いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

だから楽しめ。自分を信用するために。

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ベトナムホーチミンを経由してシンガポールにはいる。一応、今回の遠征目的は「ごちゃまぜの家@東南アジアの候補地を探す」ということになっている。海外にいても、やっていることは日本と変わらない。文章を綴り、メールの返信をしたり、適当な公園でギターを弾いたり昼寝をしたりしている。海外に足を運ぶことのメリットは複数個あるけれど、その内のひとつに「日本を離れることで、日本を好きになる」というものがある(と思う)。実家を離れることで実家のありがたみがわかるように、多分、離れることで深まる愛情もある(と思う)。距離が近づき過ぎると、自分でも気がつかない内に愛情が執着に変わることがある。立ち向かうことが勇気ならば、逃げ出すこと【一時的に距離を置くこと】も勇気になる(と思う)。

 


日曜日の夜にはタイのバンコクに向かう。バンコクから数日間、20代の日本人女性K様が【鉄砲玉48の研修生として】遠征に同行をすることになった。K様は現在、精神的な理由で仕事をおやすみしている。数週間前、日本で実際にお会いした際に「あれ、精神的とか言う割には全然元気ですね!」ということを思い、多分これは単純に環境の問題だと感じたのでよかったら一緒に海外に行きませんかと無茶振りをしてみたところ、K様は「それはおおありですね!」という素晴らしい反射神経を示し、結果的にバンコクで待ち合わせをすることになった。バンコク以降の予定はほぼほぼ皆無になるので、タイやマレーシア界隈でお時間のある方はどなたでもお気軽にご連絡ください。

 

【今後の予定】ごちゃまぜの家族に乾杯!@東南アジア【ホーチミン&シンガポール&バンコク&クアラルンプール&ハノイ編】

 

真の意味で「生きる」とは何か。

K様の反射神経は素晴らしいと思う。わたしは「金はないけど時間はある(そして反射神経もある)」人が好きだ。4月頭に名古屋で拉致した20代女性のH様が、最近、最高のブログ記事を更新していた。一目見た時から「おお、このひとは健やかな外見に関わらず底知れない何かを持っているに違いない!」と見抜いた自分の感知能力を褒めてやりたい。彼女のブログ記事を読みながら、端的に、嬉しさを感じた。「このひとは最高だな」と思える出会いの中には、いままでの人生をまるごと肯定してくれるような力がある。


ラプンツェル仁美の懺悔室♡クズでごめんなさい - *

 

現在、日本を徒歩で一周中の男性Y様からも連絡が届いた。連日の移動で気持ちが疲れていた時に、この「いばや通信」を読んで気合がはいったのだと言う。Y様のブログ記事を読んだら、知的な文才が素敵で「最高だな」と思った(数日間風呂にはいっていない状態で銭湯にはいった瞬間のエクスタシーにはたまらないものがある、など)。いまこの瞬間も、Y様は日本のどこかで歩みを進めているのだろうなと思うと、それだけで元気になる。Y様のブログ記事の中で、とりわけ「徒歩で日本一周をはじめようと思った理由」にまつわる記載が素晴らしかったので、下記に勝手に引用をさせていただきます。

 

徒歩で日本一周に行く理由を考えてみたら、それはたぶん「自分が、自分のことを肯定させるために、旅に出る」んだと思います。どんなに美しい言葉も、真っ当な言葉も、正論も、自分のことを肯定できていない状態では、表面的な意味をなぞるだけで、ほんとうの意味で腑に落ち無いと思うんです。

 

ありのままでいいとか、そのままでいいとか、言っていることは正しいんだろうけど、実際にそう思える瞬間もあったけれど、でも、そう思えるのはその瞬間に自分が自分を肯定できているからだと思うんです。そうじゃなければ、そんな言葉は薄っぺらで、琴線には1ミリも触れない。

 

ありのままとかそのままでサイコー!とか、それを言葉通り素直に受け取るため、つまり自分を肯定するために、僕は僕自身にあえて言いたかった。

 

「お前は、今のままじゃダメだ」

「お前は、お前自身を肯定させる義務がある」

「ありのまま、そのままなんてクソ食らえ。お前は変わるべきだ。変わらなければいけない。お前自身を肯定させるために」

こう思ったら、もう、自分をごまかすことは出来なかった。 

 

K様の瞬発力、H様の愚かさ、Y様の覚悟の中に、わたしは「ある種のほとばしる生命力」を見る。理由はない。意味もない。価値もない。ただ、これをしないではいられないという非合理的で謎に衝動的な営みを目にした時、わたしは猛烈に嬉しくなる。いまの自分は、ほんとうの意味で生きているのだろうか。誰かに定められたレールの上を歩きそうになっている時ほど、わたしは、そのように感じることが(10代の頃から)頻繁にあった。自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたいと思う。それが「ほんとうの意味で生きる」ということだと思っていた。ほんとうの意味で生きるということのなんたるかを、わたしはまだ知らない。ただ、その片鱗を彼らの生き様に感じることができるから、こんなにも嬉しくなるのだと思う【H様もY様も、所持金が10万を切っているにも関わらず「ごちゃまぜの家」に1万円の支援をしてくれた。ああ、このひと達は最高だなと心底思った】。

 

【徒歩日本一周】家を捨てる【前日譚】 | まだブログタイトルがありません。~柳 俊 公式ブログ~

 

好きなものには「好きだ」と言う。

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先日、トークイベントに登壇(?)をした際に「わたしは自分に自信がない。どうすれば坂爪さんのように自信をもてますか」と問われた。こういう質問を受けることは多く、わたしは、なんて答えたらいいのかがわからなくなる(自信という言葉に、あまり囚われてはいけないのだと思う)。自信とか思想とか価値観などと呼ばれるものは、乱暴にまとめると「食べ物の好き嫌いと同じ」だと思う。わたしは寿司が好きだ。たとえ誰かが「俺は寿司は嫌いだ」と言ったとしても、わたしが寿司を愛する現実は微塵も揺らがない。かと言って、寿司を嫌いなひとを否定したいとも思わないし、寿司が嫌いなひとは寿司が嫌いなままでまったく問題はないのだと思う。逆に言えば、わたしは「寿司が好きだ」という思いに自信がある。誰がなんと言おうとも、おれは寿司がすきだ。きっと、自信なんてものはこれと同じことなのだと思う。

 

自信がないひとはいない。ただ、得体の知れない「ひととの比較」に惑わされているだけだと思う。わたしは寿司が好きだ。以上。それだけの話だ。ただ、寿司が嫌いなひとから「寿司が好きだなんておかしい!お前も寿司を嫌いになれ!」なんて言われ日には、それはお断りだと思う。自分に自信があるということは、単純に「自分が感じていることに正直である」だけの話だと思う。誰がなんと言おうが、自分が「これはうまい!」と思ったものはうまいのであり、自分が「これはまずい!」と思ったものはまずい。自分が「いいな」と思ったものは確実にいいし、自分が「これは嫌だな」と思ったものは、たとえ周囲がどれだけをそれを愛していたとしても「俺は別にいいや」ということになる。ただ、自分のこころがいいなと思うものではなく「周囲のひとびとにとって良いとされているもの」を追いはじめてしまったあたりから、いろいろなものが濁り、最終的にわけがわからないことになるのだと思う。

 

自分は、自分以上でもなければ自分以下でもない。自信なんてものは「食べ物の好き嫌い」と同じだと思う。寿司が好きなら寿司が好きで超絶OK。誰になんと言われても、自分は寿司が好きだという気持ちに変わりはない。誰かに「お前も寿司を好きになれ!」なんて自分は強要をしたいとは思わないし、たとえひとりきりでも寿司を食っている時間は幸せになれる(好きなひとと寿司を食えたら最高だ)。もしも、仮に自分が「自信があるように見えている」のだとしたら、多分、好きなものに対して真っ直ぐに好きだと言っているからなのだと思う。自信とは、自分が好きになるもので構成をされている(と、ここまで書きながら感じた)。自分が「おれはこれが好きだ!」と感じる真っ直ぐな気持ちがあるのならば、その感覚に殉じること。その姿を見て、周囲のひとたちは勝手に「あのひとは自信がある(とか自信がないとか)」などと言うけれど、自信なんてものは別に何も気にする必要はないのだと思う【そんなことよりも「楽しめ!」と思う】。

 

【過去記事】仕事なんてしている場合じゃない、遊べ! - いばや通信

 

少女ファイト 13巻』 

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外にいるためにご紹介だけになってしまうのですが、坂爪圭吾の愛する日本橋ヨヲコ先生著作『少女ファイト 13巻』です。中学&高校時代は日本橋ヨヲコさんの漫画ばかりを読み漁っていて(極東学園天国や、G戦場ヘブンズドアは最高です!)、比較的暗めの日々を過ごしていたけいご坊やは「生きていれば日本橋ヨヲコさんの最新刊を読むことができる…!!」と自分のケツを叩き続け、間違って自殺をしてしまわないように気をつけていました(大袈裟!)。こちらをご覧のみなさまにも、是非、日本橋ヨヲコさん【坂爪圭吾の命の恩人!】の漫画をお読みいただけましたら最高です。奇跡的に日本橋ヨヲコ先生が見ていたら届け・・・あなたのことが、大好きです!!ありがとうございます!!(咆哮!!)

 

他人の評価で自信を作ると

 

それが消えた時

 

どうしようもなく揺らぐ

 

だから楽しめ

 

自分を信用するために

 

日本橋ヨヲコ少女ファイト 13巻』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

だから楽しめ。自分を信用するために。

時代的な流れなのだろうか、執着という言葉を頻繁に耳にする。極論、執着を捨て去るということは「自分の命に対する執着を捨てる」ことだとわたしは思う。自分を守るから弱くなり、自分を生かそうと思うから弱くなる。自分なんてどうなってもいいから、おれはこれのために命を使いたいのだと思えた時、逆説的だけれど、命は充実を見る。金も命も花も時間も、必死に搔き集めるためではなく「適切に使われた瞬間」に本領を発揮するものだと思う。大袈裟な言葉で言えば、自分を守るためではなく「自分を壊すため」に、自分を生かそうとするためではなく「自分を殺すため」に命が使われた時、同時に、膨れ上がるよろこびを覚えるように人間のボディ&ソウルはできているのだと思う(ことがある)。

 

 

固まりそうになった自分を壊す。誰よりも先に自分が自分に飽きる。そして、なにかしらのクラッシュを試みてみたり、新しい要素を付け加えて行く。それが「生きる」ということであり、いまいる場所がどれだけ素晴らしい場所だとしても、本能的に「いつまでもそこにいることはできない」ということを敏感に察知している生き物が、生の人間なのではないだろうか。生きているということは、多分、流れている【変化をする】ということだ。流れることを拒む時、変化をすることを拒む時、生まれるものが「恐れ」であり、生まれるものが「不安」なのだとわたしは思う。逆に言えば、新しい自分と出会う瞬間、自分の中に「こんな自分もあったのか!」といままで見たこともない自分を発見する瞬間の中に、生きていることの醍醐味はある(と思う。少なくともわたしはそう思う)。

 

 

日本橋ヨヲコ先生は漫画の中で「他人の評価で自信を作るとそれが消えた時にどうしようもなく揺らぐ。だから楽しめ。自分を信用するために。君達は好きなものを誰のせいにもするな。正しく狂え。それにはあの大石練(おおいしねり)・・・人を狂わせる触媒として最高の人材だねっ☆」と描いている。漫画を読んでいないひとにはなんのこっちゃと思われるかもしれないけれど、わたしは「最高の言葉だな」と思う。自分のこころが「この瞬間は最高だった」と思えたあの時の感触、こころの底から楽しむことができた瞬間の感覚は、自分を裏切ることはない。楽しかった記憶、何かを愛し、何かに愛された瞬間の記憶は、いつまでも自分の中で生き続ける。ひとつひとつの具体的なシーンを、いつまでも鮮明に胸の中に残しておくことはできない。すべては流れていく。現在はこの瞬間も過去になり、どれだけ幸せだと思えた時間も、遠い記憶の中に消えていく。すべては移ろい流れて行く中で、ただ、振り返って見た時に静かにわきあがる「ああ、幸せな人生だったなあ」と思える穏やかな余韻、ひとつひとつの具体的なシーンとしてではなく、全体としての「幸せだと思えた幸福の余韻」が、消えることのない芳香を放ち続けるのだと思う。

 

 

 

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花には水を。概念はあとから。

 

人生は続く。

 

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photographerd by 秋月家