いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

神は、消え去るものを美しく作った。

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夢や目標ってなんだろう。自分にはわからない。ただ、明日死ぬとしても、後悔のしない一手を選びたいと思う。とか言いながら、たとえ、どれだけ素晴らしい一手を選べたとしても、死ぬ間際には「死にたくねえなあ」って思いながら死ぬのだろう。こんなに素晴らしい人生、まだまだ終わらないで欲しいなあって、夕日を眺めるみたいに思うのだろう。ただ、夕日が美しいのは、沈むからだ。やがては消え去るものだからだ。夕日。蝋燭。人間の命。神様は、消え去るものを美しく作った。

 

 

おおまかなスケジュール

 

1月28日~2月12日 FREE!【日本】

2月13日 欧州リベンジ【東京~パリ~ミラノ】

2月14日以降、FREE!【欧州界隈】

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu   

 

ibaya.hatenablog.com

 

生身の人間。

私に肩書きはない。だから、人前で話をするときは自己紹介に困る。最近、自分の職業は「生身の人間」なんじゃないかなと思う。ありがたいことに、私のような人間に「会いたいです」と連絡をくださる方がいる。時間が許す限り、必要とされる限り、できるだけ実際にお会いするようにしている。多くの方々は「なぜ会いたいと思ったのか、自分でもわからないけれど会いたいと思った」というようなことを言う。話を聴きながら、私は思う。人々は「あなたの話が聴きたい」というようなことを言うが、多分、それは違うと思う。一方的に話を『聴きたい』のではなく、実際は、話を『したい』のだと思う。人間的なやり取りを交わしたいのだと思う。

 

日本だけでも一億を超える人間がいるのに、人間の孤独が薄まることはない。逆に、年々深まっているようにさえ思える。私は、人間と話していても「人間と話している」と思えないことがある。定型的なパターンで会話をされているな、とか、思い込みで決めつけられているな、とか、まるで機械と話しているように感じることは多い。ただ、時折、これはとても稀な出来事だけれど「ああ、いま、自分は人間と話せている!」と思える瞬間がある。そういう瞬間はたまらなく嬉しい。やっと出会えた。俺は、やっと人間に出会えたのだと思うと嬉しくなる。私と話すことで、時折、原因不明の涙を流す人がいる。涙を流しながら、その人は「自分でも、なぜ泣いているのかわからない」みたいなことを言う。私は思う。それは、人間と出会えた喜びを感じているからだと思う。本当に話したいことを話している実感、本当に聞いて欲しいことを聞いてもらえているという実感があるからだと思う。

 

生身の人間が欲しい時がある。肩書きや、役割や、損得勘定や、上下関係や、利害関係や、そういうものを超えて「生身の人間としてフェアなやりとりを交わしたい」と思うことがある。しかし、念願が実現する機会は少ない。だから、自分みたいな人間も生きる(生かされる)ことができるのだと思う。女性に多いが、よく聞く言葉に「私は自分の気持ちを上手に話すことができない」という言葉がある。昨日も、同じ言葉を聞いた。その時、私は「話すのが苦手なんじゃなくて、聞いてくれる人がいなかったのではないか」と思った。そして、そのように伝えた。すると、突然、女性の瞳から一筋の涙が流れた。私は、誤解を恐れながら言うと「よっしゃ!」と思った。風穴が空いた。風穴さえ開けば、あとはいくらでも会話を交わすことができる。だから、私は、時折「これを言ったら相手は泣いてしまうかもしれないけれど、でも、言う」みたいなことをやる。そこからはじまる会話がある。

 

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神は、消え去るものを美しく作った。

誤解を恐れながら言うと、私は、女性と話している時に「お前はもっと綺麗になれるよ」と思うことがある。本領を発揮されていないものを見ると、怒りのようなものが湧き出して、お前はなにをやっているのだと説教をしたくなる。もっと言えば「俺と一回不倫でもするか」と思うこともある。不倫。不正の倫理。倫理の枠を一旦外れることで、発揮される本領がある。それは何も『性的』なものに限らない。自分が、こうでなければならないと思っていたものの外側を生きる。社会的な人間から、一時的に、動物的な人間になる。その時に気づく。自分なんかダメだと思っていたのは社会的な人間の部分の話であり、動物的な部分は、常に生命の咆哮をあげている。それは、ある種の怒りを伴った命の叫びだ。何に対する怒りなのか。それは、自分を含めた「人間をみくびるんじゃねえよ」という怒りの叫びだと思う。

 

優しいひとほど、その優しさによって「自分自身を傷つけている」ことがある。しかし、私は思う。自分が我慢をすることで維持される平和なら、そんな平和は偽りだと思う。自分の感情を丁寧に扱えない人間が、他人の感情を丁寧に扱えるとは思えない。もっと自分を出して見ろと思う。誤解を恐れずに言えば「いい子ぶってんじゃないよ」と思う。優しさ。感謝。思いやり。素晴らしい概念だとは思う。しかし、その優しさが自分を停滞させることがある。その感謝が、延命措置のように現状維持を助長することがある。その思いやりが、自己犠牲的なものとなって自分を傷つけることがある。だから、もっと自分を出して見ろと思う。たとえ、それが一般的には稀な感情だとしても、社会的に歓迎されない感情だとしても、それが自分自身なのだから、自分のままでぶつかってこいよと思う。そうじゃないと、自分は、一体誰と話しているのかがわからなくなる。自分は、一体誰なのかということがわからなくなる。自分は人間といるのか、機械といるのかがわからなくなる。

 

自分を押し殺して世の中を憎む方向に舵をとるより、ただ、自分のままでありたいと思う。誰かと心を通わせることができたという実感の中には、人生全体を肯定する力がある。最大の宝は、人間の心だ。当たり前のことだが、私も、あなたも、永遠に生きることはできない。やがては消え去るものであり、100年後にはおそらく全員がこの世界からいなくなる。だからこそ、やがては消え去る者たちが「その時、その瞬間、抱いた想い」こそを尊いのだと思う。決して、みんなと同じ感情を抱くことが尊い訳でも、みんなと同じ生き方をすることが尊い訳でもない。真逆だ。自分が自分であることが尊いのだ。だからこそ、私は、たとえその感情が「怒り」や「悲しみ」や「苦しみ」などといった社会的に歓迎されるものでなかったとしても、それがあなた自身であるのならば、その想いこそを『美しい』と思う。

 

 

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Paris

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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