いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。

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晴れた日に玄関先の椅子に腰をかけて、海や空を眺めながら漂ってくる花の香りを嗅いでいるだけで多幸感に包まれる。何かをしなければならない、生産的な何か、意義のある何か、価値のある何か、そして自分も何者かにならなければいけないという思いに囚われることもあるけれど、極論、ほんとうは何もしなくてもいいのではないだろうか、と、思うこともある。海が綺麗で、雲も、空も綺麗だ。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・疲れてぶっ倒れるまで散歩をすること。


私は、自分の連絡先を公開しているために、突拍子もなく電話やメールで批判的な連絡が届くことがある。こころのない言葉に触れた瞬間、私の心臓は痛み、露骨にダメージをくらう。しかし、自分の好きなひとの言葉を信じるのか、自分の嫌いなひとの言葉を信じるのか、どちらに自分の意識を向けるのかは、自分の意思で選択できるはずだ。合言葉は「丹田を意識しろ!」であり、鼻呼吸を繰り返すなり、疲れてぶっ倒れるまで夜道を散策すること。それでも収まらない場合は、とっとと眠ることだ。

2・自分を使って相手を幸せにすることが愛情ならば、相手を使って自分を幸せにすることは執着になる。


親子関係に問題を抱えているひとと話す機会が、最近、頻繁にある。親の価値観と自分の価値観はまったくの別物であり、こどもは父親の所有物でもなければ、母親の分身でもない。自分に都合のいい範囲内ではこどもを愛するが、自分に都合の悪い場合はこどもを愛せない【許せない】のであれば、それは「こどもを愛している」のではなく「こどもを使って自分を愛している」だけに過ぎない。多分、自分を使って相手を幸せにすることが愛情ならば、相手を使って自分を幸せにすることは執着になる。

3・自分を大切に扱うということは、言葉を大切に扱うということだ。


自嘲的な言葉を安易に使うと、いつの間にか、自身が卑屈な存在に成り下がる。言葉の汚さは精神の汚さを生み、周囲に汚れた人間をかき集める。私は、醜い言葉を多用するひととは距離を置きたいと思っている。人間は、多分、言葉通りの人間になる。自分を大切に扱うということは、言葉を大切に扱うということだ。美しくなりたければ、美しい言葉を使った方がいい。そのための教養であり、そのための知性だ。自分を大切に扱えないひとに、私は、他者を大切に扱えるとは思えない。

4・死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。


ふとした瞬間に死にたくなることがある、毎朝、目覚めた瞬間に途方もないむなしさとさみしさに包まれてどうしようもなくなるということが頻繁にある。先日出会った女性が、そのようなことを話してくれた。私は、過去に肉体と精神をぶち壊して半年間寝たきりの生活をしていた時期があるが、この気持ちが、なんとなくわかる。なんとなくわかるような気がしたからこそ、実際は「死にたい」のではなく「温もりに触れたい」ということなのではないだろうか、ということを同時に思った。

5・誰かを抱き締める時、同時に、自分も抱き締められている。


目の前にいるひとの悲しみは、そのまま、自分自身の悲しみになる。目の前のいるひとの悲しみを慰めることは、そのまま、自分自身の悲しみを慰めることになる。誰かを抱き締める時【誰かに抱き締められる時】、同時に、自分も抱き締められている【抱き締めている】。境界線はない。自分を開けば世界も開き、自分を閉ざせば世界も閉じる。あらゆるものは自分であり、世界は、自分が投げたものが返ってくるように出来ている。

6・何もしない優しさ。


自然が優しいのは、何もしないからだ。

7・きっと、すべては流れている。


空をゆく雲と川を流れる水のように、執着することなく物に応じ、事に従って行動することを「行雲流水」と言う。一箇所にとどまることなく、形を変えて、絶えることなく流れ続けるその在り方に、憧れにも似た思いを抱く。きっと、すべては流れている。1年前の感動も、1週間前の感動も、いまの感動ではないのだ。変わらないものがあるとすれば、それは「変わり続ける」ということだけなのかもしれない。それならば、変わり続けよう。空をゆく雲と川を流れる水のように、流れ続けよう。

8・天を相手にし、人を相手にするな。


昨年、数年振りに降り立った佐渡ヶ島に着いた時、私は「この島は人間には見限られているかもしれないが、神には見限られてはいない」という感覚を覚えた。生きていれば、いろいろなことがある。禍福は糾える縄の如しではないけれど、いいこともあれば、悪いこともある。その中で、最後の最後に残る自由「どのような態度を選択するのか」だけは、常にひとりひとりの掌中にある。多分、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。一生懸命に生きるということは、他人の顔色や世間的な評価を気にすることではなく、どれだけ周囲の人間から馬鹿にされたとしても、天に恥じない生き方をするということだ。


9・毎日が出発で、毎日がゴールだ。



問答無用で、絶品です。

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、本ではなくて(前回のブログ記事で紹介した)石川蒟蒻工場様の『大とろ風さしみこんにゃく』です。あろうことか「郵送代金がないから困った!」的な投稿をしたところ、私が送料代金を負担しますよという神様的な男性が登場した(!)ために、ご希望される方々に【自分が食べる用と、誰かにあげる用の2袋】を無料で郵送します。問答無用で、絶品です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。抽選の結果、御当選(?)された方には24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの募集は終了いたしました ※※※

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

10・他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に、飛翔する翼がある。


他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に、飛翔する翼がある。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

大切なのは、出発することだ。

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家や風呂やお布団のありがたみを思い出すために、GWはキャンプ道具一式をバイクに積んで『家に帰らない生活』を送っている。固い地面に眠り続けた日々のあとに、柔らかい布団で横になれた時の幸福は大きい。多分、幸福と不幸はワンセットだ。寝袋で眠ることは時にしんどい思いも与えるが、確実に、布団で眠れるよろこびを増幅させる。そして、屋内ではなかなか感じることの難しい、大地の深遠な広がりを感じさせてくれる。

世界各地を転々としている女性から「航空券代などは負担するので、来月、一緒にインドを巡りませんか?」という非常に魅力的なお誘いが届いた。インドにはまだ行ったことがないので、私は、快諾した。まだやったことのないこと、まだ行ったことのない場所に行く前に感じる、この、ワクワクする胸の高鳴りが大好きだ。どんなにささやかなものでも構わないから、一日にひとつ(それは「新しい料理のレシピを覚えた」という程度のものでも構わないから)、自分を更新するように、生まれてはじめての経験を重ねる日々を過ごしたい。

ローズマリー軟膏』

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神奈川県在住のT様から、自家製ローズマリー軟膏の新作が届いた。ご希望される方に無料で郵送(あるいは手渡し)いたしますので、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。過去に贈り届けた方々からも喜びの報告が相次いでおり、そんなにすごいものなのかと思って私も自分に使ってみたところ、その、絶大な効果に度肝を抜かれました。作り方も簡単みたいなので、手荒れに悩む方など、是非、近所のホームセンターで苗を購買することをおすすめいたします。

※※※ こちらの募集は終了いたしました ※※※


『大とろ風さしみこんにゃく【feat.酢みそ】』

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あまりにも素晴らしいこんにゃくと出会い、私は、所持金のすべてを投げ打って『大とろ風さしみこんにゃく』を100個発注した。言葉を失うほどに美味い(付属する『酢みそ』のタレが半端ない)ので、無料で人々に郵送しまくるために発注した。が、よくよく考えてみたら100人に贈り届けるための郵送代が自分にはないことに(25キロのこんにゃくが届いてから)気がついた。が、そんなことはどうでもいいのだ。大切なことは『生かしたいひとを生かすために生きる』ことであり、私は、これほどまでに美味しいこんにゃくを製造し続けてくれた石川蒟蒻工場様を生かすために生きたいのだと思ったのだ。大量のこんにゃくをどのように展開させていくのかは未定ですが、是非、ご賞味ください(熱海に来たひとには無料であげます)。


長い旅の途上

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫長い旅の途上』になります。本に限らず、ひとやものやことには【外に連れ出してくれる力】がある。新しい靴を買えば外に出かけたくなるし、キャンプ道具を買えば自然の中でキャンプをしたくなるし、素晴らしい言葉に触れることができれば、素晴らしい人生を送りたくなる。星野道夫さんの言葉には、小さな世界を飛び出して、広い世界に連れ出してくれる力がある。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。

人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。

僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。

バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。

偶然の一致に意味を見出すか、
それとも一笑に付すか、
それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。

その大切な何かが、
たましいというものだった。

一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。
もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい

寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。
離れていることが、人と人とを近づけるんだ。

人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。

大切なのは、出発することだ。

この世に生きるすべてのものは

いつか土に帰り、また旅が始まる。


大切なのは、出発することだ。

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来月はインドに行くが、五月は11日に愛媛県行きの航空券があるだけ(実際に足を運ぶかは未定)で、何もすることがない。自分の予定を自分で決めるのも良いけれど、自分の予定を自分以外の他人に決めてもらうことも、多分、素晴らしい。自分では発想し得ない角度の依頼が舞い込み、場合によっては、インドにも行ける。自分自身を奴隷として解放して自由に好き勝手に使ってもらう『奴隷経済』というものを過去にやっていたのですが、再び、五月限定でこれを再開したいと思います。


同じように、熱海の家も『誰もいない期間』が増えてきた。善意のカタマリでもあるこの家も、何か、素敵な化学反応の場にしていきたいと思っている。私は、多分、数年前から「自分で決める」ということを放棄してしまっている。目には見えない大きな流れの中に身を委ね、そこで起きた出来事や、そこで手にしたものやことを、再び、大きな流れの中に投げ出していく。自分ではなく、自由に委ねる。多分、生きるということは「どうにかする」ということ【自分でコントロールできるもの】ではなく「どうにかなる」ということ【自分のコントロールを超えたもの】だと思う。

初夏を迎え、大地は賑やかになってきた。草木は芽吹き、虫達は這い回り、鳥達は飛び、蜂は蜜を運び、猫は寝転び、蟹は沢を歩く。ありのまま、そのままの姿で命を燃焼させる姿を見せてくれるのは、必ずしも、人間ばかりではない。ひとりきりの時間が多いけれど、これだけ賑やかな空間にいると「ひとりではない」という気持ちにもなる。五月だ。空に、雲に、海に、風に、大地に、外に連れ出す力が充溢している。大切なのは、出発することだ。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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MAIL keigosakatsume@gmail.com

この一瞬のために生きていた。

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高円寺の小杉湯を経由して、国立市で開催されたイベントを終えた後、山梨県都留市在住の女性から「国立まで車で迎えに行くので、都留市に遊びに来てください」と連絡をいただき、都留市を経由した後に熱海まで車で送っていただいた。この連休は何も予定がないので、適当なキャンプ道具をバイクに積んで、伊豆半島を周遊した。五月だ。美しい風景に触れた時、ああ、自分はこの一瞬に触れたくて生きていたのだということを思う。


自然を前に、自分が消える。

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自然を目の前にすると、「俺は、俺は」と自分を主張することが、恥ずかしいことのように思える。私は、多分、暇で、さみしいのだ。連日、懲りることなく移動を続ける日々を過ごしているのは、移動が好きであること以上に「暇で、さみしいから」なのだと思う。そして、私は、ここに自分の弱さを見る。同じ場所にいることができない自分の弱さを、懲りることなく移動を続けている自分の弱さを、自然は、何も言わずに受け入れてくれる。

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自分のことを「ダメだな、ダメだな」と思うことは頻繁にある。バイクを走らせながらも、海岸沿いの心地良い風を浴びながらも、必ずしも気分は常に清々しいだけのものではない。ただ、どうすることもできないやるせなさを抱きながら、為す術もないままにバイクを走らせる。そして、ふと目にはいってくる美しい風景に「あっ!」と心を奪われている瞬間だけ、その瞬間だけは「自分の弱さに対する不甲斐なさ」を忘れることができる。

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見晴らしの良い崖の上で、持参した珈琲を淹れた後に、適当なシートを敷いて昼寝をした。この瞬間だけは、心の底から「いいな」と思える瞬間だった。諸々の不甲斐なさを抱えながら、それでも、こういう瞬間があるからこそ「ここに来てよかった。バイクを走らせてよかった。大袈裟だけど、生きていてよかった」と思う。弱い人間は、大袈裟な言葉を求めるのだろう。生きていて良かったと思える瞬間を栄養分に育つ草花のように、頻繁に、そういう思いを自分に与える必要があるのだろう。

若冲展@東京都美術館

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、本ではなくて美術館の入場券【わたりチケット】になります。こちらのチケットは、東京都在住の女性が「無理やりにでも観てもらいたい展示があるので、わたりチケットとして送ります!」と連絡をくださり、先日、熱海の家に届いた。私には、まだ、若冲の類稀なる素晴らしさを語る言葉がない。是非!としか言えない。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらのチケットは、東京都にわたりました ※※※


この一瞬のために生きている。

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東京の国立市で開催されたトークイベントに、大学時代の友達である女性が遊びに来てくれた。既に結婚をしている彼女には、一歳になる小さなこどもがいる。帰り際、彼女は「前に、けいごが『わたり子育て【みんなで育てる】』をやりたいみたいなことを言っていたけど、あのね、私、多分、けいごは既にそれをやっていると思ったんだ。この前にブログで紹介してくれた『奈々子に』っていう詩も、間接的に子育てをめっちゃしているような気がして、だから、今日はそのことを伝えに来たんだよ」と話してくれた。


彼女曰く「私がこどもを生んだとき、私みたいな人間が親になってもいいものなのか、こどもに『頼みもしないのに、どうして生んだんだ!』みたいな風に思われたらどうしよう、みたいな気持ちになることがあったんだけど、けいごのブログを読んだりしながら、私も『こんなに不完全でも楽しそうに生きれるんだよ』ってことを伝えられたらいいなあとか思ったりして、これって、変な言い方になるけれど一緒に子育てをしているようなものだって思ったんだ」と話してくれた。

彼女の言葉を通じて、私は、この日、この場にいることができる幸運に感謝をした。大袈裟な言葉になるけれど、自分の生き方も間違ってはいなかったのだということの、ひとつの証左をもらえたような、そういう気持ちになった。イベント参加者の別の女性から、その後、一通のメールが届いた。この瞬間は最高だった。そう思える瞬間に、自分はどれだけ支えられて来たのだろうか。この一瞬のために生きていた。そう思える瞬間を重ねて行こう。特別なことはしなくても、特別な人間になろうとはしなくても、自分の心が「いいな」と思える瞬間を重ねた先に、多分、特別な人生はあるのだろう。


こんばんわ!⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。
今日はお話会、ありがとうございました‼︎
覚えてていただけた事、当たり前じゃないですか!のお言葉に感謝感激、ありがたき幸せです!
圭吾さんのお話会ってどんなんだろう?と思い参加させていただいたのですが、色んな方がいらっしゃるんですね。皆さんすごいなぁと思いました。

私はあの中で圭吾さんのお友達が言われた
わたり子育てしてくれてありがとう!がとても響きました。
わたり子育てについて私はよく理解出来ていなかったのですが
菜々子への言葉も、圭吾さんのブログも子育てになってると聞いてすごく面白く感じ
確かに、お母さんを通じて圭吾さんを知って奮闘するお子さんたちの話をブログで読んではなんだかすごく嬉しくなり、それは圭吾さんを通じて育っているという事なんだなと感じました。

見方が違うとこんなにも素敵な事に気付けるんですね!楽しかった^ ^

またどこかでお会いできればと思います。
ありがとうございました‼︎

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人生は続く。

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奈々子に。

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熱海に戻り、いま、眠る前に読んでいた吉野弘の詩『奈々子に』が心に響いた。素晴らしい作品に触れると、ひとりでも多くのひとに伝えたい気持ちになる。久しぶりの再開になる「わたり文庫無料郵送の一冊」は、こちらの詩集(ハルキ文庫)になります。言葉はただの感情で、人間の心の動きと一致した瞬間に『言葉は音楽【詩】になる』のだと思う。この詩が、いま、この詩を必要とする誰かに届いたらほんとうにうれしい。ご希望される方は、ブログ記事末尾にある各種連絡先より、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

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※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※


奈々子に 

赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

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人生は続く。

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真善美の光を追い求めること。

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大分県でピックアップした車をかっ飛ばして、いま、兵庫県の神戸界隈にいる。福岡空港から大分市内までの道のりは、福岡在住の女性二人組が(レンタカーを借りてまで!高速料金を負担してまで!)送り届けてくれた。初日の夜は2000円で購買したキャンプに寝袋を敷いて、美しい朝日が望めそうなポイントで野営をした。翌日の夜は、広島県尾道市在住の女性のご自宅に泊めていただき、帰り際には「下道は大変だと思うので、高速代に使ってください」と、お布施まで頂戴をしてしまった私は慟哭した。


昔、家のない生活を送っていた(家賃を払う経済的な余裕がなかった)頃、洞窟にテントを張って暮らしていたことがある。通常は屋内でするようなことを、ただ、屋外でやるだけでも楽しさや発見が増幅するから不思議だ。金もなければ仕事もない、何もない惨めな自分を憐れみかけていた時期もあるが、波の音を子守唄に、鳥のさえずりをモーニングコールにする生活にはそれなりの新鮮な潤いがあり、この時期、私は生まれてはじめて「朝日はこれほどまでに美しいものなのか!」ということを知った。


それ以来、私は、適当な場所を見つけては勝手に野営を営むことが趣味になった。スタバで飲む珈琲も美味いし、ヒルトンホテルのラウンジで飲む珈琲も美味い。しかし、海岸沿いのテントの中で淹れた珈琲を飲むのも、これはこれで、相当に美味い。誰もひとがいないことは、多分、最高の贅沢になる。「贅沢な珈琲を飲む」ではなく「珈琲を贅沢に飲む」ことが、私のような『貧民でも人生をフルスロットルで楽しむための、生きた知恵になるのではないだろうか』みたいなことを思っている。

有漏路より 無漏路に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け【一休宗純

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数日前、野営をするために静岡県熱海市初島に行った。周囲4キロの初島は、徒歩で一周できる手頃な広さで、島の中には珍しい南国の植物が群生している。最近は、花とこどもに癒される日々を過ごしていた。花は、自分を主張することなくただ咲き誇り、こどもは無償で、無目的に、何の見返りも求めずにいまという瞬間に最大限のエネルギーを投入する。その姿を見ていると「俺も、まだまだだなあ」という気持ちになる。

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花の王様「キング・プロテア」

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島猫が登場した。

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花と猫。

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最終的に異様になついた猫に「お前もひとりなのか」と語りかける、私。猫も植物も小さなこどもも、多分、人間の言葉を理解しているのではないだろうかと思うことがある。かわいいねえと話しかければ、それに応えるかのように猫も植物もこどももすくすくと育ち、無視をしたり、無機質な扱いをすれば、それに応えるかのように猫も植物もこどもも無機質で乾いたものになる。


自然が優しいのは、多分、何もしないからだ。

真善美の光を追い求めること。

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車を走らせながら、珈琲を飲みながら、テントの中から星を眺めながら、なんのために人間は生きているのだろうかということを考えていた。いままで生きてきて30年余り、とてもじゃないけれど「誰かのお手本になるような生き方」なんて出来なかった。普通に働いていた時期もあったが、葛藤の苦しみは常につきまとい、何をしていても「生活のために生きるのは虚しい」という思いを拭い去ることはできなかった。


昔は素敵だと思っていたひとも、いまでは「お前も金か!」とツッコミをいれたくなる場面が増えている。生活のためとか、家族のためとか、将来のためとか、これらのすべては「金のため」を言い換えているだけにしか見えなかった。金銭の価値を否定したい訳ではなく、本来はただの手段であるはずの金が、いつの間にか最優先の目的になっているひとの姿を見ることが悲しかった。限りのあるこの命を、たった一度きりのこの命を、金のためだけに終わらせてしまうことが、私には「本当の生き方」だとは思えなかった。

それでは、本当の生き方とは何だろうか。究極のところ、金のためでもなく、世間的な評価のためでもなく、ただ、そのひとが見た『真善美の光を追い求めること』ではないだろうか。自分にとっての真実を、自分が善いと思うことを、自分の心が美しいと思える瞬間を、命のある限り追い求めようとしているその姿に、私は、憧れにも似た強い共感を覚えている。生活のためではなく、生命のために生きてこその人生だ。金も名誉も世間的な評価も二の次で、ただ、この世にひとつだけの小さな命を「これでもか!これでもか!」と燃やし尽くそうとしているその姿に、私は、強い感動を覚えているのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ロックンロールが大好きです。

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新潟県から福島&栃木&東京を経由して初島に向かい、いま、成田空港の第2ターミナルで軽くボロボロになっている。福島県会津の山奥でバイクのタイヤがパンクをして、JAFのレッカー車で60キロの道程を運ばれた後に高額な料金の請求が届いて死んだ。今夜は成田空港に泊まり、明日の朝には福岡空港に到着した後に、大分県にある車を下道で熱海まで運ぶミッションが控えている。初島の空は綺麗だった。人生は、予測不可能な出来事の連続である。しかし、ボロボロになるのは嫌いではない。私は、多分、逆転ホームランを打ちたいのだ。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・言葉は音楽【詩】になる。


私は「ひとと話をしたい」と思っているけれど、ひとと話していても「ひとと話している気がしない」ように感じることが頻繁にある。そういう時、私は、ひとりでいる時よりもよっぽど悪質な孤独を覚えることになる。コミュニケーションの基本は「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」だと思う。言葉はただの容れ物で、自分の感情と合致した瞬間に『言葉は音楽【詩】になる』のだと思う。

2・言葉を粗雑に扱うひとは、自分を粗雑に扱うひとだ。


私は、言葉を大切に扱うひとが好きだ。言葉を大切に扱おうとしている、そのひと自身の真摯な態度が好きだ。言葉を粗雑に扱うひとは、自分を粗雑に扱うひとだ。自分を粗雑に扱うひとは、他人を粗雑に扱うひとだ。他人を粗雑に扱うひとは、世界を粗雑に扱うひとだ。そして、世界は自分が投げたものが返ってくるようにできているのだと思う。世界を変えたいと願うのならば、言葉の扱い方を変えることだ。

3・被害者意識ほど醜いものはない。


被害者意識ほど醜いものはない。あいつが悪いとか、職場が悪いとか、家庭環境が悪いとか、いまの世の中が悪いとか、常に何かのせいにしようとしているひとに足りないものは「自分の中にある悪い部分を直視する強さ」だと思う。誰かを悪いと言えるほど、自分はいいと思っているのだろうか。聖書の中に出てくる、罪をおかしたことのないひとだけが、罪人に対して石を投げることができるという逸話を思い出す。他人の生き方にああだこうだと口を出す前に、徹底的に自分を真面目に生きれば、大概の問題はなくなると思う。

4・はじまりの終わり【終わりのはじまり】


あるひとから「別れたいひとがいるのだけれど、このひとと別れてしまったら自分がダメになってしまうんじゃないかと思うとこわくて別れることができないんです」という話を聞いた。これがダメになったらおしまいだ、という恐怖が自分の決意に二の足を踏ませることになるのだろう。しかし、これでおしまいだなんてことは、この世にひとつもないのだと思う。終わりもはじまりも同じことで、何かを終わらせることができない限り、何かをはじめることも永遠にできないのだと思う。

5・DO【何をやるか】よりBE【どのようにあるか】


やりたいことがわからないなんていう悩みほど、この世の中にくだらないものはないと思う。「何をやるか」なんていうことよりも「どのようにあるか」の方が、私には、よほど大切なことであると思っている。自分のあり方が定まれば、どのような自分でありたいのかということが定まれば、いま、この瞬間から、いつかなんていう言葉と一緒に何かを先送りすることなく、自分自身のど真ん中を生きることができる。

6・中途半端な未練を断ち切ること。


中途半端な未練を断ち切ること。

7・自分の人生を取り戻すこと。


誰のせいにしなくても、自分には力があるのだということを、自分には誰の力を借りなくても本当は自分だけの力でいくらでも道を打開していくことができるのだということを、「自分には力があるのだということ」を、認めることを恐れないこと。被害者意識を捨てることは、多分、自分以外の誰かに預けてしまっていた自分の人生を、再び自分の手元に取り戻すことだ。

8・自分の好きなように生きればいいのだ。


誰の顔色も伺わなくていいから、誰の意見も気にすることはないから、自分がやりたいと思ったことを、ただ、自分のやりたいように思う存分にやればいいのだ。うまくいくとか、うまくいかないとかは関係なく、失敗してもいいから、馬鹿にされてもいいから、どんなにダメでも実際にやってしまうというまさにそのことの中に、自分であるということの手応えがあるのだ。

9・タンポポの綿毛のようなフットワーク。


真剣になることと深刻になることは別物で、ひとりだけの時間に何かを深く考え込んでしまうと、勝手に深刻になってしまうことがある。深刻になると身体も思考も重くなり、人生全体に暗雲が立ち込めてしまう。合言葉は「タンポポの綿毛のようなフットワーク」で、多分、人生で最も大切なもののひとつは『軽やかさ』だ。軽薄な意味での『軽さ』ではなく、軽快という意味での『軽やかさ』だと思う。

10・ロックンロールが大好きです。


ブルーハーツの『1000のバイオリン』という曲の中に「誰かに金を貸してた気がする」という私の大好きな歌詞がある。その歌詞の後には「そんなことはもうどうでもいいのだ」という言葉が続くのだけれど、私は、この言葉の中にロックンロールのすべてが詰まっていると言っても過言ではないと思っている。私にとって、ロックンロールとは、人生のあらゆることに対して『そんなことはもう、どうでもいいじゃないか』と言ってくれるものだった。

金がないとか、夢がないとか、自信がないとか、勇気がないとか、仕事ができないとか、勉強ができないとか、友達が少ないとか、恋人がいないとか、もう、そんなことはどうでもいいじゃないか、と、優しく吹き飛ばしてくれるものがロックンロールだった。いまも昔も、多分、私はこの『どうでもいいじゃないか』という精神に強く支えられていて、ともすると小さなことで簡単に悩みがちな自分のケツを叩いて来ることができたのだと思う。

先日、宿を提供していただいた女性から一通のメールが届いた。ロックンロールとは音楽のジャンルではなく、自分を貫く個人の生き様みたいなものだと思っている。私は、逆転ホームランを打ちたいのだ。どれだけ大差をつけられたとしても、どれだけボコボコにされていたとしても、それでも、常に逆転ホームランを狙う姿勢だけは絶対に失うことのない弱者のあり方に、私は、強い共感を覚える人間なのだ。そして、逆転ホームランは、負けている者にしか打つことはできない。いつの日か「逆転ホームランを打てる日が来るかもしれない」という思いが、連日の野営でボロボロの自分を支えている。


坂爪圭吾さん

こんにちは
××の⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。
昨日××に戻りました。
その後もブログ興味深く読ませていただいています。

物や人に呼ばれて、地球上を移動されている坂爪さんが動いた後が
地図上に赤い線で、記録され
ある地点は濃密でぐちゃぐちゃとなっていて、
ある地点は直線的で、という図が
浮かんできて、それは私をものすごく楽しくさせます。

私は坂爪さんと過ごさせていただいて、坂爪さんがつぶやきのように
時折発せられる言葉のいくつかが、深く残っています。

坂爪さん自身への問いであり、私や世界への投げかけのような。

その中のひとつに
「僕は人生もロックンロールってあるとおもうんですよね」
という言葉があります。

私もロックンロールは大好きで、私のする仕事はすべて
ロックでありたいな、と常々思っているのですが、

坂爪さんをみていて思ったのは、
ロックンロールとは

常にぎりぎりであること、

ぎりぎりの縁、端、にいること、

リーディングエッジに

自らを立たせるということ。

目的があってそうするわけでなく、
本人すらも先を予想していない。

その結果、生み出されるものは
常に最先端であり、前代未聞。

私は坂爪さんと夜車に向かう時
ふたりで並んで歩いていた時に

坂爪さんからというか左側から
圧倒的なyes を感じたんですよね。

ものすごくすがすがしかった。

すがすがしさを味あわせていただいて
ありがとうございました。

私も⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎と友達の家を転々としていて
××の家は同居人が守ってくれているので
坂爪さんがブログに書かれていた、家は女性(または女性生のある男性)に任せて、というのが本当にそうだな〜、って感じています。

自分が何をしているのか、したいとおもっているのかが
坂爪さんと過ごして少しわかりました。

私もエッジに自らを立たせて
前代未聞をやっていきたいとおもいます。

そして縁(ふち)は縁(えん)という言葉でもあるという
不思議。
そんなことを今思っています。

とても貴重な時間でした。

ありがとうございました。
心から。
⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

満足した豚に、狼の孤独は歌えない。

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愛媛県を経由して成田空港に飛び、東京駅から上越新幹線に乗って故郷の新潟駅に到着した。恐竜の日でもお馴染みの4月17日(日)は、非常にエポックメイキングな一日となったために正座でツイキャス配信をした。昔、笑う犬の生活というお笑い番組の中で「生きてるってなんだろう??生きてるってなあに??」ということを繰り返し続けるコントがあったが、いま、そのような心境にいる。坂爪圭吾が坂爪圭吾のままでいる時間も、あと、残り少ないものになるのかもしれない。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・「生に対する執着」が消えた。


ここ最近は「一回死ね」とか「死ぬ前に死ね」とか「死に慣れるしかない」的なことばかりを繰り返し言い続けていたが、精神的に死に続けることを通じて『生に対する執着が消えた』ように感じている。生に対する執着が消えると、死に対する恐怖も薄らぐ。ひとりでもいいという覚悟を決めてから「自分はひとりではない」ということを思うようになり、死んでもいいという覚悟を決めてから「自分は生きているのだ」ということを強く実感するようになった。これは【山伏の死生観】とも似ているらしい。

2・居場所とは、場所ではなくて人間だ。


ツイキャス配信で話した内容の詳細は割愛するが、私にとって、熱海にひとつの居場所ができた。それは、熱海が温暖で暮らしやすい気候だからということではなく、ムラキテルミさんという『そのひとのことを思うだけでもこころが尋常ではなくあったかくなるひと』がいるからです。数日前まで四国で【家を拾うまで帰れま10】をやっていた最中も、ブログには書けないような愛と苦しみの時間は続いていた。しかし、私には帰る場所がある。居場所とは、場所ではなくて人間だ。自分の居場所がある限り、多分、男はいくらでも安心してボロボロになることができる。

3・美しくないものは排除する。


先日、熱海の家に遊びに来た女性が「ここって誰でも無料で泊まれるんですよねえ??それなら、あたしも泊まってってもいいですかあ??」みたいなことを言った。確かに、私は熱海の家を完全に開放している。しかし、正直なことを言えば「下品なひとには泊まってもらいたくない」と思っている。そのことを正直に相手に真っ向勝負で伝えたら、一時的に軽く衝突したものの、衝突している最中に『彼女の中にある美しい部分』を感じることができたために、結果的に和解した。

4・根本的な人間の力に大差はない。


私の父親は、過去に二回ガンを経験している。数年前に大腸ガンを患った父親は、医者から「タバコをやめろ」と言われた。しかし、父親は懲りずにタバコを吸い続けた。母親が「タバコはダメでしょ!」と言うと、父親は、驚いたことに母親に向かってあっかんべえをしたのだということを、昨日、母親から聞いた。そして、大腸ガンを患った1年後に肺ガンになり、結果的にタバコをやめた。

5・捨てなさい。


昔、山本周五郎賞を受賞した『ゴサインタン』という小説を読んだ。その作品内では神的なポジションにいる女性が登場するのだけれど、彼女は、ことあるごとに「捨てなさい」という言葉を連呼する。自分の所有物が多い人間ほど、失った時のダメージは大きい。時には「再起不能です!」というレベルのダメージを負うこともあるが、持たざる者には「喪失のダメージ」もない。幸せになりたければ、求めるのではなく、捨て去ること。得るではなく、捨て去った先に残るものが幸福になるのかもしれない。

6・自分の目で見たものを信じるひとと、自分は一緒にいたいと思う。


このような投稿をしたら、科学者もどきの男性から「自分の主観ほどあてにならないものはないというのは、科学の世界では常識ですよ」的なレスポンスが舞い降りた。自分は客観的なものの見方を大切にしているのですよ的なことを言いたかったのだろうとは思うのだけれど、私は、自分の主観を完全に排するなんて無理だろ!【客観的だと思うことは主観だろ!】と思う以上に「きっとこの男性はモテないんだろうなあ」と思ったので、無視をした。

7・好きなひとに出会うことは、好きな自分に出逢うことだ。



好きなひとを失うことは、好きな自分を失うことだ。

8・生もよし、死もよし。


「大丈夫だよ!」という言葉を使うひとの意味合いには、多分、二種類ある。ひとつは「いまは不安でも、いつか必ず安定する時が来るから大丈夫だよ【雨はあがる】」的な意味合いであり、もうひとつは「安定もよし、不安定もよし、どちらにしても大丈夫なのだ【雨もよし!】」的な意味合いになる。これらの二つは、似ているけれども全然違う。前者の「大丈夫だよ!」は、実は、現時点のあなたはまるで大丈夫じゃないということを暗に伝えている。後者の器は大きい。現在の状態にまるごとOKを出している。

9・大切にされたければ、絶滅しろ。


絶滅危惧種は大切にされる。自分自身に「大切にされたければ、絶滅しろ!」と思うことがある。どこにでもいるような生き方をしていたら、自分ひとりでも思い煩うことなく増殖を繰り返すことができるような生き方では、絶滅危惧種のような高待遇を受けることはできない。私は、絶滅危惧種のようなレアでピュアな人間が好きだ。このひとでもいいかなと思うひとではなく、この絶滅危惧種のような希少性と純度を携えたひとと同じ時間を過ごしたい【同じ時代を生きていたい】と思っている。

10・満足した豚に、狼の孤独は歌えない。


過去に、岐阜県でお会いした女性が「夢に岡本太郎が出てきたんです」と話してくれた。現在の彼女は、会社員を務めながら趣味の点描アートを行っていて、最近では仕事の依頼も舞い込むようになり、個展の予定もはいり、贅沢はできないにしても生活はそれなりに安定していて、点描に集中している時間はほんとうに幸せで、ああ、自分は幸せな日々を過ごしているなあと思っていた。そんな中、彼女の夢に登場した岡本太郎は「お前は、この程度の生き方で満足をしているのか」と言ったのだという。

彼女は、岡本太郎のひとことに衝撃を受けた。そして「このままじゃ、アカン!」と思った彼女は俄然奮起し、現在は、誰に頼まれるでもなく、誰に評価されるでもなく、いままでに挑戦したこともない特大サイズの作品の制作をはじめたのだと言う。誰かの命令ではなく自分自身の命令に耳を傾ける彼女を、誰かの評価ではなく自分自身の絶対的な評価を求めてキャンバスに挑む彼女を見て、私は、心の底から素晴らしいと思った。そして、これは彼女の話であると同時に、彼女だけの話ではない【自分自身の話でもある】のだと思った。要するに、自分自身の生き方を「生温い」と激烈に恥じた。

お前は、この程度の生き方で満足をしているのかという言葉の裏には、目の前の人間に対する強い信頼がある。それは「お前はこの程度の人間じゃないだろう」という信頼であり、自分の奥の方に眠る何かを、このひとだけはしっかりと見据えてくれているという嬉しさがある。ああ、ほんとうは、自分はもっと激しく生きたかったのだと焦がれている、胸の奥に眠る生命の存在に気付く。自分を守ろうとするのではなく、自分をダメにしてやろう。自分を投げ出してやろう。うまくやろうとするのではなく「よし、失敗してやろう。傷ついてやろう」と思う時に、自分の命が踊る感覚がある。幸も不幸もどんと来い。満足した豚に、狼の孤独は歌えない。ギリギリの道を行くものにだけ宿る魅力があるのだと思う。

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人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生き方に答えはないのだから、多分、生き方に間違いもないのだ。

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【家を拾うまで帰れま10】も7日目にはいった。現在は、愛媛県宇和島市の九島という島で民宿&カフェ『Mawaru』を営むご夫婦から声をかけていただき、九島にいる。実は、3日目の段階で愛媛県今治市在住の女性から「来月から無人になる家があるので、もしよかったら使いませんか」という連絡が届き、家を拾う計画は3日目にして終了してしまっていた。今日は、これから家の下見(?)や周辺環境の視察(?)も兼ねて、海岸道路をひたすら飛ばして今治を目指す。

【家を拾うまで帰れま10】を敢行した背景には、不純な動機が3個あった。ひとつ目は「(家が欲しかったというよりも)『家を拾うまで帰れま10』と、ただ、言いたかった」ということ。ふたつ目は「暇だから」ということ。みっつ目は「実際に家を拾えてしまったら、何かこう、みんなのテンションが瞬間的にブワアっとあがるような気がしたから」ということです。そんな動機ではじめたために、四国にはいっても『家を探す』的なアクションは何もしていなかった。ただ、会いたいといってくれるひとたちと会い、それ以外は、遊びながら暮らしていただけだった。

愛媛県今治市の家をどう使うか。

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私は、昔から「誰でも無料で使える家があれば、人間は死なない」ということを思っていた。私が家を探している背後には、自分が住みたいという思いではなく、自分は住まないでもいいから「誰でも自由に使える場所がもっと増えたらいい」という思いがある。誤解を恐れずに言うと、家は、男には必要ない【女性やこどものためにあればいい】ということを、およそ2年間に渡る家を持たない生活を通じて実感した。男の役割は「家を拾う(家をつくる)」ことであり、多分、家に住む(家を育てる)のは女性の役割だと思うようになった。

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だからこそ、男性である自分の役割は「家を拾うこと」だと勝手に解釈をした。家を拾ったあとは、適切な女性陣(女性性を持った人々)にまるごと委ねて、また、次の家を探す旅に出る。家に女がいると書いて【安】なのだ、という話を過去に聞いた。男の私は「わかるなあ」と思った。今治の家をどう使うのかは何も決めていないけれど、ひとつ、個人的にやりたいことがある。軽自動車のバン程度の広さを持つ車をお洒落に改造して、快適な車内泊を実現できる(あるいは快適なテントを搭載した)移動型の家をつくり、その車を、誰でも無料で使えるように解放してみたい。今治市内には、世界的にも有名なしまなみ海道もある。

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宿が無料で、車も無料で、食事も同時に無料になれば、いままで以上に移動する【生きる】ためのハードルは下がる。私は『移動』と『野営』を愛している。普段は行かない場所に足を運ぶと、心に、新鮮な風が吹く。いまいる場所が世界のすべてではないのだということを、自分はいかに狭い世界で生きていたのかということを実感する。野営をするのも最高で、簡単な調理を屋外で行い、珈琲を飲みながら夕日を眺め、焚き火を囲み、星空を眺め、テントで眠り、朝日で目覚める。自然の中で、人生観が少しだけ変わる。もしかすると、私の次の役割は「車を拾うまで帰れま10」になるのかもしれない。

車を拾うまで帰れま10@日本編

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という訳で、もしも、奇跡的に「使っていない広めの車があるから、必要ならばあげるよ」的な方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけるとうれしいです。同時に、買ったけれども使っていないキャンプ道具があるという方も、ご連絡をいただけるとうれしいです【私はスノーピークを愛しています】。また、数年前に佐賀県出身の男性から頂戴したスーパーカブがあるために、こちらのバイクは誰でも自由に使えるように解放します。春だ。風が、空が、海が、山が、森が、非常に気持ちのいい季節になってきました。

『さよならソクラテス

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、池田晶子著作『さよならソクラテス』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

ソクラテス  それなら、自分自身が誇りでない人が、どうして善く生きていることになるのかね。自分自身が善く生きていないことを知っているから、人は何かに誇りを求めるのではないのかね。善く生きている人は、何かに誇りを求めなくても、それ自体が誇りなのではないのかね。

主義者  少なくとも私は、誇りということを日本人に教えたいのです。

ソクラテス  うん、そりゃ大いにけっこうだよ。だけど、善く生きることを教えるよりも先に、どうやって誇りを教えることができるのかと僕は言っているのだ。

主義者  ・・・・・。

ソクラテス  日本人であることに誇りをもてと教えれば、そりゃあもつかもしれないよ。だって、げんに日本人なんだから。そも自分に誇りをもてない人が誇りをもつ仕方としては、いちばん簡単なんだから。だけど、そもそも善く生きてはいないから誇りをもてない人々が、君の言う下劣愚劣な畜群のまんまで、いっせいに日本人であることに誇りなんかもったって、しょうがないんじゃないの。そのまんま戦争にでもなった日にゃ、どんなふうになるか、君たちはよくわかってるはずだがね。ー さよならソクラテス (P54・愛国心は誰のため)【新潮文庫


生き方に答えはないのだから、多分、生き方に間違いもないのだ。

実は、家を拾うまで帰れま10を開始した裏の理由のひとつに「もしかしたら、これから東日本に住めなくなるかもしれないと感じたから」というものがある。熱海の山中で暮らしていると、風向きによって、雲の形がまるで違うことに気付く。名古屋方面から吹く風ははっきりと白い雲を運ぶが、東北方面から吹く風は、霞のかかった、何かこう「不吉な予兆っぽい雲」が流れてくる。原発というものをまるで意識したことのなかった私でも、軽くやばそうな雰囲気を感じた。もしかしたら、これは「西に行け」という合図なのかもしれないと思った。


何かあったときに、常に動ける身体であることと、常に動ける先【複数の拠点】があることは、多くの人の身を助けることになるのかもしれない。もちろん、何もなければそれに越したことはないのだけれど、誰でも自由に使える場所が増えることが、各人の生き方の可能性を拡張すると同時に、結果的に「有事の際のシェルター」的な機能を果たせば幸運だと思っている。そして、居場所とは、場所ではなくて人間だ。そんな話をしていたとき、まさにその瞬間、各人の携帯電話がけたたましい音を立てて一斉に鳴った。音声機能が「地震です」と言う。緊急地震速報だった。急いでロウソクを吹き消して、いつでも机の下にもぐりこめる態勢を整えながら、WEBを開いて状況を確認する。しばらくしたあとに、大地が揺れる。心臓が軋む。嫌な予感が内面に広がる。ニュース速報は、熊本県震度7地震が発生したことを告げていた。その規模の大きさに、私達は言葉をなくしていた。


死を強く意識するとき、生き方に正しいも間違いのもないのだということを思う。はっきりとわかることは「いつか必ず終わりの瞬間が来る」ということで、いまある命を、いまある時間を、最大限に生かさなければ生まれてきた甲斐がないではないか、誰かに嫌われるかもしれないとか、自分の気持ちを理解してもらえないとか、安定した生活を送れないかもしれないとか、自分には金がないとか、自分には自信や勇気や能力が足りないとか、もう、そういうことがどうでもいいことのように思えてくる。死を強く意識するとき、それは、生を強く意識する瞬間だ。すべての美しいものは悲しみを内包している。それは「いつまでも永遠に見ていることはできない」という悲しみで、いま、この瞬間も二度とは戻らない日々の中にいるのだということを実感させる。そして「いまをしっかりと生きるんだよ」と伝えている。


瀬戸内海に沈む夕日が綺麗だった。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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殺してあげることが、優しさ。

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【家を拾うまで帰れま10】も5日目にはいった。四国カルスト天狗高原から水質日本一の清流仁淀川を経由して高知市内にはいり、昨日は大阪在住の女性Yさんから「山の奥にある古民家で談話会をやる予定なので、もしよかったらさかつめさんも来てください」と連絡をいただき、嶺北地方に足を運んだ。待ち合わせ時刻におよそ90分遅れで到着したYさんはゴリゴリのロリータ衣装に身を包まれていて、私は「今日はやばくなるだろうな」と思った。

二時間遅れで談話会ははじまり、前半は意味のわからない表面的な世間話が繰り広げられた。私は「世間話に付き合わされるために呼ばれたのか」と露骨に不愉快になってしまい、また、Yさんが私に語りかける口調がタメ口であることにも軽い違和感を覚えていた。このままだとうんこみたいな時間が流れてしまうと思った私は、まず、Yさんに「なんでタメ口なのかわかりません」と告げた。告げた途端に、Yさんと場の空気が凍結した。

人間の声には二種類ある。

人間の声には、多分、頭から出ている声と腹から出ている声の二種類がある。頭から出ている声には、話すひと自身の実感や感動や熱量が何も込められていない無機質なものになる。だから、聞いていても何も響くものがない。何も響くものがないばかりか、そんな声ばかりを聞いていると「耳が腐る」とさえ私は思う。反面、腹から出てくる声には、そのひと自身の実感や感動や熱量が強く込められているために、聞いている側にも確実に響いてくるものがある。正直な気持ちで自分の気持ちを話すとき、それは、内容を問わずひとのこころを動かすものになると私は思う。そして、それこそ会話の醍醐味【ライブの感覚】だと私は思っている。

我慢の限界を迎えた私は「あなたたちの会話のすべては腹ではなくて頭から出ている気がして、話を聞いていても、何も響いてくるものがありません。Yさんの言葉も、ゴスロリ衣装を通じて自分以外の何者かの仮面を被って話されているような気がするので、あなたの実態が何もわからない。実態がわからないひととは、私は、コミュニケーションをとることはできません」的なことを伝えた。他にも幾つかの違和感を連続して伝えると、あれだけ軽妙なトーンで会話を続けていたYさんは完全に黙り込み、そして、Yさんの瞳からは涙が流れた。

ゴスロリ少女が少女になった。

しばらくした後に、Yさんは「昔付き合っていた彼氏とも、何も自分を出せていないっていう感じがすごいしていてこのままだとほんとうに彼氏に殺されてしまうんじゃないかとか、逆に、自分が自分を止められなくなってしまっていつか実際に誰かを殺してしまう日が来てしまうんじゃないだろうかとか感じていた時があって、その時はほんとうにものすごいつらくて、でも、あれは彼氏の問題ではなくて自分で自分を殺してしまいかけていた自分の気持ちの問題なんだなって後から気付いたことがありました」と話した。

私は、Yさんのこの言葉は「腹から出ている」と感じた。やっと、ここで、自分はYさんと会話を交わすことができているような気持ちがして嬉しかった。さっきまではふわふわした頼りないタメ口で話していた彼女も、いま、確かな口調で自分の実感を話している。その姿は、さっきまでのゴスロリ少女とは明らかに別人の少女がいた。ゴスロリ少女の仮面をカチ割った先には、野に咲く可憐な花のような、ひとりの少女がいた。

次の予定があったために、私は「そろそろ帰ります」と告げた。すると、談話会に参加していたメンバーは皆、会場の外まで出て来て私達を見送ってくれた。Yさんや、Yさんの友達のMさんも一緒になって「今日はお会い出来て嬉しかったです」と、最後に握手を求めてくれた。私は、なんだかとても嬉しくなってしまった。そして、握手を求めてくれた彼女たちを見て、私は「かわいい」と思った。そこにいるのはメンヘラでもない、コミュ障でもない、ゴスロリでもない、確かに輝く可憐な美少女がいた。

『代表的日本人』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、私が心の底から愛する魂の一冊・内村鑑三著作『代表的日本人』です。新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心茶の本」と並ぶ、日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作です。先日足を運んだ愛媛県大洲市には、中江藤樹先生の思想が現在も息づいていた。ご希望される方は、何かしらの方々で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ。(P22・西郷隆盛
国が飢饉を迎え、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は、治者以外にないではありませんか。その者は天民を託されているのです。民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。その職務の報酬として高禄を食(は)み、自分の家族を養い、一家の安全な暮らしがあるのであります。ところが今や、これほど歎かわしいことを天下に知りません。この時にあたり、よく救済策を講じることができればよし、もしできないばあいには、治者は天に対して自己の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきであります!ついで配下の大丈、群奉行、代官も同じく食を断って死すべきであります。その人々もまた職務を怠り、民に死と苦しみをもたらしたからであります。飢えた人々に対して、そのような犠牲のもたらす道徳的影響は、ただちに明らかになりましょう。(中略)国に飢饉がおこるのは、民の心が恐怖におおわれるからであります。これが食を求めようとする気力を奪って、死を招くのです。弾丸をこめてない銃でも、撃てば臆病な小鳥を撃落とすことがあるように、食糧不足の年には、飢饉の話だけで驚いて死ぬことがあるものです。したがって、治める者たちが、まずすすんで餓死するならば、飢餓の恐怖は人々の心から消え、満足を覚えて救われるでありましょう。群奉行や代官にいたるまでの犠牲をまたずに、よい結果が訪れると思います。このためには家老の死のみで十分であります。諸氏よ、これが、なんの手だてもないときに飢えた民を救う方法であるのです。(P103・二宮尊徳
私どもは、クラスに分けて教えられることもなかった。魂をもつ人間をオーストラリアの牧場の羊のようにクラスに分けるようなことは、昔の学校ではみられなかった。人間は分類してまとめることのできないもの、一人一人、つまり顔と顔、魂と魂とをあわせて扱われなくてはならない、と教師は信じていたように私には思われるのだ。それだから教師は私どもを一人一人、それぞれのもつ肉体的、知的、霊的な特性にしたがって教えたのである。教師は私どもの名をそれぞれ把握していたのである。ロバと馬とが決して同じ引き具を着けられることはなかったので、ロバが叩きのめされて愚かになる恐れもなければ、馬が駆使されるあまり秀才の早死に終わる心配もなかった。現代にみられるような適者生存の原理にもとづく教育制度は、寛大で人を愛する君子(gentleman)の養成には向いていないように思われた。したがって、この点に関しては、私どもの昔の先生は、教育理論のうえではソクラテスプラトンと同意見だった。ー 内村鑑三『代表的日本人(P113・中江藤樹)』【岩波文庫


殺してあげることが、優しさ。

私の生き方を見て「ペイフォワード【恩送り】みたいですね」と言ってくれるひとが頻繁にいる。多分、家を持たず、金も持たず、定職を持たないままに俗世を渡り歩いている姿を見て、そんな風に思ってくれるのだろう。しかし、自分自身としては恩送りをしているつもりもないし、恩送りという考え方を広めたいとも思わない。そんなことを昨夜会った女性と話していたら、彼女は「私には、坂爪さんはペイフォワードみたいには思えません。むしろ、真逆だと思いますよ」と話してくれた。

彼女曰く「私にとって、愛と暴力は切っても切れない関係性にあるものだと思っています。坂爪さんが持っている優しさの魅力は、斬り合うことの中に、自分の存在を賭けて目の前の相手と斬り合ってくれることの中にあると思います。悲しむひとを励ますことだけではなく、弱ったひとを慰めることだけではなく、ぶつかり合うことを通じてゴスロリ少女が少女になったように、そして、大切という言葉は大きく切ると書くように、お互いに『斬り合う』ことの中にあるものだと思います」

仁淀川が流れる中津渓谷の急流の中で、軽い生命の危機を覚えながら川遊びをした。一歩足を踏み間違えたら死ぬかもしれないという恐怖の裏側には、自分は生きているのだという確かな生命の実感がある。死ぬかもしれないという恐怖の際に、私は、生きていることの実感を見出していきたいのかもしれない。古い自分には何度でも死んでもらわないと、次に行くことはできないのだ。死ぬことを怯まず、傷つくことを恐れず、返り血を浴びることを厭わず、その先にある生命の実感【よろこび】に向かって邁進したいのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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君の求める光は、君自身の内にあるのだ。

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【家を拾うまで帰れま10@四国編】も3日目にはいった。1日目は、今治市在住の女性が松山空港まで迎えに来てくださり、大三島にある大山祇神社のクスノキ群を経由して、しまなみ海道の来島海峡急流観潮船から渦潮を見た。夜は松山に戻り、会って話したいと連絡をくれた複数名の女子とお茶をした後に、適当な屋内施設の床にエマージェンシーシートを敷いて寝た。横になりながら「これからは島だな」ということを思った。大陸に吹く風は淀んでいる。新潟の佐渡ヶ島もさることながら、いま、個人的に一番行きたい日本の島は長崎の五島列島になります。


2日目は、松山在住の女性が三津浜界隈を案内してくれた。しかし、私の精神が不調を訴えてしまったために、途中で逃げ出してしまった。松山市駅近くのセブンイレブン前にあるベンチで2時間程度くたばっていたら、愛媛県大洲市在住の男性がやってきて「大洲市に行きましょう」となり、いま、大洲市にいる。昨夜は大洲市内のゲストハウスに宿泊をした。3日目の今日は、香川県在住の男性が「仕事を辞めて時間があるので、車を出しますよ!」と連絡をくれたので、これから大洲市で合流した後に車で高知県に向かう(12日の夜に高知市内で何かをやるかもしれない)が、それ以降の予定は何も決まっていません。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
MAIL ibaya@ezweb.ne.jp

いつでもお気軽にご連絡ください。

四国の風景「大山祇神社

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しまなみ海道

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来島海峡急流観潮船の渦潮

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日本一海に近い駅だった「しもなだ駅」

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町並みの風景

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『シッダールタ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、1946年にノーベル文学賞を受賞したドイツの代表的な文学者、ヘルマン・ヘッセ著作の『シッダールタ』です。ヘッセの紡ぐ言葉には『詩がある』ような気がしていたら、ヘッセ自身が「詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である」と言っていました。下記に、私の好きなヘッセの言葉を羅列します。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、ミャンマーにわたりました ※※※

詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。
恋とは、私たちを幸せにするためにあるのではありません。恋は、私たちが苦悩と忍耐の中で、どれほど強くありえるか、ということを自分に示すためにあるものです。
世の中に実に美しいものが沢山あることを思うと、自分は死ねなかった。だから君も、死ぬには美しすぎるものが人生には多々ある、ということを発見するようにしなさい。
あなたの苦しみを愛しなさい。それに抵抗しないこと、それから逃げないこと。苦しいのは、あなたが逃げているからです。それだけです。
名声などというものに、いったい何の価値があるだろうか。本当に内容も価値もある人間たちが、みな有名になって後世に知られているとでも、あなたは思っているのだろうか。
鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。生まれ出ようとする者はひとつの世界を破壊しなければならない。
自分の道を進む人は、誰でも英雄です。
私が人生を諦めて、自分一個の幸不幸などはどうでもよいと悟って以来、少なくとも人生は、私にやさしくしてくれるようになった。
君の中には、君に必要なすべてがある。「太陽」もある。「星」もある。「月」もある。君の求める光は、君自身の内にあるのだ。
君自身であれ!そうすれば世界は豊かで素晴らしい!


君の求める光は、君自身の内にあるのだ。


四国に到着をした直後、一通のメールが届いた。成田空港で徹夜をした私は、四国に到着をした段階ですでにボロボロになっていた。しかし、このメールを読んだだけで露骨に元気が出た。ないと思っていたはずの気力と体力が蘇り、新鮮な風が吹き抜けて、心の状態が体に与える影響力は半端ないのだなと思った。そして、私は「一緒に生きるぞ」と返信をした。このメールは、過去記事「俺は俺だ」にまつわる感想のようなものであり、この記事の最後にメール全文を転載します。


初日の夜に出会った女性は、今月限りで現在の仕事を辞めるのだと話してくれた。彼女曰く「自分は仕事ができないから、いまの職場でも叱られることが多いのですが、あまりにも叱られ続けていると自分には何も価値がない人間なんだというような気持ちになってしまいます。『このままではやばい!』と思ったので、一度距離を置きたいと思って、しがらみもたくさんあるのですが勇気を出して辞めることにしました。そして、いままでは『自分にもできそうなこと』を基準に仕事を選んでいたのですが、これからは『(無理なことかもしれないけれど、それでも)自分がやりたいと思うこと』を軸に選択をしていきたいと思います」と話してくれた。

いやだなあと思うものを受け入れることは、いやだなあと思うものに自分も加担をしていることになる。自分の心が「美しなくい」と思うものには、明確な拒否を示すこと。そうでもしなければ、魂は、簡単に腐ってしまうように出来ているのだと思う。自分の内側にある光を守るものは、他の誰でもない、自分自身だ。無様でも、不器用でも、どれだけ周囲の人間からは蔑まれたとしても、自分が「美しい」と思うものを選択すること。何があっても、何を言われたとしても、自分だけは自分を離してはいけないのだ。

圭吾さん、おはようございます! 今日、四国にご出発ですよね。そんな朝に、どうしようかなぁと迷いつつ、やっぱり感謝を伝えたくてメールします。

少し前の圭吾さんのブログ記事で、「困った時のおまじない」が書いてありましたよね。
3月に一緒に圭吾さんに会いに行った8才の息子ですが、「学校」というものが嫌で、不安で、怖くて、私と一緒じゃないと行けずにいました。
以前は、先生に何か言われるだけで、命令されていると感じ、その時点で負けてしまって、床に泣きながら寝転んだり、逃げ出したりと、なんというか、男なのに情けないなぁと思っていたのです。
せめて、嫌なら嫌で、「嫌だ」と言って歩いて帰ってきてほしい と思っていました。

昨日は、始業式だったのです。「もう3年生にもなったから、いくら嫌なことがあっても、へろへろと力を無くして床に倒れこむみっともないのだけはやめてほしい。」といって、圭吾さんの修羅場のエピソードを教えたんです。
「ここぞというときは、お腹の下に力を込めて、集中して、多くは語らなくてもいいから、足で踏んばって、『いる(在る)』ように」と。

そうしたら!

校長室で(息子はクラスには入れないので、新しい校長先生と顔合わせをすることになってました)、息子は手をグーにして、ちょっとほっぺたをふくらませて、校長先生のお話に「ん。」「ん。」と短い返事をしていました。私は、初め分からず、「何なの?ちゃんと話をして。」と言ったら、手のひらに「さかつめ」と書いてきて…!

今、圭吾さんの真似しながらがんばってるんだ!と思ったら、ちょっと笑えて、ちょっと泣けてきました。

年度初日で、初めて会う校長先生と話すだけでも、息子にとってはすごい緊張だったはずなのに、圭吾さんのおまじないで、それに負けることなく自分を維持することができました。感動✨!
圭吾さん、本当にありがとうございます!←ひとつめの感謝!

それと、二つ目は、さっき寝る前に、村元さとみさんのFBから流れ流れて圭吾さんのツイートが携帯の画面に出ていたのですが、それを息子が見て、「自分と同じだ」と言いました。
https://mobile.twitter.com/KeigoSakatsume/status/586183175497322496?ref_src=twsrc%5Etfw

話を聞くと、(まだ8才なのに)「死にたい」ってよく(頻繁に)思うんだそうです…(*_*)
不憫に思う反面、これまでの息子の様子を見ていると、「そっか~。『死にたい』って思うのもしょうがないよね。分かる気がする~。」と、なんだか共感してしまいました。
親として、「命は大事だからそんなこと言わないで!」とか、もう思えなくなっている自分にも気づきました。

自分らしく生きられないって、(子どもでも)死ぬほど辛いことなんだなぁと思いました。
「まぁ、ママは⚪︎⚪︎くん(息子)に生きていてほしいからさ、今、何したい?」と聞いたら、水が飲みたいというので、いつもは「自分で汲んで飲んで」というところを、汲んできてあげました。「ママが汲んだお水、おいしい✨生き返る~!」と喜ぶ息子。

どれだけ私、愛情あげられてないのかなぁ?と思うけれど、私なりに頑張ってはいて、それを息子も分かってくれています。

それでも、多感で、生き辛い過敏な感受性をもち、周りからダメだダメだというメッセージを受け続けてる息子に、「『同じだ、似ている!』と思える人がいる…」ということ、圭吾さんが、そのままで、全力で生きていてくれることが、本当に私たちの力、希望になっています。本当にありがとうございます!

四国でも、圭吾さんの清清しい生き様を、私たちに発信してくださいね!
圭吾さんのストーリーを、息子に聞かせて、話し合っていきたいと思います。

偶然ですが、そのツイート、ちょうど1年前のものなのですね。びっくり!

時を越えて、私たちを励ましてくれる圭吾さんの呟き。本当に、いつも刺さります! ありがとうございます‼

圭吾さん、行ってらっしゃい!応援しています!   
⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きていることを実感したければ、死ね。

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成田空港第二ターミナルの無料Wi-Fiを拾いながら、この記事を更新している。翌日早朝発の便で松山に向かい、四国を舞台に「家を拾うまで帰れま10」を自主的に敢行する。家を拾えるあては何もないのだけれど、最大の目的は家を見つけることよりも古い自分を殺すことにあり、まるで天国のような熱海の自宅であぐらをかいている怠惰な自分を、ボロボロになるまで使い果たしてやりたいと思っている。


昨日は、熱海の家で「わたり食堂【0円食堂】」が開催された。この日は私のお誕生日でもあったのだけれど、尋常ではない暴風雨に恵まれ、まるで自分のこれからを暗示しているみたいだった。わたり食堂は、今月17日(日)まで開催されている。留守番は三森正道【みっつ】が担当している。誕生日祝いに、全国各地から大量の切手やクオカードやスターバックスのカードなどが届いた。これらのカード類は玄関脇にある「みんなの財布」に入れてあるので、必要な方はご自由にお持ち帰りください。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・断捨離のコツ。


失うことを恐れてしまうと、もっと大切な何かを失ってしまう気がするから、何かを守りそうになっている自分を見つけたら、出来る限り蹴飛ばしていきたいと思う。失っても、失っても、どれだけ多くのものを失ったとしても、絶対に最後に残るものがある。多分、それが【自分】だと思う。

2・宗教は答えで、哲学は問い。


私の生き方を見て「宗教みたいですね」と言うひとがいる。また、私の生き方を見て「哲学者みたいですね」と言う人もいる。私にとって、宗教は『答え【行き止まり】』であり、哲学は『問い【入り口】』みたいなものだと思っている。そして、宗教でも学問でもスピリチュアルでも、答えを持っているひとは止まっているように見える。私は、答えよりも問いでありたい。何が起こるかわからない、予測不可性の海の中に自分を投げ出していきたい。わかることよりも「わからないこと」を、答えるということよりも「応えるということ」を楽しんでいたい。

3・人生とは、自分を楽しませることである。


自分を楽しませることができていない時に、人間は苛立ち、他人と比較し、未来に不安を覚えたりする。多分、不幸の9割は「他人との比較」にある。そして、他人と比較をしている限り、絶対に勝つことはできない。理由は単純で「相手の土俵で闘ってしまっている」からだと思う。これは大切なことだと思うのだけれど、相対的な比較や競争をしている限り、絶対に勝つことはできない。真のライバルは自分自身であり、多分、人生とは自分を楽しませることである。

4・癒されすぎて腐っている。


スピリチュアルとかカウンセリングとか自己啓発にはまるひとの9割は、他人を救うことで自分を救いたいひとたちが占めているような気がする。誰かを救いたいんです!とか、日本を元気にしたいんです!などと話すひとほど、ほんとうは自分自身が救われたくて仕方がない(そのために他者を利用している)ように見える。乱暴にまとめると「承認欲求をこじらせている」ように見えるから、延命措置を施すよりも、古い自分を一回殺した方が早いと思う。

5・高校を退学した17歳の女の子。


先日、東京の国分寺で開催されたトークイベントに、17歳の女の子が遊びに来てくれた。彼女が「高校は一年生の時に退学をしました」と話すと、周囲の大人たちは「これからどうするの?」とか「やりたいことはあるの?」とか「親は心配していないの?」などと、彼女を質問責めにした。質問の答えをしっかりと考えている彼女の時間をさえぎって、勝手に気持ちを代弁したがる大人や、何も聞かれていないのにアドバイスをしたがる大人もたくさんいて、私は「みんな待てないんだなあ(こうしてこどもは潰されるんだなあ)」と思った。

後ほど、彼女に「今日はどうだった?」と尋ねると、彼女は「あのひとたちとはコミュニケーションがとれないと思いました」と話した。彼女曰く「まだ何もわたしのことを話していないのに、このひとたちはいったい何のアドバイスをしているのだろうかと思いました」とのこと。別に怒りを覚えている訳でもなく、悲しみを帯びている訳でもなく、冷静な感想として淡々と語る彼女を見て、最高だなあと嬉しさを覚えた。これからも、永遠に彼女のままでいてほしいと思った。

6・覚悟の逆説。


結婚すれば幸せになれるとか、お金があれば幸せになれるとか、恋人や友達がいれば幸せになれるとか、勇気や自信や能力があれば幸せになれるとか、安定した仕事があれば幸せになれるとか、多分、これらは全部ごまかしだと思う。いま、この瞬間から、何もなくても、自分ひとりでも幸せを感じることができなければ、誰といても、何をしても、幸せを感じることは永遠にできないと思う。最高のパートナーシップは「ひとりでも幸せを感じることができる者」同士の間に成立するもので、多分、幸せとは『心の状態』なのだと思う。

7・広い世界より「広い自分」


固定された自分を壊すこと。

8・自分のことを否定的に言わないことで、自分のことを否定的に思わなくなる。


自分のことを人見知りだと思っていたけれど、単純に「好きなひとと嫌いなひとがいるだけ」だと思うようになってから、自分を人見知りだと思わなくなった。みんなと仲良くしなければいけないと思うから、自分を殺してまでひとに合わせて、結果的に苦しい思いをするのだと思う。

9・ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。


弱さとは、決して悪いことではないと思う。自分には弱い部分があるのだと認めることと、自分には弱い部分があるのだと自分を責めることは、似ているけれど、まったく違う。「自分はこういう人間です」と、不完全なら不完全なりに、不完全なままで飛び出して行く。自分を責めても、誰も幸せにはならない。自分で自分を護るということは、多分、自分の限界を知るということだ。

『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、佐々木典士さん著作『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』です。なんと!作品中にはわたしの名前も登場する(らしい!)ので、これから飛行機の中で読み耽りたいと思います。自分を身軽にしておくことは、乱世を生き抜く非常に有効なスキルになるような気がする。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、香川県にわたりました ※※※


10・生きていることを実感したければ、死ね。


イベントの終了後などに「坂爪さんのファンです!」とお客様から言われることが、私は、非常に苦手だ。そんなことを言われてしまうと「俺は誰よりも俺のファンだから、お前はお前のファンになれ!」と思ってしまう(実際に言うこともある)。ただ、坂爪さんが生きていることがうれしいです的なことを言われるてしまうと、それは謎にうれしい。どちらも似たような言葉なのに、果たして、何が違うというのだろうか。自分なりに考えてみた結果、ほんの少しだけ理由がわかってきた。

私は「自分はすごい人間だ」なんて絶対に言いたくない。それよりも「人間はすごい」とか「言葉はすごい」とか「生きているということはすごい」とか、決して坂爪圭吾という特定の人物にだけあてはまるものではなく、この世のすべてのひとにあてはまるような、大袈裟な言葉で言えば『真実』とか『普遍性』などと呼ばれるような、そういうものに触れていきたいと思っている。そして、それに触れることができたことを、同じ時代に生きるひとたちと一緒によろこびたいと思っている。だからなのだろうか、坂爪さんはすごいと褒められても何も嬉しくないばかりか(自分の力量不足を突きつけられているみたいで)軽くがっかりする。

誤解を恐れずに言うと、いま、私を含めた多くの人々はあまりにもビビり過ぎているのだと思う。それは、金がないことや自信や勇気や能力が足りないことではなく、真逆で、実際は『自分には既に力がある』のだと認めることをビビっているのだ。自分の力を認めてしまおう。何度も何度も痛い目に遭っては、その度に逞しく生まれ変わろう。どんなに小さなことでもいいから、どんなに馬鹿げたことでもいいから、自分がやってみたいと思ったことには、躊躇をしないで飛び込んでみよう。生きていることを実感するために、死のう。きっと、そこから広がる世界がある。

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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もありました。

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三人兄弟の末っ子として生まれた私には、5歳年上の姉と、4歳年上の兄がいる。実兄の坂爪真吾は東京大学在籍中から自身で事業を興し、その傍らで「はじめての不倫学」や「性風俗のいびつな現場」などの書籍を発表している。私は、兄の背中を見て育った。兄が買うCDを聞き、兄が買う服を着て、兄が買う本を読んだ。しかし、兄弟は役割を分散させるみたいで、東大を突破してアカデミックな道を進んだ兄に対して、最終学歴が高卒の私は(勝間和代風に言えば)ストリートスマートの道を目指した。

稀に、兄が講演などで足を運んだ先で「坂爪圭吾さんのお兄さんですよね」と尋ねられることがあるらしい。兄は、それが嫌なのだと言う。それはそうだろうなと思う。アカデミックな道を選んだ兄にとって、私のような得体の知れない愚弟の存在は『目の上のたんこぶ』になる。誤解されると困るが、私は、兄を尊敬している。自分のことを社会不適合者だと思っていた私には、生きる希望が欠如していた。しかし、自分で事業をはじめる兄の背中を見て「そういう生き方もあるのか!」と目から鱗が落ちた。既存の生き方に自分を合わせるだけではなく、新しい生き方を自分でつくるという選択肢もあるのだ。

私の両親は、実家のある新潟市内で理髪店を営んでいる。両親の最終学歴はどちらも中卒で、非常に貧しい家庭で育ったために「大正時代のひとと話が合うんだよ」と笑いながら話す。家には高校に行かせる金がないために、中学を卒業すると同時に床屋に住み込みの弟子入りをして、修行を積んだ後に独立して自分の店を持つ、というパターンを両親は踏襲している。小さい頃、母親からは「貧乏人ほどよく笑う」という言葉を聞いた。事実、母親はよく笑う。ユーモアとは、どんなに苦しい状態でも自分を笑い飛ばせる力なのだということを、私は、母から学んだ。しかし、基本的には明るく楽天的な母にも、16歳で床屋に弟子入りをしたばかりの頃、同世代の制服を着た女の子の髪の毛を洗いながら「うらやましいなあ」と思ってしまう瞬間はあったらしい。

家族に強く感謝をしている三点。

私には、自分の家族に強く感謝をしている点が三つある。ひとつ目は「三人兄弟でよかった!」という点だ。私の姉も、私の兄も、どちらも結婚をしている。こどももいる。これによって「親に孫の顔を見せる」的なこどもの責任っぽいことは既に果たされた。その点、ひとりっこは大変だと思う。兄弟がたくさんいることのメリットは、多分、こどもの役割を分散できることだ。おかげさまで、末っ子の私は「これで自由に生きられる!」と気分爽快である。両親も両親で「こどもが三人いたらひとりくらいはバグるものだ」と、私のことは前向きに諦めてくれている。ありがとう、家族。これで、私は『安心して死ぬ【バグる】』ことができる。

ふたつ目は「両親が自営業でよかった!」という点だ。理髪店の休業日は毎週月曜日だったために、小さな頃、家族で遠くに旅行に出かけた記憶が私にはない。昔はそれをさみしいことだと思っていたが、いまでは「おかげさまでひとりで生きる力が身についた」と、V字回復の好転反応を示している。自営業の両親は、良くも悪くも、非常にゆるい。組織特有の縦社会に属した経験が浅いために敬語もロクに使えないが、しかし、素朴な人間味がある。両親は「自営業は身体が資本だから、身体がぶち壊れたらおしまいだよ」と言うが、それを聞いた私は「それならば安定した道を選ぼう」と思う以上に「あらゆる困難を乗り越える、強靭な肉体と精神を身につけよう!」と思うようになった。

みっつ目は「反抗期を受け入れてくれて良かった!」という点だ。母曰く、私の反抗期は18年間続いたらしい。いつからいつまでの時期を指すのかは不明だが、ことあるごとに、両親と私は衝突をしてきた。14歳で煙草を吸い、親父の原チャで高校に通い、生活指導にボコられ、金色の髪の毛を肩まで伸ばし、学校を辞めたいと暴れ、微塵も話が通じずに家の壁を叩いて穴を開け、新潟を離れるためだけに通った大学を勝手に辞め、就職もせず、親のいうことも何も聞かない。様々な局面でいちいち反抗をしてきた私を見て、やがて、両親も「こいつは何を言っても無駄だ。自分のやりたいことしかやれないんだ」と思うようになり、結果的に「元気でいてくれたらそれでいい」という終着駅に到着をした。

元気でいてくれたらそれでいい。

学校に行け!と言われると「行きたくない!」と反抗をして、就職をしろ!と言われると「就職したくない!」と反抗をしていた私も、実際、両親から何も期待をされなくなると、反抗することが何もなくなってしまった。何も期待せず、何も要求せず、ただ「元気でいてくれたらそれでいい」なんて言われてしまうと、こども側としても「お、おう【それならば、元気に生きます】」としか言えない。おかげさまで、紆余曲折はあったものの、現在の家族仲は非常に良好である。もちろん、両親は私の生き方を、多分、一ミリも理解していないと思う。理解できないものを「無理をしてまで理解をしようとするのではなく、理解できないまま、そのままにしておいてくれる」両親の底知れない器には、心の底から感謝をしている。

星の王子さま

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグチュペリの名作『星の王子さま』です。わたり文庫を開始してからおよそ三ヶ月、無理やりにでも誰かに読ませたいと願う本の数々が、全国各地から熱海に届いている。その中でも、こちらの本は抜群の人気を誇っている。読む時期によって心に響く場面は変わるのですが、なう、キツネのセリフが五臓六腑に沁み渡ります。まだ読んだことのない方は、是非、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

ぼくの暮らしは単調だ。ぼくがニワトリを追いかけ、そのぼくを人間が追いかける。ニワトリはどれもみんな同じようだし、人間もみんな同じようだ。だからぼくは、ちょっとうんざりしてる。でも、もしも君がぼくをなつかせてくれたら、ぼくの暮しは急に陽が差したようになる。ぼくは、ほかの誰ともちがうきみの足音が、わかるようになる。ほかの足音なら、ぼくは地面にもぐってかくれる。でもきみの足音は、音楽みたいに、ぼくを巣の外へいざなうんだ。それに、ほら!むこうに麦畑が見えるだろう?ぼくはパンを食べない。だから小麦にはなんの用もない。麦畑を見ても、心に浮かぶものもない。それはさびしいことだ!でもきみは、金色の髪をしている。そのきみがぼくをなつかせてくれたら、すてきだろうなあ!金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる……


音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もありました。

中学時代、高校時代と友達がいなかった私は、時間を見つけてはひとり自転車を何時間もかっ飛ばして新潟市内全域の中古CDショップを巡っていた。生きていても何も良いことはないと思っていた自分にとって、ただ、自分の好きな音楽を聴いている時間だけは「自由」を感じることができた。気に入ったCDを見つけては、繰り返し、繰り返し、授業中も、移動中も、自分の部屋でも、何度も何度も聴き続けた。音楽は、周囲にうまく馴染めない自分にも「生きててもいいんだよ」と言ってくれているような気がしていた。周りのすべてが「お前は大丈夫じゃない」というメッセージを発してくるように見える世の中において、音楽だけは「お前は大丈夫だ」と言ってくれているように感じていた。そして、自分が音楽に強い感動を覚えたように、自分もひとの心を動かせるような人間になりたいと思うようになった。みっつの言葉を借りれば「音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もある」ような気がしていた。


多分、私は音楽を通じて「自分の居場所」を拡張したかったのだと思う。そして、この思いは30歳になったいまも変わっていない。30歳になるということは、もっと大人になるということだと思っていた。それなのに、これほどまでに「そのまま行く」とは思わなかった。自分の不甲斐なさに情けなくなることもあるほどこどものまま、私は、自転車を飛ばした先の中古CD屋さんでお気に入りの音楽を見つけた時のようなあの高揚感を、あの頃のまま、いまでも求め続けているのだと思う。限界性を突破して、不確実性の海の中に自身を投げ出すこと。何が起こるかわかりきっている想定の範囲内の世界よりも、何が起こるかわからない、世界には自分を興奮させてくれるものがまだまだたくさんあるんだという静かで激しい高揚感のど真ん中に、私は、自分の身を投げ出していきたいのだと思う。

孤独な青春時代を過ごしていたとき、私は、常に死にたいと思っていた。生きていても何もいいことはないと思っていたし、これから先に、何か素晴らしいことが待っているとも思えなかった。しかし、あの頃の正直な感覚は「死にたかった」のではなく「死にたいと思うこの気持ちについて、誰かと話がしたかった」だけなのだと思う。私は、多分、ずっと友達が欲しかったのだ。話しあえる友達を、わかりあえる友達を、同じ気持ちを抱えている友達を、私はずっと求めていたのだ。どうすることもできない自分の弱さの裏側には、どうにかしていきたいと願う『希望』があった。あの頃のまま、私は、もうすぐ31歳になる。私は、自分に恥ずかしくない生き方ができているだろうか。昔の自分に、胸を張れる生き方をできているだろうか。私には、まだ、何もわからない。何もわからないけれど、わからないなりに、わからないまま、過去の自分が音楽の中に自分の居場所を見出したように、自分がこれから綴るもの、自分がこれから詠うもの、自分がこれから織り成すもの、それらのすべてに音楽が宿るような、そういう生き方をしていきたいと思っている。

人生は続く。

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恐れることを恐れるな。

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4月9日(土)から四国で「家を拾うまで帰れま10」をやるために、しばらくの間、熱海の家が無人になる。これは非常にもったいないので、実験的に4月7日(木)から17日(日)までの約10日間「第4回!わたり食堂」の会場として、自宅を完全に開放します。坂爪圭吾が滞在するのは7日【この日は私の誕生日!】のみになりますが、興味のある方は詳細をご覧ください。


熱海の生活の良いところは、海と山と温泉があるところです。いま、ちょっと元気がないなあと思った時は、伊豆山神社まで散歩をしたり、打ち寄せる波を眺めたり、温泉にはいって「あああああ…!」と声にならないよろこびの咆哮をあげることができる。極少数の仲間内で焚き火を囲むこともできるし、春の夜風にあたりながら、星空を眺めることもできる。それでもダメなら、あとはもう、寝るだけだ。


わたり食堂では、基本的に家にある食糧や調理器具などは自由に使えることになっている。足りないものは、伊豆山神社近くにある八百屋さんか肉屋さんで調達をする。冷蔵庫の横にある戸棚には『わたり文庫(循環型の図書館)』も設置されているので、珈琲や紅茶を飲みながら、静かな環境で気が済むまで読書を楽しむこともできる。是非、この機会に足を運んで見てください。


みんなの財布

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熱海の家の玄関には「みんなの財布」がある。ここにはいっているお金は、誰でも、自由に使えることになっている。先日、鍋の準備をしてくれた女の子は「肉が食べたかったのでお金を借りました!坂爪さんも一緒に食べましょう!」と、みんなの財布を使ってくれた。平塚から遊びに来てくれた20代の女の子も「絶賛無職で、帰りの電車賃がないもので…」と、みんなの財布を使ってくれた。残金が尽きる時まで、共に死に絶える日が来るまで、どんどんやって欲しいと思っている。

逆に、遊びに来てくれた方々が帰り際にこっそりと、みんなの財布に何かしらを投入してくれることもある。日本銀行券であったり、クオカードであったり、図書券であったり、何かしら金的なものを投入して帰ってくださる方もいるために、不思議と、みんなの財布の中にある残金は常に一定の水準を保っている。非常に驚いたことに「お布施です」と、実際に手渡しをしてくれるひともいる。私は思う。これが『21世紀の需要と供給』になるのかもしれない。


美しい世界を共有する。

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今回のブログ記事に掲載している写真は、愛媛県在住の女性から届いたしまなみ海道界隈の風景になります。美しい瞬間を目撃したとき、その美しさを、ほかの誰かと共有したいと思う。しかし、多くの人達は夕日を眺める余裕も季節の草花を慈しむ時間もなく、常に忙しそうにしているために、美しい風景は自分の中だけに閉じ込められてしまう。

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そういうときに、お互いの眼の前で繰り広げられている自然の美しさを共有できる相手がいるということは、心が感じる嬉しさを倍増させる。狭くなっている自分の視野を広げてくれる、自分がいる場所が世界のすべてではないのだということを、そして、同じ空は繋がっているのだということを、何度でも思い出させてくれる。

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『やさしいライオン』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アンパンマンでお馴染み、やなせたかし著作の絵本『やさしいライオン』です。読後に思わず「ああ…」と溜め息が漏れ出てしまうような、非常に素晴らしい作品です。小さなお子様をお持ちのお母様など、こどもと一緒に楽しんでもらえたら幸いです。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

また、『第4回!わたり食堂』開催にあたり、もしも「誰かに無理やりでも読ませたい!」という本をお持ちの方がいらっしゃいましたら、1〜2冊程度を熱海の家まで郵送していただけると非常に嬉しいです。4月7日(木)までにお送りいただいた方には、せめてもの御礼として、わたり文庫より『ミステリーブック【他の誰かのおすすめの一冊】』を無料でお届けいたします。本の到着が8日以降になりますと、坂爪不在のために御礼ができないのですが、ご了承いただければ幸いです。


恐れることを恐れるな。

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自宅を開放したり、自分自身を開放していると「こわくないのですか」と尋ねられることが頻繁にある。こわくなかったと言えば嘘になる。序盤は『もしかしたら殺されるかもしれない』などとびびっていた時期もあるが、冷静に考えると『(金も財産も何もない)俺を殺すメリットは何もない』ということにハタと気がつき、それ以来、何かを恐れるということがなくなってきた。

もちろん、自宅や財布や自分自身を開放していたら、心のないひとが大切な何かを持って行ってしまうというリスクもある。しかし、その時は、その時なのだ。法律を犯してまで何かを持って行こうとするということは、そうでもしなければ生きていけない切羽詰まった何かが、そのひとにはあるということだ。そして、法律は逃れても、他人の視線はまぬがれても、自分の良心から逃れることはできない。

何か新しいことを始めるとき、同時に、不安や恐怖心が湧き上がることは異常ではない。しかし、失うことを恐れてしまうと、もっと大切な何かを失ってしまう。何も持たずに真っ裸で生まれてきて、何も持たずに真っ裸で死んでいく我が身である。何かを守りそうになっている自分を見つけたら、出来る限り蹴飛ばしていきたいと思う。失っても、失っても、どれだけ多くのものを失ったとしても、絶対に最後に残るものがある。多分、それが【自分】だと思う。


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人生は続く。

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「やりたい」が「やらなきゃ」になったらゲームオーバー !

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若き日の黒柳徹子さんが、過労でぶっ倒れて入院をした時、ああ、もう病気にはなりたくないなあと思った。そこで、医者に「死ぬまで病気をしたくないんですけど、どうやるんですか」と尋ねた。医者は「ひとつだけあるけど、できないね」と言った。徹子さんは「わたし、やります」と食い下がった。医者は「できないと思うけど、やるかい」と言ったあとに、次のようなことを話した。

進んでやる仕事だけ、やっていきなさい

医者から「自分で進んでやる仕事をすれば、寝る前に残っているのは肉体の疲れだけだ」ということを教わった徹子さんは、それ以来、自分がやりたいと思うことだけをやってきた。嫌だなあと思っていると、それが積み重なって、ヤダなヤダなが残ってしまう。当時は『ストレス』という言葉はなかった時代だ。だからなのか、徹子さんは「わたしはなにをしていても、面白くないときがないの」と話している。

「やりたい」が「やらなきゃ」になったらゲームオーバー!

昨夜、横浜中華街の飲食店から動画配信を行った。その中で「恋愛観」的なものが話題にあがった。現在の私に特定の恋人はいないが、多分、私は『固定』されることが苦手だ。たとえば、男女が付き合うと「次はいつ会える?」的な会話になる。私は、この瞬間に「固定されてしまう!」というある種の恐怖感を抱く。会いたい時に(割と即座に)会うのがベストであり、事前に約束をすると、会いたいが「会わなければいけない」になってしまう。


同じような理由で、恋人の誕生日プレゼントを買うことも苦手だ。誤解されると困るが、贈り物を贈るという行為は大好物である。何でもない日に花や小物を贈ることが、私は大好きだ。しかし、一年に一度きりの誕生日に宿る「絶対に何かを贈らなければいけない感」にやられてしまう私は、恋人の誕生日が近づくほどに心臓は軋み、気持ちは塞ぎ、自責の念に駆られ、やがて「だから恋愛は面倒だ!」という極論に着地する。

乱暴にまとめると、恋愛でも仕事でも「やりたいがやらなきゃになったらゲームオーバー」なのだと思う。その瞬間、私は死ぬ。だからなのだろうか、恋愛も仕事も長続きしない。そんな自分を「俺はダメな人間だ」と責めていた時期もあったが、仕方がないものは仕方がない【長続きするような人間だったら『いばや』とかいうよくわからないことはやっていない】、それでも『文章を書く』ということは昔から飽きることなく現在も続けているために、いまは、それによって死なずにいることができている。

「やりたい」が「やらなきゃ」を解決する。

先日、帝国ホテルのイベントに出演(?)した。この日、自分でドレスを手作りした女性のエピソードを思い出した。彼女は、過去に服をつくる仕事をしていた。現在は別の仕事をしている。服をつくることは好きなのだが、仕事が忙しいために最近は服をつくる時間がなかった。しかし、服をつくりたいという気持ちは強くある。そのため、帝国ホテルのイベントに合わせて再び服をつくりはじめた。


服をつくるためには、ある程度のスペースが必要になる。彼女の家には、数年前から物置と化してしまった部屋がある。「掃除しなきゃな」とは思っていたが、そのまま、ずっと放置されていた部屋だ。しかし、服をつくりたいという新たな欲求が生まれた彼女は、そのままの勢いで、長年放置されていた部屋をババッと片付けて服の制作にはいった。彼女は『振り返ってみると、やりたいがやらなきゃを解決してくれたのだと思いました』と話してくれた。

素晴らしいエピソードだ。私は、根本的に「問題解決型」的なサムシングが息苦しくて苦手だ。お金がないから嫌な仕事でも我慢をしてやらなければいけないということよりも、お金がないから家賃を浮かすために「家のない生活」を実験的にはじめてみたら、死なないばかりか想像を超えた面白い目にも遭えて【結果的に家ももらえて】ラッキー!といった感じの、気がついたら「問題が問題ではなくなっている」ような状態を理想としている。

『タマネギのひみつ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、黒柳徹子さん(聞き手・糸井重里さん)著作『タマネギのひみつ』です。こちらの本は、茨城の実家を飛び出して熱海まで遊びに来た絶賛家出中の20代前半の女性が、持参してくれた一冊です。冒頭のエピソードも収録されているのですが、徹子さんの天真爛漫っぷりには元気をもらいます。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※


嫌だなあと思うことを嫌々やって生きるのではなく、好きなことをブワアとやって死にたい。

極論、やりたいことをやる勇気と同じくらい、やりたくないことはやらない勇気も大事になるのだろう。「俺はもう、自分のやりたいことしかやらないことに決めた!」的な、非常に威勢のいい言葉を発してしまった瞬間から、自分の人生に言い訳ができなくなる。あらゆる行為の動機は「やりたいからやる(やりたくないからやらない)」になるために、すべては自分の責任となり、もう、自分の日々を誰の責任にもできなくなる。

生活のためだけに生きるのはむなしい。他人の期待に応えるだけの日々では、やりたいがやらなきゃになってしまうのは時間の問題である。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。自殺者が3万人いて鬱病患者が100万人いる日本社会で病気にならない生き方とは、進んでやりたい仕事だけ、やっていくことだ。やりたいがやらなきゃになったらゲームオーバーであり、やりたいはやらなきゃを解決する。

嫌だなあと思うことを嫌々やりながら生きていくことの最大のリスクは、多分、魂が腐ってしまうことだと思う。自分の好きがわからなくなり、自分の感情がわからなくなり、自分が生まれてきたことの意味や価値やよろこびを無意識の内に喪失してしまう。私は、嫌なことを嫌々やって生きるよりも、好きなことをブワアとやってから死にたい。ああ、この瞬間を味わえた自分には生まれてきた甲斐があったのだと、これはもう死んでも悔いはないと思える瞬間のど真ん中に、私は揺蕩っていたいと思っている。


人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

不完全なら不完全なりに、不完全なままで胸を張る。多分、その姿が『完全な自分』になる。

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神奈川県在住のT様から、本日、心のこもった手作りローズマリー軟膏の新作が届きました。10名限定になりますが、ご希望される方に無料で郵送をいたします。実際に作って見ると意外と簡単にできる(作り方は下記リンク参照)とのことなので、興味のある方は是非、自宅でも挑戦してみてください。手荒れに悩む方が、ひとりでも少なくなることを祈ります。


※※※ こちらの軟膏は、日本全国にわたりました ※※※

先日、粛々と録画した動画を公開した。最近、ツイキャスが楽しい。まるで小学生の男の子が、家に帰ってきた時にお母さんに「今日はこんなことがあったんだよ!」的な報告をしている時のような、あの、懐かしい気持ちになる。動画の中で、私は「過去に付き合っていた女性と体験した修羅場」の話をした。非常に印象的な出来事になったので、簡単にまとめます。


7歳年上の女性との修羅場

当時、22歳の私は7歳年上の女性と交際をしていた。ある日、彼女の家にはじめて遊びに行った時、悲劇は起きた。彼女と私が家のリビングで映画を見ていたら、突然玄関のチャイムがピンポーン!と鳴り、彼女は「まじかよ!」という表情を浮かべた。これはあとでわかったことなのだけれど、当時の彼女にはまだ完全には別れ切っていない絶賛同棲中の元カレがいて、今夜は戻らないはずだった元カレが家に帰ってきたのだ。

ひとしきり「どうしよう!どうしよう!」と騒いだあとで、観念した彼女は元カレを家にあげた。男性の年齢は30歳ちょっとで高級なスーツをビシッときめていて、耳には光るピアスをしていた。男性の風貌から「僕は、若い頃にはそれなりのやんちゃをしてきました」感を強く嗅ぎ取った私は、ああ、これは一発殴られるかもしれないなあと腹を括った。

気持ちで負けちゃいけない。

男性は、私に向かって「えっと、あんた誰??ここで何しているの??」的なことを言った。私は、「はい」とだけ答えた(気がする)。この時の私の気持ちはただひとつ、これからどのようなことがあろうとも、男性に気持ちで負けてはいけないということだ。男性は、目に見えて怒りに満ちていた。一触即発の雰囲気が周辺に充溢して、彼女はおろおろとする中で、元カレは「なんなんだよ!」と叫びながら、近くのゴミ箱を蹴飛ばしたりしていた。

空中をゴミ屑が浮遊しているのを眺めながら、私は、ひたすら自分の腹に集中していた。逃げ場のない時は『ひたすら丹田に力を込めて、まるで武士のような面持ちでその場をやりすごす』という手法を身につけたのは、多分、この瞬間からだと思う。元カレが再び私の元に来る。私を睨む。私の胸ぐらを掴む。私の顔面に向かって「あんたはいったい誰なんだよ!」的な言葉を吐く。私は、ひたすら「はい」とだけ答える。それ以外の言葉は何も言わず、自分の腹に意識を集中させたまま、実は、心の中では『おまじない』を唱え続けていた。

困った時のおまじない【俺は俺だ】

私には、困った時に多用するひとつのおまじないがある。それは「俺は俺だ」とひたすら心の中で唱え続けるというもので、この日、修羅場を迎えていた私は心の中で何度も何度も「俺は俺だ。俺は俺だ。俺は俺だ。俺は俺だ」と繰り返し唱え続けていた。もしも、この世の中には目には見えないエネルギーがあるのだとしたら、自分の肉体全体から圧倒的な【俺は俺だエネルギー】を放出させることにより、もしかしたら最悪の窮地を脱することができるかもしれないという、吹けば飛ぶような一縷の望みに自分のすべてを賭博した。

元カレ「お前は誰なんだよ」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「あ?聞いてんのか?」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「何してんだよ」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「いつからいたんだよ」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「何か言えよ!」

坂爪「はい【俺は俺だ】

元カレ「ああ!?」

坂爪「はい【俺は俺だ】

こんな感じである。殴られるかもしれないと思っていたが、奇跡が起きたのか何なのか、そのまま元カレは「クソっ!」と叫びながら家を出て、そのまま何処かに消えて行った。無事にことなきを得たのである。私は、この修羅場を通じて強烈な学びを三つ得た。ひとつ、困った時は意識を丹田に集中させること。ふたつ、謝罪も弁解もしないまま、相手を静かに真っ直ぐ見据えること。みっつ、心の中で【俺は俺だ】とひたすら唱え続けること。この三つを死守すれば、もしかすると、もしかするかもしれないということを実感した。

『喜びから人生を生きる【DYING TO BE ME】』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、普段は埼玉県で教員をやっている男性が持参してくれたアニータ・ムアジャーニ著作『喜びから人生を生きる【DYING TO BE ME】』です。私はまだ何も読んでいないのですが、サブタイトル【自分になるために死ぬ】が非常に気に入りました。古い自分には一回死んでもらわないと、次には行けないのだ。私の愛するムラキテルミさんも手垢がつくほど読み込んだ(らしい!)ので、ご希望される方はローズマリー軟膏同様に何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※


ありのまま、自分のままで自分の姿を誇ること。

これは結果論に過ぎないが、もしも私が元カレに「許してください!」と謝罪をしたり、「彼女とはただの友達です!」みたいな形の弁解をしたら、ボカンと殴られていたかもしれない。TPOにもよるが、謝罪や弁解をすることよりも『思い切って開き直ること【居直ること】』が効果的な場合がある。どれだけ自分に不利な状態でも、どれだけ自分に負の点があろうとも、自分はこういう人間ですと居直ること。自分を前面に突き出すことにより、ロジックの壁を飛び越えて突破できる瞬間がある。

現在の私は、多分、過去に決めたふたつの覚悟に支えられている。ひとつは「ひとりでもいい」という覚悟。誰にも理解されなくても、友達や恋人はいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも生きていくという覚悟。そして、もうひとつは「死んでもいい」という覚悟。やりたくもないことをやって生きる【自分を殺して生きる】より、やりたいことをやって死ぬ【自分を出して死ぬ】覚悟。不思議なことに、ふたつの覚悟を決めてから、自分の日々が大きく膨らみはじめているような気がしている。


未熟でも、不完全でも、世界に向けて「自分はこういう人間です」と宣言をすること。多分、大切なことは【いま、この瞬間から、自分は自分の足で立つ】ということだ。完璧であろうとするのでもなく、誰かに何かを補ってもらうことを求めるのでもなく、「いつか」と何かを先送りにするのでもなく、足りないものは何もない、自分にはこの肉体とこの精神しかないのだから、ありのまま、自分のままので自分の姿を誇ること。不完全なら不完全なりに、不完全なままで胸を張る。多分、その姿が『完全な自分』になる。


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人生は続く。

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