大丈夫じゃないことも含めて、大丈夫。
初対面の人に「お仕事は何をしているのですか?」と聞かれることが面倒臭いから、最近は「アルピニストです」とか「キャンドルアーティストをやっています」とか、適当なことを答えている。それを聞くと、相手は「えー、登山家なんですか!」とか「キャンドル作れるんですか!」とか言うので、私も「そうですね、登り続けている山があります」とか「心のキャンドルを灯しています」とか答える。
優しい人ほど、優しさによって自分自身を傷つけている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年1月28日
自分が我慢をすることで保たれる平和なら、そんな平和は偽りだと思う。もっと自分を出して見ろと思う。誤解を恐れずに言えば「いい子ぶってんじゃないよ」と思う。
神は、消え去るものを美しく作った。 - いばや通信 https://t.co/H07QKV9ElN
おおまかなスケジュール
1月28日~2月12日 FREE!【日本】
2月13日 欧州リベンジ【東京~パリ~ミラノ】
2月14日以降、FREE!【欧州界隈】
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
男の日常。
ミユさんとの出会いは衝撃的だった。帰国直後、ミユさんの妹・KUMUさんと東京の町田で会った。素晴らしい時間が流れた。私はヤンキーが好きみたいだ。言い換えるなら「タンカを切って生きている」人が好きみたいだ。最近、兵庫県の明石市長が「燃やしてしまえ」発言で問題になった。巷の人々は「人としてありえない」とか「ナニワ金融道じゃあるまいし」などと、お利口ちゃんなことを言う。私は、市長側の人間だ。私が市長なら、骨のある人間と出会いたいと思う。言い訳を重ねる人間ではなく、筋を通す人間と一緒に仕事をしたい(生きていきたい)と思う。
昨夜、ごちゃまぜの家に『プロ罰ゲーマー』でおなじみの嘉向徹さんが来た。彼と音声配信を収録した。嘉向徹さんは話す。巷では「好きなことだけで生きていく」などと言われていますが、その、逆です。僕は、嫌なことだけで生きているのです。と。私はカミナリに打たれたような衝撃を覚えて「こ、これだ…!」となんだかひどく感動をした。私は『逆』をやる人間が好きだ。ロボトミーとかオンラインサロンとかパーマカルチャーとか『今っぽいこと』をやる人間より、明らかな損、明らかな愚、明らかなデメリットに身を投じることができる人間に『男』を見る。
自分の頭で考える人が好きだ。体にいいと言われているから健康食を食べるより、これを食べている時の方が自分の調子がいいからと、ジャンクフードを食べる人間の方が好きだ。健康食とか、正直「長生きをしてどうする」と思う。各種メディアは「長寿の秘訣はなんですか」みたいなことを長寿の人に問う。そして、世間はその秘訣をありがたがって聞く。なにかが違う。長寿だからなんだと言うのだろう。生きることより「生きてなにをなすか」だと思う。健康食ってけち臭い。理由は「命を守りにはいっているから」だと思う。メンテナンスは大事だ。が、長寿であることが最優先事項になった時、その人は「生きながら死んでいる」と思う。
皆さま、こんばんは。
— ごちゃまぜ太郎 (@GochamazeKikuna) 2019年1月24日
今日はよしえさんの方からごちゃまぜの家日誌をお届けします。
今日も関東は冬晴れが爽やかで気持ちの良いお天気でした☀️
皆さまのお住いの地域はいかがでしたか??
【1月24日】今日の日誌(よしえ) - ごち…https://t.co/djo9dS7lqK
大丈夫じゃないことも含めて、大丈夫。
私は「お利口ちゃん的な発言」が嫌いなのだと思う。だから、ミユさんやKUMUさんや嘉向徹さんを見ると「うおー!」となるのだと思う。愛とか、自由とか、そういう概念を大事にしたいと思う人々は大量にいる。しかし、それを体現している人間は少ない。変な感じのひとが「愛は見返りを求めません」とか言っているのを見ると、腹を蹴りたくなる。嘘をつくな、と。綺麗事を言ってんじゃないよ、と。お前はそんなにできた人間なのか、と。それは、ただ単に「影響を与え合うことを恐れているだけ」なんじゃないのかと。愛して、愛したがゆえに傷つくことを恐れているだけ、誰かと一緒に生きることにビビっているだけなんじゃないのかと思う。
ミユさんは「自伝(21)」の中でこう言った。見返りのいらない行動のみが本物ならば、与えた愛によって「相手が喜ぶ姿を見て自分が満たされる」ことは見返りとは言わないのか?すんごい見返りじゃん!無償の愛を美化するのは、人が人に影響を与えるのは悪いことだと考える原因にならないだろうか?人に迷惑をかけてはならないというのと、同義ではないか?影響のすべてを迷惑だと言っているのと同じではないか?影響しあわないことが、最上であると言えるのだろうか?それむっちゃ寂しくないか?そこまで私たちは「個」なのだろうか?世界を一緒に創っていると考えてもいいのではないだろうか? ー きっと人は、変化を認め、影響しあっていることを認め、そこを祝いあってもよいのだろう。観察の対象を永遠に自分の目線でしか見られない、ひとりぼっちのもうそこで十分に「個」であるからこそ、人は違いを持ち寄って笑いあえる、互いに優しくなれる存在なのだろう・・・。
変な生き方をしていると「大丈夫ですか」と心配をされることは多い。私は、大丈夫じゃないことも含めて、大丈夫なのだと思う。そんなことをやっても死ぬことはない、という意味ではない。それは「どう転んでも大丈夫」「死んでしまっても大丈夫」「生きても死んでも大丈夫(トータルでOK!)」という感覚に近い。人生は、無傷で墓にはいるためのレースではない。逆に、生きれば生きるほど、消えない傷は増えるものだ。人と人がしっかりと付き合おうとすれば、傷つくことは避けられない。だからこそ、傷つかないように生きるより、しっかりと傷つくこと。たとえ、それが周囲から「お前は弱い」とか「自分勝手だ」とか「配慮が足りない」と言われるようなことでも、自分が『それをやりたい』と思ったならば、実際にやること。その『実際にやること』こそが、生きているということなのだと思う。
馬鹿だと思われてもいいじゃん。馬鹿なんだから。馬鹿を隠して生きるより、優等生ぶって生きるより、馬鹿な部分を愛された方がよっぽど自由で嬉しいよ。人の愚かさも愛せるようになる。愛されるためには完璧にならなくちゃ、とか、嘘だよ。不完全さを愛された(認めた)人から、輝いていくのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年11月21日
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人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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