。それだけで毎日はドラマになる。心理学等では「これは相手の問題です」とか「これは相手の領域です」とか、自己と他者を切り離して考えることを勧める。言いたいことは物凄いわかる。でも、それだけではさみしくないかと思う。私は、冷たい正論よりも温かい暴論を愛する。相手の問題であることを知った上で、余計なお世話を承知の上で、能動的に問題をひっかぶり「一緒に相撲をとりませんか」という提案をする。これは、私なりの愛情表現である。相手のためを思って言わない優しさもあれば、相手のためを思って言う優しさもある。優しくする優しさもあれば、優しくしない優しさもある。寄り添う優しさもあれば、あえて寄り添わない(どーん!と突き放す)優しさもある。優しくするとはなんだろう。上下関係の香りがする。それよりも、私は「一歩踏み込む」ことを大事にしたい。どちらが上とか下とかない。互いに同じ人間である。だからこそ、もう一歩踏み込むことで「傷つきながらも絆を深める」方向に舵を取りたいと思う。

 

 

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大丈夫じゃないことも含めて、大丈夫。

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初対面の人に「お仕事は何をしているのですか?」と聞かれることが面倒臭いから、最近は「アルピニストです」とか「キャンドルアーティストをやっています」とか、適当なことを答えている。それを聞くと、相手は「えー、登山家なんですか!」とか「キャンドル作れるんですか!」とか言うので、私も「そうですね、登り続けている山があります」とか「心のキャンドルを灯しています」とか答える。

 

 

おおまかなスケジュール

 

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男の日常。

ミユさんとの出会いは衝撃的だった。帰国直後、ミユさんの妹・KUMUさんと東京の町田で会った。素晴らしい時間が流れた。私はヤンキーが好きみたいだ。言い換えるなら「タンカを切って生きている」人が好きみたいだ。最近、兵庫県明石市長が「燃やしてしまえ」発言で問題になった。巷の人々は「人としてありえない」とか「ナニワ金融道じゃあるまいし」などと、お利口ちゃんなことを言う。私は、市長側の人間だ。私が市長なら、骨のある人間と出会いたいと思う。言い訳を重ねる人間ではなく、筋を通す人間と一緒に仕事をしたい(生きていきたい)と思う。

 

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昨夜、ごちゃまぜの家に『プロ罰ゲーマー』でおなじみの嘉向徹さんが来た。彼と音声配信を収録した。嘉向徹さんは話す。巷では「好きなことだけで生きていく」などと言われていますが、その、逆です。僕は、嫌なことだけで生きているのです。と。私はカミナリに打たれたような衝撃を覚えて「こ、これだ…!」となんだかひどく感動をした。私は『逆』をやる人間が好きだ。ロボトミーとかオンラインサロンとかパーマカルチャーとか『今っぽいこと』をやる人間より、明らかな損、明らかな愚、明らかなデメリットに身を投じることができる人間に『男』を見る。

 

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自分の頭で考える人が好きだ。体にいいと言われているから健康食を食べるより、これを食べている時の方が自分の調子がいいからと、ジャンクフードを食べる人間の方が好きだ。健康食とか、正直「長生きをしてどうする」と思う。各種メディアは「長寿の秘訣はなんですか」みたいなことを長寿の人に問う。そして、世間はその秘訣をありがたがって聞く。なにかが違う。長寿だからなんだと言うのだろう。生きることより「生きてなにをなすか」だと思う。健康食ってけち臭い。理由は「命を守りにはいっているから」だと思う。メンテナンスは大事だ。が、長寿であることが最優先事項になった時、その人は「生きながら死んでいる」と思う。

 

 

大丈夫じゃないことも含めて、大丈夫。

私は「お利口ちゃん的な発言」が嫌いなのだと思う。だから、ミユさんやKUMUさんや嘉向徹さんを見ると「うおー!」となるのだと思う。愛とか、自由とか、そういう概念を大事にしたいと思う人々は大量にいる。しかし、それを体現している人間は少ない。変な感じのひとが「愛は見返りを求めません」とか言っているのを見ると、腹を蹴りたくなる。嘘をつくな、と。綺麗事を言ってんじゃないよ、と。お前はそんなにできた人間なのか、と。それは、ただ単に「影響を与え合うことを恐れているだけ」なんじゃないのかと。愛して、愛したがゆえに傷つくことを恐れているだけ、誰かと一緒に生きることにビビっているだけなんじゃないのかと思う。

 

ミユさんは「自伝(21)」の中でこう言った。見返りのいらない行動のみが本物ならば、与えた愛によって「相手が喜ぶ姿を見て自分が満たされる」ことは見返りとは言わないのか?すんごい見返りじゃん!無償の愛を美化するのは、人が人に影響を与えるのは悪いことだと考える原因にならないだろうか?人に迷惑をかけてはならないというのと、同義ではないか?影響のすべてを迷惑だと言っているのと同じではないか?影響しあわないことが、最上であると言えるのだろうか?それむっちゃ寂しくないか?そこまで私たちは「個」なのだろうか?世界を一緒に創っていると考えてもいいのではないだろうか? ー きっと人は、変化を認め、影響しあっていることを認め、そこを祝いあってもよいのだろう。観察の対象を永遠に自分の目線でしか見られない、ひとりぼっちのもうそこで十分に「個」であるからこそ、人は違いを持ち寄って笑いあえる、互いに優しくなれる存在なのだろう・・・。

 

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変な生き方をしていると「大丈夫ですか」と心配をされることは多い。私は、大丈夫じゃないことも含めて、大丈夫なのだと思う。そんなことをやっても死ぬことはない、という意味ではない。それは「どう転んでも大丈夫」「死んでしまっても大丈夫」「生きても死んでも大丈夫(トータルでOK!)」という感覚に近い。人生は、無傷で墓にはいるためのレースではない。逆に、生きれば生きるほど、消えない傷は増えるものだ。人と人がしっかりと付き合おうとすれば、傷つくことは避けられない。だからこそ、傷つかないように生きるより、しっかりと傷つくこと。たとえ、それが周囲から「お前は弱い」とか「自分勝手だ」とか「配慮が足りない」と言われるようなことでも、自分が『それをやりたい』と思ったならば、実際にやること。その『実際にやること』こそが、生きているということなのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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神は、消え去るものを美しく作った。

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夢や目標ってなんだろう。自分にはわからない。ただ、明日死ぬとしても、後悔のしない一手を選びたいと思う。とか言いながら、たとえ、どれだけ素晴らしい一手を選べたとしても、死ぬ間際には「死にたくねえなあ」って思いながら死ぬのだろう。こんなに素晴らしい人生、まだまだ終わらないで欲しいなあって、夕日を眺めるみたいに思うのだろう。ただ、夕日が美しいのは、沈むからだ。やがては消え去るものだからだ。夕日。蝋燭。人間の命。神様は、消え去るものを美しく作った。

 

 

おおまかなスケジュール

 

1月28日~2月12日 FREE!【日本】

2月13日 欧州リベンジ【東京~パリ~ミラノ】

2月14日以降、FREE!【欧州界隈】

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生身の人間。

私に肩書きはない。だから、人前で話をするときは自己紹介に困る。最近、自分の職業は「生身の人間」なんじゃないかなと思う。ありがたいことに、私のような人間に「会いたいです」と連絡をくださる方がいる。時間が許す限り、必要とされる限り、できるだけ実際にお会いするようにしている。多くの方々は「なぜ会いたいと思ったのか、自分でもわからないけれど会いたいと思った」というようなことを言う。話を聴きながら、私は思う。人々は「あなたの話が聴きたい」というようなことを言うが、多分、それは違うと思う。一方的に話を『聴きたい』のではなく、実際は、話を『したい』のだと思う。人間的なやり取りを交わしたいのだと思う。

 

日本だけでも一億を超える人間がいるのに、人間の孤独が薄まることはない。逆に、年々深まっているようにさえ思える。私は、人間と話していても「人間と話している」と思えないことがある。定型的なパターンで会話をされているな、とか、思い込みで決めつけられているな、とか、まるで機械と話しているように感じることは多い。ただ、時折、これはとても稀な出来事だけれど「ああ、いま、自分は人間と話せている!」と思える瞬間がある。そういう瞬間はたまらなく嬉しい。やっと出会えた。俺は、やっと人間に出会えたのだと思うと嬉しくなる。私と話すことで、時折、原因不明の涙を流す人がいる。涙を流しながら、その人は「自分でも、なぜ泣いているのかわからない」みたいなことを言う。私は思う。それは、人間と出会えた喜びを感じているからだと思う。本当に話したいことを話している実感、本当に聞いて欲しいことを聞いてもらえているという実感があるからだと思う。

 

生身の人間が欲しい時がある。肩書きや、役割や、損得勘定や、上下関係や、利害関係や、そういうものを超えて「生身の人間としてフェアなやりとりを交わしたい」と思うことがある。しかし、念願が実現する機会は少ない。だから、自分みたいな人間も生きる(生かされる)ことができるのだと思う。女性に多いが、よく聞く言葉に「私は自分の気持ちを上手に話すことができない」という言葉がある。昨日も、同じ言葉を聞いた。その時、私は「話すのが苦手なんじゃなくて、聞いてくれる人がいなかったのではないか」と思った。そして、そのように伝えた。すると、突然、女性の瞳から一筋の涙が流れた。私は、誤解を恐れながら言うと「よっしゃ!」と思った。風穴が空いた。風穴さえ開けば、あとはいくらでも会話を交わすことができる。だから、私は、時折「これを言ったら相手は泣いてしまうかもしれないけれど、でも、言う」みたいなことをやる。そこからはじまる会話がある。

 

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神は、消え去るものを美しく作った。

誤解を恐れながら言うと、私は、女性と話している時に「お前はもっと綺麗になれるよ」と思うことがある。本領を発揮されていないものを見ると、怒りのようなものが湧き出して、お前はなにをやっているのだと説教をしたくなる。もっと言えば「俺と一回不倫でもするか」と思うこともある。不倫。不正の倫理。倫理の枠を一旦外れることで、発揮される本領がある。それは何も『性的』なものに限らない。自分が、こうでなければならないと思っていたものの外側を生きる。社会的な人間から、一時的に、動物的な人間になる。その時に気づく。自分なんかダメだと思っていたのは社会的な人間の部分の話であり、動物的な部分は、常に生命の咆哮をあげている。それは、ある種の怒りを伴った命の叫びだ。何に対する怒りなのか。それは、自分を含めた「人間をみくびるんじゃねえよ」という怒りの叫びだと思う。

 

優しいひとほど、その優しさによって「自分自身を傷つけている」ことがある。しかし、私は思う。自分が我慢をすることで維持される平和なら、そんな平和は偽りだと思う。自分の感情を丁寧に扱えない人間が、他人の感情を丁寧に扱えるとは思えない。もっと自分を出して見ろと思う。誤解を恐れずに言えば「いい子ぶってんじゃないよ」と思う。優しさ。感謝。思いやり。素晴らしい概念だとは思う。しかし、その優しさが自分を停滞させることがある。その感謝が、延命措置のように現状維持を助長することがある。その思いやりが、自己犠牲的なものとなって自分を傷つけることがある。だから、もっと自分を出して見ろと思う。たとえ、それが一般的には稀な感情だとしても、社会的に歓迎されない感情だとしても、それが自分自身なのだから、自分のままでぶつかってこいよと思う。そうじゃないと、自分は、一体誰と話しているのかがわからなくなる。自分は、一体誰なのかということがわからなくなる。自分は人間といるのか、機械といるのかがわからなくなる。

 

自分を押し殺して世の中を憎む方向に舵をとるより、ただ、自分のままでありたいと思う。誰かと心を通わせることができたという実感の中には、人生全体を肯定する力がある。最大の宝は、人間の心だ。当たり前のことだが、私も、あなたも、永遠に生きることはできない。やがては消え去るものであり、100年後にはおそらく全員がこの世界からいなくなる。だからこそ、やがては消え去る者たちが「その時、その瞬間、抱いた想い」こそを尊いのだと思う。決して、みんなと同じ感情を抱くことが尊い訳でも、みんなと同じ生き方をすることが尊い訳でもない。真逆だ。自分が自分であることが尊いのだ。だからこそ、私は、たとえその感情が「怒り」や「悲しみ」や「苦しみ」などといった社会的に歓迎されるものでなかったとしても、それがあなた自身であるのならば、その想いこそを『美しい』と思う。

 

 

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Paris

 

人生は続く。

 

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人の生き方を笑うな。

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ミラノを経由してアムステルダムに到着した。ミユさんとの出会いの名残が消えない。いまもまだ『さみしい』ままだ。明日はパリを経由して東京に戻る。パリでは、K様が空港まで迎えに来てくださることになった。好きだと思う人とは、なにをするというよりも「会って話せる」ことが嬉しい。バゲットを食べるとか、お茶を飲むとか、それらは口実に過ぎない。大事なことは『会う』ということだ。人間以外が主役になることはない。あくまでも、メインディッシュは『心』だと思う。

 

 

おおまかなスケジュール

 

1月25日 アムステルダム【オランダ】

1月26日 パリ【フランス】

1月27日 わたり食堂【0円食堂】

1月28日~2月12日 FREE!【日本】

2月13日 欧州リベンジ【東京~パリ~ミラノ】

2月14日以降、FREE!【欧州界隈】

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ibaya.hatenablog.com

 

今を生きるのは、強さではない。

欧州では総計六回イベントに出た。イギリスで二回。フランスで二回。イタリアで二回。一番言われた言葉は「あなたは今を生きているからすごい」という言葉だ。私は、頻繁にそのような言葉を言われる。そして、言われるたびに違和感を覚える。確かに、わたしは『いま、この瞬間』を大事にしたいとは思っている。しかし、それはわたしの強さではない。昔から、わたしは何をやってもダメだった。周囲にうまく馴染めない。過去も未来も背負えない。思ってもいないことを言えない。社交辞令を使えない。愛想笑いをすると死にたくなる。ライフプランというものを立てることができない。あらゆるものを背負うことができない。そんな自分が、かろうじて背負うことができたものが『いま』だけだったに過ぎないだけだ。

 

普通だったら、いい学校を出て、いい会社に入って、これくらいの年齢で結婚をして、家を買って、老後までにこれだけの蓄えを築く、みたいなことを考えるのだろう。しかし、わたしにはそれができなかった。無目的のまま移動を続ける日々を過ごすと「あなたは勇気がありますね」などと言われる。これも、少し違うと思う。わたしから見ると、30年ローンを組んで家を買うひとの方がよっぽど勇敢に見える。自分には絶対にできない。家がないこと、仕事がないこと、周囲にうまく馴染めないことは、自分にとっての必然だった。そんな自分でも生きていくためには、と、あらゆることを試みた。しかし、そのどれもがうまくいかず、どうすればいいのだ、どうすれば自分みたいな人間でも生きていけるのだろうかと散々思い悩んだ結果、たまたま『もたない』という生き方がはまり、それを続けているだけだ。

 

たくさんの生き方が目の前に広がっていて、いま、その中のひとつを生きているわけではない。他のすべての生き方がまったくダメで、かろうじて、この生き方ならできるかもしれない。そう思えたものが『いまの生き方』なのだと思う。過去も未来も背負えない。人並みであることができない。周囲と足並みを揃えることができない。そんな自分でも、これならば背負えると思えたものが『いま』であり『自分であること』だった。わたしには何もない。過去もない。未来もない。これは強さではない。過去も未来も背負えない『弱さ』だと思う。わたしにあるのは『いま』と『自分』だけだ。わたしは弱い人間だ。弱い人間は生きていけないと思っていた。しかし、いま、わたしはわたしの弱さによって、生きていることを感じる。


🇮🇹🇮🇹🇮🇹かおりさんが素晴らしい文章を書いてくれました🇮🇹🇮🇹🇮🇹

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人の生き方を笑うな。

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日本からひたすら地面を掘り続けて、それでブラジルまで行こうと考えている二人の男がいたとする。彼らは、本気で「ブラジルに行ける」ことを信じている。自分たちが生きている間に、どうにかしてブラジルまで通じる穴を掘ってみたい。彼らの情熱は、ただ、そのことだけに注がれている。そんな人間がいたとして、果たして、周囲の人間は彼らをどのような目線で眺めるだろう。笑うだろうか。馬鹿にするだろうか。そんなことは無理に決まっていると、素通りをするだろうか。わたしは、なぜか、そういう人間を見ると泣きそうになる。できるかどうかは重要じゃない。問題は「やるかやらないか」であり、無謀だと思えることに、無意味だと笑われるようなことに、全力を傾ける人間を目の当たりにすると涙が出そうになる。

 

父親が危篤をむかえている少女がいたとして、少女は、ある日「星の数を数え上げることができたら、おとうさんの病気は治るよ」と誰かに言われたとする。それを聞いた少女は、毎晩、夜になったら外に出て星の数を毎日毎日数え続ける。おとうさんの病気を治すために、自分ができることを精一杯の力で成し遂げようとする。しかし、星の数はあまりにも多く、幼い少女にはどれだけやっても数えきることができない。それでもなお、少女は毎晩外に出て、暑い日も、寒い日も、星の数を数え上げつづけたとする。そんな人間がいたとして、周囲の人間は少女をどのような目線で見るだろうか。笑うだろうか。馬鹿にするだろうか。無意味なことだと軽蔑をして、そんなことよりも働いて手術代でも稼げ、みたいなことを思うのだろうか。わたしは、こういう人間を見ると、たまらなくなって泣きそうになる。なにかのために命を燃やすその姿に、祈りにも似た、どうしようもない美しさを感じる。

 

ミユさんを愛する理由は、生きることに一生懸命だからだ。トンネルを掘り続ける男たちのように、父親のために星の数を数え上げる少女のように、真っ直ぐで、愚かで、愛しくて、哀しい、純粋な命の煌きに、どうしようもなく惹かれてしまう。わたしは、たとえ、周囲から「そんなことは無理に決まっている」と言われるようなことでも、実際にやり続けた人間、否、どれだけ無理だと言われても『自分であることをやめることができなかった人間』に、おさえることのできない魅力を覚える。そして、永遠にそのままであってくれと願う。それは、誰かのために願っているようで、実際は『誰かを通じて、自分のために願っている』のだと思う。トンネルを掘り続ける男。星空を数え上げる少女。誰がそれを笑えるだろう。誰も笑えない。否、笑われたとしても構わない。この世の中で、一番美しい行為は『祈り』だと思う。すべての美しいものは悲しみを内包している。それは『永遠には見ていることができない』という悲しみだ。祈りとは、永遠に手を伸ばす行為だと思う。永遠に生きることはできないわたしたちが、永遠を肉体に刻みつける行為だと思う。

 

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Milano

 

人生は続く。

 

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小さな勇気と、大きな変化。

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ミラノがクソすぎて震えた。震えたのは寒さのせいで、宿泊予定の家を「ここにいたくないので帰ります」と悪態をついて道路も凍てつく氷点下の街中に飛び出したからだった。半ばやけくそになって「俺は帰る!日本に帰る!」と思って航空券を調べたら、片道で帰るより往復便の方が圧倒的に安かったので2月12日に再びミラノに行くことになった。悪態こそ我が命。今回は、私が欧州でまみれた悪態の諸々を書き綴りたいと思う。

 

 

おおまかなスケジュール

 

1月25日 アムステルダム【オランダ】

1月26日 パリ【フランス】

1月27日 わたり食堂【0円食堂】

1月28日~2月12日 FREE!【日本】

2月13日 欧州リベンジ【東京~パリ~ミラノ】

2月14日以降、FREE!【欧州界隈】

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悪態日記。

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パリではホームレスが問題で、ミラノではジプシーが問題になっている。ホームレスは街中や地下鉄に布団を敷いて眠るし、ジプシーは集団になって通行人の鞄や財布を盗む。パリでは「ホームレス支援施設は大量にあるが、彼らを保護しても大概はみんな再び路上に戻る。彼らになんてアドバイスをしたらいいと思うか」と、ソーシャルワーカー的な人に問われた。私は、基本的にホームレス側(ジプシー側)の人間だから、彼らの気持ちがよくわかる。一番の問題は、社会復帰を支援されたところで、その社会が「復帰したい」と思えるものでなければ、なんの意味も効果もないということだ。日本の不登校問題も同じことだ。彼らは、乱暴な言葉を使えば「クソみたいな社会に適応するくらいなら死んだ方がましだ」と思っている。

 

私は、誰かを救いたいと話す人間の『無自覚な上から目線』が大嫌いだ。無自覚だからタチが悪い。ぶった斬りたくなる。彼らは、誰かのためとか言いながら「いい人ぶりたいだけ」「弱者を利用して褒められたいだけ」に見える。お前は何様だと思う。極論、私は、ホームレスの人々は「そうしたいからやっている」ように見える。表面的にはどれだけ惨めに見えたとしても、彼らは、それを自分で選んでやっているのだ。だから、ああだこうだと言う必要はない。彼らを責めたり社会復帰させることにエネルギーを注ぐより、自分が生きたいと思う社会の土壌を開墾する方が絶対にいい。結果的に、自分のために生きることが自分みたいな他の誰かのひとにとっての役に立つ。助けたいとか耳障りの良い言葉を使うのではなく、ホームレスやジプシーが嫌いなら、嫌いだとはっきり言えばいい。駆除をしたいと言えばいい。排除をしたいと言えばいい。そう言う言葉を使わずに、助けたいという言葉を隠れ蓑にして排除をしようとする偽善が、私は一番嫌いだ。支援とは、要するに『暴力』だ。排除される人間は、日々、上から目線の暴力を受けている。だから、彼らが通行人に悪さを働くとしても、それらは「ある種の仕返し」に過ぎない。

 

自分を正しいと思っているひとほど、私には、醜く見える。支援団体は「ホームレスは不幸に決まっている」という前提で話をする。誰だって、決めつけられたら反発をしたくなるのは同じだろう。お前は不幸だ。だから、私がお前を助けてやる。お前は私の言うことを聞くべきだ。こういうことを話す人間は、やがて「助けてやると言っているのに、私の言うことを聞かないお前は何様だ!」という怒り方をする。私が、寒空の下「ここにいるよりはまし」と思って深夜の路地裏を保科さんと徘徊したのも、これと同じ理由だ。クソみたいな社会に適応するくらいなら、頭をさげたくないやつに頭をさげるくらいなら、死んだ方がマシだ。と。そう思って真夜中のミラノを震えながら歩いた。寒過ぎたが、心は、晴れ晴れとしていた。いまの俺たちをミユさんが見たら、笑ってくれるだろうかなどと話したら真っ先に我々が笑えた。記録より血痕(を残す)。ああ、俺たちは不良なんだなと思った。

 

🇮🇹🇮🇹🇮🇹ミユさんありがとう🇮🇹🇮🇹🇮🇹 

note.mu

 

🇮🇹🇮🇹🇮🇹悪態日記の音声配信🇮🇹🇮🇹🇮🇹

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小さな勇気と、大きな変化。

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要するに『決めつけ』や『上から目線』が嫌いなのだと思う。家なし生活をしていた頃の話をしたら、ある女性から「要するにあなたは人が好きなのね」みたいなことを言われた。私は、その言い方がものすごい嫌だったから「人は好きだけどお前は嫌いだ」と思った。が、さすがにそこまでストレートに言えなかったから「その質問は嫌いだけど人間は好きです」と言った。私のことを知らない人々にも大量にあったから、色々なことを言われたし、色々な人間の表情を見た。誤解を恐れながら言うと、私は、鏡に過ぎないのだと思う。私を通じて、目の前にいる人間の本性があぶりだされる。私を見て怒リ出すひともいれば、私を見て柔和になるひともいる。彼らは、坂爪圭吾の話をしているようで、自分自身の話をしているに過ぎない。だから、醜くなる人はより醜くなり、美しくなる人はより一層美しくなった。

 

イベントに登壇すると、どうしても「どうすればそんなに人から助けられるのですか」とか「どうすればそんなにフォロワーが増えるのですか」とか「どうすればそんなに不安や恐怖を消せるのですか」とか、そういうことを聞かれる。これに違和感がある。なんだか、自分という人間の人生がいいことばかりで構成されているような、そして、聞き手自身も「どうすれば失敗しないでうまくやれるか」みたいな、ある種の秘訣だけを聞きたがっているみたいに思えるからだ。当たり前だが、この人生、いいことばかりじゃあない。色々なことがありながら、その『色々』のすべてを引き受けて、時には血を吐きながら生きているのがいまの自分だ。それを、痛い目にあうことは抜きに、ただ、うまくやるためにはどうすればいいかなどと聞かれても分かるわけがない。痛い目にあえ。そう思った。ある人は言う。わたしもあなたみたいな自由な生き方に憧れるけれど自信がない。と。わたしは思う。自信がないのではなく、失敗をしたくないと思っているだけだ。だから、どんどん失敗をすればいいのだと思う。どんどん痛い目にあえばいいのだと思う。痛い目にあわずして、精神的にタフになる道【自由に生きる道】をわたしは知らない。

 

ミラノがクソすぎたなどと書いてしまったが、いま、ミラノの空は突き抜ける快晴で最高に気持ちいい。良いことも悪いことも、過ぎればすべてが良い思い出だ。だから、ミラノに来なければよかったなどとは微塵も思わない(というか来月にまた来る)。フィレンツェからミラノまでの交通費で軽く100ユーロをロスして、結果的に無一文になったから一旦日本に戻る。ミラノで会った方々は『酷い目に遭った』と思った人もいるかもしれない。しかし、それはお互い様だ。わたしは、酷い目に遭うことを悪いことだとは思わない。酷い目も、長い目で見れば『必ずしも酷い目ではなかった』と後から気づくことがある。だから、全部来い。喜怒哀楽の全部、清濁の全部、善悪の全部、生きることの全部、どんと来い。どこまで受け止めきれるかはわからないが、時折寒空のしたマクドナルドのゴミ箱の前で震える夜を過ごすこともあるが、そのすべてを引き連れて生きていきたいのだと思う。

 

 

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Hasta la vista!

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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幸せになっていいよ。

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ミユさんと会って別れてさみしい。さみしいということは、幸せだったということだ。これは並大抵の幸せじゃない。他にはなにもいらないと思えるほどの、ここにすべてあると思えるほどの、生きてきたすべてが肯定されるような、生きてきたすべてが報われるような、そういう類の幸せだ。昔の人は、愛しいとかいて『かなしい』と読み、美しいとかいてさえ『かなしい』と読んだ。さみしいということは、幸せだったということだ。そして、いまもなお、自分は幸せであるということだ。

 

 

サッカレーに「愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことは、その次によい」という言葉がある。誰かを愛する時、同時に『失う痛み』もついてくる。しかし、失う痛みにあらかじめ備え、相手を深く愛さないようにするとか、常に用心深く接するのでは、いつまでもひとりぼっちのままだ。愛して、愛して、愛した人を失う苦しみにもがく人がいたら、その人は不幸なのか。その人は『愛した人』と出会わなかった方が良かったのだろうか。それは違うだろう。愛して、愛して、愛したがゆえに苦しむとき、その人は世界で一番幸せなのだと思う。

 

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ノーマルになれないことは、ノーマルなんだ。

言葉には二種類あると思う。世界から色を奪う言葉と、世界に色を与える言葉だ。私は、ミユさんの言葉に触れると、ミユさんが描く世界を自分も生きたいと思う。言葉に色があり、言葉に心があり、言葉に音楽があり、言葉に世界があり、そこには自分の居場所もある。四年前、私は『みっつ』という男性と出会った。みっつの言葉と、まったく同じ感覚をミユさんに抱く。ミユさんは、言葉を通じて世界に色を与える。孤独な時、退屈な時、生きづらさを抱える時、世界はモノクロに見える。美しいもの、素敵なもの、心踊るものに触れた時、世界はカラフルに映り変わる。

 

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ミユさんと話して感じたことのひとつに『みんな同じなんだ』という感覚がある。食事中、ミユさんの娘さんが、肉を噛みながら自分の口の中も噛んだ。傷口が痛いだろうに、娘さんはなぜかレモンをまるごと口に放り込み「うおー!」みたいな表情を浮かべ、増幅する痛みを楽しんでいた。周囲は「なぜ、そんなことを!?」みたいな感じになったが、そこで、ミユさんがボソッと「人間は実は苦しみたい説…」みたいことを仰った。この言葉に、私は強烈な衝撃を受けた。仮に、人間は実は苦しみたい願望があるのだということにしたら、なんというか「なんとなく、わかる〜!」という納得感と共に、人間全体に対する親しみが湧き上がってきた。

 

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ロンドンでこんな言葉を見た。「自分は時々、ノーマルでありたいと思う。そして、頑張ってノーマルであろうと努力をする。しかし、ノーマルであることにやがて飽きて、自分は自分であることに戻る」という言葉だ。私は、この言葉に共感を覚えた。そして、この言葉に共感する人は自分以外にもいるはずだと思った。その時、わたしは、なーんだ、みんな同じじゃないかと思った。ロンドンの町並みを歩けば、すれ違う人々はみんな外国人だ。自分は黄色人種で、相手は目鼻顔立ちの異なる白人で、ともすれば別の生物のように思えてくる。しかし、日本人だろうが外国人だろうが、みんなと同じになれないことに悩んだり、悩みながらも「自分は自分でいいのだ」とか思っているのだとしたら、まったくもって人間だなあと思う。違いに意識が行くのではなく、共通点に意識が向かうとき、私は『人間全体に対する親しみ』を覚える。人間を「かわいいなあ」と思う。そして、この感覚こそを大切にしたいのだと思う。きっと、ノーマルになれないことは、ノーマルなんだ。それならば、きっと、わたしたちひとりひとりは『違う』という点において同じだ。

 

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幸せになっていいよ。

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ミユさんと過ごした時間はカラフルだった。ひとりになったいまもまだ呆然としている。ミユさんの魅力を伝えたいのに、出会いの喜びを克明に刻みたいのに、語れば語るほど、語りたいと思うものから遠ざかる。言葉が足りない。語彙力が足りない。そういうことを感じてしまう。でも、本当は、言葉は最初からそこにあった。言いたいことなんて、実は「あなたのことが大好きです」の一言だけだ。わたしはミユさんが大好きだ。それだけだ。それを思えたことが嬉しくて、それを伝えられることが嬉しくて、誰かを心から『好き』になることができたことが嬉しいのだ。

 

ギターをお借りして、紅の豚カリオストロの城ニューシネマパラダイスの音楽を弾いた。最終的に一緒に歌う形になり、スピッツの「空も飛べるはず」を演奏した。曲の歌詞が瞬間の気持ちにリンクをして、胸にグッときた。君と出会った奇跡がこの胸にあふてる。人と人が出会うことのインパクトは、こんなにも大きいものなのかと、今更のように感動をした。こんな気持ちにさせてくれてありがとう、と、ミユさんに思った。あなたのおかげで、生きることが楽しいことになりました。あなたのおかげで、生きることが嬉しいことになりました。あなたのおかげで、生きることが素晴らしいものになりました。あなたのおかげで、私は、この人生をいままでよりももっと価値のあるものとして感じられるようになりました。

 

思う存分に笑って、思う存分に愛していきたいと思う。きっと、それが『生きる』ということだ。いいことばかりではないと思う。痛い目にあうこともあるだろう。でも、それが『生きる』ということだ。人生は、無傷で墓に入ることが目的のレースではない。傷ついているということは、生きていることの証明だ。失敗しないように生きるのではなく、失敗する時は、派手にぶっ転べばいいのだ。ダメになった時は、思い切り苦しんで、思い切り悲しめばいいのだ。私たちには『失敗をする自由』があるのだし、笑う自由と同じように『泣く自由』『苦しむ自由』『悲しむ自由』がある。そして、やがて、悲しむことにも飽きたなら、もう一度生き直せばいいのだと思う。私たちは、失敗しないために生きている訳ではない。嫌われないために生きている訳でも、傷つかないために生きている訳でもない。そのトータルを思う存分味わうために、いま、この瞬間を生きているのだと思う。喜怒哀楽の全てを引き連れて、自分であることを思う存分味わうために生きているのだと思う。

 

 

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La vita è bella

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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気前よく生きなさい。

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南ロンドンを経由してフランスで開催されたイベントに登壇した。これからイタリアのピサに向かう。明日はフィレンツェでミユ様と会合があるから緊張する。先程、ミラノ在住の方から「ハイパー突然ですが24日にイベントやりましょう」とご連絡をいただき、急遽、ミラノ行きが確定した。今日は22日だから明後日の話だ。この急遽感を「たまらないなあ」と思う。予定がガラガラでよかった。予定がガラガラじゃなかったら対応できないことがたくさんある。対応できないことは悲しい。だから、常に予定はガラガラでありたいと思う。わたしには何もない。強いて言えば余白と反射神経だけがある。小生、たっぷりの余白と反射神経だけで生きてきた。経験則的に「奇跡は余白に舞い込む」と思う。

 

 

おおまかなスケジュール

 

1月22日 パリ〜ピサ
1月23日 EVENT@フィレンツェ
1月24日 EVENT@ミラノ
1月25日以降、FREE

1月27日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか未定)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu   

 

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真のフローリスト。

パリの花屋で花を買った。イベント参加者の方々にあげたいと思ったからだ。花屋は素敵でカラフルでそこにいるだけで幸せになる。わたしは花が大好きだ。日本に帰ったら無料の花屋さんをやりたいと思った。どうすればそんなことが可能なのかは知らない。ただ、仮に無料の花屋さんが実現したとしたらそれはとても素敵なことだと思った。知恵を絞ればできるかもしれない。方法を探りたい。花屋さんの友達が欲しい。日本の花事情を知りたい。そんなのがあったら素敵だね!と思う人々さえ増えたらできるような気がする。花屋は英語でフローリストだ。わたしは家も金も持たない浮浪者である。浮浪者がフローリストになったら「真のフローリスト」になれるかもしれない。浮浪者から花をもらう時、大衆の方々はどんな気持ちになるのだろうか。

 

実は、花屋に行く前は体調不良もあって気分が落ち気味だった。俺はなんでこんな生き方しかできないのかとか、欧州にまで来たが行きたい場所なんて何処もないとか、日本に帰ったところで居場所はないとか、生きる意味とか、愛とは何かとか、深刻になりがちになって閉塞感に囚われていた。が、花屋を見た瞬間にそういうことがどうでもよくなった。自分は花が好きだったことを思い出し、自分の好きを思い出すことで元気になった。居場所がどうのこうのということがどうでもよくなった。花がある世界を好きになり、花を渡したいと思う人がいる世界を好きになり、居場所とは特定の具体的な場所を意味する言葉ではなく、精神の問題なのだと判明した。感情は一瞬で変わる。居場所とは、何かを「好き」だと思う自分の心だ。

 

ハリーポッターに「整理された心を持つ者にとっては、死は次の大いなる冒険に過ぎない」とあった。当たり前のことだけれど死ぬことは自然の摂理であり、我々は死なないために生きている訳ではない。なけなしの金をはたいて大量の花を購買しながら「俺は花を配りながら死ぬんだな」みたいなことを考えていたら不思議と晴れやかな気持ちになった。花を配るだけの人生があるとして、それは、悪くない人生だと思う。気前よく生きたいと思う。花を買う時、誰かに花を渡したいと思う時、花屋であれこれ悩みながら「これをください」とお金を差し出すとき、今、自分は正しい金の使い方ができているような気がする。正しい金の使い方と、正しい時間の使い方と、正しい命の使い方は似ている。それは、自分の『好き』に捧げることだ。

 

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気前よく生きなさい。

片道航空券で欧州に押し寄せてしまったために実は帰国できない問題に喘いでいた。俺は一体どうやって日本に帰るのだろうかと思っていたら日本の福岡県から奇跡のLINEが届いた。まだお会いしたことのない女性M様から、驚いたことに「わたしが航空券を買うからそれで日本に帰ってこい」と言ってくださったのだ。わたしは突然の出来事に驚愕をしてしまって一体何が起きているのかがわからなくなった。M様は言う。なぜ、坂爪の航空券を買いたいと思ったのかと言うと「普段は自分と息子のためにばかりお金を遣う日々を過ごしている。その生活に寂寞感のようなものを感じていて、普段とは違うお金の使い方をしたいと思った」と話してくれた。

 

M様は言う。ものすごい余裕があるわけでもないけれど物欲もまとまった時間もなく停滞をしている感じでした、が、圭吾さんが帰国する飛行機代を自分が出せると思ったらそこにパーっと風が吹いて、明るい気持ちになりました🌈✨✨✨と。わたしは、なんだなM様の心意気をものすごい素晴らしいことに感じてしまって「せめてもの御礼にフランスかイタリアから絵葉書を送らせてください!」というささやかすぎる恩返しのご提案をした。ら、M様は「それは思わず空を見上げちゃうやつですね!」と喜んでくださり、わたしも喜んだ。とてもじゃないけれど等価交換とは呼べないやり取りだが、なんだかとてもいい風が吹いた。大袈裟だが、わたしは「M様のような方が生きているこの世界をもっと生きていたい」と思った。

 

誤解を恐れながら言うと、人生が停滞した時、気前よく生きることはひとつの突破口になると思う。わたしは花を買うことでそのことを思い出し、M様は航空券を出すことでそのことを思い出した。生きているとどうしてけち臭くなることは多い。本来であれば大いなるフローの中で生きることが豊かさであるはずなのに、意識がストックに傾く。そして溜め込んでしまうような、自分を出し惜しみするような生き方をしてしまう。が、気前よくあることの風通し効果は素晴らしい。人類全体がいまよりもちょっと大盤振る舞いをするだけで世界はあっという間に薔薇色になるのかもしれない。わたしは、花のあるこの世界を、花を渡したいと思うひとがいるこの世界を、自分の居場所だと感じた。居場所がないという思いはまぼろしで、それは、ただ「自分の好きを忘れている」だけに過ぎないのだろう。これからピサ行きの飛行機に乗る。花を届けるように、言葉を届けていきたいと思う。

 

 

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Gare Montparnasse
 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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生き方が遺言となるように。

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咳に血が混じる。いつまで生きていられるかわからない。当たり前の話だ。健常者だろうが、健常者じゃなかろうが、明日、生きている保証はどこにもない。それならば、残された生を、悔いのないように。恐れないように。思い煩うことのないように。愛を、勇気を、出し惜しむことのないように。生き方が遺言となるように。

 

 

おおまかなスケジュール

1月19日 EVENT@南ロンドン
1月20日 EVENT@パリ
1月21日 EVENT@パリ
1月22日 パリ〜ピサ
1月23日 EVENT@フィレンツェ
1月24日以降、FREE

1月27日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか未定)


坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu   

 

ibaya.hatenablog.com

 

魔女に会う。

ここから先の話は、信じる人だけ信じてくれたらいい。私は、今日、イギリスで魔女に会った。イギリスはハリーポッターを生んだ国だ。魔女はいた。魔女は私を見て言った。あなたはグラストンベリーに行った。それは一回死ぬためだ。昔の宣教者は、行く先々で迫害を受けながら最後にグラストンベリーの地に辿り着いた。あなたは、迫害に遭いながらも最後まで愛を説いた。いま、体が冷たさに覆われているのは、過去の記憶が蘇っているからだ。しかし、恐れることはない。迫害を通じてすべてひっくり返る。汚名を晴らすことよりも、愛を選びなさい。森羅万象があなたを支える。あなたはあなたでいることだ。神の御業はなされるだろう。と。

 

冷えと言う言葉に、私は、見透かされた驚きを覚えた。ここ連日の体調不良で、かつて経験したことのない全身の冷えに見舞われていた。部屋が寒いからとか、真冬だからとか、そういう種類の寒気ではない。なにか、自分の力だけではどうすることもできないような極度の寒気に襲われていた。布団に入っても凍えたまま。風呂に浸かっても温まることがない。魔女は続けて言う。あなたはこれから様々な場所に行く。敵地に行くのだと思えば、敵地になる。ホームに行くのだと思えば、ホームになる。それを決めるのはあなただ。あなたは、いま、女といることに疲れている。しかし、男女を気にすることはない。気にするほど、断絶を生む。言葉は分断を生む。性別を越えてしまっても大丈夫。分断を越えてしまっても大丈夫。と。

 

不思議な話だが、私は、魔女の話を聞きながら自分の体が徐々に熱を取り戻すのを感じた。そして、彼女の話す一言一言が、自分にだけわかる暗号のように響きわたり、戸惑った。魔女は言う。今、あなたの活動を大天使や天使たちが助けようとスタンバイをしている感じです。だから『遠慮せずにとにかく呼んでください。』と、たくさんの天使たちがスタンバイをしている感じなのです。呼ばれれば嬉しい、力になれたのならそれが喜びというエネルギーです。依存して欲しくて言っているのではなく、一人でやる辛い仕事ではないと、見えない仲間たちも見える仲間たちも一緒に仕事しているのだと、認識してほしい感じです。私もこの方のお役に立てますように、と思うと、勝手に言葉が出てきます。だから百人力なのです。あなたが『みんなで』という時の波動を、私も、周りの人も、見えない仲間も、感動して聞いているのです。『みんなで』と、本当にそう心で思っておられることが伝わるのです。私は、言葉にこれほど魂がこもった音を聞いたことがありません。

 

生き方が遺言となるように。

ロンドン企画主催者の女性から、後日、こんなメールが届いた。「お話会に無理矢理誘われて行ったという人が言うには、会場には坂爪さんを知らない人が多く、いかがわしい、そんな風に人生うまくいかないと思うという懐疑派が多く、会場前はやや否定派優勢だったそうです。それでも、終わってみたら全部それがひっくり返っていたらしいです。笑ってしまいましたが、そういう感想は嬉しいですね。」と。このエピソードを聞いた時、私は、魔女が話した『ひっくり返る』という言葉を思い出した。魔女は言った。迫害を通じてすべてひっくり返る。そうやって、常識や前提をひっくり返しながらあなたは様々な場所に足を運ぶことになるだろう。

 

すべての出来事に意味がある。口にすることは容易だが、言葉の意味を具体的に、全身で実感することは難しい。私は、なにかをわかっているつもりになっていただけで、本当のところはなにもわかっていなかったのかもしれない。そう思えただけ、わずかでも進歩できたのだろうか。まだ、私には、元気であることだけをよしとして、元気のないことをよしとできない部分がある。しかし、これらの出来事を通じて、少しずつ「一回死ぬことの意味」や「一回死ぬことの価値」を感じ始めている。咳に血が混じりはじめたとき、不思議と、心は落ち着きを取り戻した。死を身近に感じるとき、抱くものは恐怖だけではない。透明な思いになることがある。

 

明日の食費がどうのとか、誰かに軽々しく扱われたとか、真っ当に認められることがないだとか、そういうことがどうでもよくなる瞬間がある。いつまで生きていられるかわからない。当たり前の話だ。健常者だろうが、健常者じゃなかろうが、明日、生きている保証はどこにもない。自分が、今、ここにいることの意味を深く掴むことができるように。自分が、今、ここにいることの価値を深く掴むことができるように。自分が、今、ここにいることの永遠を深く掴むことができるように。残された命の使い道が、そのまま遺言となるように。瞬間に生きて在りたいと思う。

 

https://www.instagram.com/p/Bsyz-gRnuV2/

Glastonbury

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分の『好き』を貫く。

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ロンドン企画に来てくれたみんなありがとう!本当に素晴らしい時間だった。もっとみんなと話したかった。貰った感想に「坂爪さん、よく知らないけど凄かった!」という声が多かったと聞いてすごい嬉しかった。終了後体調が悪化し、片道五時間、死んだ魚の目をしながらグラストンベリーに到着した。本当に気持ち悪かったのだけれど、バスの(椅子じゃなくて)通路に横になることで耐えた。人間は追い詰められると知恵が出るみたいだ。そして、羞恥心を捨て去れるみたいだ。

 

 

おおまかなスケジュール

1月15日 グラストンベリー【イギリス】

1月16日〜19日 FREE!(呼ばれた場所に行きます)
1月20日 EVENT@パリ【フランス】
1月21日 EVENT@パリ【フランス】
1月22日 ピサ【イタリア】
1月23日 EVENT@フィレンツェ【イタリア】
1月24日以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

1月27日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか未定)


坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu   

 

ibaya.hatenablog.com

 

追い込まれるほどピュアになる。

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チャリスウェル。素晴らしい庭でした。


ロンドン企画主催者のM様から「フランスにもイタリアにも知り合いがいるから、彼女たちにオーガナイズを任せて、あっちこっちに行ったらいいじゃない!」とご提案をいただいたのが昨日の15時10分。M様が電話をかけまくりはじめたのが15時11分。パリに行くことが決定したのが15時14分。イタリアに行くことが決定したのが15時17分。イタリア在住のミユ様とお会いできるかもしれないことが判明したのが15時19分。体調不良で思考回路がショートしたのが15時20分。本当にあっという間の出来事でした。来週からパリ経由でイタリアに行くことになりました。

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チャリスウェルのライオンヘッド

 

私は、いま、何も予定がないまま欧州にいます。いまはグラストンベリーにいて、完全回復を目指すために今日もグラストンベリーに泊まります。明日以降の予定はありません。多分、ロンドンに戻ることになるとは思いますが宿の予定はありません。20日までにパリにいけばいい感じなので、それまでは「ロンドンに呼ばれればロンドンに」「パリに呼ばれればパリに」「他の国に呼ばれれば他の国に」行きたいと思っています。もしも、坂爪圭吾を使った小規模なイベントとかお話会などを開催したい!なんて思ってくださる方がおりましたら、是非、お気軽にご連絡ください。ハンガリーでもトルコでもカナダでも何処でも行きます。27日までに帰国する予定でしたが、もう、永遠に帰らないでもいいやという気持ちになっています。

 

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チャリスウェルの天使の像

 

何も食べてなくて、体温も39度くらいあるのに、なぜ、頭痛に苦しみながらも書くことをやめないのだろう。なぜ、おとなしく寝ていないのだろう。人間って、きっと「死なないために生きている訳じゃない」からだと思う。生きることが最優先事項なら、多分、ぼくは寝る。でも、寝ることよりも『伝える』ことを優先したいと思う自分がいる。余命一ヶ月を告げられたら、多分、みんな「お世話になった人々に御礼を伝える」ことを選ぶと思う。あなたのことが大好きでした。とか。あなたと出会えた私の人生は幸福でした。とか。それと似ているのかもしれない。死ぬ前にやりたいと思うことがある。それは『伝える』ということだ。それでは、一体、ぼくはなにを伝えたくて文章を書いたり、ひとと出会ったりしているのだろう。

 

🇬🇧🇬🇧🇬🇧主催者の方の感想です🇬🇧🇬🇧🇬🇧

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🇬🇧🇬🇧🇬🇧参加者の方の感想です🇬🇧🇬🇧🇬🇧

wagamamagirls.hatenablog.com

 

🇬🇧🇬🇧🇬🇧坂爪圭吾の音声です🇬🇧🇬🇧🇬🇧

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自分の『好き』を貫く。

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あらゆる言葉も音楽も『祈り』と『呪い』にわけることができる。ぼくはそう思っている。イタリアのミユさんを大好きな理由は、彼女の言葉に祈りを感じるからなんだ。言葉の端々から、人間に対する慈悲や生きる喜びがあふれていて、見ているこちらまでうれしくなる。言葉も音楽も、見たり触れたりしたときに「格好いいなあ」とか「もっともだなあ」と思うことは多いよね。でも、それに触れた時に『うれしさ』を覚えるものって滅多にない。ぼくは、ミユさんの言葉に触れると凄いうれしくなる。命の躍動を感じる。生きていてくれてありがとうって心底思う。自分がうれしくなるものの中に、ぼくは、ぼくにとっての『本当』があるのだと思う。

 

これはいいチャンスだ!
せっかくだから、新たにまた習慣を作り直してみよう!

そしてせっかく慣れたところをあっさりと壊してどんな感じがするのか見てみたい気がする。何かに慣れた自分は、どんなにそれに依存し執着しそれを守ろうとする弱さを蓄積していることだろう。それを壊すたび、ああ、なくなっても大丈夫なんだな、と思える。これがまたすごい快感だ。


自分を知るこの面白みを味わうためには、弱くなることも必須だなんて。
弱くなることを己が礼賛するだなんて、これ、最高じゃないか!

 

note.mu

 

日常的に使う言葉も『祈り』と『呪い』にわけることができる。自分なんかダメだって言い続けていたら、それは自分に呪いをかけ続けているようなものだから、きっと呪いは本当になっちゃう。でも、ぼくは思う。呪いって自分の外側から来ているものだ。自分の内側から呪いの言葉が出てくるはずなんかないんだ。だから、呪いを採用しちゃあいけない。呪いの言葉には共通点があって、それは『扇動をしてくる』ことだと思う。これをしなければあなたには価値がないとか、あなたを都合のいいように動かしたり、自信を奪ったり、不安を煽ったり、支配をしようとする。呪いの言葉や、呪いの音楽は、どれだけそれが格好いいものだとしても『それに触れる人間の体温をさげる』ものだと思う。祈りは、愛と同義だ。祈りは、自由と同義だ。祈りの言葉や、祈りの音楽は、それに触れる人間の体温をあげる。それに触れる人間を自由にして、それに触れる人間の中にある愛情を呼び覚ます。

 

頭ふらふらになりながらもブログ書いたりラジオをやったりしている。努力とかじゃない。好きなんだなあ、と思う。ぼくは文章を書くのが好きだし、人と話したり、言ったことのない場所に行くのが好きだ。この『好き』という力が、自分にかけられている呪いを振り払う力になるのだと思う。呪いってそこら中にあふれているから、見定めがすごい難しい。学校の教育とか、親からの刷り込みとか、いつのまにかかけられている呪いって物凄いある。でも、呪いから祈りに行く道は決して難しいものじゃない。それは『自分の好きに従う』ことだ。自分の『好き』に従うことが、祈りの道を生きることに繋がって、結果的に周囲のひとたちがかけられていた呪いを解き放つ力になる。だから、ぼくは、勝手に祈る。みんなも、自分が好きな道を、自分が『うれしさ』を感じる道を歩いて欲しいって祈る。もちろん、その過程で色々なことを言われると思う。自分なんかダメだと思う瞬間もある。が、その時は「ダメじゃない!」と遠くで坂爪が吠えていることを思い出して欲しい。自分の好きを貫くことが、人類全体の力になることを忘れないで欲しいって祈る。

 

 

https://www.instagram.com/p/Bsp2ykwHW8v/

Chalice Well

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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永遠にそのままで行け。

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ハーイ!みんな元気?僕は流行性感冒アテネを経由してポーランドワルシャワにいるよ。スペイン界隈では、飛行機が無事着陸をすると乗客全員で拍手をする風習があるよね。ギリシャに着いた瞬間も、みんなが一斉に拍手をするものだから「思わず楽しくなっちゃって」つられて拍手をしてしまった。この、思わず楽しくなっちゃうような瞬間っていいなあって思った。無垢な楽しさが伝染する感じ。これ、すごいいいなあって思ったんだ(TOP画像はポーランド人から貰いました)。

 

 

おおまかなスケジュール

1月14日 満席御礼・坂爪圭吾解体新書
1月15日 グラストンベリー

その後、一旦全部白紙!

1月某日 EVENT@フランス(詳細未定)

1月某日 EVENT@イタリア(詳細未定)

1月27日 帰国次第わたり食堂【0円食堂】


坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ibaya.hatenablog.com

 

圧倒的肯定力

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ギリシャのごはん

 

突然だけど、みんなは『本当に豊かな人』に会ったことはあるかな?ハイパー金持ちとか、大企業の経営者とか、そういうことじゃなくて直感的に「うわー!なんだか分からないけど、このひとはやばい!」って雰囲気で圧倒される感じ。黒柳徹子とか、松田聖子とか、そういう感じ。実際に目の当たりにしたことってあるかな???ぼくはある。20歳の頃と、24歳の頃と、33歳の頃にある。きっとみんなあると思う。別に世間的に有名である必要はない。ただ、自分の心が「このひとは圧倒的に豊かだ!」って感動した出会い。その出会いを思い出して欲しいんだ。

 

🇸🇬🇸🇬🇸🇬シンガポールからの音声配信はこちらです🇸🇬🇸🇬🇸🇬 

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本当に豊かな人は「豊かさがあふれでている」から、それに触れた人間のこころまで豊かにする。肯定的な雰囲気が全身からあふれまくっているから、周囲の人々にも「人生は生きるに値する!」という気持ちを感染させる。本当にすごいなあって思う。そう言う人が世界には少数だけど確実にいる。なぜ、こんな話をしているのかというと「自分のフォーカスをそこに合わせる」ことの重要性を感じたからなんだ。豊かさを放棄した人間、豊かさを諦めた人間は、周囲の人々も「豊かさを諦める」ように強要したり、仕向けたりする。それに負けちゃいけないんだ。あくまでも理想の人間にフォーカスを合わせ続けなくちゃいけないんだって、そういうことを(いまめっちゃ風邪気味で意識朦朧としているけれど)感じていたんだ。

 

🇬🇷🇬🇷🇬🇷ギリシャからの音声配信はこちらです🇬🇷🇬🇷🇬🇷

twitcasting.tv

 

本当に豊かな人物が醸し出す、あの『圧倒的な肯定感』を思い出して欲しい。まるで自分にも何か大きなことができそうな気がする、ひとかどの人物になれそうな気がする、そんな気持ちになった瞬間は誰にでもあると思うんだ。「自分には力がある」という感覚。それを信じるんだ。自分の勇気をくじくもの、お前なんかダメだと言ってくる地獄のサムシングは大量にある。地獄のサムシングは、この瞬間も世界中の人々から勇気や信頼を奪い去り、諦めや虚無や絶望を広げている。でも、それに惑わされちゃいけないんだって思う。ここ数日、ぼくは『信じるんだ』という言葉を何度も感じていた。人間に使命があるのかないのか、生きる意味があるのかないのか、それは誰にもわからない。ただ、ぼくは「自分に役割があると信じてみる」ことの威力を思う。それは、あの、真に豊かな人が醸し出す圧倒的肯定力を、絶やすことなく、次の世代に繋げていくことではないだろうかって思ったんだ。

 

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永遠にそのままで行け。

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シンガポールの花


保科さんとも話したけど、あまのじゃくのひとは宗教家の素養があると思うんだ。宗教の役割って、社会とは別の(というか真逆の)価値観を提示することだと思う。逆張りの美学って言えばいいのだろうか。ぼくも保科さんも、任侠を愛するところがあって、損得勘定の合理主義よりも人情にほだされまくってダメになる道に美しさを覚えたりする。だから、世間とは真逆の道を選ぶことが多い。みんなが「増やせ、増やせ」を生きるなら、ぼくたちは「減らせ、減らせ」を生きる。みんなが「得になる道」を生きるなら、ぼくたちは「損になる道」を生きる。これは決して強さなんかじゃない。弱さだと思う。普通の勝負、増やせ増やせのバトルフィールドでは、ぼくたちに勝ち目はない。そんなぼくらでも唯一「ぼくはここに立っているよ」と存在を証明できる生き方が、たまたま、世間とは逆の道を選ぶことのなかにあっただけなんだ。だから、ぼくたちが偉そうに言えることはなにもない。

 

社会不適合者っていう言葉もあるけど、自殺者が年間3万人いて、鬱病患者が100万人いる社会に適応する方が絶対やばいと思うんだ。だから、必要なのは適応ではなく『開墾』だ。そういうことをぼくは言い続けてきたけど、世の中には社会不適合者とそうじゃない人がいるのではなく、誰の中にも『社会不適合者な部分』があるのだと思う。濃淡の差があるだけだよね。自分の中にある社会不適合な部分とぶちあたったとき、さて、どうする。生きている限り人間は岐路に立ち続けるよね。岐路って、要するに「人並みに合わせる」か「自分のままで行くか」の二者択一だと思う。結婚もそうだよね。結婚するからにはちゃんとしなきゃって思うのか、自分のままで結婚をするのか。保科さんは言っていたよ。おおざっぱに言えば、常に、問われているのは「自分の期待に応えるのか」それとも「他者の期待に応えるのか」の二択だって。そして、ぼくたちは「自分の期待に応え続けていたいよね」というところで合致をしているから、一緒にいることができているだけの話なんだ。

 

これまでぼくたちは散々バカにされてきた。迫害も受けたし露骨な嫌がらせも何回も受けた。それでも自分であることをやめなかった。そして、いま、一緒に笑える友達や仲間が少数だけど確実にできた。友達の存在は「報われた」ことの最高の証明みたいで、ぼくはとってもうれしいと思う。でも、忘れてはいけないのは、友達がいるから生きている訳ではない。大前提として「ひとりでもやる」というルールがあって、ひとりでもやってきた先に出会えた人々が、友達になったり、仲間になったりするのだと思う。だから、私は、私が友達になりたいと思う人々にお願いをしたい。人生の岐路に立った時、どうか、自分のままでいる道を選んで欲しい。人並みであることを選ぶのか、お前は頭がおかしいとバカにされることを覚悟の上で、自分であることを選ぶのか。私は、あなたが、あなたのままであることに尊さを覚える。だから、あなたはあなたのままでいて欲しい。たとえそれで死んでしまうことになったとしても、あの世で美味しいお酒でも飲めたらいいね、って思う。 

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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