嫌われないように生きるより、潔く、嫌われてしまおう。
みなさまは、誰かに「クソババア」って思うことはありますか??実際に、誰かにむかって「クソババア」って口にしたことはありますか??わたしはあります。昨日、生まれてはじめてクソババアと女性にむかって言いました。なぜならば、クソババアと言いたくなるほどに、その女性が、クソババアだったからです。私は、クソババージン(クソババアと生まれてはじめて口にすること)を卒業したのです。
一歩を踏み込む。それだけで毎日はドラマティックになる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年1月31日
傷つけたくないとか、傷つきたくないとか、わかるよ。でも、それじゃさみしいままじゃないか。一人で生きるのはもう充分やったでしょう。これからは、人と生きることを学ばなくちゃ。
一歩踏み込む。 - いばや通信 https://t.co/fLXODJKWyR
おおまかなスケジュール
2月1日~12日 FREE!【関東&関西】
2月13日 バリ【フランス】2月14日 ヴェネツィア【イタリア】
2月15日以降、FREE!【欧州界隈】
2月21日 EVENT@ロンドン(詳細は決まり次第更新します)
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
ケツの座りの悪い都会で。
一応、わたしにも「クソババアなんて言っちゃいけないよな」という良識はあります。なので、例えば、自分の発言や言動が誰かを不快にさせ、相手が激おこをもよおしてしまった場合などは「わたしの軽率な行動があなたを不快にさせてしまい、誠に申し訳ありません」みたいな言葉で謝罪をします。しかしながら、わたしの本心は、決して「自分が悪い」などとは思っていません。ただ、その場を丸く収めるために、相手が言ってほしそうなことを言ってあげているだけに過ぎないのです。
わたしは、学生時代の頃から教師を怒らせることが好きなタイプの人間(話が長い先生に、先生、あなたの話は長くてつまらないですと言っちゃう系)だったので、昨日、公開しているLINEで粘着質な女性から執拗に絡まれた際、ふと、そんな自分の特性を思い出しました。その女性は、彼女の一方的な思い込みでわたしに悪態の限りをついてきたのですが、さて、わたしはどのように返答をすれば彼女の誤解をとけるのか、とか、余計な刺激を与えずにそのままスルーをすればいいのか、など、そういうことを思い巡らせました。が、どれもこれもしっくりきません。消化不良で終わることは健康によくありません。そういうときは「自分に正直になるのが一番!」ということで、わたしは、一回冷静になって「いま、自分は彼女に対してどういう気持ちを抱いているだろう?」ということを観察することにしました。
出てきた言葉は『クソババア』でした。ああ、なるほど、そうなのか。彼女みたいな女性を世界はクソババアと呼ぶのだな、と、わたしは妙に腑に落ちてしまって、そんなことは言っちゃいけない、そんなことは言っちゃいけないと思いながらも「言ってしまったらどうなるのだろう」という好奇心がボロ勝ちをして、わたしは実際に口にしました。数々の悪態を書き連ねた彼女からの長文LINEに、わたしは、たった一行「クソババア」と返信をしたのです。その時は、もう、このやりとりが例えばスクリーンショットで記録されてWEB上などで公開されたとしても、別に、全然それでいいやという気持ちでした。わたしは、クソババアと言わない側の人間ではなく、クソババアと言ってしまう側の人間なのだと、そういう感じの市民権をあらかじめ得てしまった方が「結果的に生きることが楽になる」と感じたのです。
🌸🌸🌸わたしが生きる力を得ているKUMUさんの記事です🌸🌸🌸
嫌われないように生きるより、潔く、嫌われてしまおう。
普通なら『クソババア』なんて口が裂けても言わないものだと思います。たとえ、誰かをクソなババアだなあと感じたとしても「この感情をどのように言い換えたら、相手を不快にさせない感じで、かつ、自分の言いたいことを的確に相手に伝えることができるだろう」みたいなことを考え、それを実践するのが『おとな』のやることなのだと思います。わたしも、一回、それをやろうと頑張ってみました。が、やっぱり、ダメなものはダメだったのです。遠回りな変化球を投げるトレーニングを重ねるよりも、わたしは「ストレートに勝負をしたい」と思ったのです。
普通なら言い換える。それがおとな。なら、おれはこどものままでいいや。なら、おれはクソガキのままでいいや。と、そういう感じの許可を自分に出して、わたしは『クソババア』と返信しました。返信しながら、ちょっと、体が震えていることを感じました。そうなのです。わたしの精神は、しっかりと怯えているのです。恐怖心がないからそういうことを大胆にやれるのではなく、しっかりとビビりながら、恐れながら、おののきながら、そういうことをやっ(ちまっ)ているのです。とは言いましても、では、クソババアと言ったことを後悔しているのかと言うと、それがまた微塵も後悔をしていないのです。非常に爽快な気持ちになり、長く続く便秘が解消した時のように、晴れやかな心持ちで「清々した」と感じるのです。
不思議なもので、人間は無意識のうちに「嫌われないためにはどうすればいいか」とか「失敗しないためにはどうすればいいか」という思考をする生き物だと思います。無論、真っ当な社会生活を送るためには必要な思考だとは思うのですが、どうしても、それだけでは窮屈に感じてしまうことが頻繁にあります。そんな時は、嫌われないためにはという制約を一旦全部取っ払って、逆に『思い切り嫌われに行く』というクソガキ的な在り方は、ひとつの突破口になり得るのではないか、と、そんなことをわたしは思ったのであります。無論、その後の反動も尋常ならざるものになりますが、それらを差し引いても「今日の俺、言ってやったぜ!」と思える1日があるということは、人生に素晴らしい広がりを与えるものだと感じました。
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じるより「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれる人と相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。人生はチームプレーだ。自分のダメさを出す瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年2月21日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu