いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

好きなことをやっていられる、こんな素晴らしいことはない。

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横浜在住の女性Y様から譲り受けた飛騨産業のロッキンチェアに、世界各地から遊びに来てくれたこどもたちが連続して座る。その様子があまりにもピースフルで、Y様に「こんなことになっています!」と画像を送る。Y様は「まあ、なんとうれしいことでしょう!」と返信をくださる。いい感じの風が吹いた。先日、陶芸作家N様から「未使用の食器類がいくつかあるのですが、ごちゃまぜの家で使いますか?」と連絡をいただく。音速で「使います!」と答える。いままで、ごちゃまぜの家にはほとんど食器類がなかった。N様はダンボール三箱分の食器類と共に、東京都内から車で運んで来てくれた。N様はおしゃれな女性で、故にN様の作品もおしゃれになる。ごちゃまぜの家が、日に日に進化していく。その様を見ながら「生かされているなあ」と思う。

 


自分にできることを考える。わたしには何もない。あるものと言えば「何かを好きだと思う気持ち」程度で、多分、わたしはそれだけでやってきたのだと思う。わたしはおはなが好きで、特別な理由はなくても出会うひとにおはなを渡したりすることが好きだ。昨日、菊名の家に新しいはなを複数個購買して、庭に植えたり部屋に飾ったりした。その場所におはな【生きているもの】があるだけで、一気に空間が蘇る。いまの世の中にこれといった不満はないけれど、強いて言えば「もうちょっとおはなを配るカルチャーが全国的に蔓延すればいい」なんて思ったりする。明日から北海道&関西&島根方面に足を運ぶ。そこでおはなを配りたいと思う。興味(?)のある方はどなたでもお気軽にお声掛けください。

 

【イベント情報】おはなをあげる【北海道&大阪&島根編】

 

好きなことをやっていられる、こんな素晴らしいことはない。

ごちゃまぜの家は、クラウドファンディングの支援者の方々のお力添えによって実現をした。一応、責任者はわたし【坂爪圭吾】ということになるけれど、この家は「誰のものでもない」ものだと思う。わたしは自然が好きで、海も山も森も空も湖も、誰のものでもない。誰も「この海は俺のものだから誰もはいるな!」とか「この空は俺のものだから誰も見るな!」とは言わない。誰のものでもないからこそ、誰のものにでもなる【それを見ている間だけは、そのひとのものになる】ことができる。これは、なにも自然に限った話ではないのだと思う。人間も同じだ。わたしは、自分自身を含めて「ひとは誰のものでもない。親や恋人の所有物でもなければ、会社や学校などの社会的なコマでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものに成り得る」ものだと思っている。

 

ごちゃまぜの家をやりながら、ああ、こういう家は様々な場所にあった方が確実にいいのだろうなということを思う。多分、真の意味でいい仕事ができている時は、自惚れを抜きにして「自分はいい仕事をしている」という揺るぎない手応えを得ることができる。この手応えを、ごちゃまぜの家では毎日のように感じることができる。誤解されると困るが、わたしは「どうだ、こういう素晴らしいアイデアを生み出せる自分はすごいだろう!」ということを言いたい訳ではない。そうではなく、自分がやりたいと思ってやっていることと、それを受け取る側のひとからも感謝をされてしまうような生き方、それが奇跡的に成立をしている瞬間の中には「たまらんなあ!」と思えるよろこびがある。わたしは、ただ、自分のやりたいようにやっているだけに過ぎない。その行為が、結果的に誰かのためになっているのなら「最高だな!」と思う。いやだと思うことはやらない。自分がやりたいとこころから思えるものだけに集中する。そのように決めてから多分10年くらいの年月が過ぎた。いま、そのように生きる【生かされている】ことができているこの境遇を、ああ、自分は誰に感謝をすればいいのだろうか(などと思いながら天を見上げることがある)。

 

好きなことをやっていられる、こんな素晴らしいことはない。ごちゃまぜの家も「その場所に居合わせた人々が、瞬間瞬間に好きなことだけをやることができる。それぞれが別々のことをしているある種のカオスな状態の中で、謎に調和が成立をしている」ような空間になればいいと思う。そういう場所を、わたしは次に北海道と梅田につくりたいと思う。だから北海道と梅田に行く。物件の候補などは何もない。ただ、それが「本当にやる価値のあること」である限り、どこかしらから「こんなのはどうでしょう??」的な声がかかると勝手に思っている。声がかからないということは、いまはまだその時ではないということなのだ(と思う)。まずは実際に自分の足を運ぶこと。リアルに何かを感じ取ること。頭ばかりで偏執的な妄想を膨らませるのではなく、その土地の空気を感じながら大地を踏みしめて歩くこと。まずはそこから、自分の足で歩き始めることなのだと思う(ということで明日からおはなを配りに向かいます!!)。

 

【過去記事】花を愛するように、ひとを愛したい。 - いばや通信

 

ごちゃまぜの家の現在。

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頂き物だけで成立をしている(先日はレトロな扇風機を掘り当てました!)この家の状態を「素晴らしいな!」と思う。TPD48【鉄砲玉48】も、側から見ていても「こいつらはいい仕事をしているなあ…!!」と思う。たくちゃんは数日前まで学童施設で働いていたために、小さなこどもの扱いに長けている。すぐに仲良くなってしまう。そのため、絶賛子育て中のお母様からの依頼にひょいひょい応え続けている。知識先行型のあきとさんもあきとさんなりに身体を張った生き方をしていて、昨日も夜遅くまで帰ってこなかった。私たちは「死んだのかな?」と思っていた頃、23時過ぎにあきとは非常に清々しい表情をしながら帰ってきた。何があったのかは聞かない。あきとの表情がすべてを物語っていた。夜遅くに定期報告会と銘打って、坂爪&たくちゃん&えりか&なかむらの四人でツイキャス音声配信をした。ら、終盤えりか姫に奇跡が舞い降りて「ありがとうございます!!」とえりか姫は声を大にして叫んだ。

 

【音声配信】Recoded Radio ごちゃまぜの家定期報告会 - いばや #377824984 - TwitCasting

 

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恒例になりつつある木登り。

 

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先日、今回のクラウドファンディングで100万円を支援してくれた東京在住の男性K様と面会をした。猛烈に驚いたことに、男性の年齢はわたしと同じ32歳。その年齢でこれだけのお金をサラッと出せてしまうK様を「かっこういいなあ」と思った。K様曰く「金も時間もあれば幸せになれると思っていた。でも、実際になってみると、違うということがわかった。それで、俺はけいご(仲良くなって呼び捨てになった)の生き方を見ていたら『こっちなんじゃないかな』って思って、何かをやりたくなったんだ」とのこと。金も時間もあるけれど幸せじゃないと素直に言えるK様を、わたしは超絶素敵だと思った。K様は続けて「もしかしたら、これから『競って与え合うような社会』になるんじゃないかなって思うんだ」という、予言めいた言葉を口にしていた。その言葉が、いまでも胸の中で響いている。競って奪い合う社会から、競って与え合う社会【溜め込んでいるヤツが格好いいという基準から、リリースしているヤツが格好いいというネオ基準】への移行時期。いまは、そういう時代なのかもしれないと思う(ということでTPD48をよろしくお願いいたします!!)。

 

【イベント情報】【1th「僕に好きかとキクナんて」/TPD48】

 

好きな人に好きだと言う。それだけで、充分、生まれてきた甲斐があったのだと思う。

6月10日に奈良県明日香村で教育にまつわるトークイベントに登壇(?)する。わたしはまだ結婚をしたこともなければ子育ての経験もない。ただ、自分が父親になる日が来るとしたらこどもには好きにやっちゃってもらいたいと思っている。根本的には「今夜食うものがあって明日食べるのに困らないカネがあり、屋根のある場所で眠ることができる。それだけでOK!【生きているだけでいい、それ以外はおまけだよ】」的なスタンスで付き合っていきたい。学校も「行きたければ行けばいい」だけの話で、行きたくないなら別に行かなくてもいいのだと思う。仕事も同じだ。やりたければやればいいし、やりたくなければやらなければいい。そうした純度を貫いた先に、世界にひとつだけの「自分というオリジナルな生き方【存在】」は確立をされていくものだと思う(なんてことを書くと「だからお前は無責任なんだ!」と怒られてしまいかねないけれど、では、真の責任とはなんだろうかとわたしは思ったりする)。

 

 

自分を生きる。これ以上に雄弁なことはあるだろうか。誰かの生き方にああだこうだと口を出すこととか、自分のコントロールを超えた範囲の世界に首を突っ込むことなど、多くの場合は「過干渉【余計なお世話】」となりお互いに疲弊して終わることは多い。相手を変えることはできないけれど、自分を変えることはできるという月並みな言葉を引用するまでもなく、まずは自分からなのだと思う。自分の大好きなあのひとも、自分を幸せにすることはできない。自分の大嫌いなあのひとも、自分を不幸にすることではできない。自分を幸せにするものは自分の解釈であり、自分を不幸にするものも同じように自分の解釈になる。 傷つくことを自分に許さなければ、どのような言葉を言われても「関係ないよパワー」的なもので突破をしていけるものだとわたしは思う(というのは嘘で、そりゃあ生きていればウッカリ傷いてしまうこともある。ただ、いつまでも傷ついている場合ではないのだと思う)。

 


自分を幸せにできるのは自分だけ、という言葉には語弊がある。わたしは、やはり「他人の存在は自分の幸福に不可欠である」ように思う。もちろん、自分が自分を楽しませたり幸せにすることももちろん(ある程度の範囲内であれば)可能だとは思う。ただ、ひとと話をしたりハグをしたりそれなりのスキンシップを交わすことは、自分ひとりだけではなかなかできない営みになる。抱きしめられることでしか解決しないこと、自分ひとりだけではどうしても埋めることのできないある種の穴を、他人の存在が満たしてくれることもある。わたしたちは多分、ひとりひとりが凸と凹のようなもので、ぴったり当てはまるひとと同じ時間を過ごす時に「最高のハピネス!」を感じるようにできている。だからこそ、自分が好きだと思うもの、自分が好きだと思うひとには怯むことなく「好きです」ということを全身であらわしていきたいのだと、そういうことを思っている。

 

 

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可愛過ぎてやばい。。。

 

人生は続く。

 

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清々しい生き方をしなければ、人生の最後に惨めになる。

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いま、静岡駅前にあるタリーズにいる。ごちゃまぜの家の準備や対応に追われ、横浜に長居をしてしまったために「このままでは死ぬ!」と思って静岡に逃げた。今世のテーマは「長居は無用」ということで、要件さえ済んだらできるだけ早くその場所を離れるようにしている。いまいる場所を離れることで、自分が置かれている状態を俯瞰できる。多分、長居することは執着を生むのだと思う。園芸師の方が「植物は風通しの良い場所を好むから、密集している枝葉は剪定をした方がいいですよ」と言っていた。清々しい雰囲気を好むもの、風通しの良い環境を好むものは、植物だけではなく人間も同じだと思う。

 

 

鉄砲玉48に新メンバーが加わった。現在14歳で中学校に通う代わりに社会に飛び出すことで「生きることのなんたるか」を勉強中のえりか姫が、取り急ぎ6月14日まで鉄砲玉の一員として菊名の家に滞在する。えりか姫は開口一番「菊名の家に住んでもいいですか!」とわたしに問うた。わたしは「ダメです!」と答えた。菊名の家は風通しの良い場所にしたいので、特定の誰かが常にそこで暮らしているみたいな状態にはしたくない。ただ、期間限定で「わたしはこういうことをやるために菊名の家にしばらくいることになりました!」的なものがあれば、それは別に問題はない(むしろ最高だと思っている)ということを伝えた。これまで、えりか姫は母親とふたりで相模原市に暮らしていた。えりか姫には夢がある。それは「パスポートを獲得してタイに行く」というものだ。しかし、えりか姫親子は現在生活保護を受給しているためにパスポートを取得することは難しい。そのため、えりか姫は若干14歳にして「親元を離れて自活する【生活保護の受給対象者から外れて自分の力で生きる】」という道を選んだ。

 

【イベント情報】【1th「僕に好きかとキクナんて」/TPD48】

 

えりか姫の顛末。 

えりか姫が学校に行かなくなったのは小学五年生の頃から。当時から「学校がすべてではないような気がする」と思ったえりか姫は(世間的には)不登校児童ということになり、学校に行かない道を歩き始めた。実母とふたりで暮らしていたが、家庭の事情で生活保護を受給しているために、それほど自由がきく訳ではない(どこに行くにもなにをするにも許可がいるし、そもそもで自由になる金がない)。母親と狭い空間でふたりで暮らしていると、どうしてもお互いの距離が近くなって「どうでもいいことでも口喧嘩が起きてしまい、揉めてしまうことが多くなっている」と話す。14歳になったえりか姫は「そろそろ親元を離れた方がいい!そのためには、自分の力で生きる道を探さないと!」ということを察知して、喫茶店の手伝いをしながら珈琲の淹れ方を学んだり、自分自身をフリー素材として開放しながら(普通だったらなかなか出会うことのなかった)大勢のひとたちとの交流を楽しむようになってきている。

 

えりか姫は、行動よりも『存在そのもの』が問いになっている。14歳だけど学校に行っていないと話すと、周囲の人々は「義務教育なのに大丈夫なの!?」とか「こどもでもお金を稼いでもいいの??」とか「お母さんはなんて言っているの??【そんなことって許されるの??】」とか、えりか姫よりもえりか姫を見た周囲の人々の方がざわついてしまうことは多い。取り急ぎ、6月14日まで菊名の家に滞在をすることになったえりか姫は「珈琲を淹れる代わりにお小遣いをください!」的な活動(?)をやることになった。珈琲を一杯いくらで提供するというのではなく、自分にできることは珈琲を淹れることとか料理をすることとか一緒に話をすることくらいしかないけれど、それを精一杯やらせていただく代わりに「わたしを生かしてください!」とみなさまに爽やかに懇願をするスタイルになる(説明はうまくできているのだろうか)。

 

えりか姫の当面の目標は「まずはパスポートを取る!」ということで、一万円ちょっとの費用がかかるらしい。その次の目標は「タイまでの往復航空券を取る!」というものになるのだけれど、どうやってそれを実現するのかはやってみなければわからない。この先、えりか姫が菊名の家にどれだけいることになるのかも不明だ。しかし、菊名の家にはそれなりのひとの出入りがあるために、出会ったひとから「もしも困った時は我が家に来てね」的なことを言ってくれるひととたとえば10人知り合えたとしたら、えりか姫は家がなくても「みなさまの家々を転々とする」ことで家の問題はどうにかなる(のかもしれない)。彼女が今後どのような人生を送るのかは、実際にやってみなければわからない。もしも、ちょっとでも面白そうと思ってくださる方がおりましたら、上記のイベントページよりえりか姫に直接コンタクトを取って見てください(多分、フェイスブックから連絡をとるのが一番だと思います。えりか姫はWi-Fi環境がないとWEBを見れないので、多分、返信は遅れる可能性が高いです)。

 

【過去記事】自分の「好き」を貫く。 - いばや通信

 

菊名のラジェスさん。

菊名の家には、数ヶ月前までネパール人のラジェスさんという方が暮らしていた。ラジェスさんの人柄が最高で、現在は東京の方に暮らしているのだけれど、荷物の整理などで頻繁に菊名の家に遊びに来てくれている(次は明日月曜日に来てくれることになっている)。 えりか姫は14歳にして親元を離れて自分の力で生きて行く道を歩くことになったという話をしていた時、ラジェスさんは「ネパールでは、歩き始めたら仕事をするようになるよ。だから、3歳とかは立派な労働力だよ」などと話してくれた。その時はまだ菊名の家にガスを引いていなかったので、風呂でお湯を使うことはできなかった。それを聞いて、ラジェスさんは「ネパールでは冬は気温も二度までさがるけどみんな水でお風呂にはいるよ。最初は寒いと思うけど、一週間もすれば誰でも慣れるよ。人間はどうにかなるようにできているんだよ」みたいなことを話してくれて、それを聞いた日本人の我々は戦慄をした。

 

菊名の家に太陽光をとりつけたいねなんて話していた時、ラジェスさんは「ネパールは18時間(!)は停電をしているから、夜はロウソクを使って早めに寝ちゃうよ。最近ではちょっとよくなってきているみたいだけど、大きめのソーラーパネル四枚程度で四家庭くらいの電気はどうにかなっているよ」などと話してくれた。話題がお酒に移った時など、ラジェスさんは「ネパールではお酒の年齢制限がないから、小さなこどももお酒を飲むよ。あかちゃんが風邪をひいちゃった時は、お酒を飲ませることで酔わせて早めに寝かせつけちゃうんだ」などと話してくれた。日本の常識が世界の常識とは限らないし、日本の非常識が世界では平気で行われていることもある。わたしは、ああ、うまく言葉にできないけれど『いい感じの風』が菊名の家に吹き始めているなあと思った。

 

菊名の家には、ラジェスさんがくれたペルシャ絨毯とシンギングボールが置かれていて、開始早々、菊名の家にはネパールの風が吹き始めている。ラジェスさんの瞳は驚くほど綺麗で澄み渡っていて(日本語もペラペラ!)、ラジェスさんと話しているだけで「人生は意外とどうにかなるのかもしれない」という気持ちになる。日本語もなにもわからない状態で(当時は日本画家になることが夢だった)ラジェスさんは単身日本にやってきて、かれこれ20年近い年月が流れたと満面の笑顔でラジェスさんは話す。ラジェスさんの苦労に比べれば、我々が直面をしている問題など「ちっぽけなもの」に過ぎないのだと思う。日本に暮らしている限り、我々日本人には「日本語が通じる」という最高のメリットがある。自分の気持ちを伝えることができる。ひととコミュニケーションをとることができる。コミュニケーションをとることができるということは、多分、全然余裕でどうにかなるということだ。えりか姫や、菊名の家のこれからが楽しみになる【今度、ラジェスさんがネパール料理を作ってくれることになりました!!】。

 

【過去記事】完璧にはなれなくても、幸せにはなれるんだよ。 - いばや通信

 

清々しい生き方をしなければ、人生の最後に惨めになる。

えりか姫のいいところは、生活保護を受けているだとか若くして親元を離れる必要があるとか学校に通うことができなかったとか、そういうことで「悲壮感を漂わせていない」ことだと思う。彼女は普通で、落ち着いていて、結構平気そうにしている。いまどんな気持ちなのかと尋ねると「ハラハラしています」とは答えるけれど、そのことで「自分はなんてかわいそうな女の子なのだろう!」みたいな悲劇のヒロインを演じている雰囲気はない。潔くあること、清々しくあることはわたしの人生のテーマでもあるので、えりか姫のあり方を見ながら「結構いい感じじゃないか」などと思ったりもする(普通に家の掃除なども手伝ってくれるので、正直ものすごい重宝している)。

 

 

悲壮感を漂わせないこと。これはほんとうに大切なことだと思う。あらゆることは「自分がやりたいからやっているだけ」のことであり、誰かのせいにしたり【誰かのためだとか言ってみたり】、世の中を恨んでみたり、自分が置かれている境遇を嘆くことは根本的に『ダサい』行為だとわたしは思う。しかし、稀に、どうしたって自分に同情をしてしまったり誰かに理解をしてもらいたいと願ってみたり、頑張っている自分を認めてもらいたいとかなんとか思ってしまうこともある。忙しい時、イライラしている時、こころの余裕を失ってしまった時などは特に危険だ。そんな時は、ひとりになれる時間が必要になる。わたしは弱い人間だ。いま、こうして静岡県に逃げて来ているのも、弱い自分を護るためなのだと思う。自分を護り、一旦冷静になることができた状態で、もう一度菊名の家【それぞれの戦場】に戻る。戦場という言葉を使ったけれど、これは傷つけ合うための争いではなく、世界をより良いものにするための争いなのだと思っている。

 


昨日遊びに来てくれた方から、一通のメールが届いた。誤解を恐れずに言うと、菊名の家は「いつ終わってもいい」と思っている。続けるためにはどうすればいいかではなく、続けることは難しくなってしまっても構わないからやりたいことは躊躇をしないでやっていこう、続けるためではなく「生きてきた思い出を残すため」にやっていこうと、そう思っている。連日続く忙しさのあまり余裕を失いかけていた時、ふと、見上げた空が綺麗だった。青々と広がる空の海を、大きな雲が悠々と流れていた。なにもかもを失うことがあったとしても、この空は、この雲は、この自然は失われることはないのだと思った。自分にはこの空があるじゃないか。自分にはこの雲があるじゃないか。自分には最後まで奪われることのない『自然』が残されているじゃないか。この空があれば、きっと、自分は何度でもやり直せる。そういうことを思っていた。

 

 

圭吾さん


おはようございます。
昨日はありがとうございました。

 

ごちゃまぜの家が始まり、お家に命が吹き込まれたのを感じました。

 

圭吾さんのあたたかさや大切にしている気持ちが空気となってあの心地よさになるんだと思います。


改めて圭吾さんのこと、ごちゃまぜの家のこと、素敵だなと感激しております☆

 

そしてご縁に感謝しております。

 

本当にありがとうございます。

 

昨日は子供たちもとーっても楽しませて頂いて、上の子は帰り際、帰り道に「泊まりたい、泊まりたかった~」と言っておりました。


私もそんな子供たちを眺めながら、えりかちゃんに美味しいコーヒーをいれて頂いたり幸せな時間を過ごさせて頂きました。

 

是非また遊びに行かせてください。

 

感謝の気持ちを伝えたくて連絡させて頂きました。

 

お忙しいと思いますので返信は大丈夫です(^_^)

 

明日もどうぞよろしくお願いいたします。 

 

 

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清々しい生き方をしなければ、人生の最後に惨めになる。。。

 

人生は続く。

 

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自分の「好き」を貫く。

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ごちゃまぜの家がはじまってから早5日、様々な方々が手土産と一緒に訪問をしてくれることが嬉しい。個人的に一番嬉しいことは、子育てでちょっとだけ疲れているお母さんがこどもたちをごちゃまぜの家に放り投げて(面倒は同じ場所に居合わせたひとたちが見る)、ホッと一息をついていただけること。数日前、7歳の女の子と3歳の男の子を育てているお母さまが来てくれた。こどもたちは謎にテンションが高まり、絶叫しながら家の中を走り回っては布団に飛び込み続けていた。帰り際、お母さまが「坂爪さんたちと出会えて、生きててよかったなあって思いました」なんてことを言ってくれたので、あまりうまく気持ちを表現することができないのだけれど、その瞬間は泣きそうになってしまった。

 

 

わたしはこどもが大好きだ。一緒にいるだけで元気になる。しかし、365日24時間一緒にいたらそりゃ腹が立つこともあれば余裕を失って軽いノイローゼ気味になることもあるだろう。それは母親失格なんてことじゃなくて、ひととして「当たり前の反応」が出ているだけだと思う。そんな時、ごちゃまぜの家の存在がいい感じに機能をすればいいなあと思う。ごちゃまぜの家では、現在鉄砲玉48【通称・TPD48】なるものを発足させてどのような展開が起こるのかを見守っている。TPD48とは基本的にはあらゆる御依頼に対して無償で御奉仕をするスタンスで活動を行う捨て駒の集合体(拒否権もある)になりますので、なにかしらの要望がある方や、TPDを通じて菊名の家をご覧になりたい方々は、是非、下記のイベントページ欄よりお気軽にご連絡ください(取り急ぎ14日までの様子見開催となっております)。

 

【イベント情報】【1th「僕に好きかとキクナんて」/TPD48】

 

酒がなくても酔える家。

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こちらがごちゃまぜの家の間取り図になる。こちらの家屋を家賃無料で提供していただいた。この世の中には、確実に「粋なひと」と呼ばれる類の人種が存在をしていて、わたしのような世間的弱者【完膚なき無職】にも、果てしない優しさを与えてくれる。だからこそ、わたしは「この家を大切に使いたい」と思う。そして、この家を大切に使っていただけるひとを優先的に歓迎したいと思う。ひとを平等に愛することが美徳とされているならば、わたしは、美徳のない人間ということになる(のかもしれない)。しかし、初動は非常に大切であるような気がしているために、最初はこの家を大切に使っていただける方々【及びクラウドファンディング支援者の方々】を優先的に、住所の公開をしていきたいと思っている。

 

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朝のお勤めは近所の篠原八幡から。

 

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龍のご加護を受ける。

 

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この20倍の規模の庭を、

 

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この20倍の規模で整える。

 

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木登りができるように剪定をする。

 

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居間に差し込む太陽の光。

 

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縁側を天国にしたい。居間にある椅子は、すべて、縁側を眺めることができるように設置をした。コンセプトは「自然に背を向けない家」ということで、昼間は日の光を取り入れて明るく、夜は夜らしく「暗闇を楽しむ」ことができたらと思う。昨夜、高校時代の友達が遊びに来た。彼は酒が大好きだから酔っ払っていい感じになっていたけれど、酔うほどに下品になる彼を見ながら「最低だな」と思った。誤解を恐れずに言うと、わたしは「酒がなければ酔えないひと【自分の本音を出せないひと】」を軽蔑している。この家のコンセプトは「酒がなくても酔える家」でもあるために(適当!)、彼のように「ほんとうはやさしい部分もたくさんあるのに見栄やプライドが邪魔をして自分の本音をなかなか言えず、酒の力を借りることでひととつながろうとする(自分の弱さを隠そうとする)ものの結果的に醜態を重ね続けている」ひとにも温かな場所になればいいと思う。 

 

【過去記事】好きなように生きなさい。 - いばや通信

 

セックスをしたいです。

いまから三ヶ月前、自分自身をフリー素材として「自由に使ってください」と開放をしていた時に、ある女性から「セックスをしてください!」という御依頼が届いた。結果的にセックスをすることはなかったのだけれど、わたしは「正直に自分の気持ちを言えるこのひとは素晴らしいな!」と思った。わたしは思う。結婚をした後にセックスレスになってしまったカップルは、もう、死ぬまで誰ともセックスをすることなく枯れ果てていくのだろうか。ひとを好きになる気持ちは素晴らしいものだと思うけれど、結婚をした途端に「ひとを好きになる」ことが禁止をされてしまうのはどういうことなのだろうか。わたしは結婚をしたことがないのでわからないけれど、セックスレスの夫婦は多い(と聞く)。みんな、いったいどうしているのだろうか。今生は諦めているのだろうか。それとも、こっそりガス抜き【浮気や不倫や風俗の利用など】をしているものなのだろうか。

 

坂爪さん

 

こんにちは❣️

 

先日のツイキャスライブ、聞きました!

 

ポリアモリーや、複数恋愛についてお話ししているところ、

 

「複数恋愛する人には2パターンあって、一つはただフラットに複数恋愛する人、もう一つは向き合いたくないことがあるからそこから目をそらすために複数恋愛する人」の部分はアイテテテ…となりながら聞いていました…!(;ω;)

 

私、めっちゃ後者…!

 

先日のブログでもお父さんにお手紙を書かれたかたの話し、偽りの平和を終える為のバトルは必要だという記事。

 

私にとって「戦う」相手は旦那さんなんだよなっ、て思いました。

 

何をどう伝えたらいいのかずっと考えていたのですが先日ちょうど話せる機会があったので、素直に全部伝えてみました。

 

最近旦那さんのことが好きかわからなくなっていたこと。

 

離婚した方がいいのかなと思っていたこと。

 

でも今の生活は好きだし、旦那さんに不満もいっぱいあるけどやっぱり旦那さんが好きなこと。

 

ももし離婚しないとして、結婚している間は他の誰ともエッチとか出来ないのかなと思うとつまらないなって思っちゃう自分がいること。

 

それを伝えてる間も色んな感情が湧いてきて、

 

あーこんなこと言ってやっぱり旦那さんに嫌われちゃうかな、やっぱりそれはイヤだな、ってことはやっぱり私旦那さんが好きだったんだなあー
とかとか。

 

で、それを聞いた旦那さんの答えは
「したいなら、すれば?」
でした。

 

「え、いいの?」

 

って聞いたら

 

「したいと思うんならすればいいんじゃない?だってそう思っちゃったんでしょ」と。

 

受け入れてくれた!まさかの!めっちゃ嬉しかったです。

 

浮気を公認(?)してもらえたことがというより何より、どんな私でも受け入れてくれた旦那さんに感動しました✨。゚(゚´ω`゚)゚。

 

旦那さんのこと信用せず、どうせ嫌われちゃう、怒られちゃう、と被害者意識を募らせ一人で拗ねていじけて、色んなこと全てに素直になれなくてこじらせていたのは自分だったんだ


ということが、心底腑に落ちました。

 

坂爪さん、坂爪さんにお会いした時「旦那さんにちゃんと伝えた方がいい」と言われなかったら今こんな風に思えず、まだまだこじらせていたままだったと思います。

 

ありがとうございました!本当に感謝しかないです✨

 

で、旦那さんの器の大きさに感動して、私もそんな旦那さんが大好きとなって、


それでも坂爪さんとえっちがしてみたいのかな?と改めて考えてみて…。


それでもやっぱり私はしたいなって思うのです。

 

いや、えっちまでしなくてもいいんですけどせめてチューくらいはとかゴニョゴニョ…(〃ω〃)

 

やっぱり出来たら嬉しいな、って思いました!

 

大好きです❣️

 

長くなってごめんなさい!

 

ごちゃまぜの家、いい感じの場所になりますよう心からお祈りしています。

 

ではではーー✨

 

わたしは「素晴らしい!!!!!」と思った。いろいろと思うことはあったけれどなによりも「相変わらず正直だな!すげーな!」と思った。そして、旦那様との関係性を進めた彼女の覚悟と勇気を讃えまくりたいと思った(超絶尊敬した)。誤解されると困るが、わたしは月並みなフリーセックスを提唱したい訳でもなければ浮気や不倫を肯定したい訳でもない。ただ、自分の「好き」を押し殺しながら生きていると結果的に魂が枯れ果ててしまってゾンビみたいなことになり、生きているんだか死んでいるんだかわからないことにはなる(誤解を恐れずに言えば、そういうひとは大量にいるような気がする)ということだ。本音から二歩も三歩も手前の話題で相手の心情を探るよりも、コミュニケーションをとりたいなら「コミュニケーションをとりたいです」と言えるひとを、セックスをしたいなら「セックスをしたいです」と真っ直ぐに言えるひとの清々しさを、わたしは愛している(セックスをしたいと思うことは、意外と『純愛』だと思う)。

 

【過去記事】人生とは、純度の勝負である。 - いばや通信

 

自分の「好き」を貫く。

2日前の夜に神奈川県秦野市で開催されたイベントの帰り道、鉄砲玉のたくちゃんが運転をする車で熱海に向かう途中の駐車場で、車と車の接触事故が起きた。車も人間も無傷で住み、結果的にはなにも問題はなかったのだけれど、事故が起きるとそれなりにショックを受ける。警察官の方々にもお世話になり、事情徴収を受けながら保険屋さんにも電話をし、職業はなにをしているのかと問われた際に「無職です」としか答えることのできない自分達を軽く恥じつつ、なにはともあれ「これがひとを轢いてしまったとかではなくてよかった」と心底思った。人生はなにが起こるかわからない。油断をしていると、必ず何処かで痛い目に遭う(ようにできている気がする)。わたしの信条のひとつに「調子に乗ったら即死する」というものがあるのだけれど、この事故はうわつきかけていた自分の気持ちをギュッと引き締める、非常に素晴らしい出来事になった。

 

 

事故後、事故現場近くのコンビニに立ち寄る(私はトイレを我慢していた)。すると、矢沢永吉似のおじちゃんR様が「なんかあったの??」とやったら楽しそうに声をかけてきた。話を聞くと、現在55歳のR様は若い頃に相当のやんちゃをしていたそう(現在はちゃんと仕事をしています。でも、可愛らしさと格好よさが謎に異常!!)で、いまでもパトカーや事故現場を見るとワクワクしちゃう(時には「なにがあったの?」って話しかけちゃう)のだと話す。接触事故を起こしまして、などと伝えると「大変だったねー!俺も、昔はパトカーを何台もぶっ壊したからそういうのはよくわかるよ!」と、なんだかものすごい話をしはじめたので私たちは爆笑しながらR様の話を聞いた。若かりし頃のR様は、検問があると知れば(なぜだか不明過ぎるけれど)酒を大量に浴びた状態で猛スピードで検問を突破することを生業とされていらっしゃった方で、銀座も世田谷も横浜も余裕だった、成功率は100%だった、だけど過去に一度だけ捕まってそのまま逮捕をされた場所がある、それが茅ヶ崎だ、あれは不覚だった、だからおれはいまでも茅ヶ崎には頭があがらないんだみたいな話をしてくれた(事実かどうかは不明!!)。

 

 

R様は「芸能ニュースとか見ていると、浮気だとか不倫だとかで騒ぐけど、おれから見たら『ちっちぇえなあ』って思っちゃう。そんなことはどうでもいいじゃあねえか、どうせやるなら極めろよ」と話してくれた。うまく説明をできる自信がないけれど、私たちは「俺たちはまだまだだな。まだまだいけるな」と思った。R様は全身から「自分の好きを貫いて生きてきました」的な圧倒的な存在力が漂わせていた。帰りの車内で、私たちは「俺たちもこういう雰囲気を醸し出せるようになれたらいいね」という話をした。いつの間にか、事故を起こしたショックは消えていた。自分の「好き」を貫いて生きているひとは、それに触れるひとのこころまで自由にさせる力がある。事故現場を離れて熱海に向かう道中、新潟在住の女性から一通のLINEが届いた。他人の生き方にああだこうだと言うこことよりも、取り戻すことのできない過去を嘆くことよりも、失敗を恐れて自分の気持ちを縮めてしまうことよりも、瞬間瞬間における自分の「好き」を貫くこと、これに勝るよろこびはないのかもしれないと思った。

 

 

坂爪圭吾様

 

初めまして。◯◯◯と申します。

 

以前より、twitterやブログを読ませていただいております。

 

そして勝手ながら、ゆうちょ銀行への振込と、LINE登録をさせていただきました。

 

うまく言葉に出来ているか分かりませんが、

 

坂爪さんのブログやtwitterは、

 

本当は誰もが気づいていて感じているのに、無意識に(もしくは意識的に)拒絶し、本来とは違う方向に努力して苦しい思いをし、さらにそんな自分にダメ出しをしている多くの人達の心の中にある、本人も忘れてしまっている本当の(純粋な)気持ちを取り出して、

 

「これでいいんだ」と気づかせて(思い出させて)くれるように感じております。

 

ご実家が小針との事で、私は今内野のあたりに住んでいます(7月から◯◯【坂爪註・小針駅の隣駅】に引越します)ので、勝手に親近感も感じております。

 

ごちゃまぜの家のクラウドファンディングに支援をしたかったのですが、タイミングが合わず(あくまでもこちら側の都合なのですが)、でも何かの形で、私の出来る事で関わりたいと思っていたところ、振込先の口座を公開して下さったので、振込させていただきました。

 

少額ですが、ごちゃまぜの家に限らず、坂爪さんが必要と思われる事に使っていただければ幸いです。

 

ごちゃまぜの家の事を思う時、何故かフリーエネルギーの事が頭に浮かびます。


そのうちフリーエネルギーの時代もやって来るな、と勝手にワクワクしております。

 

梅田にも新しくごちゃまぜの家が出来る予定との事【坂爪註・梅田にあったら最高だなと思っているだけで、現状はなにも進展はありません!!頑張ります!!】、もし発足したなら、もしかしたら利用させていただく機会があるかも知れません。

 

長くなってしまい申し訳ありません。

 

これからも、ブログとtwitterを楽しみにしております。

 

拙文失礼いたしました。

 

 

https://www.instagram.com/p/BU0EfGRj5CD/

菊名の家。。。最高よりももっと最高を目指す。。【鉄砲玉48をよろしくお願いいたします!!】

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

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ごちゃまぜの家の記念すべき第1号が横浜市港北区菊名からはじまった。昨日、正式に契約を終えて荷物の搬入を行う。事前から「はじまる時は声をかけてね!」と声をかけていただいた方の元に音速で駆けつけ、テーブルや椅子や大量の雑巾と大量の布団セット(布団セットを4組貰ったつもりが、蓋を開けて見たら掛け布団が4組はいっていたので現状掛け布団だけ家にあります!)を受け取り、飛騨産業のロッキンチェアまで譲り受けた。今日は洗濯機と冷蔵庫をいただく流れが来ていて、貰い物だけで成立する家になったら面白いなあなどと思う。ごちゃまぜの家のテーマは「温故知新」にしようと、今朝、庭の掃除をしながら思った。先祖代々から伝わる知恵や文化を継承しつつ、しっかりと未来も見据えていく「未来感漂う家の在り方」を追求してみたいと思う。

 

 

このような営み(?)をしていると「昔は日本もこうだったんですよね!」的なお言葉をいただくことがある。が、わたしは決して昔に戻りたいとは思わない。真逆で「未来に進みたい」と思っている。ただ、あまりにも未来のことばかりを考えていると『地に足がついていない感』が自分の中から醸し出されてしまうような気がするので、そこら辺はしっかりとバランスを取っていきたい。バランスを取るということ、これは非常に重要なテーマだ。いいことばかりをしていると悪いことをしたくなり、悪いことばかりをしているといいことをしたくなる。真面目なことばかりをしていると、肚の裏側で『全身全霊のギャグをかましたい』などと思ったりする。世の中が「ありのままで」などとやかましい時は、ありのままでいい訳がないじゃないかなどと思ったりする。世の中が「いまを生きる」とか「ワクワクに従う」などとやかましい時は、いまを生きている場合ではない【ワクワクに従っている場合ではない、ゾクゾクに従え!】などと思ったりする。誤解を恐れずに言えば、生きとし生けるものの本性は「天邪鬼(真面目な不良少年&少女)」なのだと思っている。

 

【イベント情報】5/31(水)坂爪圭吾さんトークライブ☆秦野くりはら

 

ダサいものは捨てる。

菊名の家にあるダサいものを徹底的に捨てる。掃除は人生哲学にも通じるものがある(ような気がしている)。ダサいものを捨てること、中途半端なもの(例えば百均の商品など)の介入を阻止すること、自分のこころがときめくものだけで空間を織り成すこと。安物買いの銭失いなどという言葉もあるけれど、わたしは「いいものを長く」使いたいと思う。これは、多分、人間関係にも通じるものがある。よくわからないひとたちとよくわからない付き合いをするよりも、わたしは「いいひとと長く」付き合っていきたい。友達は好きだけれど、友達ごっこは好きじゃない。ひとと話をすることは好きだけれど、表面的な会話を続けていると虚しくなる。愛想笑いをしないこと、自分の本音を隠さないこと、時には言い辛いことも勇気を出して真っ直ぐに伝えるということ、それが真の意味で「誠実である」ことのように思う。

 

【過去記事】真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。 - いばや通信

 

所有はダサい。

先日、とある著名人K様がポルシェを購買したという話を(K様の知り合いの女性から)聞いた。わたしは、まだそんなことをやっているのかと思った。ので、K様の知り合いの女性に「もしもK様に次会う時は、このように伝えてください。K様、いまのままではあなたは猛烈にダサいですよ。でも、そのポルシェをごちゃまぜの家の駐車場に置いて『僕が使っていない間は誰でも自由に使っていいですよ』ってみんなと共有をしてくれた日には、あなたは死ぬほど粋な男ですよ」と言った。多分、これまでの時代は「どれだけ素晴らしいものを『所有』しているか」がそのひとの格好よさ【社会的な地位】を測る尺度になっていたのだと思う。しかし、21世紀的な考え方では「どれだけ素晴らしいものを『共有』しているか」が、そのひとの格好よさを測る尺度になるのではないだろうなどと思っている。

 

豪邸を買ったひとがいる。でも、周囲のひとから見れば「だからなに?」という話である。だがしかし、そのひとが突如「誰でも自由にこの家を使っていいですよ!」的なノリで、その豪邸を開放【共有】した瞬間から、そのひとは『最高に粋なひと』になる。誤解を恐れずに言えば、所有を誇っている間は死ぬほどダサかったはずのあのひとも、それを共有した瞬間から、一気に格好良くなるという謎の逆転現象を発見した。これはたとえばの話になるけれど、これから先の人生、坂爪圭吾が手に入るものは家も車もなにもかもすべて「生きとし生けるものの共有財産になる」というとする。さすれば、たとえばわたしが家を手に入れた時は「みんなにとっての家が増える」ということになり、わたしがポルシェを手に入れた時は「みんなのポルシェが手に入る」ということになる(説明が下手すぎるけれど上手に伝わっているのだろうか…)。

 

こうなると、自分が豊かになるほど周囲のひとも同時に豊かになる【共有財産が増える】という流れになる。わたしは、こんな感じの流れを「いい感じだな」などと思う。所有の裏側には常に「失うことに対する恐れ」がある。どれだけ貯金や所持品を増やしたとしても、失うことを恐れるあまりに「まだ足りない!まだ足りない!」などなってしまい、死ぬまで所有物を増やそうとしてしまうのは人間のサガだ。そして、そのことによって「自らを身動きが取れない状態に置いてしまう」ことにもなる。しかし、共有という考え方には「失うことに対する恐れ」がない。仮に自分の手元からは一切合切がなくなってしまったとしても、まあ、いいか、別になにも問題はない、自分にはなにもなくても他のひとが持っているからどうにかなるという「こころの余裕」を生む。そういう話を、先日のツイキャス音声配信からちょっとだけ話したので、興味のある方は是非聞いてみてください(そして実際にお会いした際に話の続きをいたしましょう!!)。 

 

【音声配信】Recoded Radio ゴダまぜの家 - いばや #375656516 - TwitCasting 

 

踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

続けることに価値があるならば、終わらせることにも価値がある。この前の日曜日にわたり食堂【0円食堂】を開催した。そして、この日がわたり食堂&わたり文庫の最終回ということに(前日の夜に突然思い立ってそうすることに)して、およそ2年間続いた活動は終わった。認知度も高まり楽しみにしているひとも増えているのにどうして終わりにしちゃうのですかと尋ねてくださる方々に、わたしは正直に「自分が飽きてしまったからです」と答えた。わたり食堂の活動も、わたり文庫の活動も、我ながら素晴らしい営みだなと思いながら続けてきた。しかし、同時に「なんだかちょっと飽きてきたな。そろそろ刷新の必要があるな!」とも思っていた。わたり食堂を終わらせることに決めた時、不思議と、こころに「爽やかな風」が吹くのを感じていた。終わりは同時にはじまりでもあると言う。自分をレベルアップさせるために、古い自分を一回殺す(終わりにする)ことは、魂の新陳代謝になるのかもしれない。

 

 

ツイキャス音声配信の中でも話しているけれど、わたしは「いつか」とか「またの機会に」という言葉をあまり信用していない。いまやらなければ、多分、永遠にやることはないのだろうということを頻繁に感じる。わたり食堂も、本来であれば定期的に開催されることになっていたのだけれど、それでは「(何かをやりたいと思う気持ちが湧き出したとしても)毎月やっているならいまじゃなくていいか」という気持ちを生むことにもなる。その感覚を断ちたいと思う。すべてに終わりの瞬間があるということを、明確に意識しはじめた時に「いま」という瞬間に強烈な輝きは宿る。生きているのはいまだけだということ、目の前にいるひとも、目の前に広がる風景も、当たり前だと思っていたはずの日常も、もしかしたら「これが最後になるかもしない」という静謐な感覚を、失いたくないと思う気持ちが終わりにする道を選ばせた(のだと思う)。

 

 

失敗を恐れたりひとに馬鹿にされることを恐れて、自分の歌を歌うことを躊躇してしまうことがある。しかし、すべての瞬間には終わりがある。傷つくことを恐れることもあるけれど、いつの日か『傷つくことさえもできなくなる』瞬間が必ず来る。心臓に耳をすませる。鼓動の音が聞こえてくる。命は踊りたがっているのだと実感する。生きるということ、生きたいと願うこと、それは「踊り続けるということ【時には傷つくことさえも厭わないこと】」と同義なのかもしれないと思う。命は踊りたがっていて、カラダも、ココロも、それにつられるようなカタチで『自分のなにもかもを投げ出して、本当は踊りたい』のだと思う。それは、多分、いつの日か踊ることさえもできなくなる日が来ることを知っているかのように、生きろ、生きろ、と叫んでいる。

 

 

https://www.instagram.com/p/BUsX0c5DVKe/

あたひ。。。(熱海の朝日)

 

人生は続く。

 

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完璧にはなれなくても、幸せにはなれるんだよ。

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ベトナムハノイに到着をして、今日の夜には熱海に戻る。バンコクから行動を共にしていたK様を、途中、マレーシアのクアラルンプールあたりから「君は立派な大人だしひとりでも大丈夫だよ!」と野に放った(空港に置き去りにして逃げた)。置き去りにした最大の理由は「最初から最後まで一緒にいたら、伸びるものも伸びないだろう」と思ったからで、ドラゴンボールという漫画の中でピッコロさんというキャラクターが幼い孫悟飯を強制的にジャングルに放置した時の、あの感覚に似ている(のだと思う)。一時的にK様からは大顰蹙を買った(「殺してやろうかと思いました!」くらいのことは言われた)ものの、数日後、久しぶりに再会をしたK様の表情は数日前に見たそれよりも数億倍美しく精悍なものになっていた(ということにする)。

 

 

明日28日日曜日には熱海でわたり食堂【0円食堂】 が開催される。どなたでもご参加いただける内容になりますので、少しでも気になる方はお気軽に遊びにいらしてください。当日、15時頃から今回の東南アジアの土産話的な意味も込めて「ごちゃまぜの家にまつわるサムシング」を、参加者のみなさまと話したり離さなかったりできたらいいなあと思う。紆余曲折あったものの、29日月曜日には菊名の家の本契約が行われ(る予定!)、何も問題がなければめでたく「ごちゃまぜの家第一号の誕生!」という流れになる。その時は、是非、みなさまもご一緒に「(これからどうなるかは未知数だけれどとりあえず)やったね!」と生きる歓びを共に分かち合っていただけましたら幸いです。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

梅田にごちゃまぜの家を作りたい!

昨日の夜、時間を持て余していたので各種SNSから「時間のある方はLINEで話したりしましょう!」と投げた。すると、非常にありがたいことに様々な方々からご連絡をいただき、猛烈に有意義な時間を過ごすことができた(ご連絡をいただいたみなさまありがとうございます!!)。最初の電話のお相手は京都在住のシングルマザーN様で、北海道出身のN様からは過去に大量のじゃがいもを熱海に贈っていただいたことがある。その時の御礼を伝えると「わたしには何もすることができないので…」などとおっしゃるので、いやいやいや!既に大量のじゃがいもを贈ってくださっているではありませんか!何を言っているのですか一体(こうしてお気持ちを伝えていただけるだけでもどれだけ力になることか)!!!みたいなやり取りを交わした。

 

電話の中で、わたしは「梅田の雰囲気が大好きなので、ごちゃまぜの家を梅田(中津あたり)でもやれたらいいなあって思っています」ということを話した。すると、N様は「オーマイガッ!グッチョイス過ぎます!横浜だと遠いしこどももいるからなかなか行くことはできないけれど、梅田なら行けます!梅田は京都からも神戸からもアクセスも良いし、土地的にもニュートラルでキャパも広いし、関西のひとは関東のひととはまた違う色の濃さがあると思うし、変なひともいっぱいいるので、きっと面白いものになると思いますよ!」と俄然乗り気になっていただき、なんだかとっても嬉しかった。わたしの出身は新潟県で、東京にある大学に通っていたために関東圏は慣れているけれど関西地方のことはまだまだなんにもわからない。「若輩者のわたしに、関西のなんたるかをご教示いただけましたら非常に幸いです!」とお願いすると、N様も「その時は是非!」みたいにおっしゃってくださった。

 

菊名の家は新横浜駅も徒歩圏内で、新大阪まで2時間ちょっとで行き来ができる。仮に菊名と梅田の家が実現をすれば、双方の交流みたいな流れも生まれるかもしれない。ごちゃまぜの家のような「緊急時のシェルターにもなる場所」は、多分、ひとつだけではなく複数個あった方が何かとよろしい(ような気がする)。個人的に「福岡と札幌も大好きな場所なので、ごちゃまぜの家を実現できたら最高!」と思う。タイのバンコクも、家賃1万円くらいから借りられる家もあるし、先に借りちゃうのもありなのかもしれない(借りた瞬間に全開放をして「誰でも自由に使ってください」ってできたら何が起こるのかを見てみたい)。6月7日&8日は札幌に、6月10日&11日は関西方面に足を運ぶ予定になっておりますので、奇跡的に「こんな物件があるけれどごちゃまぜの家にどうでしょう??」的なサムシングをご存知の方がいらっしゃいましたら、どなたでもお気軽にご連絡ください(10日に奈良県明日香村で開催されるトークイベントも、多分、面白いものになると思いますのでお気軽に遊びにいらしてください!!)!!

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークライブ「新しい教育方針?〝10歳成人説〟を語ろう」

 

いろんな男性のこどもを産みたい!

N様との電話を終え、次に話した方は東京都在住の女性E様。なんだかこんなことばっかり書いていると「お前はまじで女ばっかりだな!」と思われちゃいそうでアレですが、普通に男性とも話をしているのであしからず!!E様曰く「わたしは現在35歳で、周囲のひとは結婚をしているのですがどうしてもいまの結婚制度というものに馴染むことができなくて、まわりの友達もこどもができたらできたでなんだか大変そうだし、わたし自身もこどもは大好きなのですが、いまの日本社会ではこどもを育てたいとは思えないんです」と話してくれた。わたしは、ああ、この方は正直に自分の気持ちを話すことできる素晴らしい方だなあと思い、なんだかわかるような気がしますと答えた。

 

E様曰く「結婚をしていないって言うと、まわりも『早く幸せになろうね!』的なことを言うけれど、正直に言えば『すでに幸せなんですけど!』と思います。この、結婚をしなければ幸せじゃないとか、こどもを育てるためには結婚をしなければいけないとか、結婚をしたら死ぬまで寄り添い続けなければいけないとか、結婚っていう制度【縛り】が昔から謎で、いまのままなら結婚をしたいとは思えない【もっとお互いに自由であれたらいいのにな】というのが最近の心境です」と話してくれた。話を聞きながら、わたし自身も結婚制度にいろいろと思うことはあるために、だからこそ「ごちゃまぜの家が(謎に)新しい答えになったらいいなあ、などとは思います!」と答えた。

 

生の声を聞けるのは本当に楽しい。先日は「こどもが生まれたら自分だけじゃなくていろいろなひとの母乳を飲ませたいって思うんです。だって、その方が免疫力がつきそうだから!」と話す女性と出会った。いろんな男性のこどもを産みたいと話す女性や、夜這い制度を復活させて誰が誰のこどもかわからなくなれば結果的にみんなこどもを大事にするのではないだろうかと話す女性もいる。一番衝撃的だったのは「坂爪さんがお父さんになりたいと思った時に、わたしのカラダが空いていたらわたしが産みます」と直接的に言われたことで、ああ、こういう時の女性は最強だなあ(敵わないなあ)と思った。誤解を恐れずに言うと、このひとと結婚をしたいと思う気持ちよりも、「このひとのこどもをつくりたい!【このひとの遺伝子を残したい!】」と思う感覚の方が、自然に近いような気がする。生涯、基本的にはたったひとりの相手としかこどもをつくることは許されないということの方が、もしかしたら不自然なことなのかもしれない(なんて書くと混乱が起きるので、この辺りで控える)。ごちゃまぜの家には、実際にやってみないことにはわからないけれど、これらのすべてを実現することのできる謎の器がある(ように思う)。みんながみんなの父や母になり、みんながみんなの兄弟や姉妹になり、みんながみんなのこどもになる。明治時代から連綿と続いた結婚制度【一夫一婦制】が溶け出す瞬間は、もしかしたら、すぐそこにまで来ているのかもしれない。

 

生きなきゃじゃなくて、生きたいと思える世の中にしなくちゃ。

結婚でも仕事でもなんでも、強制的にやらされることではなくて「自分から前のめりになってやりたいと思える『前のめり感』」が大事だと思う。生きるためには資格や学歴や語学力が必要だとか、ITや財務や国際交流のスキルが必要だとか、セルフブランディングがどうのとか表現力とか人脈力とか集客力がどうのとか、そういうことももちろん大事なのだろうとは思うけれど(本当はあんまり思っていない)、そもそもで「生きることよりも『生きたいと思う』こと」の方が何億倍も重要だとわたしは思う。生きるためにはこれをしなければいけない、あれをしなければいけないなどと強制をされてしまったら、強制されたひとは「生きるのって大変なんだな」と思うだろう。生きることは大変だという前提で世界を眺めてしまうと、根本的な考え方が「生き延びるためにはどうすればいいか」という非常に殺伐とした、冷的で緊張感漂う思考に満ち溢れてしまい、生きたいと思う気持ちなんてとんとご無沙汰でございますみたいなことになってしまう。

 

生きなきゃじゃなくて、生きたいと思える世の中にしなくちゃいけないのだと思う。生きるためにはいやなことでも我慢をしなければいけないだなんて、そんなことはないのだと思う。そう思ってしまったら、事実、その通りになってしまうけれど、そんな風に思わなければ(おれは残りの人生を楽しく生きる!とさえ決めてしまえば)、世界からも、まるでその思いに応えるかのように『別に苦しまなくてもハッピーに生きる方法は無限にあった』ということを教えてくれるものだと思う。事実、わたしはそのやり方で生きて来た。生きていればそれなりに大変な目に遭うこともあるけれど、すべては自分が好きでやっていることだ。気持ちとしては『酸いも甘いも全部来い!』という感じで、何が起きても被害者意識だけは持ちたくないと思う。この世の中に『ダサい』とされていることは大量にあると思うけれど、自分の中で最もダサいことは『ひとのせいにすること』だと思う。ひとのせいにすることは何よりもダサい。ここで言う『ひと』とは、他人だけではない『自分自身』ももちろん含む。いまの姿はなるべくしてなったものであり、誰のせいでもなければ、自分が悪い訳でもない、ただそうであるだけの話、誰も悪くないのだと思っている。

 

比較的暗めの学生時代を送っていたわたしは、でも、自分の好きな音楽を聴いている間だけは自由を感じることができた。自分が好きだと思える音楽の中には、まるで、わたしに「生きててもいいんだよ」と思わせてくれる力があった。生きなくちゃいけないという強制的な力ではなく、生きたいと思わせてくれる温かな優しさがあった。まともに生きることができない、普通に生きることができない、完璧に生きることがまったくできない自分でも、幸せになることはできるんだよと教えてもらえたような、許されたような優しさを覚えた。わたしは、いまも尚その力【生きたいと思わせてくれる力】によって支えられている。昨夜、ブログ読者の方から一通のメールが届いた。メールを読んで、あたたかな感情があふれ出した。過去の自分が生きたいと思わせてくれる力によって窮地を救われたように、自分自身も『生きたいと思わせる力』を醸し出すことができるような、そんな生き方をしていきたいと思った。

 

 

坂爪さん、はじめまして!

 

Facebookを見て、どうしても坂爪さんにお礼が言いたくて、ご連絡させていただきました。 

 

物心ついた頃から、なぜだかわからないのですが、『生きててごめんなさい』『生まれてきてごめんなさい』『もっと早く死ねばいいのに、死ねなくてごめんなさい』とずっと思っていて、結果うつと診断され、大学も中退しました。

 

もう死ぬしかないなーと思っていて、死のうとしたこともありましたが、意気地がなくて、できませんでした。

 

ですが、そんな時に坂爪さんのブログを読んでから、『もう少し生きててもいいかな』と思えるようになりました。

 

2年ほど前に始まった『もう少し』で今も生かされています。

 

あの頃、坂爪さんのブログを読んでいなかったら、いまどうなっていたかわかりません。


この世にいなかったかもしれません。

 

だから、お礼を言わせてください。


本当にありがとうございますございます。

 

それだけ言いたくて、ご連絡しました。


突然身の上話をしてしまって、ご気分を悪くされたなら、申し訳ありません。

 

いつか、お会いできれば嬉しいです。

 

本当にありがとうございます!

 

完璧にはなれなくても、幸せにはなれるんだよ。。。

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。

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シンガポールとタイの御礼参りを終え、マレーシアのクアラルンプールに到着をした。出会う方々がみなさま優しい方々ばかり過ぎて、まるで自分は(サムシングビッグ的なサムシングに)祝福をされているのではないだろうかと勘違いをしそうになる。しかし、経験則的に「調子に乗ったら即死する」ということはなんとなくわかってきたので、調子に乗ってしまわないように、冷静に、呼吸はゆっくりと、丹田に力を込めつつ、話すこと以上に「訊く」ことに意識を置いていけたらと思う。真の自由とは、自分の好きなことができるとか自分の好きな場所に行けるとか自分の好きなひとに会えるとかいうことではなく、どちらかというと「自分が消えている【自我が消えている】」トランスペアレントな状態を指すのだと思う。

 

 

昨夜、マレーシアの宿で音声配信を行なった。最近のテーマは「家族」で、日本国内や日本国外で出会う方々と「家族とはなんぞ?」みたいな話を重ねている。表面的には仲良さそうに見える家庭でも、その内実は意外とグチャグチャしていて「え、あんなに優しそうなお父さんが家では暴力を!?」みたいな話を耳にする機会は頻繁にある。家族とは最小単位の『社会』でありながら、同時に『異様なほどに密室である』空間でもある。平気でパワハラが行われているし、誤解を恐れずに言えば「親の悲しみをこどもが引き継いでいる」空間でもある。多分、これから家族という概念は古いものになるだろう、音楽のプレイリストをつくるみたいに家族も目には見えない流動的なものに変わるだろう、みたいなことを話した。

 

【音声配信】Recoded Radio ごちゃまぜ家族計画 - いばや #374924691 - TwitCasting

 

男の役割は女の本音を翻訳すること。女性の役割は「男性を転がす」こと。

過去記事で「父親の不在と女の沼」にまつわる内容を書いた。こんなことを書くとジェンダー界隈のひとに怒らちゃうかもしれないけれど、男性には男性の特性が、女性には女性の特性があると思う。わたし的には「父親の役割は導くこと【ビシッと芯を通すこと】であり、母親の役割は慈しむこと【受け入れて許すこと】にある」ように思う(ことがある)。わたしは男性だから女性の気持ちは想像をすることしかできないけれど、感覚的に「男性は考える生き物で、女性は感じる生き物」だと思う。多分、男性は100考えるけれど10程度しか感じていない。女性は100感じているけれど10程度しか考えていない。 女性陣が「きゃー!なにこれ!かわいい!」などと盛り上がっている場面でも、正直に言えば男性陣は「なんのこっちゃ」と思っている場面は多い。しかし、なぜこれがかわいいとされているのかを論理的に説明されると、男性陣にも「ほほー!なるほど!」みたいな感じで感覚は共有をされていく。

 

わたしは「男性の役割は女性の本音を翻訳すること」にあると思う。別に綺麗事を言いたい訳ではなく、女性の方が感覚的に豊かな世界を生きているように思うことが多い(生活にかわいさを取り入れることがうまい!)ので、それを翻訳することに成功すれば「男性も、女性と同じように感覚的に豊かな世界を生きることができる」ような気がしている。うまく説明をできる自信はまったくないけれど、いまの世界は「明らかに男性によってつくられている」ように感じる(ことがある)。乗り物や道路を作ったのは男性で(だから女性は地図に弱い)、巨大なビルディングを建てたがるのも男性で、法律をつくったのも多分男性で、戦争をしたがるのも多分男性だと思う。男性脳が行き過ぎると「暴力的でなんだか殺伐とした世の中になる」気がする。いま、必要なのは「女性の感覚をうまいこと翻訳をして、それを世界に織り交ぜていく」感性なのではないだろうか、なんてことを思ったり(思わなかったり)する。

 

女性の社会進出、みたいな言葉を耳にすると「それってほんとうに必要か?」などと疑問に思うことがある。バリバリのキャリアウーマンは格好良い!的な風潮もあるけれど、なんだか、これは女性が社会に進出をしているというよりも「男性の土俵で戦う女性が増えている」だけなんじゃないかしら、なんて思うことがある。女性は女性の土俵で戦えばいいのだと思う(戦う、という表現もどうかとは思う)。女性が男性の土俵にあがってしまうと、極論、ゴリラみたいになっちゃうのではないだろうか。誤解を恐れずに書き連ねると、女性の役割は「男性をいかに転がすか」にあると思う。自分でなにもかもやろうとしてしまう(いろいろなものを背負ってしまう)と、肉体的・精神的な部分が枯渇をしてしまい、結果的にゴリラ【男】みたいになってしまうのではないだろうか(などと余計なお世話を働かせちゃうことがある)。

 

【過去記事】生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。 - いばや通信

 

最強の武器は「死ぬ覚悟」である。

二ヶ月前、大阪の天王寺周辺でお会いした女性R様から一通のメールが届いた。その内容があまりにも素晴らしすぎたために、下記でご紹介をさせていただきます。R様は四人の子供をひとりで育てていらっしゃるシングルマザーの方で、昔から、父親との仲があまりうまくいっていないのだと話してくれた。わたしは、話を聞きながら「面と向かって話をすると感情的になりやすいから、たとえば、たとえばの話ですけれども『手紙を書いてみる』なんてどうでしょう??」的な提言をした。言いたいことを言わないでいると、最悪の場合は病気になる。ここはひとつ、勇気を出して「なんらかのかたちで自分の気持ちを相手にぶつけてみる」なんてことはいかがなものでしょうか、的なことを思いながら提言をした。

 

圭吾さんお久しぶりです。


今はクアラルンプールですか?


圭吾さんとお話させて頂いてから2カ月が過ぎようとしています。


以前、天王寺でお昼を食べながら父親との確執を話させて頂きました。圭吾さんから「手紙を書いたらどうですか?」と言われ…


2カ月かかり昨日書き上げ、今日渡し、話をしました❗


圭吾さんから「お互い愛し合っているのに」と言われ…


大阪弁で「お父さんが私の事を愛してる?私がお父さんを愛してる?ほんまかいな」と思いながら…

 

私は罵倒される事覚悟で勘当するならしろ❗私は私として生きていく、そうでなけれは死ぬ覚悟で対決だと思っていました。


しかし、父から出た言葉は…


「お前の気持ちは分かった。生きててくれてよかった。一人で4人の子供を育てているお前をずっと不憫に思っていた。男を見る眼の無いおまえだ。しかし、子供を育ててくれているから□□家の跡取りも出来た(実家は私と妹との姉妹なのです。)お前には感謝している。


でも、お前が私の存在をプレッシャーに感じ、私を恐れ言いたい事を言えずに生きてきたのは私が間違っていたんだろう。私はお前たち家族の成長が楽しみの一つ。


〇〇、苦しみは皆で分けあったら何分の一になる。喜びは何十倍、何百倍にもなる。そうやって生きていこう」

 

まだまだ言葉はありましたが、一部です。

 

私は、拍子抜けしてしまいました。45年間ずっと心にあった重りは何だったのだろう。私は全く父を理解していなかった。


この人は受け止めれる人なのだ。まだ父が帰り1時間程しかたっていません。話をしている間、私は泣き続けていました。何の涙なのか…


これから、じっくり自分と向き合い父の言葉を書き留めようと思います。

 

圭吾さんが、きっかけをくれました。お互い不器用な親子ですから、これからも衝突はあるでしょう。でもちょっとずつでも本音を言える私になれそうな気がします。

 

圭吾さん、貴方は風です。


私と父の間をサァ~と吹いて、漆黒だった親子の色を水色にしてくれました。あとは私が緑かピンクにしてみます。

 

圭吾さん、私は私でよかったんです❗

 

長々とすいません。


お礼が言いたかっただけなんです。


ありがとうございました❗

 

また会いたいです❗

 

素晴らしい文章だと思った。なかでも「私は罵倒される事覚悟で勘当するならしろ❗私は私として生きていく、そうでなけれは死ぬ覚悟で対決だと思っていました」 の部分を読んで、ああ、最高だなあと思った。生きるためではなく、死を厭わない覚悟【裸でぶつかっていく】ということは、多分、最強の武器になるのだと思う。武器があるから強いのではなく、自分のまま、裸のままでぶつかってくる人間にだけ宿る気迫がある。そして、裸の人間を前にした時、武器を持っている自分がダサい【卑怯な】人間に思えてくる。こちらも裸になる(裸にならざるを得なくなる)。自分の外側に張り付いているものをすべて取り払った後に、残るものは「生身の人間」その部分だけになる。フェアな状態で生身の人間がぶつかり合う時、必ず、何かしらの手応えが発生する(ものだとわたしは思う)。その摩擦熱が、冷え切った両者の関係性に温もりを与える(ことがある)。素晴らしい体験を共有していただけたことに、改めて、この場を借りて感謝をさせていただきます(R様、ほんとうにありがとうございます!!)。

 

真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。

様々な方々と話す機会を通じて「真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ」ということを思った。多分、日本人は優しいひとが多いのだと思う。自分が我慢をすることでその場が丸く収まるのであれば、自分が我慢をすればいいのだと何かを耐えてやり過ごしてしまうひとは結構多い(ような気がする)。しかし、その優しさは「ほんとうの優しさ」と言えるだろうか。誰かの犠牲の上に成り立っている平和を、果たして、真の意味で平和と言うことはできるのだろうか。あなたの優しさは、誤解を恐れずに言えば、他の誰でもない「あなた自身を傷つけている」とは言えないだろうか。真の平和を望むなら、まず、偽りの平和を終えることではないのだろうか。

 

 

『戦う』という言葉には暴力的で野蛮的な響きがあるために、どうしたって避けられがちになる(ことは多い)。しかし、わたし自身、最近になって「戦うことは悪いことではない」のだと感じるようになった。その戦いとは、戦争的なものを指すのではなく「偽りの平和【ありがちな予定調和】に対して『こんなものは嘘っぱちだ!』と声高らかに叫ぶこと、理解者はいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでもなお『自分にとっての平和はこれである!』と叫び続けること、誰かの犠牲の上に成り立つ予定調和的な平和ではなく、犠牲になるものを極力減らしてしていくための営み、それこそが『真の意味での戦い』なのではないだろうか」と思うようになった。

 

 

自分が我慢をすればするほどに、広い意味での世界平和は遠く離れていく(のだと思う)。自分が我慢をすればそれで済む話だ、的なロジックは21世紀以降は終わりにした方がいい(のだと思う)。世界平和の中に、自分の平和が含まれていないのであれば、そこにはなんの意味もなんの価値もない(のだと思う)。だからこそ、まずは「自分の平和を実現すること【自分の中にある戦争を終わらせること】」であり、そのために必要な一時的なバトル(上記でご紹介をしたR様と父親のやりとり的なバトル)は、避けては通れないものだとわたしは思う。バトルをする前の瞬間は怖い。もしかしたらいろいろダメになってしまうのかもしれないという感情も湧く。しかし、R様が無事に父親との確執に風穴をあけることができたように、そのことによって「人生全般の風通しが良くなりまくる」こともあるのだと思う。真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。それは、ほかの誰でもない『自分の中にある戦争を終わらせること』なのだとわたしは思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BUerMrPDBgN/

真夜中の肉骨茶。。。

 

人生は続く。

 

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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。

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シンガポールを経由してタイのバンコクにはいる。シンガポールは国自体が「ごちゃまぜの家【国】」になっている(そして国土面積も非常に限られている)ために、ごちゃまぜの家をやる場合は「都市全体に散らばる自由に使える空きスペースをかき集めて、家はないけど『(それらの総称として)家』と言っちゃう」スタイルがいいのかなと思った。イメージとしては、多分、オーストリアリンツにある『ピクセルホテル』に似ているのだと思う。ピクセルホテルには、ホテルと言っても具体的な建造物がある訳ではなく、宿泊客は「水上に浮かぶ一室」とか「庭園にある部屋」とか「改装された工場」など、街全体に散らばる部屋に寝泊りをするスタイルになる。併設するレストランやバーもない代わりに、手渡されたチケットを使えば周辺に点在するカフェやレストランで食事ができるようになっている(らしい)。

 

 

シンガポールでもタイでも、絶賛子育て中のお母様方とお話をさせていただける機会に恵まれた。お母様方曰く「旦那さんが帰ってくるまでは、こどもと自分の二人きりでいる時間が大半で、これって(別に嫌だということはないのだけれど)教育的にもどうなのかなって思うこともあるので、いろいろな大人に触れる機会があればいいなあって思うことはあります」とのこと。この感覚は、なんだかとってもよくわかるような気がする。わたしはこどもが大好きで、一緒にいるだけでエネルギーをもらえる(わたしが吸い取っているだけかもしれない)。しかし、日常的にこどもと触れ合える機会はそれほど多くはない。ごちゃまぜの家を通じて、乱暴な言葉でまとめると「みんなで子育てをする」機会が生まれたらいいなあと思う。

 

【過去記事】一夫多妻制を凌駕するネオ概念「一夫八百万妻制(通称『やおよろぷ』)とは何か。 - いばや通信

 

大事なことは、正直に話すことが大事。

ごちゃまぜの家において重要なことは、多分、流動的であることだと思う。自由に出入りできる空間があったとしても、その空間が「特定のメンバー【常連客】によって構成をされているひどく閉じられた空間」になってしまった途端、多分、音速でダメになる。これまで何度も書いてきたことだけれど、わたしはコミュニティをつくりたい訳ではない。逆で「コミュニティを溶かしたい」と思っている。誰が来てもいいし、何をしてもいい。飯を食べたければ飯を食べればいいし、眠りたければ眠ればいい、帰りたければ帰ればいいし、ひとと話したければ話せばいい【ひとと話したくなければ話さなければいい】。なにも、特別なルールを設けたいとは思わない(逆に言えば、ルールが増える【固定されていく】ほどに空間全体はつまらないものになるのだと思う)。なにをしても良いのだという許可だけがある空間を発生させた時に、さあ、果たしてなにが起こるのだろうかということにわたしの関心はある(のだと思う)。

 

家庭や職場や恋愛関係などの人間関係において、「大事なことは、できる限り正直に話すことが大事」だと思う。具体的なエピソードを紹介することはできないけれど(生きているといろいろありますよね!)、結婚をしたからといって幸せになれる訳でもなく、恋愛をしているからといって幸せになれる訳でもなく、大企業に就職できたからといって幸せになれる訳でもない(って、当たり前のことか・・・)。大事なことは「瞬間瞬間における自分の感覚を正直に話す」ことだと思っていて、当たり障りのないやりとりを続けるのではなく、瞬間瞬間における自分の本音を口にする勇気を出した瞬間から、真のコミュニケーションははじまるのだと思う。逆に言えば、本音の二歩も三歩も三百歩も手前の会話を続けている限り、なにかこう「重要なことはなにも進展していないよね!【お前まだ隠してるだろ!】」的なことを思う。

 

本音を口にする時、まず、最初に頭をよぎることは「こんなことを言ったら相手【自分】を傷つけてしまうんじゃないんだろうか」という類の恐怖心だと思う。しかし、意外なことに、自分の本音を口にしても相手は意外と冷静に耳を傾けてくれる(経験的にそう思う!)ものだし、多分、自分を含めた人間は『自分が思う以上にタフにつくられている』のだと思う。わたしは思う。ドラゴンボールという漫画に出てくるスーパーサイヤ人のように、生きとし生けるものはみな「死にかける度に強くなる」生き物なのではないだろうか。何かを試す前の瞬間はたしかに怖い。しかし、不思議なことに「傷ついてみたい」と思う自分もいる。死にたくないと思うと同時に「死ぬほど大変な体験を通じて自分を高みにのぼらせてみたい」などと思う自分もいる。根本的には誰もが「自分はスーパーサイヤ人である」ということを無意識的に察知しているからこそ、時には「自ら死ににいく」という謎のアクションをしちゃうことがあるのだと思う(わたしは、その部分を『愛しい』と思う)。

 

【過去記事】だから楽しめ。自分を信用するために。 - いばや通信

 

What is natural?

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『HUMAN+』に足を運ぶ。

 

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サイボーグに超人類、そしてクローン。遺伝子工学にバイオテクノロジー、ナノテクノロジーなどの進歩により、現実とフィクションの境界が曖昧なものになりつつある現代、そして未来の世界。この新しい時代において「人間である」ということは一体何を意味するのでしょうか?そしてさらに100年後の私たちの世界は? これからの時代、身体や頭脳がテクノロジーによって改造され、サイバネティック化されてゆくことを受け入れてゆくべきなのでしょうか。人体改造や遺伝子操作における「越えてはいけない」倫理上の一線は?【公式HPより引用】

 

 HUMAN+ : 人類の未来の、さらにその先へ 

 

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地球温暖化に備えて頭皮の表面積を広げることで環境に適応するベイビーは是か?非か?的な展示。他にも「足の中指を切断するとアレルギーに罹らないし喘息も治る。その場合、あなたは自分の赤ちゃんの足の中指を切断することを決めることはできますか?」的な問いを含む展示もあったけれど、言葉で説明をすることは不可能に近い(お近くに立ち寄られた際は、是非!)。

 

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What is natural? ・・・素晴らしい問い!

 

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エキシビジョン自体は素晴らしいものだったのだけれど、その内容があまりにも未来的過ぎて軽く疲弊をした。「これは自分のなかでバランスを取る必要がある!」と思われたので、後日、シンガポール随一の丘に登ってギターを弾いたり逆立ちをして遊んだ。近代化が進み過ぎると、動物でいることが難しくなる。自然に足を運ぶことや歌ったり踊ったり逆立ちをすることで、わたしは「動物的な感覚」を取り戻したいのかもしれない。これは余談になるけれど、逆立ちは最高だと思う。うつ病のひととか、逆立ちをすれば結構早めに治ると思う(体幹も整って筋肉もつく)。馬鹿だと思われた方も多いとは思うけれど、あなどることなかれ、実際にやってみたひとだけにわかる「清々しさ」あるから逆立ちは最高におすすめです!!

 

【参考リンク】朝に「逆立ち」をすると1日が変わる3つの効果「ホルモン分泌」「上半身強化」「便秘に効果大」|「マイナビウーマン」

 

どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ。 

実はさっきから気温三十度を超えるテラス席でこの記事を書いているために、ああ、ダメだ、全然言葉がまとまらない(頭でっかちになっているなあ…そして暑過ぎる!!水飲み過ぎてトイレに行きたい!!)という感覚に囚われている。わたしは何が書きたいのだろうか。昨日頭の中で思い浮かんだことは「どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ」という言葉であり、これにまつわる記事を書けたらいいなあなんて薄らぼんやりと思っていたけれど、気温にやられて脳みそが溶け出している。タイでは、非常にありがたいことに一般家庭のご自宅に宿泊をさせていただいている。そこらへんの顛末を書き綴れたら「それなりに旅日記っぽさも醸し出せる」のかもしれないけれど、わたし自身「旅をしているつもりはない」なんて思っているからうまく書くことはできない(能書きばかりになってきた)。

 

 

いま、トイレにいってものすごいすっきりした。トイレに行きたい時は我慢をするのではなくトイレに行けばいいのだと理解をした。冒頭の写真はシンガポールペニンシュラホテルで撮影をしていただいたものになる。この日はそのままペニンシュラホテルに宿泊をしたのだけれど、わたしのような小童に高級ホテルに宿泊をする財力はない。では、なぜ、わたしのような小童がペニンシュラホテルに宿泊をできたのかというと、これはひとえに「みなさまのおかげです!【シンガポール在住の方がわざわざ手配をしてくれました!神!!!】」ということになる。これはもうほんとうにこころの底からありがとうございます、わたしはわたしで残された命を(生かされてあるこの命を)世のためひとのためそしてもちろん自分のために誠心誠意こころを込めて使い果たして行きたい所存でございます、という気持ちになる。

 

 

長々と能書きを垂れてしまった。小生が言いたいことは「どのような生き方でもいいから、胸を張って生きろ」という一言に尽きる。稀に、わたしのような生き方を見たひとから「お前はダメだ!ふざけている!人生をなめるな!」とお叱りを受けることがある。しかし、小生は思う。生き方に正解はないのだから、多分、生き方に間違いもないのだ【どのようなスタイルであれ「生きている」ということは、極論、どのような生き方をしていたとしても「大丈夫である」ことの最大の証明になるのではないだろうか】と思う。わたしはダメな人間かもしれない。多分、ダメな部類の人間なのだと思う。だからこそ、こどもたちには「俺みたいにはなるなよ」と言いたい。俺みたいな人間にはなるなよとか言っておきながら、誰も知らない楽しさやよろこびや感動の瞬間をこっそりと着実に重ねていく、そういう日々を過ごしていきたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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だから楽しめ。自分を信用するために。

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ベトナムホーチミンを経由してシンガポールにはいる。一応、今回の遠征目的は「ごちゃまぜの家@東南アジアの候補地を探す」ということになっている。海外にいても、やっていることは日本と変わらない。文章を綴り、メールの返信をしたり、適当な公園でギターを弾いたり昼寝をしたりしている。海外に足を運ぶことのメリットは複数個あるけれど、その内のひとつに「日本を離れることで、日本を好きになる」というものがある(と思う)。実家を離れることで実家のありがたみがわかるように、多分、離れることで深まる愛情もある(と思う)。距離が近づき過ぎると、自分でも気がつかない内に愛情が執着に変わることがある。立ち向かうことが勇気ならば、逃げ出すこと【一時的に距離を置くこと】も勇気になる(と思う)。

 


日曜日の夜にはタイのバンコクに向かう。バンコクから数日間、20代の日本人女性K様が【鉄砲玉48の研修生として】遠征に同行をすることになった。K様は現在、精神的な理由で仕事をおやすみしている。数週間前、日本で実際にお会いした際に「あれ、精神的とか言う割には全然元気ですね!」ということを思い、多分これは単純に環境の問題だと感じたのでよかったら一緒に海外に行きませんかと無茶振りをしてみたところ、K様は「それはおおありですね!」という素晴らしい反射神経を示し、結果的にバンコクで待ち合わせをすることになった。バンコク以降の予定はほぼほぼ皆無になるので、タイやマレーシア界隈でお時間のある方はどなたでもお気軽にご連絡ください。

 

【今後の予定】ごちゃまぜの家族に乾杯!@東南アジア【ホーチミン&シンガポール&バンコク&クアラルンプール&ハノイ編】

 

真の意味で「生きる」とは何か。

K様の反射神経は素晴らしいと思う。わたしは「金はないけど時間はある(そして反射神経もある)」人が好きだ。4月頭に名古屋で拉致した20代女性のH様が、最近、最高のブログ記事を更新していた。一目見た時から「おお、このひとは健やかな外見に関わらず底知れない何かを持っているに違いない!」と見抜いた自分の感知能力を褒めてやりたい。彼女のブログ記事を読みながら、端的に、嬉しさを感じた。「このひとは最高だな」と思える出会いの中には、いままでの人生をまるごと肯定してくれるような力がある。


ラプンツェル仁美の懺悔室♡クズでごめんなさい - *

 

現在、日本を徒歩で一周中の男性Y様からも連絡が届いた。連日の移動で気持ちが疲れていた時に、この「いばや通信」を読んで気合がはいったのだと言う。Y様のブログ記事を読んだら、知的な文才が素敵で「最高だな」と思った(数日間風呂にはいっていない状態で銭湯にはいった瞬間のエクスタシーにはたまらないものがある、など)。いまこの瞬間も、Y様は日本のどこかで歩みを進めているのだろうなと思うと、それだけで元気になる。Y様のブログ記事の中で、とりわけ「徒歩で日本一周をはじめようと思った理由」にまつわる記載が素晴らしかったので、下記に勝手に引用をさせていただきます。

 

徒歩で日本一周に行く理由を考えてみたら、それはたぶん「自分が、自分のことを肯定させるために、旅に出る」んだと思います。どんなに美しい言葉も、真っ当な言葉も、正論も、自分のことを肯定できていない状態では、表面的な意味をなぞるだけで、ほんとうの意味で腑に落ち無いと思うんです。

 

ありのままでいいとか、そのままでいいとか、言っていることは正しいんだろうけど、実際にそう思える瞬間もあったけれど、でも、そう思えるのはその瞬間に自分が自分を肯定できているからだと思うんです。そうじゃなければ、そんな言葉は薄っぺらで、琴線には1ミリも触れない。

 

ありのままとかそのままでサイコー!とか、それを言葉通り素直に受け取るため、つまり自分を肯定するために、僕は僕自身にあえて言いたかった。

 

「お前は、今のままじゃダメだ」

「お前は、お前自身を肯定させる義務がある」

「ありのまま、そのままなんてクソ食らえ。お前は変わるべきだ。変わらなければいけない。お前自身を肯定させるために」

こう思ったら、もう、自分をごまかすことは出来なかった。 

 

K様の瞬発力、H様の愚かさ、Y様の覚悟の中に、わたしは「ある種のほとばしる生命力」を見る。理由はない。意味もない。価値もない。ただ、これをしないではいられないという非合理的で謎に衝動的な営みを目にした時、わたしは猛烈に嬉しくなる。いまの自分は、ほんとうの意味で生きているのだろうか。誰かに定められたレールの上を歩きそうになっている時ほど、わたしは、そのように感じることが(10代の頃から)頻繁にあった。自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたいと思う。それが「ほんとうの意味で生きる」ということだと思っていた。ほんとうの意味で生きるということのなんたるかを、わたしはまだ知らない。ただ、その片鱗を彼らの生き様に感じることができるから、こんなにも嬉しくなるのだと思う【H様もY様も、所持金が10万を切っているにも関わらず「ごちゃまぜの家」に1万円の支援をしてくれた。ああ、このひと達は最高だなと心底思った】。

 

【徒歩日本一周】家を捨てる【前日譚】 | まだブログタイトルがありません。~柳 俊 公式ブログ~

 

好きなものには「好きだ」と言う。

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先日、トークイベントに登壇(?)をした際に「わたしは自分に自信がない。どうすれば坂爪さんのように自信をもてますか」と問われた。こういう質問を受けることは多く、わたしは、なんて答えたらいいのかがわからなくなる(自信という言葉に、あまり囚われてはいけないのだと思う)。自信とか思想とか価値観などと呼ばれるものは、乱暴にまとめると「食べ物の好き嫌いと同じ」だと思う。わたしは寿司が好きだ。たとえ誰かが「俺は寿司は嫌いだ」と言ったとしても、わたしが寿司を愛する現実は微塵も揺らがない。かと言って、寿司を嫌いなひとを否定したいとも思わないし、寿司が嫌いなひとは寿司が嫌いなままでまったく問題はないのだと思う。逆に言えば、わたしは「寿司が好きだ」という思いに自信がある。誰がなんと言おうとも、おれは寿司がすきだ。きっと、自信なんてものはこれと同じことなのだと思う。

 

自信がないひとはいない。ただ、得体の知れない「ひととの比較」に惑わされているだけだと思う。わたしは寿司が好きだ。以上。それだけの話だ。ただ、寿司が嫌いなひとから「寿司が好きだなんておかしい!お前も寿司を嫌いになれ!」なんて言われ日には、それはお断りだと思う。自分に自信があるということは、単純に「自分が感じていることに正直である」だけの話だと思う。誰がなんと言おうが、自分が「これはうまい!」と思ったものはうまいのであり、自分が「これはまずい!」と思ったものはまずい。自分が「いいな」と思ったものは確実にいいし、自分が「これは嫌だな」と思ったものは、たとえ周囲がどれだけをそれを愛していたとしても「俺は別にいいや」ということになる。ただ、自分のこころがいいなと思うものではなく「周囲のひとびとにとって良いとされているもの」を追いはじめてしまったあたりから、いろいろなものが濁り、最終的にわけがわからないことになるのだと思う。

 

自分は、自分以上でもなければ自分以下でもない。自信なんてものは「食べ物の好き嫌い」と同じだと思う。寿司が好きなら寿司が好きで超絶OK。誰になんと言われても、自分は寿司が好きだという気持ちに変わりはない。誰かに「お前も寿司を好きになれ!」なんて自分は強要をしたいとは思わないし、たとえひとりきりでも寿司を食っている時間は幸せになれる(好きなひとと寿司を食えたら最高だ)。もしも、仮に自分が「自信があるように見えている」のだとしたら、多分、好きなものに対して真っ直ぐに好きだと言っているからなのだと思う。自信とは、自分が好きになるもので構成をされている(と、ここまで書きながら感じた)。自分が「おれはこれが好きだ!」と感じる真っ直ぐな気持ちがあるのならば、その感覚に殉じること。その姿を見て、周囲のひとたちは勝手に「あのひとは自信がある(とか自信がないとか)」などと言うけれど、自信なんてものは別に何も気にする必要はないのだと思う【そんなことよりも「楽しめ!」と思う】。

 

【過去記事】仕事なんてしている場合じゃない、遊べ! - いばや通信

 

少女ファイト 13巻』 

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外にいるためにご紹介だけになってしまうのですが、坂爪圭吾の愛する日本橋ヨヲコ先生著作『少女ファイト 13巻』です。中学&高校時代は日本橋ヨヲコさんの漫画ばかりを読み漁っていて(極東学園天国や、G戦場ヘブンズドアは最高です!)、比較的暗めの日々を過ごしていたけいご坊やは「生きていれば日本橋ヨヲコさんの最新刊を読むことができる…!!」と自分のケツを叩き続け、間違って自殺をしてしまわないように気をつけていました(大袈裟!)。こちらをご覧のみなさまにも、是非、日本橋ヨヲコさん【坂爪圭吾の命の恩人!】の漫画をお読みいただけましたら最高です。奇跡的に日本橋ヨヲコ先生が見ていたら届け・・・あなたのことが、大好きです!!ありがとうございます!!(咆哮!!)

 

他人の評価で自信を作ると

 

それが消えた時

 

どうしようもなく揺らぐ

 

だから楽しめ

 

自分を信用するために

 

日本橋ヨヲコ少女ファイト 13巻』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

だから楽しめ。自分を信用するために。

時代的な流れなのだろうか、執着という言葉を頻繁に耳にする。極論、執着を捨て去るということは「自分の命に対する執着を捨てる」ことだとわたしは思う。自分を守るから弱くなり、自分を生かそうと思うから弱くなる。自分なんてどうなってもいいから、おれはこれのために命を使いたいのだと思えた時、逆説的だけれど、命は充実を見る。金も命も花も時間も、必死に搔き集めるためではなく「適切に使われた瞬間」に本領を発揮するものだと思う。大袈裟な言葉で言えば、自分を守るためではなく「自分を壊すため」に、自分を生かそうとするためではなく「自分を殺すため」に命が使われた時、同時に、膨れ上がるよろこびを覚えるように人間のボディ&ソウルはできているのだと思う(ことがある)。

 

 

固まりそうになった自分を壊す。誰よりも先に自分が自分に飽きる。そして、なにかしらのクラッシュを試みてみたり、新しい要素を付け加えて行く。それが「生きる」ということであり、いまいる場所がどれだけ素晴らしい場所だとしても、本能的に「いつまでもそこにいることはできない」ということを敏感に察知している生き物が、生の人間なのではないだろうか。生きているということは、多分、流れている【変化をする】ということだ。流れることを拒む時、変化をすることを拒む時、生まれるものが「恐れ」であり、生まれるものが「不安」なのだとわたしは思う。逆に言えば、新しい自分と出会う瞬間、自分の中に「こんな自分もあったのか!」といままで見たこともない自分を発見する瞬間の中に、生きていることの醍醐味はある(と思う。少なくともわたしはそう思う)。

 

 

日本橋ヨヲコ先生は漫画の中で「他人の評価で自信を作るとそれが消えた時にどうしようもなく揺らぐ。だから楽しめ。自分を信用するために。君達は好きなものを誰のせいにもするな。正しく狂え。それにはあの大石練(おおいしねり)・・・人を狂わせる触媒として最高の人材だねっ☆」と描いている。漫画を読んでいないひとにはなんのこっちゃと思われるかもしれないけれど、わたしは「最高の言葉だな」と思う。自分のこころが「この瞬間は最高だった」と思えたあの時の感触、こころの底から楽しむことができた瞬間の感覚は、自分を裏切ることはない。楽しかった記憶、何かを愛し、何かに愛された瞬間の記憶は、いつまでも自分の中で生き続ける。ひとつひとつの具体的なシーンを、いつまでも鮮明に胸の中に残しておくことはできない。すべては流れていく。現在はこの瞬間も過去になり、どれだけ幸せだと思えた時間も、遠い記憶の中に消えていく。すべては移ろい流れて行く中で、ただ、振り返って見た時に静かにわきあがる「ああ、幸せな人生だったなあ」と思える穏やかな余韻、ひとつひとつの具体的なシーンとしてではなく、全体としての「幸せだと思えた幸福の余韻」が、消えることのない芳香を放ち続けるのだと思う。

 

 

 

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花には水を。概念はあとから。

 

人生は続く。

 

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photographerd by 秋月家

執着を捨てると、ジュテームが残る。

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わたしの信条のひとつに「1日1F」というものがあり、ここで言うFとは『FEAR(恐怖)』を指す。1日1回は自分のコンフォートゾーンを超えて積極的に自分のこころをざわつかせていきたい(自分が恐れていることをやりたい)と思っているのだけれど、ざわついたらざわついたなりにそれなりのダメージをくらい続ける日々を過ごしている。数日前、女性K様から「わたしは坂爪さんのことが好きで、でも、それは恋愛的な『わたしのものだけになって!』的な好きではなく、坂爪さんと会えたひとは幸せになると思うからどんどんいろんな女性に会って欲しいなって思うし、極論、誰と寝てもいいって思っているんです」的な言葉をいただき、わたしは非常にざわついた。非常にざわついた旨を直接お伝えすると、K様も「わたしも、まさかこんな心境に自分がなるとは思わなかったので感動をしています」と話してくれた。このあたりのことは、まだ、うまく言葉にできないために時間を置いてから(機会があったら!)まとめます。

 

 

わたしの友達M様(女性)には、現在、自分の家がない。いま、M様は友人カップル【どちらも20代】の家に居候をしている。居候をしながら、M様は友人カップルの男性と意気投合をしてなんだかいい感じになった。その後、非常に驚いたことに、いまでは友人カップルの女性側も公認で「三人で付き合っている(?)」という稀有な状態が生まれている。わたしは、この話を聞いた時に「拡張している…(友人カップルの女性側は偉大だな!)」と思った。恋愛も結婚も職業も家族も住居も、これまでは「ひとり【ひとつ】に集中するもの」というスタイルが王道だったけれど、それによって生まれる『窮屈さ』に押し潰されそうになっているひとは大量にいる。わたしはこれからごちゃまぜの家なるものをやろうとしているけれど、ごちゃまぜ(ある種のカオス)という言葉の響きの中に、何かしら『未来の在り方【可能性】』なるものを勝手に感じている。

 

【過去記事】家族は音楽になる。プレイリストを作るように家族を作ろう! - いばや通信

 

南国の島では「こどもを共有」する。 

ニュージーランドの北にあるフィジーという南の島は、過去に世界幸福度調査で一位になったことがある。フィジーの国民性は「とにかくテキトー」で、北欧のように社会福祉が充実している訳でもなければ、ブータンのように国策として幸せを追求する訳でもない。とにもかくにもなんでもかんでも共有をするために、モノやお金に困ることはない(と聞いた)。共有をするものはモノやお金に限らず、自分のこどもでさえも「(こどもができなくて困っている夫婦から)こどもをください」と頼まれた時など、即決であげちゃうということもあるのだと聞いた。日本の常識に照らし合わせて考えると「なんだか非常にざわついてしまう」ようなことを、海の向こう側では日常的にやっているひとたちがいる。そのような現実に触れた時、ああ、人間の可能性ってすごいんだな(なんでもありなんだな)ということを思う。

 

ただそこに揺るぎなく在ること。

前回の記事で「父親の不在と女の沼」にまつわる内容を書いた。それを読んでくれた方から、昨日、一通のメールが届いた。その内容があまりにも素晴らしいと思われたために、長くなりますが引用をさせていただきます。わたしは、なんだか重苦しい表現になるけれど「現代社会は父親が不在である」と感じることがある。肩書き的な意味での父親は各家庭にひとりはいるのだろうけど、真の意味で『父親役を務めている』ひとは、もしかしたら極端に少ないのかもしれないと思うことは多い。そして、父親の役割を父親以外の母親やこどもたちが必死で埋め合わせようとはしてみるものの、どこかしらに無理が生じて「結果的に集合体全体が磨耗をしてしまう」ことは結構多いんじゃないのかなと思うことは多い。

 

坂爪さん、こんにちは!

 

更新されていたブログを読んで沢山思うことがあったので、長くなってしまうかも知れませんが、書かせて頂きたいなぁと思い、メールを送らせて頂きます。

 

今月の12日(金)、岡山市でお話をさせて頂いた、◯◯◯◯です。

 

坂爪さんとお会いした日、沢山泣いて、凄く安心した後に、「今の自分の中で、坂爪さんってどういう人なんだろう?」ということを考えていました。

 

沢山言葉は出てくるのですが、「サッと吹いてサッと去っていく、けど強烈な問いの竜巻みたいな人」、そして「お父さんみたいな人」という言葉が、一番しっくりくるなぁと思いました。

 

私は自分の育った家庭に、ずっと「お父さんが居ない」と思ってきました。
肩書き的なお父さんは居るけれど、いわゆる大黒柱と呼ばれるお父さんは、居ない。
だから、母や兄弟、私が頑張って、柱抜きのこの家を支えなければならない。
父も、自分に果たせない役割を背負って毎日家に居て苦しかったと思うので、父を責めるつもりは微塵もないのですが、私も家に居るのがとっても苦しかったです。

 

今は、兄弟も私も家を出て、両親は数年前から別居をしていて、今、実家で暮らしているのは母だけで、実家に帰っても、父と暮らしていた頃の重苦しさやプレッシャーは無くなって、ある意味ラクにはなりました。

 

でもその代わり、「父親が居なかった、父親が居ない」という寂しさだけは、私の中に強く残っていました。

 

そういう寂しさを抱えていたから、きっと坂爪さんにお会いしたとき、話したくない言葉以外、きっと話されていない、口にしたい言葉、必要な言葉(だと私は感じました)だけをキチンと、ストレートに言葉にしてくれる、ただそこに揺るぎなく在ってくれる、そんな坂爪さんに対する『柱(お父さん)』のような感覚に、心底安心したのだと思います。

 

◯◯さん(その時一緒にお茶をしていた女性)は、泣いている子ども(私)をあやしているお母さんみたいで、「ああ、私は本当に子どもだったし、今本当にMAXで子ども(赤子)なんだなぁ」ということを、坂爪さんと◯◯さんとお茶をしているときは思って、あの場所にただ居ました。

 

心境を言葉にすると

「沢山、沢山、苦しかったけれど、私にお父さんは居るよ、お母さんも居るよ、ちゃんと全部在るよ、大丈夫だよ」

という言葉になるのではないかと思います。

凄く凄く救われました、ありがとうございます。


あと、吉備団子、喜んでもらえたみたいで嬉しいです。


「もしよろしければ津山の支援者の方に」とお話をさせて頂いたとき、「押し付けがましいかなぁ」「迷惑かなぁ」と思っていのですが、お子さんにとても気に入ってもらえたとのことで、本当に嬉しいです。

 

苦しい思いをしながら育った場所が私にとっての津山だったので、私は、津山が嫌いでした。
でも、きっと多分、ずっと許したかった場所でもあったのだと思います。


ブログに引用されていた津山市の支援者の方からのメールを読んで、何だか津山に恩返しができたような気持ちになって、許せた気がして、そして『幸せの置き土産』という支援者の方の言葉に許された気持ちになって、また涙が出てきました。嗚呼、私にも繋ぐことの出来る幸せがあったのか、って思って、安心しました。

 

渡して頂けて、そして津山の方に受け取って頂けて、喜んで頂けて、本当に嬉しいです。ありがとうございます。

 

坂爪さんにお会いしてから、道端に咲いている花や、建っているビルや、道行く人々や、空、今私の周りにあるものをただ眺めているだけで、じんわり嬉しくなって、何故だか泣けてくる日々を過ごしています。


とっても幸せです。


私は、もっと人を、そして自分を大切にしても良いのだ、大丈夫なんだと思えています。

 

頂いたお花も、『◯◯は黄色がよく似合うね、可愛い!』と、黄色の髪留めを使って髪を結ってくれたときの母の言葉と、そのときの嬉しい気持ち、お気に入りだった黄色の髪留めを思い出しながら、毎日愛しくお世話させて頂いています。

 

何度も言いますが、ありがとうございます。

 

菊名のお家も、こうして幸せが繋がっていく、凝り固まっていたものが、どんどん溶けて、溶け合って、まざりあって、新しい色が生まれていく、そんなお家になれば、訪れる人の幸福がどんどん増えるお家になればと、心よりお祈りしています。頑張って下さい!

 

(もしご迷惑でなければ、私で何か出来ることがあれば、お手伝いさせて下さい)

 

とりとめのない長文になってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

坂爪さんに幸福あれ。

 

今日がステキな一日となりますように。

 

いま、改めて読み直して「素晴らしい文章だな!」と感動をした。大黒柱という言葉に、わたしは「ああ、必要なものはこれなのかもしれない」と思った。これまで、家庭の大黒柱になるということは「家の外で必要なお金を稼いで家庭を支えること」を意味していたのだと思う。要するに『経済的な大黒柱』になることを指すのだと思うのだけれど、多分、これから必要になるものは『精神的な大黒柱』なのだと思う。これは、特別な男性が特別的に担うものではなく、ひとりひとりが、ひとりひとりの中に「精神的な大黒柱を築くこと」が大切であるということだと思う。うまく言葉にすることができないけれど、そのためのヒントが「ただそこに揺るぎなく在ること」という言葉に凝縮をされているような気がする。

 

 【過去記事】生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。 - いばや通信

 

『世界でいちばん非常識な幸福論』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、永崎裕麻著作『世界でいちばん非常識な幸福論』です。こちらの本は、昨夜代々木上原でお蕎麦をご一緒させていただいた方から譲り受けた一冊になるのですが、フィジーの話を聞いていたら「フィジーツアーなるものを企画したら、自分ひとり分の渡航費くらいはどうにかなるものなのかなあ」などとふざけたことを考えはじめるようになってしまいました。フィジーに行きたい!!(坂爪圭吾は、6月以降の予定はほぼほぼFREE!です!)。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

ある時、私もフィジー人と出会い、彼らが「世界でもっとも幸せを感じている民族」であることを知りました。そして共に暮らすことで、日本人の私たちからすればあまりにも非常識だけれど、着実に幸せを引き寄せる習慣をフィジー人は持っていることも知りました。

 

1・モノもお金も子どもでさえも「共有」すること

2・「テキトー」に生き「テキトー」を許すこと

3・過去と未来のために生きることをやめて「現在に集中」すること

4・他者との「つながり」に価値を置くこと

 

フィジー人に教えてもらった「幸福の習慣」を彼らに代わってお伝えをしたいと思い、書いたのがこの本です。フィジー人の幸福の習慣は一見すると、非常識なものばかりです。たとえば、財布から勝手にお金を抜かれることがあります。しかし、借金したお金さえ物乞いに渡してしまう親切な一面もあります。多くのお店の店員がマニュアルを守らずテキトーです。その代わり、お客さんもテキトーなのでモンスタークレーマーも存在しません。過去と未来をあまりにも気にしないので同じ失敗ばかり繰り返します。けれども、そのおかげで小さなことにクヨクヨすることがありません。

 

永崎裕麻『世界でいちばん非常識な幸福論』【いろは出版

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

執着を捨てると、ジュテームが残る。 

誤解を恐れずに言うと、愛と呼ばれているものは「自分を使ってそのひとを幸せを願うもの」ならば、執着とは「そのひとを使って自分の幸せを願うもの【要するに自己愛】」なんじゃないのかな、歌謡曲とかメロドラマで語られる愛の9割は「ただの執着【要するに自己愛】」なんじゃないのかな、と思うことがある。いや、愛情のすべては自己愛に過ぎないのだと言ってしまえばそれでおしまいになるのだけれど、乱暴にまとめると「ひとに自由を与えるものが愛ならば、結果的になんだかいろいろ面倒くさいことになるものが執着」だと思う。執着や束縛や依存の度合いでお互いの愛情を測るのは、なんだかとっても不健全だ(それで一番つらくなるのは当事者だ)と思う。

 

冒頭で「(女性K様から)誰と寝てもいい」という言葉をいただいた、という旨の出来事を書いた。わたしは、この言葉に触れた瞬間に「ああ、このひとには敵わないな」というある種の敗北感を覚えた。この敗北感には、説明することの難しい『ひれ伏すことの嬉しさ』がある。うまく言葉にすることはできない。ただ、敗北することは悔しいけれど、完敗することは嬉しいのだ。まるで途方もなく大きな愛に触れたような、そういう気持ちになって逆に『K様は偉大すぎてやばい!』みたいな気持ちになって震えた。なぜに自分は震えたのだろうかと考えてみた時に、多分、K様には「一切の執着がない」からなのだと思った。執着がまるでないひとを目の前にした時、自分の中にある「自分でも意識することのなかった執着や固定観念」が浮き彫りになって、ああ、おれは、ああ、おれは、みたいなことになるのだと思う。

 

自分がやりたいと思うこと、自分のこころが「こっちに行きたい」と思う時、それでも『一般的な常識が邪魔をしてなかなかうまく進めない』と感じることは往々にしてある。ただ、自分のこころが「いろいろあるけどこっちでしょ!」と思うのであれば、ひとと同じであることよりも「自分のハートがいいなと思う方向」に、舵取りをしていきたいとわたしは思う。いまはまだ理解者は少ない道だとしても、数十年後の未来には、ね、やっぱりこっちだったでしょ的な感覚で一緒に笑うことができたなら、それは素晴らしいことだなと思う。少しだけ未来を先取りするということ、そして、数十年後の未来に「ね、やっぱりこっちだったでしょ」とみんなで一緒に笑うこと。理想の未来が訪れることを願うのではなく、未来を先取りして「勝手に早速生き始める」日々を過ごして生きたいと思う(これから東南アジア諸国に向かいますので、現地のみなさまはよろしくお願いいたします!!)。

 

 

https://www.instagram.com/p/BUN3rghjsHN/

完敗だよ。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。

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クラウドファンディング支援者の方におはなを届けるために、これから、羽田空港を経由して大館能代空港秋田県北秋田市】に飛ぶ。早朝便に乗るために、昨日は横浜の漫画喫茶に宿泊をした。てっきり「羽田空港と言えば品川駅!」なんて思い込んでいたけれど、横浜から羽田空港までは、電車でもバスでも30分程度と非常に近いことに今更気付いた。ごちゃまぜの家が菊名横浜市港北区】に実現をしたあかつきには、もう、野宿をする必要もなければ漫画喫茶に宿泊をする必要もない。予定通りに行けば、5月29日(月)から菊名の家の活動(?)ははじまる。部屋の掃除をして、軽く空間を整えて、近隣の方々に挨拶回り(これ大事!これすごい大事!)をした後には、家の鍵などもかけることなく「どなたでもお気軽にお越しください」ということになる。

 

 

と、ここまで書いたところで放置をしてしまい、いまは5月16日。現在は東京の大田区にいる。明日5月17日(水)のお昼過ぎから、東京都国立市で開催されるトークイベントに登壇(?)をする。どうしてもイベント開催は夜の時間帯になることが多く、それでは家庭の主婦の方など来れないじゃないか!ということで、主催者の方が「そのような方々もお越しいただきやすいように」と、素晴らしいご配慮をしてくれた。先日、兵庫県宝塚市でお会いした方から「オープンなひとって胸の窓が開いているイメージがあるのですが、坂爪さんは背中にも窓があって、風吹き抜けまくっている感じですね!」みたいなことを言ってもらえて面白かった。そういえば、昔、あるひとから「ちくわみたいなひとですね」なんて言われた記憶がある。ちくわってどうなんだろう・・・とも思ったけれど、悪気はなかったと思うので「ありがとうございます!!!」と笑顔で応えた。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークライブ!!!

 

最高を求めないと、普通がはいってくる。

自分のiPhoneのメモ帳に「見極めろ、そのひとは最高か?その家は最高か?」と書いてある。わたしは極端な人間なので、何をやるかよりも「誰とやるか」を徹底的に重視したいと思っている。家のない生活を終えて熱海の家で暮らすことになったのも、家が欲しかったからではなく「ムラキさんという人物の人柄が最高だったから」という理由になる。このひとでもいいかなという人付き合いではなく、このひとがいい!と自分から前のめりになって愛して行けるひとを中心に付き合っていきたい。そのためには「最高を求めるマインド」が必要であるような気がしていて、そうでなければ「普通【これでいいや】」的なものに生活全般が侵食をされてしまって、結果的に中途半端な人生で終わってしまうような気がしている。先日、ごちゃまぜの家の支援者の方からメールをいただいた。その内容があまりにも的を得ていると思われたので、ご紹介をさせていただきます。

 

坂爪様


こんにちわ!

 

日々いばや通信拝見しております。

 

改めてクラウドファンディング達成、誠におめでとうございます!

 

最終日クラウドファンディングに投資しようか迷ってましたが、充分に達成している中、自分が投資した所でたかがしれてるし、それなら坂爪さんにお金を渡した方が価値的だよなと思っていたら、口座を公開されたので、本当に些細な金額ですが、お振込させて頂きました。

 

ごちゃまぜの家の成功の可否はやはり坂爪さんが関わっているかどうかがキーになってくると思います。

 

坂爪さんが中心にいる事で集まってくる人の純度に影響があるからかなと思います。


ただフリーの家があるだけでは恐らく駄目で、どういう人が集り、利用するかがきっと大切なのだと私は勝手に思っています。


以前ウーバーの話をされてたと思いますが、常々坂爪さんが言っていた自動車の有効活用の理想系に近いサービスだなと思ってました。


色々と問題も出てきてる様ですが、是非ウーバーについての感想記事も期待してます!


シンガポールは建国以来、本当に何も資源が無い中、未来を担保にしてここまで発展してきた都市だと聞いています。


水さえも他国に頼らなければならない状況の中、未来の可能性にBETし続けて今の繁栄があると聞いて、とてもシンガポールには興味があります。
何も無かったからこそ、どんどん新しい事に寛容な空気がある都市と言うのはきっと活気もあるでしょう!

 

チームラボの常設展もあるので、機会があれば是非ご覧になってこちらも感想を期待してます!

 

長文になりましたが、怪我や事故なく帰国される事を心より願っております!

 

良い旅路と良い週末をお過ごしください!

 

テレビ出演や本の出版や各種メディアの取材を断っている理由も、多分、ここにあるのだと思う。現在の自分のレベルでは、不特定多数のひとに広く知られることのメリットよりもデメリットのことが多いような気がしている。もともと宣伝や広告という行為があまり好きではなく、何かしらの経緯で奇跡的にこのブログを発見してくれたひと、何かしらの経緯で奇跡的に坂爪圭吾という人間の存在を知って「このひとは面白いな」と思ってくれたひととだけ、いまは付き合っていきたいと思う。有名になりたいとか金持ちになりたいとか、そういう欲求を自分の中に感じることはない。あるものと言えば「深いコミュニケーションを達成したい」という欲求程度で、そのためには余計なノイズを取り払う必要がある。そして、常に冷静でいる必要がある(ように感じている)。

 

【ごちゃまぜの家@東南アジアスケジュール】ごちゃまぜの家族に乾杯!@東南アジア【ホーチミン&シンガポール&バンコク&クアラルンプール&ハノイ編】

 

父親の不在」と「女の沼」 

数日前の投稿で「最大のタブーとは『家族』である」という旨の記事を書いた。様々なひとの悩み相談的な話に耳を傾けていると、その根本的な原因みたいなものは「生まれ育った環境」にありそうな気がしたから、そのような記事を書いた。誤解を恐れずに言うと、いま、日本社会に欠落しているものは『父親』だと思う(なんて書き方をすると硬くなるけど、でも書く!)。わたしは女性と会うことが多いためにどうしても女性目線の話題になることが多いのだけれど、乱暴にまとめると「父親の代わりを探している」女性は多いのだと思う。父親に愛されたように(愛されなかった部分を埋めてくれるように)、自分のことを愛してくれる男性を求めているとでも言えばいいのだろうか。また、既婚者の女性からも、旦那さんが家庭で父親役をしっかりと務めてくれないために、母親が父親役まで兼任をしていて結果的にひどく疲れている、みたいな印象を受けることも多い。

 

教育関連や子育て関連のイベントなどに呼ばれても、参加者が圧倒的に女性ばかりで「まじか!」と思う。お父さんはいったいどこで何をやっているのだろうかと思う。何か新しいことをはじめる時、みんなで協力しあって何かを試してみようと思う時、女性ばかりが集まってしまうと「(陰湿な)女の沼」みたいなものが生まれる。こんなことを言うと怒られてしまうかもしれないけれど、女性陣の会話を耳にしていると「たしかにみんなおしゃべりを楽しんでいるようにも見えるけれど、どれだけのひとが『ほんとうに話したいこと』を話せているのだろうかと思うと疑問だ」と感じることは多い。男性的な要素、それは「会話全体【活動全体】にビシっ!と一本の芯を通す」ことにあると思うのだけれど、女性だけの集まりでは、なかなか難しいのかもしれない。男性的な役割を女性が背負いすぎると、ひどすぎる言い方になるけれど「ゴリラみたいな女性になってしまう」と感じることもある。

 

人類全体の末っ子として生きてきたのが20代、そして32歳を迎えたいま、わたしは「人類全体の父親」になりたいと思っている(半分は冗談で、半分は本気といった感じです)。母親の役割が「受け入れて許すこと【慈悲深さ】」にあるならば、では、父親の役割は何になるのだろう。最近のわたしは、超絶乱暴にまとめると「ビシッと言うこと!」にあると思っている。時には説教をすることも厭わない覚悟で、その後のフォローは母親にお委ねをして、嫌われたとしても構わないから渾身の愛をもって説教をぶちかますこと。「お前はそんなもんじゃないだろう!」という思いが根底にあれば、多分、何を言っても大丈夫なのだと思う(ような気がする)。また、完全に余談になるけれど「ごちゃまぜの家があれば、今世は結婚は無理だろうと思っていた自分でさえもこどもを育てることができるじゃないか!(みんなに育ててもらえばいいじゃないか!)」ということを思った。結婚相手は皆無だ(結婚をしたいと思っているのかどうかさえ謎だ)けれど、これからの展開が楽しみだなあ、と思う。

 

【参考イベント】坂爪圭吾さんトークライブ「新しい教育方針?〝10歳成人説〟を語ろう」

 

『人はなんで生きるか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、トルストイ著作『人はなんで生きるか』です。こちらの作品に登場をするミハイルという男性は、物語の中でたったの3回しか笑顔を見せることはありません。しかし、その笑顔がたまらなく最高の笑顔で、わたしは「おれの生き方は間違ってはいないよな」などと誰かに訊いてみたくなった時、ミハイルのことを思い出すことで自分のセンターに戻ることができるような感覚になります。トルストイの作品の中でも、とびきり大好きな物語のひとつです。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、サモア諸島にわたりました ※※※

 

ここに収められた五つの短編はトルストイ(1828-1910)晩年の執筆になるもの。作者はこの時期いちじるしく宗教的・道徳的傾向を深めていた。そして苦悩に満ちた実生活を代価としてあがなあったかけがえのない真実が、幾多の民話となって結晶していったのである。これらの作品には、素朴な人間の善意にたいする確かな信頼が息づいている。

 

トルストイ『人はなんで生きるか』【岩波文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。

引き続きクラウドファンディングのお礼の電話をかけ続けている(もしもまだ「あれ、おれには電話来てないよ!」的な方がいらっしゃいましたらご連絡ください!管理能力が圧倒的に足りていなくてごめんなさい!!!)。電話をすると、電話をしているこちらの方が支援者の方々から元気をいただくことがあまりにも多く、電話をするたびに励まされている。批判の言葉を耳にすることはあっても、応援の言葉を耳にする機会は意外と少ない。改めて「ああ、自分はこのような方々から支援をしていただいているのか」と思える感覚の中には、目に見えるひと【耳に聞こえるひと】の存在がある。昨日の夜、こんなメールをもらった。わたしは「ああ、人間が生きているということは素晴らしいことだなあ」と思った。

 

坂爪さん、初めまして!


◯◯◯◯◯在住の◯◯歳の◯◯です。

 

ブログ、1ヶ月前位から読み始めました。

 

過去の記事も遡り、ようやく読み終わりました。
坂爪さんの気づきや想いに毎日ワクワクしながら読みました。

 

昨日は母の日でしたね。

 

三年前までは、母の日には実家の母にカーネーションを送っていましたが、私の再婚をきっかけに「もうこれからはプレゼント類は何もいらないよ」と言われたので、今年こそは手紙を書こうと思いました。


でも…母の日が迫ってきても、手紙を書く気力がありませんでした。


言いたい事はたくさんあるのに、言葉にまとまらないのです。

 

私には3歳下の妹がいるのですが、私だけ虐待されて育ちました。


ケンカしたら、私だけ腕を捕まれ罵声を浴びせられながら母に何時間も往復ビンタされたり外に裸足で出されたり。


父が転勤族で、2、3年おきに転校していたのもあり、私は家にも学校にも身の置き場が無いと感じて育ちました。

 

坂爪さんのように、荒れて過ごすことは無かったのですが、自分の存在意義が全くわからず自傷行為を繰り返していました。


今年で精神科への通院が10年目になりました。

 

最初の結婚がうまくいかず、2人の子供を連れて離婚。
理解のある男性と出会い、再婚して現在にいたります。
家族仲も順調、子育ても楽しい。
それでも、今でも時々鬼のような母を思い出して辛くなる時がありました。

 

でも、坂爪さんのブログと出会い、「私は私!」と胸を張れるようになりたいと心から思いました。


自分のために、母を許したいと思いました。

 

母の日、思い切って母に電話しました。

 

「今日は母の日だね、私を産んでくれてありがとう。
私は子供たちを産んで育てて本当に良かったと思うんだ。
私は手のかかる子供だったね、お母さん子供育てるの大変だった?」

 

母は涙声で、

「お母さんも◯◯たち産んで良かったと思ってるよ。
みんな元気で何よりだよ」
と答えてくれました。

 

白髪で真っ白な頭。
遠くなってしまった耳。
もう、私が長い間怯えてきた鬼のような母ではありませんでした。

 

生まれて初めて、母に「産んでくれてありがとう」と言えました!

 

坂爪さんのおかげです!

 

もう大丈夫です。

 

私は私に生まれてきて良かったなぁと、じわじわ感じてきています。


「ありがとう」という言葉、本当に素敵ですね!
「ありがとう」の想いも、循環していくんでしょうか。

 

ほんの些細な人の優しさにも、たくさん「ありがとう」と伝えていける人になりたいです。

 

「ありがとう」と相手に伝えられるということは、受け取り上手って事ですよね。

 

長々書いてしまい、すみません。

 

坂爪さんに読んでいただけるだけでも、本当に嬉しいです。

 

どうか、元気でお過ごしください。

 

昨日は秋田県北秋田市在住の支援者の方に(日帰りの飛行機で)おはなを届け、この前の12日金曜日には、岡山県津山市在住の支援者の方におはなを届けた。電話をすることが最高ならば、実際にお会いできることは「最高よりももっと最高!」だと思った。岡山県では支援者の方のご自宅(お母様と息子様の二人暮らし)にお邪魔をさせていただき、手料理をご馳走になったり、息子様と相撲をとったりした。手料理があまりにも美味しく、ああ、おれたちは料理ではなく『作り手の気持ち』を食べているのだなと思った。大切なことは「なにをやるか」ではなく「どのような気持ちを込めたか」なのだと思う。帰り際、息子様から「人生で一番楽しかった」と言われた時にはなんだか泣きそうになってしまった。家の空間も周囲の自然も最高で、ああ、ここは「人の中にある優しい部分」が引き出される素晴らしい場所だなと思った。そのことをお母様にお伝えさせていただいたところ、後日、お母様から返信が届いた。

 

坂爪さん


「人の中にある優しい部分」が出てくるようなそんな雰囲気だと言っていただいて、こころから感動しています!

 

わたし、思うんですけど、人はみんな細胞レベルの頃から優しさや強さを繋ぎ、育み、既に備わって生まれてくるような気がするんです。


自我が芽生えるその時までは、赤ちゃんは自分も人も疑うことなく(完全なる信頼のもと)全身全霊で泣き、笑い、怒り、ありとあらゆるありのままの自分を表現します。転ぶことを怖れて歩むことを止めたりはしません。それは既に優しさや強さを持っていて、尚且つ信じきっているからだと思うんです。


生まれてからの環境や成長の過程で優しさや強さを忘れてしまったり、無かったように勘違いしてしまうだけだと思います。


昨日、坂爪さんと共有させていただいた温か~い空間の中で、「色んな人がいるけれど、みんな、最終的な目的(たどり着きたい場所)は自分が持って生まれた優しさに還りたいだけなんじゃないかな~?」なんて思いました。

 

なので、そんなふうに同じ想いが重なったような気がして、とっても嬉しいです✨

 

ありがとうございます💕

 

追伸。お土産にいただいた廣榮堂さんのきびだんご、◯◯さん(息子様のお名前)は初めて口にしたのですが、どうやら美味しすぎたようです。


一つは母を家来にするために分け与えてくださいました。残りは一人で完食されました✨
幸せの置き土産💕ありがとうございました😊

 

自分を信じるということ。それは「自分の中にある美しい部分の存在を信じること」なのだと思う。自分にはなにもないとか、自分は無価値な人間だとか、自分には生きている意味はなにもないだとか、そんなことはある訳がないのだと思う。生きている限り、誰だって不安になることもあればさみしさを覚えることもある。悩みを抱くこともあれば道を間違えることもある。でも、生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。ひとの優しさに触れた時、こころの奥底からじんわりと込み上げてくるうれしさを覚える自分は、確実にいる。世界はもっと信じるに値するものなのだということを、衒うことなく真っ直ぐに思える自分がいる。生きている限り、いいことばかりではないけれど、悪いことばかりでもない。大袈裟な言葉になるけれど、世界全体の、そして人間全体の「捨てたものではない部分」を、しっかりと捉えて生きたいと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BUFldBcjUwW/

あたやけ。。。(熱海の朝焼け)

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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嫌われないためにはどうすればいいかではなく、潔く、嫌われましょう。

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古着屋でポーターのデイパックが定価の70%オフで売られていたので「これなら買える!」と購買をした。移動中の重量を減らすために断捨離を続けている。最高の断捨離は「小さなカバンを買うこと」だと思ったので、ある種強制断捨離的な感覚で荷物の削減を敢行した。PCやiPadは嵩張るから友達にあげた。代わりにiPhone7plusとBluetoothキーボードを携帯する。財布や小銭入れや革製のカードケースも友達にあげて、マネークリップを使う(ポイントカード類は一切持たない。小銭はポケットにそのまま入れる)。タオル類は手拭いで代用をして、シャンプー類は「宿や銭湯にある時に使う」ことにした(基本は湯シャンでOK!)。圧縮袋に3日分の着替えを詰めて、歯ブラシなどの簡単な洗顔道具と一緒に荷物をまとめたら「海外旅行中だろうが総量2キロ以内にまとめることは可能だ」ということが判明してテンションがあがる。

 

 

家のない生活をしていた頃、一般家庭に宿泊をさせていただく機会が頻繁にあった。ひとのプライベート空間を覗き見る機会は(これまでの人生では)あまりないことだったので、幾つかの新鮮な発見があった。そのひとつが「いい感じのひとの家には花や植物が置かれている場合が多く【空間全体に「愛されている」という雰囲気がある】、停滞している感じのひとの家には造花を含めた大量のプラスチック製品が置かれていることが多い【空間全体に「愛情不足感」を覚える】」ということで、それから、わたしは(贖罪の意味も込めて)おはなを配るようになった。こんなことを書くと嫌な感じのやつだなお前はと思われちゃうかもしれないけれど(でも書く!)、スタイリッシュなひとの家はスタイリッシュな部屋づくりがされている場合が多く、肥満傾向にあるひとの家には大量の荷物が置かれている場合が多い。自分自身、過食により1ヶ月で20キロ程度太ったころの室内環境は劣悪極まりなかったことを思い出した。ダイエットを願う場合、運動や食事制限をするよりも「まずは自分の荷物を減らす」方が効果的なのかもしれない(と思うことがある)。 

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

空間には、主催者の人柄がダイレクトに反映する。

シュタイナー教育をベースとした保育園で働き始めた女性が、先日、実際に働き始めたら理想と現実のギャップに唖然としていますみたいな話をしてくれた。シュタイナー教育がどれだけ素晴らしいものであろうとも、それを実際に運営する当事者のこころが自由でなければ、結局、こうしなければいけないという「正しさ【シュタイナー教育というものの絶対性】」にガチガチに縛られてしまって、空間全体はある種の緊張感を帯びる。緊張感のある場所でこどもがのびのびと育つことができるわけはない(萎縮した状態で本領を発揮することはできない)から、結局、当事者たちの「こころの不自由さ」みたいなものをこどもたちは受け継ぐのだと思う。似た感じの不自然さを、わたしは、マクロビだとかオーガニックだとかいうものにも感じる(ことがある)。どれだけ素晴らしいものであろうとも、それを扱っている当事者が「あまり幸せそうには見えない」場合、その営みを自分の生活に取り入れたいとは思わない。

 

わたしは、幸せそうなひとが言うことの意見には150億%耳を傾けるけれど、あまり幸せそうには見えないひとの意見は完全にスルーをする。と、ここまで書きながら「ああ、俺は最悪のクソガキなのかもしれない」と思った。だって、あなたの意見を取り入れたらあなたみたいになっちゃうってことでしょ!ということを思うのだけれど、多分、自分がやっていることに最高の説得力を持たせるためには「まずは、そのひと自身が幸せそうに生きていること【まずは自分を楽しませること】」だと思う。正しさよりも楽しさであり、そのひと自身が誰よりも目の前にあることを楽しんでいれば、それを見たひとも「なんであなたはそんなに楽しそうなのよ!」みたいな感じで、いつの間にか仲間や理解者が増えているものだと思う。逆に言えば、正しさを主張するひとたちには、どこかしら「いまの世の中のあり方を憎んでいる」印象を覚える。お前は間違っている!正解はこっちだ!だからこっちをやれ!みたいな話を、わたしはあまり好きになることはできない。

 

空間には、主催者の人格【人柄】がダイレクトに反映をする。レストランや喫茶店やイベントなどの催事も同じことで、主催者の人格の程度が、空間全体の自由度や雰囲気を決める。今月には「ごちゃまぜの家」の活動がはじまる。ごちゃまぜの家の居心地の良さは、多分、わたしのこころの自由さに比例をするのだと思う。わたしのこころが自由であれば、多分、そこにいるひとたちも同じように快適な雰囲気の中で寛ぐことができるのだと思う。逆に言えば、わたしが細かいことをあれこれ口出しするようになり、これをしなければいけないだとか、これをしてはいけないだとか、規制や規則を設ければ設けるほどに、空間全体が「退屈なもの」に成り下がる(のだと思う)。わたしの最大の役割は、おしゃれな家具を揃えるとかおしゃれな食器を揃えるとか、そういうことではなく「自分の内面を磨くこと【より器の大きな自分になり、よりハピネスな自分になること】」なのだと思う。

 

最高の教育とは、感化された記憶である。

昨日、大阪で開催されたイベントに参加をしてくれた赤ちゃん連れの女性から連絡が届いた(すごい嬉しかった!)。稀に、子育て中のおかあさんから「どうすれば坂爪さんみたいなこどもになりますか?」と問われることがある。非常にありがたいとは思うのだけれど、でも、そんなことは考えなくてもいいと思う。また、本当は(不登校だとかニートだとか引き篭もり中だとかの)こどもを連れてきたかったのですがイヤがるので今度は息子【娘】に会ってくださいと話すお母さんと出会うこともある。でも、そんなことはやめておけ【自分に集中しろ】と思う。教育関係者の方からも「こどもたちにとって、理想の教育とはどのようなものだと思いますか?」と問われることも多い。でも、正直に言えば「学びたければ勝手に学ぶものだと思うから、教えるとか、学ぶとか、そんなことはどうでもいいんじゃないのかな【まずは自分が幸せそうに生きている背中を見せること】」だと思う。極論、あらゆることに対して「ひとのことはどうでもいいから、まずは自分を救え!【背中で語れ!】」ということを思う。

 

お疲れ様でした!


お花ありがとうございます🌼


トークショーの坂爪さんが新鮮でした。
途中なんだかエネルギー吸われているみたいでしんどそうで胸が痛みました(笑)


なんだか今日ふと思ったんですが、孤独とかの話になった時に『でもわたしには坂爪さんがいるから大丈夫』って思ったんですよね。
坂爪さんっていうフリーな存在がいることによって、わたしの『ひとりぼっち感』が無くなるというか。
まぁ、なんかあったら坂爪さんのとこ行けば大丈夫か。みたいな。


坂爪さんの存在自体がごちゃまぜの家だなと思いました!
うまく言えませんが!

 

〇〇(赤ちゃんの名前)は今日も、いつも通りずっと皆さんに遊んでもらって(笑)、たくちゃんなんてずっと◯◯に構ってくれて。
坂爪さんの居るところが、『ごちゃまぜの家』になるんですよ。
だから子育てに疲れてるママさんは、積極的に坂爪さんのイベントに来て参加者の人に子どもを丸投げしたらいいねん。と思いました。笑

 

また関西にいらした際には是非遊びましょう!

 

最高の教育とは「感化された記憶」だと思う。自分自身のこれまでを振り返った時、わたしを最高に育ててくれたものは「こうなりたい!」と思わせてくれた人々の存在だと思う。わたしという人間は「わたしを感化してくれたもの【自分自身の感動】」によって構成されている。過去の偉人でも世界的な文豪でも歌手でも陶芸家でもお笑い芸人でもスーパーのレジのおばちゃんでもいい、様々なひとと触れ合うなかで「ああ、このひとのこういうところはいいな」と思えたものの結晶体、それがある種の羅針盤になって「こういう人間になりたい!」と思わせてくれる道を示す。わたしは、ただ、羅針盤が示すその道を歩いていきたいと思う。間違っても「本当はそんなことをまったくしたいとは思っていないけれど、そうしなければいけないから」みたいな謎の被害者意識を抱えて生きるような真似だけはしたくない。自分が歩きたいと思う道を、たとえダメになることがあるとしても(要するに「死」!キャー!)、自分のままでどこまで行けるのかを試す的な感覚で進みたいと思う。 

 

【過去記事】誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。 - いばや通信

 

『芸術実行犯』

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、チムポム著作『芸術実行犯』です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、香川県にわたりました ※※※

 

美術館で拝むだけがアートではない。アートは社会のリアルに切り込むために「武器」である。原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ」の文字を描き、事故直後の福島第一原発敷地内に放射能マークの国旗を掲げ、岡本太郎の巨大壁画に原発の絵を付け足す。現代日本のアートシーンで最も物議をかもしてきたアーティスト集団チムポムが自由を新たに塗りかえる。世界のアートの動向と共におくる生き方としての美術入門。「これからのアイデア」をコンパクトに提供するブックシリーズ第3弾。

 

チムポム『芸術実行犯』【朝日出版社】 

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

人間関係とは、どすこい相撲である。

人間関係とは、多分、どすこい相撲のようなものだと思う。場合によっては「傷つくことも厭わない」両者のカラダを張った営みであり、ハートが傷つく瞬間はなかなかしんどいものがあるけれど、衝突を乗り超えた先の世界には(古い関係性が死んで新しい結びつきが開かれた的な)言葉にならない醍醐味がある。最近、悩み相談という類には「傷つかないためにはどうすればいいか?」とか「嫌われないためにはどうすればいいか?」などというものが多いということを発見した。しかし、わたしの信条は「傷つく前に傷つくな」であり、傷つくことを恐れるあまりに自分の言いたいことを言わないでいるとか、何かしらの我慢をしながら常に相手の顔色を伺い続けるということは、その行為によって「すでに自分を傷つけてしまっている【自分の精神を磨耗しまくっている】」のだと思う。 

 

 

嫌われないためにはどうすればいいかではなく、潔く、嫌われてしまいましょう。傷つかないためにどうすればいいかではなく、潔く、傷ついてしまいましょう。死なないためにどうすればいいかではなく、潔く、古い自分を一回殺して【ダサい自分を一回殺して】新しい自分になって生まれ変わってしまいましょう。悩み相談などを聞いていると、そういうことを思う。嫌われたのなら、嫌われてしまったでいいじゃないか。傷ついたのなら、傷ついてしまったでいいじゃないか。死んだなら、死んでしまったでいいじゃないか。それが「生きる」ということじゃないか。我慢を重ねて生きるより、自分を殺して生きるより、少なくとも「自分はこういう人間だ」と真っ直ぐに表明した瞬間の清々しさ、潔さ、明朗な態度を通じて、自分に対する信用を何度でも取り戻していけたらそれでいいじゃないか、と、わたしは思う(ことがある)。

 

 

昨日もちょっとしたことで大阪で揉めた。その直後、兵庫県宝塚市でもちょっとしたことで揉めた。満月だったからなのだろうか、「今日は揉めるなあ!」と思いながら眠りについた。あまりにも揉めた1日の終わりには「おれの生き方は間違ってはいないだろうか」などと思ってしまうこともあるけれど、そんな時に生きてくるもの【自分を根底から支えるもののひとつ】が「感化された記憶」なのだと思う。わたしは、自分のこころに嘘をつきたくない。しかし、自分を真っ直ぐに表明することで何かしらダメージを負うことも(頻繁に)ある。そんな時【自分が自分の生き方を疑ってしまいそうになった時】、自分を中心に戻してくれるもの、それは「こうなりたいと思える人間の存在」なのだとわたしは思う。先日お会いした女性から、ひどく印象的なお言葉をいただいた。嫌われないためにはどうすればいいかではなく、潔く、我先に嫌われてしまうことは悪いことではないと思う。嫌われた先に、傷ついた先に、古い自分を一回殺した先に、新しい世界が開くことだってあるのだから…(とは思います!!)。

 

 

坂爪さん、こんにちは。

 

先日は、お時間を、作っていただき、ありがとうございました。

にもかかわらず、
坂爪さんの気分を、害してしまい、ごめんなさい。【筆者註・別に気分は害していませんのでご安心ください!】


坂爪さんに会わなきゃと思ったのは、私の直感です。

 

正直、私には特に誰かのハナシを、聞きに行きたいとか、有名だからあわなきゃとか、そんなことが過去にないので、何故坂爪さんにあわなきゃいけないと感じたかは、あのあとにわかりました。

 

あのあとから身体的にも、精神的にも強烈な毒出しが起こり、悲しみやら、偽りの自分、過去の自分のままの私と向き合う時間になりました。

最近感じていたことをまじまじとみせつけられました。

結局、本当の自分をだせず、いつも偽りの自分でいたことで、もう死んでるような何もそこにはないエネルギーで死んでいるようにイキテいたんだなと。


お花を見るたびに、死んでこいと言われているような感覚になります。

もうこんな自分はいやだ、と心底感じ、
また再びいきてみたい、と今感じています。

坂爪さんの、愛って、腐った人間を殺す、強烈なものなんだなと感じています。


だから、私は坂爪さんにあわなきゃと思ったんだなと。


その意味がよくわかりました。

あの時に、出会ってくださり、ありがとうございました。


感謝しています。

 

https://www.instagram.com/p/BT6AccZjmID/

嵐山。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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花を愛するように、ひとを愛したい。

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5月18日から27日までの10日間、クラウドファンディングの御礼参りも兼ねて東南アジア諸国ホーチミンシンガポールバンコク&クアラルンプール&ハノイ】を周遊することになりました。航空券以外は宿も何も決まっていないので、現地でお時間のある方は、どなたでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです。日本国内に限らず、海外でも「(誰でも無料で利用&宿泊をすることのできる)ごちゃまぜの家」があれば生きる自由度も高まるのかな、海外でそんな場所を見つけることってできるのかな、日本でちょっと疲れたひとにとっての避難場所にもなればいいな、無理かもしれないけれどやってみないとわからないよな、奇跡的なことが起きたらいいなあ、単純に「東南アジアのうまい飯を食べることができるだけでも行く価値はあるな!」などという思いと一緒に向かいます【真の意味でヒマです!!】。

 

 

最近は「真のコミュニケーションとは何か」ということを(暇な時に)考えています。わたしは、昔から「ひとと話をしたい」という思いを抱えて生きていました。しかし、ひとと話していても「ひとと話している」とは思えない瞬間が、とりわけ10代の頃は頻繁にありました。何かこう、世間的・一般的・表面的なやり取りを交わしているだけに過ぎず、そのひと自身に触れることができない(ひとと話をしてはいるのだけれど、ほんとうに話したいと思っていることは何も話せていない)という感覚は、わたしにさみしさ【ひととひととの分離感】を与えました。多分、その頃からなのだと思います。自分の気持ちを(話し言葉ではなく)文章として書き綴るようになり、少なくとも「自分自身だけは自分のよき話し相手でありたい」ということを思うようになりました。自分の気持ちを伝えることが得意だからではなく、自分の気持ちを伝えることが苦手だったから(ひととうまくコミュニケーションをとることができなかったから)文章を書くようになったということが、多分、わたしの正直な動機になるのだと思います。

 

【イベント詳細】ごちゃまぜの家族に乾杯!@東南アジア【ホーチミン&シンガポール&バンコク&クアラルンプール&ハノイ編】

 

真のコミュニケーションとは何か。

クラウドファンディングの御礼の電話をかけ続けている。相手の方から「こんなに電話をしていたら大変じゃないですか」という気遣いのお言葉をいただく。結論から言うと、なにひとつ大変なことはない(毎回、想像を超えて楽しくてうれしくて素晴らしいです!!)。多分、200件を超える電話を「ある種のタスク的な業務【やらなければいけないこと】」としてやっていたとしたら、わたしは即座につらくなっていたと思う。しかし、わたしは同じ電話を200回重ねているのではなく「ひとりひとりとの会話を200回重ねている」のだと思えば、ひとつひとつにオリジナルな張り合いが生まれる。決してコピー&ペーストのようなやり取りではない、話し相手によって出てくる自分自身の変化を楽しみながら、その時、その瞬間に感じた思いを丁寧に言葉にしながら伝えるための営みは、大袈裟な言葉で言えば「最高のコミュニケーションの機会【自分を知り、相手を知り、人間を知る最高の機会】」になる。

 

真のコミュニケーションとは、誤解を恐れずに言えば「セックスみたいなものだ」と思う。肉体を重ね合わせることだけをセックスと呼ぶのではなく、言葉のセックスもあれば音楽のセックスもあるし、別々のひとが同じものを見るというセックスもあれば、なにもしない【なにもしないということを共有する】というセックスもある。ここで言うセックスとは、多分「ひとつになること」の総称であり、それは「別々の人間が同じ気持ちになること」と言い換えることもできる。わたしたちはそれぞれ個別の肉体を持って生まれてきて、相手がどのようなことを感じているのかを想像することはできてもリアルを知ることはできない。それでも、この瞬間だけは「同じ気持ちになることができているのかもれない」と思える瞬間の中には、いま、自分たちは深い部分でコミュニケーションを交わすことができているのだという安らぎ【生きていることのよろこび】がある。

 

稀に、読者の方から「素晴らしいメッセージをありがとうございます!」とお褒めの言葉をいただけることがある。そう言っていただけることは非常にありがたいのだけれど、わたしの中には「メッセージを発しているつもりはない」という思いがある。わたしは、ただ、自分はこのような人間であるとか、このようなことがあってこのようなことを感じたとか、日々の感想【生きた記録】を残しているだけに過ぎない。それではなぜ、わたしはブログ【ひとの目に触れる場所】を選ぶのだろうか。自分の気持ちをまとめるだけならば、日記に書けばいいだけの話じゃないかとも思う。しかし、ブログにはあって日記にはないものがある。それが「自分以外の読み手の存在」であり、わたしは、どうしても伝えたいメッセージがあるから文章を綴る訳ではなく、ただ「ひととコミュニケーションを取りたいと願うから」こうして文章を書き続けている【毎日、呼ばれた場所に移動を続けている】のだと思う。

 

成功も失敗も一緒に笑いたい。

昨日、御礼の電話をさせていただいた方から「わたしも昔からごちゃまぜの家のような存在があればいいなと思っていたので、今回は、ご支援というよりも『一緒に勉強をさせていただきたい。そして、成功も失敗も一緒に笑いたい』という思いから支援をさせていただきました。だから、坂爪さんにはどんどん好きなようにやっていただけたら嬉しいですし、このような機会をつくっていただいてほんとうにありがとうございます」という言葉をいただいた。ああ、なんて素晴らしい言葉を伝えてくださる神様なのだろうかと思ったわたしは、その方に「ちょっと今から電話の録音ボタンを押すので、同じ言葉をもう一回言ってください!毎日それを聞いては元気になりますからーーー!!!」と答えた。成功も失敗も一緒に笑いたい。最高の言葉だと思う。成功しなければいけない、うまくやらなければいけないという強迫的な思いからひとを自由にする、最高の言葉だと思う。

 

自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしない」というものがある。正義感は、他人に押しつけた瞬間に暴力に変わる。わたしは、自分と同じであることを誰かに強制したいとは思わない。ただ、こういう生き方をしている人間がいるのだということを、一緒に笑ってもらえたらうれしいとは思う。わたしのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。褒められるために生きている訳でもなければ、誰かに認められるために生きている訳でもない。成功することだけではなく、失敗することさえも一緒に笑ってくれるひとがいるということは、なんと心強いことだろうか。生きる理由、それは「楽しむため」だ。それだけで充分なのだとわたしは思う。それを「誰かのため」とか「何かのため」とか言いはじめた瞬間から、ゆっくりと濁りはじめていくのだろう。何か新しいことをはじめる時に、多分、もっともらしい理由なんていらないんだ。そんなものは「やりたいと思ったから」だけで充分であり、それだけでいいし、それだけがいいのだと思う。

 

まだ確定をしている訳ではないのだけれど、東京の文京区でもごちゃまぜの家を実現できることになるかもしれない(関係者のみなさま、本当にありがとうございます!!)。自分の期待を裏切って生きたいと思う。一年前の自分は、いまの自分の姿をまったく想像することはできなかった。自分の頭が想像できることなんてほんとうにちっぽけなことで、予測不可能な出来事が頻発すること、まさか「自分の人生がこうなるとは!」と驚かされるような出来事に遭遇できるということは、生きていることの最高の醍醐味になる。こうなればいいなと思う自分の期待を、はるかに上回る人生を生きていきたいと思う。ごちゃまぜの家に関してもまったく同じで、自分のこころが「こうなればいいな」と思う理想をはるかに上回る形で、予測不可能な「最高よりももっと最高!」な未来になれば素晴らしいなと、わたしは思う。

 

【過去記事】人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。 - いばや通信

 

 『SUPERな写真家』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、シンガポール生まれの写真家・レスリーキー著作『SUPERな写真家』です。こちらの本は、わたしの愛するMAYUCHAPAWONICAさんから譲り受けた一冊になるのですが(まだ最後まで読めていません!)、読み進めるたびに「このひとは最高だな!」という思いが湧きあがります。元気になります。これは余談になりますが、元気という言葉は「元からある気持ち」と書く通り、誰にでもあらかじめ備わっているもの【外付けではなく内蔵されているもの】なのだなあということを思いました。元気になるということは、ただ、自分のこころをチューニングをするだけのことなのかもしれません。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、シンガポールにわたりました ※※※

 

レスリーは神様かもしれない。

 

レスリーが「撮らせて!」と言った瞬間から、

 

そのひとはレスリーと友達になっている。

 

そして安心してレンズの前に立つ。

 

レスリーは悪魔かもしれない。

 

後で、3日間くらいは筋肉痛になるポーズを延々とさせておきながら、

 

こちらを、そうしなければ満足できなくさせてしまう。

 

〝人間〟を逃さない、炎のようなものを持っている。

 

レスリーのあまりのフットワークの軽さとマメっぷりは、

 

何人ものレスリーが同時に存在しているかの様で、まさに神出鬼没。

 

世界のあちこちから、いろんな人にコンタクトし、

 

そして、すぐに目の前にいたりもする。

 

こんなに数多くのパフォーマーが、一つに納められた写真集だったら、

 

ほんの僅かでも、どこかしらに、何らかの思惑や惰性が感じられて不思議はないのに…。ただ、ただ、それぞれの自分をひたすらパフォームしている被写体の姿が洪水のように溢れ出し、胸を打つ。

 

これを見た人はたくさんの勇気を与えられると思う。

 

レスリーに作為は全くない。人間が好きなだけ。

こんな写真集を実現させた

 

レスリーこそスーパースターかもしれない。

 

松任谷由実レスリー・キー写真集『SUPER STARS』序文より

 

レスリー・キー『SUPERな写真家』【朝日出版社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

花を愛するように、ひとを愛したい。

御礼の電話をさせていただいた方から「この前のお休みの日に、簡単なサンドウィッチをつくって、自然のある場所で小さなピクニックをしたんです。その時に感じた気持ちがなんだかとっても良くって、そして、この感覚は何かに似ているなあって思ったんです。それで、何をしていた時の感覚だろうかって考えていたら、あ、これは坂爪さんのブログを読んでいる時に感じている気持ちと同じだって思ったんです」という言葉を与えてくれた。わたしは、ああ、なんだこれは、最高の褒め言葉じゃないか!と感動に打ち震えた。その方は言う。自分は自分のままではダメだって思うこともあるけれど、でも、自分は自分のままでもいいんだって、自然なままでも幸せになることは簡単にできるんだって、自然に言ってもらえたような気持ちになりました。




数日前にお会いした女性は「最近は、可愛い花を見かけると、話しかけてしまったり頭(?)を撫でちゃうようになってて、それから『花を愛するように、ひとを愛せたらいいな』って思うようになりました」と話してくれた。わたしは、ああ、なんて素晴らしい言葉を使うひとなのだろうかと感動した。花を愛するように、ひとを愛したい。なんて素晴らしい思いなのだろうか。花は、言葉も使わなければ表情の変化などで気持ちを伝えることもしないし、花以外の何かになろうともしない。ただ、花は花としてそこに咲いているだけだ。その姿が、その無理のない自然な姿【ただ、自分は自分であるということ】が、見るひとのこころを大きく慰めることがある。何かがある自分を誇るのではなく、何もかもを取り去った後に残る自分を誇りにするということ。真のコミュニケーション【人間と人間が付き合うということ】も、多分、そういうことなのだと思う。

 

 

先日、おはなをお届けさせていただいた方からあまりにも嬉しすぎるメールをいただいた。ひととコミュニケーションを取れたという実感、ああ、今日はこのひとと会えただけでも最高だったと思える1日は、多分、誰にでもあると思う。本質的にひとはコミュニケーションを求めている生き物で、ひととこころを通わせることができたという実感は、それだけで「今日という日を素晴らしい一日にする」力がある。日常の中に適当な機会やタイミングを見つけることができないだけ(あるいは遠慮をしてしまっているだけ)で、ひとと話をしたいと思っているのは、自分だけではなかったのだということを知る。コミュニケーションとは、何も言葉に限られた話ではない。言葉はなくても、何も話さないとしても、ただ、同じ空間を共有するだけでもいい。こころを通わせるということ、それは、言いたいことを言うというよりも、ただ、わたしはここにいる【あなたはここにいる】ということを、お互いに確認し合う行為なのだと思う。こんなにも生きているのだということを、静かに実感することができた瞬間に「生きていることのよろこび」は生まれるのだと思う。

 

 

坂爪さま


おはようございます。

先日は◯◯までいらして下さり、
お花とランチもご馳走になり
本当にありがとうございました。


とりとめもない会話になってしまいましたが
それでいいというか、それがよかったように思います。
坂爪さんを目の前にして、
何故かうるうる涙腺がゆるんでしまいました。
心地よい時間でした(*^o^*)

 

人と会話をすると
○○は××だよね!ね!みたいな、
共感する結論にもっていってお互い満足する
(したように思い込む)流れみたいのがありますが、
坂爪さんとお話していてそういった圧力がぜんぜんないのが
心地よく、許されてる感じがしました。

何かよい質問をして会話を広げなきゃとか
盛り上がらなきゃとか
アドバイスめいたものをしたりされたりしなきゃとか
そういった会話の満足達成感圧力みたいのって
なくていいんだよな~本来はな~と新たなる発見でした。


今、お仕事机の横にお花があります。
原稿描いてて、ふと見上げるとお花がある、そういう感じいいなあと。
お花の写真撮ってみたので送ってみます。
メッセージカードもありがとうございます!嬉しいです!

 

似顔絵をお渡しした後、
もうちょっとバージョンアップさせたいなとも思いましたので、
お仕事落ち着いたあたりにちょっと描き直してみます。
実際お会いして、目が優しくて澄んでらしてるので
そういう感じが欲しいな~と、個人的なこだわりですが^^;
いい感じに描けたらまた送ります。描けなかったらそのままです。。。


ごちゃまぜの家楽しみです。
何かしてもいいし
しなくてもいいみたいな心地よい場所になるといいなあ。
ただうたたねしに行くだけとか^^
庭のグリーンを眺めるだけとか。たまに手入れしてみるとか。
まずはの菊名のおうち、ぜひぜひ行きますね♪


今日は確か京都でしたね。
すてきな一日を♪

 

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人生は続く。

 

413-0002
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渡る世間は神ばかり。

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ゆうちょ銀行の通帳記帳に行き、膝から崩れ落ちた。小生、数日前の記事で「(非常にお恥ずかしい話ではありますが)お金がやばいです!」という投稿をさせていただきましたところ、それを見てくれた方々から「生きろ!」と言わんばかりに励ましのご連絡をいただいた。それだけでもありがたすぎることなのに、先ほど、通帳記帳をいたしましたところ「連絡をくれていないひとたちからもこんなにお振込をいただいていた…!!!」と脳天が爆揺れした。しばらくの間、わたしは、銀行ATMの前で動けなくなってしまった。そして、ゆっくりと正気を取り戻すと同時に「しっかりと生きよう」とこころに誓った。しっかりと生きることでしか恩返しをすることができない我が身であります故、わたし、しっかりと生きます。お振込いただきましたみなさま、こころの底からありがとうございます!!【ご迷惑でなければ電話や手紙で御礼をお伝えさせていただけましたら非常にうれしいです。可能な方はLINE「07055527106」などからご連絡をいただけましたら猛烈に幸いです!!本当にありがとうございます!!】

 

 

ブログ読者の方から「ごちゃまぜの家のイメージです!」とお手紙をいただいた。それがあまりにも素晴らしすぎて、わたしは「あまりにも素晴らしすぎます!」と慟哭した。 わたしは、自分ひとりの力ではなにもすることのできない人間でありますゆえに、こうした助力(?)をいただけることがほんとうにありがたく、ああ、自分はみなさまの力によって生かされているのだということを猛烈に思った。11日(木)の13時からは、大阪の十三駅近くの会場で開催をされるトークイベントに急遽登壇をすることになった。主催される方は、なんと「46歳にして風俗嬢デビューを飾る」というカラフルな経歴の持ち主で、実際にお会いできることを楽しみにしている【どなたでも参加できる内容になりますので、お時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください!!】。

 

【イベント詳細】5月11日 坂爪圭吾トークショー「タブーを生きて見えた世界」@大阪

 

GOCHAMAZE no IE

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先ほど、菊名の家で最終的な打ち合わせをした。問題がなければ来週中には「ごちゃまぜの家」を菊名を起点にはじまることになる。参考までに、家の見取り図を掲載させていただきます(住所などは後ほど公開をする予定です!)。家の鍵を預かった瞬間から「ごちゃまぜの家のスタートです!」ということになるのだけれど、ごちゃまぜの家の鍵は24時間あけっぱなしにする予定になるので、最初の一週間は「一緒に掃除や空間装飾などを手伝ってくださる方!」と共に、部屋づくりをする段階からみんなでやれたらいいのかな、ということを思っている(その際のお声かけなどは、また、改めてブログ記事を通じてお伝えさせていただきます!!)。

 

最近『思いが実現する速度があがっている』ということを頻繁に思う。わたしが「ごちゃまぜの家」のアイデアを閃いたのが4月3日の朝8時、クラウドファンディングに企画を掲載したのが同日4月4日の夜8時(音速でプロジェクト本文を書き上げて、音速で公開にこぎつけることができた)、菊名の家のお話が舞い込んできたのが4月6日【プロジェクト掲載3日後】、実際に家を下見させていただいたのが4月13日【プロジェクト掲載10日後】、そこから「あれよあれよー!」という間にことは進んで、5月8日の現在【プロジェクト掲載1ヶ月後】、菊名で「ごちゃまぜの家」をはじめさせていただける流れになっているこの現実がある。なんだか、自分のことなのに「すごいなあ」と、まるでひとごとのように感じてしまう瞬間がある。思いが実現する速度があがっていると感じるのは、多分、わたしだけではないと思う。2017年は「破壊と創造が繰り返される一年になる」と前に聞いた。恋愛なども別れるカップルが続出することになるらしいけれど、これは、言い方を変えると「再スタートを切るのにもってこいの一年になる」とも言うことが出来る。

 

わたしは、できることならば「毎日死にたい」と思っている。毎日死んで、毎日生まれ変わることができているような『鮮度』を自分の中に保っていたいということを思う。昨日、夜道を歩きながら「百万回の愛しているなんかよりも、一回死ね」ということを思った。新しい自分になるためには、多分、古い自分を一回殺す必要がある。「延命措置に未来はない」というのはよく言う話で、わたしは、無駄に自分を慰め続けることよりも、毎日死んで、毎日生まれ変わる、そういう日々の中に「ある種の潔さ、清々しさ」のようなものを覚えるタイプの人間だ(と思う)。

 

【過去記事】好きなように生きなさい。 - いばや通信

 

殺される場所。

「死ぬ」とか「殺す」とか、不謹慎な言葉を連呼するのもどうなのかなとは思うけれど、熱海の家は「死ぬのにもってこいの場所」として機能をしているように感じる。いま、わたしには熱海に家がある(この家は敬愛するムラキテルミさんに整えていただきました。ムラキさんは「品があって、かわいいひと」の代表格で、ムラキさんを通じて「ああ、自分は、(前回の記事で紹介をしたターシャ・テゥーダーさんがそうであるように)品があってかわいい人が大好きなんだな」ということを確信しました!!)。熱海の家もごちゃまぜの家のような感じで完全に開放をしているので、全国各地から様々な方々が足を運んでくれている。昨日、岡山在住の25歳女性M様がヒッチハイクで熱海まで来た。その根性は素晴らしいなと思う。素晴らしいなとは思うのだけれど、そのあと、わたしたちの間に僅かばかりの火花が飛び散ることになった。

 

M様が「わぁ〜!坂爪さんだぁ〜!なんだかウケるぅ〜!坂爪さんは、わたしの中の『会いたいひとリスト』の中のひとりなんですよぉ〜!」的なことを言った。わたしは、即座に「そんなリストが目の前にあったら、いますぐ引きちぎりたいくらいですよ」と思った。そして、そのことを伝えた。この辺から、なんかこう、二人の間に「あ、これはもしかしたらやばい流れかもしれない」的な雰囲気が流れた。これはどうでもいい話だけれど、わたしの信条のひとつに「言いたいことは言う。その時は、こころを込めて言う」というものがある。理由は単純で、言いたいことを言わないでいると『病気になる』からだ。だから、この日も、勇気を出して「えーい、言っちゃえ!【このひとには一回死んでもらいましょう!】」的な勢いに任せて、言いたいことを即座に言っちゃう実験場として熱海の空間を利用した。

 

結論から言うと、いろいろあった末に両者は無事に意気投合を果たした(ということにする)。わたしは思う。巷では「自分と向き合う」なんて言葉を頻繁に耳にするけれど、自分と向き合うことを意識しすぎるあまりに、他人と向き合うことがおざなりになっているひとは多い(ように思う)。自分と向き合うということは、部屋に閉じこもってひとりきりになることではないと思う。逆だ。自分と向き合うということは「ひととしっかりと向き合う」ということであり、ひととの付き合いの中で出てくる自分の本音をはっきりと掴み、ごまかさないで、誠意を込めて相手に伝えること。仲良しごっこをしろとかそういうことではなく「ひとを大切に扱えないひとが、自分を大切に扱える訳がなかろう【自分を大切に扱えないひとが、ひとを大切に扱える訳がなかろう】」ということを思う。本音をかち割って面と向かって話をする、その中から出てくる自分自身【相手自身】をはっきりと掴むことが、自分【大袈裟な言葉で言えば人間全体】と向き合うということなのだとわたしは思う。

 

【過去記事】人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。 - いばや通信

 

『ぼくの小鳥ちゃん』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、江國香織(作)・荒井良二(絵)『ぼくの小鳥ちゃん』です。わたしは荒井良二さんの作品が大好きで隙を見ては「こんなのもあったのか!」としらみつぶしに読破をしている最中になるのですが、こちらの本も、江國香織さんの世界観(?)とあいまって非常に素晴らしい一冊に仕上がっておりました。誰かにプレゼントをする際にも適しているような(適していないのかもしれない)、とても可愛らしい一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

➖一羽の小鳥として、私ががまんならないとおもうあなたの欠点を教えてあげましょうか。

 

いつだったか、そう言われたことがある。昔ここにいた ー ある日いきなりやってきて、やがていきなりいなくなってしまった ー こげ茶色の小鳥ちゃんにだ。

 

➖欠点?

 

ぼくは訊き返した。夏で、ぼくたちは窓をあけた部屋のなかにいた。

 

➖あなたはうけいれすぎるのよ。

 

小鳥ちゃんはぼくの目をみずにそう言った。

 

➖いけないことかな。

➖ときどきとても淋しくなるの。

 

小鳥ちゃんは顔をあげてぼくをみた。切るようにかなしい目をしていた。

 

江國香織『ぼくの小鳥ちゃん』【新潮文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

渡る世間は神ばかり。

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引き続き御礼の電話をかけ続けているのですが、時折、小さなこどもたちと会話をできるのがものすごい楽しい。今日は、7歳の女の子から「さかつめさんはどんな家をつくりたいの?」と問われた。わたしは「そうだね、言うなれば『いい感じの家』だね!」と答えた。女の子は、続けて「カメムシはいない?」と問う。わたしは「まだ出てない!いまのところはまだ出てない!」と答える。「じゃあ、アリは?」「アリはいるよ、だって家の裏には林があるんだもん!」「アリいるんだあ」「アリはどこにでもいるでしょ!アリぐらいがんばろうよ!」的な会話をする。電話をかわったお母様が「すいません、どうでもいい話ばかりをしてしまって…」と謝罪をする。わたしは「いえいえ、まったくそんなことはありません!非常に有意義な対話をさせていただきました!」と答える。こどもの声は、聞いているだけでも元気になる。こういう時間を過ごさせてもらえることが、最近は、なんだかものすごい楽しい。 

 

 

御礼の電話を重ねながら、そして、銀行ATMの前で膝から崩れ落ちながら、わたしは「渡る世間は神ばかりだ…」と思った。うまく言葉にすることができないのだけれど、この国にはいいひとがたくさんいる。ほんとうに、心の底から、最高の国だなと思う。もちろん、時には「これでもか!」と罵倒をされることもあるけれど、根本的には優しいひとばかりなのだと思う。人に優しくできない時は、ただ、いまちょっとだけ心に余裕がないだけで、ひとに優しくできないひとは、ひとに優しくできないというまさにその態度を通じて「どうしようもなくやさしさに焦がれている」だけなのではないだろうか、ということを思う。そういう部分を、汲み取ることができるような人間でありたいと思う。できることならば、他人を疑い争いながら生きることよりも、よろこびを分かち合うように生きることができたらと思う。

 

 

これがなければ生きていけないとか、あなたがいなければ生きていけないとか、そういうことではなく「これがなくても生きていけるようになる」とか「あなたがいなくても生きていけるようになる」ということを、多分、『自立』と呼ぶのだと思う。そのひとがひとりでも生きていけるようになること、依存させるものではなく、ひとを自由にするもの、それを『愛』と呼ぶのだと思う。どうしてなのだろうか、様々なひとたちからの様々な思いに触れながら、最近ではそういうことを考える機会が増えている。ひとりでも生きることができる人間はいないということ、生きとし生けるものは無限の網の目の中で生きている【生かされている】ということを思う時、わたしは「自分は自分の命をしっかりと生きていこう」という思いになる。静かで、おだやかで、あたたかななにかとの結びつきを覚えることができるこの感覚を、わたしはとても気に入っている。

 

 

https://www.instagram.com/p/BT0tgIojyUT/

✨✨✨GOCHAMAZE no IE✨✨✨

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。

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眠気が凄すぎて代々木公園で眠る。人混みは苦手だから代々木八幡側から公園にはいると、代々木公園の中に森があることを発見する。緑が綺麗で、適当な場所でダイレクトに横になると「自然に包まれている…」的な多幸感が湧き上がる。森で暮らそう。東京でごちゃまぜの家をやる時は、代々木公園の近くなんて最高だなとか妄想をする。前は「品川界隈が理想です!」とか「谷根千って最高ですね!」とか思っていたけれど、いま、あらゆる場所がごちゃまぜの家の候補地であるような気がしていて、街中を散歩しているだけでも「ここでごちゃまぜの家をやるとしたら、どのようなスタイルが面白いだろうか」などと妄想を広げている。

 

 

最近、いろいろなことがありすぎて「これは自分のためだけに生きていたら死ぬ!」という結論に至りまして、希望者の方に無料でおはなを配る「おはなをあげに、いかんばなんね」という企画を急遽立ち上げました。これはもう完全に『自分の中でバランスを取っている系』の営みになるのですが、呼ばれた場所には何処にでも行くというスタンスでやっておりまして、来週からは大阪府岡山県秋田県などに足を運ぶ予定になっております。近隣の方でおはなをご希望される方は、是非、どなたでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです【メールの返信が苦手すぎるために、可能でありましたら『LINE』からご連絡をいただけると助かります!!】。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

『血が通っている』感覚。

クラウドファンディングの御返しを「誠心誠意を込めて御礼のお電話をさせていただきます!」と設定をした過去の自分の頭を撫でまくりたいほどに、「御礼の電話が楽しすぎる!」というよろこびに満ち溢れている。先日、シンガポール在住の女性M様とLINEで通話をした。現地の暮らしの話などを伺いながら「おすすめスポットを連れ回したいので、いつでも遊びに来てくださいね!」なんて言っていただけた日には、即座に航空券の手配をして出国をしたい気持ちに駆られた。海外の話を聞くのは楽しいし、新鮮な刺激をもらえる。なかでも、最近「タクシーの代わりに台頭して来ている『UBER【ウーバー】』というシステム」の話が面白かった。

 

シンガポールタクシードライバーは運転が荒く、日本と比べれば料金は格段に安いけれど「できることなら使いたくないな」という気持ちが現地のひとにはある。そこで、いま、代わりに活躍をしているものが『UBER』と呼ばれているサービスで、乱暴にまとめると「一般のひとでも自家用車をタクシーみたいにすることができる」というシステムになる。M様曰く「シンガポールではシェアエコノミーが発達していて、たとえばUBERなども『(一般のひとの車に乗る訳だから)まるでプライベートを覗き見させてもらっている』ような感覚がなんだか楽しかったりもします。相手がプロだとこっちもかしこまっちゃうけれど、相手も同じ一般人だからこそ会話も砕けて盛り上がる時もあって、もしかしたら、これからは『プロフェッショナルではないひとに仕事をお願いする』ことが面白いとされる時代になるのかな、なんて思いました」とのこと。この洞察を聞いた時、わたしは「鋭い!!!!!!」と勝手に感動をしてしまいました。

 

日本でも、多分、これから『シェアエコノミー』と呼ばれているものは急速に発達をしていくのだと思う。時代的な背景もあるとは思うけれど、いま、多くの人は「これ以上別に物が欲しい的な欲求はない」と思う。いままでは「ものがあれば幸せになれる」的な価値観の中で生きて来たけれど、これだけものが揃っている現代社会(それでいてあまり幸せを感じることができていないひとが多いように見受けられる中)、次の『しあわせの物差し』になるものは、多分、コミュニケーションと呼ばれているものだと思う。自分は周囲のひととコミュニケーションを取れているという感覚【ひととの繋がり】がある限り、多分、ひとは死なない。逆に言えば「ひととコミュニケーションを取れているという実感がない」という感覚【ひととの繋がりの欠如】は、さみしさを生み、孤独を生み、世界から切り離されているかのような痛みを生み、最悪の場合は精神的な疾患をもたらせることになったりもする。

 

お金よりもコミュニケーション!

最近のテーマは「お金よりもコミュニケーション!」であり、お金で解決できないこともコミュニケーションを重ねることで解決できることはたくさんあるような気がしている【過去に、賃貸物件の大家さんに直接連絡をして(土下座をして)敷金と礼金を無料にしてもらったことがある】。トークイベントなどに出演をした時、稀に「坂爪さんにとってお金とはどのようなものですか」と聞いてくださる方と出会う。わたしは、開口一番「あったら便利なものだと思います!」的な返事をする。そして、もう少し時間に余裕があった時などは「ちょっと小難しい言い方になるけれど、お金って『コミュニケーションコストを0にしたもの』なんじゃないのかなと思います」などと答えることもある。

 

誤解を恐れずに言うと、いま、多くのひとが抱いている欲求とは「コミュニケーション欲求【ひととコミュニケーションをとりたいと思う気持ち】」なのではないだろうか、と思うことがある。金がないとか仕事がないとかやりたいことが見つからないとか、家族関係がうまくいっていないとか恋人とセックスレスだとか、多分、あらゆる問題の根底には「ひととコミュニケーションが取れていない(そして、その話をできる相手がなかなか見つからない)」からなのではないだろうか、と思うことがある。自分の悩みを解決するために、お金は一見すると非常に便利だ。金があれば、誰にも頼ることなく、自分の力だけで生きていくことができる。好きなホテルに泊まれるし、いくらでもうまい飯は食える。しかし、ひととの繋がりを金で買うことはできない。ひととコミュニケーションをとりたいという欲求は、金では解決できないばかりか【金とはコミュニケーションコストを0にしたものであるものだとすれば】金を求めれば求めるほどに、ひととの繋がりは薄れていくものでもある(ような気がしている)。

 

そこで!わたしが提案したいと思うことは「ちょっとだけお金を払うことをやめて、お金を使わずに目の前の問題を解決するにはどうすればいいか」を考えてみるのはどうだろうか、ということです。わたしは、このアイデア菊名横浜市港北区】の家で試してみたいと思います。普通、新しい何かをはじめるときは「ある程度設備が整ってから開始をする」ものだと思うけれど、菊名の家は、何も準備が整っていない状態から「ごちゃまぜの家のはじまりです!【あとは『やりながら考える』のスタンスで行きます!】」という感じで、いきなりはじめてしまいたいと思う。多分、何も問題がなければあと10日後位には、実際に菊名の家で『ごちゃまぜの家』の家の活動ははじまる。時が来たら住所なども公開をするので、どなたでも、興味のある方はお気軽に遊びにいらしてください【あわよくば、空間づくりなども一緒にやっていけたら幸いです!!】。

 

【過去記事】好きなように生きなさい。 - いばや通信

 

『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、二村ヒトシ著作『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」【文庫ぎんが堂】です。こちらの本は、ブログ読者の方から「わたしは、この本をバイブルがわりにパニック障害寛解後から1年半掛かって、自分の問題と父親との問題を解決しました。それ以来、数十年見続けていた悪夢(病気の最中がいちばん酷かった)からも解放されたんです。・・・わたしのやり方が万人に通じるかはわかりませんが、もしかしたら、親子関係に苦しむ人の助けになる可能性があるのかも。その本とわたしの経験を坂爪さんに授けさせていただけたらと思っています」というお言葉と共に、わたり文庫に託された一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。  

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「このやさしさ!男なのにどうしてここまで知ってるんだっ!」上野千鶴子氏。「読んでびっくり!直球で家族をえぐる本当に怖い本です」信田さよ子氏。「恋愛じゃなくて条件、それが婚活だと思ってない?惚れなきゃ結婚もできないよ」白河桃子氏。《女性の生き方》問題の第一人者たちも絶賛した元本を大幅増補・改題し文庫化!「心の穴」と「自己受容」をキーワードに、なぜ楽しいはずの恋愛が苦しくなるのか、の秘密に迫ります。

 

二村ヒトシ著作『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』【文庫ぎんが堂】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。

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眠気が凄すぎて「映画館で寝よう…」と思って有楽町の角川シネマに立ち寄る。ターシャ・テゥーダーさんという素晴らしすぎる90歳のおばあちゃんの映画『静かな水の物語』をやっていたので、それを見ながらうたた寝をする。中盤、わたしが眠りから覚めた瞬間にスクリーンの中で「人生は短いから、不幸でいる暇なんてないのよ」的な発言をターシャおばあちゃんがしていた。わたしは、ああ、この言葉が聞けただけでもこの映画を選んだ甲斐はあったなあなどと感慨に耽りながら、もう一回寝た。ターシャおばあちゃんの顔が、90歳を超えたおばあちゃんなのに、まるで5歳の少女のように可憐だった。人間はこんな風に年齢を重ねることができるのだと思わせてくれるひとの存在は、端的に、宝だ。わたしは「いいものを見たなあ」と思いながらガラガラの映画館で干し芋を食べては眠る行為を繰り返していた。

 

わたしは花が好きだ。花が好きだから「おはなをあげに、いかんばなんね」という企画を自主的に開催したりする。そこに深い意味はない。わたしが好きだと思う花を、同じように好きだと思ってくれるひとと「好きだと思う気持ち」を共有することができたなら、それだけでもう「最高だな!」と思っている。人生は短い。自分が嫌だなと思うものにエネルギーを削がれながら生きることよりも、わたしは、自分のこころが「いいな!」「好きだな!」「最高だな!」と思えるものに、生命を注ぎ込んでいきたいと思う。ターシャおばあちゃんは「わたしは生まれてからこの日まで、ずっと幸せだった。まるで天国を生きているみたいにね」的な発言をしている。ターシャおばあちゃんの瞳の輝きが半端なくて、わたしは「最高だな!」と思う。

 

天国を求めることよりも、いま、自分がいる場所のど真ん中に「天国を見出すことができる」自分でありたいと思う。新緑の季節を迎え、木々がこれでもかと言うほどに青々と輝いている。太陽は昇り、砂浜を、海面を、ひとびとの笑顔を宝石のように照らしている。 公園の中ではこどもたちが走り回り、大人たちも一緒になって、ごはんを食べたりボールを投げたり大きなシャボン玉を飛ばしている。爽やかな風が吹き抜けている。噴水から水が流れている。軽快な音楽が流れている。穏やかな時間が流れている。身体の中には、いま、この瞬間もあたたかな血が流れている。生きているというただそれだけのこと、ただそれだけのことをはっきりと実感することができた時に、ああ、他には何も要らないのだなという気持ちになる。自分が自分であるということは、自分は自分のままで「流れていくこと」ということなのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BTr72X2jh6f/

代々木公園の森。。。

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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家族は音楽になる。プレイリストを作るように家族を作ろう!

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家族とは『人類』である。昨日、家族をテーマ(?)に開催されたトークイベントに登壇した後に、そんなことを思った。わたしは『いばや』という流動的な団体を主宰している。いばやのコンセプトは20個くらいあって、その内のひとつに「2個先の未来から逆算をして考える!」というものがある。多分、未来への行き方は2通りある。ひとつは「現在の延長として未来を考える」という行き方。ひとつは「未来の未来【2個先の未来】から逆算をして未来【1個先の未来】を考える」という行き方。いばやは、後者の考え方を採用する。その理由は「現在の延長として未来を考えると、現在の常識が邪魔をするから【引き戻す力が働くから】」になる。キーワードは「2個先の未来」であり、何百年も先の世界では「いまの常識とはまったく違う前提の上で世の中は成り立っている」であろうし、その中で『家族』というスタイルも随分と違ったものになっていると想像する。

 

 

昨日のトークイベントで、家族というものは「音楽のように変化をする」という話をした。これまで、音楽を楽しむためにはレコードを購買する必要があった。それがCDとなり、MDとなり、MP3となり、いまでは「好きな音楽を聴くためにアルバム【目に見えるもの】を買う必要はなく、一曲単位のデータ【目に見えないもの】で購買をできるようになっ」ている。多分、いま、アルバムを購買するひとは極端に少ない。数十曲をまとめて購買するよりも「アルバムの中にある好きな曲を一曲単位で、自分のプレイリストに加えて行く」ことの方が主流だと思う。多分、家族というものも、これから似たような変化をする。その点について、拙いながら、現時点で思うことを今回の記事でまとめてみたいと思う。

 

家族は音楽になる【プレイリストを作るように家族を作ろう】

結論から言うと「プレイリストを作るように家族を作ろう!」ということを思う。いま、多くの人が自分のスマホなりウォークマンの中に「自分なりのお気に入りのプレイリスト」を持っていると思う。こんな気分の時はこの音楽を、こんな気分の時はこの音楽を、みたいな感じで「その時々の気分に合わせて、流れるものも変わっていく」ものが音楽だと思う。家族も、きっとこのような変化をするだろう。現在の常識では、家族とはひどく固定をされたものになる。血の繋がりがあるとか、法律で定められているとか、そういう「固い縛り」の中で結成されているユニットが家族になる。しかし、これからの時代の中で「家族はゆるやかに溶け出していく」と想像をする。それはレコードやCDなどの目に見える形で存在をしていた音楽が、やがてMP3という目には見えないものに変化をして、アルバムという枠の中を飛び出して「それを聴くひとのプレイリストの中に、それぞれの形で、流動的に加えられていくもの」になった。

 

これから、家族は音楽になると思う。その時々の気分に合わせて、こんな気分の時はこの家族を、こんな気分の時はこの家族を、みたいな感じで「ひとりが複数個のプレイリスト【家族】を持つ」ことが当たり前の世の中になると思う。いままで、家族と言えば(音楽で言えばアルバムのように)ひとつの固定的なまとまりとして語られることが多かった。しかし、これからは『個』が強く浮き出る【これまでにあった境界線のようなものが溶け出していく】時代になる。ひとりがひとつの音楽になり、その音楽が加えられているプレイリストが『家族』というものになる。そのため、ひとつの曲が様々なプレイリストに加えられていくというのは当然の現象となり、結果として「誰もが複数個の家族を持つ」流れになるだろう【この『ひとりがひとつの音楽になる』という考え方は、なんだか素敵な考え方に思えて、個人的に気に入っている】。

 

いばやでは「数百年の後の未来では、家族という概念そのものがなくなっている」のではないだろうかと想像をする。そう遠くない未来のひとが、いまの時代のひとを見たときに「(現代のひとびとが蓄音機を見て驚くように)まだ家族なんてやってたんだ!」とビックリをするような時代が来る。当たり前の話になるけれど、レコードが主流だった時代に「これから音楽はすべてMP3というデータになります」という話をしても、一笑に付されて終わるだけだと思う。多分、いま、家族と呼ばれているものは「(音楽で言えば)レコードのようなもの」なのだと思う。レコードを悪いとは言わない。古き良きものとして、楽しみたいひとは永遠に楽しみ続けるものだと思う。しかし、これから『新しい在り方』が台頭をして来るものだと思うし、わたしの関心は「未来の家族とは何か?」というものに向かっている。

 

【過去記事】実際問題、最大のタブーとは『家族』である。 - いばや通信

 

いや、全然大丈夫だから!感【あら、全然大丈夫だった!感】

世の中の常識が大きく変わる瞬間、それをひとは「転換期【パラダイムシフト】」と呼ぶ。振り返って見た時に、ああ、あの瞬間に歴史は大きく動いたのだなと思える瞬間の中には、言葉にできないある種のダイナミズムを覚える。わたしは、今回の『ごちゃまぜの家』を何かしらの記録に残したいと思っている。その理由は20個くらいあるのだけれど、時代が大きく変わる時、その瞬間のひとびとのリアルな意識や感情を残しておけば、数年後の未来のひとびとがそれを見た時に「昔のひとはこんな考え方をしていたのか!」という感動を覚えるのではないだろうかと思うからだ。大袈裟な話になるけれど、天動説が常識とされていた時代では「どこまでも船を漕ぎ続けていると地球から落ちてしまう!」と本気で怯えていたひとびとが大量にいた(のだと思う)。天動説を前提に生きるひとびとの『世界の見え方』は、端的に、いまの時代を生きる私たちから見ると「(古臭い考え方だと一蹴することもできるけれど)非常にクリエイティブで斬新!」であるとも言える。

 

世界の見え方が変わる瞬間、世界の見え方が増える瞬間のなかには『自由』がある。未来の人から見たら、多分、現在のわたしたちの考え方も「そんな考え方をしていたんだ!」と驚いてもらえることが大量にあるのだろうと思う。多分、家族関係における悩みも同じことだ。いまのわたしたちから見ると、船を漕ぎ続けていると地球から落ちちゃうと本気で怯えるひとに対して「地球はまるいから大丈夫だよ!安心して!落ちることは絶対にないから不安になる必要はまったくないよ!」と100%の自信を持って伝えることができる。同じように、未来のひとびとから見ると、家族関係などで悩むひとびとに対して「家族は好きなだけ作ることができるから大丈夫だよ!安心して!ひとつがダメだからって全部がダメになることなんてないよ!」みたいな感じに思われるのかもしれない。

 

何が言いたいのかというと、いまを生きるひとりひとりが抱えている悩みと呼ばれているものも「未来から見るとまじでどうでもいい話」になるのかもしれないということです。現代社会において、船を漕ぎ続けると地球から落ちちゃうという悩みに対して、わたしたちは「いや、全然大丈夫だから!」と思うことができる。そして、実際に船を漕ぎ続けて無事を確認したそのひと自身も「あら、全然大丈夫だった!」と思うことになる。わたしは、この「いや、全然大丈夫だから!【あら、全然大丈夫だった!】」という感覚が大好きで、これまで常識とされていたものがゆっくりと溶け出していくその様に、ある種の『自由』を見る。ごちゃまぜの家の活動を通じて「家族を溶かしたい」などと思っているわたしの本音は、多分、そこにあるのだと思う。わたしは「自由を感じたくて」この活動をはじめているのだと思う(ように最近は思うようになっている)。

 

『ウルトラライトハイキング』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、土屋智哉著作『ウルトラライトハイキング』です。前から気になっておりましたこちらの本、昨日、ふらふらぁっと立ち寄った御徒町駅前のアウトドアショップに置かれていたのを見て「いまだ!」と思って即買いしました。これからの時代「軽やかさ」はある種のキーワードになるような気がしていて、わたしも「何かあった時のために…」と身軽に生きるすべを身につけていきたいなあと常々思っている次第でございます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

1泊2日5キロ以下!ローカットシューズでOK!マットは切って活用!アメリカのハイキングカルチャーのなかで生まれた「ウルトラライトハイキング」は、軽さを味方につける革新的なハイキング技術のみならず、なにが必要でなにが不必要かを考え実践する、シンプルライフの思想そのものでもあった。2011年に刊行された日本初のウルトラライトハイキング解説書、待望の文庫化。

 

土屋智哉『ウルトラライトハイキング』【ヤマケイ文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

家族とは『人類』である。

前回の記事で「実はお金がやばいです!」という投稿をしたら、なんということでしょう!即座にお振込をいただいた女神様や、イベント会場まで自転車をかっ飛ばして手渡しに来てくださった女神様まで現れてくださり、わたしは感動に打ち震えていました(こころの底からありがとうございます!!)。もちろんみなさま初対面の方々で、なかには生活保護を受けながら小さなこどもを育てていらっしゃるシングルマザーの女性【素晴らしい声の潤いの持ち主でした!】から「わたしも、みなさまに生かされている身になりますので」という(まるで言葉にし切れないのですが本当に本当に本当に本当に本当にありがたい)お言葉もいただき、ああ、これはもう全員家族だ。会ったことがあるひとも会ったことがないひとも、自分が「これは家族だ」と思えばそれはもうすでに家族なのだと、そういうことを思いました。

 

クラウドファンディング支援者の方々に、引き続き電話をかけ続ける日々を過ごしている【昨夜は日暮里の漫画喫茶に宿泊をした】。みなさま、これは異常事態なのではないのだろうかと思えるほどに優しい方々ばかりで、わたしは「ほんとうにありがとうございます!!」を連呼する。すると、相手の方も「ありがとうございますはこちらの方です!!」と言う。わたしは「いやいや、それは完全にこちらのセリフですから!!」と言う。そんな感じで『ありがとうございますの謎の応酬』がはじまる。わたしが「がが、がが、がんばります!!」と言うと、相手の方は「がんばらなくていいから、坂爪さんのやりたいようにやってください!!」と言う。わたしは「ガガーン!!なんていいひとたちなのだ…!!」と感動をする。別に綺麗事を言いたい訳ではない。綺麗事を言いたい訳ではないのだけれど、みんないいひとばかりで感動をする(10万円支援者の方も、御返しは不要になりますので他の方に時間を使ってくださいと辞退をされる男性もいらっしゃいました!!なんとーーー!!)。

 

岐阜在住の女性からも、御礼の電話のあとに「直接おはなを渡したいけど渡せないので、実家が梨農家なので梨の花の写真をお送りします!」と、花の画像を送ってくれた(オカメインコの飼い主の方からは、オカメインコの写真を送っていただきました!!)。こういうのが、なんだか、とってもうれしくてこころが温まる。巷には「人類みな兄弟!」という言葉もあるけれど、わたしたちが向かうべき境地は、多分、そこ【人類みな家族!の境地】なんじゃないのかなということを思う。単なる綺麗事としてのスローガンではなく、ひとりひとりの人間の切なる実感として、生きとし生けるものは、みな、自分の家族【家族になり得るもの】なのだという認識は、大袈裟な言葉になるけれど「平和」に貢献をするものだということを思う。ひとりがひとつの音楽になり、ひとつのプレイリストを作るように、いくつもの家族が作られていく。これまで以上に『個』が重要視される時代において、まず、何よりも「(誰かに合わせるのではなく)自分を出す」ということが、とても大切なことになるような気がしている。

 

 

https://www.instagram.com/p/BTptSyrjTVW/

梨の花。。。

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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