気前よく生きなさい。
南ロンドンを経由してフランスで開催されたイベントに登壇した。これからイタリアのピサに向かう。明日はフィレンツェでミユ様と会合があるから緊張する。先程、ミラノ在住の方から「ハイパー突然ですが24日にイベントやりましょう」とご連絡をいただき、急遽、ミラノ行きが確定した。今日は22日だから明後日の話だ。この急遽感を「たまらないなあ」と思う。予定がガラガラでよかった。予定がガラガラじゃなかったら対応できないことがたくさんある。対応できないことは悲しい。だから、常に予定はガラガラでありたいと思う。わたしには何もない。強いて言えば余白と反射神経だけがある。小生、たっぷりの余白と反射神経だけで生きてきた。経験則的に「奇跡は余白に舞い込む」と思う。
咳に血が混じる。いつまで生きていられるかわからない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年1月18日
それならば、残された生を、悔いのないように。恐れないように。思い煩うことのないように。愛を、勇気を、出し惜しむことのないように。生き方が遺言となるように。
生き方が遺言となるように。 - いばや通信 https://t.co/NFQKtROOtB
おおまかなスケジュール
1月22日 パリ〜ピサ
1月23日 EVENT@フィレンツェ
1月24日 EVENT@ミラノ
1月25日以降、FREE1月27日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか未定)
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
真のフローリスト。
パリの花屋で花を買った。イベント参加者の方々にあげたいと思ったからだ。花屋は素敵でカラフルでそこにいるだけで幸せになる。わたしは花が大好きだ。日本に帰ったら無料の花屋さんをやりたいと思った。どうすればそんなことが可能なのかは知らない。ただ、仮に無料の花屋さんが実現したとしたらそれはとても素敵なことだと思った。知恵を絞ればできるかもしれない。方法を探りたい。花屋さんの友達が欲しい。日本の花事情を知りたい。そんなのがあったら素敵だね!と思う人々さえ増えたらできるような気がする。花屋は英語でフローリストだ。わたしは家も金も持たない浮浪者である。浮浪者がフローリストになったら「真のフローリスト」になれるかもしれない。浮浪者から花をもらう時、大衆の方々はどんな気持ちになるのだろうか。
実は、花屋に行く前は体調不良もあって気分が落ち気味だった。俺はなんでこんな生き方しかできないのかとか、欧州にまで来たが行きたい場所なんて何処もないとか、日本に帰ったところで居場所はないとか、生きる意味とか、愛とは何かとか、深刻になりがちになって閉塞感に囚われていた。が、花屋を見た瞬間にそういうことがどうでもよくなった。自分は花が好きだったことを思い出し、自分の好きを思い出すことで元気になった。居場所がどうのこうのということがどうでもよくなった。花がある世界を好きになり、花を渡したいと思う人がいる世界を好きになり、居場所とは特定の具体的な場所を意味する言葉ではなく、精神の問題なのだと判明した。感情は一瞬で変わる。居場所とは、何かを「好き」だと思う自分の心だ。
ハリーポッターに「整理された心を持つ者にとっては、死は次の大いなる冒険に過ぎない」とあった。当たり前のことだけれど死ぬことは自然の摂理であり、我々は死なないために生きている訳ではない。なけなしの金をはたいて大量の花を購買しながら「俺は花を配りながら死ぬんだな」みたいなことを考えていたら不思議と晴れやかな気持ちになった。花を配るだけの人生があるとして、それは、悪くない人生だと思う。気前よく生きたいと思う。花を買う時、誰かに花を渡したいと思う時、花屋であれこれ悩みながら「これをください」とお金を差し出すとき、今、自分は正しい金の使い方ができているような気がする。正しい金の使い方と、正しい時間の使い方と、正しい命の使い方は似ている。それは、自分の『好き』に捧げることだ。
気前よく生きなさい。
片道航空券で欧州に押し寄せてしまったために実は帰国できない問題に喘いでいた。俺は一体どうやって日本に帰るのだろうかと思っていたら日本の福岡県から奇跡のLINEが届いた。まだお会いしたことのない女性M様から、驚いたことに「わたしが航空券を買うからそれで日本に帰ってこい」と言ってくださったのだ。わたしは突然の出来事に驚愕をしてしまって一体何が起きているのかがわからなくなった。M様は言う。なぜ、坂爪の航空券を買いたいと思ったのかと言うと「普段は自分と息子のためにばかりお金を遣う日々を過ごしている。その生活に寂寞感のようなものを感じていて、普段とは違うお金の使い方をしたいと思った」と話してくれた。
M様は言う。ものすごい余裕があるわけでもないけれど物欲もまとまった時間もなく停滞をしている感じでした、が、圭吾さんが帰国する飛行機代を自分が出せると思ったらそこにパーっと風が吹いて、明るい気持ちになりました🌈✨✨✨と。わたしは、なんだなM様の心意気をものすごい素晴らしいことに感じてしまって「せめてもの御礼にフランスかイタリアから絵葉書を送らせてください!」というささやかすぎる恩返しのご提案をした。ら、M様は「それは思わず空を見上げちゃうやつですね!」と喜んでくださり、わたしも喜んだ。とてもじゃないけれど等価交換とは呼べないやり取りだが、なんだかとてもいい風が吹いた。大袈裟だが、わたしは「M様のような方が生きているこの世界をもっと生きていたい」と思った。
誤解を恐れながら言うと、人生が停滞した時、気前よく生きることはひとつの突破口になると思う。わたしは花を買うことでそのことを思い出し、M様は航空券を出すことでそのことを思い出した。生きているとどうしてけち臭くなることは多い。本来であれば大いなるフローの中で生きることが豊かさであるはずなのに、意識がストックに傾く。そして溜め込んでしまうような、自分を出し惜しみするような生き方をしてしまう。が、気前よくあることの風通し効果は素晴らしい。人類全体がいまよりもちょっと大盤振る舞いをするだけで世界はあっという間に薔薇色になるのかもしれない。わたしは、花のあるこの世界を、花を渡したいと思うひとがいるこの世界を、自分の居場所だと感じた。居場所がないという思いはまぼろしで、それは、ただ「自分の好きを忘れている」だけに過ぎないのだろう。これからピサ行きの飛行機に乗る。花を届けるように、言葉を届けていきたいと思う。
居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。停滞する時ほど、愛とは何か、生きる意味とか、居場所がないだとか、変なことを考え始める。だがしかし違う。居場所とは、何かを「好き」だと思う自分の心だ。何かを好きになる時、自分の好きを取り戻す時、世界全体が自分の居場所になる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年1月22日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu