いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

【KIJ-茅ヶ崎】寂しさが溢れてくる。

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新潟を経由して茅ヶ崎に向かい、熱海の温泉に立ち寄った後に東京都内にはいった。最近は、夜になるとどうしようもないないさみしさに襲われることがある。私は、二年ほど前から家のない生活を送っている。それまでは、渋谷駅から徒歩圏内のマンションで当時付き合っていた彼女と同棲をしていた。だからなのだろうか、東京都内で行くあてがなくなった時は、自然と渋谷に足が向いてしまっている。

別に渋谷が好きな訳ではない。ただ、慣れているだけだ。昨夜は、深夜の2時頃に渋谷の街を徘徊していた。宿はなかった。誰もいない夜の街をひとりであてもなくさまよっていると、どうしても「つらいなあ」という気持ちになる。こういう時は、姿勢も俯きがちになり、弱気になる。だからこそ、嘘でもいいから胸を張れと自分に言い聞かせる。背筋を伸ばせ、顔を上げろ、堂々と胸を張って生きろ。それだけで、何かが騙されるのだろう、ちょっとだけ身体が軽くなる感覚を覚える。

普段は完全に忘れていることでも、弱気になった途端に思い出す言葉がある。とある女性が、私の悩みを聞いてくれた際に「私は閉じたり開いたりしているひとの方が、人間らしくて好きだよ」と言ってくれた。彼女は、別に何気なく言った言葉だと思う。ただ、自分が弱気になった時、普段はまるで忘れているはずのその言葉を、頻繁に思い出すことがある。そして、その言葉に慰められている自分がいる。

良寛にまつわる本を読んでいた。良寛は、特定の家を持たず、托鉢をしながら全国を流転していた。最終的には狭くて古い「五合庵」と呼ばれる小さなボロ屋に定住し、慎ましい日々を過ごした。私は、自分自身を良寛に重ね合わせてしまった。良寛は歌を詠む。その歌の中に「花と月を友にして」というような内容のものがある。私は、この歌に、恥ずかしくなる程の嬉しさにも似たシンパシーを感じてしまった。

稀に、自分の気持ちを誰かにわかってもらいたいと思ってしまうことがある。しかし、横に理解を求めると辛くなる。経験上、そのように感じることが多い。誰かに理解を求めたり、誰かに何かを期待してしまうと、必ず何処かで辛さを覚える瞬間が来る。横に理解を求めると辛くなるのだ。それならば、何処に理解を求めればいいのだろうか。何に繋がりを見出せばいいのだろうか。私は、この二年間の日々を過ごしながら、人間という横にではなく、天と地という縦に繋がりを覚え求めるようになった。

この感覚は、良寛の「花と月を友にして」という感覚に似ているのかもしれない。誰も自分の気持ちなんてわかりはしないとしても、月は自分を見ている。花は静かに咲いている。動物は走り回り、草木は芽吹き、雲は流れ、風は吹き、雨は降り注ぎ、星はまたたいている。言葉は何も放たないとしても、自分と共に生きている。この「共に生きている」という感覚が、慰めの感覚を呼び起こすことがある。

一休宗純が残した有名な句に「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」という彼の名前の由来にもなっている歌がある。有漏路とはこの世のことであり、無漏路とはあの世のことになる。いま、生きているということは束の間の休息みたいなもので、やがては俗世を離れて煩悩のない清浄な世界に行く、それまでの時間、雨が降るならば降れ、風が吹くならば吹け、という歌になる。

これは決して自暴自棄になっている訳ではない。すべてを受け入れる、すべてを受けて立とうとする人間が持つ、静かな覚悟だ。家を持たない生活をはじめてから、必ずしも「こうあるべき」とされていることのすべてが、そうである必要もないのだということが肌感覚を通じて理解した。乱暴にまとめると「人生は何でもありなのだ」ということがわかったのだけれど、ただ、自分の心から余裕がなくなると、何でもありという感覚が形を変えて「どうにでもなれ」という自暴自棄になってしまうことがある。

つらく厳しい瞬間が訪れたとしても、自暴自棄にはならないこと。これは、この二年間の生活の中で、自分が自分に対して設けたルールのひとつになる。自暴自棄にはならないこと。投げやりになってしまっては、これまでのすべてを灰燼に帰してしまうことになる。泣くな、負けるな、忍耐しろ、苦しみもずっとは続かない、強く生きろ、自分で選んだ道じゃないか、そういう言葉を自分自身に言い聞かせる。

家がない生活がつらいのならば、家を持てばいいじゃないか。そういうことを自分に対して思うことがある。どうして、私は家を持たない生活をしているのだろうか。思うに、人間には、楽しみたいとか、喜びに触れたいと思うような感覚と同じように、ダメージをくらいたいという欲求を持つことがあるのではないだろうか。嬉しさや楽しさだけではない、苦しみやつらさからも、生きているという実感を感じることができるということを、心の何処かでは既に理解をしている部分があるのではないだろうか。

嬉しさや楽しさだけではない、どうすることもできないさみしさや、どうすることもできない悲しみでさえも、ひとつの強い感情を強烈に抱いた瞬間、その感情は輝く。誰もいない渋谷の街をあてもなく彷徨った時の心許なさも、振り返ってみたときには「確かに生きていた」という輝きを帯びて、思い出されることになる。ひとつの強い感情を強烈に抱いた瞬間、よろこびだけではなく、悲しみも、苦しみも、全身を震わせて泣き喚いた記憶でさえも、必ず輝きを帯びる瞬間が来る。

際を歩くことでしか、生きていることを実感できない類の人間がいる。たとえばそれは良寛であり、たとえばそれは一休宗純のような人間であり、こうした人間が吐き出す言葉のひとつひとつには、生々しくて、切実な何かが詰まっている。そして、それに触れる自分の心を確実に震わせている。よろこびだけではなく、うれしさだけではなく、さみしさや悲しみもや苦しさを通過してでもいいから、生きていることを実感したい。この思いが、このどうしようもない寂しさが、いまの私を支えているのかもしれない。


人生は続く。


坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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