永遠にそのままで行け。
ハーイ!みんな元気?僕は流行性感冒。アテネを経由してポーランドのワルシャワにいるよ。スペイン界隈では、飛行機が無事着陸をすると乗客全員で拍手をする風習があるよね。ギリシャに着いた瞬間も、みんなが一斉に拍手をするものだから「思わず楽しくなっちゃって」つられて拍手をしてしまった。この、思わず楽しくなっちゃうような瞬間っていいなあって思った。無垢な楽しさが伝染する感じ。これ、すごいいいなあって思ったんだ(TOP画像はポーランド人から貰いました)。
君は真面目すぎる。楽しむことを忘れちゃダメだよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年1月11日
真面目にやる。大事なことだ。でもね、これだけは忘れちゃいけない。僕たちのパフォーマンスが一番発揮される瞬間は、リラックスをしながら楽しんでいる瞬間だよ。
人生はボーナスタイムである。 - いばや通信 https://t.co/yOtONVWfWl
おおまかなスケジュール
1月14日 満席御礼・坂爪圭吾解体新書
1月15日 グラストンベリーその後、一旦全部白紙!
1月某日 EVENT@フランス(詳細未定)
1月某日 EVENT@イタリア(詳細未定)
1月27日 帰国次第わたり食堂【0円食堂】
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
圧倒的肯定力
突然だけど、みんなは『本当に豊かな人』に会ったことはあるかな?ハイパー金持ちとか、大企業の経営者とか、そういうことじゃなくて直感的に「うわー!なんだか分からないけど、このひとはやばい!」って雰囲気で圧倒される感じ。黒柳徹子とか、松田聖子とか、そういう感じ。実際に目の当たりにしたことってあるかな???ぼくはある。20歳の頃と、24歳の頃と、33歳の頃にある。きっとみんなあると思う。別に世間的に有名である必要はない。ただ、自分の心が「このひとは圧倒的に豊かだ!」って感動した出会い。その出会いを思い出して欲しいんだ。
🇸🇬🇸🇬🇸🇬シンガポールからの音声配信はこちらです🇸🇬🇸🇬🇸🇬
本当に豊かな人は「豊かさがあふれでている」から、それに触れた人間のこころまで豊かにする。肯定的な雰囲気が全身からあふれまくっているから、周囲の人々にも「人生は生きるに値する!」という気持ちを感染させる。本当にすごいなあって思う。そう言う人が世界には少数だけど確実にいる。なぜ、こんな話をしているのかというと「自分のフォーカスをそこに合わせる」ことの重要性を感じたからなんだ。豊かさを放棄した人間、豊かさを諦めた人間は、周囲の人々も「豊かさを諦める」ように強要したり、仕向けたりする。それに負けちゃいけないんだ。あくまでも理想の人間にフォーカスを合わせ続けなくちゃいけないんだって、そういうことを(いまめっちゃ風邪気味で意識朦朧としているけれど)感じていたんだ。
🇬🇷🇬🇷🇬🇷ギリシャからの音声配信はこちらです🇬🇷🇬🇷🇬🇷
本当に豊かな人物が醸し出す、あの『圧倒的な肯定感』を思い出して欲しい。まるで自分にも何か大きなことができそうな気がする、ひとかどの人物になれそうな気がする、そんな気持ちになった瞬間は誰にでもあると思うんだ。「自分には力がある」という感覚。それを信じるんだ。自分の勇気をくじくもの、お前なんかダメだと言ってくる地獄のサムシングは大量にある。地獄のサムシングは、この瞬間も世界中の人々から勇気や信頼を奪い去り、諦めや虚無や絶望を広げている。でも、それに惑わされちゃいけないんだって思う。ここ数日、ぼくは『信じるんだ』という言葉を何度も感じていた。人間に使命があるのかないのか、生きる意味があるのかないのか、それは誰にもわからない。ただ、ぼくは「自分に役割があると信じてみる」ことの威力を思う。それは、あの、真に豊かな人が醸し出す圧倒的肯定力を、絶やすことなく、次の世代に繋げていくことではないだろうかって思ったんだ。
永遠にそのままで行け。
保科さんとも話したけど、あまのじゃくのひとは宗教家の素養があると思うんだ。宗教の役割って、社会とは別の(というか真逆の)価値観を提示することだと思う。逆張りの美学って言えばいいのだろうか。ぼくも保科さんも、任侠を愛するところがあって、損得勘定の合理主義よりも人情にほだされまくってダメになる道に美しさを覚えたりする。だから、世間とは真逆の道を選ぶことが多い。みんなが「増やせ、増やせ」を生きるなら、ぼくたちは「減らせ、減らせ」を生きる。みんなが「得になる道」を生きるなら、ぼくたちは「損になる道」を生きる。これは決して強さなんかじゃない。弱さだと思う。普通の勝負、増やせ増やせのバトルフィールドでは、ぼくたちに勝ち目はない。そんなぼくらでも唯一「ぼくはここに立っているよ」と存在を証明できる生き方が、たまたま、世間とは逆の道を選ぶことのなかにあっただけなんだ。だから、ぼくたちが偉そうに言えることはなにもない。
社会不適合者っていう言葉もあるけど、自殺者が年間3万人いて、鬱病患者が100万人いる社会に適応する方が絶対やばいと思うんだ。だから、必要なのは適応ではなく『開墾』だ。そういうことをぼくは言い続けてきたけど、世の中には社会不適合者とそうじゃない人がいるのではなく、誰の中にも『社会不適合者な部分』があるのだと思う。濃淡の差があるだけだよね。自分の中にある社会不適合な部分とぶちあたったとき、さて、どうする。生きている限り人間は岐路に立ち続けるよね。岐路って、要するに「人並みに合わせる」か「自分のままで行くか」の二者択一だと思う。結婚もそうだよね。結婚するからにはちゃんとしなきゃって思うのか、自分のままで結婚をするのか。保科さんは言っていたよ。おおざっぱに言えば、常に、問われているのは「自分の期待に応えるのか」それとも「他者の期待に応えるのか」の二択だって。そして、ぼくたちは「自分の期待に応え続けていたいよね」というところで合致をしているから、一緒にいることができているだけの話なんだ。
これまでぼくたちは散々バカにされてきた。迫害も受けたし露骨な嫌がらせも何回も受けた。それでも自分であることをやめなかった。そして、いま、一緒に笑える友達や仲間が少数だけど確実にできた。友達の存在は「報われた」ことの最高の証明みたいで、ぼくはとってもうれしいと思う。でも、忘れてはいけないのは、友達がいるから生きている訳ではない。大前提として「ひとりでもやる」というルールがあって、ひとりでもやってきた先に出会えた人々が、友達になったり、仲間になったりするのだと思う。だから、私は、私が友達になりたいと思う人々にお願いをしたい。人生の岐路に立った時、どうか、自分のままでいる道を選んで欲しい。人並みであることを選ぶのか、お前は頭がおかしいとバカにされることを覚悟の上で、自分であることを選ぶのか。私は、あなたが、あなたのままであることに尊さを覚える。だから、あなたはあなたのままでいて欲しい。たとえそれで死んでしまうことになったとしても、あの世で美味しいお酒でも飲めたらいいね、って思う。
今世は諦めてくださいと思う。ひとには向き不向きがある。誰もが当たり前にできることが、自分にはできない。諦めるとは、生きることを諦めることではなく「ひとと同じであること」を諦めることだ。諦めるほどに軽くなり、諦めるほどに自由になる。清々しさを覚えるほど明朗に、潔く、諦めてしまおう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年12月14日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu