死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。
1・疲れてぶっ倒れるまで散歩をすること。
99人から賞賛を受けても、たった1人からでも罵倒を浴びれば、どうしても自分の意識は1人の人間に向かってしまう。そういう時は、99人の存在も簡単に見失ってしまう場合もあるけれど、多分、惑わされてはいけないのだと思う。何処に意識を向けるのかは、自分の意思で選択できるはずだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月27日
2・自分を使って相手を幸せにすることが愛情ならば、相手を使って自分を幸せにすることは執着になる。
仕事を変えても、パートナーを変えても、親子関係が変わらなければ何も変わらないのだと思う。親の価値観と自分の価値観は別物だから、そこはしっかりと分けて考えること、多分、分けることが許すことに繋がる【分けることができないから許せない】のだと思う。親は親。自分は自分。以上!!
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月30日
3・自分を大切に扱うということは、言葉を大切に扱うということだ。
4・死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。
死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月29日
5・誰かを抱き締める時、同時に、自分も抱き締められている。
相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心を同時に傷つけている。目の前にいる人間を愛するようにつとめることは、そのまま、自分を愛することにもつながる。男と女とか、自分(自国)と他人(他国)とか、勝ち組と負け組とか、境界線に見えるもののすべては幻想で、全部、自分なんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月29日
6・何もしない優しさ。
何もしない優しさもあるのだと思う。相手に優しさを求めたり、相手にすぐに何かをしてあげたくなることは、時に「そのひと自身の中にある力」をダメにしてしまう。何もしなくても、誰の力を借りなくても、自分には既に力があるのだと信じられるようになることは、最大の優しさになると思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月25日
7・きっと、すべては流れている。
行雲流水の五月だ。 pic.twitter.com/iSwkuoTZPP
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月7日
8・天を相手にし、人を相手にするな。
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
9・毎日が出発で、毎日がゴールだ。
何度でも、何度でも、はじめるんだ。 pic.twitter.com/9yp08Cysez
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月2日
問答無用で、絶品です。
10・他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に、飛翔する翼がある。
俺はすごい人間なのだと【自分の正当性を】声高に叫んでいる間は、まだまだ、二流の人間なのだと思う。真に素晴らしい人間は、そのひと自身だけではない、一緒にいる人間にまで「自分には力があるのだ」と思い起こさせる。他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に飛翔する翼がある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月7日
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心と一緒に扉を開くのではなく、静かな勇気と共に開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月22日
大切なのは、出発することだ。
『ローズマリー軟膏』
『大とろ風さしみこんにゃく【feat.酢みそ】』
『長い旅の途上』
僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。
僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。
バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
偶然の一致に意味を見出すか、それとも一笑に付すか、それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。その大切な何かが、たましいというものだった。
一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい
寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。離れていることが、人と人とを近づけるんだ。
人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。
大切なのは、出発することだ。
この世に生きるすべてのものはいつか土に帰り、また旅が始まる。
大切なのは、出発することだ。
自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人に嫌われる方がずっといい。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月3日
この一瞬のために生きていた。
風が、夏の香りを運んでくる。 pic.twitter.com/TRlYZ0O6MD
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月29日
自然を前に、自分が消える。
『若冲展@東京都美術館』
この一瞬のために生きている。
本当は何をしてもいいし、本当は何もしなくてもいいし、本当は何処に行ってもいいし、本当は何処にも行かなくてもいいのだと思う。しなければいけないことなんて本当は何ひとつなくて、ただ、自分で自分を縛っていただけなのだろう。疲れた時は眠ることだ。希望の光は、朝日と共に昇って来る。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
こんばんわ!⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。今日はお話会、ありがとうございました‼︎覚えてていただけた事、当たり前じゃないですか!のお言葉に感謝感激、ありがたき幸せです!圭吾さんのお話会ってどんなんだろう?と思い参加させていただいたのですが、色んな方がいらっしゃるんですね。皆さんすごいなぁと思いました。私はあの中で圭吾さんのお友達が言われたわたり子育てしてくれてありがとう!がとても響きました。わたり子育てについて私はよく理解出来ていなかったのですが菜々子への言葉も、圭吾さんのブログも子育てになってると聞いてすごく面白く感じ確かに、お母さんを通じて圭吾さんを知って奮闘するお子さんたちの話をブログで読んではなんだかすごく嬉しくなり、それは圭吾さんを通じて育っているという事なんだなと感じました。見方が違うとこんなにも素敵な事に気付けるんですね!楽しかった^ ^またどこかでお会いできればと思います。ありがとうございました‼︎
奈々子に。
奈々子に赤い林檎の頬をして眠っている 奈々子。お前のお母さんの頬の赤さはそっくり奈々子の頬にいってしまってひところのお母さんのつややかな頬は少し青ざめたお父さんにも ちょっと酸っぱい思いがふえた。唐突だが奈々子お父さんは お前に多くを期待しないだろう。ひとがほかからの期待に応えようとしてどんなに自分を駄目にしてしまうかお父さんは はっきり知ってしまったから。お父さんがお前にあげたいものは健康と自分を愛する心だ。ひとがひとでなくなるのは自分を愛することをやめるときだ。自分を愛することをやめるときひとは他人を愛することをやめ世界を見失ってしまう自分があるとき他人があり世界がある。お父さんにもお母さんにも酸っぱい苦労がふえた。苦労は今はお前にあげられない。お前にあげたいものは香りのよい健康とかちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心だ。
真善美の光を追い求めること。
朝日を迎え撃つために、今夜は下関で野営をします。関門トンネルを車で通過したのですが、トンネルを通るたびに「俺たちの生活は、血の滲むような先人の働きのうえに成り立っているのだなあ」と、物凄い感慨深くなります。それでは皆様、よい夢を!! pic.twitter.com/ntopJCOmcz
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月24日
世界が目覚めました。 pic.twitter.com/EvK6AZMogo
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月24日
有漏路より 無漏路に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け【一休宗純】
何もしない優しさもあるのだと思う。相手に優しさを求めたり、相手にすぐに何かをしてあげたくなることは、時に「そのひと自身の中にある力」をダメにしてしまう。何もしなくても、誰の力を借りなくても、自分には既に力があるのだと信じられるようになることは、最大の優しさになると思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月25日
真善美の光を追い求めること。
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
ロックンロールが大好きです。
1・言葉は音楽【詩】になる。
コミュニケーションは「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」の方が、多分、何億倍も大切だと思う。心のない言葉はどれだけ正論でも空疎に響くし、無様でも、心のある言葉には真実の響きが宿る。言葉はただの容れ物で、感情と合致した瞬間に『言葉は音楽になる』のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月21日
2・言葉を粗雑に扱うひとは、自分を粗雑に扱うひとだ。
私は常に心の乗った言葉を発しているだろうか。
— 村元聡美@足もみ師4/22-30名古屋 (@satomi_muramoto) 2016年4月21日
言葉を「盾」や「鎧」に使い、心を守ろうとしたことがある。でもその後には私の心が泣き、肚が怒り苦しんだ。
言葉に本当の心を乗せることは怖いけれど、その怖さを超えても、素直でいたい。 https://t.co/A5lXdsyFFn
3・被害者意識ほど醜いものはない。
他人の生き方にああだこうだと口を出す前に、徹底的に自分を真面目に生きれば、大概の問題はなくなると思う。自分の中身はカラッポなまま、ひとのことや世間のことばかりを気にして『あいつはこうだ(自分はこうだ)』と比較しなければ幸せになれないだなんて、これほど不幸なことはないよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月22日
4・はじまりの終わり【終わりのはじまり】
すべて「今」の積み重ねなのだから、いつも「これからどうするか」を選択できる。選んでみて違うと思ったら選び直せばいいし、やっぱりもう一度と戻ることも選択肢。選ぶ基準も、選んでいるのも、全部、自分なんだと思うと、人間て力強いと思う。 https://t.co/Be4UbPhtwH
— cao (@caorimy) 2016年4月19日
5・DO【何をやるか】よりBE【どのようにあるか】
答えはきっと奥の方
— 蕗 (@fuki_butterbur) 2016年4月19日
心のずっと奥の方
焦っていて周りの人に白い目で見られないようにちゃんとしようとして、引き受けて、出来なくて自己嫌悪して引きこもった。
ちゃんとしようじゃなくて
心の奥からのことをしよう
そう言われた気がした https://t.co/kapPZxXExY
6・中途半端な未練を断ち切ること。
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心と一緒に扉を開くのではなく、静かな勇気と共に開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月22日
7・自分の人生を取り戻すこと。
お…
— 夏子。 (@natsukononatsu5) 2016年4月22日
すごいリアルタイムに刺さる…
被害者でいる限り本当になんも変わんない。 https://t.co/Zp9vtRYtW7
8・自分の好きなように生きればいいのだ。
本当は何をしてもいいし、本当は何もしなくてもいいし、本当は何処に行ってもいいし、本当は何処にも行かなくてもいいのだと思う。しなければいけないことなんて本当は何ひとつなくて、ただ、自分で自分を縛っていただけなのだろう。疲れた時は眠ることだ。希望の光は、朝日と共に昇って来る。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
9・タンポポの綿毛のようなフットワーク。
軽い気持ちで遠くに行こう。 pic.twitter.com/IPTJsZb0us
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
10・ロックンロールが大好きです。
人に嫌われるかもしれないとか、誰かに馬鹿にされるかもしれないとか、安定した生活を送れないかもしれないとか、自分の気持ちを理解してもらえないとか、自分には力がないとか、自分には金がないとか、自分には自信も技術も勇気も足りないとか、もう、そんなことはどうでもいいじゃないか。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
満足した豚に、狼の孤独は歌えない。 - いばや通信 https://t.co/WkNwKAlH6X
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
坂爪圭吾さんこんにちは××の⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。昨日××に戻りました。その後もブログ興味深く読ませていただいています。物や人に呼ばれて、地球上を移動されている坂爪さんが動いた後が地図上に赤い線で、記録されある地点は濃密でぐちゃぐちゃとなっていて、ある地点は直線的で、という図が浮かんできて、それは私をものすごく楽しくさせます。私は坂爪さんと過ごさせていただいて、坂爪さんがつぶやきのように時折発せられる言葉のいくつかが、深く残っています。坂爪さん自身への問いであり、私や世界への投げかけのような。その中のひとつに「僕は人生もロックンロールってあるとおもうんですよね」という言葉があります。私もロックンロールは大好きで、私のする仕事はすべてロックでありたいな、と常々思っているのですが、坂爪さんをみていて思ったのは、ロックンロールとは常にぎりぎりであること、ぎりぎりの縁、端、にいること、リーディングエッジに自らを立たせるということ。目的があってそうするわけでなく、本人すらも先を予想していない。その結果、生み出されるものは常に最先端であり、前代未聞。私は坂爪さんと夜車に向かう時ふたりで並んで歩いていた時に坂爪さんからというか左側から圧倒的なyes を感じたんですよね。ものすごくすがすがしかった。すがすがしさを味あわせていただいてありがとうございました。私も⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎と友達の家を転々としていて××の家は同居人が守ってくれているので坂爪さんがブログに書かれていた、家は女性(または女性生のある男性)に任せて、というのが本当にそうだな〜、って感じています。自分が何をしているのか、したいとおもっているのかが坂爪さんと過ごして少しわかりました。私もエッジに自らを立たせて前代未聞をやっていきたいとおもいます。そして縁(ふち)は縁(えん)という言葉でもあるという不思議。そんなことを今思っています。とても貴重な時間でした。ありがとうございました。心から。⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎
満足した豚に、狼の孤独は歌えない。
昨夜、配信したラジオ音声を公開しました。好きなひととは友達ではなく家族になる、次世代の『幸せ家族計画』をご覧ください!!
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月18日
前編https://t.co/J9OHhlC6Na
後編https://t.co/V6HgdIAgTK pic.twitter.com/G0vNxRXGzP
1・「生に対する執着」が消えた。
ひとりでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分はひとりではない」ということを思うようになった。死んでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分は生きているのだ」ということを強く実感するようになった。多分、大切なことは【自分は自分の足で立っている】ことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月27日
2・居場所とは、場所ではなくて人間だ。
居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。 pic.twitter.com/Py2PBsLzWb
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
3・美しくないものは排除する。
いやだなあと思うものを受け入れることは、いやだなあと思うものに自分も加担をしていることになる。自分の心が「美しくない」と思うものには、明確な拒否を示すこと。いやだなあと思うことを続けていると、美しくないと思うものを受け入れてしまうと、自分の存在まで醜いものに成り下がる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月9日
4・根本的な人間の力に大差はない。
強い人間と弱い人間がいるのではなく、強いとされている行為に慣れている人間と、弱いとされている行為に慣れている人間がいるだけだと思う。ただ、当人としてはいちばん負担のない慣れ親しんでいる道を選んでいるだけ【発揮する力の先が違うだけ】で、多分、根本的な人間の力に大差はない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月18日
5・捨てなさい。
人は幸せになりたくて何かを求めるはずなのに、家族とか、恋人とか、家とか、金とか、仕事とか、常識とか、一般的な世間体とか、求めたものに縛られるほどに不幸になる。幸せになりたければ、求めるのではなく、捨て去ること。得るではなく、捨て去った先に残るものが幸福なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
6・自分の目で見たものを信じるひとと、自分は一緒にいたいと思う。
学校の授業よりも、職場の仕事よりも、雲や花や蟻や鳥の観察の方がずっと大切な時があるんだ。テレビや新聞の報道は信じられるのに、偉い学者や専門家の言葉は信じられるのに、誰かの噂話は信じられるのに、自分の目で見た感覚は信じることはできないだなんて、やっぱりちょっと狂ってるよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月16日
7・好きなひとに出会うことは、好きな自分に出逢うことだ。
ひとを失う悲しみとは、そのひとと再び会えなくなるさみしさだけではなく、そのひとの前でしか出てくることのなかった自分自身と、もう、二度と会えなくなってしまうことだと思う。何かを喪失する悲しみとは、多分、自分を喪失する悲しみだ。 pic.twitter.com/PazmoKOz1E
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月10日
8・生もよし、死もよし。
このひととなら幸せになれるかもしれないというつながりよりも、このひととなら別に不幸になっても構わないと思えるつながりの方が、多分、強い。幸も不幸もなんでも来い【別に不幸になっても構わない】と思っているその時に、もしかしたら、その人は幸せのど真ん中にいるのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月11日
9・大切にされたければ、絶滅しろ。
このひとでもいいかなと思うひとではなく、このひとといたいと思えるひとといること。 pic.twitter.com/vQ9AzKl5eO
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月15日
10・満足した豚に、狼の孤独は歌えない。
どのような状態に置かれたとしても、泣く道を選ぶのか笑う道を選ぶのかの選択肢は、常に自分の中に残されている。過剰な同情や自分に対する憐憫の念は悲愴感を生み、生きる力や前を向くための希望までも剥奪してしまう。大事なことは、取り戻せない過去よりも「どう生きるか」という未来だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月18日
生き方に答えはないのだから、多分、生き方に間違いもないのだ。
愛媛県今治市の家をどう使うか。
車を拾うまで帰れま10@日本編
『さよならソクラテス』
ソクラテス それなら、自分自身が誇りでない人が、どうして善く生きていることになるのかね。自分自身が善く生きていないことを知っているから、人は何かに誇りを求めるのではないのかね。善く生きている人は、何かに誇りを求めなくても、それ自体が誇りなのではないのかね。
主義者 少なくとも私は、誇りということを日本人に教えたいのです。
ソクラテス うん、そりゃ大いにけっこうだよ。だけど、善く生きることを教えるよりも先に、どうやって誇りを教えることができるのかと僕は言っているのだ。
主義者 ・・・・・。
ソクラテス 日本人であることに誇りをもてと教えれば、そりゃあもつかもしれないよ。だって、げんに日本人なんだから。そも自分に誇りをもてない人が誇りをもつ仕方としては、いちばん簡単なんだから。だけど、そもそも善く生きてはいないから誇りをもてない人々が、君の言う下劣愚劣な畜群のまんまで、いっせいに日本人であることに誇りなんかもったって、しょうがないんじゃないの。そのまんま戦争にでもなった日にゃ、どんなふうになるか、君たちはよくわかってるはずだがね。ー さよならソクラテス (P54・愛国心は誰のため)【新潮文庫】
生き方に答えはないのだから、多分、生き方に間違いもないのだ。
人は幸せになりたくて何かを求めるはずなのに、家族とか、恋人とか、家とか、金とか、仕事とか、常識とか、一般的な世間体とか、求めたものに縛られるほどに不幸になる。幸せになりたければ、求めるのではなく、捨て去ること。得るではなく、捨て去った先に残るものが幸福なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。 pic.twitter.com/Py2PBsLzWb
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
すべての美しいものは悲しみを内包している。それは「いつまでも永遠に見ていることはできない」という悲しみで、いま、この瞬間も二度とは戻らない日々の中にいるのだということを実感させる。そして、いまをしっかりと生きるんだよと語りかける。 pic.twitter.com/NMJwY8sfVP
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月5日
生き方に答えはないのだから、きっと、生き方に間違いもないのだ。 pic.twitter.com/OKZT4F0LjE
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月14日
殺してあげることが、優しさ。
人間の声には二種類ある。
ゴスロリ少女が少女になった。
『代表的日本人』
天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ。(P22・西郷隆盛)
国が飢饉を迎え、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は、治者以外にないではありませんか。その者は天民を託されているのです。民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。その職務の報酬として高禄を食(は)み、自分の家族を養い、一家の安全な暮らしがあるのであります。ところが今や、これほど歎かわしいことを天下に知りません。この時にあたり、よく救済策を講じることができればよし、もしできないばあいには、治者は天に対して自己の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきであります!ついで配下の大丈、群奉行、代官も同じく食を断って死すべきであります。その人々もまた職務を怠り、民に死と苦しみをもたらしたからであります。飢えた人々に対して、そのような犠牲のもたらす道徳的影響は、ただちに明らかになりましょう。(中略)国に飢饉がおこるのは、民の心が恐怖におおわれるからであります。これが食を求めようとする気力を奪って、死を招くのです。弾丸をこめてない銃でも、撃てば臆病な小鳥を撃落とすことがあるように、食糧不足の年には、飢饉の話だけで驚いて死ぬことがあるものです。したがって、治める者たちが、まずすすんで餓死するならば、飢餓の恐怖は人々の心から消え、満足を覚えて救われるでありましょう。群奉行や代官にいたるまでの犠牲をまたずに、よい結果が訪れると思います。このためには家老の死のみで十分であります。諸氏よ、これが、なんの手だてもないときに飢えた民を救う方法であるのです。(P103・二宮尊徳)
私どもは、クラスに分けて教えられることもなかった。魂をもつ人間をオーストラリアの牧場の羊のようにクラスに分けるようなことは、昔の学校ではみられなかった。人間は分類してまとめることのできないもの、一人一人、つまり顔と顔、魂と魂とをあわせて扱われなくてはならない、と教師は信じていたように私には思われるのだ。それだから教師は私どもを一人一人、それぞれのもつ肉体的、知的、霊的な特性にしたがって教えたのである。教師は私どもの名をそれぞれ把握していたのである。ロバと馬とが決して同じ引き具を着けられることはなかったので、ロバが叩きのめされて愚かになる恐れもなければ、馬が駆使されるあまり秀才の早死に終わる心配もなかった。現代にみられるような適者生存の原理にもとづく教育制度は、寛大で人を愛する君子(gentleman)の養成には向いていないように思われた。したがって、この点に関しては、私どもの昔の先生は、教育理論のうえではソクラテスやプラトンと同意見だった。ー 内村鑑三『代表的日本人(P113・中江藤樹)』【岩波文庫】
