小さな勇気と、大きな変化。
ミラノがクソすぎて震えた。震えたのは寒さのせいで、宿泊予定の家を「ここにいたくないので帰ります」と悪態をついて道路も凍てつく氷点下の街中に飛び出したからだった。半ばやけくそになって「俺は帰る!日本に帰る!」と思って航空券を調べたら、片道で帰るより往復便の方が圧倒的に安かったので2月12日に再びミラノに行くことになった。悪態こそ我が命。今回は、私が欧州でまみれた悪態の諸々を書き綴りたいと思う。
何かをやるために、好き以外の理由なんてないよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年1月23日
認められるとか認められないとか、そんなものに惑わされたらダメだよ。それをやっている時間がどうしようもなく楽しいから、はじめたんだよ。自分の『好き』を手放したらダメだよ。
幸せになっていいよ。 - いばや通信 https://t.co/wj4Ftifbvy
おおまかなスケジュール
1月25日 アムステルダム【オランダ】
1月26日 パリ【フランス】
1月27日 わたり食堂【0円食堂】
1月28日~2月12日 FREE!【日本】
2月13日 欧州リベンジ【東京~パリ~ミラノ】
2月14日以降、FREE!【欧州界隈】
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
悪態日記。
パリではホームレスが問題で、ミラノではジプシーが問題になっている。ホームレスは街中や地下鉄に布団を敷いて眠るし、ジプシーは集団になって通行人の鞄や財布を盗む。パリでは「ホームレス支援施設は大量にあるが、彼らを保護しても大概はみんな再び路上に戻る。彼らになんてアドバイスをしたらいいと思うか」と、ソーシャルワーカー的な人に問われた。私は、基本的にホームレス側(ジプシー側)の人間だから、彼らの気持ちがよくわかる。一番の問題は、社会復帰を支援されたところで、その社会が「復帰したい」と思えるものでなければ、なんの意味も効果もないということだ。日本の不登校問題も同じことだ。彼らは、乱暴な言葉を使えば「クソみたいな社会に適応するくらいなら死んだ方がましだ」と思っている。
私は、誰かを救いたいと話す人間の『無自覚な上から目線』が大嫌いだ。無自覚だからタチが悪い。ぶった斬りたくなる。彼らは、誰かのためとか言いながら「いい人ぶりたいだけ」「弱者を利用して褒められたいだけ」に見える。お前は何様だと思う。極論、私は、ホームレスの人々は「そうしたいからやっている」ように見える。表面的にはどれだけ惨めに見えたとしても、彼らは、それを自分で選んでやっているのだ。だから、ああだこうだと言う必要はない。彼らを責めたり社会復帰させることにエネルギーを注ぐより、自分が生きたいと思う社会の土壌を開墾する方が絶対にいい。結果的に、自分のために生きることが自分みたいな他の誰かのひとにとっての役に立つ。助けたいとか耳障りの良い言葉を使うのではなく、ホームレスやジプシーが嫌いなら、嫌いだとはっきり言えばいい。駆除をしたいと言えばいい。排除をしたいと言えばいい。そう言う言葉を使わずに、助けたいという言葉を隠れ蓑にして排除をしようとする偽善が、私は一番嫌いだ。支援とは、要するに『暴力』だ。排除される人間は、日々、上から目線の暴力を受けている。だから、彼らが通行人に悪さを働くとしても、それらは「ある種の仕返し」に過ぎない。
自分を正しいと思っているひとほど、私には、醜く見える。支援団体は「ホームレスは不幸に決まっている」という前提で話をする。誰だって、決めつけられたら反発をしたくなるのは同じだろう。お前は不幸だ。だから、私がお前を助けてやる。お前は私の言うことを聞くべきだ。こういうことを話す人間は、やがて「助けてやると言っているのに、私の言うことを聞かないお前は何様だ!」という怒り方をする。私が、寒空の下「ここにいるよりはまし」と思って深夜の路地裏を保科さんと徘徊したのも、これと同じ理由だ。クソみたいな社会に適応するくらいなら、頭をさげたくないやつに頭をさげるくらいなら、死んだ方がマシだ。と。そう思って真夜中のミラノを震えながら歩いた。寒過ぎたが、心は、晴れ晴れとしていた。いまの俺たちをミユさんが見たら、笑ってくれるだろうかなどと話したら真っ先に我々が笑えた。記録より血痕(を残す)。ああ、俺たちは不良なんだなと思った。
🇮🇹🇮🇹🇮🇹ミユさんありがとう🇮🇹🇮🇹🇮🇹
🇮🇹🇮🇹🇮🇹悪態日記の音声配信🇮🇹🇮🇹🇮🇹
小さな勇気と、大きな変化。
要するに『決めつけ』や『上から目線』が嫌いなのだと思う。家なし生活をしていた頃の話をしたら、ある女性から「要するにあなたは人が好きなのね」みたいなことを言われた。私は、その言い方がものすごい嫌だったから「人は好きだけどお前は嫌いだ」と思った。が、さすがにそこまでストレートに言えなかったから「その質問は嫌いだけど人間は好きです」と言った。私のことを知らない人々にも大量にあったから、色々なことを言われたし、色々な人間の表情を見た。誤解を恐れながら言うと、私は、鏡に過ぎないのだと思う。私を通じて、目の前にいる人間の本性があぶりだされる。私を見て怒リ出すひともいれば、私を見て柔和になるひともいる。彼らは、坂爪圭吾の話をしているようで、自分自身の話をしているに過ぎない。だから、醜くなる人はより醜くなり、美しくなる人はより一層美しくなった。
イベントに登壇すると、どうしても「どうすればそんなに人から助けられるのですか」とか「どうすればそんなにフォロワーが増えるのですか」とか「どうすればそんなに不安や恐怖を消せるのですか」とか、そういうことを聞かれる。これに違和感がある。なんだか、自分という人間の人生がいいことばかりで構成されているような、そして、聞き手自身も「どうすれば失敗しないでうまくやれるか」みたいな、ある種の秘訣だけを聞きたがっているみたいに思えるからだ。当たり前だが、この人生、いいことばかりじゃあない。色々なことがありながら、その『色々』のすべてを引き受けて、時には血を吐きながら生きているのがいまの自分だ。それを、痛い目にあうことは抜きに、ただ、うまくやるためにはどうすればいいかなどと聞かれても分かるわけがない。痛い目にあえ。そう思った。ある人は言う。わたしもあなたみたいな自由な生き方に憧れるけれど自信がない。と。わたしは思う。自信がないのではなく、失敗をしたくないと思っているだけだ。だから、どんどん失敗をすればいいのだと思う。どんどん痛い目にあえばいいのだと思う。痛い目にあわずして、精神的にタフになる道【自由に生きる道】をわたしは知らない。
ミラノがクソすぎたなどと書いてしまったが、いま、ミラノの空は突き抜ける快晴で最高に気持ちいい。良いことも悪いことも、過ぎればすべてが良い思い出だ。だから、ミラノに来なければよかったなどとは微塵も思わない(というか来月にまた来る)。フィレンツェからミラノまでの交通費で軽く100ユーロをロスして、結果的に無一文になったから一旦日本に戻る。ミラノで会った方々は『酷い目に遭った』と思った人もいるかもしれない。しかし、それはお互い様だ。わたしは、酷い目に遭うことを悪いことだとは思わない。酷い目も、長い目で見れば『必ずしも酷い目ではなかった』と後から気づくことがある。だから、全部来い。喜怒哀楽の全部、清濁の全部、善悪の全部、生きることの全部、どんと来い。どこまで受け止めきれるかはわからないが、時折寒空のしたマクドナルドのゴミ箱の前で震える夜を過ごすこともあるが、そのすべてを引き連れて生きていきたいのだと思う。
人といると疲れるんじゃなくて、我慢すると疲れるだけ。人が嫌いだって結論を出すのはダメ。それはただ、我慢することが嫌いなだけ。愛想笑いが嫌いなだけ。我慢させやがってとか愚痴るのではなく、ただ、我慢をしなきゃいいだけ。言いたいことを言えばいいだけ。言えない場所からは離れればいいだけ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年10月16日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu