自分の『好き』を貫く。
ロンドン企画に来てくれたみんなありがとう!本当に素晴らしい時間だった。もっとみんなと話したかった。貰った感想に「坂爪さん、よく知らないけど凄かった!」という声が多かったと聞いてすごい嬉しかった。終了後体調が悪化し、片道五時間、死んだ魚の目をしながらグラストンベリーに到着した。本当に気持ち悪かったのだけれど、バスの(椅子じゃなくて)通路に横になることで耐えた。人間は追い詰められると知恵が出るみたいだ。そして、羞恥心を捨て去れるみたいだ。
今世は諦めてくださいと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年1月13日
諦めるとは、生きることを諦めることではなく「ひとと同じであること」を諦めることだ。諦めるほどに軽くなり、諦めるほどに自由になる。清々しさを覚えるほど明朗に、潔く、諦めてしまおう。
永遠にそのままで行け。 - いばや通信 https://t.co/l19agL8jeZ
おおまかなスケジュール
1月15日 グラストンベリー【イギリス】
1月16日〜19日 FREE!(呼ばれた場所に行きます)
1月20日 EVENT@パリ【フランス】
1月21日 EVENT@パリ【フランス】
1月22日 ピサ【イタリア】
1月23日 EVENT@フィレンツェ【イタリア】
1月24日以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)1月27日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか未定)
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
追い込まれるほどピュアになる。
ロンドン企画主催者のM様から「フランスにもイタリアにも知り合いがいるから、彼女たちにオーガナイズを任せて、あっちこっちに行ったらいいじゃない!」とご提案をいただいたのが昨日の15時10分。M様が電話をかけまくりはじめたのが15時11分。パリに行くことが決定したのが15時14分。イタリアに行くことが決定したのが15時17分。イタリア在住のミユ様とお会いできるかもしれないことが判明したのが15時19分。体調不良で思考回路がショートしたのが15時20分。本当にあっという間の出来事でした。来週からパリ経由でイタリアに行くことになりました。
私は、いま、何も予定がないまま欧州にいます。いまはグラストンベリーにいて、完全回復を目指すために今日もグラストンベリーに泊まります。明日以降の予定はありません。多分、ロンドンに戻ることになるとは思いますが宿の予定はありません。20日までにパリにいけばいい感じなので、それまでは「ロンドンに呼ばれればロンドンに」「パリに呼ばれればパリに」「他の国に呼ばれれば他の国に」行きたいと思っています。もしも、坂爪圭吾を使った小規模なイベントとかお話会などを開催したい!なんて思ってくださる方がおりましたら、是非、お気軽にご連絡ください。ハンガリーでもトルコでもカナダでも何処でも行きます。27日までに帰国する予定でしたが、もう、永遠に帰らないでもいいやという気持ちになっています。
何も食べてなくて、体温も39度くらいあるのに、なぜ、頭痛に苦しみながらも書くことをやめないのだろう。なぜ、おとなしく寝ていないのだろう。人間って、きっと「死なないために生きている訳じゃない」からだと思う。生きることが最優先事項なら、多分、ぼくは寝る。でも、寝ることよりも『伝える』ことを優先したいと思う自分がいる。余命一ヶ月を告げられたら、多分、みんな「お世話になった人々に御礼を伝える」ことを選ぶと思う。あなたのことが大好きでした。とか。あなたと出会えた私の人生は幸福でした。とか。それと似ているのかもしれない。死ぬ前にやりたいと思うことがある。それは『伝える』ということだ。それでは、一体、ぼくはなにを伝えたくて文章を書いたり、ひとと出会ったりしているのだろう。
🇬🇧🇬🇧🇬🇧主催者の方の感想です🇬🇧🇬🇧🇬🇧
🇬🇧🇬🇧🇬🇧参加者の方の感想です🇬🇧🇬🇧🇬🇧
🇬🇧🇬🇧🇬🇧坂爪圭吾の音声です🇬🇧🇬🇧🇬🇧
自分の『好き』を貫く。
あらゆる言葉も音楽も『祈り』と『呪い』にわけることができる。ぼくはそう思っている。イタリアのミユさんを大好きな理由は、彼女の言葉に祈りを感じるからなんだ。言葉の端々から、人間に対する慈悲や生きる喜びがあふれていて、見ているこちらまでうれしくなる。言葉も音楽も、見たり触れたりしたときに「格好いいなあ」とか「もっともだなあ」と思うことは多いよね。でも、それに触れた時に『うれしさ』を覚えるものって滅多にない。ぼくは、ミユさんの言葉に触れると凄いうれしくなる。命の躍動を感じる。生きていてくれてありがとうって心底思う。自分がうれしくなるものの中に、ぼくは、ぼくにとっての『本当』があるのだと思う。
これはいいチャンスだ!
せっかくだから、新たにまた習慣を作り直してみよう!
そしてせっかく慣れたところをあっさりと壊してどんな感じがするのか見てみたい気がする。何かに慣れた自分は、どんなにそれに依存し執着しそれを守ろうとする弱さを蓄積していることだろう。それを壊すたび、ああ、なくなっても大丈夫なんだな、と思える。これがまたすごい快感だ。
自分を知るこの面白みを味わうためには、弱くなることも必須だなんて。
弱くなることを己が礼賛するだなんて、これ、最高じゃないか!
日常的に使う言葉も『祈り』と『呪い』にわけることができる。自分なんかダメだって言い続けていたら、それは自分に呪いをかけ続けているようなものだから、きっと呪いは本当になっちゃう。でも、ぼくは思う。呪いって自分の外側から来ているものだ。自分の内側から呪いの言葉が出てくるはずなんかないんだ。だから、呪いを採用しちゃあいけない。呪いの言葉には共通点があって、それは『扇動をしてくる』ことだと思う。これをしなければあなたには価値がないとか、あなたを都合のいいように動かしたり、自信を奪ったり、不安を煽ったり、支配をしようとする。呪いの言葉や、呪いの音楽は、どれだけそれが格好いいものだとしても『それに触れる人間の体温をさげる』ものだと思う。祈りは、愛と同義だ。祈りは、自由と同義だ。祈りの言葉や、祈りの音楽は、それに触れる人間の体温をあげる。それに触れる人間を自由にして、それに触れる人間の中にある愛情を呼び覚ます。
頭ふらふらになりながらもブログ書いたりラジオをやったりしている。努力とかじゃない。好きなんだなあ、と思う。ぼくは文章を書くのが好きだし、人と話したり、言ったことのない場所に行くのが好きだ。この『好き』という力が、自分にかけられている呪いを振り払う力になるのだと思う。呪いってそこら中にあふれているから、見定めがすごい難しい。学校の教育とか、親からの刷り込みとか、いつのまにかかけられている呪いって物凄いある。でも、呪いから祈りに行く道は決して難しいものじゃない。それは『自分の好きに従う』ことだ。自分の『好き』に従うことが、祈りの道を生きることに繋がって、結果的に周囲のひとたちがかけられていた呪いを解き放つ力になる。だから、ぼくは、勝手に祈る。みんなも、自分が好きな道を、自分が『うれしさ』を感じる道を歩いて欲しいって祈る。もちろん、その過程で色々なことを言われると思う。自分なんかダメだと思う瞬間もある。が、その時は「ダメじゃない!」と遠くで坂爪が吠えていることを思い出して欲しい。自分の好きを貫くことが、人類全体の力になることを忘れないで欲しいって祈る。
鬱病でぶっ倒れていた時、三年寝太郎の昔話を思い出すことで命を繋いだ。三年寝た後に生き返った人間がいたことは、大きな支えになった。結果、鬱病は治った。三年寝太郎の効果は大きかった。しんどい時は、三年でも三十年でも寝たらいいのだと思う。元気になったら、また、生き直せばいいのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年7月2日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu