いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

幸せになっていいよ。

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ミユさんと会って別れてさみしい。さみしいということは、幸せだったということだ。これは並大抵の幸せじゃない。他にはなにもいらないと思えるほどの、ここにすべてあると思えるほどの、生きてきたすべてが肯定されるような、生きてきたすべてが報われるような、そういう類の幸せだ。昔の人は、愛しいとかいて『かなしい』と読み、美しいとかいてさえ『かなしい』と読んだ。さみしいということは、幸せだったということだ。そして、いまもなお、自分は幸せであるということだ。

 

 

サッカレーに「愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことは、その次によい」という言葉がある。誰かを愛する時、同時に『失う痛み』もついてくる。しかし、失う痛みにあらかじめ備え、相手を深く愛さないようにするとか、常に用心深く接するのでは、いつまでもひとりぼっちのままだ。愛して、愛して、愛した人を失う苦しみにもがく人がいたら、その人は不幸なのか。その人は『愛した人』と出会わなかった方が良かったのだろうか。それは違うだろう。愛して、愛して、愛したがゆえに苦しむとき、その人は世界で一番幸せなのだと思う。

 

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ノーマルになれないことは、ノーマルなんだ。

言葉には二種類あると思う。世界から色を奪う言葉と、世界に色を与える言葉だ。私は、ミユさんの言葉に触れると、ミユさんが描く世界を自分も生きたいと思う。言葉に色があり、言葉に心があり、言葉に音楽があり、言葉に世界があり、そこには自分の居場所もある。四年前、私は『みっつ』という男性と出会った。みっつの言葉と、まったく同じ感覚をミユさんに抱く。ミユさんは、言葉を通じて世界に色を与える。孤独な時、退屈な時、生きづらさを抱える時、世界はモノクロに見える。美しいもの、素敵なもの、心踊るものに触れた時、世界はカラフルに映り変わる。

 

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ミユさんと話して感じたことのひとつに『みんな同じなんだ』という感覚がある。食事中、ミユさんの娘さんが、肉を噛みながら自分の口の中も噛んだ。傷口が痛いだろうに、娘さんはなぜかレモンをまるごと口に放り込み「うおー!」みたいな表情を浮かべ、増幅する痛みを楽しんでいた。周囲は「なぜ、そんなことを!?」みたいな感じになったが、そこで、ミユさんがボソッと「人間は実は苦しみたい説…」みたいことを仰った。この言葉に、私は強烈な衝撃を受けた。仮に、人間は実は苦しみたい願望があるのだということにしたら、なんというか「なんとなく、わかる〜!」という納得感と共に、人間全体に対する親しみが湧き上がってきた。

 

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ロンドンでこんな言葉を見た。「自分は時々、ノーマルでありたいと思う。そして、頑張ってノーマルであろうと努力をする。しかし、ノーマルであることにやがて飽きて、自分は自分であることに戻る」という言葉だ。私は、この言葉に共感を覚えた。そして、この言葉に共感する人は自分以外にもいるはずだと思った。その時、わたしは、なーんだ、みんな同じじゃないかと思った。ロンドンの町並みを歩けば、すれ違う人々はみんな外国人だ。自分は黄色人種で、相手は目鼻顔立ちの異なる白人で、ともすれば別の生物のように思えてくる。しかし、日本人だろうが外国人だろうが、みんなと同じになれないことに悩んだり、悩みながらも「自分は自分でいいのだ」とか思っているのだとしたら、まったくもって人間だなあと思う。違いに意識が行くのではなく、共通点に意識が向かうとき、私は『人間全体に対する親しみ』を覚える。人間を「かわいいなあ」と思う。そして、この感覚こそを大切にしたいのだと思う。きっと、ノーマルになれないことは、ノーマルなんだ。それならば、きっと、わたしたちひとりひとりは『違う』という点において同じだ。

 

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幸せになっていいよ。

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ミユさんと過ごした時間はカラフルだった。ひとりになったいまもまだ呆然としている。ミユさんの魅力を伝えたいのに、出会いの喜びを克明に刻みたいのに、語れば語るほど、語りたいと思うものから遠ざかる。言葉が足りない。語彙力が足りない。そういうことを感じてしまう。でも、本当は、言葉は最初からそこにあった。言いたいことなんて、実は「あなたのことが大好きです」の一言だけだ。わたしはミユさんが大好きだ。それだけだ。それを思えたことが嬉しくて、それを伝えられることが嬉しくて、誰かを心から『好き』になることができたことが嬉しいのだ。

 

ギターをお借りして、紅の豚カリオストロの城ニューシネマパラダイスの音楽を弾いた。最終的に一緒に歌う形になり、スピッツの「空も飛べるはず」を演奏した。曲の歌詞が瞬間の気持ちにリンクをして、胸にグッときた。君と出会った奇跡がこの胸にあふてる。人と人が出会うことのインパクトは、こんなにも大きいものなのかと、今更のように感動をした。こんな気持ちにさせてくれてありがとう、と、ミユさんに思った。あなたのおかげで、生きることが楽しいことになりました。あなたのおかげで、生きることが嬉しいことになりました。あなたのおかげで、生きることが素晴らしいものになりました。あなたのおかげで、私は、この人生をいままでよりももっと価値のあるものとして感じられるようになりました。

 

思う存分に笑って、思う存分に愛していきたいと思う。きっと、それが『生きる』ということだ。いいことばかりではないと思う。痛い目にあうこともあるだろう。でも、それが『生きる』ということだ。人生は、無傷で墓に入ることが目的のレースではない。傷ついているということは、生きていることの証明だ。失敗しないように生きるのではなく、失敗する時は、派手にぶっ転べばいいのだ。ダメになった時は、思い切り苦しんで、思い切り悲しめばいいのだ。私たちには『失敗をする自由』があるのだし、笑う自由と同じように『泣く自由』『苦しむ自由』『悲しむ自由』がある。そして、やがて、悲しむことにも飽きたなら、もう一度生き直せばいいのだと思う。私たちは、失敗しないために生きている訳ではない。嫌われないために生きている訳でも、傷つかないために生きている訳でもない。そのトータルを思う存分味わうために、いま、この瞬間を生きているのだと思う。喜怒哀楽の全てを引き連れて、自分であることを思う存分味わうために生きているのだと思う。

 

 

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La vita è bella

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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