かわいそうな人間なんていない。
大阪のなんば駅にいる。過去記事を発作で削除してしまった。非常にありがたいことにお仕事のご依頼をいただいた。小生、出稼ぎの季節労働者である。欧州行きの旅費を稼がなければならない。仕事の内容は「坂爪さんの淹れた珈琲を飲みたい!」というものと「荷物を届けて欲しい!」というもので、これくらいだったら自分にもできる。嬉しい。よかった。基本的に予定はガラガラなので、もしも「それならばあなたにこれをお願いしたい!」などあったらお気軽にご連絡ください。
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年2月2日
良い子を演じ続けるより「自分のダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれる人と相互補完的に付き合う」方が、ストレスレスだと思う。
嫌われないように生きるより、潔く、嫌われてしまおう。 - いばや通信 https://t.co/J0Y9D9xGp5
おおまかなスケジュール
2月6日~12日 季節労働真っ盛り!お仕事募集中!【日本】
2月13日 パリ【フランス】2月14日 ヴェネツィア【イタリア】
2月15日以降、FREE!【欧州界隈】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月23日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
諸悪の根源は家庭環境にある。のか?
元気について考えた。元気にも二種類あって、相手の元気を奪って元気になる人と、自分の元気を通じて相手まで元気にする人がいる。前者は一緒にいると爆発的に疲れるし、後者は一緒にいると前向きな気持ちになる。元気とは、よく喋るとか、よく動き回るとか、そういうことではない。一緒にいると前向きな気持ちになるということだ。元気な人は自然だが、元気「風」な人は不自然だ。元気風に見せることで、何かを隠している、何かから目を逸らしている印象を受ける。背後にあるのは、多分、恐怖だ。忙しく立ち回っている間は、その恐怖を忘れていられる。しかし、その恐怖は常に自分の裏側にあって、それが周囲に伝染するのだと思う。
人と会うことが多いから、そう言う時は、できるだけ冷静に相手を観るようにしている。多くの場合、わたしは「家庭環境に問題があったのかな?」という感想を抱く。親から愛されなかった人間は他者を愛することができない。など、そういう話は頻繁に聞く。虐待を受けて育ったこどもは健全な自己肯定感を抱くことができない。だから、常に周囲にあわせるような行動をしたり、自分の感情を押し殺す方向に舵を取る。とか。しかし、本当にその通りなのだろうか。この論理でいくと、たとえば、孤児院で育ったこどもは全員「幸せになれない」ということになる。そうなのだろうか。そうではないような気がする。親から愛されていないことと、親から愛されていないと『思っている』ことは別物だ。完全に不幸であることと、自分は不幸だと『思っている』ことは、似ているけれど結構な違いがあるように思う。
私は反骨精神強めの人間だから、家も金も仕事も色々なものを同時に失った時、自分に同情することを自分に禁じた。多くの人々から見て「かわいそうなことになっちゃったね」と思われるような状態になっても、へっちゃらでありたいと思った。笑ってやりたいと思った。勝手に決めつけてくれるなと思った。一番恐ろしいことは、自分が自分に「自分は無価値な人間だ」と決めつけることだ。それだけは避けたいと思った。世間的にはどれだけ惨めでも、常に「まだまだわからねえぞ」と思っていた。幸せになるための必要条件がまったく足りていない自分でも、ほれ見ろ、全然幸せになれましたよー(バーカバーカベロベロベ〜!)みたいなことをやりたいと思った。そして実践をした。実践をしたらできた。ざまーみろと思った。
かわいそうな人間なんていない。
昨日、免許更新をしなければならないのに眼鏡の度があわなくて(眼鏡を買い換えるお金の余裕もないから)更新ができない、最悪の場合は免許を捨てることも考えていると話した内海さんに「それならわたしが眼鏡を買ってさしあげましょう!キラーン!」という女神様が降臨した。驚愕した我々は横浜のルミネにある眼鏡屋さんに足を運び、そこで、内海さんの眼鏡を一緒に選んだ。女神様は、決して、内海さんをかわいそうだと思ったから眼鏡を買ってあげた訳ではないのだと話す。内海さんの話している感じがなんだかすごい面白くて、共感もできるし、なによりも楽しそうだと感じたから「眼鏡を買わせていただきたい!」と思ったのです。と。それは、まるである種のゲームに「自分も参加をしている」ような話し振りだった。
正しいからじゃない。優しいからでもない。人格的に優れた人間だからでもない。ただ単に「楽しいと思ったから」誰かに何かをしたい・自分から動き出したいと思う時、その行為は最も純粋なものであるように思う。わたしは思う。かわいそうな人間なんてひとりもいない。ただ、人間を「かわいそうだと決めつける」固定的な考え方があるだけだ。我々の生き方は、見る人が見たら、他者からの施しを受けなければ生きていくことのできないかわいそうな人々、愚かな人々、劣悪な人種、圧倒的敗者、社会のゴミ、地球のフケということになるのかもしれない。しかし、昨日、我々は一緒に笑うことができた。そこに上下関係はない。買ってあげたほうが上で、買ってもらった方が下だとか、そういうものの一切がなかった。我々はフェアに話し、我々はフェアに笑い、我々はフェアに同じ時間を楽しむことができた。
人間、ひとりひとり違うように見えて「実はそんなに違わない」と思うことは多い。誰だって、夕日を見れば感動をするし、お風呂に入れば気持ちがいいし、お寿司を食ったらうまいと思うし、夏の終わりは切なくなるし、期末テストが終われば開放感で「うおー!」となる。大富豪だろうが貧乏人だろうが、上流階級だろうが被差別部落だろうが、親が健在だろうが不在だろうが、多分、一緒に笑えるポイントは無限にある。一緒に遊べるポイントは無限にある。かわいそうだから一緒にいるのではなく、あなたがいなければ生きていけないから一緒にいるのでもない。ただ、一緒にいることが楽しいから、一緒にいることがうれしいから、一緒にいたいのだと思う。笑う時、時折、涙が出そうになることがある。ふれあいを通じて生まれる温もりが、凝り固まった『何か』を溶かして、涙となって流れるのだと思う。
生きているだけでいいんだよ。それ以外はおまけだよ。有名になるとか、金持ちになるとか、立派な功績を残すとか幸福な家庭を築くだとか、そういうものの全部はおまけ。それができないからといって、自分に価値がないなんてことはない。こうでなきゃいけないことなんて、本当はひとつもないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年1月8日
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人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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