殺してあげることが、優しさ。
良い言葉「他人を斬る時は、返り血を浴びる事を覚悟しなければダメだ」 https://t.co/521qtEjCSc
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月9日
このひととなら幸せになれるかもしれないというつながりよりも、このひととなら別に不幸になっても構わないと思えるつながりの方が、多分、強い。幸も不幸もなんでも来い【別に不幸になっても構わない】と思っているその時に、もしかしたら、その人は幸せのど真ん中にいるのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月11日
生もよし。死もよし。 pic.twitter.com/JDrC81SOIR
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月12日
君の求める光は、君自身の内にあるのだ。
四国の風景「大山祇神社」
しまなみ海道
来島海峡急流観潮船の渦潮
日本一海に近い駅だった「しもなだ駅」
町並みの風景
『シッダールタ』
詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。
恋とは、私たちを幸せにするためにあるのではありません。恋は、私たちが苦悩と忍耐の中で、どれほど強くありえるか、ということを自分に示すためにあるものです。
世の中に実に美しいものが沢山あることを思うと、自分は死ねなかった。だから君も、死ぬには美しすぎるものが人生には多々ある、ということを発見するようにしなさい。
あなたの苦しみを愛しなさい。それに抵抗しないこと、それから逃げないこと。苦しいのは、あなたが逃げているからです。それだけです。
名声などというものに、いったい何の価値があるだろうか。本当に内容も価値もある人間たちが、みな有名になって後世に知られているとでも、あなたは思っているのだろうか。
鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。生まれ出ようとする者はひとつの世界を破壊しなければならない。
自分の道を進む人は、誰でも英雄です。
私が人生を諦めて、自分一個の幸不幸などはどうでもよいと悟って以来、少なくとも人生は、私にやさしくしてくれるようになった。
君の中には、君に必要なすべてがある。「太陽」もある。「星」もある。「月」もある。君の求める光は、君自身の内にあるのだ。
君自身であれ!そうすれば世界は豊かで素晴らしい!
君の求める光は、君自身の内にあるのだ。
いやだなあと思うものを受け入れることは、いやだなあと思うものに自分も加担をしていることになる。自分の心が「美しくない」と思うものには、明確な拒否を示すこと。いやだなあと思うことを続けていると、美しくないと思うものを受け入れてしまうと、自分の存在まで醜いものに成り下がる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月9日
圭吾さん、おはようございます! 今日、四国にご出発ですよね。そんな朝に、どうしようかなぁと迷いつつ、やっぱり感謝を伝えたくてメールします。
少し前の圭吾さんのブログ記事で、「困った時のおまじない」が書いてありましたよね。
3月に一緒に圭吾さんに会いに行った8才の息子ですが、「学校」というものが嫌で、不安で、怖くて、私と一緒じゃないと行けずにいました。
以前は、先生に何か言われるだけで、命令されていると感じ、その時点で負けてしまって、床に泣きながら寝転んだり、逃げ出したりと、なんというか、男なのに情けないなぁと思っていたのです。
せめて、嫌なら嫌で、「嫌だ」と言って歩いて帰ってきてほしい と思っていました。
昨日は、始業式だったのです。「もう3年生にもなったから、いくら嫌なことがあっても、へろへろと力を無くして床に倒れこむみっともないのだけはやめてほしい。」といって、圭吾さんの修羅場のエピソードを教えたんです。
「ここぞというときは、お腹の下に力を込めて、集中して、多くは語らなくてもいいから、足で踏んばって、『いる(在る)』ように」と。
そうしたら!
校長室で(息子はクラスには入れないので、新しい校長先生と顔合わせをすることになってました)、息子は手をグーにして、ちょっとほっぺたをふくらませて、校長先生のお話に「ん。」「ん。」と短い返事をしていました。私は、初め分からず、「何なの?ちゃんと話をして。」と言ったら、手のひらに「さかつめ」と書いてきて…!
今、圭吾さんの真似しながらがんばってるんだ!と思ったら、ちょっと笑えて、ちょっと泣けてきました。
年度初日で、初めて会う校長先生と話すだけでも、息子にとってはすごい緊張だったはずなのに、圭吾さんのおまじないで、それに負けることなく自分を維持することができました。感動✨!
圭吾さん、本当にありがとうございます!←ひとつめの感謝!
それと、二つ目は、さっき寝る前に、村元さとみさんのFBから流れ流れて圭吾さんのツイートが携帯の画面に出ていたのですが、それを息子が見て、「自分と同じだ」と言いました。
https://mobile.twitter.com/KeigoSakatsume/status/586183175497322496?ref_src=twsrc%5Etfw
話を聞くと、(まだ8才なのに)「死にたい」ってよく(頻繁に)思うんだそうです…(*_*)
不憫に思う反面、これまでの息子の様子を見ていると、「そっか~。『死にたい』って思うのもしょうがないよね。分かる気がする~。」と、なんだか共感してしまいました。
親として、「命は大事だからそんなこと言わないで!」とか、もう思えなくなっている自分にも気づきました。
自分らしく生きられないって、(子どもでも)死ぬほど辛いことなんだなぁと思いました。
「まぁ、ママは⚪︎⚪︎くん(息子)に生きていてほしいからさ、今、何したい?」と聞いたら、水が飲みたいというので、いつもは「自分で汲んで飲んで」というところを、汲んできてあげました。「ママが汲んだお水、おいしい✨生き返る~!」と喜ぶ息子。
どれだけ私、愛情あげられてないのかなぁ?と思うけれど、私なりに頑張ってはいて、それを息子も分かってくれています。
それでも、多感で、生き辛い過敏な感受性をもち、周りからダメだダメだというメッセージを受け続けてる息子に、「『同じだ、似ている!』と思える人がいる…」ということ、圭吾さんが、そのままで、全力で生きていてくれることが、本当に私たちの力、希望になっています。本当にありがとうございます!
四国でも、圭吾さんの清清しい生き様を、私たちに発信してくださいね!
圭吾さんのストーリーを、息子に聞かせて、話し合っていきたいと思います。
偶然ですが、そのツイート、ちょうど1年前のものなのですね。びっくり!
時を越えて、私たちを励ましてくれる圭吾さんの呟き。本当に、いつも刺さります! ありがとうございます‼
圭吾さん、行ってらっしゃい!応援しています!
⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎
生きていることを実感したければ、死ね。
1・断捨離のコツ。
断捨離のコツは「あるものを減らす」のではなくて「何もかも失った時に、再び取り戻したいものだけを残す」ことだと思っているのですが、このような考え方をすると「何もかも失っても別に問題はないのではないか」などと思っている意外とパンクな自分に出逢えることがあるのでオススメです。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月28日
2・宗教は答えで、哲学は問い。
私達は、多分、何かしらの『答え』を求めて本や映画などの作品を手に取る。しかし、その作品が良質であれば良質であるほどに、読み手に対して答えではない『問い』を突きつける。それは「お前はどう生きるか」という鮮烈な問いであり、読み手が真摯に『応えた』時、はじめて作品は完成する。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月14日
3・人生とは、自分を楽しませることである。
自分の予定帳を眺めながら「人生とは、自分を楽しませることである」ということを思った。自分を楽しませることができていない時に、人間は苛立ち、他人と比較し、未来に不安を覚えたりする。川本真琴風に言えば神様は何も禁止なんかしていないし、ほんとうは「何をしてもいい」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月20日
4・癒されすぎて腐っている。
スピリチュアルとかカウンセリングとか自己啓発とか、癒されすぎて腐ってるひとは多いなあと思う。そんなことよりも、一回死ぬ(古い自分を一回殺す)ほうが早いんじゃないだろうか。延命措置は面白くないし未来もないから、生きようとするよりも「よし、死のう」的な考え方は有効だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月20日
5・高校を退学した17歳の女の子。
高校を退学した17歳の女の子と話しまくった。周囲の大人は「なんでやめちゃったの?」とか「これからどうするの?」と尋ねる中、彼女は「やめちゃったんじゃなくて、やめたんです」「やりたいことがあってやめたんじゃなくて、やりたくないからやめたんです」と答えていて、超絶良かった。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月21日
6・覚悟の逆説。
ひとりでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分はひとりではない」ということを思うようになった。死んでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分は生きているのだ」ということを強く実感するようになった。多分、大切なことは【自分は自分の足で立っている】ことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月27日
7・広い世界より「広い自分」
守られた世界を飛び出さないと、自分の広がりを感じることは難しい。広い世界に触れたいという思いもあるけれど、その奥の方には、自分を膨らませていきたい、もっと広い自分の可能性に触れていきたいという思いがある。広い世界を見たいのではなく、多分、広い自分の膨らみを感じたいのだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月8日
8・自分のことを否定的に言わないことで、自分のことを否定的に思わなくなる。
自分のことをコミュ障だと言わなくなってから、自分はコミュ障じゃなくなった気がして、自分のことを人見知りだと言わなくなってから、自分は人見知りじゃなくなった気がする。自分のことを否定的に言わないことで、自分のことを否定的に思わなくなる。
— みっつ (@mitzparty) 2016年4月8日
9・ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。弱い自分は、苦手だなと感じるひとと同じ空間にいるだけで、露骨に胃腸が痛くなる。自分で自分を護ることが難しくなる。ひとりの時間を好むことは、孤独に耐える強さではなく、そうでもしなければ生きていけない自分の弱さだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月8日
『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』
10・生きていることを実感したければ、死ね。
自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人に嫌われる方がずっといい。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月18日
音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もありました。
家族に強く感謝をしている三点。
元気でいてくれたらそれでいい。
『星の王子さま』
ぼくの暮らしは単調だ。ぼくがニワトリを追いかけ、そのぼくを人間が追いかける。ニワトリはどれもみんな同じようだし、人間もみんな同じようだ。だからぼくは、ちょっとうんざりしてる。でも、もしも君がぼくをなつかせてくれたら、ぼくの暮しは急に陽が差したようになる。ぼくは、ほかの誰ともちがうきみの足音が、わかるようになる。ほかの足音なら、ぼくは地面にもぐってかくれる。でもきみの足音は、音楽みたいに、ぼくを巣の外へいざなうんだ。それに、ほら!むこうに麦畑が見えるだろう?ぼくはパンを食べない。だから小麦にはなんの用もない。麦畑を見ても、心に浮かぶものもない。それはさびしいことだ!でもきみは、金色の髪をしている。そのきみがぼくをなつかせてくれたら、すてきだろうなあ!金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる……
音楽の中には世界があって、そこには自分の居場所もありました。
恐れることを恐れるな。
不安になるのは当たり前で、さみしくなるのも当たり前のことだと思う。元気な時に「この調子で行こう!」と思うことは簡単だけど、元気のない時も、元気のないままで「この調子で行こう!」と生きる姿勢が、自分の中心を生きる芯になる。無様でも、不器用でも、自分を責めてはいけないのだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月1日
みんなの財布
美しい世界を共有する。
『やさしいライオン』
恐れることを恐れるな。
失うことを恐れてしまうと、もっと大切な何かを失ってしまうような気がするから、何かを守りそうになっている自分を見つけたら、出来る限り蹴飛ばしていきたいと思う。失っても、失っても、どれだけ多くのものを失ったとしても、絶対に最後に残るものがある。多分、それが【自分】だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月1日
「やりたい」が「やらなきゃ」になったらゲームオーバー !
進んでやる仕事だけ、やっていきなさい
「やりたい」が「やらなきゃ」になったらゲームオーバー!
「やりたい」が「やらなきゃ」を解決する。
『タマネギのひみつ』
嫌だなあと思うことを嫌々やって生きるのではなく、好きなことをブワアとやって死にたい。
あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。特別な人間になろうとはしなくても、自分の心が「いいな」と思える瞬間を積み重ねた先に、多分、特別な人生はつくられるのだと思う。 pic.twitter.com/maRvb3xIi1
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月30日
不完全なら不完全なりに、不完全なままで胸を張る。多分、その姿が『完全な自分』になる。
先日、粛々と録画した動画を公開しました。仕事や家事の合間に、是非!!https://t.co/44UHbk0Uky
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月29日
7歳年上の女性との修羅場
気持ちで負けちゃいけない。
困った時のおまじない【俺は俺だ】
『喜びから人生を生きる【DYING TO BE ME】』
ありのまま、自分のままで自分の姿を誇ること。
ひとりでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分はひとりではない」ということを思うようになった。死んでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分は生きているのだ」ということを強く実感するようになった。多分、大切なことは【自分は自分の足で立っている】ことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月27日